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2021/05/02

芥川龍之介書簡抄52 / 大正四(一九一五)年書簡より(十八) 井川恭宛

 

大正四(一九一五)年十二月三日・京都市吉田町京都帝國大學寄宿舍内 井川恭君 直披・十二月三日夜 田端四三五 芥川龍之介

 

井川君

この手紙をかくのが大へんおくれた それはさしせまつた仕事があつたからだ 仕事と云つても論文ではない 論文は一月の一日から手をつけて三月の末までに拵へて四月一杯で淸書する豫定になつてゐる まだ、Text の來ないのがあつて弱つてゐる

胃病はあまりよくない 體の調子は槪していゝが

京都で文展がひらかれたのを二三日前の新聞でみた 文展には碌な画もない 西洋画も日本畫も悉く駄目だ 油畫でたつた一つよいのに「獻山の雪」だ この画は文展がひらかれた當時から僕がほめてゐた 友だちは皆大して感心しなかつた 僕ひとりでほめてゐるのを哂つた人もゐた 矢代なんぞは中村つねの肖像をほめて獻山の雪は画と云ふより色の集合だと云つた なるほどコバルトがかつた色で安價に雪や山や空やの或 effect を出さうとした所はあるがそんな所は大した欠点でない あの力づよい前景の木と灌木の綠と地面とごみごみした人家の屋根とを見てゐると 霜を持つた空氣のぴりぴりした感じが感ぜられる しまひに小宮さんや何かがあの画をほめ出した さうしたらその尾について色々な批評があの画をほめた それで少し批評家を輕蔑する事をさしひかへたがそれでも褒狀さへ出し惜んだ審査員にはやりきれない 長原の屛風の油繪や彫則の怒濤はなる程ある感じは可成完全に impress してゐるかもしれない しかしその感じは何だ 怒濤の感じなんぞは中學生が海水浴へ行つたつて持つ感じにすぎない あれですぐれた藝術品の氣でゐる作家には困る 見物にも困る 尤も文展として賞をやつたのは仕方がないだらうが

彫刻では堀進二氏と云ふ人の「若き女の胸像」と「老婆の胸像」との二つが肉附けに新味があつた あとはがらくた 一番馬鹿げてゐるのは北村四海の橘姬と何とか云ふ奴の長袖善舞と云ふたまらない木彫

日本画はこつちのレベルをすこしさげると峽江の六月や大原女がめにつく 浦島はたまらない 何とか云ふ無名の作家の「風」と云ふ屛風に大した事はないがいゝ所があつた あとは何とか云ふ資格さへない 廣業なんぞの画もいゝ氣なものだ 一番愚なのは尼が文をたいてゐる繪(說明つき) 一番醜いのは上村松園の狂女

それからみると二科の方がよつぽどよかつた 坂本さんのは皆よかつた タツチはメカニカルないやな所があるが あの人の色調は大へんいゝ 夕日の中に白い牛が三四匹ねてゐる繪なんぞはセガンチニを思ひ出させるやうなクリムソンの地面に金色の日の光がおちてゐた 殊に砂濱にある家の繪は芭蕉の俳句でもよむやうな渾然とした所があつて柔い草のみどりも柔い砂の灰色もその上にある柔い影の紫もみんなうつくしい諧調をつくつてゐた 殊に安井曾太郞の繪は今まで西洋からかへつた人の展覽會の中で一番纏つてゐる一番しつかりしたものだつたと思ふ 裸の髮の黑い女が仰向きにねてゐる繪には 女の皮膚から來る彈力さへ感じる事が出來た 下に布いてある布の糊のこはささへ感じる事が出來た 兒島喜久雄君が博物舘で買つて永久に保存してもいゝと云つたのには同感する 石井柏亭はだめ 有島さんは少し氣の毒なやうだ

美術舘はがらくたばかり 觀山の弱法師[やぶちゃん注:「よろぼし」。]を除いてたら悉く駄目だからやりきれない 今村紫紅なんぞは殊にひどい 才子靑田靑邨の朝鮮の繪卷が評判になるやうぢやあ仕方がない 大觀も ready mind な内容きりつかまうとしないやうだ 殊にこゝの洋畫と彫刻はひどい 出たらめばかり 出たらめばかり

