伽婢子卷之七 繪馬之妬
伽婢子卷之七
○繪馬之妬(ゑむまのねたみ)
[やぶちゃん注:底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のそれをトリミング補正して用いた。かなり清拭に時間をかけた。女主人は立膝をして、その上に左腕を載せて顎を支えており、今の感覚からは、あまり行儀はよく見えない(但し、戦国以前の女性の立膝はごく当たり前である)。拝殿の画面の右端の下にあるのが商人の旅の荷と笠である。拝殿の下に最初に登場する直衣(のうし)の男(被っているのは戦国期には武家に普通であった折烏帽子である)が地面に坐っている。「新日本古典文学大系」版脚注では、これは本篇の「主君」であり、拝殿にいる左の女性が、その「主君の女房」と記すのだが、この見解、私にはどうも解せない。主君が折り烏帽子で、地べたに座って、拝殿に女房を上がらせておいて、黙って待っているというのは、設定として頗るおかしいと思うからである(以下、続きは本文での注に譲る)。左上方が本殿で、その右端の軒に懸かっている白い長方形の板(右上方が斜めにカットされている)のようなものが絵馬であろう。「絵が描いてないじゃん?!」という不服は当たらぬ。普通、絵馬は神に捧げるものであるから、本殿を向いていて、こちらが裏で白いのは不審ではないからである。しかし、それでも、「今はこっちに向いて軒下に掛けてるのを見たぞ!」と文句を言おうなら、私は、こう、応じてやろう。「その絵の中の総ては、今まさに、そっくり、この挿絵の現実として飛び出しているのだよ。だから、真っ白でいいのさ。絵師の洒落た粋な計らいとこそ言うべきものなのではないかね?」と。なお、同解説には、『御香の宮の絵馬堂は近世期、拝殿の右側、本地堂との並びにあった(都名所図会五・御香宮)』とある(所持する同書で確認した。確かにその通りではある。但し、これは室町後期の設定である)。]
伏見の里「御香(ごかう)の宮」は、神功皇后の御廟(みべう)也。もとより、大社(〔たい〕しや)の御神なれば、諸人、あゆみを運び、あがめまつる。常に宿願あるともがらは、繪馬を掛け、湯を參らせて、祈り奉るに、願ふ事、むなしからず。この故に、神前にかけ奉る繪の、かず多く、繋馬(つなぎむま)・挽馬(ひきむま)・帆かけ舟・花鳥草木、又、其中に美女の遊ぶ所なんど、樣々の繪あり。
文龜年中に、都七條邊の商(あき)人、奈良に行〔ゆき〕かようて、商賣する者あり。九月の末つかた、奈良を出〔いで〕て、京に歸りける。
秋の日のならひ、程なくひくれて、小椋堤(をぐらつゝみ)を打ちこえて、伏見の里に付きたれば、はや、人影もまれになり、狐火(きつね〔び〕)は、山際(やまぎは)に輝き、狼の聲、くさむらに聞こえしかば、商人、物すごく覺えて、「御香の宮」に立入り、夜を明かさむとす。
拜殿に臥(ふし)て、肱(ひぢ)を枕とし、冷(さやか)なる松風の音を今夜(こよひ)の友と定め、幽かなる御灯(ごとう)の光をたよりとして、暫く、まどろみければ、人、あり、枕元に立寄りて、驚ろかす。
商人、起き上がりて、見れば、靑き直衣(なほし)に、烏帽子着(き)たる男、ありて、いふやう、
「只今、止事(やごと)なき御方、こゝに遊び給ふ。少し傍(かたはら)へ立のきて休み給へ。」
といふ。
商人、
『心得ぬ事。』
と思ひながら、傍にのきて見居たれば、美女一人、女(め)の童(わらは)を召しつれ、拜殿に昇る。
むしろの上に、錦のしとねを敷き、灯火(ともしび)かゝげ、酒・さかな、取り出し、かの女、かたはらを見めぐらし、商人、うづくまり居たるを見て、少し打ち笑ひ、
「如何に、そこにおはするは、旅人なりや。道に行暮れて、それならぬ所に夜を明かすは、侘しきものとこそ聞くに、何か苦しかるべき、こゝに出て、遊び給へ。」
といふに、商人、嬉しくて、恐れながら、這出つゝかしこまる。
「只、近く寄て、打解け、酒飮み給へ。」
とて、しとねの上に呼びて、打向ひたる氣はひ、誠に太液(たいえき)の芙蓉、未央(びやう)の柳、芙蓉はおもての如く、柳は眉に似たり、といひけむ楊貴妃は、昔語りに聞き傳ふ。一たび、かへりみれば、國を傾け、二たび、かへりみれば、城を傾く、と云ひし李夫人は、目に見ねば、そも、知らず。
