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2021/05/20

大和本草卷之八 草之四 水草類 菰(こも) (マコモ)

 

菰 本草ニ菰米一名茭米雕胡時珍曰菰本作

苽茭草也鄭樵通志云彫蓬卽米茭可作飯食黍

蓬卽茭之不結實者惟堪作薦故謂之薦○東垣

食物本草雕胡一名茭白又名菰根糟食之甚佳

○今按マコモノ根料理シテ食ス味ヨシ○茭蔁カチヤンハ

唐音ナリ交趾東京ニ有之故西南洋ノ商舶是ヲ編

テ船ノ面ヲフセキ又船ノ帆トス葉長キ事二三間廣サ二

三寸或四五寸葉ノ形蜀黍ノ如シ又似竹葉如蘆葉

彼國ノ舟ノ帆ニ用ルハ此物也其實ヲ安達子ト云柿ノ

サ子ノ形ニ似テ大拇指ノ大ホドアリ蜜ニス又根ヲ

鹽淹ニス○篤信按本草菰二種アリ一種ハ秋結實

如黍菰米也可作飯餅食是沙菰米ナルヘシ沙菰米

ハ典籍便覽ニ見ヱタリ穀類ナリ日本ニ異邦ヨリ來ル

日本ニハ如米實ノナル菰アル事ヲキカス一種ハ鄭樵所

謂黍蓬ハ實ナサラルコモナリ日本ニ多シ水草ナリ本

草蘓頌所謂菰生水中葉如蒲葦ト云是ナリ是ハ

米ノ如クナル實ナラス國俗マコモト稱ス古哥ニモ詠セリ

又顯註密勘ニ花カツミトハコモノ事也トイヘリマコモハ端

午ノ粽ヲ包ムモノ是ナリ中華ニモ菰葉ニチマキヲ包ム初

學記角黍條下曰風土記以菰葉裹黏米以象陰

陽相包裹未分散海草ニモコモアリコレト別ナリコモト

名ツクルハ編テコモトスル故ナリ中華ニモ薦トスト鄭樵

通志及本草衍義ニ見エタリ

○やぶちゃんの書き下し文

菰(こも) 「本草」に、『菰米〔(コベイ)〕、一名「茭米〔(カウベイ)〕」・「雕胡〔(テウコ)〕」。時珍曰はく、「菰、本は『苽〔(コ)〕』に作る。茭草なり。」』と。鄭樵が「通志」に云はく、『彫蓬は、卽ち、「米茭」〔なり〕。飯に作り、食ふべし。黍蓬〔(シヨハウ)〕、卽ち、茭草の實を結ざる者〔なり〕。惟だ、薦〔(こも)〕と作〔(な)〕すに堪〔(た)〕ふ〔のみ〕。故に之れを「薦」と謂ふ』と。

○東垣〔(とうゑん)〕が「食物本草」に、『雕胡、一名、茭白。又、菰根と名づく。糟〔(かすづ)けにして〕、之れを食ふ。甚だ佳し』と。

○今、按ずるに「まこも」の根、料理して食す。味、よし。

○茭蔁(カチヤン)。「カチヤン」は唐音なり。交趾〔(コーチ)の〕東京〔(トンキン)〕に、之れ、有り。故に、西南洋の商舶、是れを編んで、船の面〔(おもて)〕をふせぎ、又、船の帆とす。葉、長き事、二、三間、廣さ、二、三寸、或いは、四、五寸。葉の形、蜀黍〔(シヨクシヨ/もろこし)〕ごとし。又、竹の葉に似て、蘆の葉のごとし。彼の國の舟の帆に用いるは、此の物なり。其の實を「安達子〔アンタツシ〕」と云ふ。柿のさねの形に似て、大拇指〔(おやゆび)〕の大いさほど、あり。蜜にす。又、根を鹽淹(〔しほ〕づけ)にす。

○篤信、按ずるに、「本草」〔の〕「菰」〔には〕二種あり。一種は、秋、實を結び、黍のごとく、「菰米〔(こべい)」と〔いふ〕なる。飯〔(めし)〕の餅〔(もち)〕と作〔(な)〕して食ふべし。是れ、「沙菰米(さごべい)」なるべし。「沙菰米」は「典籍便覽」に見ゑたり。穀類なり。日本に〔は〕異邦より來たる。日本には米のごとき實のなる菰、ある事をきかず。一種は鄭樵〔(ていしやう)〕が、謂ふ所、「黍蓬」は、實ならざる「こも」なり。日本に多し。水草なり。「本草」の蘓頌〔(そしよう)〕の所謂る「菰」は、『水中に生じ、葉、蒲・葦のごとし』と云ふ〔が〕、是れなり。是れは、米のごとくなる實、ならず。國俗、「まこも」と稱す。古哥にも詠ぜり。又、「顯註密勘」に、『「花かつみ」とは「こも」の事なり』と、いへり。「まこも」は端午の粽〔(ちまき)〕を包むもの、是れなり。中華にも菰の葉に「ちまき」を包む。「初學記」の「角黍〔(カクシヨ)〕」の條下に曰はく、『「風土記」、『菰の葉を以つて黏米〔(もちごめ)〕を裹〔(つつ)〕んで、以つて、陰陽、相ひ包裹〔(はうか)〕して未だ分散せざるを象〔(かた)〕どる。』〔と〕。海草にも「こも」あり。これと別なり。「こも」と名づくるは、編んで「こも」とする故なり。中華にも『薦とす』と、「鄭樵通志」及び「本草衍義」に見えたり。

