伽婢子卷之於五 燒亡有定限
○燒亡有定限
[やぶちゃん注:標題は「燒亡(せうまう)、定まる限り有り」と訓じている。挿絵は「新日本古典文学大系」版を用いた。]
西の京に富田(とんだの)久内といふ者あり。若き時より、なさけ深く、慈悲のあつき心ざしあり。
或日、家を出〔いで〕て、北野の天神に、まうでたり。
下向の時、茶店(ちやてん)の床(とこ)に踞(しりかけ)て茶飮みける所へ、十二、三ばかりと見ゆる小法師、來りぬ。
容(かほ)の色、靑ざめて、瘦(やせ)つかれたり。
久内、とひけるは、
「小僧は、いづくの人ぞ。」
といふ。
答へていひけるやう、
「某(それがし)は東山邊〔へん〕にある者也。今朝(けさ)より、此處、彼處、使(つかひ)となりて行めぐり、まだ、何をも、食はず、師匠坊主の命に從ふばかり、身も心も苦しき事は、又もあるべからず。」
といふ。
久内、聞て、かはゆく覺え、餠(もちひ)買(かう)て食はせなんど、しけり。
かの小法師も、久内も、うちつれて、茶店を出て、内野(うちの)の方に出〔いづ〕る。
「右近の馬場」にして、かの小法師、いふやう、
「まことは、我は、人にあらず。『火の神』の使者として、燒亡(せうまう)火事の役にあづかる。君は、なさけ深き慈悲者なれば、語り侍べる。明日は、北野・内野・西の京、皆、ことごとく、燒(やけ)ほろぶべし。君が家は燒くまじけれども、私(わたくし)に是をはからふ事、かなはず。はや、繩ばり分量(ぶんりやう)の數〔かず〕に入〔いり〕たり。君、早く、家に歸りて、財寶・家の具、とりのけて、他所〔たしよ〕に移り給へ。」
とて、
「我は又、跡より、遲く行かん。」
とて、失せにけり。
久内、不思議の事に思ひ、いそぎ、家に歸り、財寶・家の具ども、持はこび、他所に移しければ、人皆、あやしみて子細を問ふに、更に語らず。
强〔しひ〕て、とひければ、
「かうかうの事。」
と語る。
之を聞(きく)人、あざけりわらひて、
「何條〔なんでふ[やぶちゃん注:この漢字では正しくは「なんでう」となるが、当て字である。]〕、狐にたぶろかされて、有べくもなき事を聞て歸り、あはてふためきて、家の具を打はづし、資財・雜具(ざうぐ)を取り運ぶ。さだめて、普請(ふしん)の料(れう)を費やさんためか。」
なんど、のゝしり笑ひたり。
今年三月の比〔ころ〕、西の京の住人等、東の京の住人等(ら)と、酒麹賣買(さけかうぢうりかひ)の事につき、座を組みて賣(うり)けるを、座を破りける故に、公方へ訴へたり。
其時の管領(くわんれい)畠山入道德本(とくほん)、この訴へを聞〔きく〕に、東の方に理(り)ありければ、對決、及びて、西の京の方、法度〔はつと〕をそむく科(とが)に落〔おち〕て、まけたり。
西の京の酒麹賣る奴原(やつばら)、恨み、いきどほり、其外のあぶれ者ども、多く語らひ、北野の社〔やしろ〕に集りて、入〔いり〕こもる。
管領、さまざま申さるゝ旨ありといへども、更に、聞〔きき〕いれず。
是非に、東の京の酒かうぢの者共を打果たさんとす。
是によりて、侍所(さふらひどころ)京極なにがしにおふせふくめ、武士を遣はして、かのともがらを、搦め捕りて牢獄に入れんとするに、
「とられじ。」
と防ぎ戰ひて、文安元年四月十二日、社に火をかけ、自害しけり。
折ふし、魔風(まふう)、吹いでゝ、社頭・僧坊・寶塔・𢌞廊、一時(〔いち〕じ)に灰燼となり、餘煙、民屋に燃えつきて、西の京、ことごとく、野原となりぬ。
[やぶちゃん注:最後に「文安元年四月十二日」というクレジットを出す。これは一四四四年で、後花園天皇の御世で、室町幕府将軍は空位であった。「嘉吉の変」(嘉吉元(一四四一)年に播磨・備前・美作の守護赤松満祐(弘和元/永徳元(一三八一)年~嘉吉元(一四四一)年)が室町幕府第六代将軍足利義教を暗殺(旧暦六月二十四日)、領国播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれた(九月十日)の騒乱の後、義教の嫡男義勝が第七代将軍となるも、嘉吉三年七月に早逝、当時、満七歳の弟義成(後の義政)が後継者に指名されたものの、元服年齢に満ちていないために、数え十四の元服まで将軍宣下が行われず、文安六(一四四九)年四月十六日になって、やっと元服の儀を終え、同月二十九日に正式に第八代将軍に就任した。この将軍空位という異常事態が実に六年も続いていたのであった。今までの中では、古く時制を遡る部類の話となっているが、これは単にラスト・シーンの「文安の麹騒動」の結果として生じた北野社(現在の北野天満宮)一帯の焼亡に合わせるために過ぎない。但し、実際には、この幕府方の武力鎮圧による人為的焼亡は文安元年四月十三日(ユリウス暦一四四四年四月三十日・グレゴリオ暦換算五月九日)である。