岸田劉生や木村莊八の現代の美術の展覽會もたまらない みんな妙な模倣ばかりしてゐる 莊八のやつは殊にやり切れない 劉生一人流石にしつかりした所がある ツアイヒヌングにもどこかつかんだと思ふのがあつた 若い人は椿貞雄一人きり あとはジオツト ヴエロツキオ ボツテイチエリ ベリニ それからブレークの模倣ばかり 和譯した模倣ばかり

 

この頃每日戰爭と平和をよんでゐる あんまり大きいので作としての見通しは殆まるでつかない 部分(それも可成長くに亘つてだが)には感心し得る限りの感心をしてゐる 人物ではプリンスアンドレエが大好きだ アンドレエのお父さんも妹もよく書いてある アンドレエが死んだと思つてゐるとかへつて來る その途端にアンドレエの夫人が產で死ぬ あすこは實にうまい アウステリツツでアンドレエが仆れて空をみる所もいゝがあすこの方が更にいゝ こんなものを書いた奴がゐるのだと思ふとやりきれない 日本なんぞまだまだだ 夏目さんにしてもまだまだだ

 

藤岡君がカントを論文にかく カントの Zeit の見方はベルグソンの Zeit の見方と共に誤りだと云ふ事を beweisen するのださうだ 外の人のはしらない 英文では久米が Study of Hamlet with special references on its stage-performance 根本が Stuudy of Hardy 成瀨が Creative Criticism

 

ロシアの作家なぞは戰爭と平和のやうな作物が前にあると云ふ事によつて悲觀しないでゐられるのだらうか 戰爭と平和ばかりではない カラマゾフ兄弟にしても 罪と罰にしても 乃至アンナカレニナにしても

僕はその一つでも日本にあつたらまゐりさうな氣がする

 

之から來年の試驗がすむまではのべつにいそがしいだらうと思ふ Jedermann はとてもよんでゐられない 君が賣らずに持つてゐてくれたらいゝ

オリヂンになつたモラリテイをよんだがあんまり面白くなかつた

 

兎に角いろんな事がしたいのでよはる 論文をかく爲によむ本ばかりでも可成ある(テキストは別にしても)題は W. M. as poet と云ふやうな事にして Poems の中に Morris の全精神生活を辿つて行かうと云ふのだが何だかうまく行きさうもない

僕はすべての Personal study はその Gegenstand になる人格の行爲とか言辭とかを思想とか感情とかに reduce する事によつて始まると思ふ 云はゞ外面的事象の内面化だ その上でそれにある統一を作つて個々の事實を或纏つた有機体的なものにむすびつける その統一を何によつてつくるかがさし當りの問題だが

 

この頃時々松江を思ひ出す 平な湖の水面とその上に廣い空とを思ひ出す 空にはいつも鼠色の雲が蔓つてゐる[やぶちゃん注:「はびこつてゐる」。] 今その空の下にその湖を橫つてゆく[やぶちゃん注:「よこぎつてゆく」。]小さな汽船は古浦へゆく船であらう その時僕の心の上にはかすかなかなしさが落ちて來る 同時にある平和が生れて來る 僕は靜に眼をその空と湖とに向けるさうしてそこに營まれてゐる生活を祝福する

 

田端はどこへ云つても黃色い木の葉ばかりだ 夜とほると秋の匀がする

   樹木は秋をいだきて

   明るき寂莫にいざなふ

   「黃」は日の光にまどろみ

   樹木はかすかなる呼吸を

   日の光にとかさむとす

   その時人は樹木と共に

   秋の前にうなだれ

   その中にかよへる

   やさしき「死」をよろこぶ

 

子規の墓のある大龍寺にも銀杏の黃色くなつたのがある 生垣の要もち それから杉 それだけが暗い綠をしてゐる あとは黃いろばかり その路を大根をつんだ車がとほる 籠の中へ黃菊の花ばかり掬んだ[やぶちゃん注:ママ。筑摩全集類聚版は「摘んだ」と勝手に補正しているが、判らぬでもない。]のを入れた車が通る車の輪の音 子供の赤蜻蛉をつる歌(氣をつけてきいてみると歌の語はちがふが節は出雲の何とか云ふ妙な歌〔あぶやおこんにまけてにげるはぢぢやないかいな〕と同じだ)百舌の聲(こいつは時によると馬鹿にたくさん來る)――あとは靜だ 時々王子へ散步にゆく 小川、漆紅葉、家鴨、さうして柿をかつて來る

