日本山海名産図会 第五巻 異国産物
[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「唐舩入津(とうせんにうつ)」、第二図は「同菩薩揚(ぼさあげ)」、第三図は「長嵜唐人屋敷(ながさきとうじんやしき)幷新地御藏(しんちおくら)」。手前が「新地御藏」、橋を渡った向こうが「唐人屋敷」。]
○異國產物
○[やぶちゃん注:「○」で改行なのは、ママ。]
太閤秀吉公の時には、泉刕堺浦へ着きしを、其の後(のち)、肥前平戸に移り、元龜の頃より、長嵜に改まりて、今に絕ること、なし。此の地は、元來、山中(さんちう)なりしを、玉の浦深江といふを、切り開きて、今、萬家繁花(まんかはんくわ)の湊とはなれり。唐舩(とうせん)は、南京・北京(ほつきん)・ホクヂウ・チヤクチウ、其外、惣(すべ)て、一年に十三艘を來たす。先づ、藥種・絹布(けんふ)・砂糖・紙・器物(きぶつ)、其の余(よ)、云ひ盡しがたし。野茂(のも)。深堀(ふかほり)。西戸(にしと)。[やぶちゃん注:以上の三ヶ所の「。」は底本のママ。]の上(あ)ケ所(しよ)に遠見(とほみ)の眼鏡(めがね)を居(すへ)て、凡そ、海上(かいしやう)の四十里許りを見通し、入舩(にうせん)の影を見れば、追々、旛(はた)を立てて、宦聽(くわんてう)へ註進し(ちうしん)、舩の近づくを見れば、大通詞(おほつうし)・小通詞(こつうし)其の外、宦人(くわんしん)、舩を飛ばせて、是れを迎へ、唐舩に乘り移り、御朱印などの撿校(けんかう)を遂げて、着岸、荷揚(にあげ)を催すに、上荷船(うはにふね)數艘(すそう)を出だし、新地御藏(しんちおくら)へ納む。此の荷揚、終れば、「ぼさ揚(あげ)」と云ふこと、あり。是れは、すべて、船中に、「ぼさ」といふて、本邦の舩玉(ふなだま)に等しき宦人の姿(すかた)なる像(ぞう)を祭る。其の像を長嵜の寺へ預け、納むる。其の行裝(きやうそう)、甚だいかめしく、昼も挑灯(てうちん)を眞先(まつさき)に照らし、辻々にて、鉦(どら)をならし、棒を振りて踊躍(ゆやく)す【人、是れを「關羽の像なり」と云ふは誤りなり。】。舩は「梅(むめ)か島」といふ所につなぎ、人々、「唐人屋敷(とうじんやしき)」へ入りて、ともに、無事着(ぶじちやく)の賀宴(かえん)を設(まう)く。此の時、丸山町(まるやままち)・寄合町(よりあひまち)の遊女、あまた來たり、客を定めて、饗應す。此の後(のち)、出舩(しゆつせん)に臨んで、御定法(ごでうはう)の御渡(おんわた)し物(もの)・煎海鼡(いりこ)・昆布・干鮑(ほしあわび)・紙・傘(からかさ)・ぬり物・ふかの鰭(ひれ)・茯苓(ぶくれう)、其の外、小間物數品(すひん)、或ひは、時の好みにも、任(まか)せらる。又、唐物(とうもつ)は宦聽御拂物(かんておんはらいもの)となり、古格(こかく)の商人(あきうど)より、入札(いれふだ)して、是れを配分す。
[やぶちゃん注:「太閤秀吉公の時には、泉刕堺浦へ着きしを、其の後(のち)、肥前平戸に移り、元龜の頃より、長嵜に改まりて、今に絕ること、なし」この説明はおかしい。安土桃山時代の天正二〇(一五九二)年に、秀吉が初めて長崎・京都・堺の貿易商人に異国渡海の朱印状を出し、朱印船貿易が始まったが、平戸のそれは、それ以前で、松浦(まつら)氏第二十五代当主松浦隆信が南蛮貿易に進出し、平戸港にポルトガルの貿易船が初めて入港したのは、天文一九(一五五〇)年であり、同年九月にはフランシスコ・ザビエルが平戸に来航し、カトリックの布教を始める。永禄四(一五六一)年に宮ノ前事件(平戸港そばの七郎宮の露店でポルトガル商人と日本人との間で発生した暴動事件。