伽婢子卷之五 和銅錢
伽婢子卷之五
○和銅錢
[やぶちゃん注:標題は「わどうのぜに」と読む。挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。]
京都四條の北、大宮の西に、いにしへ、淳和天皇の離宮ありける。こゝを「西院(さゐん)」と名づく。後に橘の大后(おほいさき)の宮すみ給へりといふ。時世移りて、宮殿は、皆、絕えて、わづかに名のみ殘り、今は農民の住家(すみか)となれり。
文明年中に長柄(ながら)の僧都昌快(しやうくわい)とて、學行(がくぎよう)すぐれたる僧あり。世を厭うて、西院の里に引籠り、草庵を結びて靜かに行はれしに、或日、怪しき人、尋ねて、入來〔いりきた〕る。
年五十ばかり、其姿、はなはだ世の常ならず、いたゞき、圓(まろ)くして、下に角(かど)ある帽子をかづき、直衣(なほし)の色、淺黃にて、其織りたる糸、細く、かろらかに薄き事、蟬のつばさに似たり。
みづから、「秩父和通(ちゝぶかずみち)」と名乘りて、僧都とさし向ひ、坐して、さまざま物語りす。
「我は、元、これ、武州秩父郡(ちゝぶのこほり)の者、中比〔なかごろ〕、都に上り、それより、本朝諸國の内、ゆかざる所もなく、見ざる所もなし。」
といふ。
僧都、心に思はれけるは、
『これ、まことの人にあらじ。』
と推し量りながら、しばしば問答して、時を移す。
眞言三部の祕經・兩界の曼茶羅・印明陀羅尼(いんみやうだらに)・灌頂(くわんちやう)の事までも、其深き理(ことわり)を陳ぶるに、僧都、未だ知らざる事、多し。
それより、世の移り行く有〔あり〕さま、昔今(むかし〔いま〕)の事、親(まの)あたり、見たるが如くに、語りけり。
僧都、問けるは、
「君の帽子は本朝の制法に似ず、外(ほか)、圓(まろ)くして、内、方(けた)なるは、何故ぞや。」
と。
和通(かずみち)答へけるは、
「凡そ天地萬物(ばんぶつ)のかたち、品々ありと雖も、つゞまる所は、圓き、方(けた)なる、二つの外、なし。我、外を圓(まど)かに、心を方(けた)にす。天のかたちは、圓(まろ)く、地のかたちは方也。圓きは、物のかたよらざる所、方(けた)なるは、物の正しき所也。されば我が道(たう)は萬物にかたよらずして、しかも萬物にはづれず、正しくして、曲(まがり)ゆがまず。これをあらはして、頭(かしら)に戴けり。」
といふ。
僧都の曰はく、
「君の直衣(なほし)は、はなはだ、かろく、細(ほそう)して薄し。是、いづれの國より織出(をり〔いだ〕)せる。」
と。
和通、答へけるは、
「是、『五銖(しゆ)の衣(きぬ)』と名付く。天上の衣〔え〕は『三銖』といへども、下天の衣は、皆、重き五銖・六銖なり。」
といふ。
僧都、
『さては。いよいよ、人間にあらず。』
と思ひて、重ねて問けるは、
「君、まことは、如何成る人ぞ。名乘り給へ。」
と云に、此人、打笑ひ、
「僧都の道心深きによりてこそ來りて物語はすれ、わが名を名乘るには及ばず。やがて、名乘らずとも知ろしめされむものを。今は日も暮がた也。いとま申さむ。」
とて、座を立〔たち〕て出〔いづ〕る。
其(その)行く跡を認(とめ)て見れば、庵〔いほり〕の東のかた、二十間[やぶちゃん注:三十六メートル強。]ばかりにして、竹藪の前にて、姿は見失へり。
明日(あくるひ)、里人を賴みて、其(その)所を掘らせらるゝに、三尺ばかり下に、一つの箱、あり。
其中に錢百文を得たり。
其外には何もなし。
僧都、是を取りて見るに、和銅通寶の古錢なり。
つらつら思うに、
「秩父和通は、此錢の精なる事、疑ひなし。」
とて、地を掘りける里人をよびて、僧都、物語せられけるやう、
