芥川龍之介書簡抄86 / 大正七(一九一八)年(一) 十通
大正七(一九一八)年一月一日・田端発信・菅忠雄宛(葉書)
忠雄さんは何時までそちらにお出でですか僕は來週中でも鎌倉へ行つてさがして下すつた家を見たいと思ひます
頓首
[やぶちゃん注:この三月一日で、芥川龍之介満二十五歳。先の最後の松岡譲宛書簡の注で既に述べた通り、龍之介が思いの外、人にちゃっかりしっかり頼るタイプであることが判る。但し、この時に紹介された物件は気に入らず、一月三十日にも菅虎雄の紹介で鎌倉の借家を数軒見て回ったが、気に入らない。結婚時点(翌二月二日)でも新居は決まっておらず、二月七日頃にも探しに行き、二月二十六日まで新居が決まった(新全集宮坂覺年譜に拠る)。ここで後に掲げる書簡も参照のこと。]
大正七(一九一八)年一月十九日・田端発信(推定)・京都市加茂松原中ノ町八田方裏 井川恭樣・一月一九日 芥川龍之介
女の名は
加茂江(カモエ)(下加茂を紀念するならこれにし給へ)
紫乃(シノ)(子)
さざれ(昔の物語にあり復活していゝ名と思ふ)
茉莉(マリ)(子)
糸井(イトヰ)(僕の友人の細君の名 珍しい名だが感じがいゝから)
これで女の名は種ぎれ男の名は
治安
樓蘭(二つとも德川時代のジヤン、ロオランの飜譯 一寸興味があるから書いた)
哲(テツ)。 士朗。(この俳人の名はすきだ)
俊(シユン)。山彥。(原始的詩歌情調があるぜ)
眞澄(マスミ)(男女兼用出來さうだ)
そんなものだね
書けと云ふから書いたがなる可くはその中にない名をつけて欲しい この中の名をつけられると何だかその子供の運命に僕が交渉を持つやうな氣がして空恐しいから
僕は來月に結婚する 結婚前とは思へない平靜な氣でゐる 何だか結婚と云ふ事が一のビズネスのやうな氣がして仕方がない
僕は子供が生れたら記念すべき人の名をつける 僕は伯母に負つてゐる所が多いから女だつたら富貴子 男だつたら富貴彥とか何とかつけるつもりだ 或は伯母彥もいいと思つてゐる そのあとはいい加減にやつつけて行く 夏目さんが申年に生まれた第六子に伸六とつけたのは大に我意を得てゐる 實は伯母彥と云ふ名が今からつけたくつて仕方がないんだ
この頃は原稿を皆斷つてのんきに本をよんでゐる 英國の二流所の作者の名を大分覺えた
爪とらむその鋏かせ宵の春
ひきとむる素袍の袖や春の夜
燈台の油ぬるむや夜半の春
葛を練る箸のあがきや宵の春
春の夜の人參湯や吹いて飮む
この間運座で作つた句を五つ錄してやめる
井 川 君 龍
二伸 奧さんによろしく 產月は何時だい 今月かね
[やぶちゃん注:太字はルビ。本文内の( )表記と区別するために、かくした。宛名は本来は改姓後の恒藤恭であるべきだが、龍之介はこの語も暫くずっと「井川恭」と記し続ける。この辺りに彼の「井川恭」に対する同性愛感情の残痕を私は嗅ぐ。龍之介が「恒藤恭」と記すのは、実にこの翌年の大正八年五月十九日附書簡(葉書・旧全集書簡番号五二七)以降である。発信の一月十九日は日曜日であるので、田端(推定)とした。親友恒藤恭の妻雅が妊娠し、その子の名を彼が龍之介に命名を頼んだ、その返信。翌二月十五日に雅は男児を出産、「信一」と名づけられた。
「ジヤン、ロオラン」フランスの詩人で象徴主義派の小説家ジャン・ロラン(Jean Lorrain 一八五五年~一九〇六年)。同性愛者であることを公言した人物としても知られる。
「士朗。(この俳人の名はすきだ)」江戸時代後期の医師で俳人の井上士朗(寛保二(一七四二)年~文化九(一八一二)年)。尾張国春日井郡守山村(現在の愛知県名古屋市守山区)生れ、医師として活動する傍ら、加藤暁台(きょうたい)門下の高弟として、暁台没後の尾張俳壇を主導し、「寛政の三大家」の一人に数えられた。私は師の暁台は好きだが、士朗は月並化が激しく、好きな句はない。