「西の京」現在の京都市中京区(グーグル・マップ・データ)相当。
「富田(とんだの)久内」不詳。名前の読みは一切現れない。「きうない(きゅうない)」と読んでおく。
「北野の天神」当時の呼び名は「北野社」。現在の北野天満宮。祭神は菅原道真。
「内野(うちの)」内裏は平安末期の治承元(一一七七)年四月に発生した、京中の過半を焼いたとされる「太郎焼亡」により、大極殿以下がほぼ全焼して廃墟と化し、大極殿は再建されることなく、大内裏の中はそのまま、武家政権へと移ったことから、荒廃の一途を辿り、鎌倉時代には、一面が野原となってしまい、「内野」と呼ばれたのであった。
「右近の馬場」「新日本古典文学大系」版脚注に、「出来斉京土産」の「二」の「内野」から引いて、『「社(北野天神)の南の鳥井を出れば右近馬場也。…此馬場の上下を内野といふ」』とある。この中央下部がその馬場の始まりの位置となろう。「平安京上坊図」で当該箇所を見て貰うと、内裏の北東角がまさにそこにあり、以下、ずいいっと、馬場のように荒野が南へ走っていたというわけである。
「君が家は燒くまじけれども」「まじ」は打消意志。「あなたのお宅は焼きたくないとは思うけれども」。
「私(わたくし)」私事。
「繩ばり分量(ぶんりやう)」予め、「繩」張りが「火の神」の定めた厳密な焼亡範囲、「分量」は焼失決定戸数であろう。
「我は又、跡より、遲く行かん。」「私は、あなたが家財・道具類を運び終わるのに合わせるために、後から、遅く行って、『火の神』への確認終了の報告を遅らせましょう。」。
「何條」〔なんでふ〕」この漢字では正しくは「なんでう」となるが、反語の副詞「何でふ」(「なにといふ」の変化した語。「なでふ」とも)の当て字であるからかくした。
「さだめて、普請(ふしん)の料(れう)を費やさんためか」「新日本古典文学大系」版脚注には、『建て直しの手間賃を無駄遣いするつもりか』と訳してあるが、どうもピンとこない。意味は判らぬでもない。しかしそれは、例えば、「そんな火災は起りはしない。確かに、何時かは火災で焼けちまうかも知れぬが、その何時とも判らぬ家屋の再建料を、いまここで、訳の分からない怪しい話を信じて、お前さんは家具を引っ越すために無駄な手間賃を払っているんじゃ! お笑いだね!」という意味であろう。
「今年三月の比〔ころ〕、西の京の住人等、東の京の住人等(ら)と、酒麹賣買(さけかうぢうりかひ)の事につき、座を組みて賣(うり)けるを、座を破りける故に、公方へ訴へたり」ウィキの「文安の麹騒動」によれば、『室町時代、京都において酒造工程の一つである麹造りを支配していた座(北野麹座)が室町幕府に鎮圧されて没落した事件。この結果、麹の専門業界は没落し』、『酒屋業へ組み入れられた』とある事件である。『京都では鎌倉時代から急成長産業として隆盛していた酒屋だったが、その中から資本力に富む酒屋は、麹造りにまで取り組み始めた』。『当時の酒屋は、まだ麹造りまでは職業範囲ではなく、「麹屋」という麹の製造から販売までを担う専門業界が別個に存在していた。麹屋は北野社(現在の北野天満宮)の神人(じにん)身分を得て「麹座」と呼ばれる同業者組合(座)を結成しており、北野社(本所)の権威を背景に京都西部の麹の製造・販売の独占権を有していた。当然ながら北野麹座は、酒屋の麹造りに強く反発した』。