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2021/06/24

芥川龍之介書簡抄87 / 大正七(一九一八)年(二) 小島政二郎宛五通(後者四通は一括投函で、雑誌上の「地獄變」批評への応答)

 

大正七(一九一八)年五月十六日・田端発信・小島政二郞宛

 

拝復 入學試驗準備で五六日東京へ来てゐました今日午後鎌倉へ歸ります

地獄變はボムバスティツクなので書いてゐても気がさして仕方がありません本來もう少し氣の利いたものになる筈だつたんだがと每日、新聞を見ちや考へてゐます 御伽噺には弱りましたあれで精ぎり一杯なんです但自信は更にありませんまづい所は遠處なく筆削して貰ふやうに鈴木さんにも頼んで置きました

多忙は申上げる迄もありませんけれど時々學校まで雜誌記者氏に襲はれるのには恐縮しますそれが皆押しが强いので此頃大分一々會つてゐるのが損なやうな氣がし出しました 文章俱樂部か何かの文章觀(諸家の)を見ると皆「雨月」を褒めてゐるでせうあれは雨月の文章が國文の素養のない人間にもよく判るからなのです王朝時代の文章に比べて御覽なさい雨月の文章などは隨分土口氣泥臭味の多い文章ですから

序に書きますが雨月の中では秋成が「ものから」と云ふ語を間違つて「なる故に」の意味で使つてゐる所が二つあるでさうですこれは谷崎潤一郞氏に聞きました一つは確「白峯」でしたあんな學者ぶつた男が間違つてゐるんだから可笑しいでせう

此頃高濱さんを先生にして句を作つてゐます點心を食ふやうな心もちでです一つ御目にかけませうか

   夕しぶき舟虫濡れて冴え返る

                  頓首

    五月十六日      芥川龍之介

   小 島 政 二 郞 樣

 

[やぶちゃん注:「小島政二郞」『三田文学』同人の作家小島政二郎(まさじろう 明治二七(一八九四)年~平成六(一九九四)年:芥川龍之介より二歳年下)。東京府東京市下谷区生まれ。生家は呉服商「柳河屋」(されば後の四通が出鱈目な住所でも着きそうだ)。京華中学から慶應義塾大学文学部卒。

「ボムバスティツク」bombastic。「大袈裟な」。

「御伽噺」この後の大正七年七月の児童雑誌『赤い鳥』初出の「蜘蛛の糸」のこと。この書簡は発表前であるが、大学卒業後、小島は漱石門下の児童文学者鈴木三重吉(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年:広島市生まれ。本邦の「児童文化運動の父」とされる)が主宰していた『赤い鳥』の編纂に携わっていた。この大正七年二月三日(日曜)に鈴木の紹介で小島が初めて龍之介を訪問(恐らく田端の実家)して以降、親交を結んでいた。

「文章俱樂部」文芸雑誌名。大正五(一九一六)年五月から昭和四(一九二九)年四月まで新潮社から発行されていた。編集担当者は加藤武雄。同社は純文芸誌として『新潮』を発行していたが、それに対して、文学入門者向けに出されていた『新文壇』の後継誌として創刊したもので、初期は文章作法や投稿欄などが中心であったが、後には大正期の代表的作家たちの小品・短編小説などを掲載、文芸誌としての色彩を強めた。作家の回想・体験記・小説作法や、文壇状況をゴシップ的に報じた文章が多く、本誌の特色をなしている(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「土口氣泥臭味」「どこうきでいしうみ(どこうきでいしゅうみ)」と読む。土臭(つちくさ)くて饐(す)えた泥のような臭(にお)い。芥川龍之介の好きなおどろおどろしいフレーズで、名品「點鬼簿」(大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』初出。リンク先は私のサイトの古い電子化)の冒頭「一」の実母フクを描いたそれで、

   *

 僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。

   *

と使っている。但し、調べてみても、「西廂記」(元の戯曲。全二十一幕。王実甫作。中国戯曲史上最高傑作の一つとされる。原型は唐代伝奇の名篇「鶯鶯傳」)には、この文字列は、実は、ない。似たものでは、同作の「第四本 草橋店夢鶯鶯」の「第三折」の『將來的酒共食、嘗著似土和泥。假若便是土和泥、也有些土氣息、泥滋味。』(「土氣息、泥滋味」は「土のにおいと泥の味」の意)が元であろう。龍之介の記憶違いというより、彼独特の確信犯のおどろおどろしい変形による露悪的な偏愛語とすべきである。しかし私の偏愛する上田秋成を「あんな學者ぶつた男が間違つてゐるんだから可笑しいでせう」と言い放つ龍之介にして、確信犯としても、こういう使い方で人を騙すのはもっと下劣だ。「れげんだ・おうれあ」だってとんでもない何重にも拵えた騙しだったではないか。自分を棚上げしておいて、上げ足取りするのもいい加減にしろや! 龍之介! というより――実は芥川龍之介は「雨月物語」の大ファンであり、そこの構成力に憧れていて、短篇を書く際には、たびたび「雨月物語」を再読して自作の展開構成の参考(特に書き出しの簡潔さを)にしていたことが知られているのである。

