大和本草附錄巻之二 介類 島村蟹 (ヘイケガニ(類))
島村蟹ハ 鬼蟹也。享祿四年備前ノ浦上掃部助村
雲。細川右京太夫晴元ト於攝津合戰シ於尼崎
打負自殺浦上ガ臣島村彈正左衞門貴則敵ノ強
兵兩人ヲ左右ノ脇ニハサミ水ニ入テ共ニ死ス尼崎ノア
タリ野里川ト云所ナリ其靈蟹ト成シトテ島村蟹ト
云怒レル人面ノゴトシ一說細川高國カ臣ト云ハ誤ナリ
ト云此蟹ハモロコシノ書ニノセタリ鬼蟹ト云然ルヲ近
世ノ俗人アヤマリテ人ノ靈魂トス鬼蟹ハ昔ヨリアリ
蠏ノ面鬼ノ如シ
○やぶちゃんの書き下し文
島村蟹(しまむらがに)は、鬼蟹〔(おにがに)〕なり。享祿四年、備前の浦上掃部助〔(かもんのすけ)〕村雲、細川右京太夫晴元と攝津に於いて合戰し、尼崎に於いて打ち負け、自殺す。浦上が臣、島村彈正〔(だんじやう)〕左衞門貴則、敵の強兵〔(つはもの)〕兩人を、左右の脇にはさみ、水に入りて、共に死す。尼崎のあたり、野里川(のさとかは)と云ふ所なり。「其の靈、蟹(かに)と成〔(なり)〕し」とて、「島村蟹」と云ふ。怒れる人面のごとし。「一說に細川高國が臣と云ふは誤〔(あやまり)〕なり」と云ふ。此の蟹は、もろこしの書にのせたり。「鬼蟹〔(きかい)〕」と云ふ。然るを、近世の俗人、あやまりて、「人の靈魂」とす。鬼蟹は、昔より、あり。蠏〔(かに)〕の面〔(おもて)〕、鬼のごとし。
[やぶちゃん注:言わずもがな、
甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ上科ヘイケガニ科ヘイケガニ Heikeopsis japonica
及び同科の近縁種
の摂津(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)での異名の一つ。甲羅の筋肉に繋がる位置に明白な溝があって、内臓及び体節の各区域を明瞭に仕切っており、それらの甲羅の凹凸を外部上方から見た時、本科の場合、吊りあがった両目(左右鰓域の前部)・団子鼻(心臓域)・固く結んだ口(甲の後縁)といった「人の怒った表情」に容易にシミュラクラ(simulacra)して見えるからであるが、ヘイケガニ科 Dorippidae の類(一昔前よりかなり分類が変わった)に特に顕著ではある。但し、言っておくと、生体の殆んどは後脚(第三・四歩脚)二対で貝殻や甲殻類の殻その他人工廃棄物等を背負っており、水中では「鬼面」を隠していることもあまり知られていないので言い添えておく。本邦では、ヘイケガニ科(五属十二種(世界では約四十種))では、
サメハダヘイケガニ属サメハダヘイケガニ Paradorippe granulata
キメンガニ属キメンガニ Dorippe sinica
マルミヘイケガニ属マルミヘイケガニ Ethusa sexdentata
同属イズヘイケガニ Ethusa izuensis
同属カクヘイケガニ Ethusa quadrata
がよく知られる。但し、近年、マルミヘイケガニ属はヘイケガニ上科 Ethusidae 科マルミヘイケガニ亜科Ethusinae に分類変更が行われているらしい(御用達の「BISMaL」が稼働していないので正式な確認が出来ないが、検索のプレビューで判った)。また、後の一属はシンカイヘイケガニ属 Ethusina で一般人には馴染みが薄い(属名からこれもヘイケガニ上科 Ethusidae 科マルミヘイケガニ亜科でなくてはおかしい)。「生物學講話 丘淺次郎 第六章 詐欺 四 忍びの術(3)」の注で上記各種は簡単に注してある。
益軒は本巻でも、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 鬼蟹(ヘイケガニ属他)」を記しており、そこで『攝州にて「シマムラガニ」』と出しており、博物誌的には「何でまた出すかなぁ?」っていう感じはする。結構、鬼面の蟹が、益軒先生、フォルム上、民俗伝承上、はなはだお好きだったものと思われる。因みに、ヘイケガニは食用にならない。奇食を好んでする連中がネットにはゴマンといるのに、食ったという記事が見当たらない。鬼面の呪いが怖いってか? 漁師の話として、食べられるが、味噌汁のダシもとれない、という又聞きは見つけた。
