サイト「鬼火」開設二十一周年記念 梅崎春生 鬚
[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十二月号『文芸大学』初出で、翌年十二月に刊行された作品集『B島風物誌』に収録された。
底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。
文中にも注を附したが、最初に言っておくと、本作は小説の体裁をとっているが、主人公「私」の体験内容は梅崎春生の履歴とほぼ完全一致している。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、昭和一五(一九四〇)年三月(満二十五歳)、東京帝国大学文学部国文科を卒業(卒業論文は現代時制の小説のみに限定した「森鷗外論」)し、朝日新聞・毎日新聞・NHKなどを志願するも、総て不合格で、弱り切っていたところを、旧友の霜多正次の紹介で東京市教育局教育研究所の雇員(こいん:正式職員ではなく、事務・技術的仕事の手伝いなどのために雇われた雇用人)となった。給料は七十円。現在換算で一万三千五百円前後か。二年後の昭和十七年、陸軍対馬重砲隊に召集されたが、軽度の気管支カタルであったのを肺疾患と診断されて即日帰郷となり、その年一杯、療養生活を楽しんで、職に復したものの、まさにこの昭和十九年春三月には、『徴兵をおそれて教育局を辞職、東京芝浦電気通信工業支社に入社。一ヵ月勤務したが、役所と違って仕事がきついので三ヵ月の静養が必要であるとの診断書を医者に頼んで書いてもらい、月給だけ貰って喜んでいたところ、六月、海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団』することとなってしまうのであった。本篇作品内の時制では、梅崎春生は満二十九歳で、この年の三月から六月というのは作品内時制とも齟齬が全くなく、創作とは言え、梅崎春生には珍しい私小説風のものとも考えられる。
なお、本テクストは私のサイト「鬼火」(二〇〇五年六月二十六日開設)二十一周年記念として公開する。サイト版でPDF縦書ルビ版も同時に公開した。【二〇二一年六月二十六日 藪野直史】]
鬚
口鬚(ひげ)を立てようと思った。昭和十九年春のことである。しかしそれについても大いに迷ったと見えて当時の日記を読むと次のようなことを書いておる。
「一般的に言って人間の顔には、崖の似合う顔と似合わぬ顔がある様だ。誕生のときから生えているのではないかと思われる程しっくりした鬚の人も居るし、地の鬚のくせに付鬚みたいにそぐわぬ感じの人もいる。街を歩いて眺めて見ても、大きな鬚や小さな鬚、美しく刈り込んだ鬚や赤茶けて汚れた鬚、皆それぞれの趣好で顔に付着しているが、その似合う似合わないはひとえに顔の造作と微妙な関係があるようだ。顔の面積、鼻の高さや角度、頰と顎(あご)の比率、そんなものが鬚を立てる適不適を決定するのであって、鬚の似合わぬ人は自分の顔について計算誤りをしたと言う外はない。今まで見た範囲では、大鬚を立てた人に限って小さな眼を持っているようだが、あれはどういう訳(わけ)であろう。近頃感じた不思議のひとつである」[やぶちゃん注:底本全集の第七巻に抜粋の「日記」があるが、昭和十九年分はない。なお、近々、梅崎春生の当該「日記」パートを総て特殊な処理を施して電子化する予定である。お待ちあれ。]
変に気取った文章で、此処に書き写すのも気がひける。日記に此のような文体を使用することは精神が堕落している証拠で、当時の私は全く贋者の生活をして居った。気持の荒れは必ず顔貌に出るもので、鏡で見ると、色艶の悪い髪は額に乱れ落ち、眼には光なく、顔色蒼然として贋者(にせもの)に酷似している。これに鬚を立てればどういう顔になるのか、想像する勇気も出ない程不安であったが、しかし当時の私はどうしても鬚を立てねばならぬ訳があったのだ。顔の造作を顧慮することなく口鬚を生やさねばならない破目に追い込まれていたのである。その事情を今から書く。
その頃私は東京都の役人であった。
