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2021/06/20

日本山海名産図会 第四巻 蛸・飯鮹

 

Tako1


Tako2

 

[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。一枚目のキャプションは「豫刕長濵章魚(よしうなかはまたこ)」。脚が掌の外にはみ出るほどの中型の蟹を蒲鉾板大の木片につけたものを餌としているのが判る。二枚目は「越中滑川之大鮹(えつちうなめりかはのおほたこ)」である。浮き出ている胴頭部だけで三メートルはあり脚を伸ばした長さは九メートルほどはあるか。漁師に非常に長い柄と刃を備えた大鉈で切断されて、舟に載り掛けている脚の先だけでも、向こうの舷側に垂れているようだから、実長は二メートル近そうだ。これは所謂「大蛸」の異名を持つタコ類最大種の頭足綱八腕形目マダコ科ミズダコ属ミズダコ Enteroctopus dofleini と思われ、現在の最大記録は体長九・一メートル、体重二百七十二キログラムであるから、遜色ない。海上の孤独な死闘(といってもミズダコがこのように沖の海面に浮上して舟を襲うことは特撮映画以外ではあり得ない。但し、水中や岩礁帯で身体に絡みつかれることはある)を遠目に、それと対照的な手前の街道筋の穏やかな日常が対位法的に興味深い効果を生んでいる。或いは、家の隙間から覗いている黒牛だけが、それを知って見ているようで、実に面白い。]

 

   ○章魚(たこ)【一名は「梢魚(せうきよ)」、又、「海和尚(かいおしやう)」、俗に「蛸(たこ)」に作るは、「梢(せう)」の音(おん)をもつて二合(にがう)せるに似たり。】

諸州にあり。中にも播州明石に多し。磁(やきもの)の壺(つほ)、二つ、三つを、縄にまとひ、水中に投じて、自(おのづか)ら來たり入(い)るを、常とす。磁器(じき)、是れを「蛸壺」と称して、市中(しちう)に花瓶(くわへい)ともなして用ゆ。蛸は壺中(こちう)に付きて、引き出だすに、やすからず、時に壺の底の裏を、物をもつて搔き撫づれば、おのづから出て、壺を放(はな)ること、速(すみや)かなり。○伊豫長濵には、此の魚(うを)、甚だ多き故に、「張蛸(はりたこ)」として市に出だすなり。是れは「スイチヤウ」と云ふ物を以つて取るに、壹人に、五、六百、壹艘(いつそう)には千、二千に及ふ。「スイチヤウ」とは、四寸に六寸許りの小片板(こいた)の表の端(はし)に、釣を二つ付け 表に「ズ蟹(かに)」の甲をはなし、足許(あしもと)をのこし、石を添へて、二所(ふたところ)、苧(お)にて括(くゝ)りたるを、三つ許り、長さ四、五十尋の苧糸(おいと)に付けて、水中に投ずれば、鮹は蟹の肉を喰はんとて、板の上に乘るを手ごたへとして、ひきあぐるに、岸近く、或(ある)は水際(みつきは)などに至りて、驚き逃げんと欲して、かの釣(つりばり)にかゝるなり。泉刕、亦、此の法を以つて小鮹(こたこ)を採るには、烏賊(いか)の甲・蕎麦(そば)の花などを、餌とす。長刕赤間關(あかまのせき)の邊(へん)には、船の艫先に(へさき)に篝(かゞり)を焚けば、其の下、多く集まりて、頭(かしら)を立てて踊り上るを、手をもつて摑み、手の及ばざる所は、打鎰(うちかき)を用ゆ。手取(てとり)の丹練、尤も妙なり。

