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2021/06/30

日本山海名産図会 第五巻 異国産物

 

Tousennyutu

 

Bosaage

 

Nagasakitoujinyasiki

 

[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「唐舩入津(とうせんにうつ)」、第二図は「同菩薩揚(ぼさあげ)」、第三図は「長嵜唐人屋敷(ながさきとうじんやしき)新地御藏(しんちおくら)」。手前が「新地御藏」、橋を渡った向こうが「唐人屋敷」。]

 

  ○異國產物

○[やぶちゃん注:「○」で改行なのは、ママ。]

太閤秀吉公の時には、泉刕堺浦へ着きしを、其の後(のち)、肥前平戸に移り、元龜の頃より、長嵜に改まりて、今に絕ること、なし。此の地は、元來、山中(さんちう)なりしを、玉の浦深江といふを、切り開きて、今、萬家繁花(まんかはんくわ)の湊とはなれり。唐舩(とうせん)は、南京・北京(ほつきん)・ホクヂウ・チヤクチウ、其外、惣(すべ)て、一年に十三艘を來たす。先づ、藥種・絹布(けんふ)・砂糖・紙・器物(きぶつ)、其の余(よ)、云ひ盡しがたし。野茂(のも)。深堀(ふかほり)。西戸(にしと)。[やぶちゃん注:以上の三ヶ所の「。」は底本のママ。]の上(あ)ケ所(しよ)に遠見(とほみ)の眼鏡(めがね)を居(すへ)て、凡そ、海上(かいしやう)の四十里許りを見通し、入舩(にうせん)の影を見れば、追々、旛(はた)を立てて、宦聽(くわんてう)へ註進し(ちうしん)、舩の近づくを見れば、大通詞(おほつうし)・小通詞(こつうし)其の外、宦人(くわんしん)、舩を飛ばせて、是れを迎へ、唐舩に乘り移り、御朱印などの撿校(けんかう)を遂げて、着岸、荷揚(にあげ)を催すに、上荷船(うはにふね)數艘(すそう)を出だし、新地御藏(しんちおくら)へ納む。此の荷揚、終れば、「ぼさ揚(あげ)」と云ふこと、あり。是れは、すべて、船中に、「ぼさ」といふて、本邦の舩玉(ふなだま)に等しき宦人の姿(すかた)なる像(ぞう)を祭る。其の像を長嵜の寺へ預け、納むる。其の行裝(きやうそう)、甚だいかめしく、昼も挑灯(てうちん)を眞先(まつさき)に照らし、辻々にて、鉦(どら)をならし、棒を振りて踊躍(ゆやく)す【人、是れを「關羽の像なり」と云ふは誤りなり。】。舩は「梅(むめ)か島」といふ所につなぎ、人々、「唐人屋敷(とうじんやしき)」へ入りて、ともに、無事着(ぶじちやく)の賀宴(かえん)を設(まう)く。此の時、丸山町(まるやままち)・寄合町(よりあひまち)の遊女、あまた來たり、客を定めて、饗應す。此の後(のち)、出舩(しゆつせん)に臨んで、御定法(ごでうはう)の御渡(おんわた)し物(もの)・煎海鼡(いりこ)・昆布・干鮑(ほしあわび)・紙・傘(からかさ)・ぬり物・ふかの鰭(ひれ)・茯苓(ぶくれう)、其の外、小間物數品(すひん)、或ひは、時の好みにも、任(まか)せらる。又、唐物(とうもつ)は宦聽御拂物(かんておんはらいもの)となり、古格(こかく)の商人(あきうど)より、入札(いれふだ)して、是れを配分す。

[やぶちゃん注:「太閤秀吉公の時には、泉刕堺浦へ着きしを、其の後(のち)、肥前平戸に移り、元龜の頃より、長嵜に改まりて、今に絕ること、なし」この説明はおかしい。安土桃山時代の天正二〇(一五九二)年に、秀吉が初めて長崎・京都・堺の貿易商人に異国渡海の朱印状を出し、朱印船貿易が始まったが、平戸のそれは、それ以前で、松浦(まつら)氏第二十五代当主松浦隆信が南蛮貿易に進出し、平戸港にポルトガルの貿易船が初めて入港したのは、天文一九(一五五〇)年であり、同年九月にはフランシスコ・ザビエルが平戸に来航し、カトリックの布教を始める。永禄四(一五六一)年に宮ノ前事件(平戸港そばの七郎宮の露店でポルトガル商人と日本人との間で発生した暴動事件。発端は絹糸(又は絹織物)の交渉が決裂、町人が商品を投げつけたことから、ポルトガル商人が殴りかかり、双方入り乱れての乱闘に発展、見かねた武士が仲裁に入ったが、ポルトガル側は日本側への助太刀と勘違いし、船に戻って武装し、町人や武士団を襲撃した。武士団も抜刀して応戦し、ポルトガル側は船長以下十四名の死傷者を出し、平戸港を脱出した)が発生、翌年からポルトガル船の貿易港は大村藩領横瀬浦(現在の西海市西海町横瀬)に替わった。それでも、安土桃山時代の天正一二(一五八四)年には、イスパニアの貿易船が平戸に入港している。一方、長崎の方は、永禄一〇(一五六七)年に宣教師ルイス・デ・アルメイダによる布教が始まり、元亀元(一五七〇)年に大村氏第十二代当主大村純忠が長崎を開港、同二年にポルトガル船が初来航(〜寛永一六(一六三九)年まで続く)、純忠は天正八(一五八〇)年、長崎港周辺部と茂木(現在の長崎市茂木町)をイエズス会に寄進して、治外法権のイエズス会領となった。天正一〇(一五八二)年の天正遣欧少年使節出発のしたが、秀吉は天正十五年、長崎港での南蛮貿易独占のために「バテレン追放令」を布告し、翌年には長崎を直轄領とし、イエズス会城塞を破壊、鍋島直茂を代官とした。天正二〇(一五九二)年、秀吉は寺沢広高を初の長崎奉行に任命、慶長二(一五九七)年、豊臣秀吉による「日本二十六聖人」の処刑が執行された。江戸時代に入ると、慶長九(一六〇四)年に幕府が京都・堺・長崎に「糸割符制度」を導入し、翌慶長十年には長崎を幕府直轄領に移管し、長崎奉行小笠原一庵を派遣、慶長一七(一六一二)年、「禁教令」を発布してバテレン教会の破壊と布教を禁止、宣教師・信者は国外追放となった。元和二(一六二二)年、幕府は貿易港を平戸と長崎に限定している。長崎では寛永一二(一六三五)年に出島を完成させ、ポルトガル人を収容し、寛永十六年にはポルトガル人を追放した。寛永一八(一六四一)年、オランダ東インド会社の平戸商館が、出島に移転した。延宝元(一六七三)年に、イギリス船リターン号が来航し、通商を求めたが、拒絶し、この時、日本に来航できる欧州の国はオランダ一国のみに確定した。元禄二(一六八九)年、「唐人屋敷」・「新地唐人荷物蔵」が設置されている。その後、元禄三年、ドイツ人エンゲルベルト・ケンペルがオランダ商館付医師として来日、元禄一一(一六九八)年、長崎会所設置されている。一方、平戸の方は、慶長一四(一六〇九)年にオランダが商館を設置、慶長十八年にイギリスが商館を設置したが、元和九(一六二三)年を以ってイギリス商館は閉鎖された。先に示した寛永十八年のオランダ商館の長崎出島への移転を以って、平戸での「南蛮貿易」は終焉を迎えている。ここで「元龜」(一五七〇年から一五七三年まで。室町幕府将軍は足利義昭)とあるのは、どう考えても「元和」の誤りであろう。南蛮貿易が長崎・平戸に限定されるのが元和二年であり、平戸のイギリス商館が廃されるは元和九年で、元和は一六一五年から一六二四年までで元和十年で終わるからである。

「玉の浦深江」この附近の旧名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「長崎市」公式サイトである「ナガジン!」によれば、現在の長崎県長崎市恵美須町(えびすまち)の大半は、「瓊の浦(たまのうら)公園」が占めているが、「瓊ノ浦」(公園名は「瓊の浦」)とは長崎の古い呼名で、「瓊」は「美しい玉(宝石)」という意で、「美しい玉(宝石)のように光り輝く海、港」という意。また、かつて存在した付近の町名には、天正一三(一五八五)年頃から文禄元(一五九二)に開かれた内町の一つである「船津町」が残る。ここは、長崎で最も古い港で、付近一帯が船舶の発着場であり、金屋町にあった魚市場の船着き場でもあった。『これらの町名からも、江戸時代から明治時代まで、この近辺を流れる岩原川の河口を埋め立てながら、長崎のまちは発展していったことが理解でき』、『長年、この付近には、市民に愛された』「恵美須」・「大黒市場」があったが、近年、『老朽化のため』、『取り壊しとなり、これまで暗渠となっていたかつての岩原郷、立山付近を水源とする岩原川の水路が出現。長崎のまちの遠い記憶が甦ってくる風景を目にすることができ』るとある。「深江」は長崎県南島原深江町があるが、ここは明らかに長崎港の開削のことを言っており、位置が離れ過ぎるので、長崎湾の湾奥を示す一般名詞或いは、開拓以前のそこの呼称ででもあったのであろう。

「北京(ほつきん)」北京(ペキン)。

「ホクヂウ」「北戎(ほくじゆう(ほくじゅう)」か。古代の殷などを建設した遊牧民の古名で、当時の中国北方を指すか。

「チヤクチウ」いろいろな漢字を考えてみたが、不詳。

「野茂」長崎湾の南東に延びる長崎半島の先端にある長崎県長崎市野母町(のもまち)のことか。

「深堀」長崎半島中央西岸の長崎県長崎市深堀町(ふかほりまち)。

「西戸」不詳。現在の壱岐島に長崎県壱岐市勝本町(ちょう)西戸触(さいどふれ)があるが、ここは当時は平戸藩領であるから、違うし、だいたいからして、遠過ぎる。先の二箇所は場所といい、記載といい、異国船入津の長崎湾の監視の番所(「上(あ)ケ所(しよ)」(あげしょ)はそれであろう)であるから、地図を調べてみると、長崎湾の最深部に入る両岸に「西泊番所跡」(北西位置)と「戸町番所跡」(南東位置)を確認出来る。これは作者が「西泊(にしどまり:現在の呼称)」と「戸町(まち:同前)」を一緒くたに聴き違えた(勝手に圧縮してしまった)ものではなかろうか?

「大通詞(おほつうし)」「だいつうじ」とも呼び、長崎に置かれたオランダ語通訳官の長官。

「小通詞(こつうし)」江戸時代、長崎に置かれた唐通事・オランダ大通詞の長官大通事の補佐通訳の官人。

「宦人(くわんしん)」「官人」に同じ。通訳以外の長崎奉行所の諸役人。

「御朱印」朱印を押した書状。ここは特に当該国及び徳川幕府将軍が発給した海外渡航許可などの際に発行した公文書で、花押 の代わりに朱印を押したものの敬称。

「撿校(けんかう)」物事を調査し、考え合わせること。取り調べること。「けんげう(けんぎょう)」とも読む。

「上荷船(うはにふね)」貨物の出入りの多い港湾にあって、沖に停泊した商船の荷物を積卸し又は積込みを専門に行う小荷船。「瀬取船(せとりぶね)」「茶船」とも称し、小さなものは十石積みから大は百石積み級のものまであったが、港湾の事情により、船型・大きさとも相違する点が多い。近世では大坂の上荷船二十石積みが有名。江戸では「瀬取茶船」と呼んだ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「新地御藏(しんちおくら)」江戸時代に長崎の新地町(しんちまち)に造られた貨物倉庫である「新地蔵所(しんちくらしょ)」。「新地土蔵」とも呼ばれ、唐人は「貨庫」と呼んだ。ウィキの「新地蔵所」によれば、元禄一一(一六九八)年四月二十三日、『後興善町』(「うしろこうぜんまち」か:現在の興善町はここ)『から出火した火災により』、『当時長崎に入港していた唐船』二十『隻分の荷物を収納していた樺島町(椛島町)』(かばしままち:ここ)『の土蔵が全焼した』『ため、浜町』(はままち:ここ)『の海岸沿いを埋め立てて』、『人工島を築造し、そこに唐船専用の貨物を納める倉庫を建造することになった』。翌十二年、『土蔵持ち』三十九『人の申請により』、『着工し、その間』、『唐人の荷物は梅ヶ崎築地』(現在の長崎市梅香崎町であろう)『の土蔵を借りて収納した』。同十五年に『倉庫が完成し、梅ヶ崎の土蔵に収納された荷物はここに移された』。『普請費用の銀』四百四十『貫のうち』、二百『貫は幕府からの借り入れ金であった』。『島の構内は土塀で囲まれていて、出入り口は東側の正門と南東側の南門の』二『ヶ所。正門は新地橋』(ここ)『で西浜町』(現在は銀座町)『と、南門は石橋で広馬場や唐人屋敷』(跡はここ)『とそれぞれ結ばれていた。東西』七十『間』(約百二十七メートル)、『南北五十間』(約九十一メートル)『で総面積』三千五百『坪』、『土蔵』十二『棟(蔵は各』五『棟で計』六十『棟)で、唐船の荷物蔵』四十一『戸の他に、回銅入れ蔵、囲米蔵、海産物蔵、長崎会所荷蔵、籾米蔵があった。その他にも表門、長屋、水門、土神祠』(「どしんし」と読むか。所謂、本邦の「后土神祠(こうどのやしろ)」で、土地神を祀って、通常は鬼門を守る)『高札、検視場、荷役場、役人詰所があった。荷役場と改場は、水門に各』一『棟ずつ併設された』。『前面の梅ヶ崎に唐船居場(修理場)があり、港に入った唐船が丸荷役』(注に『検視その他の手続きを経て蔵所に荷揚げすること』とある)『を終えると、唐人は唐人屋敷に移り、唐船は居場に停泊させた』。『新地前には俵物役所が置かれ、中国向け輸出の俵物の買集所とされた』。宝永三(一七〇六)年には、『長崎奉行付普請方の普請』担当『となり、同五(一七〇八)年に『抜け荷対策として新地を含め』、『長崎湊内』六『ヶ所に湊御番所が新設された』。明和二(一七六五)年、『浜町側にあった長崎会所・唐通事・唐人屋敷乙名などの諸役人の詰所が南門付近に移された』。寛政一二(一八〇〇)年には『囲米籾蔵が西浜町から移転した』。『土蔵は後に』七十五『棟となり』、天保一四(一八四三)年当時で、『唐荷物蔵』三十五、『銅蔵』四、『御蔵』(幕府献納品の蔵か)十六、『俵物昆布蔵』五、『長崎会所請込物蔵』五、『御囲籾米蔵』八『などがあった』。『「仲宿」と呼ばれる長屋が近くに設置されており、輸入品を鑑定する目利や監督である町年寄がそこで仕事をして』おり、『倉庫所持者のうち』、三『名は新地頭人、他は蔵主と称された』とある。

「ぼさ揚(あげ)」個人ブログ「長崎んことかたらんば」の「唐寺と媽祖(菩薩)信仰1」に、『媽祖』(まそ)『は、航海の守護神で、菩薩(ぼさ)とか天后(てんこう)とも呼ばれ、中国の宋代に福建省で起こった土俗的な信仰であったが、元代になると航海神として江南地方から北京へ糧米を運ぶ全ての船舶に祀られるようになる。明代になると』、『東アジアの各地に広まり、長崎に来航する唐船には、必ずこの航海神媽祖が祀られていた。そこで、長崎港に碇泊中は、唐船から降ろした媽祖を安置する祠堂が必要となった。しだいに来航する唐船の数が増加して、郷幇(ごうはん・同郷出身者の仲間組織)が結成されると、その集会所に安置されるようになった。この集会所が後に唐寺として整備されていく』とあり、同「2」で、『この媽祖を唐船からおろして唐寺などの媽祖堂に安置することを「菩薩(ぼさ)揚げ」、反対に唐寺などの媽祖堂から唐船に乗せることを「菩薩(ぼさ)卸し」と呼んだ』。『「長崎名勝図絵」によると、その行列の様子は、香江(ヒヤンコン:菩薩役の唐人)が』二『箇の燈籠を先に立て』、『左右に並び、次に銅鑼や直庫(てっこ)と呼ばれる赤い布を結んだ棒を持つ唐人が並び、その次に媽姐の像を安置した輿がつづく。輿の両側には旗を持つ唐人やその後には蓋傘(かさ)を掲げる唐人らがおり、その後には唐人や唐通事や唐人番などの役人がつづく。道中、十字路に至るごとに銅鑼が鳴らされ、その進行方向に向って盛んに直庫が振られる。唐寺に到着しても同様で、山門や関帝堂(かんていどう)、媽姐堂の前などで銅鑼が鳴らされ、盛んに直庫が振られ、その後、媽姐や直庫を媽姐堂に納めて、唐人たちは唐人屋敷に帰る。なお、菩薩卸しの行列の様子も、この菩薩揚げの行列の様子とほぼ同様であったが、直庫の振り方などが少し違っていたといわれている』。『この媽祖行列は元和・寛永以来』、『幕末まで続いたが、幕末から明治維新の頃には唐船も途絶え、廃絶してしまった。今日では、長崎ランタン祭り、諏訪神社の祭礼「長崎くんち」の奉納踊りに』、『その様子を見ることが出来る』とある。ウィキの「媽祖」や、台湾のサイト鹿港天后宮」のこちらなどによれば、媽祖(マーズゥー)は『航海・漁業の守護神として、中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神。尊号としては、則天武后と同じ天后が付せられ、もっとも地位の高い神ともされる。その他には天妃、天上聖母、娘媽がある。台湾・福建省・潮州で特に強い信仰を集め、日本でもオトタチバナヒメ信仰と混淆しつつ広まった。親しみをこめて媽祖婆・阿媽などと呼ぶ場合もある。天上聖母、天妃娘娘』(ニャンニャン)『、海神娘娘、媽祖菩薩などともいう。また、媽祖を祭る廟を媽祖廟という』。『「媽」の音は漢音「ボ」・呉音「モ」で、「マ」の音は漢和辞典にはない。「ま」と読む他の語の例としては「阿媽(あま)」がある』(「阿媽」は中国語ではなく、ポルトガル語「ama」で、元、東アジア在住の外国人家庭に雇われていた現地人のメイドを指した語である)。『媽祖は宋代に実在した官吏の娘、黙娘』(モォーニャン)『が神となったものであるとされている。黙娘は』九六〇年、『興化軍莆田』(ほでん)『県湄州島』(びしゅうとう)の巡検役であった林愿』(りんげん/リンユェン)『の六女として生まれた。幼少の頃から才気煥発で信仰心も篤かったが』、十六『歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし』、『「通賢霊女」と呼ばれ崇められた。しかし』、二十八『歳の時に父が海難に遭い』、『行方知れずとなる。これに悲嘆した黙娘は旅立ち、その後、峨嵋山の山頂で仙人に誘われ』、『神となったという伝承が伝わっている』。『なお、父を探しに船を出し』たが、『遭難したという伝承もある。福建連江県にある媽祖島(馬祖列島、現在の南竿島とされる)に黙娘の遺体が打ち上げられたという伝承が残り、列島の名前の由来ともなっている』。『媽祖信仰の盛んな浙江省の舟山群島(舟山市)には普陀山・洛迦山があり』、『渡海祈願の神としての観音菩薩との習合現象も見られる。もともとは天竺南方にあったとされる普陀落山と同一視された』。『媽祖は千里眼(せんりがん)と順風耳(じゅんぷうじ)』(あらゆる悪の兆候や悪巧みを聞き分けて、いち早く媽祖に知らせる役目を持つ)『の二神を脇に付き従えている。この二神はもともと悪神であったが、媽祖によって調伏され』て『改心し、以降』、『媽祖の随神となった』という。『媽祖は当初』、『福建省の媽祖の故郷にある媽祖祖廟で祀られて、航海など』の『海に携わる事柄に利益があるとされ、泉州、潮州など中国南部の沿岸地方で特に信仰を集めていたが、時代が下るにつれ、次第に万物に利益がある神と考えられるようになった。歴代の皇帝からも媽祖は信奉され、元世祖の代』(一二八一年)『には護国明著天妃に、清代』の一六八四年には『天后に封じられた。媽祖を祀った廟が「天妃宮」、「天后宮」などとも呼ばれるのはこれが由縁である。また、明代には鄭和の遠征により、インドネシアにも信仰が伝わり、現地の女神「ラトゥ・キドル」にもなった。媽祖信仰は、福建省・潮州の商人が活動した沿海部一帯に広まり、東北の瀋陽や、華北の天津、煙台、青島をはじめとする多くの港町に媽祖廟が建てられた』とある。

「舩玉(ふなだま)」「船霊・船魂」日本の船の守護神。広く漁民に信仰され、嵐や大漁を「チンチン」と鳴いて知らせてくれるとの伝説がある。多くは船大工が管掌し、新造船の船下しの直前に船に込める。その神体は、元来は、男女の人形・銭十二文・骰子(さいころ・女性の毛髪や陰毛・化粧品などであるが、神仏習合にあっては、住吉大明神・金毘羅神・大日如来などを船霊神(ふなだまがみ)として祀る場合もある。

「關羽」(年〜二一九年)は三国時代の蜀の武将。河東(山西省)の人。張飛とともに劉備を助け、「赤壁の戦い」で大功をたてたが、後、呉に捕らえられて死んだ。後世、軍神として各地の関帝廟に祭られ、強力なパワーで災厄・疫病を退散させる存在として、現代にあっても中国人から圧倒的な信仰を受けている。

「梅(むめ)か島」不詳だが、国立国会図書館デジタルコレクションの冨嶌屋寛政八(一七九六)板行の「長崎圖」を視認すると、現在の梅香崎町にごく近い位置が、海岸線となっており、そこに「梅ガサキ」と記してある。ここは位置的にも出島や「新地唐人荷物藏」及び「唐人屋敷」と、孰れも目と鼻の先であるから、ここの沖に、この名の小島・岩礁或いは岩を投げ込んで作った人口の船止め場があってもおかしくはなく、そこに停泊させたと考えると、ごく腑に落ちるのである。

「丸山町(まるやままち)・寄合町(よりあひまち)」二町並んでいて(ここ)、併せて「丸山」と呼んで、江戸時代には、全国有数の、外国人を相手にする芸者のいた異色の花街としてよく知られていた。

「御定法(ごでうはう)の御渡(おんわた)し物(もの)」幕府が公に許諾した中国とオランダとの「南蛮貿易」に於いて事前に定めた返書や返礼品。

「煎海鼡(いりこ)」ここは中国向けの「𤎅海鼠(いりこ)」(乾し海鼠)であろう。「日本山海名産図会 第四巻 生海鼠(𤎅海鼠・海鼠膓)」を参照されたい。

「昆布」これも対中国用。昆布についは、この前の「日本山海名産図会 第五巻 昆布」も参照。

「干鮑(ほしあわび)」「第三巻 鰒」も参照。

「傘(からかさ)」日本の番傘は西洋近代以降、ヨーロッパでエキゾティクなものとして非常に好まれた。

「ふかの鰭(ひれ)」これも対中国向け。

「茯苓(ぶくれう)」歴史的仮名遣は「ぶくりやう」が正しい。「茯苓」「ブクリョウ」は菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa の漢方名。中国では食用としても好まれる。詳しくは「三州奇談卷之二 切通の茯苓」の私の冒頭注を参照。

「時の好みにも、任(まか)せらる」その時々のそれぞれの国の流行りなどにも対応する。本書は寛政一一(一七九九)年刊行で、近代は目と鼻の先に来ていた。

「宦聽御拂物(かんておんはらいもの)」「宦聽」は「官廰」に同じ。幕府が公に売りに出す物。「御拂物」(おはらひもの)とは、売り払うべき品物を「​売り払う人」を敬って言った語。

「古格(こかく)の商人(あきうど)」古株で有力なの商人(あきんど)。

「入札(いれふだ)」物品売買に際して契約希望者が複数ある場合、金額などを文書で表示させ、その内容によって契約の相手を決めること。競争入札。]

2021/06/29

日本山海名産図会 第五巻 昆布

 

   ○昆布(こんふ) ○和名「ヒロメ」。○一名「海布」。

是れは、六月土用中(ちう)にして、常に採ること、なし。同じく、蝦夷・松前・江刺・箱館なとにも採れり。小舟に乘り、鎌を持ち、水中に暫くありて、昆布を抱き、是れにつられて浮かむ。皆、海底の石に生(を)ひて、長さ、三、四尺より、十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]許りのものあり。たまたまには、石ともに、あぐるもあれども、十日ばかりにして、根、自(おのづか)ら離る。長きは、よき程に切りて、蝦夷松前の海濵の砂上(さじやう)・家の上・徃來の道に至るまで、一日乾(ほ)すこと、實(まこと)に錐(きり)を立つるの隙(ひま)もなし。暮に納めて、小家(こや)に積み、其の上に筵(むしろ)を覆ふこと、一夜(いちや)にして、汐(しほ)、浮きたるを、「荒昆布(あらこぶ)」と云【世俗に「蝦夷の家は昆布をもつて葺く」と云ふは、此の乾したるを見たるなるべし。家は、すべて板庇(いたひさ)し・板囲(いたかこ)ひなり。】。色、赤きを、上品として、僅かに其の階級を、わかてり。又、八、九月の比(ころ)、自然、打ちぐるを、「寄(よ)せ昆布(こんぶ)」と云ふ。○昔は越前敦賀に轉送して、若刕に傳(つた)ふ。小濱(こばま)の市人(いちひと)、是れを制して、「若狹昆布」と號(がう)す。若狹より京師に轉送して、京師、亦、是れを制して、「京昆布」と号す。味、最も勝(まさ)れり。

[やぶちゃん注:]以下、「此の毒を用ひず。」まで、底本では全体が三字下げ。]

○右は[やぶちゃん注:前の「肭獸(おつとつじう)」も含むので注意。、皆、俳諧行脚の人、松前往來の話に傳へきゝて、實に予が見及びしことにはあらず。尚、其の蝦夷人(ゑぞひと)の衣服などのことも聞きしに、先づ、㐧一には、日本の古手(ふるて)を貴(たつと)ひ[やぶちゃん注:そうじゃない! 幕府や松前藩が產品の対価の一部としては古着しか与えなかったからである!]、富(とみ)たるものゝ一鄕(こう)の社宴(しやゑん)などには、酒樽(しゆそん)を積みたる上に、かの日本の古手を、いくらもかさねて、裝飾す。又、かの地にて、織物は「ヲイヒヤウ」と云ふ木の皮也。色、黄にして、紋、有り。方言「アツシ」と云ひて、甚だ臭き物なり。元より、袵(ゑり)は、左に合はせ、シナの皮を帯(おひ)とす。男女(なんによ)とも常に浴湯(ゆあみ)せず。眉は兩眼(れうがん)の上に一文字(いちもんじ)に生(を)ひ、髮は勿論、鬚髭(くちひけ)ともに、切ることなければ、甚だ長し。食する時は、箸を左の手に持ちて、髭をあげて、啜り込む。酒は行器(ほかい)の如き物に入れて、杯(さかづき)は飯椀(めしわん)を用ゆ。其の椀、皆、巴(ともへ)の紋を付けたり。其の故を知らず。女人は皆、唇(くちびる)に入墨(いれすみ)して、男女とも、淚は鼻より流るなり。山野に出づるもの、皆、雪中といへども、蹤跣(はだし)にして、「腰ため弓」を持(ぢ)せり。最も、木弓(きゆみ)・木矢(きや)を用ゆ。又、「ブス」といひて、熊鹿を採る矢に塗る所の毒藥は、「イケマ」と云ふ草の根と、蜂をころして製せし物なりとぞ。但し、腽肭臍(おつとせい)には、此の毒を用ひず。

爲家卿の哥に、

   こさふかは曇りもそするみちのくのゑそに見せしな秋の

                         夜の月

又、紹巴の發句に、

   春の夜やゑぞかこさふく空の月

といへる。此の「こさ」と云ふもの、未だ何とも分明(ふんめう)に知る物なし。然(しか)るに、或る人の轉写に來たるもの、序(ついで)を以つて、こゝに圖す。

  十二捲(まき)【木の皮にて、卷き、作る。白き色に、すゝ竹色を帯たる、藤の蔓(つる)のごとき木のかわなり。惣長(さうなかさ)一尺二寸はかりなり。】

 

Fue

 

按ずるに、是れ、コサにはあるべからず。彼(か)の地の笛(ふへ)なるべし。もしや、口に汐(しほ)なとを含みて、空に向(むか)てふきあげ、其の邉(へん)の月影を曇らせて、漁捕(すなとり)しけるか。又、一說に、山中(さんちう)・海邉(かいへん)などへ出づるもの、落ちたる木(こ)の葉(は)を拾ひ、「きりきり」と卷きて、是れを吹くに、實(まこと)に笛の音(ね)を出だして、秋情(しうしやう)を催す。是を「コサ」とも云とぞ。

○俗傳に、義經、蝦夷わたりのこと、虛實、さだかならずといへども、是れ、正說(せいせつ)なり。海濱に「辨慶嵜(べんけいさき)」の名もあり、又、淸朝は「淸和(せいわ)の裔(ゑい)」と云ふも、即ち、義經、蝦夷より傳へ越したる、此の證とすべきことども、多きよしも聞けり。蝦夷より韃靼(たつたん)へは、近し。

[やぶちゃん注:私は恐らく変奇に近い海藻フリークで、変わった海藻加工食品を見ると、買わずにはいられず、コンブに至っては、嘗ては常時五種類以上のコンブを用意し、それをそのまま短冊形に切って保管し、いろいろ変えてはしゃぶるのを至福としていたほどである。私のコンブ類の考証は、古いものでは、「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「昆布」があり、比較的新しいものでは、「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」があるが、しかし、どうもそれらで示した学名が、今一つ、気に入っていない。そこでも紹介した、川井唯史・四ツ倉典滋氏の共同論文「北海道産コンブ属植物の系統分類の現状―リシリコンブを中心に―」(PDF・二〇〇五年三月発行『利尻研究』所収)の学名が、ウィキの「コンブ」とかなり異なることが、今も気になっているからである。

 ただ、広義のコンブ類を不等毛植物門褐藻綱コンブ目 Laminariales で総てを示すとなると、凡そコンブとは思われない形状の種群をも示さねばならなくなり、膨大な量になって、例えば、たびたびお世話になる鈴木雅大氏の優れた学術サイト「生きもの好きの語る自然誌」の「コンブ目 Order LAMINARIALES Migula, 1909」のページには亜種・変種・品種を含め、実に五十五種を越えるコンブ目の所属種を挙げておられる(二〇二〇年六月更新であるから、ここに載るコンブ目の学名は最新として安心して示すことができる)

 では、コンブ科 Laminariaceae に絞ればいいかと言うと、そう簡単には行かない。例えば、チガイソ科 Alariaceae の、広義のワカメ類に当たる、

アイヌワカメ属ホソバワカメ(細葉若布) Alaria angusta

チガイソ(千賀磯) Alaria crassifolia (リンク先に独立ページ有り)

アイヌワカメ Alaria praelonga

オニワカメ属オニワカメ(鬼若布) Eualaria fistulosa

などは、素人見には、藻体がコンブのようで、その長さもコンブ並みに長い種(オニワカメは長いもので二十メートルを超える。同種が生育する千島列島の海中景観は、真正のコンブ類の巨大種で「ジャイアント・ケルプ」(Giant kelp)として知られるコンブ科オオウキモ属オオウキモ Macrocsytis pyrifera のそれとよく似ているのである)があるからである。

 さらに、甚だ都合の悪いことに、作者が第一に「和名」と称して挙げている「ヒロメ」というのは、現在の標準和名では、モロにワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida の仲間である、

ヒロメ Undaria undarioides

に与えられてしまっているのである(なお、本邦産のワカメは他にアオワカメ Undaria peterseniana がある)。この「ヒロメ」は「広布」で、江戸時代には「昆布」を呼んでいた名として附には落ちるのであるが。なお、「こんぶ」の語源は、「宗谷総合振興局」公式サイトの「こんぶの基礎知識」によれば、『アイヌ語の「コンプ(konpu)」だといわれています。しかし、昔(平安時代)は海藻類は布のように薄く幅広いことから「め(布)」と表され、今でもワカメなど、「め」の付く海藻がたくさんあります。中でもコンブはその幅が広いことから「ひろめ(広布)」と呼ばれていたそうです。また、蝦夷(北海道)で獲れるので「えびすめ(夷布)」とも呼ばれ、七福神の恵比須に掛けて「福を授かる」意味としても捉えられていたようです』。『万葉仮名では「比呂米(ひろめ)」「衣比寿女(えびすめ)」と表され、奈良時代にはコンブが珍重されていた中国との主要交易品目だったそうです。「昆布」は、その中国で当てられた漢字だと云われています。しかし、実際に中国では昆布はワカメのことを指し、コンブは「海帯」と云っていたそうです』とある。

 逆に、コンブ科 Laminariaceae からコンブ目アナメ科 Agaraceae に移された、

アナメ属スジメ(筋布) Costaria costata鈴木氏の独立ページ有り

辺りは、私には強力な筋が入って凸凹し、穴も開いているものの、「ぼろぼろの駝鳥」ならぬ、「ぼろぼろの昆布」のように見える(成体は堅く、食用に向かないが、若いものは美味である)。但し、同属のアナメ属アナメ Agarum clathratum に至っては、穴だらけで、楕円形やそれが変形した塊りのような藻体であって、凡そ「昆布」とは思えない代物である。

 では、コンブ科 Laminariaceae に限って見てゆくと(但し、この科も向後、変更が行われる可能性が鈴木氏によって注されてあり、『Jackson et al. (2017) は,Petrov (1974) が記載したネコアシコンブ科(Arthrothamnaceae)を認め,分子系統解析の結果に基づき,ネコアシコンブ属(Arthrothamnus),カジメ属(Ecklonia),コンブ属(Saccharina),クロシオメ属(Streptophyllopsis)をネコアシコンブ科のメンバーとしました。Jackson et al. (2017)の見解に従うならば,Laminariaceae に所属する日本産種はゴヘイコンブ(Laminaria yezoensis)のみとなるので,Laminariaceae の和名は「ゴヘイコンブ科」になると考えられます。しかし,このグループの科の所属については,未だ不明瞭な所があり,今後も変動する可能性があります。Algaebase でもJackson et al. (2017)を引用してはいますが,2017年8月10日の時点ではネコアシコンブ科を認めておらず,ネコアシコンブ属,コンブ属,クロシオメ属はLaminariaceaeに,カジメ属はカジメ科(Lessoniaceae)のメンバーとされています。吉田ら(2015)「日本産海藻目録」におけるコンブ科,カジメ科の所属も Algaebase と同様です。しかし,Jackson et al. (2017), Kawai et al. (2017) など,近年実施された分子系統解析において,カジメ属を Lessoniaceae に含むことを支持する結果は得られておらず,カジメ属をカジメ科とすることには疑問があります。このグループの科の所属をどうしたら良いか,現時点では判断が付かないため,本サイトでは,少なくとも日本において最も一般的に用いられていると考えられるコンブ科(Laminariaceae)としました。今後の分類学的検討,科の整理が俟たれています』とある)、今度は、凡そコンブのようには見えない種群がそこに含まれているので困ることになる。所謂、藻高も低く(一~一・五メートル)ほどで、茎の上部に多くの分岐(十~二十枚前後)した葉を「はたき」状に広げている、

カジメ属カジメ(搗布)  Ecklonia cava 独立ページ有り

や、同属の、

クロメ(黒布) Ecklonia cava subsp. kurome 独立ページ有り

及び、それらに似る、やはり藻高が低い(三十センチメートルから一メートル)、

ツルアラメ(蔓荒布) Ecklonia cava subsp. stolonifer 独立ページ有り本邦では珍しい日本海特産

アラメ属アラメ(荒布) Eisenia bicyclis 独立ページ有り

がいるからである。これらは藻から、一般人が見ても「昆布」と認識することはないだろう。なお、最後のアラメは、茹でて乾燥させた品は日持ちがよく、また、非常に美味い。私は佐渡の漁師から、好意で、ただで、一塊り貰ったのだが、帰ってから調べてみると、結構、高価なものだったので、甚だ恐縮した。

 まず、確かに「昆布」とされそうな種は(前記の鈴木氏の「コンブ目 Order LAMINARIALES Migula, 1909」のページにある種について、実際の藻体を図鑑やネットで確認して選んだもので、コンブ目であっても、私が「昆布」とは思えない種は除外してある。可能な限り、漢字表記を添えた)、

ガゴメ属ガゴメ(コンブ)(籠目(昆布)) Kjellmaniella crassifolia

ネコアシコンブ属ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus (北海道東部のみに分布)

ゴヘイコンブ属ゴヘイコンブ(御幣昆布) Laminaria yezoensis (但し、本種は細い葉体の御幣状の特殊な形態を持ち、「昆布」の印象からは私は、若干、外れるように感ずる)

コンブ属ミツイシコンブ(三石昆布=日高昆布) Saccharina angustata

チヂミコンブ(縮昆布) Saccharina cichorioides

ガッガラコンブ(厚葉昆布)Saccharina coriacea

トロロコンブ Saccharina gyrata (間違えてはいけないのは、本種は「とろろ昆布」の原料にはならない。加工食品の「とろろ昆布」は以下のマコンブの加工品である)

マコンブ(真昆布) Saccharina japonica (他にマコンブ品種にドテメがあるが、この学名は旧 Laminaria japonica f. membranacea のままで、問題がある)

マコンブ変種ホソバオニコンブ(細葉鬼昆布) Saccharina japonica f. angustifolia

オニコンブ(=羅臼昆布) Saccharina diabolica var. diabolica

リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina ochotensis var. ochotensis

ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina religiosa var. religiosa

エナガオニコンブ(柄長鬼昆布) Saccharina japonica f. longipes

アツバミスジコンブ(厚葉三筋昆布) Saccharina kurilensis

カラフトコンブ(樺太昆布) Saccharina latissimi

ナガコンブ(長昆布=浜中昆布) Saccharina longissima

カラフトトロロコンブ Saccharina sachalinensis

エンドウコンブ Saccharina yendoana

を掲げておく。これで不満があった「昆布」候補種のリストが、取り敢えずは、満足できたと私は考えている。

「小舟に乘り、鎌を持ち、水中に暫くありて、昆布を抱き、是れにつられて浮かむ」私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 2 小樽から札幌へ コンブ漁を見る」(私のブログでの電子化。オリジナル注附き)がここの参照とするに、よいものであろう。

『昔は越前敦賀に轉送して、若刕に傳(つた)ふ。小濱(こばま)の市人(いちひと)、是れを制して、「若狹昆布」と號(がう)す。若狹より京師に轉送して、京師、亦、是れを制して、「京昆布」と号す。味、最も勝(まさ)れり』一等検級の良質の昆布をよく乾燥させ、輸送にも怠りなく保守し、途中の各所でも、管理をしっかり行っておれば、熟成して、京で最も優れた「昆布」となることは、腑に落ちる。

「右は、皆、俳諧行脚の人、松前往來の話に傳へきゝて、實に予が見及びしことにはあらず」既に前の「日本山海名産図会 第五巻 腽肭獣」の注で述べた通り、「腽肭獸」の記載も含めて「俳諧師見てきたやうな噓をつき」で、かなり眉に唾しておく必要があるように思われるのである。

「社宴(しやゑん)」アイヌの伝統的なカムイの祭祀であって、本邦の神道や神社があったわけではないので注意。ウィキの「カムイ」によれば、『アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと』で、『カムイという言葉は』、『多くの場合』、『ただ』、『「神」と訳されるが』、本来は『「荒神」と訳すべき時もある。例えば』、『カムイコタンとは「カムイの村」という意味だが、多くは地形上の難所などであり、「神の村」というより「恐ろしい荒神のいる場所」とした方が実際のイメージに近い』。『カムイは、本来』、『神々の世界であるカムイモシリ』『に所属しており、その本来の姿は』、『人間と同じだという。例えば』、『火のカムイであるアペフチカムイ』(「火の老婆のカムイ」の意)『なら』、『赤い小袖を着たおばあさんなど、そのものを連想させる姿と考えられている。そして』、『ある一定の使命を帯びて』、『人間の世界であるアイヌモシリにやってくる際、その使命に応じた衣服を身にまとうという。例えば』、『キムンカムイ』(「山にいるカムイ」)『が人間の世界にやってくる時にはヒグマの衣服(肉体)をまとってくる。言い換えれば』、『我々が目にするヒグマはすべて、人間の世界におけるカムイの仮の姿ということになる。名称ではキムンカムイ、コタンコロカムイ』(「集落を護るカムイ」。島梟=フクロウ目フクロウ科シマフクロウ属シマフクロウ Ketupa blakistoni を指す)、『レプンカムイ』(「沖にいるカムイ」。鯱=鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca を指す)『のように、「◯◯カムイ」などのように用いられる』。『また、カムイの有する「固有の能力」は人間に都合の良い物ばかりとは限らない。例えば』、『熱病をもたらす疫病神パヨカカムイ』(疱瘡(天然痘)や流行病を司る神であり、姿を見せずに弓を放ち、この矢を射る音を聞いた者は疱瘡に侵されるとされた)『なども、人智の及ばぬ力を振るう存在としてカムイと呼ばれる。このように、人間に災厄をもたらすカムイはウェンカムイ』(「悪しきカムイ」)『と呼ばれ、人間に恩恵をもたらすピリカカムイ』(「善きカムイ」)『と同様に畏怖される』。『語源には説がある。江戸時代中期の国学者谷川士清』(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年:伊勢出身の国学者)『が著わした国語辞典である』「和訓栞」(わくんのしおり/わくんかん:「倭訓栞」とも書く。国語辞書。九十三巻八十二冊。未完。没した翌安永六年から、後人の補訂で明治二〇(一八八七)年にかけて刊行された。古語・雅語・俗語・方言など、語を五十音順(第二音節まで)に配列し、語釈・出典・用例を示す。よく整備され、日本最初の近代的国語辞書とされる。一般には井上頼圀・小杉榲邨増補改正の「増補語林和訓栞」三冊(中編まで)が流布している)『には、古い時代に日本語の「かみ(神)」を借用したものらしいと書かれている』とある。豊田素行(もとゆき)氏のサイト内の『「和風」原論』に、アイヌ語で「カム」は「覆う、被さる」であり、和語の「かむ」は「入り組み隠れる」「奥深くある」と、『ほぼ意味が同じであることに注目しないわけにはい』かず、『人間の知や力を超えたものが背後に隠れている、覆われてある、それが和語、アイヌ語のカム(kamu)で』、『そのカム(カミ)にしだいに「神」の字が当てられ、固定されるようになったとみられる』とある。一つの説として共感はできる。

「ヲイヒヤウ」落葉性高木である被子植物門双子葉植物綱イラクサ目ニレ科ニレ属オヒョウ Ulmus laciniata 当該ウィキによれば、漢字表記は「於瓢」で、『日本列島から東北アジアの山地に分布する。日本の北海道に多い』。『別名アツシノキ(厚司の木)、ヤジナ(矢科)、ネバリジナ(粘科)』。『アイヌ語ではオヒョウの樹皮と繊維をアッ(at)、オヒョウの木をアッニ(atni)と呼ぶ。樺太の方言ではそれぞれアハ(ax)、アハニ(axni)という。また白浦地方』(旧樺太庁豊栄郡白縫村白浦(しらうら)。現在のロシア連邦サハリン州フスモリエ(Взморье)。ここ(グーグル・マップ・データ))『では樹皮をオピウ(opiw)とも呼び、「オヒョウ」の名称はこれに由来する』。『(オピウ opiw→ op-i-u→ iの後ろにuの重母音になるためuが子音化してwとなった。opは「尻のもの」の意で』、「槍の穂先をすげる柄」を指すが、「オㇷ゚」の語は「槍全体」も指す。「i」は「それ」、「u」は「両数・こちらとあちら」で、「槍とその持ち手」のことを指す。『つまり、槍を受けた獲物がそのまま逃げないよう、槍の柄にはロープが取り付けられている。狩人はそのロープを手繰って獲物を捕らえる。そのロープの材料にオヒョウニレの内皮を使っていたところからの呼び名ではないかと推論される。)』。『高さ約』二十五メートルで、『樹皮は縦に浅く裂け、剥がれ落ちる。樹皮の繊維は強靭。葉は広倒卵型で先端が』三~九『裂し、縁には重鋸歯が見られる。両面に白い短毛がびっしり生え、ざらついた手触り』である。四~五月の『新葉の出る前に、淡紅色の小花が束状に咲く。果実は長さ』二センチメートル『ほどの扁平な楕円形をした翼果で』、六『月頃、褐色に成熟する』。『樹皮(靭皮)の繊維は強靭で、アイヌはこれを染色して、アットゥシ(attus 厚司)という布や衣類を織る(同じ用途のシナノキより高級・希少とされる)』。『別名のアツシノキはこのことに由来』する。『樹木は器具材、薪炭材、パルプに利用できる』とある。

『方言「アツシ」と云ひて、甚だ臭き物なり』これはオヒョウの臭いではないのではないかと思われる。アイヌは魔除けに「チクペニ」と呼んだ、バラ亜綱マメ目マメ科イヌエンジュ属イヌエンジュ Maackia amurensis (犬槐)を使うが、このイヌエンジュの生木は独特の青臭い臭気があるという。魔除けに使うとなら、その臭いが服からしたとして、おかしくはない。以上は、個人ブログ「自然と音楽を愛する者」の「アイヌが魔除けに使う木イヌエンジュ」の記事から想像した。そこにある引用元「アイヌと自然 デジタル図鑑」のこちらを見たところ、『日本語名:エンジュ イヌエンジュ』・『アイヌ語名:チクペニ』・『利用:薬用、生活用具、祈り』・『山地や林内に生えるマメ科の高木です。秋にはマメのさやが実ります』。『アイヌ文化では、家の柱や墓標などに使われます。また』、『家の神などの木幣をこの木で作るという地域があります』。『独特のにおいに魔をはらう力があると考えられ、病気の神が来ないようにと家の戸口や窓にかけておいたり、木幣を作って分かれ道に立てたりします』。『当館の口承文芸データでは位の高い神として描かれ、大ヘビなどの悪神をたおし』、『人間を助けた昔話があります。』とあって、語り部の伝承も記されてあるので、是非、読まれたい。他に、そこの「アイヌ語辞典」には、『この木は、強いにおいを発するので悪神が近づかぬと信じ、枝を取って来て、あるいは皮とイケマの根と一緒にして、魔よけに戸口や窓口にさした。また、家の柱の材には、必ずこの木とハシドイとを混ぜて使った。その他、臼杵等の器材を作った(幌別)。家の神の木幣は、必ずこの木で作る。そういう大切な木だから粗末に扱ってはならない。たきぎなどにすることは決してない(様似)。悪疫流行の際は、この枝を取って来て棒幣を作り、他の部落に通じる分かれ道の所や、家の戸口、窓口などに立てた。陰萎(「オライ」o-ray[陰部・死ぬ])になった際、この木の皮を鍋に入れて、その湯気でふかすと効がある(美幌)』とあった。

「元より、袵(ゑり)は、左に合はせ」偏見による大嘘北海道立アイヌ民族文化研究センター編のアイヌ文化紹介小冊子「ポン カンピソ2 イミ 着る」PDF)の「アイヌの衣服についての昔の記録」の「5」ページ目に、江戸時代以前の記録について解説された中で、『これらの記録は、現物が残っていないものや今日では知られていない技術を知ることのできる重要な資料でもあります。他方で、こうした記録には、自分で観察しないで伝聞によって書いたものや、観察する側の思い込みで書いたものなどがあり、そのまま鵜呑みにはできないことがあります。例えば江戸時代の日本で描かれた絵画ではアイヌの人たちがみな左前で服を着ているようになっているものがあります。左前というのは昔の中国で野蛮な風俗とされたものです。実際には左右のどちらかを前にすることもあれば、体の前で合わせる衣服もあったのですが、アイヌ民族の風俗を「野蛮」なものだとする偏見がもとになって、こうした描かれ方になってしまったものです』とある。この冊子、写真も豊富で、詳細を極める。是非、保存されたい。以下の風俗解説も明らかに偏見としか思われない部分が多い。批判的に読まれたい。なお、近現代の差別の現状は、菊池千夏氏の論「アイヌの人々への差別の実像――生活史に刻まれた差別の実態――PDF・恐らくは小内透編著「現代アイヌの生活の歩みと意識の変容」(北海道アイヌ民族生活実態調査報告)・北海道大学アイヌ・先住民研究センター二〇一二年三月刊の「第七章」)を読まれたい。

「シナ」日本特産種である、被子植物門双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica当該ウィキによれば、『長野県の古名である信濃は、古くは「科野」と記したが、シナノキを多く産出したからだともいわれている』。『樹皮は「シナ皮」とよばれ、繊維が強く主にロープの材料とされてきたが、近年合成繊維のロープが普及したため、あまり使われなくなった。大型船舶の一部では未だに使用しているものがある』。『古くはこの木の樹皮をはぎ、ゆでて取り出した繊維で布を織り榀布(科布=しなぬの・しなふ)、まだ布、まんだ布と呼び、衣服なども作られ』『アイヌは衣類など織物を作るため』、『シナノキの繊維を使った。現在でもインテリア小物などの材料に使われる事もある』とある。

「行器(ほかい)」「外居」とも表記する。当該ウィキによれば、『中世から近世の日本において、儀礼の際に食物を運搬する目的で用いられた容器で』、『アイヌ語では「シントコ」と呼ばれる』。『行器は直径』三十~四十センチメートル『内外の円筒形で』、三本或いは四本の『脚を持つ蓋つきの漆器である』。『名称の「ほかい」は「ほかう」(祝う)の名詞形で、元来は神仏に食物を捧げる行為を意味し、 神饌を盛り付ける器だった』。『時代が下るにつれて供物以外にも、野遊びなどハレの行事の折に食物を持ち運ぶ用途にも用いられ、「行楽の器」として「行器」の字が当てられた。さらに「ほかい」の音に「外に居る際の器」の意をかけて「外居」との当て字も生まれた』。『実際に持ち運ぶ場合は、脚に絡ませた紐で蓋を固定したうえ、天秤棒に結わえる』。『行器はすでに平安時代より使用の痕跡が見られ、中世の風俗が詳細に記された』「春日権現験記」では、二つの『行器を天秤棒の前後に固定して持ち運ぶ人物が描かれている』。『この時代の行器は素木の曲物の基本形から大きく出ない簡素なものであった』。『近世以降は民間において出産や還暦祝いに赤飯や饅頭を行器に詰めて贈る風習が定着した。行器は家格を表すものとして、タガを嵌めて漆で蒔絵を施すなど、次第に複雑な技巧が凝らされていった』。『長野県佐久地方の一部では行器(ほかい・ほけえ)という風習がある。会葬者が、行器に白米または米粉などを詰め、香典と一緒に霊前に供えることを言う。なお行器を使用せず、布袋や紙袋の中に米など入れ、供える行為も「行器」と呼ぶ』。『また、会葬者が持ち寄った米などを行器添(ホケーゾエ)と言う』。『近世以降、北海道や樺太のアイヌ民族は日本本土より移入されたイタンキ(椀)、オッチケ(膳。折敷の訛り)、エトゥヌㇷ゚(片口)、エチュシ(湯桶)など漆器類をイコㇿ(宝物)として珍重してきたが、「シントコ」と呼ばれる行器は漆器類の中で最も重要視されていた』。『イオマンテ』(ヒグマなどの動物を殺して、その魂であるカムイを、神々の世界カムイモシリに送り帰す祭りのこと)『やイチャルパ(先祖供養)、チセイノミ(新築祝い)など重要な儀礼の際はシントコを儀礼時の容器としてトノト(どぶろく)を醸造し、カムイに捧げた後に客人に振るまった。さらにシントコは宝物として贈答品、あるいはチャランケ(談判、裁判)で負けた者が賠償として払う品とされた』。『かつてアイヌの社会では、多くの漆器類を所有している家が「猟運・商才に優れ、人望がある」富家と見なされ、特にシントコの数が家の格を示すものとされていた』とある。

「皆、巴(ともへ)の紋を付けたり」巴紋に限らず、もっとほかの表象紋もある。「幕別町」公式サイト内の郷土文化研究員小助川勝義氏の『「チロットのイトッパ」 ~家標~』を読まれたい。たまたま、内地の品物にあった巴紋がアイヌの人々のデザイン感覚に好ましく受け入れられたのであろう。

「女人は皆、唇(くちびる)に入墨(いれすみ)して」ウィキの「アイヌ文化」によれば、アイヌには『部族ごとに特徴的な刺青をする習慣があった。刺青は精霊信仰に伴う神の象徴とされる大切なものであった』。『特に知られているのは、成人女性が口の周りに入れる刺青である。髭を模した物であると思われているが、神聖な蛇の口を模したとする説もある。まず』、『年ごろになった女性の口の周りを、ハンノキの皮を煎じた湯で拭い清めて消毒する。ここにマキリ(小刀)の先で細かく傷をつけ、シラカバの樹皮を焚いて取った煤を擦り込む。施術にはかなりの苦痛が伴うため、幾度かに分けて、小刻みに刺青を入れる。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは北海道流沙郡平取のアイヌ集落に調査に入り、「アイヌの入れ墨は女だけに行われ、まだ』七、八『歳の女の子の上唇のすぐ上に、小刀で横に多発性に傷をつけ、そこに煤を刷り込むところから始まる。口ひげのようになるが、両端が口角部で上に向かう。口の周囲の入れ墨が済むと、手背と前腕の入れ墨が行われる。女が結婚するともう入れ墨はしない」と記している』。『また、男性の場合も地域ごとに様々な刺青の習慣があった。ある地域の男性は肩に、有る地域の男性は手の水かきの部分に刺青を入れると弓の腕があがって狩りが上手になるという言い伝えを持っていた』。『刺青の風習は和人には奇異なものに映り、江戸幕府や明治政府によって禁令が出された。明治政府による「入れ墨禁止令」は』、明治四(一八七一)年十月に『制定されたが、当時のアイヌ女性は刺青を入れぬと、神の怒りを買い』、『結婚もできぬと考えられていたため、あまり実効性が伴わなかった。そのため』明治九年九月に、『摘発と懲罰を科すことに改められ、宗教的自由の抑圧がおこなわれた。当時の日本に在住していたドイツの医師・博物学者であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、明治政府の刺青禁令に困惑するアイヌ民族より、この禁令に対する異議をシーボルト側から働きかけてもらえないか』、『と哀願されたとの記録を残している』。『現代では特に重要な行事において、フェイスペインティングとしてアイヌの女性が口の周りを黒く塗る事例もある』。『刺青の風習は縄文・弥生期の日本(邪馬台国頃まで)で盛んであり、大和化(大和朝廷)とともに和人社会では廃れていった。蝦夷には風習として残っていたが、和人と同化するにつれて消失した。奄美・琉球は近代まで』、『その風習が残存した。なお、現代のニュージーランド先住民のマオリの間では女性の顔面への刺青の習慣が復活しているが、アイヌ民族特有の刺青は行事の際にペイントによるフェイクに留まっており、本格的な伝統風習の復活にまでは至っていない』とある。

「山野に出づるもの、皆、雪中といへども、蹤跣(はだし)にして」嘘。「公益財団法人 アイヌ民族文化財団」公式サイト内の「アイヌ生活文化再現マニュアル」「縫う―チェプケリ・ユクケリ・トッカリケリ―」(PDF)を参照されたい。『アイヌの人々は、普段は裸足で生活していたといわれています。しかし、地形の悪いところや』、『山野へ猟にいく時などには靴を履いていました』。『靴はアイヌ語でケリといいます。鮭の皮や動物の毛皮、ブドウヅル、樹皮などさまざまな材料でつくられていました』。『雪の上を歩く時には、テシマやチンルというかんじきをつけることもありました』。『靴の中には、保温や除湿などのためにケロムンという草を入れて履いていたといわれています』とある。

「腰ため弓」「腰撓(た)め弓」なら、弓を腰辺りに当てて射出するタイプの弓を指すが、これは「腰溜め弓」で、両足を左右に開いて腰を溜めて姿勢を安定させて射る、中・小型の弓のことではなかろうか。オットセイ漁の図が、まさにそうした態勢をとっていることが判る。

「木弓(きゆみ)・木矢(きや)を用ゆ」だって、和人が金属を給与しなかったんだからな! 因みに「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 15 アイヌの家屋() 刀剣と矢筒 このフォルム! 好き!」には、矢筒の素敵なスケッチがある。

「ブス」「附子」(ぶす)。全草(特に根)に毒性の強い、現在も解毒剤のないアコニチン(aconitine)を含む双子葉植物綱モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の根から製する猛毒である。「北海道野生動物研究所」に門崎允昭氏の「アイヌとトリカブト」という詳細な研究が載り、それによれば、トリカブト毒に加えて、軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属 Dasyatis に属するアカエイ類の尾の毒針も用いられたとある。必見! なお、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 1 モース、アイヌの小屋を訪ねる」に毒鏃の記載が出、弓を射るという関連では、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 7 札幌にて() モース先生、間一髪!」も面白い。

「イケマ」双子葉植物綱リンドウ目ガガイモ科イケマ属イケマ Cynanchum caudatum 当該ウィキによれば、『全草、特に植物体を傷つけたときに出る白い汁(乳液)にシナンコトキシン』(Sinankotokisin)『などを含み』、『有毒である。誤食した場合、軽症では嘔吐が、重症では痙攣が起こる事がある。学名の Cynanchum とは、「犬を殺すもの」という意味であり、毒性によって犬を殺すことができるところから、この名前がついたという』。『蝶のアサギマダラ』(鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科マダラチョウ亜科アサギマダラ属アサギマダラParantica sita )『は、イケマの葉の裏側に産卵して、その幼虫が葉を食べて育つ。アサギマダラの幼虫は、鳥などの外敵から身を守るため、イケマの毒を体内に蓄積するといわれる』。『本種の和名「イケマ」は、アイヌ語で「それの足」を意味する「イ・ケマ」に由来する。この場合の「それ」は』「カムイ」(神)を『婉曲に指した言葉である。アイヌは本種を古くから呪術用、薬用、食用に用いられていた。本種の根を乾燥させたものを細かく刻み、紐を通したものをネックレスのように首から下げるか、小片をマタンプシ(鉢巻)に取り付けて魔よけとしたという。また、葬儀のとき、夜道の一人歩き、漁や旅のときにも身につけて、魔除けとして使われていた。若芽は天ぷらなどの食用に用いていた。根も焼いたり煮たりして食べていたが、生煮えだったり、食べ過ぎると中毒になった。漢方では、イケマの根を「午皮消根」というが、利尿、強壮、強心薬として、また、食中毒の解毒や腹痛、歯痛、風邪薬、回虫の駆除として使われていた』とある。

「腽肭臍(おつとせい)には、此の毒を用ひず」食用のためなら、これだけに使用しないというのは、ちょっと不思議。

「爲家卿の哥」「こさふかは曇りもそするみちのくのゑそに見せしな秋の夜の月」この歌、「夫木和歌抄」巻十三の「秋四」に載るが、同書の北岡本では、

 こさ吹かば曇りもやせん道のくの蝦夷には見せじ秋のよの月

となっており、別本では、

 こさ吹かば曇りもぞする道の暮れ人には見せじ秋のよの月

でしかも、西行の作となっている。しかし、小学館「日本国語大辞典」の「こさ」を引くと、「ふさ」=「息吹」が、古くに取り入れられたもので、『蝦夷(えぞ)の人が息をはくこと。また、それによって生じるという深い霧。蝦夷は口から気を吹いて霧を生ずる術を持ち、危険を感じると』、『それで身を隠すと信じられたことから出た』言葉という、奇体な意味を載せるが、以上の歌の異同を掲げた後、『作者についても異説が多い』とあるので、定家の三男である藤原為家の作とするものもあるのかも知れぬ。

「紹巴の發句」「春の夜やゑぞかこさふく空の月」「紹巴」(大永五(一五二五)年~慶長七(一六〇二)年)は室町末期の連歌師。奈良生まれ。父は松井姓で、興福寺一乗院の小者とも、湯屋を生業(なりわい)としていたともされる。後に師里村昌休(さとむらしょうきゅう)より姓を受けたので「里村紹巴」(さとむらじょうは)と呼ばれることが多い。号は臨江斎。十二歳で父を失い、興福寺明王院の喝食(かっしき:寺院に入って雑用を務めた少年)となり、その頃から連歌を学んだ。十九歳の時、奈良に来た連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は昌休に師事、三条西公条(きんえだ)に和歌や物語を学んだ。天文二〇(一五五一)年頃より、独立した連歌師として活動を始め、昌休の兄弟子であった宗養(そうよう)没後は第一人者としての地位を保った。三好長慶・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉らの戦国武将をはじめ公家・高僧らとも交渉があり、ともに連歌を詠むと同時に政治的にも活躍し、「本能寺の変」直前に光秀と連歌を詠み(「愛宕(あたご)百韻」)、変の後には、秀吉に句の吟味を受けたことはよく知られる。秀吉の側近として外交・人事などにも関わったが、文禄四(一五九五)年の秀次の切腹事件に連座して失脚し、失意のうちに没した。彼は連歌の社会的機能を重視し、連歌会の円滑な運営を中心としたため、作風や理論に新しみが少なく、連歌をマンネリ化させたとする評価も一部でなされているが、連歌を広く普及させた功績も大きく、優れた句もまま見られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。さて。ここまできて、この紹巴の身元を調べようと、検索しているうちに、句の原拠は探し得なかったかわりに、「瓢箪から駒」で、本書は寛政一一(一七九九)年刊だが、それ以前の、江戸中期の旅行家百井塘雨(?~寛政六(一七九四)年)の紀行「笈埃随筆」が、この作者のネタ本であることを発見してしまった。「古事類苑全文データベース」で、「蝦夷」の部に「〔笈埃隨筆〕松前」として(画像データはここと、ここ。孰れもPDF)、

   *

奧州津輕秋田の邊は、すべて北向なれば、常に陰風砂塵を飛して、天色平生ドンミリとして、大虛の碧瑠璃の色を見る事なし、吳竹集に、冷泉爲家卿の歌あり、

 胡砂ふかば曇りもやせん陸奧の蝦夷には見せそ秋の夜の月、とよめり、世に傳ふ蝦夷人は日本人と交易するに、若その價ひ相應せずして、夫を責はたらるヽ時は、耻て面を合せかね、胡砂を吹忽ち我姿を隱して遁るヽ故に、此和歌其心を含りとぞ、誠に奇事といふべし、

[やぶちゃん注:以下、底本画像では「【◯中略】」まで、全体が一字下げ。]

十方庵曰、紹巴の發句に、春の夜や蝦夷かこさ吹空の月といへり、コサとは彼地の笛の類にして、口に汐などを含み、空に向て吹上、其邊の月影をくもらせて漁捕しけるか、又一說に山中海邊などへ出るもの、落たる木の葉を拾ひ取、きりきりと卷て是を吹に、實に笛音出して愁情を催せり、是をコサと云なりとぞ、【◯中略】

或は蝦夷人は能霧を吐て身を陰すの術有、又は木の皮のいかにも厚きを卷て、簧と覺しき所に小さき竹あり、只空然たるのみ、水に浸して吹ば、只竹を打拔て、吹音の如し、是を胡障(コサ)といふ、胡障は則胡笳[やぶちゃん注:「こか」中国古代の北方民族の胡人が吹いたとされる蘆の葉で作った笛。]也、笛の聲に山氣立登て、月曇るともいへり、是か地の籟なり、

   *

とあったからである。ただ、私の所持する吉川弘文館随筆大成版は、版本が異なるらしく、これと同じ文字列を見出せない。類似しているのは、巻之四の冒頭にある「蝦夷」である。随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して全文を以下に示す。

   *

   ○蝦 夷

    胡砂ふかば曇もやせん陸奧の蝦夷にはみせそ秋の夜の月(吳竹集に)

世に傳ふ、蝦夷人は目本人と交易するに、若その價相應せず、夫を責はたらるゝ時は、耻て面を合せかね、胡砂を吹、忽ち我姿を隱して遁るゝ故に、此和歌その意をふくむと、誠に奇事なり。

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が一字下げ。]

 案るに、近頃彼地より渡りし笳[やぶちゃん注:「蘆笛(あしふえ)」のこと。]を見しに、木の皮いかにも厚きを、くるくると卷て綴りたるにて、箕[やぶちゃん注:これは先に示した「古事類苑」版の「簧」(音「コウ」・訓「した・ふえ」)が正しく、「笛の舌。吹くと振動して音を出すもの」の意である。]と覺しきところふき竹あり。只空然たるのみ。水に滿し吹ば、只竹を打拔て吹音のごとし。これを胡障といふ。形は笛の如し。是彼地の籟也。今右の說幷和歌のごとき奇事詳ならず。

抑蝦夷もとより文字なし。萬の事實をしるし傳ふる事なし。今に每年覺え置べき事は、繩を結び木に刻む。何年過ても忘るゝ事なし。松前商船抔も、勘定の時は彼結繩と刻木を取出し、去年の事を具に辨ずるに、一事として違ふ事なし。我國に通ずる事、人皇十二代景行天皇の御宇を始とす。それより數百年の間、或は叛き、或は從ひ、反服極りなかりしに、人皇五十代、桓武帝の御宇より、田村丸東征の後は敢て叛かず。また奧羽越後等の蝦夷も、兪々歸伏して、今僅に津輕と宿部に此遣種有り。頭少し剃て髮刺ず半額といふ是也。自ら松前の夷人と出會を望まず、系圖を立て別種とす。本邦の一蝦夷なり。蝦夷の唐土に見えしは、唐書通典等を始とする也。是も我國より巡行しなり。其地山嶽重疊として大河多し。北は韃靼に隣り、東は大海、南は津輕、西は海中島々多し。南北に長く凡四百八十里なり。西東は狹く三百六十里といへり。その人長六尺ばかり、髮を披り、髭長く、眼丸く大にして光あり。眉毛一に連り、顏色皆靑白く、女は嫁したる印には鼻の下に入墨して、衣服は大體アツシといふ物を着す。是木の皮を裂て織し物也。常に肉食して米穀を食はず。故に多く短命也。詞もまた通ぜず。近頃は大體詞も聞ゆる事あり。劒を背に負ひ、弓を挾み、或は長き矛樣のものにて山海を漁獵す。松前より船の通ふ地までは松前の支配なり。其奧キイタツフ。ソウヤと云ところまで出來り、交易をなすを奧蝦夷といふ。是まで凡海陸三百里計り、内六十里ほど松前の支配、ソウヤより北は地高麗に續きたり。西に熊石、東に龜田、この二ケ所關有。此にて往來を改む。故無くして關外蝦夷地へ行事を禁ず。松前城下は後に山を負て前は海也。東西家續き建つらねて一里計りあり。城は壘にて二の櫓有り。大手の兩側は家士の町也。城下三ケ所に高札あり。

 一從諸國松前渡海之輩對夷人商賣堅禁止之事。

 一無子細而松前人之渡海賣買侯者有之候はゞ急度可ㇾ致注進事。

  付暇夷人之儀雖ㇾ往來何所可ㇾ爲其心次第之事。

 一對蝦夷人非分之儀不ㇾ可申懸候事。

右之條々可相守之。若於違犯之族者任當家代々之先例速可ㇾ處嚴科者也。

   寬 文 四 年[やぶちゃん注:一六六四年。]

松前渡りは、津輕外が濱三馬屋より東風に任せ、海上は僅に十二里餘なれども、タツヒの沖に潮カラミ迚、三の潮筋ありて、洪水の激するが如くなれば、風緩き時は中々乘切難し。强き順風ならざれば潮に引流され、南部の沖へ行也。また夏は潮ヲコリ迚、巳の刻[やぶちゃん注:午前十時前後。]におこり未の刻[やぶちゃん注:午後二時前後。]計に止也。此時は海底より潮涌上り、四方の大浪もみ合て、水面三段ばかり高くなる。その時はいかなる順風たりとも、船いつかうに動く事能はず。然れども怪我はなし。浪靜るまで捨置なり。惣じて松前海岸かた濱にて、潮荒く岩石峙ちて、案内不ㇾ知舵は多くあやまちする也。また時として霧深く立時乘込めば、一向天日の光りも見えず暗夜のごとくなり。此時は方角を失ひ破船するなり。松前城下の商人は殘らず他國者也。江州八幡、薩摩、大隅、また加賀、能登、越中、出羽などより、百姓といふは津輕南部の者どもなり。其百姓田作せず。たゞ鯡を取るを業とす。誠に天下第一の大漁なり。春分十日過、此海にのみ自然と寄來るもふしぎなり。其時は武家も町家も松前の沖に男女老若出てとる。鯡十五に一ツを運上とす。凡廿日程の間、二三度も寄來るを取れば、翌年の此頃まで渡世暮方豐か也。干上て俵となし、小船にて餌指へ【繁昌第一也。海上八十八里。】𢌞せば、他國船集りて、鯡數の子の相場を立てゝ買取也。此事四月中に事濟也。五月になれば昆布取舟を出す。東海箱館の外海より蝦夷地へかけて六拾里計りの間也。尤海中の石に生ず。【宇賀といふも五十里の内に有り。昆布の名とす。】船より長き柄の付たる鎌にて刈て其根を切て、船は早速漕退くなり。早く遁ざれば、根の切れたる昆布くるくると海水を卷たてうかみ上る。故に船を覆す也。其長さ數十丈有り。扨引上、屋根にも砂濱にも干す。また屋根を葺たるも有り[やぶちゃん注:最後は本文で指摘された通りの誤認。]。上古より田を作らざれば米なし。津輕、秋田、酒田より𢌞る。領主は酒田の𢌞米四千五百俵充、每年御買受代金上納也。米は作らずしてかへつて米澤山なり。米八升を一俵とす。酒、椛、鹽、たばこ、染木綿、古手鍋、釜、庖丁、糸、針、きせるなど持渡る。上方通路は越前敦賀の船、順風に六日七日に着なり、北涯の地なるに、水の淸潔なる最賞すべし。西北は平地にて、東南に山深く、甚だ急に切立たるが如し。絕頂は金銀の氣、亦は硫黃の氣にて燒崩れたり。一國都て金、銀、銅、鐵多し。山川は云に及ばず。原野とても砂金多し。松前より三部乙部といふ所までは御巡檢地なり。東方龜田といふまで二十七里、又箱館といふ湊あり。繁昌の地なり。龜田土地宜しく、四方三里餘、平地を畑とし百姓もあり。此より三十里、東蝦夷地に臼が岳といふ山あり。絕頂燒て臼の如し。麓に善光寺の彌陀とて有り。夷人殊に尊敬す。奇瑞も有り。此所松前より往來を禁制なれば、囘國の僧など忍びて參詣す。麓は入江にて景色無雙也。この奧五六十里計りに尻別山と云ふあり。本朝の富士の山に似たり。夷中の高山なり。松前領の高山は仙見岳也。城下より八里。元蝦夷は、古へ肅愼靺鞨兀良哈[やぶちゃん注:「肅愼」(しゆくしん(しゅくしん))は満州(中国東北地方及び外満州)に住んでいたとされる狩猟民族。また、後にこの民族が住んでいた地域の名称ともなった。粛慎という呼び名は中国の周代・春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が「粛慎人」の自称を音訳したものであって「息慎」「稷慎(しょくしん)」とも表記される。「靺鞨」(まつかつ(まっかつ))は中国の隋唐時代に中国東北部・沿海州に存在した農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もっきつ)」の表記が変化したもの。前の「肅愼」の末裔ともされ、十六部族があったが、後に高句麗遺民とともに渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝・清朝を建国した北の黒水部の二つが主要な部族であった。「兀良哈」は「ウリャンハイ」と読み、明代に興安嶺の東に住んでいたモンゴル系種族。しばしば中国の北辺に侵入したことで知られる。]の種類也。韃靼は奧蝦夷より近し、黑潮の來る處を一日乘過れば卽韃靼の地也といふ。この黑潮といふものは東の大洋にあり。若し風緩き時は、この潮に引とられ、再び歸り來る事ならず。江戶刑船多く行衞知れざる事年々に有しは是也。【天池の水東流することは常理也。この地はしからず。東方に國あるゆへ潮北に流れ、蝦夷地へ落る事、松前の異事也。】蝦夷には千島とて、津輕外が濱より海中へ島々多く、絕景詞に盡し難し。一島一奇一岩一怪、見る每に神を含み靈を備ふ。惜い哉。邊鄙の勝景世に埋る事を、箱館島四山の岬、江とも島、エレモ島、蠟虎島等、又常盤島は夷地より五十里、每年本朝へ鴈の渡り來る島なり。巖峙ちて渡海なりがたし。冬は氷橋かゝり、氷浮橋と號す。四月中旬までは餘寒强く、雨每に霰交りの雪なり。四月の末より梅櫻咲かゝり、椿、藤、山吹は五月一同に咲。土用中大暑なく、七月中旬暑氣を覺ふ。然れども朝夕は冷なり。

   *

作者のコピペ、見切ったり!!!

「すゝ竹色」「煤竹色(すすたけいろ)」。囲炉裏や竈の煙に燻されて、煤けて古色を帯びた竹の色のような暗い茶褐色。参照したサイト「伝統色のいろは」のこちらを見られたい。

「是れ、コサにはあるべからず。彼(か)の地の笛(ふへ)なるべし」この「コサ」は先に注した奇体な「こさ」=「ふさ」=「息吹」という妖しいものではなくて、蝦夷地の草笛なのであろう、と言っているのである。まあ、穏当な解釈とは思う。

「もしや、口に汐(しほ)なとを含みて、空に向(むか)てふきあげ、其の邉(へん)の月影を曇らせて、漁捕(すなとり)しけるか」そないなことは、これ、できまへんて!

