芥川龍之介書簡抄58 / 大正五(一九一六)年書簡より(五) 井川恭宛
大正五(一九一六)年七月二十五日・消印二十七日・島根縣松江市南殿町 井川恭樣 直披・ 七月廿五日 東京市外田端四三五 芥川龍之介
大へん返事が遲れてすまない
新思潮は同人が少ないので万障をくり合せて原稿をかく必要がある その爲月の上半分は忙しい その上ものを書くのが忙しいと妙に手紙を書くのが臆劫になる 同じやうな活動だから原稿を書けば手紙を書く頭も同時にみたされるのだらうと思ふ
僕は來月十日頃までは東京を離れられない だからとても隱岐へは行かれないと思ふ 第一今年は雜用があつて金を大分使つた 松江へゆくのさへ少々覺束ない。
もう今頃は牛込の御夫婦が見えられてゐる事だと思ふ 皆さんの健康を可成純な心もちで祈る。雅ちやんやふじちやんは來ないのか もし來るのだつたらその健康も祈りたいと思ふ
東京は每日あついので非觀だ 卒業式の時は方々に立つてゐる氷の柱を皆でぶつかいて食つた。洋服をはだかで著て行つたのは勿論である。式がすむと皆で卒業證書を持つたまま錢湯に行つた
卒業と云へば卒業に關しては大分祝辭をもらつたので非觀した。朝日や万朝に優等卒業生として85[やぶちゃん注:縦書半角横並び。]點以上の學生の名を出した中に僕のがはいつてゐたので勘ちがへをした人が銀時計を貰ふのだと思つて「恩賜の時計云々」とかいて來るのには中でも一番閉口させられた 世間の人には僕がいい小說を一つかくよりも85點以上の優等卒業生になつた方がおめでたく思へるらしい 村田さんが Thou art superior in the school-career とか何とか妙な英詩をくれたのなぞは その中の白眉だらう ふるつてゐるのは 僕にお祝だと云つて狸の腹へ時計の嵌つてゐる置物をくれた人がある 高いいものだらうがウンエステテイツシュで机の上へおく訣にもゆかない。
卒業と云ふ小說が書ける程材料はたくさんある。
長崎君にあつて結婚問題の話をきいた 何だか長崎君の頭の不明瞭さを證據立てるやうな話なので氣の毒で追窮する氣にはとてもなれなかつた。あんなでたらめに結婚する氣になれたのは僕にとつては新しい驚異だ あれで結婚琴瑟相和したら 更に又一つの驚異だ 僕はこの驚異が實現されさうな氣もしないではない
長崎君のやうに駘蕩としてゐられるのは羨しい
僕の生活は依然として變らない。藝者なぞの生活は極度 artificial な爲に反て natural になつてゐる。――あれと同じやうな意味で僕のアノオマルなだらしいのない生活もノオマルになつてゐる
僕たち(僕と藤岡君)の事を長崎君が頻に衰へてゐると云つたが僕たちに云はせれば長崎君の方が餘程衰へてゐる 肉体の生活の過剩なのは實際衰へてゐるのと同じ感じを與へるものだ 何だか長崎君にあつたら情なくなつた 誰でも人間は顏が中心になつて体がそれに接續してゐるやうな氣がするものだが長崎君を見ると体が中心になつて顏は体の一部にすぎないやうな氣がする あれはいけない。
八木が結婚するさうだ 前に一しよにすいてゐた人とかどうかしらない 石原は教育學硏究室の助手になる
藤森君の結婚した事は既報の通り 卒業式の日には形容枯稿して出て來た 醜惡な氣がした、
あとは變りなし
僕は來月の新小說へ芋粥と云ふ小說を書く 世評の惡いのは今から期待してゐる 偸盜と云ふ長篇をかきかけたが間にあひさうもないのでやめた 書きたい事が澤山ある 材料に窮すると云ふ事はうそだと思ふ どんどん書かなければ材料だつて出てきはしない 持つてゐる中に醗酵期を通り越すと腐つてしまふ 又書いて材料に窮するやうな作家なら創作をしてもしかたがない
長安句稿 一
花火
明眸の見るもの沖の遠花火
遠花火皓齒を君の凉しうす
花火やんで細腰二人樓を下る
君が俥暗きをゆけば花火かな
水暗し花火やむ夜の幌俥
七月廿五日 龍