○鮹は、普通の物、大ひさ、一、二尺許りにして、又、小蛸(こたこ)なり。京師(けいし)にて、十月のころ、多く市に售(う)るを「十夜蛸(じうやたこ)」と云ふ。漢名「小八(せうはつ)」・「梢魚(せうぎよ)」、又、「絡蹄(らくてい)」と云ふ。大ひなる物は「セキ鮹(たこ)」と云う。又、北國邊(ほつこくへん)の物、至つて大ひなり。大抵、八、九尺より、一、二丈にして、やゝもすれば、人を卷き取りて食ふ。其の足の疣(いぼ)、ひとの肌膚(きふ)にあたれば、血を吸ふこと、甚はだ、急にして、乍(たちま)ち斃(たを)る。犬・鼡(ねつみ)・猿・馬(むま)を捕るにも、亦、然り。夜(よる)、水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり。「大和本草」に、但馬の大鮹、松の枝を纏ひし蟒(うはばみ)と爭ふて、終(つい)に、枝ともに海中(かいちう)へ引き入れしことを載せたり。

○越中冨山滑り川の大鮹は、是れ亦、牛馬(きうば)を取り喰らひ、漁舟(ぎよせん)、覆(くつかへ)して、人を取れり。漁人(ぎよにん)、是れを捕らふに、術(じゆつ)、なし。故に舩中に空寐(そらね)して待てば、鮹、窺ひ、寄りて、手を延べ、舩のうへに打ちかくるを、目早(めはや)く、鉈(なた)をもつて、其の足を切り落とし、速やかに漕ぎかへる。其の危うきこと、生死(せうし)一瞬の間(あいだ)に関(あづか)る。誠に壯子(さうし)の戰塲に赴き、命を塵埃(ぢない)よりも輕んずるは、忠、又、義によりて人倫を明らかにし、或ひは、天下の暴𢙣(はうあく)を除かんがためなり。されども、鮹の足一本にくらべては、紀信(きしん)・義光(よしみつ)か義死といへども、あわれ、物の數には、あらずかし。

 右、大鮹の足を、市店の簷下(のきした)に懸くれば、長く垂れて、地にあまれり。又、此の疣一つを服して、一日の食(しよく)に抵(あ)つとも足(た)れり、とすなり。この余の種類、人のよく知る處なれば、こゝに畧す。

○「鮹の子」は、岩に產み附けるを、「やり子」といひて、糸すぢのごとき物に、千萬の數を連綿す。是れを塩辛として「海藤花(かいとうくわ)」と云ふ。

○「タコ」とは、手多きをもつて、号(なづ)けたり。「タ」は「手」なり。「コ」は「子」にて、頭の禿(かむろ)によりて、猶(なを)「小兒」の儀なり。

 

Iidako

 

[やぶちゃん注:同じく国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「高砂望潮魚(たかさこいひたこ)」。巻貝(赤螺)の殻を用いた漁法がよく判る。]

 

   ○飯鮹【○漢名(かんめう)「望潮魚(ほうてうきよ)」。】

攝・泉・紀・播州に多し。中にも播州高砂を名產とす。是れ、鮹の別種にして、大きさ、三、四寸にすぎず。腹内(ふくない)、白米飯(はくまいいひ)の如き物、充滿す。「食鑑」に云はく、『江東、未(いま)た此の物を見ず。安房・上総などに、偶(たまたま)是れありといへども、其の眞(しん)をしらず。』とぞ。

○漁捕(ぎよほ)は、長さ、七、八間のふとき縄に、細き縄の一尋許りなるを、いくらもならび付けて、其の端(はし)每に、赤螺(あかにし)の壳(から)を括りつけて、水中に投(たう)す。潮(しほ)のさしひきに、波、動く時は 海底に住みて、穴を求(もと)る[やぶちゃん注:ママ。「もとむ」の脱字であろう。]が故に、かの赤螺に隱る。これを、ひきあぐるに、貝の動けば、尚、底深く入りて、引き取るに用捨なし。

[やぶちゃん注:「スイチヤウ」当初、「垂釣」かと思ったが、その場合の歴史的仮名遣は「すいてう」である。そうなると、仕掛けの板に思い到った。これは丁半博奕の際の、コマ札に似ている。されば、「垂丁」或いは「水丁」ではなかろうか。これならば「すいちやう」で歴史的仮名遣として正しくなる。