 

定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「淨」ではなささうだ

自分でつくる氣になつてつくる詩はある 今日でたらめにつくつたのを書く

   叢桂花開落

   畫欄煙雨寒

   琴書幽事足

   睡起煮龍團

どうも出來上つた時の心もちが日本の詩よりいゝ 日本の詩も一つ今日つくつたのを書く 何だかさびしい氣がした時かいた詩だから

   夕はほのかなる暗をうみ

   暗はものおもふ汝をうむ

   汝のかみは黑く

   かざしたる花も

   いろなく靑ざめたれど

   何ものかその中にいきづく

   かすかに

   されどやすみなく――

   夕はほのかなる暗をうみ

   暗はものおもふ汝をうむ

もう一度眞山へのぼつておべんとうをたべたい さるとりいばらにも實がなつてさうして落ちた時分だらう 山もすつかり黃色くなつたらう 赤い土や松はかはらずにゐるだらうがおべんとうの玉子やきはまつたくうまかつた あめ蝦もたべたい 僕はくひしん坊のせいか食べものを可成思ひ出す

 

   入日空みたる男は土黑埴土(にぐろはに)こねがてにしてゐたりけるかも

   かなしかる面輪に似ねとわが捏ぬる埴土もつめたく秋づきにけり

こんないたづらをして半日をすごした事もある 油土は弟のを使つた 弟はこの頃彫刻家になると自稱してゐる さうして不思可儀な[やぶちゃん注:ママ。]動物(人間だか豚だかわからない)の形を拈出してゐる 完く語通り[やぶちゃん注:「まつたくことばどほり」。]拈出してゐるのだら可笑しい

 

   白菊の花なりしかも厨戶にわぎもはひとり花切りしかも

   白菊の花を活けつゝあを招(ま)ぐとサモワル守(も)りてありぬわぎもは

   うつゝなくあが見守りしも一とせのむかしさびけりあはれ白菊

   菊みわぱかなしみふかしそのかみの菊もわぎももなしもわぎもも

白い菊をみんな誰かどこかへもつて行つてしまふといゝ あれは人をセンチメンタルにしていけない 實際いけない

 

ある單純な感情の中でさへ vanity は無限にある まして復雜[やぶちゃん注:ママ。]な情緖をや 固定した名の下に固定した情緖を豫想するものはブルヂヨアにすぎない

人間の性格と周圍とその他百般の事象に modify される或瞬間と或不可思儀な感情よ 情緖よ それを知る事は學問にも藝術にも出來ない 唯「生活」するだけだ 唯體驗するだけだ

 

殆この手紙をかき出した時には豫期しなかつたある感激に動かれてこの手紙を完る[やぶちゃん注:「をはる」。] 大きな風のやうなそれでゐてある形のある光の箭のやうのものが頭の中を通りぬけたやうな氣がする 今まで何だか人が戀しいやうなそれでゐて獨りでゐたいやうな心もちにひたされながら何かしろ何かしろと云ふ聲がたへずどこでしてゐると思つてゐた

それが今は皆どこかへ行つてしまつた このまゝで何十年何百年でもじつとして「たへず變化すれども靜止し 流轉すれども恒久なる」一切をみてゐたいやうな氣がする 何故だかしらない 唯僕の意識の中にはある暗い眼が浮んでゐる 何度もそれが泣くのを見た眼である 僕はこの心もちを失ふのを恐れる この眼を失ふのを恐れる かなしいやうな氣する

平和にさうして健康に暮し給ヘ

                   龍

 

