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2021/06/09

伽婢子卷之六 遊女宮木野

 

   ○遊女宮木野(みやぎの)

 

 宮木野は、駿河の國府中(ふちう)の旅屋(たびや)に隱れなき遊女也。眉目(みめ)かたち、うつくしく、手、よくかきて、哥の道に心をかけ、情の色、ふかゝりければ、近きあたりの人、これをしたひ、風流のともがら、ことごとく、これになれざるを、うらみとし、好事(かうじ)のもの、みな、これにちぎらざるを、恥とす。此故に、

「中古このかたには、たぐひなき遊女(ゆうぢよ)なり。」

とて、いにしへの虎御前(とらごぜん)になぞらへ、力壽(りきじゆ)にくらべて、たかき、いやしき、おなじ心に、もてはやしけり。

 八月十五夜、若き人々、此家に入り來て、月をもて、あそび、歌よみけるに、宮木野、かくぞ、いひける。

 眺むればそれとはなしに戀しきを

   くもらばくもれ秋の夜の月

 いく夜われおしあけがたの月影に

   それと定めぬ人にわかるゝ

此歌、

「まことに。我身にとりて、さもあらめ。」

と、一座のともがら、或は、笑ひ、或は、感じけり。

 其座にありける人の中に、藤井淸六といふ者あり。先祖は國司の家人〔けにん〕にて、京家〔きやうけ〕の者なりしが、此所に住みつきて、地下〔ぢげ〕にくだり、田地、あまた持ちて、冨み榮え、今その末(すゑ)に及ぶまで、府(こう)の間(あひた)には、「冨裕の人」といはれ、殊更、淸六は、風流を好み、情深き者也。父は、むなしくなり、母一人、あり。みづから、妻もなく、ひとりすみて、いとゞ物かなしき秋の月に嘯(うそふ)き、今宵(こよひ)しも、此座につらなり、宮木野が此歌を聞くに、見めかたちといひ、才智、かしこきに、めでゝ、旅やのあるじに、價(あたい)多く出して、宮木野を、こひうけて、妻とせり。

 藤井が母、是れを聞〔きき〕て、

「府中には、人にもさがらぬ家督(かとく)なれば、『如何ならん、名もある人の娘をも迎へて、我〔わが〕新婦(よめ)とも見ばや』とこそ思つるに、遊女を妻とせむは、これ、本意(ほい)なけれども、よしや、我子の見るべき面倒を、今は如何にいふとも、詮なし。早く、呼入れよ。」

とて、家に迎へとりて見るに、みめかたち、美しきのみならず、心ざま、優にやさしかりければ、母、限りなく喜び、

「たとひ、大名・高家(かうけ)の娘なり共、生れつき、人がましからずは、何にかせむ。この女は、如何なる人の末にも侍べれ、たぐひなき女の道、知れる人ぞや。我子の、まどひ、めでけるこそ、ことわりなれ。」

とて、世に、いとほしみ、かしづきけり。

 宮木野は、今は、ひたすら、姑(しうとめ)につかふること、我がまことの母の如く、孝行の道、更にたぐひすくなうぞ、行ひ、つとめける。

 京都に叔父あり。淸六が母のため、弟(おとゝ)也。頻りに、心地、煩ひしかば、死ぬべく覺えて、人をくだして、いひけるやう、

「淸六を、のぼせ給へ。いひおくべき事、侍り。」

といふに、母、かぎりなく悲しく思ひ、

「急ぎ上りて見よ。みづから、女の身なれば、飛立〔とびたつ〕ばかりに思へ共、そも、かなはず。和殿(わとの)は男なれば、何か苦しかるべき。その有樣、見屆けて給(たべ)。」

といふ。

 淸六、

「いかゞすべき。」

と案じわづらふ。

 宮木野、いふやう、

「老母の思ひ給ふところ、此たび、京に上らずば、ひとつには、みづからに心とゞまりて叔父の事を忘れたりといはん。ふたつには、母の心にそむく不孝の名を受け給はん。只、上り給へ。さりながら、老母、すでに年高く、病〔やまひ〕、多し。君、はるばるの都に行き給はゞ、昔の人のいひ置きし、『事をつとむる日は多く、親につかふるの日は少なし』とかや。西の山の端(は)に入〔いり〕かゝる月の如く、弱り給ふ母なれば、必ず、一足(〔いち〕あし)も早く、歸り給へ。」

