日本山海名産図会 第五巻 昆布
○昆布(こんふ) ○和名「ヒロメ」。○一名「海布」。
是れは、六月土用中(ちう)にして、常に採ること、なし。同じく、蝦夷・松前・江刺・箱館なとにも採れり。小舟に乘り、鎌を持ち、水中に暫くありて、昆布を抱き、是れにつられて浮かむ。皆、海底の石に生(を)ひて、長さ、三、四尺より、十間[やぶちゃん注:十八・一八メートル。]許りのものあり。たまたまには、石ともに、あぐるもあれども、十日ばかりにして、根、自(おのづか)ら離る。長きは、よき程に切りて、蝦夷松前の海濵の砂上(さじやう)・家の上・徃來の道に至るまで、一日乾(ほ)すこと、實(まこと)に錐(きり)を立つるの隙(ひま)もなし。暮に納めて、小家(こや)に積み、其の上に筵(むしろ)を覆ふこと、一夜(いちや)にして、汐(しほ)、浮きたるを、「荒昆布(あらこぶ)」と云【世俗に「蝦夷の家は昆布をもつて葺く」と云ふは、此の乾したるを見たるなるべし。家は、すべて板庇(いたひさ)し・板囲(いたかこ)ひなり。】。色、赤きを、上品として、僅かに其の階級を、わかてり。又、八、九月の比(ころ)、自然、打ちぐるを、「寄(よ)せ昆布(こんぶ)」と云ふ。○昔は越前敦賀に轉送して、若刕に傳(つた)ふ。小濱(こばま)の市人(いちひと)、是れを制して、「若狹昆布」と號(がう)す。若狹より京師に轉送して、京師、亦、是れを制して、「京昆布」と号す。味、最も勝(まさ)れり。
[やぶちゃん注:]以下、「此の毒を用ひず。」まで、底本では全体が三字下げ。]
○右は[やぶちゃん注:前の「腽肭獸(おつとつじう)」も含むので注意。]、皆、俳諧行脚の人、松前往來の話に傳へきゝて、實に予が見及びしことにはあらず。尚、其の蝦夷人(ゑぞひと)の衣服などのことも聞きしに、先づ、㐧一には、日本の古手(ふるて)を貴(たつと)ひ[やぶちゃん注:そうじゃない! 幕府や松前藩が產品の対価の一部としては古着しか与えなかったからである!]、富(とみ)たるものゝ一鄕(こう)の社宴(しやゑん)などには、酒樽(しゆそん)を積みたる上に、かの日本の古手を、いくらもかさねて、裝飾す。又、かの地にて、織物は「ヲイヒヤウ」と云ふ木の皮也。色、黄にして、紋、有り。方言「アツシ」と云ひて、甚だ臭き物なり。元より、袵(ゑり)は、左に合はせ、シナの皮を帯(おひ)とす。男女(なんによ)とも常に浴湯(ゆあみ)せず。眉は兩眼(れうがん)の上に一文字(いちもんじ)に生(を)ひ、髮は勿論、鬚髭(くちひけ)ともに、切ることなければ、甚だ長し。食する時は、箸を左の手に持ちて、髭をあげて、啜り込む。酒は行器(ほかい)の如き物に入れて、杯(さかづき)は飯椀(めしわん)を用ゆ。其の椀、皆、巴(ともへ)の紋を付けたり。其の故を知らず。女人は皆、唇(くちびる)に入墨(いれすみ)して、男女とも、淚は鼻より流るなり。山野に出づるもの、皆、雪中といへども、蹤跣(はだし)にして、「腰ため弓」を持(ぢ)せり。最も、木弓(きゆみ)・木矢(きや)を用ゆ。又、「ブス」といひて、熊鹿を採る矢に塗る所の毒藥は、「イケマ」と云ふ草の根と、蜂をころして製せし物なりとぞ。但し、腽肭臍(おつとせい)には、此の毒を用ひず。
爲家卿の哥に、
こさふかは曇りもそするみちのくのゑそに見せしな秋の
夜の月
又、紹巴の發句に、
春の夜やゑぞかこさふく空の月
といへる。此の「こさ」と云ふもの、未だ何とも分明(ふんめう)に知る物なし。然(しか)るに、或る人の轉写に來たるもの、序(ついで)を以つて、こゝに圖す。
十二捲(まき)【木の皮にて、卷き、作る。白き色に、すゝ竹色を帯たる、藤の蔓(つる)のごとき木のかわなり。惣長(さうなかさ)一尺二寸はかりなり。】
按ずるに、是れ、コサにはあるべからず。彼(か)の地の笛(ふへ)なるべし。もしや、口に汐(しほ)なとを含みて、空に向(むか)てふきあげ、其の邉(へん)の月影を曇らせて、漁捕(すなとり)しけるか。又、一說に、山中(さんちう)・海邉(かいへん)などへ出づるもの、落ちたる木(こ)の葉(は)を拾ひ、「きりきり」と卷きて、是れを吹くに、實(まこと)に笛の音(ね)を出だして、秋情(しうしやう)を催す。是を「コサ」とも云とぞ。
○俗傳に、義經、蝦夷わたりのこと、虛實、さだかならずといへども、是れ、正說(せいせつ)なり。海濱に「辨慶嵜(べんけいさき)」の名もあり、又、淸朝は「淸和(せいわ)の裔(ゑい)」と云ふも、即ち、義經、蝦夷より傳へ越したる、此の證とすべきことども、多きよしも聞けり。蝦夷より韃靼(たつたん)へは、近し。
[やぶちゃん注:私は恐らく変奇に近い海藻フリークで、変わった海藻加工食品を見ると、買わずにはいられず、コンブに至っては、嘗ては常時五種類以上のコンブを用意し、それをそのまま短冊形に切って保管し、いろいろ変えてはしゃぶるのを至福としていたほどである。私のコンブ類の考証は、古いものでは、「和漢三才圖會 卷第九十七 水草 藻類 苔類」の「昆布」があり、比較的新しいものでは、「大和本草卷之八 草之四 昆布 (コンブ類)」があるが、しかし、どうもそれらで示した学名が、今一つ、気に入っていない。そこでも紹介した、川井唯史・四ツ倉典滋氏の共同論文「北海道産コンブ属植物の系統分類の現状―リシリコンブを中心に―」(PDF・二〇〇五年三月発行『利尻研究』所収)の学名が、ウィキの「コンブ」とかなり異なることが、今も気になっているからである。
ただ、広義のコンブ類を不等毛植物門褐藻綱コンブ目 Laminariales で総てを示すとなると、凡そコンブとは思われない形状の種群をも示さねばならなくなり、膨大な量になって、例えば、たびたびお世話になる鈴木雅大氏の優れた学術サイト「生きもの好きの語る自然誌」の「コンブ目 Order LAMINARIALES Migula, 1909」のページには亜種・変種・品種を含め、実に五十五種を越えるコンブ目の所属種を挙げておられる(二〇二〇年六月更新であるから、ここに載るコンブ目の学名は最新として安心して示すことができる)。
では、コンブ科 Laminariaceae に絞ればいいかと言うと、そう簡単には行かない。例えば、チガイソ科 Alariaceae の、広義のワカメ類に当たる、
アイヌワカメ属ホソバワカメ(細葉若布) Alaria angusta
チガイソ(千賀磯) Alaria crassifolia (リンク先に独立ページ有り)
アイヌワカメ Alaria praelonga