「此人の形、初めより、恠しみ思へり。今、是を案ずるに、昔、本朝人王四十三代元明天皇の御宇、七月に武州秩父の郡より、初めて銅(あかゞね)を貢(たてまつ)る。其時の都は津の國灘波(なには)の宮におはしませり。是によりて慶雲五年を改めて、和銅元年と改元あり。此年、始めて貢りし銅をもつて、錢を鑄(い)させらる。されば、今、この和銅通寳の古錢は、其時の錢なるべし。帽子の外圓(まろ)く内方(けた)なるも、これ錢の狀(かたち)也。靑き色のひたゝれは、これ、銅(あかゞね)の衣(さび)ならん。五銖(しゆ)の重さは、錢の重さをあらはし、和通と名のりしは、和銅通寳の略せる名也。『秩父の者』と云ひしは、もと銅の出〔いで〕そめし所也。『それより、都に上り、諸國あまねく巡り見たる』といひけるも、錢となり、諸國につかひわたされし事なるべし。それ、錢のかたち、外、圓きは、天にかたどり、穴の方(けた)なるは、地にかたどり、表裏(おもてうら)は陰陽(いんやう)なり。文字の數(かず)四つは、四方にかたどり、其年號をあらはして、天下に賑(にぎ)はす寶(たから)とす。錢は、これ、足なくして、遠く走り、翅(つばさ)なくして、高く揚る。容曲(かほくせ)わろきも、錢に向へば、笑ひを含み、詞(ことば)少なき人も、錢をみては、口を開く。杜預(とよ)に「左傳」の癖(くせ)あり。樂天に詩の癖あり。樊光(はんくわう)は錢の癖ありいといへ共、錢の曲癖(くせ)は人每(ごと)にあり。鬼をしたがへ、兵(つはもの)をつかふも、みな、錢に過〔すぎ〕たる術(てだて)は、なし。欲深き者、錢を見ては、飢(うゑ)て食を求むるが如く、貪り多き人、錢を得ては、病人の、醫師(くすし)に逢ふに似たり。まことに、寶なり。」
とて、打笑ひ、かの百文の錢を分ち、里人に與へ、みづから、「眞言佗羅尼(しんごんだらに)」となへて、供養を、とげらる。
里人、それより、家々、賑はひ、ゆたかになりて、僧都を敬ひ、かしづきしが、後〔のち〕に、山名が亂に逢うて、里人、皆、ちりぢりになり、僧都も行くがたなく、古錢も皆、とり失なへり、といふ。
[やぶちゃん注:本篇は実は「柴田宵曲 續妖異博物館 金銀の精」の私の注で挿絵も入れて電子化しており(「新日本古典文学大系」版を恣意的に不全正字化したもの)、原拠を「太平廣記」の「寶六錢」の中の「博異志」を出典とする「岑文本」(しんぶんほん)で原文を示しめしてもあるので、読まれたい。原拠の梗概も柴田がコンパクトに纏めてある。無論、今回の電子化は底本が異なり、ゼロから校訂してある。
「京都四條の北、大宮の西」「平安京条坊図」を見ると、「大宮大路」は現在の「大宮通り」であるが、その西は大内裏(紫色)の東北の角の内側になるので、あり得ない。とすれば、その対称位置にある西の「西大宮大路」(大内裏西側側面。現在の御前通り)の西で、グーグル・マップ・データ(以下同じ)で示すと、この中央、「御前通り」とその西方の「西大路通り」、及び、北に東西に走る「一条通り」と南の「仁和寺街道」の範囲或いはその南北と西の外縁附近がロケーション候補地となろう。但し、「西院(さゐん)」(淳和天皇退位後の院名)という地名は現在も残るが、そこよりもずっと南に二キロメートル以上離れており、京都府京都市右京区西院(さいいん)西淳和院町及びその東の西院東淳和院町附近で、大内裏の南西外である。不審。次と次との注も参照。
「淳和天皇」(延暦五(七八六)年~承和七(八四〇)年/在位:八二三年~天長一〇(八三三)年)。三代前の桓武天皇の第七皇子。淳和院の別名が西院であることから西院帝(さいいんのみかど/さいのみかど)の異称がある。
