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2021/05/29

伽婢子卷之六 伊勢兵庫仙境に至る

 

伽婢子卷之六

 

  ○伊勢兵庫、仙境に至る

 

Ise1

[やぶちゃん注:以下、総ての挿絵は、大判を二枚含んでいる底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」を使用した。かなり丁寧に清拭した。これは二幅一図。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、左幅の氏康の前に平伏する右が江雪で、左(水際側)が兵庫頭とある。]

 

 伊豆の國北條氏康は、關八州を手に入れ、威勢、大いにふるいて、しかも武勇のほまれ、世に高し。

 ある時、浦に出て、遠く南海にのぞみ、澳(おき)の方、はるかに眺めやりて、仰せけるやう、

「昔、鎭西八郞爲朝、伊豆の浦にながされ、夕暮かたに、鳥のかけりて、澳をさしてゆくを見て、

『さだめて、海中に嶋ぞあるらん。しからずば、鳥のかけりて、夕暮かた、沖におもむき飛べきや。』

とて、舟を出〔いだ〕して、鳥の飛(とび)行く方に、こぎ行〔ゆき〕しかば、「鬼のすむ」と云ふ嶋に、至りぬ。これ今いふ八丈が嶋成べし。それより、このかたは、誰人(たれ〔ひと〕)の渡りしとも、聞えず。願くば、誰〔たれ〕か八丈が嶋にゆきて、その有樣見て、歸る人、あるべきや。」

と仰せければ、坂見岡江雪(さかみをかかうせつ)・伊勢兵庫頭〔いせのひやうごのかみ〕、兩人、すゝみ出て、

「我等、かしこにおもむき、嶋の躰(てい)、よく見て、かへり侍らん。」

と、いとやすく、うけごひ、大船(たいせん)二艘をこしらへ、江雪・兵庫、兩大將として、同心二十騎づゝさしそへ、吉日をえらびて、海にうかび、南をさして、押し出〔いだ〕す、心のうちこそ、はるかなれ。

 伊豆のおきには七嶋ありと云り。いづれとは知らず、嶋近く、押寄せしところに、俄に、風、變り、浪、高くあがりて、雪の山の如し。

 江雪(かうせつ)は、とかくして、ひとつの嶋につきて、あがりしかば、年ごろ聞傳へし八丈が嶋につき、嶋のありさま・人のよそほひ、よく見めぐりて、歸りぬ。

 兵庫頭は、吹き放されて、南を指してゆく。

 夜る・ひるの、さかひもなく、十日ばかり行ければ、風、すこし吹よわり、ひとつの嶋に流れよりたり。

 岸にあがりて見れば、岩石、そばだちて、靑きは碧瑠璃(へきるり)の如く、白きは珂雪(かせつ)の如く、黃(き)なるは蒸粟(むせるあは)に似て、赤きは紅藍花(かうらんくわ)に似たり。

 其外、種々の奇石、日本の地にしては、いまだ見ざる所也。

 草木の有樣、又、めなれざる花、咲き、木(こ)の實(み)、結べり。

 

Ise2

 

 あやしき人、磯近く出たるを見れば、かしらに羅(うすもの)の帽子をかつぎ、身には、もろもろの草木、おりつけたる直垂(ひたたれ)に、花形(〔はな〕がた)つけたるくつを、はきたり。

 年のころ、廿(はたち)ばかりなるが、色、甚だ白く、まみ毛(げ)高く、鐵漿(かね)、黑うつけて、かたちは「もろこし人」に似て、物いひは、日本の言葉に通ず。

 兵庫頭を見て、大〔おほき〕にあやしみ、

「如何なる者ぞ。」

と問ければ、兵庫、ありのまゝに語る。

 此人いふやう、

「こゝをば『滄浪(そうらう)』の國と名づく。日本の地よりは、南のかた、三千里に及べり。是より、觀音の淨土、補陀洛世界(ふだらくせかい)も程近し。いにしへ、淳和(しゆんわ)天皇の御時に、橘(たちばな)の皇后の仰せによつて、惠蕚僧都(ゑがくそうづ)といふ法師ばかりこそ、かの補陀洛世界には渡りけれ、そのついでに、此嶋に船をよせて物語せられしと聞傳へたり。さしも遙かなる海上(かいしやう)をしのぎて、これまで來〔きた〕れる、さぞや、疲れ侍らん。こなたへわたりて、心を休められよ。」