オニワカメ属オニワカメ(鬼若布) Eualaria fistulosa
などは、素人見には、藻体がコンブのようで、その長さもコンブ並みに長い種(オニワカメは長いもので二十メートルを超える。同種が生育する千島列島の海中景観は、真正のコンブ類の巨大種で「ジャイアント・ケルプ」(Giant kelp)として知られるコンブ科オオウキモ属オオウキモ Macrocsytis pyrifera のそれとよく似ているのである)があるからである。
さらに、甚だ都合の悪いことに、作者が第一に「和名」と称して挙げている「ヒロメ」というのは、現在の標準和名では、モロにワカメ属ワカメ Undaria pinnatifida の仲間である、
ヒロメ Undaria undarioides
に与えられてしまっているのである(なお、本邦産のワカメは他にアオワカメ Undaria peterseniana がある)。この「ヒロメ」は「広布」で、江戸時代には「昆布」を呼んでいた名として附には落ちるのであるが。なお、「こんぶ」の語源は、「宗谷総合振興局」公式サイトの「こんぶの基礎知識」によれば、『アイヌ語の「コンプ(konpu)」だといわれています。しかし、昔(平安時代)は海藻類は布のように薄く幅広いことから「め(布)」と表され、今でもワカメなど、「め」の付く海藻がたくさんあります。中でもコンブはその幅が広いことから「ひろめ(広布)」と呼ばれていたそうです。また、蝦夷(北海道)で獲れるので「えびすめ(夷布)」とも呼ばれ、七福神の恵比須に掛けて「福を授かる」意味としても捉えられていたようです』。『万葉仮名では「比呂米(ひろめ)」「衣比寿女(えびすめ)」と表され、奈良時代にはコンブが珍重されていた中国との主要交易品目だったそうです。「昆布」は、その中国で当てられた漢字だと云われています。しかし、実際に中国では昆布はワカメのことを指し、コンブは「海帯」と云っていたそうです』とある。
逆に、コンブ科 Laminariaceae からコンブ目アナメ科 Agaraceae に移された、
アナメ属スジメ(筋布) Costaria costata(鈴木氏の独立ページ有り)
辺りは、私には強力な筋が入って凸凹し、穴も開いているものの、「ぼろぼろの駝鳥」ならぬ、「ぼろぼろの昆布」のように見える(成体は堅く、食用に向かないが、若いものは美味である)。但し、同属のアナメ属アナメ Agarum clathratum に至っては、穴だらけで、楕円形やそれが変形した塊りのような藻体であって、凡そ「昆布」とは思えない代物である。
では、コンブ科 Laminariaceae に限って見てゆくと(但し、この科も向後、変更が行われる可能性が鈴木氏によって注されてあり、『Jackson et al. (2017) は,Petrov (1974) が記載したネコアシコンブ科(Arthrothamnaceae)を認め,分子系統解析の結果に基づき,ネコアシコンブ属(Arthrothamnus),カジメ属(Ecklonia),コンブ属(Saccharina),クロシオメ属(Streptophyllopsis)をネコアシコンブ科のメンバーとしました。Jackson et al. (2017)の見解に従うならば,Laminariaceae に所属する日本産種はゴヘイコンブ(Laminaria yezoensis)のみとなるので,Laminariaceae の和名は「ゴヘイコンブ科」になると考えられます。しかし,このグループの科の所属については,未だ不明瞭な所があり,今後も変動する可能性があります。Algaebase でもJackson et al. (2017)を引用してはいますが,2017年8月10日の時点ではネコアシコンブ科を認めておらず,ネコアシコンブ属,コンブ属,クロシオメ属はLaminariaceaeに,カジメ属はカジメ科(Lessoniaceae)のメンバーとされています。吉田ら(2015)「日本産海藻目録」におけるコンブ科,カジメ科の所属も Algaebase と同様です。しかし,Jackson et al. (2017), Kawai et al. (2017) など,近年実施された分子系統解析において,カジメ属を Lessoniaceae に含むことを支持する結果は得られておらず,カジメ属をカジメ科とすることには疑問があります。このグループの科の所属をどうしたら良いか,現時点では判断が付かないため,本サイトでは,少なくとも日本において最も一般的に用いられていると考えられるコンブ科(Laminariaceae)としました。今後の分類学的検討,科の整理が俟たれています』とある)、今度は、凡そコンブのようには見えない種群がそこに含まれているので困ることになる。所謂、藻高も低く(一~一・五メートル)ほどで、茎の上部に多くの分岐(十~二十枚前後)した葉を「はたき」状に広げている、
カジメ属カジメ(搗布) Ecklonia cava (独立ページ有り)
や、同属の、
クロメ(黒布) Ecklonia cava subsp. kurome (独立ページ有り)
及び、それらに似る、やはり藻高が低い(三十センチメートルから一メートル)、
ツルアラメ(蔓荒布) Ecklonia cava subsp. stolonifer (独立ページ有り。本邦では珍しい日本海特産)
アラメ属アラメ(荒布) Eisenia bicyclis (独立ページ有り)
がいるからである。これらは藻から、一般人が見ても「昆布」と認識することはないだろう。なお、最後のアラメは、茹でて乾燥させた品は日持ちがよく、また、非常に美味い。私は佐渡の漁師から、好意で、ただで、一塊り貰ったのだが、帰ってから調べてみると、結構、高価なものだったので、甚だ恐縮した。
まず、確かに「昆布」とされそうな種は(前記の鈴木氏の「コンブ目 Order LAMINARIALES Migula, 1909」のページにある種について、実際の藻体を図鑑やネットで確認して選んだもので、コンブ目であっても、私が「昆布」とは思えない種は除外してある。可能な限り、漢字表記を添えた)、
ガゴメ属ガゴメ(コンブ)(籠目(昆布)) Kjellmaniella crassifolia
ネコアシコンブ属ネコアシコンブ(猫足昆布) Arthrothamnus bifidus (北海道東部のみに分布)
