日本山海名産図会 第四巻 燒蛤幷ニ時雨蛤
○燒蛤(やきはまぐり)幷ニ時雨蛤(しぐれはまぐり)
勢刕桑名冨田(とみた)の名物なり。松のちゝりを焚きて、蛤の目番(めそろひ)の方(かた)より燒くに、貝に柱を殘さず、味、美なり。
○時雨蛤の制は、たま味噌を漬けたる桶に溜りたる浮き汁(しる)に、蛤を煮たる汁を合はせ、山椒・木耳(きくらげ)・生姜等(とう)を加えて、むき身を煮詰たるなり。遠國(をんごく)行路の日をふるとも、更に鯘(あざ)れること、なし。○溜味噌(たまみそ)の制は、大豆を、よく煮て、藁に裏(つゝ)みて、𥧄(かまど)の上に懸け 一月許りにして、臼に搗き、塩を和(くわ)して、水を加ゆれば、上、すみて、溜まる汁を、醬油にかへて用ひ、底を味噌とす【是れを以つて、魚を煮るに、若(も)し稍(やゝ)鯘れたる魚も、復して、味、よし。今も官驛(くわんえき)の日用とす。】
[やぶちゃん注:図はない。斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ科ハマグリ亜科ハマグリ属ハマグリ Meretrix lusoria 或いは、ハマグリ属チョウセンハマグリ Meretrix lamarckii(本邦では房総半島以南の太平洋側及び能登半島以南の日本海側に分布する。外来種ではないので注意。「チョウセン」は日本人が真正のものと異なるものに付けたがった悪しき和名に冠する補助語であり(カムルーチの異名のチョウセンドジョウのような正しい棲息地の一つであるケースもあるにはある)、私は差別的なものを感じるので、これこそ改名すべきものであると強く考えている)の調理法二種。
「勢刕桑名冨田(とみた)」「とみだ」と濁るのが正しい。「富田(とみだ)の焼き蛤」として現在の三重県四日市市富田附近(グーグル・マップ・データ(以下同じ)。周辺に「東富田町」「富田浜町」「南富田町」「富田栄町」「西富田町」「西富田」の町名を確認出来る)の名物郷土料理であった。江戸時代、朝明(あさけ)郡富田(旧東富田村・西富田村)は桑名藩領であったため、同郡は「桑名の焼き蛤」と呼ばれるようになった。旧東富田村から富田一色港(「富田」地区の南東沿岸に「富田一色町」の名が残る)までの塩役運河などの水運業が発達していて(近代初期のそれが「今昔マップ」のここで確認出来る)、桑名藩領富田六郷(東富田村・西富田村・富田一色村・天ヶ須賀村・松原村・蒔田村)として桑名宿と四日市宿の中間に位置する「間(あい)の宿(しゅく)」、「立場(たてば)」(立場は本来は「駕籠を担ぐ際に杖を立てた所」という意味で、駕籠舁きや荷方人足の休憩所を言った)として、旅籠や茶店が軒を並べ、焼き蛤を「桑名の」として名物としたのであった。ウィキの「富田の焼き蛤」によれば(なかなか私好みの徹底して説明しないと気が済まない筆者らしく、気に入った。その分、「俺ならこう書く」として以下、かなり、手を入れさせて貰った。太字部がやぶちゃんのオリジナルである)、『江戸時代は盛んであったが、現在では焼き蛤料理は富田地区には存在しない』。『東海道五十三次の桑名藩の桑名と天領の四日市にそれぞれあった宿場、桑名宿と四日市宿には』、『本陣』(大名・旗本・幕府役人・勅使・宮門跡らが宿泊に利用したが、宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多く、一般人の利用は出来ず、そういう意味では旅宿とは言えない)・『脇本陣』(本陣に次ぐ身分の高い者や大名が宿泊する宿)』・『旅籠』(はたご:『一般の旅人が宿泊する宿)』があったが、桑名宿(本陣跡:三重県桑名市船馬町(せんばちょう)。ここ)と、四日市宿(本陣跡:三重県四日市市北町(きたまち)。ここ)の間(実測で十四キロメートルほど)の中間位置に『小向立場⇒松寺立場⇒富田立場⇒羽津立場⇒三ツ谷立場の』五『つの立場があった。富田の焼き蛤が焼き蛤の中では』、『一番有名で』(本家本元の桑名地区ではなく、である)では、「富田の焼き蛤」を特に桑名藩領であることを誇示して、『富田ではなく』、「桑名の焼き蛤」と呼んだのであった。「富田の焼き蛤」を詠んだ句としては、宝井其角の句(「延命冠者」(元禄一〇(一六九七)年)、
濱店求有(ひんてんきうゆう)
蛤リのやかれてなくや時鳥(ほととぎす)
