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2021/05/24

芥川龍之介書簡抄69 / 大正六(一九一七)年書簡より(一) 四通(漱石未亡人鏡子宛・井川宛・塚本文宛・松岡譲宛)

 

大正六(一九一七)年二月八日・鎌倉発信・夏目鏡子宛

 

奧さん

久米や松岡が泊りに行つたり何かしてゐるのに僕獨り安閑と鎌倉にゐるのは何だかすまないやうな氣がしますからこの手紙を書きます

先達は明暗や寫眞を難有うございました確に久米から頂きましたこなひだも東京へかへりましたが原稿の〆切を控へてきゆうきゆう云つてゐたので上れませんでした今でもきゆうきゆう云つてゐますさうして時時先生の事を思ひ出します

今までよく皆に惡く云はれた小說で先生にだけほめて頂いたのがありますさう云ふ時には誰がどんな惡口を云つても平氣でした先生にさへ褒められればいいと思ひました小說を書いてゐると何よりもこの事を思ひ出します鎌倉にゐると淋しいので閉口します學校も格別面白くはありません時々まちがつた事を敎へて生徒につつこまれます生徒は皆勇猛な奴ばかりであらゆる惡德は堂々とやりさへすれば何時でも善になるかの如き信念を持つてゐます(事によるとこの信念は軍人の間に共通な信念かもしれません)だから私のあげ足をとるのでも私を凹ます[やぶちゃん注:「へこます」。]のでも堂々とやつつけられますこんどの九日會は金曜になりますから出られないでせう土曜日は朝授業がありますから

奧さんは松岡の書いた御連枝と云ふ小說をよみましたか暇があつたらよんで下さい傑作ですから

それから久米の鐡拳制裁なるものも彼の道樂記念として讀んで下さい

今飯を食つたばかりです腹が苦しい程はつてゐますさうしてこれを書いてゐると自然に健啖な奧さんの事が思ひ出されます 以上

    二月八日       芥川龍之介

   夏目鏡子樣

 

[やぶちゃん注:「夏目鏡子」(明治一〇(一八七七)年~昭和三八(一九六三)年)は本名キヨ。夏目漱石の妻で、貴族院書記官長中根重一の長女。漱石とは見合い結婚(明治二九(一八九六)年)。未亡人(漱石は大正五(一九一六)年十二月九日没)となって二ヶ月目。月命日を意識した書信である。

「明暗」既に注で述べた通り、連載途中(脱稿ストック分があったため、十二月十四日まで連載は続いた)で亡くなったために未完となった小説「明暗」は、逸早く、岩波書店がこの大正六年一月二十六日に『明暗 漱石遺著』と名打って刊行された。それが鏡子夫人より贈られたのである。

「こなひだも東京へかへりましたが原稿の〆切を控へてきゆうきゆう云つてゐたので上れませんでした」とあるが、この「原稿」というのは、どうも噓の口実としか思われない。龍之介は当然のことと思うが、この年の元旦は田端で新年を迎えているし、海軍機関学校の始業式は一月十日(水)であるが、龍之介は週末の土曜の午後に田端に帰り、月曜の出勤は田端からで、月曜に鎌倉に戻るという生活をしていたものと推定されているから、この一月には、機械的に見ると、元日から数えても九日の午前(午後に鎌倉に戻っている)までの九日間、田端にいたし、その後も、一月十三日・二十日・二十七日及び二月三日(全て土曜)の四回、田端へ帰っている可能性があることになるのである。そうして、この一月と二月の頭こそが理屈の上では「こなひだ」に相当する期間となるのである。しかも、著作年表を見ても、この一月に脱稿しなければならなかった原稿はなかったし、実際にそれらしい発表作もないのである。近いものでは、この書簡の後の「忠義」が二月十四日脱稿(三月一日発行の雑誌『黒潮』掲載)、「貉」が同月二十四日であり(三月十一日発行『読売新聞』掲載)、当然の如く、ここに書かれた「原稿」とはならないと私は思う。石割氏はここに注して「忠義」がそれとされているのだが、六日も先に脱稿するものが、「こなひだ」という有意にこの二月七日よりも前の「こなひだ」と表現するような有意な以前に締切があったなどというのは、私には、到底、信じられないのである。だから、私は無沙汰を言い訳するための狡猾な嘘だと私は言うのである。後の夏目筆子の結婚に纏わる事件で判る通り、未亡人鏡子は芥川龍之介に好感を抱いていたと推察する。しかし、精神的に問題がある漱石と対等に渡り合う気概を有していた、ちょいと女傑みたような鏡子は、龍之介からは、ちょっと苦手なタイプの女性であったに違いないと強く感じるのである。されば、作家の妻ならば、無条件で納得するに違いない「〆切」を持ち出してうまくかわしたのだと私は思うのである。