「ズ蟹」甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica 「大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ)」を参照されたい。

「苧(お)」「鰤」の「苧縄(をなわ)」を参照されたい。

「四、五十尋」尋の江戸時代のそれは正確な規定値がないが、明治時代の換算では一尋は約一・八一八メートルとされた。但し、一尋を五尺(約一・五一五メートル)とすることもあるという。「四十尋」は前者換算で四十七・二四メートル、後者で六十・〇六メートル半となる。「五十尋」前者で九十・九メートル、後者で七十五・七五メートル。

「打鎰(うちかき)」「打ち鉤(かぎ)」。魚介類を引っ掛けて捕ったり、運んだり、ぶら下げたりするための鉄の鉤。

「十夜蛸(じうやたこ)」「(お)十夜」は浄土宗で旧暦十月六日から十五日まで十日十夜行う別時念仏(念仏の行者が特別の時日・期間を定めて称名念仏をすること)のこと。十日十夜別時念仏(じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえ)が正式な名称で、十夜法要とも言う。天台宗に於いて永享二(一四三〇)年に平貞経・貞国父子によって京都の真如堂(正式には真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)。京都市左京区にある天台宗寺院)で始められたものが濫觴とされるが(現在でも真如堂では十一月五日から十五日まで十夜念仏が修せられている)、浄土宗では明応四(一四九五)年頃に、鎌倉の光明寺で観誉祐崇が初めて十夜法会を行ったのを始めとする。十夜は「無量寿経」巻下にある「此に於て善を修すること、十日十夜すれば、他方の諸佛の國土において善をなすこと、千歲するに勝れたり」という章句による(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠る)。調べてみると、京都の真如堂のお十夜法要の際、「十夜蛸」の店が出るという複数の記載があった。このタコがマダコであるかどうかは、確認出来ないが、まあ、マダコでよかろうかい。

『漢名「小八(せうはつ)」・「梢魚(せうぎよ)」、又、「絡蹄(らくてい)」と云ふ』「本草綱目」では「章魚」で「舉魚」「𠑃魚」「石距」を掲げる(但し、「石距」は通常のタコとは異なる種としている)。なお、別に「鮹魚」を立項するが、これはタコではなく、「江湖に出づ。形、馬の鞭に似て、尾、兩岐、有り鞭鞘(べんしやう[やぶちゃん注:鞭の先につける細い革紐。])のごとし。故に名づく。」とあり、淡水産の細長い魚類かと思われる。作者は、ここは「大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」に拠っている(リンク先で「本草綱目」を電子化してある)。益軒はそこで、『○「小八梢魚(くもだこ)」、「八梢魚(たこ)」に似て、小なり。俗名「絡蹄〔(らくてい)〕」【「東醫寳鑑」。】。「本草」、「章魚」〔の〕「集解」に、時珍曰はく、『石距も亦、其の類〔(るゐ)〕なり。身、小にして、足長』〔と。〕これ、「足ながだこ」なり。』と述べている。私は、そこで、「絡蹄」については、「絡蹄」の「絡」は「まといつく・からむ・からまる」で、「蹄」は「ひづめ」で、タコの吸盤を喩えたかとし、この「足ながだこ」をマダコ科 Callistoctopus 属テナガダコ  Callistoctopus minor に比定している。

「セキ鮹(たこ)」「石鮹」か。一石(=十斗=百升=一千合)の「石」(こく)で「一石もある大田だこ」の意ではあろう。漢語の「石距」由来ではあるまい。私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚(たこ)」・「石距(てなかだこ)」・「望潮魚(いひたこ)」でも、かなり詳しい注を附してあるので、是非、そちらも参照されたい。