とて、家につれて歸り、九節(きうせつ)の菖蒲酒(しやうぶしゆ)、碧桃(へきたう)の花蕊酒(くわずいしゆ)をいだし、玉の盃(さかずき)をもつて、これを、すゝむ。

 兵庫頭、數盃(すはい)を傾けしに、神氣、さわやかに、覺えたり。

 あるじ、物語する事、保元・平治のあひだの有樣、今みるやうに、のべ、きこゆ。

 その家の有樣、金をちりばめ、玉を飾り、家材・雜具(ざふぐ)にいたるまで、みな、此世の物とも思はれず。

 床(とこ)の上に、方(はう)二尺餘りの石あり。「松風石(しようふうせき)」と名づく。内外、透通(すきとほ)りて、玉の如く、色は、靑く、黃なり。七寶の盆にのせて、又、七寶のいさごを敷きたり。その石、谷峯の道、分れ、『瀧の白玉、とび散るか』と、あやしまれ、たゞ、水音の落ちたぎらぬぞ、石の紋(もん)とは、おぼえけれ。まことに、絕世の盆山(ぼんさん)也。石の腰(こし)より、一本の松、生ひ出て、高さ、一尺七、八寸もありなむ。年ふりたるかたち、さこそ、『千とせの春秋を、いくかへり知(しり)ぬらん』と、昔の事を問はまほしきに、枝の間〔あひだ〕より、凉しき風、吹き出て、座中に滿ち、枝、かたぶき、葉、うごき、颯々(さつさつ)たるよそほひ、九夏(きゆうか)三伏(ふく)、氣も、おのづから、さめぬべし。

 玳瑁(たいまい)の帳臺には馬腦(めなう)の唐櫃(からひつ)あり。大〔おほい〕さ、三尺ばかり、その色、茜(あかね)の如くにして、鳥・けだ物・草木の圖、いろいろに彫(えり)つけたるは、更に人間の所爲(わざ)にあらず。

 又、かたはらに、一つの瓶(かめ)あり。大さ、一石(こく)あまりを入〔いる〕べし。其色、紫にして、光りかゝやき、内外、透(すき)とほりて、水精(すゐしよう)の如く、厚(あつさ)は一寸ばかり、輕(かろ)きこと、鳥の毛を、あぐるに似たり。内には名酒をたゝへて、「上淸珍歡醴(じやうせいちんくわんれい)」といふ簡(ふだ)を付〔つけ〕たり。

 その傍(そば)に、大さ、二斗(とう)をうくべき壺あり。その色、白く、光り輝けり。内に名香(めいかう)をいれて、「龍火降眞香(りうくわかうしんかう)」といふ簡(ふだ)あり。

 又、百寶の屑(すりくず)を擣(つ)き篩(ふる)ひて、壁にぬり、瑤(たま)の柱、こがねのとばり、銀の檻高(おばしま)、見あぐる樓あり。「降眞臺(かうしんだい)」といふ額を、かけたり。

 庭のおもてには、目なれもせぬ草木の花、咲き亂れて、二、三月の比〔ころ〕の如し。

 孔雀・鸚鵡(あふむ)のたぐひ、其外、色音(ね)面白く、名も知らぬ鳥、多く、木々の梢、草花の間に、鳴〔なき〕さえづる。

 

Ise3

 

 十五間の厩(むまや)に立ならべたる馬共、或は、毛の色、綠(みどり)なる、或は、紺靑色(こんじやうしき)なる、その中に又、連錢(れんぜん)なる、白き、黑き、さまざまの名馬、いづれも、五寸(〔ご〕き)・六寸(むき)、みな、龍馬(りうめ)のたぐひなり。

 その飼(かふ)ところの秣(まぐさ)は、茅(ちがや)に似て、白き花、あり。更に餘(よ)の草、まじへず。

 碧瑠璃(へきるり)の色をあざむく棗(なつめ)、秦珊瑚(しんさんご)の光りをうつす栗、みな、その大さ、梨の如くなる、枝の間(ひま)なく生(なり)こだれたり。

 垣の外を見れば、金闕(きんけつ)・銀臺・玉樓・紫閣、鳳(ほう)の甍(いらか)、虹の梁(うつばり)、雲をおかして、立〔たち〕並べり。

 音樂、雲にひゞき、異香(いきやう)、砌(みぎり)に薰ず。

 山際に行〔ゆき〕て見れば、峯より落つる瀧つぼに、湛へたる水、みどりにて、流れて出〔いづ〕る川瀨のかたはらに、池、あり。二町四方もありなん。其水、はなはだ强くして、金銀といへ共、沈まず、石を投げれども、猶、水の上に浮(うき)あがる。此故に、くろがねを以つて、舟を造り、國人、これに乘りて、心を慰む。