[やぶちゃん注:ここでまずメインで益軒が言っている本邦産のそれは、

単子葉植物綱イネ目イネ科エールハルタ亜科 Ehrhartoideae イネ族マコモ属マコモ Zizania latifolia

以外にはあり得ない。別名ハナガツミ(花勝見)。当該ウィキによれば、『東アジアや東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。水辺に群生し、沼や河川、湖などに生育。成長すると大型になり、人の背くらいになる。花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行』。本来は病原性糸状菌である真正担子菌綱クロボキン目 Ustilaginalesに属する菌類で『黒穂菌』(くろぼきん)の一種である『Ustilago esculenta』『に寄生されて肥大した新芽はマコモダケ』(真菰筍・茭白。マコモタケとも呼ぶ)『と呼ばれる食材で、古くは』「万葉集」にも『登場する。中国、台湾、ベトナム、タイ、ラオス、カンボジアなどのアジア各国でも食用や薬用とされる。台湾では「茭白」が標準的な呼び方であるが、中部の南投県埔里鎮周辺が特産地として名高く、色白の女性の足に見立てた』「美人腿」(メイレントゥイ)『の愛称で出荷されている。香港を含む広東語使用地域では』「茭筍(カーウソン)」『と呼び、炒め物やスープの具などに用いることが多い。『たけのこを優しくしたような適度の食感と、ほのかな甘味、ヤングコーンのような香りがある。くせがなく、さっと茹でたり、グリル焼き、炒めものにも向いているほか、新鮮なものは生食してもおいしい。沖縄県では「まくむ」、鹿児島県奄美大島では「台湾だーな(竹)」と呼んで、炒め物のイリチー、奄美料理の「いっき」、油ぞうめんなどに使用する。中国では他にスープの具にもされ、台湾では麺類の具のひとつにも加えられることがある。細かく刻んで餃子、ハンバーグ、チャーハンなどに用いることもできる』。『収穫は秋で、新芽の根元がじゅうぶんに肥大したら』、『すぐに収穫する。収穫が遅れると、組織内に真っ黒な胞子が斑点状に混じるようになり、食感・食味も落ちて、商品価値は失われる』が、本邦で古くより使われてきた『黒い顔料』の『マコモズミ』というのは、『この黒い胞子体を利用したもの』で、『お歯黒、眉墨、漆器の顔料などに用いられた』。また、『出雲大社では毎年』『六月に「マコモの神事」が行われる。「出雲の森」から、御手洗井までの道中に清い砂を敷き、その上にマコモが置かれ、宮司はその上を歩いて参進する。宮司が踏んだマコモは御神威が宿るとされ、参拝者は持ち帰って神棚に飾ったり、浴槽に入れたりする』。『また、出雲大社の神幸祭でもマコモを用いる。マコモを藁苞(わらづと)のように加工した苞(しぼ)という物を神職が手にして神幸を斎行する』。『三重県三重郡菰野町・石川県河北郡津幡町などでは』、『町の特産品としてマコモの栽培に力を入れている』とある。

『「本草」に、『菰米、一名「茭米」・「雕胡」。時珍曰はく、「菰、本は『苽』に作る。茭草なり。」』と』「本草綱目」巻十九の「草之八」の「水草類」には(囲み字は太字に代えた)、

   *

菰【「别錄」下品。】

釋名茭草【「說文」。】蔣草【時珍曰はく、「按ずるに、許氏が「說文」に『「菰」、本(もと)「苽」に作る。「𤓰」に從ふ。諧聲なり。』と。米、有り。之れを「彫菰」と謂ふ。已に「穀部」の「菰米」の下に見たり。江南人、菰を呼びて、「茭」と爲す。其の根の交結せるを以つてなり。「蔣」の義は未だ詳かならず。」と。】

集解保昇曰はく、「菰の根、水中に生ず。葉、蔗荻のごとし。久しきときは、則ち、根、盤して厚し。夏月、菌(きのこ)を生じ、啖(く)ふに堪へたり。「菰菜」と名づく。三年の者の中心、白き薹(うてな)を生じ、藕のごとく、狀、小兒の臂(ひぢ)に似て、白く軟なり。中、黑き脉、有り、啖ふに堪へたる者は、「菰首」と名づくなり。」と。藏器曰はく、「菰首の小なる者は、之れを擘(さ)くに、内に黒灰なるもの有り、墨のごとくなる者を「烏鬱」と名づく。人、亦、之れを食ふ。晉の張翰、吳中の蓴を思ふ。菰は卽ち、此れなり。」と。頌曰はく、「菰根、江湖陂澤の中に、皆、之れ有り。水中に生ず。葉、蒲・葦の輩のごとし。刈りて以つて馬の秣(かひば)とす。甚だ肥えて、春の末、白き茅を筍のごとく生ず。卽ち、菰菜なり。又、之れを茭白と謂ふ。生・熟、皆、啖ふべし。甜美なり。其の中心、小兒の臂のごとくなる者、菰手と名づく。菰首と作(な)す者は非なり。「爾雅」に云はく、『出墜は蘧蔬(きよそ)なり』と。註に云はく、『菰草の中に生ず。狀、土菌に似たり。江東の人、之れを啖ふ。甜滑なり。』とは、卽ち、此れなり。故に南方の人、今に至るまで、「菌」を謂ひて「菰」と爲す。亦、此の義に緣す。其の根も亦、蘆の根のごとし。冷利にして、更に甚だし。二浙の下、澤の處、菰草、最も多し。其の根、相ひ結びて生ず。久しきときは、則ち、幷(あは)せ生じて、水上に浮かぶ。彼の人、之を「菰葑」と謂ふ。其の葉を刈り去つて、便(すなは)ち、耕して蒔くべし。又、「葑田」と名づく。其の苗、莖に硬きところ有る者は之れを「菰蔣草」と謂ふ。秋に至りて實を結ぶ。乃(すなは)ち、「彫胡米」なり。ある歲の飢うるときは、人、以つて粮に當つ。」と。宗奭(そうせき)曰はく、「菰、乃ち、蒲の類なり。河朔(かさく[やぶちゃん注:現在の河北省を中心とする地域。])邊の人、止めて以つて飼馬とし、薦に作る。八月、花を開く。葦のごとし。青き子(たね)を結ぶ。粟に合はせて、粥と爲して食ふ。甚だ飢えを濟す。杜甫が所謂る、「波 菰米を漂はして 沉雲 黑し」といふは、是れなり。】

