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2021/06/17

芥川龍之介書簡抄85 / 大正六(一九一七)年書簡より(十七) 七通

 

大正六(一九一七)年十二月一日・東京市下谷區櫻木町一七 池崎忠孝樣・十二月一日 龍(葉書)

 

   Que m’importe que tu sois sage

   Sois belle et sois triste.

           C. Baudelaie

   徂く春の人の名問へばぽん太とぞ

     その人の舞へるに

   行けや春とうと入れたる足拍子

     その人のわが上を問へるに

   暮るるらむ春はさびしき法師にも

   われとわが睫毛見てあり暮るる春

     一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を錄す

 

[やぶちゃん注:これは既にサイトの「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)」で電子化しているが、二〇〇六年のユニコードのない時代の初期作成で、HTML横書版・HTML縦書版・PDF縦書版という膨大な量(五種×3)であるため、表記に不満があっても、致命的でない限り、なかなか全体の大修正が出来ないので、困っている(ビルダー上で追加を繰り返したものであって、完本としての文章データの元版は元々存在しない。私は今現在、最も芥川龍之介の俳句を、誰よりも漏らさず――二〇一〇年岩波文庫刊加藤郁乎編「芥川竜之介俳句集」よりも、である――収録しているものと自負している)。今回、少しHTML版の上記書簡は少し補正したが、ここでも改めて載せることにした。

冒頭のフランス語はシャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire 一八二一年~一八六七年)が一八六一年五月に発表した「悲しきマドリガル(恋歌)」( Madrigal triste )――現在は名詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal :一八五七年初版)の続編・補遺に含まれる一篇の一節、第一スタンザの冒頭の二行(二行目には三行目へのジョイントがあるので正確には)である。但し、正確に引くなら、

 Que m'importe que tu sois sage?

 Sois belle! Et sois triste! Les pleurs

である(Les pleurs は全体の韻と意味の流れから、三行目へのジョイントとして前送りされたものである)。意味は、

 どんなにお前が貞淑であろうと、それが何になる?

 ただ美しくあれ! 悲しくあれ! 涙は

といった意味である(「貞淑であろうと」は私の感覚で、他に「大人しくあろうと」「賢かろうと」等の訳が当てられてある)。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の旧全集「未定詩稿」の最後に附した私の注で原詩総てを示してあるので参照されたい。実は、芥川龍之介の自死の後、彼の未定稿の定型詩篇未定稿が夥しく発見され、それが後友人佐藤春夫によって整理され、芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」(初出は昭和六(一九三一)年九月から翌年一月までに発行された雑誌『古東多万』(ことたま:やぽんな書房・佐藤春夫編)第一年第一号から第三号に掲載したものを、佐藤自身がさらに整理し、二年後の昭和八年三月二十日に岩波書店より芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」として刊行されている。龍之介はこのボードレールの詩が、既にこの頃から大好きで、遂にあの世にまで、それを口ずさみながら、去って行ったのであった。

「徂く春」(ゆくはる)と読み、「往く春」と同義。季節の移ろいとともに、さすがその面影に射している芸妓「ぽん太」(明治二一(一八八〇)年~大正一四(一九二五)年:この当時なら満三十七。但し、これは想像の句であると私は今は踏んでいる)の老いをも示唆する。一九八八年近代文藝社刊の中田雅敏「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」で中田氏は「ぽん太」について『明治二十四年』(一八九一)『新橋玉の家から雛妓おしゃくとして出、早くから嬌名を馳せていたが、一時落籍され』、『座敷に出なかった。再び高座に上ったのは大正七年頃』(☜)『という。いつも洗い髪のようにさっぱりした髪型でほんのりと色気をただよわせていたという』とある。彼女は新橋「玉の家」の名妓初代「ぽん太」のことで、本名を鹿島ゑ津子といった。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に「貞女ぽんた」と称されたという。ウィキの「鹿島ゑ津子」に詳しく、彼女の写真もある。森鷗外の「百物語」は、この御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。恐らく、芥川のこの句は、尊崇した歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に所収する、

  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび

辺りをインスパイアした仮想句(実際に初代「ぽん太」の舞を見たのではない)と考えられる。私は実はずっと、芥川龍之介が実際に「ぽん太」の舞いを見たものと解釈していたが、中田氏の引用と齟齬すること、そもそもがこの時の芥川龍之介が新橋辺りで芸妓を揚げてというシチュエーションを考えにくいことから仮想とした。容易に仮想出来るほどに、文人連中には、この「ぽん太」は超有名人であったのである。