[やぶちゃん注:「この手紙をかくのが大へんおくれた」旧全集では、この前の井川宛書簡は前に出した十月一日分である。

「それはさしせまつた仕事があつたからだ 仕事と云つても論文ではない」不親切な謂いである。差し迫った仕事の内容が書かれていない。岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注には、『(第四次)『新思潮』創刊が急に具体化し、創刊号に発表する小説を完成する必要が生じたこと』とする。確かに、新全集宮坂年譜にも、十一月の条に、『この月、翌年』二『月から刊行予定の第四次「新思潮」について、久米正雄、成瀬正一、松岡譲と相談する』とある。しかし、もし、旧全集の通り、二ヶ月の間を空けてこの手紙が書かれたとならば、私はまず、十月の上旬までは「羅生門」の脱稿が主なその理由であるように思われてならない。現行では「羅生門」の脱稿は九月中とされているのだが、私は投稿の締め切りぎりぎりまでそれに取り掛かっていたと考えている(「羅生門」初出は『帝國文學』十一月一日発行)。そうして、それ以降は、創刊作業の合間に、無論、第四次『新思潮』創刊号(大正五(一九一六)年二月十五日発行)に発表することになる芥川龍之介の代表作「鼻」の執筆に集中していたからと見てよい。現在、「鼻」の脱稿は大正五年一月二十日である(私の「芥川龍之介手帳 1-3」を参照)。「論文」は卒業論文。既出既注

「京都で文展がひらかれた……」第九回文展は東京では上野の竹の台陳列館(現存しない。東京帝室博物館が管理する施設で、美術関係団体に貸し出された。この文展を始めとして各種美術展会場として使用されたが、東京府美術館の開館で、その役割を終えた。この陳列館は江戸時代に寛永寺中堂があった場所で、陳列館は現在の東京国立博物館の南側の噴水と奏楽堂の中間附近にあった)で同年十月十四日から十一月十四日まで、京都では十一月二十一日から開催された。

「獻山の雪」このタイトルでは全く掛かってこない。作者も不明。第九回文展の目録でも見られれば、判るのだが。識者の御教授を乞うものである。

「矢代」既出既注

「中村つね」洋画家中村彝(明治二〇(一八八七)年~大正一三(一九二四)年)。茨城県仙波村(現在の水戸市)生まれ。アジア各地を放浪していたウクライナ人の盲目の詩人ワシーリー・エロシェンコ(Василь Якович Єрошенко:ラテン翻字転写 Vasiliy Yakovlevich Eroshenko 一八九〇年~一九五二年)を描いた代表作エロシェンコ像」(大正九(一九二〇)年。当該ウィキから)がよく知られる。三十七で肺結核のために亡くなった。私は非常に高く評価している画家である。

「effect」効果。

「小宮さん」夏目漱石門下の評論家でドイツ文学者であった小宮豊隆(明治一七(一八八四)年~昭和四一(一九六六)年)であろう。

「長原」洋画家長原孝太郎(文久四(一八六四)年~昭和五(一九三〇)年)。現在の岐阜県不破郡垂井町生まれ。「文展として賞をやつたのは仕方がないだらうが」とある通り、この第九回文展では「晩春」が二等賞を受賞している。翌大正五年には文展で永久無鑑査となり、同年、東京美術学校教授となった。

「impress」目に焼きつくように印象づける。

「堀進二」彫刻家堀進二(明治二三(一八九〇)年~昭和五三(一九七八)年)。東京生まれ。龍之介が褒めているこの時の出品作の一つ「若き女の胸像」で褒状を受けてより、翌大正五年から大正七年)にかけて三回連続で特選を受賞している。

「北村四海」彫刻家北村四海(しかい 明治四(一八七一)年~昭和二(一九二七)年)。長野生まれ。

「何とか云ふ奴の長袖善舞」彫刻家新海竹太郎(慶応四(一八六八)年~昭和二(一九二七)年。現在の山形県山形市生まれ。芥川龍之介が噴飯しているのは題名にもあろう。「長袖善舞」は四字熟語で、「韓非子」の「第四十九 五蠹(ごと)」の一節『鄙諺曰、「長袖善舞、多錢善賈。」。此言、多資之易爲工也。」(鄙諺(ひげん)に曰はく、「長袖、善く舞ひ、多錢、善く賈(か)ふ」と。此れ、多資の工を爲し易きを言ふなり。)に基づくもので、「袖が長い服の方が袖の短い服よりも舞う時に美しく見える」という故事から転じて、「前以って準備してことに臨めば成功しやすい」或いは「元手や資質がしっかりしておれば成功しやすい」という聊か厭な(私には)喩えである。私も題名だけで吹いた。この作品は現存する。渡部直氏の博士論文「彫刻家新海竹蔵の造形観」PDF・二〇一六年発行)に拠る。画像ページはあるが、残念ながら当該作の画像は表示されない。