「橘の大后(おほいさき)の宮」「新日本古典文学大系」版脚注には、『西院は淳和天皇皇后正子』(大同四(八一〇)年~元慶三(八七九)年)『が淳和天皇薨去後、出家した後の住い。「橘の太后」は』彼女の『母、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子』(たちばなのかちこ)『のこと』であるからおかしく、『事実の誤認があるか』とされる。
「今は農民の住家(すみか)となれり」右京地区は平安京が造営された当初から、全体が紙屋川と桂川の広大な氾濫原であって、水はけの悪い湿地が多く、利用することが困難な地質であったが、北西部を中心として部分的には宅地化されていた。しかし、早くも平安後期にはそれまでの宅地が次々と廃絶して、耕作地に変じ、全体としては田園地帯に市街地的な部分が島状又は帯状に点在しているだけであった。則ち、平安後期以降は永く農地であったのである。しかも以下で示されるように、話柄内時制は室町時代の、「応仁の乱」(応仁元(一四六七)年に発生し、文明九(一四七七)年に終息を見た)の約十一年間に亙った内乱で、右京のみでなく、京都全体が荒廃した直後、或いは、そこから漸く僅かに復興を始めたかという時期に設定されているのである。但し、「新日本古典文学大系」版脚注には、『西院村一帯は、洛中への蔬菜の供給地』であったとある。
「文明」一四六九年~一四八七年。室町幕府将軍は足利義政(文明六(一四七四)年退位)・足利義尚。
「長柄(ながら)の僧都昌快(しやうわい)」不詳。架空の人物のようである。
「直衣(なほし)」平安以降の天皇・皇太子・親王及び公家の平常服。 外見上は衣冠と殆んど同じであるが、「直(ただ)の衣」の意味から平常服とされ、色目や紋様も自由であった。「淺黃」「浅葱」。葱(ねぎ)(単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ネギ Allium fistulosum )の一種であるネギよりも色の淡い「浅葱(あさつき)」(ネギ属エゾネギ変種アサツキ Allium schoenoprasum var. foliosum )の葉の色。緑がかった薄い藍色、或いは、濃いめの水色。
「中比〔なかごろ〕」中年になってからのこと。
「眞言三部の祕經」真言三部経。真言宗で特に重要とされる三つの経典。「大日経」・「金剛頂経」・「蘇悉地(そしつじ)経」。大日三部経とも呼ぶ。
「兩界の曼茶羅」「曼荼羅」はサンスクリット語の漢音写。「本質・心髄・醍醐」を意味する「マンダ」と、過去受動分詞の完了で「所有」を表わす接尾辞「ラ」の合成語。を示すので、「本質を所有するもの」「本質を図解するもの」の意。幾つかあるが、ここは最も知られる両界(両部)曼荼羅で、「大日経」による「胎蔵界曼荼羅」と、「金剛頂経」による「金剛界曼荼羅」の二つを合わせて指す。真言密教の根本となる曼荼羅で、両者は不二平等であり、現象界の「理」を表す「胎蔵」を東とし、精神界の「智」を示す「金剛」を西として、合わせて密教的世界観の全容を表現してある。両界の諸仏諸法は、すべて大日如来の垂迹されたものとして「両界の垂迹」という語もある。
「印明陀羅尼(いんみやうだらに)」厳密には「印明」と「陀羅尼」で、「印明」は手に結ぶ印相と、口に唱える明呪(みょうじゅ)=真言を指す。真言密教で説く三密(仏の身体と言語と心によってなされる不可思議な秘密の「身」・「口」・「意」の働きの「三業(さんぎょう)」を指す。密教行者が手に契印を結ぶ「身密」、口に真言を唱える「口密(くみつ)」、そして心に本尊を観ずる「意密」と指す)の内の二つ。「陀羅尼」サンスクリット語の漢音写。「総持」又は「能持」と訳す。「よく種々の善法を固く保こと」、また、「種々の障りを遮ること」の意。具体的には、総てのことを心に記憶して忘れない能力や、それを得る技法、さらに修は行者を守護する力のある章句を指す。