菰筍 一名「茭筍」【「日用」。】・「茭」【「白圖」。】・經菰菜【同。】。

氣味甘、冷、滑。毒、無し。【詵曰はく、「滑、中。多くは食ふべからず。」。と。頌曰はく、「菰の種類、皆、極冷にして、過食すべからず。甚だ、人に益せず。惟だ、金石を服する人は、相ひ宜しきのみ。」と。】主治五臟に利あり。邪氣・酒皶・面赤・白癩・癧瘍・目赤・熱毒風・氣卒・心痛、鹽・醋にて煮て、之れを食ふべし【孟詵。】。煩熱を去り、渴えを止め、目の黄なるを除き、大小便を利し、熱痢を止む。鯽魚を襍(まぜ)て羮と爲し、食ふ。胃口を開き、酒毒を解し、丹石毒發を壓す【藏器。】。

菰手 一名「菰菜」【「日用」。】・「茭白」【「通志」】・「茭粑」【俗名。】・「蘧蔬」【音「毬」「㲣」。】

氣味 甘、冷、滑。毒、無し。【大明曰はく、「微毒。」と。詵曰はく、「性、滑。冷氣を發し、人をして下焦を寒からしめ、陽道を傷ましむ。蜜食を禁ず。痼疾を發す。巴豆を服する人、食ふべからず。」と。】。主治心胸の中浮熱・風氣。人の齒を滋す。【孟詵。】煮て食ひて、渴を止む。及び小兒の水痢【藏器。】

菰根 氣味 甘、大寒。毒、無し。【頌曰はく、「菰の根、亦、蘆の根のごとし。冷利、更に甚し。」と。】。主治 腸胃の痼熱・消渴、小便利を止む。汁に擣きて、之れを飮む。【「别錄」。】灰に燒きて雞子白に和し、火燒瘡に塗る【藏器。】。

附方【「舊二」。】 小兒の風瘡【久しく愈えざる者に菰蔣の節を用いて、燒きて、研りて、之れを傅く。「子母祕錄」。】毒蛇の囓める傷【菰蔣草の根を灰に燒きて、之れを傅く。「外臺祕要」。】

葉 主治 五臟を利す。【「大明」。】

菰米【「穀部」に見たり。】

   *

ここからが悩ましい問題となってくるところだ。以上をざっくりと読んでみると、「本草綱目」のこの「菰」の記載を見るに、そこには我々の知っている上記の「マコモ」の中に、時に、ここで「菰米」「茭米」「雕胡」と呼ぶ食用になる実、「菰(こも)の米(こめ)」が生じ、救荒食とされていた事実が書かれてあるのであるが、どう調べて見ても、中国にそのような実を生ずるマコモの近縁種があるようには見うけられないのである。確かに手っ取り早いのは、知られた「ワイルド・ライス」(Wild rice)の名で知られる、北米大陸の近縁種アメリカマコモ Zizania aquatica の種子が古くからあちらでは穀物として食用とされているのだが、近代以前に中国に同種が存在した形跡は、ないのである。そうなると、ここで益軒が盛んに漢籍から引いて、「飯に作り、食ふべし」とか、餅にして粽にして食うとか、いうのは何んなんだ? と激しく不審になる。