「水岸(すいがん)に出でて、腹を捧(さゝ)け、頭(かしら)を昂(あをむ)け、目を怒らし、八足(そく)を踏んて走ること、飛ぶがごとく、田圃(たばた)に入りて、芋を堀りくらふ。日中にも、人なき時は、又、然り。田夫(でんぷ)、是れを見れば、長き竿(さほ)を以つて、打ちて獲(う)ることもあり、といへり」これはタコのかなり知られた怪奇談であるが、私は完全に都市伝説の類いであると断じている寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚」にも、『一、二丈ばかりの長き足にて、若し、人及び犬・猿、誤りて之れに對すれば、則ち、足の疣、皮膚に吮着(せんちやく[やぶちゃん注:吸着。])して、殺さざると云ふこと無し。鮹、性、芋を好(す)き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ。其の行(あり)くことや、目を怒(いか)らし、八足を踏みて立行(りつかう)す。其の頭、浮屠(ふと[やぶちゃん注:ここは僧侶の坊主頭のこと。])の狀のごとし。故に俗に章魚(たこ)坊主と稱す。最も死し〔→死に〕難し。惟だ、兩眼の中間[やぶちゃん注:ここに脳に当たる神経叢があるので正しい仕儀である。]を打たむには、則ち、死す。』とあるが、そこで私は次のように注した(古い仕儀なので、一部を修正・省略した)。これを修正する意志は私には全くない

   *

「性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ」は、かなり人口に膾炙した話であるが、残念ながら私は一種の都市伝説であると考えている。しかし、タコが夜、陸まで上がってきてダイコン・ジャガイモ・スイカ・トマトを盗み食いするという話を信じている人は結構いるのである。事実、私は千葉県の漁民が真剣にそう語るのを聞いたことがある。寺島良安の「和漢三才図会 巻第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「章魚 たこ」の章にも『性、芋を好き、田圃に入り、芋を掘りて食ふ』とあり、そこで私も以前、長々と注した。 また一九八〇年中央公論社刊の西丸震哉著「動物紳士録」等では、西丸氏自身の実見談として記されている(農林水産省の研究者であったころの釜石での話として出てくる。しかしこの人は、知る人ぞ知る、御岳山で人魂を捕獲しようとしたり(飯盒に封じ込んだが、開けて見ると消えていたともあった)、女の幽霊にストーカーされたり、人を呪うことが出来る等とのたまわってしまう人物である。いや、その方面の世界にいる時の私は実はフリークともいえるファンなのだが)。実際に全国各地でタコが畠や田んぼに入り込んでいるのを見たという話が古くからあるのだが、生態学的にはタコが海を有意に離れて積極的な生活活動をとることは不可能であろう。心霊写真どころじゃあなく、実際にそうした誠に興味深い生物学的生態が頻繁に見受けられるのであれば、当然、それが識者によって学術的に、好事家によって面白く写真に撮られるのが道理である。しかし、私は一度としてそのような決定的な写真を見たことがない(タコ……じゃあない、イカさまの見え見え捏造写真なら一度だけ見たことがあるが、余程撮影の手際の悪いフェイクだったらしく、可哀想にタコは上皮がすっかり白っぽくなり、そこを汚なく泥に汚して芋の葉陰にぐったりしていた)。これだけ携帯が広がっている昨今、何故、タコ上陸写真が流行らないのか? 冗談じゃあ、ない。信じている素朴な人間がいる以上、私は「ある」と真面目に語る御仁は、それを証明する義務があると言っているのである。たとえば、岩礁帯の汀でカニ等を捕捉しようと岩上にたまさか上がったのを見たり(これは実際にある)、漁獲された後に逃げ出したタコが、畠や路上でうごめくのを誤認した可能性が高い(タコは「海の忍者」と言われるが、海中での体色体表変化による擬態や目くらましの墨以外にも、極めて数十センチメートルの大型の個体が、蓋をしたはずの水槽や運搬用パケットの極めて狭い数センチメートルの隙間等から容易に逃走することが出来ることは頓に知られている)。さらにタコは雑食性で、なお且つ、極めて好奇心が強い。海面に浮いたトマトやスイカに抱きつき食おうとすることは十分考えられ(クロダイはサツマイモ・スイカ・ミカン等を食う)、さらに意地悪く見れば、これはヒトの芋泥棒の偽装だったり、禁漁期にタコを密猟し、それを芋畑に隠しているのを見つけられ、咄嗟にタコの芋食いをでっち上げた等々といった辺りこそが、この伝説の正体ではないかと思われるのである。いや、タコが芋掘りをするシーンは、是非、見たい! 信望者の方は、是非、実写フィルムを! 海中からのおどろどろしきタコ上陸! → 農道を「目を怒らし、八足を踏みて立行す」るタコの勇姿! → 腕足を驚天動地の巧みさで操りながら、器用に地中のジャガイモを掘り出すことに成功するタコ! → 「ウルトラQ」の「南海の怒り」のスダールよろしく、気がついた住民の総攻撃をものともせず、悠々と海の淵へと帰還するタコ! だ!(円谷英二はあの撮影で、海水から出したタコが、突けど、触れど、一向に思うように動かず、すぐ弱って死んでしまって往生し、「生き物はこりごりだ」と言ったと聴く)。