「松岡の書いた御連枝と云ふ小說」石割氏の注に『松岡譲が『大学評論』二月号に発表した小説』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの松岡譲の作品集「地獄の門」(大正一一(一九二二)年玄文社出版部刊)のここから視認出来る。

「久米の鐡拳制裁」同前で『久米正雄が『黒潮』二月号に発表した小説』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの久米正雄の作品集「学生時代」(大正七(一九一八)年新潮社刊)のここから視認出来る。]

 

 

大正六(一九一七)年二月九日・消印十六日・鎌倉発信・京都市外下鴨村八田方裏 井川恭樣・二月九日 かまくら海岸通野間方 芥川龍之介

 

君はどうしてゐる

ボクは相不變本職と副職との間にはさまつてきゆうきゆう云つてゐる 雅子さんも御變りなからうね 正月に牛込の方へ賀狀を上げたいと思つたが宿所がわからないので見合せた

その中に少し長いものを書きたいと思つてゐるがまだまとまらない

菅さんと時々書談をやる 菅さんの子供とは親友になつた 皆お母さんのないせいか人懷しい

鎌倉はいいね ここで永住してもいいとだんだん思ひ出した 宗演のゐる寺なんか至極閑寂だ 疎梅 修竹 淸流 淺沙 苔石 蕭寺 佛塔と云ふやうな漢詩の小道具が鎌倉にはみんな揃つてゐる

この頃原の所で繪をみて以來大に日本人を尊敬し出した 昔の日本人は大分えらい 天平期の奴はその中でも殊にえらい あの時分の數名の兩家にくらべると雪舟さへ小さくなる 古画と一しよに雅邦觀山を見たらまるで見られなかつた

ボクはこの頃十七字をヒネクル癖がついた

   日曆の紙赤き支那水仙よ

   中華有名樓の梅花の蘂黃なり

   柚の實明るき古寫本を買ひし

     學校所見

   霜どけにあり哨兵と龍舌蘭と

   炊事場の飯の香に笹鳴ける聞きしか

    二月九日夜          龍

   井 川 恭 樣

  二伸 君はウラと云ふ字をしらないから敎へてあげる 裏 笑つちやいけない

 

[やぶちゃん注:「書談」書道談義。

「菅さんの子供」後の小説家で、『文藝春秋』編集長ともなった菅忠雄(明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)。当該ウィキによれば、『学問の道を勧める父に従い、上智大学文科予科でドイツ語を学んだが、中学時代の家庭教師であった芥川龍之介の影響などで文学に関心を寄せており、小説家を志して中退した』。大正一〇(一九二一)年、『大佛次郎らと同人誌『潜在』を発行』、『後に父の紹介で菊池寛や久米正雄』らと知り合い、二『人の斡旋により』、大正十三年に『文藝春秋社の客員として編集に携わった』。同年には『川端康成らと文芸雑誌『文藝時代』を創刊』、『後に雑誌『文藝春秋』の編集長も務めた』。『小説家としても、いくつかの短編小説を発表し』、昭和五(一九三〇)年には「新進傑作小説全集」第十三巻として「関口次郎集・菅忠雄集」が『出版されるなど、名の通る存在となっていた』が、肺結核のため、満四十三歳で亡くなった。