足掛四年の勤めであったけれども、地位から言えば極端に下っ端であった。そしてどの下っ端役人にも同じように、傲慢で、不親切で、見栄坊で、けちで、怠惰で、そして卑屈であった。唯私が周囲と違っていたことは、私が出世を念願しないということだけであった。それも都会議員などに手蔓(てづる)を求めて出世をたくらむ才覚を持合せないからであった。仕事にも情熱を持っていなかったから、勤務成績は極めて悪く、四年経っても雇員という半端な身分でぴいぴいしていた。そしてぴいぴいしていることに腹を立てて酒ばかり飲んでいたのである。それなら辞職すればいいのに、依然として毎朝通って居たというのも、役所を離れたら生活して行く方途が立たないからであった。もっと美しいもの、輝かしいもの、目の覚めるよぅなもの、そんなものを切に欲しながら、しかもそんなものが現実の世界にあってたまるかというのが、私の不潔な呟きのすべてであった。
すべてさびしさと悲傷を焚(た)して
ひとは透明な軌道をすすむ
と詩人はうたったが、私はそんなものを焚くこともせず、濁った軌道をよたよたとたどって居るに過ぎなかった。ところが昭和十九年に入ると、事情が俄(にわか)に変って来たのだ。[やぶちゃん注:上記の詩は宮沢賢治の「小岩井農塲 パート九」のもの。但し、正確には「すべてさびしさと悲傷とを焚いて」/「ひとは透明な軋道をすすむ」である。全体は私のブログの当該詩篇の電子化注「小岩井農塲 パート九」を参照されたい。]
徴用が始まるというのである。今までは役所は徴用の対象から除外され、それが私が役人として止っていた理由の一半ででもあるのだが、徴用すべき遊休市民も種切れになったと見えて、ついに当局は下級役人に目を着け始めたのである。これには困った。同僚の誰々に白紙令状が来たという話を聞く度に、私は次第にあわて始めていた。今迄は立身出世を侮蔑する気持が私の日常を辛うじて支えていたのだが、こうなると遮二無二(しゃにむに)出世を計って置けばよかったと後悔の臍(ほぞ)を嚙む思いであった。今更油にまみれて機械をいじるなど、誠に迷惑な話である。徴用。言葉からして現世の快楽から隔離された感じである。この事が私には一番いやだった。一体どうしたら良いかと思い悩んだ末、私は女のところに相談に行った。
「辞めてしまえば良いじやないの」
女は冷然と言下に答えた。
「辞めてしまえばなおのこと徴用がくる」
「だから徴用の来ない処にはいるのよ」
それもそうだと、女のアパアトから夜道を戻りながら私は考えた。しかし私のような人物は役所だからこそ勤まるので、よその処で勤務し得る自信はない。だがそんな事を考えている余裕は無かった。伝手(つて)を求めて他処(よそ)に移ることに決心して、私は辞表をしたためて役所に持って行った。そして再び踏むこともないだろうところの役所の玄関を、私はさっぱりした気持で出た。まことに晴れ晴れした心持であった。徴用が厭だったから辞めたに違いなかったが、私は周囲の小役人どもの体臭がそしてそれに染んだ自分の体臭が厭だったのだ。自分をなだめなだめして勤めていたのだが、常住それから抜け出たいという無意識の願望が、徴用という機会を捕えて爆発したに過ぎない。まこと徴用こそは、私の脱出の良きスプリングボードであった。ところが愚かな私は此の踏切板を利用して泥沼を見事に飛び出したまでは良かったけれど、方向を誤ってまた新しい泥沼に飛び込んでしまったのである。
川崎市にある、今は焼けてしまったが、通信機を製造する大きな会社に私は入り込んでいた。此処を紹介して呉れた布川さんという人が、自分も営業部にいるから君も営業部に入ったが都合良いだろうと言うので、訳も判らずに営業部の一隅に席を据えて、毎日朝早くから通い始めたのである。朝は寒いのに暗いうちから起きて仕度をし、夕方は暗い頃でなければ家に帰り着かぬ。長い間住み慣れた本郷から余儀なく大森に引越して来た。弁天池の畔(ほとり)にあるマッチ箱のような素人(しろうと)下宿である。池に面した四畳半の部屋で、毎晩疲れ果てて眠った。[やぶちゃん注:「弁天池」東京都大田区山王四丁目(グーグル・マップ・データ)に現存する。]