「行けや春」の句については、田中氏は作家福原麟太郎の次の文を引用されておられる。『北州は踊の方ではむつかしいものになっているようだが』、『ぽん太は何の苦もなくさらっと踊ってみせた。それが実に美しかった。浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない』(出典未詳)。ここに出る「北州」は「ほくしゅう」と読み、清元の曲名である。「北州千載歲壽」で「ほくしゅうせんざいのことぶき」と読む。蜀山人の作詞で、「北州」とは江戸の北、吉原を指す。遊廓吉原の年中行事と風物を詠んだ佳品の名曲である。「ぽん太」は事実、踊りの名手であったとされる。これもまた、仮想句とせざを得ない。

「暮るるらむ」の句は、上記本で中田氏は、夏目家への出入りも禁じられて、寂しく郷里の福島へ帰った久米正雄(明治二四(一八九一)年~昭和二七(一九五二)年:彼の生国は長野県上田市であったが、父由太郎(江戸出身)は町立上田尋常高等小学校(現在の上田市立清明小学校)の校長として上田に赴任し、そこで正雄が生まれた。しかし、父は明治三一(一八九八)年(正雄七歳)に小学校で起きた火災によって明治天皇の御真影を焼いてしまった責任を負って割腹自殺した。このため、正雄は母幸子の故郷福島県安積郡桑野村に移って育った。因みに母方の祖父立岩一郎は安積原野開拓に尽力した開拓出張所長で、後に桑野村の村長を務めた。以上はウィキの「久米正雄に拠った)を気づかっての句と解しておられる。

「校書」は芸妓に同じ。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月六日・年次推定・久米正雄宛(葉書)

 

拜啓 八目午後二時半と三時との間に銀座カツフェパウリスタにて落合ひたし返事待つ大至急 以上

 

[やぶちゃん注:前の松岡宛が十一月一日附、十一月九日には久米が横須賀を訪れ、泊まっている(思うに、後の十二月十二日の塚本文宛書簡からは、ここで夏目筆子との破談が久米自身から語られたように思われる)。この二日後の十二月八日(土曜)には、神楽坂「末よし」で行われた夏目漱石の一周忌の会があり、龍之介は勿論、松岡や久米を出席しており、翌日の午前十時、漱石の祥月命日に茗荷谷至道庵で行われた一周忌法要(導師釈宗演)に出て、午後には雑司ヶ谷に墓参している。ところが、この日の『東京日日新聞』に、実は既に破局している久米正雄と夏目筆子のことがゴシップとして書かれてしまう。この会合指示だけの書面の字背には、そうした複雑して世間の噂に振り回されている彼ら三人(しかしその原因はその三人の中にこそ責任はそれぞれに気持ち悪い感じで重くある)に対して、自分も半ば巻き込まれた事件でもあり、友達たちを何とかしようとする龍之介の動きが見える。

「岩波版新全集」の「彼 第二」(私の偏愛する作品。リンク先は私の注附きのサイト版)で三島譲氏は明治四四(一九一一『年一二月に京橋区南鍋町二丁目(現、中央区西銀座六丁目。グーグル・マップ・データ)開業、他のカッフェと異なって女給を置かず、直輸入のブラジルコーヒーを飲ませる店として名高く、文士の常連も多かった。店内には自動オルガンを備え、五銭の白銅貨を投入すると自動的に演奏した。「グラノフォン」(gramophone:英語)は蓄音機の商標名であるが、この自動オルガンを指していると思われる』とあるが、銀座直営店は大正二(一九一三)年開店らしく、現在、場所を変えて同じ銀座に現存する。同社の公式サイトの「作品の中のパウリスタ」に「彼 第二」が引用され、『カフェーパウリスタの真前が時事新報社でした。時事の主幹は文壇の大御所と言われた菊池寛です。その菊池に原稿をとどけるために芥川龍之介はパウリスタを待ち合せの場として利用しました。龍之介の小説の中によくパウリスタが登場するのはこの理由です』とある。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月八日・田端発信・薄田淳介宛

 

拜啓 新年號を二つ書くので大分くたびれますからなる可く〆切るのはおそくして下さい出來るなら來年へ少しはみ出したいのですが、題は「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れませんが、なる可く暇を澤山下さい原稿料よりも書く暇の長い方が難有いのですだから外の人の原稿をとつて私のがおくれてもいいやうにゆとりをつけて置いて下さいその點をよろしく願ひます 以上

    十二月八日      芥川龍之介

   薄 田 樣 侍史

 