とて、すでに門出の盃〔さかづき〕とりかはして、又、逢ふべき道ながら、わりなき中はしばしの別れも悲しく覺えて、宮木野、なみだをうかべて、

 うたてなどしばしばかりの旅の道

   わかるといへば悲しかるらむ

と詠じければ、淸六も、かくぞ口すさびける。

 つねよりは人も別れを慕ふかな

   これやかぎりの契りなるらむ

とて、淚にむせびければ、母、きゝて、

「あな、いまいまし。やがて歸るべき道を、是れまで名殘(なごり)ををしみける事よ。」

とて、出したてゝ、京にぞ、上(のぼ)せける。

 すでに都にのぼりしかば、叔父(をぢ)、ことの外に、いたはり、つゐに、はかなくなりぬ。子、ありけれども、いとけなく侍べりしかば、妻の一族(ぞく)に財寳(ざいほう)ことごと預(あづ)け、

「此子、よくそだて給へ。」

とて跡の事、とりまかなひ、それより、やがて、國にかへりくだらんとせし處に、諸國のうちみだれたちて、所々に關(せき)をすへ、往來の人を通路(つうろ)せさせず。あるひは、國ならび、鄕(がう)つゞき、たがひに出あふて、軍(いくさ)する事、每日に及べり。

 淸六も、心のまゝに道をも過ぎ得ず、旅やより、旅やにうつり、ここかしこ、せしほどに、一年あまりに、なりけり。

 もとより、通路、たやすからねば、たがひにたよりを絕へて、生死(いきしに)の事も、聞えず。

 

Miyagino1

 

[やぶちゃん注:以下、今回の挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」のそれを用いた。清六の母を看病する宮城野。手前の下女の傍にあるのは薬を煎ずるための風炉と薬罐。]

 

 さる程に、府中の母は、我が子の久しく歸らざるを、心もとなく、朝夕に戀ひ悲しみ、

「かゝるべしとだに知るならば、のぼすまじき事にて侍べりしを、悔(くや)しくも遣はして、生(いき)たりとも、死(しに)たりとも、聞ざる事こそ、悲しけれ。」

とて、只、泣きになきつゝ、重き物思ひのやまひとなり、床に臥して、日をかさぬ。

 宮木野、これに事(つか)へて、夜晝(よるひる)の別かちもなく、藥といへ共、みづから、まづ飮(のん)で後に參らせ、粥といへども、みづから、煮て進め、神佛に祈り、

「我が身を替りにして、姑(しうとめ)の病をいやし給へ。」

と祈りけれども、更にしるしなし。

 半年ばかりの後、今ははや、此世の賴みもなくなりければ、姑、すなはち、宮木野をよびて、

「我が子、すでに都に赴き、世のみだれに、道、せばくして、久しく便りなし。我、又、重き病に苦しむを、新婦(よめ)として、我に仕へ給ふ事、誠の子といふとも、如何でかくあらん。孝行なる事、世にたぐひなし。今は心に殘る事もなし。此恩を報ぜずして、命、むなしくなる也。和君、必ず、子を產み給はん。我は、孫をも見ずして、死なむ。其子、和君に孝行なる事、又、今、和君の、我に仕へて、こまやかなる如くなるべし。あなかしこ、天道物知る事あらば、此言葉、たがふべからず。」

とて、そのまゝ絕へ入りて、よみがへらず。

 宮木野、悲しみ深く、淚の落つる事、雨の如し。

 葬禮の事、取りまかなうて、七日々々のとふらひ、其の分限に過〔すぎ〕たる此物思ひに、髮、かじけ、はだへ、瘦せて、よその見るめも、あはれに覺えし。

 

Miyagino2

 

[やぶちゃん注:武田信玄の軍兵が宮城野らを凌辱せんと屋敷に押し入り、また強奪をするさまを描く。]

 