新参の勤めの気持は、経験のある人なら誰にでも判って貰えるだろうと思う。白々とした手持無沙汰な気持も、また誰からも相手にされない癖にどこからか執拗(しつよう)に監視されているような気持も、やり切れぬとは思ったが運命と思って辛抱した。しかし九日十日経ち、此処の空気が次第に判り始めるにつけ、段々私は自分の軽はずみを後悔するような気持になり始めたのである。
役人という人種も誠に愚劣であったけれど、会社員というものがこんなに愚劣な人種であるとは私の予期しなかったところであった。ずるい癖に卑屈で、不親切で、そして最も私を驚かしたことは彼等は役人よりももっともっと官僚的であったことであった。一々例を上げるのは止(よ)すけれども、とにかく私はだだっぴろい部屋の一隅で、おあずけを食った犬のような顔をして、毎日爪を嚙んでぼんやりすわって居たのである。何も仕事がなかった。そして皆私に冷淡であった。私とかかわり合うと損をするといった風(ふう)であった。一間に閉じこめて何の仕事もさせないという刑罰が昔あったそうだが、これは辛いだろうと思う。こんなことなら徴用されて機械とにらみ合って居た方がましなような気になっていると、布川さんというのは気が良い男で、私が神妙に勤めているかどうか時々やって来て、元気をつけて呉れる。折角紹介して呉れたんだからと私もその時だけは気を取り直すが、布川さんが向うに行ってしまうと忽(たちま)ち気が滅入ってしまう。
しかし、これ程とは思わなかったにしろ、現実世界に美しく楽しい仕事がある筈がない事は、いくら私でも知っていた事だから我慢して行く積りであったが、私が辛抱出来なかったのは私のささやかな快楽からすらも遮断(しゃだん)された事であった。役所に居た頃は、それでも勤務をさぼって国民酒場に並んだり、牛込の濁酒(どぶろく)屋に昼頃から行列することが出来た。処が此の会社は退けが五時半だから、とてもそんな事は出来やしない。だいいち女に逢いに行く事すら出来ない。私はもともとストイックな趣味は持ち合せないし、現世の快楽と言うと大袈裟(おおげさ)だがそんなものから自分を隔離するという事は、人生に対する冒瀆(ぼうとく)であり、ひいては神に対して冒瀆であるという信念を持って居たから、もはや私が此の軍需会社に席を置く意味は根底から失われて来たのである。で、辞めようと思った。
辞めようと思ったものの、まだ一箇月も経たないのに辞表出したら、皆変に思うだろうし、第一紹介者の布川さんがいくらお人好しとは言え、面目玉を潰して厭な思いをするだろう。他人と感情の摩擦を起すことは生来私の好む処ではない。しかし辞めないことには女にも逢えないし、先ずあんな冷たいところはいやだ。あんな愚劣な世界はない。昭和十九年頃に於ける大日本帝国の一流軍需会社の内情は、こんなにも愚劣であったということを記録して後世に残さねばならぬ。そう思って原稿用紙を買って来て下宿の机上に置いてある程だ。どうにかして布川さんの面子(メンツ)を潰さずに辞める方法はないものかと、あれこれ思案しているうちに、私はふと病気ということを思いついた。そうだ、病気なら辞めても可笑(おか)しくないだろう。私は病気になる決心をした。
私は生れつき智意は余り無いくせに、そんなことには頭が良く働くたちだ。その夜暗い大森の街をあちこち歩き廻り、すぐ診断書を書いて呉れそうな医院を探しあて、さまざまの贋の自覚症状を申し立てて、首尾よく診断書を手にすることが出来たのである。自覚症状は本屋で肺病の本を十分間ほど立ち読みして覚えた。医師が問うまま自覚症状を答えているうちに、何だか本当に自分が病気に冒されているようなものものしい気分になって来た。だんだん悲痛な顔色になって来たんだろうと思う。医師は私を慰めながら、用紙にさらさらと次のように書いて呉れた。
右側肺尖加答児(カタル)四箇月ノ休養ヲ要スルモノト認ム
それを読んだ時、にがいものが口腔の中にたまって来るような気がした。[やぶちゃん注:「肺尖加答児(カタル)」(「カタル」はオランダ語catarrhe・ドイツ語Katarrhで、粘膜の滲出性炎症。粘液の分泌が盛んになって上皮組織の剝離や充血などが見られる症状を言う。ここは肺尖部の結核性病変で、肺結核の初期症状である。]