 まず、取り敢えず、最後にある「本草綱目」の巻二十三の「穀部」の「穀之二」の「菰米」の項を見てみよう。

   *

菰米【「綱目」。】

釋名 「茭米」【「文選」。】・「彫蓬」【「爾雅」。】彫苽【「説文」。○「唐韻」は「彫胡」作る。】【時珍曰はく、「『菰』は、本(もと)、『苽』に作る。茭草なり。其の中に菌(きのこ)を生ず。瓜の形のごとし。食ふべし。故に之れを『苽』と謂ふ。其の米、霜の彫(きざ)む時を須(ま)ちて、之れを采る。故に之れを『彫苽』と謂ふ。或いは訛りて「雕胡」と爲す。枚乘(ばいじやう)が「七發」に謂ふ、『之れ「安胡」』と。「爾雅」に、『齧は彫蓬なり。薦は黍蓬なり。』と。孫炎が註に云はく、『彫蓬は、卽ち、「茭米」なり。古人、以つて「五飯の一つ」と爲す者なり。』と。鄭樵が「通志」に云はく、『彫蓬は、卽ち。米茭なり。飯と作(な)して食ふべし。故に之れを「齧(げつ)」と謂ふ。其の黍蓬、卽ち、茭の實を結ばざる者なり。惟だ、薦と作すに堪ふるのみ。故に之れを「薦」と謂ふ。』と。楊慎は「巵言」に云はく、『蓬に水陸の二種有り。「彫蓬」は乃(すなは)ち、「水蓬」・「彫苽」、是れなり。「黍蓬」は、乃ち、「旱蓬」・「靑科」、是れなり。「靑科」は實を結びて、黍のごとし。羌人(きようひと[やぶちゃん注:古代より中国西北部に住んでいる民族。「西羌」とも呼ばれ、現在も中国の少数民族チャン族として存在する。])、之れを食ふ。今、松州[やぶちゃん注:四川省アバ・チベット族チャン族自治州内にあった旧州。]に、焉(こ)れ、有り。』と。珍、按ずるに、鄭・楊の二説は同じからず、然(しか)も皆、理、有り。葢し、蓬の類は一種に非ざる故なり。」と。】

集解 【景曰はく、「菰米、一名『彫胡』。餅と作(な)して食ふべし」と。藏器曰はく、「彫胡、是れ、菰蔣草の米。古人の貴ぶ所。故に「内則」に云はく、『魚、苽に宜(よろ)し』と。皆、水物なち。曹子建が「七啓」に云はく、『芳菰・精稗は二草の實を謂ふ。以つて飯と爲すべし。』と。頌曰はく、「菰、水中に生ず。葉、蒲・葦のごとし。其の苗、莖の梗(こう)なる有る者は之を「菰蔣草」と謂ふ。秋に至りて、實を結ぶ。乃ち、「彫胡米」なり。古人、以つて美饌となす。今、饑歲に、人、猶ほ、采りて、以つて糧に當つ。葛洪が「西京雜記」に云はく、『漢の太液池の邊り、皆、是れ、彫胡。紫籜・綠節、蒲、叢れり。』の類なり。葢し、菰之の、米、有る者なり。長安の人、之れを『彫胡』と謂ふ。菰の、首、有る者、之れを『綠節』と謂ふ。葭・蘆の未だ葉を解かざる者を『紫籜』と謂ふなり。宗奭曰はく、「菰蔣花、葦のごとく、靑き子(み)を結ぶ。細きこと、靑麻黃のごとく、長さ幾寸。野人、之れを收め、粟に合はせて粥と爲し、之れを食ふ。甚だ、饑えを濟すものなり。」と。時珍曰はく、「彫胡、九月に莖を抽きいだし、花を開く。葦䒒(かちよう)のごとし。實を結ぶこと、長さ寸許り。霜の後、之れを采る。大いさ、茅の針のごとし。皮、黑褐色、其の米、甚だ白くして、滑-膩(なめら)かなり。飯に作して、香り、脆(もろ)し。杜甫が詩に、『波 菰米を漂はして 沈雲 黑し』といふ者は、卽ち、此れなり。「周禮」の供御に、乃ち、六穀・九穀の數、「管子」の書に之れを「鴈膳」と謂ふ。故に、米を收めて、此れを入る。其の「茭」・「笋」・「菰根」の别、「菜部」に見えたり。」と。】

氣味 甘、冷、毒、無し。主治 渴を止む【藏器。】煩熱を解き、腸胃を調ふ【時珍。】。

   *

さても。当初、私は何んとか、この中国で――米として食べるマコモの近縁種なるもの――を探し出そうと、躍起になって調べた。それは偏えに――益軒が、根を食べる本邦の菰(まこも)と、漢籍に登場する米を実らせるが出来、それを米として食べる菰は別種であると断じているから――であった。……しかし、どうにもその――ワイルドライス的中国産のマコモの仲間――というのは、見当たらないのである。そうして、以上の訓読を通して読むに、これはマコモダケの出来るマコモの中に、米のようなものが同時に出来るという意味で多くの本草学者は書いているとしか、私には読めなかったのである。

而して!

検索の中で遂に発見した! 本邦でも「真菰の米」を食っていた事実を、である!

Kiyomi Kosaka氏のサイト「カンポンボーイの果物歳時記」の「マコモ」を見られたい。そこに(一部の字空けや行空けを詰め、学名を斜体にした)、

   《引用開始》

日本:江戸時代マコモの実を食べた

 マコモの葉を神事に使い敷物を作ることは古くからやっていますが、子実を食べる習慣は今では残っていません。

実を食べることについては稲作以前の縄文時代の遺物から食料とされていた事がわかっています。

江戸時代中頃の「和漢三才図会」には雕(彫)胡米、菰米、茭米、と書き飢饉の歳には食料に当てるとありますから、緊急食糧の扱いです。

江戸時代の終わり頃の赤松宗旦と言う下総出身の医者は利根川の中流から下流までを歩いて「利根川図志」と言う本を書きましたが、そこに真菰を食べるとの記述があります。宗旦先生は実際に食べてどうだったか、宗旦先生の感想が無いのは残念ですが、部分引用します。