 永祿十一年、武田信玄、駿州に發向して、府(ふ)の城にとりかけ、民屋(みんおく)に火を放ちて、燒きたてければ、今川氏眞(うぢざね)は、落ちうせらる。

 武田方の軍兵(ぐんべう)、家々に亂れ入〔いり〕て、亂妨分捕(らんばうぶんどり)して、狼藉、いふばかりなし。

 宮木野が眉目(みめ)かたち美しかりければ、軍兵ども、捕(とり)ものにして、犯(おか)し汚(けが)さんとす。

 宮木野、奧深く逃げこもり、みづから、縊(くび)れて、死に侍べり。

 兵共、その貞節をあはれみ、家のうしろの柹の木の本に、埋(うつ)みけり。

 いくほどもなく、駿府(すんぷ)は武田の手にいりて、しづかになり、道、ひらけて、通路たやすく、海道の諸大將も和ぼくせし比〔ころ〕なれば、藤井淸六、やうやうにして、國にかへりければ、駿府のありさま、替りはて、我家〔わがや〕には、人も、なし。

 柱、傾(かたふ)き、軒、崩れ、草のみ、茂く、あれまさり、老母、宮木野は、いづち行〔ゆき〕けむとも、知る人、なし。

 門に出〔いで〕て見れば、年比〔としごろ〕めし使ひける男、出來(きた)れり。

 是れを、よびて尋ぬるに、

「老母、いたくわづらひ給ひけるを、宮木野、『我身に替らん』と、神佛に祈り、晝夜(ちうや)、付き添ふて看病せしに、其の甲斐なく、果て給ふ。其後〔そののち〕、武田信玄のために府中を追ひおとされ、今川氏眞公は、行方〔ゆきがた〕なし。宮木野は、『敵軍(てきぐん)の手に身をけがされじ』とて縊(くび)れ死(しに)給ふを、兵ども、其の貞節を感じて、後の柹の木(こ)もとに埋みし。」

と語るに、藤井、かなしさ、限りなく、血の淚を流し、なくなく、かばねを掘り起こして、見れば、宮木野が顏かたち、さながら、生きてあるが如く、肌(はだへ)の色、おとろへず。

 藤井は、もだえ。こがれ、絕へ入、絕へ入、歎け共、甲斐なし。

 それより、母の墓と、ひとつ所に葬りつゝ、墳(つか)に向ひて、花香〔けかう〕たむけて、口說(くどき)けるやう、

「君は、平生、才智、かしこく、心の、色、深し。人に替りて、身のおこなひ、よく、道を守れり。たとひ死すとも、世の常の人には、同じからず。されば、久しく、音づれの絕しも、我が咎(とが)ならず、心にまかせぬ浮世のわざ也。黃泉(よみぢ)の底までも、物知る事、あらば、一たび、我にまみえ給へ。」

とて、明〔あく〕れば、墓にゆき、暮(く)るれば、家に歎きて、二十日ばかりに及ぶ。

 

Miyagino3

 

[やぶちゃん注:清六の仕草は、宮城野の霊の来訪を、手を打って喜んだ瞬間を意味している。]

 