「峽江の六月」「狹江の六月」の誤り。日本画家橋本関雪(明治一六(一八八三)年~昭和二〇(一九四五)年)。神戸生まれ。本文展に無鑑査で「猟」とこれを出品しており、「猟」は二等賞を受けている。「白沙村荘 橋本関雪」公式サイト内で「猟」が見られる。そこに『この時期』、一『等賞は選ばれなかったので』、二『等賞は実質上の最高賞であ』ったとある。

「大原女」日本画家土田麦僊(明治二〇(一八八七)年~昭和一一(一九三六)年)。佐渡生まれ。本文展でこの「大原女」が三等賞を得ている。『産経新聞』の記事の当該作画像

「浦島」不詳。

『何とか云ふ無名の作家の「風」と云ふ屛風』日本画家広江霞舟(ひろえかしゅう 明治二三(一八九〇)年~?)。京都伏見生まれ。竹内栖鳳の弟子で、明治四四(一九一一)年の第五回文展に「夾竹桃」を初出品して褒状を受け、続く大正元(一九一二)年第六回文展でも「白い雨」が褒状を受けているから、無名ではない(京都市立芸術大学芸術資料館」による記載のこちらで確認した)。

「廣業」寺崎広業。既出既注。同展には「信濃の山路」と「夜聴歌者」を出品している。

「一番愚なのは尼が文をたいてゐる繪(說明つき)」作者ともに不詳。少なくとも寺崎の上掲二作ではない。

「上村松園の狂女」上村松園(明治八(一八七五)年~昭和二四(一九四九)年)。題は「花がたみ」。アート・サイト「This is Media」のこちらで当該作品が見られる。まあ、龍之介が嫌うのは腑に落ちる気はする。

「坂本さん」洋画家坂本繁二郎(明治一五(一八八二)年~昭和四四(一九六九)年)。福岡生まれ。高等小学校で同級であった青木繁とともに森三美(もり みよし)に洋画を学び,明治三五(一九〇二)年に青木とともに上京、ともに小山正太郎の不同舎に入った。明治三七年から太平洋画会研究所に学び、太平洋画会展、文展に出品。大正三(一九一四)年には「二科会」創立に参加した。この第二回二科展には「牧場」「砂村の家」「暑中休暇の校庭」を出品している。好んで牛をモチーフとしたことで知られる。

「セガンチニ」イタリアの画家ジョヴァンニ・セガンティーニ(Giovanni Segantini 一八五八年~一八九九年)多くの風景画を残し、「アルプスの画家」として知られるが、「悪しき母たち(Le cattive madri :一八九四年)などの幻想的な作品は、「世紀末芸術」の一つに数えられることがある。

「クリムソン」crimson。クリムズン。深紅色・茜色。

「諧調」harmony。絵画の色彩の調和がよくとれていること。

「安井曾太郞」洋画家安井曾太郎(明治二〇(一八八八)年~昭和三〇(一九五五)年)。京都生まれ。これ以前、七年余りに亙る長い欧州遊学をしていたが、この前年大正三(一九一四)年に第一次世界大戦が勃発、安井自身の健康も悪化してきていたため、日本へ帰国した。この第二回二科展には滞欧中の作作品四十四点を出品し、二科会会員にも推挙されたが、この後の十年ほどは、安井の画業の低迷期で、健康が回復しなかったことに加え、フランスと日本の風土の違いにも苦しみ、独自の画風を模索しつつある時期となった(以上は当該ウィキに拠る)。龍之介は非常に称揚しているが、私は彼の惹かれる作品は少ない。

「裸の髮の黑い女が仰向きにねてゐる繪」不詳。

「兒島喜久雄」(明治二〇(一八八七)年~昭和二五(一九五〇)年)は白樺派の画家で美学・美術史の研究者。大正三(一九一四)年の第一回二科展に「平日」が入選した。後に東北帝国大学助教授・東京帝国大学・東京大学教授となった。特にレオナルド・ダ・ヴィンチの研究で知られる。

