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2021/05/17

芥川龍之介書簡抄59 / 大正五(一九一六)年書簡より(六) 山本喜誉司宛二通(但し、前の一通は岩波旧全集編集の大正四年の錯誤)

 

大正五(一九一六)年岩波旧全集の配置。新全集では前年に配置変えされてある)八月一日牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司宛 直披・八月一日 芥川龍之介

 

今夜靜な心でこの手紙をかく事が出來るのはうれしい

「あきらめ」はまだよまない「夏姿」はあのかへりに電車の中で皆よんでしまつた ある點までは感心したが ある點――それは今の僕にとつてすべての藝術のケルンだと信じてゐる點で――で不滿だつた

いつ僕のゆめみてゐるやうな藝術を僕自身うみ出す事が出來るか 考へると心細くなる

すべての偉大な藝術には名狀する事の出來ない力がある その力の前には何人もつよい威壓をうける そしてその力は如何なる時如何なる處にうまれた如何なる藝術作品にも共通して備はつてゐる 美の評價は時代によつて異つても此力は異らない 僕は此力をすべての藝術のエセンスだと思ふ そしてこの力こそ人生を貫流する大なる精神生活の發現だと思ふ 此力に交涉を持たない限り藝術品は區々なる骨董と選ぶ所はない

日本の作品にこの力を感じるやうなものがあるだらうか 日本の藝術家にこの力をのぞむで精進してやまない者がゐるだらうか(僅少な例外は措いて)もしないとするならば彼等は悉ブルヂヨオであつて藝術家の資格はない

此意味で夏目先生の作品は大きい 武者小路氏の作品は愛すべきものがある そして志賀氏の作品は光つてゐる

僕はさびしい 始終さびしい 誰かに愛され誰かを愛さなければ生きる事の出來ない人間のやうな氣がする

正直な所時々文子女史の事を考へる 此頃Yからはなれる必要がある時は特に意識して考へる さうして一のIMAGE[やぶちゃん注:縦書。最後の「Liebes‐geschichte」以外は総て縦書である。]のかげに一のIMAGEを無理にかくさうとする それは文子女史の事を考へるときに小供の時から知つてゐるせいか淸淨な無邪氣な愛を惑じる事が出來るからだ やゝともするとSINNLICHになりやすいYの事を考へる上にいゝANTIDOTEになるからだ まだほんとうに愛する事が出來るかどうかはわからない その上愛すると云ふ事を(少くとも)發表する丈の資格が僕にあるかどうかもわからない 唯僕は前から八洲さんたちの上に祝福したいやうな氣を始終に持つてゐる さうしてそれが同時に自分の祝福になるやうな氣がして仕方がない 何しろ僕には何もわからないと云ふのが一番正しいらしい

僕はいろんな機會でこの頃妻と云ふ事を考へさせられた さうして世間の妻君を見る眼が少しづゝあいて來た

僕は醜いものの至る所にあるのに驚く 愛をはなれた性慾の至る所に力をふるつてゐるのに驚く 僕は夫婦關係を高い尊いものにしたい 其間の愛からあらゆる大なる物を生みうる關係にしたい さうして其關係の價値を其間の愛の價値にしたい

僕はすべてを解釋するのは愛だと信じてゐる この結論は昔から云ひふるされてゐる しかしこの結論にたどりついた僕の經驗は新しい 兎に角大へんにさびしい 今かきつゝある小說を君によんでもらふ時分には少しさびしくなくなれるかもしれない

僕はYの事からすつかりうちの信用を失つてしまつた 中學の時の友だちを除いては皆友だちがうちのものから猜疑の眼を以て見られてゐるやうな氣もする 僕は之を尤な事だと思ふ さうして自分の信條とそれに基く自分の藝術との爲にはこんな苦しい目にもつと幾度もあはなければならないのだと思ふ しかも僕の生活の方針はまだ確にきまつてゐない 時々僕はかぎりない落莫を惑じる

この頃ロマン・ロランのトルストイをよんで非常に感激した 一寸のすきもなく自分の弱點を攻めて行つたトルストイの事を考へると便々とくらしてゐるのが勿体ないやうな氣さへする トルストイはたへず自分を襲ふ惡德として賭博癖 色慾 虛榮心の三つをあげてゐるが その三つを救つた時に彼は現にその各に耽溺してゐたのである すべての惡が彼の手では善に生かされる そしてすべての苦痛が彼の心では幸福に生かされる 僕は此頃しみじみトルストイの大いさを思ふ

「たゞ苦まなければならない すべてをすてゝ苦まなければならない 通り一ぺんの苦痛は苦痛と感じない程に苦まなければならない それが神の意志だ 此意志に從つてはじめて人間は出來上る」