 月、くらく、星、あらはなる夜、藤井、ひとり、灯(ともしび)かゝげて、坐しければ、宮木野が姿は、影の如くにして、出來(〔いで〕きた)り、

「君が心に念願する所を感じて、司錄神(しろくじん)に、いとまを乞うて、現はれ來〔きた〕る。」

とて、始終(しじう)の事共、なくなく、物語して、すごすごと、立居たり。

 藤井、これを見るに、悲しみ、今更にて、わが老母に孝行ありし事、其身を殺して、貞節をまもりし事まで、感じて、泣きければ、宮木野、いふやう、

「みづから、もとより、官家高門(かんけかうもん)の娘にあらず。あだに、はかなきながれの身となり、人に契りて、心をとゞめず、明がたに別れて、名ごりも、知らず。色をつくろひ、花を飾りて、旅人に眩(てら)ひ、ひさぎ、身は、さながら、路(みち)の上(ほとり)の柳、垣(かき)のもとの花、ゆきゝの人に手折(たを)られむ事を思ふ。姿をなまめき、言葉をたくみにして、きのふの人を送りては、今日の客(かく)を迎へ、西より下れば、西なる人の婦(め)となり、東より上れば、東(あづま)の人の妻となり、うきたる舟の、よるべ定めぬ契りをかはし、すみつきがたき戀にのみ、月日を送りしを、君に逢ふて、まことの妻となり、昔の習はしを捨てゝ、正しき道を、おこなはんとす。思ひかけず、かゝる禍ひに逢ふ事も、前世の、むくひ也。さりながら、貞節孝行の德により、天帝地府(ちふ)、我れを變じて、男子(なんし)となし、今、鎌倉の切通しに、冨裕の家、あり。『高座(たかくら)の某(なにがし)』と名づく。君、こゝに來り給へ。明日、生れ侍べる也。君に逢はゞ、笑ひ侍べらん。これを、しるしとし給へ。」

とて、霧の如く、きえうせたり。

 藤井、いよいよ歎きながら、七日の後、鎌倉に行〔ゆき〕て、高座(たかくら)の某が家に尋ね入〔いり〕て、

「此間〔このあひだ〕、生れし子や、ある。子細、侍べり。見せて給(た)べ。」

といふに、まづ、

「胎内に廿月あり、生れてより今に至り、夜晝(よるひる)なきて、聲、絕〔たえ〕ず。」

とて、出〔いだ〕し見せしかば、此〔この〕子、

「莞尓(にこ)」

と笑ひて、それより、なきやみて、又、聲、たのしめり。

 藤井、ありのまゝに物語しつゝ、一族の契約して、往來(ゆきゝ)の音信(おとづれ)、たえず、といふ。

[やぶちゃん注:「駿河の國府中(ふちう)」中世に起った汎用呼称で、国衙を中心に都市化した国府の所在地の呼称。後に城下町となって繁栄した、この駿河の府中=駿府(すんぷ:現在の静岡市)や、甲斐府中(甲府市)が特に知られる。

「旅屋(たびや)に隱れなき遊女也」駿府の宿駅の宿屋附きの遊女。本話は戦国時代であるから江戸時代のような遊郭に限定禁令はない。

「中古このかたには」そう遠くはない昔に遡って今に至る中にあって。ちょっと昔から今に至るまで。この「中古」は歴史学や文学で言うそれではなく、「中頃」の謂い。

「虎御前(とらごぜん)」(安元元(一一七五)年~寛元三(一二四五)年)は相模国大磯の遊女。和歌にも優れ、容姿端麗であったという。「曾我物語」で著名な女性。兄の曾我十郎祐成の愛人として登場し、曾我兄弟が仇討ちの本懐を遂げて世を去った後、兄弟の供養のために回国の尼僧となったと伝えられる。「曾我物語」のルーツは彼女によって語られたものともされる。これは後、「踊り巫女」や「瞽女」などの「女語り」として伝承されてゆき、やがて能や浄瑠璃の素材となって、「曾我物」と総称する歌舞伎などの人気狂言となった。

「力壽(りきじゆ)」井淡浪文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)に『京都粟田口の伝説的遊女』で、義経の忠臣であった佐藤兄弟の弟『佐藤忠信の愛人』として知られる。

「眺むればそれとはなしに戀しきをくもらばくもれ秋の夜の月」高田氏前掲書に拠れば、これは「金葉集」巻第七「戀上」の藤原基光の一首、

 眺むれば戀しき人の戀しきに曇らば曇れ秋の夜の月

の改変で、高田氏は、『作りかえの面白さと、恋しい人が定まっていない遊女の悲しみとがうかがわれる』と述べておられる。

「いく夜われおしあけがたの月影にそれと定めぬ人にわかるゝ」これは同前で、「新拾遺集」巻第十二「戀二」の一首、

 幾夜われおし明け方の月影にことわりならぬ物思ふらむ

の改変とある。

「我身」発言者ではなく、両歌の内容が遊女である宮城野の自身の心にダイレクトに通っていることを賞賛しているのである。

にとりて、さもあらめ。」

「京家〔きやうけ〕の者」京都の征夷大将軍家の直参の武士。

「地下〔ぢげ〕」ここでは以下から農民。それも耕作は小作人に任せた富農である。

「府(こう)」国府駿府のこと。以前の注の「国府台(こうのだい)合戦」で見るように、国府の置かれた「國府臺(こふのだい)」のように、また、旧国府の置かれた場所を「国府」と書いて「こふ」(私の住んだ富山県高岡市伏木に「古国府(ふるこふ)」の地名がある)と当て読みすることは全国的に見られる。

