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2021/06/15

芥川龍之介書簡抄83 / 大正六(一九一七)年書簡より(十五) 松岡譲宛

 

大正六(一九一七)年・消印十一月一日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・AKUTAGAWA

 

ここに二人の許嫁の男女がある さうしてそれが如何なる點でも幸福だとする その時その許嫁の男がこんど久米の書いたやうな小說を書いたとする――としてもその間には何の波瀾も起らなくはないだらうか だから久米のあれを發表したと云ふ事は周圍とかフイアンセとかに對する眼があいてゐないと云ふ愚によるのだ が、周圍は存外わかつてゐたかも知れない 同時にそれ丈フイアンセに對しては盲目同樣ぢやなかつたらうか こんな考へ方をするとあいつが氣の毒にもなつて來る

それから又あいつがあんなものを書くのは實際以上に幸福な自分を書いて慰めてゐると云ふ事もありさうな氣がする これはフイアンセに對して盲目なのと矛盾するかも知れない しかし盲目ならんとする努力と見れば矛盾ではなくなるだらう 强いて自分を幸福に書いて自ら慰めると云ふ事には多少の同情がない事はない 僕は君にわかれてからこんな二つの考へ方であいつをよりよく見る事が出來さうな氣がして來た さうしてさう見る事が義務のやうな氣もして來た それは愚だし愚だけに腹が立つがさう見ればあいつに對する好意だけは失はれずにすみさうに思ふよ 愚の方ぢや我々もいつどんな愚をやるか知れないからね

しかし愚は愚だね 歸つてあの小說を見たら又しみじみさう思つたよ 僕は君に話した通り純粹にはあの件の成立を喜んでゐないからそれだけあの小說を發表した結果にしても冷淡になり得られるのだがそれにしても愚なのでがつかりする

何か變動が起るかも知れないし又起りさうだがその原因はやつぱり自然に背いた罰だと思ふ どうもあの事を考ヘるとへんに不安になつていけない

十一月になつたら三土會前に來ないか 一日ゆつくり遊びたいから

   讓   君           龍

 

[やぶちゃん注:「フイアンセ」夏目漱石の長女筆子。ウィキの「松岡譲」によれば、『漱石の長女筆子の愛を巡って、親友の久米正雄と離反』し、『久米の求婚を内諾した筆子が松岡に変心したのを知り、久米に黙ったまま付き合』っていた。『大学卒業』『の翌年』の大正七(一九一八)年四月二十五日に『筆子と日比谷大神宮で結婚、精養軒で披露宴を行なう。その結婚式当日』、『朝日新聞』の『一面に久米を中傷するかのような記事が掲載される。これは松岡が書かせたものだとされている。この記事が逆効果を』生んで、『世間は久米に同情、相対的に松岡が悪者になる。義母である鏡子に執筆を禁じられていた松岡は反論の機会を失う。また』、『この件に関して沈黙する必要』の『なくなった久米も』、『この件で負った苦悩を吐露した作品を執筆』し、『特に』大正一一(一九二二)年の「破船」は『注目された。この作品発表後』、『松岡の長女が「あんな悪い人の子供と遊んではいけない」と目の前で連れ去られ、松岡はそれを久米のせいだと復讐心を燃や』した。『長女の件を新聞で語った上で、自身からの視点で筆子との恋愛を描いた』「憂鬱な愛人」を執筆したが、『大々的な宣伝にも関わらず』、『同作品は話題にならなかった。松岡は更に知人に長女だけを預けて』、『久米に会わせるなどをしたという』。『なお』、「憂鬱な愛人」では、『筆子への恋心を描きながらも、後に筆子が愛したのは自分であると知らされたと語るなど』、『この件に関しての松岡の発言には一貫性がない』。『なお』、『久米は早い段階で松岡に話し合いを求める手紙を書いたり』、『電話を掛けたりしたが、松岡が応じることなく』、『そのまま関係は断絶していた』。『戦時中は生まれ故郷の新潟に一家で疎開。住宅難の戦後は一家で雨漏りのするお堂に転がり込む日々であった。そこすら追い出された時は』、『妻の筆子が住む場所を求めて奔走』した。なお、『この時期、生活苦から』、『学生時代の友人である芥川龍之介からの手紙を売却』している。『久米正雄とは断絶状態であったが』、『戦後の』昭和二一(一九四六)年に和解した]。『この和解は戦後新潟に来た久米を松岡が訪ねたこと』がきっかけであった。『しかし自身の評伝を書いた関口には』、『和解後の久米を揶揄するような手紙を書いており、松岡が久米を心から許したわけでは無かった事が伺える。松岡は漱石山房の再建を熱望したが、他の門下生の協力が得られなかった。久米と再会したときに真っ先にこの件への協力を呼び掛け』ている。『なお』、『久米と筆子の件は、筆子の母である鏡子が漱石亡きあと家に男手が欲しいために結婚を強制させたと筆子の娘である半藤茉莉子が著書で語っている』。『また、久米と筆子の婚約期間中』、『久米を中傷する怪文書が夏目家に届く事件が起こった。久米にこの手紙について問い質しにきた鏡子に付き添った松岡が』、『その手紙を預かる。松岡は後にその手紙を書かされたという女性が反省して訪ねてきたので』、『目の前で焼いたと記する』。『しかし松岡の評伝を書いた関口は保管されていたというこの手紙を読んだと記しており、真相が分からない状態にある』とある。ぐちゃぐちゃで、気持ち悪(わり)イ……。

「三土會」広津和郎・谷崎潤一郎・芥川龍之介・江口渙・赤木桁平・松岡譲・久米正雄・山本有三・佐藤春夫・加能作次郎ら当時の新進作家たちが親睦会として、この大正六年の九月十五日に上野の森の五條天神社脇にある「韻松亭」(現存する。ここ。グーグル・マップ・データ)で第一回が催された。他に本郷の燕楽軒や万世橋駅の上にあったミカドを会場とした。名称は第三土曜日を定時開催としたことによる。筑摩全集類聚版脚注では、『岩野泡鳴が主導した文学グループ』とするが、これは「十日会」の誤りである(「十日会」には後に芥川龍之介も参加している。そうして、そこで、ファム・ファータル秀しげ子と出逢うことになるのである)。]

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