「石井柏亭」既出既注

「有島さん」洋画家で小説家でもあった有島生馬(明治一五(一八八二)年~昭和四九(一九七四)年)、横浜生まれ。有島武郎の弟で里見弴の兄。セザンヌを本邦にいち早く紹介した人物として知られる。

「觀山」日本画家下村観山(明治六(一八七三)年~昭和五(一九三〇)年)は和歌山市生まれ。本名は晴三郎。

「弱法師」六曲一双。これ(彼のウィキの当該作の画像)。この年の十月の再興第二回院展に出品された。現在、重要文化財指定。

「今村紫紅」(しこう 明治一三(一八八〇)年~大正五(一九一六)年)は横浜市馬車道生まれの日本画家。本名は寿三郎。当該ウィキによれば、『大胆で独創的な作品は画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家に大きな影響を与えた』。龍之介はボロクソに言っているが、『紫江は常々「日本画がこんなに固まってしまったんでは仕方ありゃあしない。とにかく破壊するんだ。出来上がってしまったものは、どうしても一度打ち壊さなくちゃ駄目だ。そうすると誰かが又建設するだろう。僕は壊すから君達、建設してくれ給え。」「徳川以降の絵はひどく堕落している。何と言っても建設より破壊が先だ。」「暢気に描け。芸術に理窟はいらない。何事にも拘束されず、自由に、快活に自己の絵を描け」と仲間たちに語っていた。日本画の因習を壊そうとし、主題、構図、彩色など絵画の全ての面で自由な創意による新しい日本画への改革こそ、紫江の生涯をかけた命題であった』。『その芸術的革新性と、若手の親分格としての豪放な性格から、将来を大いに期待されたが、酒による肝臓病と脳溢血のため』この翌年、満三十五歳で夭折した。『安田靫彦』『は「君は極めて意志の強い人であった。実によい頭脳をもって居た人であった。あの燃える様な感情を持って居ながら、一方に常に緻密な頭脳で平静な判断や内省を行って居た。」といい、速水御舟は「氏は敵とも未方」(ママ)『ともならないやうな人は嫌いであった。又なかなか情に厚い人で、且つ道徳的の人であった」と記している』とある。代表作は「近江八景」連作と「熱国の巻」(孰れも重要文化財指定)。私は個人的には好きな作家(特に「熱国の巻」(「東京国立博物館」の同画のページ)二巻は素晴らしい。その人物の描き方は龍之介が後に描いた手遊びの筆致に、寧ろ、似ているようにさえ感ずる)で、案外、この龍之介の罵評を、もし、彼が聴き、亡くならずに後の龍之介の作品群を読んでいたら、或いは今村は、逆に龍之介を高く評価したかも知れないという気がする。

「靑田靑邨」日本画家「前田靑邨」(せいそん 明治一八(一八八五)年~昭和五二(一九七七)年)。本名は廉造。岐阜県中津川生まれ。平山郁夫は彼の弟子である。

「朝鮮の繪卷」同大正四年、青邨は前に出た今村紫紅の「熱国の巻」に打たれ、単身、朝鮮に旅し、平壌附近で風俗を描いた「朝鮮之巻」をものしており、それを指す。個人ブログ「光と影のつづれ織り 写真で綴る雑記帳」の「東京国立博物館 前田青邨 朝鮮之巻」(部分画像)を見られたい。これも龍之介がけなすのは甚だ気に入らない。私は好きだ。

「大觀」横山大観。既出既注。この年のものでは、寒山・拾得を描いた「焚火」が知られる。以下の龍之介の批評は腑に落ちる気はする。

「ready mind」一般に認識されている当たり前の印象・認識。

「岸田劉生」既出既注

「木村莊八」既出既注

「ツアイヒヌング」Zeichnung。ツァイヒヌング。ドイツ語で「デッサン・素描」の意。

「椿貞雄」(明治三二(一八九六)年~昭和三二(一九五七)年)は洋画家。山形県米沢生まれ。

「ジオツト」ジョット・ディ・ボンドーネ(Giotto di Bondone 一二六七年頃~一三三七年)は中世後期のイタリア人画家・建築家。絵画様式は後期ゴシックに分類されるが、イタリア・ルネサンスへの先鞭を付けた偉大な芸術家と見なされている。