発端は絹糸(又は絹織物)の交渉が決裂、町人が商品を投げつけたことから、ポルトガル商人が殴りかかり、双方入り乱れての乱闘に発展、見かねた武士が仲裁に入ったが、ポルトガル側は日本側への助太刀と勘違いし、船に戻って武装し、町人や武士団を襲撃した。武士団も抜刀して応戦し、ポルトガル側は船長以下十四名の死傷者を出し、平戸港を脱出した)が発生、翌年からポルトガル船の貿易港は大村藩領横瀬浦(現在の西海市西海町横瀬)に替わった。それでも、安土桃山時代の天正一二(一五八四)年には、イスパニアの貿易船が平戸に入港している。一方、長崎の方は、永禄一〇(一五六七)年に宣教師ルイス・デ・アルメイダによる布教が始まり、元亀元(一五七〇)年に大村氏第十二代当主大村純忠が長崎を開港、同二年にポルトガル船が初来航(〜寛永一六(一六三九)年まで続く)、純忠は天正八(一五八〇)年、長崎港周辺部と茂木(現在の長崎市茂木町)をイエズス会に寄進して、治外法権のイエズス会領となった。天正一〇(一五八二)年の天正遣欧少年使節出発のしたが、秀吉は天正十五年、長崎港での南蛮貿易独占のために「バテレン追放令」を布告し、翌年には長崎を直轄領とし、イエズス会城塞を破壊、鍋島直茂を代官とした。天正二〇(一五九二)年、秀吉は寺沢広高を初の長崎奉行に任命、慶長二(一五九七)年、豊臣秀吉による「日本二十六聖人」の処刑が執行された。江戸時代に入ると、慶長九(一六〇四)年に幕府が京都・堺・長崎に「糸割符制度」を導入し、翌慶長十年には長崎を幕府直轄領に移管し、長崎奉行小笠原一庵を派遣、慶長一七(一六一二)年、「禁教令」を発布してバテレン教会の破壊と布教を禁止、宣教師・信者は国外追放となった。元和二(一六二二)年、幕府は貿易港を平戸と長崎に限定している。長崎では寛永一二(一六三五)年に出島を完成させ、ポルトガル人を収容し、寛永十六年にはポルトガル人を追放した。寛永一八(一六四一)年、オランダ東インド会社の平戸商館が、出島に移転した。延宝元(一六七三)年に、イギリス船リターン号が来航し、通商を求めたが、拒絶し、この時、日本に来航できる欧州の国はオランダ一国のみに確定した。元禄二(一六八九)年、「唐人屋敷」・「新地唐人荷物蔵」が設置されている。その後、元禄三年、ドイツ人エンゲルベルト・ケンペルがオランダ商館付医師として来日、元禄一一(一六九八)年、長崎会所設置されている。一方、平戸の方は、慶長一四(一六〇九)年にオランダが商館を設置、慶長十八年にイギリスが商館を設置したが、元和九(一六二三)年を以ってイギリス商館は閉鎖された。先に示した寛永十八年のオランダ商館の長崎出島への移転を以って、平戸での「南蛮貿易」は終焉を迎えている。ここで「元龜」(一五七〇年から一五七三年まで。室町幕府将軍は足利義昭)とあるのは、どう考えても「元和」の誤りであろう。南蛮貿易が長崎・平戸に限定されるのが元和二年であり、平戸のイギリス商館が廃されるは元和九年で、元和は一六一五年から一六二四年までで元和十年で終わるからである。
「玉の浦深江」この附近の旧名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「長崎市」公式サイトである「ナガジン!」によれば、現在の長崎県長崎市恵美須町(えびすまち)の大半は、「瓊の浦(たまのうら)公園」が占めているが、「瓊ノ浦」(公園名は「瓊の浦」)とは長崎の古い呼名で、「瓊」は「美しい玉(宝石)」という意で、「美しい玉(宝石)のように光り輝く海、港」という意。また、かつて存在した付近の町名には、天正一三(一五八五)年頃から文禄元(一五九二)に開かれた内町の一つである「船津町」が残る。ここは、長崎で最も古い港で、付近一帯が船舶の発着場であり、金屋町にあった魚市場の船着き場でもあった。