ゴヘイコンブ属ゴヘイコンブ(御幣昆布) Laminaria yezoensis (但し、本種は細い葉体の御幣状の特殊な形態を持ち、「昆布」の印象からは私は、若干、外れるように感ずる)
コンブ属ミツイシコンブ(三石昆布=日高昆布) Saccharina angustata
チヂミコンブ(縮昆布) Saccharina cichorioides
ガッガラコンブ(厚葉昆布)Saccharina coriacea
トロロコンブ Saccharina gyrata (間違えてはいけないのは、本種は「とろろ昆布」の原料にはならない。加工食品の「とろろ昆布」は以下のマコンブの加工品である)
マコンブ(真昆布) Saccharina japonica (他にマコンブ品種にドテメがあるが、この学名は旧 Laminaria japonica f. membranacea のままで、問題がある)
マコンブ変種ホソバオニコンブ(細葉鬼昆布) Saccharina japonica f. angustifolia
オニコンブ(=羅臼昆布) Saccharina diabolica var. diabolica
リシリコンブ(利尻昆布) Saccharina ochotensis var. ochotensis
ホソメコンブ(細目昆布) Saccharina religiosa var. religiosa
エナガオニコンブ(柄長鬼昆布) Saccharina japonica f. longipes
アツバミスジコンブ(厚葉三筋昆布) Saccharina kurilensis
カラフトコンブ(樺太昆布) Saccharina latissimi
ナガコンブ(長昆布=浜中昆布) Saccharina longissima
カラフトトロロコンブ Saccharina sachalinensis
エンドウコンブ Saccharina yendoana
を掲げておく。これで不満があった「昆布」候補種のリストが、取り敢えずは、満足できたと私は考えている。
「小舟に乘り、鎌を持ち、水中に暫くありて、昆布を抱き、是れにつられて浮かむ」私の「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 2 小樽から札幌へ コンブ漁を見る」(私のブログでの電子化。オリジナル注附き)がここの参照とするに、よいものであろう。
『昔は越前敦賀に轉送して、若刕に傳(つた)ふ。小濱(こばま)の市人(いちひと)、是れを制して、「若狹昆布」と號(がう)す。若狹より京師に轉送して、京師、亦、是れを制して、「京昆布」と号す。味、最も勝(まさ)れり』一等検級の良質の昆布をよく乾燥させ、輸送にも怠りなく保守し、途中の各所でも、管理をしっかり行っておれば、熟成して、京で最も優れた「昆布」となることは、腑に落ちる。
「右は、皆、俳諧行脚の人、松前往來の話に傳へきゝて、實に予が見及びしことにはあらず」既に前の「日本山海名産図会 第五巻 腽肭獣」の注で述べた通り、「腽肭獸」の記載も含めて「俳諧師見てきたやうな噓をつき」で、かなり眉に唾しておく必要があるように思われるのである。
「社宴(しやゑん)」アイヌの伝統的なカムイの祭祀であって、本邦の神道や神社があったわけではないので注意。ウィキの「カムイ」によれば、『アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと』で、『カムイという言葉は』、『多くの場合』、『ただ』、『「神」と訳されるが』、本来は『「荒神」と訳すべき時もある。例えば』、『カムイコタンとは「カムイの村」という意味だが、多くは地形上の難所などであり、「神の村」というより「恐ろしい荒神のいる場所」とした方が実際のイメージに近い』。『カムイは、本来』、『神々の世界であるカムイモシリ』『に所属しており、その本来の姿は』、『人間と同じだという。例えば』、『火のカムイであるアペフチカムイ』(「火の老婆のカムイ」の意)『なら』、『赤い小袖を着たおばあさんなど、そのものを連想させる姿と考えられている。そして』、『ある一定の使命を帯びて』、『人間の世界であるアイヌモシリにやってくる際、その使命に応じた衣服を身にまとうという。例えば』、『キムンカムイ』(「山にいるカムイ」)『が人間の世界にやってくる時にはヒグマの衣服(肉体)をまとってくる。言い換えれば』、『我々が目にするヒグマはすべて、人間の世界におけるカムイの仮の姿ということになる。名称ではキムンカムイ、コタンコロカムイ』(「集落を護るカムイ」。島梟=フクロウ目フクロウ科シマフクロウ属シマフクロウ Ketupa blakistoni を指す)、『レプンカムイ』(「沖にいるカムイ」。鯱=鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca を指す)『のように、「◯◯カムイ」などのように用いられる』。『また、カムイの有する「固有の能力」は人間に都合の良い物ばかりとは限らない。例えば』、『熱病をもたらす疫病神パヨカカムイ』(疱瘡(天然痘)や流行病を司る神であり、姿を見せずに弓を放ち、この矢を射る音を聞いた者は疱瘡に侵されるとされた)『なども、人智の及ばぬ力を振るう存在としてカムイと呼ばれる。このように、人間に災厄をもたらすカムイはウェンカムイ』(「悪しきカムイ」)『と呼ばれ、人間に恩恵をもたらすピリカカムイ』(「善きカムイ」)『と同様に畏怖される』。『語源には説がある。江戸時代中期の国学者谷川士清』(たにかわことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年:伊勢出身の国学者)『が著わした国語辞典である』「和訓栞」(わくんのしおり/わくんかん:「倭訓栞」とも書く。国語辞書。九十三巻八十二冊。未完。没した翌安永六年から、後人の補訂で明治二〇(一八八七)年にかけて刊行された。古語・雅語・俗語・方言など、語を五十音順(第二音節まで)に配列し、語釈・出典・用例を示す。よく整備され、日本最初の近代的国語辞書とされる。一般には井上頼圀・小杉榲邨増補改正の「増補語林和訓栞」三冊(中編まで)が流布している)『には、古い時代に日本語の「かみ(神)」を借用したものらしいと書かれている』とある。豊田素行(もとゆき)氏のサイト内の『「和風」原論』に、アイヌ語で「カム」は「覆う、被さる」であり、和語の「かむ」は「入り組み隠れる」「奥深くある」と、『ほぼ意味が同じであることに注目しないわけにはい』かず、『人間の知や力を超えたものが背後に隠れている、覆われてある、それが和語、アイヌ語のカム(kamu)で』、『そのカム(カミ)にしだいに「神」の字が当てられ、固定されるようになったとみられる』とある。一つの説として共感はできる。