『又、一說に、山中(さんちう)・海邉(かいへん)などへ出づるもの、落ちたる木(こ)の葉(は)を拾ひ、「きりきり」と卷きて、是れを吹くに、實(まこと)に笛の音(ね)を出だして、秋情(しうしやう)を催す。是を「コサ」とも云とぞ』これは太田太郞氏の論文「アイヌの氣鳴樂器」(PDF・昭和二六(一九五一)年二月発行の『東洋音楽研究』所収・末尾にあるクレジットは昭和十九年五月一日である)の一五ページ以降の「2 コサ笛」で見事に考証されていある。かの金田一京助などは中国の「胡笳」から連想して作り上げた空想的産物だ、とのたもうたらしいが、太田氏はアイヌが吹き鳴らして合図とするために作った喇叭(ラッパ)類であるとされる。大いに賛同するものである。

「俗傳に、義經、蝦夷わたりのこと、虛實、さだかならずといへども、是れ、正說(せいせつ)なり」私は義経が生き延びて北海道に渡り、そこから大陸へ向かった可能性をあり得ない話として完全には否定しない人間である。

「「辨慶嵜(べんけいさき)」北海道寿都郡寿都町政泊町のここに弁慶岬として現存する。

「淸和(せいわ)の裔(ゑい)」清和源氏の祖清和天皇の謂い。]

2021/06/28

日本山海名産図会 第五巻 腽肭獣

 

Otutotu1

 

Otutotu2

 

[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「蝦夷人腽肭獸(ゑそひと をつとつ を とる)」で、オットセイを脅すための狐の尾が見え、見張り役の一匹だけ起きている彼が驚いている。後ろに、すやすやと眠る彼ら。後の注で明らかにするアイヌ独自の技術で造られた「イタオマチプ」(板綴り舟)に着目されたい。第二図は「同運上屋(うんじやうや)」。]

 

  ○腽肭獸(おつとつじう)

是れ、松前の產物といへども、蝦夷地(ゑそち)オシヤマンベといふ所にて、採るなり。寒中[やぶちゃん注:二十四節気の「小寒」(旧暦の十二月前半。新暦では一月五日頃)から大寒を経て立春(旧暦では十二月から一月。新暦では二月四日頃)前日まで。]の三十日より、二月に及ぶ。されども、春の物は、塩の利、あしきとて、貢献、必ず、寒中の物を、よしとす。蝦夷地に運上屋といひて、松前より、七、八十里東北にあり。最も、舟路、其の遠きこと、七、八百里もあることし、といへり。此の運上屋は、松前・奧刕・近江など、其の外、商人(あきひと)の出店(てみせ)ありて、先づ、松前より有司(ゆうし)下(くだ)り、其の交易を校監(こうかん)す。日本より渡す物は、米・塩・麺(かうじ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]・古手(ふるて)[やぶちゃん注:古着。]・たばこ・器物等(とう)にて、刄物は、なし。又、蝦夷(ゑぞ)の產は、海狗(かいく)・腽肭・熊・同膽(ゐ)・鹿の皮・鱈・鮭(さけ)・昆布・蚫(あはひ)・鱒・ニシン・數の子、等(とう)なり。其の内、蝦夷錦(ゑぞにしき)は、滿刕(まんしう)【韃靼(さらさん)にて、「エソ」へ近し。】の產にして、蝦夷地ソウヤと云ふ所へ、持ち渡る。又、熊は、先つ、子を手取(てとり)にして、其の翌日、親を捕れり。子は婦人の乳(ち)に養ひ、歯の生(お)ふるに至りて、雜物(そうぶつ)を食(しよく)せしめ、成長の後(のち)、材木にて、しめころしたるを、さらに薦(こも)にのせ、酒肉を具(そな)へ、祭りて後(のち)、膽を取り、肉を食(くら)ふ。

○腽肭獸(おつとつじう)をヲツトセイといふは、誤りなり。獸(けもの)の名は「ヲツトツ」なり。或る書に、「腽肭臍(おつとせい)」とかきしは、外腎(がいじん)の事にして、睾丸(きんたま)なり。藥用、是れを要(よう)として、肉の論は、すくなし。故に「陰莖(たけり)」といひて、貨賣(くわばい)する物、此の外、腎(じん)の間違ひなるべし。津輕南部よりも出でて、眞僞、甚だ紛らはし。是れ、種類、有るか故なり。海獺(かいたつ)・海狗(かいく)、一名とはすれども、是れ、種類の惣名(そうめう)なるべし。其の余(よ)、海豹(かいひやう)と云ふ有り。是れを和語に「アサラシ」と云ふ。皮に黒斑点(こくはんてん)有りて、腽肭に似たり。葦鹿(あじか)の同種なるべし。○海獺(かいたつ)は海の「カハヲソ」にて、是れ、全く、形狀(ぎやうぜう)、腽肭に相ひ似たり。是れを、別には、前の歯、二重(じう)に生(を)ふる物、眞(しん)の腽肭とす。又、一說には、二重齒(じうは)は、上齒(うはは)許りなり、ともいへり。又、頭上に、塩をふく一穴(いつけつ)有り。毛にかくれて、見えがたし。肉にても、百ヒロにても、寒水の内に投(とう)して、其の水、寒暖にして氷(こほ)らざる物、眞の腽肭と知るべし。

○陰莖(たけり)といふにも、僞物有りて、百ヒロを以て造るといへり。故に、毛、なし。号(なづ)けて「百ヒロタケリ」と云ふ。眞なる物は、三寸許り、赤色(あかいろ)にして、本(もと)に毛あり。全身、灰黒(うすくろ)。水獺(かはをそ)におなじくして、微(すこ)し、長し。顏は、猫に似て、小さし。口の吻鬚(ひげ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]、甚だ大(おほ)きし。※[やぶちゃん注:「※」=「口」+「思」。](あぎと)の次(つぎ)に、左右に、足、有り。大鰭(おほひれ)のごとし。後(うしろ)の足は尾の前に有りて、ともに、長さ一尺許り。其の尖(とがり)に五つの爪(つめ)あり。尾は細し。海底、最とも深き所に棲む。又は、海邉(かいへん)石上(せきじやう)に鼾睡(ひしい/いひき[やぶちゃん注:右/左のルビ。])す。或ひは群(くん)をなして、寐なから、流る。其の内、一疋、睡(めむ)らずして候(うかゞ)ひ、若(も)し、船、來たれば、忽ち、聲をあげて、睡りをさまさせ、水中に隱(かく)る。水を行く時は、半身を水上(すじやう)に出だして、能く游き、波を切ること、最も盛んなり。海獺(かいたつ)も、すべて、右にいふがごとく、今、「腽肭」といひて來たる物、多くは海獺にて、其の眞(しん)は得がたし。「南部一粒金丹(なんぶいちりうきんたん)」も、是れを、ゑらふを、第一とは、聞へたり。「本草」、集解に、『東海水中に出づる』と記せしは、是れ、中華も稀にして、即ち、日本より渡すとは見えたり。○ 蝦夷には、大(たい)を「ネツフ」、中を「チヨキ」、小を「ウネウ」と云ふ。是れ、眞(しん)の腽肭なり。鰭を「テツヒ」と云(いゝ)、一疋を「一羽(いちわ)」と云ふ。津輕にて此「テツヒ」を採りて「サカナ」とす。其の中(なか)に大なるを「ト」といへり。今、女兒(じよじ)の言(ことば)に、「魚」をさして「トヽ」と云ふは、若(も)しや、是れより言ひ來たりぬるも、しるべからず。中華にも此の言(こと)あり。

又、「夫木集」雜十八、「夢」の題に、建長八年百首歌合、衣笠内大臣(きぬかさないだいじん)、

 ┌─我(わが)戀は海驢(とど)の寢ながれさめやらぬ夢なりなから絕(たへ)やはてなん

と詠みたるは、海馬(かいば)の種類にて、別なり。又、「海驢(かいろ)」の文字を「日本記」神代卷(しんだいのまき)、龍宮の章に「ミチ(海驢[やぶちゃん注:左側にルビのように小文字で記す。])の皮」とも訓(よ)めり。

○捕猟(ほれう) 蝦夷人(ゑぞひと)、是れを捕ふに、縄にて、からみたる舟に乘りて、かの寢ながれの群(むれ)を見れば、狐(きつね)の尾を以つて、ふりて、かの起番(おきばん)の一羽(いちは)に見すれば、大(おほ)きに恐れて、聲を立てず。去(さ)るを待ちて、寢たる所を、弓、或ひはヤスなどにて、採ること、其の手練(しゅれん)、他(た)の及ぶ所にあらず。舟は、すべて、棹さす事、なし。前後(ぜんご)へ漕ぐなり。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字半下げ。]

○或ひは云ふ、「腽肭臍」といへは、「臍(ほぞ)」なるべし。然(しか)るに、『外腎也』とするは如何。或る書に、彼の臍を得んと欲(ほつ)して、松前・南部の人に覓(もと)むれども、兎角して、得がたし。此比(このころ)、圡人(とじん)の謂ふを聞けば、臍と陰莖と、甚はだ、通(ちか)し。故に、陰莖(いんきやう[やぶちゃん注:ママ。])を取る時、必ず、臍を損じて、全く、なし。或る人、云ふ。「是れ、雄(お)なり。」。其の雌(め)は、必ず、臍、あらんか。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus 。日本はキタオットセイの南限とされる。私の和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)」を参照されたい。

「松前」北海道道南地方の渡島半島南西部の、現在。渡島総合振興局管内の松前郡前町(まつまえちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「松前藩」によれば、『藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり』、『同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる』。幕末の慶応四(一八七二)年に、『居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の』一『万石格、幕末に』は三『万石格となった』。『江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部、渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった』。『江戸時代後期からは』、『しばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた』とある。おぞましい蝦夷支配の歴史はリンク先を読まれたい。

「オシヤマンベ」長万部。北海道渡島総合振興局北部の内浦湾湾奥にある山越郡長万部町(おしゃまんべちょう)。因みに、現在、北海道には百七十九の市町村(三十五市・百二十九町・十五村)と六十四の郡があるが、今の北海道では渡島総合振興局内の茅部郡森町を「もりまち」と読む以外は、町は全て「ちょう」である(森町は内浦湾南岸のここ)。

「寒中」二十四節気の「小寒」(旧暦の十二月前半。新暦では一月五日頃)から大寒を経て「立春」(旧暦では前年十二月から一月。新暦では二月四日頃)前日まで。

「春の物は、塩の利、あしき」気温上昇とともに塩蔵でも凍っていたものが溶け出し、腐りやすくなるからであろう。

「運上屋」松前からの方角と距離から見て、北海道後志総合振興局にある余市郡余市町であろう。「運上屋(家(や))」は、松前藩が設置し、場所請負人によって作られれた施設で、和人とアイヌとの交易場である。現存する運上家は「旧下ヨイチ運上家」一箇所のみである。ウィキの「旧下ヨイチ運上家」や、個人サイト「顧建築」の「下余市運上屋」(図や写真有り)を読まれたいが、後者には、『徳川幕藩体制下、最北の松前藩では、米の収穫が零であった。従って藩士達は』「場所」を『藩主からもらった。場所というのは、他の藩で言えば、米の収穫できる領地=知行地をもらうのであるが、米の穫れない松前藩では、その代りに場所一水産物が獲れる海辺の土地をもらい』、『水産物などを得、それを換金して、収入としていた。初めは、藩士が直接行なっていたのであろうが、やはり武家の商法、商人に請負わせた方がほるかに楽であった。こうした場所請負制は、享保年間』(一七〇〇年代初め)『には、確立していたとされている』。『場所請負人が設置、建築した建物が、運上家(屋)である。運上屋の業務は場所の請負金を、場所持ちの武士に払うだけではなく、対アイヌ政策の出先機関でもあり、駅逓などの諸業務も負わされていた』。『話が横道にそれるが、日本海側に多く存在する番屋とは、この運上』屋『の出先機関が語源であろうとも言われている』。『運上屋の数については、年代によっても異なるが、全部で』八十『を超える数であったようである。しかし現存する運上』屋『は、下余市運上家と古平運上屋の二つの遺構であるという』。『後者については、規模も小さく、建築時からの改変も著しいものであるという』。『北海道の開拓の上でも、場所請負いというこの制度は見逃せないものであり、そういう意味でも大切にしたい建物である』とある。

「有司(ゆうし)」藩の正規の役人。

「校監(こうかん)」取り調べて監督すること。

「刄物は、なし」藩政(或いは幕府)の強制支配の意図がよく判る。

「海狗(かいく)」現行ではオットセイの異名であるが、ここは同じ鰭脚類のアザラシ(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 水豹(あざらし) (アザラシ)」を参照)やアシカ(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)」を参照)などを指すととっておく。

「熊」食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ Ursus arctos

「膽(ゐ)」所謂「熊の胆」「熊胆(ゆうたん)」。熊の胆汁の入った胆嚢を乾燥させたもの。暗黒褐色の卵円板状を成し、健胃薬・強壮薬として古くから用いられた。

「蝦夷錦(ゑぞにしき)」当該ウィキによれば、『蝦夷錦(えぞにしき)・山丹服(さんたんふく)は、江戸時代に松前藩がアイヌ民族を介した交易で、黒竜江下流から来航する民族から入手した、中国本土産絹や清朝官服のことである』。『かつて中華王朝の明や満州族が建国したツングース系の清王朝は、外交関係を結んだ周辺国や周辺民族から貢物を贈られ返礼品を下賜する交流を行っており、ウリチをはじめとする他のツングース系民族にも清朝の品や中国本土の物産が伝わっていた。黒竜江下流域(沿海州)には、現在「山丹人」に比定されるウリチが住んでいた』。『江戸時代、蝦夷地の樺太や宗谷に山丹人が来航し、松前藩は当時蝦夷と呼ばれたアイヌを仲介して彼らと交易を行った。これが山丹交易である。その交易で様々な中国本土や清朝の品がもたらされ、その代表的な例が雲竜(うんりゅう)などを織り出した満州族風の錦の官服・蝦夷錦である。当時の参勤交代の際、松前藩主がその清朝風の錦を着て将軍に謁見したところ、将軍は華美なその錦を大いに気に入った。以降、松前藩は錦を幕府に献上するようになった』。『その際、松前藩はこれが清からもたらされたものだということを知っていたが、それを隠して』「蝦夷錦」と『呼び、錦の輸入を独占した。しかし、その陰には、苦境に立つアイヌがいたのである。アイヌは蝦夷錦入手のため』、『多額の累積債務を抱え、借財のかたに連れ去られるなど』、『山丹人との間に軋轢があり、蝦夷地が幕府直轄領となった際発覚し』、『問題となった』。『幕府の役人で樺太に詰めた松田伝十郎はアイヌの債務を調査し、支払不可能な分を松前奉行が立て替えて山丹人に支払い、アイヌは債務から救済された』。『同時に、松前奉行は山丹交易を直営化、アイヌの大陸渡航も禁じた。また、その後』、『山丹人は白主会所』(しらぬしかいしょ:寛政二(一七九〇)年に樺太南端の本斗郡(ほんとぐん)好仁村白主に松前藩が設置した樺太商場(場所)。国土地理院所蔵「蝦夷闔境輿地全図(「古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)で樺太(サハリン島)の南端を拡大して見られたい。「シラヌシ」とある)『において江戸幕府に対する朝貢をおこなう結果となった』とある。

「韃靼(さらさん)」「だつたん(だったん)」は本来はモンゴル系部族の一つで、八世紀頃から東モンゴリアに現われ、後にモンゴル帝国に併合された。宋ではモンゴルを「黒韃靼」、トルコ系部族オングートを「白韃靼」と称し、明では滅亡後、北方に逃れた元の遺民を韃靼と称した。外来語では「タタール」である。「さらさん」は全く異なる「サラセン」(古代ギリシア・ローマ世界でのアラビア北部のアラブ人の呼称。また、中世、ヨーロッパ人がイスラム教徒を呼んだ語で、イスラム帝国(サラセン帝国)の通称ともされた)を誤って当てて、訛ったものであろう。実際には「沿海地方」を指す。現在はロシア領であるが、『歴史的にはツングース系などの北方諸民族が活動してきた地域で、渤海や金などの統治下に置かれた。また』、『ツングース系の満州人が建国した清の故地・満州の一部で、中国人などの入植は規制されていた。この地方は多くの毛皮が採れるほか、この地を通じた山丹貿易で樺太のアイヌのもたらす毛皮も多く、清にとっては毛皮の産地として重要であった。西洋人には満州民族の居住地、満州の一部(外満州)として知られ』、十九『世紀には清の入植規制が緩み、李氏朝鮮の圧政を逃れてきた朝鮮民族も定住した』とウィキの「沿海地方」にある。

「ソウヤ」北海道稚内市宗谷岬から南西の稚内附近。

『腽肭獸(おつとつじう)をヲツトセイといふは、誤りなり。獸(けもの)の名は「ヲツトツ」なり』ウィキの「オットセイ」によれば、『オットセイはアイヌ語で「オンネカムイ(onne-kamuy、「老大な神」を意味する)」、「オンネプ(onnep、老大なもの)」、「ウネウ(unew)」と呼ばれていた』。『それが中国語で「膃肭」と音訳され、そのペニスは「膃肭臍」と呼ばれ』、『精力剤とされていた。現代の中国語では「海狗」と呼ばれる』。『日本では』文明本「節用集」に「膃肭臍(ヲットッセイ)」の表記が見られるほか』、江戸時代頃には、『生薬名が種を指す言葉になっており』、「和漢三才図会」でも『「をっとつせい」で解説されている』(私の和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)」を参照)。『あまりにも一般的になったため』、昭和三二(一九五七)年に(私の生まれた年である)、『北太平洋のオットセイの保存に関する暫定条約が締結された際、出席した日本代表団がオットセイを英語であると誤解』し、『英語でオットセイと説明しても理解されず、何回か発音を変えて言い直しを行うニュース映像が残されている。なお』、『日本語では「膃肭獣」と書いて「おっとつじゅう」と読むが』、「臘虎膃肭獣猟獲取締法」(らっこおっとつじゅうりょうかくとりしまりほう:明治四五(一九一二)年四月二十二日公布)では、『同じ字を「おっとせい」と読んでいる』。『東北地方の海岸まで流されることもあり、三陸地方で「沖の犬」と呼ばれる生物の正体とされる』。『英語ではfur seal(毛皮アザラシ)と呼ばれ、アザラシよりも質の良い毛皮が取れるため、この名前がついたといわれている』とある。

「外腎(がいじん)」睾丸。

「要(よう)」最も大切な部位。

「肉の論は、すくなし」「日本オルソ株式会社」公式サイト内の4)三大要素:カロペプタイド」に(Carropeptide:アミノ酸とペプチドの混合物)、『北オットセイの筋肉から特殊な方法で分解抽出したペプチドで』、十八『種類のアミノ酸(必須アミノ酸全てを含む)を含むタンパク価の高い、最高質のタンパク源と言われて』おり、『オットセイの肉は古来より強精強壮薬として珍重され、徳川家康の持薬であったという記録も残ってい』るとし、『また、カロペプタイドは、ほかのペプタイドに比べると、生理活性の働きがはるかに優れてい』るとあり、『主な働き』として、『毛細血管を拡張し、新陳代謝を促進』し、『新陳代謝機能を増進させ、老化ならびに病的組織の活力を高める効果が大き』く、『血圧降下作用』・『鎮痛効果』・『美容的効果』、及び『肝臓の機能回復に有効で、解毒作用が高まる』とし、『老化防止効果』もあるとある。

「海獺(かいたつ)」既注のアシカの異名。また、ラッコ(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獵虎(らつこ) (ラッコ)」参照)の異名でもある。

「種類の惣名(そうめう)なるべし」概ね正しい。海棲哺乳類及び同鰭脚類の小・中型の動物の総称である。

『海豹(かいひやう)と云ふ有り。是れを和語に「アサラシ」と云ふ。皮に黒斑点(こくはんてん)有りて、腽肭に似たり』「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 水豹(あざらし) (アザラシ)」を参照。

「葦鹿(あじか)」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)」を参照。ウィキの「アシカ」によれば、『北海道を除く日本本土近海に生息するアシカ類は、絶滅したと見られるニホンアシカのみであり、この語も本来はニホンアシカを指したものである』。『「あしか」の語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。古くは「海(あま)鹿」説もあったが、アクセントから否定されている』。『奈良時代には「みち」』(☜)『と呼ばれていた。他に異名として「うみおそ(うみうそ)」「うみかぶろ」がある』「うみおそ」は『海にいるカワウソ』の意で、「うみかぶろ」は『海にいる禿』(かむろ:昔の遊女見習いの幼女をさす語)『の意である』。『佐渡島では』、『この「うみかぶろ」(海禿)の名で妖怪視されており、両津港近辺の海でよく人を騙したという伝承がある』とある。最後の話は、私が電子化注した中でも最も偏愛する「佐渡怪談藻鹽草」の「小川權助河童と組し事」の私の注を見られたい。

「カハヲソ」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を参照されたい。

「前の歯、二重(じう)に生(を)ふる物、眞(しん)の腽肭とす。又、一說には、二重齒(じうは)は、上齒(うはは)許りなり、ともいへり」これは作者が怪しい誰かから吹き込まれた大嘘ではないか? 歯が二重に生えている海棲哺乳類なんていないんじゃないかと思う。因みに、オットセイでは、乳歯は母体内にいる際に早々と抜けてしまい、産まれてきた時には既に永久歯が生えているそうである。これは個人サイト「看板HP」のこちらの記事に拠った。実はこの条の後に続く「昆布」の一節に『右は[やぶちゃん注:この「腽肭獸(おつとつじう)」も含むので注意。]、皆、俳諧行脚の人、松前往來の話に傳へきゝて、實に予が見及びしことにはあらず』とあるのである。「俳諧師見てきたやうな噓をつき」でおじゃるよ。

「陰莖(たけり)」勃起して猛(たけ)り立つ物の意であろう。

「百ヒロ」「百尋」。長い腸のこと。鯨のそれが有名。私の大好物。

にても、寒水の内に投(とう)して、其の水、寒暖にして氷(こほ)らざる物、眞の腽肭と知るべし。

「※(あぎと)」(「※」=「口」+「思」)ここは顎(あご)のこと。

「南部一粒金丹(なんぶいちりうきんたん)」サイト「津軽デジタル風土記」の「一粒金丹治症/一粒金丹試功」から引く(天明八(一七七八)年(推定)及び寛政十一(一七九九)年刊本の本薬についての板行されたものの一部画像が見られる)。『弘前藩が製造し、江戸時代を通じて巷間に知られた秘薬として「一粒金丹」がある。鎮静剤や強壮剤として用いられ、下痢や脳卒中の後遺症などにも効能があるとされた』。『その製造は、四代藩主・津軽信政の懇願により、岡山藩の支藩として一万五千石を領し、後に幕府の奏者番を務めた池田丹波守輝録から、その藩医・木村道石を通して、元禄二年(一六八九)に弘前藩医・和田玄良へ製法が伝えられたことに始まる。以後、弘前藩では、和田家をはじめ、国元と江戸常府の限られた藩医(「弘前藩庁日記(御国)(以下「国日記」)」文化十三年(一八一六)二月十八日条では一粒金丹の伝法は国元四人・江戸三人の七人に限ることを決定)にのみ製造方法を伝授する方法で、製造法の伝承を管理した。一例として、松木明・松木明知』「津軽の医史」に『掲載された嘉永三年(一八五〇)の渋江抽斎から中丸昌庵への製造方法伝授においては、藩の用人兼松久通から製造方法の伝授について許可する旨の書状が出されるなど、藩が主体的に伝承体制を維持管理すると共に、伝承体制の整備が品質の確保につながるという認識を持っていたと考えられる』。『一粒金丹は、阿芙蓉すなわち阿片』(!☜!)『を主成分とし、他に膃肭臍(オットセイの陰茎)』(☜)・『麝香・辰砂・龍脳・原蚕蛾・射干などを薬種として製造されるが、阿芙蓉は、弘前藩の特産品として有名であったとされ、オットセイは松前・南部と共に津軽が主要な捕獲地とされていた。「国日記」では、藩領内で芥子の栽培が実施され、阿芙蓉の採取が行われていたことが確認でき、また、膃肭臍については領内アイヌからのオットセイの献上について散見される。これらの記録から、阿芙蓉と膃肭臍を他地域より比較的容易に入手できたことが、弘前藩の一粒金丹製造を大きく前進させ、全国的なブランドに押し上げた要因だったと考えられる』とある。

『「本草」、集解に、『東海水中に出づる』』李時珍の「本草綱目」の巻五十一下の「獸之二」の「膃肭獸」の「集解」の記載の一節に、

   *

李珣曰はく、『按ずるに、「臨海志」に云はく、『東海の水中に出づ。狀(かたち)、鹿の形のごとく、頭(かしら)、狗(いぬ)に似たり。長き尾。每日、出でて、卽ち、浮かび、水面に在り。崑崙家、弓矢を以つて、之れを射て、其の外腎を取りて、隂乾しすること、百日、味、甘く、香、美なり。』と。』。

   *

とある。「崑崙家」というのは意味不明。崑崙は内陸の西方(黄河の源)でおかしい。或いは北方の少数民族の名前で「クンルン」に近い発音の族名に漢字を当てたものか? 「本草綱目」の海産生物の記載は誤りが多いが、これは概ね信じてよい内容と私には見受けられる。

『蝦夷には、大(たい)を「ネツフ」、中を「チヨキ」、小を「ウネウ」と云ふ』平凡社「世界大百科事典」の「オットセイ(膃肭臍)」では、本書のこの部分を引用した後、『アイヌ語でオンネプ onnep は成獣の雌』、『あるいは雄をいったらしい(《分類アイヌ語辞典》)』とある。

『鰭を「テツヒ」と云(いゝ)、一疋を「一羽(いちわ)」と云ふ。津輕にて此「テツヒ」を採りて「サカナ」とす』「サカナ」がカタカナなのはよく判らないが、魚でないのに「魚(さかな)」として食している。これは肉食(にくじき)を禁じた仏教の「肉食(ししぐい)」に当たるのを誤魔化すためであろう(「膃肭獸」と書く如く、江戸時代に於いても彼らが獣(けもの)として認識されていたことは疑いようがない)。さすれば、『大なるを「ト」といへり』というのも、前にあるように、前脚が平たくて鳥の翼のようだから、「一羽」(いちは)と数えるとなら、「ト」とは「鳥(とり)」の縮約であるようにも思われてくる。さて。そんな語源考証はどうでもいい。「テツヒ」について述べる。素敵な個人サイト「アイヌ学 : アイヌの生業」の「オットセイ猟」が、カラーの絵図が掲げられ、多数の書籍を渉猟していて驚くほど詳しいのだが、そこに、かの江戸後期の大旅行家にして優れた博物学者であった三河国吉田生まれの菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の「蝦夷逎天布利(えぞのてぶり)」の一節が載っており、そこに「テツヒ」が出現する。同旅行記は、毎年、夏の「昆布刈り」に東蝦夷地へ行く漁師の舟があることを松前で聴き伝えた彼が、松前藩主松前道広から発行された特別な通行手形を携えて、寛政三(一七九一)年五月二十四日に福山(松前町)を発ち、「有珠山詣で」の旅に出かけた素晴らしい北海道紀行である(松前へ帰ったのは七月半ば以降)。リンク先に示された国立国会図書館デジタルコレクションの柳田國男監修「秋田叢書」の「別集」菅江眞澄集 第四」の当該部(頭書「海狗漁の話」」が始まり)を視認して電子化する。頭書(かしらがき)があるが、これは柳田國男が附したものと思われるので、除外した。長万部での六月の記録である(この作品、電子化したい!)。

   *

五日。つとめて風吹浪たち、雨さへふれば出たゝず。あるし靑山しげよしいへらく、ことしは海狗(ウネオ)多かりつれど、去年の冬は海のあれて、おもふにたがひしかと、卯月の漁(レバ)もよかりけるなと語れり。此ウネヲてふものは頭(シヤバ)は猫に似て、身(むくろ)は獺(をそ)にことならぬ獣也。もろこし人は膃肭といふものゝ、それが臍(ハング)といへどもしからず、まことは、それが雄元(チエヰ/たけり[やぶちゃん注:右/左のルビ。以下同じ。])をとりて藥とはせり。ウネヲは、かんな月の寒さを待得て、冬の鯡(ヘロキ/にしん)の集(すた)くをくはんと追ひあさるを、蝦夷舟(チイツフ)こゝら、このコタンより乘出て、突きてんとねらひありけど、冬の海のならはしとて、いつも浪あれ風はげしければ、アヰノら擧て平波(ノト/なぎ)あらん事をいのり、齋醼(カムヰノミ)とて神にみわ[やぶちゃん注:お神酒。]奉り、をのれらも醉ひ、かく祈禱(ツシユ)して、あら浪のうちなごむしるしをうれば、海はいづらにかウネヲのあらんと狐(シユマリ)の頭(シヤバ)を、をのれをのれがかうべにいたゞき【天註――狐をシユマリともシュマイカムヰともいひ、もはら黑狐ををそり尊めり。さりけれと擊てとりぬ。】そとふりおとして、そのシユマリのシヤバの口(ハシ)の向(むき)たらん方に、ウネヲのあるてふ神占(トシユヰ)して、それをしるへに十餘里の沖に、あまたの船(チイツプ)をはるはるとこき出るに、たかはずウネヲは、あをうなはらの潮と浪とを枕に寐るといふ【天註――千尼袁(ウネチ)は海寐魚、又倦寢魚ちふシヤモ詞のうつりにてや。仁德紀に、瀰灘曾虛赴於瀰能鳥苫咩(みなそこふおみのをとめ)なといへり[やぶちゃん注:不審なことに「古事記」「日本書紀」孰れにもこの文字列は見当たらない。]。こは水底歷魚(みなそこふを)とつゝきたる辭にして、ウネヲも倦み寐る魚ちふこと葉にてや。】それか寢るに、そのかたちしなしな[やぶちゃん注:「品々」。]也。ヨコモツプといふは片鰭(テツヒ)[やぶちゃん注:「鰭」のみのルビ。]にて、ふたつ(兩)[やぶちゃん注:漢字の右宛て字。]の足(ケマ)をとりおさへて、左のテツヒをぱ海にさしおろし、汐をかいやりてふしぬ。これには、投鋒(ハナリ)いと擊やすし。テキシカマオマレとて、片鰭(テツヒ[やぶちゃん注:同前。])をば水にさし入れ、右のテツヒを腰にさしあてて、シヤバのなからばかり潮にひぢて寢たり。チヨロボツケとは、かたテツヒを水に入れて、さし出したるふたつの脚(ケマ)を、かたテツヒしておさへたり。カヰコシケルといふは左のテツヒを水に入れ、右のテツピを上にさゝげて、身をふるはして寢たり。セタボツケといふは犬(セタ)の寢(ふ)したる姿にことならず。かゝるなかにも、テキシカマオマレといふが耳のいとはやき宿(ね)やうなれば、いつも、これを突もらすと、蝦夷(アヰノ)の物話(イタク)にせり。ウネヲの牝をポンマツプネヲといひ、牡をデタルウネヲといへど、寤寐[やぶちゃん注:「ごび」。寝ること。]たるすがたは牝牡ともにことならず。ウネヲの漁(レバ)にとて男(ヲツカヰ)の沖に出れは【天註――ヲツカヰの假字にや、オツカヒのかなにてや。】女(メノコ)はゆめ鍼(ケム)も把らず木布(アツシ)も織らず、飯(アマム)もかしがず手もあらはず、たゞふしにふしてのみぞありける。其ゆへは、オツカヒ漁(レバ)に出てハナリ[やぶちゃん注:先に示したオットセイ猟」の電子化のここに『投げ銛』(なげもり)とあった。]とりうちねらふに、そのアヰノの家に在るへカチ[やぶちゃん注:アイヌ語で「子ども」。]にてまれ、メノコにてまれ、家(チセヰ)にせしとせし事のかぎりを、波に寢たるウネヲの、ふとめさめてそのまねをすれば、えつきもとゝめず、手もむなしう、はらぐろにのゝしりこき皈り[やぶちゃん注:「漕ぎ歸り」に同じ。]來て、けふはしかしかの事やありつらんと、そのせし事どもを掌をさすやうにとふに、家に、せしとせしわざの露もたがはねば、屋を守る人をそれをのゝき、身じろきもせすして、ふしてのみそありける。かゝればウネヲも、うなの上に能ふし、よくいねて、搏(うち)やるハナリのあたらずといふ事なけんと。つとめてウネヲを漁りに出んといふとき、なにくれと其漁(レバ)の具どもを南の牕(フヰ[やぶちゃん注:「まど」。「窓」。])より取出し、カンヂ[やぶちゃん注:アイヌ語で「櫂・オール」のこと。]、アリンベ[やぶちゃん注:アイヌ語で「一本銛」。]、ウリンベ[やぶちゃん注:不詳。銛の一種かと推測される。]、マリツプ[やぶちゃん注:これはアイヌ語で「マレ」が正しい。鮭や鱒を捕る道具で、二十センチメートルほどの鉤(大きな釣り針のようなもの)を紐などで台木に取り付けたものを、二~三メートルほどの木の柄の先に組み込んで、先頭部のそれと柄をさらに紐で繋げて巻いたもので、銛と同じく泳ぐ魚に突き刺すと、尖頭の鉤が台木から外れて、魚は紐で繋がれた鉤にぶら下がる形になって漁獲される。十勝のアイヌ文化を紹介したこちらPDF)を参照した。]やうのものとりそろへ搒[やぶちゃん注:「こぎ」。「漕ぎ」。]出て、海の幸(さち)もありてウネヲを捕得て皈來て、其ウネヲをば船底に隱しおきて舟よりおりて、をのが家に入て、ウネヲ擊たる事は露もそれともらさで、なにげなう、つねの物話をし、※(たばこ)[やぶちゃん注:「烟」の「大」を「コ」に換えた字体。]酒くゆらせなどして、れいのごとく南の窻[やぶちゃん注:「まど」。]より、擊たるウネヲも、その漁(レバ)の具も取ぐして入れ、ウネヲをは厨下(うちには)に伏せて、臠刀(エビラ)[やぶちゃん注:漢字は「らんたう(らんとう)」で「肉切り庖丁」のこと。]もてウネヲの腹を割(さき)て膽(ニンゲ)を採りしぼりて、舟の舳に、ウネヲの血ぬる齋祀(まつり)あり。ウネヲをさいたる小刀(エビラ)もて、ゆめ、こと魚を、さきつくることなけん。十月(かみなつき)のへロキにあさる[やぶちゃん注:「ヘロキ」は魚のニシンの成魚を指すアイヌ語。そのニシンをオットセイが漁りにくるのである。]ウネヲより捕り始(そ)め、春の海に突めぐり、夏のはじめ卯月の海となりては、シヤモの名に智加(ちか)といひ、アヰノこれをヌラヰといふ魚にあさるを取りて【天註――蝦夷辭にいふヌラキ、松前俚言に智加、飽田の方言地加と濁音にいひ[やぶちゃん注:「ぢか」か。]松前方言なへて淸音也。此魚、東海、南海のわかさぎちふもの也。】、卯月の末にウネヲのレバの具をばとりをさめ、ひめおきて、こと漁(レバ)にさらに用さる、此コタンのならはし也。ウネヲひとつとり得ても、米、酒、淡婆姑[やぶちゃん注:「たばこ」。「煙草」。]などの酬料(ブンマ)を、それそれにおほみつかさよりものたうばりけれぱ、此御惠のかしこさに、むくつけき、あら蝦夷人もこゝろなごやかにうち擧り、よろこひの淚磯輪にみちて、かゝる貢をば、をのれをのれが命にかへて、あら潮のからきうきめもいとはず、八重のしほちをかいわけてとりて奉り、公[やぶちゃん注:「おほやけ」。]にも、みつきにそなへ奉り給ふといふ。

   *

最後に出た「智加(ちか)」「東海、南海のわかさぎちふもの」というのは、ちょっと誤りがあって、条鰭綱棘鰭上目キュウリウオ目キュウリウオ科ワカサギ属チカ Hypomesus japonicus である。同種は当該ウィキによれば、『北海道及び三陸海岸以北の本州、朝鮮半島、カムチャツカ半島、樺太、千島列島の沿岸に生息』し、『ワカサギ』(ワカサギ属ワカサギ Hypomesus nipponensis :湖沼の淡水魚だと思っている人が多いが、同種は成長期に降海する遡河回遊型(両側回遊型)と、生涯を淡水で生活する河川残留型(陸封型)が存在する)『によく似ているが、ワカサギの腹びれが背びれの起点の直下もしくはやや前方から始まることに対し、本種の腹びれは背びれの起点よりやや後方から始まるという違いがある』。『全長は約』二十センチメートル『ほどにまで育ち、ワカサギより大型』である。『内湾の岸近くに生息』し、三『月下旬から』五『月上旬の繁殖期になると』、『河川の河口へ集まり、汽水域の砂底部に産卵する』。一年から二年で『成熟する。産卵後も生き残り』三年から四年『生きる個体もいる』。『北海道や東北地方では、食用魚として流通している。定置網で漁獲されることが多い。また、漁港等に集まるので釣りの対象魚にもなっている』。『小骨がワカサギよりもやや硬いので、価格はチカの方がやや安価である』。『調理法としては、小型のものは天ぷらやフライなどが有名であるが』、三%『塩水で煮た後に乾燥させて煮干しにしたり、佃煮にして長期保存性を高めたりする調理法もある。大型のものは刺身、素焼き、塩焼きなどにしても美味である。ただし、生食の場合は寄生虫の危険があるので十分注意すること』とある。「飽田」というのは、恐らく、現在の「秋田」のことと思われる。秋田の語源には「飽田」と「惡田」の二説がある。

「中華にも此の言(こと)あり」「魚」を指す「とと」の語源を小学館「日本国語大辞典」で調べると、「幽遠随筆」「名言通」「大言海」からとして、『もと韃靼語であったのが伝わったものか』とあるのが、この作者の謂いにしっくりくる。但し、他に、柳田國男の「野草雑記」・「日本民俗語彙」からとして、『早く下さいという催促の言葉』である『トウトウ(疾々)から』(魚は腐りやすい=足がはやいからか)とし、『南朝人』(本邦の南北朝のそれであろう)『が食を頭、魚を斗と呼んだところから』(文明本「節用集」)、『魚をヒトヒトと数えたところから』(「大言海」)とあった。私は、元来が幼児語であるのだから、何らかの魚に纏わる古いオノマトペイアでないかと疑う。

『「夫木集」雜十八、「夢」の題に、建長八年』(一二五六年)『百首歌合、衣笠内大臣(きぬかさないだいじん)』「我(わが)戀は海驢(とど)の寢ながれさめやらぬ夢なりなから絕(たへ)やはてなん」「夫木和歌抄」の巻第三十六の「雜十八」の衣笠家良(いえよし 建久三(一一九二)年~文永元(一二六四)年:公卿・歌人。大納言粟田口忠良の次男。藤原家良とも称した。官位は正二位・内大臣)の一首だが、日文研の「和歌データベース」で調べると、

 わかこひは

   みちのねなかれ

  さめやらぬ

     ゆめなりなから

         たえやはてなむ

で、𠮷岡生夫氏のブログ「狂歌徒然草」の「夫木和歌抄と狂歌」を参考にすると、題は確かに「夢」で、

 わが戀は

   海驢(みち)の寢流れ

  さめやらぬ

     夢なりながら

         絕えやはてなん

である。後に出る「海馬(かいば)」と「海驢(かいろ)」も孰れもアシカの異名である(後者は漢名)。「みち」がアシカの古名であることは、先の引用に(☜)注を附しておいた。

『「海驢(かいろ)」の文字を「日本記」神代卷(しんだいのまき)、龍宮の章に「ミチ(海驢)の皮」とも訓(よ)めり』「海彦山彦」伝承パートに、『乃鋪設海驢皮八重、使坐其上』とある。

「縄にて、からみたる舟に乘りて」「イタオマチ」(板綴り舟)。第一図をよく見られたい。「舟敷」(ふなしき)と呼ばれる丸木舟の上に、波を避けるための羽板(はねいた)を縄で綴じるという、独特の工法で作られたアイヌ独自の、板(いた)を綴(つづ)り合わせた舟のこと。財団法人 アイヌ文化振興・研究推進機構の作成になる「アイヌ生活文化再現マニュアル 綴る イタオマチ 板綴り舟」(PDF)を、是非、読まれたい。「イタオマチ」の復元作業も細かな写真で再現されている優れものである!

「寢ながれ」「寢流れ」。

「ヤス」漁具の「簎(やす)」。魚などを刺して獲る漁具で、先端を鋭く尖らせた(金属や骨をそこだけに用いたりもした)木又は竹製の槍状のもの。歴史が古く、石器時代の貝塚からも、動物の骨で作られた先端部分が発見されている。]

2021/06/27

只野真葛 むかしばなし (30)

 

○鈴木常八、工藤家へ出入しそめしは、尾張町藥屋みせの、見付(みつけ)の二枚ふすま、金地に綠靑《ろくせう》にて、松を下にベたと書(かき)、上に浪の繪、父樣、御このみ被ㇾ成しに、いづくのか町繪師にあつらへてかゝせしに、下手繪(へたゑ)にて、心いき、あしく、御氣にいらず、其時、藤九郞世話にて、近所に狩野家《かのけ》の繪を書(かく)大家《や》有(あり)とて、つれて來りしは、廿二にて有し。色白きこと、雪のごとくなる男にて有しが、後(のち)は、あの通(とほり)、黑ぼうに、なりたりし。見る前にて、金ふすまを引(ひき)やぶりて、別にかゝせしを、書(かき)しまいて、則(すなはち)、

「さむけ、する。」

とて、臥したりし。藥など、給(たまひ)させしを、おぼしたり。

「人の惡口に臆して、さむけせしならん。」

と、いひしが、風(かぜ)引(ひき)たるを、急の事故(ゆゑ)、おして、來たりしなり。

 常八が書(かき)しは、御氣に入(いり)て有し。

 「五人組」とやら、

「ふるまふ。」

とて、まち人どもを、客座敷へよびしも、おぼしたりし。

[やぶちゃん注:「見付(みつけ)」「みつき」でもよい。丁度、正面に見えるところ。

「心いき、あしく」「心意氣、惡しく」。筆勢が極めて悪く。

「藤九郞」工藤家の料理人森井藤九郎。既出。

「狩野家《かのけ》の繪を書(かく)大家《や》」狩野(かのう)派の絵を学んで描くと言う大家(たいか)。しかし、「たいか」を「おほや」とは読まないから、この「や」のルビは不審である。

「黑ぼう」「黑坊(くろ(ん)ばう)」。

「見る前にて、金ふすまを引(ひき)やぶりて」工藤の爺さまが主語。

「おぼしたり」ように覚えている。主語は筆者真葛。

「人の惡口に臆して」このシチュエーションで台詞の意味不明。或いは、次の「五人組」とかいう知人の絵師仲間が、屋敷外で、四人、待っていて、そいつらが、「きっと私の絵の悪口を言っているだろう。それに臆して武者震いしたんだろう。」といったニュアンスか?

『「五人組」とやら、』「ふるまふ。」「とて、まち人どもを、客座敷へよびしも、おぼしたりし」ここも何か前振りが欠損しているのか、意味がうまくとれない。前の設定の常八の親友のその「五人組」の仲間らを、工藤の爺様が、「絵が上手く描けた褒美に、その連中にも振舞いをしてやろう。」と客座敷に上げたのを、覚えている、と真葛が言ったものか?]

日本山海名産図会 第五巻 織布

 

Etigonuno

 

Etigoyurisarasi

 

[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「越後織布(ゑちごぬの)」、第二図は「越後布晒雪(ゑちごぬの ゆきに さらす)。家屋に立てかけえあるように見えるのが、ごく簡易な「雁木」であろう。]

 

   ○織布(ぬのおる)

大和奈良・越後・近江などに織り出だす事、夥し。中(なか)にも、越後を名產とし、「越後縮(ゑちごちゞみ)」と稱して、苧麻(まを)の生質(せいしつ)、よく、紡績(はうせき)の精工なりとす。是、越後に織りはじめしことは、未詳(つまびらかならず)といへども、南都・近江よりは、古(ふ)るし。其の故は、越後連接の國信濃をはじめ、武藏・下総・下野・常陸など。皆、古へ、苧麻の多く生ぜし地なれば、國の名をも、それによりて号(なづ)くる物、下総(しもふさ)・上総・信濃なり。上総・下総は、元、「フサの國」といひて、即ち、「フサ」、「アサ」の轉語なり。又、麻(あさ)を「シナ」といふは、東國の方言にて、今も尚、しかり。蝦夷(ゑぞ)人の、帶(おび)を、「シナ」云、木の皮にて、作る、と云うも、是れなり。信濃は「シナヌノ」と云ふことにて、專ら、織り出だせし地なるべし。「和名抄」に信濃の國郡に「シナ」といふ名、多し。更科(さらしな)【是れ、晒したる地なるべし。】・穗科(ほしな)【干したる地なるへし。】・倉科(くらしな)【麻を納めし倉か。】・仁科(にしな)【煮て、皮を剥(はき)きし[やぶちゃん注:ママ。衍字とも「剝ぎ來し」ともとれる。]地なるか。】、又、伊那郡のうちに、麻績(をみ)、更科郡に麻績(をみ)などの名ありて、即ち、麻(を)を績(う)みたる地なり。又、「神樂歌」に ┌─木綿(ゆふ)作る しなの原にや麻(あさ)たつねたつねと。又、「延喜式」、『内藏寮(くられう)、長門の國、交易にすゝむる所、常陸・武藏・下総の麻(を)の子【是、古の食なり。】。』、又、『大藏省(おほくらせう)、春秋二季の禄布(ろくふ)に、「信濃布(しなのぬの)」を以(も)ち、内侍司(ないしのつかさ)に充つる。』とも見へて、皆、是れ、證とするに足れり。故に越後の國は、連接なるを以つて、自(おのづか)ら、後世、此(こゝ)に移せしなるべし。常陸(ひだち)は「倭文(しづか)」といひて、「島模樣」など、織り出したる名なりともいへり。

○越後の國は、十月頃より三月までは、雪、家(いへ)を埋みて、大道の往來は、屋の棟(むね)よりも高く、故に家の宇(のき)を、深く作りて、是れを、往來ともす。家向(いへむか)ひへ、通ふには、雪に、多く、雁木(がんぎ)を付けて、上下す。されば、山野谷中(さんやこくつい)といへども、草葉樹梢(さらやうじゆしやう)を隱し、耕作の便(たより)を失へば、男女老少(なんによらうせう)となく、織布(しよくふ)を業(こと)とすること、實(まこと)に、國中、天資(てんし)の富(とみ)なり。○今、柏嵜(かしはざき)といふは、海邉(かいへん)にして、布商人(ぬのあきひと)の幅湊(ふくそう)し、小千谷(をぢや)は、畧(やゝ)隔てゝ、亦、商人、有り。是れ、信濃に、ちかし。苧麻(まを)を種(う)ゆる地は、今、下谷(しもたに)の邉に多く、千手(せんじゆ)と云ふ所は、「かすり島(しま)」上織(じやうをり)の塲にて、塩澤町(しほさわまち)は「紺かすり」、十日町は「かはり島」、堀の内の邉は「白縮(しろちゞみ)」を専らとす。一村に一品(しな)の島模樣(しまもやう)をのみ織りて、他品(たひん)を混ぜず。問屋、是れを取り合わせて諸國に貨賣(くわはひ)す。

○苧麻種植(まを、たねうへ)漂染織(さらし、そめ、おる)の事。  苧麻(まを)は土(つち)として、生ぜざる所、なし。「撒子(みうへ)」・「分頭(わけうへ)」の兩法あり。色も、靑・黄の兩樣あり。每歲(まいねん)、兩度(りやうど)、刈る物、あり。然(しか)れども、圡(つち)によりて、同種のものも、其の性の、强弱、有り。既に近江に種ゆる物、其の性、柔滑(じゆうくわつ)なり。東國寒地(かんち)の物は、至つて强し。故に、越後は、其の性のみにもあらず。都に遠くて、人性(しんせい)も質素なれば、工巧(こうこう)、最も精(くわ)し。

○大麻(あさ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])は楓(もみち)の葉の如く、苧麻(まを)は桐の葉に似て、大(おほ)ひに異(こと)なり、苧麻(まを)は、生(しよう)にて皮を剥ぎ、大麻(あさ)は「煮ゴキ」と云ひて、煮て、剥くなり。大麻(あさ)は雄(お)は、花、あり、「サクラアサ」と云ふ。雌(め)は、花、なく、實(み)、あり。是れ、種(たね)にて、蒔けは、自(おのづか)ら、交(まじ)りて、生ず。即ち、雌雄(しゆう)なり。苧麻(まを)は「カラムシ」とも云ひて、苗(なへ)の高さ、五尺ばかり、五月八日に刈り、其の跡を、焚(や)きておけば、來年、肥大なり、とす。是れ、「奈良そ」とも、いひて、南都に織る物、是れなり。越後、最も苧麻(まを)なり。種類、山野に多し。○凡そ、苧(お)の皮、剥き取りて後(のち)、若(も)し、雨にあへば、腐爛する故に、晴天を見窮むるにあらざれは、折らず。されども、草を破折(はぐ)の時は、水を以て、侵(ひた)し[やぶちゃん注:漢字はママ。]、是れ亦、廿刻(にじつこく)ばかりより久しくは、ひたさず。色は淡黄(あはき)なるを、漂工屋(さらしや)、是れを晒して、白色とするには、先づ、稻の灰(はひ)と、石灰(いしばひ)とを、以つて、水を加へ、煮て、又、流れに入れて、ふたゝび、晒らす。

○糸を紡(よ)るには、上手の者は、脚車(あしくるま)を用ゆ。是れ、女一人の手力(ちから)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に三倍す。其のうち、性(しやう)よき物を撰(ゑ)りて、細く破(さ)きて、織るなり。粗きは糾合(よりあわ)せて、縄、或ひは、縫線(ぬひいと)の糸(いと)とす。

是れ、皆、婦人の手力(しゆりき)、専らにして、男、相ひ交はれり。故に國俗、女を產することを、喜べり。それが中(なか)に、二歲、三歲の時、指の爪を候(うかゞ)ひ、細手(ほそて)・粗手(あらて)の生質(せいしつ)を候ひ、若(も)し、細手の生れ付きなれは、國中、あらそふて、是れを、もとむ。

○糸を染る事、京都のしわざに、かはること、なし。島類(しまるい)は、織り上けを、宿水(ねみづ)に、揉み洗ひ、陰乾しとす。白布(はくふ)は織りて後(のち)に、晒らす。是れを晒すには、彼(か)の灰汁(あく)にて、揉みあらふ事、三、五度にして、又、降り積みたる雪に、敷きならべて、其の上に、亦、雪を積らせ、又、其の上へ、ならべて、幾重(いくゑ)といふことなく、高く堤(つゝみ)を筑(つ)きたる如く、日のあたりて、自然(しぜん)と消へゆくに、したかひ、至つて白くなるを、又、水に、よく揉み洗らふ。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が三字下げ。]

○一說に云はく、布商人(ぬのあきびと)習俗の俚言(りげん)に、布の精粗(せいそ)上下の品(ひん)を見わくるに、「一合」と言ふを、「極細(こくさい)の布」とし、「二合」・「三合」、是れに次第す。但し、是れ、山中にて織る布(ぬの)なり。「一合」は、山の頂上にして、人質(しんしつ)も、甚だ、素朴なり。故に衣食住の費(ついへ)、一年の入用、妻子に給する所といへ共、五、六十目ばかりにして、細布(さいふ)一端(いつたん)の料(りやう)の紡績(ほうせき)に、事足(ことた)り、其いとま、せはしからず。故に至細(しさい)の物は、山の「一合」にありて、それより、「二合」、「三合」と、次第に、ふとくなること、全く、世事(せじ)の緩急(くわんきう)にありとは、見へたり。これに依りておもへば、當世の器物(きぶつ)・諸藝、萬端(ばんたん)、精良(せいりやう)、昔に劣ること、此の「二合」・「三合」に等し。

[やぶちゃん注:「越後縮(ゑちごちゞみ)」越後国小千谷(おぢや)地方(現在の新潟県小地谷市。グーグル・マップ・データ。以下同じ)で織られる麻織物。「小千谷縮」とも。当地では古来より「青苧(あおそ)」(被子植物門双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea 当該ウィキによれば、この本文でも多様に現われる通り、『文献上の別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)などがあ』り、『また』、他に『カツホウ、シラノ、シロソ、ソロハ、シロホ、ヒウジ、コロモグサ、カラソともい』い、『古代日本においては「ヲ」という表記もある』とある)呼ばれる苧麻(ちょま)の一種を原料として作った糸を、「躄機(いざりばた)」(織る人が足を前に出して地面や床に座って織る原始的な織機。縦糸の一端につけた帯を腰に当てて織る。地機(じばた)とも呼ぶ。「青森県庁」公式サイト内のこちらで見られる)で織った「越後上布(じょうふ)」が知られた。江戸初期、明石の浪人堀将俊(まさとし)が、「越後上布」に改良を加え、「縮地(ちぢみぢ)」を創案し、将軍家の「御用縮」となり、武士の式服に制定され、普及した。最盛期は十八世紀後半であった。現在、その技術は国指定重要無形文化財となっている(平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。グーグル画像検索「越後縮」をリンクさせておく。布以外にも「雪晒し」の画像や諸器具のそれもある。

『上総・下総は、元、「フサの國」といひて、即ち、「フサ」、「アサ」の轉語なり』ウィキの「総国」(ふさのくに)によれば、『斎部広成』(いんべのひろなり 生没年未詳:平安初期の貴族官人)『が自家の掌職を主張したとされる』「古語拾遺」(大同二(八〇七)年に平城天皇の朝儀に関する召問に応えて編纂した神道資料)『よれば、天富命』(あまのとみのみこと)『が天日鷲命』(あまのひわしのみこと)『の孫達を従えて、初め阿波国麻植』(おえ)『(後の麻植郡)において、穀物や麻を栽培していたが、後により豊かな土地を求めて衆を分け』、『一方は黒潮に乗って東に向かった。東の陸地に上陸した彼らは新しい土地に穀物や麻を植えたが、特に麻の育ちが良かったために、麻の別称である「総」から、「総国」(一説には「総道」)と命名したと言われている』。『麻の栽培して成功した肥沃な大地が』「総の国」であり、『天日鷲命の後裔の阿波の忌部の居住地は』「阿波」の名をとって「安房」と『したのだという』。「古語拾遺」の説に『従えば、「麻=総」という図式が成立することになるが、「総」という字には麻に関係する意味は存在しない。そのため、この説は伝承にすぎず』、『信頼できないともいわれていた』。一方、「日本書紀」の『律令制に関する記事は正史として高く評価されており』、「大化の改新」(大化元(六四五)年)が『日本の律令制導入の画期だったと理解され、令制国の成立を大化の改新からそう遠くない時期とし、この時期に上総国と下総国も成立したとするのが定説だった』。昭和四二(一九六七)年十二月、『藤原京の北面外濠から』「己亥年十月上挾國阿波評松里」(「己亥年」は西暦六九九年)と『書かれた木簡が掘り出された。この木簡により』、七『世紀末には』「郡」ではなく、「評」と『表記されていたことが判明し、郡評論争に決着が付けられた』(「評」は七世紀後半の日本の地方行政単位。古代大和国家では初期の行政単位として「国造」制がとられていたが、「大化の改新」の数年後、旧来の国造が支配していた領域を分割し、新たに「評」という行政単位を設けた。その役人を「評造」(こおりのみやつこ=「評督」「助督」)と称し、徴税などの農民支配に当たった。大宝元(七〇一)年に成立した「大宝律令」により、「評」は「郡」に、「評造」は「郡司」と改められた。「評」は「郡」よりも軍事的性格が強かったと考えられている。「評」から「郡」への変更時期を巡っては長く論争が行なわれてきたが、相次いで発見されたこうした木簡調査の結果から、七〇一年以前のものが「評」を使い、それ以後のものが「郡」を使っているところから、一挙に解決を見た。なお、古代朝鮮でも軍営の置かれた地区を示す語として「評」の語が使われていた)。『この際』、「上挾國阿波」の『表記については(=上総国安房)と解釈されていた。続いて』、「天觀上捄國道前」という『木簡も発見されたが、こちらの』四『字目は判読しにくく、様々な文字を当てはめる説が出された。そのうちに「捄」と読む説も出たものの、「上捄」では意味が通じないとされ、一旦は保留とされていた』。『その後の研究で「捄」という字の和訓は』「總」と同じ「ふさ」であること、「天觀」という上総出身の僧侶が、『この時代に実在していた事が明らかとなり、律令制以前の表記は』「總」ではなく、「捄國」・「上捄」・「下捄」など、『「捄」の字が用いられていた可能性が高くなった』。『「房をなして実る物」という「捄」の意味は』、『麻の実にも該当することから』、「麻」と「總」を『間接的には結び付けることが可能となり、この地域は「捄」と称され』、『令制国成立後』、『同じ和訓を持つ』「總」に『書き改められたとすれば』、「古語拾遺」の『説話は簡単には信じられないながらも、一定の評価がされることとなった』。それに対し、「日本書紀」にある「大化の改新」の『詔の文書は、編纂に際し』、『書き替えられたことが明白になり』、「大化の改新」の『諸政策は後世の潤色であることが判明』し、「日本書紀」による『編年は、他の史料による多面的な検討が必要とされるようになった』。『このことから、令制国の成立を』「大化の改新」から『そう遠くない時期とした従来の定説は崩れ』、『現在では一般的に国(令制国)の成立は』「大宝律令」制定に『よるとされるようになった。だが、上総国・下総国については』、『これとは別の見方がある。下総国については』、「常陸国風土記」に『香島郡(鹿島郡)の建郡について』「大化五(六四九)年、下総国海上国造の部内軽野以南の一里と、那賀国造の部内寒目以北の五里を、別けて、神郡を置いた」とあり、『孝徳期』(在位:孝徳天皇元(六四五)年~白雉五(六五四)年)『以前に成立していたことがうかがえ、また』、「帝王編年記」では、『上総国の成立を安閑天皇元年』(五三四年)『としており、語幹の下に「前、中、後」を付けた吉備・越とは異なり、毛野と同じく「上、下」を上に冠する形式をとることから』、六『世紀中葉の成立とみる説もある』とある。

『麻(あさ)を「シナ」といふは、東國の方言にて、今も尚、しかり』この辺りから、作者の謂いには対象を十把一絡げにしてしまった致命的な誤りが生じているように思われる。「しな」は小学館「日本国語大辞典」によれば、作者が引く「神樂歌」の「明星」の「木綿作る」の「木綿(ゆふ)作る しなの原にや麻(あさ)たつねたつね」の原表記は「木綿(ゆふ)作る 志名乃波良(シナのはら)に や 朝尋ね 朝尋ねや」で、『神楽歌の例「志名乃波良」は、「信濃原」として信濃の国の原の意ともする説もあるが、元来「木綿(ゆふ)を作る科(しな)」の意である、信濃の国名の由来を「科(しな)野」と解する』のに従うならば、掛詞『的表現とも考えられる』とあるのだが、そもそもがそこでは意味を、『「しなのき(科木)の略』としているのである。ここではっきりさせておかないといけないのは、「しなのき」と「麻(あさ)」(カラムシ)とは全く別な植物である点である。一応、小学館「日本国語大辞典」のそちらを引くと、『シナノキ科の落葉高木。日本特産で、北海道から九州までの山地に生え、高さ一〇メートルに達する。葉は互生し、長柄をもち』、『長さ四~八センチメートルの心臓形で』、『縁に不規則な鋸歯(きょし)がある。初夏、葉腋(ようえき)から長い花柄を下垂し、芳香のある褐色の小さな五弁花を集めてつける。花柄の基部には』、『へら形の苞葉があり、花柄と苞葉とは途中まで癒合している。果実は径約五ミリメートルの卵状球形で褐色の短毛におおわれる。材は彫刻・げた・鉛筆材に使う。樹皮の繊維で布を織り、船舶用のロープを作る。和名は』「結ぶ」の『意味のアイヌ語に基づく』とあるのだ。則ち、これは日本特産種である、被子植物門双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica なのである。当該ウィキによれば、『長野県の古名である信濃は、古くは「科野」と記したが、シナノキを多く産出したからだともいわれている』。『樹皮は「シナ皮」とよばれ、繊維が強く主にロープの材料とされてきたが、近年合成繊維のロープが普及したため、あまり使われなくなった。大型船舶の一部では未だに使用しているものがある』。『古くはこの木の樹皮をはぎ、ゆでて取り出した繊維で布を織り榀布(科布=しなぬの・しなふ)、まだ布、まんだ布と呼び、衣服なども作られ』(☜)、『アイヌは衣類など織物を作るため』(☜)、『シナノキの繊維を使った。現在でもインテリア小物などの材料に使われる事もある』とある。これはまさに、作者がこの直後に言う、『蝦夷(ゑぞ)、人の帶(おび)を、「シナ」云』(ここは「と云ひ、」であろう。)『木の皮にて、作る、と云うも、是れなり』とあるのと一致してしまうのだ。この「シナ」は「シナノキ」であり、「カラムシ」=「麻(あさ)」ではないのである。以下、調子に乗った作者は『信濃は「シナヌノ」と云ふことにて、專ら、織り出だせし地なるべし』とやらかして、悦に入っている。我々は、この誤りを、ここで遮断して、以下は正常に「カラムシ」の意味に戻して読み進めなければ、以下の叙述総てが無効化してしまうのである(直後の地名のそれは面白く、「シナノキ」としては一面で正しい可能性がないとは言えぬ気もしそうになるが、作者はシナノキがカラムシだと思っているわけでからして、これ、全然、ダメなのである)。

『「和名抄」に信濃の國郡に「シナ」といふ名、多し』表記に嘘がある。「和名類聚抄」の巻第七の「國郡部第十二」の「信濃國第九十一」では、「更科」の表記は「更級」である。あるのは「穗科」と「倉科」だけで、「仁科」はない(後は郡(こほり)名の「埴科(はにしな)郡」であるが、作者はそれを挙げていない)。面白いとは言ったが、安易な語呂合わせが面白いだけで、賛同しているわけではないので、注意されたい。所持する松永美吉著「民俗地名語彙事典」(一九九四年三一書房刊の「日本民俗文化資料集成」に含まれてあるもの)もでは、最後にちょろっと「シナノキ」説が一行余り出るだけで、信濃の地名としての「シナ」は地形の階段状の傾斜地の平坦部の意であると断定されている。

「伊那郡のうちに、麻績(をみ)、更科郡に麻績(をみ)などの名ありて」これは孰れもあるのを確認済み。

『常陸(ひだち)は「倭文(しづか)」といひて、「島模樣」など、織り出したる名なりともいへり』「南あわじ市立倭文中学校」公式サイト内の「倭文の由来」に、「シトオリという織布」は「倭文(しず)」(「旧事記」所収)『という織物の名で、正しくは「シズリ」「シドリ」』(「和訓栞」所収)、「シズオリ」(「天武記」所収)『等と読むべきで、これを「シトオリ」となまって読むのは最も拙い読みかたである。この織物は楮(こうぞ)、麻、苧(からむし)などの繊維で、その横糸を』、『赤青の原色で染めて乱れ模様に織ったもので、つまり横シマの楮(こうぞ)布、麻布、苧(からむし)布であるという』(シナノキは出てこないことを確認されたい)。『三原郡緑町と三原町(両町とも現在は南あわじ市)の倭文付近は』、「和名抄」に『でている「三原郡倭文郷」の地である。「倭文」という地名は』、「和名抄」に、「常陸國父慈郡倭文鄕」・「美作國久米郡倭文鄕」・「上野國那波郡倭文鄕」・「淡路國三原郡倭文鄕」・「因播國高草郡委文鄕」として出、『「倭文」「委文」ともに、「之土利」「之止里」と訓注されているので、「しとり」と読んだのである。三原町倭文委文の「委文」は、現在』、『「いぶん」と読んでいるが、これももとは「しとり」である』。「日本国語大辞典」に『よれば、「倭文」は「しず」とも「しつ」とも読み、古代の織物の一種で、梶の木・麻などで』、『筋や格子を織り出したものをいう』。「大漢和辭典」に『よれば、「倭文」は「しづ」「しどり」とあり、「しどり」は「しづおり」の約とある』。「織物の日本史」によると、『「倭文布(しずおり)」は、五世紀後半から確立される部民制的生産機構に編成された一つの倭文部民(しとりべ)によって生産されたものである』。『「工芸資料」では「シズ」は筋のことである。今日説く』「縞(シマ)」とは「島物」の『略で、もと南方諸島より渡来した布の意であるとする』。『一説にシズとはオモリのことである。これの織機は農家で用いていた「わらむしろ」を作るような原始的な機械で、相当なオモリを必要としたであろうことから、かく呼ぶのであるという』。「○倭人と海人族」の項。『シズオリの意義はいずれであるにしても、この織布は九州北部より南部朝鮮等をも占拠していた海人族の技巧品であって、 古代海人族は支那(中国)と交通しており、そこでは一般にこちらを』「倭」と『呼び、民族を』「倭奴」と『称して属国の』取り扱いを『した。中国で日本のことを記した最初の書物は「前漢地理志」「後漢書東夷伝」であって、これらの書では、日本を「倭」、日本人を「倭人」と呼ぶ。それは日本人が自分のことを「ワレ」と言ったので、 日本のことを「ワ」と称えると合点した中国人が「倭」の文字をあてたのだという』。『さて、「倭文」の場合、「倭」が』「古代日本」の意、「文」は「文布(あやぬの)」の『略語で』「アヤのある布」の意(「アヤ」とは「光彩・色彩・模様」をいう)で、『古記には』「文布」と記して「シトリ」と『読ませたのである。そこで倭人の織りなす文布という意味より、倭文の文字を』「シズオリ」と『読ませたということになる』とある。

「雁木(がんぎ)」雁木造。当該ウィキを参照。

「柏嵜(かしはざき)」新潟県柏崎市

「幅湊(ふくそう)」漢字はママ。普通は「輻輳(ふくそう)」で、物が一ヶ所に集中して混雑する様態を指す。まあ、港だからうっかり「湊」になったとも言えよう。

「下谷(しもたに)」不詳。

「千手(せんじゆ)」新潟県長岡市千手か。

「塩澤町(しほさわまち)」新潟県南魚沼市塩沢か。

「十日町」新潟県十日町市

「堀の内」新潟県十日町市堀之内か。

「撒子(みうへ)」種を散らし蒔(=撒)(ま)いて植えること。

「分頭(わけうへ)」成長したカラムシの株を地下茎とともに分けて植えることか。

「每歲(まいねん)、兩度(りやうど)、刈る物、あり。然(しか)れども、圡(つち)によりて、同種のものも、其の性の、强弱、有り」ウィキの「カラムシ」によれば、『林の周辺や道端、石垣などのやや湿った地面を好む。地下茎を伸ばしながら繁茂するので群落を作ることが多い。刈り取りにも強く、地下茎を取り除かなければすぐに生えてくる。地上部の高さは』一メートル『ほどだが、半日陰で刈り取りがない環境では秋までに高さ』二メートル『に達し、株の根元付近が木化(木質化)する。地上部は寒さに弱く、霜が降りると葉を黒褐色にしおれさせ枯れてしまうが、地下茎は生き残って翌春には再び群落を形成する。細い茎は葉と共に枯れてしまうが、太い茎は冬を乗り越え、春に新芽を吹く』とある。

「大麻(あさ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])は楓(もみち)の葉の如く」これはマリファナの原料ともなる被子植物門双子葉植物綱バラ目アサ科アサ属アサCannabis sativa (麻・大麻草)であろう。当該ウィキによれば、『大麻から得た植物繊維から様々な製品が製造されている。衣類・履き物・カバン・装身具・袋類・縄・容器・調度品など。麻の織物で作られた衣類は通気性に優れているので、日本を含め、暑い気候の地域で多く使用されている。綿・絹・レーヨンなどの布と比較して、大麻の布には独特のざらざらした触感や起伏があるため、その風合いを活かした夏服が販売されている。大麻の繊維で作った縄は、木綿の縄と比べて伸びにくいため、荷重をかけた状態でしっかり固定するときに優先的に用いられる。伸びにくい特性を生かして弓の弦に用いられる。また日本では神聖な繊維とされており、神社の鈴縄、注連縄や大幣として神事に使われる。横綱の締める注連縄も麻繊維で出来ている』とある。

「大麻(あさ)は雄(お)は、花、あり、「サクラアサ」と云ふ。雌(め)は、花、なく、實(み)、あり」アサ Cannabis sativa は雌雄異株である。

「五月八日に刈り」何故この日に決まっているかは不詳。

「奈良そ」「奈良苧(ならそ)」であろう。

「廿刻(にじつこく)」二十時間。

「脚車(あしくるま)」糸車であるが、西洋の足で踏んで回転させるそれは知っているが、本邦のそうした装置を遂に発見し得なかった。御存じの方は画像のあるページをご紹介戴けると幸いである。

「指の爪を候(うかゞ)ひ、細手(ほそて)・粗手(あらて)の生質(せいしつ)を候ひ」「細手」というのが、如何なる手や爪を持っているのかよく判らないが、要は糸を縒り紡ぐ際に、糸が引っ掛かったり、擦れたりしないような、繊細な手の持ち主ということなのであろう。

「宿水(ねみづ)」前日のうちに汲んでおいた水。不純物を沈殿させるためか。

「衣食住の費(ついへ)、一年の入用、妻子に給する所といへ共、五、六十目ばかりにして」この「目」は「め」で貨幣単位の「匁(もんめ)」であろう。平均して江戸時代の金一両は銀五十匁から八十匁であった。

「細布(さいふ)一端(いつたん)の料(りやう)の紡績(ほうせき)に、事足(ことた)り」緻密な上製の「一合」の織り布一反分の売値で、一年分の入用の金子は入手出来ることを言ったものであろう。]

芥川龍之介書簡抄88 / 大正七(一九一八)年(三) 五通

 

大正七(一九一八)年七月二十二日・相州鎌倉町扇ヶ谷要山上 有田四郞樣・七月廿二日 鎌倉町大町辻 芥川龍之介

 

拜啓

まだ御病氣は癒りませんか

實はあの交涉に關して僕一人でステ公の所へ行つてもよいのだがあいつの所には小さいがよく吠へる犬がゐるでせう だから出來得べくんば君と一しよに出かけたいと思ふのです 君が一しよにピアノを聞く事が出來れば更に都合が好いから

癒り次第出て御出でなさい

久米正雄が二三日中に鎌倉へ來る筈です さうしたら皆で騷ぎませう

もしまだ君の手許にあつたら來る時元信の春画を持つて來て見せて下さい

十八日から休みですが廿三、四日とちよいと出校する義務があります それから先をいゝ加減に怠けて暮すつもりです

   赤玉のみすまるの玉の勾玉のぶらりぶらりと怠くべからん

    七月廿二日          龍

   有田四郞樣

 

[やぶちゃん注:短歌の採録のために採った。

「扇ヶ谷要山上」現在の鎌倉市扇ガ谷三丁目の「亀ケ谷坂切通」のこの辺りの旧名。鉱泉旅館が「香風園」「米新亭」「養氣園」などが数軒あり、「要山(かなめやま)温泉」と呼ばれていた(現在は最後まで旅館として残ってはいた(私の若い頃まではあった)「香風園」も廃業し、「要山」の地名も残っていない)。

「有田四郞」(明治一八(一八八五)年~昭和二一(一九四六)年)は東京生まれの洋画家。明治三六(一九〇三)年、東京美術学校洋画科に入学、黒田清輝に師事し、在学中の明治四十年第一回文展に入選し、その後も文展に出品した。黒田らが創設した「白馬会」展にも二度、参加している。熱心なキリスト教信者として本郷教会に所属し、在学中に洗礼を受けた。明治四四(一九一一)年秋から翌春にかけて南方への旅に出た。大正四(一九一五)年から鎌倉に転居し、芥川龍之介や有島武郎ら文化人たちと交流した。大正十二年の関東大震災後に愛媛県に転居し、大正十四年には宮崎県富高町伊勢ケ浜に転居した。昭和二(一九二七)年に県立延岡中学校の、昭和十年には宮崎県師範学校の美術教師となり、宮崎の美術教育に尽力した。昭和一七(一九三二)年に東京に戻り、エッチングを手がけたが、昭和十九年には瀬戸内海に惹かれ、香川県に転居、宮崎在住時からのスケッチをもとに水墨や淡彩の制作に励んだ。晩年は仏画も描いた(サイト「UAG美術家研究所」の「宮崎の美術教育に尽力したボヘミアン・有田四郎」に拠った)。新全集の「人名解説索引」には『絵が好きだった芥川は』、『有田の絵をねだって』おり、『その交際は後年にまで及』んだとある。

「ステ公」不詳。

「犬」芥川龍之介は大の犬嫌いであった。

「元信」室町時代の絵師で京都生まれ。狩野派の祖狩野正信の子(長男又は次男とされる)であった狩野元信(文明八(一四七六)年?~永禄二(一五五九)年)。彼は春画も残している。父の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理しつつ、大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる)、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。幕府・朝廷・石山本願寺・有力町衆など、時の有力者から庇護を受けつつ、戦国の乱世をしたたかに生き抜いた絵師であった(当該ウィキを参照した)。

「十八日から休みです」海軍機関学校んお夏季休業は七月十八日から八月三十一日までであった。

「怠くべからん」「た(或いは「だ」)るくべからん」か。]

 

 

大正七(一九一八)年七月二十三(消印)・東京本鄕菊坂町菊富士本店内 赤木桁平樣・鎌倉小町橋本屋 久米正雄・久米との寄書(葉書)

 

今日は失敬した。あれから直ぐ此方へ來た。芥川健在、よく談じよく煙草をのむ。さすがに凉しいので、彼の話も聞くに堪へる。その中に御來遊を乞ふ。

   なれ死にて生れ變らば鎌倉の泡吹き蟹となるべからなむ

   われ死にて生れ變らば滑川川のべ蘆の戰ぎ葉たらなむ

                    龍

[やぶちゃん注:署名「龍」は底本では二首目の下方四字上げインデント。少なくも二首目は龍之介の短歌であることが判る。一首目は格調の低さから、久米の一首のように思われなくもないが、完全な対狂歌であり、「なれ」「われ」と用語・構成から察するに、前も龍之介の作ともとれなくはない。久米は俳句はよく詠み、一家言あったうるさ型だが、短歌はまず見ないから、やはり龍之介のものであろう。短歌のために採った。

