日本山海名産図会 第三巻 鰤
○鰤(ぶり)
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした(以下も同じ)。キャプションは「鰤追網(ぶりおいあみ)」。網を巻き上げるための轆轤が遠景と近景にしっかり描かれてある。遠景のそれをよく見ると、砂上の轆轤が海方向へ引きずられないようにするために、後背部陸側に石と碇が打たれてあるのが判る。また、山の上の魚見が描かれていないのは惜しいが、その者が振ったであろう「麾(ざい)」と同じようなものが、巨大な網の外側で網を引っ張る二艘の舟の舳先に立つ水主(かこ)の手に掲げられてある。また、網内の舟では、囲い込んだ鰤を網に追い込むため、或いは外側へ逃れて網を飛び出ないようにするために、何人かが、木片を持って舟棚(舷側板)を叩いている様子も現認出来る。]
丹後與謝(よさ)の海に捕るもの、上品とす。是れは、此の海門(かいもん)に「イネ」と云ふ所ありて、椎の木、甚だ多く、其の實、海に入りて、魚の飼(ゑ)とす。故に美味なりといへり。○北に「天の橋立」、南に宮津(みやつ)、西は喜瀬戸(きせと)、是れ、與謝の入海なり。魚、常に此に遊び、長ずるに及んで、出んでとする時を窺ひ、追網(おひあみ)を以ちて、これを捕る。
○追網は、目、大抵、一尺五、六寸なるを、縄にて作り、入海の口に張るなり。尚、數十艘の舩を並らべ、※1(ふなばた)を扣(たゝ)き、魚を追ひ入れ、又、目八寸許りの縄網を二重(ぢう)におろして、魚の洩るゝを防ぎ、又、目、三、四寸許りの苧(お)の䋄を三重におろし、さて、初めの網を、左右より、轆轤(ろくろ)にて引きあげ、三重の苧䋄は手操(てぐり)ニひきて、袋、礒近くよれば、魚、踊り群(む)るゝを、大ひなる打鎰(うちのき)にかけて、礒の砂上へ、投げあぐるなり。泛子(うけ)は皆、桶を用ひ、重石(いし)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]は縄の方(かた)、燒物(やきもの)・苧の方は、鉄にて作り、土樋(ひ)[やぶちゃん注:二字へのルビと採った。「とひ」のつもりかも知れない。]のことく、連綿す。
[やぶちゃん注:「※1」=「舟」+「世」。]
[やぶちゃん注:キャプションは「其二」。まことに動的な優れた一枚で、左上から網を捩じって纏めて引き上げる右モーメントが強く働き、浜へ打ち上がる鰤の群れにそれが動きを与え、水際にいる漁師らがそれをとっては投げ、とっては投げするさらなる右モーメントが加わるのである。ここで初めて「海鰕」の本文に出(図には出ない)、本文に語られる桶(樽)を用いた「浮き」が多数、確認出来る。]
○先づ、腸(はらはた)を拔きて、鹽を施こし、六石(こく)ばかりの大桶に漬けて、其の上に鹽俵(しほたはら)をおほひ、石を置きて、おすなり。○又、一法。鹽を腹中に滿たしめ、土中(とちう)に埋み、莚(むしろ)を伏せて、水氣(すいき)を去り、取り出だして、再び、鹽を施し、薦(こも)に裹(つゝ)みても出だせり。市場(いちば)は宮津にありて、是れより、䋄場の海上に迎へて、積み歸るなり。
[やぶちゃん注:キャプションは「鰤竪網(ふりたてあみ)」。]