種本は「崙書房 口訳利根川図志 巻5 P7 根山神社」と「岩波文庫 利根川図志 P268」「国会図書館デジタルコレクション 西遊詩草2巻」です。

「根山神社 北須賀村の門河 牛頭天王を祭る。

鳥の猟の第一の場所、このあたり沼に真菰が多い。水鳥は真菰の実をこのんであさるものである。マコモの実は、麦のようなもので、人もこれを食べる。詩仏西遊詩草に云う」

と書いて、詩仏の詩を引用しています。

『美濃国今尾村足立氏の宅にて菰米(こべい)を食べる。

菰米が書物に著されるのは屈原より以下、唐宋の詩人に及びその美味をいう者が多い。 わが邦においてはまだこれを賞する者のあるのを聞かない。 わたしがこれをたべるのは今日が初めてであるので、因って一首の絶句を作りそのことを記す。

淡於蕎麦香於稷蕎麦よりは淡く稷よりは香し味は蕎麦よりは淡白で、香りは稷よりも香ばしい。

真味初知在水郷真味初めて水郷に在るを知る本当に味わって初めて水郷にあることを実感する。

非向君家留竹枝君が家に向いて竹枝を留るに非ればもし君の家に竹枝を留めなかったならば、

一生不信有菰粱一生菰粱有るを信じず わたしは一生菰粱のことを信じなかったであろう。

(菰米一名菰粱)』

(北須賀村は印旛沼の近く、現在の成田市北須賀。 詩仏は大窪詩仏という江戸末期の医者で、諸国を回った漢詩人)

江戸時代には利根川下流の水郷地域でも真菰の実を食べることはあっても珍しい事だったのでしょうね。

明治5年刊の「殖産略説」は美濃国有尾村の菰米飯炊方、菰米団子製法を記しています。

江戸時代の税の一つに”池役”と言って、水草や真菰などを採取して生活に利用できる池に対して課した役米があったそうです。

菰米を食べる習慣は江戸時代の末にはあったが、すでに常食ではなくなり、葉の利用だけに関心が残り今に伝わっていると言う事でしょうか。

 

中国:古代の食用穀物の一つ

 中国でも古くは重要な食料であってマコモの種実を指す字はいろいろあります。例えば菰米、菰粱、雕胡米、蒋、雁膳です。六穀の一つとして常用穀物の扱いでした。 紀元前の漢の時代から魏晋の頃には食料として書物に記録があります。唐の時代の詩にも出ていますが、その後は食料としての重要性は減り、13世紀の宋の時代以降は飢饉の時に食べる程度になり、常用穀物としての価値はなくなりました。代わりに野菜としてマコモタケを採るために栽培するようになったというわけです。薬としてのマコモは古くから今に至るまで使われています。

[やぶちゃん注:中略。]

 

マコモタケは黒穂病菌が作る

 クロボビョウキンと言う菌に感染したマコモは穂を作らないので、種子を作りません。花芽は水面から出たところで膨らんで柔らかい肉質の茎になって筍のような奇形になります。これがマコモタケです。クロボ病菌はキノコやカビのような菌類の一つです。この菌に取り付かれた植物は穂が変形して黒くなるので黒穂病というわけです。 マコモに取り付いてマコモタケを作るクロボ病菌は(Ustilago esculenta P. Henn)です。

トウモロコシにクロボ病菌(Ustilago maydis )がつくと子実がこぶ状に膨れて黒くなり雌穂から飛び出していわゆる「おばけ」になります。

麦や他の植物にもそれぞれ固有のクロボ病菌があります。

 

マコモタケは野菜

 クロボ菌が寄生したマコモの芽が育って柔らかく太く膨らんだところを竹の子と見立てると真菰筍、きのこと見れば真菰茸です。どちらの見立てでもマコモタケと言い野菜として食べます。

適期に収穫した物は肉質の膨らんだところは白くてみずみずしいですが、収穫期が過ぎると黒い胞子が作られて斑点となり水分は少なくなり食用には向かなくなります。新鮮なマコモタケは軟らかでくせが無く、生のトウモロコシのような甘い微かな香りとほのかな甘味があり新鮮なタケノコのような感じです。KBはヤシの芽の柔らかいのを連想しました。乾燥するとスカスカになります。

 日本に自生するマコモはクロボ菌に感染しても、茎が肥大しないのでマコモタケは小さく、黒色の胞子を早く作るので、食用には向きません。そんなわけでしょうか、10世紀の日本の薬草や植物の事を書いた本には、菰の実と菰角(こもづの)の記載がありますが、菰の新芽を食べるとかマコモタケを食べる事にはふれていないです。 江戸時代の本「利根川図志」には菰米を食べることは書いてありますが、 マコモタケは載っていません。

 昭和9年の秋田県の農業書では台湾、中国のものだが、日本でも湿田で栽培できるとしています。昔はマコモの芽やマコモタケは食べなかったか、食べたとしても小規模でローカルなものだったと、KBは考えています。

マコモタケは1980年代になって注目されていますが、現在日本で栽培されている食用のマコモタケを作るマコモは台湾か中国からもたらされたものです。 それらをもとに農業試験場で研究されて千葉早生、一点紅、白皮、石川など色々な系統が選定されています。  