   *

『「大和本草」に、但馬の大鮹、松の枝を纏ひし蟒(うはばみ)と爭ふて、終(つい)に、枝ともに海中(かいちう)へ引き入れしことを載せたり』前掲大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」に、『○但馬にある「大ダコ」は甚大なり。或いは牛馬をとり、又、夜泊の小舟に手をのべ、行人〔(かうじん)〕の有無をさぐると云ふ。又、夜、ひかる。丹後熱(あつ)松の海にて、蟒(うはばみ)と章魚とたゝかひ、ついに[やぶちゃん注:ママ。]蟒を、うみへ引き入る。蟒、傍(かたはら)の木にまきつきたれども、松の枝、さけて、引〔(ひき)〕しづめらる。今に、松、殘れりと云ふ。諸州にて、「大だこ」、人をとる事あり。』とある。

「越中冨山滑り川の大鮹は、是れ亦、牛馬(きうば)を取り喰らひ、漁舟(ぎよせん)、覆(くつかへ)して、人を取れり。……」有り得ません。但し、怪奇談としては、汎世界的に人気がある。私の一番のお勧めは、私の「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」である。他に、蛇が蛸に化生する話も(類感呪術的である)枚挙に暇がないほどある。やはり私の「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」或いは「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」をお読みになられたい。大和本草卷之十三 魚之下 章魚(たこ) (タコ総論)」では、「義殘後覺」(ぎざんこうかく:愚軒(事績未詳。豊臣秀次の側近の「お伽の者」の一人かとも推定されている)の作になる雑談集。写本七巻。識語に文禄五(一五九六)年暮春吉辰とある)の巻四の「大蛸の事」を電子化してもある。

「𢙣」「惡」の異体字。

「紀信(きしん)」紀信(?~紀元前二〇六年か紀元前二〇四年か?)は秦末の武将。漢の劉邦に仕えた。紀元前二〇七年の有名な「鴻門の会」で、劉邦が項羽から逃れた際、樊噲・夏侯嬰・靳彊(きんきょう)らとともに参軍として劉邦を護衛した。紀元前二〇四年の夏六月、項羽率いる十万の軍勢が滎陽城(けいようじょう)の漢軍を包囲し(「滎陽の戦い」)。兵粮が尽き、落城寸前に陥った時、陳平は劉邦に対して、紀信が劉邦に扮して楚に降服する振りをして、その隙に劉邦が逃亡する策(「金蟬脱殻(きんせんだっかく)の計」)を進言した。紀信はその献策を受け容れ、間もなく、劉邦は陳平ら数十騎とともに滎陽城を脱出した。囮となった紀信は項羽によって火刑に処された(当該ウィキに拠った)。