[やぶちゃん注:「薄田淳介」(すすきだじゅんすけ 明治一〇(一八七七)年~昭和二〇(一九四五)年十月九日)は詩人・随筆家として知られる薄田泣菫の本名。岡山県浅口郡大江連島村(現在の倉敷市連島町連島字大江)生まれ。岡山県尋常中学校(現在の県立岡山朝日高校)中退後、明治二七(一八九四)年上京し、上野書籍館(帝国図書館の別称)に通いながら、漢学塾二松學舍(現在の二松學舍大学)で学んだ。明治三十年に帰郷し、幾つかの詩を作って、『新著月刊』に泣菫の雅号を用いて投稿、後藤宙外・島村抱月らに絶賛され、掲載された。翌年早くも第一詩集「暮笛集」を刊行、雑誌『小天地』を編集しながら、『明星』などに詩を載せ、その後も詩集「ゆく春」・「白羊宮」など、古語や漢語を多用した詩風で、蒲原有明とともに泣菫・有明時代を築き、島崎藤村・土井晩翠以後の明治後期の詩壇を背負って立った詩人であった。明治の終わり頃から、一時、小説に興味を移したものの、結局、随筆に転じ、詩作を離れた。国民新聞社や帝国新聞社に勤めた後、大阪毎日新聞社に入り、大正四(一九一五)年、『大阪毎日新聞』に「茶話」の連載開始した。参照したウィキの「薄田泣菫」によれば、『これは「茶を飲みながら喋る気楽な世間話」と言う意味で、古今東西の噂話、失敗談、面白おかしい話を幅広く紹介して』好評を博した。ここでは芥川龍之介担当の文芸部記者としての原稿催促への返書であるが、この二年後の大正八(一九一九)年には、大阪毎日新聞社学芸部部長に就任し、龍之介は自分から、特別社員として迎えて欲しい旨を彼に頼み、それを受けて招聘、彼に多くの文章発表の場所を与えた人物でもあった。

「新年號を二つ書く」「首が落ちた話」(同日『新潮』。脱稿は大正六年十二月四日)と「西鄕隆盛――赤木桁平に與ふ――」(一月一日『新小説』発表。大正六年十二月十五日に既に脱稿している)。嘘とは言わないが、「二つ」というのは弁解ためにする語として使っているわけである。

『「開化の殺人」としておいて下さい或は「踏繪」と云ふのになるかも知れません』「開化の殺人」は十一月下旬に書き始めているが、結局、『大阪毎日新聞』には五月一日から二十二日まで(同社の系列誌『東京日日新聞』には五月二日から二十二日まで)で、かの名作「地獄變」が連載された。「開化の殺人」は大正七年七月の『中央公論』臨時増刊「秘密と開放号」に発表された。「踏繪」は題名と「開化の殺人」の内容からみて、「開化の殺人」の別題とは思われない。また、現在、同名の作品や未定稿も存在しない。事実、篠崎美生子氏の論文『「芥川」をつくったメディア―『大阪毎日新聞』の小説戦略―』PDF・『恵泉女学園大学紀要』第二十六号所収・二〇一四年二月発行)の中に、この大正六年末に『大阪毎日新聞』に掲載された広告記事「新春の本紙を飾る文藝的作品」(十二月二十九日夕刊と翌三十日夕刊の分割記事)では、芥川の「踏繪」が『その筆頭に』「『踏絵(長篇)芥川龍之介』」として『掲げられている』とあり(引用元にあるものを参考に、恣意的に漢字を正字化し、記号も変えた)、

   *

芥川氏の「踏繪」は囊日[やぶちゃん注:「なうじつ(のうじつ)」。先日。]本紙に掲載したる「戲作三昧」と同じく、題材を斯の作家が最も得意とせる旧幕時代に選びて精彩ある描寫の筆を揮ひたるもの、人物生動して肌斷たば血も迸るべし。

   *

とあって、所謂、芥川龍之介の切支丹物となるべき作品であったようである。惜しくも、書かれることなく、構想のみに終わったものと思われる。後は書簡の翌大正七年五月十五日の薄田宛の中で、『「踏繪」は中々出來ません元来春の季題だから初夏になつては駄目らしい』とちゃらかして、『傾城の蹠』(あなうら)『白き繪踏かな』の自作句を添えている。寛永五(一六二八)年から安政四(一八五七)年まで長崎奉行所では毎年正月、「踏み絵」を行うことが正月行事の一つであったことから、「絵踏」は春の季語とされている。

 

 

大正六(一九一七)年十二月十日・田端発信・久米正雄宛

 

君のことが日々に出てゐるのを見た(ボクの事も出てゐるが)あんまりいい氣なもんぢやない菅さんに敎へられて往來で新聞を買つてよんだんだが實際妙な氣がした××さんもあゝなると少し氣の毒だね