の間(あひた)には、「冨裕の人」といはれ、殊更、淸六は、風流を好み、情深き者也。父は、むなしくなり、母一人、あり。みづから、妻もなく、ひとりすみて、いとゞ物かなしき秋の月に嘯(うそふ)き、今宵(こよひ)しも、此座につらなり、宮木野が此歌を聞くに、見めかたちといひ、才智、かしこきに、めでゝ、旅やのあるじに、價(あたい)多く出して、宮木野を、こひうけて、妻とせり。

 藤井が母、是れを聞〔きき〕て、

「よしや」「縱しや」。副詞。「仕方ない! まあ、いいわい!」。不満足ながらも、承認する謂い。

「我子の見るべき面倒」遊女を妻に迎えたことによって、息子清六が抱えることにきっとなるに決まっていると母の考えるところの、悪しき評判やごたごた。

を、今は如何にいふとも、詮なし。早く、呼入れよ。」

「人がましからずは、何にかせむ」「人がまし」は「いかにも人並みらしい・相当の人物らしい」の意。「生まれつき、人としての品格が性悪(しょうわる)なものであったなら、これ、どうにもならぬ。」。

「更にたぐひすくなうぞ」これまた、まず、他に類を見ること、稀なるほどに。

「みづから」複数回既出既注。「自ら」であるが、ここは「妾(わらは)・私」で自称の人称代名詞。中古からあって、古くは男女ともに用いたが、近世では女性語となった。

「此たび、京に上らずば、ひとつには、みづからに心とゞまりて叔父の事を忘れたりといはん。ふたつには、母の心にそむく不孝の名を受け給はん。只、上り給へ。」「万一、京の叔父さまのところへお参りなされなければ、一つには、妾(わらわ)に心が惹かれておる故に、叔父さまのことを無情にも忘れたと、お母さまには、これ、ご非難なされるやも知れませぬ。。二つには、母さまのみ心に背くことで、世間から親不孝者としても非難されることとおなりになりましょう。どうか、迷わず、上京なされませ。」。

「さりながら」は、「老母、すでに年高く、病〔やまひ〕、多し。君、はるばるの都に行き給はゞ、昔の人のいひ置きし、『事をつとむる日は多く、親につかふるの日は少なし』とかや。西の山の端(は)に入〔いり〕かゝる月の如く、弱り給ふ母なれば」こそ、「必ず、一足(〔いち〕あし)も早く、歸り給へ」へダイレクトに掛かる

「うたてなどしばしばかりの旅の道わかるといへば悲しかるらむ」「新日本古典文学大系」版脚注に、歌意を記して、『嘆かわしいことに、ほんのしばしの旅なのに、別れと聞くと』、『なぜ』、『悲しくなるのでしょう』とある。「うたて」は副詞を名詞化したもので「いやなこと」。岩波文庫もこちらも原拠を示さない。

「つねよりは人も別れを慕ふかなこれやかぎりの契りなるらむ」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「題林愚抄・恋二・別恋・近衛前関白(康暦二』(一三八〇年)『内裏廿首』を原拠とする。この歌集は以前にも原拠として出たが、安土桃山から江戸前期の成立。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たることが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「23」コマ目、HTMLだと、ここの左頁の終わりから8行目で、完全に同じであることが判る。

「旅や」「旅屋」。「旅夜」も嗅がせていよう。

「其の分限に過〔すぎ〕たる此物思ひに」この「其の分限に過〔すぎ〕たる」は前の弔いの物理的なそれではなく、義母を失った一般世間の嫁が抱くところの悲しみを遙かに超えて嘆いたことを意味し、以下の実際の身体の変化に続くものである。

