芥川龍之介書簡抄74 / 大正六(一九一七)年書簡より(六) 片山廣子宛
大正六(一九一七)年六月十日(年次推定)・片山廣子宛(転載)
拜啓
御著書を頂いて難有うございます かう申上げる事が生意氣でなければ大へん結構に譯も出來てゐるやうに拜見致しました
坪内先生の序文は先生がモリス・ブルジョアを讀んでゐない事を暴露してゐるので少々先生に氣の毒な氣がしました
裝釘も非常に氣もちよく思はれます
とりあへず御禮まで 以上
六月十日 芥川龍之介
片山廣子樣
[やぶちゃん注:この大正六年(以下の内容から年次推定は正しい)六月十日は日曜であるから、鎌倉ではなく、田端発信の可能性が強い。或いは、芥川龍之介の鎌倉の住所は知らなかったのかも知れず、田端の実家に廣子の小包は送られてあったのかも知れない。
「片山廣子」(明治一一(一八七八)年二月十日~昭和三二(一九五七)年三月十九日:芥川龍之介より十四歳年上)は歌人で随筆家にしてアイルランド文学翻訳家。短歌では一時期(明治四四(一九一一)年三月)は雅号を「森の女」としたが、大正二(一九一三)年三月の『心の花』で初めて「松村みね子」のペン・ネームを用い、後の翻訳では専ら「松村みね子」名義を用いた(この筆名は電車で見掛けた少女の持つ傘に書かれたそれを用いたものと、後年、述べている。その後、歌人として大成後は、短歌・随筆では本名を通し、この筆名は後には使用しなくなった)。旧姓は吉田。外交官吉田二郎の長女として東京麻布で生まれた。東洋英和女学校卒業。明治二九(一八九六)年満十八の時に佐佐木信綱に入門。作品を同氏主宰の『心の花』に発表、歌壇に超然として、純粋な歌境に沈潜した。歌集「翡翠(かはせみ)」(大正五(一九一六)年三月二十五日竹柏会出版部発行。東京堂発売。芥川龍之介は大正五(一九一六)年六月発行の雑誌『新思潮』の「紹介」欄に書評「翡翠 片山廣子氏著」を掲載している(リンク先は私のサイト版の古い電子化)。署名は「啞苦陀」(あくた)。実は私は、廣子が龍之介に「翡翠」を献本した可能性が高いと考えている。そうでもなければ、ここに唐突に歌集の書評を書くはずがないと思うからである。勿論、唐突に廣子が自分の処女歌集を未知の龍之介に送ることは考えられないから、恐らくはそれ以前に、廣子の何らかの翻訳作品を介在として、英文学専攻の龍之介と彼女は間接的な接点があったものと思っている(但し、その時には直接には逢ってはいないと考えられる)。但し、この時点では、私は少なくとも廣子からのアプローチではなく、龍之介の方からの、稀有の才能を持った数少ないアイルランド文学の女流翻訳家の『おばさん』――廣子には礼を失することを承知で敢えてそう言っておこう――という好奇心に過ぎなかったのではあるまいか、とも考えている)出版後、アイルランド文学の訳業に専念し、その面での開拓者になり、その翻訳は上田敏・森鷗外・坪内逍遙らに才能を認められた。明治三二(一八九九)年夏に大蔵省に勤務していた片山貞治郎(後に日本銀行理事)と結婚し(廣子満二十一)、片山達吉(明治三三(一九〇〇)年~昭和二〇(一九四五)年:文芸評論家。ペン・ネーム吉村鉄太郎)と総子(明治四〇(一九〇七)年~昭和五七(一九八二)年:小説家(結婚とともに筆を折った)。ペン・ネーム宗瑛(そうえい)。婚姻後の姓は井本)の二子をもうけたが、本書簡の三年後の三月二十四日に夫貞次郎は病没した。菊池寛は「わが金蘭簿(きんらんぼ)[やぶちゃん注:親しい友人の住所録。]中、最も秀(すぐ)れた日本女性」とその人柄を賞している。昭和一〇(一九三五)年五十七歳の時、再び短歌に戻り、歌集「野に住みて」(昭和二十九(一九五四)年一月二十五日第二書房発行)を本名で出版した。昭和二八(一九五三)年六月に出版した随筆集「燈火節」は昭和三十年の第三回エッセイスト・クラブ賞を受賞した名品である。廣子と総子は堀辰雄の「聖家族」や「楡の象」などの小説のモデルでもある。因みに、後年、廣子が亡くなった後、総子は、芥川龍之介からの書簡の所在について聴かれた際、「総て焼き捨てた」と言い放っている。これこそ、まさに、私に龍之介と廣子の関係の深さという確証を高めさせ、追及をする契機となったものであったが、どうも実際には一部が残されて好事家に秘かに渡っていた。その一部がずっと後に吉田精一の手に渡って、公開されている(後掲する)。言わずもがなであるが、彼女は芥川龍之介が、晩年、最後に愛した女性であった。無論、この時、芥川龍之介は、彼女が、そうした人生最後の「Femme fatale」(ファム・ファタール:フランス語で「宿命の女」)となるとは夢にも思ってはいなかった。なお、私は、サイトで、
片山廣子集 《昭和六(一九三一)年九月改造社刊行『現代短歌全集』第十九巻版》 全 附やぶちゃん注・同縦書版
や、
新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿) 完全版・同縦書PDF版
芥川龍之介関連 昭和二(一九二七)年八月七日付片山廣子書簡(山川柳子宛)・同縦書版
及び、フィオナ・マクラオド(松村みね子名義訳)の、
及び、ジョン・ミリントン・シング(同前)の、
ロード・ダンセイニ(同前)の、
やアイルランド伝説集(以下の訳題は明らかに龍之介の「河童」を意識した秘かなオードである)の、
カッパのクー ――アイルランド伝説集から―― オケリー他編 片山廣子訳
の他、「燈火節」の数篇を電子化注(上記を含め私のサイト内の「心朽窩旧館」の「片山廣子」の項を見られたい)しており、芥川龍之介の廣子宛書簡は実は、
やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注・同縦書版