○他國の鰤網 凡そ、手段、かはることなし。いずれも沖䋄にて、竪䋄(たてあみ)は細物(ほそもの)にて、深さ七尋より十四、五尋ばかり。尚、海の淺深にも任す。網の目は、冬より正月下旬までを七寸許りとし、二、三月よりは、五、六寸を用ゆ。漁船一艘に乘人(のりて)五人也。四人は網を操(く)りあげ、一人は艪を取る。泛子(うけ)は桶にて、重石(いし)は砥石のごとし。網を置くには、湖中の魚※2のことくに引き𢌞し、魚の後(しり)へと退(しりぞ)くを防ぐ也。かくて海近き山に、遠眼鏡を構へ、魚の集まるを伺ひ、集まるときは、海浪(かいらう)、光耀(ひかり)ありて 水、一段(たん)高く見へ、「魚一尾(び)踊る時は、かならず、千尾なり」と察し、麾(ざい)を振りて舩に示す。是れを「辻見」、又、「村ぎんみ」、又、「魚見」とも云ふ。海上(かいしやう)に待ちかけし二艘の舩ありて、其の麾(さい)の進退・左右に隨ひ、二方に別れて、網をおろしつゝ、漕き𢌞はる事、二里許りにも及べり。ひきあぐるには、轆轤・手操(てぐり)なと、國々の方術(てだて)、大同小異にして、畧(ほゞ)相ひ似たり。
[やぶちゃん注:「※2」=(上){「巣」-「果」}+(下){「滬」-「氵」}。琵琶湖の定置網で知られる「魞(えり)」のこと。]
○或云、「鰤は連れ行きて東北の大浪を經て、西南の海を繞(めく)り、丹後の海上に至る頃に、魚、肥へ、脂(あぶら)多く、味、甚だ甘美なり。故に名產とす」と云。
○「鰤」は日本の俗字なり。「本草綱目」に「魚師(ぎよし)」といへるは、「老魚」、又、「大魚」の惣稱なれば、其形を不釋(とかず)。或ひは云、海魚の事に於て、中華に釈(と)く所、皆、甚だ粗(そ/あらし[やぶちゃん注:右左のルビ。])なり。是れは、大國にして、海に遠きが故に、其の物、得て見る事、難ければ、唯、傳聞(でんもん)の端(はし)をのみ記せしこと多し。されども、日本にて「鰤」の字を制(つく)りしは、卽ち、「魚師」を二合(かう)して、「大に老いたる」の義に充(あ)てたるに似たり。又。「ブリ」といふ訓も、「老魚」の意を以て「年經(としふ)り」たるの「フリ」によりて、「フリの魚(うを)」といふを濁音に云ひ習はせたるなるべし。○小なるを、「ワカナコ」「ツバス」「イナダ」「メジロ」「フクラキ」「ハマチ」、九州にては「大魚(おほうを)」とも稱するがゆへに、年始の祝詞(しうし)に脋(そな)へる物ならし。
[やぶちゃん注:鰭綱スズキ目スズキ亜目アジ科ブリモドキ亜科ブリ属ブリ Seriola quinqueradiata 。私の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰤(ぶり)」及び「大和本草卷之十三 魚之下 鰤(ブリ)」を参照されたい。
「丹後與謝(よさ)の海」多くは、京都府北部の宮津湾奥の、「天橋立」の西にある阿蘇海(あそかい)の古名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)にして歌枕などとするが、この大規模なブリ漁の場合に限って言えば、天橋立の東の外海である現在の宮津湾をかく呼んでいる。後注参照。阿蘇海も古くは魚類の産卵地として知られていたが、江戸時代から既に水質汚染が問題となり、現在に至るまでとまらない状態にある。
『此海門(かいもん)に「イネ」と云ふ所』現在の丹後半島北部東岸の京都府与謝郡伊根町。御覧の通り、ここは広義に宮津湾の北の門と言える(南門は栗田(くんだ)半島)。
「椎の木、甚だ多く」事実、現在も伊根湾の青島など、この伊根町にはシイの木が群生する。それらの群落が優れた栄養分を海に供給していることは確かだが、「其の實、海に入りて、魚の飼(ゑ)とす。故に美味なりといへり」というのは、ロマンティクではありますが(私は大の椎の実好きですから)、ちょっとないでしょう。
『北に「天の橋立」、南に宮津(みやつ)、西は喜瀬戸(きせと)、是れ、與謝の入海なり』これで先の限定は決まり。宮津はここ、「喜瀬戸」というもは、天橋立南端の阿蘇海と繋がる瀬戸、「切れ口」のことで、「切戸(きれと)」「九世戸(くせと)」などと呼ぶここのことである。