特に密教で一般に長文の梵語を訳さずに、原語のまま音写されたものを言う。術としての「陀羅尼」の形式が、呪文を唱えることに似ているところから、後に、呪文としての「真言」そのものと混同されるようになった。区別する際には、長文のものを「陀羅尼」、数句からなるものを「真言」、一字二字のものを「種字(しゅじ)」とするのが一般的である。本邦における「陀羅尼」は、形式的に見ると、原語の句を訳さずに漢字の音を写したまま読誦するが、中国を経て伝来したため、発音がかなり変化してしまい、また、意味自体も不明なものが多い(以上は小学館「日本国語大辞典」に拠った)。
「灌頂(くわんちやう)」「くわんぢやう(かんじょう)」とも濁る。「水を頭の頂きに注ぐ」の意。元来は、インドの王の即位・立太子に当たって、大海の水を注ぐ儀式のことを指した。それが仏教に取り入れられ、修行者である菩薩が最上の境地に入ろうとする際、諸仏が智水を菩薩の頭に注ぎ、最上の位に達したことを認めることを言うようになった。さらに密教では、弟子の頭頂に智水を注いで、仏の位を継承させることを示す秘儀となった。現在でも重要な儀式とされ、種々の分類と作法がある。「伝法 (阿闍梨・受職) 灌頂」は阿闍梨の位を得ようとする人に大日如来の秘法を授け、「弟子 (学法・受明) 灌頂」は密教の弟子になろうとする人に授け、「結縁(けちえん)灌頂」は一般の人々に仏縁を結ばせるために壇に入らせて簡単な作法で授けるものを言い、「印法灌頂」は伝法灌頂を行うには能力が不足している者のために諸作法を略したものを指し、「作業灌頂」は特定の道場で行うものを、「以心 (心授・瑜祇(ゆぎ)) 灌頂」は師と弟子が互いの心中で行うそれを指す(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「外(ほか)、圓(まろ)くして、内、方(けた)なる」最初の「いたゞき、圓(まろ)くして、下に角(かど)ある帽子」の方が判りがいい。帽子主体部分である頭を覆うところが円であり、その頭部の内側に折れ込む箇所が四角に変形しているのである。挿絵では絵師が描き込みにくいと考えたのであろう、左右の蟀谷(こめかみ)の辺りに銅銭の穴そっくりな四角い馬の遮眼革(ブリンカー:blinkers)みたようなものが描かれて、ご愛嬌という感じだ。
「方(けた)」「けだ」とも濁る。四角な形。方形。また、角張ったさまを言う語。
「我、外を圓(まど)かに、心を方(けた)にす。」「私は外界(世間)に対しては円満な態度で分け隔てなく均等に接し(後の「圓きは、物のかたよらざる所」に応ずる)、自身の心の在り方としては、規矩に則った規範的にして厳格な様態(後の「方(けた)なるは、物の正しき所也」に応ずる)を常に心掛けています。」。無論、円い形の方形の穴の開いた和同開珎(後に出る「和銅通寳」=和同開珎(かいちん))のシンボライズ。
「天のかたちは、圓(まろ)く、地のかたちは方也」天空は蒼穹にして円であり、その中に配される地には四方が存在し、その長さは同じであると認識されれば、それは広大な四角形であると観念されるであろう。球体である天(宇宙)の中に安定して定置される地の形は「方形」に若くはあるまい。