で、そういう事情だから辞めさして頂きたい、入社早々病気欠勤してその間月給を只貰うのは心苦しいし、だいいち私の気に済まない。
そう言ったところが布川さんは人の好さそうな眼をしばしばさせて、そんな事はないでしょう、会社から月給貰ってゆっくり養生すればいいじゃないですか、と私をなだめるように肩をたたいて呉れた。いやそういう訳には、私の良心が許さないのです、入社しなかったと思えばそれで済むのですから、などと押問答しているうちに、布川さんはふと思いついたように、
「しかし辞めると言っても君は此の会社に現場徴用になっている筈ですよ」
何ですか現場徴用というのは、私はあわてて聞き返した。診断書は布川さんに事のいきさつを話す前に、もはや部長の手に提出してあるのである。辞表だけは布川さんの諒解を得て、部長に出そうという私の腹であった。そして布川さんの説明によって、戦争の終る迄は死にでもしない限り、私は此の会社と縁を切る訳には行かぬことが呑み込めて来た。まことに私は狼狽した。
もはや事態は私の計算をはみ出て進行し始めたのである。あわててあちこちと折衝したけれども後の祭りであった。そしてとうとう不幸にも私は向う四箇月間養生しなければならない事に決ってしまったのだ。そんな恐い病気に私が犯され、そして長い間休養しなければならぬことが周囲に知れ渡ると、いつもは冷たく仕事の上では不親切な人人が、掌を返すように親切になったのは、今もって私には不思議である。他人が不幸になると人間は寛大になるものらしかった。お大事になさいとか、僕も昔やったことがあるがなどと、なおる秘伝を教えて呉れたり、始めからこんなに親切なら或は私も病気にならずに済んだにと、私は腹の中で毒づきながらあいさつを済まし会社の門を飛び出した。駅の方にてくてく歩きながら、どうにでもなれと思った。
翌朝も何時ものように早く眼が覚めた。今日は会社に行かなくて良いのだということがすぐ頭にきた。嬉しいような不安なような気持で、蒲団をかぶって又眠った。色々な夢を次々に見て昼頃ぼんやり眼が覚めた。起き上って部屋の中を見廻した。見廻してもさて何することもない。
これが私の克ち得た境遇なのか?
猿をつないだ繩の端を猿廻しが持っているように、私を繋いだ紐(ひも)の端を会社がしかと握っている。一応私は身軽になったように見えて、その実身軽には動けないのだ。何をしたら良いのか判らない。又蒲団に私はもぐり込んだ。
夕暮になった。私は起き上り窓際に腰かけて、池の端に咲いている桜を眺めていた。よごれた桜の花片が細い道を埋め隠している。池の面に浮んだ花片を鯉が時々顔出してくわえてもぐって行く。眠り足りて身体が重く、春の愁いのかたまりになったような気がした。
翌朝も早く眼が覚めた。窓の下の道を、いずれあちこちの工場に徴用されたりして出勤する人々の跫音(あしおと)であろう、次々に近づいては遠ざかって行く。飛行機を造るために猫の手でも借りたい此の時局に、心身共に健全な私が手を束ねて無理矢理に朝寝をしなければならない。まこと後ろめたい感じである。しかし之(これ)も私の微妙な計算違いから来たもので、誰を怨むすべもない。しかしせめて三日に一度なりとも東京に出て、お酒を飲んだり本郷のアパアトにいる私の女に逢いに行ったりしてはいけないだろうか。そうでもしないことには、いくら安逸無為を愛する私といえども生きて行けないような気がする。
ところがそう簡単に行かなし事情があったのだ。会社の本社が日比谷にあったし、また陸軍省や造兵廠に連絡に行く為(ため)、営業部の連中はしょっちゅう川崎東京間を往復しているのである。その為の定期券が何枚も用意されている程だ。大森から省線に乗るとすれば、顔を合せる危険が多分にある。絶対安静にして居る筈の私が、血色の良い顔で省線に乗ったりして居るところを見られたら、結果が思いやられる。どうにか解決の方法はないかと、窓の下を通る跫音を数えながら思い悩んでいると、天啓のように私の頭にひらめいたひとつの考えがあった。
そうだ。口鬚を立てよう。