「鎌倉小町橋本屋」料理屋。「e- ざ鎌倉・ITタウン」の『「鎌倉文士村」ができたわけ(6の「菅虎雄、忠雄父子から鎌倉居住を斡旋された文士たち(4)」の「久米正雄」の条に、『『現在の鎌倉』の「▲料理店」にみる「同上(鎌倉町雪の下八幡前)小林保五郎」が「橋本屋」であるといい、教育委員会刊の『としよりのはなし』や、小島政二郎の小説『芥川龍之介』には現在のスルガ銀行の辺りにあったと記されてい』るとある。神奈川県鎌倉市小町一丁目のこの附近(グーグル・マップ・データ)となる。]

 

 

大正七(一九一八)年八月六日・京都市外下加茂松原中の町 井川恭樣・消印七日・八月八日 鎌倉町大町辻 芥川龍之介

 

拜啓

こないだ東京へかへつたらおやぢの所へ君の手紙が來てゐた 寫眞は今一枚もないから燒き增して送る由 京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐたからその催促だと思つた。所がうちへ歸つて見ると妻が君の所へ出す筈の手紙を未に出さずにあると云ふ 封筒の上書きがしてないからまだ出しちやいけないんだと思つたんださうだ 莫迦 してなきやしてないと云ふが好いや こつちは忙しいから忘れたんだと云ふと私莫迦よと意氣地なく悲觀してしまふ そこでこの手紙を書く必要が出來た そんな事情だから君にはまだお茶の御礼も何も云はなかつた譯だらう 甚恐縮する 奧さんによろしくお詫びを願ふ 僕等夫婦はずぼらで仕方がないのだ 寫眞もおやぢに至急燒き增しを賴んだからその中に送るだらう

この頃は每日海へはいつたり人と話しをしたりして泰平に暮してゐる 一家無事 時々僕が肝癪[やぶちゃん注:ママ。]を起して伯母や妻をどなりつける丈

   晝の月霍乱人の目ざしやな

    八月六日           龍

   井 川 樣

 

[やぶちゃん注:「寫眞」二月二日の芥川龍之介と塚本文の結婚式の写真と思われる。

「京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐた」これは二ヶ月前の六月五日、横須賀海軍機関学校の出張で広島県江田島の海軍兵学校参観に行った帰りに京都に滞在したことを言っている。但し、この時、龍之介は恒藤(井川)恭とは逢っていないと思われる。龍之介が鎌倉へ戻ったのは六月十日頃であるから、一月半近くも文は表書きのない手紙をそのままにしていたということになる。ちょっと唖然とするが、しかし、それ以上に、結婚した途端、文への言葉遣いが荒くなるのは、ちょっと興醒めである。「時々僕が肝癪を起して伯母や妻をどなりつける丈」とあるのは、龍之介の書簡の中でも、かなり知られた一文である。また、この時期、伯母フキが鎌倉に滞在していたことも判る。なお、この六日後の八月十二日に名作「奉敎人の死」(九月一日『三田文学』発表)を脱稿(私の偏愛する作品で私はサイトとブログで、奉教人の死〔岩波旧全集版〕 → 作品集『傀儡師』版「奉教人の死」 ⇒ 芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)ブログ版 → 同前やぶちゃん注 ブログ版 ⇒ 原典 斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」を完備させてある)、翌十三日からは、かの「枯野抄」を起筆している(九月二十一日脱稿で、十月一日『新小説』発表。同じく偏愛する一篇で、枯野抄〔岩波旧全集版〕 → 作品集『傀儡師』版「枯野抄」 ⇒ 本文+「枯野抄」やぶちゃんのオリジナル授業ノート(新版)PDF縦書版 ⇒ 同HTML横書版を完備している)。]

 

 

大正七(一九一八)年九月十八日・京都市外下加茂村松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣・消印十九日・十八日 龍(自筆絵葉書)

 

Basyousengaki

 

忙しかつたので返事が遲れた 土日兩日は大抵東京にゐる 秋來たら一度やつて來給へ 以上

   寸步却成千里隔

   紛々多在半途中  我鬼題幷画

 

[やぶちゃん注:画像は所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のカラー画像のものをトリミング補正した(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。底本の旧全集ではモノクロームで粒子が粗く、文字の判読も出来ない状態である。「龍」は○囲みの大きな印で、「画」の字の上に被っている。松樹下に芭蕉扇みたようなものを持ち、中国風のガウン(道教の道士の道服と思しい)と、これまた、それっぽい靴を身につけている龍之介自身のカリカチャアである。

「寸步却成千里隔」「紛々多在半途中」は、

 寸步 却つて成す 千里の隔(へだ)て

 紛々たる多在(たざい) 半途の中(うち)

か。漢詩というより、禪語・公案の類いと言える。芥川龍之介の漢詩や詞断片には縹渺たる虚ろな時空間を詠み込んだものが多い。]

 

 

大正七(一九一八)年九月二十二日・消印二十三日・東京市下谷區下谷町二ノ五 小嶋政二郞樣・九月廿二日 鎌倉町大町辻 芥川龍之介

 

拜啓

あした一日休みがあるから御伽噺をやつて見ます どうせ好い加減ですよ それでようござんすか

奉敎人の死の「二」はね内田魯庵氏が手紙をくれたのは久米から御聞きでせう所が今日東京にゐると東洋精藝株式會社とかの社長さんが二百圓か三百圓で讓つてくれつて來たには驚きました隨分氣の早い人がゐるものですね 出たらめだつてつたら呆れて歸りました

慶應の件來年から海軍拡張で生徒が殖ゑ從つて時間も增すのと戰爭の危險も畧なささうなのとで急に每日の橫須賀通ひが嫌になつたのです 來年の四月頃からでも東京へ舞戾れれば大慶この上なし それときまれば今年末位にこつちをやめて三ケ月位遊ばうかと思つてゐます さう云ふ次第だからよろしく得取り計らひ下さい もし必要なら上京の節澤木氏に御目にかかつてもいゝと思ひます 何しろ橫須賀はもう全くいやになつた 以上

   黑き熟るる實に露霜やだまり鳥

これはこの間虛子の御褒めに預つたから御らんに入れます

    九月廿二日      芥川龍之介

   小島政二郞樣 梧下

 

[やぶちゃん注:「御伽噺」これは翌大正八年一月一日と一月十五日発行の『赤い鳥』に載ることになる「犬と笛」であると思われる。

『奉敎人の死の「二」』「奉敎人の死」の最後に「二」として、芥川龍之介が「奉敎人の死」についてその原拠を記したものを指す。以下、「奉敎人の死〔岩波旧全集版〕」から、古い電子化なので、多少、不全な文字を正字に直して「二」総て示す。

   *

 予が所藏に關る、長崎耶蘇會出版の一書、題して「れげんだ・おうれあ」と云ふ。蓋し、LEGENDA AUREA の意なり。されど内容は必しも、西歐の所謂「黃金傳說」ならず。彼土の使徒聖人が言行を錄すると共に、併せて本邦西敎徒が勇猛精進の事蹟をも採錄し、以て福音傳道の一助たらしめんとせしものゝ如し。

 體裁は上下二卷、美濃紙摺草體交り平假名文にして、印刷甚しく鮮明を缺き、活字なりや否やを明にせず。上卷の扉には、羅甸字にて書名を橫書し、その下に漢字にて「御出世以來千五百九十六年、慶長二年三月上旬鏤刻也」の二行を縱書す。年代の左右には喇叭を吹ける天使の畫像あり。技巧頗幼稚なれども、亦掬す可き趣致なしとせず。下卷も扉に「五月中旬鏤刻也」の句あるを除いては、全く上卷と異同なし。

 兩卷とも紙數は約六十頁にして、載する所の黃金傳說は、上卷八章、下卷十章を數ふ。その他各卷の卷首に著者不明の序文及羅甸字を加へたる目次あり。序文は文章雅馴ならずして、間々歐文を直譯せる如き語法を交へ、一見その伴天連たる西人の手になりしやを疑はしむ。

 以上採錄したる「奉敎人の死」は、該「れげんだ・おうれあ」下卷第二章に依るものにして、恐らくは當時長崎の一西敎寺院に起りし、事實の忠實なる記錄ならんか。但、記事中の大火なるものは、「長崎港草」以下諸書に徴するも、その有無をすら明にせざるを以て、事實の正確なる年代に至つては、全くこれを決定するを得ず。

 予は「奉敎人の死」に於て、發表の必要上、多少の文飾を敢てしたり。もし原文の平易雅馴なる筆致にして、甚しく毀損せらるゝ事なからんか、予の幸甚とする所なりと云爾。

   *

芥川龍之介はこの「れげんだ・おうれあ」の閲覧を懇望してきた切支丹文学の識者らに、「出鱈目です」と平然と応じた。しかし、実は種本が実在することが現在は知られている。原典 斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」を見られたい。則ち、芥川龍之介は二重のフェイクの演技をして、読者を二度も騙していたのである。

「内田魯庵」(慶応四(一八六八)年~昭和四(一九二九)年)は評論家・翻訳家・小説家。本名は貢(みつぎ)。江戸下谷車坂六軒町(現在の東京都台東区)生まれ。旧幕臣の子として生まれ、当初は政治・実業に関心を持ち、立教学校(現在の立教大学)や東京専門学校(現在の早稲田大学)などで英語を学んだが、結局、どこも卒業することなく、文部省編輯局翻訳係であった叔父の井上勤の下で、下訳や編集の仕事をした。明治二一(一八八八)年に文壇に登場、硯友社勃興に際し、鋭利な批評眼と風刺性の強い文章で、『女学雑誌』・『国民之友』などの誌上で、文芸評論家として活躍した。二葉亭四迷と親交を結び、その文学観を揺すぶったドストエフスキーの「罪と罰」を翻訳し(明治二五(一八九二)年。前半部分で英訳からの重訳)、明治三一(一八九八)年には、「くれの廿八日」で本格的小説を発表、評論「社会百面相」(明治三四(一九〇一)年。私はこれしか読んだことがない)などを発表。近松門左衛門や芭蕉の研究を通じて得た書物への愛着から明治三十四年に丸善に入社し、『学鐙』の編集に、終生、当たったが、二葉亭の死後、トルストイの「復活」の翻訳を行った他、晩年は専ら随筆と考証が主であった。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、内田は『切支丹関係の文献収集にも熱心で、長崎耶蘇会出版「れげんだ・おうれあ」の実物を見たいと芥川に願』い出ていたのであった。

「東洋精藝株式會社とかの社長さんが二百圓か三百圓で讓つてくれつて來た」不詳。但し、筑摩全集類聚版脚注に、『猟書家の第一に挙げられていた和田雪邨が高価に買いとろうとした』とある人物か。

「慶應の件」以前のこちらの「就職問題が起つてゐたりする」の私の注を参照。そこに「澤木氏」のことも書いておいた。結構、ここで慶応大学の教授職招聘への期待に胸膨らませていることがよく判る。]

2021/06/26

日本山海名産図会 第五巻 陶器

 

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[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「肥前伊萬里陶器(ひぜんいまりやきもの)」、第二図は「同素燒窯(すやきかま)」・「同過銹(くすりをかくる)」・「同打圈書画(ゑをかく)」、第三図は「同本窯(ほんかま)」。]

 

  ○陶器(やきもの)

諸州數品(すひん)有る中(なか)にも、肥前國「伊萬里燒」と云ふを、本朝㐧一とす。此の窯、山、凡そ十八ケ所を上塲(じやうば)とす。

[やぶちゃん注:以下、底本では概ね四段表記であるが、一段で示した。]

 ○大河内山(おほかはちやま)

 ○三河内山(みかわちやま)

 ○和泉山(いづみやま)

 ○上幸平(うへかうひら)

 ○本幸平(ほんかうひら)

 ○大樽(おゝたる)

 ○中樽(なかたる)

 ○白川(しらかわ)

 ○稗古塲(ひへこば)

 ○赤繪町(あかゑまち)

 ○中野原(なかのはら)

 ○岩屋(いわや)

 ○長原(ながはら)

 ○南河原(みなみかはら【上下[やぶちゃん注:「かみ・しも」か。]二所。】

 ○外尾(そとを)

 ○黒牟田(くろむた)

 ○廣瀬(ひろせ)

 ○一(いち)の瀬(せ)

 ○應法山(わうはうやま)

等とう)にて、此の内、大河内(おゝかわち)は鍋島の御用山(ごようやま)、三河内は平戸の御用山にして、他(た)に貨賣(くわはい)する事を禁ず。伊萬里は、商人(あきびと)の幅湊(ふくそう)[やぶちゃん注:漢字はママ。]せる津(つ)にて、燒き造るの塲には、あらず。凡そ松浦郡(まつらこほり)有田(ありだ)のうちにして、其の内、中尾・三つの股(また)・稗古場は、同國の領ちがひ、また、廣瀬などは、靑磁物、多くして、上品、なし。都合、二十四、五所にはなれとも、十八ケ所は、泉山の脇にありて、是れ、土(つち)の出づる山也。

○堊土(しろつち)  泉山に出でて、國中の名產。本朝他山に比類(ひるい)なし。中華は、中國の、五、六處(しよ)にも出だせり。是れ、圡(つち)にして、圡にあらず、石(いし)にして、石にあらず、其の性(せい)、甚だ、堅硬(かた[やぶちゃん注:二字へのルビ。])し。拳鑿(げんのう)をもつて、打ちかき、金杵(かなきね)の添水碓(そうすからうす[やぶちゃん注:ママ。恐らくは水車によって自動的に舂く臼のこと。第一図の右上がそれ。])に、是れを𣇃(つ)かしむ[やぶちゃん注:底本では「𣇃」(「舂」の異体字)の「旧」は「臼」。]【杵の幅、一尺斗り。厚さ、一尺五、六寸。長さ、一間半[やぶちゃん注:二メートル七十三センチメートル弱。]斗り。】。最も、水勢(すいせい)、つよくしかけて、碓(からうす)の、數(かす)多く連らね、よく末粉(こ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]となりたるに、又、他の土、粢軟(やはらか)なるを、二、三品(ひん)、和(くわ)し合わせて、家の内の溜池(ためいけ)に漂(ひた)し、度々(たびたび)拌(か)き通(まは)[やぶちゃん注:漢字はママ。]し、よく和したるを、飯籮(いかき)に漉(こ)し、又、他の溜池へ移し、よく澄(すま)し、其の上に浮きたるものを、細料(さいれう)とし、中(なか)を普通の上品(しやうひん)に用ひ、底に下沉(しづみ)たるは、取ち捨てて、不用(もちひず)。さて、其の水干(すひひ)の土を、素燒窯(すやきかま)の背に塗り附け、内(うち)の火力(くわりき)を借りて、吸い乾かす。最もこれによき程を候(うかゞ)ひみて、搔き落とし、重ねて、淸水(せいすい)に調和(てうくは)し、かの團子(だんご)のごとく、粘(こ)ね和して、工人(こうじん)に與ふなり。是れまで婦人の所爲(しよい)なり。

○造瓷坏器(うつはをつくる) 凡そ、瓷坏(うつは)を造るに、兩種あり。一には、印器(かたおし)と云ふ。方(ほう)・圓(ゑん)、數品(すひん)、甁(とびん)・甕(つぼ)・爐合(こうろ)の類(るい)、屛風・燭臺の類にも及べり。是等(これとう)は、凡そ、塑(つく)ね成(な)して、或ひは、兩(ふたつ)に破(わ)り、或ひは兩(ふたつ)に截(き)り、又、再び白泥(つち)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を埏(ね)りて範(かた)に模(うつ)し、或ひは、そのまゝに、印(かた)を押すも、あり。又、おなし土に銹(くすり)水を和して、塗り合はせ、取り付けなども、するなり。○一には、「圓器(ゑんき)」といひて、凡そ、大小、億萬の杯盤(はいばん)は、人間(にんげん)日用の物にして、其の數(かず)を造る事、十に九なり。此の圓器を造るには、先づ、陶車(たうしや/くるま[やぶちゃん注:右/左のルビ。])を製す。其の圓盤、上下二ツにして、下の物、少し、大(おほ)ひなり。眞中(まんなか)に眞木(しんき)一根(こん)を竪(た)てて、埋(うつ)む事、三尺ばかり、高さ二尺許り、上の車(くるま)の眞中に、土を置きて造る也。下の車は工人の足にて𢌞(まわ)し、須臾(しばらく)も𢌞り止むこと、なし。両手を以つて、かの上の圡を、上へ押し捧(さゝ)げ、指(ゆび)自(おのづか)ら内(うち)に交(まじは)り、車の旋轉(めくる)が中(うち)に拇指(おやゆび)は器(うつは)の底にありて、其の形の異法(いはう)、心にまかせ、すべて、手のうち・指尖(ゆびさき)の妙工(めうこう)、見るがうちに、其の數(かず)を造り、其の樣(やう)、千萬の數も、一範(ひとかた)の内に出づるがごとくにして、大小を、あやまらず。又、椀(わん)・鉢(はち)の類(るい)の、外(そと)の輪臺(いとそこ)を付けるには、微(すこ)し、乾して、再び、車に上(のぼ)せ、小刀(こがたな)を以つて、輪臺(いとこそ)の内外(うちそと)を削り成し、碎(わ)れ缺(かけ)も、此の時に、補ひ、或ひは鈕手(とつて)・瓶(どびん)の水口(すいくち)などは、別に造り、粘土(ねりつち)を合わせて、和付(くわふ)す。又、是れを陰乾(かげぼし)とし、極白(ごくしろ)に至らしめ、素燒窯(すやきかま)へ入るゝなり。

○素燒窯は圖するごとく、糀室(かうじむろ)の如き物にて、器物(きぶつ)を内に積みかさね、火門(くわもん)、一方にありて、薪を用ゆ。度量を候(うかゞ)ひ、火を消し、其まゝ、能(よ)く、さます。

○打圈書畫再入窯(わをうち、ゑをかき、ふたゝび、かまにいるゝ)  右(みぎ)素燒の、よく冷(□[やぶちゃん注:判読不能。元禄版でもダメ。底本のここ(左頁五行目)。「さ」と思われる。])めたるを、取り出だし、一度(ひとたび)、水に洗ひ、毛綿裂(もめんきれ)にて巾(ふ)き、磨くなり。茶椀・鉢などの、内外(うちそと)・上下(うへした)の圈輪(わ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])の筋(すじ)を画(えが)くには、又、車に上(のほ)せ、筆(ふで)を其の所にあてゝ、くるまをめぐらせり。然(しかし)して、書画(しよぐわ)を施し、其の上へ銹漿(くすり)を、二度(ど)、過(か)けて、よく乾(ほ)し、本窯(ほんかま)へ納(い)れて、燒けば、火を出でて後(のち)、画(ゑ)、自(おのづか)ら、顯(あらは)る。取り出だし、又、水に洗ふを、全備(ぜんび)とす。すべて、圡(つち)を取るよりはしめて、終成(できあがる)までは、たゞ一杯の小皿(こさら)なりといへとも、其の工力(こうりよく)を過(すく)ること、七十二度にして、其の微細・節目、尚、其の數(かず)、云盡(いゝつく)すべからず。

○素燒(すやき)の窯は、家の内にあり。本窯は、斜(なゝ)めなる阜山(やま)[やぶちゃん注:「をかやま」と読ませるか。]・岡の上に造りて、必す、平地(ひらち)には、なし。皆。一窯(ひとかま)宛(づゝ)一級(ひとつあがり)に高くし 内(うち)の廣さ、凡そ三十坪、是れを、六つも連接(れんせつ)して、悉く、其の接目(つぎめ)に、火気(くわき)の通ずる窓(まど)を開く。然(しか)れども、火(ひ)は窯ごとに焚く也。内には器物(きぶつ)をのする臺(だひ)あり。即ち、圡(つち)にて制し、一ツ宛(づゝ)のせて、寸隙(すんげき)なく、一方を、細長く明け置き、それへ、薪(たきゞ)を入るゝ。此の火門くわもん)、八寸に、高さ二尺計(はか)り余(よ)にして、 焚くこと、凡そ晝夜(ちうや)三、四日にして、一窯に、薪、凡そ二萬本(ほん)を費(つい)やす。尤も、焚き樣(やう)に手練(しゆれん)ありて、上人(じやうず)・下(へた)、人の雇賃(やとひちん)を論ず【追々(おひおひ)、投げ込むに、たゞ、木の重(か)さならぬやうにするを、よし、とす。】。又、戸口の脇に手鞠(てまり)程(ほど)の穴、有り、是れを、時々、蓋(ふた)をとりて、度量を候(いかゞ)ひ、其の成熟(せいじゆく)を見れば、火を消し、其のまゝ、よく冷(ひや)して取り出だすに、一窯(ひとかま)の物、凡て、百俵(ひやくひやう)に及べり。

○過銹(かけくすり)は、即ち、おなし圡(つち)の内にて、上澄(うはずみ)の上品をゑり、それに蚊子木(からのき)の皮(か)はを燒きたる灰(はい)を調和(てうくわ)す。最も、增減・加味、家々の法ありて、一概(いちがひ)ならず。

○囘靑(あをゑのくすり)は  元(もと)、漢渡(からわた)りの物にして、その名、未詳(つまびらかならず)。是れ、亦、よく細末(さいまつ)して、水に和し、𤲿(ゑか)く時は、其色、眞皂(まくろ)なれども、火を出でて後(のち)、靑碧色(せいへきしよく)と變ず。

[やぶちゃん注:以下、「品多し」までは全体が一字下げ。]

「天工開物(てんこうかいぶつ)」を見るに、是れ、惣(すべ)て、一味(いちみ)の『無名異(むめうい)』なり。此の『無名異』といふは、山にて、炭(すみ)を久しく燒きたる下(した)に、異色(いしよく)の塊(かたまり)、生ず。是れを『藥木膠(やくぼくこう)』と云ふ。是れも『無名異』の名あり。又、石刕銀山(せきしうぎんざん)にも、同名の物(もの)あり。本条の物には、あらず。是れは、土中にある紫色(ししよく)の粉を、水干(すいひ)したる物にて、血止(ちどめ)とするのみ。最も、僞物(ぎぶつ)多し。本条の『無名異』は、地面に浮き生じて、深き土には、生ぜず。堀るに、三尺には、過ぎず。上・中・下の品(しな)ありて、これを、辨認(めきゝ)す。上なる物は、火を出でて、翠毛色(みとりいろ)となり、中(ちう)なるものは、微靑(びせい)なり。元(もと)、舶來(はくらい)の物を上品とす。大なるは、僅かに一分ばかり、小は至つて細(こまか)に、砂のごとし。尚、上品・下品、多し。

○「赤繪(あかゑ)」の物を「錦樣(にしきて)」と云ふて、五彩(ごさい)・金銀(きんぎん)を銹(くすり)に施すこと、是れ、一山(いつさん)の秘術として、口外を禁ず。故に此に略す。是れには、かの「硝子銹(びいどろくすり)」を用ゆと、いへり。

○惣(すへ)て、「南京燒(なんきんやき)」の古器(こき)は、いまだ、其の白堊(しらつち)を得さる時なるにや。圡(つち)は土器土(かはらけつち)に似て、甚だ軟らかなり。其の上、藥に硝子(びいどろ)を加ふるゆへに、自(おのづか)ら缺(か)け損(そん)ず。是れを、今、「虫喰出(むしくひで)」などゝ賞(しやう)ずれども、用に適しては、今の物に劣れり。但し、「囘靑繪(あをゑ)」の上銹(うはくすり)は、銹の上より、書きたる如く見ゆるは、「南京物」の妙也とは云へ共、「硝子藥(びいどろくすり)」の助けなり。日本の「靑繪」は、藥の下に沈みたるが如く見ゆるは、硝子(びいどろ)を用ひざる故にして、是れ又、適用の爲(ため)に勝(まさ)れり。

○陶器の事は、「舊事記(くじき)」に、『茅渟縣(ちぬのあがた)に大陶祇(おほすへすみ)』と云ふあり。茅渟は和泉(いづみ)の國に屬して、今も陶器村、あり。古へは、物を盛るに、すべて、土器、又、木(こ)の葉を用ゆ。今、堂上(どうじやう)、すべて、土器を用ひて、しかも塑(つくね[やぶちゃん注:先に出た動詞「塑(つく)ぬ」=「捏(つく)ぬ」「捏(つく)ねる」の名詞化したもの。])なり。是れ、上古、質朴の遺製(いせい)を、捨てたまはぬ風儀を見るべし。

「日本記」、神代巻(しんだいのまき)に、『嚴瓫(いつえ)』・『嚴瓫之置(いつほんのおきもの)』・『忌瓮(いんべ)』など、皆、神を祭るの土器(どき)也。又、「和名鈔」に、『缶(ホドキ)』を『ヒラカ』といひて、『斗(と)を受(うく)るの酒器なり』とす。【「斗」は今の「一升」なり。】。「延喜式」に、『盆(ほどき)、瓫(ほどき)』と云ふも、皆、古質(こしつ)の器(き)なり。後世(こうせい)に軍陣の出門のとき、是れを設(まふ)くを、『「イツヘ」の「オキモノ」』とは云ふ也。又、今も、「忌部」といふ古物(こぶつ)は古語(こご)也。是れを以つて、陶器を司どる性(せい)[やぶちゃん注:「姓」に同じ。]にも、いへり。今の伊萬里に燒はしめし、年月、未詳(いまだつまびらかならず)。

[やぶちゃん注:私は陶磁器に冥く、向後も興味を抱くことは全くないと思われる。従って、細かな注をつける資格も持ち合わせていない上に、興味が全体に全く湧かないので、判らない部分は深く調べず、正直に示しておくに留める。悪しからず。

「大河内山(おほかはちやま)」現在の佐賀県伊万里市大川内町(おおかわちちょう)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。地名としての「大川内山」は現在でも「おおかわちやま」と読む。

「三河内山(みかわちやま)」現在の長崎県佐世保市三川内町(みかわちちょう)か。しかし、ここで作られるものは、少なくとも現在は「伊万里焼」ではない。「三川内焼(みかわちやき)」或いは「平戸焼(ひらどやき)」とも呼ぶ、場所も長崎県佐世保市で生産される陶磁器である。詳しくはウィキの「三川内焼」を見られたいが、「伊万里焼」との関係性は記されていない。ただ、本文でも後で言っているのだが、実際には伊万里の南の有田が主な製造地であったのであり、「長崎県」公式サイト内の「広報誌コーナー『ながさきにこり』の「三川内焼と波佐見焼のルーツを探る」に、『江戸時代は当時の積出港(つみだしこう)の名をとり』、『「伊万里(いまり)焼」、明治以降は出荷駅の有田の名で「有田焼」として流通していた』とあったので、不審は解けた。

「和泉山(いづみやま)」佐賀県西松浦(まつうら)郡有田町(ありたちょう)泉(いずみやま)にある泉山磁石場(いずみやまじせきば)附近。

「上幸平(うへかうひら)」佐賀県西松浦郡有田町上幸平(かみこうひら)附近。

「本幸平(ほんかうひら)」前の上幸平の南西直近にある同町幸平付近か。

「大樽(おゝたる)」前の幸平に東北で接する同町大樽

「中樽(なかたる)」前の大樽の南東に広がる同町中樽

「白川(しらかわ)」佐賀県西松浦郡有田町白川

「稗古塲(ひへこば)」有田町稗古場

「赤繪町(あかゑまち)」稗古場の南東、幸平の北西の同町赤絵町

「中野原(なかのはら)」赤絵町に南西で接する同町中の原

「岩屋(いわや)」前の「中の原」の南に広がる同町岩谷川内(いわやがわち)。

「長原(ながはら)」不詳。

「南河原(みなみかはら)」佐賀県伊万里市大川町川原があるが、前後に有田町なので、違う可能性が高い。

「外尾(そとを)」佐賀県西松浦郡有田町丙外尾町附近か。北西で「外尾山」にも接している。

「黒牟田(くろむた)」有田町丙黒牟田

「廣瀬(ひろせ)」黒牟田に北で接する有田町甲広瀬

「一(いち)の瀬(せ)」不詳。

「應法山(わうはうやま)」黒牟田に北東で接する有田町丙応法(おうぼう)。

「幅湊(ふくそう)」漢字はママ。普通は「輻輳(ふくそう)」で、物が一ヶ所に集中して混雑する様態を指す。まあ、港だからうっかり「湊」になったとも言えよう。

「三つの股(また)」不詳。

「堊土(しろつち)」ウィキの「有田焼」に、『肥前磁器の焼造は』十七『世紀初期の』一六一〇『年代から始まった』。豊臣秀吉の「朝鮮出兵」の折り、『有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂に同行してきた陶工たちの一人の李参平は』、元和二(一六一六)年(慶長九(一六〇四)年説もある)に『有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き』、『日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖である。李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社(すえやまじんじゃ)もある』。『有田は小山に囲まれた盆地にあり、この泉山の白磁鉱はもともとは茶褐色の火山性の流紋岩で、それが近くの英山(はなぶさやま)の噴火で蓋をされて、長い時間をかけて温泉効果で白色に替わ』ったもので、『「変質流紋岩火砕岩」と呼ばれている。この岩石を』、『盆地に流れ混む小川に水車を応用して、細かく砕き』、『陶土(磁器用土)として、また』、『坂を利用して登り窯を作りやすかったという』。『近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い』一六一〇『年代前半から、西部の天神森窯、小溝窯などで磁器製造が始まっていたことが明かになっている。この頃の有田では』、『当時』、『日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(初期伊万里)を作っていた。「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色』一『色で図柄を表した磁器である。磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、その後釉薬を掛けて焼造する。当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから』、『焼成技術は朝鮮系のものとされる。一方で』十七『世紀の朝鮮では』、専ら、『白磁が製造され、染付や色絵の技法は発達していなかったため、図柄は中国製品に学んだと考えられ、絵具の呉須も中国人から入手したものと考えられている』。寛永一四(一六三七)年、『鍋島藩は、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、多くの陶工を廃業させて、窯場を有田の』十三『箇所に限定した。こうして有田皿山が形成された。この頃までの有田焼を美術史・陶芸史ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため』、『柔らかな釉調であること、形態的には』六寸から七寸『程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ』三対一の、『いわゆる三分の一』、『高台』(こうだい)『が多いことが特徴である』とある。

「添水碓(そうすからうす)」川「水」の流れに「添」うようにして工房が造られ、外装の「水」車が、室内にある唐臼(からうす)=「碓(うす)」を自動的に挽くことから、こういう漢字と読みとが与えられたものか。【2021年6月27日追記】Facebookの知人から、小学館「日本国語大辞典」の「添水」(そうづ(そうず))の項を紹介されたので、以下に所持するそれから引用する。『(語源未詳。「僧都」からとも、「そほど(案山子)」の転ともいう。また歴史的かなづかいは「そふづ」とも)一方をけずって水がたまるようにした竹筒に、懸樋(かけひ)などで水を落とし、その重みで支点の片側が下がり、水が流れだすとはねかえって、他の端が落ち、そこに設けた石や金属を打って音を出すようにした装置。谷や川など水辺に仕かけて、田畑を荒らす鳥獣を追ったり、あるいは庭に設けてその音を楽しんだりする。また、石を打つ部分に杵をつけ穀物を搗(つ)くようにしたものもある。ししおどし。《季・秋》』。「語源説」には、『⑴ソウズカラウス(添水唐臼)の略〔大言海〕。⑵玄賓僧都がはじめて作ったところから〔文明本節用集〕』とあった。ネットの精選版の日本国語大辞典「添水」で挿絵も見られる。

「爐合(こうろ)」「香爐」。

「塑(つく)ね成(な)して」しっかりと捏(こ)ねて。

「陶車(たうしや/くるま[やぶちゃん注:右/左のルビ。])」轆轤(ろくろ)。

「輪臺(いとそこ)」高台(こうだい)。茶碗の胴や腰をのせている円い輪の全体を指し、容器を卓上乃至は台上に乗せた際に卓や台に接する、安定させるための足の部分のこと。

「糀室(かうじむろ)」「麹室」。正しい歴史的仮名遣は「かうぢむろ」。酒や醬油・酢などの発酵食品を作るための麹を寝かす室。コウジカビを繁殖させるための温室。

「銹漿(くすり)」釉薬(ゆうやく)。

「囘靑(あをゑのくすり)」回青(くわいせい(かいせい))はそれ自体が中国で発明されたものではない(作者の「漢渡(からわた)りの物にして、その名、未詳(つまびらかならず)」は大間違い)。明代にイスラム圏から輸入され、「青花」(せいか:中国語では別に「釉里青」「釉裏青」(日本語読み「ゆうりせい」)と呼ぶ陶磁器の「染め付け」のこと)に用いる青色のコバルト顔料。回回青。回教徒から伝えられたから、かく呼ぶのである。

「天工開物(てんこうかいぶつ)」明末(十七世紀)に宋応星によって書かれた産業技術書。「天工」は「造化の巧み」(「自然の業」の意)、「開物」は「人間の巧み」を意味する。中国産業技術史を展望するに格好の書として高く評価されている。

「無名異(むめうい)」歴史的仮名遣「むみやうい」が正しい。原義は、天然に産するマンガンや鉄の酸化物を指したようで、薬用とした。後に、佐渡に産した酸化鉄を多量に含む赤色の粘土(「相川焼」などに用いられている)を指すようになり、さらに、後に出る釉薬「呉須(ごす)」(焼物の染付に用いるコバルト化合物を含む鉱物の名。また、「呉須焼」の略称。名称の由来は不明。原石は黒ずんだ青緑色で、粉末にして水に溶いて磁器に文様を描き、その上に釉薬(うわぐすり)をかけて焼くと、藍色に発色する。近年は人造呉須も用いる。陶磁器顔料の中で最も多く使用されている)の異名ともなった。

「藥木膠(やくぼくこう)」不詳。

「石刕銀山(せきしうぎんざん)」石見銀山。

「水干(すいひ)」「水」で精製して、後にしっかり水分を飛ばして「干」し上げること。顔料名としても使い、もととなる主な素材は貝殻から作られた顔料の一種「胡粉(ごふん)」で、それに着色したものが「水干」である。参照した絵画材料通販「PIGMENT TOKYO」の『絵具の素「水干」とは?』を読まれたい。

「血止(ちどめ)とする」アルミニウム、・鉄・亜鉛・マンガン・ビスマス等の種々の金属塩は止血作用がある。

「翠毛色(みとりいろ)」カワセミ鳥綱 Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis )の羽毛の色。

「赤繪(あかゑ)」「錦樣(にしきて)」グーグル画像検索「赤絵 錦様」をリンクさせておく。平凡社「百科事典マイペディア」の「赤絵」によれば、赤を主調とする上絵付(うわえつけ)のある色絵のことを指すが、広義には上絵付を施された焼き物で、「色絵」とも呼び、中国では後に出る通り、「五彩」と呼ぶ。施釉(せゆう)され、本焼された焼き物の釉面(ゆうめん)に赤・緑・黒・黄色などの上絵具を塗り、それを、再度、低い温度(摂氏七百度から八百五十度程度)で焼き付ける(金や銀色の焼き付けの場合は、さらに低い温度で行う)。中国では金代に華北の磁州窯で創始された。元代には景徳鎮窯で、紅緑彩を白磁の上に施す作品が現われ、明代以降も、引き続き、多彩な上絵付の作品が焼造された。特徴的な作品としては、明代の嘉靖期(一五二二年~一五六六年)の「金襴手(きんらんで)」・「万暦赤絵(ばんれきあかえ)」・「天啓赤絵(てんけいあかえ)」などで、日本の茶人が好む「古赤絵」は、正徳(せいとく:一五〇六年~一五二一年)・嘉靖頃の景徳鎮民窯の作といわれる。福建省の漳州窯(しょうしゅうよう)では、明代末期に「呉須赤絵(ごすあかえ)」と呼ばれる大盤や鉢などを焼成(しょうせい)し、海外に大量に輸出した。日本では、一六四〇年代に伊万里焼の中で始められ、また、同様に十七世紀中葉、京都で野々村仁(ののむらにんせい 生没年不詳:江戸前期の著名な陶工)が陶器の色絵装飾を完成させている。朝鮮半島では赤絵の技法は発達しなかった、とある。

「硝子銹(びいどろくすり)」釉(うわぐすり)・釉薬(ゆうやく)と同義であろう。同じく平凡社「百科事典マイペディア」の「釉(うわぐすり)」を引いておく。陶磁器の表面に焼き付けて美観・強度・耐食性などを与え、吸湿性をなくすために用いられるガラス質の物質。素地と膨張係数がほぼ等しく、溶融点が素地より低いことが必須要件で、主成分はケイ酸化合物であり、融剤の特性により鉛釉・アルカリ釉・石灰釉・長石釉・ホウ酸釉などに分類される。透明釉のほか、金属酸化物を加えた色釉・乳白釉・結晶釉・つや消し釉などもある。特に呈色剤となる金属を釉が含有する場合、その含有率や、酸化炎焼成か還元炎焼成かで、発色は異なることが多い。また、各種の釉は、溶融温度から低火度釉と高火度釉に大別され、低火度釉のうち、アルカリ釉の古いものは、エジプトのタイルに、鉛釉は楽焼・唐三彩・緑釉に用いられている。高火度釉を代表する灰釉は、青磁釉の源流ともいうべきもので、灰釉陶器の初現は中国で商(殷)時代中期、紀元前一三〇〇年頃にまで遡る。日本でも平安時代から見られ、藁灰(乳白色不透明)・いす灰(白磁釉)など種々あるが、松の灰など、鉄とアルカリ分が多いと、還元して緑のビードロ釉となる。長石釉は花崗岩の風化したものを用い、その代表は「志野焼」である。金属表面に釉を焼き付けたものを「琺瑯(ほうろう)」と称する、とある。

「南京燒(なんきんやき)」中国の清朝時代に製作された景徳鎮の民窯磁器の総称。江戸前期に中国の南京方面から渡来した。

「舊事記(くじき)」史書「先代旧事本紀」。「旧事紀」「旧事本紀」とも呼称。全十巻。天地開闢から推古天皇までの歴史を記し、序文に聖徳太子・蘇我馬子らが著したとあるものの、現在では大同年間(八〇六年~八一〇年)以後から、九〇四年から九〇六年以前に成立したとみられている。参照したウィキの「先代旧事本紀」によれば、『本書は度会神道や室町時代の吉田神道でも重視され、記紀と並ぶ「三部の本書」とされた。また江戸時代には『先代旧事本紀大成経』など古史古伝の成立にも影響を与えたが』、『江戸時代の国学者多田義俊』(後注参照)『や伊勢貞丈らによって偽書とされた。現在の歴史学では、物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価されている』とある。

「茅渟縣(ちぬのあがた)」大阪湾の東部、和泉国(現在の大阪府南部)の沿岸の古称。現在の堺市から岸和田市を経て、泉南郡までの一帯に当たる。「千沼」「血沼」「血渟」「珍努」などとも表記された。地名よりも、大阪湾の東岸沖が「茅渟の海」として歌枕で近代までよく知られていた。

「大陶祇(おほすへすみ)」「おほすへづみ」。元は神名で、大物主神の妻となった活玉依毘賣(いくたまよりひめ)の父とされ、陶津耳命(すへつみみのみこと)とも呼ばれる。

「陶器村」大阪府堺市中区陶器北の地名が残る。

「日本記」「日本書紀」。

「嚴瓫(いつえ)」「いつへ」が正しい。「いつ」は、「神聖な」の意で、「へ」は「容器」の意である。本来は「祭事に用いた壺」で、「神酒(みき)を入れる神聖な容器」を指す。ここはそれを特権的に製造する一族の姓としたものであろう。よく判らないが、「嚴瓫之置(いつほんのおきもの)」も同じ類いであろう。

「忌瓮(いんべ)」前注に同じ。神酒を入れて神に供えるために清められた容器が原義。「齋瓮」とも書き、「忌部氏(いんべうぢ)」後に「斎部氏」として、古代朝廷に於ける祭祀を担った氏族。ウィキの「忌部氏」によれば、『天太玉命』(あまのふとだまのみこと)『を祖とする流れと、天日鷲命』(あまのひわしのみこと)『を祖とする流れ(阿波忌部)、天道根命』(あまのみちねのみこと)『を祖とする流れ(紀伊忌部、讃岐忌部)の三種が有名で、いずれも神別(天神)に分類される』とある。

『「和名鈔」に、『缶(ホドキ)』を『ヒラカ』といひて、『斗(と)を受(うく)るの酒器なり』とす。【「斗」は今の「一升」なり。】。』「和名類聚抄」は「鈔」とも表記する。「瓦噐第二百四」に、

   *

盆(ヒラカ)【ホトキ】「唐韻」に云はく、【「蒲」・「奔」の反。字、亦、「瓫」に作る。「辨」なり。「立成」に云はく、『「比良加」。俗に云ふ、「保止岐」』と。】瓦噐なり。「爾雅」に云はく、『「瓫」は之れ、「缶」【音「不」。】と謂ふ。』と。「兼名苑」に云はく、『盆、一名は「盂」【音「于」。】』と。

罐(ツルヘ) 「唐韻」に云はく、『罐【音「貫」。「楊氏漢語抄」に云はく、『都流閉』と。】は水を汲む噐なり。』と。

   *

とあって、作者は「盆」と「罐」を混同していることが判る。「ヒラカ」とは「平瓦(ひらか)」で「平たい陶器の器」の意。「ホトキ」は後に「ほとぎ」と濁り。「缶」で、昔、水などを入れた胴が太く、口が小さい瓦製の器のこと。「ツルヘ」は「釣瓶(つるべ)」の古い呼称で、本来は「縄や竿の先につけて井戸水をくみあげる桶、「吊る瓮(つるへ)」の意とされれる。古く「日本書紀」の神代下に『豐玉姬の侍者(まかたち)、玉瓶(たまのつるべ)を以て水を汲む』とあるのを指す。ここで、作者は注ぎ口を持った陶器をそれに当てているようである。

「延喜式」「養老律令」に対する施行細則を集大成した古代法典。延喜五(九〇五)年に編纂を開始し、延長五(九二七)年撰進、施行は康保四(九六七)年。]

サイト「鬼火」開設二十一周年記念 梅崎春生 鬚

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十二月号『文芸大学』初出で、翌年十二月に刊行された作品集『B島風物誌』に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 文中にも注を附したが、最初に言っておくと、本作は小説の体裁をとっているが、主人公「私」の体験内容は梅崎春生の履歴とほぼ完全一致している。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、昭和一五(一九四〇)年三月(満二十五歳)、東京帝国大学文学部国文科を卒業(卒業論文は現代時制の小説のみに限定した「森鷗外論」)し、朝日新聞・毎日新聞・NHKなどを志願するも、総て不合格で、弱り切っていたところを、旧友の霜多正次の紹介で東京市教育局教育研究所の雇員(こいん:正式職員ではなく、事務・技術的仕事の手伝いなどのために雇われた雇用人)となった。給料は七十円。現在換算で一万三千五百円前後か。二年後の昭和十七年、陸軍対馬重砲隊に召集されたが、軽度の気管支カタルであったのを肺疾患と診断されて即日帰郷となり、その年一杯、療養生活を楽しんで、職に復したものの、まさにこの昭和十九年春三月には、『徴兵をおそれて教育局を辞職、東京芝浦電気通信工業支社に入社。一ヵ月勤務したが、役所と違って仕事がきついので三ヵ月の静養が必要であるとの診断書を医者に頼んで書いてもらい、月給だけ貰って喜んでいたところ、六月、海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団』することとなってしまうのであった。本篇作品内の時制では、梅崎春生は満二十九歳で、この年の三月から六月というのは作品内時制とも齟齬が全くなく、創作とは言え、梅崎春生には珍しい私小説風のものとも考えられる。

 なお、本テクストは私のサイト「鬼火」(二〇〇五年六月二十六日開設)二十一周年記念として公開する。サイト版でPDF縦書ルビ版も同時に公開した。【二〇二一年六月二十六日 藪野直史】]

 

   

 

 口鬚(ひげ)を立てようと思った。昭和十九年春のことである。しかしそれについても大いに迷ったと見えて当時の日記を読むと次のようなことを書いておる。

「一般的に言って人間の顔には、崖の似合う顔と似合わぬ顔がある様だ。誕生のときから生えているのではないかと思われる程しっくりした鬚の人も居るし、地の鬚のくせに付鬚みたいにそぐわぬ感じの人もいる。街を歩いて眺めて見ても、大きな鬚や小さな鬚、美しく刈り込んだ鬚や赤茶けて汚れた鬚、皆それぞれの趣好で顔に付着しているが、その似合う似合わないはひとえに顔の造作と微妙な関係があるようだ。顔の面積、鼻の高さや角度、頰と顎(あご)の比率、そんなものが鬚を立てる適不適を決定するのであって、鬚の似合わぬ人は自分の顔について計算誤りをしたと言う外はない。今まで見た範囲では、大鬚を立てた人に限って小さな眼を持っているようだが、あれはどういう訳(わけ)であろう。近頃感じた不思議のひとつである」[やぶちゃん注:底本全集の第七巻に抜粋の「日記」があるが、昭和十九年分はない。なお、近々、梅崎春生の当該「日記」パートを総て特殊な処理を施して電子化する予定である。お待ちあれ。

 変に気取った文章で、此処に書き写すのも気がひける。日記に此のような文体を使用することは精神が堕落している証拠で、当時の私は全く贋者の生活をして居った。気持の荒れは必ず顔貌に出るもので、鏡で見ると、色艶の悪い髪は額に乱れ落ち、眼には光なく、顔色蒼然として贋者(にせもの)に酷似している。これに鬚を立てればどういう顔になるのか、想像する勇気も出ない程不安であったが、しかし当時の私はどうしても鬚を立てねばならぬ訳があったのだ。顔の造作を顧慮することなく口鬚を生やさねばならない破目に追い込まれていたのである。その事情を今から書く。

 その頃私は東京都の役人であった。

 足掛四年の勤めであったけれども、地位から言えば極端に下っ端であった。そしてどの下っ端役人にも同じように、傲慢で、不親切で、見栄坊で、けちで、怠惰で、そして卑屈であった。唯私が周囲と違っていたことは、私が出世を念願しないということだけであった。それも都会議員などに手蔓(てづる)を求めて出世をたくらむ才覚を持合せないからであった。仕事にも情熱を持っていなかったから、勤務成績は極めて悪く、四年経っても雇員という半端な身分でぴいぴいしていた。そしてぴいぴいしていることに腹を立てて酒ばかり飲んでいたのである。それなら辞職すればいいのに、依然として毎朝通って居たというのも、役所を離れたら生活して行く方途が立たないからであった。もっと美しいもの、輝かしいもの、目の覚めるよぅなもの、そんなものを切に欲しながら、しかもそんなものが現実の世界にあってたまるかというのが、私の不潔な呟きのすべてであった。

 

  すべてさびしさと悲傷を焚(た)して

  ひとは透明な軌道をすすむ

 

 と詩人はうたったが、私はそんなものを焚くこともせず、濁った軌道をよたよたとたどって居るに過ぎなかった。ところが昭和十九年に入ると、事情が俄(にわか)に変って来たのだ。[やぶちゃん注:上記の詩は宮沢賢治の「小岩井農塲 パート九」のもの。但し、正確には「すべてさびしさと悲傷とを焚いて」/「ひとは透明な軋道をすすむ」である。全体は私のブログの当該詩篇の電子化注「小岩井農塲 パート九」を参照されたい。]

 徴用が始まるというのである。今までは役所は徴用の対象から除外され、それが私が役人として止っていた理由の一半ででもあるのだが、徴用すべき遊休市民も種切れになったと見えて、ついに当局は下級役人に目を着け始めたのである。これには困った。同僚の誰々に白紙令状が来たという話を聞く度に、私は次第にあわて始めていた。今迄は立身出世を侮蔑する気持が私の日常を辛うじて支えていたのだが、こうなると遮二無二(しゃにむに)出世を計って置けばよかったと後悔の臍(ほぞ)を嚙む思いであった。今更油にまみれて機械をいじるなど、誠に迷惑な話である。徴用。言葉からして現世の快楽から隔離された感じである。この事が私には一番いやだった。一体どうしたら良いかと思い悩んだ末、私は女のところに相談に行った。

「辞めてしまえば良いじやないの」

 女は冷然と言下に答えた。

「辞めてしまえばなおのこと徴用がくる」

「だから徴用の来ない処にはいるのよ」

 それもそうだと、女のアパアトから夜道を戻りながら私は考えた。しかし私のような人物は役所だからこそ勤まるので、よその処で勤務し得る自信はない。だがそんな事を考えている余裕は無かった。伝手(つて)を求めて他処(よそ)に移ることに決心して、私は辞表をしたためて役所に持って行った。そして再び踏むこともないだろうところの役所の玄関を、私はさっぱりした気持で出た。まことに晴れ晴れした心持であった。徴用が厭だったから辞めたに違いなかったが、私は周囲の小役人どもの体臭がそしてそれに染んだ自分の体臭が厭だったのだ。自分をなだめなだめして勤めていたのだが、常住それから抜け出たいという無意識の願望が、徴用という機会を捕えて爆発したに過ぎない。まこと徴用こそは、私の脱出の良きスプリングボードであった。ところが愚かな私は此の踏切板を利用して泥沼を見事に飛び出したまでは良かったけれど、方向を誤ってまた新しい泥沼に飛び込んでしまったのである。

 川崎市にある、今は焼けてしまったが、通信機を製造する大きな会社に私は入り込んでいた。此処を紹介して呉れた布川さんという人が、自分も営業部にいるから君も営業部に入ったが都合良いだろうと言うので、訳も判らずに営業部の一隅に席を据えて、毎日朝早くから通い始めたのである。朝は寒いのに暗いうちから起きて仕度をし、夕方は暗い頃でなければ家に帰り着かぬ。長い間住み慣れた本郷から余儀なく大森に引越して来た。弁天池の畔(ほとり)にあるマッチ箱のような素人(しろうと)下宿である。池に面した四畳半の部屋で、毎晩疲れ果てて眠った。[やぶちゃん注:「弁天池」東京都大田区山王四丁目(グーグル・マップ・データ)に現存する。]

 新参の勤めの気持は、経験のある人なら誰にでも判って貰えるだろうと思う。白々とした手持無沙汰な気持も、また誰からも相手にされない癖にどこからか執拗(しつよう)に監視されているような気持も、やり切れぬとは思ったが運命と思って辛抱した。しかし九日十日経ち、此処の空気が次第に判り始めるにつけ、段々私は自分の軽はずみを後悔するような気持になり始めたのである。

 役人という人種も誠に愚劣であったけれど、会社員というものがこんなに愚劣な人種であるとは私の予期しなかったところであった。ずるい癖に卑屈で、不親切で、そして最も私を驚かしたことは彼等は役人よりももっともっと官僚的であったことであった。一々例を上げるのは止(よ)すけれども、とにかく私はだだっぴろい部屋の一隅で、おあずけを食った犬のような顔をして、毎日爪を嚙んでぼんやりすわって居たのである。何も仕事がなかった。そして皆私に冷淡であった。私とかかわり合うと損をするといった風(ふう)であった。一間に閉じこめて何の仕事もさせないという刑罰が昔あったそうだが、これは辛いだろうと思う。こんなことなら徴用されて機械とにらみ合って居た方がましなような気になっていると、布川さんというのは気が良い男で、私が神妙に勤めているかどうか時々やって来て、元気をつけて呉れる。折角紹介して呉れたんだからと私もその時だけは気を取り直すが、布川さんが向うに行ってしまうと忽(たちま)ち気が滅入ってしまう。

 しかし、これ程とは思わなかったにしろ、現実世界に美しく楽しい仕事がある筈がない事は、いくら私でも知っていた事だから我慢して行く積りであったが、私が辛抱出来なかったのは私のささやかな快楽からすらも遮断(しゃだん)された事であった。役所に居た頃は、それでも勤務をさぼって国民酒場に並んだり、牛込の濁酒(どぶろく)屋に昼頃から行列することが出来た。処が此の会社は退けが五時半だから、とてもそんな事は出来やしない。だいいち女に逢いに行く事すら出来ない。私はもともとストイックな趣味は持ち合せないし、現世の快楽と言うと大袈裟(おおげさ)だがそんなものから自分を隔離するという事は、人生に対する冒瀆(ぼうとく)であり、ひいては神に対して冒瀆であるという信念を持って居たから、もはや私が此の軍需会社に席を置く意味は根底から失われて来たのである。で、辞めようと思った。

 辞めようと思ったものの、まだ一箇月も経たないのに辞表出したら、皆変に思うだろうし、第一紹介者の布川さんがいくらお人好しとは言え、面目玉を潰して厭な思いをするだろう。他人と感情の摩擦を起すことは生来私の好む処ではない。しかし辞めないことには女にも逢えないし、先ずあんな冷たいところはいやだ。あんな愚劣な世界はない。昭和十九年頃に於ける大日本帝国の一流軍需会社の内情は、こんなにも愚劣であったということを記録して後世に残さねばならぬ。そう思って原稿用紙を買って来て下宿の机上に置いてある程だ。どうにかして布川さんの面子(メンツ)を潰さずに辞める方法はないものかと、あれこれ思案しているうちに、私はふと病気ということを思いついた。そうだ、病気なら辞めても可笑(おか)しくないだろう。私は病気になる決心をした。

 私は生れつき智意は余り無いくせに、そんなことには頭が良く働くたちだ。その夜暗い大森の街をあちこち歩き廻り、すぐ診断書を書いて呉れそうな医院を探しあて、さまざまの贋の自覚症状を申し立てて、首尾よく診断書を手にすることが出来たのである。自覚症状は本屋で肺病の本を十分間ほど立ち読みして覚えた。医師が問うまま自覚症状を答えているうちに、何だか本当に自分が病気に冒されているようなものものしい気分になって来た。だんだん悲痛な顔色になって来たんだろうと思う。医師は私を慰めながら、用紙にさらさらと次のように書いて呉れた。

 右側肺尖加答児(カタル)四箇月ノ休養ヲ要スルモノト認ム

 それを読んだ時、にがいものが口腔の中にたまって来るような気がした。[やぶちゃん注:「肺尖加答児(カタル)」(「カタル」はオランダ語catarrhe・ドイツ語Katarrhで、粘膜の滲出性炎症。粘液の分泌が盛んになって上皮組織の剝離や充血などが見られる症状を言う。ここは肺尖部の結核性病変で、肺結核の初期症状である。]

 で、そういう事情だから辞めさして頂きたい、入社早々病気欠勤してその間月給を只貰うのは心苦しいし、だいいち私の気に済まない。

 そう言ったところが布川さんは人の好さそうな眼をしばしばさせて、そんな事はないでしょう、会社から月給貰ってゆっくり養生すればいいじゃないですか、と私をなだめるように肩をたたいて呉れた。いやそういう訳には、私の良心が許さないのです、入社しなかったと思えばそれで済むのですから、などと押問答しているうちに、布川さんはふと思いついたように、

 「しかし辞めると言っても君は此の会社に現場徴用になっている筈ですよ」

 何ですか現場徴用というのは、私はあわてて聞き返した。診断書は布川さんに事のいきさつを話す前に、もはや部長の手に提出してあるのである。辞表だけは布川さんの諒解を得て、部長に出そうという私の腹であった。そして布川さんの説明によって、戦争の終る迄は死にでもしない限り、私は此の会社と縁を切る訳には行かぬことが呑み込めて来た。まことに私は狼狽した。

 もはや事態は私の計算をはみ出て進行し始めたのである。あわててあちこちと折衝したけれども後の祭りであった。そしてとうとう不幸にも私は向う四箇月間養生しなければならない事に決ってしまったのだ。そんな恐い病気に私が犯され、そして長い間休養しなければならぬことが周囲に知れ渡ると、いつもは冷たく仕事の上では不親切な人人が、掌を返すように親切になったのは、今もって私には不思議である。他人が不幸になると人間は寛大になるものらしかった。お大事になさいとか、僕も昔やったことがあるがなどと、なおる秘伝を教えて呉れたり、始めからこんなに親切なら或は私も病気にならずに済んだにと、私は腹の中で毒づきながらあいさつを済まし会社の門を飛び出した。駅の方にてくてく歩きながら、どうにでもなれと思った。

 翌朝も何時ものように早く眼が覚めた。今日は会社に行かなくて良いのだということがすぐ頭にきた。嬉しいような不安なような気持で、蒲団をかぶって又眠った。色々な夢を次々に見て昼頃ぼんやり眼が覚めた。起き上って部屋の中を見廻した。見廻してもさて何することもない。

 これが私の克ち得た境遇なのか?

 猿をつないだ繩の端を猿廻しが持っているように、私を繋いだ紐(ひも)の端を会社がしかと握っている。一応私は身軽になったように見えて、その実身軽には動けないのだ。何をしたら良いのか判らない。又蒲団に私はもぐり込んだ。

 夕暮になった。私は起き上り窓際に腰かけて、池の端に咲いている桜を眺めていた。よごれた桜の花片が細い道を埋め隠している。池の面に浮んだ花片を鯉が時々顔出してくわえてもぐって行く。眠り足りて身体が重く、春の愁いのかたまりになったような気がした。

 翌朝も早く眼が覚めた。窓の下の道を、いずれあちこちの工場に徴用されたりして出勤する人々の跫音(あしおと)であろう、次々に近づいては遠ざかって行く。飛行機を造るために猫の手でも借りたい此の時局に、心身共に健全な私が手を束ねて無理矢理に朝寝をしなければならない。まこと後ろめたい感じである。しかし之(これ)も私の微妙な計算違いから来たもので、誰を怨むすべもない。しかしせめて三日に一度なりとも東京に出て、お酒を飲んだり本郷のアパアトにいる私の女に逢いに行ったりしてはいけないだろうか。そうでもしないことには、いくら安逸無為を愛する私といえども生きて行けないような気がする。

 ところがそう簡単に行かなし事情があったのだ。会社の本社が日比谷にあったし、また陸軍省や造兵廠に連絡に行く為(ため)、営業部の連中はしょっちゅう川崎東京間を往復しているのである。その為の定期券が何枚も用意されている程だ。大森から省線に乗るとすれば、顔を合せる危険が多分にある。絶対安静にして居る筈の私が、血色の良い顔で省線に乗ったりして居るところを見られたら、結果が思いやられる。どうにか解決の方法はないかと、窓の下を通る跫音を数えながら思い悩んでいると、天啓のように私の頭にひらめいたひとつの考えがあった。

 そうだ。口鬚を立てよう。

 口鬚を立てれば判るまい。勤めた間が短かったから、うまく行けば彼等は私の顔を忘れてしまうだろう。忘れないにせよ印象はぼやけて来るに違いない。そこでもって顔形を少し変えれば、あの連中は頭が悪そうだから胡麻化(ごまか)しが利くのではないか。

 しかしそれにしても鬚は一朝一夕にして生ずるものではない。それは仕方のない事だ。その代り生え揃ったら酒も飲めるし女にも逢える。私は愉しさのため急に胸がふくらんで来るような気がした。

 忙がしい会社の生活と打って変ってのんびりした日々が、こうして始まったのである。朝はゆっくり起き、昼から夜にかけて煙草すったり本を読んだり、夜中にはこんこんと眠っていた。そのうちに私は段々と肥って来るようであった。胸の辺に肉が付き、身体全体がぼとぼとしまりが無くなって来たのである。その上自分でも判る位に万事挙動にくぎりが無くなって来た。暇になったら書こうと目論(もくろ)んでいた小説が、机の前に坐っても一句も浮び上って来ないのである。机上にのべた原稿用紙の第一行には、軍需会社、と題名が書かれたきり、あとは余白のまま日が経つにつれて薄いほこりを重ねて行った。そのうちに小説を書こうなどという気持も忘れてしまった。日記もつけなくなった。掃除も怠るようになり、寝床の上げ下げも省略した。物憂(う)い春の空気の満ちわたる部屋の中で、昼間でも寝床に入って、近くの貸本屋から借りて来た小説を読みふけった。読み疲れると天井をむき、煙草をふかしながら女のことを空想する。

 相談に行った日以来私は女に逢っていない。床の中で女を考えると変になまなましく思い出されて来る。私が訪ねるときまってすぐチャカチャカと台所仕事を始めたり、しないでもいい洗濯を始めたがるのが女の癖であった。そんな癖を想起しながら私の指は鼻の下を撫でて居る。此の鬚さえ伸びればと思う。近頃肥って来たから、うまい具合に行けば私の鬚はハアトのキングみたいに高雅な感じになるかも知れない。私の好みからすれば、レオナルド・ダ・ヴィンチや佐久聞象山のような破局的な鬚が好きだが、あんな鬚を立てるまでには三年や五年はかかるだろう。やはりハアトのキング程度で我慢するほかは無かろうといったような事を私はとりとめもなくうつらうつらと考え続ける。

 此のような境遇に追い込まれたら、私ならずともこんな阿呆な具合になると思う。こんな状態を何と呼ぶべきだろう。頽廃と言うには筋金が入っていないし、安逸と呼ぶには悲しみがあり過ぎた。脳の外側にぐるりと不透明な膜がかかったようで、例えばまっとうな小説を借りて来て読み出すと、頁半ばにして眠気を催してしまうのだ。あの若い頃の俊敏な文学青年であった私はどこに行ったのであろう。頭の片隅で鈍い悔いを意識しながら、それでも夕暮になると大森駅近くの貸本屋から探偵小説を借りて来て、蒲団の中で深刻な顔をして読みふけった。もう文学も何もなかった。探偵と一緒に犯人を探すことだけが私の生甲斐であった。未だ見知らぬ異国の、シヤンデリヤの下で、街のアパアトで、河岸のくらがりで、宿命の如く突然人が殺される。私は直ぐさま名探偵と一緒に現場にかけつけ、巧妙にたくらまれた迷路に、擬似の興奮と戦慄を強いられながら入って行く。言わば私は心身をなげうち捨身となって犯人の探索に従事したのである。漠然とした悲哀とにがい反省をひとつひとつ潰して行きながら。

 窓の外に桜の花は咲きほうけ、やがて一ひら一ひら散り池の端を埋め尽し、散り果てた後からは鮮やかな緑の若葉が勢よくふくれ上って来た。もう良い頃だろうと私は窓に腰かけ手鏡を取り出して前に据えた。

 汚れた手鏡の面に、葉桜を背景として鬚もじゃに荒んだ私の顔がぼんやり映っていた。暖かい春風がそよそよと顎の鬚をそよがせている。眼が赤く濁り皮膚はたるみ、ことのほか陰惨に見えた。鏡を横にずらしたり、かざしたり、下から映してみたり、あらゆる角度から調べ終ると、私は窓をしめ跫音を忍ばせて下宿の玄関を出て行った。

 暫(しばら)くして私は理髪店の椅子台に、白い布で顎から下をおおわれて腰掛けていた。明るい雰囲気の中で無精鬚に埋まった私の風貌は、大きな白い鏡面の中でいっそう孤独に見えた。何か見るに堪えない気持があって私はわざと横を向いたりせきばらいしたりなどして胡麻化した。

 いよいよ鬚を剃る段取りになったとき、私はふと危惧を感じて薄眼を開き、掌をひらひらと動かした。「ここは残すんだよ」

 うっかりして剃り落されたら今までの苦労が水の泡になる。

 やがて剃り終った。椅子の上に起き直り鏡を眺めたとき、私は少からず失望せざるを得なかった。鼻の下には何も無かったのだ。いや、何も無いと言っては嘘になる。何か薄黝く、丁度鼻の下が垢じみて汚れた感じである。無精鬚としては道行く人も振り返る位堂々としていたのに、いざ本物になった時には影みたいにたよりないのであった。何だかだまされた感じである。がっかりしてとぼとぼと下宿に戻って来た。これではまだ当分女には逢えそうにもない。

 またしても懶惰(らんだ)なる生活が始まった。鬚などというものはまだ伸びないか伸びないかと毎日心配していると、仲々思うようには伸びて呉れないものらしい。むしろ鬚のことなどは念頭に置かないがいい。そう気付いたから鏡をのぞくことも出来るだけつつしむことにした。指でさわる時も人さし指や親指では触らない。薬指の腹で撫でるのである。これが私の鬚に対する無関心のせい一ぱいの表情であった。薬指の腹で撫でると、奇妙な触感が私の心をほろ苦くした。まだ撫でていたい欲望をねじふせると、急いで私は探偵小説の読み方に取りかかる。春が次第に闌(た)けて行った。女から葉書が来た。

 近頃顔を見せないがどうしているか、という文面であった。その葉書を読み返し読み返し、又取り出してはやさしい筆遣いを打ち眺めていると女の顔や身体のことを思い出してますます思慕の情が募った。

 朝早くと夕方遅く、相変らず窓の下の道を跫音がつづいて通る。その時刻だけは私はふしぎに寝床の中で目覚めている。だらけた一日中のうちで、何かが私の意識を叩きに来るのは此の瞬間だけであった。私はその瞬間身を硬くし、じっと跫音を聞いている。それは自責とか反省を超えた言いようのない孤独感であった。あの跫音はそのまま森森と機械が唸る荒びた世界に通じているのだ。そしてそれと同時に、南海派遣とか濠北派遺とか名付けられる灼けた弾丸と人血の臭いがするあの荒涼たる人間の現実にも――私は急いで聯想(れんそう)を断ち切ると蒲団をかぶり、莨(たばこ)のやにに染った指で鼻の下を撫でている。そして鬚を立てた私の顔を必死になって想像している。外の跫音から心を外らすために。――[やぶちゃん注:「濠北」オーストラリア北方のインドネシア東部とニューギニア方面。]

 友達と雑談している時、一度ふざけ出すととめどがないのが私の癖であった。相手が段々不快になって行くのが判っていても、そして自分でも不快になってしまっても私は悪ふざけが止まらなかった。私とは関係なくふざけ方が進行して行くような具合だった。それに似ていた。止めても止まらぬものならば、私は人もふり返るような見事な鬚を完成するほかはない。蒲団の中で私は一心に自分にそう言い聞かして居た。

 その中に日が経った。もうそろそろ大丈夫だろうと思って、抽出しの奥から鏡を取り出した。また窓縁に腰かけ幾分の期待をもって鏡をのぞき込んだ。

 明るく晴れ上った空を背にして、無精鬚が再び顔中に密生していた。ひいき目のせいか鼻の下は一段と濃く、外の部分の無精鬚を剃り落しても結構独立の存在を保っているように見えた。しかし眺めて居れば居る程気持が悪くなりそうなので、私は鏡を置いて立ち上り、衣を更えて出て行った。此の前の理髪店で、此の前と同じ理髪師が同じ服装と表情で私を椅子台の上に招じた。

 暫く経(た)って私は誠に落胆し、嫌悪の情で腹が真黒になって理髪店をよろめき出て来たのである。ハアトのキングなど飛んでもない話であった。日記にまで書いて危惧した通り、私の顔は鬚など生やすべき顔ではなかったのだ。今見た大鏡面の中の私は、ぶわぶわとふくらんだ顔の中央に絡印のように哀しい鬚をつけ、そして照れくさくわらっていた。何という哀しい鬚であろう。崖にとりついた不潔な蔓草のように赤茶けて鬚がしがみついている。とり返しのつかない失敗をした時の感じにそっくりであった。鏡にうつっているのが私の顔だからこそ私は我慢して眺めていたのだが、之が他人の顔なら思わず戦慄するに違いない。私は鏡面の顔から心弱くも視線を外らしていた。

 翌朝になった。それでも眼が覚めた時最初に頭に来たのは、今日は女に逢えるという濁った喜びであった。私は半ば爽快に半ば自棄(やけ)に勢良く床を離れた。東京に出るとしても鬚をつけただけでは駄目である。鬚というのは人間の印象の一部分に過ぎない。鬚を中心として全体の印象を調ベなければならない。

 私は押入れの中から古ぼけた鳥打帽と春の合服を取り出した。両者とも会社勤めの時に使用したことはない。ネクタイも赤い大柄のを選んだ。手鏡の中で次第に私の風采(ふうさい)が変化して行く。最後に鳥打帽を斜に乗せ、手鏡を顔に近づけた。

 これは何という顔であろう。まるで出来損なった探偵である。日に焼けた鳥打帽のひさしの下に、黄色くむくんだ顔が見るからに厭らしい鬚をつけ、それがじっと私を凝視している。これが私の青春の姿か。次第に高まって来る嫌悪をねじふせかねて、思わず私は呟(つぶや)いた。

「いい加減にしなよ。ほんとに」

 悪ふざけも、もう沢山ではないか。しかし私は人間らしく生きたかったのだ。悪ふざけすることで自分を確めたかったのだ。私といえども胸を張って悔いない透明な軌道をすすみたい。ただそんな生き方が今の時代には出来ないのだ。私は傷ついている。傷口をわざと押し拡げ、自ら感ずる苦痛だけが私には真実であった。ますます傷は深くなって行く。傷だらけになって、そして私の青春も間もなく終るのだろう。それまでは此の傷口のような鬚を曝(さら)して進んで行く外はない。

 ふと涙が出そうな気がした。私はあわてて立ち上り部屋中を二三度歩き廻り、そしてそのまま玄関から出て行った。

 女のアパアトは本郷の露地の奥に傾いて立っていた。

 私が扉をノックすると暫くして女が出て来た。私の顔を見て、何とも言いようのない表情をした。入れとも言わず扉の間から首だけ出して私をみつめた。

「やって来たよ」と私が言った。言いながらにやにや笑ったんだろうと思う。女が微かに身ぶるいをするのがはっきり判った。暫(しばら)くして私を見つめたまま女が言った。

「何なの、それは」

「鬚だよ」

「ひげ?」女は痛苦に堪えないような顔をした。「何故鬚なんかをくっつけているの?」

「だって鬚を生やさなければ君に逢えなかったんだよ」

 私は廊下に立ったままで、都庁を辞めた以後のいきさつをしどろもどろしゃべり始めた。女は冷たい表情で私の話を聞いていた。

「で、そういう訳なんだよ」

 女は視線をゆっくり私の頭から足先に移動させ、又ゆっくり私の顔に戻した。

「いやだわ、ほんとに」女ははっきりした声で言った。「あなたの顔や恰好は、まるでサアカスよ、そんなのいやよ」

 サアカスという言葉を聞いた時、大粒の涙が私の瞼からころがり出た。私は悲しくて悲しくてたまらなかった。私は廊下に膝をつかんばかりにして女に私の気持を訴えた。私が熱すれば熱する程、女はますます冷たくなって行くらしかった。此の女に見離される位なら、私は何の為に鬚を生やしたのか判らなかった。

「鬚を剃ったら又いらっしゃい。それまではお断りよ」

 冷然と女は言い捨てて、扉を音立てて閉じた。

 話はそれだけである。

 それから二三日経って私に召集令状が来た。即日私は荷物をまとめて、二十四時間汽車に揺られて九州に帰った。鬚は海兵団に入団する前日、佐世保の床屋で剃り落した。それから一年有三箇月、私は終戦まで海軍の下級兵士として人並みな苦労をなめた。

 今私の手許に一葉の写真がある。東京を離れる時撮った写真だ。赤だすきを肩にかけてひどく力んだ感じだが、記億の中では此の時は勿論(もちろん)充分鬚の形をとって居た筈にもかかわらず、此の写真の鼻の下にはほとんど鬚らしいものは認められない。写真の具合によるのでもあろう。また生毛のかたまりに過ぎなかったものを、私だけが鬚のつもりに思い込んでいたのかも知れない。もしそうだとすると此の数箇月間は私は全く独角力(ひとりずもう)を取っていたということになる。まことに佗しい話だと私は思うのである。

 先日暇があったので行ってみたら、本郷は焼野原になっていて、アパアトの付近は麦畑となり、春風の中を雲雀(ひばり)のみがピイチク啼いて居った。女はどうしたのか判らない。

 

2021/06/25

日本山海名産図会 第五巻 石灰

日本山海名産図会 第五巻 石灰

 

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[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、前者は「近江石灰(あふみいしはひ)」で石灰岩の切り出し風景、後者は「美濃石灰櫓窯(みのいしはひやくらかま)」と「近江石灰窯(あふみいしはひかま)」。こちらは雲形で以って全く別な地方の景を合成したもの。]

 

  ○石灰(いしはひ) 一名「染灰(せんくわい)」 「散灰(さんくわい)」 「亞石(あせき)」

今、近江(あふみ)の物、上品とす。美濃、又、是れに等し。是れ、金氣(きんき)なき地なれば也。元は和刕芳野高原に燒き初めて、其の年月(としつき)、未詳(つまびらかならず)といへども、本朝、用ひきたること、甚だ古し。桓武天皇、大内裏御造營、淸凉殿御座(ござ)の傍らに石灰擅(いしはひたん)を塗り作らせたまひて、天子、親(みづか)ら、四方拜(しはうはい)などの𡈽席(とせき)とす。其の外、人用(じんよう)に益(えき)すること、もつとも多し。先づ億萬の舟楫(しうせつ[やぶちゃん注:ママ。])、億萬の垣牆(ゑんしやう)、凡そ、水を載するの物、溝洫(こうき[やぶちゃん注:ママ。])・器物(きぶつ)に至るまで、是れに寄ざれば、成らず。實(まこと)に天下の至寳なり。諺に、「都なす処、百里の内外(うちそと)、土中(どちう)、かならず、この石を生ず」といへり。○今、江州伊吹山近邉、又、石部(いしべ)に、燒く物、皆、靑石(あをいし)なり。山州鞍馬に燒く物は、夜(や)色石にして靑石には劣れり。靑白(あをしろ)なるは、是れに次く。石は、必ず、土内(どない)に掩(おゝ)ふ事、二、三尺なるを、堀り取り、あらはれて風霧(ふうむ)を見る物は、取らず。伊吹山の麓(ふもと)、更地(さらち)山は、一面の靑石なり。島筋(しますし)ある物は、下品とす。堀り出だし、矢をもつて、打ち破り、手拐(てこ)・轉木(ころぎ)を以つて、二百間斗(ばか)りの山を、磨(す)り落せば、凡そ、碎けて、地に付く。くだけざる物は、よしと、せず。やぶ川は舩にて渡せり。