「ヴエロツキオ」アンドレア・デル・ヴェロッキオ(英: Andrea del Verrocchio,/イタリア語本名Andrea di Michele di Francesco de' Cioni 一四三五年頃~一四八八年)はイタリア・ルネサンス期の画家・彫刻家・建築家。

「ボツテイチエリ」既出既注

「ベリニ」父や兄弟も画家であるが、通常はイタリア・ルネサンス期の画家一族ベッリーニ家の中でも最も知られるジョヴァンニ・ベッリーニ(Giovanni Bellini  一四三〇年頃~一五一六年)を指す。

「ブレーク」複数回既出既注であるが、再掲しておくと、芥川龍之介が偏愛したイギリスの詩人で画家・銅版画家であったウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)。

ここで言っておくと、因みに、筑摩全集類聚版の「書簡」(第七巻・昭和四六(一九七一)年刊)の当該書簡では、この美術批評のパートがごっそり『〔削除〕』となっている。元版全集ではそうだったものか? 当時の新旧の画家たちへの歯に物着せぬ謂いは確かに強烈であるが、ともかくもこうした編者の恣意的としか言いようのない不特定対象への忖度的削除というのには甚だ吃驚したことだけは言っておく。私は人文書院の「伊東靜雄全集」で日記に平岡公威(三島由紀夫)への痛烈な記事(先ほど電子化しておいた)をそのまま載せた桑原武夫(個人的に「第二芸術論」や戦後直後の日本語廃止フランス語公用語主張なんぞのいい加減な言いっぱなしのそれは全く認めないが)の編輯を、私は正当とし、快哉を叫ぶ人間である。

「アンドレエが死んだと思つてゐるとかへつて來る その途端にアンドレエの夫人が產で死ぬ」トルストイの「戦争と平和」の第二巻第一部。フランス軍捕虜となっていたアンドレイ・ニコラーエヴィチ・ボルコンスキが帰還したシークエンス。

「アウステリツツでアンドレエが仆れて空をみる」第一部の終わりの第三部。「アウステルリッツの戦い」(フランス語:Bataille d'Austerlitz:一八〇五年十二月二日)にオーストリア領(現在のチェコ領内)のモラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外でナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がロシア・オーストリア連合軍を破った戦い)で、アンドレイは負傷して倒れ、フランス軍の捕虜となる。

「藤岡君」藤岡蔵六。既出既注

「Zeit」ドイツ語で「時間」。

「beweisen」ドイツ語。証明。

「Study of Hamlet with special references on its stage-performance」「ステージ・パフォーマンス(舞台演技・演出)に就いての特別な言及に関する『ハムレット』の研究」。

「根本」既出既注

「Hardy」イギリスの小説家・詩人トーマス・ハーディ(Thomas Hardy 一八四〇年~一九二八年1月11日)。

「Creative Criticism」「創造的評論」。

「Jedermann」「イェーダーマン」(Jedermann )は、オーストリアの詩人・作家・劇作家フーゴ・ラウレンツ・アウグスト・ホーフマン・フォン・ホーフマンスタール(Hugo Laurenz August Hofmann von Hofmannsthal 一八七四年~一九二九年)の劇。一九一二年初演。十五世紀末にイギリスで始まった「道徳劇」のジャンルに属する寓話的な作品。外題「イェーダーマン」(Jedermann )とは「あらゆる人」の意で、総ての人間の代表であることを意味する。英語でもこの劇は「エヴリマン」(Everyman )と訳されている。詳しくは参照した当該ウィキを読まれたい。

「オリヂンになつたモラリテイ」前記の芝居の「原拠」となった「道徳劇」のこと。十六世紀のドイツのマイスタージンガー(靴屋の親方)にして詩人・劇作家であったハンス・ザックス(Hans Sachs 一四九四年~一五七六年)が書いた「富める人の劇」(Von dem sterbenden reichen Menschen, Hekastus genannt  :「エカストゥスと呼ばれる、死にゆく金持ちの話から」か。一五四九年)を下敷としている。★なお、筑摩全集類聚版では、何故か、注記なしに、この他の連中の卒論と書籍関連記事の部分が総てカットされてしまっている。思うにこちらは、元版がカットする謂れが見出せないから、以上の如く注すべき対象が煩瑣となる(筑摩全集類聚版が恣意的にカットしたとした場合に限定してである)からではなかったか? 