 水底(みなそこ)のいさごは、皆、金の色也。

 井出〔ゐで〕の山吹、水にうつり、おのづから、金(こがね)花咲くよそほひ、今ぞ思ひ合せらる。

 水中に魚(うを)あり。其色、赤くして、こがねの如く、皆、おのおの、四の足あり。

 其のあたりは、廣き野邊なり。金色の莖に紺靑色(こんじようしき)の葉、ある草、多し。葉の形は、菊に似て、牡丹の如くなる花あり。花の色、黃色にして、内、赤し。白き糸の如くなる蘂(しべ)ありて、糸房(ふさ)の如し。風、すこし、ふけば、其花、動きめぐりて、蝶の飛ぶに似たり。國中の女は、これをとりて、首(かしら)のかざりとす。十日を經(ふ)れども萎(しぼ)まず、といふ。

 およそ、國中の男女〔なんによ〕、いづれも、よはひ、廿(はたち)ばかりにて、老人は、ひとりも、見えず、其の顏かたちのうるはしき事、日本の地には、いと、稀なり。

 

Ise4

 

[やぶちゃん注:二幅一図。右に池辺を逍遙する兵庫頭(右)と仙主が描かれ、池中には四足を持った奇体な魚が二尾いる。左幅は鉄製の船で遊覧する仙人と仙女。]

 

 兵庫、

『同じくは、此所にすまばや。』

と思ひしかども、

『主君の仰せによりて、舟を出だし、風に放されて、こゝに來り、世にたぐひなき事を見つゝ、此まゝ歸らずは、不忠不義の名をよばれ、身の後〔のち〕までも、恥を殘す事も、口惜し。如何にもして、古鄕に歸らむ。』

と思ひ、あるじに、

「かくかく。」

と、いひければ、あるじ、大に感じて、

「さらば、凌波(りようは)の風を起して、送りまゐらせん。是れまで來り給ふしるしには、馬一疋・鸚鵡一羽を舟に入れたり。」

 それより、暇乞ひして、舟にのりければ、栗・棗やうの物、おほく、靑磁の鉢にもりて、あたへ、ともづなときて、押し出〔いだ〕せば、順風徐々(じよじよ)として、吹起る。

 すでに帆を引上(あぐ)れば、一日の程に、伊豆の浦に、つきたり。

 舟よりあがりて、まづ、城中の參りしかば、氏康は、もはや、病死、あり。

 氏政、世をとりて、國家を治めらる。

 兵庫、大〔おほき〕に嘆き悲しみ、淚とともに、かの嶋の物語りして、

「昔、垂仁(すいにん)天皇の田道(たみち)の間守(まもり)に仰せて、常世(このよ)の國につかはし、香菓(かくのみ)をもとめ給ひし、是れ、今の橘(たちばな)也。すでに採りて歸りしかば、帝(みかど)は、早や、崩御まします。間守、大に嘆き悲しみ、『わが心ざしの至らぬ故也』とて、なき死(しに)侍べり、といふ。氏康、すでに病死ありて、只今かへり來る事、これ、心ざしを失ふ也。」

