芥川龍之介書簡抄84 / 大正六(一九一七)年書簡より(十六) 塚本文宛二通
大正六(一九一七)年・十一月六日・横須賀発信・塚本文宛
拜啓
今夜は色々御馳走になりました おかあさまによろしく 御禮を申上げて下さい
汽車に乘りながら ちよいちよい文ちやんの事を思ひ出して、橫須賀へ着くまで、非常に幸福でした 僕が文ちやんに「僕の手紙はよみにくいでしよ」と云つたら 文ちやんが「えゝ」と云つたでせう。その時僕には 素直なうれしい心もちがしました 今でも思ひ出すと してゐます。
こんど五十枝さんに會つたら 何が大に羨しいんだか よく聞きただして置いて下さい
この手紙はうまく、文ちやんの旅行にゆく前に屆けばいいがと思ひながら、書きました 頓首
十一月五日夜 芥 川 生
塚 本 文 子 樣
[やぶちゃん注:この日(金曜日)、芥川龍之介は塚本文を高輪の自宅に訪ね、夕食をともにした後、横須賀へ戻った。「文ちやんの旅行」とあるが、不詳。跡見女学校の修学旅行か?]
大正六(一九一七)年十一月十七日・橫須賀発信(推定)・塚本文宛
拜啓
旅行中度々手紙を難有う十日の朝は五時や五時半ではまだ寐むくつて大船を通つたのも知らずに寐てゐはしませんでしたか ボクはちやんと眼をさまして文ちやんの事を考へましたさうして「くれびれたでせう」と云ひました
それでも文ちやんは返事をしないで ボクのゐる所を通りこしてしまつたやうな氣がします 丁度久米が來てとまつてゐたので、ボクは彼を起さないやうに そうつと起きて 顏を洗ひに行きました 黃いろくなりかかつた山の上にうすい靑空が見えて 少しさびしい氣がしました さうしでもう文ちやんは橫濱位へ行つてゐるだらうと思ひましたその時分はもう文ちやんも眼がさめてゐたのにちがひありません ボクが「お早う」と云つてからかつたらボクをにらめたやうな氣がしましたから
こんどお母さんがお出での時ぜひ一しょにいらつしやい その時ゆつくり話しませう 二人きりでいつまでもいつまでも話してゐたい氣がします さうして kiss してもいいでせう いやならばよします この頃ボクは文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい氣がします 噓ぢやありません 文ちやんがボクを愛してくれるよりか二倍も三倍もボクの方が愛してゐるやうな氣がします
何よりも早く一しよになつて仲よく暮しませう さうしてそれを樂しみに力强く生きませう これでやめます 以上
十一月十七日 龍
文 子 樣
[やぶちゃん注:ごちそうさま! 龍之介!]
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