「追網(おひあみ)」網漁法の一種。入海の口に、大きな網を張り廻らし、数十艘の船を並べて船棚を叩き、魚群を追い込んで捕える方法。特にこの鰤漁で使用される。小学館「日本国語大辞典」では、まさに本篇の第一図が添えられてある。
「一尺五、六寸」四十五・四五~九十四センチメートル弱。
「※1(ふなばた)」(「※1」=「舟」+「世」)先に注した舟棚のこと。
「目八寸許り」網の目の方寸が二十四センチメートル強ほどあること。
「苧(お)の䋄」「お」は歴史的仮名遣の誤り。苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎの網。苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて網糸にしたもの。
「打鎰(うちのき)」「鎰」は「鍵」の意であるが、ここは砂浜に打ち込んだ杭ののことか。
「泛子(うけ)」網の「浮き」。
「六石(こく)」約六百升。
「鹽俵(しほたはら)」塩を入れた俵。この最初の方法では直接に塩を振るのではない点に注意。
「沖䋄」舟で水中を引き回し、引き寄せて魚を捕る網。引き網。
「深さ七尋より十四、五尋ばかり」長尺の方(約一・八一八メートル)で、約十三~二十七メートル。
「冬より正月下旬までを七寸許りとし、二、三月よりは、五、六寸を用ゆ」ブリの産卵期は東シナ海南部で二~三月、九州近海で四~五月頃であるが、全長数センチメートルになった稚魚は流れ藻に寄って生活し(この稚魚は日本各地で「モジャコ」(藻雑魚)と呼ばれる)、夏に流れ藻から離れて、沿岸でイワシ類等の小魚を捕食しながら生活をし、その後、秋になって外洋へ泳ぎ出て本格的な回遊を始める。成長は一年魚で三十二、二年魚で五十、三年魚で六十五、四年魚で七十五センチメートル前後に成長する。図の中のブリのサイズは一年魚以上であり、「冬より正月下旬までを七寸許りと」するのは、それ以上の個体を、「二、三月よりは、五、六寸を用」いるのは、回遊を始めた一年魚以下のものを対象とするものと思われる。
「湖中の魚※2のことく」(「※2」=(上){「巣」-「果」}+(下){「滬」-「氵」})文中で注した通り、「湖」は琵琶湖のこと。そこの定置網で知られる「魞(えり)」は網地の代わりに、竹や木材などで造られた垣網(かきあみ)や簀(す)を水中に張り立てて水産生物の通路を遮断し、囲網(かこいあみ)へ誘導する定置漁具である。本邦では琵琶湖の「魞漁(えりりょう)」が有名である。この漁具は風波に対して弱いことから、湖沼や河川に設置される場合が多いが、海面でも、風波の穏やかな内湾の浅所ならば、設置することが出来る。垣網の長さ二~三メートルの小規模のものから、一キロメートルに及ぶ大規模なものもある。淡水域に仕掛けた場合は、簀の目が三ミリメートル以下のものは、小型・中型の鰕や小鮎などを漁獲し、十五ミリメートル以上のものは鯉・鮒・鰻などを漁獲する。本邦の内湾では鯵・鰯・鯖・中・大型の蝦などを捕獲するが、フィリピンやタイなど、東南アジアの海浜沿岸では盛んで、鮪・鰹・鯛類などの大型魚類も対象としている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。なお、「魞」は国字である。
「麾(ざい)」音は「キ」。元は「軍を指図する旗」を指す。ここは沖の舟に指図する旗指物を指す。「ざい」は「さい」で当て字。「采配・采幣」の意で、紙の幣(しで)の一種。昔、戦場で大将が手に持ち、士卒を指揮するために振った道具で、厚紙を細長く切って作った総(ふさ)を木や竹の柄につけたもの。紙の色は白・朱・金・銀などで目立つようにした。挿絵の水主のそれを参照。
「辻見」海中での魚群の航路を「辻」と言ったものであろう。
