只野真葛 むかしばなし (29)
工藤のぢゞ樣は、獅山樣、御隱居に付(つき)、めし出(いだ)されし。桑原ぢゞ樣は、○忠山樣御代のかたの御奉藥なり。されどこの殿は、四十そこらの御よはひにて、かくれさせ給ひし故、獅山樣御かくれ後、餘り、ほどもなかりしなり。父樣は徹山樣御代より御つとめ被ㇾ成し。ぢゞ樣、○獅山樣御看病づかれがもとゝ成(なり)て、はてられしに、とゝ樣御つとめがけは、御孫の御代と成しをもて、年數、考らるべし。
○獅山樣は御食味を分(わけ)らるゝこと、妙なる殿にて有しとぞ。御茶さし上るに、一口めし上りて、是はいづかたの井より、くみし水、といふ事を、たしかに、しらせられしとなり。ひぢり坂のもとに燒餠を多年賣るぢゞ有しとぞ。いづちの御通行の時にや、獅山樣、御覽じ付て、歸らせられてより、
「ひぢり坂のもとなるぢゞに、餠、やかせよ。」
とて、御臺所より、餡《あん》を、ねらせ、皮を、とゝのへさせて、役人、あまた見分して、其ぢゞに餠をやかせてさし上しに、
「よくやきし。」
とて、御ほうび、おほく賜りしとぞ。さて後、折々、御好(おこのみ)にて、ぢゞがもとに被ㇾ仰しに、ある時、もて來りし餠を一目見給ひて、
「是は、例のぢゞが燒たるには、あらじ。」
とて、御手、つかざりしとぞ。御側の者、はしり行て、事のよしをたゞすに、「ぢゞがやきしにたがはぬ」よしを申上しかば、
「さあらば、鍋のたがひたるぞ。元の鍋にて、やかせよ。」
と被ㇾ仰し故、ぢゞがもとに行て、そのよしをとふに、
「元の鍋、ちいさくて、餠やくには、ゆかぬ故、『大きなるを、ほしゝ』と、ねがひをりしかども、力およばで有りしを、此ほど、御ほうびにほこりて、大鍋あつらへいでこし故、古鍋は行通(ゆきどほり)の地金買《ぢがねかい[やぶちゃん注:ママ。]》に賣りてありしが、たづぬべきやうも、なし。」
とて、なげきゐたりしとぞ。
そのよしを申上しかば、殿、
「鍋肌のよさに、申付(まうしつけ)しことぞ。」
と被ㇾ仰て、後、さして、御沙汰なかりしとぞ。
[やぶちゃん注:この「○」であるが、節約のために擡頭(たいとう:敬意を表わすべき人名や特別な語の直前で改行し、その語をほかの行の先頭より一文字から数文字高いところから書き始めること)の代わりに使っていることが頭の部分で判る。
「獅山樣」複数回既出既注であるが、少し休んだので、再掲しておく。仙台藩第五代藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指す(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。当該ウィキはこちら。
「忠山樣」同第六代藩主伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)の諡号。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。当該ウィキはこちら。
「徹山樣」同第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)のそれ。戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」。当該ウィキはこちら。因みに、本書「むかしばなし」は文化八(一八一一)年から翌年春に成稿されたもの。
「たしかに、しらせられし」確実に言い当てられた。
「ひぢり坂」「聖坂」。現在の東京都港区三田四丁目にある聖坂(グーグル・マップ・データ)。
「行通の地金買」たまたま通りがかった金物買い。]
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