かうして苦んでゆく上に僕を慰めるものは何だらう 僕の信仰をより力づよくより大にするものは何だらう 僕はさう云ふ事をし得るものが三つあると思ふ 一は父母(もしくは其記憶)一は友人(同上)三は妻もしくは愛人(同上)さうして僕は其何れをも持つ事が出來なさうな氣がする

僕は今年中にすつきりした Liebes‐geschichte をかいて君にさゝげたいが大分覺束ない氣もする お伽噺(創作でも飜譯でも)を八洲さんへさゝげたいやうな氣もするが之も少し危い

何しろしたい事は澤山あるが時と力とがたりない 自分でも齒痒くなる 其くせずゐぶん人の事は輕蔑してゐるが

いつか本鄕のうちでうち中みんなの寫眞(君がうつしたの)を見た事がある あれを一枚僕にくれないか 僕はいま家庭的のあたゝかみに餓えてゐる 大へんにさびしい なる可く都合してくれるといゝと思ふ おばあさんやねえさんには内しよで

ほんとうにひとりぼつちだ

出たらめの歌を思ひつくまゝにかく

閻浮提に一人の人を戀ひてしばいきの命のおしけくもなし

夕よどむ空もほのかに瓦斯の灯のともるを見れば戀まさりける

ゆきくれてもの思ひをればはつはつに月しろしけり淚ぐましも

 

二伸 そのうちに稻荷祭を見せて貰ひにゆくかもしれない

 

[やぶちゃん注:この書簡は底本の岩波旧全集に従ってここに配したが、書簡中に示される龍之介の周囲の状況及び「Y」=吉田彌生に対する感情の強い名残、反して、塚本文に対する感情が淡い状態にあること、及び読書体験記載から、以前より、ここに置かれていることを変に感じていた。既に述べた通り、新全集の書簡部を私は所持しないが、それを元にした岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)では、本書簡が大正四年のパートの最後に『月日不明 山本喜誉司 田端から(年推定)』として置かれてあり、これはすこぶる納得出来るものである。新全集の宮坂年譜でも、この書簡の一部を引いて、大正四年八月のパートの頭に、『この頃、塚本文への想いが芽生え始める。山本喜誉司に「正直な所時々文子女史の事を考へる」などと書き送っている』とある。岩波旧全集編者の配置ミスと断じてよい。ただ、一つだけ不審なのは、旧全集が封筒を確認して『八月一日牛込區赤城元町竹内樣方 山本喜譽司宛 直披・八月一日 芥川龍之介』としていることである(新全集は封筒は確認出来ていない(欠)ものと思われる)。或いはこれは、編集作業中に、別な封筒を誤って本書簡の封筒と誤った結果のように考えるのが至当かと思われる。なお、短歌は全体が三字下げであるが、引き上げた。

「あきらめ」小説家で女優でもあった田村俊子(明治一七(一八八四)年~昭和二〇(一九四五)年:本名・佐藤とし。東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)生まれ)が明治四四(一九一一)年に『大阪朝日新聞』でに懸賞小説一等になって連載され(元日から三月二十一日まで)、同年七月に出版した、事実上の彼女の本格的な文壇デビュー作である(彼女はそれ以前に幸田露伴の門下に入って、明治三五(一九〇二)年に師から与えられた「佐藤露英」のペン・ネームで小説「露分衣(つゆわけごろも)」を発表している。その後、露伴から離反した)。石割氏の注によれば、『新しい女性としての自覚と挫折を描く』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原本が読める。

「夏姿」永井荷風(明治一二(一八七九)年~昭和三四(一九五九)年:本名・永井壮吉。東京市小石川区金富町四十五番地(現在の文京区春日二丁目)生まれ)の小説「夏すがた」大正四年一月刊。刊行後に発禁処分を受けたが、石割氏の注に、『第一版は売り切れた』とある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で初刊原本が読める。

「ケルン」Kern。ドイツ語。「中心の部分・核・中核」の意。

「SINNLICH」ドイツ語。ズィンリヒ。「感覚の,・感覚的な・感性的な・官能的な」。

「ANTIDOTE」アンティドゥト。英語(但し、ギリシャ語(ラテン文字転写「antídoton」)「anti-」(反対して)+「dotón」(与えられるもの)=「対抗して与えられるもの」が古フランス語になったものが、原語)「解毒剤・悪影響などに対する防御・対抗・矯正の手段・方途」。

「八洲」塚本文の弟。

「Liebes‐geschichte」リーベス・ゲシッヒテ。ドイツ語。恋愛物語。

「閻浮提」(えんぶだい)は仏教で言う人間世界。私の「芥川龍之介 孤獨地獄 正字正仮名版+草稿+各オリジナル注附」(他にサイト横書版と、サイト縦書版PDFもある)の私の注を参照されたい。