「かじけ」「かじけ」は不審。「かしぐ」の誤りであろう。本来は「悴(かし)く」と清音であったが、近世には「かしぐ」と変じた。「やせ衰える・みすぼらしくなる・やつれる・草木や花などがしおれる」で、最後の意を髪のつやがなくなったことを比喩する。

「永祿十一年、武田信玄、駿州に發向して、府(ふ)の城にとりかけ、民屋(みんおく)に火を放ちて、燒きたてければ」ウィキの「武田信玄」によれば、永禄一一(一五六八)年十二月、『遠江での今川領分割を約束した三河の徳川家康と共同で駿河侵攻』『を開始し、薩垂山で今川軍を破り(薩埵峠の戦い)、今川館(後の駿府城)を一時占拠する。江尻城(静岡県静岡市)を築城』した。『信玄は駿河侵攻に際して』、『相模北条氏康にも協調を持ちかけていたが、氏康は今川氏救援のため出兵して』、永禄十一年中に、『甲相同盟は解消され』、『北条氏は越後上杉氏との越相同盟を結び』、『武田領国への圧力を加えた。さらに徳川氏とは遠江領有を巡り対立し』、永禄十二年五月、『徳川家康は今川氏と和睦し、徳川家康は駿河侵攻から離脱した』。『この間、織田信長は足利義昭を奉じて上洛していた。信玄は信長と室町幕府の第』十五『代将軍に就いた足利義昭を通じて』、『越後上杉氏との和睦(甲越和与)を試み』、永禄十二年八月には『上杉氏との和睦が成立』する。『さらに信玄は越相同盟に対抗するため、常陸国佐竹氏や下総国簗田氏など北・東関東の反北条勢力との同盟を結んで後北条領国へ圧力を加え』、永禄十二年十月には、『小田原城を一時包囲』した。この『撤退の際に、三増峠の戦いで北条勢を撃退』、『これにより』、永禄十二年の『第三次駿河侵攻にて、後北条氏は戦力を北条綱重の守る駿河の蒲原城に回せず、これを落とすことに成功した』。『こうした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じた』。永禄十二年末、『信玄は再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握し』、『また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている』とある。

「今川氏眞(うぢざね)」(天文七(一五三八)年~慶長一九(一六一四)年)は駿河の戦国大名。今川義元の子。天文 二三 (一五五四)年、今川義元・武田信玄・北条氏康の間で同盟が成り、氏康の娘が氏真の妻となった。永禄三(一五六〇)年五月、義元が「桶狭間の戦い」で敗死した跡を継ぎ。駿河・遠江・三河を領有したが、暗愚であったため、同家に寄食していた信玄の父信虎は、氏真の家臣瀬名・葛山・朝比奈らとともに、氏真を退けようとしたが、かえって駿河から追放されてしまう。氏真は同七年、徳川家康と戦って、三河を失った。同十年、信玄は父信虎からすすめられて兵を駿河由比に出した。氏真は部将鹿原安房守に命じ、薩埵峠にこれを防いだが、利なく、家臣が信玄に内応したため、続いて氏真の全軍も破られ、まもなく府中も落されて、遠江掛川城に逃れ、朝比奈泰能を頼った。信玄の駿河侵入とほぼ時を同じくして、徳川家康は遠江攻略に着手し、同十二年正月、氏真の掛川城を包囲した。同年五月、徳川・北条の和が成り、氏真は、掛川から北条支配下の伊豆戸倉に移された。後、氏真は北条氏政と不和になり、逃れて家康を頼った。天正一〇(一五八二)年三月、駿府は、武田氏を滅ぼした信長の手によって家康に加封された。氏真は蹴鞠をよくし、後、京都へ赴き、豊臣秀吉に扶持され、後に出家したが、次いで家康に仕え、子孫は江戸幕府の高家となって、品川氏を称した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。 「新日本古典文学大系」版脚注によれば、氏真は、『母が武田信玄の姉、娘が信玄の長男義信の正室という二重の婚姻関係にあった』ともある。