[やぶちゃん注:前にこちらの大正五(一九一六)年三月二十四日井川恭宛書簡の注で予告しておいた書簡である。龍之介はそこで、「ことしの夏休みが樂しみだ」とまで書いていた。松江再訪を願っていたのは龍之介自身だった。それが「僕は來月十日頃までは東京を離れられない だからとても隱岐へは行かれないと思ふ 第一今年は雜用があつて金を大分使つた 松江へゆくのさへ少々覺束ない」といかにも現実(確かに事実であるのだが)的な書き振りじゃないか。隠岐行は井川の提案に違いない。私はこの手紙のこの箇所を読んだ井川恭が淋しい顔をしたのが、目の当たりに見える。――昨年、松江に龍之介を招待して破恋の淵のメランコリーから彼を復活させてくれた井川の――
「僕は來月十日頃までは東京を離れられない」前回の「新小說へ小說をかくのを引うけてしまつた」で判る通り、九月一日発行の『新小説』に執筆依頼されていたため。これを見るに、当時、クレジット上の月の一日発行(この当時はどうだったか知らぬが、近年の雑誌は実際の日付よりもかなり前に発行されることが多い)の原稿脱稿のリミットは、前月の上旬十日前後であったことが判る。彼は未だいっぱしの作家ではないから、およそ現行締切を伸ばす芸当は出来ないから、このリミットはかなり正確ではないかとは思う。推測だが、この日付けを龍之介が余裕を持って少し前として記したものと考えると、月中の十五日前後がギリギリだったのではないかと推理している(後の「芋粥と云ふ小說を書く」の注を参照されたい。「芋粥」の実際の脱稿は八十六日である)。これはこちらの書簡の「それはさしせまつた仕事があつたからだ 仕事と云つても論文ではない」への注で、「羅生門」脱稿の期限を考証した際の私の推理に基づく。
「牛込の御夫婦」既注の井川の婚約者雅(まさ)の父で農学者でリン鉱石研究の第一人者であった恒藤規隆と当時の勝田スミ(前に二人の妻があったが、孰れも病没しており、再再婚である。スミは島根県出身であるから、井川恭と長女まさの結婚(井川は恒藤の婿養子となった)については彼女の地縁の関係が推理される。但し、雅は明治二九(一八九五)年十一月生まれで(国立国会図書館デジタルコレクション「第四版人事興信録」(人事興信所大正四(一九一五)年刊)のこちらに拠る)、スミの子や二番目の妻旧中津藩(規隆の郷里)藩士奥平十門の次女喜和子の子ではなく、最初の妻ツマとの子である。もと松坂出身の伊勢山田備前屋の遊女であり、恒藤が身請けして結婚した。一八九六年六月十四日に肺炎のために亡くなっている。これは当該ウィキによったが、どうもこの年次は不審である。後に『第一回欧米視察中、ニューヨークでヨーロッパへ向けて出港しようとしていた際に妻の死亡を知らせる電報を受け取った恒藤は、ショックとひどい船酔いで大西洋航海中は食事が全く摂れず、同乗した乗客から心配されたと』あるのだが、本文では、『地質事業視察並びに万国地質会議参加のため欧米出張を命じられた』のは、一八九七年四月とあるからである。なお、この大正五年十一月に井川は雅と結婚して恒藤恭とあるわけだが、当時、彼は(明治二一(一八八八)年十二月三日生まれ)満二十七、雅は満二十一であった。
「ふじちやん」雅の払い違いの妹で、外の女性に産ませた子。恒藤の家に一緒に住んでいたものらしい。先の「第四版人事興信録」に、『庶子女 フジ』として、明治三二(一八九九)年十一月生まれで生母は東京平の井上喜代とある。凄いね、こんな本があるわけだ。
は來ないのか もし來るのだつたらその健康も祈りたいと思ふ
「卒業式」この年の東京帝大の卒業式は七月十日月曜日に挙行されている。この二日前の七月二日がmこの七月の最高気温で、摂氏三十二・九度を記録している。同月の日平均気温は二十三・九度であるが、最高気温の平均は二十八・一度と高く、平均湿度は八十四%で、十月と並んでこの年の最高値でもある。「気象庁」の「過去の気象データ」の「月ごとの値」の一九一六年の一覧データに拠った。