とて、腹切つて、死(しに)たり。

 兵庫頭が物語を書〔かき〕とゞめ置かれて、のちに、世に廣まれり。

[やぶちゃん注:「北條氏康」(永正一二(一五一五)年~元亀二(一五七一)年)は戦国武将で相模小田原城主。隠居後は相模守、「御本城様」などと敬称され、太清軒と号した。天文六(一五三七)年七月の武蔵河越城攻略の頃から、父氏綱の家督継承者として政務に関与し、同十年七月の父の病没前後に家督を継いだ。翌十一年から翌年にかけて、相模・南武蔵・伊豆などで代替わりの検地を実施している。同十四年、駿河の富士川以東の支配を巡って今川義元との紛争が再燃し、不利な形勢下での講和により、これを失ったが、翌十五年四月の「河越城の戦い」で圧勝、扇谷上杉氏を滅ぼし、関東管領上杉憲政を上野平井城に敗走させた。以後、大石氏・藤田氏などの北武蔵の武将らは、氏康に服属するようになった。内政面では同十九年から弘治元(一五五〇)年にかけて、諸行政や税率改正などの改革を行い、領国経営の基礎を固めた。天文二〇(一五五一)年には、憲政を平井城から白井城へと追い詰め、翌年一月には、遂に越後に遁走させた。また同年十二月、古河公方足利晴氏に対し、家督をその子義氏(母は氏康の父氏綱の娘)に譲らせている。その後、富士川以東の地を奪回するため、駿河に侵攻する一方、武田・今川両氏と、相模・甲斐・駿河三国の同盟を結んだ。天文二十三年十一月には、晴氏・藤氏父子を捕らえ、相模波多野(現在の秦野市)に幽閉、義氏の家督を安堵させた。永禄二(一五五九)年二月には、主として家臣らへの普請役賦課の状況を調査させ。基本台帳「小田原衆所領役帳」を作成している。同年十二月頃には家督を子氏政に譲り、隠居したとみられている。この代替わりと前後して、北条氏の支城制はほぼ固まった。隠居後は氏政の後見として第一線を退いたが、永禄十二年閏五月に成立した相模と越後の同盟は、氏康の主導によるものであった。中風の発病後、一年余りで死去した。若い頃から鎌倉史を研究してきた私は、税制改革を初めとして諸制度の整備を成し遂げ、領国の支配体制を確立した、戦国武将では特異的に最も優れた「小国寡民」の名武将であったと私は思っており、氏政を致命的な無能者と捉えている(以上の主文は「朝日日本歴史人物事典」を元にした)。

「鎭西八郞爲朝」(保延五(一一三九)年~嘉応二(一一七〇)年?)は平安末期の武将。源為義の八男で、源義朝の弟。「保元の乱」(保元元(一一五六)年七月)で父為義に従い、崇徳上皇方に組みするも敗れ、伊豆大島に配流となった。粗暴にして強腕、稀代の弓の使い手として知られた。生き延びて、沖繩へと流れて行き、琉球王朝の祖となったという伝承の他、御霊伝説に事欠かないヒーローであり、私の好きな人物である。

「坂見岡江雪(さかみをかかうせつ)」初め、北条氏(氏康・氏政・氏直三代)の家臣で、後に秀吉に仕えた板部岡(越中守)江雪(いたべおか こうせつ 天文五(一五三六)年~慶長一四(一六〇九)年)がモデルであろう。板部岡能登守の遺領を継ぎ、板部岡と改めたとも、また、伊豆下田の真言宗の僧であったとも伝えるが、不明。鎌倉幕府末期の執権北条高時の遺児時行の子孫ともされる。天正一〇(一五八二)年に北条氏直が徳川家康と講和を結んだ折りや、同十七年に小田原を狙う豊臣秀吉との交渉に際して、使者として活躍した。北条氏滅亡後には秀吉の御伽衆となり、氏を「岡野」と改めている。秀吉没後も徳川家康に起用されている。和歌・連歌。茶湯にも通じた教養豊かな能吏であったという(以上は「朝日日本歴史人物事典」を主文に用いた)。

「伊勢兵庫頭」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注でも、同定を困難としている。

「七嶋」江戸時代に伊豆諸島の主な有人島である伊豆大島・利島(としま)・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島の七島を指す。

「珂雪(かせつ)」古語・雅語で「真っ白な雪・潔白なもの」の意。

「紅藍花(かうらんくわ)」双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科アザミ亜科ベニバナ属ベニバナ Carthamus tinctorius の古名。

「觀音の淨土、補陀洛世界(ふだらくせかい)」「華厳経」・「千手経」・「陀羅尼集経」及び玄奘三蔵の「大唐西域記」にも記された観音菩薩が降り立つとされる伝説上の山である補陀落山(ふだらくせん)のこと。インド南端の海岸にあり、八角形の山容を成すとされ、サンスクリット語で「ポータラカ」と呼ぶ。「補陀落」はその漢音写。特に現世利益傾向が甚だしい中国では現在の浙江省杭州の沖合、上海市の南方洋上にある舟山(しゅうざん)群島が比定地とされて爆発的に補陀落信仰が流行った(ここ。グーグル・マップ・データ)。本邦でも、熊野や日光が補陀落に擬えられて信仰を集めた(「日光」という地名起原には、「補陀落」→「二荒(ふたら)」→「二荒(にこう)」→「日光」となったという説もある。中世になると、観音信仰に基づいて、熊野灘や足摺岬などから、密閉された小舟に乗って補陀落を目指す無謀な「補陀落渡海」も盛んに行われた(以上はウィキの「補陀落」を主文に使った)。私はこの「補陀落渡海」に強い関心を抱いており、そのメッカであった熊野那智の補陀洛山寺を二〇〇六年夏に念願の来訪を果たし、親しく渡海僧の供養塔や復元された渡海舟も見た。奇体にして危うい同信仰については、私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」の本文及び注も参照されたい。