「海道」東海道。

の諸大將も和ぼくせし比〔ころ〕なれば、藤井淸六、やうやうにして、國にかへりければ、駿府のありさま、替りはて、我家〔わがや〕には、人も、なし。

 柱、傾(かたふ)き、軒、崩れ、草のみ、茂く、あれまさり、老母、宮木野は、いづち行〔ゆき〕けむとも、知る人、なし。

 門に出〔いで〕て見れば、年比〔としごろ〕めし使ひける男、出來(きた)れり。

 是れを、よびて尋ぬるに、

「老母、いたくわづらひ給ひけるを、宮木野、『我身に替らん』と、神佛に祈り、晝夜(ちうや)、付き添ふて看病せしに、其の甲斐なく、果て給ふ。其後〔そののち〕、武田信玄のために府中を追ひおとされ、今川氏眞公は、行方〔ゆきがた〕なし。宮木野は、『敵軍(てきぐん)の手に身をけがされじ』とて縊(くび)れ死(しに)給ふを、兵ども、其の貞節を感じて、後の柹の木(こ)もとに埋みし。」

「口說(くどき)けるやう」歎きごとを漏らして言うことには。

「心の、色、深し」人としての真心や奥床しさが深い。

「音づれ」清六自身からの音信。

「司錄神(しろくじん)」既注であるが、再掲すると、地獄の書記官の一人。一般には「倶生神(ぐしょうじん)」と呼ばれる、個々の人間の一生に於ける善行と悪行の一切を記録し、その者が死を迎えた後に、生前の罪の裁判者たる地獄の十王(特に本邦ではその中の閻魔大王に集約されることが多い)に報告するという書記官で、有名どころでは、他に「司命神(しみょうじん)」などがいる。

「眩(てら)ひ」誇示自慢して、ひけらかし。

「ひさぎ」(身を)売り。

「鎌倉の切通し」「新編鎌倉志卷之一」(私の古い電子化注)の「鎌倉七鄕・七口」に、『【鶴岡記錄】に云、鎌倉の谷七郷鄕(ヤツシチガウ)とは小坂鄕(コサカノガウ)・小林(コバヤシ)の鄕[やぶちゃん注:現在の鶴岡八幡宮の所在地から十二所に及ぶ旧地名。]・葉山(ハヤマ)の鄕・津村(ツムラ)の鄕・村岡(ムラヲカ)の鄕・長尾(ナガヲ)の鄕・矢部(ヤベ)鄕を云なり。鎌倉の七口(ナヽクチ)とは名越切通(ナコヤノキリトヲシ)・朝夷名切通(アサイナノキリトヲシ)・巨福路坂(コフクロサカ)・龜谷坂(カメガヤツサカ)・假粧坂(ケワイサカ)・極樂寺(ゴクラクジ)の切通・大佛(ダイブツ)の切通、此外に小坪(コツボ)切通、稻荷坂(イナリサカ)あり。稻荷坂は十二所村(ジフニシヨムラ)より、池子村(イケコムラ)へ出る坂也』とあり、「鎌倉攬勝考卷之一」(同じく私の古い電子化注)の「四至地形」に、『鎌倉入口に切拔道七口とはいえども實は九ケ所あり』とし、後に「○切通坂」の項を設け、『鎌倉入口に切通路七所ありと【東鑑】にも見へたるゆへ、土人等七口と唱ふれども、實は切拔路九ケ所あり』と注して、各切通(坂)を個別に挙げて詳述しているので見られたい。

「高座(たかくら)の某(なにがし)」不詳。私は鎌倉史を研究しているが、この姓は聴いたことがない。

「七日の後」「新日本古典文学大系」版脚注には、即座に出発していないことを訝り、『七夜』(おひちや:誕生から七日目の夜に赤子の健やかな成長を願って行う祝い。平安時代から続く古い民俗行事で、この日、初めて、生まれた子に名前をつけ、人として認める儀式)『の産養(うぶやしない)の風習に従ったものか』とある。

「まづ」「新日本古典文学大系」版では、高座某の台詞の発語としているが、私は採らない。

「胎内に廿月あり」転生の霊異を示すもの。

「聲、たのしめり」初めて、満ち足りたように、喜びの初声(うぶごえ)を挙げたのである。確かな宮城野の転生であることを、正しく示したもの。

「一族の契約して」高座家と一族の契りを結んで。]

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