『これらの町名からも、江戸時代から明治時代まで、この近辺を流れる岩原川の河口を埋め立てながら、長崎のまちは発展していったことが理解でき』、『長年、この付近には、市民に愛された』「恵美須」・「大黒市場」があったが、近年、『老朽化のため』、『取り壊しとなり、これまで暗渠となっていたかつての岩原郷、立山付近を水源とする岩原川の水路が出現。長崎のまちの遠い記憶が甦ってくる風景を目にすることができ』るとある。「深江」は長崎県南島原深江町があるが、ここは明らかに長崎港の開削のことを言っており、位置が離れ過ぎるので、長崎湾の湾奥を示す一般名詞或いは、開拓以前のそこの呼称ででもあったのであろう。
「北京(ほつきん)」北京(ペキン)。
「ホクヂウ」「北戎(ほくじゆう(ほくじゅう)」か。古代の殷などを建設した遊牧民の古名で、当時の中国北方を指すか。
「チヤクチウ」いろいろな漢字を考えてみたが、不詳。
「野茂」長崎湾の南東に延びる長崎半島の先端にある長崎県長崎市野母町(のもまち)のことか。
「深堀」長崎半島中央西岸の長崎県長崎市深堀町(ふかほりまち)。
「西戸」不詳。現在の壱岐島に長崎県壱岐市勝本町(ちょう)西戸触(さいどふれ)があるが、ここは当時は平戸藩領であるから、違うし、だいたいからして、遠過ぎる。先の二箇所は場所といい、記載といい、異国船入津の長崎湾の監視の番所(「上(あ)ケ所(しよ)」(あげしょ)はそれであろう)であるから、地図を調べてみると、長崎湾の最深部に入る両岸に「西泊番所跡」(北西位置)と「戸町番所跡」(南東位置)を確認出来る。これは作者が「西泊(にしどまり:現在の呼称)」と「戸町(とまち:同前)」を一緒くたに聴き違えた(勝手に圧縮してしまった)ものではなかろうか?
「大通詞(おほつうし)」「だいつうじ」とも呼び、長崎に置かれたオランダ語通訳官の長官。
「小通詞(こつうし)」江戸時代、長崎に置かれた唐通事・オランダ大通詞の長官大通事の補佐通訳の官人。
「宦人(くわんしん)」「官人」に同じ。通訳以外の長崎奉行所の諸役人。
「御朱印」朱印を押した書状。ここは特に当該国及び徳川幕府将軍が発給した海外渡航許可などの際に発行した公文書で、花押 の代わりに朱印を押したものの敬称。
「撿校(けんかう)」物事を調査し、考え合わせること。取り調べること。「けんげう(けんぎょう)」とも読む。
「上荷船(うはにふね)」貨物の出入りの多い港湾にあって、沖に停泊した商船の荷物を積卸し又は積込みを専門に行う小荷船。「瀬取船(せとりぶね)」「茶船」とも称し、小さなものは十石積みから大は百石積み級のものまであったが、港湾の事情により、船型・大きさとも相違する点が多い。近世では大坂の上荷船二十石積みが有名。江戸では「瀬取茶船」と呼んだ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。
「新地御藏(しんちおくら)」江戸時代に長崎の新地町(しんちまち)に造られた貨物倉庫である「新地蔵所(しんちくらしょ)」。「新地土蔵」とも呼ばれ、唐人は「貨庫」と呼んだ。ウィキの「新地蔵所」によれば、元禄一一(一六九八)年四月二十三日、『後興善町』(「うしろこうぜんまち」か:現在の興善町はここ)『から出火した火災により』、『当時長崎に入港していた唐船』二十『隻分の荷物を収納していた樺島町(椛島町)』(かばしままち:ここ)『の土蔵が全焼した』『ため、浜町』(はままち:ここ)『の海岸沿いを埋め立てて』、『人工島を築造し、そこに唐船専用の貨物を納める倉庫を建造することになった』。翌十二年、『土蔵持ち』三十九『人の申請により』、『着工し、その間』、『唐人の荷物は梅ヶ崎築地』(現在の長崎市梅香崎町であろう)『の土蔵を借りて収納した』。