蠣蠔(かきから)を燒くもの、石灰に劣れり。

燔(や)き法は、   窯の高さ、三尺、廣さ、周径(めぐり)四間計(ばか)り、田土(たつち)にて製(つく)る。下に、風の通ずる穴あり。先つ、石を、尚(なを)、打ち碎(くだ)きて、程よく、滿たしめ 其の上へ、炭を敷きならべて、火を置き、火気(くわき)、滿ちて、底に透(とを)るを候(うかゝ)ひて、火を消し、灰を取り出だして、幾度(いくたび)も、しかり、又、美濃にて燒く窯の方は、異(こと)なり、櫓窯(やくらがま)といひて、髙さ一丈、周径三尺斗り、内は下程(したほど)、次第に細く三角になして、燒きたる灰を、自然(せん)と、底に落とさんが爲(ため)なり。石と炭とを夾(はさ)みて、幾く重(え)も積み重ね、下より、燒きて、火氣を登(のほ)せ、底よりさきへ、燔(や)き落ちるを、橫の穴より、搔き出だせり。かくて、次㐧(しだい)に石と炭とを、上へ積み添へて、燔き初むるより、凡そ百日斗りの間(あひだ)、晝夜(ついや)、絕へる事、なし。是れ、中華の方(はう)のごとし。尤も、夏・冬は燔くこと、なし。燔きて、二十日ばかり風中(ふうちう)におけば、𤍽(ねつ)[やぶちゃん注:正確には上の部分は「執」。]に蒸(む)せて 自然(しぜん)、吹化(すひくわ)して、粉(こ)となる。又、急に用ゐる者は、水をそゝげは、忽ち、觧散(けさん)す。しかれども、風化の物を「よし」として、はじめより、俵に篭(こ)めて、風のあたる處に、おき、尚、貯(たくは)へ置けば、次第に、目も重く、灰も自然に倍し、はじめ、ゆるき俵も、後(のち)には、張り切る許りとは、なれり。是れを「フケル」といふ。かくて一年づゝを越えて、かはるがはるに、市中へ送り出だせり。さて、かくなりて後は、大(おゝい)に水を忌めり。もし、水を沃(そゝ)げは、忽ち、燃へ出でて、いかんともする事、なし。故に舟中には、是れを專らと守り、又、牛に負ふせて出るに、若(も)し、雨にあひて、火(ひ)出でて、牛を損ずを恐れ、常に牛御(うしつかひ)の腰に鐮(かま)をさし、結ひたる縄を、手はやく切り解(と)くの用意とす。

○蠣灰(かきのからのはひ) 蠣房(れいほう)のことは、蠣の条下にいへるがごとし。年久(としひさ)しき物は、大(おゝ)いさ、數丈(すじやう)、﨑嶇(きく)として、山形(さんたい)のごときものもあり。海邉(かいへん)の人は、別に、鑿(のみ)と槌(つち)とを持(じ)して、足を濡らして、是れを採りて、燔(や)き用ゆ【今、藥舖(くすりや)に售(う)る所の「牡蛎(ほれい)」は、即ち、此の碎けたるなり。】。大坂などに用ゆるもの、多くは、此の灰にして、石灰は、すくなし。故に灰屋招牌(はひやかんばん)に「本石灰(ほにしばひ)」と記しぬる物は、近江の物を、させり。燔き方(かた)、石灰(やきかたいしはひ)にかはる事、なし。但し、蛤(はまぐり)・蜆(しゞみ)を燔きたるは、至つて、下品なり。

○灰用方(はひのよう) 舟の縫い合せの目を固(かた)うするには、桐(きり)の油(あぶら)・魚の油に、厚き絹・細き羅(うすもの)を調(とゝの)へ和(くわ)して、杵(つ)く事、千(せん)許りにて、用ゆ。○又、墻(かき)・石砌(せきれき)などには、先づ、篩(ふる)ふて、石塊(せきくわい)を去り、水に調へ、粘(こ)ね合はせ、油を加ふ。○壁を塗るには、帋苆(かみすさ)を加ふ。○水を貯ふ池などには、灰一分(ぶ)に河沙黃土(じやりつち)二分、土塊(どくわい)を篩ふて、水に和し、粘ね合はせて造れば、堅固にして、永(なが)く墮壞(だくわい)せず。此の余(よ)、澱(あひしろ)を造り、又、紙なと造るにも、加え用ちゆ。尚、其の用、枚(あけ)て述(の)ぶべからず。

[やぶちゃん注:「石灰」生石灰(せいせっかい)。酸化カルシウム(CaO)。石灰岩などを窯の中で二酸化炭素を放出させる熱分解(摂氏千百度前後)で作る。この技術は人類が古代から知っていた化学反応の一つで、先史時代から行われていた。

「金氣(きんき)なき地」めぼしい鉱物が採取出来ない土地柄ということか。

「和刕芳野高原」奈良県吉野郡川上村高原(たかはら)か(グーグル・マップ・データ)。

「桓武天皇、大内裏御造營……」これは延暦一三(七九四)年の長岡京からの平安京への再遷都の時のこと。

「淸凉殿御座(ござ)の傍らに石灰擅(いしはひたん)を塗り作らせたまひて」「石灰壇(いしばひのだん)」の誤り。平安宮内裏の清涼殿の東廂(ひがしびさし)南端の二間(けん)(三・六四メートルほど)、及び仁寿殿(じじゅうでん)南廂東端の二間を占め、板敷きの床の高さまで土を盛り上げ、床を石灰(漆喰(しっくい))で塗り固めた場所。「石灰の間」「壇の間」とも呼んだ。天皇が毎朝、伊勢神宮と皇居内の内侍所(ないしどころ)に向かって遙拝を行い、国家国民の安寧と五穀豊穣を祈った旧京都御所最大の聖域。清涼殿の石灰壇は(現在の「河竹」のある附近となる)、母屋(もや)に続く西側には四季屏風が立てられており、南にある殿上の間との境は壁になっていた(主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。現在の復元された京都御所では、再現されていない。概ねこの中心(グーグル・マップ・データ航空写真)附近に当たるか。

「舟楫(しうせつ[やぶちゃん注:ママ。])」正しくは「しうしふ(しゅうしゅう)」で「舟檝」とも書き、船と楫(かじ)。また、単に「舟」をも指す。ここは後者。

「垣牆(ゑんしやう)」ある領域を囲うための障壁。

「溝洫(こうき[やぶちゃん注:ママ。])」「こうきよく(こうきょく)」が正しい。「洫」は「田の水路」の意。溝(みぞ・どぶ)。田と田との間の水路。溝渠(こうきょ)。

「江州伊吹山」現在の滋賀県米原市・岐阜県揖斐(いび)郡揖斐川町・不破郡関ケ原町に跨る伊吹山地の主峰で最高峰(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高千三百七十七メートル。

「石部(いしべ)」滋賀県湖南市石部

「靑石(あをいし)」ここは建築用・室内装飾用に用いる青色の凝灰岩又は凝灰質砂岩を指すか。

「夜(や)色石」「やいろいし」か。不詳。

「更地(さらち)山」「新譯目本地學論文集(十七) ライン――中山道誌(三)」(PDF)の「五十」ページ下段に『更地山(さらぢざん)石山』とあり、その記述を見るに、恐らくは伊吹山南東(この周辺。国土地理院図)の孰れかのピーク名と思われる。

「手拐(てこ)」「拐」は「枴」の誤字であろう。「枴」は「おほこ」で「御鉾(おほこ)」の転じたもので、物を人力で運ぶための棒。京では「担い棒」と称する。「ぼてぶり」が用いるような天秤棒のやや太いものであろう。

「轉木(ころぎ)」重い物を動かす際に下に敷いて移動し易くする丸い棒で、「くれ」「ごろた」などと呼ばれるものであろう。

「二百間」三百六十三・六メートル。

「やぶ川」不詳。

「蠣蠔(かきから)」海産のカキ類の殻。

「四間」七・二七メートル。

「櫓窯(やくらがま)」第二図の上方を見よ。これを見るに、富士山型を成しており、「内は下程(したほど)、次第に細く三角になして」の「細く」は「低く狭く」の謂いであろう。

「方(はう)のごとし」「方」は処方・手法で、「中国で行われる処理法と同じである」の意。

「吹化(すひくわ)」風化。

「觧散(けさん)」「觧」は「解」の異体字。粉々になること。

「大(おゝい)に水を忌めり。もし、水を沃(そゝ)げは、忽ち、燃へ出でて、いかんともする事、なし」生石灰(CaO)は水と反応する際に発熱するので、濡れた場合、高温になって、その周りにある可燃物が発火する危険性がある。

「牛御(うしつかひ)」牛使い。「牛」の「御」(馭)者。

の腰に鐮(かま)をさし、結ひたる縄を、手はやく切り解(と)くの用意とす。

「蠣房(れいほう)のことは、蠣の条下にいへるがごとし」「日本山海名産図会 第三巻 牡蠣」を参照。

「﨑嶇(きく)」峻(けわ)しいこと。前のリンク先の私の「蠔山(がうさん)」の注を参照。海中で恐るべき高さに達することがある。

「山形(さんたい)」「山體」からの当て読み。

『藥舖(くすりや)に售(う)る所の「牡蛎(ほれい)」』漢方生剤としての「牡蛎(ボレイ)」は斧足綱翼形亜綱カキ目イタボガキ亜目カキ上科イタボガキ科マガキ亜科マガキ属マガキ Crassostrea gigas を基原とし、主成分は炭酸カルシウム・リン酸カルシウムなどの無機塩類及びアミノ酸類・ビタミン類などで、薬能としては、主に胸脇部の動悸を治すとされ、他に精神不安・神経過敏・煩悶して落ちつかない症状も効果があるとされる。

「灰屋招牌(はひやかんばん)」石灰を売る商店の看板。

「石砌(せきれき)」石畳或いは軒下に配する敷き石。

「帋苆(かみすさ)」「苆(すさ)」は左官材料に混入される繊維状材料の総称で、塗り壁に発生し易い罅(ひび)割れの抑止を主目的とし、併せて、鏝(こて)塗り作業に必要な施工性を確保しようとするものである。苆使用の歴史は極めて古く、「旧約聖書」の「出エジプト記」などでは、「日干し煉瓦」の作製に麦稈(ばっかん)を混入することが記されてある。以来、洋の東西を問わず、左官工事のあるところでは、必ず、この材料を使用しているが、特に日本では、その使用法に優れており、「藁苆」・「麻苆」など、種類も多い。ここに出た「紙苆」は「大津壁」(土に苆と少量の石灰を混ぜた材料を塗りつけ、鏝で何度も押さえることで緻密な肌に仕上げる土壁で、その名は滋賀の大津が由来。当地えでは「江州白土」と呼ばれる高雅な光沢を持った磨き壁に適した土が取れ、その工法が全国に広まったことから「大津壁」と称されるようになった。「大津壁」は大別して三種あり、「泥大津」・「並大津」・「大津磨き」がある。「泥大津」は川や田圃の土などの上澄みの肌理(きめ)の細かい部分を取り出して石灰を混ぜ、磨き壁にしたもの。「並大津」は色土を用い、石灰と紙苆を混入し、鏝で押さえて仕上げたもので、黄・赤など、鮮やかなものが多く、光沢を押さえて仕上るため、上品な印象を与える。ここは東京の「原田左官工業所」公式サイトの「大津壁について」を参照した)や漆食の磨き仕上げ及び漆食塗りの一種であるパラリ壁(京都御所、桂離宮などに用いられている白色上塗り。通常の漆食が鏝押えされ、平滑に仕上げられるのに対し、表面に粗粉や斑(まだら)を残した仕上げとするもの)に用いる。上質の和紙を水に浸し、よくたたいて繊維をほぐして使用する(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「一分(ぶ)」ここは割合で十分の一のこと。

「澱(あひしろ)」澱(おり)。

「枚(あけ)て述(の)ぶべからず」枚挙に暇がない、の意。]

2021/06/24

伽婢子卷之七 廉直頭人死司官職

 

Rentyokuasinuma

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。左幅の、衾から半身を出して横たわって、頭を蓬髪姿の兵卒に剃られつつあるのが、庄八。左幅に立ちはだかっているのが、大将。その前で頭に三角巾をつけているのが、冥官(みょうかん)となった蘆沼である。]

 

 ○廉直頭人死司官職 (廉直の頭人(とうにん)、死して官職を司(つかさ)どる)

 蘆沼(あしぬま)次郞右衞門重辰(しげとき)は、鎌倉の管領(くわんれい)上杉憲政公の時に、相州藤澤の代官として、病によりて、死す。

 蘆沼が甥三保(みほの)庄八と云者、其跡に替りぬ。

 蘆沼は一生の中、妻を持たず、妾(おもひもの)[やぶちゃん注:元禄版は「てかけ」とルビする。]もなく、只、其の身を潔白に無欲をおもてとし、さして學問せるにもあらず、又、後世〔ごせ〕を願ふにもあらず、天性(むまれつき)、正直(〔しやう〕ぢき)・正道〔しやうだう〕にして、百姓を憐み、少しも物を貪る思ひ、なし。

 それに引替へ、庄八、大に百姓を虐(しいたげ)げ、欲深く貧りければ、

「此の人、久しく續くべからず。」

と、爪彈(つまはじ)きして、惡(にく)み、嫌ひけり。

 庄八、或る夜の夢に、怪しき人、來りて、其の面(おもて)に怒れる色あり。

 付〔つき〕從ふ者、十餘人、手每(ごと)に弓・鑓・長刀〔なぎなた〕、もちたり。

 大將、顧みていふよう、

「三保庄八が惡行、つもれり。高手小手〔たかてこて〕に縛(いまし)めて、首(かうべ)を刎ねよ。」

といふ。

 其時に伯父、蘆沼、來りて、

「庄八が所行、まことに人望(にんばう)に背けり。其の科(とが)かろからずと雖も、まげて、許し給はらん。然(しか)らば、髮を剃り侍べらん。」

と云ふ。

 大將、少し打ち笑ひ、

「汝が甥なれば、憐み思ふところ、理〔ことわ〕りなきにあらず。但し、今よりのち、日比〔ひごろ〕〕の惡行を改めて、善道に赴くべき歟(か)。」

とありしに、庄八、恐れて、怠狀(たいじやう)しければ、大將、すなはち、

「我が見る前にして、髮を、それ。」

とて、剃刀(かみそり)を取ち出〔いだ〕し、押へて、剃り落としぬ。

 かくて、夢、さめしかば、かしらを探りて見るに、髮は、みな、落ちて、枕もとにあり。

 是非なき法師になされたり。

 妻子、これを見て、泣き悲みけれ共、甲斐なし。

 庄八は、暇(いとま)乞ふて、心(しん)も起らぬ道心者(だうしんじや)となり、光明寺に籠りて、念佛、唱へ居たり。

 或夜、蘆沼、入來〔いりきた〕れり。

 庄八入道、夢の如くに覺えて、

「扨(さて)、如何にして來り給ふよ。」

と云へば、蘆沼、云やう、

「汝、入道して、佛法に歸依しながら、ついに我が墓所(はかしよ)に、まうでたる事、なし。明日、かならず、參りて、卒塔婆(そとば)を立てよ。」

といふ。

「さて、いかに書〔かき〕て立〔たつ〕べき。」

と問(とふ)に、硯(すゞり)を請ふて、書たり。

 其の文字、皆、梵形(ぼんぎやう)にして、よむ事、かなはず。

「されば、人間と迷途(めいど)[やぶちゃん注:既に何度も出た通り、「冥途」と同じ。]と、文字、同じからず。是れは『光明眞言』也。後(うしろ)に書くべきは我が戒名也。我、死して、地府(ぢふ)の官人となれり。汝、日比、惡行を以て私(わたくし)を構へ、百姓をせめはたり、定(さだめ)の外に、賦斂(ふれん)を重くし、糠(ぬか)藁木〔ぼく〕竹〔ちく〕に至るまで、貪り取〔とり〕て、おのれが所分となし、恣(ほしいまゝ)に非道を行ふ。此故〔このゆゑ〕に、疎(うと)まれ、人望(にんばう)に背き、天帝、是れを惡(にく)みて、福分の符(ふ)を破り、地府、是れを怒りて、命〔いのち〕の籍(ふだ)を削り、惡鬼(あつき)、たよりを得て、禍(わざはひ)をなす。汝、かならず、縲紲(るいせつ)の繩(なは)に縛(しば)られ、白刄(はくじん)の鋒(きつさき)に掛かり、身を失ひ、命(いのち)を亡ぼし、其のあまり、猶、妻子に及ばんとす。我、是を憐み、出家になして、禍(わざはひ)に替へたり。然るを、我が恩を、思ひ知らず、終(つゐ)に墓所(むしよ)にもまうでず。」

と、責(せめ)ければ、庄八、一言(ごん)の陳(ちん)ずべき道、なし。

 酒を出〔いだ〕して勸めければ、飮〔のみ〕たり、と見えて、却(かへつ)て故(もと)の如し。

 庄八、とひけるやう、

「君、已に地府の官人となり、又、何事をか、職とし給ふ。」

 蘆沼、答へけるは、

「此〔この〕人間〔にんげん〕にして、一德一藝ある者、心だて、正直、慈悲深く、私〔わたくし〕の邪(よこしま)なきは、皆、死して、地府の官職に、あづかる。たとひ、勝(すぐ)れて藝能あるも、邪欲奸曲(じやよくかんきよく)にして私あり、君に忠なく、親に孝なく、誠(まこと)を行はざる者は、死して、地獄に落つ。後世〔ごぜ〕を願ふといへども、我が宗(しう)に着(ちやく)して、他〔た〕の法〔ほふ〕をおとしむる者は、是れ、やがて『謗法罪(ばうほふざい)』なれば、たとひ强く修行すれども、死して、地獄に落つる也。然れば、われ、常に、慈悲深く、百姓を憐れみ、君に忠を思ひ、邪欲奸曲を忘れ、私をかえりみず、正直・正道を行ひし故に、今、地府の修文郞(しゆぶんらう)といふ官にあづかり、天地四海八極(きよく)の人間の善惡を、しるし侍べり。靑砥(あをと)左衞門藤孝(ふじたか)・長尾左衞門昌賢(まさかた)以下、我、その數に加へられ、修文郞の官、八人あり。楠正成・細川賴之は、武官の司(つかさ)となり、相摸守泰時・最明寺時賴入道は、文官の司なり。其の以前、文武の官職のともがらは、皆、辭退して、佛になり侍べり。今は文武の兩職になるべき人、なし。されば、每日、地府の廳に來〔きた〕る者、日本の諸國より、市の如く見ゆれ共、皆、不忠・不義・不孝・奸曲なるともがら、我が知れる人ながら、私には贔負(ひいき)もかなはず、地獄に送り遣(つか)はす。其のふだを出〔いだ〕すも、痛(いた)はしながら、是非なきなり。」

といふ。

 庄八、とひけるは、

「生きたる時と、死して後とは、如何ならん。」

と。

 答へて曰はく、

「別に替る事なし。され共、死する者は、虛(きよ)にして、生きたる時は、實(じつ)するのみ也。」

 又、問けるやう、

「然らば、魂(たましゐ)、二たび、かばねの中に心の儘(まま)に還り入(い)らざるは、如何なる故ぞや。」

 答へて曰はく、

「例へば、人の肘(かいな)、切落〔きりお〕とすに、落〔おち〕たるかいなに、痛みなきが如し。死して、かたちを離(はな)るれば、其の體(たい)は、土の如く、覺え知る所、なし。」

 又、問けるやう、

「此春、世間に、疫癘(えきれい)はやり、人、多く死す。是れ、如何なる故ぞ。」

といふ。

 蘆沼が曰はく、

「三浦道寸、その子荒次郞(あら〔じらう〕)は、正直・武勇の者とて、暫し、地府に留め、武官の職に補せらるべき所に、謀叛(むほん)を企(くはだ)て、人をとりて、我が軍兵(ぐん〔ひやう〕)にせん爲(ため)に、恣(ほしいまま)に厄神(やくじん)を語らひ、疫癘(えきれい)を行ひし所に、其の事、顯(あらは)れて、北帝(ほくてい)、これを捕へて、地獄に送り遣はし給へり。」

といふ。

 又、問けるは、

「生きたる時、にくき怨(あだ)を、死して後に、害すべきや。」

 答へて曰はく、

「迷途の廳には、生けるを守り、死するを憐み、殺す事を嫌ふ故に、此世にして敵(てき)なれども、死して後には、心の儘(まま)に殺す事、かなはず。其の中に、もしは、わが敵の亡靈(まうれい)を見て、是れにおびえて死する者は、元、これ、惡人也。地府より、是れを戒(いまし)められ、其の敵を、遣はして、命を奪ひ給ふもの也。今は、夜も明けなむ。かまへて道心堅固なるべし。邪(よこしま)なる道に入〔いり〕て、地獄に落つる事、なかれ。」

とて、立出〔たちいづ〕る、とぞ、見えし、姿は、消え失せぬ。

 庄八、今は、浮き世を思ひ離れ、念佛、怠たらず、來迎(らいがう)往生を遂げにける、とぞ。

[やぶちゃん注:「廉直」心が清らかで、私欲がなく、正直なこと。

「蘆沼(あしぬま)次郞右衞門重辰(しげとき)」ロケーションは如何にも私の現在の居所に近く、相応の時代資料もあるが、全く不詳。

「上杉憲政」(大永三(一五二三)年~天正七(一五七九)年)は戦国時代の武将で関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永五(一五二五)年に父憲房が病没したが、未だ数え三歳と幼少であったため、一時、古河公方足利高基の子憲寛(のりひろ)が繋ぎで管領となり、享禄四(一五三一)年九歳の年に同職に就任したが、奢侈・放縦な政治で民心を失った。天文一〇(一五四一)年に信州に出兵、同十二年には河越(現在の川越市)の北条綱成を攻めるなど、南方の北条氏と戦うも、相い次いで敗れ、同十四年四月の「河越合戦」でも、北条氏康に敗れ、上野平井城に退いた。この戦いでは、倉賀野・赤堀などの有力な家臣を失い、上野の諸将は出陣命令に応じず、結局、同二十一年一月に平井城を捨て、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。永禄三(一五六〇)年八月、景虎に擁されて関東に出陣、翌年三月には小田原を囲んだ。帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り、剃髪して光徹と号した。天正六(一五七八)年三月、謙信が病没すると、その跡目を巡って、上杉景勝は春日山城本丸に、同景虎は憲政の館に籠って相い争うこととなり、城下は焼き払われ、景虎方は城攻めに失敗して、敗北、翌年三月十七日、憲政の館も攻略され、混戦の最中、殺害された。

「三保(みほの)庄八」不詳。

と云者、其跡に替りぬ。

「正直(〔しやう〕ぢき)・正道〔しやうだう〕にして」「新日本古典文学大系」版脚注に、「正直」に『類語の「正道」を添えて「正直」を強調した語』とある。

「爪彈(つまはじ)き」「指彈」に同じ。

「高手小手〔たかてこて〕」重罪人を逃亡出来ないように、両手を後ろに回し、首から肘、手首に縄をかけて厳重に縛り上げること。

「人望(にんばう)」民草の当たり前の生活への期待。

「然(しか)らば、髮を剃り侍べらん。」「そのように罪一等減じてやれば、自身で、髪を剃りましょうぞ。」。

「怠狀(たいじやう)」元は、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状。後に広く、自分の過失を詫びる旨を書いて人に渡した詫び状・謝り証文を指し、さらに、過ちを詫び謝ること、謝罪の意となった。ここは最後。

「剃刀(かみそり)を取ち出〔いだ〕し、押へて、剃り落としぬ」大将(地獄の軍団のそれ)の命を受けた地獄の軍兵の従卒が主語。その瞬間をスカルプティング・イン・タイムした。

「是非なき法師になされたり」最早、しっかり剃られてしまい、最早、どうしようもないつるんつるんの坊主頭にされていた、の意。

「光明寺」神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗天照山光明寺(グーグル・マップ・データ)。鎌倉時代の寛元元(一二四三)年開創とされ、永く関東に於ける念仏道場の中心として栄えた。「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光明寺」を参照。

「梵形(ごんぎやう)」梵字。古代サンスクリット語の文字。

「光明眞言」正確には「不空大灌頂光眞言」(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)という真言密教でとなえる呪文(じゅもん)の一つ。密教経典「不空羂索神變眞言經」(菩提流志訳)や「不空羂索毘盧遮那佛大灌頂光眞言」(不空訳)に説かれる。「大日如来」の真言で、また、一切仏菩薩の総呪ともされる。「唵(おん)・阿謨伽(あぼきや)・尾盧左曩(べいろしやのう)・摩訶母捺羅(まかぼだら)・麽尼(まに)・鉢曇摩(はんどま)・忸婆羅(じんばら)・波羅波利多耶(はらばりたや)・吽(うん)」で、これをとなえると、一切の罪業が除かれるとされ、この真言を以って加持した土砂を死者にかけると、生前の罪障が滅するとされる。平安以来、「光明真言法」でとなえられたが、殊に中世の鎌倉新仏教の「念仏」や「唱題」の「易行道」に対抗して、平安旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど広く盛行して、土俗化し、逆にまた、浄土教系にも吸収されてしまう結果となった(ここは「日本国語大辞典」を主文に用いた)。

「地府(ぢふ)」冥府。判り易いのは閻魔庁と言い換えること。

「私(わたくし)」自分の利益を計って不法を行なうこと。自己の利益のために不法に本来は公共のものである対象を自分のものとすること。

「定(さだめ)の外に、賦斂(ふれん)を重くし」公に決められた年貢賦役以外に、勝手に自分の領地の民草に私的なそれを重く課役し。

「糠(ぬか)藁木〔ぼく〕竹〔ちく〕に至るまで、貪り取〔とり〕て、おのれが所分となし」塵芥(ちりあくた)ほどの僅かな対象に至るまで、自身のものとして搾取し尽くしたことを指弾する。

「福分の符(ふ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『衆生に善悪を考課して福分を定め、記しとどめておくという札』とある。

「命〔いのち〕の籍(ふだ)」同前で『寿命を定めて記しておく札』とある。何度も注したが、中国で形成された地獄思想では、一般には「倶生神(ぐしょうじん)」(個々の人間の一生に於ける善行と悪行の一切を記録し、その者が死を迎えた後に、生前の罪の裁判者たる地獄の十王(特に本邦ではその中の閻魔大王に集約されることが多い)に報告することが業務で、有名どころでは司命神(しみょうじん)や司録神(しろくじん)などがいる)と呼ばれる地獄の書記官が管理しているとされる。

「惡鬼(あつき)、たよりを得て、禍(わざはひ)をなす」地獄の実行担当である悪鬼の武官が、その執行命令を受けて、かくもお前に禍いを齎したというわけだ。

「縲紲(るいせつ)の繩(なは)」罪人を捕え縛る縄。「縲」は「罪人をつなぐ黒い縄」、「紲」は「繋ぐ」の意) 。罪人として縄目にかかって捕えられること。

「其のあまり」その余波は。

「陳(ちん)ず」釈明する。

「酒を出〔いだ〕して勸めければ、飮〔のみ〕たり、と見えて、却(かへつ)て故(もと)の如し」庄八は酒を出して蘆沼に勧めたが、飲んだか、と見えて、戻した盃(さかづき)を見ると、全く酒は減っていない。

「此〔この〕人間〔にんげん〕にして」この人間道(六道に於けるそれ)にあって。

「邪欲奸曲(じやよくかんきよく)」人倫の道から外れた邪(よこし)まな欲心や、他人を陥れては、それを喜ぶような、歪んだ心の持ち主。

「我が宗(しう)に着(ちやく)して」自分の信ずる神仏なんどに執着(しゅうじゃく)して。「ちやく」は元禄版であるが、「ぢやく」と濁りたいところである。

「他〔た〕の法〔ほふ〕をおとしむる者」他の者の信ずるところのものを誹謗する輩(やから)は。

「謗法罪(ばうほふざい)」本来、仏教では正法(しょうぼう)を誹謗する行為を指したが(最も重い罪とされる)、ここは当時の読者が読めば、他の宗教者のそれではなく、宗派の違う仏教徒が、互いの宗旨を誹謗することとして読んだことは間違いない。これは浄土宗や、作者で僧であった了意の属した浄土真宗に於いて、教義上は自明のことであったのである。でなければ、悪人正機説など、根底から無効化されてしまう。

「修文郞(しゆぶんらう)といふ官」「新日本古典文学大系」版脚注には、『文章を扱う冥府の官人、文官』とする。

「四海八極(きよく)」「四海」は須弥山(しゅみせん)を中心に、それをとりまく、四方の外海。仏教に於ける人間界を含む小宇宙ととらえてよい。四洲の一つで須彌山南方海上にある大陸(元はインドが措定されたもの)南瞻部洲(なんせんぶしゅう)が人間の住む世界とされる。「八極」は四方と四隅の全部。東・西・南・北・乾(けん:西北)・坤(こん:南西)・艮(ごん:北東)・巽(そん:東南)をいう。八方の遠い地域総てで、全世界・天下に同じ。「八紘一宇」の「八紘」も同じ。

「靑砥(あをと)左衞門藤孝(ふじたか)」「靑砥藤綱」の誤り。鎌倉の青砥橋のエピソード(「耳囊 卷之四 靑砥左衞門加增を斷りし事」の私の注の引用参照)で著名な鎌倉時代は北条時頼の執権時代の理想的武士。私の「北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」を読まれたい。まことしやかな系譜も示されているが、実は一種の理想的幕府御家人の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても、実在はしなかったとされる。

「長尾左衞門昌賢(まさかた)」長尾景仲(元中五/嘉慶二(一三八八)年~寛正四(一四六三)年)の戒名。室町中期の武将で山内上杉家家宰。上野国・武蔵国守護代にして上野群馬郡白井城主。同時代の相模守護代にして扇谷上杉家家宰であった太田資清(おおたすけきよ)とともに「関東不双の案者(「知恵者」の意)」と称された。孫には長尾景春(嫡孫)・太田道灌(外孫)がいる。

「細川賴之」(元徳元(一三二九)年~元中九/明徳三(一三九二)年)は守護大名・室町幕府管領。「観応の擾乱」で将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、第二代将軍義詮(よしあきら)の執事だった清氏が失脚し、これを討った頼之が幼少の第三代将軍義満の管領として幕政を主導し、南朝との和睦なども図った。義満が長じた後、天授五/康暦(こうりゃく)元(一三七九)年の「康暦の政変」で、一度、失脚したが、その後に赦免されて幕政に復帰した。その後は養子(異母弟)頼元と、その子孫が、斯波氏・畠山氏とともに「三管領」として幕政を担った(ウィキの「細川頼之」に拠る)。

「今は文武の兩職になるべき人、なし。されば、每日、地府の廳に來〔きた〕る者、日本の諸國より、市の如く見ゆれ共、皆、不忠・不義・不孝・奸曲なるともがら、我が知れる人ながら、私には贔負(ひいき)もかなはず、地獄に送り遣(つか)はす。其のふだを出〔いだ〕すも、痛(いた)はしながら、是非なきなり」何と! 閻魔庁も深刻な人材不足というわけだ!

「別に替る事なし。され共、死する者は、虛(きよ)にして、生きたる時は、實(じつ)するのみ也」と、「例へば、人の肘(かいな)、切落〔きりお〕とすに、落〔おち〕たるかいなに、痛みなきが如し。死して、かたちを離(はな)るれば、其の體(たい)は、土の如く、覺え知る所、なし」というのは面白い。人間という「生」としての生物としての存在は、人体という殻に充満する、傷つきやすく、腐りやすい物が詰まっただけの存在(「實」)でしかなく、人体の「死」はそれが全くの空(「虛」)になるというだけのことだ、という仮定された無常な現存在を示しているように思われるからである。死は虛であり、永遠無限の無であるということである。輪廻から解脱するということは、量子レベルにまでなって見なければ存在しないという説明と同じである。

「疫癘(えきれい)」死に至るような悪性の流行り病い。

「三浦道寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年或いは長禄元(一四五七)年~永正一三(一五一六)年)は戦国初期の武将で東相模の大名。一般には出家後の「道寸」の名で呼ばれることが多い。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族相模三浦氏の事実上の最後の当主。鎌倉前期の名門三浦氏の主家は、宝治元(一二四七)年に北条義時の策謀による「宝治合戦」で滅亡したが、その後三浦氏の傍流であった佐原氏出身の三浦盛時によって三浦家が再興され、執権北条氏の御内人として活動し、「建武の新政」以後は足利尊氏に従い、室町時代には浮き沈みはあったが、三浦郡・鎌倉郡などを支配し、相模国国内に大きく勢力を拡げた。道寸は扇谷上杉家から新井城(三崎城とも)主三浦時高の養子に入る(先に義同の実父上杉高救(たかひら)が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に高教(たかのり)が生まれたために不和となり、明応三(一四九四)年に義同は上杉時高及び高教を滅ぼし、三浦家当主の座と、相模守護代職(後に守護。時期不明)を手に入れた。その後、北条早雲と敵対するようになり、道寸父子は新井城(グーグル・マップ・データ)に籠城すること三年、家臣ともども凄絶な討ち死をした。なお、この落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって城の傍の湾が一面に血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が「油壺」と名付けられたと伝わる(以上は所持する諸歴史事典とウィキの「相模三浦氏」及び「三浦義同」を主に参考にした)。

「その子荒次郞」道寸の嫡男三浦義意(よしおき 明応五(一四九六)年~永正一三(一五一六)年)「荒次郞」は通称。当該ウィキによれば、『父から相模国三崎城(新井城とも。現在の神奈川県三浦市)を与えられ』、永正七(一五一〇)年頃、『家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って北条早雲と戦うが』、永正一〇(一五一三)年『頃には岡崎城(現在の伊勢原市)・住吉城(現在の逗子市)を後北条氏によって奪われ』、『三浦半島に押し込められた』。『父と共に三崎城に籠って』三『年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に三崎城は落城、父・義同の切腹を見届けた後』、『敵中に突撃して討ち取られたと』される。『これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了』することとなった。三浦浄心の「北条五代記」によれば、背丈は七尺五寸(二メートル二十七センチメートル)と『伝え、最期の合戦で身につけた甲冑は鉄の厚さが』二分(六センチメートル)、『白樫の丸太を』一丈二寸(三メートル六十四センチメートル)に『筒切りにしたものを八角に削り、それに節金を通した棒(金砕棒)をもって戦い、逃げる者を追い詰めて兜の頭上を打つと』、『みぢんに砕けて胴に達し、横に払うと一振りで』、五人十人が『押し潰され、棒に当たって死んだものは』五百『余名になった。敵が居なくなると、自ら首をかき切って死んだ、と記されている』。しかし、同書よりも前に『成立したと推測されている』「北条記」には『そのような記述はなく』、永正一五(一五一八)年七月十一日に父『義同や家臣たちと共に討死した、と記されている』とある。

「北帝(ほくてい)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠の五朝小説の「靈鬼志」の「蘇韶」(そしょう)の原話に基づくとしつつ、『未詳』とあり、まあ、如何にもっ道教的な名前であることだけは判る。

「生きたる時、にくき怨(あだ)を、死して後に、害すべきや。」「生きていた時に、深い恨みを抱いた奴を、自分が死んだ後、その憎っくき相手に恨みを晴らすために亡霊となって戻って殺害するということは出来ますか?」。

「迷途の廳には、生けるを守り、死するを憐み、殺す事を嫌ふ故に、此世にして敵(てき)なれども、死して後には、心の儘(まま)に殺す事、かなはず。其の中に、もしは、わが敵の亡靈(まうれい)を見て、是れにおびえて死する者は、元、これ、惡人也。地府より、是れを戒(いまし)められ、其の敵を、遣はして、命を奪ひ給ふもの也。」「冥途の閻魔庁にあっては、やはり当然の如く、仏法の正法に従うのである。「生」とは儚い仮のものには過ぎぬものではあるのだが、やはり「生」を守り、「死」を憐れみ、「殺す」ということは、これ、嫌うものであるからして、現世に於いて仇敵であっても、死んで後に「恨み晴らさでおくべきか」と思う通りに、その相手を殺すことなどは、到底、許されることでは、ない。ただ、次のようなケースはある。則ち、もし、自分の現世に生きている仇敵が、死んだ、彼に恨みを持った者の亡霊を見、これに怯えて死んだ場合は、これ、元々、その者が、そうなって死なねばならない『悪人』だったのである。これは、冥府の王が、その者の許し難い悪を戒め遊ばされるために、その敵(恨みを持って死んだ方の人物)の亡霊を遣わして、命を奪い遊ばされたという、至極、正当な事例なのである。」。

「來迎(らいがう)往生」浄土に往生したいと願う人の臨終に阿弥陀仏が菩薩・聖衆(しょうじゅ:浄土の聖者)を率いて、その人を迎えに来るという最上級の極楽往生を指す。但し、参照した「WikiArc」の「浄土真宗聖典」のこちらによれば、『浄土真宗では、平生聞信の一念に往生の業因が成就する(平生業成(へいぜいごうじょう))』という考え方をするので、『臨終来迎を期することはないと説き、臨終来迎を期するのは諸行往生、自力の行者であるとし、臨終の来迎をたのみにすることを否定する(不来迎)』とある。]

芥川龍之介書簡抄87 / 大正七(一九一八)年(二) 小島政二郎宛五通(後者四通は一括投函で、雑誌上の「地獄變」批評への応答)

 

大正七(一九一八)年五月十六日・田端発信・小島政二郞宛

 

拝復 入學試驗準備で五六日東京へ来てゐました今日午後鎌倉へ歸ります

地獄變はボムバスティツクなので書いてゐても気がさして仕方がありません本來もう少し氣の利いたものになる筈だつたんだがと每日、新聞を見ちや考へてゐます 御伽噺には弱りましたあれで精ぎり一杯なんです但自信は更にありませんまづい所は遠處なく筆削して貰ふやうに鈴木さんにも頼んで置きました

多忙は申上げる迄もありませんけれど時々學校まで雜誌記者氏に襲はれるのには恐縮しますそれが皆押しが强いので此頃大分一々會つてゐるのが損なやうな氣がし出しました 文章俱樂部か何かの文章觀(諸家の)を見ると皆「雨月」を褒めてゐるでせうあれは雨月の文章が國文の素養のない人間にもよく判るからなのです王朝時代の文章に比べて御覽なさい雨月の文章などは隨分土口氣泥臭味の多い文章ですから

序に書きますが雨月の中では秋成が「ものから」と云ふ語を間違つて「なる故に」の意味で使つてゐる所が二つあるでさうですこれは谷崎潤一郞氏に聞きました一つは確「白峯」でしたあんな學者ぶつた男が間違つてゐるんだから可笑しいでせう

此頃高濱さんを先生にして句を作つてゐます點心を食ふやうな心もちでです一つ御目にかけませうか

   夕しぶき舟虫濡れて冴え返る

                  頓首

    五月十六日      芥川龍之介

   小 島 政 二 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「小島政二郞」『三田文学』同人の作家小島政二郎(まさじろう 明治二七(一八九四)年~平成六(一九九四)年:芥川龍之介より二歳年下)。東京府東京市下谷区生まれ。生家は呉服商「柳河屋」(されば後の四通が出鱈目な住所でも着きそうだ)。京華中学から慶應義塾大学文学部卒。

「ボムバスティツク」bombastic。「大袈裟な」。

「御伽噺」この後の大正七年七月の児童雑誌『赤い鳥』初出の「蜘蛛の糸」のこと。この書簡は発表前であるが、大学卒業後、小島は漱石門下の児童文学者鈴木三重吉(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年:広島市生まれ。本邦の「児童文化運動の父」とされる)が主宰していた『赤い鳥』の編纂に携わっていた。この大正七年二月三日(日曜)に鈴木の紹介で小島が初めて龍之介を訪問(恐らく田端の実家)して以降、親交を結んでいた。

「文章俱樂部」文芸雑誌名。大正五(一九一六)年五月から昭和四(一九二九)年四月まで新潮社から発行されていた。編集担当者は加藤武雄。同社は純文芸誌として『新潮』を発行していたが、それに対して、文学入門者向けに出されていた『新文壇』の後継誌として創刊したもので、初期は文章作法や投稿欄などが中心であったが、後には大正期の代表的作家たちの小品・短編小説などを掲載、文芸誌としての色彩を強めた。作家の回想・体験記・小説作法や、文壇状況をゴシップ的に報じた文章が多く、本誌の特色をなしている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「土口氣泥臭味」「どこうきでいしうみ(どこうきでいしゅうみ)」と読む。土臭(つちくさ)くて饐(す)えた泥のような臭(にお)い。芥川龍之介の好きなおどろおどろしいフレーズで、名品「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』初出。リンク先は私のサイトの古い電子化)の冒頭「一」の実母フクを描いたそれで、

   *

 僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。

   *

と使っている。但し、調べてみても、「西廂記」(元の戯曲。全二十一幕。王実甫作。中国戯曲史上最高傑作の一つとされる。原型は唐代伝奇の名篇「鶯鶯傳」)には、この文字列は、実は、ない。似たものでは、同作の「第四本 草橋店夢鶯鶯」の「第三折」の『將來的酒共食、嘗著似土和泥。假若便是土和泥、也有些土氣息、泥滋味。』(「土氣息、泥滋味」は「土のにおいと泥の味」の意)が元であろう。龍之介の記憶違いというより、彼独特の確信犯のおどろおどろしい変形による露悪的な偏愛語とすべきである。しかし私の偏愛する上田秋成を「あんな學者ぶつた男が間違つてゐるんだから可笑しいでせう」と言い放つ龍之介にして、確信犯としても、こういう使い方で人を騙すのはもっと下劣だ。「れげんだ・おうれあ」だってとんでもない何重にも拵えた騙しだったではないか。自分を棚上げしておいて、上げ足取りするのもいい加減にしろや! 龍之介! というより――実は芥川龍之介は「雨月物語」の大ファンであり、そこの構成力に憧れていて、短篇を書く際には、たびたび「雨月物語」を再読して自作の展開構成の参考(特に書き出しの簡潔さを)にしていたことが知られているのである。

『雨月の中では秋成が「ものから」と云ふ語を間違つて「なる故に」の意味で使つてゐる所が二つあるでさうです』『一つは確「白峯」でした』接続助詞「ものから」は、本来は、逆接の確定条件で「~であるのに・~だけれども・~するものの」の意であったが、中世以降はそれを誤って順接の確定条件の「~ので・~だから」に使用するケースが出てきた。本来は形式名詞「もの」に、広義の起点・原因を表わす格助詞「から」が付いて一語化したものであるが、順接の確定条件の用法は、原因・理由を表わす接続助詞「から」と混同して生じた中世以降の用法であり、中古以前にはなかった。しかし、近世になると、順接の確定条件の用法の方が一般的になってしまう。「白峯」のそれは、丁度、中間点の、

   *

 西行、いよよ恐るる色もなく、座をすすみて、君が告(の)らせ給ふ所は、

「人道のことわりをかりて慾塵をのがれ給はず。遠く震旦(もろこし)をいふまでもあらず、皇朝の昔、譽田(ほんだ)の天皇、兄の皇子(みこ)大鷦鷯(おほさゝぎ)の王(きみ)をおきて、季(すゑ)の皇子莵道(うぢ)の王を日嗣(ひつぎ)の太子(みこ)となし給ふ。天皇、崩御(かみがくれ)給ひては、兄弟(はらから)相(あひ)讓りて位に昇り給はず、三年(とせ)をわたりても、猶、果つべくもあらぬを、莵道の王、深く憂ひ給ひて、

『豈(あに)久しく生きて天が下を煩はしめんや。』

とて、みづから寶算を斷たせ給ふものから、罷事(やんごと)なくて兄の皇子、御位(みくらゐ)に卽(つ)かせ給ふ。」

   *

という箇所で、今一つは、力作「蛇性の淫」の終局の、

   *

 豐雄、すこし心を収めて、

「かく驗(げん)なる法師だも祈り得ず、執(しう)ねく我(われ)を纏(まと)ふものから、天地(あめつち)のあひだにあらんかぎりは、探し得られなん。おのが命ひとつに人々を苦しむるは、實(まめ)ならず。今は人をもかたらはじ。やすくおぼせ。」

とて、閨房にゆくを、庄司の人々、

「こは物に狂ひ給ふか。」

といへど、更に聞かず顏に、かしこにゆく。

   *

のシークエンスである。孰れも確かに逆接用法ではある。しかし、私なんぞは別に気にならんが、ね。

「高濱さん」高濱虚子。

「點心を食ふやうな心もち」美味しいところだけを手軽に摘まみ食いするような感じで気軽に句を捻っている自身の安直な作句態度を言ったもの。]

 

 

大正七(一九一八)年六月十八日・東京市下谷區下谷町一 小島政二郞樣・六月十八日 相州鎌倉町大町辻 芥川龍之介(葉書・第一信・『⑴』)

大正七(一九一八)年六月十八日・消印六月十八日・東京市下谷區下谷町一 小島政二郞樣・六月十八日 相州鎌倉町大町辻 芥川龍之介(葉書・第二信・『⑵』)

大正七(一九一八)年六月十八日・消印六月十八日・東京市下谷區下谷町一 小島政二郞樣・六月十八日 相州鎌倉町大町辻 芥川龍之介(葉書・第三信・『⑶』)

大正七(一九一八)年六月十八日・鎌倉発信・小島政二郞宛(葉書・第四信)

 

⑴小島さん

三田文で褒めて下すつたのはあなただと云ふから申し上げます あの作晶はあなたのやうな具眼者に褒められる性質のものぢやありません この間よみ返して大分冷汗を流しました

それから說明と云ふ事に就いて私の文章上の說明癖なるものはそれが鑑賞上邪魔になるとあなたが云ふ範圍では so far 私も抗議を申し込む資格はありません 然し「あの小說の中の說明」になると私にも云ひ分があります と云ふのはあのナレエションでは二つの說明が互にからみ合つてゐて それが表と裏になつ

 

 

⑵ゐるのです その一つは日向[やぶちゃん注:「ひなた」。一般名詞。以下の「陰」に応じた「ポジティヴ・顕在的」の意。]の說明でそれはあなたが例に擧げた中の多くです もう一つは陰の說明でそれは大殿と良秀の娘との間の關係を戀愛ではないと否定して行く(その實それを肯定してゆく)說明です この二つの說明はあのナレエションを組み上げる上に於てお互にアクテユエエトし合ふ性質のものだからどつちも差し拔きがつをません それで諄々しい[やぶちゃん注:「くどくどしい」。]がああ云ふ事になつたのです 勿論そこには新聞小說たらしめる條件も多少は慟いてゐたでせう これは不純と云はれれば不純です がこの方は大して重大な問題にはならないでせう

最後に三田文は八月(九月でもよろしい)にして頂けないでせうか 昨日歸つたばかりでまだ一向落着きません

 

 

⑶その爲新小說も新時代も前約に背いて御免を蒙りました 大分前から引き受けたので大に恐縮ですがよろしく御取計ひ下さい 書くものはきまつてゐます「龍の口」と云ふ怪しげなものです

今日鈴木さんの御伽噺の雜誌を見ました どれをよんでも私のよりうまいやうな氣がします 皆私より年をとつてゐて小供があるからそれで小供の心もちがうまくのみこめてゐるのだらうと思ひます 失礼ですがあなたはもう奧さんがおありですか

もう少し私の旅行時期が早いと大阪ででも落ち合へたのですね 以上   芥川龍之介

 

 

前の三枚のはがきを書いちまつてさてあなたの住所を忘れたので困りましたそれから困つたなり一週間ばかりすぎました困つてゐる事は依然として同じですそこで窮餘の一策として出たらめな番地を書きます賢明なる郵便脚夫氏はどうにか君の所へとゞけてくれるでせう 以上

 

[やぶちゃん注:四通別々に届けられたものらしいが(全部が葉書で⑵と⑶は消印があることによる。但し、投函は一括である)、ソリッドな内容なので、特異的に以上のように纏めた。最後の一通からは、⑴から⑶は一週間余り前(六月十一日(火曜)前後)の執筆ということになる。⑴と⑵の間の繋がり(「て」の脱字と思われる)はママである。

「小島さん」「三田文で褒めて下すつたのはあなただと云ふ」小島はこの年の『三田文学』六月号で、前月に発表された芥川龍之介の「地獄變」(『大阪毎日新聞』には五月一日から二十二日まで。同社の系列誌『東京日日新聞』には五月二日から二十二日まで。リンクは私のサイト正字正字版。他に拘ったサイト版『芥川龍之介「地獄變」やぶちゃん注』も別にある)を批評している。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『小島は、「地獄変」に多くの疑問を指摘しつつ、「時代に当嵌つた表現」を試みた芥川に賛辞を寄せた』とある。

「私の文章上の說明癖なるもの」同じく石割氏の注に、『小島は芥川の「説明癖」が「エフェクトを弱める」とした』とある。この「エフェクト」とは作品の展開上の効果の意であろう。

「so far」「その限りに於いては」の意。

「ナレエション」narration。これは同作中の「語り手」に託した「物語り」「叙述」を指す。

では二つの說明が互にからみ合つてゐて それが表と裏になつ

「アクテユエエト」actuate。本来は「(人を)行動させる」で、他に「働かせる・作動させる」(但し、英語ではこの場合は、activate の方が一般的である)であるが、ここは後者で、「作用させる」或いは「作用(影響)する」の謂い。

「三田文は八月(九月でもよろしい)にして頂けないでせうか」『三田文学』に依頼されていた作品で、これは九月一日発行の同誌に発表した、名作「奉敎人の死」(八月十二日脱稿)となる。

「昨日歸つたばかり」龍之介は前月五月三十日に、横須賀海軍機関学校の出張で広島県江田島の海軍兵学校参観に同僚の数学教授黒須康之介(明治二六(一八九三)年~昭和四五(一九七〇)年:埼玉生まれ。東京物理学校及び東北帝国大学理科大学数学科大正六年卒業と同時に海軍機関学校嘱託教授となった。大正八年に教授、大正十四年には龍之介の出身校である東京第一高等学校教授となり、昭和一六(一九三一)年に退職、同校講師を経て、戦後の昭和二四(一九四九)年には立教大学理学部教授となった(昭和三十三年定年退職)。解析学、特に変分法で優れた業績を挙げた。ここは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)とともに出発し、六月四日に同兵学校を参観後(その前の二日頃には京都で厨川はクソンに面会している)、帰途、黒須と一緒に奈良に泊まり、五日には京都に滞在、知人の日本画家小林雨郊(明治二八(一八九五)年~昭和五一(一九七六)年:京都生まれ。京都市立絵画専門学校卒業。家業は「三文字屋善兵衛」を屋号とした刺繍業であった)の案内で光悦寺や上木屋町の茶屋などを訪ね、六日に大阪に着き、社友となっている大阪毎日新聞社を訪問、薄田泣菫に面会、参照した新全集宮坂年譜では、この連続書簡を元に、鎌倉に帰ったのは十日頃としてある。

「新小說」「新時代」孰れも雑誌名。

「龍の口」不詳。未定稿もない。題名からして「地獄變」ではあり得ない。思うに、これは日蓮の知られた「龍ノ口の法難」を素材とした歴史物だったのではないか。面白そう。芥川龍之介の墓がある芥川家の菩提寺慈眼寺(じげんじ)は日蓮宗である。

「鈴木さん」鈴木三重吉。

「御伽噺の雜誌」『赤い鳥』。]

2021/06/23

日本山海名産図会 第五巻 目録・備前水母

 

日本山海名産圖會巻之五

 

   ○目 録

○備前水母(びぜんくらげ)

○近江石灰(おふみいしはい) 美濃

○伊萬里陶器(いまりやき)

○越後織布(ゑちごぬの)

○松前膃肭(まつまへおつとつ) 昆布  胡狹笳(こさふへ)

○唐舩入津(たうせんにふつ) 菩薩揚(ぼさあげ)

○阿蘭陀舩(おらんだふね)

[やぶちゃん注:「胡狹笳(こさふへ)」というのは当該部を見て戴くと判るが、蝦夷地の風俗の一つである「茣蓙笛」で、木の葉を巻いた草笛である。]

 

 

○水母(くらげ)【一名「借眼公(しやくかんこう)」・「海舌(かいせつ)」。】

 

Mizennkurage

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像をトリミングした。キャプションは「備前水母(びせんくらげ)」。採取・搬送・漬けの作業が一枚の絵の中に描き込まれてある。個人的には、もう少し、細かな作業風景を期待していた。]

 

諸刕に產して、備前、殊に名產とす。又、「唐水母(たうくらげ)」「朝鮮水母」と云ふは、肥前に產す。元は、異國より長嵜へ轉送せし物なれば、かく号(なづ)けり。今は、本朝にも其の法を覺えて、製し、同く、「唐水母」と稱す。其の製法は、石灰(かい)と明礬(めうばん)とに浸し、晒(さら)して、血汁(ちしほ)をされば、色、變じて、潔白なり。又、備前は、櫪(くぬき)の葉を、少し炙(あぶ)り、臼(うす)にて舂(つ)き、塩水(しほみづ)に和(くわ)し、浸すなり。其の外、數種(すしゆ)あり。中(なか)にも「水水母(みづくらげ)」、又、色黑き物、赤きものは、皆、毒ありて、漁人(きよじん)、これを採る事、なし。

○形は蓮(はす)の葉を覆ひたるが如く、其の邉(ふち)に足の如き物、あり。色は、赤紫にて、眼も口も、なし。腹の下に、糸のごとく、絮(うちわた)のごとく、長く曳(ひ)く物、あり。魚蝦(ゑび)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]、かならず、是れに隨附(ずいふ)す。俗に、「これが眼を借りて游(およ)ぐ」とも、いへり。故に「借眼公」の名あり。○大(おほ)ひなるものは、盤のごとく、小なる物は、盆のごとし。其の味、淡く、薑醋(せうがす)などに和して食す。大抵、泥海(どろうみ)の產にて、筑前・備前等に多く、江東には鮮(すくな)し。○是れを採るには、九月・十月の頃、海上に浮き漂(たゞへ)ひて流るを、舟より儻網(たまあみ)を以つて採る。波荒き時は、礒(いそ)へうちあぐるも、あるなり。 「夫木抄」源仲正

 我戀は海の月をぞ待(まち)わたるくらげの骨にあふ世ありやと

[やぶちゃん注:ここで食用に加工されているそれは、備前で採られるものが、

刺胞動物門鉢虫綱根口クラゲ目ビゼンクラゲ科ビゼンクラゲ属ビゼンクラゲ Rhopilema esculenta

で、肥前で採られるものは、

ビゼンクラゲ属ヒゼンクラゲ Rhopilema hispidum(過去に別種とされていたスナイロクラゲ Rhopilema asamushi は現在、本種のシノニムとされる)

で、二種は同属ではあるが、別種である。他に、現在は安い「くらげ」食品の原材料に使用されている大型クラゲの一種(最大で傘直径二メートル、湿重量百五十キログラムに達する)であるビゼンクラゲ科エチゼンクラゲ属エチゼンクラゲ Nemopilema nomurai Kishinouye, 1922 がいるが、エチゼンクラゲは日本海沿岸全域に分布するものの、本邦では近代以前には食用加工の歴史が全くなく、関心も持たれず、長く忘れられてきた生物であって、学名が与えられて新種と認められたのさえも大正十一年のことであったので、ここには含まれない。或いは、同種を混獲することが当時の肥前ではあった可能性があるが、恐らくは除去されて捨てられていたものと思われる。なお、上記の二種を対象としたものと思われる水母を食用とする本邦の文化は奈良時代には既にあった。福島好和氏の論文「古代諸国貢納水産物の分布について その歴史地理学的考察」(PDF・J-STAGE版・『人文地理』第二十三巻五号・一九七一年所収)で、『第1表 奈良時代における水産物諸国分布表』に『(30)水母』として『備前』が載り、『第2表 延喜式にみえる諸国貢納水産物分布表』にも、『(22)水母』として、やはり『備前』が載っており、解説『(30)水母』で(コンマを読点に代えた)、『食用クラゲで、第1表、第2表ともに備前国が贄物として貢納したものであり、この地方特権であったことを暗示している。今日でも日本近海では備前産が最良品というから、それが早くか ら食用とされていたことは興味深い。クラゲはなまのままでは食さないから、当時も現在 と同様の手法で加工したと思われる』とある。

「唐水母(たうくらげ)」「朝鮮水母」これは種としてのヒゼンクラゲを指すのではなく、中国渡来の処理技術を以って処理した食品としての「くらげ」をかく呼んだということになる。

「石灰(かい)」生石灰(せいせっかい)。酸化カルシウム。石灰岩などを窯の中で二酸化炭素を放出させる熱分解(摂氏千百度前後)で作る。この技術は人類が古代から知っていた化学反応の一つで、先史時代から行われていた。次項の「石灰」はそれである。

「明礬(めうばん)」カリウム・アンモニウム・ナトリウムなどの一価イオンの硫酸塩と、アルミニウム・クロム・鉄などの三価イオンの硫酸塩とが化合した複塩の総称。硫酸カリウムと硫酸アルミニウムとが化合したカリ明礬(KAl(SO4)2・12H2O)が古くから知られ、これを指すことが多く、ここもそれ。孰れも正八面体の結晶を作り、水に溶ける。媒染剤・皮鞣(なめ)し・製紙や浄水場の沈殿剤など、用途が広い。

「櫪(くぬき)」ブナ目ブナ科コナラ属クヌギ Quercus acutissima

「水水母(みづくらげ)」狭義には、本邦でごく普通に最も見かけることが多い鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属ミズクラゲ Aurelia aurita であるが、この場合は、広く透明・半透明の刺胞毒の強いクラゲ類を広く含んでいると読まなければならない。例えば、強力な電気クラゲの代表種である箱虫綱アンドンクラゲ目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ属アンドンクラゲ Carybdea brevipedalia などで、寧ろ、ミズクラゲのような弱毒のそれは、濡れ衣っぽい感じさえして、挙げるのに気が引けた。

「色黑き物」フィリピン産の共生藻類の色で黒っぽく見えるものを知っているものの、本邦産の黒いクラゲというのはちょっとピンとこない。次に挙げるアカクラゲは個体によっては外洋などで見下ろすと、黒っぽくは見える。それか。

「赤きもの」刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属アカクラゲ  Chrysaora pacifica でしょう。『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 ハルクラゲ』を見られたい。

「絮(うちわた)」打ち綿。繭を水に浸して裂いて作った真綿。

「魚蝦(ゑび)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]」エビだけでなく、特定のクラゲの刺胞毒に全く平気な魚類もいるので(例えばスズキ目エボシダイ科エボシダイ属エボシダイ Nomeus gronovii は、狭義のクラゲではない恐るべき群体である刺胞動物門ヒドロ虫綱クダクラゲ目嚢泳亜目カツオノエボシ科カツオノエボシ属カツオノエボシ Physalia physalis に対してある程度の耐性を持っており、恐怖の触手体の中に平気でいることが出来る。しかし、エボシダイがカツオノエボシの一部を齧って食ったり、逆にその刺胞体から攻撃を受けて捕食されることがあり、これは「共生」(私は「共生」という概念は余程の双方向性の等価的同等利益がない限りは、まず認めるべきではないと考えている)とは言えず、耐性は絶対ではなく、その意味は今以って明らかではない)、エビに限る必要はない。

「儻網(たまあみ)」「たもあみ」に同じ。

「夫木抄」「源仲正」「我戀は海の月をぞ待(まち)わたるくらげの骨にあふ世ありやと」「源仲正」(生没年不詳)は平安末期の武士で歌人。清和源氏。三河守源頼綱と中納言君(小一条院敦明親王の娘)の子。六位の蔵人より下総、下野の国司を経て、兵庫頭に至った。父より歌才を受け継ぎ、「金葉和歌集」以下の勅撰集に十五首が入集している。「日文研」の「和歌データベース」の「夫木和歌抄」で見ると、「巻二十七 雑九」の一首であり、異同はない。]

日本山海名産図会 第四巻 諸國に河鹿といふ魚 / 第四巻~了

 

諸國に河鹿といふ魚

 

Kajikazu1

 

Kajikazu2

 

 

[やぶちゃん注:標題は画像の通り、囲み字であるので、太字下線で示した。画像は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。まず、全体の三頁分を示した(カットしたが、最初の見開きの右側は先の「河鹿」の末尾)。それとは別に各個的に掲げられている図八点を別に大きなサイズでトリミングし、それぞれのキャプションの前に掲げた。なお、一つ一つのキャプションは、読みやすくするために、総て引き揚げて繋げて、整序して示した。一部の魚名標題は字が大きいが、それを持たない前の三種とのバランスが気になる(可哀そうなので)ので、同ポイントとした。トリミングの関係上、キャプションの一部が魚体の端に出てしまうものがあるが、妙な色潰しをすると、かえって目障りなのでそのままとした。本パートは先行する、

本第四巻の四つ前の「鮴」(ごり)

に主に関わり、直前の「河鹿」(かじか)の後にあるはするものの、作者は、その「河鹿」では、魚類の「河鹿」ではなく、鳴く蛙及び現在の「河鹿」(種としてのカジカガエル)をその正体として語ることを主としており、実はその「河鹿」項との直接の関係性は、かなり薄弱と言える。但し、鳴く魚について「河鹿」で言及はしているので、全く奇異な配置とは言えず、江戸時代に十把一絡げの多様な「河鹿」が使用されたことを考えれば、「これこそ真の『魚の河鹿』だ!」と絵入でスクープして花火を挙げるには、ここは格好の位置であるとも言えるのである。実際、江戸時代に、かくも多様な河鹿を、図入りで、それなりに真摯に博物学的に分類したもので、民草の誰もが気軽に読める巷間に板行されたものというは、この時期には恐らくは他にないのではないかと私は思う(本草学者のレッテルを掲げる連中のインキ臭い研究は除外してである)。そうした市井の博物学史の視点から、これは一種の特異点であるよう感じている。

 

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○伊豫大洲(おほず)のは、砂鰌に似て、少し大(おほ)い也。聲(こへ)は、茶碗の底をするごとくなるに、尚、さえて、夜(よる)、鳴くなり。鳴く時、兩頰(りやうほ)、うごく。「大和本草」に『杜父魚(とふぎよ)』とす。「本草」、杜父魚の聲を不載(のせす)。

[やぶちゃん注:「鮴」(ごり)で既注であるが、「伊豫大洲」は現在の愛媛県大洲市で、図の川は同市を貫流する肱川(ひじかわ)かと思われる。

「砂鰌」「すなどぢやう(すなどじょう)」と読んでおく。条鰭綱骨鰾上目コイ目ドジョウ科ドジョウ属ドジョウ Misgurnus anguillicaudatus に代表されるドジョウ類であろうが、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」の異名検索では、この異名をドジョウ科シマドジョウ属シマドジョウ Cobitis biwae ・シマドジョウ属イシドジョウ Cobitis takatsuensis ・シマドジョウ属オオシマゴジョウ Cobitis sp. type A・シマドジョウ属ニシシマドジョウ Cobitis sp. type Bとしている。ご存知の方も多いと思うが、ドジョウは以下の行動をとる際に鳴くように聴こえることがある。ドジョウ類は腸呼吸で酸素を取り込むことが出来るので、水面で口から空気を吸い込み、使用済みのそれを肛門から排出するが、その取り込みと排気の際に音を立てることがあるのである。WEBマガジン HEAT」の若林輝氏の「意外だと思う人が多いかも? けっこういる鳴く魚をご紹介」に、『ドジョウは腸で空気から酸素を取り込むことができるので、水面で口から空気を吸い込みます。この時に「チュッ」と鳴くのですが、捕まえて水から出したときに』も、『「キューッ」という大きく鳴くことがあります。ドジョウは口から取りこんだ空気をお尻から出しますので、この「キューッ」という音は、ゲップもしくはオナラ、なのかもしれません』とあるのがそれである。また、個人サイト「SYU'S WORKSHOPの『「ドジョウを飼っていた話」について』では、「キュウ」「キュウー」「キュウ、キュウ」と鳴く事実が体験として語られてある。従って、ここで「茶碗の底をするごとくなる」(鳴る)というのは、違和感はない。但し、「尚、さえて、夜(よる)、鳴くなり」は私自身が飼育したことがないので何とも言えない。ただ、後者の記事には、ある『夜はいつにも増して「キュウ、キュウ」と鳴くドジョウたちの声が騒がしかった』ことがあったとはある(但し、それは実は断末魔のそれであったのだが。リンク先を読まれたい)。また、「鳴く時、兩頰(りやうほ)、うごく」というのも、YouTube のあいず氏の「ドジョウの鳴き声」で、水中から取り出した動画で確認出来る(音声レベルが低いので、大きくしないと、鳴き声は聴こえない)。では、これはドジョウ類なのかと言えば、描かれた魚体は、口鬚だけはそれらしく見えるものの、全身は、どう見てもドジョウ類ではなく、頭部と腹部が有意に左右に広いゴリ型である。現在も大洲の名産とする「カジカ」を、『大洲郷土料理の店「料苑たる井」「との町たる井」』の「かじか」の画像で見るに、やはり、

条鰭綱スズキ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux

である。しかし本種には鬚はない。鬚は作者のキャプションの「砂鰌に似て」に合わせて絵師が付け足してしまった可能性がある。そういえば、「鮴」(ごり)でも、第一図の「加茂川鮴捕」のゴリは、どれもこれも皆、二本の触角を有して描かれてあって、ナマズにしか見えなかった。しかし、そこに注した通り、京の鴨川で行われた「ゴリ漁」の対象種は、少なくとも近代にあっては、ヨシノボリ属カワヨシノボリ Rhinogobius flumineus に同定されており、カワヨシノボリには、やはり、鬚はないのである。

『「大和本草」に『杜父魚(とふぎよ)』とす』「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」を参照されたい。

『「本草」、杜父魚の聲を不載』前注リンク先で明の李時珍の「本草綱目」の「杜父魚」は電子化してある。確かに鳴くとは載らない。無論、魚の上記の狭義のカジカ類は鳴かない。]

 

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○越後國のもの。頭(かし)ら、大きく、黒班(こくもん)あり。腹、白し。小(せう)は、一、二寸。大(たい)は、五、六寸。聲、蚯蚓(みゝず)に似て、さへたり。夜、鳴く。但し、諸國山川(やまかは)にも多し。四國にて「山とんこ」と云う。大坂にて「どんぐろはせ」といふ。

[やぶちゃん注:「鮴」(ごり)で注した通り、カジカ類を地方で「ドンコ」と呼ぶことが有意にあるが、ここは「越後」と大きさと色及び斑紋から、

スズキ目ハゼ亜目ドンコ科ドンコ属ドンコ Odontobutis obscura

としておく。当該ウィキによれば、『全長は』二十五センチメートル(☜)『に達し、日本産の淡水ハゼ類としてはカワアナゴ類』(ハゼ亜目カワアナゴ科カワアナゴ亜科カワアナゴ属 Eleotris 。代表種はカワアナゴ Eleotris oxycephala )『に匹敵する大型種である。他のハゼ類に比べて頭部が大きく』、『横幅があり、垂直方向にやや押しつぶされて(縦扁して)いる。口は大きく、唇が厚く、下顎が上顎より前に突き出ていて、上下の顎には細かい歯がある。胴体は円錐形に近く頭部と比べると短い。胸びれは扇形で大きく発達する。腹びれは完全に二つに分かれる』。『体色は褐色で、第』一『背鰭・第』二『背鰭・尾鰭の基底に計』三『対の黒い斑紋』(☜)『がある。周囲の環境や精神状態などによって、頭部に不規則な斑紋が出現する場合がある。また、繁殖期のオスは全身が黒っぽくなる』(☜)とあり、分布域は『愛知県・新潟県以西』(☜)『の本州、四国、九州』及び『大韓民国巨済島』である。さらに、ドンコは鳴く。広島市の「太田川河川事務所」公式サイト内の「ドンコ」の記載の「産卵行動」の部分に、『雄は口とひれで産卵室を作り、産卵室内で低い声で「グーグー」と鳴く。産卵室に雌を迎え入れ、産卵を行う』とあり、あらゆる点で一致を見る。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のドンコによれば、「どんこ」の語源は「鈍甲」で、『滋賀県での呼び名。動きが鈍(にぶい)からではないか』とある。]

 

3

 

○加賀國のものは、頭(かしら)、大(おほ)きし。尾に股あり。背、くろく、腹、白し。其の聲、鼡(ねずみ)に似て、夜、鳴く。小(せう)なるは、一寸ばかり。大なるは、二尺ばかり。但し、小は、聲、なし。

[やぶちゃん注:幻しとなりつつある加賀の名物料理「ごり料理」の正当な種は「大和本草附錄巻之二 魚類 吹 (「ゴリ」類或いはカジカ・ウツセミカジカ等)」で示した通り、先の

条鰭綱スズキ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux

であるが、本図には鬚はなく、気持ちよく、以上に同定出来ると思いきや、尾鰭が分岐するのは本種に当たらない。というより、このような強い湾入を示す尾鰭を持つものは、淡水産の「カジカ」類には見当たらない。ただ、狭義のカジカ類の尾鰭は薄くぺらんとした団扇型で、如何にも弱く、捕獲後、時間が経ったものは、尾鰭がぺたんとして、鰭条の間が透けて裂け、このように見えぬことはないようにも思われる。「鳴く」とする大なるものは、前のドンコと混同している可能性がある。但し、ドンコも尾は分岐しない。

 

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○石伏(いしふし) 一名「ごり」

二種あり。海(うみ)・河(かわ)ともに、あり。眞(しん)の物は、腹の下に、ひれ、ありて、石に、つく。杜父魚(とふぎよ)に似て、小なり。聲、あり。夜、鳴く。ひれに刺(はり)あり。海は、やはらかなり。河は、するどし。

[やぶちゃん注:海産と淡水産があるというところから、複数の種を想定しなくてはならない。これは、「大和本草卷之十三 魚之下 緋魚 (最終同定比定判断はカサゴ・アコウダイ・アカメバル)」で考証した中に掲げたものが概ねそれらに当たる。

河川のそれは「腹の下に、ひれ、ありて、石に、つく」という点で、先の、

条鰭綱スズキ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux

を始めとする広義のカジカ類らしく見えるが、ここでは鋭い棘があるとすることから、カジカ類ではない、全くの別種である、

条鰭綱ナマズ目ギギ科ギバチ属ギバチ Pseudobagrus tokiensis

ギバチ属アリアケギバチ Pseudobagrus aurantiacus

ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps

を有力候補としなくてはならない。少なくともギバチとギギは、腹鰭の棘と基底部の骨を擦り合わせて「ギーギー」と低い音を出す(彼らは孰れも背鰭や胸鰭の棘が硬く鋭く、刺さると痛み、ギバチの場合は毒があるともされる)。一方、海の「石伏」は、逆に鰭が柔らかいとあるからには、

ハゼ類(条鰭綱ハゼ目ハゼ亜目 Gobioidei

を比定するのがよいか。但し、「棘」と言っているところは、私などは、棘鰭上目スズキ目ゲンゲ亜目ニシキギンポ科ニシキギンポ属ギンポ Pholis nebulosa を想起してしまうのだが、ギンポは広義の「ゴリ」類には魚体が似ていないから、引き下げる。]

 

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○軋々(ぎき)

○嵯峨にて「みこ魚(うを)」といひ、播刕にて、「みこ女郞(じよらう)」といふ魚、是れに似て、色、赤く、咽(のど)の下に、針、有り。「ぎゝ」は、ひれに針あり、大ひに人の手を、さす。漢名(かんみやう)、「黄顙魚(わうそうきよ)」。「みこ魚」は「鰪絲魚(わうしきよ)」。海(うみ)・河(かは)ともに有り。小三寸はかり、大、四、五寸。腮(あぎと)の下(した)に、ひれ、あり。色、黃茶。黑斑文(くろはんもん)あり。

[やぶちゃん注:最後の「小三寸はかり」は割注のように三行で有意に字が小さくなってはいるが、これは単にその頁内に叙述を入れ込むための仕儀と捉え、割注扱いせず、本文に入れ込んだ。さて。これはもう、図を見ても、基本、前項の、

ナマズ目ギギ科ギバチ属 Pelteobagrus

と考えてよい。「日本山海名産図会 第四巻 河鹿」の私の「三才圖會」の注で詳しく語ったので、そちらを見られたいが、色が赤いのはギギよりもギバチである。但し、「みこ魚(うを)」(巫女魚)及び『播刕にて、「みこ女郞(じよらう)」』(「巫女女郎」)という異名と、海にもいる刺す赤い魚というのは、

棘鰭上目カサゴ目ハオコゼ科ハオコゼ属ハオコゼ Paracentropogon rubripinnis

なんぞが直ちに想起されるし、実は、この「巫女魚」「女郎魚」は、どうも、

カサゴ目コチ亜目ホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus

どにもありそうな相応しい異名なのである。ホウボウに棘はないが、胸鰭の一番下の軟条三対は遊離して太く発達して、しかも赤く、脚の代わりになっているのは「ひれに針あり」という表現としっくりくるからである。調べてみると、あった。「まるは神港魚類株式会社」公式サイト内の「日本の旬 魚のお話」の魴鯡(ほうぼう)」の「地方名」に、「キミヨ・キミウオ(北陸)」として、『体色が華やかなことから、「女郎魚」の意で呼ぶ。昔は遊女、巫女(みこ)の雅号を「君」と呼んだ。また、佐渡に流された後鳥羽上皇が美味しいと食べたことから名が付いたという説もある』とあった。凡そ、ホウボウはゴリと間違えようはない華麗な魚体だが、一応、気になったので、候補として記載しておくこととする。]

 

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○越前霰魚(ゑちぜんあられうを)

○『「此國のほかになし」とて、「杜父魚」に充つるも、誤りなり』とす。霰の降る時、腹を、うへにして、流(なが)る、といふ。一名「カクブツ」。聲、あり。考ふるに、「杜父」の種類也。「杜父」といひて、あやまるにも、あるべからず。

[やぶちゃん注:これは日本固有種の、

カジカ属アユカケ Cottus kazika

の異名である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のアユカケのページに、本書を出典として「エチゼンアラレウオ(越前霰魚)」が載る。他に「ガコ」を挙げ、『福井県永平寺町など』での呼称で、『産卵のために秋から冬にかけて川を下るものをアラレガコ』と呼び、『「霰魚(あられがこ)」とは産卵期の冬、霰の降るときに膨らんだ白い腹を上にして流れにのって下流に下るとされるため』とあり、また「アイカケ」(鮎掛)は『三重県南牟婁郡紀宝町浅里、徳島県美馬郡貞光町(現つるぎ町)』採取で、『「鮎掛」は棘でアユをひかけて捕まえて食べているためと教えられていた』とある。大和本草附錄巻之二 魚類 吹 (「ゴリ」類或いはカジカ・ウツセミカジカ等)」の私の注も参照されたい。当該ウィキによれば、『太平洋側は茨城県久慈川以南、日本海側は青森県深浦町津梅川以南、四国、九州に生息するが、瀬戸内海沿岸での定常的な生息は確認されていない』とする。但し、アユカケには図のような鬚はない。]

 

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○石くらひ

○「ドングロ」。ひれに、刺(はり)、なし。漢名(かんめう)、未ㇾ詳(つまびらかならず)。

[やぶちゃん注:辞書等によれば、先に注に入れた、

ハゼ亜目カワアナゴ科カワアナゴ亜科カワアナゴ属カワアナゴ Eleotris oxycephala

とするが、先の、

スズキ目ハゼ亜目ドンコ科ドンコ属ドンコ Odontobutis obscura

と区別しようがない。「石くらひ」は「石喰(食)らひ」であろうが、両種ともに貪欲であるから、これも共通する感じがする。但し、両種ともに図のような鬚はない。]

 

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○杜父魚(とふぎよ)

○「イシモチ」。「川ヲコゼ」【伏見】。「クチナハトンコ」【伊豫】。「マル」【嵯峩】。「ムコ」【近江】。[やぶちゃん注:最後の「。」を除いてここの「イシモチ」以降の「。」は底本にあるものである。]

水底(みなそこ)に居て、石に附きて、「石伏(いしふし)」に似たり。「コチ」に似たる黑斑(くろまだ)ら。加茂川に多し。頭(かしら)とひれに、刺(はり)ありて、するどし。

 

日本山海名產圖會巻之四

[やぶちゃん注:「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」を参照されたい。またまた「頭とひれに、刺ありて、するどし」は困った。ただ、作者は恐らく、「物類称呼」(俳諧師越谷吾山(こしがやござん)によって編纂された江戸後期の方言辞典。安永四(一七七五)年刊)の「杜父魚」を参考にしたのではないかと思われる。PDFで所持する吉澤義則撰「校本物類稱呼 諸國方言索引」(昭和八(一九三三)年立命館出版部刊)を視認して電子化する。

   *

杜父魚 かじか○京大坂にて◦いしもち、加茂川にて◦ごり、嵯峨(さが)にて◦いまる、伏見にて◦川をこぜ、近江にて◦むこ、どうまんいしぶしちゝこ、九州にて◦どんぽ、筑前にて◦ねんまる、越前にて◦かくふつ、出雲にて◦ごす、伊賀にて◦すなほり、相模及伊豆駿河上總下總陸奥其外國々にて◦かしかと云。駿河沼津にては◦かじいと云。今按に、此魚種類甚多し、其水土によりて形すこしかはり、大小の品有といへ共、一類別名也と云。江戶にて賞(しやう)する鯊(はぜ)、これ又品類(ひんるい)多し。まはぜ◦三年物をいふ道風の淨瑠理に、はぜ釣ばりに三年物、戀一はこつちのゑて、とあるは「はぜ」におかしき異名(いめう)あればふくみて書る文なり。◦だばうはぜ、是は下品也◦しまはぜといふ有。是かじか也。又いし臥(ぶし)といへるは【源語玉鬘卷】に、ちかき川のいし臥(ぶし)などやうの逍遙(せうえう)し給ひて(下略)【河海】ちかき川とは賀茂川也と有。又下賀茂糺(たゞす)森の茶店にて「ごり」を調味(てうみ)して「ごり汁(じる)」と名付て賣也。又加賀越前の土人は「ごり」を鮓(すし)となしてたしみ食ふ。これを蛇(じや)の鮓といふ。又木曾の谷川などにて諸木の倒(たをれ)たる有て、年を経(へ)枝くさりて石鮎(ごり)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に化すといへり。それを土人ごり木といふ。又かくふつといふ物は、北海にて雪雹(あられ)[やぶちゃん注:「雹」へのルビ。ママ。]の降るとき腹(はら)を上になして水上に浮ぶ魚也【續猿簑】詞書有て

 〽角𩷚(かくふつ)や腹をならべて降るあられ

   *

「イシモチ」「イシモチ」は「石持」で、有意に大きな耳石を持つ種群の総称旧称であって標準和名としては魚類分類学では機能しない。現行では「イシモチ」(漢字表記「石持」「石首魚」「鰵」)と言った場合、

スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata

ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii

を指すが、業者や寿司屋では「イシモチ」の名が生きており、その場合、上記二種が別物でありながら、混在して卸売り業者が扱っているものの、寿司屋で「いしもち」と言った場合は、普通はシログチであると考えてよい。詳しくは、「大和本草卷之十三 魚之下 石首魚(ぐち) (シログチ・ニベ)」の私の注を参照されたい。これらの知識は、しかし、この場合の同定には無効であるように私は思う。何故なら、この「イシモチ」は淡水カジカ類やハゼ類の一部に見られる、文字通りの「石」を「持」つように、川床の石に張りついている魚の意であろうからである。

「川ヲコゼ」スズキ目ハゼ亜目ドンコ科ドンコ属ドンコ Odontobutis obscura の異名として、「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のドンコのページに出る。この場合の「ヲコゼ」は「鬼虎魚」であるが、それは、専ら、「面つきが醜い魚」の意のそれであり(ドンコは体幹が縦方向に有意に押し潰されて縦扁しており、口は大きく、唇がこれまた厚く、下顎が上顎より前に突き出ている上、上・下の顎には細かな歯がある、所謂、異形タイプの魚である)、ドンコには海産のオコゼ類のような毒棘はない。従って、「刺ありて、するどし」の部分で無効である。なお、ドンコは胸鰭で石に張りつくことはできないから、前の私の「石持」説はこの魚に対しては無効となる。

「クチナハトンコ」不詳。「くちなは」は「朽ち繩」、「トンコ」は「ドンコ」で、「朽ち繩鈍甲」となるが、この「くちなは」は、古く忌まわしい「蛇」を直接指さないための「忌み言葉」として形が似ているヘビを指す語であり、西日本ではごく普通の語として現在も「くちなわ」として用いられている。思うに、ドンコの貪欲さ(当該ウィキによれば、『非常に貪欲で、口に入りさえすれば』、『自分と同じ大きさの動物にも襲いかかる』とある)や顔の禍々しさ(ドンコの正面から見た感じは「蛇っぽい顔」と言われれば、そう見えなくもない)から、かく命名されたと考えることは可能である。

「マル」不詳。「物類称呼」では「いまる」である。「いまる」はどうにも推理しようがない。「居丸」だったら、「ゐまる」だからだめである。作者の言うように「まる」だけで考えてみると、ドンコの胴体はまさに「丸」みを帯びた円錐形に近く、頭部と比べると短く、異名の一つに「ドカン」というのがあるらしい(但し、これが「土管」のことかどうかは不明である)。別に考えると、「まる」が、もし、ドンコを指すとなら、「糞(まる)」(排泄するという古語の動詞「まる」から)かも知れない。ドンコには悪いが、じっとしていると、形状・色ともにそれっぽく見えるからである。

「ムコ」古くに琵琶湖で獲れる魚を記したもののなかに、「ちちむこ」という名を学術データから見出せた。可能性を考えると、

スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinaeヨシノボリ属 Rhinogobius

のヨシノボリ類(ヨシノボリという標準和名の魚はいない)の仲間、或いは、琵琶湖固有種で全長四センチメートルほどしかない小型種、

ビワヨシノボリ Rhinogobius biwaensis

か?