さてもこの益軒の記載は実は既にその一部が、私の図附き電子化注『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』に引用されており、そちらで頗る附きで注を附してあるので、自身で屋上屋を作る気がしない。「諸國里人談卷之五 武文蟹【島村蟹・平家蟹】」もありまっせ。
「享祿四年」一五三一年。室町幕府将軍は第十二代足利義晴。
「備前の浦上掃部助〔(かもんのすけ)〕村雲」戦国時代の武将で播磨国守護代で備前国・美作国・播磨国に君臨した戦国大名浦上村宗(うらがみむらむね ?~享禄四(一五三一)年)の誤字。何かの書写物から読み取る際に「宗」の崩しを「雲」と誤ったようである。則景(則宗の子)の猶子。大永元(一五二一)年七月に第三十一代室町幕府管領細川高国(文明一六(一四八四)年~享禄四年:摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。細川氏一門野州家の細川政春の子に生まれ、細川氏嫡流(京兆家)当主で管領の細川政元の養子となった。養父政元が暗殺された後の混乱を経て、同じく政元の養子であった阿波守護家出身の細川澄元を排除、京兆家の家督を手中にしていた)から播磨守護赤松義村の許にあった故足利義澄の子義晴の擁立を諮られ、義村を欺いて義晴を奉じ、高国のもとへ上洛した。次いで同年八月には義村を播磨国室津に幽閉して自殺させた。翌二年九月、同族の浦上村国が義村の子政村を奉じ、播磨に入国したため、これと合戦を起した。しかし同年十一月、この内紛に乗じ、但馬守護山名誠豊(のぶとよ)が播磨に入国すると、村国と和睦、誠豊を破った。享禄三(一五三〇)年六月、高国に反して畿内各所で合戦を続けていた播磨の鎮圧に派遣されていた晴元派の重鎮柳本賢治(かたはる)を播磨国東条にて殺害し、翌七月には別所就治(なりはる)の属城小寺・三木・有田の諸城を攻めて、これを破った。八月、細川晴元の部将高畠甚九郎が伊丹城に、池田久宗が池田城に、薬師寺国盛が富松城に拠ると、高国の求めに応じ、摂津国神呪寺に陣取った。九月には高国とともに富松城を落とし、国盛は摂津大物(だいもつ)城に移った。翌四年、摂津国中島に陣した高国・村宗勢は晴元・三好元長勢と大合戦に及び、敗れて天王寺に退き、さらに尼崎へ敗走したが、高国は捕らえられて自害、村宗は戦死した。所謂、「大物崩れ」である。つい最近、「伽婢子卷之四 一睡卅年の夢」で注したばかりので、そちらも参照されたい。「細川右京太夫晴元」などは、もう、注しない。当該ウィキのリンクで勘弁してくれい。
「浦上が臣、島村彈正左衞門貴則」島村貴則(?~享禄四(一五三一)年)は戦国大名。室町幕府管領細川高国の家臣。摂津尼崎で細川晴元方(がた)の三好元長らに敗れ、ここに記されたように、敵兵二人を抱えて海中に身を投じて自死した。後、この近辺で獲れるヘイケガニ類(基本的にはタイプ種のそれととってよい。ヘイケガニというと、平家の怨霊の変化として、どうも棲息が壇の浦周辺の限定地域として考えられてしまっている傾向が頗る強が、本邦では、確かに瀬戸内海・有明海に多産するものの(ちゃんとした記載でも数多くがこの二地域にのみ棲息するかのように書いてあるのは、明らかに誤りである)、北海道南部から東京湾・相模湾・紀伊半島・瀬戸内海・有明海、朝鮮半島・中国北部・ベトナムまで、東アジア沿岸域に広く分布し、水深十~三十メートル程度の、貝殻が多い砂泥底に棲息しており、デトリタス食である)を「島村蟹」と呼ぶようになったという。弾正は通称。
「尼崎のあたり、野里川(のさとかは)と云ふ所なり」これは誤りで、尼崎ではなく、大坂の現在の淀川の左岸にあった支流か分流である。消滅したその名残が判る「今昔マップ」の当該地をリンクしておいた。現在の淀川(旧地図では「新淀川」とある)の左岸の、封じられて、片方が新淀川に開いた不全な三日月湖のようなその岸辺に「野里」の地名が認められ、現行も地名の「野里」は残っている。
「細川高國が臣と云ふは誤なり」その通りです。
『此の蟹は、もろこしの書にのせたり。「鬼蟹〔(きかい)〕」と云ふ』北宋の傅肱(ふこう)の著した「蟹譜」の中に「恠狀」があり、そこに「呉沈氏子食蟹、得背殻若鬼狀者、眉目口鼻分布明白、常寶玩之」と出る。分布は前注の下線を参照。]
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