同十五年に『倉庫が完成し、梅ヶ崎の土蔵に収納された荷物はここに移された』。『普請費用の銀』四百四十『貫のうち』、二百『貫は幕府からの借り入れ金であった』。『島の構内は土塀で囲まれていて、出入り口は東側の正門と南東側の南門の』二『ヶ所。正門は新地橋』(ここ)『で西浜町』(現在は銀座町)『と、南門は石橋で広馬場や唐人屋敷』(跡はここ)『とそれぞれ結ばれていた。東西』七十『間』(約百二十七メートル)、『南北五十間』(約九十一メートル)『で総面積』三千五百『坪』、『土蔵』十二『棟(蔵は各』五『棟で計』六十『棟)で、唐船の荷物蔵』四十一『戸の他に、回銅入れ蔵、囲米蔵、海産物蔵、長崎会所荷蔵、籾米蔵があった。その他にも表門、長屋、水門、土神祠』(「どしんし」と読むか。所謂、本邦の「后土神祠(こうどのやしろ)」で、土地神を祀って、通常は鬼門を守る)『高札、検視場、荷役場、役人詰所があった。荷役場と改場は、水門に各』一『棟ずつ併設された』。『前面の梅ヶ崎に唐船居場(修理場)があり、港に入った唐船が丸荷役』(注に『検視その他の手続きを経て蔵所に荷揚げすること』とある)『を終えると、唐人は唐人屋敷に移り、唐船は居場に停泊させた』。『新地前には俵物役所が置かれ、中国向け輸出の俵物の買集所とされた』。宝永三(一七〇六)年には、『長崎奉行付普請方の普請』担当『となり、同五(一七〇八)年に『抜け荷対策として新地を含め』、『長崎湊内』六『ヶ所に湊御番所が新設された』。明和二(一七六五)年、『浜町側にあった長崎会所・唐通事・唐人屋敷乙名などの諸役人の詰所が南門付近に移された』。寛政一二(一八〇〇)年には『囲米籾蔵が西浜町から移転した』。『土蔵は後に』七十五『棟となり』、天保一四(一八四三)年当時で、『唐荷物蔵』三十五、『銅蔵』四、『御蔵』(幕府献納品の蔵か)十六、『俵物昆布蔵』五、『長崎会所請込物蔵』五、『御囲籾米蔵』八『などがあった』。『「仲宿」と呼ばれる長屋が近くに設置されており、輸入品を鑑定する目利や監督である町年寄がそこで仕事をして』おり、『倉庫所持者のうち』、三『名は新地頭人、他は蔵主と称された』とある。
「ぼさ揚(あげ)」個人ブログ「長崎んことかたらんば」の「唐寺と媽祖(菩薩)信仰1」に、『媽祖』(まそ)『は、航海の守護神で、菩薩(ぼさ)とか天后(てんこう)とも呼ばれ、中国の宋代に福建省で起こった土俗的な信仰であったが、元代になると航海神として江南地方から北京へ糧米を運ぶ全ての船舶に祀られるようになる。明代になると』、『東アジアの各地に広まり、長崎に来航する唐船には、必ずこの航海神媽祖が祀られていた。そこで、長崎港に碇泊中は、唐船から降ろした媽祖を安置する祠堂が必要となった。しだいに来航する唐船の数が増加して、郷幇(ごうはん・同郷出身者の仲間組織)が結成されると、その集会所に安置されるようになった。この集会所が後に唐寺として整備されていく』とあり、同「2」で、『この媽祖を唐船からおろして唐寺などの媽祖堂に安置することを「菩薩(ぼさ)揚げ」、反対に唐寺などの媽祖堂から唐船に乗せることを「菩薩(ぼさ)卸し」と呼んだ』。『「長崎名勝図絵」によると、その行列の様子は、香江(ヒヤンコン:菩薩役の唐人)が』二『箇の燈籠を先に立て』、『左右に並び、次に銅鑼や直庫(てっこ)と呼ばれる赤い布を結んだ棒を持つ唐人が並び、その次に媽姐の像を安置した輿がつづく。輿の両側には旗を持つ唐人やその後には蓋傘(かさ)を掲げる唐人らがおり、その後には唐人や唐通事や唐人番などの役人がつづく。道中、十字路に至るごとに銅鑼が鳴らされ、その進行方向に向って盛んに直庫が振られる。唐寺に到着しても同様で、山門や関帝堂(かんていどう)、媽姐堂の前などで銅鑼が鳴らされ、盛んに直庫が振られ、その後、媽姐や直庫を媽姐堂に納めて、唐人たちは唐人屋敷に帰る。