 中国ではマコモタケは菰菜、高笋、菰筍、茭筍、茭白、菰手、茭蔬と書きます。紀元前2-3世紀の辞典には書かれています。3-4世紀にはマコモタケを菰の茎に生ずるキノコとして説明されています。 唐、宋の時代には野菜として栽培していますが、多く生産されたわけではありません。 中国の古い本草学の本ではマコモの新芽を菰菜と茭白として春の野菜とし、大きくなった芽(マコモタケ)を菰首として秋のマコモの産物に区別しているものがありますが、今は両者ともマコモタケの意味で使われています。

 栽培が盛んになったのは華南地方で1950年代になってからです。中国の最大産地は上海の青浦区で、1987年には10万トンほど生産されています。代表的な栽培品種としては夏、秋に収穫する青練茭、5から6月に収穫する小発梢があります。 台湾、ベトナム、タイ、ラオス、カンボジアなどのアジア各地で栽培されていますが、インドシナ半島やマレイシアへは中国人が伝えたと見られています。

 

トウモロコシのおばけ

 メキシコにはトウモロコシがクロボ菌に感染して肥大した所いわゆる"おばけ "の料理があります。トウモロコシ黒穂病菌に感染したトウモロコシの実をウイトラコチェ(HuitlacocheCuitlacoche)と呼んで食用としています。英語ではトウモロコシのキノコ(corn mushrooms)というわけです。味は「メキシコのトリュフ」と称賛されているそうです。

 

真菰墨

 マコモタケが食用適期を過ぎて成熟して黒い胞子を作ったものから真菰墨(マコモズミ)作ります。この真菰墨はマコモタケの黒くなったところを集めて乾燥させてから粉砕してふるい分けして胞子だけを集めたもので黒色から茶褐色の細かい粉です。昔は真菰墨を顔料として眉墨などに用いられていました。

「和漢三才図会」には眉墨に好適だとあり、真菰の茎根を焼いて作った灰を油と練ってデキモノの痕や禿に塗ると毛が生えてくるとの怪しそうな記述もあります。

 黒色顔料として真菰墨を漆塗りに使うことは江戸中期と末期に始まったもので、高岡漆器の皆朱塗(かいしゅぬり)、鎌倉彫では古色付け、香川漆器の象谷塗りの乾口塗り(ひくちぬり)という技法で使われています。

現在も、僅かですが漆工芸用の真菰墨を作るめにマコモが栽培されています。

 真菰墨を使う鎌倉彫作品作りに集中した彫刻家が、真菰墨の埃(真菰のクロボ病菌の胞子)に何年間も続けて毎日長時間接したことで、咳が続き、体調を崩し真菰墨によるアレルギー肺炎と診断され、治療後真菰墨を棄て、 自宅兼作業場を徹底的に掃除をして真菰墨に接しないをようにしたら発症しなくなったと言う医学報告があります,日呼吸会誌 454,2007

 真菰墨はお歯黒にも使われたとインターネットには出てきますが、真菰墨を歯にどうやって定着していたのかわかりません。鎌倉時代には鉄の化合物(酢酸第一鉄)と五倍子粉(タンニン酸)の反応で歯を染めていますから、真菰墨の出番はいつだったのか本当にあったのかどうかKBは疑問視しています。

 

古代より生活に密着している葉の利用

 マコモは、かつみ、はながつみ、ふししば、こもがや、こもぐさ、かつぼ、ちまきぐさ、とかいろいろの名前で呼ばれて漢字は真菰、菰、薦が対応します。 葉を編んだ敷物は莚(むしろ)、薦(こも、敷物とマコモの両方の意味があります)、雨具として蓑、帽子として笠、菰枕(こもまくら)、菰靴(こもぐつ)、食べ物を包むのにも使われています。

今でも神社の飾りやお祭りでマコモが使われます。KBの住んでいる地方では昔は、お盆のとき仏壇の前に敷く盆茣蓙は真菰で作り、真菰の縄に赤いホオズキをぶら下げました。今はホームセンターから買って来ます。ナスやキュウリで牛と馬を作るように、マコモを編んで作った精霊馬を供える所があります。

最近はコンバインで稲刈りをするため長い稲わらが手に入らず、稲わら代わりに真菰の葉を使うこともある様です。

 

詩歌に詠まれたマコモ

詩歌に読まれたマコモはたくさんあります。

古いところでは、「古事記」の允恭天皇の所で妹の衣通姫を恋して寝てしまった軽太子の歌に刈薦が出ています。

笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

笹の葉にあられが音を立てる。そのようにしっかりと共に寝た上は よしや君は別れても。いとしの妻と寝たならば、刈り取った薦草のように、乱れるなら乱れれてもよい。 寝てからはどうともなれ。 --武田祐吉 訳註 角川文庫

