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2021/05/14

芥川龍之介書簡抄56 / 大正五(一九一六)年書簡より(三) 井川恭宛夢記述と塚本文をつた「わが幼妻」と呼ぶ短歌一首・山本喜与司宛塚本文への切ない恋情告白・井川宛短歌十首

 

大正五(一九一六)年五月二日(年次推定)・田端発信・井川恭宛(転載)

 

ゆうべ出雲へ行つた夢をみた何でも京都へ行つた所が急に出雲へ散步にゆく氣になつて山の中をどんく步いてゆくと大きな堀割のある所へ出たそばに木のたくさんはへた黑塀の邸がある堀割には船がつないであるそれから堀割の岸に大きな石のロオルがあつた ははあ城見畷だなと思つてのこのこその往來をあるいてゆくと狹い通りへ出た魚屋や何かがごちやくならんでゐる さうしてその家のうしろに河が見える 何でもあの川すぢの並家にハアン先生がゐたつけと思ひながら小さな路次を川岸へ出ると平な船が一つあつて中に大ぜいの人がのつてゐる中に君もゐた 茶の鳥打帽子をかぶつて大へんのんきさうな顏をしてゐる やあとか何とか云つて一しよにその船へのつた 何でも渡し舟らしい 舟は川を遡るやうだつたがやがて柳がごちやごちやはへてゐる所へ出た「停車場へゆくんならここで上り給へ」と君が云ふ「うんぢやあここで上らう」と僕が答へた それから僕一人岸へ上つて「今夜九時の汽車で京都へかへらう 十時にはつく」と思ひながら田んぼのやうな所を二三町ゆくと君のうちの前へ出た 序でだから格子戶をあけて「ごめん下さい」と云ふと君のおかあさんが出て來られた いつのまにか夜になつたと見えてランプがついて寬ちやんや何かが御飯をたべてゐるらしい すると 眼がさめた 何だかくだらなすぎるので獨りで笑つたが 一寸面白いとも思つたからかいて見る

論文はやつてしまつた 及第は出來るだらうと思ふが出來は甚よくない

新思潮を送る 先月號も落手した事と思ふ

何しろ早く卒業しなくつちやあいけない 學校は退屈すぎる

いつもは新綠病でまゐるが今年は甚元氣旺盛だ 新綠のうつくしさが身にしみるやうだ 今日も一日 方々を步いて來た 外山ケ原あたりは若葉に殊に美しい胃病も全快

うちではみんな丈夫だ ふみ子も健在歌を一つつくつた

   ひえびえとふく春風も夜さればわが幼妻(おさなづま)さはりあるなよ

    五月二日       芥川龍之介

   井 川 恭 君

 

[やぶちゃん注:この夢はユング的に見ると、甚だ興味深い。井川と同じ渡し船に乗りながら、井川が龍之介が途中で降りることを勧めて陸(おか)へ上がるというシーンには、井川が龍之介の作家的才能を認めて小説家への舵を切ることを積極的に慫慂していることと、井川自身は自己の文才に限界を感じ、その進路を大きく法哲学へと向けたことの正当性の再確認を意味しているものと思われる。これは龍之介が作家「ハアン先生」を想起するのに対し、井川が鳥打帽(ハンチング)を被っているという設定には、「法の番人」「社会を文学でではなく、法で冷厳に狩る」ということのシンボライズにも表われているように思われる。さらに、独り降りた龍之介が、井川の実家を訪れ、井川の「母」に逢い、弟の食事風景を垣間見るというシークエンスは、塚本文とのその確かな幸せな家庭の未来のそれを彼が既にして見通すという「予知夢」ともとれる。

「城見畷」現在の松江市北堀町のこの中央附近(グーグル・マップ・データ。小泉八雲旧居に近い)の呼称であり、ハーンの旧居は松江市城見畷(現在の呼称は「塩見縄手」)にあった。私の『井川恭著「翡翠記」(芥川龍之介「日記より」含む) 「三」』にも出、また、井川と龍之介の「松江連句」(仮称)でも(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」参照)、

   *

   ラフカデイオ・ヘルン氏

 異人住む城見畷や花柘榴       井

   *

とズバリ出て、また、同じ井川の句「夕ぐれの片側町を吹雪きけり」の松江の協力者と私のの合同注に引いた通り、この「片側町」は井川の若き日の記憶の中核にある「松江の原風景」なのである。井川自身が「片側町」と呼んでいるのは、まさにこの「城見畷あたり」なのである。井川の「松江美論その十一 水郷十題 (三)」(井川恭『袖珍 翡翠記』一五〇ページ)にも、次のような「ハアン」旧宅の指示と印象的な描写の一節がある(一部の表記を訂した)。