「淳和天皇」は「じゅんな」が通常の読み。在位は弘仁一四(八二三)年から天長一〇(八三三)年(仁明(にんみょう)天皇へ譲位)。但し、前の私のリンク先での「惠蕚法師」の注で判る通り、彼が渡唐したのは、承和一四(八四七)年と斉衡年間(八五四年~八五七年:再渡唐)であり、史実上では、ここは次代の仁明天皇(在位/天長一〇(八三三)年~嘉祥三(八五〇)年:先々代の嵯峨天皇第二皇子)でなくてはおかしく、了意にして致命的な誤りである。

「橘(たちばな)の皇后」嵯峨天皇の皇后で仁明天皇の母橘嘉智子(たちばなのかちこ 延暦五(七八六)年~嘉祥三(八五〇)年)。前の齟齬から本来は「皇太后」となくてはおかしい。「北條九代記 卷第十一 惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起」でも、『淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし。橘(たちばなの)皇太后と申し奉り、深く佛法に歸依し、道德の僧を講じて法門を聞召(きこしめ)す』とやらかしており、これこそが、「北条九代記」が間違いなく浅井了意の作であることの証左ともなっていると私は思う。

「惠蕚僧都(ゑがくそうづ)」(生没年未詳:なお、「そうづ」は底本・元禄本のママ)は平安前期の僧。承和の初めに本文に出る「橘太后」、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)の命を受けて渡唐し、「五臺山」(山西省北東部の台状の五峰からなる山で、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つ。文殊菩薩の住む清涼山に擬せられた。元代以降はチベット仏教の聖地となった)に袈裟などを寄進し、承和一四(八四七)年に日本に禅を広めることを志して、義空を伴って帰国したが、斉衡年間に再び渡唐し、その帰途、現在の浙江省の舟山列島の補陀(ふだ)山に補陀洛山寺(後の普済寺)を開いて、遂にその地に留まったという(以上は主に講談社「日本人名大辞典」に拠った)。唐から初めて禅僧を招聘したこと、平安文学に大きな影響を与えた「白氏文集」の本邦での後の普及発展の動機を与えたことなど、当時の日本の東アジア交流に大きな足跡を残した人物である(ここは勉誠出版二〇一四年刊田中史生編「入唐僧恵蕚と東アジア 附 恵蕚関連史料集」の同書店解説に拠った)。先に示した私の「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」の本文及び注も参照されたい。但し、本篇で彼が「かの補陀洛世界には渡りけれ、そのついでに、此嶋に船をよせて物語せられしと聞傳へたり」と神仙の島人が述べる時、史実と幻界の咬み合わせが甚だ苦しくなる。前の私のリンク先を見て戴ければわかる通り、恵萼の行った「補陀落山」は伝説上のそれでは全くなく、実在する舟山群島のそれであり、そうなると、この、後で「滄浪(そうらう)」と名指される国は、日本と舟山群島の間、則ち、ヒ東シナ海のど真ん中に存在していると考えるべきであろう。日本語が通じるとなれば、更に具体に琉球弧(南西諸島)を含むことになる。これは最初に源為朝を出したところで、迂遠に伏線であったのだとも言えるが、中国で古くより東海の洋上に浮遊するとされた神仙の理想郷蓬莱山を念頭に置いていることは言うまでもない。

「九節(きうせつ)の菖蒲酒(しやうぶしゆ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『九つの節を持つ菖蒲を持つ菖蒲で仙薬』とする。「節」とは単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属 Acorus の、薬用にする根茎の意であろう。

「碧桃(へきたう)」小学館「日本国語大辞典」では、最初に『白色の桃の花。または、白色の桃の実』で白桃を指すとしつつ、二番目に『桃の実の一種。青みがかったものか。また、仙人の食用とするものとも』として明の李時珍の本邦での本草書のバイブル「本草綱目」を引くが、当該の巻二十九の「果之一」の「果類」のそれは、名前だけで解説がない。まあ、桃は中国では古来より不老長寿の仙薬・霊薬であり、その「碧桃」の花の蘂だけを漬けこんだ酒とは、これまた贅沢である。