「僕は來月に結婚する」日付を明らかにしていない理由は次の松岡譲書簡に記されている。
「伯母」芥川フキ。彼女への芥川龍之介の尊崇偏愛が見てとれる。
「ビズネス」ビジネス。business。
「伸六」夏目漱石の次男でジャーナリスト・随筆家夏目伸六(明治四一(一九〇八)年~昭和五〇(一九七五)年)。当該ウィキによれば、『東京市牛込区(現在の東京都新宿区)早稲田南町に生まれる。伸六の上に姉』四『名と兄がいた。漱石は、名前を「申年に生まれた』六『番目の子ども」ということで「申六」とする予定だったが、「先生、いくらなんでも人間の子供ですから、ニンベンをつけて『伸』にしましょう」と漱石の弟子である小宮豊隆から言われ、「伸六」となった』とある。
「運座」俳諧の一座で、連衆(れんじゅう)一同が一定の題について句を作り、互選・選評する会。文政年間(一八一八年~一八三〇年)に始まり、天保年間(一八三〇年~一八四四年)頃から流行したが、その後途絶え、明治になって正岡子規が再興、日本派俳人の定式となった。]
大正七(一九一八)年一月二十二日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・書留印・消印二十四日・一月廿二日 橫須賀汐入五八〇 芥川龍之介
手紙見た 久米はうつちやつて置くがいゝ
僕の結婚はいづれ通知する 公務の關係と家事の關係で日どりはまだはつきりしない 大體きまつてゐるがまぎわへ來て變るかも知れない とにかく來月である事は事實だ 但これも久米始め誰にも公表してない 僕の細君と學校との關係上結婚の完る[やぶちゃん注:「をはる」か。]前に公にしたくないからだ
伺しろくだらない用が多くつてうるさくつて仕方がない その中で小說を書くんだからやり切れないよ こいつ一つ書いちまへばあとは書いても書かなくつてもいゝんだと思つてそれを樂しみに書いてゐる
久米には實際こまつたものだと思ふよ この頃あいつの創作上の問題に關係してしみじみさう思つた 結局匙をなげるのかなとも思ふ とにかく惡い所を愈惡く出して來た事は確だ もう何と云つても仕方がない 以上
松岡讓樣 芥川龍之介
二伸 金をうけとつてくれ この中へ封入したから
[やぶちゃん注:芥川龍之介が親しい友人にさえ結婚式の日取りをぎりぎりまではっきりさせなかった大きな理由は、夏目筆子と松岡譲及び久米正雄のぐちゃぐちゃしたゴシップを勘案(というか、嫌気がさして)してのことと思われる。特に親友久米のことを慮っていたようである。実際には二月二日日曜日の結婚式の後に田端の天然自笑軒で開かれた披露宴には菊池寛・江口渙・池崎忠孝に久米正雄が出席している。
「金をうけとつてくれ」前年の十二月十四日の松岡宛書簡に出た謎の「グレエフエ」の代金か。]
大正七(一九一八)年一月二十三日・横須賀発信(推定)・塚本文宛
だんだん二月二日が近づいて來ます 來方が遲いやうな氣も早いやうな氣もします もう正味二週間だと思ふと驚かずにはゐられません 文ちやんはどんな氣がします
僕は當日の事をいろいろ想像してゐます さうして 少し不安な氣もしてゐます 何だかまだ身仕度も出來ないうちに眞劍勝負の場所へひつぱり出されたやうな氣がしない事もありません しかしそれよりも嬉しい氣がします
文ちやんは御婚禮の荷物と一しよに忘れずに持つて來なければならないものがあります それは僕の手紙です 僕も文ちやんの手紙を一束にして持つてゐます あれを二つ一しよにして 何かに入れて 何時までも二人で大事にして置きませう だから忘れずに持つてゐらつしやい
何だかこれを書いてゐるのが間だるつこいやうな氣がし出しました 早く文ちやんの顏が見たい 早く文ちやんの手をとりたい さう思ふと二週間が眼に見えない岩の壁のやうな氣がします
今これを書きながら 小さな聲で「文ちやん」と云つて見ました 學校の敎官室で大ぜい外の先生がいるのです
