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2021/06/08

芥川龍之介書簡抄80 / 大正六(一九一七)年書簡より(十二) 六通

 

大正六(一九一七)年九月十三日・田端発信・菅忠雄宛

 

あなたは私にあやまる必要も何もありません弟は小町園が宿屋だと云ふ事を知らなかつたのですさうして私が小町園の女中と關係でもあるやうに思つたのです(あなたもさう思つてゐたかも知れませんさう思ふと苦笑が出ます)しかし私がその誤解を解きました。だからもう心配する事も何もないのです

私は來年結婚します勿論さう云ふ前に、外の處女と關係する程墮落してはゐませんその邊も御安心なさい。機關學校の敎官と作家とを區別しなくともいいのです。

あなたがゐなくなつて淋しくなつたしするから[やぶちゃん注:ママ。]、私は橫須賀へ轉居します先は橫須賀市汐入尾鷲梅吉方です明日移ります 日曜にでもひまがあつたら、遊びにいらつしやい。

    十三日夜       芥川龍之介

   菅   樣

  二伸ツルゲネフだけは私の持つてゐる全集の一册ですからなくならないやうに氣をつけて下さいこれはよく御願ひします

 

[やぶちゃん注:大正六年九月十三日は木曜日で、平日である。前回の最後の注でも書いたが、この書簡にもある通り、この翌日の九月十四日に芥川龍之介は鎌倉からの十月十四日に横須賀市汐入五八〇番地尾鷲梅吉方の二階(八畳)に転居している(現在の横須賀市汐入町三丁目一附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ということは、この転居前日には、夜、田端へ帰ったか、転居を名目に海軍機関学校を休んだ(無論、金曜も)ものと察られる。

「菅忠雄」(明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)は既出既注。芥川龍之介の一高時代の恩師で、鎌倉に移った際にも世話になったドイツ語学者で書家の菅虎雄の長男で、鎌倉滞在中、英語の家庭教師をして貰った芥川を慕っていた。この当時、満十八歳。

「弟」先のリンク先の大正六(一九一七)年二月九日・消印十六日・鎌倉発信・京都市外下鴨村八田方裏 井川恭宛書簡に『菅さんと時々書談をやる 菅さんの子供とは親友になつた 皆お母さんのないせいか人懷しい』とあり、「皆」とあるので、忠雄には弟がいたことが判る。因みに、芥川龍之介はこの時、満二十五歳である。

「小町園」鎌倉にあった料亭兼旅館。この附近(同名のフランス料理店は旧「小町園」(昭和七(一九三二)年頃には廃業)から譲り受けたもの)に庭園付きの広大な敷地であった。鎌倉滞在中も、ここで複数回、小宴を催しているようである(先立つ五月二十四日附の東京本郷の池崎忠孝(作家赤木桁平の本名)宛葉書では、池崎に語り合おうと鎌倉に誘っているが、その場所として『小町園にしよう』と最後に名前だけを記している。これは龍之介が何度もここを使っている証左である)。そもそも、夏目漱石が死去した大正五年十二月九日の土曜には芥川龍之介主催の宴会が、この小町園で催される予定だったのである(角川書店「夏目漱石文学全集」別巻の年譜に拠る)。さらに、芥川龍之介が文との新婚時代を過ごした場所は、この附近でごく近く、さらに言っておくと、私はこの旧小町園辺りには非常に詳しい。何たる因縁か、私の父方の実家は、この旧小町園と新婚の芥川龍之介邸との中間点に当たるところにあるからなのである。ここでの菅忠雄の弟の猜疑は誤解であったことは確かかとも思われる(断言は出来ない。例えば、前回の最後の注でも述べたように、文と婚約後でも、私は人妻佐野花子に龍之介は恋情を抱いていたと確信しているからである。当時に限らず、今現在であっても芥川龍之介に惚れる女性は多い。しかし、それ以上に、芥川龍之介の方にこそ、女たちに直ぐに惚れやすい致命的な悪癖(私は自分自身のことを考えると、『こんなことは言えない』という忸怩たる思いはするのであるが)があったのである)。しかし……最後に言っておこう――この小町園の亭主のところに、翌大正七年、新妻が来る。婚姻後――「野々口豊(ののぐちとよ)」――と名乗った。この女性こそ――晩年の芥川龍之介と非常に深い関りを持つこととなる――龍之介が晩年に愛した女の一人――なのである。自死の昭和元(一九二六)年十二月三十一日から昭和二(一九二七)年一月二日まで、芥川龍之介は「小さな家出」(彼の中では野々口豊を道連れにした心中が想起されていた可能性が頗る高い)をしているが、その先は――この小町園だったのである――。私の片山廣子や佐野花子の追跡と同様、アカデミックな芥川龍之介研究者は品行方正で、まず、この手のゴシップ系研究には手を出さない(まことにインキ臭い厭な感じである)。さても、興味のある方は、歯科医の高宮檀氏の書かれた「芥川龍之介の愛した女性――「藪の中」と「或阿呆の一生」に見る」(彩流社二〇〇六年刊)を強くお薦めする。そこでは、「藪の中」の「眞砂」のモデルとも言える龍之介にとっての忌まわしい方の「ファム・ファータル」たる秀しげ子との不倫(後に芥川龍之介は激しく倦厭するようになった、自死するまで彼女は龍之介をしばしば平然と訪ねている)とともに、この野々口豊が、驚くべき緻密さで追跡されている。