「銖(しゆ)」中国古代の質量単位の一つ。唐代より前の中国では、一石=四鈞・一鈞=三〇斤・一斤=十六両・一両=二十四銖という体系を使っていた。漢代の一斤を二百二十六・六七グラムと仮定すると、銖は約〇・五九グラムに相当する(当該ウィキに拠った)。これに従えば、ここに出る「五銖」は二・九五グラム、「六銖」は三・五四グラム、「三銖」は一・七七グラムとなる(この数字「五銖」「六銖」は原拠「岑文本」に出る)。但し、同ウィキに、『唐代以降は質量の単位はおおむね十進化し、中国でも日本でも「銖」は使われていない。日本の江戸時代の貨幣体系でも「銖」に由来する「朱」を使っているが、こちらは』一両の十六分の一と『なっている』とある。当時の読者が、以上のような換算が出来るとは思われないから、これで換算してみると、江戸の一両は約四十一グラムから四十二グラムであったから、中をとって四十一・五で計算すると、「一銖」は二・五九グラムとなり、「五銖」は十二・五九グラム、「六銖」は十五・五四グラム、「三銖」は七・七七グラムと俄然、重くなる。後で「五銖」は「錢のおもさをあらは」すと出るが、後注するここに出る「和同開珎」の重さは三・七三グラムであったことを考えると、「五銖」は中国の二・九五グラムよりやや重いものの、現実的だが、江戸時代の読者感覚の十二・五九グラムでは四倍近くなって重過ぎる。当時の読者にはそれぐらいの重みがないと、話の重みが出てこないとは言えるか。しかし、原拠の「五銖」は「新日本古典文学大系」版脚注によると、『五銖銭は漢の武帝の時の銭』とある。これは紀元前一一八年に武帝により初鋳造されたもので、量目(質量)が当時の度量衡できっかり五銖であり、また表面に「五銖」の文字を鋳出した円形に四角の穴を開け、その右と左に「五銖」とあることから、「五銖銭」と呼ばれるのである。この銭、驚くべきことに前漢以降、隋(五八一年~六一八年)まで鋳造され続け、初唐の六二一年に廃止されるまで流通した、中国史上、最も長期(七百三十六年間)に亙って流通した貨幣としえも知られるものであり、「五銖」は日本人には全く馴染みがないのに対して、中国人には頗る附きでポピュラーな古銭にして、恐ろしく息の長かった、ある種、「歴史の重さ」を担った軽い銅貨だったのである。
「下天」(げてん)は衆生が生死流転する六道の内の最上部にある三善道の天上道の中でも、最も劣っている天界を指す。
「和銅通寶」「和同開珎」のこと。日本古代の貨幣で、富本銭(ふほんせん)に続いて製作された通貨。平城京の造営を開始した和銅元(七〇八)年の五月に銀銭を、同 八月には銅銭の鋳造を開始した(「続日本紀」の同年五月十一日及び八月十日の条に載る)。「和同」は年号か吉祥語かの論争があったが、年号を意識して発音が通じる吉祥語(和同)が選ばれた可能性が高い。「開珎」の読みは「かいちん」か「かいほう」かの論争もあったが、これは「珎」を「珍」の略字とみるか、「寶(宝)」の略字とみるかの違いである。孰れも「珍宝」の一字であり、意味に大差はない。奈良時代の文字の用法の研究が進んだ結果、現在は「かいちん」説が有力となっている。なお、銀銭の方は和銅二(七〇九)年八月に廃止された。日本の古代銭貨は「鋳銭司」(ちゅせんし)という役所が担当したが、このような仕組みは、「和同開珎」の鋳造開始とともに整えられたものであり、鋳銭司が最初に置かれた場所は河内(大阪府)であり、近江国・播磨国、また大宰府など、鋳銅技術を持つ地方の官司も鋳銭に協力した可能性が高い。また、鋳銭を監督・督促する機関として「催鋳銭司」が置かれた。その後、鋳銭司の規模や場所は変化し、長門・周防など、他の鋳銭司も知られている。遺跡としては、山口県山口市鋳銭司・陶(すえ)で周防鋳銭司遺跡が、京都府加茂町で加茂銭司遺跡が発掘調査された。「和同開珎」の鋳造開始時に、このような国家的な仕組みが整えられただけでなく、その流通を盛んとするため、労役の支払いに使用したり、「蓄銭叙位令」(和銅四(七一一)年十月施行。蓄銭の額によって位階を昇叙し、貨幣の流通を図ろうとした法令。