として既に電子化している(本書簡も冒頭に配してある)。但し、それは十一年も前の仕儀で、幾つかの不満や不全もあるので、ここでは、改めて電子化し、注を附す。また、ブログ・カテゴリ「片山廣子」でも、今も、片山廣子と芥川龍之介を追い続けている。その探求の中でも、私が拘った龍之介と廣子の最晩年の秘かな密会を追ったサイト版の『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』は相応の自身作ではある。参照されたい。
「著書」これは以下の坪内逍遙への悪戯っぽい言いかけから、この大正六(一九一七)年六月に東京堂書店から「松村みね子」名義で刊行したジョン・ミリントン・シング(John Millington Synge 一八七一年~一九〇九年)の物議を醸しだした(初演時にアイルランドのナショナリストが公衆道徳とアイルランドに対する侮辱として暴動が発生したことでとみに知られる)問題作の三幕喜劇“The Playboy of the Western World ”(「西部の伊達男」。一九〇七年にダブリンにて初演)の全訳本である。序文を逍遙が書いている。歌集「翡翠」の時と同じように、片山廣子が芥川龍之介に同書を献本したのである。同書の奥付を見ると、六月三日発行であるから、廣子がいそいそと楽し気に龍之介宛のそれを梱包している姿が目に浮かぶ。彼女自身もまた、自身が芥川龍之介の最晩年に重要な龍之介の愛する女性として際会するなどとは、想像だにしなかったことは言うまでもないが。私は既にして遠く、芥川龍之介の「ファム・ファタール」廣子は起動していたのだと思う。しかし、何故、廣子は取り立てて親しくもない龍之介に本書を献本したのか? 私は先に示した、やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注の本書簡の注で以下のように推理した。『この十日前の六月一日には「東京日日新聞」に芥川龍之介の処女作品集となる『羅生門』の広告が掲載されている(刊行は前月五月二十三日であった)。『燦然たる文壇の新星!! 第一作品集出づ!! 羅生門は新進作家の雄にして、且つ先蹤の諸大家を壓倒するの槪ある芥川氏の第一作品集也。その觀察の鋭雋』[やぶちゃん注:「えいしゆん(えいしゅん)」。鋭く抜きん出ていること。]『にしてその文品淸洒なる殆んど現文壇その比儔』(「ひちう(ひちゅう。「匹儔」(ひっちゅう)に同じ。匹敵すること。)『を見ず。本集収むる處卷頭羅生門を始め鼻、父、猿、孤獨地獄以下十數篇總て文壇の耳目を聳動せしめしもの、敢て芳醇なる新興藝術に接せんとする士に薦む』(新全集宮坂覺氏編の年譜に引くものを底本としたが、恣意的に正字に直してある)。これを廣子も見たであろう。もしかすると、この時、既に芥川から『羅生門』が献本されていた可能性さえある。廣子の献本は、実は、それに応えるものではなかったか? 後年、出身校である東洋英和学院に寄贈された廣子の蔵書の中に芥川龍之介の『羅生門』があり、そこには芥川龍之介の「おひまの節およみ下さい」と書かれた名刺が挟まっているのである。さて。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで同初版全篇が読める。これは何時か電子化したいと私が考えている作品である。私はシングが大好きで、サイトの「心朽窩 新館」で、シング著で、かのウィリアム・バトラー・イェイツが挿絵を描いた「アラン島」(姉崎正見訳(昭和一二(一九三七年)刊岩波文庫版)附原文及びやぶちゃん注附きで、第一部・第二部・第三部・第四部と分割して公開してある(勿論、挿絵附き)。先行公開したブログ分割版もある。
「モリス・ブルジョア」綴るなら“Morris Bourgeois”であるが、このような名の作家は近現代にはいない。『モダンデザインの父』と呼ばれたイギリスの詩人で、デザイナーでありマルクス主義者でもあったウィリアム・モリス(William Morris 一八三四年~一八九六年)のことをちょっと皮肉(ブルジョアのマルクス主義者)を添えてかく呼んだものかと思われる。既に述べた通り、芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」であった。私はやぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注で、『調べたところでは、モリスはエイリクル・マグヌソンとの共訳でアイルランドの叙事詩「ヴェルスンガ・サーガ」を“Völsung Saga: The Story of the Volsungs and Niblungs, with Certain Songs from the Elder Edda with Eiríkr Magnússon (1870)(from the Volsunga saga)”に英訳しており、アイルランド文学との接点もあるようであるから、シングの作品の邦訳の序で逍遙が彼の名を出したとしてもおかしくはない』と述べたが、今回、序文を読んだところ、モリスの名は出てこない。而してこれは、私の印象に過ぎないのだが、逍遙が「序」の中でありながら、グタグタとみね子(廣子)の訳語の不適切を指摘しているどこかを指して芥川は逍遙を揶揄しているものと思われ、恐らくは標題の「いたづらもの」の訳を批判している部分が、モリスの上記の英訳辺りによって、「いたづらもの」のニュアンスが正当にして正統に正しいことを龍之介は言っているのではないか? と私には感じられた。因みに、逍遙は標題を「西國の鬼太郞」「西海岸の惡魔太郞」「西海岸の鬼息子」という、なんとも「ゲゲゲの鬼太郎」みたような奇体な訳を推奨しているからである。
「裝釘も非常に氣もちよく思はれます」見開きの英文ラベル部分をリンクさせておく。確かに! お洒落で、いいね!]
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