口鬚を立てれば判るまい。勤めた間が短かったから、うまく行けば彼等は私の顔を忘れてしまうだろう。忘れないにせよ印象はぼやけて来るに違いない。そこでもって顔形を少し変えれば、あの連中は頭が悪そうだから胡麻化(ごまか)しが利くのではないか。
しかしそれにしても鬚は一朝一夕にして生ずるものではない。それは仕方のない事だ。その代り生え揃ったら酒も飲めるし女にも逢える。私は愉しさのため急に胸がふくらんで来るような気がした。
忙がしい会社の生活と打って変ってのんびりした日々が、こうして始まったのである。朝はゆっくり起き、昼から夜にかけて煙草すったり本を読んだり、夜中にはこんこんと眠っていた。そのうちに私は段々と肥って来るようであった。胸の辺に肉が付き、身体全体がぼとぼとしまりが無くなって来たのである。その上自分でも判る位に万事挙動にくぎりが無くなって来た。暇になったら書こうと目論(もくろ)んでいた小説が、机の前に坐っても一句も浮び上って来ないのである。机上にのべた原稿用紙の第一行には、軍需会社、と題名が書かれたきり、あとは余白のまま日が経つにつれて薄いほこりを重ねて行った。そのうちに小説を書こうなどという気持も忘れてしまった。日記もつけなくなった。掃除も怠るようになり、寝床の上げ下げも省略した。物憂(う)い春の空気の満ちわたる部屋の中で、昼間でも寝床に入って、近くの貸本屋から借りて来た小説を読みふけった。読み疲れると天井をむき、煙草をふかしながら女のことを空想する。
相談に行った日以来私は女に逢っていない。床の中で女を考えると変になまなましく思い出されて来る。私が訪ねるときまってすぐチャカチャカと台所仕事を始めたり、しないでもいい洗濯を始めたがるのが女の癖であった。そんな癖を想起しながら私の指は鼻の下を撫でて居る。此の鬚さえ伸びればと思う。近頃肥って来たから、うまい具合に行けば私の鬚はハアトのキングみたいに高雅な感じになるかも知れない。私の好みからすれば、レオナルド・ダ・ヴィンチや佐久聞象山のような破局的な鬚が好きだが、あんな鬚を立てるまでには三年や五年はかかるだろう。やはりハアトのキング程度で我慢するほかは無かろうといったような事を私はとりとめもなくうつらうつらと考え続ける。
此のような境遇に追い込まれたら、私ならずともこんな阿呆な具合になると思う。こんな状態を何と呼ぶべきだろう。頽廃と言うには筋金が入っていないし、安逸と呼ぶには悲しみがあり過ぎた。脳の外側にぐるりと不透明な膜がかかったようで、例えばまっとうな小説を借りて来て読み出すと、頁半ばにして眠気を催してしまうのだ。あの若い頃の俊敏な文学青年であった私はどこに行ったのであろう。頭の片隅で鈍い悔いを意識しながら、それでも夕暮になると大森駅近くの貸本屋から探偵小説を借りて来て、蒲団の中で深刻な顔をして読みふけった。もう文学も何もなかった。探偵と一緒に犯人を探すことだけが私の生甲斐であった。未だ見知らぬ異国の、シヤンデリヤの下で、街のアパアトで、河岸のくらがりで、宿命の如く突然人が殺される。私は直ぐさま名探偵と一緒に現場にかけつけ、巧妙にたくらまれた迷路に、擬似の興奮と戦慄を強いられながら入って行く。言わば私は心身をなげうち捨身となって犯人の探索に従事したのである。漠然とした悲哀とにがい反省をひとつひとつ潰して行きながら。
窓の外に桜の花は咲きほうけ、やがて一ひら一ひら散り池の端を埋め尽し、散り果てた後からは鮮やかな緑の若葉が勢よくふくれ上って来た。もう良い頃だろうと私は窓に腰かけ手鏡を取り出して前に据えた。
汚れた手鏡の面に、葉桜を背景として鬚もじゃに荒んだ私の顔がぼんやり映っていた。暖かい春風がそよそよと顎の鬚をそよがせている。眼が赤く濁り皮膚はたるみ、ことのほか陰惨に見えた。鏡を横にずらしたり、かざしたり、下から映してみたり、あらゆる角度から調べ終ると、私は窓をしめ跫音を忍ばせて下宿の玄関を出て行った。
暫(しばら)くして私は理髪店の椅子台に、白い布で顎から下をおおわれて腰掛けていた。明るい雰囲気の中で無精鬚に埋まった私の風貌は、大きな白い鏡面の中でいっそう孤独に見えた。何か見るに堪えない気持があって私はわざと横を向いたりせきばらいしたりなどして胡麻化した。