ん 小さな聲だからわかりません それから又小さな聲で「文子」と云つて見ました 文ちやんを貰つたら さう云つて呼ばうと思つてゐるのです 今度も誰にも聞えません 隣のワイティングと云ふ米國人なぞは本をよみなが居睡をしてゐます さうしたら急にもつと大きな聲で文ちやんの名を呼んで見たくなりました 尤も見たくなつた丈で實際は呼ばないから大丈夫です 安心してゐらつしやい
唯すにも文ちやんの顏が見たい氣がします ちよいとでいゝから見たい氣がします それでそれが出來ないからいやになつてしまひます
當日品川から田端まで車で來るのは大へんですねずゐぶん長い譯でせう 尤も車の外に仕方がありません 自働車は動阪から先へ來られないから。僕なら途中の車の中で居睡りをしちまひさうです。自笑軒へ行つてからはずゐぶん極(きま)りが惡るさうで これには少し閉口してゐます 文ちやんは平氣ですか しかし一生に一度だから極りの惡い位は我慢したければなりませんね 兎に角それが皆二週間たつと來るのです 當日お天氣がいゝといゝですね 何だかいろんな事が氣になります
暇があつたら返事を書いて下さい 頓首
一月廿三日 芥川龍之介
塚 本 文 子 樣
二伸 學校へはまだ行つてゐるの?
[やぶちゃん注:婚礼時点では、塚本文はまだ満十七歳であった(誕生日は七月四日)。]
大正七(一九一八)年二月一日・東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣・二月一日 龍(葉書)
おたづねに從ひ御返事する
僕は明日結婚する 細君は當分うちに置いて僕だけ橫須賀で下宿ずまひをするつもり
鎌倉にはまだ適當な借家が見つからない
とにかく貧乏で悲觀してゐる
これが僕の書いた唯一の結婚通知狀だ この後も書かないだらうと思ふ 頓首
(二伸 約束上成瀨へもよろしくしらせてくれ給へ)
大正七(一九一八)年二月十三日・横須賀発信・薄田淳介宛
拜復 朶雲奉誦、問題の性質上學校の首席敎官とも一寸相談して見ましたが大體差支へあるまいといふ事ですから條件第一で社友にして下さい齟齬するといけないから念の爲その條件を下へ書きます
一、雜誌に小說を發表する事は自由の事
二、新聞へは大每(東日)外一切執筆しない事
三、右二、を大每(東日)紙上で發表して差女へない事但その文中「公務の餘暇なる」字を入れる事(勿論社友と云ふ事でなく執筆を新聞では大每に限ると云ふ事を發表するのです)
四、報酬月額五十圓
五、小說の原稿料は從前通り
これでよかつたらその旨田端四三五私宛返事して下さいいけない場合も同樣田端宛御一報願ひます 又目下讀賣の依賴で七枚ばかりの小品を一つ同社の爲に書きましたがこれは契約前のものとお見なし下さい多分今度の日曜附錄にのる筈です小說は私の結婚でちよいと中斷されましたもう四五日待つて下さい早速送ります 以上當用のみ末ながら色々御盡力の御禮を申上げます 頓首
二月十三日 芥川龍之介
薄田淳介樣
[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、カットしたが、一月三十一日附の薄田書簡で、社友への誘い(イコール、専従作家としての出発の可能性を示唆するものである)を受け、許諾しており、『日付は不明だが、この日以前にも、薄田上京の折に』社友扱いについて『依頼していた』とあり、この書簡について、『海軍機関学校から辞任の内諾を受けたため』に書かれたものとする。但し、これは辞任への布石であって、実際の毎日新聞社社員(出勤義務無し)の内定と機関学校辞任は翌大正八年の二月下旬から三月末日(三十一日に正式に退職)であった。