『これは。如何なる人のこゝにおはしけむ。如何なる緣ありて、此座には、つらなるらん。夢か、夢にあらざるか、知らず。』
我ながら、魂(たましゐ)浮かれて、更にうつゝとも、思はれず。
女の童も、十七、八、其顏かたち、ならべてならず、眉墨の色は、遠山(とほ〔やま〕)の茂き匂ひを、ほどこし、白き齒は、雪にもたとふべし。腰は絲を束(たば)ねたるが如く、指は筍(たかんな)の生出〔おひいで〕たるに似たり。物いふ聲、いさぎよく、言葉、さすがに、ふつゝかならず。
主君の女房、盃、とりて、商人にさしければ、覺えず、三獻(こん)を受けてのみければ、女の童、箜篌(くこう/コキウ[やぶちゃん注:右/左のルビ。])を取出して、彈く。
女房は、東琴(あずまごと)、取出〔とりいだ〕させ、柱(ことぢ)たてならべ、調子、とりて、さゝやかに歌うて彈(ひき)けるに、商人、魂、飛び、心、消えて、數盃(すはい)を傾け、其の比(ころ)、世にはやりし「波枕」と云ふ歌をうたふ。
聲、よく調(とゝの)ほり、曲節(ふし)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]おもしろきに、琴(きん)・箜篌(くこう)のしらべを合はせければ、雲井に響き、社頭にみちて、梁(うつばり)の塵も飛ぶばかり也。
商人、大〔おほき〕に醉(えひ)て、ふところをさぐるに、白銀花形(びやぎんくわがた)く)の手箱あり。
之れを、女房に奉る。
又、玳瑁(たいまい)の琴爪一具を包みて、女の童に與へ、手をとりて、握りければ、女の童、
「爾(にこ)」
と、笑ひて、手をしめ返しけるを、主君の女房、見つけて、妬(ねた)む色、外に現れつゝ、
あやにくにさのみなふきそ松の風
我(わか)しめゆひし菊のまがきを
とて、そばにありける盃の臺(だい)をとりて、女の童が容(かほ)に投げつけしかば、破れて、血、流れ、袂(たもと)も衣裏(えり)も、くれなゐになりければ、商人、驚きて、立上がると覺えし、夢は覺めたり。
夜あけて後(のち)、懸け並べたる神前の繪を見るに、錦のしとねの上に、美しき女房、琴を彈き、其の前に、女の童、箜篌(くこう)を彈きける。
其のかたわらに、靑き直衣(なおし)に、烏帽子、着たる男、坐して有り。
女の童のかほ、大に破れたる痕(あと)あり。
夢のうちに見たりける容(かほ)かたちに、少しも違(たが)はず。
疑ひもなく、この繪に書きたる女の、夢に戯ふれ遊びけるが、繪にも情(じやう)のつきては、女は物妬(〔もの〕ねたみ)ある事、こゝに知られたり。
そもそも、この繪は、誰人〔たれひと〕の筆といふ事を、知らず。
[やぶちゃん注:「御香の宮」京都府京都市伏見区御香宮門前町(ごこうぐうもんぜんちょう)にある御香宮神社(ごこうのみや(ごこうぐう)じんじゃ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当該ウィキによれば、『伏見地区の産土神で』、『神功皇后を主祭神とし、夫の仲哀天皇、子の応神天皇』の他、『六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める』。『初めは「御諸神社」』(みもろじんじゃ)『と称した。創建の由緒は不詳であるが』。貞観四(八六二)年に『社殿を修造した記録がある。伝承によると』、『この年、境内より良い香りの水が湧き出し、その水を飲むと病が治ったので、時の清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。この湧き出た水は「御香水」として』現在も湧いている。『全国にある「香」の名前のつく神社は、古来、筑紫国の香椎宮との関連性が強く』、『神功皇后を祭神とする当社は最も顕著な例である』とある。「新日本古典文学大系」版脚注には、『秋の祭礼は十月九日。境内では諸芸能の興行も行われた』とある。
「湯を參らせて」所謂、「湯立神事(ゆだてしんじ)」「湯立神楽(ゆだてかぐら)」のことであろう。大釜に湯を沸かし、笹を熱湯に浸して、それを身に振りかけて、その年の吉凶を占ったり、無病息災・五穀豊穣を願うもので、今も全国各地の神社で行われいる。