いよいよ鬚を剃る段取りになったとき、私はふと危惧を感じて薄眼を開き、掌をひらひらと動かした。「ここは残すんだよ」
うっかりして剃り落されたら今までの苦労が水の泡になる。
やがて剃り終った。椅子の上に起き直り鏡を眺めたとき、私は少からず失望せざるを得なかった。鼻の下には何も無かったのだ。いや、何も無いと言っては嘘になる。何か薄黝く、丁度鼻の下が垢じみて汚れた感じである。無精鬚としては道行く人も振り返る位堂々としていたのに、いざ本物になった時には影みたいにたよりないのであった。何だかだまされた感じである。がっかりしてとぼとぼと下宿に戻って来た。これではまだ当分女には逢えそうにもない。
またしても懶惰(らんだ)なる生活が始まった。鬚などというものはまだ伸びないか伸びないかと毎日心配していると、仲々思うようには伸びて呉れないものらしい。むしろ鬚のことなどは念頭に置かないがいい。そう気付いたから鏡をのぞくことも出来るだけつつしむことにした。指でさわる時も人さし指や親指では触らない。薬指の腹で撫でるのである。これが私の鬚に対する無関心のせい一ぱいの表情であった。薬指の腹で撫でると、奇妙な触感が私の心をほろ苦くした。まだ撫でていたい欲望をねじふせると、急いで私は探偵小説の読み方に取りかかる。春が次第に闌(た)けて行った。女から葉書が来た。
近頃顔を見せないがどうしているか、という文面であった。その葉書を読み返し読み返し、又取り出してはやさしい筆遣いを打ち眺めていると女の顔や身体のことを思い出してますます思慕の情が募った。
朝早くと夕方遅く、相変らず窓の下の道を跫音がつづいて通る。その時刻だけは私はふしぎに寝床の中で目覚めている。だらけた一日中のうちで、何かが私の意識を叩きに来るのは此の瞬間だけであった。私はその瞬間身を硬くし、じっと跫音を聞いている。それは自責とか反省を超えた言いようのない孤独感であった。あの跫音はそのまま森森と機械が唸る荒びた世界に通じているのだ。そしてそれと同時に、南海派遣とか濠北派遺とか名付けられる灼けた弾丸と人血の臭いがするあの荒涼たる人間の現実にも――私は急いで聯想(れんそう)を断ち切ると蒲団をかぶり、莨(たばこ)のやにに染った指で鼻の下を撫でている。そして鬚を立てた私の顔を必死になって想像している。外の跫音から心を外らすために。――[やぶちゃん注:「濠北」オーストラリア北方のインドネシア東部とニューギニア方面。]
友達と雑談している時、一度ふざけ出すととめどがないのが私の癖であった。相手が段々不快になって行くのが判っていても、そして自分でも不快になってしまっても私は悪ふざけが止まらなかった。私とは関係なくふざけ方が進行して行くような具合だった。それに似ていた。止めても止まらぬものならば、私は人もふり返るような見事な鬚を完成するほかはない。蒲団の中で私は一心に自分にそう言い聞かして居た。
その中に日が経った。もうそろそろ大丈夫だろうと思って、抽出しの奥から鏡を取り出した。また窓縁に腰かけ幾分の期待をもって鏡をのぞき込んだ。
明るく晴れ上った空を背にして、無精鬚が再び顔中に密生していた。ひいき目のせいか鼻の下は一段と濃く、外の部分の無精鬚を剃り落しても結構独立の存在を保っているように見えた。しかし眺めて居れば居る程気持が悪くなりそうなので、私は鏡を置いて立ち上り、衣を更えて出て行った。此の前の理髪店で、此の前と同じ理髪師が同じ服装と表情で私を椅子台の上に招じた。
暫く経(た)って私は誠に落胆し、嫌悪の情で腹が真黒になって理髪店をよろめき出て来たのである。ハアトのキングなど飛んでもない話であった。日記にまで書いて危惧した通り、私の顔は鬚など生やすべき顔ではなかったのだ。今見た大鏡面の中の私は、ぶわぶわとふくらんだ顔の中央に絡印のように哀しい鬚をつけ、そして照れくさくわらっていた。何という哀しい鬚であろう。崖にとりついた不潔な蔓草のように赤茶けて鬚がしがみついている。とり返しのつかない失敗をした時の感じにそっくりであった。鏡にうつっているのが私の顔だからこそ私は我慢して眺めていたのだが、之が他人の顔なら思わず戦慄するに違いない。私は鏡面の顔から心弱くも視線を外らしていた。
