芥川龍之介書簡抄73 / 大正六(一九一七)年書簡より(五) 塚本鈴子・塚本文子宛(前部欠損)
大正六(一九一七)年五月三十一日・鎌倉発信(推定)・東京市芝區下高輪町東禪寺橫町 塚本鈴子樣 同文子樣
[やぶちゃん注:前部欠損。]ボクは每日忙しい思をしてゐます
今日鵠沼の和辻さんのうちへ行つたら松林の中にうちがあつて そのうちの東側に書齋があつて そこにモナ・リサの大きな額をかけて、その額の下で和辻さんが勉强してゐました 藝者のやうな奧さんと可愛い女の子が一人ゐて みんな大へん愉快らしく見えます ボクは何だかその靜な家庭が羨しくなりました(芸者のやうな奥さんはちつとも羨しくはありません)ああやつて落着くべき家庭があつたら ボクも勉强が出來るだらうと思つたのです
とにかく下宿生活と云ふものはあんまり面白いものぢやありません
文學なんぞわからなくつたつて いいのです ストリントべルクと云ふ異人も「女は針仕事をしてゐる時と子供の守りをしてゐる時とが一番美しい」と云つてゐます ボクもさう思ひます
手紙もかざつてなど書かない方がいいのです 思ふ事をすらすらそのまま書く方がいいのです だからいつもの手紙で結構です少しもまづいともおかしいとも思ひません いつ迄もああ云ふすなほな手紙が書けるやうな心もちでお出でなさい 氣取つたり 文章をつくつたりするやうになつてはいけません
今は夜です 遠くで浪の音がしてゐます 雨も少しふつてゐます 戶をあけたら 何の花だか甘い匀がしました
文ちやんの事を考へながらこの手紙を書きます もう今頃はねてゐるでせう 以上
五月卅一日午後十一時 芥川龍之介
塚木文子樣粧次
[やぶちゃん注:この書簡の八日前の五月二十三日に処女作品集「羅生門」が阿蘭陀書房から刊行されている。収録作品は「羅生門」・「鼻」・「父」・「 猿」・「 孤獨地獄」・「運」・「手巾」・「尾形了齊覺え書」・「虱」・「酒蟲」・「煙管」・「貉」・「忠義」の十四篇である。モノクロームだが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全篇を画像で視認出来る。
「塚本鈴子」(明治一四(一八八一)年~昭和一三(一九三八)年)芥川龍之介の妻となる塚本文の母にして、龍之介の三中以来の親友山本喜誉司の姉。
「和辻さん」哲学者で評論家の和辻哲郎(明治二二(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)。兵庫県神崎郡(現在の姫路市)生まれ。東京帝大文科大学哲学科明治四五(一九一二)年卒。後の昭和七(一九三二)年に京都帝大にて文学博士。東京帝大在学中に、谷崎潤一郎らと第二次『新思潮』を刊行して文筆生活に入る。東洋大学教授。法政大学教授などを経て、大正一四(一九二五)年、京都帝大倫理学助教授となって、翌年から昭和三(一九二八)年にはドイツに留学し、昭和六年、同大教授に昇進した。ニーチェ・キェルケゴールや日本思想史などを研究し、独自の倫理学体系を確立して、近代日本を代表する思想家となった。主な著書に「ニイチェ研究」(大正二(一九一三)年)、「ゼエレン・キェルケゴール」(大正四年)や、大和古寺巡りのブームを起した「古寺巡礼」(大正八年)・「風土」(昭和一〇(一九三五)年)等で知られる。なお、彼はこの後に鎌倉市雪ノ下に住んだ。同邸宅は後に映画事業家として知られれる川喜多長政・かしこ夫妻に買い取られている。ここ(グーグル・マップ・データの個人作製版)。]
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