   *

 中學校へかよふ頃あの城見畷あたりのけしきがどんなに心をなぐさめたか知れない。

 あの向ひ岸の城山の裏の森はほんたうに佳(い)い森だ。夏はあの樹蔭に舟をよせると涼しいし、秋は樹々がくれなゐや黃や褐色かちいろやの彩をつくして深碧の水のうへにびろうど模様の影を落とす。

 春は落ち椿が汀を赤く埋め、冬は枯木(こぼく)の蕭條(せうぜう)寒鴉(かんあ)のむれを棲ませる。

 そこの片側町のつゞきにはハアン先生の舊宅もある。

   *

その注で、『城見畷は井川たちが滞在した家から少し北に進み、新橋をわたってまもなく右折したところ(直進すると西原、その先を左に行くと、芥川たちも行った摩利支天神社がある)にある。引用文中の「中学校」とは旧制松江中学校で、通称赤山と呼ばれた。旧制中学校は、城見畷側から入る道が表玄関になり、井川は城見畷から赤山の学校に通っていたはずである(井川が生まれ育ったのは、内中原と殿町の間にかかる「うべや橋」の西側の辺りで、さても中学校に城山の西を回ったか、東をまわっていったかははっきりしないけれども、うべや橋のたもとで生まれ育った私も中学へは城山の東側を回って通っており、その方がわずかに近かった、と協力者の方もここで証言されている)』。『なお、城見畷に至る前の、井川たちのいた家の付近については、志賀直哉と一緒に松江に滞在した里見弴が『今年竹』の中で、次のような描写をしている(向日書館昭和二十四(一九七九)年刊『今年竹』後編「濠沿の家」二五九~二六〇ページ)が、その中にも「片側道」という言葉が出てくる(その後の二六三ページにも「片側道」という言葉が現われる)』。「片側町」という語が『特異な名称でないだけに他にも候補地はあると思われるが、井川の生活圏等を中心にして考察すると』(中略)、『やはり「片側町」とは、内中原のお花畑の北側から城見畷あたりにかけての堀沿いの一帯を指すと同定したい』と注記した。

「論文はやつてしまつた 及第は出來るだらうと思ふが出來は甚よくない」「論文」は卒業論文で既出既注。新全集の宮坂年譜によれば、この五月末に『卒業論文に合格』とあり、口頭試験が翌六月六日、卒業試験は同月十五日に総てが終わった。なお、この後、七月十日に東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業(成績は二十人中の二番であった)し、引き続き、大学院に在籍したが、殆んど通学しなかった模様で、後に除籍(同年末十二月頃)となっている。

「新思潮を送る」五月一日発行の第四次第三号。芥川龍之介は小説「父 ――矢間雄二氏に獻ず――」(リンク先は私の古い電子化。草稿附)を発表している。

「新綠病」現在の「五月病」と同じ。

「外山ケ原」現在の東京都新宿区中央部の地域。江戸時代には尾張徳川家の下屋敷があったことで知られ、明治以降は陸軍の射撃場・練兵場などがあった。「今昔マップ」のその辺りをリンクさせておく。旧地図の中央に「戸山原射擊塲」とある。

「幼妻(おさなづま)」「お」はママ。]

 

 

大正五(一九一六)年五月十三日・田端発信・山本喜譽司宛

 

今日又 文ちやんに對する Libe を新にした それだけ餘計にさびしかつた

僕が文ちやんを愛してゐると云ふ事を少しでも文ちやんに知つて貰へたらと思つた 知つてゐると云ふ事が少しでも僕にわかつてゐたらと思つた 一つはそれでさびしかつた

文ちやんの僕に對する心もちが少しでも僕にわかつてゐたらと思つた たとへそれが Negative な心もちにしても 幾分か僕にわかつてゐたらと思つた もう一つはそれでさびしかつた

片戀の不幸を歎く人でもその人はその戀人に自分の愛を語り得る點に於て 僕よりもさびしくはない筈だと思ふ

さうして又 その戀人の答を Negative にでも得る事が出來る點に於て矢張り僕よりさびしくはない筈だと思ふ

僕はさびしい

君もこのさびしさはわかつてくれる事と思ふ さうして君のみが幾分でもこのさびしさをエリミネエトし得ると云ふ事も知つてゐる事と思ふ 一切をあげて僕は君にまかせる 僕は限りなくさびしい

かう言ふ事をかくのは君に 義務を背負せるやうな氣がして心苦しい 心苦しい事を押切つてさせるのは 僕のイゴイズムか或は一般に Libe が人に與へるイゴイズムか どちらかだらうと思ふ このイゴイズムを輕蔑しないでくれ給ヘ