「ヲイヒヤウ」落葉性高木である被子植物門双子葉植物綱イラクサ目ニレ科ニレ属オヒョウ Ulmus laciniata 。当該ウィキによれば、漢字表記は「於瓢」で、『日本列島から東北アジアの山地に分布する。日本の北海道に多い』。『別名アツシノキ(厚司の木)、ヤジナ(矢科)、ネバリジナ(粘科)』。『アイヌ語ではオヒョウの樹皮と繊維をアッ(at)、オヒョウの木をアッニ(atni)と呼ぶ。樺太の方言ではそれぞれアハ(ax)、アハニ(axni)という。また白浦地方』(旧樺太庁豊栄郡白縫村白浦(しらうら)。現在のロシア連邦サハリン州フスモリエ(Взморье)。ここ(グーグル・マップ・データ))『では樹皮をオピウ(opiw)とも呼び、「オヒョウ」の名称はこれに由来する』。『(オピウ opiw→ op-i-u→ iの後ろにuの重母音になるためuが子音化してwとなった。opは「尻のもの」の意で』、「槍の穂先をすげる柄」を指すが、「オㇷ゚」の語は「槍全体」も指す。「i」は「それ」、「u」は「両数・こちらとあちら」で、「槍とその持ち手」のことを指す。『つまり、槍を受けた獲物がそのまま逃げないよう、槍の柄にはロープが取り付けられている。狩人はそのロープを手繰って獲物を捕らえる。そのロープの材料にオヒョウニレの内皮を使っていたところからの呼び名ではないかと推論される。)』。『高さ約』二十五メートルで、『樹皮は縦に浅く裂け、剥がれ落ちる。樹皮の繊維は強靭。葉は広倒卵型で先端が』三~九『裂し、縁には重鋸歯が見られる。両面に白い短毛がびっしり生え、ざらついた手触り』である。四~五月の『新葉の出る前に、淡紅色の小花が束状に咲く。果実は長さ』二センチメートル『ほどの扁平な楕円形をした翼果で』、六『月頃、褐色に成熟する』。『樹皮(靭皮)の繊維は強靭で、アイヌはこれを染色して、アットゥシ(attus 厚司)という布や衣類を織る(同じ用途のシナノキより高級・希少とされる)』。『別名のアツシノキはこのことに由来』する。『樹木は器具材、薪炭材、パルプに利用できる』とある。
『方言「アツシ」と云ひて、甚だ臭き物なり』これはオヒョウの臭いではないのではないかと思われる。アイヌは魔除けに「チクペニ」と呼んだ、バラ亜綱マメ目マメ科イヌエンジュ属イヌエンジュ Maackia amurensis (犬槐)を使うが、このイヌエンジュの生木は独特の青臭い臭気があるという。魔除けに使うとなら、その臭いが服からしたとして、おかしくはない。以上は、個人ブログ「自然と音楽を愛する者」の「アイヌが魔除けに使う木イヌエンジュ」の記事から想像した。そこにある引用元「アイヌと自然 デジタル図鑑」のこちらを見たところ、『日本語名:エンジュ イヌエンジュ』・『アイヌ語名:チクペニ』・『利用:薬用、生活用具、祈り』・『山地や林内に生えるマメ科の高木です。秋にはマメのさやが実ります』。『アイヌ文化では、家の柱や墓標などに使われます。また』、『家の神などの木幣をこの木で作るという地域があります』。『独特のにおいに魔をはらう力があると考えられ、病気の神が来ないようにと家の戸口や窓にかけておいたり、木幣を作って分かれ道に立てたりします』。『当館の口承文芸データでは位の高い神として描かれ、大ヘビなどの悪神をたおし』、『人間を助けた昔話があります。』とあって、語り部の伝承も記されてあるので、是非、読まれたい。他に、そこの「アイヌ語辞典」には、『この木は、強いにおいを発するので悪神が近づかぬと信じ、枝を取って来て、あるいは皮とイケマの根と一緒にして、魔よけに戸口や窓口にさした。また、家の柱の材には、必ずこの木とハシドイとを混ぜて使った。その他、臼杵等の器材を作った(幌別)。家の神の木幣は、必ずこの木で作る。そういう大切な木だから粗末に扱ってはならない。たきぎなどにすることは決してない(様似)。悪疫流行の際は、この枝を取って来て棒幣を作り、他の部落に通じる分かれ道の所や、家の戸口、窓口などに立てた。陰萎(「オライ」o-ray[陰部・死ぬ])になった際、この木の皮を鍋に入れて、その湯気でふかすと効がある(美幌)』とあった。
「元より、袵(ゑり)は、左に合はせ」偏見による大嘘。北海道立アイヌ民族文化研究センター編のアイヌ文化紹介小冊子「ポン カンピソシ2 イミ 着る」(PDF)の「アイヌの衣服についての昔の記録」の「5」ページ目に、江戸時代以前の記録について解説された中で、『これらの記録は、現物が残っていないものや今日では知られていない技術を知ることのできる重要な資料でもあります。他方で、こうした記録には、自分で観察しないで伝聞によって書いたものや、観察する側の思い込みで書いたものなどがあり、そのまま鵜呑みにはできないことがあります。例えば江戸時代の日本で描かれた絵画ではアイヌの人たちがみな左前で服を着ているようになっているものがあります。左前というのは昔の中国で野蛮な風俗とされたものです。実際には左右のどちらかを前にすることもあれば、体の前で合わせる衣服もあったのですが、アイヌ民族の風俗を「野蛮」なものだとする偏見がもとになって、こうした描かれ方になってしまったものです』とある。この冊子、写真も豊富で、詳細を極める。是非、保存されたい。以下の風俗解説も明らかに偏見としか思われない部分が多い。批判的に読まれたい。なお、近現代の差別の現状は、菊池千夏氏の論考「アイヌの人々への差別の実像――生活史に刻まれた差別の実態――」(PDF・恐らくは小内透編著「現代アイヌの生活の歩みと意識の変容」(北海道アイヌ民族生活実態調査報告)・北海道大学アイヌ・先住民研究センター二〇一二年三月刊の「第七章」)を読まれたい。