しかし、これによって、却って地方の有力者に銭貨が死蔵される結果となり、結局、延暦一九(八〇〇)年に廃止された)を定めたりするなど、多くの政策が実施された。また和同開珎は、発掘例が多いことが一つの特色である。それらは宗教的な使用も少なくないが、流通貨幣としても評価されるものであり、日本の古代貨幣史に於いて大きな役割を果たしたと考えられている(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。また、ウィキの「和同開珎」によれば、直径二・四センチメートル前後の円形で、中央には一辺が約七ミリメートルの『正方形の穴が開いている円形方孔の形式である。表面には』十二時位置から『時計回りに』「和」「同」「開」「珎」と『表記されている。裏は無紋である。形式は』推古天皇二九(六二一)年に『発行された唐の開元通宝を模したもので、書体も同じである。律令政府が定めた通貨単位である』一『文として通用した。当初は』一『文で米』二キログラム『が買えたと言われ、また新成人』一『日分の労働力に相当したとされる』。ここにある通り、『現在の埼玉県秩父市黒谷にある和銅遺跡』(ここ)『から、和銅(にきあかがね』:『純度が高く精錬を必要としない自然銅)が産出した事を記念して、「和銅」に改元するとともに、和同開珎が作られたとされる。ただし、銅の産出が祥瑞とされた事例はこの時のみであり、そもそも和同開珎発行はその数年前から計画されており、和銅発見は貨幣発行の口実に過ぎなかったとする考え方もあ』り、また、『唐に倣う目的もあった』とある。
「四十三代元明天皇」(斉明天皇七(六六一)年~養老五(七二一)年/在位:慶雲四(七〇七)年~和銅八(七一五)年)は女帝。諱は阿閇(あへ)。阿部皇女とも呼ばれる。天智天皇第四皇女。藤原京から平城京へ遷都、「風土記」編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた「古事記」を完成させ、「和同開珎」の鋳造などを行った。
「七月に武州秩父の郡より、初めて銅(あかゞね)を貢(たてまつ)る」「是によりて慶雲五年を改めて、和銅元年と改元あり」「新日本古典文学大系」版脚注に、『正しくは和銅元年(七〇八)正月に献上。「和銅元年春正月乙巳、武蔵国秩父郡、和銅を献る…故、慶雲五年を改めて和銅元年として、御世の年号として定め賜ふ(続日本紀四)』とある。
「其時の都は津の國灘波(なには)の宮におはしませり」現在の藤原京のこと。飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城で、当初、天武天皇五(六七六)年に天武天皇が「新城(にいき)」の選定に着手したのが端緒と目され、一旦、頓挫したが、持統天皇四(六九〇)年に再開され、その四年後の六九四年に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや・あすかきよみがはらのみや)から宮を遷して成立した。平城京に遷都(和銅三(七一〇年)三月)されるまでの日本の首都であり、日本史上、最初の条坊制を布いた本格的唐風都城であった。参照した当該ウィキによれば、「日本書紀」などの『正史には「新たに増した京」という意味の』「新益京」『(あらましのみやこ、あらましきょう、しんやくのみやこ、しんやくきょう)などの名で表記されている』。「藤原京」という名は、大正二(一九一三)年に、ここにあった都の『研究の先駆となった喜田貞吉』の論文「藤原京考證」(雑誌『歴史地理』所収)『において使った仮称が、その後の論文などで多用され』、『定着したもので』、『当時の皇居が』「日本書紀」の中で「藤原宮」と『呼ばれていることから』、「飛鳥京」と『同様に名づけられた学術用語である』とある。