「コチ」カサゴ目コチ亜目コチ科コチ属マゴチ Platycephalus sp.。大和本草卷之十三 魚之下 こち」参照。

 これを以って「日本山海名產圖會」巻之四は終わっている。]

2021/06/22

日本山海名産図会 第四巻 河鹿

 

   ○河鹿(かしか)

諸國に「かしか」とさすもの、品類(ひんるい)、すくなからず。或ひは「魚」、或は「蛙なり」ともいひて、ひとの口には唱ふといへども、慥かに「かじか」と云ふ名を、古歌、又、古き物語等(とう)に見ること、なし。唯(たゞ)、連歌の季寄(きよせ)、「溫故日録(おんこじつろく)」に、「杜父魚(とふぎよ)」・「カシカ」として、なんの子細も見へず。八目の部に出だせるを見るのみなり。其の余(よ)、又、俳諧の季寄等に、近來(きんらい)、注釋を加えし物を出だせしに、「三才圖會」などの俗書につきて、「ごり」・「石伏」などに、決して、古書・物語等を引き用ゆるにおよばず。又、貝原氏(うぢ)、「大和本草」の「杜父魚」の条にも、「河鹿」として、『古歌にもよめり』といふは、全く筆の誤りなるべし。案ずるに、「かしか」の名目は、是れ、俳諧師などの口ずさみにいひはじめて、恐らくは、寛永前後の流行(りうこう)なるを、西行の歌などゝいへるを作り出だして、人に信ぜさせしにもあるべき。既に俗傳に、西行、更級(さらしな)に住みけるときによめり、とて、

 山川に汐(しほ)のみちひはしられけり秋風さむく河鹿(かしか)なく也

是れ、何の書に出だせる哥(うた)ともしらず。されども、或る人に就きて、此哥の意(こゝろ)を尋ぬれば、「『かしか』は汐の滿ちぬる時は、川上にむかひて、『軋々(ぎぎ)』となき、汐のひく時は、川下に向かひて『こりこり』と鳴く。」とは答へき。されば、解く處、「ゴリ」・「キヽ」など云ふ魚をさすに似て、いよいよ、昔の證據にはあらず。水中に聲(こへ)ある物は、蛙・水鳥の類(るい)ならて、古へより、吟賞(きんしやう)の例(れい)を、きかず。されども、西行は哥を隨意につらねたるひとなれば、ものに當つて、いかゞの物をよめりとも、あながちに論ずるには及ばねども、若(も)しくわ[やぶちゃん注:ママ。]、偽作(ぎさく)なるべし。又、『「萬葉集」の歌なり』とて【一說に「落合(おちあひ)の瀧」とよみて、大原に建禮門院の御詠(こえい)と云いつたふ。】

 山川に小石ながるゝころころと河鹿(かしか)なくなる谷の落合(おちあひ)

是れ又、「萬葉集」にあること、なし。其の余、他書に載せたるをも、きこへす。又、「夫木集」二十四「雜六」岡本天皇御製とて、

 あふみちの床の山なるいさや川このころころに戀つゝあらん

この「ころころ」といふにつきて、『「かしか」の鳴くによせしなり』なと、いひもてつたへたり。是れ又、誤りの甚しきなり。是れは「萬葉集」第四に、

 あふみちの床の山なるいさや川けのころころは戀つゝあらむ

とありて、「代匠記(たいしやうき)」の注に、『「け」とは「水氣(すいき)」にて、「川霧」なり。「ころころ」とは、唯、「頃」なり。「ねもころころ」とよみたる例(れい)のごとし。』と見へて、かならず、「かしか」の歌には、あらざるなり。歌は、かゝることどもにて、かたがた、さだかならずといへども、今、さしてそれを定むべき「かしか」の證もなければ、今は、魚にもあれ、むしにもあれ、たゞ、流行に從ひて、秋の水中(すいちう)に鳴くものを、「河の鹿(しか)」になすらへて、凡(およ)そ「かしか」といはんには、强く妨(さまた)けも、あるまじきことながら、さもあらぬ物によりて、詠歌などせんこそ、いと、口おしからめ。さらば、まさしく古きを求めんとならば、長明「無明抄」にいへる「井堤(いで)の蛙(かはず)」こそ、いまの「かしか」といふには、よくよく當れり。

○其文に曰、

[やぶちゃん注:以下「云々」までは、底本では全体が一字下げ。]

井堤の蛙は外(ほか)に侍らず、たゞ、此の井堤の川にのみ、侍るなり。色黑きやうにて、いと大きにあらず、よのつねのかへるのやうに、あらはに、おどりありくことなとも侍らず、つねに、水にのみすみて、夜(よ)更(ふく)るほどに、かれが鳴(なき)たるは、いみじく心すみて、物あはれなる聲にて侍る云々。

是れ、今、洛には八瀬(やせ)にもとめ、浪花(なには)の人は、有馬「皷(つゞみ)が瀧」の邊(へん)に捕る物、即ち、「井堤の蛙」に同物にして、今の「かしか」なる事、疑かふべくもあらず。

されば、和歌には「かわつ」とよみて、「かしか」とは、よまざる也。「かしか」の名は彌(いよいよ)俳言といふに愆(あやま)ちなかるべし。昔、「井堤のかわづ」をそゝろに愛せしことは、書々に見たり。今、八脊(やせ)・有馬・井堤に取るもの、悉く、其の聲の、

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの寛政一二(一八〇〇)年版では、ここから二ページ分が、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文政一三(一八三〇)年と異なる。しかし、そこはジョイントがちょっとおかしく、突如、平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」の能因法師絡みの数奇者の話の引用(私の所持する「新日本古典文学大系」版とはかなり原文が異なっている。そもそもがここで作者が引用書名が示さないというのも甚だ不審である。この奇体なエピソードは「山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)」で知っていた)になっており、その次の次の頁の最後で、以上の最終部と相同形で、「今、八脊(やせ)・有馬・井堤に取るもの、悉く、其の聲の」で次の頁に続いている。ところが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」ではこの二ページ分が全くない(当該部のHTML画像)のである。ところが、国文学研究資料館底本の前年をクレジットする寛政十一年版では、やはりこの二ページ分は存在しないのである。奇怪であるが、ともかくも、以下、底本の国立国会図書館デジタルコレクションのそれを視認して電子化する。加工データとしている「ARC書籍閲覧システム」(寛政一一(一七九九)版・立命館ARC蔵画像)の同巻でもこの二ページ分は全く存在しない。「云々」までは、底本では全体が一字下げである。]

帯刀の長節信(ちやう ときのぶ)は數竒(すき)の物なり。始めて能因に逢ひ、相ひ互ひに、感(かん)、有り。能因云、「今日見参(げんさん)の引出物(ひきでもの)に見るべきもの、侍り。」とて、懷中より、錦の帒(ふくろ)より銫屑(かんなくづ)を取り出だし、「是れは吾が重寳にて、長柄(ながら)の橋造りの時の、鉋屑なり。」といへば、時に、節信、喜悦、甚はだしくて、これも懐中より帋(かみ)につゝみる物を取り出だせり。是れを開きて見るに、かれたる「蛙(かはず)」なり。「是れは『井堤(いで)の蛙』に侍り。」と云へり。共に感歎して、各(おのおの)、懷にして退散す。今の世の人々、嗚呼とす

是れ、かわりなくも、古きを弄(もてあそ)ひし風流人(ふうりうじん)の一癖(へき)なり。長柄(なから)の橋は、既に「古今集」に「世の中にふりぬるもの津の國の長柄の橋と我(われ)となりけり」と、又、「蛙(かはつ)なく井堤の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」と、同「古今」春の下に見へたるより、「かはずなく」をもて、「井堤」の冠辞(かんじ)にをけるの、はしめとするによりて、古(いにし)へより、「かはつ」のやうもかはりしとおもふも、是、俗意(ぞくゐ)なり。「後拾遺」の秋、

                良暹法師

 みかくれてすたく蛙の諸聲にさわきそ渡る井堤の浮草

この風情は「いての蛙(かはづ)」の諸聲に鳴(な)ぎ[やぶちゃん注:ママ。]立てて、すだき、さわぐの、かまびすきに似たり。是れによりて、今古(こんこ)の変遷を察するに、井堤(いで)をよむことは、ふるく、「萬葉」、人丸(ひとまる)よりはじまり、「蛙(かはづ)」を詠み合はせとすること、古くは小町・貫之が家(いへ)の集に見えたり。又、良暹(りやうせん)は祇園の別當にして、母は實方(さねかた)朝臣(あそん)家(いへ)の童女白菊(しらきく)といひし者にて、是れ、一条院前後の人にて、詠みし「蛙(かはづ)」も「いて」のことのなりしを、長明の時までは、皆、大凡(おほうよそ)三百年二百年を經(へ)しかは、大いなる「井堤(いで)の川」も、年月に埋(うづ)もれ、又、山陰(さんいん)の茂樹(もじゆ)に覆(おゝ)はれ、至つて陰地(いんち)となり、蛙も形色(けいしよく)・音聲(おんせい)を、あらためしとは見へたり。是れを、いかんとならば、只今も、常(つね)のかはずをもて、陰地(ゑんち)の池、あるひは、野中(のなか)の井(い)などに放(はな)てば、月を經て、色、黒く変して、聲も改ること、試みて、しれり。故に今、八脊(やせ)・有馬・井堤(いで)に取るもの、悉く、其の聲の、[やぶちゃん注:ここが前と相同の部分で、しかも見開きの改頁の最終行なのである。あるにもあらず。かならず、閑情(かんせい)に鳴く物は、又、其のさまも異(こと)なる所あり。是れ、蝦蟇(かま)の一種類にして、蒼黒色(さうこくしよく)也。向ふの足に水かきなく、指先、皆、丸く、淸水にすみて、なく聲、夜(よる)は「こま鳥」に似て、「ころころ」といふがごとく、六、七月の間(あひた)、夜(よる)、一時(とき)に一度、鳴けり。晝も、なきて、鵙(もず)の聲の如し。尤も足早くして、捕ふにやすからざれば、夏の土用の水底(すいてい)にある時をのみ、窺ひて、捕れり。今、魚をもて、其物に混ぜしは、かの「かしか」の俳言より、「かはつ」の昔をわすれ、元より、長明の程よりは、幾たびの変世(へんせい)に下(くだ)り來て、近來(きんらい)、「かしか」の名のみを、きゝ覺へ、かの川原・谷川に出でて、「ごり」・「ぎゝ」の聲を聞き得て、鳴く處も、おなしければ、「是れぞ『かしか』なり」と、おもひ定めしより、乱れ苧(お)のもとのすぢをこそ、失なはれぬるやらん。

 

 再考

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

加茂眞淵「古今打聽(こきんうちきき)」に云、『かはづは「萬葉」にも「祝詞(のつと)」にも、一名(いちめう)「谷潛(たにくゞ)」とて、山河に住みて、音の、いとおもしろき物なり。今も、夏より秋かけて鳴く故に、「萬葉」には、秋の題に出だせり。いまの田野陂澤(はたく)にすみて、うたてかしましき物には、あらず。後世は、もはら、さるものをのみよむは、いにしへの歌をしらざるなり。「萬葉」に ┌─おもほゑす來ませし君を佐保川の蛙(かはず)きかせてかへしぬるかも とよめるをもても、音のおもしろきをしらる。今の、俗に「かしか」といふ物も、いにしへの「かはづ」なるべし。さて、それは、春には、いまだ、なき出てずして、夏のなかばより、秋をかねて、鳴くなり。』云々。

○愚案に、「谷(たに)クヽ」のこと、さして、「蛙なり」といふ引証を得ざれば、姑(しばら)く一說とすべし。山河(やまかわ)にすみて、音(こへ)おもしろき、と、めでゝいへるは、いかさま、「萬葉」のをもむきには見へたれども、一編中、必ず「秋なり」とも、さだめがたし。これ古質(こしつ)の常にして、種類の物を、あながちにわかつことなく混じて、同名に詠む事、其の例(れい)、すくなからず。されども、㐧六 ┌─おもほへずきませる君を佐保川のかはづきかせてかへしつるかも 又、蛙によせたる戀哥(こひうた)に ┌─朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)が下になく蛙(かはす)こへだに聞かは我(われ)戀(こひ)めやは といふなどは、秋なくものをよみて、尤も、題も秋なり。又、「後選集」雜四、「かはづをきゝて」との端書(はしかき)にて、我宿(わがやど)にあひやとりしてなくかはづよるになればやものはかなしき 是れも秋の物とこそ聞きゆれ。又、「萬葉」 ┌─佐保川の淸き川原(かはら)になく千鳥(ちとり)かはづとふたつわすれかねつも なと、みな、こえをめでし、とは聞こへはべる。「かはづなく吉の川」、「蛙(かはづ)なく六田の淀(よど)」、「かはづなく神奈備川(かみなみかわ)」、「かはづなく淸川原(きよきかはら)」なとにて、とかく山河(やまかは)の淸流にのみ、詠み合はせて、田野の物をよみたること、「萬葉」一編にあること、なし。元より、井堤(いて)を詠むは、「古今集」に見へて、「六帖(ろくてう)」にも載せし哥なり。かたかた、「かじか」は蛙(かはず)にして、名は俳言(はいご)たることを知るべし。

[やぶちゃん注:以下一行空きで、全体は底本では頭の「○」のみが二字半目の位置で突き出て、本文全体は三字半下げ位置で揃っている。何となく、字は小さめである。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を確認されたい。但し、底本は刷が薄く見難いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像の方もリンクさせておく。]

 

○形、幷に、聲のおもしろきことは、前に云ふごとし。

 カジカといふ名は俗語にして、哥に詠むことなし。

 もし、よまば、カハヅとよむべし。「萬葉」を證とす。

[やぶちゃん注:以下「万葉集」の引用。一行空きで「前書」(但し、これは「万葉集」では歌の「後書」である)と歌の間も)は底本では本文位置から一字下げているが、逆に歌(二行)は本文位置から上に一字分突出している。底本は訓点(読みは歌を含めてべったりとカタカナでルビのように張り付く)附きであるが、まず、返り点・記号(。)のみのものを底本通りの一行文字数で示し、その後に私が続けた訓読文にしたものを示す。なお、底本ではこの下部に後に掲げたカジカガエルの挿絵が載る。]

 

内匠寮。大屬。按作。村主。益人聊設飲饌

長宦佐為王未ㇾ及日斜王既還歸於

ㇾ時益人怜惜不ㇾ厭之歸仍作此歌

 

不所念來座君乎佐保川乃河蝦不令聞

還都流香聞

 

○やぶちゃんの書き下し文

 内匠寮(たくみのれう)、大屬(をおさくはん)、

 按作村主益人(くらつくりすくりますひと)、

 聊(いささ)か、飲饌を設け、以つて、

 長宦(ちやうくわん)佐為王(さゐわう)に、

 饗(きやう)す。

 未だ、日(ひ)、斜(なゝ)め

 及(な)らずして、王、既(すて)に

 還-歸(かへ)る。時に、益人、

 厭(いと)はず、歸(かえ)るを、

 怜-惜(うれ)え、仍(よつ)て此の歌を作る。

 

不所念(おもほえす) 來座君乎(きませるきみを) 佐保川乃(さほかはの) 河蝦不令聞(かはづきかせず) 還都流香聞(かへしつるかも)

 

Kajika

 

[やぶちゃん注:以下、底本では「諸國に河鹿といふ魚」の図と解説が続くが、以上の「河鹿」が長い上に、先に示した底本の特異な挿入部もあるので、ここで切って注することとする。

 本篇を読み解くには、まず、「第四巻 鮴」(ごり)を読んでおく必要がある。ここで作者は古書をつまびらいて、かなり迂遠な路程を巡る煩を厭わず、結論として、鳴く「河鹿」は、

両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri

であるという、正しい真相に辿り着いている。

「連歌の季寄(きよせ)」連歌・俳諧で季詞(きことば)を大切にするが、句作の参考にするために、そうした現在の季語相当の語句を集めたものを「季寄」と呼ぶ。一般には俳諧歳時記の小型のもので、季詞を四季別(現在のように「新年」の部を立てるものもある)に分類し、月別に分け、さらに時候・人事・宗教行事・動植物などに分けて配列し,簡単な説明や例句を付したものもある。古くは連歌・俳諧の作法書に付されているものが多い。

「溫故日録(おんこじつろく)」江戸前期に書かれた連歌作法書。杉村友春作。古いものでは延寳四(一六七六)年の識を記す。『「杜父魚(とふぎよ)」・「カシカ」として、なんの子細も見へず』早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のこちらの「葉月」の条下に(右頁一行目)、確かに「杜父魚(カジカ)」と、ただ出るだけである。

「八目」月別の「葉月」で陰暦八月の部の意か。

「三才圖會」これは寺島良安の「和漢三才圖會」のことであろうが、あれを「俗書」呼ばわりするというのは、甚だ、気に入らぬ! 「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「石斑魚(いしぶし)」の項などを指していよう。そこでは「河鹿」は挙げてはいないが、「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の第二項の「黃顙魚(ごり/かじか)」の読みを与えている。そこで私は「ごり」をまず、

淡水産カジカ類カサゴ目カジカ科のカジカ Cottus pollux

及び、

ウツセミカジカ Cottus reinii

及び、アユカケ Cottus kazika

を比定候補とした。そうして鳴き声を立てるとする、明の李時珍の「本草綱目」の叙述するものの正体として、『一読、「軋軋」の車の軋(きし)る時の音、少なくともこれは擬音語としては『キーキー』、『ギーギー』(中国音は「yà yà」であるが)で、この叙述は、釣り上げた際に、腹鰭の棘とそれを支えている基底部分の骨をこすり合わせて、「ギーギー」と低い音を出す、

ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps の仲間(ギギ Pelteobagrus nudiceps は日本固有種であるから、ギバチ属 Pelteobagrus の仲間というのが正確)

に相応しい。そうしてこの正当性は』先にリンクさせた『「黄顙魚」等の考証でも明らかになった。また付け加えるならば、この「吾里」(ごり)という呼称はもしかすると、ギギの音を聞き違えたものとも思われる。そもそも、この「吾里吾里」(ごりごり)という声自体が、「加之加」(かじか)の異物同名ともなり、その声と混同されもしたと思われる、

両生綱無尾目カエル亜目アオガエル科カジカガエル亜科のカジカガエル Buergeria buergeri

等の鳴き声を誤認したものではなかろうか)』と注した。この古い私の見解を私は今以って修正する必要を感じない。

『貝原氏(うぢ)、「大和本草」の「杜父魚」の条』「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」である。しかし、それを読めば判る通り、作者の読みは恣意的で、自分が指弾し易いように受け取っているに過ぎないことが判る。益軒は、『此の魚を「河鹿(カジカ)」と云ふ〔とする〕說あり。夜、なく。故に名づく。古哥にもよめり。一說、「ゴリ」の大なるを、「河鹿」と云ふ。「ゴリ」・「杜父魚」、同類なり』であって、益軒は一部で「杜父魚」(私は益軒が名指すのは本邦の条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux と断じている)を「河鹿」とする説、と呼ぶ地方があり、大型の「ゴリ」個体を「河鹿」と呼ぶ説や地方があるとまっとうな(現在でもこれは――確かな事実――なのである)言っているに過ぎないのである。作者の喧嘩の売り方は、これ、汚ねえやい!

『「河鹿」として、『古歌にもよめり』といふは、全く筆の誤りなるべし』だからね! お前さんが後でばかばか引いているように「かじか」なる正体不明の何かは、いっぱい、古歌に読まれているというだけの、素朴なフラットな事実を益軒は言っているわけよ!

『「かしか」の名目は、是れ、俳諧師などの口ずさみにいひはじめて、恐らくは、寛永』(一六二四年~一六四五年)『前後の流行(りうこう)なるを、西行の歌などゝいへるを作り出だして、人に信ぜさせしにもあるべき』ここでの作者の謂いには、傾聴すべき部分があるように思う。則ち、博物学的に「かじか」という動物が何物であり(狭義の昆虫類か、魚か、両生類か)、それを確かに名指すと同時に示す(現代風に言えば種を同定比定する)という、インキ臭いアカデミックな鉄則などなかった時代に、俳諧連歌の風流仮想生物として「かじか」が誕生したという可能性は大いにあり得るということである。

「山川に汐(しほ)のみちひはしられけり秋風さむく河鹿(かしか)なく也」如何にも嘘臭さプンプンである。出典や相似歌を確認出来ない。ただ、調べていたところ、瀧澤馬琴の文政七(一八二四)年閏八月七日の小泉蒼軒宛「令問愚答」に、

   *

前問。越後の地名に「鮖」といふ字を「カジカ」とよませ候。此字も物に御見當り候ハヾ、御知らせ奉願候。

答。「鮖」ハ、全く土俗の造り字にて、田地に用る「圦」[やぶちゃん注:「圦樋(いりひ)」の略。土手の下に樋(とい) を埋め込んで水の出入りを調節する装置。一種の水門のこと。]字などゝ同格なるべし。今俗のカジカといふ物に二種あり。その一ハ魚なり、山河の水中に住ミ、好て砂石の間に隱れて、よく鳴くもの也。これを今、俗は「カジカ」といへども、古來よりの和名ハ、「イシブシ」といふ。「鮖」といふ魚、これ也。「和名抄」に、「鮖『食經』云、性、伏沈シテ石間者也。」「和名伊師布之(イシブシ)」。この魚、方言、多し。山城以西ハ、「ゴリ」といふ。「石ゴリ」とも云。水中に在て、「ゴリゴリ」と鳴くを名とす。魚の形ハ、些シ沙魚(はぜ)にも似て、沙魚より大きく、又、少し鯸䱌(フグ)にも似たり。「字考」にハ、「䱌」を「伊」の部にも、「加」の部にも収めて、「いしぶし」ともよませ、「かじか」とも訓じたり。種俗の稱呼に從ふのミ。この魚の和名を「石伏(イシブシ)」といひ、今、俗ハ「カジカ」ともいふにより、土俗の「カジカ」の正字をしらぬもの、私に魚に從ひ、「石」に從ハして、「鮖」の字を作り出して、「カジカ」と讀するのミ。これ「圦」字などゝおなじく、近來、土俗の造り字なること疑ひなし。「カジカ」の言ハ「河鹿」也。『「かじか」の歌、西行にあり。』などゝいふ者あれども、そら言也、信ずベからず。近來の俗稱にて、「カジカ」ハ「蛙」の聲よきもの也。形ハ「蛙」と異なること、なし。只、手足の指、よのつねの物とおなじからず、

Kajikaasi

指の先ニ、如此、まろきものあり。山川にありて鳴くに、その聲、淸朗也。いにしヘハ、これをも「かハづ」といへり。『万葉集』に、嗚く聲を憎むがごとくよみたるは、よのつねの水田に住る「かハづ」也。又、「かハづ聞さえ[やぶちゃん注:「で」の誤りか。]かへしつるかも」など詠て、その聲を愛(めづ)る心によめるハ、今、いふ、「かじか」なるよし、先輩、既にいへり。いづれも、「かハづ」といヘバ、紛るヽゆゑに、近來、その聲よきものを、「かじか」と呼べり。その聲、聊、鹿に似たれバ、「カジカ」の言ハ「河鹿」也。山城にハ、嵯峨・宇治等の山川にあり。大和にハ、よし野にあり。近江以東、奥幷ニ松前にあるものハ「䱌」にて、眞の「河鹿」にあらず。方言にも、又、さまざまにて、松前にてハけしからぬ名に呼ぶよし、松前の波響大夫、いへり。「河鹿」、幷に「石伏」の圖ハ、近來の印本「山海名產圖會」に出たり。披きて閲し給へかし。

   *

と、本書まで紹介してある(以上は「馬琴書翰集成一」(柴田光彦編・二〇〇二年八木書店刊のグーグルブックスのこちらを参考に漢字を恣意的に正字化し、記号も増やして示した。カジカガエルの足の図はスクリーン・ショットで取り込み、トリミングしたものである)。

「ゴリ」多様な種を指す。「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の私の注を参照されたい。

「キヽ」ギギ。条鰭綱ナマズ目ギギ科ギギ科Bagridae のギギの仲間を指す。「大和本草卷之十三 魚之上 𫙬※魚 (ギギ類)」の私の注を参照されたい。

「ならて」「ならで」。

『「落合(おちあひ)の瀧」とよみて、大原に建禮門院の御詠(こえい)と云いつたふ』京都府京都市左京区大原草生町(おおはらくさおちょう)の焼杉谷川と西田谷川が合流する地点(グーグル・マップ・データ)にある瀧で、建礼門院の御歌、

 ころころと小石流るる谷川のかじかなくなる落合の瀧

で知られている。

『「夫木集」二十四「雜六」岡本天皇御製とて』『あふみちの床の山なるいさや川このころころに戀つゝあらん』日文研の「和歌データベース」で確認。「夫木抄」巻二十の「雜二」に読人不知として、

 あふみちのとこのやまなるいさやかはけのこのころはこひつつもあらむ

とある。これは作者が示す通り、「万葉集」巻第四に載る一首で(四八七番)、

   *

 淡海路(あふみぢ)の

     鳥籠(とこ)の山なる

   不知哉(いさや)川

        日(け)のころごろは

      戀ひつつもあらむ

   *

で、後書に、

   *

右は、今案(かむが)ふるに、高市崗本宮(たけちのをかもとのみや)と、後(のち)の崗本宮と、二代二帝、各々、異(こと)なり。ただ「崗本天皇」といへるは、未だその指(さ)すところを審(つばひ)らかにせず。

   *

とあるのだが、中西進氏は講談社文庫版「万葉集」で、歌意からは斉明天皇(推古天皇二(五九四)年~斉明天皇七(六六一)年)とする(今一人の「崗本天皇」は斉明天皇の夫舒明天皇(五九三年?~六四一年))。作者の言う通り、この「日(け)​のころころ」は鳴き声の「コロコロ」や「ゴロゴロ」なんぞではなく、今日「この頃」の意であることは言うまでもない。

「代匠記(たいしやうき)」「萬葉代匠記」(まんやうだいしやうき)。江戸前期の「万葉集」の注釈書。契沖が徳川光圀の依頼を受けて、下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)に代わって著したもの。貞享末年(一六八八年)頃に初稿本が成り、さらに光圀から写本や注釈書類が与えられたり、貸し出されて、「万葉集」の校本作りが進められ、本文研究とともに元禄三(一六九〇)年に精撰本が完成した。初稿本は平仮名、精撰本は片仮名で書き、惣釈に於いて「万葉集」の書名・作者・品物・地理・音韻・枕詞等を概説し、巻順に、ほぼ全歌と漢詩文・題詞左注・目録等について、約三千箇所に及ぶ本文訓読を改訂した(この内の約二千の条々は現在も定説とされて有効である)。さらに内外の典籍を博引旁証して語句・歌意や作者作意の解明を試み、精密な注釈を加えてある。仙覚の「万葉集註釈」、鹿持雅澄(かもちまさずみ)の「万葉集古義」と並び称され、中世の古今伝授と異なり、文献による実証主義にたつ近代的手法は古典注釈史上、画期的とされる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『「ねもころころ」とよみたる例(れい)のごとし』これは「万葉集」巻第十一に載る一首(二四〇〇番)、

 いで如何に

   ここだはなはだ

  利心(とごころ)の

      失(う)せなむまでに思ふ戀ゆゑ

の古訓、

 いで如何に

   ねもころころに

  利心の

      失するまで念(おも)戀ふらくの故

辺りを指しているか。「ねもころころに」は「ねんごろ」の古形である「懇(ねもこ)ろ」の強調形或いは韻律操作とするか。孰れにせよ、鳴き声では、確かに、ない。

『長明「無明抄」にいへる「井堤(いで)の蛙(かはず)」』「無明抄」は鴨長明の歌論書。建暦元(一二一一)年十月以降から鴨長明が没する(建保四(一二一六)年閏六月)までの間と推定されている。「大和本草卷十四 陸蟲 山蝦蟆(やまかへる) (カジカガエル)」の私の注で当該箇所「井手の山吹幷(ならびに)かはづ」全文を電子化してある。

「井堤の川」現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町(いでちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古来より、山吹と蛙(かはづ)の名所として知られており、歌枕として多くの和歌に歌われた。

「八瀬(やせ)」京都市左京区八瀬野瀬町附近。

『有馬「皷(つゞみ)が瀧」』兵庫県神戸市北区有馬町にある鼓ヶ滝」

「愆(あやま)ち」「愆」は音「ケン」で、「誤る・過(あやま)つ・過ち・罪・咎」の意がある。

「八脊(やせ)」前の「八瀬」に同じ。

「帯刀の長節信(ちやう ときのぶ)は數竒(すき)の物なり。始めて能因に逢ひ……」以下、文中に注で入れた通りだが、再度、言っておくと、前振りなしに、突然、平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」の能因法師絡みの数奇者の話の引用が始まる(この奇体なエピソードは「山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)」で知っていたし、怪奇談集の「谷の響 四の卷 一 蛙 かじか」でも電子化している)。私の所持する「新日本古典文学大系」版とはかなり原文が異なっており、そもそもがここで作者が引用書名が示さないというのも甚だ不審である。この前までは必ず引用書目を出しているからである。しかも他の版本に見られない内容である。しかも、驚くべきことに、二頁目がダブりを示しながらも、次の頁にすんなり繋がっている点である。されば、底本のこの不思議な二頁分は、実は本書の元原稿分が、そのまま刷られたものである可能性が強いように思われる。理由は判らないが、作者は、この二頁分を、初摺りの直後にカットすることにして別に原稿を渡したが、一部で、その元版が刷られて、誤って刊本に綴じ込まれてしまったのではないか? と私は考えている。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の版本当該部(PDF・55コマ目)視認して、電子化する。カタカナはひらがなに直し、漢文脈部分は訓読し、一部の送り仮名を打った。読みは「新日本古典文学大系」版で補った。

   *

 加久夜(かくや)の長(をさ)の刀帯(たてはき)節信(ときのぶ)は、數竒(すき)の者也。始めて能因に逢ひて、相ひ互ひに、感(かん)、有り。能因が云はく、

「今日、見参の引出物に、見すべきもの、侍り。」

とて、懐中より、錦の袋(ふくろ)を取り出だす。其の中に、銫屑(かんなくず)一筋(ひとすぢ)あり、示して云はく、

「是れは、吾が重寳也。長柄(ながら)の橋造りの時の、『鉋くつ』なり。」

と云々。

 時に、節信、喜悦、甚しくて、又、懐中より、帋(かみ)に褁(つつ)める物を、取り出だせり。之れを開きて見るに、かれたる「かへる」なり。

「是れは『井堤(ゐで)のかはづ』に侍り。」

と云へり。

 共に感歎して、各(おのおの)、懐にして、退散す。今の世の人々、「嗚呼(をこ)」と稱すべきか。

   *

こちらで注しておくと、「加久夜の長の刀帯節信」は「新日本古典文学大系」版では『加久夜(かくや)の長(をさ)の帯刀(たてはき)節信(ときのぶ)』である(但し、編者にようる補正)。藤原姓。生没年未詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、『「加久夜」は鹿児矢か。鹿などを射る矢。「帯刀」は』『舎人帯刀の略で、帯刀して東宮を護衛する役。その長を「帯刀の長」といい、本文の「長に帯刀」とあるのは同意か。不詳』とある。「今日、見参の引出物」今日、かくもお越し下さった記念の贈り物。但し、見せるだけの「引き出物」であり、最後にはそれぞれが自分の宝物を懐に入れて別れている。「長柄の橋」は淀川の支流であった旧長柄川に架かっていた橋。歌枕として著名。現在、淀川に架橋する長柄橋があるが、往古とは河川流域が異なり、ここに出る長柄橋がどこにあったかは、不明である。『かれたる「かへる」』ミイラになった蛙。

「世の中にふりぬるもの津の國の長柄の橋と我(われ)となりけり」「古今和歌集」巻第十七「雜歌上」の詠人不知の一首(八九〇番)。表記に問題なし。

「蛙(かはつ)なく井堤の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」「古今和歌集」巻第二「春歌下」の詠人不知の一首(一二五番)。

 かはづなく

   ゐでの山吹

  ちりにけり

     花のさかりに

        あはましものを

で問題ない。

『「後拾遺」の秋』「良暹法師」「みかくれてすたく蛙の諸聲にさわきそ渡る井堤の浮草」「後拾遺和歌集」巻第二「春下」にある良暹法師(りやうぜん(りょうぜん) 生没年不詳:平安中期の僧で歌人。出自・経歴もほぼ不明。作者が記すように、一説によると、父は彼と同じ比叡山の天台僧、母は藤原実方(?~長徳四(九九九)年)家に仕えていた童女(めのわらわ)白菊だったとも言われる。祇園社(現在の八坂神社)別当となり、その後、大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだとされている。一説に康平年間(一〇五八年~一〇六五年)に六十五歳ぐらいで没したともされる。「良暹打聞」という私撰集を編んだと伝えるが、現存しない)の一首(一五九番)、

   *

   長久二年弘徽殿女御家歌合に、

   「かはづ」をよめる

 みがくれて

   すだく蛙の

  諸聲(もろごゑ)に

     さわぎぞわたる

       池(ゐけ)の浮草

   *

であるが、前書の長久二(一〇四一)年の「弘徽殿女御家歌合」では、第五句が、作者の示すのと同義の「井手の浮草」となっている。この一首、蛙の集(すだ)き鳴き騒ぐその声に、池の浮草が揺れるさまを描いて聴覚と視覚が相俟って新鮮である。

『井堤(いで)をよむことは、ふるく、「萬葉」、人丸(ひとまる)よりはじまり』作者の自信に満ちた謂いを受けて調べてみたが、柿本人麻呂の「万葉集」の歌に、そのような歌は見当たらない。敢えて挙げると、巻第十一にある一首(二七二一番)、

 玉藻刈る

   井堤(ゐで)のしがらみ

  薄(うす)みかも

     戀の淀める

        我が心かも

があるが、この「井堤」は明らかに一般名詞の流れをせき止める柵(しがらみ)と同義のもの。但し、万葉仮名が「井堤乃四賀良美」であり、これが井手の地名と解釈され、歌枕化したであろうことは、想像に難くはない。

『「蛙(かはづ)」を詠み合はせとすること、古くは小町・貫之が家(いへ)の集に見えたり』両歌集を持ってはいるが、調べる気は全くない。悪しからず。

「一条院」一条天皇の在位は寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年。

「試みて、しれり」作者が実際に、「試みて」、観察・実証した、というのである。アッパレ!

「其の聲の、あるにもあらず」意味がよく判らない。所謂、他の蛙のかまびすしさと比べ、鳴いていても、それが気にならない、だから「あるにも」かかわらず、「あらず」と見做し得るほどに気にならない、不思議な安静感を醸し出すと言っているか。

「閑情(かんせい)」「かんじやう」(かんじょう)が普通。心静かな気持ち、もの静かな心持ちを言う。

「蝦蟇(かま)」普通はガマガエルであるが、ここは広義のカエルの意。

「蒼黒色(さうこくしよく)」「向ふの足に水かきなく、指先、皆、丸く」両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri は、性的二型で♀の方が♂よりも大きく、オスの体長は三・五~四・四センチメートルであるの対し、♀は四・九~八・五センチメートルもある。孰れも河原の石のような体色をした保護色で、♂は体の表面が平滑で石に紛れて見えにくいが、♀はさらに加えて体表に小さな疣があり、河原以外の場所でも目立たない姿をしている。「向ふの足」は対峙した際にこちらを向いている前脚のことであろう。前脚には後脚のようには蹼(みづかき)が発達せず、その代わり、長い指の先に大きな吸盤が発達している(オタマジャクシは口が吸盤状に発達している)。

『「こま鳥」に似て、「ころころ」といふがごとく』笛の音か、野鳥の囀りのような美声で、音写は難しいが、「フィフィフィフィ」に時にそれが圧縮されて「ルルルルルル」に聴こえるような連続音に近い。たっぷり聴けるmono-氏のYouTube の「カジカガエル 癒される鳴き声(奈良県 黒滝村)Song of Kajika Frogsがよい。因みに、作者の、似ている、とする「駒鳥」(スズメ目ヒタキ科コマドリ属コマドリ Luscinia akahige )の鳴き声はこちら(「日本野鳥の会」の「BIRD FAN」)。

「鵙(もず)」スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius Bucephalus 。鳴き声はこちら(同前)。

『加茂眞淵「古今打聽(こきんうちきき)」』国学者加茂真淵(元禄一〇(一六九七)年~明和六(一七六九)年)の「古今和歌集」の注釈書「古今和歌集打聽」。天明五(一七八五)年序。

「祝詞(のつと)」祝詞(のりと)に同じ。「青空文庫」の喜田貞吉「くぐつ名義考 古代社会組織の研究」に祝詞の中に「谷蟆」又は「谷潜」(ここでの「谷潛(たにくゞ)」)が出現することが記されてある。但し、「万葉集」に「たにくぐ」が出るのは、巻第五(八〇〇番)と巻第六(九七一番)で、孰れも台地を支える神聖なる地神のシンボルとしてのガマガエル=ヒキガエル(種は「大和本草卷十四 陸蟲 蟾蜍(ひきがへる) (ヒキガエル)を参照)を指しており、「カジカ」とは全く縁がないので、引かない(万葉サイトは腐るほどあるから御自身で探されたい)。『「萬葉」には、秋の題に出だせり』というのも、後者では当て嵌まるものの、前者では無効である。大体、「題」というマニエリスム的用語自体が「万葉集」には馴染まないと私は思う。さらに、ヒキガエルは「うたてかしましき物には、あらず」というのには、私は、否定しないまでも、賛同しない。「カジカ」と「ヒキガエル」の鳴き声は同一のものではないからであり、ここで真淵は万葉時代以降の蛙の鳴き声をそれこそマニエリスムとして一つにして処理しようとする無茶をしようとしているように思われるからである。因みに、「たにくぐ」とは、渓谷で「くぐくぐ……」と鳴く何者かの謂いであろう。そのオノマトペイアは、これ、それをそう表現した人間だけにしか、その声は明確に出来ず、従って、我々は、それを厳密に同定することは不可能である。

「陂澤(はたく)」「陂」は河川の土手。「澤」は沼沢や氾濫原。

「おもほゑす來ませし君を佐保川の蛙(かはず)きかせてかへしぬるかも」本「河鹿」本文パートの最後に掲げられた「万葉集」巻第六の村主益人(すぐりのますひと)の一首である(一〇〇四番)。作者はどうも表記にブレがあり、直後でも性懲りもなくまた、「おもほへずきませる君を佐保川のかはづきかせてかへしつるかも」と引くし、最後の万葉仮名には「不所念(おもほえす) 來座君乎(きませるきみを) 佐保川乃(さほかはの) 河蝦不令聞(かはづきかせず) 還都流香聞(かへしつるかも)」と、また、ブれている。面倒なので、講談社文庫版の中西進のそれを参考に、正字化してここで出してしまおう。

   *

  按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)の歌一首

思ほえず來ましし君を佐保川の河蝦(かはづ)聞かせず歸しつるかも

   *

この「佐保川」は奈良県北部の奈良市・大和郡山市を流れる川。ここ。以下、後書。引き上げて繋げた。

   *

内匠大屬(たくみのだいさくわん)、按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)、聊(いささ)か、飮饌(いんせん)を設(ま)けて、以ちて、長官佐爲王(かみさゐのおほきみ)に、饗(あへ)せしに、日(ひ)、斜(くた)つに及ばずして、王、既に還-歸(かへ)れり。時に、益人、厭(あ)かずして歸(かへ)るを、怜-惜(を)しみ、仍(よ)りて此の歌を作れり。

   *

この「内匠」は中務省に属する神亀五(七二八)年に新設された内匠寮(ないしょうりょう)で、天皇家の調度品や儀式用具などの製作を担当した。「大屬」は長官。

「朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)が下になく蛙(かはす)こへだに聞かは我(われ)戀(こひ)めやは」「万葉集」巻第十の一首(二二六五番)。

   蝦(かはづ)に寄せたる

 朝霞(あさかすみ)

     鹿火屋(かひや)が下に

  鳴くかはづ

        聲だに聞かば

    我れ戀ひめやも

この「鹿火屋」は田畑を鹿や猪などから守るために火をたく番小屋。一説に、稲の穂先(かひ)を収める小屋ともいう説もあると言う。

『「後選集」雜四、「かはづをきゝて」との端書(はしかき)にて、我宿(わがやど)にあひやとりしてなくかはづよるになればやものはかなしき 是れも秋の物とこそ聞きゆれ』

 

「萬葉」「佐保川の淸き川原(かはら)になく千鳥(ちとり)かはづとふたつわすれかねつも」巻第七の一首(一一二三番)、

 佐保川の

   淸き川原に

  鳴く千鳥

     蛙(かはづ)と二つ

    忘れかねつも

これは確かにカジカガエルと詠む。

「かはづなく吉の川」「万葉集」巻第十の一首(一八六八番)、

 河蝦(かはづ)鳴く

      吉野の川の

  瀧の上の

   馬醉木(あしび)の花ぞ

          はしに置くなゆめ

「蛙(かはづ)なく六田の淀(よど)」「万葉集」巻第九の絹(きぬ:女性名と思われる)の一首(一七二三番)、

   絹(きぬ)の歌一首

 河蝦鳴く

    六田(むつた)の川の

   川楊(かはやぎ)の

        ねもころ見れど

           飽かぬ川かも

ロケーションの「六田(むつた)の川」は奈良県吉野郡大淀町北六田(きたむだ)にあった「六田の渡し」。「ねもごろ」は「楊」の「根」に「懇(ねもこ)ろ」を掛けたもの。

「かはづなく神奈備川(かみなみかわ)」「万葉集」巻第八の厚見王(あつみのおほきみ:奈良時代の官吏。天平勝宝六(七五四)年の太皇太后藤原宮子の葬儀の御装束司(みそうぞくし)となり、翌七年には伊勢大神宮奉幣使を務めた)の一首(一四三五番)、

 蝦(かはづ)鳴く

      甘南備川(かむなびかは)に

    影見えて

       今か咲くらむ

      山吹の花

「かはづなく淸川原(きよきかはら)」「万葉集」巻第七の一首(一一〇六番)、

 かはづ鳴く

     淸き川原を

  今日見ては

      何時(いつ)か越え來て

         見つつ思(しの)はむ

「六帖(ろくてう)」(ろくぢよう)は平安時代に編纂された私撰和歌集「古今和歌六帖(こきんわかろくじょう)」。成立時期や撰者はともに不明であるが、大よその目安として、天禄から円融天皇の代の間(九七〇年から九八四年の間)に成立したとされており、撰者については、紀貫之・兼明親王・具平親王・源順の撰とする説がある。]

2021/06/21

芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通

 

大正七(一九一八)年一月一日・田端発信・菅忠雄宛(葉書)

忠雄さんは何時までそちらにお出でですか僕は來週中でも鎌倉へ行つてさがして下すつた家を見たいと思ひます

頓首

 

[やぶちゃん注:この三月一日で、芥川龍之介満二十五歳。先の最後の松岡譲宛書簡の注で既に述べた通り、龍之介が思いの外、人にちゃっかりしっかり頼るタイプであることが判る。但し、この時に紹介された物件は気に入らず、一月三十日にも菅虎雄の紹介で鎌倉の借家を数軒見て回ったが、気に入らない。結婚時点(翌二月二日)でも新居は決まっておらず、二月七日頃にも探しに行き、二月二十六日まで新居が決まった(新全集宮坂覺年譜に拠る)。ここで後に掲げる書簡も参照のこと。]

 

 

大正七(一九一八)年一月十九日・田端発信(推定)・京都市加茂松原中ノ町八田方裏 井川恭樣・一月一九日 芥川龍之介

 

女の名は

   加茂江(カモエ)(下加茂を紀念するならこれにし給へ)

   紫乃(シノ)(子)

   さざれ(昔の物語にあり復活していゝ名と思ふ)

   茉莉(マリ)(子)

   糸井(イトヰ)(僕の友人の細君の名 珍しい名だが感じがいゝから)

これで女の名は種ぎれ男の名は

   治安

   樓蘭(二つとも德川時代のジヤン、ロオランの飜譯 一寸興味があるから書いた)              

   哲(テツ)。 士朗。(この俳人の名はすきだ)

   俊(シユン)。山彥。(原始的詩歌情調があるぜ)

   眞澄(マスミ)(男女兼用出來さうだ)

そんなものだね

書けと云ふから書いたがなる可くはその中にない名をつけて欲しい この中の名をつけられると何だかその子供の運命に僕が交渉を持つやうな氣がして空恐しいから

僕は來月に結婚する 結婚前とは思へない平靜な氣でゐる 何だか結婚と云ふ事が一のビズネスのやうな氣がして仕方がない

僕は子供が生れたら記念すべき人の名をつける 僕は伯母に負つてゐる所が多いから女だつたら富貴子 男だつたら富貴彥とか何とかつけるつもりだ 或は伯母彥もいいと思つてゐる そのあとはいい加減にやつつけて行く 夏目さんが申年に生まれた第六子に伸六とつけたのは大に我意を得てゐる 實は伯母彥と云ふ名が今からつけたくつて仕方がないんだ

この頃は原稿を皆斷つてのんきに本をよんでゐる 英國の二流所の作者の名を大分覺えた

   爪とらむその鋏かせ宵の春

   ひきとむる素袍の袖や春の夜

   燈台の油ぬるむや夜半の春

   葛を練る箸のあがきや宵の春

   春の夜の人參湯や吹いて飮む

この間運座で作つた句を五つ錄してやめる

   井 川 君           龍

  二伸 奧さんによろしく 產月は何時だい 今月かね

[やぶちゃん注:太字はルビ。本文内の( )表記と区別するために、かくした。宛名は本来は改姓後の恒藤恭であるべきだが、龍之介はこの語も暫くずっと「井川恭」と記し続ける。この辺りに彼の「井川恭」に対する同性愛感情の残痕を私は嗅ぐ。龍之介が「恒藤恭」と記すのは、実にこの翌年の大正八年五月十九日附書簡(葉書・旧全集書簡番号五二七)以降である。発信の一月十九日は日曜日であるので、田端(推定)とした。親友恒藤恭の妻雅が妊娠し、その子の名を彼が龍之介に命名を頼んだ、その返信。翌二月十五日に雅は男児を出産、「信一」と名づけられた。

「ジヤン、ロオラン」フランスの詩人で象徴主義派の小説家ジャン・ロラン(Jean Lorrain 一八五五年~一九〇六年)。同性愛者であることを公言した人物としても知られる。

「士朗。(この俳人の名はすきだ)」江戸時代後期の医師で俳人の井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)。尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)生れ、医師として活動する傍ら、加藤暁台(きょうたい)門下の高弟として、暁台没後の尾張俳壇を主導し、「寛政の三大家」の一人に数えられた。私は師の暁台は好きだが、士朗は月並化が激しく、好きな句はない。

「僕は來月に結婚する」日付を明らかにしていない理由は次の松岡譲書簡に記されている。

「伯母」芥川フキ。彼女への芥川龍之介の尊崇偏愛が見てとれる。

「ビズネス」ビジネス。business

「伸六」夏目漱石の次男でジャーナリスト・随筆家夏目伸六(明治四一(一九〇八)年~昭和五〇(一九七五)年)。当該ウィキによれば、『東京市牛込区(現在の東京都新宿区)早稲田南町に生まれる。伸六の上に姉』四『名と兄がいた。漱石は、名前を「申年に生まれた』六『番目の子ども」ということで「申六」とする予定だったが、「先生、いくらなんでも人間の子供ですから、ニンベンをつけて『伸』にしましょう」と漱石の弟子である小宮豊隆から言われ、「伸六」となった』とある。

「運座」俳諧の一座で、連衆(れんじゅう)一同が一定の題について句を作り、互選・選評する会。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に始まり、天保年間(一八三〇年~一八四四年)頃から流行したが、その後途絶え、明治になって正岡子規が再興、日本派俳人の定式となった。]

 

 

大正七(一九一八)年一月二十二日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・書留印・消印二十四日・一月廿二日 橫須賀汐入五八〇 芥川龍之介

 

手紙見た 久米はうつちやつて置くがいゝ

僕の結婚はいづれ通知する 公務の關係と家事の關係で日どりはまだはつきりしない 大體きまつてゐるがまぎわへ來て變るかも知れない とにかく來月である事は事實だ 但これも久米始め誰にも公表してない 僕の細君と學校との關係上結婚の完る[やぶちゃん注:「をはる」か。]前に公にしたくないからだ

伺しろくだらない用が多くつてうるさくつて仕方がない その中で小說を書くんだからやり切れないよ こいつ一つ書いちまへばあとは書いても書かなくつてもいゝんだと思つてそれを樂しみに書いてゐる

久米には實際こまつたものだと思ふよ この頃あいつの創作上の問題に關係してしみじみさう思つた 結局匙をなげるのかなとも思ふ とにかく惡い所を愈惡く出して來た事は確だ もう何と云つても仕方がない 以上

   松岡讓樣        芥川龍之介

  二伸 金をうけとつてくれ この中へ封入したから

[やぶちゃん注:芥川龍之介が親しい友人にさえ結婚式の日取りをぎりぎりまではっきりさせなかった大きな理由は、夏目筆子と松岡譲及び久米正雄のぐちゃぐちゃしたゴシップを勘案(というか、嫌気がさして)してのことと思われる。特に親友久米のことを慮っていたようである。実際には二月二日日曜日の結婚式の後に田端の天然自笑軒で開かれた披露宴には菊池寛・江口渙・池崎忠孝に久米正雄が出席している。

「金をうけとつてくれ」前年の十二月十四日の松岡宛書簡に出た謎の「グレエフエ」の代金か。

 

 

大正七(一九一八)年一月二十三日・横須賀発信(推定)・塚本文宛

 

だんだん二月二日が近づいて來ます 來方が遲いやうな氣も早いやうな氣もします もう正味二週間だと思ふと驚かずにはゐられません 文ちやんはどんな氣がします

僕は當日の事をいろいろ想像してゐます さうして 少し不安な氣もしてゐます 何だかまだ身仕度も出來ないうちに眞劍勝負の場所へひつぱり出されたやうな氣がしない事もありません しかしそれよりも嬉しい氣がします

文ちやんは御婚禮の荷物と一しよに忘れずに持つて來なければならないものがあります それは僕の手紙です 僕も文ちやんの手紙を一束にして持つてゐます あれを二つ一しよにして 何かに入れて 何時までも二人で大事にして置きませう だから忘れずに持つてゐらつしやい

何だかこれを書いてゐるのが間だるつこいやうな氣がし出しました 早く文ちやんの顏が見たい 早く文ちやんの手をとりたい さう思ふと二週間が眼に見えない岩の壁のやうな氣がします

今これを書きながら 小さな聲で「文ちやん」と云つて見ました 學校の敎官室で大ぜい外の先生がいるのです

ん 小さな聲だからわかりません それから又小さな聲で「文子」と云つて見ました 文ちやんを貰つたら さう云つて呼ばうと思つてゐるのです 今度も誰にも聞えません 隣のワイティングと云ふ米國人なぞは本をよみなが居睡をしてゐます さうしたら急にもつと大きな聲で文ちやんの名を呼んで見たくなりました 尤も見たくなつた丈で實際は呼ばないから大丈夫です 安心してゐらつしやい

唯すにも文ちやんの顏が見たい氣がします ちよいとでいゝから見たい氣がします それでそれが出來ないからいやになつてしまひます

當日品川から田端まで車で來るのは大へんですねずゐぶん長い譯でせう 尤も車の外に仕方がありません 自働車は動阪から先へ來られないから。僕なら途中の車の中で居睡りをしちまひさうです。自笑軒へ行つてからはずゐぶん極(きま)りが惡るさうで これには少し閉口してゐます 文ちやんは平氣ですか しかし一生に一度だから極りの惡い位は我慢したければなりませんね 兎に角それが皆二週間たつと來るのです 當日お天氣がいゝといゝですね 何だかいろんな事が氣になります

暇があつたら返事を書いて下さい 頓首

    一月廿三日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

  二伸 學校へはまだ行つてゐるの?

[やぶちゃん注:婚礼時点では、塚本文はまだ満十七歳であった(誕生日は七月四日)。]

 

 

大正七(一九一八)年二月一日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・二月一日 龍(葉書)

 

おたづねに從ひ御返事する

僕は明日結婚する 細君は當分うちに置いて僕だけ橫須賀で下宿ずまひをするつもり

鎌倉にはまだ適當な借家が見つからない

とにかく貧乏で悲觀してゐる

これが僕の書いた唯一の結婚通知狀だ この後も書かないだらうと思ふ 頓首

  (二伸 約束上成瀨へもよろしくしらせてくれ給へ)

 

 

大正七(一九一八)年二月十三日・横須賀発信・薄田淳介宛

 

拜復 朶雲奉誦、問題の性質上學校の首席敎官とも一寸相談して見ましたが大體差支へあるまいといふ事ですから條件第一で社友にして下さい齟齬するといけないから念の爲その條件を下へ書きます

一、雜誌に小說を發表する事は自由の事

二、新聞へは大每(東日)外一切執筆しない事

三、右二、を大每(東日)紙上で發表して差女へない事但その文中「公務の餘暇なる」字を入れる事(勿論社友と云ふ事でなく執筆を新聞では大每に限ると云ふ事を發表するのです)

四、報酬月額五十圓

五、小說の原稿料は從前通り

これでよかつたらその旨田端四三五私宛返事して下さいいけない場合も同樣田端宛御一報願ひます 又目下讀賣の依賴で七枚ばかりの小品を一つ同社の爲に書きましたがこれは契約前のものとお見なし下さい多分今度の日曜附錄にのる筈です小說は私の結婚でちよいと中斷されましたもう四五日待つて下さい早速送ります 以上當用のみ末ながら色々御盡力の御禮を申上げます 頓首

    二月十三日      芥川龍之介

   薄田淳介樣

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、カットしたが、一月三十一日附の薄田書簡で、社友への誘い(イコール、専従作家としての出発の可能性を示唆するものである)を受け、許諾しており、『日付は不明だが、この日以前にも、薄田上京の折に』社友扱いについて『依頼していた』とあり、この書簡について、『海軍機関学校から辞任の内諾を受けたため』に書かれたものとする。但し、これは辞任への布石であって、実際の毎日新聞社社員(出勤義務無し)の内定と機関学校辞任は翌大正八年の二月下旬から三月末日(三十一日に正式に退職)であった。

「朶雲奉誦」(だうんはうじゆ)の「朶雲」は唐の軍長官であった韋陟(いちょく) は五色に彩られた書簡箋を常用し、本文は侍妾に書かせ、署名だけを自分でして、自ら「陟の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ」と言ったという「唐書」「韋陟伝」の故事から、他人を敬って、その手紙をいう語。従ってこの四字熟語は返信にのみ用いる。

「七枚ばかりの小品」「南瓜」(リンク先は「青空文庫」(新字旧仮名)。大正七年二月二十四日附『讀賣新聞』発表の一人称(対話者はいるが、出てこない)の語り物。芥川龍之介の作品では珍しいものである。]

 

 

大正七(一九一八)年二月十五日・井川恭宛(封筒欠)

 

御長男の生まれたの祝す 御母子の健康を祈りながら

   春寒く鶴を夢みて產みにけむ

    二月十五日      芥川龍之介

   井 川 恭 樣

   仝 雅 子 樣

 

 

大正七(一九一八)年三月十一日・京都市外下鴨松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣・三月十一日 田端四三五 芥川龍之介

 

拜啓

御祝の品難有う 今日東京へ歸つて拜見した

うちはやつと見つかつたが引越すのは多分今月廿日頃になるだらうと思ふ 鎌倉でも亂橋と停車場との中間にある寂しい通りだ 間數(まかづ[やぶちゃん注:ママ。])は八疊二間 六疊一間 四疊二間 湯殿 臺所と云ふのだから少し廣すぎる が蓮池があつて芭蕉があつて一寸周圍は風流だ もし東京へ來る序ででもあつたら寄つてくれ給へ 番地その他はまだ僕も知らない いづれ引越しの時通知する

例の通り薄給の身だからこれからも財政は少し辛(つら)いかも知れないと思つてゐる 兎に角人間は二十五を越すと生活を間題にするやうになると云ふよりは物質の力を意識し出すやうになるのだ だから金も欲しいが 欲しがつてもとれさうもないから別に儲ける算段もしないでゐる

學校の方はいゝ加減にしてゐるから本をよむ暇は大分ある この頃ハムレツトを讀んで大に感心した その前にはメジユア フオアメジユアを讀んでやつぱり感心した 僕の學校は一體クラシツクスに事を缺かない丈が便利だ バイロンのケインなんぞは初版がある 古ぼけた本をよんでゐるのは甚いゝ その代り沙翁のあとで獨譯のハムスンを讀んだから妙な氣がした 新しいものもちよいちよい瞥見してゐる あんまり面白いものも出なさうだね

その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない 谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ さうして平安朝小說を書くさうだ 僕は今度はゆつくり寺めぐりがしたいと思つてゐる

あとは後便にゆづる

末ながら雅子樣によろしく

別封は前に書いたが出さずにしまつたものだ 以上

    三月十一日          龍

   井 川 恭 樣

[やぶちゃん注:「御祝の品」芥川龍之介と文の結婚への贈答品。

「亂橋」「みだればし」と読み、鎌倉名数の一つである「鎌倉十橋」の一つ。材木座の日蓮宗妙長寺の門前から少し海岸寄りにある橋(グーグル・マップ・データ)であったが、道路上はほぼ暗渠化している(但し、上流部には小流が確認出来、現在は欄干様の後代のそれが上下流の部分に配されてあり、碑もある。以上は孰れもストリートビュー画像)。芥川が、それほど知られていない、この橋名を出しているのは、彼の尊敬する泉鏡花の初期作品「星あかり」がこの妙長寺や乱橋をロケーションとしているからに違いない。

「メジュア フオアメジュア」シェークスピアの戯曲「尺には尺を」(Measure for Measure :一六〇四年初演)。シノプシスは当該ウィキを見られたい。前注した「南瓜」にもシェークスピアへの言及が出現する。

「クラシツクス」classics。ここは西洋の古典作品の意。

「バイロンのケイン」イングランドの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron 一七八八年~ 一八二四年)の戯曲「カイン」(Cain )は、一八二一年出版された、所謂、レーゼドラマ(Lesedrama:上演を目的とせず、読まれることを目的に書かれた、脚本形式の文学作品)の代表として知られる。旧約聖書のカインとアベルの物語をカインの視点から描いたもの。

「ハムスン」ノルウェーの小説家クヌート・ハムスン(Knut Hamsun 一八五九年~一九五二年)。一九二〇年に一九一七年作の田園生活を讃美した小説「土の恵み」(Markens Grøde :ドイツ語訳 Segen der Erde :英訳 Growth of the Soil )でノーベル文学賞を受賞して世界的名声を得たが、侵攻してきたナチスを支持し続けたため、戦後、名誉失墜した。この時、龍之介が読んだドイツ語訳の作品は不明だが、「土の恵み」かも知れない。

「後便」少なくとも、底本の岩波旧全集には後便らしきものはない。次の恒藤恭宛は八月六日附まで、ない。]

 

 

大正七(一九一八)年三月十三日・横須賀発信・菅忠雄宛(葉書)

 

うちを御知らせ下さいまして難有うございます が、松岡先生のお出でになつたと云ふ家にもうとりきめてしまひましたから仕方がありませんあすこは井戶水を樋で引き便所も二つ建てましてくれるさうです 來週中にはひきこしますからさうしたらお遊びにお出で下さい先生によろしく 頓首

[やぶちゃん注:恩師とその息子にさんざん探させておいて、これだ。新婚の新居だから拘ったのは判るが、芥川龍之介のこういうさらっと言い過ごすところは、私はちょっと厭な感じだ。菅父子もちょっと可哀そうだ。

「松岡先生」不詳。]

 

 

大正七(一九一八)年三月三十一日・田端発信・岡榮一郞宛(葉書)

     左記へ移轉致候

    四月一日

神奈川縣鎌倉町大町字辻 小山別邸内

               芥川龍之介

  二伸君の宿所を忘れたまゝだから德田さんの御
  厄介になります鎌倉へ遊びに來ませんか女房持
  になつたつてさう見限るものぢやありません

[やぶちゃん注:「二伸」が長く、ブラウザ上、上手くないので、底本に合わせて適切な箇所で改行した。この数日前の三月二十九日、芥川龍之介は鎌倉に転居した。宮坂年譜によれば、『当初は伯母フキも同居したが、翌月中旬には田端に帰る。フキは、以後も時々鎌倉を訪れた』とある。場所は現在の鎌倉市材木座一丁目の元八幡(鶴岡八幡宮の元宮である由比若宮)の南東直近のの中央附近である(グーグル・マップ・データ)。既に述べた通り、私の父方の実家は北西二百メートル余りの直近にある。この「辻」というのは、鎌倉時代にここに「車大路」と「小町大路」との辻があったことに由来する。横須賀線を渡った北直近に「辻の薬師」がある。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 教恩寺/長善寺/亂橋/材木座」の「長善寺」(この雑誌発刊時には横須賀線敷設のために廃寺となっているので、この項立てはおかしい)の項を見られたい。

「岡榮一郞」(明治二三(​一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は劇作家。石川県生まれ。東帝大英文科卒。芥川の一年先輩。大正二(一九一三)年に漱石山房に出入りし、木曜会を通じて芥川龍之介や久米正雄との交友も始まり、大正五年の漱石の死去に際しては、芥川らとともに葬儀の受付を担当している。大正六年頃から芥川との書簡の往復が増加し、それと共に「我鬼窟」の常連となった。劇作は芥川の勧めによるとされる。後の大正十四年には芥川の紹介で芥川の同級生野口真造の姪綾子と結婚し、芥川は夫婦で初めて媒酌人を務めたが、この結婚は不調で(姑との関係悪化)、翌年十二月に離婚した。芥川はこのことでかなり神経を悩ますこととなった。

「德田さん」作家徳田秋声。彼は岡の叔父(筑摩全集類聚版脚注に拠る。「岡栄一郎」のウィキでは『遠縁』とする。叔父は遠縁ではないから、或いは叔父というのは誤りかも知れぬ)であった。]

2021/06/20

日本山海名産図会 第四巻 蛸・飯鮹

 

Tako1


Tako2

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。一枚目のキャプションは「豫刕長濵章魚(よしうなかはまたこ)」。脚が掌の外にはみ出るほどの中型の蟹を蒲鉾板大の木片につけたものを餌としているのが判る。二枚目は「越中滑川之大鮹(えつちうなめりかはのおほたこ)」である。浮き出ている胴頭部だけで三メートルはあり脚を伸ばした長さは九メートルほどはあるか。漁師に非常に長い柄と刃を備えた大鉈で切断されて、舟に載り掛けている脚の先だけでも、向こうの舷側に垂れているようだから、実長は二メートル近そうだ。これは所謂「大蛸」の異名を持つタコ類最大種の頭足綱八腕形目マダコ科ミズダコ属ミズダコ Enteroctopus dofleini と思われ、現在の最大記録は体長九・一メートル、体重二百七十二キログラムであるから、遜色ない。海上の孤独な死闘(といってもミズダコがこのように沖の海面に浮上して舟を襲うことは特撮映画以外ではあり得ない。但し、水中や岩礁帯で身体に絡みつかれることはある)を遠目に、それと対照的な手前の街道筋の穏やかな日常が対位法的に興味深い効果を生んでいる。或いは、家の隙間から覗いている黒牛だけが、それを知って見ているようで、実に面白い。]

 

   ○章魚(たこ)【一名は「梢魚(せうきよ)」、又、「海和尚(かいおしやう)」、俗に「蛸(たこ)」に作るは、「梢(せう)」の音(おん)をもつて二合(にがう)せるに似たり。】

諸州にあり。中にも播州明石に多し。磁(やきもの)の壺(つほ)、二つ、三つを、縄にまとひ、水中に投じて、自(おのづか)ら來たり入(い)るを、常とす。磁器(じき)、是れを「蛸壺」と称して、市中(しちう)に花瓶(くわへい)ともなして用ゆ。蛸は壺中(こちう)に付きて、引き出だすに、やすからず、時に壺の底の裏を、物をもつて搔き撫づれば、おのづから出て、壺を放(はな)ること、速(すみや)かなり。○伊豫長濵には、此の魚(うを)、甚だ多き故に、「張蛸(はりたこ)」として市に出だすなり。是れは「スイチヤウ」と云ふ物を以つて取るに、壹人に、五、六百、壹艘(いつそう)には千、二千に及ふ。「スイチヤウ」とは、四寸に六寸許りの小片板(こいた)の表の端(はし)に、釣を二つ付け 表に「ズ蟹(かに)」の甲をはなし、足許(あしもと)をのこし、石を添へて、二所(ふたところ)、苧(お)にて括(くゝ)りたるを、三つ許り、長さ四、五十尋の苧糸(おいと)に付けて、水中に投ずれば、鮹は蟹の肉を喰はんとて、板の上に乘るを手ごたへとして、ひきあぐるに、岸近く、或(ある)は水際(みつきは)などに至りて、驚き逃げんと欲して、かの釣(つりばり)にかゝるなり。泉刕、亦、此の法を以つて小鮹(こたこ)を採るには、烏賊(いか)の甲・蕎麦(そば)の花などを、餌とす。長刕赤間關(あかまのせき)の邊(へん)には、船の艫先に(へさき)に篝(かゞり)を焚けば、其の下、多く集まりて、頭(かしら)を立てて踊り上るを、手をもつて摑み、手の及ばざる所は、打鎰(うちかき)を用ゆ。手取(てとり)の丹練、尤も妙なり。

○鮹は、普通の物、大ひさ、一、二尺許りにして、又、小蛸(こたこ)なり。京師(けいし)にて、十月のころ、多く市に售(う)るを「十夜蛸(じうやたこ)」と云ふ。漢名「小八(せうはつ)」・「梢魚(せうぎよ)」、又、「絡蹄(らくてい)」と云ふ。大ひなる物は「セキ鮹(たこ)」と云う。又、北國邊(ほつこくへん)の物、至つて大ひなり。大抵、八、九尺より、一、二丈にして、やゝもすれば、人を卷き取りて食ふ。其の足の疣(いぼ)、ひとの肌膚(きふ)にあたれば、血を吸ふこと、甚はだ、急にして、乍(たちま)ち斃(たを)る。犬・鼡(ねつみ)・猿・馬(むま)を捕るにも、亦、然り。夜(よる)、水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり。「大和本草」に、但馬の大鮹、松の枝を纏ひし蟒(うはばみ)と爭ふて、終(つい)に、枝ともに海中(かいちう)へ引き入れしことを載せたり。

