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2021/06/15

芥川龍之介書簡抄82 / 大正六(一九一七)年書簡より(十四) 塚本文宛

 

大正六(一九一七)年十月三十日・横須賀発信・塚本文宛

 

手紙を難有う 返事を書かなかつたのは この土日月の三日のうちに高輪へ上るつもりでゐたからです それが又行かれなくなつてしまひました そこで早速これを書きます

土曜の午後東京へかへるとまづ時事新報の友だちをたづねて用をすませそれから神田へ行つて賴んで置いた本を本屋で買つて夜七時頃うちへ歸りました すると客が殆同時に來て 俳句の話を遲くまで邦聽させられました 日曜日は朝まだ飯を食つてゐるうちに 上野山淸貢君(素木しづと云ふ女の小說家がゐます その人の御亭主です)が久米の紹介狀を持つてやつて來て 油繪を買つてくれと云ふのです 上野山君は肺病だしその繪にもバクテリアがくつついてゐさうで 難有くはないのですが 事情が如何にも悲慘なので とうとう一枚買ふ約束をしました(上野山君の事はあとで書きます)それが歸ると一時間たたない中に谷崎潤一郞君が赤いチョッキに黑の背廣を着てやつて來ました さうしてゆつくり尻を据ゑて盛に繪の話や小說の話をしました 一しよに飯を食つて それからお八つを食べて歸つたのですからちよいと六時間ばかりゐた譯です それから今度は僕の方が外へ出る支度をして本鄕の畔柳さんの所へ學校の用と私用とを兼ねて行きました そこに六時位までゐてすぐに芝へ行きました 丁度弟が旅行から歸つた所なので色々話をしてゐる中に十時頃になりましたから 泊る事にしました 月曜の朝は午前十時頃から本鄕の後藤末雄君のうちで帝國文學會の會合があるので 僕も委員とか何とかになつてゐますから 朝早く芝を出て後藤君の所へ行きました そこで晝飯を御馳走になつてゐると 遲れて來た江口渙君が僕と話をしたいと云ふのですが 僕には江口君の所へ行つてゐる時間も僕の所へ來て貰ふ時間もないので「ぢや步きながら話しませう」と云つて本鄕から田端まで步きながら いろんな事を聞いたり話したりしました それからうちへ歸つて一時間ばかり晝寐をして湯にはいるともう彼是五時です だから又橫須賀へ歸らなければなりません そこで飯を食つて洋服に着換へて大急ぎで新橋へかけつけました

 僕の三日間はこんな風にして慌しく立つてしまひました 又何時もこんな風に慌しく立つてしまふのです が、來週の三日のうちには上るつもりです(多分月曜日の午後から)さうしないと僕もさびしいから

寫眞ありがたう 圓い方がよくとれたと思ひましたから あれを貰ひました ああ云ふ形をしてああ云ふ顏をした西洋の畫があります 誰の何と云ふ畫だか覺えてゐないが 伊太利か何かのルネッサンス頃の畫です 男でも何でもよろしい 私はあれで結構です 五十江さんもあの圓い方のがよくとれてゐますね あの人の顏は昔のお雛樣に似てゐます

兄さんがこの間滿州から匪賊の首を斬る所の畫はがきをくれました 斬つてしまつた所です 滿州は野蠻ですね。あんな野蠻な所を旅行してかへつて來て文ちやんに叱られては可哀さうです 寫眞をとつてかくしてゐる方が惡いのだから 叱るのはおよしなさい 僕もそのうちにうつすつもりです が、無精だから何時になるかわかりません

さうさう上野山君の事を書くのでしたね 上野山君と素木さんとは兩方とも肺が惡くつて結婚したので猶惡くなつたのださうです 子供が二人ばかりあつて二人共やつぱり同じ病氣です 素木さんは結核性の何かで足を一本切りましたから 一本足です それで細君の小說も 御亭主の畫もうれないものですから暮しはひどく苦しいらしいのです 何でも茅ケ崎に家を持つてゐた時には家賃が滯つて 二人別々に遊びに出るやうなふりをして逃げて來たさうです ですから勿論夜具ふとんから家財は一切向うへとられてしまつたのです 上野山君は畫かきをやめて印刷所の職工になつて 月々二十圓づつとらうとしたさうですが それも口がなくてなれないらしいのです ああなるとたまりませんね それでも上野山君は非常に素木さんを愛してゐるやうです 或は寧 崇拜してゐるやうです 大分同情しました