僕は一切を君にまかせる さうして待つてゐる

    十三日            龍

   喜 譽 司 樣

 

[やぶちゃん注:岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)では最初の一行と最後の一行を改行してあるだけで、中央部分は完全にべったりソリッドな一段落になっている。新全集は新たに再度、原書簡に当たったものなら、それが正しいのだろうが、所持しないので判らない。但し、底本の岩波旧全集でも「片戀の不幸を……」と「さうして又……」の部分は孰れも行末一字を空けて組まれており、これは「片戀の不幸を……」から「僕は限りなくさびしい」までが一段落である可能性があることはある。しかし、私はそれを採らずに、見た目上で電子化した。正直、中央がごっそり一段落ベタというのは、実際に見ると、龍之介のやや憔悴に傾いた哀憐の呟きが上手く伝わってはこない。

「Libe」二箇所あるが孰れも綴りはママ。ドイツ語で「愛」を意味する「リーベ」の綴りは「Liebe」で、芥川龍之介が二箇所で誤っているのは、かなり異様である。フロイトの「言い間違い行為」を援用するなら、「Lbido」(リビドー・欲望・性欲)を想起させる。

「Negative」否定的・消極的・控えめな。文面全体からは「否定的」であろう。

「エリミネエト」eliminate。除去する。]

 

 

大正五(一九一六)年六月一日・京都市吉田町京都帝國大學寄宿舍 井川恭君・六月一日 田端四三五 芥川龍之介

 

  桐陰讀書篇

    一

夏づくと桐の木ぬれをゆく雲のをりをりうすくかがよへるかも

    二

ゆく雲のかがよひつつもきゆる時桐の木ぬれははるかなるかも

    三

夕なびく雲をまもれば桐の木の木ぬれはるけみわが戀まさる

    四

桐の葉の一葉一葉に日はなづみその幹白くかぎろひにけり

    五

よみすてしギヨツツの上に日は光り蟻くろぐろと頁をよぎる

    六

ゆきなづむ蟻を「自由」の橫つづりわがよむふみに日の光おつ

    七

ワイマアルのギヨオテの家の下部ともわがならなくに放古いぢりする

    八

放古いぢるわれとギヨオテと天日の下に生くとふ不可思議もあり

    九

蟻はいまだギヨオテの立てる肖像(すがたゑ)のふちをわたると日に光りけり

    十

桐の木と蟻とギヨオテと一つらに日にかがやくとかなしきものか

口頭試驗が六日にある論文はうまく通つた 雜誌をおくる 君の方も忙しかろ

   恭   樣           龍

 

[やぶちゃん注:短歌群は前書を含めえ全体が三字下げであるが、引き上げた。

「ギヨツツ」ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が一七七三年満二十四歳の時に発表した処女戯曲「鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』(Götz von Berlichingen mit der eisernen Hand )。当該ウィキによれば、『史実の人物ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンを題材にした史劇で』『友人』『から援助を受けて自費出版されると』、『ドイツ中の注目を集め、ゲーテの名を一躍有名にした』。『作中ではゲッツは英雄的な人物として描かれ、若くして死んでいくが、史実のゲッツは「盗賊騎士」と揶揄された血の気の多い人物で』八十『歳過ぎまで生きながらえている』。『主人公ゲッツが「Leck mich am Arsch!」(俺の尻を舐めろ!)と叫ぶシーンは有名になり、ドイツ語ではGötz(ゲッツ)という言葉が同じ意味の侮辱語として通用するほどになっている。この台詞は元々はゲッツの生まれ故郷の言い回しで、ゲーテが戯曲で取り上げたことから一般化した。なお、この台詞が書かれているのは』、『自費出版した初版だけで、以後は削除されているが、この作品の代表的な台詞として定着している』とある。

「ワイマアルのギヨオテ」ゲーテはかの「若きウェルテルの悩み」(Die Leiden des jungen Werthers :一七七四年)を出版した翌一七七五年十一月、ヴァイマル(Weimar)公国(現在のドイツ中部)のカール・アウグスト公(Karl August 一七五七年~一八二八年からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移り、宮廷顧問となり、後には枢密顧問官・政務長官(宰相)も務めた。

「雜誌をおくる」六月一日発行の『新思潮』第四次第四号。芥川龍之介は小説「酒蟲」及び「翡翠 片山廣子氏著」(芥川龍之介による片山廣子歌集「翡翠」評。そう、龍之介が人生の最後に愛した彼女である)を発表している。私は孰れもサイトでずっと以前に「酒蟲 附やぶちゃん注 附原典 附同柴田天馬訳」「翡翠 片山廣子氏著」を電子化している。]

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