○越中冨山滑り川の大鮹は、是れ亦、牛馬(きうば)を取り喰らひ、漁舟(ぎよせん)、覆(くつかへ)して、人を取れり。漁人(ぎよにん)、是れを捕らふに、術(じゆつ)、なし。故に舩中に空寐(そらね)して待てば、鮹、窺ひ、寄りて、手を延べ、舩のうへに打ちかくるを、目早(めはや)く、鉈(なた)をもつて、其の足を切り落とし、速やかに漕ぎかへる。其の危うきこと、生死(せうし)一瞬の間(あいだ)に関(あづか)る。誠に壯子(さうし)の戰塲に赴き、命を塵埃(ぢない)よりも輕んずるは、忠、又、義によりて人倫を明らかにし、或ひは、天下の暴𢙣(はうあく)を除かんがためなり。されども、鮹の足一本にくらべては、紀信(きしん)・義光(よしみつ)か義死といへども、あわれ、物の數には、あらずかし。

 右、大鮹の足を、市店の簷下(のきした)に懸くれば、長く垂れて、地にあまれり。又、此の疣一つを服して、一日の食(しよく)に抵(あ)つとも足(た)れり、とすなり。この余の種類、人のよく知る處なれば、こゝに畧す。

○「鮹の子」は、岩に產み附けるを、「やり子」といひて、糸すぢのごとき物に、千萬の數を連綿す。是れを塩辛として「海藤花(かいとうくわ)」と云ふ。

○「タコ」とは、手多きをもつて、号(なづ)けたり。「タ」は「手」なり。「コ」は「子」にて、頭の禿(かむろ)によりて、猶(なを)「小兒」の儀なり。

 

Iidako

 

[やぶちゃん注:同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「高砂望潮魚(たかさこいひたこ)」。巻貝(赤螺)の殻を用いた漁法がよく判る。]

 

   ○飯鮹【○漢名(かんめう)「望潮魚(ほうてうきよ)」。】

攝・泉・紀・播州に多し。中にも播州高砂を名產とす。是れ、鮹の別種にして、大きさ、三、四寸にすぎず。腹内(ふくない)、白米飯(はくまいいひ)の如き物、充滿す。「食鑑」に云はく、『江東、未(いま)た此の物を見ず。安房・上総などに、偶(たまたま)是れありといへども、其の眞(しん)をしらず。』とぞ。

○漁捕(ぎよほ)は、長さ、七、八間のふとき縄に、細き縄の一尋許りなるを、いくらもならび付けて、其の端(はし)每に、赤螺(あかにし)の壳(から)を括りつけて、水中に投(たう)す。潮(しほ)のさしひきに、波、動く時は 海底に住みて、穴を求(もと)る[やぶちゃん注:ママ。「もとむ」の脱字であろう。]が故に、かの赤螺に隱る。これを、ひきあぐるに、貝の動けば、尚、底深く入りて、引き取るに用捨なし。

[やぶちゃん注:「スイチヤウ」当初、「垂釣」かと思ったが、その場合の歴史的仮名遣は「すいてう」である。そうなると、仕掛けの板に思い到った。これは丁半博奕の際の、コマ札に似ている。されば、「垂丁」或いは「水丁」ではなかろうか。これならば「すいちやう」で歴史的仮名遣として正しくなる。

「ズ蟹」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica 「大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ)」を参照されたい。

「苧(お)」「鰤」の「苧縄(をなわ)」を参照されたい。

「四、五十尋」尋の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。「四十尋」は前者換算で四十七・二四メートル、後者で六十・〇六メートル半となる。「五十尋」前者で九十・九メートル、後者で七十五・七五メートル。

「打鎰(うちかき)」「打ち鉤(かぎ)」。魚介類を引っ掛けて捕ったり、運んだり、ぶら下げたりするための鉄の鉤。

「十夜蛸(じうやたこ)」「(お)十夜」は浄土宗で旧暦十月六日から十五日まで十日十夜行う別時念仏(念仏の行者が特別の時日・期間を定めて称名念仏をすること)のこと。十日十夜別時念仏(じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえ)が正式な名称で、十夜法要とも言う。天台宗に於いて永享二(一四三〇)年に平貞経・貞国父子によって京都の真如堂(正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)。京都市左京区にある天台宗寺院)で始められたものが濫觴とされるが(現在でも真如堂では十一月五日から十五日まで十夜念仏が修せられている)、浄土宗では明応四(一四九五)年頃に、鎌倉の光明寺で観誉祐崇が初めて十夜法会を行ったのを始めとする。十夜は「無量寿経」巻下にある「此に於て善を修すること、十日十夜すれば、他方の諸佛の國土において善をなすこと、千歲するに勝れたり」という章句による(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。調べてみると、京都の真如堂のお十夜法要の際、「十夜蛸」の店が出るという複数の記載があった。このタコがマダコであるかどうかは、確認出来ないが、まあ、マダコでよかろうかい。

『漢名「小八(せうはつ)」・「梢魚(せうぎよ)」、又、「絡蹄(らくてい)」と云ふ』「本草綱目」では「章魚」で「舉魚」「𠑃魚」「石距」を掲げる(但し、「石距」は通常のタコとは異なる種としている)。なお、別に「鮹魚」を立項するが、これはタコではなく、「江湖に出づ。形、馬の鞭に似て、尾、兩岐、有り鞭鞘(べんしやう[やぶちゃん注:鞭の先につける細い革紐。])のごとし。故に名づく。」とあり、淡水産の細長い魚類かと思われる。作者は、ここは「大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」に拠っている(リンク先で「本草綱目」を電子化してある)。益軒はそこで、『○「小八梢魚(くもだこ)」、「八梢魚(たこ)」に似て、小なり。俗名「絡蹄〔(らくてい)〕」【「東醫寳鑑」。】。「本草」、「章魚」〔の〕「集解」に、時珍曰はく、『石距も亦、其の類〔(るゐ)〕なり。身、小にして、足長』〔と。〕これ、「足ながだこ」なり。』と述べている。私は、そこで、「絡蹄」については、「絡蹄」の「絡」は「まといつく・からむ・からまる」で、「蹄」は「ひづめ」で、タコの吸盤を喩えたかとし、この「足ながだこ」をマダコ科 Callistoctopus 属テナガダコ  Callistoctopus minor に比定している。

「セキ鮹(たこ)」「石鮹」か。一石(=十斗=百升=一千合)の「石」(こく)で「一石もある大田だこ」の意ではあろう。漢語の「石距」由来ではあるまい。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚(たこ)」・「石距(てなかだこ)」・「望潮魚(いひたこ)」でも、かなり詳しい注を附してあるので、是非、そちらも参照されたい。

「水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり」これはタコのかなり知られた怪奇談であるが、私は完全に都市伝説の類いであると断じている寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚」にも、『一、二丈ばかりの長き足にて、若し、人及び犬・猿、誤りて之れに對すれば、則ち、足の疣、皮膚に吮着(せんちやく[やぶちゃん注:吸着。])して、殺さざると云ふこと無し。鮹、性、芋を好(す)き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ。其の行(あり)くことや、目を怒(いか)らし、八足を踏みて立行(りつかう)す。其の頭、浮屠(ふと[やぶちゃん注:ここは僧侶の坊主頭のこと。])の狀のごとし。故に俗に章魚(たこ)坊主と稱す。最も死し〔→死に〕難し。惟だ、兩眼の中間[やぶちゃん注:ここに脳に当たる神経叢があるので正しい仕儀である。]を打たむには、則ち、死す。』とあるが、そこで私は次のように注した(古い仕儀なので、一部を修正・省略した)。これを修正する意志は私には全くない

   *

「性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ」は、かなり人口に膾炙した話であるが、残念ながら私は一種の都市伝説であると考えている。しかし、タコが夜、陸まで上がってきてダイコン・ジャガイモ・スイカ・トマトを盗み食いするという話を信じている人は結構いるのである。事実、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを聞いたことがある。寺島良安の「和漢三才図会 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚 たこ」の章にも『性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ』とあり、そこで私も以前、長々と注した。 また一九八〇年中央公論社刊の西丸震哉著「動物紳士録」等では、西丸氏自身の実見談として記されている(農林水産省の研究者であったころの釜石での話として出てくる。しかしこの人は、知る人ぞ知る、御岳山で人魂を捕獲しようとしたり(飯盒に封じ込んだが、開けて見ると消えていたともあった)、女の幽霊にストーカーされたり、人を呪うことが出来る等とのたまわってしまう人物である。いや、その方面の世界にいる時の私は実はフリークともいえるファンなのだが)。実際に全国各地でタコが畠や田んぼに入り込んでいるのを見たという話が古くからあるのだが、生態学的にはタコが海を有意に離れて積極的な生活活動をとることは不可能であろう。心霊写真どころじゃあなく、実際にそうした誠に興味深い生物学的生態が頻繁に見受けられるのであれば、当然、それが識者によって学術的に、好事家によって面白く写真に撮られるのが道理である。しかし、私は一度としてそのような決定的な写真を見たことがない(タコ……じゃあない、イカさまの見え見え捏造写真なら一度だけ見たことがあるが、余程撮影の手際の悪いフェイクだったらしく、可哀想にタコは上皮がすっかり白っぽくなり、そこを汚なく泥に汚して芋の葉陰にぐったりしていた)。これだけ携帯が広がっている昨今、何故、タコ上陸写真が流行らないのか? 冗談じゃあ、ない。信じている素朴な人間がいる以上、私は「ある」と真面目に語る御仁は、それを証明する義務があると言っているのである。たとえば、岩礁帯の汀でカニ等を捕捉しようと岩上にたまさか上がったのを見たり(これは実際にある)、漁獲された後に逃げ出したタコが、畠や路上でうごめくのを誤認した可能性が高い(タコは「海の忍者」と言われるが、海中での体色体表変化による擬態や目くらましの墨以外にも、極めて数十センチメートルの大型の個体が、蓋をしたはずの水槽や運搬用パケットの極めて狭い数センチメートルの隙間等から容易に逃走することが出来ることは頓に知られている)。さらにタコは雑食性で、なお且つ、極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつき食おうとすることは十分考えられ(クロダイはサツマイモ・スイカ・ミカン等を食う)、さらに意地悪く見れば、これはヒトの芋泥棒の偽装だったり、禁漁期にタコを密猟し、それを芋畑に隠しているのを見つけられ、咄嗟にタコの芋食いをでっち上げた等々といった辺りこそが、この伝説の正体ではないかと思われるのである。いや、タコが芋掘りをするシーンは、是非、見たい! 信望者の方は、是非、実写フィルムを! 海中からのおどろどろしきタコ上陸! → 農道を「目を怒らし、八足を踏みて立行す」るタコの勇姿! → 腕足を驚天動地の巧みさで操りながら、器用に地中のジャガイモを掘り出すことに成功するタコ! → 「ウルトラQ」の「南海の怒り」のスダールよろしく、気がついた住民の総攻撃をものともせず、悠々と海の淵へと帰還するタコ! だ!(円谷英二はあの撮影で、海水から出したタコが、突けど、触れど、一向に思うように動かず、すぐ弱って死んでしまって往生し、「生き物はこりごりだ」と言ったと聴く)。

   *

『「大和本草」に、但馬の大鮹、松の枝を纏ひし蟒(うはばみ)と爭ふて、終(つい)に、枝ともに海中(かいちう)へ引き入れしことを載せたり』前掲大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」に、『○但馬にある「大ダコ」は甚大なり。或いは牛馬をとり、又、夜泊の小舟に手をのべ、行人〔(かうじん)〕の有無をさぐると云ふ。又、夜、ひかる。丹後熱(あつ)松の海にて、蟒(うはばみ)と章魚とたゝかひ、ついに[やぶちゃん注:ママ。]蟒を、うみへ引き入る。蟒、傍(かたはら)の木にまきつきたれども、松の枝、さけて、引〔(ひき)〕しづめらる。今に、松、殘れりと云ふ。諸州にて、「大だこ」、人をとる事あり。』とある。

「越中冨山滑り川の大鮹は、是れ亦、牛馬(きうば)を取り喰らひ、漁舟(ぎよせん)、覆(くつかへ)して、人を取れり。……」有り得ません。但し、怪奇談としては、汎世界的に人気がある。私の一番のお勧めは、私の「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」である。他に、蛇が蛸に化生する話も(類感呪術的である)枚挙に暇がないほどある。やはり私の「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」或いは「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」をお読みになられたい。大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」では、「義殘後覺」(ぎざんこうかく:愚軒(事績未詳。豊臣秀次の側近の「お伽の者」の一人かとも推定されている)の作になる雑談集。写本七巻。識語に文禄五(一五九六)年暮春吉辰とある)の巻四の「大蛸の事」を電子化してもある。

「𢙣」「惡」の異体字。

「紀信(きしん)」紀信(?~紀元前二〇六年か紀元前二〇四年か?)は秦末の武将。漢の劉邦に仕えた。紀元前二〇七年の有名な「鴻門の会」で、劉邦が項羽から逃れた際、樊噲・夏侯嬰・靳彊(きんきょう)らとともに参軍として劉邦を護衛した。紀元前二〇四年の夏六月、項羽率いる十万の軍勢が滎陽城(けいようじょう)の漢軍を包囲し(「滎陽の戦い」)。兵粮が尽き、落城寸前に陥った時、陳平は劉邦に対して、紀信が劉邦に扮して楚に降服する振りをして、その隙に劉邦が逃亡する策(「金蟬脱殻(きんせんだっかく)の計」)を進言した。紀信はその献策を受け容れ、間もなく、劉邦は陳平ら数十騎とともに滎陽城を脱出した。囮となった紀信は項羽によって火刑に処された(当該ウィキに拠った)。

「義光(よしみつ)」2021621日改稿】当初、『不詳』としたが、いつも情報を頂戴するT氏より、これは「太平記」第七巻の「吉野城軍事」(吉野の城(しろ)軍(いくさ)の事)に出る村上彦四郎義光である、という御指摘を受けた。『「尊卑分脈」「梅松論」では村上彦四郎義日、「梅松論」別本は「義暉」』(孰れも「よしてる」と読む)として出、護良親王を祀った『鎌倉宮の摂社「村上社」の祭神』となっている、とお教え下さり、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「太平記」巻第七の村上彦四郎義光が自らを大塔宮を演じて凄絶な自死に至るシーン(ここの右頁左から三行目以降。自害は次のコマの左頁の四行目以下)、及び「村上義日」で出る「国立国会図書館デジタルコレクション」の「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」の系図(ここの左頁のほぼ中央)、さらに「村上彦四郎義日」で出る「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」の写本「梅松論」(書写年代は文明二(一四二〇)年)の(ここの中央の改頁の前後)、及び「村上彥四郞義暉」で出る「国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「梅松論」(日本歴史文庫)の当該部(左頁後ろから五行目)も紹介して下さった。ウィキの「村上義日」によれば、村上義光=村上義日=義暉(?~元弘三/正慶二年閏二月一日(ユリウス暦一三三三年三月十七日)は、『父は信泰。弟に国信および信濃村上氏棟梁の信貞。子に朝日、義隆。官位は従五位下、左馬権頭。通称は彦四郎。大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)に仕え、鎌倉幕府との戦い元弘の乱における吉野城の戦いで、次男の義隆と共に討死した。史料上は数行の記述が残るのみだが』、「太平記」では「村上義光」の『表記で登場し、印象的な活躍が描かれ、護良親王の忠臣として知られるようになった』(以下で「太平記」から別に私が示した)。『明治時代に従三位を追贈され、鎌倉宮村上社の祭神となった』。『村上義日(義光)に関する数少ない史料は、洞院公定編』の「尊卑分脈」であり、また、「梅松論」にも『名が見える』。諱は「尊卑分脈』」「梅松論」ともに、『「義日」の表記で記されるが』「梅松論」の別写本(「群書類従」版底本)では『「義暉」の表記が用いられている』(上記二種のリンク先がそれぞれに相当する)。『通称は彦四郎』(「尊卑分脈」・「梅松論」上巻)。「尊卑分脈」に『よれば、位階は従五位下で、官職は写本の系統によって左馬権頭とするものと右馬権頭とするものがある』。『信濃村上氏は、河内源氏の祖源頼信の次男源頼清を祖とする名門で』、「尊卑分脈」に『よれば義光の父は村上信泰とされる』。『また、国信・信貞(のち信濃村上氏棟梁)という弟と、朝日・義隆という子がいた』。『後醍醐天皇と鎌倉幕府との戦い』である「元弘の乱」(一三三一年~一三三三年)『が始まると、前半戦で敗北し』、『一度は姿をくらました護良親王(後醍醐天皇の皇子)は、後半戦で再び姿を現し、吉野城に籠城した』。『これに対し』。元弘三年/正慶二(一三三三)年の『初頭、鎌倉幕府は大将大仏高直・軍奉行工藤高景・使節二階堂貞藤(道蘊)らを将とする軍を編成』、閏二月一日、『二階堂軍の攻撃によって吉野城は落城した』。「尊卑分脈」に『よれば、この』時、『義日とその次男の義隆が討死した』とし、『義日は』「梅松論」上巻でも、『吉野城で落命した護良親王側の将として名が言及され』ている。『後述する』「太平記」に於ける『忠臣伝説が著名だが、実際には』、「吉野城の戦い」『以前の村上父子の動向ははっきりしない』。『本来、村上氏は信濃国(長野県)の御家人であり、また』、『御内人(北条得宗家の被官)として、幕府の事実上の権力者北条氏とも親しかった有力氏族』であった。にも拘わらず、『父子がいつ』、『いかなる経緯で護良親王の側近となって、吉野城で戦死したのか、歴史的実像は不明である』。『一説によれば、鎌倉時代には義日の系統は村上氏の傍系だったので、勢力拡大を目指して護良親王に接近したのではないかともいう』。明治四一(一九〇八)年、『従三位が追贈された』。『奈良県吉野郡吉野町大字吉野山にある墓所と伝えられる場所は一時』、『荒廃していたが、のち整備された』。『また、鎌倉宮村上社の祭神となった』。「太平記」では「元弘の変」の頃、『笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉(ぐぶ)した』九名の一人として『「村上義光」として登場する』。「太平記』巻第五の「大塔宮熊野落事」(大塔宮(おほたふのみや)熊野落ちの事)で、『道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬(いもせ)庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答してきた。そこで供奉し』ていた九名の内の一人、『赤松則祐(あかまつそくゆう)が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。しかし、供奉し』ていた別の一人、『平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた。 遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し』、『「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ』、四~五丈(約十二~十五メートル)ほど『かなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし』、『芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸』けて『親王一行を追いかけ』、『無事に追いついた』。『護良親王は「赤松則祐が忠は孟施舎(もうししゃ)が義のごとく、平賀三郎が智は陳平が謀略のごとし、そして村上義光が勇は北宮黝(ほくきゅうよう)の勢いをもしのぐ」と三人を褒め称えた。(注:孟施舎と北宮黝は古代中国の勇者。陳平は漢王朝の功臣)』。続いて、先にリンクで示した「太平記」巻第七の「吉野城軍事」。遂に『幕府方の二階堂貞藤が』六『万余騎を率いて吉野山に攻め入った。護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。親王は』「最早これまで」と、『最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し』、『落ち延びさせる。義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て』、『自ら』、『身代わりとなって』、「天照太神(てんせいだいじん)の御子孫、神武天王より九十五代の帝(みかど)、後醍醐天皇第二の皇子、一品(いつぽん)兵部卿親王尊仁(そんじん)、逆臣の爲に亡ぼされ、恨みを泉下(せんか)に報ぜん爲に、ただ今、自害する有樣を見置いて、汝等(なんぢら)が武運、忽ちに盡きて、腹をきらんずる時の手本にせよ。」『と叫び、切腹して自刃した。この時、自らのはらわたを引きちぎり』、『敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに』『なって絶命した』、『という壮絶な逸話が残る』。『なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍とな』って『力尽き、切腹し』、『自害した』。『村上義日(義光)の墓と伝えられる墓が、蔵王堂より北西約』一・四キロメートルの『場所にある』(奈良県観光公式サイト「あをによし」の「村上義光墓」で画像と国土地理院図での位置が判る)。『案内板によると』、『身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと知って打ち捨てられたのを』、『哀れと思った里人がとむらって墓としたものだという。墓には玉垣に囲まれた宝篋印塔と、向かって右に大和高取藩士内藤景文が』天明三(一七八三)年に『建てたとされる「村上義光忠烈碑」がある。なお、子の義隆の墓は蔵王堂より南』一・五キロメートル、『勝手神社から下市町才谷へと抜ける奈良県道』二百五十七『号線沿いにある』(ここ。グーグル・マップ・データ)とある。最後に、T氏に心から御礼申し上げる。

「やり子」語源不詳。「鎗子」で鎗の穂先をカバーするふさふさの毛物に擬えたか。

「糸すぢのごとき物に、千萬の數を連綿す」木村宏氏の「キムヒロのページ」の「幡多の海」に産みつけられたそれの写真が見られる。

「海藤花」ウィキの「海藤花」によれば、海藤花(かいとうげ)とし、『タコの卵から製される食品。兵庫県明石市の名産』。『ケシ粒大の卵粒がつらなり、たれさがるのがフジの花房に似ることから、江戸時代に明石藩の儒者』梁田蛻巖(やなだぜいがん 寛文一二(一六七二)年~宝暦七(一七五七)年:江戸中期の漢詩人。名は邦美、蛻巖は号。旗本の家臣の家柄に生まれ、江戸で育った。十一歳で幕府の儒官人見竹洞に入門し、新井白石や室鳩巣などと交流した。元禄六(一六九三)年に加賀藩に儒者として仕えたが、間もなく辞し、美濃の加納藩や播磨の明石藩に出仕した。晩年までには漢詩の大家として敬仰されるようになり、明石で没した)『によって「海藤花」と命名された』。『最初は蛸壺の中に産みつけられたのを「すぼし」にした。のちに塩漬けにもされるようになって、胎卵もしぼりとられるようになった。麹塩漬けにもするが、長くもつのは立て塩漬けである。塩出しをして三杯酢にしたのが最も酒にあうという。ざっとゆでて吸い物におとしたり、みりん醤油で甘露煮風に煮詰めたりする』とある。但し、「海藤花」は私の知る限りでは、以下のイイダコの房状卵塊を言うと心得ている(マダコよりも粒が大きい)。

『「タコ」とは、手多きをもつて、号(なづ)けたり。「タ」は「手」なり。「コ」は「子」にて、頭の禿(かむろ)によりて、猶(なを)「小兒」の儀なり』サイト「松蔭先生の蛸あらかると―語源と伝説」に、『「タコ」の語源については諸説あるが、江戸末期の「私語私臆鈔」には、「たこは多股からきている」と記されている。また、「和名抄」では、タコを「海蛸子(かいしょうし)」とあらわしている。ちなみに、「蛸」は本来はクモのことで、海に棲むクモという意味から「海蛸子」とあらわされ、それが省略されて蛸一字でタコと呼ぶようになったのだという。別の文献では、タコは手の多いことからテココラ(手許多という漢字をあてた)といわれ、これが転訛したものであるという説、あるいはタコはキンコやマナマコなどと同類の海鼠(なまこ)の類であり、手があることから手海鼠(テナマコ)とされ、それがやはり転訛してタコと呼ばれるようになったという説もある。いずれにせよタコの姿態、すなわち八本の手をもったことが語源に深く関わっているわけである』とある。

「飯鮹」マダコ属Octopus 亜属イイダコ Octopus ocellatus『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 アカダコ(スナツカミ)・イイダコ』の私の注を参照されたい。

「望潮魚(ほうてうきよ)」「ぼうちょうぎょ」は蟹のシオマネキを「望潮蟹」と呼ぶのと同じく、海浜の岩礁の浅瀬などで、イイダコが移動したり、泳ぐさまを潮を招くように見立てたものと思われる。

「播州高砂」現在の兵庫県高砂市の海浜。

『「食鑑」に云はく、『江東、未(いま)た此の物を見ず。安房・上総などに、偶(たまたま)是れありといへども、其の眞(しん)をしらず。』とぞ』「本朝食鑑」の「鱗部之三」の「蛸魚」の項に附録する。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここの右頁一行目から。「江東」は関東のこと。但し、イイダコは北海道南部以南の日本沿岸域から、朝鮮半島南部・黄海・中国沿岸域に至る、東アジアの浅海に広く分布しているので、人見の謂いは解せない。最大でも三十センチメートルにしかならないので、こんなチンケなちっこいもの、江戸っ子は食べなかったというだけの話であろう。

「七、八間」十二・七三~十四・五四メートル。

「赤螺(あかにし)」腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa

「壳(から)」「殼」の異体字。]

ブログ1,550,000アクセス突破記念 梅崎春生 亡日

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十一月号『光』初出。翌年の講談社刊の作品集「餓ゑの季節」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。文中に注を附した。

 標題は私は亡日(ぼうじつ)と読みたい。所謂、陰陽道が元の易暦で凶日とされる一つに「往亡日(おうもうにち)」があるが(外出を忌み、特に出発・船出・出征・移転・結婚・元服・建築などに不吉な日とし、一年に十二日ある)、どうも「もうにち」は響きが悪く、本作の題名としては、出征絡みではあるが、それを象徴するほど意味を持つようには思われない。彼の「幻化」と同じで、これはシンボライズされた「失われた日」であり、「失われた太陽」「失われた日々」の意であるように思われるのである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが今朝、1,550,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021620日 藪野直史】]

 

   亡  日

 

 エンジン扉(ドア)が暑苦しいおとをたてて、いっせいに閉じた。停車中しばらくしゃべりやめていた座席の老人が、それにうながされたように甲高い声で叫び出した。

「だから日本は神国というのじゃ。あらぶる神々のしろしめす国じぅあ。二千六百年もつづいた尊いくにがらじゃ」

 乗客のからだを揺って、がたんと電車は動き出した。歩廊の号笛がふたつ重なって、ホオムをへだてた向う側の線の電車も、これと同時に動き出すのが窓硝子ごしに見えた。老人は防空服の小柄な肩をいからして、あたりを見廻しながらしゃべりつづける。その眼は義眼のようにへんにキラキラして、そのくせ視線は何ものもとらえていないらしかった。真中からふたつに割れたあの厭な恰好の大きな国民帽を、此の老人はしなびた頭にのせていた。両掌で弁当箱のふたを支えていて、その中には砕いた氷の破片がなかば溶けかかっていくつも乗っていた。老人は言葉の合間にそのひとつを口に含むと、銅板を小槌でたたくような声でまた忙がしげにしゃべり出すのだ。[やぶちゃん注:「国民帽」グーグル画像検索「国民帽」をリンクさせておく。]

「……それで神風が吹かんというのか。そんなに吹いてはたまらんわい。いつもわしが言うとるではないか。あれはけんこんいってきということじゃ。建国祭の旗がばたばたじゃ。そら、真珠湾の特別攻撃隊じゃ……」

 此の暑いのに脚絆(きゃはん)を巻いたり、防毒面包をさげたり、モンペを着けたりしている乗客たちは皆、言いようのない冷淡な無感動な顔つきで、老人のくるった饒舌(じょうぜつ)を聞き流している。私は扉口の脇によりかかって、老人の座席を視野の端にぼんやり入れながら汗づく眼を見ひらいてした。

 電車は次第に速度を増して、歩廊の端を切捨てるように走りぬけ、線路の砂利の上に明確な陰影を飛ばし始めたと思うと、先刻駅を同時に発車した向うの線路の車体が、吸いよせられるように見る見るこちらに近寄って来て、そして三尺ほどの幅をへだてて平行して走り出した。それはぴったり同じ速度に重なった。向うの車体の内部が手に取るように近く眺められた。そこにはこちらと同じ服装の人々が、腰かけたり吊皮に下っていたりした。誰もこちらに注意をはらっていなかった。ただ無関心に揺られていた。腰かけに立って外を眺めている子供がひとり、興味深そうにこちらを眺めているだけだった。頭の鉢のひらいた五つ位の子供であった。何を思ったのか両掌を窓枠に支えて、顔を窓硝子に押しつけた。……顔が白っぽくへんにふやけて、アルコオル漬の胎児みたいになる。そしてそれは動く。鼻がひらたくつぶれて、なまなましい皮の断面になって行く。子供は押しつけたそのままの顔で、或る表情になった。……一一つの車体はきしみながら同じ速度で奔(はし)りつづけた。同じ方向に行く線ではない。しばらく雁行してそこらあたりから九十度の角度に分れて行く筈であった。それは私も知っている。しかしその束の間の併行の中で、向うの車の無心な子供や大人が、ゆるぎなく連結されたみたいに、私の位置と同じ速力で動いている。ある生理的な不安がふと私をとらえた。その不安は急激に私の肉体にひろがって来る。白いエナメル塗りの把手(とって)をにぎりしめたまま、私はそれに堪えようとする。――

 その瞬間、むこうの薄墨色の鋼鉄の車体はちょっと振動して、そのまま少しずつ下にずれて行くらしい。等高にあった窓々が、一寸、二寸とさがって行く。それは沈下して行く世界のように、窓硝子に畸形な子供の顔を貼りつけたまま、皆おなじ姿勢のまま沈んで行く。一尺。二尺。そしてぐっと沈み込むと、灰色にすすけた車の屋根、平たい通風孔、折り畳まれたパンタグラフ。その彼方にはすでに家家の黒い屋根が連なり見えて、視野からふりおとすように此の同伴者のすがたは消えてしまう。重復した音の流れが急に単一の轟音にかわり、そのあいだを老人の甲高い声が縫って聞えて来る。

「それが蝙蝠(こうもり)傘の骨じゃ。墓場のしきみの匂いじや。やがて空から火が降って来るぞ。みんなみんな火の中に凍えてしまうぞ」

 老人は口に含んだ氷片を勢よくはき出した。氷は床をすべって私の足もとでとまり、やがて紙のように薄くなり、そのまま透明に溶けてしまった。私はそれを眺めていた。片掌で把手を支え、片掌で内かくしを確めていた。あんな薄い紙片なのに、布地をへだてても核のように探りあてられる。それはまるで内臓の痛みのようだ。

 ――今朝私は此の紙片を受取った。それを私にわたしたのは年寄りの郵便脚夫みたいな男であった。受取った瞬間に私はその紙片が何であるかをはっきりと察知した。その男の身振りがそれを教えたからである。動悸(どうき)をおさえながら私はそれを開いた。薄い印刷面に、私の名前と参集すべき年月日だけがにじんだインクで書きこまれてあった。末尾のひときわ大きい活字は、佐世保鎮守府という活字だった。[やぶちゃん注:召集令状は各役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡しするのが普通であった。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、梅崎春生は東京市教育局教育研究所の雇員(こいん)であった昭和十七年、陸軍対馬重砲隊に召集されたが、軽度の気管支カタルであったのを肺疾患と診断されて即日帰郷となり、その年一杯、療養生活を楽しんで、職に復したものの、昭和十九年三月には、『徴兵をおそれて教育局を辞職、東京芝浦電気通信工業支社に入社。一ヵ月勤務したが、役所と違って仕事がきついので三ヵ月の静養が必要であるとの診断書を医者に頼んで書いてもらい、月給だけ貰って喜んでいたところ、六月、海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団』することとなったとある。]

(そうするとこの俺が、海軍水兵になるという訳だな)

 先刻から数十度も考えたこのことを、また意識にあたらしく浮べながら、私はぼんやり車中を見渡していた。何故みんなこんなに沈欝な顔をしてゆられているのだろう。ひとりひとりが自分の内部に折れこんだような表情をつくって、まるで仮面で外気を拒否しているようだ。あの防毒マスクを腰に下げた会社員風の男も、その隣のだぶだぶのモンペを着けた四十女も、あるいはここに寄りかかっている私も同じかも知れないのだ。それは同じなのだ。あの狂老人の言葉を、私もつめたく聞き流しているではないか。顔にわらいも浮べず、軽蔑のいろを浮べることすらしていないのだ。私はただ私のことだけ考えている。私の運命を一瞬にして変えた此の紙片すら、此の乗客たちにとっては老人の叫び声ほどの重量もありはしないのだ。

 電車ががたんと揺れて曲路(カーブ)に入るらしい。壁ぎわの床においた私の酒瓶を、私は足でぐっと支えた。いっぱい詰った酒瓶の実質的な重量感が、私の足首をやわらかく押しもどして来る。壁板に背をささえて、私は眼を窓外にはなっていた。ふと気がつくと、二百米ほどの遠方を再び高架線となって、先刻沈下した電車が微かな傾斜を奔(はし)りのぼるらしい。ひとつの車体だけでなく、七八輛の全長として眺められた。それに群がり乗った人々の姿は、もはや遠く豆粒ほどの大きさであった。そのむこうに家々がかすみ、家並の果てる彼方に巨大な積乱雲が立ちのぼり、白くあかるくかがやいていた。黄金色にはじける太陽の直射光の下を、その電車は音もなく、淡黝(あわぐろ)い柩(ひつぎ)をいくつもつらねたように、遠く線路のかなたに小さくなって行った。窓硝子だけが陽を反射してチカチカと光った。そのきらめきすらだんだん小さく幽かになって行く。まるで遠い昔に帰って行くように。……

 荒涼とした孤独の感じが、それを眺めたとき波紋のように私の胸いっぱいにひろがってきた。

 

 改札のふきんには、なにか酢に似た匂いがうすくただよっていた。私から受取った切符を指にまきつけ、その若い女駅員は視線を私の酒瓶におとし、なんだと言うような表情をした。駅のスピイカアが時々思い出したように、きしんだ声をはり上げる。

 「今日は防空服装日であります。皆さま。今日は防空服装日であります」

 駅前のアスファルトがやわらかく轍(わだち)のあとを残していた。斜陽がじりじりとそれを照りつけていた。踏切を渡って曲ると、道はしばらく線路に沿ってつづく。道の右手は二間ほどの崖になっていて、その下を線路が青黒く走っていた。蓖麻(ひま)が生えている。そして左手は雑草地となって来る。此の道をいままで私は何度か通った。通るたびにある抵抗がある。そして今日も。私は手にした酒瓶をわざと勢よく振りながら歩いた。今朝受取った召集令状を区役所に提示し、出征用酒配給切符を貰い、そして酒屋から現物を手に入れる。今日の昼はそのことで終ったのだ。何かいらいらしながら、私は役所や酒屋をかけまわっていたのだが、こうやって手に入れてしまうと、不思議にそれは落着いた重さとなって、私の腕にしっとりとしずみ込んで来る。たのしい酩酊(めいてい)の予感さえ、いま私にはあるのだ。しかしそれは感官の皮膚面だけのことだ。いらだつものは胸の奥の奥に折れ曲り、そこで眼をくらく光らせているのだ。ある終末的な感じに耐えながら、私はしらずしらず崖の縁をあぶなく歩いていた。遠く電車の音がレエルを伝ってにぶく羽音のようにひびいて来る。額の汗はふいてもふいてもしたたり落ちた。[やぶちゃん注:「蓖麻(ひま)」下剤「蓖麻子(ひまし)油」でしられるキントラノオ目トウダイグサ科トウゴマ属トウゴマ Ricinus communis の異名。種子には猛毒であるリシン(Ricin)が含まれている(解毒剤なし)。推定で東アフリカ原産とされる。]

 二町ほどもあるくと、やがて左手の雑草地が尽きるところ、小さな屋根が見えて来る。あれが天願氏の家である。近づくにしたがって屋根のトタンの照返しが、黒くぎらぎら眼を射たりした。その小さな庭の伸び切った玉蜀黍(とうもろこし)のかげに、椅子に腰かけた裸の男が見える。頭をうつむけて何か手を動かしているらしい。草いきれの小径をよぎり、破れた背戸を押したとき、気がついたように背を起した。

 「なんだ」と私はすこしおどろいた声を出した。「居たんですか。居ないのかと思った」

 ふと呆けたような眼付になって天願氏は立ち上った。かぶさった髪のしたの顔。裸の上半身は何か見ちがえるほど肉の落ちた感じであった。立ち上った膝から竹屑が散って地面に落ちた。けずり上げたのは一尺ほどの細い筆筒らしい。掌に握っているのは、よく磨ぎすまされた鋭い形の鑿(のみ)である。なにか対峙(たいじ)するように私は背を堅くして、じっと天願氏を眺めていた。大儀そうなわらいが天願氏の頰に一寸浮んだ。[やぶちゃん注:「天願氏」戦前の小説「風宴」(昭和一四(一九三九)年八月号『早稲田文学』発表。リンク先は「青空文庫」)にも登場するが、これは五高時代以来の友人で作家の霜多正次(大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:元日本共産党員)である。がモデルとされる。但し、彼は昭和十五(一九四〇)年に応召し、外地を転戦した後、ブーゲンビル島に配属され、日本の敗色が濃厚となった昭和二十年五月、オーストラリア軍に投降して、捕虜となったから、設定は全くの架空である。]

「居ないのかと思う位なら、何故訪ねて来るんだね」

 かすめるような視線が一瞬私の手の酒瓶におちて、台所の引手に身体を入れながら天願氏が私をふりかえった。

「玄関から上れよ。それとも井戸端で身体をふくかね」

「磯さん。磯さん」家の中からそんなこもったような声がした。その弱々しい調子にふと私は耳をとめた。それは夫人の声にちがいなかった。なだめるような男の声が、やはり障子の内側でした。押えた声音であったけれども若々しい響きであった。声はそれだけで止んだ。

 玄関に廻るとよごれた下駄箱に、骨の折れた古傘や火たたきが立てかけられ、紙袋から洩(も)れた防火砂が土間にざらざらこぼれていた。そこに無造作に脱ぎ捨てられた一足の靴のそばに、私は靴の紐を解いた。革と汗の臭いがただよった。それは私の靴からであった。私のと並んだその靴は、今日おろしたかと思えるほど真新しくて、形から言えばあきらかに軍隊用のものだった。私は何故となく自分の靴を土間のすみにかたよせた。足音をふと忍ばせて部屋に入ると、もはや天願氏は黒い大きな卓を前にして欝然とすわっていた。卓の上には空の湯呑がふたつ置かれていた。私はその前にきちんとすわり、暫く経って背後から酒瓶を引寄せ、湯呑にふたつともトクトクと酒を満たした。[やぶちゃん注:「火たたき」火叩き。消火用具で、竹竿の先に三十センチメートルほどに切った縄の束を付けたもの。これで叩いて火を消す。空襲時の火災のためのもの。]

「今日はいろいろお願いがあってね、何からしゃべっていいか、先ず、僕の荷物をね、しばらくあなたの家にあずかって貰いたいと思ってね、そう思って今日はやって来たんですよ」

 そう言いながら私は湯呑のなまぬるい酒をすこし含んだ。天願氏は無精鬚のはえかけた顔をややのり出して、探るような視線で私の方をしばらく見詰めていた。

「荷物って。何故?」

「布団や机、そんなものです」

「ふん」天願氏は湯呑をとりあげて、ゆっくりした動作で半分ほど飲んだ。「どこかに逃げるんだな。故郷にかえるのかい」

「あなた、そこにいるのは誰?」

 それは隣室から夫人の声であった。それと一緒に唐紙(からかみ)ががたがたと少し開いて、窓かけをおろした青暗いその部屋から、白い服を着たわかい男がぬっとこちらに入って来た。部屋のすみに膝をついてすわった。眼鼻だちはつめたい程ととのっているくせに、どこか変に粗暴な感じのする男だった。

「やはり医師を呼ばんければいけませんな。天願さん。それはあんたの責任だ」

 若い男は両掌をきちんと膝の上にそろえて、上目使いに天願氏をみつめながら低い声でそんなことを言った。こんなに暑いのに此の男はきちんと服を着ていると思うと、すこし身じろいだとたんに微かな音が鳴って、それは男の腰に下げられた短剣の鞘(さや)であった。男はそう言いながら卓上にふと不審気な視線をはしらせた。

「呼ばなくちゃいけないと僕も思うよ」

 天願氏は押えたような声でそう答えた。そして語尾を曖昧(あいまい)にぼかしたまま、また湯呑をとりあげた。

「奥さんにもお話しておいたが、私も四五日中に出撃するかも知れません。こんなことは秘密だが、こんな場合だから特に申上げるのです」

 唐紙がなかば開いたままになっていて、そこから見えるむこうの部屋の一部に私は気をうばわれていた。床がしいてあって、その上に夫人が布団によりかかってすわっているらしかった。うすぐらい中でその顔はお面のように蒼白であった。そして夫人は私の姿を認めたらしい。

「ああ、あんたなのね」あえぐような弱い声であった。身体を少し傾けながら「お酒をのんでるのね。わたし病気になってしまったのよ」

 何かしめつけられる思いで私はその声を聞いた。眼をそこから外らして私は卓の方に手を伸ばした。

「もちろん生還は考えてはいない。だから後に心を残したくないのです。そんなことは皆でやってくれなければ――」

「それは僕の責任じゃないよ」と天願氏はさえぎった。

「医者に見せたがらないのは僕じゃない。鳥子だよ」

「それは別間題です」

 男はふいに傲慢な口調になった。それから変な沈黙が来た。瓶を傾けて酒を注ぐおとが大きくひびいた。

「それで」と私は耐えきれないで誰にともなくそんな言葉を口に出した。「御病気なんですね。何時ごろからです」

「もう半月位前だ」沈欝な声で天願氏はそう言った。「そこの道で、暗いものだから線路におっこちてしまった」

 そして脾腹(ひばら)を打ったのだという。鋭い眼付でじっと見詰めていた若い男は、天願氏がとぎれとぎれその事情を話している途中でふと立ち上った。では、と言ったらしかった。部屋を出て行ったと思うと玄関の板の間に剣鞘がふれる音がし、暫くすると表の方に出て行く靴の音がした。

「――電車が丁度走って来た処でね、危く轢(ひ)かれるところだった。急停車したからたすかった」

「だって電車には前燈がついていたのでしょう?」

「そりや点いているだろうさ。何故?」

「では道は暗くなかった筈だ」

 天願氏はいきを引くようにして暫くだまった。湯呑の残りをぐっとあおった。

「暗かったのか、前燈に目がくらんだのか、それは僕は知らない。とにかく近所の人がせおって来て呉れたんだ。それから鳥子はずっと寝ているんだ」

 へんにつめたい顔になって天願氏は隣室の方を顎でしゃくった。

 それから暫く酒を湯呑に注いでは飲み注いでは飲んだ。そのあいまに堅いするめの脚をしきりに嚙んだ。隣室と境の唐紙は半ば開いたままになっていて、夫人はまた床に横になったらしい。私の眼からは今、うすい夏布団が体の形にふくらんでいるのが見えるだけである。私たちの会話は聞えないのか、それはじっと動かない。何かしゃべることが沢山あるような気持がするが、さて口に出そうとすると何も言うことはなかった。湧きあがるむなしいものを押えながら、奥歯で鯣(するめ)をしきりに嚙んだ。明日は荷物をまとめて天願氏のところに運びこむ。明後日は赤だすきなど肩にかけて、見送りもなくひっそりと東京を離れてしまう。それでもう帰って来ることはないだろう。私は水兵服を着こみ軍艦に乗せられ、遠い南の海で戦争し、やがて静かに青い海に沈んで行く。何もかもそれで終る。青じろくふやけた私の屍の中に、赤や青や斑の魚たちが巣をつくってしまうだろう。ぼんやり私はそんな想像に堪えながら、また瓶から酒を注ぎたしては飲んだ。ようやく酔いが熱く身体のすみずみに廻って来た。[やぶちゃん注:実際の梅崎春生は敗戦まで九州地区を転々とした内地勤務であった。]

「どうも少し変なんだ」と暫くして赤くなった顔をあげて、天願氏がぽつんと言った。まるで前からの話のつづきみたいな具合だった。「なんだかぼんやりして、役所に出たって面白くないもんだから、近頃はずっと休んでいるんだが、うちにじっとしているとへんに退屈でね。昨日はひとりで浅草に遊びに行ったのさ。おどろいたねえ、普通の日だというのに満員だ。男の歌手が舞台に出て来てね、気取った声で勇ましい軍歌をうたったよ。皆聞いてるような聞いてないようなぼんやりした顔で舞台を眺めているんだ。その中にいて、だんだん不安になって来た位だ。何のためにみんな木戸銭払って入って来ているんだろう。うたい終ると平土間の片すみから、ようハイクラス、という掛声がかかったよ。それでも誰も笑いなんかしない。歌い手もしろうとっぽい笑い方しながら引込んで行ったんだが――」[やぶちゃん注:「役所」梅崎春生に教育研究所への就職を世話したのは霜多であったから、彼も東京の役人(教育関係)であったものと考えられる。]

 湯呑をかざして西陽(にしび)にすかすようにした。

「ハイクラスだなんて、きっと国民酒場のウイスキイのレッテルでも思い出したんだよ。しかし何故そんなことばかりを僕は覚えているんだろう」

「それで」と私も調子を合せるように訊ねた。「それはそれとしてもね、先刻の若者はあれは海軍の士官?」

「そうなんだ」天願氏はちょっと厭な顔をしてうなずいた。「鳥子の遠縁にあたるというんで、近頃しょっちゅうやって来るのさ。東京通信隊付の海軍少尉さ。あれで学徒出陣と自称しているんだがね」

「学生上り、にしては一寸いやなところがありますね」

「近頃の学生って皆そんなもんだよ。変に悟ったような恰好で、その癖おそろしく俗才に長(た)けていてさ。あれでマルスに来ていたと言うんだが、君は覚えていないか?」

 珈琲(コーヒー)の香や莨(たばこ)の煙や、壁にかけたロオランサンの模写や、鉢植のかげから音楽が流れていたマルスの店を、私は今あざやかに思い出していた。そこでは角帽の学生たちが眼鏡をひからせながら珈琲をのんだり、ハイボールを飲んでいたりした。その二階のきたない部屋で、若い私達はひそかに何度も会合した。階段のところに見張りを立て、私達は熱心に議論したり、仕事を打合せたりした。天願氏と相知ったのも此の二階の一室だった。天願氏は錆(さ)びた特徴のある声で、常に私達をリイドした。此の会合がだんだん不活潑になって来たのは何時頃のことだろう。そして、私がそれから次第に情熱を外(そ)らして行ったのは。――世の中がなんだか変な具合になって来て、マルスが丸巣と改名させられたり、大学の軍事教練が必須課目となった頃から、私はむしろ階下に入りびたって酒ばかり飲むような男になっていた。その頃の仲間もみな四散し、昔のことなど忘れたような顔付で、常凡な会社員になったり、地方の中学教師になって行ったりした。生きていることがくるしく、私は毎夜マルスに通った。酒をのんだり、そこの女の顔をながめることが、その頃の私の唯一の生甲斐だった。取残されたという意識が、はなはだしく私を駆りたてていた。――そこの女に心から惚れていたのかどうか、私は今でもわからないのだ。しかしその給仕女の顔を見ると胸が押しつけられるような気がした。何時からこんな気持になったのか、それも覚えていなかった。私が丸巣の扉を押して入って行くと、何も言わないうちに黙って強い酒を注いで呉れた。めったに笑顔を見せない冷たい感じのする女だった。酒をのみながら私は遠くの卓から眺めているだけであった。その女の冷たい感じがどこか人を牽くらしく、その取巻の中に先刻の若い男の顔もあったような気もする。しかもそれもはっきりしていない。――ある夜、長い間の盥(たらい)廻しから出て来た天願氏をつれて、私は丸巣の扉をくぐった。天願氏は蒼くやつれて、変に元気をなくしていた。うしろめたい気持があって、私はしきりに天願氏に強い酒をすすめ私も飲んだ。酔ってから、あの女をぼくは好きなんですよ、と天願氏にささやいた。天願氏はきらきら光る眼でその女の方をじっと眺めていた。――それからどんな経過やいきさつがあったのか、私は全然知らない、二箇月も経(た)たないうちに天願氏は、その鳥子という給仕女と結婚したのだ。それから三年経つ。

 今更自分の気持をいたわってもしかたがないとは思いながら、酔いが廻って来るにつれて妙な感傷が私を領し始めていた。事態がこんなにせっぱつまっているのだから、沢山やるべきことが残っているような気がするのに、西陽(にしび)がかんかんあたる此の小さな部屋でぼんやり酒を飲んでいるということが、変にぴったりしない奇怪なことに思われだした。膜をへだてて撫でるように、真の感覚から遠ざかったものがある。時折私は思い出したように隣室をぬすみ見ながら、天願氏と調子の合わない会話をぽつりぽつりと交していた。天願氏は酔いが廻るにつれて、沈みこんでいた何ものかが表面にいらいらと浮び出るらしかった。

「近頃なんだか神経衰弱のような気味があるんだよ」天願氏は鯣(するめ)の胴を無意味にひきさきながら言った。「しきりに故郷のことばかり頭に浮んで来るのだ。僕の生れた石垣島という処はまことに大風の吹く島で、家はみんな鯣のように平たく地面に這ったような形なのだ。がじまる。びんろうじゅ。僕の生家は大きな家で、おやじが六十九にもなって、まだ生きている。ひとつ家に、おふくろとお妾と、ぼくの兄弟や甥たちが、ごちゃごちゃに、しかも仲良く住んでいるんだ。お互に愛情をもちながら平和に暮しているんだ。僕はそんな愛情が鎖のように重くて、若いときその島を飛び出したんだが、東京のように人と人の間が乾いた風土も始めのうちは面白かったけれど、近頃はもうやりきれなくなった。他人がどんなことを考えているか判らないということは、君、おそろしいことだよ」[やぶちゃん注:モデルとされる霜多は沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれである。「がじまる」バラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus macrocarpa 。沖縄ではこの大木に妖精キジムナーが棲むことで知られる。「びんろうじゅ」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu 。噛み煙草に似た使われ方をする嗜好品としての実、「ビンロウジ(檳榔子)」で知られる。]

「歳のせいですよ」と私はわらった。

「歳のせいだけでもないらしい」天願氏は渋い顔でこたえた。「だいいちそんなに僕は年寄りじゃない。まだこれでも四十だよ。四十になってぼんやり何にも判らないでいるのだ。ああ、ちょっと」掌を上げて耳をすますような恰好をした。「聞えるだろう。あれが」

 屋根の上でなにか軽いものをころがすような丸い断続した音がした。ぐるる。ぐるる。ぐるるる。そして止んだ。天願氏は手を伸ばして、畳の上にころがっていた先刻の竹の筒をひろいあげた。

「夕方になるといつもやって来て啼くんだ。あれは鳩なんだよ」

 鳩の啼声(なきごえ)がまた短くおちて来た。

「あの鳩を射落してやろうと思ってね、今日は昼からこれをつくったんだ。吹矢のつもりだよ。でももう此の吹矢を使う気持はなくなった。吹矢で鳩をおとせるものか。そんなこと判っていながら僕はせっせと此の竹筒をけずっていたんだよ。げずり上げた処に君がやって来たんだ。だから今安心して僕はのんでいる。いい酒だね、これは。よくこんな酒がいまどき手に入ったもんだね」

「――召集が来たんです。先刻言いそびれたけれど」

 湯呑を口に持って行こうとした手がはたと止って、天願氏は赤くにごった瞳でじっと私を見つめた。鳩の声が、ぐるぐるる、とおちて来た。窓におろしたすだれのむこうで、大きな夕陽がいま沈むらしかった。

「鳥子」しばらくして天願氏がかすれた声で呼んだ。「召集が来たってさ」

「聞いたわ」

 弱々しい声が隣から戻って来た。夫人はそして床の上に起きなおるらしい。湯呑をぐっとあおると、天願氏はまた酒瓶の方に手をのばした。

 

 陽が沈むと少し風が出たらしく、玉蜀黍(とうもろこし)の葉がさやさやと鳴り始めた。そのむこうの線路を電車が屋根だけ見せて時々走って行った。身体はすっかり酔っているくせに、皮膚だけがしらじらと醒めている感じだった。私達は何だか大きな身振りをしてしゃべり合っていた。こんなに酒をのむのも今夜だけだという気持が、なにか私をかなしくさせていた。天願氏は役所の仕事のことをしきりに話していた。天願氏のかかりというのは、国民学校の教員たちを道場につれて行って、みそぎをさせたり、講話を聞かせたりするのが仕事であるらしかった。

「霊火の行(ぎょう)というのがあるんだ。午前二時頃広場のまんなかに火を焚(た)いて、皆でそれを取巻くんだ。他愛もない話だよ。拝火教のたぐいさ。どんなことをするかというと、白い紙に自分の懺悔(ざんげ)や祈願を書きしるして、折りたたんだやつを順々に火の中に投げこんで行くという趣向なんだ。僕は火のそばにいてね、風に外れて燃えないままのやつを、此のあいだ三枚ばかり拾い上げたんだ。先生どもは皆深刻な顔付で投げこんで行く。どんなことを書いているかと、つまり僕はふと好奇心をおこしたわけなんだ」

 天願氏の舌はすこしずつもつれるらしかった。

「そして道場に戻ってそっと開いて見たんだ。どんなことが書いてあったと思う。何にも書いてないのだ。全然の白紙だった。三枚とも」

 惨めなわらいが天願氏の頰にうかび上って来た。

「それは想像できるな。で、天願さんはまさかそれ以来役所を休んでいるという訳じゃないでしょうね」

「いやなことを聞くんだな。いまさら俺にそんな感傷はないよ」

「ほんとうに無意味なことをやるもんですね。大人たちは」ふとにがいものが胸におちて来て、私は独白のようにそう呟いた。天願氏の顔は酔いのために少し蒼ざめて、やせた頰のあたりは凝(こ)ったように動かなかった。

「無意味だと思うかね」

「思うわ。無意味じゃないのですか、そんなことは」

 暫く卓の上に視線をおとして、やがてしみじみした声になった。

「僕の友達は皆、いまはいいところになっていてね。君には判るまいが、日本が必ず敗北すると信じていながら、それで八紘一宇(はっこういちう)の宣伝なんかしているやつも居るんだよ。もっともこいつも役人なんだがね。八紘一宇なんてそんな馬鹿げたことを、当人は毛ほども信用してやしないのだ」[やぶちゃん注:「八紘一宇」「日本書紀」に神武天皇が大和橿原(かしはら)に都を定めた際の神勅に「六合(くにのうち)を兼ねて以って都を開き、八紘(あめのした)をおほひて宇(いへ)と爲(せ)んこと、また、よからずや」とあるのに基づく。それは「八紘爲宇」の文字であるが、昭和一五(一九四〇)年八月、第二次近衛内閣が「基本国策要綱」で大東亜新秩序の建設を謳った際、「皇國の國是は八紘を一宇とする肇國(ちようこく)の大精神に基」づくと述べた(「肇國」は「建国」の意)。これが「八紘一宇」という文字が公式に使われた最初で、これ以降、「教学刷新評議会」で「國體觀念をあきらかにする敎育」を論ずる中などで頻繁に使用された。日蓮宗の「国柱会」の田中智学もしばしばこの文字を使った。すべて「大東亜共榮圏の建設、ひいては世界萬國を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、各々の國をして其の處を得せしめんとする理想」の表明であったとされる(小学館「日本大百科全書」を参考にした)。]

「しかしあんただって」私は湯呑を傾けて、酒がつめたく食道を流れおちるのを感じながら言った。「同じことですからね。あなただって日本が勝つとは思っていないですよ」

「そう。俺は思わないさ」

「そして心にもない錬成を、罪もない教師たちにやっている」

「君はそう思うだろう」少し経って天願氏は沈痛な声で言った。「――そんなこと俺にはどうでもいいんだよ。何でもないことなんだよ、俺には」

「――此の戦争がどんな意味で起りどんな具合に終るか、それを私に教えて呉れたのはあなたですからね、四年前」

「戦争には行きたくないだろうな」低い声で天願氏が私に聞いた。眼はまっすぐ私に向けられ、きらきらと光っていた。「行きたくないと言っても、もう遅いけれども」

 崖の下を轟(ごう)と電車が走りぬけ、パンタグラフのあたりから眼も醒めるようなうつくしい火花がチカチカと散りおちた。すだれ越しに私の眼はそれをぼんやりとらえていた。ある感傷が切なく私をよぎっていた。あの電車にのり、そして今夜中に遠いところに行ってしまう。どこか見知らぬ田舎町に下車して、名前を変えて一生そこの住人として暮して行く。此の感じが俄に現実性のあるものとして、私の胸を一瞬ゆすって来た。頭をあげて、私はまた口の中に酒を流しこんだ。意識がようやく四方に乱れて行くのが自分でも判った。

「白紙を燃しに来るあの教師たちの深刻そうな顔を考えると、俺はなんだかこわくなって来るよ。判っているつもりで、俺には何にも判っていないのだ。街をあるいていて、君は皆の顔がおそろしくないかね」

「おそろしい。そんな感じともちがうけれども――」私は先刻の、向う側の電車のことを想い出していた。あの水の乾上った水族館みたいな、硝子越しにうごめくひからびた人人の影を。そして窓に貼りついた病理標本の蠟(ろう)細工みたいな子供の顔が、突然あざやかに記憶によみがえって来た。

「先刻電車の中でね、氷を食ってる老人がいましたよ。何だか変なことをしゃべっていてね」そして私は口をつぐんだ。あの感じを言いあらわそうとすることが、へんに面倒になって来たのだ。天願氏はしかしそれには気もとめないらしかった。鯣(するめ)のくちばしを歯にくわえて、かりかりと嚙んだ。[やぶちゃん注:「鯣(するめ)のくちばし」タコ・イカの顎及びそこに付随する顎板。「カラストンビ」(烏鳶)のこと。]

 表の方から入って来る堅い靴の音がした。そして土間を踏む音が響いて、何かいう声がつづいた。

「どなた?」

 隣の部屋で夫人が立ち上るらしい。湯呑をおくと天願氏はすこしよろめきながら、玄関の方に出て行った。床柱に頭をもたせて私は眼をつむった。瞼のうらに紅い筋が入乱れて、身体がしんしんと奈落におちて行くような気がした。(俺は何のために今日此の家に訪ねて来たのだろう。自分のさしせまった情況を天願氏に聞いて貰いたかったのか?)

 天願氏が無縁のものであることは、数年前から私はすでに感じていたことであった。私と天願氏をつなぐものは、もはや古い交情の惰性にすぎなかった。時折私が此の家をおとずれたのは、あるいは自分の脱落した感興を、私は天願氏の上に確めたかったのかも知れなかった。あさっては東京を去るというのに、しかし今私は何を確めようとするのか。ふと玄関の会話に聞耳を立てた。

「では行って参ります。お元気で。銃後の守りを果して下さい」

 それはあの若い士官の声だった。姿を見ないせいかその声は妙に暗くひびいて来た。それから天願氏が低い声で何か言うのが聞えた。扉を開く音がして、やがて再び靴の音が遠ざかって行った。しばらくして天願氏が何か包みをもって部屋にもどって来た。卓の前にゆっくりすわった。

「こんなものを呉れたよ」

 紙が破けて軍隊用らしい莨(たばこ)が畳にこぼれ出た。なにかぎょっとして私はふりむいた。半ばひらいた唐紙に身体をもたせて、白い寝衣を着た夫人がこちらを見おろしていた。障子におちかかる黄昏のいろのせいか、顔色は紙のように光がなくて、白い寝衣におおわれた腹のあたりがへんにふくらんだ感じだった。夫人はそのままくずれるように敷居の上にすわった。

「召集ですってね。みんな次々行ってしまうのね」

 それだけ言うのさえも大儀そうだった。眼が暗くくぼんで、ふと見違えるような衰えかたであった。

「磯がいま戻って来たんだ。出撃だと言っていたから、これが最後なんだろう。お前によろしくと言ったよ」

「それも聞いていたわ。私玄関に出ようと思ったのよ。そしたらもう行ってしまった」

「出なくてもよかったんだよ」

 天願氏の声はへんにやさしかった。畳にこぼれた莨を口にもって行く指が、小魚の腹のようにぶるぶるふるえていた。夫人が天願氏をちらと眺めたその視線は、なにか氷のようにひややかだった。天願氏は黙って腕をのばして電燈をひねった。薄色の花のように燈の光が散った。

「崖からおちたって、どうしたんです」視線を夫人から外(そ)らしながら、私は低い声で聞いた。「磯少尉の言草じゃないけれど、やはり医者にお見せになったがいいですよ」

「おっこちたのよ」と夫人は肩を大きくうごかした。「歩いているとね、ふらふらっとして、それっきりなの。気がついたら線路の上にいて、皆で大さわぎしていたわ」

 線路の上に横たわっている夫人の姿が、私の想像の中でありありと浮んで来た。その想像の中では、夫人はやはり真白な衣服をつけていた。青ぐろい線路が白い夫人の身体をつらぬいて走っていて、何かひやりとするような危惧の予感が一瞬私の胸をはしった。天願氏の錆びた声がふと憎しみの響きをおびて沈黙をやぶった。その声もすでに呂律(ろれつ)があやしく乱れていた。

「死ぬ時期が来なければ、人間は死なないものだよ」

「それはそうよ」と夫人がつめたい調于でそれに答えた。

「あたしだって、まだ憎まれながら生きているんですものねえ」

 背をもたせたまま私は内ポケットの辺を指で探った。酔っていてもそれははっきり感じ当てられた。酔いのための動悸がその紙片の下で打っていた。すべてむなしいものが此処のあたりから発するのかと思うと、何か嗜虐的な快感が毒のように手足の先までひろがって来た。掌で頭を押えて天願氏が私の方にむきなおった。

「あの道を歩いて来ると、必ず崖のふちを歩きたくなるのは何故だろう?」

「あなたにこれを上げるわ。これがあたしのせんべつよ」

 夫人の掌に白い小さなかたまりが見えて、弱々しい声であった。衣(きぬ)ずれがさらさらと鳴った。それは小さな布の人形であった。天願氏の視線が動いて、食い入るようにそれをとらえたらしかった。私はそれを受取って、燈の方にかざして見た。

「かわいい人形じゃないか」

 押しつぶされたような声で天願氏が言った。人形は小豆ほどの顔に、ちゃんと眼鼻をつけていた。マッチの棒の太さの脚が、裾からわずかに伸びていた。

「有難う」

 ふと瞼のうらが熱くなるような気がして、それを胡麻化(ごまか)すために私は身体をねじり、床柱の脇にそれをぶらさげようとした。具合よく人形には紐(ひも)がついているのだった。

「ニュース映両でみたのよ。みんなそんなものを腰に下げたりしているわ。だからいま思いついたの」

「多分ぼくが貰う餞別はこれっきりですよ」

 天願氏はかすれた声で短い笑い声を立てた。

 夫人はそのまま立ち上るらしい。燈のまわりを飛び廻っていた大きな燈取虫が畳に堅い音をたてて落ちた。そして畳の上に置かれた鑿(のみ)の刃の上に足音を立てて這い上った。鑿の刃が燈の光を反射してキラリと光った。夫人の白い後姿は消えるように次の間にかくれた。

「奥さんは――」私は声をひそめて確めるつもりで天願氏に問いかけた。「おめでたじゃないのですか」

 掌で頭をおさえたまま、天願氏はじっと酒瓶の方をみつめていた。もはや酒は僅かしか残っていなかった。私の言ったことが聞えたのかそれも定かでなかった。呆(ほう)けたような表情がふとゆがむと、天願氏はまたゆっくり顔を私にむけた。

「今日は何か用事があったのかね」

「だから荷物をたのみに来たんですよ。でも考えてみると、貴方も迷惑な話でしょうね」

「迷惑じゃないが、どちらでも良いんだよ」

「どのみち東京に戻って来れる見込もないから、僕もどうでもいいのです」

 燈の影で天願氏のかおは、言いようもなく苦渋(くじゅう)にみちた暗い表情であった。とつぜん声をおとして私にささやいた。

「――君は今日鳥子にあいに来たんだろう」

 背筋をつらぬく深い悲哀が、突風のように私をおそった。私は顔をうつむけたまま、湯呑をつかんだ自分の手にじっと視線を固定させていた。私は自分の手がふるえ、そして湯呑の底が卓に音を立てるのを聞いた。額から血の気が引いて行くのがわかった。私はしばらくそれに耐え、それから顔を上げた。再び天願氏のひそめた声が耳に来た。

「それならそれでも良いのだよ。俺は責めている訳じゃない」

「僕は荷物をたのみに来たんです」

「そりゃそんな積りもあっただろうさ。しかしそんなことを俺は言っているんじゃない。俺はもう鳥子と別れようかと思っているのだ。夫婦というのは形だけで、今は何でもありゃしないんだ。鳥子だってそんなことを考えているんだ。鳥子は俺をにくんでいるんだ。君には判らないいろんなことがあるんだよ。あの夜だって鳥子はふらふらと落っこちたと自分で言うのだけれども……」

「僕は荷物をたのみに来たんですよ。ほんとに」私は天願氏の話をさえぎって、同じことを繰り返した。「僕はそんなことにもう興味をなくしているんだ」

 そうか、と天願氏は低くつぶやくように言った。そして突然ぎらぎらと濁った眼を私に固定した。それは憤怒のいろでいっぱいに見開かれていた。

「俺は君をにくむよ」押えた烈しい声であった。「今日君が意味なくやって来たということだけで、俺は君をにくむ」

 私は頰をかたくしたまま天願氏の肩越に、今玉蜀黍(とうもろこし)のむこうを走って行く電車の屋根の大きな青白いスパアクのいろを追いかけていた。それは地上のものでない美しさであった。スパアクが二三度つづくと、電線から花火のように火の粉が散り、そして闇がふかぶかとかえって来た。風が吹く音が静かに聞えて来た。天願氏も私から視線をそらし、ふと弱々しい眼付になって窓をふりかえった。電車の号笛が遠くなりひびいた。次第にあるひとつの感情が私の心の中ではっきり形を定めて来たのである。私は莨(たばこ)をいっぽん拾い上げると、マッチをすった。あのマルスの薄汚ないせまい一室で天願氏と始めて会った記億から、フィルムを巻き取るように次々と記億がいま私の胸にうかんで来た。

(俺も此の男をずっと前から憎んでいたのではないか?)

