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2021/06/18

譚海 卷之四 水戶光圀卿水練幷前身を知り給ふ事

水戶光圀卿水練幷(ならびに)前身を知り給ふ事

○黃門光圀卿水戶入部のとし、中川と云(いふ)湊にてはだかにて舟より水中ヘ入給ふ、近從騷動大形(おほかた)ならず。第三日の朝水上にうかび出、壺を一つ抱(かかへ)て出られたり。其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ、「中川」とて第一の祕器なりとぞ。又其年水戶御領の神社佛閣の内陣をひらかせ、自ら殘りなく拜せられ、祕佛といへども自身鍵を明(あけ)御覽ぜられしに、何の八幡宮とかやの御戶牢(かた)くとざしてあかざりつるを、山中雲平といふ士に仰(おほせ)有(あり)て明(あけ)させられしとき、覺えず脇指(わきざし)はしりぬけて、雲平右の手を切落したり。それより雲平御奉公をやめ隱居せしとぞ。光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし、たしかなる證を水戶に得給ひ、則(すなはち)埋骨の地に寺をたて、公儀へ御朱印地に御願(おんねがひ)有、免許の後(のち)無二亦寺(むにやくじ)と號せるとぞ。

[やぶちゃん注:「黃門光圀卿」常陸水戸藩第二代藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年:よく言われる黄門は古代の国政を掌った太政官中納言の唐名黄門侍郎の略。光圀は没する十年前の元禄三(一六九〇)年に員外権中納言に任ぜられたことによる)稱代藩主徳川頼房三男。水戸城下柵町(さくまち:現在の水戸駅周辺に当たる茨城県水戸市宮町の内。南東に接して旧名の柵町が残る)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれた。光圀は強烈な儒教崇拝の排仏派で(父以降の藩主の葬送は儒式で行われ、墓地も独特な石棺と廟であり、茨城県常陸太田市瑞龍町の瑞龍山にある墓域(グーグル・マップ・データ航空写真拡大。以下同じ)には一般人は立ち入ることが出来ない)自身の発案になる生涯ただ一度の長旅(「水戸黄門」は真っ赤な嘘で、藩内は精力的に巡検しているが、他には日光東照宮・勿来・熱海ぐらいしか行っちゃいないのである)である鎌倉への途次、六浦では石製地蔵像を縛って引き倒し、損壊して歓喜するなどの乱暴狼藉を働いており、「大日本史」「新編鎌倉志」(私はサイトのこちらで全篇を電子化注してある。また、その濫觴である「鎌倉日記」(德川光圀歴覽記)の電子化注もブログで完遂している)などの指揮は高く評価するが、人間的にはかなり異常行動(辻斬りや成敗と称した家臣の殺人を含む。ここでの山中雲平の脇差が走り抜けて右手を切断というのもすこぶる怪しい)の見られる近づきになりたくない人物である。詳しくは当該ウィキなどを参照されたい。

「入部」最初に彼が水戸城に入ったのは寛永九(一六三二)年(翌寛永十年十一月に世子と決められた)だが、藩主としてではなく、しかも数え五歳であり得ない。寛文元(一六六一)年七月二十九日、父頼房が水戸城で死去しており、この時が、最初の入部で数え三十四である(正式な藩主就任は八月十九日)。元禄三(一六九〇)年十月十四日に六十三で隠居しているから、その間の二十回ほどの参勤交代の、まあ、初期の話であろう。

「中川と云(いふ)湊」茨城県ひたちなか市和田町の那珂川河口の那珂湊港であろう。但し、こんな海辺は正規の参勤交代のルートではないはずである。まあ、彼ならやりかねないことではある。

「第三日の朝水上にうかび出」それはないでショウ?!

「壺」「其壺今に年々宇治へ詰茶にのぼせられ」『「中川」とて第一の祕器なり』「中川」は採取した地をつけた壺の名。壷の現存は不詳。

「何の八幡宮とかや」不詳。言い方から、知られた水戸八幡宮ではあるまい。リンクの北西にも八幡神社がある。

「山中雲平」不詳。

『光圀卿の前身「高野ひじり光國」といふものなるよし』うへぇエ!?! ホンマにいいんかいな? 黄門はん? 排物の権化が「高野聖」たぁお釈迦さまでも御存じあるめえ!

「たしかなる證を水戶に得給ひ」現存する。次の注の「妙経筒碑文」がそれらしい。

「無二亦寺」茨城県ひたちなか市市毛に日蓮宗一乗山無二亦寺として実在する。公式サイトのデータによれば、寛文五(一六六五)年の当時の藩主徳川光圀公の命により、次代の第三代綱条(つなえだ)公の代に建立された寺とあり、「縁起」PDF)によれば、『無二亦寺が創建されたのは、この地から青銅製の経筒が出土したいわれによる。高さ』十二センチメートル『ほどで 』、六『角形』のそれ『には、数十字が刻みこんであり』、『光圀という人が法華経一部を納めたことが記されていた。当時、現在の常陸太田市に久昌寺を建てるなど、日蓮宗に手厚い保護を加えていた徳川光圀は、このことを聞いて一寺を建立することを思いたった。』元禄一〇(一六九七)年に六十『石の地が除地として寄せられ』、『伽藍を造営したが、開堂は光圀の生存中に間に合わず』、元禄一四(一七〇一)年の『春に供養された』とあり、「妙経筒碑文」の写しの写真がある。一行目末から『本化宗者常陸人光圀納妙經之筒也』とあるのが判る。「本化(ほんげ)宗」は日蓮宗に同じ。末尾クレジットは『寶永四年丁亥』で一七〇七年である。さらに、『その翌年の元禄』十五年に『日遙が第二住職として入寺すると、藩の命令によって市毛・津田・田彦に住む者は全て無二亦寺の檀家に定められた。同時に、市毛の鹿島、吉田両明神は三十番神に、津田の鹿島明神も三十番神に、田彦の熊野三社権現は七面大明神に、それぞれ定められた上で、無二亦寺の支配にまかせられた』。『このようにみてくると、無二亦寺は水戸の徳川家と深い関係を持ち、神社を寺にとりこむことに成功した点が注目される。その信仰は、現世利益の祈禱という面がもとから相当に強かったようである』(これは昭和五〇(一九七五)年発行の「勝田市史」(民俗編)からの引用らしい)とある。『本尊は宗門で定める十界曼荼羅を掲げ、日蓮上人の木像を安置する』。『開山は京都本圀寺の僧であった日輝で』、『江戸時代には、水戸藩の保護を受けて栄えたが、幕末に徳川斉昭が断行した棄仏毀釈によって廃寺になり』、明治一〇(一八七七)年『頃にようやく再建された』とある。私としちゃあ、斉昭がやらかした気持ちは腑に落ちるね。尊崇する黄門公の瑕疵に他ならないからね。]

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