『雨月の中では秋成が「ものから」と云ふ語を間違つて「なる故に」の意味で使つてゐる所が二つあるでさうです』『一つは確「白峯」でした』接続助詞「ものから」は、本来は、逆接の確定条件で「~であるのに・~だけれども・~するものの」の意であったが、中世以降はそれを誤って順接の確定条件の「~ので・~だから」に使用するケースが出てきた。本来は形式名詞「もの」に、広義の起点・原因を表わす格助詞「から」が付いて一語化したものであるが、順接の確定条件の用法は、原因・理由を表わす接続助詞「から」と混同して生じた中世以降の用法であり、中古以前にはなかった。しかし、近世になると、順接の確定条件の用法の方が一般的になってしまう。「白峯」のそれは、丁度、中間点の、

   *

 西行、いよよ恐るる色もなく、座をすすみて、君が告(の)らせ給ふ所は、

「人道のことわりをかりて慾塵をのがれ給はず。遠く震旦(もろこし)をいふまでもあらず、皇朝の昔、譽田(ほんだ)の天皇、兄の皇子(みこ)大鷦鷯(おほさゝぎ)の王(きみ)をおきて、季(すゑ)の皇子莵道(うぢ)の王を日嗣(ひつぎ)の太子(みこ)となし給ふ。天皇、崩御(かみがくれ)給ひては、兄弟(はらから)相(あひ)讓りて位に昇り給はず、三年(とせ)をわたりても、猶、果つべくもあらぬを、莵道の王、深く憂ひ給ひて、

『豈(あに)久しく生きて天が下を煩はしめんや。』

とて、みづから寶算を斷たせ給ふものから、罷事(やんごと)なくて兄の皇子、御位(みくらゐ)に卽(つ)かせ給ふ。」

   *

という箇所で、今一つは、力作「蛇性の淫」の終局の、

   *

 豐雄、すこし心を収めて、

「かく驗(げん)なる法師だも祈り得ず、執(しう)ねく我(われ)を纏(まと)ふものから、天地(あめつち)のあひだにあらんかぎりは、探し得られなん。おのが命ひとつに人々を苦しむるは、實(まめ)ならず。今は人をもかたらはじ。やすくおぼせ。」

とて、閨房にゆくを、庄司の人々、

「こは物に狂ひ給ふか。」

といへど、更に聞かず顏に、かしこにゆく。

   *

のシークエンスである。孰れも確かに逆接用法ではある。しかし、私なんぞは別に気にならんが、ね。

「高濱さん」高濱虚子。

「點心を食ふやうな心もち」美味しいところだけを手軽に摘まみ食いするような感じで気軽に句を捻っている自身の安直な作句態度を言ったもの。]

 

 

大正七(一九一八)年六月十八日・東京市下谷區下谷町一 小島政二郞樣・六月十八日 相州鎌倉町大町辻 芥川龍之介(葉書・第一信・『⑴』)

大正七(一九一八)年六月十八日・消印六月十八日・東京市下谷區下谷町一 小島政二郞樣・六月十八日 相州鎌倉町大町辻 芥川龍之介(葉書・第二信・『⑵』)

大正七(一九一八)年六月十八日・消印六月十八日・東京市下谷區下谷町一 小島政二郞樣・六月十八日 相州鎌倉町大町辻 芥川龍之介(葉書・第三信・『⑶』)

大正七(一九一八)年六月十八日・鎌倉発信・小島政二郞宛(葉書・第四信)

 

⑴小島さん

三田文で褒めて下すつたのはあなただと云ふから申し上げます あの作晶はあなたのやうな具眼者に褒められる性質のものぢやありません この間よみ返して大分冷汗を流しました

それから說明と云ふ事に就いて私の文章上の說明癖なるものはそれが鑑賞上邪魔になるとあなたが云ふ範圍では so far 私も抗議を申し込む資格はありません 然し「あの小說の中の說明」になると私にも云ひ分があります と云ふのはあのナレエションでは二つの說明が互にからみ合つてゐて それが表と裏になつ

 

 

⑵ゐるのです その一つは日向[やぶちゃん注:「ひなた」。一般名詞。以下の「陰」に応じた「ポジティヴ・顕在的」の意。]の說明でそれはあなたが例に擧げた中の多くです もう一つは陰の說明でそれは大殿と良秀の娘との間の關係を戀愛ではないと否定して行く(その實それを肯定してゆく)說明です この二つの說明はあのナレエションを組み上げる上に於てお互にアクテユエエトし合ふ性質のものだからどつちも差し拔きがつをません それで諄々しい[やぶちゃん注:「くどくどしい」。]がああ云ふ事になつたのです 勿論そこには新聞小說たらしめる條件も多少は慟いてゐたでせう これは不純と云はれれば不純です がこの方は大して重大な問題にはならないでせう