なお、菩薩卸しの行列の様子も、この菩薩揚げの行列の様子とほぼ同様であったが、直庫の振り方などが少し違っていたといわれている』。『この媽祖行列は元和・寛永以来』、『幕末まで続いたが、幕末から明治維新の頃には唐船も途絶え、廃絶してしまった。今日では、長崎ランタン祭り、諏訪神社の祭礼「長崎くんち」の奉納踊りに』、『その様子を見ることが出来る』とある。ウィキの「媽祖」や、台湾のサイト「鹿港天后宮」のこちらなどによれば、媽祖(マーズゥー)は『航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられ、もっとも地位の高い神ともされる。その他には天妃、天上聖母、娘媽がある。台湾・福建省・潮州で特に強い信仰を集め、日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆しつつ広まった。親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もある。天上聖母、天妃娘娘』(ニャンニャン)『、海神娘娘、媽祖菩薩などともいう。また、媽祖を祭る廟を媽祖廟という』。『「媽」の音は漢音「ボ」・呉音「モ」で、「マ」の音は漢和辞典にはない。「ま」と読む他の語の例としては「阿媽(あま)」がある』(「阿媽」は中国語ではなく、ポルトガル語「ama」で、元、東アジア在住の外国人家庭に雇われていた現地人のメイドを指した語である)。『媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘』(モォーニャン)『が神となったものであるとされている。黙娘は』九六〇年、『興化軍莆田』(ほでん)『県湄州島』(びしゅうとう)の巡検役であった林愿』(りんげん/リンユェン)『の六女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが』、十六『歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし』、『「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。しかし』、二十八『歳の時に父が海難に遭い』、『行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ』、『神となったという伝承が伝わっている』。『なお、父を探しに船を出し』たが、『遭難したという伝承もある。福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている』。『媽祖信仰の盛んな浙江省の舟山群島(舟山市)には普陀山・洛迦山があり』、『渡海祈願の神としての観音菩薩との習合現象も見られる。もともとは天竺南方にあったとされる普陀落山と同一視された』。『媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)』(あらゆる悪の兆候や悪巧みを聞き分けて、いち早く媽祖に知らせる役目を持つ)『の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され』て『改心し、以降』、『媽祖の随神となった』という。『媽祖は当初』、『福建省の媽祖の故郷にある媽祖祖廟で祀られて、航海など』の『海に携わる事柄に利益があるとされ、泉州、潮州など中国南部の沿岸地方で特に信仰を集めていたが、時代が下るにつれ、次第に万物に利益がある神と考えられるようになった。歴代の皇帝からも媽祖は信奉され、元世祖の代』(一二八一年)『には護国明著天妃に、清代』の一六八四年には『天后に封じられた。媽祖を祀った廟が「天妃宮」、「天后宮」などとも呼ばれるのはこれが由縁である。また、明代には鄭和の遠征により、インドネシアにも信仰が伝わり、現地の女神「ラトゥ・キドル」にもなった。媽祖信仰は、福建省・潮州の商人が活動した沿海部一帯に広まり、東北の瀋陽や、華北の天津、煙台、青島をはじめとする多くの港町に媽祖廟が建てられた』とある。