 

 

大正六(一九一七)年九月十九日・橫須賀発信・塚本文宛

 

拜啓

手紙を難有う 一咋日東京でよみました 何だか催促をしたのが 少しすまないやうな氣がしてゐます

學校と小說と兩方一しよぢや 實際少し仕事が多すぎます だから將來は 一つにする氣もあります もありますぢやない 氣が大にあるのです 勿論一つにすれば 小說ですね 敎へると云ふ事は 一體あまり私の性分には合つてゐないのです 希望を云へば 若隱居をして、本をよんだり小說を書いたりばかりしてゐたいんですが、さうも行きません が、いつか行かさうと思つてゐます

文ちやんは何にも出來なくつていいのですよ 今のまんまでいいのですよ そんなに何でも出來るえらいお孃さんになつてしまつてはいけません そんな人は世間に多すぎる位ゐます

赤ん坊のやうでお出でなさい それが何よりいいのです 僕も赤ん坊のやうにならうと思ふのですが 中々なれません もし文ちやんのおかげでさうなれたら、二人の赤ん坊のやうに生きて行きませう

こんどの家は お婆さんと女中と二人しかゐない家です 橫須賀では可成な財產家ださうです 僕の借りてゐるのは 二階の八疊で家は古くてら、落着いた感じのする所です お婆さんは大分年が遠いので 話をすると必とんちんかんになります 今朝も僕が「もう七時でせう」と云つたら「ええ ぢきこの先にございます」と云ひました

七時を何と間違へたんだか いくら考へて見てもわかりません

横須賀の方が 學校には便利ですが、どうも所があまりよくありません だから家は鎌倉にある方がいいだらうと思ふのですが どうでせう 横須賀にゐると、いろんなおつきあひや何かがうるさいですよ どうもおつきあひと赤ん坊生活とは兩立しさうもありません 僕はつきあひ下手ですからね

今日朝の十時に 僕の學校の本間と云ふ武官敎官がなくなりました 四日ばかり寢て死んでしまつたのです それが體のいい 丈夫な人なので 餘計驚きました 病氣は敗血症ださうです 僕はこれから その御葬式の時に校長がよむ弔辭を作らなければなりません 大分厄介です 以上

               芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣 粧次

  二伸 返事は書かなくつてもいいんです

  三伸 轉居先 橫須賀市汐入五百八十尾鴛梅吉方

 