それにしても僕たちの生活は幸福にしたいと思ひます うちはやつぱり鎌倉にあればいいと思つてゐます どうせ小鳥の巢みたいなものだから小さな家でよろしい 日あたりがよくつて 風さへ通ればそれで結構です さうしたらほんとうに落着けるでせう それが樂しみです

時々不良の女みたいな女流作家や作家志望者に遇ふとしみじみ文ちやんがあんなでなくつてよかつたと思ひます 作家にはああ云ふ種類の女と結婚してゐる人が大ぜいあります 僕には氣が知れません 文ちやんは何時までも今のやうでゐて下さい さうすると そのおかげで僕も餘程高等になれます

これでやめます 僕を思ひ出して下さい

    十月三十日      芥川龍之介

   塚 本 文 子 樣

 

[やぶちゃん注:「この土日月の三日」カレンダーを見ると、大正六年十月三十日は火曜日で、その直前の二十七・二十八・二十九日を指していることが判る。

「時事新報の友だち」菊池寛。彼は大正五(一九一六)年七月に京都帝大文科大学文学部を卒業(在学中は同大教授となっていた上田敏に師事した。卒業論文は「英國及愛蘭土の近代劇」)後、上京、成瀬正一の父(「十五銀行」頭取)の縁故で『時事新報』社会部記者となっていた。既に見た通り、この大正六年に高松藩旧藩士奥村家出身の奥村包子(かねこ)と結婚していた。この二年後の大正八年、『中央公論』に「恩讐の彼方に」を発表し、好評を得、執筆活動に専念するために『時事新報』を退社している。

「上野山淸貢」(きよつぐ 明治二二(一八八九)年~昭和三五(一九六〇)年:芥川龍之介より三歳年上)は洋画家。北海道札幌郡江別村(現在の江別市)生まれ。北海道師範学校図画専科(現在の国立北海道教育大学)修了。龍之介は今にも喀血して倒れそうな悲惨な様子に描いているが、彼は七十で老衰で亡くなっている。

「素木しづ」(しらきしづ 明治二八(一八九五)年~大正七(一九一八)年一月二十九日)は小説家。札幌生まれ。昆虫学者素木得一の妹。庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)卒業後、結核性関節炎が悪化し、右足を切断。大正二(一九一三)年、小学校から同窓生だった森田たま(後に作家・随筆家・政治家となった)に数日遅れて森田草平門下に入り、同年、処女作「松葉杖をつく女」を、翌年「三十三の死」を発表して、新進女流作家としての地位を築く。この二年前の大正四年に上野山清貢と結婚し(婚姻届を出したのは二年後のこの大正六年であった)、年末に子供をもうけた。しかし、この手紙の書かれた僅か三ヶ月後、肺結核のために伝染病研究所で亡くなっている。満二十二の夭折であった。

「畔柳さん」英語学者で第一高等学校教授であった畔柳芥舟。既出既注

「弟」新原得二。当時、満十八。

「後藤末雄」既出既注

「帝國文學會」筑摩全集類聚版脚注に、『雑誌「帝国文学」』(大正四年十一月に芥川龍之介の「羅生門」が発表された雑誌)『の編集会議。帝国文学は文科学術雑誌で明治二十八』(一八九五)『年一月創刊、大正九年一月終刊。大日本図書発行。東大出身者および学生の研究発表機関』とある。

「男でも何でもよろしい」その写真の文を誰かが見て、「男みようだ」と言ったのを、龍之介への手紙に文が書いたのであろう。

「五十江さん」山本喜誉司の妻と思わる五十枝の誤記であろう。

「兄さん」文の叔父で龍之介の幼馴染みの親友山本喜誉司。既出既注。

「匪賊」(ひぞく)は本来は「集団を作って掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す語であるが、日本では特に近代中国に於ける非正規の武装集団(ゲリラ)を卑称する言葉として用いられた。現代の中国人はこの語を日本人が使用する際には、一種の嫌悪的なアレルギを持っているので、注意されたい。

「うちはやつぱり鎌倉にあればいいと思つてゐます」龍之介と文の新婚生活が、一時期、鎌倉でなされたことは既に書いた。龍之介は晩年、その鎌倉での蜜月を、最も幸せだった、と述懐している。]

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