「村ぎんみ」「村吟味」。魚村集団の漁獲担当の「魚見」役の謂いであろう。
「鰤は連れ行きて……」一年魚が秋に初め、成魚になってからも続ける回遊行動を示す。本草書では、こうした生態の記載が甚だ乏しいので、非常に画期的な記載と言える。
『「鰤」は日本の俗字なり』国字。
『「本草綱目」に「魚師(ぎよし)」といへるは、「老魚」、又、「大魚」の惣稱なれば、其形を不釋(とかず)』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」には(囲み字は太字に代えた)、
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魚師【「綱目」。】
集解【時珍曰はく、「陳藏器が「諸魚注」に云はく、『魚師、大きなる者なり。毒、有り、人を殺す。』と。今、識る者、無し。但(ただ)、「唐韻」に云はく、『鰤は老魚なり。「山海經」に云はく、「歷㶁(れきかく)の水に、師魚、有り。之れを食へば、人を殺す。」と。』と。其れ、卽ち、此れか。】
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と、確かにショボい。
『「或ひは云」(いふ)、「海魚の事に於て、中華に釈(と)く」(説明する)「所、皆、甚だ粗(そ/あらし[やぶちゃん注:右左のルビ。])なり。是れは、大國にして、海に遠きが故に、其の物、得て見る事、難ければ、唯、傳聞(でんもん)の端(はし)をのみ記せしこと多し」その通りで、漢籍の海産魚類については、海辺部の地誌類を除いて、本草書の記載は致命的に粗略であり、殆んど幻想博物誌のような有様を呈するものも有意に多い。
『日本にて「鰤」の字を制(つく)りしは、卽ち、「魚師」を二合(かう)して、「大に老いたる」の義に充(あ)てたるに似たり。又。「ブリ」といふ訓も、「老魚」の意を以て「年經(としふ)り」たるの「フリ」によりて、「フリの魚(うを)」といふを濁音に云ひ習はせたるなるべし』語源説は、「大和本草卷之十三 魚之下 鰤(ブリ)」の私の注の冒頭を参照されたい。
『小なるを、「ワカナコ」「ツバス」「イナダ」「メジロ」「フクラキ」「ハマチ」』ご存知の通り、ブリは出世魚である。同じく「大和本草卷之十三 魚之下 鰤(ブリ)」の私の注の冒頭を参照されたい。地方ごとの変名出世も示してある。
『九州にては「大魚(おほうを)」とも稱する』「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のブリのページに、サイズが一メートルに及ぶ最大のものを、九州北部で、「オオウオ」と呼ぶと書かれてある。
「年始の祝詞(しうし)に脋(そな)へる物ならし」「脋」は不審(「脅」の異体字)。同前のページで、ブリは『年末年始の贈答用などとしても重要。糸魚川静岡構造線の東西で別れ、東はサケ。また前田家(石川県、富山県)では初代前田利家の頃から年取り魚としてブリをお歳暮に送る習慣があった』。ここでは『現在でも娘が結婚すると、その年は嫁ぎ先と、仲人に大きなブリをそれぞれ』一『尾送るならわしがある。嫁ぎ先ではこの半身を嫁の実家に返した』とあり、また『主に西日本で年取りの魚となる。徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)・徳島市などでもブリを年末、正月に塩焼きにして食べた』とある。私自身、富山に住んでいたから、かの高価な巨大な太い繩で美しく巻いた塩漬けの「巻鰤」の美味さは忘れられない。]
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