「保元・平治」一一五六年~一一六〇年。北条氏康の没年の元亀二(一五七一)年からは、四百年以上前となる。

「その石、谷峯の道、分れ、『瀧の白玉、とび散るか』と、あやしまれ、たゞ、水音の落ちたぎらぬぞ、石の紋(もん)とは、おぼえけれ」自然物でありながら、細部に至るまでが、徹底した時空間を切り取ったミミクリーを示しているのである。

「九夏(きゆうか)三伏(ふく)」(きゅうかさんぷく)は四字熟語として、「夏」或いは「夏の最も暑い時期」を指す。「九夏」は「夏の九旬」で「夏の九十日間」、広義の「夏」全体を指す。「三伏」は「初伏」(夏至後の三度目の庚(かのえ)の日)・「中伏」(四度目の庚の日)・「末伏」(立秋後の初めての庚の日)のことで、これが特に「夏の最も暑い時期」を指している。

「玳瑁(たいまい)」一属一種のカメ目ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata の甲羅を用いた、本邦が最も品位の技術を持つ鼈甲細工の原料とされた。

「帳臺」貴人の座所(居間)や寝所として屋内に置かれた方形の大型の調度具。四方に帳(とばり)を垂らす。その材料が鼈甲とは恐れ入った。

「内外」私は「うちと」と読みたい。

「水精(すゐしよう)」「水晶」に同じ。

「上淸珍歡醴(じやうせいちんくわんれい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「上清」は玉清・太清と並ぶ道教の三天』(道教の最高神格である三清(さんせい)である「太元」を神格化した最高神「元始天尊」・「道」を神格化した「霊宝天尊」(太上道君)・老子を神格化した「道徳天尊」(太上老君)の三柱が住むとされる場所)『の一。「醴」は酒で、客をもてなすための天酒の意か』とある。

「屑(すりくず)」読みは元禄版もママ。

「銀」「しろがね」と読んでおく。

「檻高(おばしま)」欄干。

「降眞臺(かうしんだい)」道家や道教で理想とされる最高の人を指すのが「眞人」。俗世界を超越して無為自然の絶対不可知の宇宙原理を感得し得た「道(タオ)」の極致に達した者を指す。具体な「仙人」の意ととっても良いが、私は厭だ。仙人には上から下まで等級が無数にあり、しょうもない仙人も多数いるからである。

「十五間の厩(むまや)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『厩の一間は。室町時代で七尺五寸程度』(二・三七メートル)。『厩の規模は、公方で七間』(十二・七三メートル)、『管領家で五間』(約九・一〇メートル)、『細川家は十三国拝領したので十三間』(二十三・六三メートル)『の大きさという。「十五間」』(二十七・二七メートル)『は良馬三十頭を収容できる最大の規模(武家名目抄四)』とある。

「連錢(れんぜん)」「連錢葦毛」。馬の毛色の名。葦毛(灰色の馬。肌は黒っぽいものの生えている毛が白く、遠目には白馬である)に銭を並べたような灰白色の斑模様のあるもの。

「五寸(〔ご〕き)・六寸(むき)」「寸(き)」は馬の大きさを示す特殊な数詞で、読む場合には「寸(き)」と読んで「すん」と弁別したもの。地上から跨ぐ背までの高さが四尺(一・二一メートル)を標準として(一寸(き))とし、それよりも高いものを寸単位で「寸(き)」と呼称してプラスして示したもの。「五寸」は一メートル三十六センチメートル、「六寸」は一メートル三十九センチメートルとなり、戦国時代としても破格に大きい馬である。

「茅(ちがや)」  単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica 。花期は初夏(五 ~六月)で、葉が伸びないうちに葉の間から花茎を伸ばして、赤褐色の花穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも花穂は高く伸び上がり、花茎の上部に葉は少なく、ほぼまっすぐに立つ。小穂は基部に白い毛がある。花は小さく、銀白色の絹糸のような長毛に包まれて花穂に群がり咲かせ、褐色の雄しべがよく目立つ(当該ウィキに拠る)。

「あざむく」見紛う。

「棗(なつめ)」双子葉植物綱バラ目クロウメモドキ科ナツメ属ナツメ Ziziphus jujuba 。南ヨーロッパ原産であるが、中国・西アジアへ伝わり、一説では中国原産ともされる。日本への渡来は奈良時代以前とされる。

「秦珊瑚(しんさんご)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「秦」は「榛」』(双子葉植物綱ブナ目カバノキ科ハシバミ属ハシバミ Corylus heterophylla var. thunbergii 、或いはカバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica を指す)『と同意に用いて、繁茂した珊瑚樹』双子葉植物綱マツムシソウ目レンプクソウ科ガマズミ属サンゴジュ変種サンゴジュ Viburnum odoratissimum var.awabuki )『を指すか』とある。