「宗演」釈宗演(安政六(一八六〇)年~大正八(一九一九)年)は臨済僧。若狭国大飯郡高浜村生まれ。出家前の姓名は一瀬常次郎。日本人の僧として初めて「禪」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師としてよく知られている。円覚寺派管長職・建長寺派管長を務めた後、東慶寺住職となった。夏目漱石は彼の弟子で葬儀の導師も彼が行い、戒名「文獻院古道漱石居士」も宗演の授与である。夏目漱石は明治二七(一八九四)年末から翌年にかけて円覚寺塔頭帰源院(入って直ぐ右手の高台にある)に止宿して宗演に参禪した。その体験が小説「門」に描かれ、「門」のコーダの門は円覚寺の山門である。現在、境内には漱石の句碑「佛性は白き桔梗にこそあらめ」が建つ。なお、私の祖父藪野種雄(昭和丘九(一九三四)年肺結核のために享年四十一で没した)は彼の高弟で禪の国際普及を彼から命ぜられた釈宗活に入門したことがある。藪野種雄遺稿「落葉籠」を参照されたい。因みに、藪野家の墓は円覚寺塔頭白雲庵にある。但し、私はそこには入らない。献体後、母のいる多磨霊園の慶応大学医学部合葬墓に入るからである。妻も私と母の同じ骨壺に入れて貰える。

「修竹」(しうちく(しゅうちく))長く伸びた竹。

「淺沙」「あさざ」と読んでいよう。浮葉性植物で地下茎を延ばして生長し、スイレンに似た切れ込みのある浮葉をつける、双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ属アサザ Nymphoides peltata のことである。たまたま最近電子化注した「大和本草卷之八 草之四 水草類 萍蓬草(あさざ) (アサザ)」を参照されたい。

「原」原善一郎。複数回既出既注

「雅邦」日本画家橋本雅邦(がほう 天保六(一八三五)年~明治四一(一九〇八)年)。当該ウィキを参照されたい。

「觀山」日本画家下村観山(明治六(一八七三)年~昭和五(一九三〇)年)。当該ウィキを参照されたい。

「笹鳴ける」は冬鶯の鳴き声のことを指す。

「君はウラと云ふ字をしらないから敎へてあげる 裏 笑つちやいけない」何か含みがあるようだが、よく判らない。しかし私は実は国語教師になってからも、長く「裹」という漢字は「裏」という漢字の異体字だと思っていた。序でに自白すると、同様に二十七になるまで、私は「崇」と「祟」をさえ区別していなかったのである。]

 

 

大正六(一九一七)年三月一日・鎌倉発信(推定)・塚本文宛

    戀歌十首

人戀ふと山路をゆけばはつはつに木の芽春風かよひ來(く)あはれ

はつはつにさける菜たねの花つめばわが思ふ子ははるかなるかも

はるかなる人を思へと白桃の砂にほのけく咲けるならじか

人とほし木の芽春日(はるび)にうつつなくわが戀ひ居るはかなしきものか

かぎろひの夕さりくれば春もどきめぐしかる子の面輪(おもわ)しぬばゆ

山のべの白玉椿葉がくりに我(し)が人戀ふる白玉椿

めぐし子のほとりゆ吹けばひんがしの風はも春をつたふとすらむ

  圓覺禪寺

篁(たかむら)にまじれる梅の漢(から)めきてにほふにも猶人をこそ思ヘ

息(き)の緖(を)に人戀ひ居れば風をあらみ沖津潮騷(しほざゐ)とほ白らむ見ゆ

日のまひる入江の水のまかがよふ心にも似て人をこそ戀ふれ

二伸 こないだのあれは僕の原稿料で拵へたのです 金にすれば僅なものですが その金は僕が文字通り「額に汗して」とつたのです 勿體をつけるやうでおかしいかも知れませんがさう思つて 貧弱なのを我慢して下さい