「シナ」日本特産種である、被子植物門双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica 。当該ウィキによれば、『長野県の古名である信濃は、古くは「科野」と記したが、シナノキを多く産出したからだともいわれている』。『樹皮は「シナ皮」とよばれ、繊維が強く主にロープの材料とされてきたが、近年合成繊維のロープが普及したため、あまり使われなくなった。大型船舶の一部では未だに使用しているものがある』。『古くはこの木の樹皮をはぎ、ゆでて取り出した繊維で布を織り榀布(科布=しなぬの・しなふ)、まだ布、まんだ布と呼び、衣服なども作られ』、『アイヌは衣類など織物を作るため』、『シナノキの繊維を使った。現在でもインテリア小物などの材料に使われる事もある』とある。
「行器(ほかい)」「外居」とも表記する。当該ウィキによれば、『中世から近世の日本において、儀礼の際に食物を運搬する目的で用いられた容器で』、『アイヌ語では「シントコ」と呼ばれる』。『行器は直径』三十~四十センチメートル『内外の円筒形で』、三本或いは四本の『脚を持つ蓋つきの漆器である』。『名称の「ほかい」は「ほかう」(祝う)の名詞形で、元来は神仏に食物を捧げる行為を意味し、 神饌を盛り付ける器だった』。『時代が下るにつれて供物以外にも、野遊びなどハレの行事の折に食物を持ち運ぶ用途にも用いられ、「行楽の器」として「行器」の字が当てられた。さらに「ほかい」の音に「外に居る際の器」の意をかけて「外居」との当て字も生まれた』。『実際に持ち運ぶ場合は、脚に絡ませた紐で蓋を固定したうえ、天秤棒に結わえる』。『行器はすでに平安時代より使用の痕跡が見られ、中世の風俗が詳細に記された』「春日権現験記」では、二つの『行器を天秤棒の前後に固定して持ち運ぶ人物が描かれている』。『この時代の行器は素木の曲物の基本形から大きく出ない簡素なものであった』。『近世以降は民間において出産や還暦祝いに赤飯や饅頭を行器に詰めて贈る風習が定着した。行器は家格を表すものとして、タガを嵌めて漆で蒔絵を施すなど、次第に複雑な技巧が凝らされていった』。『長野県佐久地方の一部では行器(ほかい・ほけえ)という風習がある。会葬者が、行器に白米または米粉などを詰め、香典と一緒に霊前に供えることを言う。なお行器を使用せず、布袋や紙袋の中に米など入れ、供える行為も「行器」と呼ぶ』。『また、会葬者が持ち寄った米などを行器添(ホケーゾエ)と言う』。『近世以降、北海道や樺太のアイヌ民族は日本本土より移入されたイタンキ(椀)、オッチケ(膳。折敷の訛り)、エトゥヌㇷ゚(片口)、エチュシ(湯桶)など漆器類をイコㇿ(宝物)として珍重してきたが、「シントコ」と呼ばれる行器は漆器類の中で最も重要視されていた』。『イオマンテ』(ヒグマなどの動物を殺して、その魂であるカムイを、神々の世界カムイモシリに送り帰す祭りのこと)『やイチャルパ(先祖供養)、チセイノミ(新築祝い)など重要な儀礼の際はシントコを儀礼時の容器としてトノト(どぶろく)を醸造し、カムイに捧げた後に客人に振るまった。さらにシントコは宝物として贈答品、あるいはチャランケ(談判、裁判)で負けた者が賠償として払う品とされた』。『かつてアイヌの社会では、多くの漆器類を所有している家が「猟運・商才に優れ、人望がある」富家と見なされ、特にシントコの数が家の格を示すものとされていた』とある。
「皆、巴(ともへ)の紋を付けたり」巴紋に限らず、もっとほかの表象紋もある。「幕別町」公式サイト内の郷土文化研究員小助川勝義氏の『「チロットのイトッパ」 ~家標~』を読まれたい。たまたま、内地の品物にあった巴紋がアイヌの人々のデザイン感覚に好ましく受け入れられたのであろう。
「女人は皆、唇(くちびる)に入墨(いれすみ)して」ウィキの「アイヌ文化」によれば、アイヌには『部族ごとに特徴的な刺青をする習慣があった。刺青は精霊信仰に伴う神の象徴とされる大切なものであった』。『特に知られているのは、成人女性が口の周りに入れる刺青である。髭を模した物であると思われているが、神聖な蛇の口を模したとする説もある。まず』、『年ごろになった女性の口の周りを、ハンノキの皮を煎じた湯で拭い清めて消毒する。ここにマキリ(小刀)の先で細かく傷をつけ、シラカバの樹皮を焚いて取った煤を擦り込む。施術にはかなりの苦痛が伴うため、幾度かに分けて、小刻みに刺青を入れる。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは北海道流沙郡平取のアイヌ集落に調査に入り、「アイヌの入れ墨は女だけに行われ、まだ』七、八『歳の女の子の上唇のすぐ上に、小刀で横に多発性に傷をつけ、そこに煤を刷り込むところから始まる。口ひげのようになるが、両端が口角部で上に向かう。口の周囲の入れ墨が済むと、手背と前腕の入れ墨が行われる。女が結婚するともう入れ墨はしない」と記している』。『また、男性の場合も地域ごとに様々な刺青の習慣があった。ある地域の男性は肩に、有る地域の男性は手の水かきの部分に刺青を入れると弓の腕があがって狩りが上手になるという言い伝えを持っていた』。『刺青の風習は和人には奇異なものに映り、江戸幕府や明治政府によって禁令が出された。明治政府による「入れ墨禁止令」は』、明治四(一八七一)年十月に『制定されたが、当時のアイヌ女性は刺青を入れぬと、神の怒りを買い』、『結婚もできぬと考えられていたため、あまり実効性が伴わなかった。そのため』明治九年九月に、『摘発と懲罰を科すことに改められ、宗教的自由の抑圧がおこなわれた。当時の日本に在住していたドイツの医師・博物学者であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、明治政府の刺青禁令に困惑するアイヌ民族より、この禁令に対する異議をシーボルト側から働きかけてもらえないか』、『と哀願されたとの記録を残している』。『現代では特に重要な行事において、フェイスペインティングとしてアイヌの女性が口の周りを黒く塗る事例もある』。『刺青の風習は縄文・弥生期の日本(邪馬台国頃まで)で盛んであり、大和化(大和朝廷)とともに和人社会では廃れていった。蝦夷には風習として残っていたが、和人と同化するにつれて消失した。奄美・琉球は近代まで』、『その風習が残存した。なお、現代のニュージーランド先住民のマオリの間では女性の顔面への刺青の習慣が復活しているが、アイヌ民族特有の刺青は行事の際にペイントによるフェイクに留まっており、本格的な伝統風習の復活にまでは至っていない』とある。