「義光(よしみつ)」2021621日改稿】当初、『不詳』としたが、いつも情報を頂戴するT氏より、これは「太平記」第七巻の「吉野城軍事」(吉野の城(しろ)軍(いくさ)の事)に出る村上彦四郎義光である、という御指摘を受けた。『「尊卑分脈」「梅松論」では村上彦四郎義日、「梅松論」別本は「義暉」』(孰れも「よしてる」と読む)として出、護良親王を祀った『鎌倉宮の摂社「村上社」の祭神』となっている、とお教え下さり、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「太平記」巻第七の村上彦四郎義光が自らを大塔宮を演じて凄絶な自死に至るシーン(ここの右頁左から三行目以降。自害は次のコマの左頁の四行目以下)、及び「村上義日」で出る「国立国会図書館デジタルコレクション」の「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」の系図(ここの左頁のほぼ中央)、さらに「村上彦四郎義日」で出る「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」の写本「梅松論」(書写年代は文明二(一四二〇)年)の(ここの中央の改頁の前後)、及び「村上彥四郞義暉」で出る「国立国会図書館デジタルコレクションの活字本「梅松論」(日本歴史文庫)の当該部(左頁後ろから五行目)も紹介して下さった。ウィキの「村上義日」によれば、村上義光=村上義日=義暉(?~元弘三/正慶二年閏二月一日(ユリウス暦一三三三年三月十七日)は、『父は信泰。弟に国信および信濃村上氏棟梁の信貞。子に朝日、義隆。官位は従五位下、左馬権頭。通称は彦四郎。大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)に仕え、鎌倉幕府との戦い元弘の乱における吉野城の戦いで、次男の義隆と共に討死した。史料上は数行の記述が残るのみだが』、「太平記」では「村上義光」の『表記で登場し、印象的な活躍が描かれ、護良親王の忠臣として知られるようになった』(以下で「太平記」から別に私が示した)。『明治時代に従三位を追贈され、鎌倉宮村上社の祭神となった』。『村上義日(義光)に関する数少ない史料は、洞院公定編』の「尊卑分脈」であり、また、「梅松論」にも『名が見える』。諱は「尊卑分脈』」「梅松論」ともに、『「義日」の表記で記されるが』「梅松論」の別写本(「群書類従」版底本)では『「義暉」の表記が用いられている』(上記二種のリンク先がそれぞれに相当する)。『通称は彦四郎』(「尊卑分脈」・「梅松論」上巻)。「尊卑分脈」に『よれば、位階は従五位下で、官職は写本の系統によって左馬権頭とするものと右馬権頭とするものがある』。『信濃村上氏は、河内源氏の祖源頼信の次男源頼清を祖とする名門で』、「尊卑分脈」に『よれば義光の父は村上信泰とされる』。『また、国信・信貞(のち信濃村上氏棟梁)という弟と、朝日・義隆という子がいた』。『後醍醐天皇と鎌倉幕府との戦い』である「元弘の乱」(一三三一年~一三三三年)『が始まると、前半戦で敗北し』、『一度は姿をくらました護良親王(後醍醐天皇の皇子)は、後半戦で再び姿を現し、吉野城に籠城した』。『これに対し』。元弘三年/正慶二(一三三三)年の『初頭、鎌倉幕府は大将大仏高直・軍奉行工藤高景・使節二階堂貞藤(道蘊)らを将とする軍を編成』、閏二月一日、『二階堂軍の攻撃によって吉野城は落城した』。「尊卑分脈」に『よれば、この』時、『義日とその次男の義隆が討死した』とし、『義日は』「梅松論」上巻でも、『吉野城で落命した護良親王側の将として名が言及され』ている。『後述する』「太平記」に於ける『忠臣伝説が著名だが、実際には』、「吉野城の戦い」『以前の村上父子の動向ははっきりしない』。『本来、村上氏は信濃国(長野県)の御家人であり、また』、『御内人(北条得宗家の被官)として、幕府の事実上の権力者北条氏とも親しかった有力氏族』であった。にも拘わらず、『父子がいつ』、『いかなる経緯で護良親王の側近となって、吉野城で戦死したのか、歴史的実像は不明である』。『一説によれば、鎌倉時代には義日の系統は村上氏の傍系だったので、勢力拡大を目指して護良親王に接近したのではないかともいう』。明治四一(一九〇八)年、『従三位が追贈された』。『奈良県吉野郡吉野町大字吉野山にある墓所と伝えられる場所は一時』、『荒廃していたが、のち整備された』。『また、鎌倉宮村上社の祭神となった』。