あの鹿な子[やぶちゃん注:「な」はママ。]の狀袋はきれいですね さうしてういういしくつてよろしい僕のゐる所は本と原稿用紙ばかりですから餘計あれがきれいに見えました

又あれへ入れた手紙を下さい 以上

  三月一日         龍 之 介

 塚本文子樣

 

[やぶちゃん注:前の短歌パートは全体が三字下げで、「二伸」以下の全体が二字下げだが、全部引き上げた。追伸本文まで下げてあるのは特異点である。

「はつはつに」形容動詞で「ある事柄・事態がかすかに現われるさま・ちょっと行なわれるさま」。副詞的にも用い、ここもそれで「ほんのちらっと」の意。「はつかなり」と同語源。

「木の芽春風」「木の芽春日に」「春」は孰れも「張る」を掛けてある。

「かぎろひの」筑摩全集類聚版脚注に、『春にかかる枕詞だが、ここは「かげろふ」の意か。或いは夕にかかる枕』詞『と誤認したものか』とあるが、私はもっと素直に動詞「かげろふ」の連用形の名詞化したもので、夕暮れがやって来て、「暗くなること・陰になった部分が多くなること」の意であろうと思う。

「春もどき」筑摩全集類聚版脚注に、『「春らしく」「春に似て」の意か。不正確な語法』とある。前の「かぎろひの」とともに、何となく変な感じがする。これは或いは、私は、

かぎろひの夕さりくれば春めどきめぐしかる子の面輪しぬばゆ

の誤りで、「かぎろひの」はやはり「春」の枕詞であって、掟破りに「夕さりくれば」を挟んで「春芽時」の「春」に掛かり、「春」の「芽」が吹き萌え出すこのかぎろった宵を描出しておいて、同時に「芽時(めどき)」から「愛(めぐ)しかる」という語を引き出すというアクロバティクな一首なのではなかろうか? 正直、「もどき」というのは、まことに厭な響きで、私には、いっかな、耐えられぬからなのである。

「篁(たかむら)」竹叢(たけむら)のこと。

「息(き)の緖(を)に」命懸けで。

「鹿な子」鹿子(かのこ)模様に漉いた封筒なのであろう。]

 

 

大正六(一九一七)年三月十五日・鎌倉発信・松岡讓宛(葉書)

 

  深夜の愚癡

小說をわが書きをへずまゐりゐる夜半をはるかに鷄もこそ啼け

中央公論はじまりしよりの駄作にもなりなむとする小說あはれ

手も腰も痛くなりたる苦しさにつところぶせば夜半をなくか鷄

ぼんやりとしたる頭をもちあぐみ聞き入りにけり夜半のくだかけ

今にして思へば久米の「嫌疑」はも傑作なるかなとかこちぞわがする

 

[やぶちゃん注:一首目と二首目の「小說」は『中央公論』四月一日と七月一日に分割された「偸盗」を指す。前にも注したが、満を持した意欲作であったが、書き悩んで、筆が進まず、しかもこの書簡の直後の三月末には、インフルエンザに罹患して発熱、機関学校も一週間ほど休むなどして(田端に帰った)、甚だ行き詰まってしまう。分割もそうした結果であったが、七月分でも完結しなかった。既に述べた通り、「偸盗」の続編への意欲は十分にあったのだが、遂に未完のまま捨てられてしまった。本当に惜しい作品である。

『久米の「嫌疑」』石割氏注に、『久米正雄が『中央公論』』のこの年の『二月号に発表した小説』とある。先と同じく国立国会図書館デジタルコレクションの作品集「学生時代」のこちらから視認出来る。]

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