が知られ(其角の自選句集「五元集」(延享四(一七四七)年)には、「桑名にて」の前書がある。「蛤」は春の季詞であるが、ここは「時鳥」で夏である)、これは、其角が中町の旅籠尾張屋の店先で詠んだものが知ら(個人ブログ「紗蘭広夢の紗らり筆まかせ」の「明治の標柱と富田の焼き蛤」の「富田の焼き蛤の看板」の写真を確認した)る。『現在』、『その句碑が富田浜に残されている』(ここ)。「富田の焼き蛤」は『伊勢参りの参拝客と江戸~京都間の東海道の旅人をひきつけた。伊勢神宮に行く伊勢参りの人々は、富田の立場で休憩して焼き蛤を食べるのを一生で一度の旅の楽しみにしていた。揖斐川・木曽川・長良川の木曽三川の河口では豊富な大河の恵みにより』、『良質の蛤が育ち、伊勢湾を漁場とする近隣の富洲原地区の富田一色村の漁師から塩役運河で運搬されて富田に供給されていた。中世の富田城の領主、南部氏は伊勢神宮から、富田御厨(みくりや)と呼ばれていた』。『御厨とは神宮に捧げる食べ物の供給地のことで、富田一色の漁民は蛤などを伊勢神宮に供え物として捧げることにより』、『伊勢湾の漁業権を得ていた。歌川広重は』「東海道五十三次(狂歌入東海道)」に『富田立場を描き、その浮世絵には』、
乘り合(あひ)のちいか雀のはなしにはやき蛤も舌をかくせり
『と詠まれた舌切り雀と貝の舌を結び付けた狂歌が記されている』(これは、乗り合い舟の婦女子(「ちいか」は京言葉で「お嬢さん」)らが京雀の見本の如くぺちゃくちゃ五月蠅くお喋りするのに「舌切り雀」の話を掛けて、桑名の蛤も思わず驚いて舌(斧足や水管)を引っ込めちまう、と皮肉ったのであろう)。『十返舎一九が執筆した』「東海道中膝栗毛」では、富田で登場人物の喜多八による騒動が起きて』おり、
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富田(とみだ)の立場にいたりけるに、爰(こゝ)はことに燒蛤の名物、兩側に、茶屋、軒をならべ、往來を呼び立つる聲にひかれて、茶屋に立寄り、
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『とあり、弥次郎兵衛と喜多八の旅人』二『人が富田の焼き蛤でめしの昼食を食べたのはいいが、熱い焼き蛤が喜多八のへその下に落ちてやけどするはめになり、
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膏藥はまだ入れねども蛤のやけどにつけて詠むたはれ歌
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『という狂歌がラストシーンである』(昭二(一九二七)年有朋堂書店刊「東海道中膝栗毛」を本文電子化の参考にした。ここから(右ページ九行目中途から)。挿絵もあってなかなか楽しい。最後の狂歌は膏薬を入れる器が蛤を用いたこと以外に、女性の臍の下の「蛤」(会陰)をも匂わせたバレ句でもあろう)。『江戸時代の東海道五十三次には何か所か松並木があった。富田付近も松並木であり、松毬(まつかさ、松ぼっくり)を燃料にする江戸時代の桑名藩領の富田地域民の知恵も面白い歴史研究となっている。江戸時代の歴史史料である』「本朝食鑑」では、『蛤の食べ方について「焼くが最上である。煮るが次である。辛子酢や生姜酢で生であえるのが良い」とされている。さらに、「焼いて食べるには、松ぼっくりの火が最良であり、蕨火炭火を使用するのがそれに次ぐ第」二『番目の方法である」と記述されているが、その理由については同書中に面白い説明がある。「およそ伊勢国の桑名藩である通称伊勢国桑名の伊勢湾の海の焼き蛤が良いとされているが、中でも最高級品である桑名藩領富田の焼き蛤について、富田の土地の人々の間では松ぼっくりで焼くと味が良くなり、蛤で食中毒する危険性がなくなると言われている。また、松が枯れそうになった時に、富田の焼き蛤数個を砕いて根のまわりの溝に入れて土をかぶせておけばだんだんと蘇る。あるいは、焼き蛤の煮汁を冷まして溝に入れておくのが良い」旨が記述され、富田の焼き蛤と松の木は元々相性が良いか』、『天性を持っているとしている』とある。以上は、国立国会図書館デジタルコレクションの「本朝食鑑」の原本のここの左頁の行目から、次の頁の右七行目までが相当する。漢文であるが、丁寧な訓点が附されてあるので、容易に読める。