「山野に出づるもの、皆、雪中といへども、蹤跣(はだし)にして」嘘。「公益財団法人 アイヌ民族文化財団」公式サイト内の「アイヌ生活文化再現マニュアル」の「縫う―チェプケリ・ユクケリ・トッカリケリ―」(PDF)を参照されたい。『アイヌの人々は、普段は裸足で生活していたといわれています。しかし、地形の悪いところや』、『山野へ猟にいく時などには靴を履いていました』。『靴はアイヌ語でケリといいます。鮭の皮や動物の毛皮、ブドウヅル、樹皮などさまざまな材料でつくられていました』。『雪の上を歩く時には、テシマやチンルというかんじきをつけることもありました』。『靴の中には、保温や除湿などのためにケロムンという草を入れて履いていたといわれています』とある。
「腰ため弓」「腰撓(た)め弓」なら、弓を腰辺りに当てて射出するタイプの弓を指すが、これは「腰溜め弓」で、両足を左右に開いて腰を溜めて姿勢を安定させて射る、中・小型の弓のことではなかろうか。オットセイ漁の図が、まさにそうした態勢をとっていることが判る。
「木弓(きゆみ)・木矢(きや)を用ゆ」だって、和人が金属を給与しなかったんだからな! 因みに「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 15 アイヌの家屋(Ⅲ) 刀剣と矢筒 このフォルム! 好き!」には、矢筒の素敵なスケッチがある。
「ブス」「附子」(ぶす)。全草(特に根)に毒性の強い、現在も解毒剤のないアコニチン(aconitine)を含む双子葉植物綱モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の根から製する猛毒である。「北海道野生動物研究所」に門崎允昭氏の「アイヌとトリカブト」という詳細な研究が載り、それによれば、トリカブト毒に加えて、軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属 Dasyatis に属するアカエイ類の尾の毒針も用いられたとある。必見! なお、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 1 モース、アイヌの小屋を訪ねる」に毒鏃の記載が出、弓を射るという関連では、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十三章 アイヌ 7 札幌にて(Ⅲ) モース先生、間一髪!」も面白い。
「イケマ」双子葉植物綱リンドウ目ガガイモ科イケマ属イケマ Cynanchum caudatum 。当該ウィキによれば、『全草、特に植物体を傷つけたときに出る白い汁(乳液)にシナンコトキシン』(Sinankotokisin)『などを含み』、『有毒である。誤食した場合、軽症では嘔吐が、重症では痙攣が起こる事がある。学名の Cynanchum とは、「犬を殺すもの」という意味であり、毒性によって犬を殺すことができるところから、この名前がついたという』。『蝶のアサギマダラ』(鱗翅目アゲハチョウ上科タテハチョウ科マダラチョウ亜科アサギマダラ属アサギマダラParantica sita )『は、イケマの葉の裏側に産卵して、その幼虫が葉を食べて育つ。アサギマダラの幼虫は、鳥などの外敵から身を守るため、イケマの毒を体内に蓄積するといわれる』。『本種の和名「イケマ」は、アイヌ語で「それの足」を意味する「イ・ケマ」に由来する。この場合の「それ」は』「カムイ」(神)を『婉曲に指した言葉である。アイヌは本種を古くから呪術用、薬用、食用に用いられていた。本種の根を乾燥させたものを細かく刻み、紐を通したものをネックレスのように首から下げるか、小片をマタンプシ(鉢巻)に取り付けて魔よけとしたという。また、葬儀のとき、夜道の一人歩き、漁や旅のときにも身につけて、魔除けとして使われていた。若芽は天ぷらなどの食用に用いていた。根も焼いたり煮たりして食べていたが、生煮えだったり、食べ過ぎると中毒になった。漢方では、イケマの根を「午皮消根」というが、利尿、強壮、強心薬として、また、食中毒の解毒や腹痛、歯痛、風邪薬、回虫の駆除として使われていた』とある。
「腽肭臍(おつとせい)には、此の毒を用ひず」食用のためなら、これだけに使用しないというのは、ちょっと不思議。
「爲家卿の哥」「こさふかは曇りもそするみちのくのゑそに見せしな秋の夜の月」この歌、「夫木和歌抄」巻十三の「秋四」に載るが、同書の北岡本では、
こさ吹かば曇りもやせん道のくの蝦夷には見せじ秋のよの月
となっており、別本では、
こさ吹かば曇りもぞする道の暮れ人には見せじ秋のよの月
でしかも、西行の作となっている。しかし、小学館「日本国語大辞典」の「こさ」を引くと、「ふさ」=「息吹」が、古くに取り入れられたもので、『蝦夷(えぞ)の人が息をはくこと。また、それによって生じるという深い霧。蝦夷は口から気を吹いて霧を生ずる術を持ち、危険を感じると』、『それで身を隠すと信じられたことから出た』言葉という、奇体な意味を載せるが、以上の歌の異同を掲げた後、『作者についても異説が多い』とあるので、定家の三男である藤原為家の作とするものもあるのかも知れぬ。
「紹巴の發句」「春の夜やゑぞかこさふく空の月」「紹巴」(大永五(一五二五)年~慶長七(一六〇二)年)は室町末期の連歌師。奈良生まれ。父は松井姓で、興福寺一乗院の小者とも、湯屋を生業(なりわい)としていたともされる。後に師里村昌休(さとむらしょうきゅう)より姓を受けたので「里村紹巴」(さとむらじょうは)と呼ばれることが多い。号は臨江斎。十二歳で父を失い、興福寺明王院の喝食(かっしき:寺院に入って雑用を務めた少年)となり、その頃から連歌を学んだ。十九歳の時、奈良に来た連歌師周桂(しゅうけい)に師事して上京、周桂没後は昌休に師事、三条西公条(きんえだ)に和歌や物語を学んだ。天文二〇(一五五一)年頃より、独立した連歌師として活動を始め、昌休の兄弟子であった宗養(そうよう)没後は第一人者としての地位を保った。三好長慶・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉らの戦国武将をはじめ公家・高僧らとも交渉があり、ともに連歌を詠むと同時に政治的にも活躍し、「本能寺の変」直前に光秀と連歌を詠み(「愛宕(あたご)百韻」)、変の後には、秀吉に句の吟味を受けたことはよく知られる。秀吉の側近として外交・人事などにも関わったが、文禄四(一五九五)年の秀次の切腹事件に連座して失脚し、失意のうちに没した。彼は連歌の社会的機能を重視し、連歌会の円滑な運営を中心としたため、作風や理論に新しみが少なく、連歌をマンネリ化させたとする評価も一部でなされているが、連歌を広く普及させた功績も大きく、優れた句もまま見られる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。さて。ここまできて、この紹巴の身元を調べようと、検索しているうちに、句の原拠は探し得なかったかわりに、「瓢箪から駒」で、本書は寛政一一(一七九九)年刊だが、それ以前の、江戸中期の旅行家百井塘雨(?~寛政六(一七九四)年)の紀行「笈埃随筆」が、この作者のネタ本であることを発見してしまった。「古事類苑全文データベース」で、「蝦夷」の部に「〔笈埃隨筆二〕松前」として(画像データはここと、ここ。孰れもPDF)、