「稻荷祭」山本の現住所からは、赤城出世稲荷神社(グーグル・マップ・データ)か。]

 

 

大正五(一九一六)年八月一日・山本喜譽司宛・(写)

 

みれんものこよひもひとりおち方の、花火を見るとなみだしにけり

    ×

花火みにゆけりや君と問(と)ふ時もかなしさつゝむわれとしらなく

    ×

夏ながら翡翠もさむき夜となれば、われと泣(な)かるゝわれなりしかな

    ×

つげの櫛おさへさす手もほのぼのと白きがまゝに夏さりにけり

    ×

遠花火君と見る夜のかなしさに袂つゆけくなりにけるかな

    ×

風かよふ明石縮のすずしさに燈も消さばやといふは誰が子ぞ

    ×

水あかり君にふさふといふわれの君すかしみる水あかりはも

    ×

とく帶の絽はうすけれどこの情うすしとばかり思ひ給ひそ

    ×

ふさはねどわれら二人の戀のせてゆく自動車に夕立す今

    ×

夕立つやかはたれ時の金春を君といでゆく自動車の戀

    ×

金春の小路々々に灯はともり二上りなして夕立す今

    ×

えやわする君とゆく夜の自動車にわれらがつめる薔薇の花たば

    ×

その宵の牡丹燈籠のうすあかりなほわが胸にさすと知らずや

    ×

魂祭る新三郞のさびしさに似しさびしさも君あるがため

    ×

いやさらにさびしかれ君帶止の翡翠も今はけなばけぬべく

    ×

白玉の憂抱くと君が頰いよゝかなしくなりにけるかな

    ×

ものうげにわれをながめてうちもだすその明眸にかへむものなし

    ×

うたひ女のかなしさ知れと君が眼の燭を見るこそわりなかりけれ

    ×

君の手紙が來たのは卅一日だつたからやつぱり間にあはなかつた。今度は二三日前から知らせてくれ給へ、三日の外はいつでもいゝ。夜銀座ででもあひたい、このごろのあつさにはよわる、有樂座かどこかの活動寫眞をみに行つてもいゝ。アトランテイスはみた。つまらない、小說を勉强して三つもかき出した。

    一日             龍

 

[やぶちゃん注:短歌は全体が三字下げであるが、引き上げた。この歌群の女には吉田彌生の面影がやや被ってはいるかも知れぬものの、実際には私は想像の中の架空の女との仮想創作であると断ずるものである。これらには私は傷心のニュアンスの色が心底には深刻でなく、しかも薄っぺらくて、ロマンティクなシーンも、あたかもキッチュな大道具仕立てのようにしか見えないからで、何より、全く同工異曲の俳句群が直前の大正五(一九一六)年七月二十五日井川恭宛書簡に出現しているからである。この手の龍之介の、ある意味、安易な自己剽窃的変造製造の癖は、彼の自死まで続き、遺稿詩篇集成である「澄江堂遺珠」詩篇群にも、それが、よく現われている。私の『「澄江堂遺珠」という夢魔」』を参照されたい。

「みれんもの」「未練者」。

「おち方」歴史的仮名遣の誤りで「遠方(をちかた)」であろう。

「翡翠」翡翠の繡(ぬいとり)をした男女のための閨(ねや)の帷(とばり)。ここは単に閨。如何にもな唐趣味で臭い。臭過ぎる。

「明石縮」現在の新潟県十日町市の「十日町明石ちぢみ」。サイト「明石ちぢみ」のこちらによれば、『「明石ちぢみ」は今から』四百『年ほど前』(元和(げんな)年間。一六一五年から一六二四年。徳川秀忠・家光の治世)、『播州明石の船大工の娘・お菊によって「かんなくず」をヒントに考案されたといわれています。また、『本朝俗諺誌』に「明石縮は 豊後国ママ 小倉の名産なり」という記述が見られるように、明石藩主の小笠原氏が豊前小倉に国替えとなり、小倉でも生産されていました』。『享保年間』(一七一六年~一七三六年)『に刊行された『万金産業袋』に「たて絹糸、横もめんいとにて、 尤(もっとも)もよくうつくしく縮たる物也。」とあり、もともとは、 経緯(たてよこ)とも木綿でありましたが、 苧(お)と絹の交織が生まれ(苧縮)、やがて経緯とも絹糸になり、「明石本縮」と呼ばれた歴史もあります』。『そして、明治』二〇(一八八七)『年頃、新潟県柏崎町の越後縮問屋・洲崎栄助が、西陣の織物業者が「明石ちぢみ」を研究しているのを見て、西陣より湿度が高く、越後縮以来の強撚糸の優れた技術を持つ十日町が織るのに適していると考え、十日町の機業家「米忠」の佐藤善次郎に裂見本を見せて研究を進めたのが、「十日町明石ちぢみ」の始まりです』とある。なお、別に、「きもの淳彩庵」のこちらのページには、全く異なる起原が記されてある。『江戸前期に越後国(新潟県)小千谷に縮布の製織技術を伝えたとされる明石次郎が明石ちぢみの由来らしいです』。『本名は堀次郎将俊。明石藩松平家の武士であったが、流浪の末に、寛文の初めごろ』(一六六一年頃)『小千谷地方に住みついたそうです』。『小千谷では古くから麻布の生産が行われてい』ました『が、明石次郎は緯糸に強い撚りをかける縮布を考案し、種々の縞や飛白模様の夏向き高級縮布を開発したといわれます』とある。