万葉集にもいくつか詠われています。

苅薦(かりこも)の 一重を敷きて さぬ(寝ぬ)れども 君としぬ(寝)れば 冷(さむ)けくもなし

読人知らず 万葉集・巻112520

平安時代には 

真菰刈る淀の澤水雨ふればつねよりことにまさるわが恋   紀貫之、古今和歌集 12巻、587

江戸時代

水深く利(とき)鎌鳴らす真菰刈 (蕪村,1716-1783

明治からは夏の季語で多くの句がありますので、行事に関係した句も選んでみました。

真菰負ふて真菰を出でぬ真菰刈  正岡⼦規

真菰笠潮来と書けば匂ひけり   後藤⽐奈夫、花匂ひ、1982

この真菰神の蓆を編むとかや   室賀杜桂

刈りに来し沼の真菰も盆のもの  ⽯井とし夫

ふんばれる真菰の⾺の肢よわし  ⼭⼝⻘邨

   《引用終了》

ただ、引用しただけでは失礼なので、まず、先ほど、急遽、「和漢三才圖會」巻第九十七「水草類」より「菰(まこも/はなかつみ)」の原文と訓読文をブログ・カテゴリ「和漢三才図会抄」で電子化しておいた。次に、私も若い頃から好きな(と言いつつ、このような記載があることを失念していた)赤松宗旦の「利根川圖志」を所持する一九三八年刊岩波文庫を底本に電子化する。「卷五」の「根山神社」の条である。

   *

根山神社 北須賀村門河(かどかは)といふ所にあり。牛頭天王を祭る。此所鳥獵第一の場と云ふ。ヤツギリ網にて捕る。(ヤツギリは谷を張切と云義なり)。此邊沼に眞菰多し。水鳥はマコモの實を好みて𩛰(あさ)る者也。マコモの實は麥の如き物にして、人も是を食す。詩佛西遊詩草云、美濃國今尾村 足立氏宅食菰米。菰米之著於書、自屈原以下、及唐宋之詩人、言其美者多矣。我邦未ㇾ聞ㇾ有賞ㇾ之者食ㇾ之、以今日爲ㇾ初。因賦一絕而記其事。淡於蕎麥於稷、眞味初知在水鄕、非君家竹枝、一生不ㇾ信ㇾ有菰粱(菰米一名菰粱)

   *

この神社は現存し、現在の千葉県成田市北須賀のここにある(グーグル・マップ・データ航空写真)。印旛沼の縊れた東岸で、いかにもマコモが生えていておかしくない場所である。見ると、すぐ近くに「北須賀直売所 まこも」というのがある。ここでは、実際にマコモを売っているらしい。残念ながら現物商品の写真はないものの、サイド・パネルのこちらで店内にあるマコモの解説板が読める。行ってみたい! 「詩佛」は大窪詩仏(明和四(一七六七)年~天保八(一八三七)年)で漢詩人にして書画も能くした。常陸国久慈郡袋田村(現現在の茨城県久慈郡大子町)生まれで、大田南畝・谷文晁・頼山陽など超弩級の文人連中と交友があった。「西遊詩草」は文政二(一八一九)年の詩集である。さても。漢文部を書き下して、整序して改めて全文を示してみる。

   *

根山神社 北須賀村門河(かどかは)といふ所にあり。牛頭天王(ごづてんのう)を祭る。此の所、「鳥獵(とりれう)、第一の場。」と云ふ。「ヤツギリ網」にて捕る。(「ヤツギリ」は「谷を張り切る」と云ふ義なり。)。此邊、沼に、眞菰、多し。水鳥はマコモの實を好みて𩛰(あさ)る者なり。マコモの實は麥(むぎ)のごとき物にして、人も、是れを食す。詩佛(しぶつ)が「西遊詩草」に云はく、【美濃國今尾村。】

 足立氏宅に、菰米(こべい)を食す。菰米、之れ、書に著(しる)せるは、屈原より以下、唐・宋の詩人に及び、其の美(うま)きを言ふ者、多し。我が邦にては、未だ之れを賞する者有るを聞かず。予、之れを食すこと、今日を以つて、初めと爲す。因りて、一絕を賦して其の事を記す。

 蕎麥(そば)よりも淡く 稷(きび)よりも香んばし

 眞(まこと)の味 初めて知んぬ 水鄕に在るを

 君が家に向ひて竹枝(ちくし)を留むるに非ざれば

 一生 菰梁(こりやう)有るを信ぜざるなり

【「菰米」、一名「菰粱」。】

   *

「竹枝」は竹の杖。但し、竹枝詞も嗅がせるか。「竹枝詞」は中国で男女の交感を詠んだ民謡のことを指し、この七絶を謙遜して「俗謡」としたものかも知れない。「西遊詩草」の原本が国立国会図書館デジタルコレクションのここ(右頁四行目から)で視認出来る。なお、ここまで苦労して書いたが、最後の最後になって、澁澤尚氏の論文『「菰」の本草学―陸游詩所詠菰草考序説―』(PDF・『福島大学研究年報』創刊号・二〇〇五年十二月発行)という恐るべき労作があることが判った。そこでは最終的には(「三 植物学上の菰」を参照)やはり、本邦のマコモと中国の本草学上の「菰米」を実らす「菰」を別種とはしない立場を採っておられる(但し、澁澤氏は『実際に結実しない菰が存在したことは確かなようで、『採薬便記』申奥州(『古事類苑』植物部巻十四引)に「紀州熊野本宮ニモ菰米アリ、地所ノ菰ニ米穂ヲ生ルコトナシ」などとある。現代においてもこれらの事実を重視し、またしばしば結実しない菰が観察される報告があることから、菰に二種ありとして別個に学名つける研究者もある』と述べておられる。もっと早く、この論文に気づいていればよかった。「本草綱目」の訓読と考証には、結構、時間がかかったからである)。まあ、一件落着だ。――やはり、別な種があったのではなかったのです、益軒先生!――