「太平記」では「元弘の変」の頃、『笠置山が陥落し、潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供奉(ぐぶ)した』九名の一人として『「村上義光」として登場する』。「太平記』巻第五の「大塔宮熊野落事」(大塔宮(おほたふのみや)熊野落ちの事)で、『道中、十津川郷で敵方の土豪・芋瀬(いもせ)庄司に遭遇し、親王一行はその通行を乞うが、芋瀬は「幕府へ面子を立てる為、通すかわりに名のある臣を一人二人、もしくは一戦交えた事を示すために御旗を寄越せ」と返答してきた。そこで供奉し』ていた九名の内の一人、『赤松則祐(あかまつそくゆう)が親王の御為と名乗り出て「主君の危機に臨んでは自らの命を投げ出す、これこそが臣下の道。殿下の為に、この則祐、敵の手に渡ったてもかまわない」と言った。しかし、供奉し』ていた別の一人、『平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と言い、親王はこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を乗り越えた。 遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわすが、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し』、『「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ』、四~五丈(約十二~十五メートル)ほど『かなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし』、『芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸』けて『親王一行を追いかけ』、『無事に追いついた』。『護良親王は「赤松則祐が忠は孟施舎(もうししゃ)が義のごとく、平賀三郎が智は陳平が謀略のごとし、そして村上義光が勇は北宮黝(ほくきゅうよう)の勢いをもしのぐ」と三人を褒め称えた。(注:孟施舎と北宮黝は古代中国の勇者。陳平は漢王朝の功臣)』。続いて、先にリンクで示した「太平記」巻第七の「吉野城軍事」。遂に『幕府方の二階堂貞藤が』六『万余騎を率いて吉野山に攻め入った。護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った。親王は』「最早これまで」と、『最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し』、『落ち延びさせる。義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て』、『自ら』、『身代わりとなって』、「天照太神(てんせいだいじん)の御子孫、神武天王より九十五代の帝(みかど)、後醍醐天皇第二の皇子、一品(いつぽん)兵部卿親王尊仁(そんじん)、逆臣の爲に亡ぼされ、恨みを泉下(せんか)に報ぜん爲に、ただ今、自害する有樣を見置いて、汝等(なんぢら)が武運、忽ちに盡きて、腹をきらんずる時の手本にせよ。」『と叫び、切腹して自刃した。この時、自らのはらわたを引きちぎり』、『敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに』『なって絶命した』、『という壮絶な逸話が残る』。『なお、子の義隆も義光と共に死のうとしたが、義光はこれを止め親王を守るよう言いつけた。その後、義隆は親王を落ち延びさせるため奮闘し、満身創痍とな』って『力尽き、切腹し』、『自害した』。『村上義日(義光)の墓と伝えられる墓が、蔵王堂より北西約』一・四キロメートルの『場所にある』(奈良県観光公式サイト「あをによし」の「村上義光墓」で画像と国土地理院図での位置が判る)。『案内板によると』、『身代わりとなって蔵王堂で果てた義光を北条方が検分し、親王ではないと知って打ち捨てられたのを』、『哀れと思った里人がとむらって墓としたものだという。墓には玉垣に囲まれた宝篋印塔と、向かって右に大和高取藩士内藤景文が』天明三(一七八三)年に『建てたとされる「村上義光忠烈碑」がある。なお、子の義隆の墓は蔵王堂より南』一・五キロメートル、『勝手神社から下市町才谷へと抜ける奈良県道』二百五十七『号線沿いにある』(ここ。グーグル・マップ・データ)とある。最後に、T氏に心から御礼申し上げる。