「ふさふ」「相應(ふさ)ふ」。「釣り合う・相応する(相応(ふさ)わしい)・調和する」の意。

「絽」(ろ)は「綟り織(もじりおり)」で織られた薄く透き通った絹織物の一種。江戸時代に、夏の衣料に用いる生地として発展した織物で、紗(しゃ)の変形に相当する。

「ふさはねど」「相應はねど」。

「金春」西銀座の「金春(こんぱるどお)り」(グーグル・マップ・データ)。花街であった。サイト「銀座 金春通り」の「金春通りの歴史によれば、『江戸情緒を今も残す「銀座の最後の砦」と言われている由緒ある通りで』、『「金春通り」の名』『は江戸時代に能楽の金春流の屋敷があったことに由来』するとあり、『金春屋敷』は『安永九(一八七〇)年頃に麹町善国寺谷(現在の千代田区麹町)に移転』した『後、「金春芸者」の名が知られ、現在の銀座七、八丁目西側の辺りが歓楽街となったのは幕末の頃で』あったとあり、『能役者は幕府御用達の町人として一般の町人とは別格の扱いを受けてい』たものの、『能役者は武士ではないので、拝領地に町人を住まわせてはならないということもなかったようで、能役者の貸長屋には町人が住むようになり』、『しかも、能役者は若年寄の直接支配を受けなかったので、次第に芸者が住むようになったと』される。『彼女たちは唄や舞などの芸に秀で、おもてなしの才能にも長けていたことから、江戸芸者の草分けの「金春芸者」として生業をはじめ、金春通りは』実に昭和』四十『年代まで』、『多くの芸者の集る花街として賑わ』ったとある。また、『この花街で、明治の末期から金春芸者の間で流行した色が「金春色」で』、『青色に緑がかった色で、正式には「新橋色」という日本の伝統色に指定されており、金春通りの銘板にもシンボル色として使用されてい』るとある。

「二上り」「にあがり」と読む。三味線の調弦法の一つで、本調子を基準にして第二弦を一全音(長二度)高くしたもの。派手で陽気な気分や田舎風を表現する。ここは花街であるから、実際の三味線のそれが聴こえてもくるところだが、ここは夕立の音をそれに喩えたととるべきである。

「えやわする」「えや忘る」。副詞「え」+係助詞「や」で、ここは反語。

「魂祭る新三郞のさびしさに似しさびしさも君あるがため」前歌の「牡丹燈籠」から、知られた三遊亭圓朝の怪談噺「牡丹燈籠」の主人公の浪人萩原新三郎が、お露(実は亡魂)と出逢う直前のシーンを自分に擬えて示したものだが、いやいや、いかにも、あざとい、ね。因みに、その本邦での淵源である「伽婢子卷之三 牡丹燈籠」はたまたま、一月前に、満を持して電子化注してあるので、是非、読まれたい。

「けなばけぬべく」老婆心乍ら、「消なば消ぬべく」である。

「うたひ女のかなしさ知れと君が眼の燭を見るこそわりなかりけれ」この映像は悪くない。

「やつぱり間にあはなかつた」何が間に合わなかったのかは不明。

「三日の外はいつでもいゝ」三日に何があるのかは不詳。

「アトランテイス」一九一三年公開のデンマークの無声映画“Atlantis ”。監督はオーガスト・ブロム(August Blom 一八六九年~一九四七年)、原作は「沈鐘」で知られるドイツの作家ゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann 一八六二年~一九四六年)の一九一二年の同名小説。本邦では筑摩全集類聚版脚注によれば、大正五(一九一六)年七月二十三日から三十一日まで帝劇で上映されている。シノプシスは英語版ウィキを読まれたい。

「小說を勉强して三つもかき出した」この一日に「芋粥」を起筆している。後の二つは限定出来ないが、恐らくは小説「猿――或海軍仕官の話――」と小品小説「創作」であろう(両作は千葉一の宮滞在中の八月十九日に脱稿している)。後の二作は九月一日発行の第四次『新思潮』第七号に掲載されている。]

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