『鄭樵が「通志」』南宋の歴史家鄭樵(ていしょう 一一〇四年~一一六二年)が撰し、没する前年の一一六一年に本となった歴史書「通志」。先行する分断された王朝ごとの書法を批判し、通史である「史記」を規範として、三皇から隋唐各代までの法令制度を記録したもの。

『東垣が「食物本草」』元の医家李東垣(りとうえん 一一八〇年~一二五一年:金元(きんげん)医学の四大家の一人。名は杲(こう)。幼時から医薬を好み、張元素(一一五一年~一二三四年)に師事し、その技術を総て得たが、富家であったため、医を職業とはせず、世人は危急以外は診て貰えず、「神医」と見做されていた。病因は外邪によるもののほかに、精神的な刺激・飲食の不摂生・生活の不規則・寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとする「内傷説」を唱えた。脾と胃を重視し、「脾胃を内傷すると、百病が生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。後の朱震亨(しゅしんこう 一二八二年~一三五八年:「陽は余りがあり、陰は不足している」という立場に立ち、陰分の保養を重要視し、臨床治療では滋陰・降火の剤を用いることを主張し、「養陰(滋陰)派」と称される)と併せて「李朱医学」とも呼ばれる)の著(但し、出版は明代の一六一〇年)の「食物本草」。但し、名を借りた後代の別人の偽作とする説もある。

「糟〔(かすづ)けにして〕」読みようがないので、かくした。

「茭蔁(カチヤン)」これは中文サイトで調べるに、少なくとも現代中国語では、マコモではなく、単子葉植物綱イネ目カヤツリグサ科テンツキ属 Fimbristylis のテンツキ類である。その中でも比較的、海岸に植生し易い種を指すと思われる(。水で田圃でも別にいいのだが、「西南洋の商舶、是れを編んで」云々とあるので、その限定を入れた。同属の当該ウィキによれば、『海岸に生えるものもあ』り、『ビロードテンツキ』Fimbristylis sericea 『は、砂浜に生える種で、全体に毛が密生する。イソヤマテンツキ』Fimbristylis sieboldii『は、海岸の岩場や草地に生え、岩場では背が低く、密な固まりになるが、草地では真っすぐに立ち』、五十センチメートル『ほどになる。この種は、沖縄では干潟に生えて、葉身がなくなり、フトイ』(カヤツリグサ科フトイ属フトイ Schoenoplectus tabernaemontani )『かなにかのような群落を形成する。これをシマテンツキ』Fimbristylis sieboldii subsp. Anpinensis 『という。シオカゼテンツキ』Fimbristylis cymosa 『は多数の細い葉をロゼット状につける』とある。しかし、孰れにせよ。「葉、長き事、二、三間」というのはとんでもない長さで、さればこそ「船の面〔(おもて)〕をふせぎ、又、船の帆とす」ることも可能ではあろうが、そんな長いテンツキ属が以下の地に分布するかどうか、そこまで私は調べきれない。悪しからず。

「交趾〔(コーチ)の〕東京〔(トンキン)〕」現在のヴェトナムのトンキン。ベトナム北部を指す呼称で、狭義にはこの地域の中心都市であるハノイの旧称。

「蜀黍〔(シヨクシヨ/もろこし)〕」単子葉植物綱イネ目イネ科モロコシ属モロコシ Sorghum bicolor 。コーリャン(中国語:高粱)の方が通りがよい。

「安達子〔アンタツシ〕」不詳。

「柿のさねの形に似て、大拇指〔(おやゆび)〕の大いさほど、あり」ワイルド・ライスでもこんなにデカくないぜ? 「根を鹽淹(〔しほ〕づけ)にす」るというのはまだしも、これは何か、全然、別の植物だと思うがねぇ。

「典籍便覽」明の范泓(はんおう)の纂輯になる本草物産名の類書(百科事典)。

「蘓頌〔(そしよう)〕」(一〇二〇年~一一〇一年)は北宋の科学者で宰相。一〇四二年に進士に登第した。北宋で最高の機械学者であったとされ、第七代皇帝哲宗の命を受け、世界最初の天文時計「水運儀象台」を設計し、一〇九二年にそれが竣工すると、彼は丞相に任ぜられている。一〇九七年、退官。

「顯註密勘」鎌倉前期に書かれた「古今和歌集」の歌四百余首の注釈書。全三巻。別名「古今秘註抄」など。六条藤家の顕昭が著した古今集注釈書(現存する顕昭の「古今集註」とは別なもの)に、承久三(一二二一)年に、藤原定家が自説を「密勘」(内密の考え)として書き加えたもの。定家は顕昭の注説には概ね、肯定的だが、両者の学風が対照的に異なる例もみえる。後世、広く流布し、江戸時代に刊行もされた。

「初學記」唐代、玄宗の勅命によって徐堅らが編した辞書の一種。典拠となる古今の詩文を事項別に分類配列した、本来は作詩文の参考として編まれたもの(「初学」という名もそれに由る)。その「角黍」の条は、「中國哲學書電子化計劃」のこちらで影印本で見られる(大罫の五行目の割注部が引用元)。

『海草にも「こも」あり』私の「大和本草卷之八 草之四 コモ (考証の末に「アカモク」に同定)」を参照されたい。

「本草衍義」宋代の本草学者冦宗奭(こうそうせき)の書いた本草書の名著の一つ。一一一九年頃成立。時珍は「本草綱目」でしばしば引く。]

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