 にがいものが胸にあふれた。今更そんなことを考えついても何になるだろう。他人を愛していようと憎んでいようと、いまの私にとっては、現在という時間は既に遠い過去なのだ。あの紙片を受取った瞬間から、私の生きている現在は死んでしまった。湯呑に残った冷たい液体をぐっとのみほすと、私はなにか兇暴なものを押えかねて、ぐっと卓の下に脚を伸ばした。伸ばした膝のあたりにくりくりと触れる硬いものがあった。身体を曲げて私はそれにふれた。それはあの竹の筒であった。私はそれを握りしめた。

 なにか感応するように、天願氏はぎくりと振返った。そして私の掌の竹筒を見た。あおざめた頰に冷酷な感じのするうすわらいがぼんやり浮び上って来た。

「鳥子が線路におっこちたのは、あれは自殺するつもりだったんだよ。きっと」

 抑揚のない調子だったので、なにかあたりまえのことを言っているように聞えた。天願氏の眼は私にむいているのだが、何故か遠いところを眺めているような眼付だった。さっきの電車の中の老人の眼付に、それはそっくりだった。

「自分が死ねば、俺を困らせることが出来ると思ったに違いないのだ」

 そう言いながら、天願氏の手は卓の抽出しを開いて、何か白い小さなものをかさかさとつまみ出した。円錐(えんすい)形に紙を巻いた、それは吹矢の針らしい。腕が伸びて私の竹筒をつかんだ。

「そんなことを考えるのはお止しなさい」

「――あの翌朝、俺はそこに行って見たんだ。線路のわきに夜露にぬれて、見覚えのあるあいつの腰紐がおちていた。それは輪になっていた。拾い上げると堅く結んであったのだ。何のために輪にむすんだのだろう。膝のあたりをくくったんだろうと俺は直感した。裾などが乱れないようにね。あいつはそんなことを考える女なんだ。何故あいつが死のうとするのか。俺は何にも知らない。何も見ない。見たって何も感じはしないのだ」

 天願氏の声はだんだん努力するような押えた口調になり、額から脂汗がしきりに滲み出て来た。指は絶間なくうごいて、針を筒の中に押しこむらしかった。

「しかしそんなことはどうでもいいのだ。俺がいちばん厭なのは、そんな鳥子を、俺がどうにもしないで放っておくより仕方のないことなんだ。つまり俺には何も判らなくなっているんだ。俺は自分の気持さえ判らなくなっているんだよ。今日も磯がやって来たのに、俺はあのかんかん日の当る裏庭で、一所懸命になって竹筒をこしらえていた。汗がむちゃくちゃに背中から流れた。しかし俺は、此の吹矢で射落される鳩の恰好をしきりに想像しながら、之を削っていた――」

 天願氏は急に言葉をやめて、凝結したような眼付をひとところに定めた。ある予感が突然つめたく私をおびやかした。私は天願氏の視線を追いながら身体をよじった。

 床柱のかげに白い小さな人形がふらふらと風に揺れていた。それは絞首台に下げられた人間の形にも見えた。ふと視野がぼやけると白い小さな人の形は二重にも三重にもみだれ散った。私はその瞬間、錯乱に傾こうとするものを必死に耐えていた。滲んだ視野の中で、天順氏は竹筒をゆるゆると唇に持って行くらしい。燈にかげった天願氏の顔は、仮面のように青白く表情をうしなっていた。私はひとつの終末のように、白い人形がするどい吹矢針で柱にぬいつけられる瞬間を、そしてその瞬間の戦慄を予覚しながら、次第に身体を天願氏の方に乗り出して行った。

2021/06/19

日本山海名産図会 第四巻 八目鰻

 

Yatumeunagi

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。キャプションは「諏訪湖八目鰻(すはのうみやつめうなき) 赤魚(あかうを)を採(と)る」であるが、「赤魚」(「石斑魚」=ウグイ)は描き込まれていない。所謂、「手繰り網」である。]

 

   ○八目鰻(やつめうなき)

江海、所々、是れ、有り。就中(なかずく)、信刕諏訪の海(うみ)に採る物を名產とす。上諏訪・下諏訪の間(あいだ)一里許りは、冬月、氷、滿ちて、其の厚さ、大抵、二、三尺に及ぶ。其の寒極まる時は、かの一里ばかりの氷の間に、あやしき足跡つきて、一條の道をなせり。是れを「神のおわたり」と号(なづ)けて徃來の初めとす。此の時に至りて、鰻を採れり。先つ、氷のうへに小家(こや)を營むなり。是れを建つるに、火を焚きて、穴を穿ち、其の穴に柱を立てて、漁子(れうし)の休(いこ)ふ所とす。又、䋄、或は縄を入るべきほどほどをはかり、處々(ところどころ)を穿(うが)つにも、薪(たきゝ)を積み焚き、延繩(はへなは)を入れ、共餌(ともゑ)を以つて釣り採る事、其の數、夥(おひたゝ)し。氷なき時は、「うなぎ搔(かき)」を用ゆ。又、此の海に「石斑魚」多し。一名(めう)「赤魚」又「赤腹」とも云ふ。是れは「手操䋄(てくりあみ)」を竹につけて、氷の穴より、入れ、外の穴へ通して、採る也。

附記

○「本草綱目」に『鱧(れい)』といふは、『眼(め)の傍(かたはら)に七ツの星あり』といふに付きて、今、此の魚に充てたり。或云、「今も漢渡(からわた)りの『鱧』は一名(めう)『黒鯉魚(こくりぎよ)』と云ひて、形、鰡(ほら)に似て小さく、鱗、大きく、眼の傍に七ツの星あり。全身、脂黒色(しこくしよく)にして、深黑色(しんこくしよく)の斑点(まだら)あり。華人、長嵜に來り、是れを『九星魚』といふ。」。然れども、星は七ツなり。和產にあることなし。恕庵先生、八目鰻に充てたるは、誤りなり。

近來(きんらい)、「南部にて、一種、首に七星(しちせい)ある魚を得て、土人、『七星魚(しちせいぎよ)』といふ。是れ、本条の『鱧(れい)』のたぐひにや否や、未だ其の眞(しん)を見ず」と云々。「本朝食鑑」に說くところの「鱧」は、『涎沫(ゑんまつ)多く、狀(かたち)、略(ほゞ)鰻鱺(うなき)或ひは海鰻(うみうなぎ)の類(たぐ)ひにて、大いなるもの、二、三尺餘り、背に白㸃の目の如き物は九子(きうし)あり。故に「八目鰻」と号(なづ)く。其の肉、不脆(もろからず)。細刺(こほね)多くして、味、美ならず。唯(たゞ)藥物の爲に採るなり』と云々。案ずるに、「本草」の「鱧」の条下に疳疾(かんしつ)を療(りやう)ずることを載せざれば、「鱧」は「鱧」にして、此の「八目鰻」と別物なる事、明かなり。又、「食鑑」に云ふところは、疳疾の藥に充てゝ、此の八目鰻なること、疑ひなくいひて、「鱧」の字に充てたるは、誤りなるべし。所詮、今の「八ツ目鰻」、疳疾の藥用にだにあたらは、漢名の論は無用なるへし。

[やぶちゃん注:「生きた化石」である、

脊椎動物亜門無顎上綱(円口類=無顎類) 頭甲綱ヤツメウナギ目ヤツメウナギ科 Petromyzontidae

に属する生物で、北方系種である。体制が似ているために「ウナギ」の呼称がつくが、生物学的には、タクソン上、魚上綱に含まれないため、魚ではないとする見解さえあるが、では、その習性から魚に付着して体液を吸引する魚類寄生虫とするのも、私には馴染まない気がする。複数種が知られるが、本邦の場合、食用有益種としては、同科の、

ヤツメウナギ目 Petromyzontiforme のカワヤツメ(ヤツメウナギ)Lampetra japonica (変態後の成体の口は吸盤状で顎に骨がなく、大形の魚の外部に吸着、鋭い歯で皮膚を食い破り、口の中にある一対の口腔腺(こうこうせん)からランヘリデン(lanpheridin)という粘液を出し、これで、寄生主の血液の凝固を防ぐとともに、赤血球や筋肉を溶かして摂餌する寄生種である。このため、サケ・マス類などの有用魚に致命的な被害を与えることがある)

スナヤツメ Lethenteron reissneri(幼生のアンモシーテス(Ammocoetes)期は眼がなく、ミミズのように見え、デトリタスや藻類などを食べているが、四年後の秋に成体になり、十四〜十九センチメートルで変態して眼が現れるものの、一方で体内の消化系が消滅してしまい、翌春の産卵期を過ぎて死ぬまで、本種は何も食べない。春に産卵するや、そこで寿命を終えてしまう非寄生種である)

に限られる「大和本草卷之十三 魚之下 八目鰻鱺(やつめうなぎ)」を見られたい。但し、ここでは諏訪湖を名産とするが、長野県水産試験場環境部武居菫氏の論文「諏訪湖魚類目録を検証する」PDF・『陸水学会甲信越支部会報』第三十三号所収(二〇〇七年十二月発行))によれば、カワヤツメ・スナヤツメともに現在は諏訪湖では絶滅している模様である。

「江海、所々、是れ、有り」種によって降海型と陸封型に大別される。カワヤツメは降海型で、変態した若魚は二~三年、海を回遊し、繁殖期になると、再び河川を溯上する。スナヤツメは陸封型で、秋に変態した後、翌年の春から初夏の繁殖期までの、生涯の残りの期間も河川下流の淡水域で過ごす。現在、太古にカワヤツメの一部が何らかの理由で陸封され、分化したものと考えられている。

「上諏訪・下諏訪」諏訪湖の東岸を上諏訪、北岸を下諏訪と呼称する。グーグル・マップ・データを参照されたい。この間の湖岸は実測で四キロメートル(「一里許り」)ほどある。

「神のおわたり」所謂、琵琶湖で知られる「御神渡り」である。ウィキの「諏訪湖」によれば、『冬期に諏訪湖の湖面が全面氷結し、氷の厚さが一定に達すると、昼間の気温上昇で氷がゆるみ、気温が下降する夜間に氷が成長するため「膨張」し、湖面の面積では足りなくなるので、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがる』。『この自然現象を御神渡り(おみわたり)と呼び、伝説では上社の男神が下社の女神のもとへ訪れに行った跡だという。御神渡りが現れた年の冬には、無形民俗文化財に指定されている御渡り神事(みわたりしんじ)が、八剱神社の神官により諏訪湖畔で執り行われる。御渡り神事では、亀裂の入り方などを御渡帳(みわたりちょう)などと照らし、その年の天候、農作物の豊作・凶作を占い、世相を予想する「拝観式」が行われる。古式により「御渡注進状」を神前に捧げる注進式を行い、宮内庁と気象庁に結果の報告を恒例とする。尚、御神渡りはその年の天候によって観測されないこともあるが』、『注進式は行われ、その状態は「明けの海(あけのうみ)」と呼ぶ』。『御神渡りは、できた順に「一之御神渡り」、「二之御神渡り」(古くは「重ねての御渡り」とも呼んだ)、二本の御神渡りが交差するものは「佐久之御神渡り」と呼ぶ。御渡り神事にて確認・検分の拝観がなされる』。『御神渡りは湖が全面結氷し、かつ氷の厚みが十分にないと発生しないので、湖上を歩けるか否かの目安の一つとなる』。但し、『氷の厚さは均一でなく、実際に氷の上を歩くのは危険をともなう』。『平安末期に編纂された』西行の歌集「山家集」に『「春を待つ諏訪のわたりもあるものをいつを限にすべきつららぞ」と記されていること』、室町時代の応永四(一三九七)年、『諏訪神社が幕府へ報告した文書の控え』である「御渡注進狀扣」に「當大明神御渡ノ事」と『あることから、古くは平安』『末期頃には呼称があったとされている』とある。

「共餌(ともゑ)」釣糸の上と下に針を結び、そこに同じ餌を付けたものを言う。

「うなぎ搔(かき)」長い柄の先に鉤(かぎ)を付けた道具。泥の中を掻いて、鰻を引っ掛けて捕る。

「石斑魚」「赤魚」「赤腹」条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Pseudaspius hakonensis のこと。「大和本草卷之十三 魚之上 ウグヒ (ウグイ)」を参照されたい。先の武居氏の論文に、湖の深層に生息し、五~八月頃、河川に遡上して石礫に産卵するが、『近年』、『著しく減少』とあり、危ぶまれる。

「手操䋄(てくりあみ)」であるが、図の画面の下方のそれはまさに「竹につけて、氷の穴より、入れ、外の穴へ通して、採る」手法を描いていて面白い。

『「本草綱目」に『鱧(れい)』といふ』「本草綱目」の巻四十四の「鱗之三」に(囲み字は太字に代えた)、

   *

鱧魚【「本經上品」。】

釋名 蠡魚【「本經」。】・黑鱧【「圖經」。】玄鱧【「埤雅」】・烏鱧【「綱目」。】鮦魚【音「同」。「本經」。】・文魚【時珍曰はく、『鱧、首、七星、有。夜、北斗に朝(てう)し、自然の禮、有り。故に之れを「鱧」と謂ふ。又、蛇と氣を通じ、色、黑し。北方の魚なり。故に「玄」「黑」の諸名、有り。俗に「火柴頭魚」と呼ぶ。卽ち、此れなり。其の小なる者、「鮦魚」と名づく。蘇頌が「圖經」に「毛詩」の諸註を引きて、『「鱧」は、卽ち、「鯇魚」と謂ふは誤れり。今。直きに削り去りて辯正を煩はさず。』と。】

集解 【「别錄」に曰はく、『九江・池澤に生ず。取るに、時、無し。』と。弘景曰はく、『處處に、之れ、有り。言はく、「是れ、公蠣蛇(こうれいだ)の化する所なり。然れども亦、相生の者も有り。性、至つて死に難し。猶ほ、蛇の性、有るなり。」と。時珍曰はく、『形、長く、體、圓(まど)かにして、頭・尾、相ひ等し。細き鱗、玄色。斑㸃の花文(くわもん)有り。頗る蝮蛇に類す。舌、有り、齒、有り、肚、有り、背・腹に鬛(ひれ)有りて、尾に連(つら)なる。尾、岐、無し。形狀、憎むべく、氣息、鯹(なまぐさ)く惡し。食品として卑(ひ)なる所とす。南人、之れを珍とする者の有り。北人、尤も、之れを絕つ。道家、指して、水厭[やぶちゃん注:水の咒(まじな)いか。]を爲す。齋籙[やぶちゃん注:占術を行うことか。]に忌む所なり。』と。】

肉 氣味 甘、寒。毒、無し。瘡(かさ)有る者は食ふべからず。人をして瘢白(はんぱく)[やぶちゃん注:「はたけ」のような皮膚疾患か。]ならしむ【「别錄」に、源曰はく、『小毒、有り。益、無し。宜しく之れを食ふべからず。』と。宗奭(そうせき)曰はく、『能く痼疾を發す。病ひを療することも亦、其の一端を取るのみ。』と。】

主治 五痔を療し、濕痺・面目浮腫を治す。大水を下す。【「本經」に弘景曰はく、『小豆に合はせ、白く煮て、腫滿を療す。甚だ効あり。』と。】大小便・壅塞氣を下す。鱠に作(な)し、脚氣・風氣の人、食して良し。【孟詵。】妊娠の水氣有るを主(つかさど)る【蘇頌。】

[やぶちゃん注:以下、「附方」が続くが、処方出来る病態・作用のみの見出しを示す。]

 十種水氣死に垂たる

 一切氣を下す

 腸痔の下血

 一切の風瘡

 兒を浴して痘を免(まぬか)る

腸及び肝 主治 冷敗瘡中に蟲を生ずるもの【「别録」】、腸、五味を以つて炙り、香にして痔瘻及び蛀骭瘡(ちゆうかんさう)に貼(てん)ず。蟲を引きて盡くるを度(たびたび)爲せり【「日華」】。

膽 氣味 甘、平。「日華」に曰はく、『諸魚の膽、苦(も)し惟(た)だ、此の膽の甘くせば、食ふべし。異なりと爲すなり。臘月、收め取りて陰乾す。主治 喉痺、將に死えんとする者に、少し許りを㸃じ入るれば、卽ち、差(おさ)ふ。病ひの深き者の水に調(ととの)へて之れを灌(そそ)ぐ。』【「靈苑方」。】と。

   *

興味深いのは、この次の項が「鰻鱺魚」(ウナギ)だということで、以上の記載から見ても、ヤツメウナギ類を書いていることは明白である。なお、言わずもがなであるが、現行では本邦では「鱧」は「はも」で、条鰭綱ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus を指す。同じニョロニョロ系であるのは面白い。「大和本草卷之十三 魚之下 鱧魚(れいぎよ)・海鰻(はも) (ハモ・ウツボ他/誤認同定多数含む)」の私の注も、この漢字の問題を浮き彫りにしてあるので、参考になろう。

「黒鯉魚(こくりぎよ)」こりゃ、アカンて! ただの黒いコイやないかい!

「鰡(ほら)」ボラ目ボラ科ボラ Mugil cephalus「大和本草卷之十三 魚之下 鯔魚(なよし) (ボラ・メナダ)」を参照されたい。まあねえ、河川の中流域まで遡上はするがねぇ、ヤツメウナギとボラのどこが似とる言うとんのや?

『華人、長嵜に來り、是れを『九星魚』といふ。」。然れども、星は七ツなり。和產にあることなし。恕庵先生、八目鰻に充てたるは、誤りなり』「九子(きうし)」ヤツメウナギ類の鰓孔は、眼の後方やや離れた位置に体幹に平行に七つあるが、鼻が頭の背面に一つだけあり、これを加えると、九つになるのである。ウィキの「ヤツメウナギ」によれば、ドイツ語でも、これに基づき、「ヤツメウナギには九つの眼がある」と考え、「九つの眼」を意味する「ノインアウゲン」(Neunaugen)と彼らを呼んでいる、とある。間違っとるのは、恕庵先生やない! 作者である御前やねん! 「恕庵先生」は江戸中期の本草学者の松岡恕庵(じょあん 寛文八(一六六八)年~延享三(一七四六)年)。名は玄達。恕庵は通称。怡顔斎(いがんさい)と号した。京都出身。儒学を学び、古典の動植物を理解するため稲生若水(いのうじゃくすい)に師事し、奥義を究めて本草学の大家となり、医学にも精通した。質素な生活とは対照的に、多数の蔵書を国書と漢書に区分し、二棟の大書庫に収め、学者の面目に徹した。享保六(一七二一)年には幕府に招かれ、薬物鑑定に従事した享保一一(一七二六)年には蘊蓄を傾けや「用薬須知」(ようやくすち)五巻を著した。これは動植物の品類・形態・産出状況・方言などを記載し、博物学的本草学の価値を高めた名著とされる。他にも「本草一家言」・「食療正要」・「桜品」・「菌品」など貴重な著書が多数ある。小野蘭山・戸田旭山ら、著名な門人も多い。

『「本朝食鑑」に說くところの「鱧」は、『涎沫(ゑんまつ)多く、狀(かたち)、略(ほゞ)鰻鱺(うなき)或ひは海鰻(うみうなぎ)の類(たぐ)ひにて、大いなるもの、二、三尺餘り、背に白㸃の目の如き物は九子(きうし)あり。故に「八目鰻」と号(なづ)く。其の肉、不脆(もろからず)。細刺(こほね)多くして、味、美ならず。唯(たゞ)藥物の爲に採るなり』と云々』「本朝食鑑」巻之九の「鱗部之三」の「江海無鱗三十七種」の「鱧」。国立国会図書館デジタルコレクションのここ

『案ずるに、「本草」の「鱧」の条下に疳疾(かんしつ)を療(りやう)ずることを載せざれば、「鱧」は「鱧」にして、此の「八目鰻」と別物なる事、明かなり。又、「食鑑」に云ふところは、疳疾の藥に充てゝ、此の八目鰻なること、疑ひなくいひて、「鱧」の字に充てたるは、誤りなるべし。所詮、今の「八ツ目鰻」、疳疾の藥用にだにあたらは、漢名の論は無用なるへし』ぐちゃぐちゃだ! 「疳疾を療ずる」とは出典は何だ?! 何故、出さない?! 多分、高い確率で、君の言っている見解は「誤り」だぜ! 御前の杜撰に俺は、正直、怒りをさえ、感ずるね。]

『自由と孤独と怠惰そして憂鬱――それが僕の全財産だった』

『自由と孤独と怠惰そして憂鬱――それが僕の全財産だった』
 Drieu  La Rochelle / Louis Malle
            " LE FEU FOLLET "

2021/06/18

日本山海名産図会 第四巻 鱒

 

Masu

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。キャプションは「越中神道川之鱒(えつちうしんとうかわのます)」。「道」はママ。岐阜県及び富山県を流れる神通川(じんずうがわ・じんづうがわ・じんつうがわ)を「神道川」と呼んだ事実はないと思われるので、誤字であろう。]

 

   ○鱒(ます)

海鱒(うみます)・川鱒(かわます)二種あり。川の物、味、勝れり。越中・越後・飛驒・奧州・常陸等(とう)諸國に出づれども、越中神道川の物を名品とす。卽ち、「䱒(しほびき)」として納め來たる。形は、鮭に似て、住む處もおなしきなり。鱗、細く、赤脉(せきみやく)、瞳を貫き、肉に、赤刺(こほね)、多し。是れを捕るに、「乘川網(のりかわあみ)」といふて、橫七尺、長さ五尋の袋䋄(ふくろあみ)にて、上にアバを付け、下に岩をつけて、其の間(あひだ)、わづか四寸許りなれども、アバは浮き、イハは沈みて䋄の口を開けり。長き竹を、網の兩端に付けて、竹の端(はし)をあまし、人、二人づゝ乘りたる「スクリ船」と云ふ小船二艘にて、䋄をはさみて、魚の入(い)るを待ちて、手早く引きあげ、兩方より、しぼり寄するに、一尾(び)、或は、二、三尾を得るなり。魚は、流れに向ふて游(ゆ)く物なれば、舟子(ふなこ)は逆櫓(さかろ)をおして、扶持(ふち)す。

○鱒の古名は「腹赤(はらあか)」と云ふ。「年中行司」、腹赤の熟(にへ)を奏す歌に、

   初春の千代の例(ためし)の長濱に釣れる腹赤(はらあか)も我君(わかきみ)のため

毎年(まいねん)正月元日、天子に貢(こう)す。若(も)し、遲參の時は、七日に貢す。是れ、「日本紀(にほんき)」景行天皇十八年、玉杵名(たまいな)の邑(いう)より渡る、と云ふ時に、海人の献(たてまつ)りし例(れい)を以て、今に不絕(たへず)、貢(みつ)ぎ奉れり。故に是れを「熟(にへ)の魚(うを)」とも云へり。長濱は、其の郡中にして、又、長渚(ながす)とも云ふ。

○「和名抄」には、「鰚魚(はらか)」又、「鱒」と二物(ぶつ)に別かてり。「鰚(はらか)」は字書に見る事なし。國俗なるべし。或云、今、元日に腹赤の奏を、御厨(みくり)に於いて鮭を用ゆることもあれば、若し、鱒・鮭ともに「腹赤」といふも、知るべからず。

○鮭の子を「ハラヽゴ」と云ふは、「腹赤子(はらあかご)」の轉にも有るか、と云へり。 又、稻若水(たうじやくすい)は、『鱒は、卽ち、淵魚(ゑんぎよ)にして、俗にヲヒカハと云ふ物なり』とも、いへり。されば、「和名抄」に二物に分かてる物、其の故、しかるや。かたがた、さだかならず。尚、可ㇾ考(かんがうべし)。「ヲヒカハ」ゝ、腹赤き魚也。

[やぶちゃん注:私は「大和本草卷之十三 魚之上 鱒 (マス類)」で細かく考証したが、その冒頭注で、

   *

「鱒」の指す「マス」とは、現在でも特定の種群を示す学術的な謂いでは、実はない。広義には、サケ目サケ科Salmonidae に属しながらも、和名の最後に「マス」が附く魚、又は、日本で一般にサケ類(ベニザケ・シロザケ・キングサーモン等)と呼称され認識されている魚以外の、サケ科の魚を総称した言い方であり、また、狭義には以下のサケ科タイヘイヨウサケ属の、

サクラマス Oncorhynchus masou

サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae

ニジマス Oncorhynchus mykiss

の三種を指すことが多い。また、「マルハニチロサーモンミュージアム」のQ&Aでは、英語圏では原則的には『淡水生活をおくるものをトラウトtrout(日本語訳はマス)、海に降るものをサーモンsalmon(日本語訳はサケ)と呼び、サケの仲間を区別して』いるとし、『日本語でも、サケ属の中で降海する種にはサケを、サケ科の中で淡水生活をおくる種にはマスと付けた名称が使われてい』るとするのだが、その言葉の直後で、その区別は洋の東西を問わず、かなり曖昧である、とも言っている。

   *

ここでの記載も、産地が明記されていても、また、「海鱒(うみます)・川鱒(かわます)二種あり」と断定して言っていても、特定種への同定は軽々には出来ないように思われるが、しかし、現在の富山名産の「鱒寿司」に使用されているのは、サクラマス Oncorhynchus masou とされる。

「䱒(しほびき)」しっかり塩をまぶした正統な塩漬けである。「大和本草卷之十三 魚之下 (しほうを) (塩漬け)」を参照されたい。

「鮭」条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta大和本草卷之十三 魚之上 鱖魚 (サケ)」を参照。

「赤脉(せきみやく)、瞳を貫き」瞳と言っているのが不審であるが、これは鰓から尾鰭にかけての体側部に、赤から赤紫色の太い縦縞の模様があるニジマスのことを言っているようには読める。

「乘川網(のりかわあみ)」この呼称は現行では残っていないようである。

「アバ」浮き。

「岩」後の「イハ」とともに錘(おもり)のこと。古くは実際の岩を用いた。

「スクリ船」語源不詳。本来は古式の刳り舟で「素刳り舟」だったのではないかと思うのだが、図のように二艘で挟んで鱒を「掬う」様子からは「すくり」は「掬ふ」の転訛のようにも感じられる。

と云ふ。小船二艘にて、䋄をはさみて、魚の入(い)るを待ちて、手早く引きあげ、兩方より、しぼり寄するに、一尾(び)、或は、二、三尾を得るなり。魚は、流れに向ふて游(ゆ)く物なれば、舟子(ふなこ)は逆櫓(さかろ)をおして、扶持(ふち)す。

『「年中行司」、腹赤の熟(にへ)を奏す歌に』『初春の千代の例(ためし)の長濱に釣れる腹赤(はらあか)も我君(わかきみ)のため』出典不詳。当初、平安時代の「年中行事絵巻」かと思ったが、復刻の現存品には詞書がない。「熟(にへ)」は「贄(にへ)」で、元来は神に供える神饌であるが、天皇の食膳に供されるために諸国から調進される食物をさすそれに転じたものであろうが、「熟」は誤字や当て字ではなく、塩にしっかり漬けて「熟(な)らしたもの」の謂いを含んだ換字であろう。

『「日本紀(にほんき)」景行天皇十八年、玉杵名(たまいな)の邑(いう)より渡る、と云ふ時に、海人の献(たてまつ)りし』景行天皇十八年(西暦機械換算八八年)の六月の条に、

   *

癸亥六月辛酉朔癸亥。自高賴縣渡玉杵名邑。時殺其處之土蜘蛛津頰焉。

   *

とある。「玉杵名(たまいな)の邑(いう)」とは現在の熊本県玉名市(たまなし)の菊池川周辺か。玉杵名大橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に名が残る。

「長濱は、其の郡中にして、又、長渚(ながす)とも云ふ」前の玉名市の西に接する海浜の熊本県玉名郡長洲町(ながすまち)であろう。

『「和名抄」には、「鰚魚(はらか)」又、「鱒」と二物(ぶつ)に別かてり。「鰚(はらか)」は字書に見る事なし。國俗なるべし』「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部」第三十の「龍魚類」第二百三十六の三丁目に、

   *

鰚魚(ハラカ) 「辨色立成」に云はく、『鰚魚【「波良可」。音「宣」。今、按ずるに、出づる所、未だ詳らかならず。「本朝式」に「腹赤」の二字を用ゆ】。』と。

   *

とし、後の七丁目に、

   *

鱒(マス) 「七卷食經」に云はく、『鱒【「慈」「損」の反。】一名は「赤魚」【和名「万須」。】』と。「兼名苑」に云はく、一名は「鮅」【音「必」。】。鯶に似て、赤目なる者なり。

とある。「鰚」は一説に鮸(にべ:スズキ目スズキ亜目ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii )、一説に鱒の別名とする。「辨色立成」は奈良時代八世紀の成立とされる字書であるが、散佚して原本はない。「兼名苑」唐の釈遠年撰とされる字書体語彙集だが、散佚。「鮅」鱒或いはカワムツ(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii )を指すとされる。「鯶」クセノキプリス亜科ソウギョ(草魚)属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus を指す。中国原産だが、明治時代に人為移入された。

「稻若水(たうじやくすい)」江戸中期の本草学者稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)。名は宣義、若水は号であったが、自ら稲若水(とうじやくすい)と改名した。儒医稲生恒軒を父として江戸に生まれ、元禄六(一六九三)年、加賀藩主前田綱紀に儒者・本草家として召し出された。「庶物類纂」一千巻の編述を志し、綱紀の後援のもとに作業を始めたが、三百六十二巻を完成しただけで惜しくも没した。これは中国文献にある動植物の記事を集録したもので、名物学・博物学の傾向が強い本草書である。

「ヲヒカハ」コイ科クセノキプリス亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus 。]

譚海 卷之四 水戶光圀卿水練幷前身を知り給ふ事

水戶光圀卿水練幷(ならびに)前身を知り給ふ事

○黃門光圀卿水戶入部のとし、中川と云(いふ)湊にてはだかにて舟より水中ヘ入給ふ、近從騷動大形(おほかた)ならず。第三日の朝水上にうかび出、壺を一つ抱(かかへ)て出られたり。其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ、「中川」とて第一の祕器なりとぞ。又其年水戶御領の神社佛閣の内陣をひらかせ、自ら殘りなく拜せられ、祕佛といへども自身鍵を明(あけ)御覽ぜられしに、何の八幡宮とかやの御戶牢(かた)くとざしてあかざりつるを、山中雲平といふ士に仰(おほせ)有(あり)て明(あけ)させられしとき、覺えず脇指(わきざし)はしりぬけて、雲平右の手を切落したり。それより雲平御奉公をやめ隱居せしとぞ。光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし、たしかなる證を水戶に得給ひ、則(すなはち)埋骨の地に寺をたて、公儀へ御朱印地に御願(おんねがひ)有、免許の後(のち)無二亦寺(むにやくじ)と號せるとぞ。

[やぶちゃん注:「黃門光圀卿」常陸水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年:よく言われる黄門は古代の国政を掌った太政官中納言の唐名黄門侍郎の略。光圀は没する十年前の元禄三(一六九〇)年に員外権中納言に任ぜられたことによる)稱代藩主徳川頼房三男。水戸城下柵町(さくまち:現在の水戸駅周辺に当たる茨城県水戸市宮町の内。南東に接して旧名の柵町が残る)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれた。光圀は強烈な儒教崇拝の排仏派で(父以降の藩主の葬送は儒式で行われ、墓地も独特な石棺と廟であり、茨城県常陸太田市瑞龍町の瑞龍山にある墓域(グーグル・マップ・データ航空写真拡大。以下同じ)には一般人は立ち入ることが出来ない)自身の発案になる生涯ただ一度の長旅(「水戸黄門」は真っ赤な嘘で、藩内は精力的に巡検しているが、他には日光東照宮・勿来・熱海ぐらいしか行っちゃいないのである)である鎌倉への途次、六浦では石製地蔵像を縛って引き倒し、損壊して歓喜するなどの乱暴狼藉を働いており、「大日本史」「新編鎌倉志」(私はサイトのこちらで全篇を電子化注してある。また、その濫觴である「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)の電子化注もブログで完遂している)などの指揮は高く評価するが、人間的にはかなり異常行動(辻斬りや成敗と称した家臣の殺人を含む。ここでの山中雲平の脇差が走り抜けて右手を切断というのもすこぶる怪しい)の見られる近づきになりたくない人物である。詳しくは当該ウィキなどを参照されたい。

「入部」最初に彼が水戸城に入ったのは寛永九(一六三二)年(翌寛永十年十一月に世子と決められた)だが、藩主としてではなく、しかも数え五歳であり得ない。寛文元(一六六一)年七月二十九日、父頼房が水戸城で死去しており、この時が、最初の入部で数え三十四である(正式な藩主就任は八月十九日)。元禄三(一六九〇)年十月十四日に六十三で隠居しているから、その間の二十回ほどの参勤交代の、まあ、初期の話であろう。

「中川と云(いふ)湊」茨城県ひたちなか市和田町の那珂川河口の那珂湊港であろう。但し、こんな海辺は正規の参勤交代のルートではないはずである。まあ、彼ならやりかねないことではある。

「第三日の朝水上にうかび出」それはないでショウ?!

「壺」「其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ」『「中川」とて第一の祕器なり』「中川」は採取した地をつけた壺の名。壷の現存は不詳。

「何の八幡宮とかや」不詳。言い方から、知られた水戸八幡宮ではあるまい。リンクの北西にも八幡神社がある。

「山中雲平」不詳。

『光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし』うへぇエ!?! ホンマにいいんかいな? 黄門はん? 排物の権化が「高野聖」たぁお釈迦さまでも御存じあるめえ!

「たしかなる證を水戶に得給ひ」現存する。次の注の「妙経筒碑文」がそれらしい。

「無二亦寺」茨城県ひたちなか市市毛に日蓮宗一乗山無二亦寺として実在する。公式サイトのデータによれば、寛文五(一六六五)年の当時の藩主徳川光圀公の命により、次代の第三代綱条(つなえだ)公の代に建立された寺とあり、「縁起」PDF)によれば、『無二亦寺が創建されたのは、この地から青銅製の経筒が出土したいわれによる。高さ』十二センチメートル『ほどで 』、六『角形』のそれ『には、数十字が刻みこんであり』、『光圀という人が法華経一部を納めたことが記されていた。当時、現在の常陸太田市に久昌寺を建てるなど、日蓮宗に手厚い保護を加えていた徳川光圀は、このことを聞いて一寺を建立することを思いたった。』元禄一〇(一六九七)年に六十『石の地が除地として寄せられ』、『伽藍を造営したが、開堂は光圀の生存中に間に合わず』、元禄一四(一七〇一)年の『春に供養された』とあり、「妙経筒碑文」の写しの写真がある。一行目末から『本化宗者常陸人光圀納妙經之筒也』とあるのが判る。「本化(ほんげ)宗」は日蓮宗に同じ。末尾クレジットは『寶永四年丁亥』で一七〇七年である。さらに、『その翌年の元禄』十五年に『日遙が第二住職として入寺すると、藩の命令によって市毛・津田・田彦に住む者は全て無二亦寺の檀家に定められた。同時に、市毛の鹿島、吉田両明神は三十番神に、津田の鹿島明神も三十番神に、田彦の熊野三社権現は七面大明神に、それぞれ定められた上で、無二亦寺の支配にまかせられた』。『このようにみてくると、無二亦寺は水戸の徳川家と深い関係を持ち、神社を寺にとりこむことに成功した点が注目される。その信仰は、現世利益の祈禱という面がもとから相当に強かったようである』(これは昭和五〇(一九七五)年発行の「勝田市史」(民俗編)からの引用らしい)とある。『本尊は宗門で定める十界曼荼羅を掲げ、日蓮上人の木像を安置する』。『開山は京都本圀寺の僧であった日輝で』、『江戸時代には、水戸藩の保護を受けて栄えたが、幕末に徳川斉昭が断行した棄仏毀釈によって廃寺になり』、明治一〇(一八七七)年『頃にようやく再建された』とある。私としちゃあ、斉昭がやらかした気持ちは腑に落ちるね。尊崇する黄門公の瑕疵に他ならないからね。]

2021/06/17

甲子夜話卷之六 33 又、彌五右衞門の事

6―33 又、彌五右衞門の事

此彌五右衞門も一ふしある人也けり。ある時組同心使に參りたるを、扣居候樣にとて留め置、やがて自ら出て逢ひ、近頃、倅弓稽古精出し候が、御役弓の手前見たきよし申候。一矢射て見せられ候へと所望ありし。折よく其同心かねて誂たる弓鞢を、途中より取りて懷中に有しかば、其まゝ射て見せけるに、彌五右衞門手を拍て、さすが御役弓勤ほど有て鞢も用意ありしとて、誠に感賞し、有合の袴地とり出して同心に與へしと也。この頃の卸先手衆、いかにも人物の揃ひたる事ども也き。

■やぶちゃんの呟き

 うん! 何とも言えず、いい話だな! 好きだな!

「又、彌五右衞門の事」前の「6-32 御先手柘植五太夫、天野彌五右衞門申分の事」を受けたもの。

「扣居候樣に」「ひかへをりさふらふやうに」。

「倅」「せがれ」。

「御役」「おやく」。「御役目」。相手を敬ってその務めを指して一人称に代えた語。先の話柄で天野は「御先手組」(先手鉄砲組・先手弓組の併称)の鉄炮頭であることが判る。そちらで出した氏家幹人「武士道とエロス」(講談社現代新書一九九五年刊)によれば、当時の弥五右衛門の屋敷は『下谷稲荷町(現在の台東区東上野三丁目の内)』とあった。「古地図 withMaFan」で調べたところ、ズバり! 上野駅直近の下谷稲荷裏手の路次の奥詰めの西側にあった。現在の下谷神社の境内地の東北の角附近である。

「誂たる」「あつらへたる」。注文しておいた。たまたま、その日、上司天野への使いに行く途中にその店があり、それを受け取って、天野の屋敷に出向いたというのである。

「弓鞢」「ゆみゆがけ」或いは「ゆみかけ」と読む。「弓懸」「弽」「韘」などとも書く。弓を射る際に、手指が痛まないようにするために用いる革製の手袋のこと。左右一対になっているものを「諸(もろ)ゆがけ」、右手(馬手)にのみ着けるものを「的ゆがけ」、右手の拇指(おやゆび)以下の三指だけに着けるものを「四掛(よつかけ)」という。参照した精選版「日本国語大辞典」に挿絵がある

「拍て」「うちて」。

「弓勤」「ゆみづとめ」。

「有合」「ありあひ」。予備として備えてあるもの。

「袴地」「はかまぢ」。袴を仕立てるための布地。

芥川龍之介書簡抄85 / 大正六(一九一七)年書簡より(十七) 七通

 

大正六(一九一七)年十二月一日・東京市下谷區櫻木町一七 池崎忠孝樣・十二月一日 龍(葉書)

 

   Que m’importe que tu sois sage

   Sois belle et sois triste.

           C. Baudelaie

   徂く春の人の名問へばぽん太とぞ

     その人の舞へるに

   行けや春とうと入れたる足拍子

     その人のわが上を問へるに

   暮るるらむ春はさびしき法師にも

   われとわが睫毛見てあり暮るる春

     一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を錄す

 

[やぶちゃん注:これは既にサイトの「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)」で電子化しているが、二〇〇六年のユニコードのない時代の初期作成で、HTML横書版・HTML縦書版・PDF縦書版という膨大な量(五種×3)であるため、表記に不満があっても、致命的でない限り、なかなか全体の大修正が出来ないので、困っている(ビルダー上で追加を繰り返したものであって、完本としての文章データの元版は元々存在しない。私は今現在、最も芥川龍之介の俳句を、誰よりも漏らさず――二〇一〇年岩波文庫刊加藤郁乎編「芥川竜之介俳句集」よりも、である――収録しているものと自負している)。今回、少しHTML版の上記書簡は少し補正したが、ここでも改めて載せることにした。

冒頭のフランス語はシャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)が一八六一年五月に発表した「悲しきマドリガル(恋歌)」( Madrigal triste )――現在は名詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal :一八五七年初版)の続編・補遺に含まれる一篇の一節、第一スタンザの冒頭の二行(二行目には三行目へのジョイントがあるので正確には)である。但し、正確に引くなら、

 Que m'importe que tu sois sage?

 Sois belle! Et sois triste! Les pleurs

である(Les pleurs は全体の韻と意味の流れから、三行目へのジョイントとして前送りされたものである)。意味は、

 どんなにお前が貞淑であろうと、それが何になる?

 ただ美しくあれ! 悲しくあれ! 涙は

といった意味である(「貞淑であろうと」は私の感覚で、他に「大人しくあろうと」「賢かろうと」等の訳が当てられてある)。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の旧全集「未定詩稿」の最後に附した私の注で原詩総てを示してあるので参照されたい。実は、芥川龍之介の自死の後、彼の未定稿の定型詩篇未定稿が夥しく発見され、それが後友人佐藤春夫によって整理され、芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」(初出は昭和六(一九三一)年九月から翌年一月までに発行された雑誌『古東多万』(ことたま:やぽんな書房・佐藤春夫編)第一年第一号から第三号に掲載したものを、佐藤自身がさらに整理し、二年後の昭和八年三月二十日に岩波書店より芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」として刊行されている。龍之介はこのボードレールの詩が、既にこの頃から大好きで、遂にあの世にまで、それを口ずさみながら、去って行ったのであった。

「徂く春」(ゆくはる)と読み、「往く春」と同義。季節の移ろいとともに、さすがその面影に射している芸妓「ぽん太」(明治二一(一八八〇)年~大正一四(一九二五)年:この当時なら満三十七。但し、これは想像の句であると私は今は踏んでいる)の老いをも示唆する。一九八八年近代文藝社刊の中田雅敏「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」で中田氏は「ぽん太」について『明治二十四年』(一八九一)『新橋玉の家から雛妓おしゃくとして出、早くから嬌名を馳せていたが、一時落籍され』、『座敷に出なかった。再び高座に上ったのは大正七年頃』(☜)『という。いつも洗い髪のようにさっぱりした髪型でほんのりと色気をただよわせていたという』とある。彼女は新橋「玉の家」の名妓初代「ぽん太」のことで、本名を鹿島ゑ津子といった。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に「貞女ぽんた」と称されたという。ウィキの「鹿島ゑ津子」に詳しく、彼女の写真もある。森鷗外の「百物語」は、この御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。恐らく、芥川のこの句は、尊崇した歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に所収する、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび

辺りをインスパイアした仮想句(実際に初代「ぽん太」の舞を見たのではない)と考えられる。私は実はずっと、芥川龍之介が実際に「ぽん太」の舞いを見たものと解釈していたが、中田氏の引用と齟齬すること、そもそもがこの時の芥川龍之介が新橋辺りで芸妓を揚げてというシチュエーションを考えにくいことから仮想とした。容易に仮想出来るほどに、文人連中には、この「ぽん太」は超有名人であったのである。

「行けや春」の句については、田中氏は作家福原麟太郎の次の文を引用されておられる。『北州は踊の方ではむつかしいものになっているようだが』、『ぽん太は何の苦もなくさらっと踊ってみせた。それが実に美しかった。浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない』(出典未詳)。ここに出る「北州」は「ほくしゅう」と読み、清元の曲名である。「北州千載歲壽」で「ほくしゅうせんざいのことぶき」と読む。蜀山人の作詞で、「北州」とは江戸の北、吉原を指す。遊廓吉原の年中行事と風物を詠んだ佳品の名曲である。「ぽん太」は事実、踊りの名手であったとされる。これもまた、仮想句とせざを得ない。

「暮るるらむ」の句は、上記本で中田氏は、夏目家への出入りも禁じられて、寂しく郷里の福島へ帰った久米正雄(明治二四(一八九一)年~昭和二七(一九五二)年:彼の生国は長野県上田市であったが、父由太郎(江戸出身)は町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、そこで正雄が生まれた。しかし、父は明治三一(一八九八)年(正雄七歳)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って割腹自殺した。このため、正雄は母幸子の故郷福島県安積郡桑野村に移って育った。因みに母方の祖父立岩一郎は安積原野開拓に尽力した開拓出張所長で、後に桑野村の村長を務めた。以上はウィキの「久米正雄に拠った)を気づかっての句と解しておられる。

「校書」は芸妓に同じ。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月六日・年次推定・久米正雄宛(葉書)

 

拜啓 八目午後二時半と三時との間に銀座カツフェパウリスタにて落合ひたし返事待つ大至急 以上

 

[やぶちゃん注:前の松岡宛が十一月一日附、十一月九日には久米が横須賀を訪れ、泊まっている(思うに、後の十二月十二日の塚本文宛書簡からは、ここで夏目筆子との破談が久米自身から語られたように思われる)。この二日後の十二月八日(土曜)には、神楽坂「末よし」で行われた夏目漱石の一周忌の会があり、龍之介は勿論、松岡や久米を出席しており、翌日の午前十時、漱石の祥月命日に茗荷谷至道庵で行われた一周忌法要(導師釈宗演)に出て、午後には雑司ヶ谷に墓参している。ところが、この日の『東京日日新聞』に、実は既に破局している久米正雄と夏目筆子のことがゴシップとして書かれてしまう。この会合指示だけの書面の字背には、そうした複雑して世間の噂に振り回されている彼ら三人(しかしその原因はその三人の中にこそ責任はそれぞれに気持ち悪い感じで重くある)に対して、自分も半ば巻き込まれた事件でもあり、友達たちを何とかしようとする龍之介の動きが見える。

「岩波版新全集」の「彼 第二」(私の偏愛する作品。リンク先は私の注附きのサイト版)で三島譲氏は明治四四(一九一一『年一二月に京橋区南鍋町二丁目(現、中央区西銀座六丁目。グーグル・マップ・データ)開業、他のカッフェと異なって女給を置かず、直輸入のブラジルコーヒーを飲ませる店として名高く、文士の常連も多かった。店内には自動オルガンを備え、五銭の白銅貨を投入すると自動的に演奏した。「グラノフォン」(gramophone:英語)は蓄音機の商標名であるが、この自動オルガンを指していると思われる』とあるが、銀座直営店は大正二(一九一三)年開店らしく、現在、場所を変えて同じ銀座に現存する。同社の公式サイトの「作品の中のパウリスタ」に「彼 第二」が引用され、『カフェーパウリスタの真前が時事新報社でした。時事の主幹は文壇の大御所と言われた菊池寛です。その菊池に原稿をとどけるために芥川龍之介はパウリスタを待ち合せの場として利用しました。龍之介の小説の中によくパウリスタが登場するのはこの理由です』とある。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月八日・田端発信・薄田淳介宛

 

拜啓 新年號を二つ書くので大分くたびれますからなる可く〆切るのはおそくして下さい出來るなら來年へ少しはみ出したいのですが、題は「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れませんが、なる可く暇を澤山下さい原稿料よりも書く暇の長い方が難有いのですだから外の人の原稿をとつて私のがおくれてもいいやうにゆとりをつけて置いて下さいその點をよろしく願ひます 以上

    十二月八日      芥川龍之介

   薄 田 樣 侍史

 

[やぶちゃん注:「薄田淳介」(すすきだじゅんすけ 明治一〇(一八七七)年~昭和二〇(一九四五)年十月九日)は詩人・随筆家として知られる薄田泣菫の本名。岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町連島字大江)生まれ。岡山県尋常中学校(現在の県立岡山朝日高校)中退後、明治二七(一八九四)年上京し、上野書籍館(帝国図書館の別称)に通いながら、漢学塾二松學舍(現在の二松學舍大学)で学んだ。明治三十年に帰郷し、幾つかの詩を作って、『新著月刊』に泣菫の雅号を用いて投稿、後藤宙外・島村抱月らに絶賛され、掲載された。翌年早くも第一詩集「暮笛集」を刊行、雑誌『小天地』を編集しながら、『明星』などに詩を載せ、その後も詩集「ゆく春」・「白羊宮」など、古語や漢語を多用した詩風で、蒲原有明とともに泣菫・有明時代を築き、島崎藤村・土井晩翠以後の明治後期の詩壇を背負って立った詩人であった。明治の終わり頃から、一時、小説に興味を移したものの、結局、随筆に転じ、詩作を離れた。国民新聞社や帝国新聞社に勤めた後、大阪毎日新聞社に入り、大正四(一九一五)年、『大阪毎日新聞』に「茶話」の連載開始した。参照したウィキの「薄田泣菫」によれば、『これは「茶を飲みながら喋る気楽な世間話」と言う意味で、古今東西の噂話、失敗談、面白おかしい話を幅広く紹介して』好評を博した。ここでは芥川龍之介担当の文芸部記者としての原稿催促への返書であるが、この二年後の大正八(一九一九)年には、大阪毎日新聞社学芸部部長に就任し、龍之介は自分から、特別社員として迎えて欲しい旨を彼に頼み、それを受けて招聘、彼に多くの文章発表の場所を与えた人物でもあった。

「新年號を二つ書く」「首が落ちた話」(同日『新潮』。脱稿は大正六年十二月四日)と「西鄕隆盛――赤木桁平に與ふ――」(一月一日『新小説』発表。大正六年十二月十五日に既に脱稿している)。嘘とは言わないが、「二つ」というのは弁解ためにする語として使っているわけである。

『「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れません』「開化の殺人」は十一月下旬に書き始めているが、結局、『大阪毎日新聞』には五月一日から二十二日まで(同社の系列誌『東京日日新聞』には五月二日から二十二日まで)で、かの名作「地獄變」が連載された。「開化の殺人」は大正七年七月の『中央公論』臨時増刊「秘密と開放号」に発表された。「踏繪」は題名と「開化の殺人」の内容からみて、「開化の殺人」の別題とは思われない。また、現在、同名の作品や未定稿も存在しない。事実、篠崎美生子氏の論文『「芥川」をつくったメディア―『大阪毎日新聞』の小説戦略―』PDF・『恵泉女学園大学紀要』第二十六号所収・二〇一四年二月発行)の中に、この大正六年末に『大阪毎日新聞』に掲載された広告記事「新春の本紙を飾る文藝的作品」(十二月二十九日夕刊と翌三十日夕刊の分割記事)では、芥川の「踏繪」が『その筆頭に』「『踏絵(長篇)芥川龍之介』」として『掲げられている』とあり(引用元にあるものを参考に、恣意的に漢字を正字化し、記号も変えた)、

   *

芥川氏の「踏繪」は囊日[やぶちゃん注:「なうじつ(のうじつ)」。先日。]本紙に掲載したる「戲作三昧」と同じく、題材を斯の作家が最も得意とせる旧幕時代に選びて精彩ある描寫の筆を揮ひたるもの、人物生動して肌斷たば血も迸るべし。

   *

とあって、所謂、芥川龍之介の切支丹物となるべき作品であったようである。惜しくも、書かれることなく、構想のみに終わったものと思われる。後は書簡の翌大正七年五月十五日の薄田宛の中で、『「踏繪」は中々出來ません元来春の季題だから初夏になつては駄目らしい』とちゃらかして、『傾城の蹠』(あなうら)『白き繪踏かな』の自作句を添えている。寛永五(一六二八)年から安政四(一八五七)年まで長崎奉行所では毎年正月、「踏み絵」を行うことが正月行事の一つであったことから、「絵踏」は春の季語とされている。

 

 

大正六(一九一七)年十二月十日・田端発信・久米正雄宛

 

君のことが日々に出てゐるのを見た(ボクの事も出てゐるが)あんまりいい氣なもんぢやない菅さんに敎へられて往來で新聞を買つてよんだんだが實際妙な氣がした××さんもあゝなると少し氣の毒だね

ボクは心臟の調子が惡いので一枚もかかずにしまつた肺の方は少しも掛念ない由大に安心した但喉は大分こはしてゐる煙草は當分のめない

何しろ世の中はでたらめなものだな

   木枯らしやどちへ吹かうと御意次第

    十二月十日          龍

   久 米 正 雄 樣

 

[やぶちゃん注:「君のことが日々に出てゐる」前の前の書簡の私の注参照。

「菅さん」菅虎雄。

「××さん」「筆子」であろう。この伏字は岩波の元版全集の編者による仕儀と思われる。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十一日・発信元不明・空谷先生 侍史・十二月一日 芥川龍之介

 

拜啓

漱石先生遺墨出來候間御眼にかけ候 ゆるゆる御覽下さる可く候 小生未風流地獄の業を脫せず廿日頃までは呻吟致す可くよろしく御同情願上候 頓首

    十二月十一日     我 鬼 生

   空 谷 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:発信元不明としたが、この日は水曜であるから、恐らくは横須賀発信である。海軍機関学校の年末休業は十二月二十日からで、年表上では二十日に田端に帰っている。

「空谷」芥川家と龍之介の主治医下島勲(いさをし(いさおし):龍之介検死担当者でもあった)。田端の芥川家の近くに住んでいた。

「我鬼生」の署名は、現存する資料の中で最も古い「我鬼」と記したものである。もともと俳号として考え、その後、盛んに署名したお気に入りの号で、実際、この十二月の上旬から使用し始めていたようである。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十二日・横須賀発信(推定)・塚本文宛

 

あたりません 文ちやんの手紙が來たのはボクが朝飯をたべてゐる時でした 貧弱なまづい朝飯です 飯を一時見合せて手紙をよみました

ごぶさをしたのはボクの方です この前の手紙に返事を書きませんでしたから。しかしそれは例の通り目のまはる程忙しかつたのですから かんにんして下さい

久米は可哀さうです 門下生が反對したばかりでなく××さんも久米がきらひになつてしまつたのですからね その位なら始から好意を持たなかつた方がいいのです 久米は今飯も食へない程悲觀してゐます 破談になつた時は橫須賀のボクの所まで來て、いろいろ泣き言を云ひました 實際あんな目にあつたらたまらないだらうと思ひます

早くいいお嫁さんを見つけてやりたいと思ひますが 中々でさ云ふ人がありません この間フランスのピエル・ロティと云ふ人の小說をよんだらアフリカヘ行つてゐるフランスの守備兵が、故鄕の許嫁が外の人に片づいてしまつたのに悲觀して、とうとう戰死してしまふ話がありました

シエクスピイアが“Frailty, the name is woman!”と云つたのは有名です 坪内さんはこれを「脆きものよ汝の名は女なり」と譯しました 女と云ふものの當てにならない事を云つたのです

××さんでも守備兵の許嫁でもオフェリアでも皆さうです だから文ちやんもお氣をつけなさい 明日にもボクがいやになる事だつてないとは云へません さうしたらどうでせう やつぱりボクも久米のやうに悲觀するでせうか

兄さん御夫婦はさぞ仲がいいでせう。一體兄さんのやうに生まれついた人が一番いい良人になれるのです しかし今に逆襲してやりませう(五十江さんの顏はもうすつかり覺えました)見せつける方法をいろいろ今から考へてお置きなさい

事によると久米が東京にゐなくなるので ボクもこれから寂しくなるやうな氣がします こないだ久米の所へ行つたら 机の上に××さんの寫顏がのつてゐました まだ忘れられないのでせう あとで聞いたら何でも手紙を一本に寫眞を二枚に瀨戶物の小さな人形を一つだけ××さんに貰つたのださうです さうしてそれを見せてくれました

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集編者により、ここに『[削除]』とある。]

試驗がすんだら暮のうちに遊びに來ませんか 一人でも來られるでせう かへりには送つてあげます

文ちやんの事を考るとうれしいやうなかなしいやうな氣がします さやうなら

    十二月十二日  龍 之 介

   文 子 樣 粧次

 

[やぶちゃん注:「あたりません 文ちやんの手紙が來たのはボクが朝飯をたべてゐる時でした」文が送った書簡に、この手紙を読むのはきっと機関学校からお帰りになってからのことでしょう、みたようなことを書いたのであろう。

「××さん」夏目筆子。この伏字も岩波の元版全集の編者による仕儀と思われる。私は一緒に並べられたオフェリアが可哀そうだと思うね。

「フランスのピエル・ロティと云ふ人の小說をよんだらアフリカヘ行つてゐるフランスの守備兵が、故鄕の許嫁が外の人に片づいてしまつたのに悲觀して、とうとう戰死してしまふ話がありました」ウィキの「ピエール・ロティ」にある、ピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年)が一八八一年に書いた、セネガルでの一兵士の物悲しい冒険の記録「アフリカ騎兵」(Le Roman d'un spahi :「スパイ(アルジェのフランス人騎兵隊の呼称)の物語」)と思われる。仏文の当該ウィキを参照されたい。

「シエクスピイアが“Frailty, the name is woman!”と云つた」Hamlet)一六〇一年頃に書かれたと推測されるシェイクスピア作の五幕の悲劇「ハムレット」の第一幕第二場の知られた台詞。当該ウィキによれば、『これは、ハムレットが』、『夫の死後』、『すぐに義理の弟であるクローディアスと再婚した母・ガートルードに対』して言い放った『批難の台詞である。日本語では』坪内逍遙などが『「弱き者よ、汝の名は女」と訳したものがよく知られている』が、『この訳文では弱き者とは』、『即ち』、『保護すべき対象を指し、レディーファーストの意と誤解をしばしば招くことがあり、坪内も後に「弱き者」を「脆(もろ)き者」と再翻訳している。なお、この台詞は当時の男性中心社会の中で、女性の貞操観念のなさ、社会通念への不明(当時のキリスト教社会では、義理の血縁との結婚は近親相姦となりタブーであった)などがどのように捉えられていたかを端的に表す言葉としても有名である』とある。

「兄さん」山本喜誉司。

「五十江さん」以前にも注したが、山本の妻の名であるが、「五十枝」の誤りか。どっちが正しいのか、迷ってくる。芥川龍之介は名前の記憶の思い込みが激しく、誤ったものを何度も後で繰り返す癖がある。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十四日・横須賀発信・松岡讓宛(葉書)

 

手紙みた十二月號にろくなものはないらしいボクの名を騙つて雄辯で金をとつた奴がゐる黑潮でかたらうとしたやつと同一人だ物騷で仕方がない戲作三昧は土曜にかへつたら送る休みは二十日からだ奧さんが菅さんへ來られると云つたが二十日か二十一日に來られると一しよに東京へかへれて甚都合がいいんだがなその旨奥さんに言上してくれボクは九日以來ノドをひどくこはして悲觀してゐる夜は完く出られない煙草も當分のめない新年の新小說へは西鄕隆盛と云ふへんてこなものを書いたから出たらよんでくれ新潮は「首を落す話」で失敬したどうもウハキをしてゐるやうな氣がしてくだらなくつていやだ來年はベンキヨウしたい僕は最近橫須賀の藝者に惚れられたよそれを小說に書かうかと思つたが天下に紅淚を流す人が多いからやめにした愈來年から鎌倉へ定住する東京へ來いとすすめてくれた先輩もあるが(グレエフエはいくらだつたいこんど拂ふ)

   湘南の梅花我詩を待つを如何せむ

 

[やぶちゃん注:「雄辯」雑誌名。講談社が大日本図書を発行元として明治四三(一九一〇)年二月創刊(昭和一六(一九四一)年終刊)した、現在の講談社の元となった雑誌である。

「黑潮」雑誌名。太陽通信社発行で大正五(一九一六)年十一月創刊。大正六年三月にはこの雑誌に「忠義」を、九月一日には「二つの手紙」を発表している。この偽物、たいしたタマだ。

「奥さん」夏目鏡子。

「紅淚」ここは「美しい女性の流す涙」の意の美称。

「愈來年から鎌倉へ定住する」この四日後の十二月十八日の同じ松岡宛書簡(推定横須賀発信)で、『十九日に東京へ歸らうと思ふ 鎌倉へは借家を見にゆくからその後出直してももいい』とある。これは塚本文との結婚の日程が固まったことを受けての愛の巢探しで、鎌倉に決定しており、実は菅虎雄とその長男忠雄にもまたしても(最初の鎌倉の下宿は菅虎雄の紹介)家探しを依頼しており、実際には彼らのおんぶにだっこだったようで、大正七年一月初旬には菅親子が探した借家候補が見つかっている(新全集宮坂年譜。以下も同じ)。二月二日土曜に塚本文と結婚後、二月二十六日までに鎌倉の新居が決まり、三月二十九日に転居している。

「グレエフエ」ドイツ人名で“Gräfe”か。但し、誰なのか、はたまた小説名なのか、不詳。識者の御教授を乞うものである。]

2021/06/16

伽婢子卷之七 繪馬之妬

 

伽婢子卷之七

 

   ○繪馬之妬(ゑむまのねたみ)

 

Emasito

 

[やぶちゃん注:底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のそれをトリミング補正して用いた。かなり清拭に時間をかけた。女主人は立膝をして、その上に左腕を載せて顎を支えており、今の感覚からは、あまり行儀はよく見えない(但し、戦国以前の女性の立膝はごく当たり前である)。拝殿の画面の右端の下にあるのが商人の旅の荷と笠である。拝殿の下に最初に登場する直衣(のうし)の男(被っているのは戦国期には武家に普通であった折烏帽子である)が地面に坐っている。「新日本古典文学大系」版脚注では、これは本篇の「主君」であり、拝殿にいる左の女性が、その「主君の女房」と記すのだが、この見解、私にはどうも解せない。主君が折り烏帽子で、地べたに座って、拝殿に女房を上がらせておいて、黙って待っているというのは、設定として頗るおかしいと思うからである(以下、続きは本文での注に譲る)。左上方が本殿で、その右端の軒に懸かっている白い長方形の板(右上方が斜めにカットされている)のようなものが絵馬であろう。「絵が描いてないじゃん?!」という不服は当たらぬ。普通、絵馬は神に捧げるものであるから、本殿を向いていて、こちらが裏で白いのは不審ではないからである。しかし、それでも、「今はこっちに向いて軒下に掛けてるのを見たぞ!」と文句を言おうなら、私は、こう、応じてやろう。「その絵の中の総ては、今まさに、そっくり、この挿絵の現実として飛び出しているのだよ。だから、真っ白でいいのさ。絵師の洒落た粋な計らいとこそ言うべきものなのではないかね?」と。なお、同解説には、『御香の宮の絵馬堂は近世期、拝殿の右側、本地堂との並びにあった(都名所図会五・御香宮)』とある(所持する同書で確認した。確かにその通りではある。但し、これは室町後期の設定である)。]

 

 伏見の里「御香(ごかう)の宮」は、神功皇后の御廟(みべう)也。もとより、大社(〔たい〕しや)の御神なれば、諸人、あゆみを運び、あがめまつる。常に宿願あるともがらは、繪馬を掛け、湯を參らせて、祈り奉るに、願ふ事、むなしからず。この故に、神前にかけ奉る繪の、かず多く、繋馬(つなぎむま)・挽馬(ひきむま)・帆かけ舟・花鳥草木、又、其中に美女の遊ぶ所なんど、樣々の繪あり。

 文龜年中に、都七條邊の商(あき)人、奈良に行〔ゆき〕かようて、商賣する者あり。九月の末つかた、奈良を出〔いで〕て、京に歸りける。

 秋の日のならひ、程なくひくれて、小椋堤(をぐらつゝみ)を打ちこえて、伏見の里に付きたれば、はや、人影もまれになり、狐火(きつね〔び〕)は、山際(やまぎは)に輝き、狼の聲、くさむらに聞こえしかば、商人、物すごく覺えて、「御香の宮」に立入り、夜を明かさむとす。

 拜殿に臥(ふし)て、肱(ひぢ)を枕とし、冷(さやか)なる松風の音を今夜(こよひ)の友と定め、幽かなる御灯(ごとう)の光をたよりとして、暫く、まどろみければ、人、あり、枕元に立寄りて、驚ろかす。

 商人、起き上がりて、見れば、靑き直衣(なほし)に、烏帽子着(き)たる男、ありて、いふやう、

「只今、止事(やごと)なき御方、こゝに遊び給ふ。少し傍(かたはら)へ立のきて休み給へ。」

といふ。

 商人、

『心得ぬ事。』

と思ひながら、傍にのきて見居たれば、美女一人、女(め)の童(わらは)を召しつれ、拜殿に昇る。

 むしろの上に、錦のしとねを敷き、灯火(ともしび)かゝげ、酒・さかな、取り出し、かの女、かたはらを見めぐらし、商人、うづくまり居たるを見て、少し打ち笑ひ、

「如何に、そこにおはするは、旅人なりや。道に行暮れて、それならぬ所に夜を明かすは、侘しきものとこそ聞くに、何か苦しかるべき、こゝに出て、遊び給へ。」

といふに、商人、嬉しくて、恐れながら、這出つゝかしこまる。

「只、近く寄て、打解け、酒飮み給へ。」

とて、しとねの上に呼びて、打向ひたる氣はひ、誠に太液(たいえき)の芙蓉、未央(びやう)の柳、芙蓉はおもての如く、柳は眉に似たり、といひけむ楊貴妃は、昔語りに聞き傳ふ。一たび、かへりみれば、國を傾け、二たび、かへりみれば、城を傾く、と云ひし李夫人は、目に見ねば、そも、知らず。

『これは。如何なる人のこゝにおはしけむ。如何なる緣ありて、此座には、つらなるらん。夢か、夢にあらざるか、知らず。』

我ながら、魂(たましゐ)浮かれて、更にうつゝとも、思はれず。

 女の童も、十七、八、其顏かたち、ならべてならず、眉墨の色は、遠山(とほ〔やま〕)の茂き匂ひを、ほどこし、白き齒は、雪にもたとふべし。腰は絲を束(たば)ねたるが如く、指は筍(たかんな)の生出〔おひいで〕たるに似たり。物いふ聲、いさぎよく、言葉、さすがに、ふつゝかならず。

 主君の女房、盃、とりて、商人にさしければ、覺えず、三獻(こん)を受けてのみければ、女の童、箜篌(くこう/コキウ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])を取出して、彈く。

 女房は、東琴(あずまごと)、取出〔とりいだ〕させ、柱(ことぢ)たてならべ、調子、とりて、さゝやかに歌うて彈(ひき)けるに、商人、魂、飛び、心、消えて、數盃(すはい)を傾け、其の比(ころ)、世にはやりし「波枕」と云ふ歌をうたふ。

 聲、よく調(とゝの)ほり、曲節(ふし)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]おもしろきに、琴(きん)・箜篌(くこう)のしらべを合はせければ、雲井に響き、社頭にみちて、梁(うつばり)の塵も飛ぶばかり也。

 商人、大〔おほき〕に醉(えひ)て、ふところをさぐるに、白銀花形(びやぎんくわがた)く)の手箱あり。

 之れを、女房に奉る。

 又、玳瑁(たいまい)の琴爪一具を包みて、女の童に與へ、手をとりて、握りければ、女の童、

「爾(にこ)」

と、笑ひて、手をしめ返しけるを、主君の女房、見つけて、妬(ねた)む色、外に現れつゝ、

 あやにくにさのみなふきそ松の風

   我(わか)しめゆひし菊のまがきを

とて、そばにありける盃の臺(だい)をとりて、女の童が容(かほ)に投げつけしかば、破れて、血、流れ、袂(たもと)も衣裏(えり)も、くれなゐになりければ、商人、驚きて、立上がると覺えし、夢は覺めたり。

 夜あけて後(のち)、懸け並べたる神前の繪を見るに、錦のしとねの上に、美しき女房、琴を彈き、其の前に、女の童、箜篌(くこう)を彈きける。

 其のかたわらに、靑き直衣(なおし)に、烏帽子、着たる男、坐して有り。

 女の童のかほ、大に破れたる痕(あと)あり。

 夢のうちに見たりける容(かほ)かたちに、少しも違(たが)はず。

 疑ひもなく、この繪に書きたる女の、夢に戯ふれ遊びけるが、繪にも情(じやう)のつきては、女は物妬(〔もの〕ねたみ)ある事、こゝに知られたり。

 そもそも、この繪は、誰人〔たれひと〕の筆といふ事を、知らず。

[やぶちゃん注:「御香の宮」京都府京都市伏見区御香宮門前町(ごこうぐうもんぜんちょう)にある御香宮神社(ごこうのみや(ごこうぐう)じんじゃ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『伏見地区の産土神で』、『神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇』の他、『六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める』。『初めは「御諸神社」』(みもろじんじゃ)『と称した。創建の由緒は不詳であるが』。貞観四(八六二)年に『社殿を修造した記録がある。伝承によると』、『この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。この湧き出た水は「御香水」として』現在も湧いている。『全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫国の香椎宮との関連性が強く』、『神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である』とある。「新日本古典文学大系」版脚注には、『秋の祭礼は十月九日。境内では諸芸能の興行も行われた』とある。

「湯を參らせて」所謂、「湯立神事(ゆだてしんじ)」「湯立神楽(ゆだてかぐら)」のことであろう。大釜に湯を沸かし、笹を熱湯に浸して、それを身に振りかけて、その年の吉凶を占ったり、無病息災・五穀豊穣を願うもので、今も全国各地の神社で行われいる。

「文龜年中」一五〇一年から一五〇四年まで。室町幕府将軍第十一代足利義澄。

「都七條」現在の七条通り。「平安条坊図」で確認されたい。

「小椋堤(をぐらつゝみ)」現在の京都府宇治市小倉町(おぐらちょう)附近にあった巨椋池の堰堤。「今昔マップ」を見るのが一番。彼はここから北へ伏見の里を縦断し、宇治川を渡り。「御香の宮」の近くまで来たが、完全に日暮れて、人気なく、妖しい狐火や、ごく近くの叢から狼の声も聴こえてきたので、急遽、宮に仮泊まりすることとしたのであった。「御香の宮」から「七条通り」中央位置までは、実測で九キロメートル弱はある。

「驚ろかす」商人を目覚めさせた。

「靑き直衣(なほし)」一般には公卿の平常服。令制の朝服付属としては正式には冠を被るが、略式では烏帽子でよかった。また、位階によって色が決められた位袍(いほう)ではない雑袍(ざっぽう)であったから、特に色は自由であった。室町期には将軍もこの格好を日常服とした。

「心得ぬ事」このような夜更けに、かくも人離れした場所であるから、不審に思ったのである。

「太液(たいえき)の芙蓉、未央(びやう)の柳、芙蓉はおもての如く、柳は眉に似たり」中唐の詩人白居易の著名な「長恨歌」の貴妃亡き後の一節。「太液芙蓉未央柳 芙蓉如面柳如眉」(太液(たいえき)の芙蓉(ふよう) 未央(びあう)の柳 芙蓉は面(おもて)のごとく 柳は眉(まゆ)のごとし)。全篇は私の『白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附』を見られたい。「太液」太液池。中国の歴代王朝の宮殿にあった池の名。漢代には長安城外の未央宮(漢の長安城内南西隅にあった宮城。前漢の高祖の時、紀元前二〇〇年から丞相の蕭何(しようか)が中心となって築き、恵帝から平帝までの皇帝が皇居とした。東闕・北闕・前殿を始め、宣室殿・温室殿・清涼殿などの多数の殿閣・武庫・太倉等があったと伝える。王莽(おうもう)の時に廃され、後漢末に修復され、その後の前趙・西魏・唐代にも修復された。遺跡は陝西省西安市北西郊にあり、宮牆はおよそ東西二・三キロメートル、南北二キロメートルもあった)内に、唐代には大明宮内に、明・清代には北京の西苑内にあった。「長恨歌」は当代朝の皇帝玄宗を憚って、主人公を「漢皇」としてある。

「一たび、かへりみれば、國を傾け、二たび、かへりみれば、城を傾く、と云ひし李夫人」「李夫人」(生没年不詳)は前漢の武帝の夫人(側室)。楽人李延年・将軍李広利(司馬遷は彼の嘘が大きな理由となって宮刑に処せられた)らは彼女のお蔭で出世した兄である。兄延年は歌舞を得意とし、既に武帝に侍していたが、そこで「北方有佳人 絕世而獨立 一顧傾人城 再顧傾人國 寧不知傾城與傾國 佳人難再得」(北方に佳人有り 絕世にして獨立す 一顧(いつこ)すれば 人の城を傾け 再顧すれば 人の國を傾く 寧(いづく)んぞ傾城(けいせい)と傾國(けいこく)とを知らざらんや 佳人は 再び得難し)という歌曲を歌い舞った。これが実は延年の実の妹のことであることを聴いた武帝が宮室へ迎え入れて寵愛したのであった。しかし、病いのために若くして亡くなった。武帝は彼女を失った悲しさのあまり、夫人の面影を求め、方術士に命じ、西海聚窟(しゅうくつ)州にある香木反魂樹(はんごんじゅ)から名香「反魂香」を製造させ、この香を薫じた煙の中に夫人の姿が現われたという話でも有名である。

「女の童も、十七、八、其顏かたち、ならべてならず、眉墨の色は、遠山(とほ〔やま〕)の茂き匂ひを、ほどこし……」言わずもがなであるが、以下はこの「女童(めのわらわ)」を描写したもので、さればこその桃源郷が破られる嫉妬の伏線というわけである。ここでは読者自身が、好色な商人の目線と一体化し、彼女のあらゆる部分を拡大して見ることになる、すこぶる映像的に優れた伏線パートと言える。

「腰は絲を束(たば)ねたるが如く」所謂、柳腰でしなやかな肢体を形容したもの。

「筍(たかんな)」タケノコ。

「いさぎよく」清らかに澄み渡って、けがれがなく。

「三獻(こん)」「さんごん」とも。中世以降の酒宴の礼法で、一献・二献・三献と酒肴の膳を三度変え、その度に大・中・小の杯で一杯ずつ繰り返し、併せて九杯の酒を勧めるもの。

「箜篌(くこう/コキウ)」現在は「くご」と読むことが多い。東洋の弦楽器の一つで、琴(きん:現在の琴とは全くの別物)に似た「臥(ふせ)箜篌」、ハープによく似た「竪(たて)箜篌」、先端に鳳首の装飾を施した「鳳首箜篌」があったが、早くに滅びた。

を取出して、彈く。

「東琴(あずまごと)」これは本邦の和琴(わごん)。

『其の比(ころ)、世にはやりし「波枕」と云ふ歌』不詳。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の原拠である五朝小説「靈鬼志」の「勝兒」の中の『「浪蹙波、翻倒溟渤」の句に拠ったか』とある。

「梁(うつばり)の塵も飛ぶばかり也」歌が上手いことの喩え。本書の巻頭の「竜宮の上棟」で既出既注

「醉(えひ)て」読みは元禄版。ママ。

「白銀花形(びやぎんくわがた)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『しろがね(銀)の花形』(はながた)『細工を施した手箱(小物入れ)』おある。

「玳瑁(たいまい)」一属一種のカメ目ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata の甲羅を用いた、本邦が最も品位の技術を持つ鼈甲細工の原料とされた。私の妻の三味線の撥も合成樹脂の本体に先の部分を鼈甲を張り付けたものである。無論、象牙製が一番いいのだが、現在、象牙の撥は数百万円するだろう。

「主君の女房」挿絵の注でも疑義を呈したが、私はこれはここでは「女の童」の仕える「主君」である「女房」の意であると採る。拝殿の下に控えているのは、その女主人の公家に仕える公家侍である。例えば、事実、公家方でも、夫が早く病死して、未亡人が男児が元服するまで女主人としてあった場合は幾らもあったし、名門の場合には、娘或いは養子を得るまで、女主人が長く仕切ったケースもある。だから――「主君」である「女房」――に私は何らの違和感も感じないのである。ダメ押しで言っておくと、そもそもが最初に直衣の男は商人に、「只今、止事(やごと)なき御方、こゝに遊び給ふ。少し傍(かたはら)へ立のきて休み給へ。」って実に丁寧に言いかけている。そこで彼は女だけでなく、この商人にさえも尊敬語を使っている。だいたいからして、妻のことを「止事(やごと)なき御方」って主君が言うかね?

「あやにくにさのみなふきそ松の風我しめゆひし菊のまがきを」整序すると、

 生憎(あやにく)にさのみな吹きそ松の風

      我が締め結ひし菊の籬(まがき)を

「生憎(あやにく)」は感動詞「あや」+形容詞「にくし」の語幹から生じた副詞で、意に反して不都合なことが起こるさま。現在の「あいにく」と同じ。「締め」には美しく紐で「〆め」って造った菊の籬のそれに、女童が商人が握った手を秘かにぎゅっと「締め」返して恋慕に応じたことを掛けている。「吹き」には「拭き」を掛けて、濃厚に手と手を拭き合わせるさまに掛けてあるようにも、また、私が「占め」るべきはずだった男という含みもあれば、嫉妬の炎はいやさかで、よりインパクトが強くなるように私は詠んだ。言うまでもなく、「籬」は古代の恋愛の際の「歌垣(うたがき)」を意識したものである。

「衣裏(えり)」「襟」に同じ。

「繪にも情(じやう)のつきては、女は物妬(〔もの〕ねたみ)ある事、こゝに知られたり」「さても、これを以って、たとえ、たかが絵であっても、そこに描かれたのが、情欲にかられること多き、罪深き「女」であればこそ、もの妬(ねた)みをすることがある、ということがはっきりしたのである」。作者の浅井了意は浄土真宗の僧であるから、こうした謂いをしても何らの疑問は感じない。そもそも、色情を最初に持ったのは、えげつない商人の男の方である。彼がそうしたものを自ら戒めていなかったことこそが、この桃源郷の崩壊の元凶なのである。]

日本山海名産図会 第四巻 鮴

 

Gori1

Gori2

Gori3

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。最初の図のキャプションは「加茂川鮴捕(かもはごりとり)」(「加茂川」は京の鴨川のこと)、二枚目は「加賀淺野川之鮴捕(かがあさのかはのごりとり)」。「淺野川」は石川県金沢市の富山県(南砺市刀利)との県境に位置する順尾山(ずんおやま:標高八百八十三メートル。グーグル・マップ・データ。以下同じ)付近に源を発し、北流して金沢市街地を貫流して、ニホンかい直近の河北潟南西の金沢市湊で大野川に合流する川である。三枚目は「豫刕大洲石伏(よしうおおづいしふし)」。「豫刕大洲」とは現在の愛媛県大洲市で、図の川は同市を貫流する肱川(ひじかわ)かと思われる。]

 

   ○鮴(こり)【字書に見ることなし。姑(しばら)く俗に從がふ。一名、「鮻」【イシフシ】。】

山城賀茂川の名産なり。「大和本草」に、『二種あり。一種は腹の下に、丸き鰭あり。其の鰭、平(へい)なる所ありて、石に付(つ)けり。是れ、眞物(しんぶつ)とす。膩(あぶ)ら、多し。羹(あつもの)として、味、よし。形は「杜夫魚(とふぎよ)」に似て、小さく、背に黑白(くろしろ)の文(もん)あり。一名(めう)、「石伏」と』云〻。是れ、貝原氏(うぢ)の粗說なり。尤も、「一物なり」とはいへども、形、小異あり。尚、下(しも)の圖に見るべし。

○漁捕(ぎよほ)は、筵(むしろ)二枚を繼(つ)ぎて淺瀨に伏せ、小石を多く置き、一方の兩方の耳を、二人して持ちあげゐれは、又、一人、川下より、長さ三尺余りの撞木(しゆもく)を以つて、川の底を、すりて、追ひ登る。魚、追はれて、筵の上の小石に付き、隱るを、其侭(そのまま)、石ともに、あげ、採るなり。是れを「鮴押(ごりおし)」と云ふ。

○又、加賀淺野川(あさのかは)の物も名産とす。是れを採るに、賀茂川の法に同しく、「フツタイ」・「板おしき」と、其の名を異(こと)にするのみ。「フツタイ」は割りたる竹にて大なる箕(みの)のごとき物を、賀茂川の筵のかわりに用ひ、「板おしき」は竪五尺・橫三尺ばかりの厚き板を、竹にて挾み、下に足がゝりの穴あり。是れに足を入れて、上の竹の余りを手に持ち、石間(いしま)をすりて、追ひ來たる事、前に云ふごとし。

○又、里人などの、納凉に乘じて、河邉に逍遙し、この魚を採るに、人々、香餌(かうゑ)を手の中に握り、水に掬(きく)し、

「ゴリ。」

と呼べば、魚、群れて、掌中に入るなり。又、籃(かご)にて、すくひ採ることも有るなり。是れをしも、未熟の者にては、得やすからず。清流淺水(あさみづ)といへども、見へがたき魚なり。

○「和名抄」に「ゴリ」を出さず。「䱌」を「いしふし」として、『性、石間に伏し沈む』。

[やぶちゃん注:「䱌」の字は底本では(へん)と(つくり)の間に縦に一画が入る。「䱌」は国字で魚の「イシブシ」を指す。]

○「※」は「チヽカフリ」。𩺟に似て、黑點あり[やぶちゃん注:「※」=「魚」+(「肅」の下部を「用」に代えたもの。「鱐」の略字か。但し、この字は「干し魚・不明の魚の名・魚の脂(あぶら)」と国字で「鯱(しゃちほこ)」の意である。]。○𩸒魚(かうぎよ)「カラカコ」。『𩺟に似て、頰(ほ)に鉤(こう)を著ける物なり』と注せり。案ずるに、文字に於ては適當とも云いがたし。和訓義(わくんぎ)に於ては、「いしふし」、石に伏して、今、「コリ」・「石伏」といふに、あたれり。○「ゴリ」は、鳴く聲の「ゴリゴリ」といふによりて、後世の名なるべし。○「チヽカフリ」は、「チヽ」は「土(つち)」にて、土をかぶり、「蒙(かくる[やぶちゃん注:判読に自信がない。])」との儀なるべし。されは、「杜父魚(とふぎよ)」に、ちかし。人の音(こへ)を聞けば、砂中(さちう)に頭(かしら)をさして、碇(いかり)のごとくす。一名、「砂堀鯋(すなほりはぜ)」とも云ふ。「カラカコ」は「頰(ほう)に鉤(こう)を付けたる」の名なり。鉤の古名「カコ」とも云へり。「カラ」の義、未ㇾ詳(つまびらかならず)。○或ひは云、「聲(こへ)有る魚は、必ず、眼を開閤(かいかう)す。是れまた、一奇なり」とす。されども、其の實(じつ)をしらず。○又、是等、皆、所の方言に「かしか」とも云へり。尚、辨說、有り。下(しも)の「かしか」の條に見るべし。

[やぶちゃん注:作者が冒頭で引き、実は本文でもそれを下敷きにして書いたと思われる箇所が有意にある、貝原益軒の「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の本文と私の考証注を参照にされたいが、「ゴリ」という標準和名の種はおらず、ゴリ(鰍・杜父魚・鮖・鮴)は一般的には、典型的なハゼ類の形をした複数の淡水魚群を指す一般名・地方名である。考証迷走はリンク先を見られたいが、最終的に私が有力候補として指名したのは、

スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae ヨシノボリ属 Rhinogobius

の仲間である。なお、益軒は別に「大和本草附錄巻之二 魚類 吹 (「ゴリ」類或いはカジカ・ウツセミカジカ等)」を立項しており、これも参考になろう。

「鮴(こり)」国字。但し、海水魚のメバルを指す漢字で、標題に示すものとしては、誤りである。思うに、ゴリ類が川底の砂石の下に隠れ潜むのを「休」んでいる「魚」として使用したものかも知れない。

『「鮻」【イシフシ】』読みは、小文字の割注にさらに小文字で割注として入っている。この「鮻」は漢語で、後に出る「鯋」と同字である。「鯋」は「不名の魚の名・鮫(鱶)・砂吹(すなふき)=鯊(はぜ)」で、最後のそれで一致を見る。国字として淡水魚の「いさざ」=チチブ(ゴビオネルス亜科チチブ属 Tridentiger )を指すのも広義の「ゴリ」類と一致する。

「杜夫魚(とふぎよ)」現行では、日本固有種で北海道南部以南の日本各地に分布し、「ドンコ」の異名でも知られる、条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux の異名とされることが多い。このカジカも広義の「ゴリ」の一種である。

「石伏」現在では、同じく広義の「ゴリ」の一種、ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属ウキゴリ Gymnogobius urotaenia の異名とすることが多い。

「粗說」要約。

「形、小異あり。尚、下(しも)の圖に見るべし」第一図の「加茂川鮴捕」のことを指して仰るのですが、そこの魚は、皆、ほぼ同じ大きさなんですけど? しかもこの魚、どれもこれも二本の触角を有して描かれてあって、これじゃ、ナマズにしか見えへんのですけど!?! ここでしか言えないので、附言しておくと、京の鴨川で行われた「ゴリ漁」の対象種は少なくとも近代にあっては、ヨシノボリ属カワヨシノボリ Rhinogobius flumineus に同定されている。しかし、カワヨシノボリにはこんな触角は、ない!