「舩玉(ふなだま)」「船霊・船魂」日本の船の守護神。広く漁民に信仰され、嵐や大漁を「チンチン」と鳴いて知らせてくれるとの伝説がある。多くは船大工が管掌し、新造船の船下しの直前に船に込める。その神体は、元来は、男女の人形・銭十二文・骰子(さいころ・女性の毛髪や陰毛・化粧品などであるが、神仏習合にあっては、住吉大明神・金毘羅神・大日如来などを船霊神(ふなだまがみ)として祀る場合もある。
「關羽」(年〜二一九年)は三国時代の蜀の武将。河東(山西省)の人。張飛とともに劉備を助け、「赤壁の戦い」で大功をたてたが、後、呉に捕らえられて死んだ。後世、軍神として各地の関帝廟に祭られ、強力なパワーで災厄・疫病を退散させる存在として、現代にあっても中国人から圧倒的な信仰を受けている。
「梅(むめ)か島」不詳だが、国立国会図書館デジタルコレクションの冨嶌屋寛政八(一七九六)年板行の「長崎圖」を視認すると、現在の梅香崎町にごく近い位置が、海岸線となっており、そこに「梅ガサキ」と記してある。ここは位置的にも出島や「新地唐人荷物藏」及び「唐人屋敷」と、孰れも目と鼻の先であるから、ここの沖に、この名の小島・岩礁或いは岩を投げ込んで作った人口の船止め場があってもおかしくはなく、そこに停泊させたと考えると、ごく腑に落ちるのである。
「丸山町(まるやままち)・寄合町(よりあひまち)」二町並んでいて(ここ)、併せて「丸山」と呼んで、江戸時代には、全国有数の、外国人を相手にする芸者のいた異色の花街としてよく知られていた。
「御定法(ごでうはう)の御渡(おんわた)し物(もの)」幕府が公に許諾した中国とオランダとの「南蛮貿易」に於いて事前に定めた返書や返礼品。
「煎海鼡(いりこ)」ここは中国向けの「𤎅海鼠(いりこ)」(乾し海鼠)であろう。「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠(𤎅海鼠・海鼠膓)」を参照されたい。
「昆布」これも対中国用。昆布についは、この前の「日本山海名産図会 第五巻 昆布」も参照。
「干鮑(ほしあわび)」「第三巻 鰒」も参照。
「傘(からかさ)」日本の番傘は西洋近代以降、ヨーロッパでエキゾティクなものとして非常に好まれた。
「ふかの鰭(ひれ)」これも対中国向け。
「茯苓(ぶくれう)」歴史的仮名遣は「ぶくりやう」が正しい。「茯苓」「ブクリョウ」は菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa の漢方名。中国では食用としても好まれる。詳しくは「三州奇談卷之二 切通の茯苓」の私の冒頭注を参照。
「時の好みにも、任(まか)せらる」その時々のそれぞれの国の流行りなどにも対応する。本書は寛政一一(一七九九)年刊行で、近代は目と鼻の先に来ていた。
「宦聽御拂物(かんておんはらいもの)」「宦聽」は「官廰」に同じ。幕府が公に売りに出す物。「御拂物」(おはらひもの)とは、売り払うべき品物を「売り払う人」を敬って言った語。
「古格(こかく)の商人(あきうど)」古株で有力なの商人(あきんど)。
「入札(いれふだ)」物品売買に際して契約希望者が複数ある場合、金額などを文書で表示させ、その内容によって契約の相手を決めること。競争入札。]