「ひたゝれ」「直垂」。既出既注。
「衣(さび)」「錆(さび)」。銅が酸化した緑青(ろくしょう)。
「容曲(かほくせ)わろきも」不愛想で不機嫌な感じの顔つきの人も。
『杜預(とよ)に「左傳」の癖(くせ)あり』三国から西晋の政治家・武将にして学者でもあった杜預(二二二年~二八四年)。魏と西晋に仕えた。呉征討の策士として知られる一方、「春秋左氏伝」の研究家としても有名である。当該ウィキによれば、『杜預は種々の経典を広く修め、特に』「春秋」の「左氏伝」を『好んだ。彼は、馬の目利きに優れた王済と蓄財を好んだ和嶠』(わきょう)『を評して「済に馬癖有り、嶠に銭癖有り」と言っていたが、武帝から「そなたには何癖があるのだ」と尋ねられ、「臣には左伝癖有り」と答えたとの逸話が残る』。「春秋」の三伝の内、「春秋左氏伝」は『充分に著者左丘明の考えを究めておらず、また』、「春秋公羊伝」と「春秋穀梁伝」に至っては『詭弁によって解釈を混乱させていると考えた。そこで』、「春秋」の『微言を交錯させながら』、「春秋経伝集解」を『書き著した。また、諸家の説を参酌考察し、それを『釈例』と名づけた。そして』、「盟会図」と「春秋長暦」を『書き、独自の』「春秋左氏伝」研究を創出した。「春秋」の『注釈で、君主を弑』(しい)した『実行犯の名前が記録されていない場合は』、『君主が悪く、実行犯が記されていれば』、『実行犯である家臣が悪いという説を唱えた。臣下が悪くない事例では、実行犯の名前を記録しなかったという解釈である。また、無道の君主は殺害してもよいということでもあり、渡邉義浩は』、義兄『司馬昭』が主君であった晋の皇帝『曹髦』(そうぼう)を殺害したことを『正当化するための学説だったと推測している』。『なお、彼の字』(あざな)の『「元凱」とは』、「左氏伝」の『文公十八年の条にある顓頊』(せんぎょく)『の八人の王子(八元)と帝嚳の八人の王子(八凱)に由来する』とある。
「樊光(はんくわう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『宋代の役人』とする。守銭奴として知られた人物らしいが、よく判らない。
「供養を、とげらる」銭の霊(変化(へんげ))を供養したのである。所謂、「付喪神」(つくもがみ)である。本邦で、長い年月を経た道具や無生物などに何らかの霊魂が宿ったもので、人を誑(たぶた)かすとされた古形の妖怪変化である。銭の場合、特にそれに対する人間の執着の集中が起こるから、それらのエネルギが蓄積・濃縮されるから、付喪神化するのは腑に落ちる。但し、ここでの変化(へんげ)はすこぶる哲人然としていたが。
「山名が亂」山名(宗全)持豊(もちとよ 応永一一(一四〇四)年~文明五(一四七三)年)。「宗全」は出家後の法号。山名時煕(ときひろ)の子で「嘉吉(かきつ)の乱」に於いて播磨白旗城に赤松満祐(みつすけ)を討って「明徳の乱」で失った領地を回復、一族で九ヶ国を領した。管領であった斯波(しば)・畠山家の相続問題に介入、足利将軍家後継問題では、義政の妻日野富子に頼られて、義尚を擁立、義視を支持する細川勝元と対立して「応仁の乱」が勃発、彼は西軍の陣中に於いて病没している。但し、本篇の時代設定は「応仁の乱」の終息以後と催促されるから、ちょっとおかしい。「新日本古典文学大系」版脚注でも、『本話の時代設定と多少齟齬する』と述べられており、また、『持豊の子政豊が文明末から赤松氏』(赤松政則)『と戦闘に入るが、戦場が主に京都外』(山陰)『であり、相応しない』とある。]
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