「フツタイ」ブッタイ。漁具の画像と解説が嬉しい、㈶四万十川財団編の「四万十川の漁具 平成14年度」PDF)の「雑漁具」の14ページに写真と解説がある。『竹ひごを簾(す)状に編み、一方を閉じて柄をつけ、一方を広げて入口にした漁具。笹を束ねたホテや足でゴリをおどして、ブッタイに追い込む』とある。この前には「ゴリのウエとタテズ」(「ウエ」は筌(うけ)のことで、「タテズ」は「立(縦)て簾(す)」)の写真と解説がある。必見! 私は確かにこの漁具のことを「ぶったい」と呼称するのを、複数の地域で聴いているのだが、その語源が今以って判らない。御存じの方は切に御教授を乞うものである。

「板おしき」漢字表記不詳。形状からは「おしき」は「折敷」ではないし、歴史的仮名遣なら「をしき」である。恐らくは「板押し木(ぎ)」ではなかろうか。

『香餌(かうゑ)を手の中に握り、水に掬(きく)し、「ゴリ。」と呼べば、魚、群れて、掌中に入るなり』名指すことによる呪的縛りが加えられた面白い漁法である。

『「和名抄」に「ゴリ」を出さず。「䱌」を「いしふし」として、『性、石間に伏し沈む』』(「䱌」の字は底本では(へん)と(つくり)の間に縦に一画が入る。「䱌」は国字で魚の「イシブシ」を指す)「和名類聚抄」には、巻十九「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、

   *

䱌(イシフシ) 崔禹錫が「食經」に云はく、『䱌【音「夷」。和名「伊師布之」。】、性、伏沈して石間に在る者なり。』と。

   *

とある。「䱌」は漢語としてはフグを指す。中国には世界で唯一、淡水産フグがいる。

「𩺟」「康熙字典」に「玉篇」を引き、『鯸、䱌魚。又、河魨、一名鯸鮧』とある。この「河魨」「鯸鮧」は孰れも広義の「フグ」である。

「黑點あり」これはトラフグを想起させる。

「𩸒魚(かうぎよ)」「カラカコ」。カジカ類の異名と思われる。サイト「真名真魚字典」の「を見られたい。但し、作者は一歩踏み込んで、最後に『「カラカコ」は「頰(ほう)に鉤(こう)を付けたる」の名なり。鉤の古名「カコ」とも云へり』という名推理を働かしている。これはちょっと脱帽だ。次の注のアユカケと直結するからである。

『頰(ほ)に鉤(こう)を著ける』鰓蓋に棘がついている。これは直ちに、広義の「ゴリ」の一種であるカジカ属アユカケ Cottus kazika を想起させる。日本固有種で、体長は五~三十センチメートル程度で、大型個体が出現する。「カマキリ」という異名を持ち、胸鰭は吸盤状ではなく、分離している。鰓蓋には一対の大きい棘と、その下部に三対の小さい棘を持ち、和名は、この棘に餌となる鮎を引っ掛けるとした古い伝承に由来するものである。

「和訓義」書名ではなく、和訓の意義の意で採った。

『「ゴリ」は、鳴く聲の「ゴリゴリ」といふによりて、後世の名なるべし』益軒も「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」で、『其の大なる者、夜に至りて鳴く。其の聲、淸亮にして愛すべし。土人、之れを「河鹿(カジカ)」と謂ふ』などと言っている。無論、「ゴリ」類は孰れも鳴かない。これは所謂、両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri の誤認であろう(江戸時代にはカジカガエルは鳴き声の美しさがもて囃され、贈答なんぞもされていたのだが、知らぬ人は知らぬものなのである。ある動物の鳴き声を全く別の生き物に誤認していた例は、江戸期の随筆にも、多数、登場する。いい例が螻蛄(ケラ)の鳴き声を蚯蚓(ミミズ)とした例で、これは近代に至るまで民間では長く信じられていた。お時間のある方は「北越奇談 巻之五 怪談 其三(光る蚯蚓・蚯蚓鳴く・田螺鳴く・河鹿鳴く そして 水寇)」を読まれたい)。いやいや、とすれば、この鳴くと誤認されている「ゴリ」は、それこそ「其の味、極美」の、ほれ! 蛙じゃない「カジカ」、カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux なんじゃぁ、ないのかなぁ?

『「チヽカフリ」は、「チヽ」は「土(つち)」にて、土をかぶり、「蒙(かくる[やぶちゃん注:判読に自信がない。])」との儀なるべし』この考証も素晴らしい。思わず、賛同したくなる。

『下(しも)の「かしか」の條』本巻頭尾の「○河鹿(かじか)」(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該部)を指す。実はそこで、作者は、鳴くのは、始めっからカジカガエルだと判っていたのではないか? と思わせる。やらかして呉れるじゃん! ニクイね!

2021/06/15

芥川龍之介書簡抄84 / 大正六(一九一七)年書簡より(十六) 塚本文宛二通

 

大正六(一九一七)年・十一月六日・横須賀発信・塚本文宛

 

拜啓

今夜は色々御馳走になりました おかあさまによろしく 御禮を申上げて下さい

汽車に乘りながら ちよいちよい文ちやんの事を思ひ出して、橫須賀へ着くまで、非常に幸福でした 僕が文ちやんに「僕の手紙はよみにくいでしよ」と云つたら 文ちやんが「えゝ」と云つたでせう。その時僕には 素直なうれしい心もちがしました 今でも思ひ出すと してゐます。

こんど五十枝さんに會つたら 何が大に羨しいんだか よく聞きただして置いて下さい

この手紙はうまく、文ちやんの旅行にゆく前に屆けばいいがと思ひながら、書きました 頓首

    十一月五日夜     芥 川 生

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:この日(金曜日)、芥川龍之介は塚本文を高輪の自宅に訪ね、夕食をともにした後、横須賀へ戻った。「文ちやんの旅行」とあるが、不詳。跡見女学校の修学旅行か?]

 

 

大正六(一九一七)年十一月十七日・橫須賀発信(推定)・塚本文宛

 

拜啓

旅行中度々手紙を難有う十日の朝は五時や五時半ではまだ寐むくつて大船を通つたのも知らずに寐てゐはしませんでしたか ボクはちやんと眼をさまして文ちやんの事を考へましたさうして「くれびれたでせう」と云ひました

それでも文ちやんは返事をしないで ボクのゐる所を通りこしてしまつたやうな氣がします 丁度久米が來てとまつてゐたので、ボクは彼を起さないやうに そうつと起きて 顏を洗ひに行きました 黃いろくなりかかつた山の上にうすい靑空が見えて 少しさびしい氣がしました さうしでもう文ちやんは橫濱位へ行つてゐるだらうと思ひましたその時分はもう文ちやんも眼がさめてゐたのにちがひありません ボクが「お早う」と云つてからかつたらボクをにらめたやうな氣がしましたから

こんどお母さんがお出での時ぜひ一しょにいらつしやい その時ゆつくり話しませう 二人きりでいつまでもいつまでも話してゐたい氣がします さうして kiss してもいいでせう いやならばよします この頃ボクは文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい氣がします 噓ぢやありません 文ちやんがボクを愛してくれるよりか二倍も三倍もボクの方が愛してゐるやうな氣がします

何よりも早く一しよになつて仲よく暮しませう さうしてそれを樂しみに力强く生きませう これでやめます 以上

    十一月十七日         龍

   文 子 樣

 

[やぶちゃん注:ごちそうさま! 龍之介!]

芥川龍之介書簡抄83 / 大正六(一九一七)年書簡より(十五) 松岡譲宛

 

大正六(一九一七)年・消印十一月一日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・AKUTAGAWA

 

ここに二人の許嫁の男女がある さうしてそれが如何なる點でも幸福だとする その時その許嫁の男がこんど久米の書いたやうな小說を書いたとする――としてもその間には何の波瀾も起らなくはないだらうか だから久米のあれを發表したと云ふ事は周圍とかフイアンセとかに對する眼があいてゐないと云ふ愚によるのだ が、周圍は存外わかつてゐたかも知れない 同時にそれ丈フイアンセに對しては盲目同樣ぢやなかつたらうか こんな考へ方をするとあいつが氣の毒にもなつて來る

それから又あいつがあんなものを書くのは實際以上に幸福な自分を書いて慰めてゐると云ふ事もありさうな氣がする これはフイアンセに對して盲目なのと矛盾するかも知れない しかし盲目ならんとする努力と見れば矛盾ではなくなるだらう 强いて自分を幸福に書いて自ら慰めると云ふ事には多少の同情がない事はない 僕は君にわかれてからこんな二つの考へ方であいつをよりよく見る事が出來さうな氣がして來た さうしてさう見る事が義務のやうな氣もして來た それは愚だし愚だけに腹が立つがさう見ればあいつに對する好意だけは失はれずにすみさうに思ふよ 愚の方ぢや我々もいつどんな愚をやるか知れないからね

しかし愚は愚だね 歸つてあの小說を見たら又しみじみさう思つたよ 僕は君に話した通り純粹にはあの件の成立を喜んでゐないからそれだけあの小說を發表した結果にしても冷淡になり得られるのだがそれにしても愚なのでがつかりする

何か變動が起るかも知れないし又起りさうだがその原因はやつぱり自然に背いた罰だと思ふ どうもあの事を考ヘるとへんに不安になつていけない

十一月になつたら三土會前に來ないか 一日ゆつくり遊びたいから

   讓   君           龍

 

[やぶちゃん注:「フイアンセ」夏目漱石の長女筆子。ウィキの「松岡譲」によれば、『漱石の長女筆子の愛を巡って、親友の久米正雄と離反』し、『久米の求婚を内諾した筆子が松岡に変心したのを知り、久米に黙ったまま付き合』っていた。『大学卒業』『の翌年』の大正七(一九一八)年四月二十五日に『筆子と日比谷大神宮で結婚、精養軒で披露宴を行なう。その結婚式当日』、『朝日新聞』の『一面に久米を中傷するかのような記事が掲載される。これは松岡が書かせたものだとされている。この記事が逆効果を』生んで、『世間は久米に同情、相対的に松岡が悪者になる。義母である鏡子に執筆を禁じられていた松岡は反論の機会を失う。また』、『この件に関して沈黙する必要』の『なくなった久米も』、『この件で負った苦悩を吐露した作品を執筆』し、『特に』大正一一(一九二二)年の「破船」は『注目された。この作品発表後』、『松岡の長女が「あんな悪い人の子供と遊んではいけない」と目の前で連れ去られ、松岡はそれを久米のせいだと復讐心を燃や』した。『長女の件を新聞で語った上で、自身からの視点で筆子との恋愛を描いた』「憂鬱な愛人」を執筆したが、『大々的な宣伝にも関わらず』、『同作品は話題にならなかった。松岡は更に知人に長女だけを預けて』、『久米に会わせるなどをしたという』。『なお』、「憂鬱な愛人」では、『筆子への恋心を描きながらも、後に筆子が愛したのは自分であると知らされたと語るなど』、『この件に関しての松岡の発言には一貫性がない』。『なお』、『久米は早い段階で松岡に話し合いを求める手紙を書いたり』、『電話を掛けたりしたが、松岡が応じることなく』、『そのまま関係は断絶していた』。『戦時中は生まれ故郷の新潟に一家で疎開。住宅難の戦後は一家で雨漏りのするお堂に転がり込む日々であった。そこすら追い出された時は』、『妻の筆子が住む場所を求めて奔走』した。なお、『この時期、生活苦から』、『学生時代の友人である芥川龍之介からの手紙を売却』している。『久米正雄とは断絶状態であったが』、『戦後の』昭和二一(一九四六)年に和解した]。『この和解は戦後新潟に来た久米を松岡が訪ねたこと』がきっかけであった。『しかし自身の評伝を書いた関口には』、『和解後の久米を揶揄するような手紙を書いており、松岡が久米を心から許したわけでは無かった事が伺える。松岡は漱石山房の再建を熱望したが、他の門下生の協力が得られなかった。久米と再会したときに真っ先にこの件への協力を呼び掛け』ている。『なお』、『久米と筆子の件は、筆子の母である鏡子が漱石亡きあと家に男手が欲しいために結婚を強制させたと筆子の娘である半藤茉莉子が著書で語っている』。『また、久米と筆子の婚約期間中』、『久米を中傷する怪文書が夏目家に届く事件が起こった。久米にこの手紙について問い質しにきた鏡子に付き添った松岡が』、『その手紙を預かる。松岡は後にその手紙を書かされたという女性が反省して訪ねてきたので』、『目の前で焼いたと記する』。『しかし松岡の評伝を書いた関口は保管されていたというこの手紙を読んだと記しており、真相が分からない状態にある』とある。ぐちゃぐちゃで、気持ち悪(わり)イ……。

「三土會」広津和郎・谷崎潤一郎・芥川龍之介・江口渙・赤木桁平・松岡譲・久米正雄・山本有三・佐藤春夫・加能作次郎ら当時の新進作家たちが親睦会として、この大正六年の九月十五日に上野の森の五條天神社脇にある「韻松亭」(現存する。ここ。グーグル・マップ・データ)で第一回が催された。他に本郷の燕楽軒や万世橋駅の上にあったミカドを会場とした。名称は第三土曜日を定時開催としたことによる。筑摩全集類聚版脚注では、『岩野泡鳴が主導した文学グループ』とするが、これは「十日会」の誤りである(「十日会」には後に芥川龍之介も参加している。そうして、そこで、ファム・ファータル秀しげ子と出逢うことになるのである)。]

芥川龍之介書簡抄82 / 大正六(一九一七)年書簡より(十四) 塚本文宛

 

大正六(一九一七)年十月三十日・横須賀発信・塚本文宛

 

手紙を難有う 返事を書かなかつたのは この土日月の三日のうちに高輪へ上るつもりでゐたからです それが又行かれなくなつてしまひました そこで早速これを書きます

土曜の午後東京へかへるとまづ時事新報の友だちをたづねて用をすませそれから神田へ行つて賴んで置いた本を本屋で買つて夜七時頃うちへ歸りました すると客が殆同時に來て 俳句の話を遲くまで邦聽させられました 日曜日は朝まだ飯を食つてゐるうちに 上野山淸貢君(素木しづと云ふ女の小說家がゐます その人の御亭主です)が久米の紹介狀を持つてやつて來て 油繪を買つてくれと云ふのです 上野山君は肺病だしその繪にもバクテリアがくつついてゐさうで 難有くはないのですが 事情が如何にも悲慘なので とうとう一枚買ふ約束をしました(上野山君の事はあとで書きます)それが歸ると一時間たたない中に谷崎潤一郞君が赤いチョッキに黑の背廣を着てやつて來ました さうしてゆつくり尻を据ゑて盛に繪の話や小說の話をしました 一しよに飯を食つて それからお八つを食べて歸つたのですからちよいと六時間ばかりゐた譯です それから今度は僕の方が外へ出る支度をして本鄕の畔柳さんの所へ學校の用と私用とを兼ねて行きました そこに六時位までゐてすぐに芝へ行きました 丁度弟が旅行から歸つた所なので色々話をしてゐる中に十時頃になりましたから 泊る事にしました 月曜の朝は午前十時頃から本鄕の後藤末雄君のうちで帝國文學會の會合があるので 僕も委員とか何とかになつてゐますから 朝早く芝を出て後藤君の所へ行きました そこで晝飯を御馳走になつてゐると 遲れて來た江口渙君が僕と話をしたいと云ふのですが 僕には江口君の所へ行つてゐる時間も僕の所へ來て貰ふ時間もないので「ぢや步きながら話しませう」と云つて本鄕から田端まで步きながら いろんな事を聞いたり話したりしました それからうちへ歸つて一時間ばかり晝寐をして湯にはいるともう彼是五時です だから又橫須賀へ歸らなければなりません そこで飯を食つて洋服に着換へて大急ぎで新橋へかけつけました

 僕の三日間はこんな風にして慌しく立つてしまひました 又何時もこんな風に慌しく立つてしまふのです が、來週の三日のうちには上るつもりです(多分月曜日の午後から)さうしないと僕もさびしいから

寫眞ありがたう 圓い方がよくとれたと思ひましたから あれを貰ひました ああ云ふ形をしてああ云ふ顏をした西洋の畫があります 誰の何と云ふ畫だか覺えてゐないが 伊太利か何かのルネッサンス頃の畫です 男でも何でもよろしい 私はあれで結構です 五十江さんもあの圓い方のがよくとれてゐますね あの人の顏は昔のお雛樣に似てゐます

兄さんがこの間滿州から匪賊の首を斬る所の畫はがきをくれました 斬つてしまつた所です 滿州は野蠻ですね。あんな野蠻な所を旅行してかへつて來て文ちやんに叱られては可哀さうです 寫眞をとつてかくしてゐる方が惡いのだから 叱るのはおよしなさい 僕もそのうちにうつすつもりです が、無精だから何時になるかわかりません

さうさう上野山君の事を書くのでしたね 上野山君と素木さんとは兩方とも肺が惡くつて結婚したので猶惡くなつたのださうです 子供が二人ばかりあつて二人共やつぱり同じ病氣です 素木さんは結核性の何かで足を一本切りましたから 一本足です それで細君の小說も 御亭主の畫もうれないものですから暮しはひどく苦しいらしいのです 何でも茅ケ崎に家を持つてゐた時には家賃が滯つて 二人別々に遊びに出るやうなふりをして逃げて來たさうです ですから勿論夜具ふとんから家財は一切向うへとられてしまつたのです 上野山君は畫かきをやめて印刷所の職工になつて 月々二十圓づつとらうとしたさうですが それも口がなくてなれないらしいのです ああなるとたまりませんね それでも上野山君は非常に素木さんを愛してゐるやうです 或は寧 崇拜してゐるやうです 大分同情しました

それにしても僕たちの生活は幸福にしたいと思ひます うちはやつぱり鎌倉にあればいいと思つてゐます どうせ小鳥の巢みたいなものだから小さな家でよろしい 日あたりがよくつて 風さへ通ればそれで結構です さうしたらほんとうに落着けるでせう それが樂しみです

時々不良の女みたいな女流作家や作家志望者に遇ふとしみじみ文ちやんがあんなでなくつてよかつたと思ひます 作家にはああ云ふ種類の女と結婚してゐる人が大ぜいあります 僕には氣が知れません 文ちやんは何時までも今のやうでゐて下さい さうすると そのおかげで僕も餘程高等になれます

これでやめます 僕を思ひ出して下さい

    十月三十日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「この土日月の三日」カレンダーを見ると、大正六年十月三十日は火曜日で、その直前の二十七・二十八・二十九日を指していることが判る。

「時事新報の友だち」菊池寛。彼は大正五(一九一六)年七月に京都帝大文科大学文学部を卒業(在学中は同大教授となっていた上田敏に師事した。卒業論文は「英國及愛蘭土の近代劇」)後、上京、成瀬正一の父(「十五銀行」頭取)の縁故で『時事新報』社会部記者となっていた。既に見た通り、この大正六年に高松藩旧藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚していた。この二年後の大正八年、『中央公論』に「恩讐の彼方に」を発表し、好評を得、執筆活動に専念するために『時事新報』を退社している。

「上野山淸貢」(きよつぐ 明治二二(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)年:芥川龍之介より三歳年上)は洋画家。北海道札幌郡江別村(現在の江別市)生まれ。北海道師範学校図画専科(現在の国立北海道教育大学)修了。龍之介は今にも喀血して倒れそうな悲惨な様子に描いているが、彼は七十で老衰で亡くなっている。

「素木しづ」(しらきしづ 明治二八(一八九五)年~大正七(一九一八)年一月二十九日)は小説家。札幌生まれ。昆虫学者素木得一の妹。庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)卒業後、結核性関節炎が悪化し、右足を切断。大正二(一九一三)年、小学校から同窓生だった森田たま(後に作家・随筆家・政治家となった)に数日遅れて森田草平門下に入り、同年、処女作「松葉杖をつく女」を、翌年「三十三の死」を発表して、新進女流作家としての地位を築く。この二年前の大正四年に上野山清貢と結婚し(婚姻届を出したのは二年後のこの大正六年であった)、年末に子供をもうけた。しかし、この手紙の書かれた僅か三ヶ月後、肺結核のために伝染病研究所で亡くなっている。満二十二の夭折であった。

「畔柳さん」英語学者で第一高等学校教授であった畔柳芥舟。既出既注

「弟」新原得二。当時、満十八。

「後藤末雄」既出既注

「帝國文學會」筑摩全集類聚版脚注に、『雑誌「帝国文学」』(大正四年十一月に芥川龍之介の「羅生門」が発表された雑誌)『の編集会議。帝国文学は文科学術雑誌で明治二十八』(一八九五)『年一月創刊、大正九年一月終刊。大日本図書発行。東大出身者および学生の研究発表機関』とある。

「男でも何でもよろしい」その写真の文を誰かが見て、「男みようだ」と言ったのを、龍之介への手紙に文が書いたのであろう。

「五十江さん」山本喜誉司の妻と思わる五十枝の誤記であろう。

「兄さん」文の叔父で龍之介の幼馴染みの親友山本喜誉司。既出既注。

「匪賊」(ひぞく)は本来は「集団を作って掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す語であるが、日本では特に近代中国に於ける非正規の武装集団(ゲリラ)を卑称する言葉として用いられた。現代の中国人はこの語を日本人が使用する際には、一種の嫌悪的なアレルギを持っているので、注意されたい。

「うちはやつぱり鎌倉にあればいいと思つてゐます」龍之介と文の新婚生活が、一時期、鎌倉でなされたことは既に書いた。龍之介は晩年、その鎌倉での蜜月を、最も幸せだった、と述懐している。]

大和本草諸品圖下 ヲキニシ・蝦蛄 (オキニシ類・シャコ) / 「大和本草」水族の部――大団円!――

 

Last

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

ヲキニシ

 辛螺ニ似テカド多シ大ナル

 ハ長サ六七寸アリ味不辛

○やぶちゃんの書き下し文

をきにし

 辛螺〔(からにし)〕に似て、かど、多し。大なるは、長さ、六、七寸あり。味、辛〔(から)から〕ず。

――――――――――――――――――

蟲類

[やぶちゃん注:前の「ヲキニシ」の右下部に囲み字横書(右から左)で「蟲類」と記されてある。これは広義の「蟲類」(博物学では昆虫類だけでなく、広く無脊椎動物を含む謂い。実際、「大和本草巻之十四」の「水蟲 蟲之上」(私がこのブログ・カテゴリ『「大和本草」水族の部』で最初に開始したのが、「海参」(ナマコ)に始まるまさにそこであった)には蝦蛄」が含まれている)で、その「蟲類」パートの附録図が下図の「蝦蛄」から始まるという意味であろう。この後には、省略した左頁の陸生の虫の二図(「金蟲(キンチウ)」と「トビムシ」(これは湿気の強い場所に棲むとある))と続き(国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像。次も同じ)、最後は漢方生薬になりそうな「虎牙」(トラの牙(きば)の図)で「大和本草」全巻が終わっている。]

蝦蛄

 和名シヤクゲ又曰シヤコ

 本書載ㇾ之

○やぶちゃんの書き下し文

蝦蛄

 和名「しやくげ」、又、曰〔ふ〕、「しやこ」。本書に之れを載す。

[やぶちゃん注:「ヲキニシ」は、

腹足綱前鰓亜綱盤足目ヤツシロガイ超科 オキニシ科オキニシ属オキニシ Bursa bufonia dunkeri

或いは、オキニシ科 Bursidae の一種

であろう。小学館「日本大百科全書」の奥谷喬司先生の記載を元に記す(軟体動物を専門とされる奥谷先生の著作もごっそり持っている。先生が監修された「新編 世界イカ類図鑑 ウェブ版」は感動的!)。房総半島以南の岩礁潮間帯から水深二十メートルほどの所に棲息する。殻高七センチメートル、殻径五センチメートルに達し、殻は厚く、重くゴツゴツしていて、多少、背腹方向に扁平に潰れている。殻の左右に太い縦肋があり、後溝は明らかである。殻表は黄白色の地に途切れ途切れの黒色帯があり、隣り合う縦肋と縦肋の間には丸い瘤(こぶ)の列がある。殻口は丸く、殻口内は黄色い。外唇内壁には小瘤(しょうりゅう)がある。前水管溝は、多少、曲がり、後溝は細い管状である。厴(へた)は黄褐色の楕円形で、核は中央に寄っている。生体時は、普通、石灰藻で覆われ、著しく汚れているので、岩礁と見分けにくい。

「蝦蛄」は甲殻亜門軟甲綱トゲエビ亜綱口脚目シャコ上科シャコ科シャコ Oratosquilla oratoria 「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 蝦蛄」を参照されたい。

   *

 さても。二〇一四年一月二日に「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 海鼠」から始動して、実質五年半(二〇一六年と二〇一七年の二年間は三件のみで休眠状態)かかったが、遂に自分でも納得出来る形で、カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』を完遂した。実は、二〇二〇年九月十三日の「大和本草卷之十三 魚之下 ビリリ (神聖苦味薬)」で、一度、カテゴリの後に「【完】」を打ったのだが、半年後に、「諸品圖」を思い出し、それをやろうとしかけたところで、他にも「附錄」巻にも水族がごっそりあるのに気づき、そこから芋蔓式に、水棲哺乳類の脱漏等が、ぼろぼろ、ぼろぼろ、浮塵子の如く湧き出てきて、そこにまた、「水草類」なども気になり始め、結局、ずるずる、ずるずる、今日の今日までかかってしまった。ここまで付き合って下さった奇特な読者の方々に心より御礼申し上げる。 心朽窩主人藪野直史 敬白]

大和本草諸品圖下 海ホウザイ・クズマ・ヨメノ笠・辛螺 (ウミニナ或いはホソウミニナ・クロフジツボ・ウノアシ・レイシガイの一種か)

 

Kai9

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

海ホウザイ

 其形河卷子(ニナ)[やぶちゃん注:三字へのルビ。]ノ如シ

  河ニアルヲホウザイト云

○やぶちゃんの書き下し文

海ほうざい

 其の形、「河卷子(にな)」のごとし。河にあるを、「ほうざい」と云ふ。

――――――――――――――――――

クズマ

  仰ケル圖殻アツシ肉小也

 

俯圖

 

     仰圖

――――――――――――――――――

ヨメノ笠 ヨメノ皿トハ別ナリ

 内ニ肉少アリヨメノ皿ト云

         物ニ似タ

 ヨメノ笠ノ仰圖   リ海邊

         岩ニ付ケ

         リ

 ヨメノ笠ノ俯圖

○やぶちゃんの書き下し文

よめの笠 「よめの皿」とは別なり。内に、肉、少しあり。「よめの皿」と云ふ物に似たり。海邊の岩に付けり。

[やぶちゃん注:以下、キャプション。]

         「よめの笠」の仰圖

         「よめの笠」の俯圖

――――――――――――――――――

辛螺

[やぶちゃん注:今回は四種とも平凡社刊の下中弘氏編集・発行の「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年刊)の「貝原益軒」での波部忠重先生の同定に全面的に拠った。

「海ホウザイ」は、お馴染みのウミニナ(海蜷)で、

腹足綱吸腔目カニモリガイ上科ウミニナ科ウミニナ属ウミニナ Batillaria multiformis

或いは同属の、

ホソウミニナ Batillaria cumingii

で、波部先生は形はホソウミニナ型であると述べておられる。ウィキの「ウミニナ」によれば、『ウミニナよりも貝殻の膨らみが弱く円錐に近いこと、殻口が小さく円形で滑層瘤がないこと、石畳模様のきめが細かいことなどで区別するが、ウミニナと似た個体も多く同定が難しい』とある。流石は波部先生! 「ほうざい」の語源は不詳。但し、この円錐形の形と関係があることは間違いなく、所謂、仏塔(スツゥーパ)を思わせるところから、仏法の宝、「宝財」が元かと思ったりはした。ウィキにはしかし、『人や地域によってはこれらのウミニナ類を食用にする。日本ではこれらが豊富に得られる瀬戸内地方から九州にかけての地域でよく食べられ、例えば佐賀県では「ホウジャ」、長崎県では「ホウジョウミナ」などと総称し』、『塩茹でなどで食べる。食べる際は五円硬貨の穴で殻頂を折り、殻口から身を吸う。また台湾などではこの類を』「燒酒螺」『と総称し、ピリ辛味に調理したものなどが街中でも売られる。食用以外には肥料としてそのまま畑に撒く人もいる』とあり、これだと、「豊穣」「豊饒」辺りの転訛とも思われる。因みに、ヤドカリを備前や久留米で「ほうざいがに」と呼んでいるが、これは背負った貝殻を主体とした異名と思われ、もう少し調べてみる価値がありそうだ。『河にあるを「ほうざい」と云ふ』は、軟体動物門腹足綱吸腔目カニモリガイ上科カワニナ科カワニナ属カワニナ Semisulcospira libertina などのこと。「大和本草卷之十四 水蟲 介類 河貝子」を参照。

「クズマ」は、波部先生がズバリ、

節足動物門汎甲殻亜門マルチクラスタケア上綱 Multicrustacea 六齢ノープリウス綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目無柄(フジツボ)目フジツボ亜目クロフジツボ上科クロフジツボ科クロフジツボ属クロフジツボ Tetraclita japonica

に同定されておられる。高さ四センチメートルで、底面の直径五センチメートルに達するフジツボでも大形種で、岩礁の潮間帯上部に群れをなして附着し、クロフジツボ層を形成する。本州北部より九州南端まで分布する。急な円錐形で、厚い四枚の周殻から成るが、境界がはっきりしないことが多い。殻口は円形で、小形個体では小さいが、老成すると、大きくなる。殻の内部には多数の管状の穴があり、温度調節に役だっていると考えられる。地方によっては軟体部をみそ汁の実にする(小学館「日本大百科全書」の武田正倫先生の解説に拠った。武田先生は十脚甲殻類を中心とした動物分類系統学が御専門で、その著作を私は非常に多く所持しており、よくお世話になる)。私は函館で食べたが、えも言われぬ旨さであった。なお、今回の学名はしばしば参考にさせて戴いている鈴木雅大氏の優れた学術サイト「生きもの好きの語る自然誌」の同種のページのもの(生態写真が六枚有る)を使用させて貰った。「クズマ」という異名の語源は不詳。調べてみたが、ネット上にはこの呼称は見当たらない。

「ヨメノ笠」は流石に私でも図とキャプションから、

冠輪動物上門軟体動物門腹足綱笠型腹足亜綱カサガイ目(Order Patellida)コカモガイ(ユキノカサガイ)上科コカモガイ(ユキノカサガイ)科パテロイダ属ウノアシ Patelloida saccharina lanx

と判った。これも鈴木氏の上記サイトの同種のページの学名を用いた(生態写真が六枚有る。素晴らしい接写だ!)。殻長四センチメートル、殻径三センチメートル、殻高一センチメートルに達する。殻は笠形で、殻頂は少し前方に寄り、そこから通常は七本の強い放射肋が出ており、その先端は突き出て、星形になっている。この形が水鳥のウミウ(鳥綱カツオドリ目ウ科ウ属ウミウ Phalacrocorax capillatus )の蹼(みずかき) に似ていることから、「鵜の足(脚)」の名がある。殻表は黒青色、内面は乳白色で頂部は黒褐色、軟体の足は黄色を帯びる。北海道南部以南に普通に見られ、太平洋・インド洋に広く分布し、潮間帯の岩磯にすむ。一定の場所に棲み、潮が引くと、そこから這い出して餌を漁り、再び元の場所に戻る帰巣性がある(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。酷似した標準和名にキャプションで出てくる「大和本草卷之十四 水蟲 介類 ヨメノサラ(ヨメガカサ)」で既出の「ヨメガカサ」があるが、同じコカモガイ(ユキノカサガイ)上科 Lottioidea ではあるものの、全くの別種なので注意されたい。

「辛螺」は、「にし」或いは「からにし」と読んでいると思うが、波部先生が、

腹足綱 Muricoidea 上科アッキガイ科 Rapaninae 亜科レイシガイ属 Reishia

の『レイシガイの一種か』とされる(代表種はレイシガイ Reishia bronni (レイシア・ブロンニ))。推定同定された波部先生の執筆になる、平凡社「世界大百科事典」の「レイシガイ」の記載を表記の一部を変え、補足データを加えて、引用させて戴く。「茘枝貝」 は殻の高さ六センチメートル、幅四センチメートルに達するが、普通は高さ四センチメートルほどである。灰黄白色で黒斑があり、堅固で太い。巻きは六階で、各層に二本、大きい体層には四本の太い肋を巻くが、肋上に強く大きい瘤状の節がある。その形が植物のレイシ(双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis )の実に似ているので、この名がある。殻口は広く大きく、内側は黄橙色。外縁は殻表の肋に応じて湾曲する。厴(へた)は革質。房総半島と男鹿半島以南、台湾まで分布し、潮間帯から水深二十メートルまでの岩礁に棲む。夏季、岩の下側やくぼみに、多数、集合して産卵する。透明な短い棒状の卵囊を、多数、固めて産みつけるが、卵が黄色なので全体が黄色に見える。肉食性で、岩に付着しているフジツボやカキなどを好んで食べるので、カキ養殖の害貝として嫌われる。肉は食べられるが、辛くて、不味い。外套膜の鰓下腺(さいかせん)の粘液は日光にあてると、紫色になるので、本邦では古くから貝紫(かいし)として知られ、嘗て志摩の海女はこの粘液で手拭いなどを染めたという。近似種で北海道南部以南に分布し、潮間帯の岩礁に棲息するイボニシ R. clavagera はこの種に似るが、殻は黒みが強く、瘤も弱い(ここまでが波部先生の主文。なお、同じく貝紫の原材料として知られたイボニシは、嘗ては別属とされて、ais ­ais clavigera であったが、一九七一 年に Reishia 属に移されている)。他にクリフレイシ(栗斑茘枝)Reishia luteostoma がいる。]

大和本草諸品圖下 ワレカラ・梅花貝・アメ・(標題無し) (ワレカラ類他・ウメノハナガイ・ヒザラガイ類・ミドリイシ類)

 

Kai8

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

ワレカラ 海中ノ藻スム小貝ナ

リ古歌ニヨメリ色淡黒大キサ

三四分ニ不過其殻(カラ)ワレヤスシ

ミゾガイ。井  ガイナトニ似テ

ナリ

藻ハ。ナゴ    ヤト云淡靑

色カハケバ紫色ナリ日ニ※(サラ)セバ

白色可ㇾ食性不好或曰松葉ト云藻ニモ此貝アリ松藻ク乄莖大也

[やぶちゃん注:「※」=「月」+「慕」。「曝」の誤字としか思えない。訓読ではそれに代えた。]

○やぶちゃんの書き下し文

われから 海中の藻に、すむ小貝なり。古歌に、よめり。色、淡黒、大きさ、三、四分に過ぎず。其の殻(から)、われやすし。「みぞがい」・「ゐがい」などに似て、小なり。此の藻は、「なごや」と云ふ。淡靑色。かはけば、紫色なり。日に曝(さら)せば、白色。食ふべし。性、好からず。或いは曰はく、『「松葉」と云ふ藻にも此の貝あり』〔と〕。松藻は長くして、莖、大なり。

――――――――――――――――――

梅花貝

 形小ナリ長五分許

 

  ヲモテニ文アリ

 

        ウラ白

――――――――――――――――――

アメ

長一寸餘海邊ノ岩ニ付ケリ

ウラニ肉アリ食ヘバ味甘シ肉ノ

色微紅シ

生ニテモ

煮テモ

食フ

[やぶちゃん注:以下は、下方の図のキャプション。]

    アメノ背ノ甲也

    節段ノ文アリ

○やぶちゃんの書き下し文

あめ

長〔(た)け〕一寸餘り。海邊の岩に付けり。うらに肉あり。食へば、味、甘し。肉の色、微〔(かすか)に〕紅し。生にても、煮ても、食ふ。

   『「あめ」の背の甲なり』

   『節〔(ふし)の〕段の文〔(もん)〕あり』

――――――――――――――――――

 

海中所ㇾ生スル色白珊瑚琅玕

之類如ㇾ樹有而數寸ナル

        其質玉石之

         類如ㇾ花

           者非

          ㇾ花似

           莖端

○やぶちゃんの書き下し文

海中の〔→に〕生ずる所〔のもの〕。色、白〔し〕。珊瑚・琅玕〔(らうかん)〕の類。樹のごとし。小さくして數寸なる者、有り。其の質、玉石の類〔なり〕。花の如きは、花に非ず。莖の端に似〔たり〕。

[やぶちゃん注:「ワレカラ」ここで貝と言っているが、無論、現在のワレカラは、貝類ではなく、節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ドロクダムシ亜目ワレカラ下目 Caprellida に属するワレカラ類である。代表種は、

ワレカラ科ワレカラ属マルエラワレカラCaprella acutifrons

トゲワレカラ Caprella scaura

スベスベワレカラ Caprella glabra

 などである。しかし、益軒は、大和本草卷之十四 水蟲 介類 ワレカラ」の本文でも、「われから」を微小貝で「殻の一片なる螺」(殻が一片しかない巻貝)という奇体な表現で示しているのである。現行、江戸以前の本邦での「われから」を、現在のワレカラ以外の生物に比定している記載や人物を私は知らないが、しかし、私は実は、本当に中古以降から見られる古文献の「われから」と近代以降の生物学的な「ワレカラ」がイコールであると考えることに、ある種の躊躇を感じている。「伊勢物語」第五十七段(モデルの在原業平は元慶四(八八〇)年没であるから、原「伊勢物語」自体はそれ以降の成立であるが、内容自体は無論、それ以前に遡る内容である)、

   *

 むかし、男、人知れぬもの思ひけり。つれなき人のもとに、

  戀ひわびぬ海人(あま)の刈る藻に宿るてふ

     われから身をもくだきつるかな

   *

や、それを受けて、物語の一つに挿入として再現される、同書の六十五段の女の詠む一首、

   *

  海人の刈る藻に住む蟲のわれからと

     音をこそ泣かめ世をば恨みじ

   *

が、最も時間的に古い使用事例となる。何故なら、この歌は「古今和歌集」(原初版は延喜五(九〇五)年奏上)の巻第十五「戀歌五」に(八〇七番)、典侍(ないしのすけ)藤原直子(なほいこの)朝臣の歌として出るからである彼女は生没年未詳であるが、貞観一八(八七四)年従五位下、延喜二(九〇二)年正四位下に上っている。典侍は従四位下以上でなくてはなれないからである。「枕草子」(ほぼ全体は長保三(一〇〇一)年成立)の、「虫尽くし」の章段の冒頭に、

   *

 蟲はすずむし、ひぐらし、蝶、松蟲、きりぎりす、はたおり、われから、ひを蟲[やぶちゃん注:蜉蝣(かげろう)のこと。]、ほたる。

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などが現在、古典籍に出る最古の使用例であるが、これらから、遅くとも九世後半には既に「われから」が海藻にくっついて生活している虫(広義の海産小型生物)であることを、ろくに浜遊びをしたこともない京の上流階級の人間たちが、実際に乾燥した現物の「われから」の死骸を見て知っており、現に「われから」と名指していたと考えねばならない。「われから」が「我から」を導き出すための序詞であるなどということには、和歌嫌いの私は冷淡であるが、博物学的興味からは、非常に惹かれるのである。「われから」は即物的には「割殻」「破殻」(或いは「から」を殻だけの中身が「空(から)」と採ってもよい)であろう。古代より献納された乾した海藻類や塩蔵されたそれらに、ミイラとなった細いワレカラが附着しているのを見たら、まず、当時(とすれば、「われから」という固有名詞はなくとも、遙か古代に於いて虫或いは貝と認識されていたことになる。私はその認知は縄文時代まで遡ると考えている)の都の貴賤総ては、それを、海藻に棲んでいる虫の死骸(バッタかナナフシをごくごく小さくした虫)、或いは、中身のなくなった貝の殻と考えたことは想像に難くない。しかし、これは「われから」=「ワレカラ」等式ありきの垂直的思考であり、立ち止まって考えてみれば、或いは「われから」は、ごく小さい奇体な海老みたような今の「われから」類ではなくて、本当に貝――一時期或いは終生を海藻の藻体上に匍匐して生活していた微小貝類であった――可能性を考えてみる必要はあるのではないか? と私は思うのである。それは、後の(貝原益軒は寛永七(一六三〇)年生まれで、正徳四(一七一四)年に没している)、江戸後期に活躍した博物学者栗本丹洲(宝暦六(一七五六)年~天宝五(一八三四)年)や毛利梅園(寛政一〇(一七九八)年~嘉永四(一八五一)年)の図譜を電子化してきた経験から、そう感ずるのである。例えば、丹洲の「栗氏千蟲譜」巻七及び巻八より抜粋した私のサイト版「蛙変魚 海馬 草鞋蟲 海老蟲 ワレカラ 蠲 丸薬ムシ 水蚤」の三つの別な図に出る「ワレカラ」を見られるがよい。三つ目のそれでは、まさに本「大和本草」の虫説が記されて、丹洲はそれを否定していないのである。因みに、二枚目の「われから」はナナフシ型ではなく、ワラジムシ型で、ワレカラではないのである。そこで、私はこれを海岸に打ち上がった海藻に附着していた海浜性の虫と捉え、四年前に、補正注をし、

   *

下に海藻(種不明)に付着したワレカラ八個体の図。これは形状からこの図が正確なら、これが打ちあがった海藻に附着しているものであれば、

甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目ハマトビムシ科 Talitridae

ハマトビムシ類の仲間と考えてよいと思うが、転載図である上に、図のスケールが不明(海藻が同定されれば、スケールのヒントにはなると思われるが)なため、体長十五ミリメートルの一般種の、

ハマトビムシ科ヒメハマトビムシ属ヒメハマトビムシ Platorchestia platensis

であるか、体長二十ミリメートルの大型種の、

ヒメハマトビムシ属ホソハマトビムシ Paciforchestia pyatakovi

であるかは不明である。但し、これが海中に浸った状態のものを描いたとすると(当時の博物画の場合はちょっと考えにくい。そのような生態描写の場合は、そうした注記をするものである。但し、これは写しの写しだからこれはその作業の実際を写した丹州自体が知らないものと思われる)、海浜の砂地及び砂中にしかいないハマトビムシは無効となり、それに形状が近く、海中の藻場で藻に附着している種ということになる。その場合は例えば、

フクロエビ上目端脚目モクズヨコエビ科モクズヨコエビ属フサゲモクズ Hyale barbicornis

などのモクズヨコエビ科 Hyalidae の仲間

などが想定出来る。

   *

と大真面目に「非ワレカラ説」をぶち上げているのである。さらに、毛利梅園の「梅園介譜 ワレカラ」をまず見て貰おう。「しっかり、ワレカラじゃん!」と言うなかれ。本文をよく読みなさい。冒頭から、『藻に住む虫の「ワレカラ」とは、別なり。藻にすむ「ワレカラ」は小貝なり。貝の部に出(いだ)す』と書いてあるのだ! それが、「梅園介譜 小螺螄(貝のワレカラ)」だ! その絵がこれだ! くっついているのは? どうだい? ワレカラなんぞじゃないよ! 明らかに微小な巻貝なのだよ! 残念乍ら、梅園の絵のそれは、モズクに附着する六個体が描かれてあるが、私は微小貝の知見に乏しいので、それ以上に進むことは遠慮した。其の専門の方に見て貰って同定して戴ければ幸いと思っている。よろしくお願い申し上げるものである。キャプションによれば、「大きさ、三、四分」で九ミリメートルから一・二センチメートルで、「みぞがい」(先に倣えば、淡水の二枚貝であるイシガイ科イケチョウガイ属イケチョウガイ Hyriopsis schlegelii )或いは「ゐがい」(イガイ目イガイ科イガイ Mytilus coruscus )などをごく小さくような感じとする。しかし、ということは、このキャプションを書いた者は「われから」を明確な二枚貝と認識していたことを示すことになる。以下、「なごや」とは、益軒のフィールドである九州地方で、紅色植物門紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla に代表されるオゴノリ科Gracilariaceae のオゴノリ類を言う方言である。「大和本草卷之八 草之四 ナゴヤ (オゴノリ)」参照。『「松葉」と云ふ藻』「松藻」は本邦では褐藻植物門褐藻綱ヒバマタ亜綱イソガワラ目イソガワラ科マツモ属マツモ Analipus japonicus 及びイトマツモ Analipus filiformis・グンジマツモ Analipus gunjii の三種が知られる。「大和本草卷之八 草之四 松藻(マツモ)」参照。

「梅花貝」斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ目ツキガイ超科ツキガイ科ウメノハナガイPillucina pisidium の異名。殻長約七ミリメートルの微小貝で、梅の花弁に似ている。表面は白色又は淡黄色。北海道南部以南の水深約三十メートルまでの内湾の砂泥地に棲息する。学名でしばしばお世話になっているMachiko YAMADA氏の「微小貝データベース」のこちらで大きな画像が見られる。

「アメ」所謂、「ヒザラガイ」(膝皿貝)、海岸の岩場の上に張りついて動きを殆んど見せないように見える(多くは夜行性であるため)、比較的扁平な体で、背面に一列に並んだ八枚の殻を持っており、現生の軟体動物では節足動物のような体節制を思わせる姿を持った生物であるヒザラガイ類である(但し、「アメ」という異名はネット上では確認出来なかった。或いは、軟体部の飴色の「あめ」か?)。但し、あれは実際には体節ではなく、「偽体節」であるとされている。軟体動物門多板綱 Polyplacophora 新ヒザラガイ目 Neoloricata に属する。現生種(約八百三十種)はサメハダヒザラガイ亜目サメハダヒザラガイ科 Leptochitonidae・マボロシヒザラガイ亜目マボロシヒザラガイ科マボロシヒザラガイ属 Choriplax・ウスヒザラガイ亜目ウスヒザラガイ科 Ischnochitonidae・同ヒゲヒザラガイ科 Mopaliidae・同サケオヒザラガイ科 Schizochitonidae・同クサズリガイ科 Chitonidae・ケハダヒザラガイ亜目ケハダヒザラガイ科 Acanthochitonidae・同ケムシヒザラガイ科 Cryptoplacidaeで、本邦では現世種で約百種が知られる。参考にしたウィキの「多板綱」によれば、『現生の軟体動物では最も多くの殻を持つ』。『体が偏平で、下面は広い足となっていて基盤に吸着する点は腹足類と同じであり、特にアワビやウミウシのように全体が偏平なものはそれらと似ていなくも無いが、内部構造等には重要な差異があり』、全く『別個の分類群となっている』。『特徴的な形態を持つため、中国語ではスッポンに例えた石鼈(シービエ)という名が使われてきたが、日本にも様々なものに例えた地方名がある』。『福岡県の志賀島では「イソワラジ」と呼び』、『山口県萩市では』、『岩から剥がしたときに丸まる習性から』、『老人の背中になぞらえて「ジイノセナカ」「ジイノセナ」「ジイノセ」「オジノセ」「バアノセナ」「ジイとバア」「ジイジイババアバア」などと呼ばれる』。『島根県の隠岐では「オナノツメ」』『と呼ぶほか、「ハチマイ」「ハチマイガイ」(八枚貝)と呼ぶ地方も多数ある』。『全体に楕円形等の形をしており、多少細長いものもあるが、いずれも輪郭はほぼ滑らか。左右対称で腹背方向に偏平、背面はなだらかな丸みを帯びる。背面に感覚器など特に目だった構造は無い。大きさは全長数』センチメートル『程度のものが多いが、最大種のオオバンヒザラガイ』ケハダヒザラガイ亜目 ケハダヒザラガイ科オオバンヒザラガイ属オオバンヒザラガイ  Cryptochiton stelleri 『は普通で』二十センチメートル、時に四十センチメートルにも達する超大型種で世界でも最大種である(リンク先に写真有り。かなり強烈なので自己責任でクリックされたい)。『背面は厚い外皮に覆われ、刺や針、鱗片などが並んでいる。その配列に体節のような規則的な繰り返しが見られることが多い。刺は集まって刺束を形成することがあり、これもやはり』、『対をなして規則的に並ぶ』。『正中線上には、前後に並んだ』八『枚の殻板(shell plate)がある。最も前の殻板を頭板、最後尾のものを尾板、その間のものを中間板と言う。殻板は密接して並び、前端は前の板の下になった瓦状の配置をするが、互いにやや離れている例もある。殻周辺の部分を肉帯(girdle)という。このように殻が前後に分かれているので、この類は体を腹面方向に大きく折り曲げることができる。背中に向けても多少曲がるが、左右にはあまり曲がらない。ただし殻がやや離れていて細長いケムシヒザラガイ』(ケハダヒザラガイ亜目ケムシヒザラガイ科ケムシヒザラガイ属ケムシヒザラガイCryptoplax japonica )『などは左右にもかなり大きく曲がる』。『腹面の周辺部は背面の続きになっているが、中央には広く平らな足があり、その間にははっきりした溝がある。この溝は外套腔に当たる部分で、外套溝(pallial groove)と呼ばれる』。『足は腹足類の足によく似ており、粘液で覆われ、その面で岩などに吸着することができ、またゆっくりと這うことができる。足の前端の溝の間からはやや突き出した口があり、一部の種ではその周辺には触手状突起が並ぶ。この部分が頭部であるが、目や触角は無く、歯舌が発達している』。『足の側面側の外套溝には鰓があり、これは足の側面全体に対をなして並ぶものと、その後方部の一部だけにあるものとがある。鰓の数は』六『対から』八十八『対に達するものまであり、対をなしはする』ものの、『殻の配置等との対応関係は無い。また、同一種でも数にやや差があったり、左右で同数でないことも珍しくない。足の後端の後ろに肛門が開く』。『この類には、外面に目立った感覚器がない。しかし、実際には殻表面に多数の穴が開いており、これが感覚器として機能している。穴には大孔と小孔があり、ここに内部から枝状器官 (aesthete)と呼ばれる物が入り込んでいる。大孔には大枝状器官(macroaesthete)、小孔には小枝状器官(microaesthete)がはいっており、後者は前者の分枝にあたり、一つの細胞のみからなる。これらはさまざまな感覚をつかさどると考えられるものの』、『詳細は不明であるが、少なくとも光受容の機能をもつとされる。また』、『一部の群では』、『この部分にレンズを備えた殻眼をもつ』。『その他、肉帯や外套膜の下面などにも小さいながらもさまざまな感覚器がある』。『消化管は口から続く咽頭、やや膨大した胃、細長く旋回した腸からなる。口腔の底面には歯舌があり、表面には磁鉄鉱を含む小さな歯が並んでいる。また胃には腹側に』一『対の肝臓がつながる』。『循環系はよく発達した心臓と血管からなる。心臓は体後方の囲心腔に収まり』、一心室二心房を『持つ。血管は心臓から両側に伸び、体の側面側を鰓に沿って前に向かう前行大動脈となる』。『排出器は腎管系で、左右』一『対を持つ。体の両側面近くを前後の走り、前半部が内臓の間に細かい枝を出し、後方では囲心腔に』漏斗『状の口を開く。中程から外への口が外套溝に向かって開く』。『神経系は主要なものが』、『体の側方を前後に走る側神経幹と、その内側をやはり前後に走る足神経幹であり、前方では口周辺にいくつかの神経節や神経連合によってつながるが、脳と言えるほどのまとまりはない。それより後方では上記の都合』二『対の神経幹がほぼ平行に走り、それらの間にほぼ等間隔に神経連合があるため、ほぼ』梯子状『神経系となっている』。『生殖系については、基本的には雌雄異体である。消化器の背面側に生殖巣が』一『つあり、左右』一『対の管を介して外套溝に口を開く』。『軟体動物はその発生などから環形動物との類縁性が主張され、また』、『環形動物は体節制の観点から節足動物と近縁と考えられていたことがある。これを認めると』、三『群は近縁であることになるので、軟体動物も本来は体節制を持っていて』、二『次的にそれを失ったものではないかとの推測があった。その根拠の一つがこの類の構造である。ただし、軟体部には体節はない。軟体部にも体節(に似た構造)が見られるのは、現生の軟体動物では単板綱のネオピリナ類』(現生貝類で正真正銘の唯一の「一枚貝」類である「生きた化石」軟体動物門貝殻亜門単板綱 Monoplacophora Tryblidiida Tryblidioidea 上科ネオピリナ科 Neopilinidae 。最初の発見は一九五二年でパナマ沖の深海底で、ネオピロナ属ネオピリナ Neopilina galatheae と命名された。現在は七属二十種ほどが知られている。そもそもがこの単板類は古生代カンブリア紀からデボン紀に栄えた原始的形態をもつ軟体動物であった。「大和本草附錄巻之二 介類 片貝(かたがひ) (クロアワビ或いはトコブシ)」の私の注を参照)『とその近縁種のみである』。『確かに背面の殻の並びは甲殻類の背甲(例えばダンゴムシ』節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目 Oniscidea、或いはワラジムシ亜目 Ligiamorpha 下目 Armadilloidea 上科ワラジムシ科 Porcellio 属ワラジムシ Porcellio scaber )『を思わせ、刺束を持つものでは』、『その配列もこれと連動する。また』、『内部では殻と筋肉の配列が連動しており、やはり』、『強く体節制を示唆すると取れる。しかし、鰓は対をなしてはいるものの、殻の配置とは無関係であり、またその対も完全なものではない。内部では神経系が』梯子状では『あるが、その区切りは』、『他の臓器とは必ずしも連動していない。また』、『体腔は限定され、また』、『排出器にも体節制を思わせる特徴はない。節足動物との類縁性が否定されたこともあり、近年では軟体動物は環形動物と近縁ではあるが、両者が分化した後に環形動物で独自に体節制が発達した、という考えに傾きつつあるようである』。『卵は寒天質の皮膜に包まれた紐状に海中に放出され、体外受精する。特別な配偶行動は知られていないが、一部の種で繁殖期に集まったりする例は知られている。卵割は全割で螺旋卵割が明瞭』である。『卵の中でトロコフォア幼生』(Trochophore larva:担輪子。軟体動物や環形動物の幼生期に見られる形態名)『の形を取る。トロコフォアは球形に近く、その繊毛帯の後方の背面側に殻を、腹面側に足を分化することで親の形に近くなる。この状態で孵化したものはその繊毛帯で遊泳するプランクトン生活を行う。この状態をベリジャー幼生』(veliger larva:軟体動物に広く見られる幼生の形態名。被面子。通常はトロコフォア幼生の次段階に与えられる)『としたこともあるが、一般のそれとは異なり、トロコフォアとほとんど変わらない。やがて繊毛帯より前の部分は次第に縮小して頭部となり、幼生は底性生活を始める。なお、この頃までの幼生は腹面の頭部近くに』一『対の眼を持つが、その後消失する。また、殻については最初から』八『枚が形成される例もあるが、当初は』七『枚で、最後に尾殻が追加されるものが多い』。『殻の』内、七『枚が先に生じる点は、無板類』(軟体動物門無板綱 Aplacophora。深海底に棲む蠕虫。代表種はサンゴノホソヒモ科カセミミズ属カセミミズ Epimenia verrucosa 。綱名から判る通り、殻を一切持たない)『において発生途中で』七『枚の殻の痕跡が見られるとの観察があり、両者の系統関係を論じる際に重視された経緯がある。ただし、無板類での観察は、その後認められず、疑問視されている』。『すべて海産で、一部には潮間帯の干潮時には干上がるような場所に生息するものもあるが、ほとんどはそれ以下に住み、深海に生息する種もある。岩やサンゴ、貝殻などの固い基盤の上に付着している。砂や泥の上で生活するものはほとんどいない。基盤上をはい回り、歯舌でその表面のものを嘗め取るようにして食べるのが普通である。多くは草食性で付着藻類を食べるものが多いが、より深い水域ではヒドロ虫類』(刺胞動物門ヒドロ虫綱 Hydrozoa)『やコケムシ類』(外肛動物門 Bryozoa。淡水産よりも海産種が多く、潮間帯から深海にまで分布する。微小な個虫が、多数集まって樹枝状・鶏冠状・円盤状などの群体を形成する。群体は石灰質又はキチン質を含んでおり、硬く、岩石や他の動植物に付着する。それぞれの個虫は虫室の中に棲んでいる)『を食べるもの、雑食性のものも知られる。肉食性の種でババガセ』(ウスヒザラガイ亜目ヒゲヒザラガイ科ババガセ属ババガセ Placiphorella stimpsoni )『などは動かずに口の部分を浮かせて物陰を作り、そこに潜り込む小動物を捕食する』。『多くは夜行性で、昼行性の種は少ないとされる。運動は緩慢で、ゆっくりと這う。一部では決まった場所に付着し、移動後もそこに戻る帰巣性が知られている。また、特定の基質と結び付いて生活するものも知られ、ある種の海藻の上に付着するもの、海綿の群体の上に生活するもの、深海底に沈んだ材木に付着するものなどがある。熱水鉱床に出現するものも知られる』。『岩に張り付く際には、体が殻に覆われてはいないが』、『その表面は丈夫であり、また殻の配列も曲げられるため、岩の表面やくぼみにぴったりした形になって張り付くので、非常に剥がしづらい。剥がした場合には腹面を折り曲げるようにして丸くなる。その様子はダンゴムシ』(ワラジムシ亜目Ligiamorpha 下目 Armadilloidea 上科オカダンゴムシ科 Armadillidiidae のダンゴムシ類。或いは、同科オカダンゴムシ属オカダンゴムシ Armadillidium vulgare )『にやや似ている』。『分布域としては世界に広くあるが、特にオーストラリア周辺に多いとされ、日本近海はむしろ種数が少ないという』。『ヒザラガイ類は一般的に小柄なものが多く、生息場所によってはカビのような臭みの強いものがおり、また採集や処理が面倒なことから』、『他の多くの地域では食品として重要なものではなかった。食用とすることは可能で、筋肉質の足が発達しており』、『アワビなど磯の岩場に張り付く巻貝類と似た感覚で食べられ、生息条件の良い場所のものは海藻の旨味を凝縮したような風味がある』。本邦のヒザラガイの代表的な一種であるウスヒザラガイ亜目クサズリガイ科ヒザラガイ属ヒザラガイ Liolophura japonica 『などは、鹿児島県奄美群島の喜界島では「クンマー」という呼び名で呼ばれる高級食材であり、茹でたあと』、『甲羅(殻)を取り、酢味噌和えや煮付けや炒め物で食べられることが多い。また、台湾の離島蘭嶼の東海岸ではタオ語で bobowan と呼ばれ』、『食用にするが、乳児のいる女性は食べてはいけないとされている』。『喜界島以外の奄美群島では、「グズィマ」「クジマ」』『などと呼ばれ、まれに食用にされる寒流域のオオバンヒザラガイは』、『大型で』、『肉質も柔らかく、その生息域では重視された』。『アイヌやアメリカ先住民(アレウト族など)は古くから食用としており、前者では』、『アワビとの間の住み分け由来話の伝承があるなど、注目されていたことが分かる』(これは後述する)。『アイヌ語では「ムイ」という』。『また、オオバンヒザラガイの殻の』一枚一枚は『蝶の様な形をしている事から、襟裳岬では「蝶々貝」と称して土産品として売られている』とある。残念なことに、私は未だ食したことがなく、何時か必ず食べたく思っているのだが、茸本朗(たけもとあきら)氏のサイト「野食ハンマープライス」の「ヒザラガイで割とリアルに死にかけた話:野食ハンマープライス的 自然毒のリスクプロファイルを見ると、かなり重篤なアレルギー症状が出る場合があることが判る。アレルギー体質の方はやめた方がよい。

 さて、私の大好きな、アイヌに伝わるムイ(オオバンヒザラガイ)とアワビとの間の戦いと住み分けの物語である。ここでは、まず、室蘭市の公式「ふるさと室蘭ガイドブック」(PDF)から引用する。「85」ページにある「銀屏風とムイ岩の伝説」である。注意が必要なのは、ロケーションで、神話であるだけにスケールがワイドであることである。「銀屏風」の方は室蘭市の絵鞆岬のここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)で、「ムイ岩」は「銀屛風」そこから南に直線で約七十キロメートルほども離れた函館の東方亀井半島の南の函館市浜町に属する武井の島」である。島の全景は対岸にある「武井の島展望台 (憩いの丘公園)」のサイド・パネルの写真がよい。なお、ここで登場するアワビはロケーションから腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビ Haliotis discus discus の北方亜種とされるが、同一種説もある) と考えてよい。

   《引用開始》

 銀屏風には「チヌイェピラ」(彫刻してある崖)というアイヌ語地名がついていました。絵鞆町に近い方がポン(小さなという意味)チヌイェピラ、マスイチ浜に近いほうがポロ(大きなという意味)チヌイェピラです。そして、その白い断崖が波に洗われて出来た小さな島を、アイヌは「ムイ」(箕(み)という意味で大きなザルのこと)と言っていました。

 昔、チヌェカムイ(アワビの神)とムイカムイ(箕の神)が、勢力争いのために、ここで戦ったことがあります。この戦いで、ムイカムイは箕で砂をかき集め立派なチャシ(砦)を築いて立てこもり、チヌエカムイは貝で砂を集めてチャシを作りました。箕と貝では砂を集める量が比べものにならず、アワビの神のチャシは貧弱なものでした。結局、アワビの神は箕の神に負けて逃げ出してしまうのですが、この時に流した涙が岩を削り、その跡がポンチヌイェピラとポロチヌイェピラ、そして、箕の神のつくったチャシが箕の形をした「ムイ岩」だと言うのです。

 なお、ムイとは、赤褐色の体内にウロコ型の 8 枚の貝殻を持つ貝の一種で、アワビを貝の中から抜いたようなものです。大きいものは、体長 40cm にも達します。

   《引用終了》

ここでは大事な住み分けの部分が示されていない。そこで、オオバンヒザラガイの写真(軟体部に埋もれている八枚の貝殻も見られる。なお、こちらはまず問題なく見られるので、大丈夫)や生態学も含めて非常によく書かれある、「北海道大学」公式サイト内の「水産学部水産科学院 北方圏貝類研究会」の函館市の都市伝説のものを引くと(コンマを読点に代えた)、

   《引用開始》

 函館市の戸井町にある戸井漁港の沖合に武井ノ島(むいのしま)という岩礁がある。ムイとはアイヌ語で箕(みの)を意味し、岩礁の名前の由来は、箕に似ていることに由来すると考えられている。昔, この海域にムイ(オオバンヒザラガイ)とアワビが雑居していたが、アワビは貝殻で武装していないオオバンヒザラガイのことを骨なしの意気地なしと軽蔑していたが、ムイのほうも固い岩のような家をかぶって這い回り、話をかけても、顔も見せずに返事をしないアワビを頑固者として毛ざらつけていた[やぶちゃん注:「毛嫌いしていた」の意?]。これが原因となって両方の間に戦いを起こした。海底での戦いは容易に勝負が決まらずお互いの損得が多いので、話し合いの結果、仲直りをし、このムイの岩礁を境にして西はアワビの領地、 東はムイの国として住むようになった。

   《引用終了》

というのである。私はこの話を、荒俣宏氏の「世界大博物図鑑 別巻2 水棲無脊椎動物」(一九九四年平凡社刊)の「ヒザラガイ」の項の「民話・伝承」更科源蔵・更科光共著「コタン生物記」(初版は一九七六~一九七七年法政大学出版局刊)の要約で知り、非常に興味を持った。そこで、その部分を引用させて戴く(コンマ・ピリオドは句読点に代えた)。

   《引用開始》

 北海道のアイヌは、オオバンヒザラガイのことをムイとかメヨとかケロとよぶが、渡島半島戸井町のアイスのあいだには、次のような伝説が伝わる。昔、同地の海に、オオバンヒザラガイ(メヨ)とアワビがいっしょにすんでいた。しかしアワビは、オオバンヒザラガイを〈骨なしの意気地なし〉といって馬鹿にしていた。このヒザラガイは、貝のくせに殼がなく、武装をしていないからだ。ところがヒザラガイはヒザラガイで、岩のような重いものをかぶって這いまわり、話しかけてもなんの反応もないアヮビを頑固者だときらっていた。そしてとうとう、この反目がこうじて両者のあいだで戦いがはじまったが、なかなか勝負が決まらない。そこでムイ(箕の意)という岩礁を境に、西側をアワビの領地、東側をヒザラガイの領地と定め、別々にくらすようになったという。なお北海道には、これと似たような伝説が各地で語りつがれている。アワビとヒザラガイは、形状はそっくりなのに、アヮビには殼があり、ヒザラガイにはない。またアワビが岩礁地帯に生息しているのに対し、オオバンヒザラガイは砂地の海底にいる。そこで上記のような伝説によって、これらのちがいを説明づけようとしたらしい(更科源蔵・更科光《コタン生物記》)。

   《引用終了》

これで私のヒザラガイの偏愛の憂鬱は完成した。

 

さて、●最後の標題のないそれ●は、骨軸が硬いことから、

刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目ミドリイシ科 Acroporidae 或いはミドリイシ属 Acroporaの一種、又は同属のエダミドリイシ Acropora squarrosa ・ツガミドリイシ Acropora quelchi

かと思われる。但し、この絵に描かれた個体は、その死骸骨格の漂着物であろう。白色というのも、それで納得出来るからである(但し、キャプションを書いた人物は「花」という表現から生体も現認しているか、生体を知っている者から話を聴いたものであろう)。小学館「日本大百科全書」の「ミドリイシ みどりいし/石蚕 緑石」他によれば、イシサンゴ類のなかではもっとも繁栄している属で、世界中の暖海に約百五十種が分布し、サンゴ礁を形成する造礁サンゴのなかでも、最も造礁性の高い仲間である。ムカシサンゴ亜目 Astrocoeiina のなかで、隣接する莢の間に発達する骨格を持ち、それが多孔性であるミドリイシ科に属する。莢壁の内外に内莢と外莢を欠くことで、アナサンゴ類 Astreopora と区別され、中軸個虫を持つことで、コモンサンゴ類 Montipora から区別される。生時の色彩は多くは褐色であるが、緑色・緑褐色・青色・紫色などがある。群体の形状も変化に富み、樹枝状・卓状・板状・被覆状・塊状などがある。多くの種では群体上方に枝を出し、その先端に中軸個虫を餅、枝の側面には中軸個虫より小さな側生個虫が全面に密生する。各個虫の莢は骨格表面から円筒状に突出する。莢内には十二枚の隔壁があり、そのうち六枚は大きい。主としてインド洋から西太平洋及び西インド諸島の暖海サンゴ礁に分布し、サンゴ礁を形成するイシサンゴ類の最大のグループであり、暖海においては一年間に数センチメートルの成長がみられる。日本では房総半島以南に分布する。この類の内、高い枝状となる種はシカツノサンゴと総称され、卓状となる種はテーブル・サンゴと総称される。代表種であるミドリイシ Acropora studeri は、千葉県の館山湾以南の太平洋からインド洋までのサンゴ礁の浅海に最も普通に産する種で、岩礁側面に柄部で付着し、その上面に平板状の群体を形成し、各枝は短く水平方向に伸び、先端はやや斜め上方に立ち上がり、下面では各枝は成長に伴って互いに癒合する。全体としてはm岩面につく棚状の群体となるところからタナミドリイシの別名がある。近縁種に、卓状の群体となるエンタクミドリイシA. leptocyathus と、クシハダミドリイシA. pectinata が本州中部以南に分布する。エンタクミドリイシは卓状に広がった枝間がほとんど骨格によって埋められるが、クシハダミドリイシは柄部付近を除いて、枝の間は癒着しない。また、枝状の小塊となるエダミドリイシ、ツガミドリイシや、被覆状のオヤユビミドリイシ A. humilis 、ナカユビミドリイシ A. digitifera などが、本州中部以南に分布する、とある。キャプション中の「琅玕」とは、『「大和本草卷之三」の「金玉土石」類より「珊瑚」 (刺胞動物門花虫綱 Anthozoa の内の固い骨格を発達させるサンゴ類)』の注で書いたが、「大和本草」では、その「珊瑚」の後に「靑琅玕」として条立てしており、その「大和本草」の「靑琅玕」では、漢籍でも、その起原を海産と主張する者、陸産(陸地或いは山中から出土)する者の意見の錯綜が記されてあり、珊瑚由来とする説もあって、益軒も困って、陸・海ともに産するのが妥当であろうと終わっている。しかし、現在、少なくとも、本邦では「翡翠石」(ヒスイ)の最上質のもの、或いは「トルコ石」又は「鍾乳状孔雀石」或いは青色の樹枝状を呈した「玉滴石」と比定するのが妥当と考えられている(個人サイト「鉱物たちの庭」の「ひすいの話6-20世紀以降の商名と商流情報メモ」に拠った)。]

2021/06/14

大和本草諸品圖下 カウ貝・子安貝・ニシ・山椒貝 (テングニシ・ホシダカラの断面図・チリメンボラ・不詳)

 

Kai7

 

[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

カウ貝

 其肉可ㇾ食

 ニシト相似

 テ長シ

――――――――――――――――――

子安貝内靑白色有

甚鮮美形如光螺

 

子安

一者上與ㇾ此  不同

[やぶちゃん注:以下、図のキャプション。時計回りに翻刻する。]

與ㇾ腹不ㇾ通

橫三寸

長三寸五分

腹ノ内

介甲㴱紅有〔二〕微文〔一〕

梁白

○やぶちゃんの書き下し文

子安貝 腹の内、靑白色。光、有りて、甚だ鮮美。形、光螺のごとし。別に子安貝と稱する者、有り。此れと〔は〕同じからず。

[やぶちゃん注:以下、図のキャプション。時計回りに翻刻する。]

「腹と通ぜず。」

「橫三寸。」

「長〔(た)け〕三寸五分。」

「腹の内。」

「介甲、㴱紅〔の〕微文〔(びもん)〕、有り。」

「梁〔(はり)〕、白し。」

――――――――――――――――――

ニシ

 カウ貝ト相似タリカウ貝

 ヨリ短シ二者共ニ可ㇾ食

 ニシノカフニ

 鹽ヲミ

 テヽ燒テ

 存ㇾ性牙齒ニ

 ヌル久シテ堅固ナリ

○やぶちゃんの書き下し文

ニシ

「かう貝」と相ひ似たり。「かう貝」より短し。二者共に食ふべし。「にし」のかふに、鹽を、みてゝ、燒きて、性を存し、牙齒〔(ぐわし)〕に、ぬる。久しくして、堅固なり。

――――――――――――――――――

山椒貝

其形似山椒色紅其大亦

ニ乄山椒而頗小ナリ海濵ニ

アリ漁家小兒ノ痘瘡ヲ病ニ

コレヲ   俯圖

水ニ

浸シテ    仰圖

洗フ其後

袋ニ入テ守トス其大如ㇾ圖

○やぶちゃんの書き下し文

山椒貝

其の形、山椒に似〔て〕、色、紅。其の大〔いさも〕亦、山椒のごとくにして、頗る小なり。海濵にあり。漁家、小兒の痘瘡を病むに、これを水に浸して洗ふ。其の後、袋に入れて、守〔(まもり)〕とす。其の大〔いさ〕、圖のごとし。

[やぶちゃん注:以下、キャプション。]

   俯圖

    仰圖

[やぶちゃん注:「カウ貝」腹足綱前鰓亜綱新腹足目テングニシ科テングニシ Hemifusus tuba 大和本草卷之十四 水蟲 介類 甲貝(テングニシ)参照。

「子安貝」平凡社刊の下中弘氏編集・発行の「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年刊)の「貝原益軒」では、貝類の大家波部忠重先生は、『「子安貝」とあるが、一般に言われているコヤスガイとはまったく異なる。このような貝は見当たらない』と断じておられるが、私は甚だこの謂いに疑義を感ずるものである(先生の監修された複数の貝類図鑑を私は所持し、今までさんざんお世話になっているので、心苦しいが)。無論、この図のまんまのような貝は確かにない。しかし、これが「子安貝」の断面図であると採るならば(私は最初からそう断じた。但し、私は勿体ないので、実際にタカラガイ類を切断して見たことはない)、これは確かにタカラガイ科 Cypraeidaeの貝の断面図を、正確ではないものの、多方向から見たそれを一図に圧縮したものとして、見ることが出来るのである。例えば、