「やり子」語源不詳。「鎗子」で鎗の穂先をカバーするふさふさの毛物に擬えたか。

「糸すぢのごとき物に、千萬の數を連綿す」木村宏氏の「キムヒロのページ」の「幡多の海」に産みつけられたそれの写真が見られる。

「海藤花」ウィキの「海藤花」によれば、海藤花(かいとうげ)とし、『タコの卵から製される食品。兵庫県明石市の名産』。『ケシ粒大の卵粒がつらなり、たれさがるのがフジの花房に似ることから、江戸時代に明石藩の儒者』梁田蛻巖(やなだぜいがん 寛文一二(一六七二)年~宝暦七(一七五七)年:江戸中期の漢詩人。名は邦美、蛻巖は号。旗本の家臣の家柄に生まれ、江戸で育った。十一歳で幕府の儒官人見竹洞に入門し、新井白石や室鳩巣などと交流した。元禄六(一六九三)年に加賀藩に儒者として仕えたが、間もなく辞し、美濃の加納藩や播磨の明石藩に出仕した。晩年までには漢詩の大家として敬仰されるようになり、明石で没した)『によって「海藤花」と命名された』。『最初は蛸壺の中に産みつけられたのを「すぼし」にした。のちに塩漬けにもされるようになって、胎卵もしぼりとられるようになった。麹塩漬けにもするが、長くもつのは立て塩漬けである。塩出しをして三杯酢にしたのが最も酒にあうという。ざっとゆでて吸い物におとしたり、みりん醤油で甘露煮風に煮詰めたりする』とある。但し、「海藤花」は私の知る限りでは、以下のイイダコの房状卵塊を言うと心得ている(マダコよりも粒が大きい)。

『「タコ」とは、手多きをもつて、号(なづ)けたり。「タ」は「手」なり。「コ」は「子」にて、頭の禿(かむろ)によりて、猶(なを)「小兒」の儀なり』サイト「松蔭先生の蛸あらかると―語源と伝説」に、『「タコ」の語源については諸説あるが、江戸末期の「私語私臆鈔」には、「たこは多股からきている」と記されている。また、「和名抄」では、タコを「海蛸子(かいしょうし)」とあらわしている。ちなみに、「蛸」は本来はクモのことで、海に棲むクモという意味から「海蛸子」とあらわされ、それが省略されて蛸一字でタコと呼ぶようになったのだという。別の文献では、タコは手の多いことからテココラ(手許多という漢字をあてた)といわれ、これが転訛したものであるという説、あるいはタコはキンコやマナマコなどと同類の海鼠(なまこ)の類であり、手があることから手海鼠(テナマコ)とされ、それがやはり転訛してタコと呼ばれるようになったという説もある。いずれにせよタコの姿態、すなわち八本の手をもったことが語源に深く関わっているわけである』とある。

「飯鮹」マダコ属Octopus 亜属イイダコ Octopus ocellatus『栗本丹洲自筆「蛸水月烏賊類図巻」 アカダコ(スナツカミ)・イイダコ』の私の注を参照されたい。

「望潮魚(ほうてうきよ)」「ぼうちょうぎょ」は蟹のシオマネキを「望潮蟹」と呼ぶのと同じく、海浜の岩礁の浅瀬などで、イイダコが移動したり、泳ぐさまを潮を招くように見立てたものと思われる。

「播州高砂」現在の兵庫県高砂市の海浜。

『「食鑑」に云はく、『江東、未(いま)た此の物を見ず。安房・上総などに、偶(たまたま)是れありといへども、其の眞(しん)をしらず。』とぞ』「本朝食鑑」の「鱗部之三」の「蛸魚」の項に附録する。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像のここの右頁一行目から。「江東」は関東のこと。但し、イイダコは北海道南部以南の日本沿岸域から、朝鮮半島南部・黄海・中国沿岸域に至る、東アジアの浅海に広く分布しているので、人見の謂いは解せない。最大でも三十センチメートルにしかならないので、こんなチンケなちっこいもの、江戸っ子は食べなかったというだけの話であろう。

「七、八間」十二・七三~十四・五四メートル。

「赤螺(あかにし)」腹足綱吸腔目アッキガイ科 Rapana 属アカニシ Rapana venosa

「壳(から)」「殼」の異体字。]

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