[やぶちゃん注:「敗血症」sepsis(セプシス)。種々の細菌の感染症に於いて、先ず、病巣が形成され、そこから病原菌が多量に血液の中に侵入して起る全身感染症を指すが、原発巣がどこにあるか明らかでないことが多い。類似の経過を辿って血中に細菌が侵入しても、全身症状を伴わない場合は区別して「菌血症」と呼ぶこともあるが、同義語と考えてよい。

「御葬式の時に校長がよむ弔辭を作らなければなりません 大分厄介です」後の私小説風の保吉(やすきち)物の一つである「文章」(初出『女性』(大正一三(一九二四)年四月発行))はこれを素材の一つとしている(「青空文庫」のこちらで読めるが、新字新仮名である)。主人公「堀川保吉」は「海軍××學校」で「英吉利語の譯讀を敎へて」おり、その亡くなった人物は「本多少佐」で「科長と呼ばれる副校長」の「藤田大佐」から弔辞の代筆を頼まれている。但し、小説の中に出る「何とかほろ上人」は「きりしとほろ上人」のことであるが、これは大正八年の作品で、痛烈に書かれた「N氏」の時評『「海軍××學校敎官の餘技は全然文壇には不必要である」』というのは、この書簡より前の大正六年五月十三日附『読売新聞』に載った中村孤月の時評の言葉であるように、素材は継ぎ接ぎで、正統な私小説ではない。というか、芥川龍之介は恐らく生涯、あくまでストーリー・テラーを自負しており、一見、私小説に見えるものであっても、その殆どは緻密に計算し尽くされた創作であったと私は断ずるものである。]

 

 

大正六(一九一七)年・消印九月二十日・横須賀発信・東京市下谷區上野櫻木町十六 池崎忠孝樣(葉書・底本の岩波旧全集の葉書裏面の画像(活字化されていない)を添付)

 

19170921akutagawatenkyotuuti

 

  轉居

橫須賀市汐入五百八拾

尾鷲梅𠮷芥川龍之介

   傚魏華岳太華夫人廟碑體

 

[やぶちゃん注:「傚」呉音「ゲウ(ギョウ)」・漢音「カウ(コウ)」。「コウ」と読んでいよう。訓は「ならう」でここでは「字を真似る」の意。

「魏華岳太華夫人廟碑」不詳。識者の御教授を乞う。]

 

 

大正六(一九一七)年九月二十三日(「午」とある)・田端発信・江口渙宛(葉書)

 

今日二科會及院展を見たり惡歌三首を以て恭しく江口大人の粲正に供す

  梅原君の椿

まつぴるま椿一本光りたれ赤はぽたぽた靑はぬるぬる(倣北原白秋調)

  安井君の女

ふくだめる脾腹の肉のうごかずば命生けりと誰か見るべき(倣齋藤茂吉調)

  山村君の八朔

夕月はほのかに白し八朔の遊女がふめる外八文字(倣吉井勇調)

 

[やぶちゃん注:この日は日曜日で、第四回二科展(九月九日より同三十日まで開催)及び第四回院展(九月十日から同三十日)に出かけた。

「粲正」「さんせい」と読む。筑摩全集類聚版脚注によれば、『詩を示してお笑いぐさとし、正していただくの意』とある。「粲」には「笑うこと」の意がある。

「梅原」梅原龍三郎。既出既注

「安井」安井曾太郎。既出既注

「山村」山村耕花(明治一九(一八八六)年~昭和一七(一九四二)年)は東京生まれ。本名は山村豊成。東京美術学校日本画選科明治四〇(一九〇七)年卒。尾形月耕に師事。初期文展に出品して名を認められ、この前年の大正五年の第三回院展に「業火と寂光の都」を出品、同人に推された。第八回文展に「お杉お玉」、第四回院展にここに出る「八朔」、第八回院展に「江南七趣」、改組第一回文展に「大威徳明王」などを、次々と出品し、また「烏合会」・「珊瑚会」にも作品を発表した。版画や風俗人物画を得意とし、大正中期から錦絵版画の制作も始め、また、谷崎潤一郎の「お艶殺し」、邦枝完二「歌麿」装幀・挿絵も手がけた(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。