翌朝になった。それでも眼が覚めた時最初に頭に来たのは、今日は女に逢えるという濁った喜びであった。私は半ば爽快に半ば自棄(やけ)に勢良く床を離れた。東京に出るとしても鬚をつけただけでは駄目である。鬚というのは人間の印象の一部分に過ぎない。鬚を中心として全体の印象を調ベなければならない。
私は押入れの中から古ぼけた鳥打帽と春の合服を取り出した。両者とも会社勤めの時に使用したことはない。ネクタイも赤い大柄のを選んだ。手鏡の中で次第に私の風采(ふうさい)が変化して行く。最後に鳥打帽を斜に乗せ、手鏡を顔に近づけた。
これは何という顔であろう。まるで出来損なった探偵である。日に焼けた鳥打帽のひさしの下に、黄色くむくんだ顔が見るからに厭らしい鬚をつけ、それがじっと私を凝視している。これが私の青春の姿か。次第に高まって来る嫌悪をねじふせかねて、思わず私は呟(つぶや)いた。
「いい加減にしなよ。ほんとに」
悪ふざけも、もう沢山ではないか。しかし私は人間らしく生きたかったのだ。悪ふざけすることで自分を確めたかったのだ。私といえども胸を張って悔いない透明な軌道をすすみたい。ただそんな生き方が今の時代には出来ないのだ。私は傷ついている。傷口をわざと押し拡げ、自ら感ずる苦痛だけが私には真実であった。ますます傷は深くなって行く。傷だらけになって、そして私の青春も間もなく終るのだろう。それまでは此の傷口のような鬚を曝(さら)して進んで行く外はない。
ふと涙が出そうな気がした。私はあわてて立ち上り部屋中を二三度歩き廻り、そしてそのまま玄関から出て行った。
女のアパアトは本郷の露地の奥に傾いて立っていた。
私が扉をノックすると暫くして女が出て来た。私の顔を見て、何とも言いようのない表情をした。入れとも言わず扉の間から首だけ出して私をみつめた。
「やって来たよ」と私が言った。言いながらにやにや笑ったんだろうと思う。女が微かに身ぶるいをするのがはっきり判った。暫(しばら)くして私を見つめたまま女が言った。
「何なの、それは」
「鬚だよ」
「ひげ?」女は痛苦に堪えないような顔をした。「何故鬚なんかをくっつけているの?」
「だって鬚を生やさなければ君に逢えなかったんだよ」
私は廊下に立ったままで、都庁を辞めた以後のいきさつをしどろもどろしゃべり始めた。女は冷たい表情で私の話を聞いていた。
「で、そういう訳なんだよ」
女は視線をゆっくり私の頭から足先に移動させ、又ゆっくり私の顔に戻した。
「いやだわ、ほんとに」女ははっきりした声で言った。「あなたの顔や恰好は、まるでサアカスよ、そんなのいやよ」
サアカスという言葉を聞いた時、大粒の涙が私の瞼からころがり出た。私は悲しくて悲しくてたまらなかった。私は廊下に膝をつかんばかりにして女に私の気持を訴えた。私が熱すれば熱する程、女はますます冷たくなって行くらしかった。此の女に見離される位なら、私は何の為に鬚を生やしたのか判らなかった。
「鬚を剃ったら又いらっしゃい。それまではお断りよ」
冷然と女は言い捨てて、扉を音立てて閉じた。
話はそれだけである。
それから二三日経って私に召集令状が来た。即日私は荷物をまとめて、二十四時間汽車に揺られて九州に帰った。鬚は海兵団に入団する前日、佐世保の床屋で剃り落した。それから一年有三箇月、私は終戦まで海軍の下級兵士として人並みな苦労をなめた。
今私の手許に一葉の写真がある。東京を離れる時撮った写真だ。赤だすきを肩にかけてひどく力んだ感じだが、記億の中では此の時は勿論(もちろん)充分鬚の形をとって居た筈にもかかわらず、此の写真の鼻の下にはほとんど鬚らしいものは認められない。写真の具合によるのでもあろう。また生毛のかたまりに過ぎなかったものを、私だけが鬚のつもりに思い込んでいたのかも知れない。もしそうだとすると此の数箇月間は私は全く独角力(ひとりずもう)を取っていたということになる。まことに佗しい話だと私は思うのである。
先日暇があったので行ってみたら、本郷は焼野原になっていて、アパアトの付近は麦畑となり、春風の中を雲雀(ひばり)のみがピイチク啼いて居った。女はどうしたのか判らない。