「朶雲奉誦」(だうんはうじゆ)の「朶雲」は唐の軍長官であった韋陟(いちょく) は五色に彩られた書簡箋を常用し、本文は侍妾に書かせ、署名だけを自分でして、自ら「陟の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ」と言ったという「唐書」「韋陟伝」の故事から、他人を敬って、その手紙をいう語。従ってこの四字熟語は返信にのみ用いる。
「七枚ばかりの小品」「南瓜」(リンク先は「青空文庫」(新字旧仮名)。大正七年二月二十四日附『讀賣新聞』発表の一人称(対話者はいるが、出てこない)の語り物。芥川龍之介の作品では珍しいものである。]
大正七(一九一八)年二月十五日・井川恭宛(封筒欠)
御長男の生まれたの祝す 御母子の健康を祈りながら
春寒く鶴を夢みて產みにけむ
二月十五日 芥川龍之介
井 川 恭 樣
仝 雅 子 樣
大正七(一九一八)年三月十一日・京都市外下鴨松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣・三月十一日 田端四三五 芥川龍之介
拜啓
御祝の品難有う 今日東京へ歸つて拜見した
うちはやつと見つかつたが引越すのは多分今月廿日頃になるだらうと思ふ 鎌倉でも亂橋と停車場との中間にある寂しい通りだ 間數(まかづ[やぶちゃん注:ママ。])は八疊二間 六疊一間 四疊二間 湯殿 臺所と云ふのだから少し廣すぎる が蓮池があつて芭蕉があつて一寸周圍は風流だ もし東京へ來る序ででもあつたら寄つてくれ給へ 番地その他はまだ僕も知らない いづれ引越しの時通知する
例の通り薄給の身だからこれからも財政は少し辛(つら)いかも知れないと思つてゐる 兎に角人間は二十五を越すと生活を間題にするやうになると云ふよりは物質の力を意識し出すやうになるのだ だから金も欲しいが 欲しがつてもとれさうもないから別に儲ける算段もしないでゐる
學校の方はいゝ加減にしてゐるから本をよむ暇は大分ある この頃ハムレツトを讀んで大に感心した その前にはメジユア フオアメジユアを讀んでやつぱり感心した 僕の學校は一體クラシツクスに事を缺かない丈が便利だ バイロンのケインなんぞは初版がある 古ぼけた本をよんでゐるのは甚いゝ その代り沙翁のあとで獨譯のハムスンを讀んだから妙な氣がした 新しいものもちよいちよい瞥見してゐる あんまり面白いものも出なさうだね
その中に(四月頃)出張で又京都へゆくかも知れない 谷崎潤一郞君が近々京都へ移住するさうだ さうして平安朝小說を書くさうだ 僕は今度はゆつくり寺めぐりがしたいと思つてゐる
あとは後便にゆづる
末ながら雅子樣によろしく
別封は前に書いたが出さずにしまつたものだ 以上
三月十一日 龍
井 川 恭 樣
[やぶちゃん注:「御祝の品」芥川龍之介と文の結婚への贈答品。
「亂橋」「みだればし」と読み、鎌倉名数の一つである「鎌倉十橋」の一つ。材木座の日蓮宗妙長寺の門前から少し海岸寄りにある橋(グーグル・マップ・データ)であったが、道路上はほぼ暗渠化している(但し、上流部には小流が確認出来、現在は欄干様の後代のそれが上下流の部分に配されてあり、碑もある。以上は孰れもストリートビュー画像)。芥川が、それほど知られていない、この橋名を出しているのは、彼の尊敬する泉鏡花の初期作品「星あかり」がこの妙長寺や乱橋をロケーションとしているからに違いない。
「メジュア フオアメジュア」シェークスピアの戯曲「尺には尺を」(Measure for Measure :一六〇四年初演)。シノプシスは当該ウィキを見られたい。前注した「南瓜」にもシェークスピアへの言及が出現する。
「クラシツクス」classics。ここは西洋の古典作品の意。
「バイロンのケイン」イングランドの詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron 一七八八年~ 一八二四年)の戯曲「カイン」(Cain )は、一八二一年出版された、所謂、レーゼドラマ(Lesedrama:上演を目的とせず、読まれることを目的に書かれた、脚本形式の文学作品)の代表として知られる。旧約聖書のカインとアベルの物語をカインの視点から描いたもの。