最後に三田文は八月(九月でもよろしい)にして頂けないでせうか 昨日歸つたばかりでまだ一向落着きません

 

 

⑶その爲新小說も新時代も前約に背いて御免を蒙りました 大分前から引き受けたので大に恐縮ですがよろしく御取計ひ下さい 書くものはきまつてゐます「龍の口」と云ふ怪しげなものです

今日鈴木さんの御伽噺の雜誌を見ました どれをよんでも私のよりうまいやうな氣がします 皆私より年をとつてゐて小供があるからそれで小供の心もちがうまくのみこめてゐるのだらうと思ひます 失礼ですがあなたはもう奧さんがおありですか

もう少し私の旅行時期が早いと大阪ででも落ち合へたのですね 以上   芥川龍之介

 

 

前の三枚のはがきを書いちまつてさてあなたの住所を忘れたので困りましたそれから困つたなり一週間ばかりすぎました困つてゐる事は依然として同じですそこで窮餘の一策として出たらめな番地を書きます賢明なる郵便脚夫氏はどうにか君の所へとゞけてくれるでせう 以上

 

[やぶちゃん注:四通別々に届けられたものらしいが(全部が葉書で⑵と⑶は消印があることによる。但し、投函は一括である)、ソリッドな内容なので、特異的に以上のように纏めた。最後の一通からは、⑴から⑶は一週間余り前(六月十一日(火曜)前後)の執筆ということになる。⑴と⑵の間の繋がり(「て」の脱字と思われる)はママである。

「小島さん」「三田文で褒めて下すつたのはあなただと云ふ」小島はこの年の『三田文学』六月号で、前月に発表された芥川龍之介の「地獄變」(『大阪毎日新聞』には五月一日から二十二日まで。同社の系列誌『東京日日新聞』には五月二日から二十二日まで。リンクは私のサイト正字正字版。他に拘ったサイト版『芥川龍之介「地獄變」やぶちゃん注』も別にある)を批評している。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、『小島は、「地獄変」に多くの疑問を指摘しつつ、「時代に当嵌つた表現」を試みた芥川に賛辞を寄せた』とある。

「私の文章上の說明癖なるもの」同じく石割氏の注に、『小島は芥川の「説明癖」が「エフェクトを弱める」とした』とある。この「エフェクト」とは作品の展開上の効果の意であろう。

「so far」「その限りに於いては」の意。

「ナレエション」narration。これは同作中の「語り手」に託した「物語り」「叙述」を指す。

では二つの說明が互にからみ合つてゐて それが表と裏になつ

「アクテユエエト」actuate。本来は「(人を)行動させる」で、他に「働かせる・作動させる」(但し、英語ではこの場合は、activate の方が一般的である)であるが、ここは後者で、「作用させる」或いは「作用(影響)する」の謂い。

「三田文は八月(九月でもよろしい)にして頂けないでせうか」『三田文学』に依頼されていた作品で、これは九月一日発行の同誌に発表した、名作「奉敎人の死」(八月十二日脱稿)となる。

「昨日歸つたばかり」龍之介は前月五月三十日に、横須賀海軍機関学校の出張で広島県江田島の海軍兵学校参観に同僚の数学教授黒須康之介(明治二六(一八九三)年~昭和四五(一九七〇)年:埼玉生まれ。東京物理学校及び東北帝国大学理科大学数学科大正六年卒業と同時に海軍機関学校嘱託教授となった。大正八年に教授、大正十四年には龍之介の出身校である東京第一高等学校教授となり、昭和一六(一九三一)年に退職、同校講師を経て、戦後の昭和二四(一九四九)年には立教大学理学部教授となった(昭和三十三年定年退職)。解析学、特に変分法で優れた業績を挙げた。ここは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)とともに出発し、六月四日に同兵学校を参観後(その前の二日頃には京都で厨川はクソンに面会している)、帰途、黒須と一緒に奈良に泊まり、五日には京都に滞在、知人の日本画家小林雨郊(明治二八(一八九五)年~昭和五一(一九七六)年:京都生まれ。京都市立絵画専門学校卒業。家業は「三文字屋善兵衛」を屋号とした刺繍業であった)の案内で光悦寺や上木屋町の茶屋などを訪ね、六日に大阪に着き、社友となっている大阪毎日新聞社を訪問、薄田泣菫に面会、参照した新全集宮坂年譜では、この連続書簡を元に、鎌倉に帰ったのは十日頃としてある。

「新小說」「新時代」孰れも雑誌名。

「龍の口」不詳。未定稿もない。題名からして「地獄變」ではあり得ない。思うに、これは日蓮の知られた「龍ノ口の法難」を素材とした歴史物だったのではないか。面白そう。芥川龍之介の墓がある芥川家の菩提寺慈眼寺(じげんじ)は日蓮宗である。

「鈴木さん」鈴木三重吉。

「御伽噺の雜誌」『赤い鳥』。]

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