「松のちゝり」松毬(まつかさ)・松ぼっくりのこと。「ちちりん」「ちんちら」とも呼ぶ。
「蛤の目番(めそろひ)の方(かた)」恐らく、竹箸で挟んだ蛤の蝶番の部分火に翳すことを言って居よう。序でに言い添えれば、その前に靭帯部を切り落としておけば、ガバと開かずに、旨味の汁も逃げ出さない。開きかける前に、側面に戻し、開きかけた際に、反対にすることで、上手く焼け、貝柱も残らず離れる。
「時雨蛤」当該ウィキによれば、『時雨蛤(しぐれはまぐり)は、むき身にした蛤の佃煮の一種。蛤の時雨煮。「志ぐれ蛤」と表記されることもある。三重県桑名市の名産とされる』。『時雨蛤はボイルした蛤のむき身を、生引溜(きびきたまり)を沸騰させたハソリ(大鍋)に入れ、「浮かし煮」と呼ばれる独特な方法で煮て作られる』。『その際、風味付けに刻んだ生姜を加える』。『もとは「煮蛤(にはまぐり)」と呼ばれたが、松尾芭蕉の高弟、各務支考が「時雨蛤」と名付けたと言われている』。『蛤業者の初代・貝屋新左衛門が、近くに住む俳人の佐々部岱山(ささべたいざん)に煮蛤の命名を依頼したが、佐々部から相談を受けた師匠の各務支考が』十月の『時雨の降り始める頃から』、『煮蛤が製造されるため、時雨蛤と命名したとされる』。『時雨蛤の発祥は揖斐川河口の赤須賀漁港(桑名市)近辺で』、『江戸時代の元禄年間』(一六九〇年頃)『から製造されるようになった』。『時雨蛤にすることで蛤の風味とともに保存性が高まり、土産物として全国的に高い人気を誇った』。『諸国の名物珍味を紹介した料理書』「料理山海郷」(りょうりせんがいきょう)(寛延二(一七四九)年刊)や、『日本各地の名産の製造方法等を調査した』本書「日本山海名産図会」(寛政一一(一七九九)年刊)や、)に桑名の名産として時雨蛤が紹介されている』とある。「料理山海郷」のそれ(巻之一の巻頭)を「日本古典籍ビューア」で視認して電子化する(但し、これは後の文政二 (一八一九)年の再板本である)。
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桒名時雨蛤
小蛤(はまぐり)むき身(み)を、ざつと、ゆで、笊(いかき)へあけ、なを、よくさらし、赤味噌のたまりをにへゝたし、山升[やぶちゃん注:山椒。]のかわ、短冊(たんざく)に切、麻(あさ)の実(み)を入れ、右のはまぐりを入なり。
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「たま味噌」「玉味噌」。一般には、煮た大豆を搗き砕いて、麹と塩を混ぜて丸めた味噌玉を指す。また、大豆や蚕豆(そらまめ)を煮、搗き砕き、麹と塩を混ぜて大きな団子に丸め、藁苞(わらづと)に包み、炉の上などに一~二年置いて熟(ねか)させた味噌を指す。ここは以下に記される通り、後者。
「山椒」ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum 。
「木耳(きくらげ)」菌界担子菌門真正担子菌綱キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属キクラゲ Auricularia auricula-judae (当該ウィキによれば、学名の『属名はラテン語の「耳介」に由来する。種小名は「ユダの耳」を意味し、ユダが首を吊ったニワトコ』(マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属セイヨウニワトコ Sambucus nigra であろう)『の木からこのキノコが生えたという伝承に基づく。英語でも同様に「ユダヤ人の耳」を意味するJew's earという。この伝承もあってヨーロッパではあまり食用にしていない』とある)。
「生姜」単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale 。
「鯘(あざ)れる」魚肉などが腐る。
「官驛(くわんえき)」幕府が公に認めた宿駅。「立場」などは含めない。]
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