『その頃、足利義満の治世下で全盛期を迎える室町幕府が、至徳』三(一三八六)年『には延暦寺を始めとする京都の有力寺社に対し、京都の地域内における私的な権力行使への制限令(警察権の幕府への集中)を発布すると、今度は明徳』四(一三九三)年『に京都の土倉・酒屋に対しても「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」を発布して、座への加入を問わず一律に幕府への課税を義務付けた。おかげで座の元締めたる本所の支配権は、幕府の制約を大きく受けるという状況に陥った。これには当時最大の本所勢力であった延暦寺などは強く反発したが、当時の義満の勢いの前には、なすすべも無かった』。『この情勢に目をつけた北野麹座は、運上金の供出を持ちかけて幕府に接近すると応永』二六(一四一九)年『には、京都全域における麹の製造販売の権利一切を幕府から獲得した。そのため京都の全ての酒屋は自前での麹造りを禁じられ、北野麹座から麹を購入せざるを得ない事態となった。当然ながら反発した酒屋側だったが、兵を動員した幕府により「麹室」と呼ばれる酒屋付属の麹工房を悉く打ち壊された』。『ところが、酒屋の座の中には延暦寺を本所とするものがおり、彼らは延暦寺に麹座と幕府の行為を訴えた。当時の北野社は延暦寺の傘下に在り、自己支配下の酒屋の衰退が運上金の減少を招くと考えた延暦寺は、北野社に独占を止めるように求めた。だが、北野社側としても自己の運上金収入に関わる問題であり、これを拒絶した。最終的に幕府の意向によって延暦寺も』翌応永二十七年『にこれを受け入れた。ところが、応永』三二(一四二五)年『に幕府が酒屋の麹造の摘発と名簿の作成による統制を強化すると』、翌応永三十三年『には延暦寺の影響下にあった近江国坂本の馬借も酒屋が麹を造れなくなったことで米余りが生じ、その結果米価が暴落して米を輸送する仕事が無くなったとして北野社の襲撃を計画する事件も発生している』、『その後、正長元』(一四二八)年『になって』、『延暦寺と北野社は独占の是非を巡って訴訟を起こしており、清水克行は正長の徳政一揆は敗訴した延暦寺と馬借たちの本来の意図は北野社を襲って麹の独占を解体させることにあったが』、『こちらは幕府軍に阻止されて、派生的な行動である酒屋や土倉の襲撃のみが成功したとしている(馬借も酒屋も延暦寺の傘下にありながら、逸脱・暴走した一揆の流れを止めることができなかった)』。『なお、この北野麹座による麹造りの独占の背景には、将軍足利義持が禅宗を深く信仰して禁欲的な生活を実践して飲酒を嫌い、禅寺に対して禁酒令を行って公武や民間の飲酒をも規制しようとしていたこともあった』。こうして、『麹座と酒屋、そして背後の北野社と延暦寺の対立はエスカレートし、文安元年』四月七日(一四四四年五月八日)、『延暦寺は西塔釈迦堂に立てこもり、次いで京都に向けて強訴を行った。その』三年前の「嘉吉の乱」『以後、政治的影響力を衰退させていた幕府はこれに屈して、北野麹座の独占権の廃止を認めてしまう。この決定に今度は北野麹座に属する神人らが北野社に立てこもった為、管領畠山持国は同月』十三日『に鎮圧の兵を北野社に差し向けた。このため武力衝突に発展して死者も出した上、北野社を含む一帯が炎上したものの』、『幕府側が付近を鎮圧した』。『その結果、酒屋側に屈服した麹屋側は京都において衰退し』、『京都における政治的支配力でも、有力寺社の影響力の回復以上に、幕府権力の急落が明らかとなった』。『その後、ようやく』天文一四(一五四五)年)『になって再び、北野麹座による麹の独占が許されるものの、室町幕府の権威が完全に失墜した状況下では時は既に遅く、やがて麹造りは酒屋業の一工程となった』。『また』、『この事件は、奈良の『菩提泉(ぼだいせん)』『山樽(やまだる)』『大和多武峯(たふのみね)酒』、越前の『豊原(ほうげん)酒』、近江の『百済寺酒』、河内の『観心寺酒』などの僧坊酒が台頭する一因ともなった』とある。
「其時の管領(くわんれい)畠山入道德本(とくほん)」足利氏一門の畠山氏出身守の護大名畠山持国(応永五(一三九八)年~享徳四(一四五五)年)は「嘉吉の乱」によって管領となり、同年、出家し、「徳本入道」と名乗った。後年は没落した。]
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