「八朔」筑摩全集類聚版脚注に、『八月一日。この日吉原の遊女』らは『白』無垢『を着る』とある。モノクロームであるが、「東文研アーカイブデータベース」のこちらで当該作が見られる(サイズ大)。]

 

 

大正六(一九一七)年九月二十八日・横須賀発信・塚本文宛

 

文ちやん

もう十一時すぎだが 奮發してこの手紙を書きます

第一にクリスマス・カロルの作者ですね あれは Charles Dickens と云ふ人です、チヤアレス・ディツケンスですね 近代の英國で一番えらい小說家です クリスマス・カロルの外にもあゝ云ふクリスマスを題材にした話を二つ三つ書いてゐますが あれが一番傑作だつたのです 原文は中々むづかしいから 文ちやんの英語ぢや少しよみかねるでせう 八洲さんにもどうかと思ひます 中學の五年の讀本よりはむづかしい位ですから。ディツケンスはこれでおしまひ。

七時は成程質屋ですね 僕も質をおきさうに見られたと思ふと、心細い。一體無精なので、身なりがへんだから時々いろんなものに間違へられます こないだ學校の敎官をたづねたら、女中に市役所の收稅吏だと思はれました

學校ばかりやつて、小說をやめたら、三年たたない中に死んでしまひますね 敎へる事は大きらひです 生徒の顏を見ると うんざりするんだから仕方がありません その代り原稿用紙と本とペンとインクといい煙草とあれば それで僕は成佛します 勿論その外に文ちやんがゐなくつちや駄目ですよ

この頃僕の所へいろんな人が訪問します。それも初對面の人がですね。殊に昨日は、工廠の活版工をして小說を書いてゐる人と 小說家志望のへんな女學生とがやつて來ました。それから僕は意見をしてやりましたね「小說なんぞ書くもんぢやない 況やそれを職業にするもんぢやない」と云ふやうな事を云つて。

彼等は唯世間で騷がれたさに 小說を書くんです そんな量見で書いて 何がかけるものですか 量見そのものが駄目なんですからね あんな連中に僕の小說がよまれるんだと思ふと實際悲觀してしまひます 僕はもう少し高等な人間の高等な精神的要求を充す爲に書いてゐるんですがね

もう十年か二十年したら さうしてこの調子でずつと進んで行けたら 最後にさうなる事を神がゆるしたら僕にも不朽の大作の一つ位は書けるかも知れません(が、又書けないかも知れません。何事もなるやうにしかならないのですから。)さう思ふと、體の隅々までに、恍惚たる悲壯の感激を感じます。世界を相手にして、一人で戰はうとするやうな勇氣を感じます 況やさう云ふ時には、天下の成金なんぞ何百人一しよになつて來たつて びくともしやしません さう云ふ時が僕にとつて一番幸福な時ですね

僕が高輪へ行くよりも文ちやんの方で田端へいらつしやい 月曜日の午後學校のかへりに來るんですね さうすると僕が橫須賀へ歸りかたがた ちやんと高輪まで送つてあげます これは僕が發明したのだが、中々うまい計畫でせう

それから僕の所へ來たからつて、むづかしい事も何もありやしませんよ あたりまへの事をあたりまへにしてゐさへすればいいんです だから文ちやんなら、大丈夫ですよ 安心なさい

いや寧[やぶちゃん注:「むしろ」。]文ちやんでなければうまく行かない事が澤山あるのです 大抵の事は文ちやんのすなほさと正直さで立派に治ります それは僕が保證します 世の中の事が萬事利巧だけでうまく行くと思ふと大まちがひですよ、それより人間です ほんとうに人間らしい正直な人間です それが一番强いのです

この簡單な事實が、今の女の人には通じないのです 殊に金のある女と利巧な女とには通じないのです だから彼等には 幸福な生活が營めません。そんな連中にかぶれない事が何よりも必要です