「ハムスン」ノルウェーの小説家クヌート・ハムスン(Knut Hamsun 一八五九年~一九五二年)。一九二〇年に一九一七年作の田園生活を讃美した小説「土の恵み」(Markens Grøde :ドイツ語訳 Segen der Erde :英訳 Growth of the Soil )でノーベル文学賞を受賞して世界的名声を得たが、侵攻してきたナチスを支持し続けたため、戦後、名誉失墜した。この時、龍之介が読んだドイツ語訳の作品は不明だが、「土の恵み」かも知れない。
「後便」少なくとも、底本の岩波旧全集には後便らしきものはない。次の恒藤恭宛は八月六日附まで、ない。]
大正七(一九一八)年三月十三日・横須賀発信・菅忠雄宛(葉書)
うちを御知らせ下さいまして難有うございます が、松岡先生のお出でになつたと云ふ家にもうとりきめてしまひましたから仕方がありませんあすこは井戶水を樋で引き便所も二つ建てましてくれるさうです 來週中にはひきこしますからさうしたらお遊びにお出で下さい先生によろしく 頓首
[やぶちゃん注:恩師とその息子にさんざん探させておいて、これだ。新婚の新居だから拘ったのは判るが、芥川龍之介のこういうさらっと言い過ごすところは、私はちょっと厭な感じだ。菅父子もちょっと可哀そうだ。
「松岡先生」不詳。]
大正七(一九一八)年三月三十一日・田端発信・岡榮一郞宛(葉書)
左記へ移轉致候
四月一日
神奈川縣鎌倉町大町字辻 小山別邸内
芥川龍之介
二伸君の宿所を忘れたまゝだから德田さんの御
厄介になります鎌倉へ遊びに來ませんか女房持
になつたつてさう見限るものぢやありません
[やぶちゃん注:「二伸」が長く、ブラウザ上、上手くないので、底本に合わせて適切な箇所で改行した。この数日前の三月二十九日、芥川龍之介は鎌倉に転居した。宮坂年譜によれば、『当初は伯母フキも同居したが、翌月中旬には田端に帰る。フキは、以後も時々鎌倉を訪れた』とある。場所は現在の鎌倉市材木座一丁目の元八幡(鶴岡八幡宮の元宮である由比若宮)の南東直近のこの中央附近である(グーグル・マップ・データ)。既に述べた通り、私の父方の実家は北西二百メートル余りの直近にある。この「辻」というのは、鎌倉時代にここに「車大路」と「小町大路」との辻があったことに由来する。横須賀線を渡った北直近に「辻の薬師」がある。私の「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 教恩寺/長善寺/亂橋/材木座」の「長善寺」(この雑誌発刊時には横須賀線敷設のために廃寺となっているので、この項立てはおかしい)の項を見られたい。
「岡榮一郞」(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は劇作家。石川県生まれ。東帝大英文科卒。芥川の一年先輩。大正二(一九一三)年に漱石山房に出入りし、木曜会を通じて芥川龍之介や久米正雄との交友も始まり、大正五年の漱石の死去に際しては、芥川らとともに葬儀の受付を担当している。大正六年頃から芥川との書簡の往復が増加し、それと共に「我鬼窟」の常連となった。劇作は芥川の勧めによるとされる。後の大正十四年には芥川の紹介で芥川の同級生野口真造の姪綾子と結婚し、芥川は夫婦で初めて媒酌人を務めたが、この結婚は不調で(姑との関係悪化)、翌年十二月に離婚した。芥川はこのことでかなり神経を悩ますこととなった。
「德田さん」作家徳田秋声。彼は岡の叔父(筑摩全集類聚版脚注に拠る。「岡栄一郎」のウィキでは『遠縁』とする。叔父は遠縁ではないから、或いは叔父というのは誤りかも知れぬ)であった。]