「文龜年中」一五〇一年から一五〇四年まで。室町幕府将軍第十一代足利義澄。
「都七條」現在の七条通り。「平安条坊図」で確認されたい。
「小椋堤(をぐらつゝみ)」現在の京都府宇治市小倉町(おぐらちょう)附近にあった巨椋池の堰堤。「今昔マップ」を見るのが一番。彼はここから北へ伏見の里を縦断し、宇治川を渡り。「御香の宮」の近くまで来たが、完全に日暮れて、人気なく、妖しい狐火や、ごく近くの叢から狼の声も聴こえてきたので、急遽、宮に仮泊まりすることとしたのであった。「御香の宮」から「七条通り」中央位置までは、実測で九キロメートル弱はある。
「驚ろかす」商人を目覚めさせた。
「靑き直衣(なほし)」一般には公卿の平常服。令制の朝服付属としては正式には冠を被るが、略式では烏帽子でよかった。また、位階によって色が決められた位袍(いほう)ではない雑袍(ざっぽう)であったから、特に色は自由であった。室町期には将軍もこの格好を日常服とした。
「心得ぬ事」このような夜更けに、かくも人離れした場所であるから、不審に思ったのである。
「太液(たいえき)の芙蓉、未央(びやう)の柳、芙蓉はおもての如く、柳は眉に似たり」中唐の詩人白居易の著名な「長恨歌」の貴妃亡き後の一節。「太液芙蓉未央柳 芙蓉如面柳如眉」(太液(たいえき)の芙蓉(ふよう) 未央(びあう)の柳 芙蓉は面(おもて)のごとく 柳は眉(まゆ)のごとし)。全篇は私の『白居易「長恨歌」原詩及びオリジナル訓読・オリジナル訳附』を見られたい。「太液」太液池。中国の歴代王朝の宮殿にあった池の名。漢代には長安城外の未央宮(漢の長安城内南西隅にあった宮城。前漢の高祖の時、紀元前二〇〇年から丞相の蕭何(しようか)が中心となって築き、恵帝から平帝までの皇帝が皇居とした。東闕・北闕・前殿を始め、宣室殿・温室殿・清涼殿などの多数の殿閣・武庫・太倉等があったと伝える。王莽(おうもう)の時に廃され、後漢末に修復され、その後の前趙・西魏・唐代にも修復された。遺跡は陝西省西安市北西郊にあり、宮牆はおよそ東西二・三キロメートル、南北二キロメートルもあった)内に、唐代には大明宮内に、明・清代には北京の西苑内にあった。「長恨歌」は当代朝の皇帝玄宗を憚って、主人公を「漢皇」としてある。
「一たび、かへりみれば、國を傾け、二たび、かへりみれば、城を傾く、と云ひし李夫人」「李夫人」(生没年不詳)は前漢の武帝の夫人(側室)。楽人李延年・将軍李広利(司馬遷は彼の嘘が大きな理由となって宮刑に処せられた)らは彼女のお蔭で出世した兄である。兄延年は歌舞を得意とし、既に武帝に侍していたが、そこで「北方有佳人 絕世而獨立 一顧傾人城 再顧傾人國 寧不知傾城與傾國 佳人難再得」(北方に佳人有り 絕世にして獨立す 一顧(いつこ)すれば 人の城を傾け 再顧すれば 人の國を傾く 寧(いづく)んぞ傾城(けいせい)と傾國(けいこく)とを知らざらんや 佳人は 再び得難し)という歌曲を歌い舞った。これが実は延年の実の妹のことであることを聴いた武帝が宮室へ迎え入れて寵愛したのであった。しかし、病いのために若くして亡くなった。武帝は彼女を失った悲しさのあまり、夫人の面影を求め、方術士に命じ、西海聚窟(しゅうくつ)州にある香木反魂樹(はんごんじゅ)から名香「反魂香」を製造させ、この香を薫じた煙の中に夫人の姿が現われたという話でも有名である。
「女の童も、十七、八、其顏かたち、ならべてならず、眉墨の色は、遠山(とほ〔やま〕)の茂き匂ひを、ほどこし……」言わずもがなであるが、以下はこの「女童(めのわらわ)」を描写したもので、さればこその桃源郷が破られる嫉妬の伏線というわけである。ここでは読者自身が、好色な商人の目線と一体化し、彼女のあらゆる部分を拡大して見ることになる、すこぶる映像的に優れた伏線パートと言える。
「腰は絲を束(たば)ねたるが如く」所謂、柳腰でしなやかな肢体を形容したもの。
「筍(たかんな)」タケノコ。
「いさぎよく」清らかに澄み渡って、けがれがなく。