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奧州津輕秋田の邊は、すべて北向なれば、常に陰風砂塵を飛して、天色平生ドンミリとして、大虛の碧瑠璃の色を見る事なし、吳竹集に、冷泉爲家卿の歌あり、
胡砂ふかば曇りもやせん陸奧の蝦夷には見せそ秋の夜の月、とよめり、世に傳ふ蝦夷人は日本人と交易するに、若その價ひ相應せずして、夫を責はたらるヽ時は、耻て面を合せかね、胡砂を吹忽ち我姿を隱して遁るヽ故に、此和歌其心を含りとぞ、誠に奇事といふべし、
[やぶちゃん注:以下、底本画像では「【◯中略】」まで、全体が一字下げ。]
十方庵曰、紹巴の發句に、春の夜や蝦夷かこさ吹空の月といへり、コサとは彼地の笛の類にして、口に汐などを含み、空に向て吹上、其邊の月影をくもらせて漁捕しけるか、又一說に山中海邊などへ出るもの、落たる木の葉を拾ひ取、きりきりと卷て是を吹に、實に笛音出して愁情を催せり、是をコサと云なりとぞ、【◯中略】
或は蝦夷人は能霧を吐て身を陰すの術有、又は木の皮のいかにも厚きを卷て、簧と覺しき所に小さき竹あり、只空然たるのみ、水に浸して吹ば、只竹を打拔て、吹音の如し、是を胡障(コサ)といふ、胡障は則胡笳[やぶちゃん注:「こか」中国古代の北方民族の胡人が吹いたとされる蘆の葉で作った笛。]也、笛の聲に山氣立登て、月曇るともいへり、是か地の籟なり、
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とあったからである。ただ、私の所持する吉川弘文館随筆大成版は、版本が異なるらしく、これと同じ文字列を見出せない。類似しているのは、巻之四の冒頭にある「蝦夷」である。随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して全文を以下に示す。
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○蝦 夷
胡砂ふかば曇もやせん陸奧の蝦夷にはみせそ秋の夜の月(吳竹集に)
世に傳ふ、蝦夷人は目本人と交易するに、若その價相應せず、夫を責はたらるゝ時は、耻て面を合せかね、胡砂を吹、忽ち我姿を隱して遁るゝ故に、此和歌その意をふくむと、誠に奇事なり。
[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が一字下げ。]
案るに、近頃彼地より渡りし笳[やぶちゃん注:「蘆笛(あしふえ)」のこと。]を見しに、木の皮いかにも厚きを、くるくると卷て綴りたるにて、箕[やぶちゃん注:これは先に示した「古事類苑」版の「簧」(音「コウ」・訓「した・ふえ」)が正しく、「笛の舌。吹くと振動して音を出すもの」の意である。]と覺しきところふき竹あり。只空然たるのみ。水に滿し吹ば、只竹を打拔て吹音のごとし。これを胡障といふ。形は笛の如し。是彼地の籟也。今右の說幷和歌のごとき奇事詳ならず。
抑蝦夷もとより文字なし。萬の事實をしるし傳ふる事なし。今に每年覺え置べき事は、繩を結び木に刻む。何年過ても忘るゝ事なし。松前商船抔も、勘定の時は彼結繩と刻木を取出し、去年の事を具に辨ずるに、一事として違ふ事なし。我國に通ずる事、人皇十二代景行天皇の御宇を始とす。それより數百年の間、或は叛き、或は從ひ、反服極りなかりしに、人皇五十代、桓武帝の御宇より、田村丸東征の後は敢て叛かず。また奧羽越後等の蝦夷も、兪々歸伏して、今僅に津輕と宿部に此遣種有り。頭少し剃て髮刺ず半額といふ是也。自ら松前の夷人と出會を望まず、系圖を立て別種とす。本邦の一蝦夷なり。蝦夷の唐土に見えしは、唐書通典等を始とする也。是も我國より巡行しなり。其地山嶽重疊として大河多し。北は韃靼に隣り、東は大海、南は津輕、西は海中島々多し。南北に長く凡四百八十里なり。西東は狹く三百六十里といへり。その人長六尺ばかり、髮を披り、髭長く、眼丸く大にして光あり。眉毛一に連り、顏色皆靑白く、女は嫁したる印には鼻の下に入墨して、衣服は大體アツシといふ物を着す。是木の皮を裂て織し物也。常に肉食して米穀を食はず。故に多く短命也。詞もまた通ぜず。近頃は大體詞も聞ゆる事あり。劒を背に負ひ、弓を挾み、或は長き矛樣のものにて山海を漁獵す。松前より船の通ふ地までは松前の支配なり。其奧キイタツフ。ソウヤと云ところまで出來り、交易をなすを奧蝦夷といふ。是まで凡海陸三百里計り、内六十里ほど松前の支配、ソウヤより北は地高麗に續きたり。西に熊石、東に龜田、この二ケ所關有。此にて往來を改む。故無くして關外蝦夷地へ行事を禁ず。松前城下は後に山を負て前は海也。東西家續き建つらねて一里計りあり。城は壘にて二の櫓有り。大手の兩側は家士の町也。城下三ケ所に高札あり。
一從二諸國一松前渡海之輩對二夷人一商賣堅禁止之事。
一無二子細一而松前人之渡海賣買侯者有之候はゞ急度可ㇾ致二注進一事。
付暇夷人之儀雖ㇾ往二來何所一可ㇾ爲二其心次第一之事。
一對二蝦夷人一非分之儀不ㇾ可二申懸一候事。
右之條々可二相守一之。若於二違犯之族一者任二當家代々之先例一速可ㇾ處二嚴科一者也。
寬 文 四 年[やぶちゃん注:一六六四年。]