「W. M. as poet」「詩人としてのウィリアム・モリス」。

「Poems」全詩群。

「Personal study」人間探求。

 「Gegenstand」ゲーゲンシュタント。ドイツ語で「対象」。

「reduce」これは「対象を整理してより簡単な数の限られたものへと変える」の意の「リデュース」か。筑摩全集類聚版脚注に、『ここでは、己をむなしくして対象に没入するの意で使っているのであろう』とある。そうなると、「実相貫入」ということになるが、英語「リデュース」(最近、ゴミ処理でクロース・アップされている「減らす・出さない」のあの単語である)には、そこまでの深いニュアンスはないように思われる。

「古浦」(こうら)は島根半島北中央に位置する海水浴場(グーグル・マップ・データ航空写真)。朝日山麓で恵曇(えとも)港を前にする。浜の後ろには石州瓦を載せた民家が広がっており、赤い瓦屋根が印象的な古浦の街並みや、入り江を取り囲む山の稜線を眺めながら泳げるビーチとして知られる。私の『芥川龍之介畏友井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「十五」』を参照。

「子規の墓のある大龍寺」東京都北区田端四丁目にある真言宗和光山興源院大龍寺(グーグル・マップ・データ)。芥川家にごく近い。浅見陽一郎氏のブログ「愛するご朱印とスターバックス」のこちらで正岡子規(明治三五(一九〇二)年九月十九日没。享年三十四)の墓の画像が見られる。

「出雲の何とか云ふ妙な歌〔あぶやおこんにまけてにげるはぢぢやないかいな〕」不詳。識者の御教授を切に乞う。

「百舌」私の好きなスズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius bucephalus 。近縁種及び博物誌は私の「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず) (モズ)」を参照されたい。

「定福寺」「常福寺」の龍之介の記憶違い。以下の叙述で龍之介の固有名詞へのやや激しい思い込みがよく判る。既出既注

「叢桂花開落……」の漢詩は、芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈」の「十一」を見られたい。

「眞山」「しんやま」。既出既注

「おべんとう」二箇所とも表記はママ。

「さるとりいばら」単子葉植物綱ユリ目サルトリイバラ科シオデ属サルトリイバラ Smilax china 。猿捕茨。多年生植物で半低木。茎に棘があり、秋に赤い房状に果実をつける。

「あめ蝦」不詳。小海老の甘露煮か。「宍道湖八珍」にモロゲエビ(軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目根鰓(クルマエビ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科ヨシエビ属ヨシエビ Metapenaeus ensis の地方名)が挙げられるが。識者の御教授を乞う。

「土黑埴土(にぐろはに)」黒土を混ぜた「はにつち」(肌理の細かい黄赤色の粘土。瓦や陶器の原料とする。赤土)、陶土の意であろう。松江は古くから焼き物が知られ、「出雲焼」がある。

「油土」「あぶらつち」或いは「ゆど」。オリーブ油などで練った粘土。乾燥によって固化することがない。硫黄・酸化亜鉛・蠟などを練って作った人工粘土も、こう称し、同様の性質を持ち、彫刻や鋳金の原型などに用いる。

「弟」腹違いの弟新原得二。既出既注

「厨戶」「くりやど」。

「サモワル」サモワール(самовар/カタカナ音写:サマヴァール)はロシアやスラブ諸国・イラン・トルコなどで茶を煎れる湯を沸かすために伝統的に用いられている金属製湯沸し器。ウィキの「サモワール」を見られたい。

「白い菊かみんな誰かどこかへもつて行つてしまふといゝ あれは人をセンチメンタルにしていけない 實際いけない」この四首と白菊は明らかに吉田弥生の思い出と繋がっていることは言うまでもない。

「vanity」虚栄。自惚れ。

「modify」修正する・変更する・改造する。

「箭」「や」。矢。]

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