ボクは心臟の調子が惡いので一枚もかかずにしまつた肺の方は少しも掛念ない由大に安心した但喉は大分こはしてゐる煙草は當分のめない

何しろ世の中はでたらめなものだな

   木枯らしやどちへ吹かうと御意次第

    十二月十日          龍

   久 米 正 雄 樣

 

[やぶちゃん注:「君のことが日々に出てゐる」前の前の書簡の私の注参照。

「菅さん」菅虎雄。

「××さん」「筆子」であろう。この伏字は岩波の元版全集の編者による仕儀と思われる。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十一日・発信元不明・空谷先生 侍史・十二月一日 芥川龍之介

 

拜啓

漱石先生遺墨出來候間御眼にかけ候 ゆるゆる御覽下さる可く候 小生未風流地獄の業を脫せず廿日頃までは呻吟致す可くよろしく御同情願上候 頓首

    十二月十一日     我 鬼 生

   空 谷 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:発信元不明としたが、この日は水曜であるから、恐らくは横須賀発信である。海軍機関学校の年末休業は十二月二十日からで、年表上では二十日に田端に帰っている。

「空谷」芥川家と龍之介の主治医下島勲(いさをし(いさおし):龍之介検死担当者でもあった)。田端の芥川家の近くに住んでいた。

「我鬼生」の署名は、現存する資料の中で最も古い「我鬼」と記したものである。もともと俳号として考え、その後、盛んに署名したお気に入りの号で、実際、この十二月の上旬から使用し始めていたようである。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十二日・横須賀発信(推定)・塚本文宛

 

あたりません 文ちやんの手紙が來たのはボクが朝飯をたべてゐる時でした 貧弱なまづい朝飯です 飯を一時見合せて手紙をよみました

ごぶさをしたのはボクの方です この前の手紙に返事を書きませんでしたから。しかしそれは例の通り目のまはる程忙しかつたのですから かんにんして下さい

久米は可哀さうです 門下生が反對したばかりでなく××さんも久米がきらひになつてしまつたのですからね その位なら始から好意を持たなかつた方がいいのです 久米は今飯も食へない程悲觀してゐます 破談になつた時は橫須賀のボクの所まで來て、いろいろ泣き言を云ひました 實際あんな目にあつたらたまらないだらうと思ひます

早くいいお嫁さんを見つけてやりたいと思ひますが 中々でさ云ふ人がありません この間フランスのピエル・ロティと云ふ人の小說をよんだらアフリカヘ行つてゐるフランスの守備兵が、故鄕の許嫁が外の人に片づいてしまつたのに悲觀して、とうとう戰死してしまふ話がありました

シエクスピイアが“Frailty, the name is woman!”と云つたのは有名です 坪内さんはこれを「脆きものよ汝の名は女なり」と譯しました 女と云ふものの當てにならない事を云つたのです

××さんでも守備兵の許嫁でもオフェリアでも皆さうです だから文ちやんもお氣をつけなさい 明日にもボクがいやになる事だつてないとは云へません さうしたらどうでせう やつぱりボクも久米のやうに悲觀するでせうか

兄さん御夫婦はさぞ仲がいいでせう。一體兄さんのやうに生まれついた人が一番いい良人になれるのです しかし今に逆襲してやりませう(五十江さんの顏はもうすつかり覺えました)見せつける方法をいろいろ今から考へてお置きなさい

事によると久米が東京にゐなくなるので ボクもこれから寂しくなるやうな氣がします こないだ久米の所へ行つたら 机の上に××さんの寫顏がのつてゐました まだ忘れられないのでせう あとで聞いたら何でも手紙を一本に寫眞を二枚に瀨戶物の小さな人形を一つだけ××さんに貰つたのださうです さうしてそれを見せてくれました

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集編者により、ここに『[削除]』とある。]

試驗がすんだら暮のうちに遊びに來ませんか 一人でも來られるでせう かへりには送つてあげます

文ちやんの事を考るとうれしいやうなかなしいやうな氣がします さやうなら

    十二月十二日  龍 之 介

   文 子 樣 粧次

 

[やぶちゃん注:「あたりません 文ちやんの手紙が來たのはボクが朝飯をたべてゐる時でした」文が送った書簡に、この手紙を読むのはきっと機関学校からお帰りになってからのことでしょう、みたようなことを書いたのであろう。