「洋服をはだかで著て行つたのは勿論である。式がすむと皆で卒業證書を持つたまま錢湯に行つた」大正三(一九一四)年四月二十日から八月十一日まで、『朝日新聞』で「心 先生の遺書」として連載された夏目漱石の後の「こゝろ」の「(三十二)」の、『卒業式の日、私は黴臭くなつた古い冬服を行李の中から出して着た。式塲にならぶと、何れもこれもみな暑さうな顏ばかりであつた。私は風の通らない厚羅紗の下に密封された自分の身體(からだ)を持て餘した。しばらく立つてゐるうちに手に持つたハンケチがぐしよ/\になつた。[やぶちゃん注:改行。]私は式が濟むとすく歸つて裸體(はだか)になつた。下宿の二階の窓をあけて、遠目鏡(とほめがね)のやうにぐる/\卷いた卒業證書の穴から、見える丈の世の中を見渡した。それから其卒業證書を机の上に放り出した。さうして大の字になつて、室の眞中に寐そべつた。私は寐ながら自分の過去を顧みた。又自分の未來を想像した。すると其間に立つて一區切を付けてゐる此卒業證書なるものが、意味のあるやうな、又意味のないやうな變な紙に思はれた』(引用は私の初出翻刻注「心」より)とあるのを思い出す。因みに、私は学生の「私」の卒業を明治四五(一九一二)年と推理している。
「非觀」既に見えている芥川龍之介独特の用法。困惑・憂慮・陰鬱(メランコリック)・悲観的・悲壮的な感覚を、これまた、弱から強まで軽重を問わず、幅広く指す。時にやや滑稽にも用い、傍観者の他者観察としてのそれにも用いる。私は生涯使うことがない特異な用法である。
「朝日」『朝日新聞』。明治一二(一八七九)年一月に木村平八・木村騰の親子によって大阪江戸堀(現在の大阪市西区の一部)に於いて朝日新聞社が創立され、同年一月二五日に『朝日新聞』創刊発行された(後、経験権譲渡などがあるが、当該ウィキを見られたい)。明治二一(一八八八)年七月十日に『めさまし新聞』を買収して東京に進出し、同紙は『東京朝日新聞』に改題、それに伴い、大阪は翌年一月三日より『大阪朝日新聞』に改題した。因みに、この大正五年に四ツ橋筋を挟んだ地に新社屋が完成している。
「万朝」『萬朝報』(よろづてうはう(よろずちょうほう))。明治二五(一八九二)年十一月一日、主筆を務めていた『都新聞』を辞した作家黒岩涙香の手によって東京で創刊された。
『優等卒業生として85[やぶちゃん注:縦書半角横並び。]點以上の學生の名を出した中に僕のがはいつてゐたので勘ちがへをした人が銀時計を貰ふのだと思つて「恩賜の時計云々」とかいて來るのには中でも一番閉口させられた』これらはこちらの私の注を参照されたい。
「村田さん」一高の英語教授村田祐治(文久四・元治元(一八六四)年~昭和九(一九四四)年)か。現在の千葉県生まれ。
「Thou art superior in the school-career」「あなたは当校の歴史(或いは「私の教職歷」?)にあって最も優れた存在である」か。「art」は古語・詩語で「be」の主語が二人称・単数「thou」の時の直説法現在形である。
「ウンエステテイツシュ」言語や綴りが判らないがフランス語の「sthétique」(エステティク:美学)の語尾を英語風に形容詞化して、それに英語やドイツ語の「否定・無」を添える「un-」をくっつけたものであろう。「俗物趣味の・俗悪な・悪趣味な」の意。
「長崎君」既出既注。因みに、筑摩全集類聚版では、特にこの前後、内容が甚だプライベートなものに及び、しかも龍之介の辛辣な感想も添えられてあることから、刊行当時に現存していたかも知れない人物や遺族への不都合を考えてであろう、注なしで「もう今頃は牛込の御夫婦が……」から「僕は來月の新小說へ芋粥と云ふ小說を書く」の前までが、ごっそりカットされてある。せめて中略の記号ぐらい、入れとけ、筑摩。
「駘蕩」のびのびと平穏にしているさま。
「極度 artificial な爲に反て」極度に「人造の・人工的な・模造の・造りものの。不自然な・偽りの・わざとらしい・気取った・気障な」様態となっているために、却って逆説的に。