僕もほしいものが澤山あるのでこまります とれる金を皆本にしても まだよみたい本や買ひたい本があるのですからめ。が、これは何時まで行つても際限がなささうです 一しよになつたらお互に欲しいものを我慢し合つて、兩方少しづつ使ふのですね 競爭で買つちやすぐ身代限りをしてしまひます

時々思ひ出して下さい さうしないと怒ります 頓首

    九月廿八日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「クリスマス・カロル」ヴィクトリア朝時代を代表するイギリスの文豪で、特に下層階級を主人公として弱者の視点から社会諷刺したものを多く発表したチャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens 一八一二年~一八七〇年)を、世界的に有名にした、主人公の守銭奴エベネーザ・スクルージ(Ebenezer Scrooge)がクリスマス・イヴに体験する霊現象によって人間性を復帰する風刺小説「クリスマス・キャロル」(A Christmas Carol )。一八四三年刊。]

 

 

大正六(一九一七)年十月九日・橫須賀発信・塚本文宛

 

文ちやん

先達は田端の方へ御手紙を難有う 皆よろこんでゐました

僕は風見舞に上りたいと思つてゐたのですが、やつぱり多忙に妨げられて この前の日曜もこんどの日曜も 外ヘ出ずにしまひました 學校の用とボクの用とが澤山たまつてゐるのです

ヨコスカは割に平氣でした 山に圍まれてゐるせいでせう 被害も鎌倉や逗子ほどではありません ボクのうちも瓦が二三枚落ちただけです いや五六枚かな どつちにしても大した事はありません

今日兄さんから手紙が來てその中に兄さんが立つ時に 文ちやんと五十枝さんとでうつした寫眞があるから 一枚强奪し給へと書いてあります 兄さんの勸告通り 强奪しますから さう思ひなさい が 强奪は野蠻だからなる可く穩和な手段をとりたいと思ひます どうです 一枚くれませんか こつちへ送つて。文ちやんが田端へ持つて來て下されば、猶難有いけれど、どうです。ほんとうは寫眞も欲しいけれど、それより文ちやんに會ひたくなりました。これは小さな聲でそうつと云ふのです。外の人に聞えるといけません。會つて、話をする事もないけれど、唯まあ會つて、一しよにゐたいのです。へんですかね。どうもへんだけれど、そんな氣がするのです。笑つちやいけません。それからまだ妙なのは、文ちやんの顏を想像する時、いつも想像に浮ぶ顏が一つきまつてゐる事です。どんな顏と云つて 云ひやうがありませんが、まあ微笑してゐる顏ですね。その顏を僕はいつか高輪の玄關で見たのです。さうしてそれ以來その顏にとつつかれてしまつたのです。文ちやんの顏の澤山ある表情の中で、その一つが頭へこびりついちまふと云ふのはへんでせう。へんだけれど事實です。僕は時々その顏を想像にうかべます。さうして文ちやんの事を苦しい程强く思ひ出します。そんな時は、苦しくつても幸福です

ボクはすべて幸福な時に、一番不幸な事を考へます さうして萬一不幸になつた時の心の訓練をやつて見ます その一つは文ちやんがボクの所へ來なくなる事ですよ。(そんな事があつたらと思ふだけです。理由も何もなく。)それから 伯母が死ぬ事です。この二つに出會つても ボクは取亂したくないと思ふのですね。が、これが一番むづかしさうです。もし兩方一しよに來たら、やり切れさうもありません。

もう遲いから(午前一時)、やめます。文ちやんはもうねてゐるでせう。ねてゐるのが見えるやうな氣がします.もしそこにボクがゐたら、いい夢を見るおまじなひに そうつと眶(まぶた)の上を撫でてあげます 以上

    十月八日夜

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「兄さん」既に述べた通り、塚本文の叔父で、龍之介の幼馴染みにして親友の山本喜誉司。

「五十枝さん」読みは「いそえ」か。筑摩全集類聚版脚注に『山本喜誉司の妻か』とある。

「伯母」芥川フキ。この謂いから、芥川龍之介が如何にこの伯母を愛していたかが、窺われる。]

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