「××さん」夏目筆子。この伏字も岩波の元版全集の編者による仕儀と思われる。私は一緒に並べられたオフェリアが可哀そうだと思うね。

「フランスのピエル・ロティと云ふ人の小說をよんだらアフリカヘ行つてゐるフランスの守備兵が、故鄕の許嫁が外の人に片づいてしまつたのに悲觀して、とうとう戰死してしまふ話がありました」ウィキの「ピエール・ロティ」にある、ピエール・ロティ(Pierre Loti 一八五〇年~一九二三年)が一八八一年に書いた、セネガルでの一兵士の物悲しい冒険の記録「アフリカ騎兵」(Le Roman d'un spahi :「スパイ(アルジェのフランス人騎兵隊の呼称)の物語」)と思われる。仏文の当該ウィキを参照されたい。

「シエクスピイアが“Frailty, the name is woman!”と云つた」Hamlet)一六〇一年頃に書かれたと推測されるシェイクスピア作の五幕の悲劇「ハムレット」の第一幕第二場の知られた台詞。当該ウィキによれば、『これは、ハムレットが』、『夫の死後』、『すぐに義理の弟であるクローディアスと再婚した母・ガートルードに対』して言い放った『批難の台詞である。日本語では』坪内逍遙などが『「弱き者よ、汝の名は女」と訳したものがよく知られている』が、『この訳文では弱き者とは』、『即ち』、『保護すべき対象を指し、レディーファーストの意と誤解をしばしば招くことがあり、坪内も後に「弱き者」を「脆(もろ)き者」と再翻訳している。なお、この台詞は当時の男性中心社会の中で、女性の貞操観念のなさ、社会通念への不明(当時のキリスト教社会では、義理の血縁との結婚は近親相姦となりタブーであった)などがどのように捉えられていたかを端的に表す言葉としても有名である』とある。

「兄さん」山本喜誉司。

「五十江さん」以前にも注したが、山本の妻の名であるが、「五十枝」の誤りか。どっちが正しいのか、迷ってくる。芥川龍之介は名前の記憶の思い込みが激しく、誤ったものを何度も後で繰り返す癖がある。]

 

 

大正六(一九一七)年十二月十四日・横須賀発信・松岡讓宛(葉書)

 

手紙みた十二月號にろくなものはないらしいボクの名を騙つて雄辯で金をとつた奴がゐる黑潮でかたらうとしたやつと同一人だ物騷で仕方がない戲作三昧は土曜にかへつたら送る休みは二十日からだ奧さんが菅さんへ來られると云つたが二十日か二十一日に來られると一しよに東京へかへれて甚都合がいいんだがなその旨奥さんに言上してくれボクは九日以來ノドをひどくこはして悲觀してゐる夜は完く出られない煙草も當分のめない新年の新小說へは西鄕隆盛と云ふへんてこなものを書いたから出たらよんでくれ新潮は「首を落す話」で失敬したどうもウハキをしてゐるやうな氣がしてくだらなくつていやだ來年はベンキヨウしたい僕は最近橫須賀の藝者に惚れられたよそれを小說に書かうかと思つたが天下に紅淚を流す人が多いからやめにした愈來年から鎌倉へ定住する東京へ來いとすすめてくれた先輩もあるが(グレエフエはいくらだつたいこんど拂ふ)

   湘南の梅花我詩を待つを如何せむ

 

[やぶちゃん注:「雄辯」雑誌名。講談社が大日本図書を発行元として明治四三(一九一〇)年二月創刊(昭和一六(一九四一)年終刊)した、現在の講談社の元となった雑誌である。

「黑潮」雑誌名。太陽通信社発行で大正五(一九一六)年十一月創刊。大正六年三月にはこの雑誌に「忠義」を、九月一日には「二つの手紙」を発表している。この偽物、たいしたタマだ。

「奥さん」夏目鏡子。

「紅淚」ここは「美しい女性の流す涙」の意の美称。

「愈來年から鎌倉へ定住する」この四日後の十二月十八日の同じ松岡宛書簡(推定横須賀発信)で、『十九日に東京へ歸らうと思ふ 鎌倉へは借家を見にゆくからその後出直してももいい』とある。これは塚本文との結婚の日程が固まったことを受けての愛の巢探しで、鎌倉に決定しており、実は菅虎雄とその長男忠雄にもまたしても(最初の鎌倉の下宿は菅虎雄の紹介)家探しを依頼しており、実際には彼らのおんぶにだっこだったようで、大正七年一月初旬には菅親子が探した借家候補が見つかっている(新全集宮坂年譜。以下も同じ)。二月二日土曜に塚本文と結婚後、二月二十六日までに鎌倉の新居が決まり、三月二十九日に転居している。

「グレエフエ」ドイツ人名で“Gräfe”か。但し、誰なのか、はたまた小説名なのか、不詳。識者の御教授を乞うものである。]

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