松前渡りは、津輕外が濱三馬屋より東風に任せ、海上は僅に十二里餘なれども、タツヒの沖に潮カラミ迚、三の潮筋ありて、洪水の激するが如くなれば、風緩き時は中々乘切難し。强き順風ならざれば潮に引流され、南部の沖へ行也。また夏は潮ヲコリ迚、巳の刻[やぶちゃん注:午前十時前後。]におこり未の刻[やぶちゃん注:午後二時前後。]計に止也。此時は海底より潮涌上り、四方の大浪もみ合て、水面三段ばかり高くなる。その時はいかなる順風たりとも、船いつかうに動く事能はず。然れども怪我はなし。浪靜るまで捨置なり。惣じて松前海岸かた濱にて、潮荒く岩石峙ちて、案内不ㇾ知舵は多くあやまちする也。また時として霧深く立時乘込めば、一向天日の光りも見えず暗夜のごとくなり。此時は方角を失ひ破船するなり。松前城下の商人は殘らず他國者也。江州八幡、薩摩、大隅、また加賀、能登、越中、出羽などより、百姓といふは津輕南部の者どもなり。其百姓田作せず。たゞ鯡を取るを業とす。誠に天下第一の大漁なり。春分十日過、此海にのみ自然と寄來るもふしぎなり。其時は武家も町家も松前の沖に男女老若出てとる。鯡十五に一ツを運上とす。凡廿日程の間、二三度も寄來るを取れば、翌年の此頃まで渡世暮方豐か也。干上て俵となし、小船にて餌指へ【繁昌第一也。海上八十八里。】𢌞せば、他國船集りて、鯡數の子の相場を立てゝ買取也。此事四月中に事濟也。五月になれば昆布取舟を出す。東海箱館の外海より蝦夷地へかけて六拾里計りの間也。尤海中の石に生ず。【宇賀といふも五十里の内に有り。昆布の名とす。】船より長き柄の付たる鎌にて刈て其根を切て、船は早速漕退くなり。早く遁ざれば、根の切れたる昆布くるくると海水を卷たてうかみ上る。故に船を覆す也。其長さ數十丈有り。扨引上、屋根にも砂濱にも干す。また屋根を葺たるも有り[やぶちゃん注:最後は本文で指摘された通りの誤認。]。上古より田を作らざれば米なし。津輕、秋田、酒田より𢌞る。領主は酒田の𢌞米四千五百俵充、每年御買受代金上納也。米は作らずしてかへつて米澤山なり。米八升を一俵とす。酒、椛、鹽、たばこ、染木綿、古手鍋、釜、庖丁、糸、針、きせるなど持渡る。上方通路は越前敦賀の船、順風に六日七日に着なり、北涯の地なるに、水の淸潔なる最賞すべし。西北は平地にて、東南に山深く、甚だ急に切立たるが如し。絕頂は金銀の氣、亦は硫黃の氣にて燒崩れたり。一國都て金、銀、銅、鐵多し。山川は云に及ばず。原野とても砂金多し。松前より三部乙部といふ所までは御巡檢地なり。東方龜田といふまで二十七里、又箱館といふ湊あり。繁昌の地なり。龜田土地宜しく、四方三里餘、平地を畑とし百姓もあり。此より三十里、東蝦夷地に臼が岳といふ山あり。絕頂燒て臼の如し。麓に善光寺の彌陀とて有り。夷人殊に尊敬す。奇瑞も有り。此所松前より往來を禁制なれば、囘國の僧など忍びて參詣す。麓は入江にて景色無雙也。この奧五六十里計りに尻別山と云ふあり。本朝の富士の山に似たり。夷中の高山なり。松前領の高山は仙見岳也。城下より八里。元蝦夷は、古へ肅愼靺鞨兀良哈[やぶちゃん注:「肅愼」(しゆくしん(しゅくしん))は満州(中国東北地方及び外満州)に住んでいたとされる狩猟民族。また、後にこの民族が住んでいた地域の名称ともなった。粛慎という呼び名は中国の周代・春秋戦国時代の華北を中心とする東アジア都市文化圏の人々(後に漢民族として統合されていく前身となった人々)が「粛慎人」の自称を音訳したものであって「息慎」「稷慎(しょくしん)」とも表記される。「靺鞨」(まつかつ(まっかつ))は中国の隋唐時代に中国東北部・沿海州に存在した農耕漁労民族。南北朝時代における「勿吉(もっきつ)」の表記が変化したもの。前の「肅愼」の末裔ともされ、十六部族があったが、後に高句麗遺民とともに渤海国を建国した南の粟末部と、後に女真族となって金朝・清朝を建国した北の黒水部の二つが主要な部族であった。「兀良哈」は「ウリャンハイ」と読み、明代に興安嶺の東に住んでいたモンゴル系種族。しばしば中国の北辺に侵入したことで知られる。]の種類也。韃靼は奧蝦夷より近し、黑潮の來る處を一日乘過れば卽韃靼の地也といふ。この黑潮といふものは東の大洋にあり。若し風緩き時は、この潮に引とられ、再び歸り來る事ならず。江戶刑船多く行衞知れざる事年々に有しは是也。【天池の水東流することは常理也。この地はしからず。東方に國あるゆへ潮北に流れ、蝦夷地へ落る事、松前の異事也。】蝦夷には千島とて、津輕外が濱より海中へ島々多く、絕景詞に盡し難し。一島一奇一岩一怪、見る每に神を含み靈を備ふ。惜い哉。邊鄙の勝景世に埋る事を、箱館島四山の岬、江とも島、エレモ島、蠟虎島等、又常盤島は夷地より五十里、每年本朝へ鴈の渡り來る島なり。巖峙ちて渡海なりがたし。冬は氷橋かゝり、氷浮橋と號す。四月中旬までは餘寒强く、雨每に霰交りの雪なり。四月の末より梅櫻咲かゝり、椿、藤、山吹は五月一同に咲。土用中大暑なく、七月中旬暑氣を覺ふ。然れども朝夕は冷なり。
*
作者のコピペ、見切ったり!!!
「すゝ竹色」「煤竹色(すすたけいろ)」。囲炉裏や竈の煙に燻されて、煤けて古色を帯びた竹の色のような暗い茶褐色。参照したサイト「伝統色のいろは」のこちらを見られたい。
「是れ、コサにはあるべからず。彼(か)の地の笛(ふへ)なるべし」この「コサ」は先に注した奇体な「こさ」=「ふさ」=「息吹」という妖しいものではなくて、蝦夷地の草笛なのであろう、と言っているのである。まあ、穏当な解釈とは思う。
「もしや、口に汐(しほ)なとを含みて、空に向(むか)てふきあげ、其の邉(へん)の月影を曇らせて、漁捕(すなとり)しけるか」そないなことは、これ、できまへんて!
『又、一說に、山中(さんちう)・海邉(かいへん)などへ出づるもの、落ちたる木(こ)の葉(は)を拾ひ、「きりきり」と卷きて、是れを吹くに、實(まこと)に笛の音(ね)を出だして、秋情(しうしやう)を催す。是を「コサ」とも云とぞ』これは太田太郞氏の論文「アイヌの氣鳴樂器」(PDF・昭和二六(一九五一)年二月発行の『東洋音楽研究』所収・末尾にあるクレジットは昭和十九年五月一日である)の一五ページ以降の「2 コサ笛」で見事に考証されていある。かの金田一京助などは中国の「胡笳」から連想して作り上げた空想的産物だ、とのたもうたらしいが、太田氏はアイヌが吹き鳴らして合図とするために作った喇叭(ラッパ)類であるとされる。大いに賛同するものである。
「俗傳に、義經、蝦夷わたりのこと、虛實、さだかならずといへども、是れ、正說(せいせつ)なり」私は義経が生き延びて北海道に渡り、そこから大陸へ向かった可能性をあり得ない話として完全には否定しない人間である。
「「辨慶嵜(べんけいさき)」北海道寿都郡寿都町政泊町のここに弁慶岬として現存する。
「淸和(せいわ)の裔(ゑい)」清和源氏の祖清和天皇の謂い。]