「三獻(こん)」「さんごん」とも。中世以降の酒宴の礼法で、一献・二献・三献と酒肴の膳を三度変え、その度に大・中・小の杯で一杯ずつ繰り返し、併せて九杯の酒を勧めるもの。
「箜篌(くこう/コキウ)」現在は「くご」と読むことが多い。東洋の弦楽器の一つで、琴(きん:現在の琴とは全くの別物)に似た「臥(ふせ)箜篌」、ハープによく似た「竪(たて)箜篌」、先端に鳳首の装飾を施した「鳳首箜篌」があったが、早くに滅びた。
を取出して、彈く。
「東琴(あずまごと)」これは本邦の和琴(わごん)。
『其の比(ころ)、世にはやりし「波枕」と云ふ歌』不詳。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、本話の原拠である五朝小説「靈鬼志」の「勝兒」の中の『「浪蹙波、翻倒溟渤」の句に拠ったか』とある。
「梁(うつばり)の塵も飛ぶばかり也」歌が上手いことの喩え。本書の巻頭の「竜宮の上棟」で既出既注。
「醉(えひ)て」読みは元禄版。ママ。
「白銀花形(びやぎんくわがた)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『しろがね(銀)の花形』(はながた)『細工を施した手箱(小物入れ)』おある。
「玳瑁(たいまい)」一属一種のカメ目ウミガメ科タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata の甲羅を用いた、本邦が最も品位の技術を持つ鼈甲細工の原料とされた。私の妻の三味線の撥も合成樹脂の本体に先の部分を鼈甲を張り付けたものである。無論、象牙製が一番いいのだが、現在、象牙の撥は数百万円するだろう。
「主君の女房」挿絵の注でも疑義を呈したが、私はこれはここでは「女の童」の仕える「主君」である「女房」の意であると採る。拝殿の下に控えているのは、その女主人の公家に仕える公家侍である。例えば、事実、公家方でも、夫が早く病死して、未亡人が男児が元服するまで女主人としてあった場合は幾らもあったし、名門の場合には、娘或いは養子を得るまで、女主人が長く仕切ったケースもある。だから――「主君」である「女房」――に私は何らの違和感も感じないのである。ダメ押しで言っておくと、そもそもが最初に直衣の男は商人に、「只今、止事(やごと)なき御方、こゝに遊び給ふ。少し傍(かたはら)へ立のきて休み給へ。」って実に丁寧に言いかけている。そこで彼は女だけでなく、この商人にさえも尊敬語を使っている。だいたいからして、妻のことを「止事(やごと)なき御方」って主君が言うかね?
「あやにくにさのみなふきそ松の風我しめゆひし菊のまがきを」整序すると、
生憎(あやにく)にさのみな吹きそ松の風
我が締め結ひし菊の籬(まがき)を
「生憎(あやにく)」は感動詞「あや」+形容詞「にくし」の語幹から生じた副詞で、意に反して不都合なことが起こるさま。現在の「あいにく」と同じ。「締め」には美しく紐で「〆め」って造った菊の籬のそれに、女童が商人が握った手を秘かにぎゅっと「締め」返して恋慕に応じたことを掛けている。「吹き」には「拭き」を掛けて、濃厚に手と手を拭き合わせるさまに掛けてあるようにも、また、私が「占め」るべきはずだった男という含みもあれば、嫉妬の炎はいやさかで、よりインパクトが強くなるように私は詠んだ。言うまでもなく、「籬」は古代の恋愛の際の「歌垣(うたがき)」を意識したものである。
「衣裏(えり)」「襟」に同じ。
「繪にも情(じやう)のつきては、女は物妬(〔もの〕ねたみ)ある事、こゝに知られたり」「さても、これを以って、たとえ、たかが絵であっても、そこに描かれたのが、情欲にかられること多き、罪深き「女」であればこそ、もの妬(ねた)みをすることがある、ということがはっきりしたのである」。作者の浅井了意は浄土真宗の僧であるから、こうした謂いをしても何らの疑問は感じない。そもそも、色情を最初に持ったのは、えげつない商人の男の方である。彼がそうしたものを自ら戒めていなかったことこそが、この桃源郷の崩壊の元凶なのである。]
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