「生(なり)こだれたり」植生のさまで、特に徐々に低くしな垂れたり、地に伏すような状態になったりすることを指す。

「金闕(きんけつ)」王宮の門。

「銀臺」銀で飾った高楼。

「玉樓」美しい高楼。

「紫閣」「紫色の御殿・美しい宮殿」の意であるが、ここは「神仙のいるところ・隠者の住まい」の意。

「鳳(ほう)の甍(いらか)」豪壮な宮殿に美称。

「虹の梁(うつばり)」虹のように反りを持った壮大な梁。

「砌(みぎり)」原義は「軒下などの雨滴を受けるために石や敷瓦を敷いた所」であるが、ここは転じて、「庭・区切られた境域」の意。

「二町」約二百十八メートル。

「井出〔ゐで〕の山吹」「井出」は現在の京都府南部の地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。木津川に注ぐ玉川の扇状地にあり、奈良へ至る交通の要地。井手左大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)が別荘をおいた所で、「山吹」と「かわず」(カエル)の名所。「井手の玉川」は六玉川(むたまがわ)の一つであり、歌枕。バラ目バラ科サクラ亜科ヤマブキ属ヤマブキ Kerria japonica の枕詞のように用いたもの。

「おのづから、金(こがね)花咲くよそほひ」自然、金がそのままに花となって咲いたかと見紛う美容。

「水中に魚(うを)あり。其色、赤くして、こがねの如く、皆、おのおの、四の足あり」至四足を持った幻魚は中国の幻想地誌類や本草書によく出現する。敢えて大山椒魚(「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」を参照)などを比定する必要はない。

「古鄕」「ふるさと」と訓じたい。

「凌波(りようは)」波浪にあって船舶を正しく航行させることの出来る波。

の風を起して、送りまゐらせん。是れまで來り給ふしるしには、馬一疋・鸚鵡一羽を舟に入れたり。」

「氏康は、もはや、病死、あり」北条氏康は元亀二年十月三日(一五七一年十月二十一日)に享年五十七で小田原城内で病死した。当該ウィキによれば、元亀元(一五七〇)年八月頃から、『中風とみられる病を得ており』、八『月初旬には鎌倉』の円覚寺塔頭『仏日庵で、氏康の病気平癒祈願の大般若経の真読が行われている。その頃、小田原城に滞在していた大石芳綱は、「風聞としてではあるが』、『氏康の様子を、呂律が回らず、子供の見分けがつかず、食事は食べたいものを指差すような状態で、意志の疎通がままならず、信玄が豆州に出たことも分からないようだ」と記し伝えている。その後』、十二『月には信玄の深沢城攻めの対応を指示ができるほどには快方に向かったが、明けて元亀』二『年に入ると』、『氏康発給の文書は印判だけで花押が見られなくなる。そして』同年五月十日を『最後に文書の発給は停止されている』とある。

