伊東静雄日記より平岡公威(三島由紀夫)の記事
昭和一九(一九四四)年五月二十ニ日の日記。
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二十二日 學校に三時頃平岡來る。夕食を出す。俗人。神堀來る。リンゴを吳れる。九時頃までゐる。驛に送る。
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この「公威」(きみたけ)とは三島由紀夫の本名である。この時、三島は満十九歳で、東京帝国大学法学部法律学科(独法)の一年次生であったが、私淑していた静雄(当時は満三十七で、大阪府立住吉中学校(現在の大阪府立住吉高等学校)の国語科教諭であった)を訪問、突然、処女短編集「花ざかりの森」(同年十月刊)の序文を依頼してきた(結果として「お坊ちゃん」の悪印象を与えてしまい、静雄は固辞し。書かれなかった。但し、伊東は後に「花ざかりの森」献呈の返礼の中で、会う機会が少な過ぎた感じがすることなどを三島に伝え、戦後、「岬にての物語」を読んで、三島への評価を見直した、とウィキの「三島由紀夫」にある。
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同年五月二十八日の日記の一節。
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平岡から手紙、面白くない。背のびした無理な文章。
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後、人文書院より昭和三六(一九六一)年「伊東靜雄全集」が刊行された際(靜雄は昭和二八(一九五三)年三月十二日に肺結核で満四十六で亡くなった。 日記編輯は桑原武夫担当)、三島由紀夫は敬愛していた亡き伊東静雄のために帯に推薦文を書くことを自ら望んたと聴いている。ところが、いざ、刊行されたそれの以上の「日記」を見て、三島は激しい憤りを感じ、その複雑な愛憎感覚は自決するまで続いたようである。
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