「アノオマル」anomal。古い文法用語で「変則」の意。謂わば、特殊で奇異な状況がある程度続くと、それが日常的規範に変容することをここでは言っている。
「藤岡君」既出既注。
「八木」既出既注。
「石原」既出既注。
「藤森君」宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊・旧全集対象)の「人名索引」ではこの書簡は洩れているが、新全集のこの時期の「人名解説索引」と対照して調べると、小說家(後に劇作家)藤森成吉(せいきち 明治二五(一八九二)年~昭和五二(一九七七)年)のことである。当該ウィキによれば、『長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)生まれ。長野県立諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)卒業、東京帝国大学文科大学独文科卒業』。『東京帝大在学中に執筆し』て自費出版(歌人窪田空穂の慫慂があった)した「波」(後に「若き日の悩み」に改題した)で、『小説家として広く知られるようになった』大正一五(一九二六)年以降、『劇作に転向し』、「何が彼女をさうさせたか」(昭和二(一九二七)年)が『話題を呼んだ。社会主義への関心も深め、全日本無産者芸術連盟の初代委員長を務めた。このとき、細井和喜蔵の』「女工哀史」の』出版にも尽力している』。昭和八(一九三三)年二月に治安維持法違反で検挙され、歴史小説に転向した。『戦後は新日本文学会の創立にも参加した』。年譜に、大正五(一九一六)年、『東京帝大独文科首席卒業(卒業生は一人)岡倉由三郎の娘信子と結婚』とある。
「芋粥と云ふ小說を書く」「芋粥」の起稿は八月一日で、脱稿は十六日。
「偸盜」と云ふ長篇をかきかけたが間にあひさうもないのでやめた」既出既注。
書きたい事が澤山ある 材料に窮すると云ふ事はうそだと思ふ どんどん書かなければ材料だつて出てきはしない 持つてゐる中に醗酵期を通り越すと腐つてしまふ 又書いて材料に窮するやうな作家なら創作をしてもしかたがない
「長安句稿」夢想俳句群であるが、うわつていてどれも駄句である。
「沖」長安城北川の渭河(いが)であろうが、「沖」と言うほど川幅はない。知られた唐詩類から安易に誇張したものであろう。
「君が俥暗きをゆけば花火かな」「水暗し花火やむ夜の幌俥」この二首は完全にアウトだと思う。何故なら、「俥」「幌俥」としている以上、これは人力車(「俥」は国字)であるからで、この同時代に西安の街を幌附きの日本発祥の人力車と同じものが走っていた可能性は限りなくないと思うからである。いや……龍之介よ……この人力車は……お前を魔界へと導く……この光景は遂にお前をお前の「或阿呆の一生」の「二十一 狂人の娘」へと……連れてゆくからだ…………
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二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後(うしろ)の人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。
前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。
「もうどうにも仕かたはない。」
彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり强い彼女に或憎惡を感じてゐた。
二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………
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