「垂仁(すいにん)天皇」在位は垂仁天皇元年(機械換算:紀元前二九年)~垂仁天皇九九年(同前で七〇年)。実在は疑われている。

「田道(たみち)の間守(まもり)」現行の読みは「たぢまもり/たじまもり」。当該ウィキによれば、「日本書紀」では「田道間守」、「古事記」では「多遲摩毛理」「多遲麻毛理」と表記されている。天日槍(あめのひぼこ:新羅からの伝承上の渡来人)の後裔で、三宅連(三宅氏)の祖。『現在は菓子の神・菓祖としても信仰される』。「日本書紀」の垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇九〇年二月一日、『田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」』(不老不死の仙郷「常世の国」にあるという不老不死の果実。一般に「橘」(双子葉植物綱バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana )とされるが、この同定は頗る怪しい)を『求めに常世の国に派遣された。しかし垂仁天皇』九九年七月一日、『天皇は崩御』し、『翌年(景行天皇元年)』三月十二日、『田道間守は非時香菓』「八竿八縵」(やほこやかげ:』『竿・縵は助数詞で、葉をとった』八『枝・葉のついた』八『枝の意味)を持って常世国から帰ってきたが、天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したと』される。「古事記」垂仁天皇の『段によれば、多遅摩毛理は「登岐士玖能迦玖能木実(ときじくのかくのこのみ)」』『を求めに常世国に遣わされた。多遅摩毛理は常世国に着くと』、『その実を取り』、「縵八縵矛八矛」を『持って帰ってきた。しかしその間に天皇は崩御していたため』、「縵四縵矛四矛」を『分けて大后に献上し』、後の「縵四縵矛四矛」を『天皇の陵の入り口に供え置いて泣き叫んだが、その末に遂に死んだと』とする。また、「万葉集」巻第十八(四〇六三番)では『田道間守の派遣伝承を前提とした歌が』、同巻(四一一一番・反歌四一一二番)では『田道間守を題材とする歌が載せられている』。『現在、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)に治定される宝来山古墳(奈良県奈良市)では墳丘南東の周濠内に小島があるが、これが田道間守の墓に仮託され』ている。『この小島の考古学的な調査は行われていないが、江戸時代の山陵絵図や明治の』「御陵図」には、『島の存在が描かれていないため、明治期の周濠拡張に伴う外堤削平の際に残された外堤の一部と推測されている』。但し、「廟陵記」などに於いて、『周濠南側に「橘諸兄公ノ塚」の記載があることから、その塚を前提として小島が残されたとする説もある』。『後述する田道間守の菓祖神としての信仰により、現在は小島の対岸に拝所も設けられている』。『「たじまもり/たぢまもり」の名称については、「但馬国の国守(くにもり)」の意味とする説があ』り、その『類音からタチバナ伝来の物語が引き出されたと見られ』ており、『「タチバナ」という名前自体を「タヂマバナ(田道間花)」の転訛とする説もある』。『また、タチバナは植物の名前であると同時に』、『大王家の宮殿があった大和国高市郡の橘とも関わりがあり、田道間守の説話はこの橘の宮殿に出仕していた但馬の三宅連の祖先の説話として位置づける説もある。特に允恭天皇の皇女である但馬橘王女は三宅連による奉仕の対象であったとされる。更に大和から但馬へ向かう際の交通の要所に当たる摂津国猪名に「タチバナ」(中世の橘御園を経て、現在の兵庫県尼崎市立花町)という地名があるのも、同地が大和の橘の宮殿および但馬の三宅連に関連する所領であったとする見方もある』。『上記説話に見えるような果物や薬草を求めて異界に行く話は世界各地に伝わるが、この説話には』、『特に中国の神仙思想の影響が』明らかに働いており、『秦の徐福が蓬萊に不老不死の薬を求める伝説』との酷似性が指摘できる。『内藤湖南は』「卑彌呼考」において、「魏志」倭人伝に、『卑弥呼から魏へ遣わされたと見える大夫』(たいふ)の難升米(なしめ)を『田道間守に比定しているが』、「日本書紀」では『卑弥呼は神功皇后の時代とされており、田道間守が常世の国に派遣された垂仁天皇』九十『年を機械的に西暦に換算すると』、紀元後六十一『年になる。これは倭(委)奴国王が後漢の光武帝から金印を授けられた』紀元後五十七『年に近いため、書紀の編者は田道間守を倭奴国の大夫と考えていたことが推測され』なくもない。なお、「日本書紀」では、田道間守の『父の清彦』(きよひこ)『による出石神宝の献上説話の後に』、この『田道間守説話が掲載されている』ことから、『前者はレガリア』(ラテン語:regalia:王権などを象徴するアイテム。古代中国や日本では斧鉞(ふえつ:おの)であった)『献上に伴う出石族』(いずしぞく・天日槍を奉斎した氏族)『のヤマト王権への服属を象徴し、後者はそれ以後に出石族が王権に忠節を尽くす様を象徴すると見られている』とある。『田道間守』は、記紀の『説話に基づいて菓子神・菓祖とする信仰があり、中嶋神社(兵庫県豊岡市、位置)では「田道間守命」の神名で菓子神として祀って』おり、『この中嶋神社の分霊は、太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都府京都市)など全国各地で祀られ、菓子業者の信仰を集めている』。『また、奈良県高市郡明日香村の橘寺の寺名は田道間守伝説に由来すると伝わるほか、田道間守の上陸地の伝承がある佐賀県伊万里市では伊萬里神社には田道間守命を祀る中嶋神社が鎮座し、和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は田道間守が持ち帰った橘が初めて移植された地であると伝える』とある。

「腹切つて、死(しに)たり」遊仙思想に従うなら、仙界に行った者は現実世界を倦厭し、戻ることはしない。ここは忠義を建前として所謂、人体の死を以って仙人となる、最も下等な「尸解仙」と私は読む。]

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