日本山海名産図会 第五巻 阿蘭陀船 / 第五巻本文~了
[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「同出島紅毛家敷(でじまおらんだやしき)」及び「紅毛舩入津(おらんだふねにふつ)」。来日の祝砲の撃って入港するさまを描く。旗を立てたタグ・ボートが左手に二艘(舳先に旗を立てている。私はこれは前の「異國產物」に記された船を係留する「梅か島」への曳航をしているものと思う。位置的にもしっくりくるからである)、「上荷船」(うわにぶね)が右手に多数、待機している。その最も右手に大形の船二艘(船尾に旗を立てており、私はこれが朱印状検査を終わった通詞や担当官一行のものと思われ、係留・荷下ろしまでは監視のためにここに留まって全体を見ているものと推理した)が手前の「紅毛家敷」は「出島」の総称としても用いられた。第二図は「唐舩入津(とうせんにうつ)」。「同」は前の「異國產物」の挿絵を受けたもので、以下の文章もそれに続く形で書かれているので、必ず、まず、そちらの本文と私の注をに眼を通してから読まれたい。注をダブらすつもりはないからである。]
○阿蘭陀舩(おらんだふね)
是、每年(まいねん)七月比(ころ)、入津(にうつ)す。同しく遠見より注進なれば、去年(きよねん)渡りの紅毛(おらんだ)・カビタン、又、大通詞(おほつうし)・小通詞(こつうし)・宦者(くわんしや)、附き添ひ、飛舩(ひせん)二艘、旛(はた)を立てて漕ぎ出だし、元舩(もとふね)へ乘り移り、御朱印等(とう)、撿校(けんこう)すみて、漕ぎ戾る。其の跡にて、元舩には、石火矢(いしひや)を發(はな)つ事、九つ、此の勢ひに、ついて、引舩(ふね)、あまたありて、次㐧に舩を入れ、西戸まる・戸町など、所々、御番所のむかひにて、石火矢(いしびや)を發つ事、七つ宛(づゝ)、出島の湊に入りて、又、九つを※(ひゞ)かし[やぶちゃん注:「※」=(上)「几」(縦に潰れたもの)+(下)「音」。「響」の異体字らしい。]、此の時、舩に旛(はた)を立てれば、「出島屋敷」にも、同じく竪(た)てる。是れを「旛合」と云う。こゝに於て、音樂、有り。其の音(おん)、妙なり。これより、碇をおろし、又、石火矢を發す事、十八にして、此の時、黒烟(くろけふり)、空中に滿ちて、暫時(ざんじ)、舩を見る事、なし。舩中には、其、の烟の間(あいひだ)に、四十八の帆を悉く巻き上げ、十所(とところ)に旗を立てて、すべて、裝飾し、烟り、次㐧に消へるに顯はれ、更に造り立てたるごとく、其の花(くわ)、美眼(みめ)を奪ふばかり。甚だ見事なり。かくて元舩(もとぶね)のカビタン、小舟に乘りて、出島にあがれは、「紅毛屋敷(おらんだやしき)」、前年のカビタン・從者其外、遊女など、つきそひ、是れを迎ひ入れて、宴(ゑん)を催すなり。荷は同しく、藥種・小間物類・他國の珎器(ちんき)ども。是を揚げるに、凡そ四十日許りなり。本邦よりの渡し物は、先づ、銅(あかゝね)・竿(さほ)・紙類、其の外、器物(きぶつ)等(とう)を賜はり、毎年(まいねん)九月十九日を、前年(せんねん)のカビタンの發舩(はつせん)と相ひ定(さた)むる。當年のカビタンは殘り、正月十五日に貢献の物を持して、江府(こうふ)に趣き、四、五月の頃、長嵜にかへり、又、新舩入津(しんせんにふつ)を相ひ待てり。
[やぶちゃん注:「阿蘭陀舩(おらんだふね)」本書では「おらんだ」は一貫してひらがな表記である。
「同しく遠見より注進なれば」前の「異國產物」を参照。
「紅毛(おらんだ)」「こうもう」と読んだ。「赤い髪の毛の異人」で、江戸時代は、その時期の大半の接触となった、オランダ又はオランダ人の異称として狭義に用いられた。「紅夷」「碧眼紅毛」も同じ。小学館「日本国語大辞典」には、『漢字で「紅毛」と書いてオランダとよませる場合もあり、振り仮名のない場合はどちらとも決めかねることが少なくない』とある。広義には「西洋人・欧米人」を広く言う語でもある。
「カビタン」「カピタン」が一般的だが、日本人が半濁音を使用し、表記するのはごく新しく(後述)、恐らく、江戸までの平均的日本人は濁音と半濁音を正確には使い分けられてはいなかったように思われる。ポルトガル語で「長」(ちょう・おさ)」の意の「capitaõ」が語源で、「甲必丹」「甲比丹」の字を当てる。江戸時代、マカオ―長崎間のポルトガル貿易に於いて最高の権限を持ち、マカオ滞在中は同地の最高の行政官、長崎ではポルトガル人の代表を務めたのが、カピタン・モーロ(capitaõ‐mor:軍将校指揮官)である。このカピタンの名称は、そのまま、他の外国人にも用いられ、中国人の代表は「甲必丹」(カピタン)、オランダ商館長も「阿蘭陀甲必丹」(オランダカピタン)と呼ばれた。平戸に商館があった時代(一六〇九年~一六四〇年。」前の「異國產物」の私の注を参照)には、長期間在任したオランダ商館長も多かったが、寛永一七(一六四〇)年十一月、大目付井上筑後守が将軍徳川家光の密命を受けて平戸を視察し、商館の一部の建物の取壊しを命じた際、日本人にキリスト教を広めさせないため、商館長の毎年の交代を命じ、商館も翌年、長崎出島に移された経緯がある(以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。サイト「マイナビ」の「フレッシャーズ 社会人ライフ」の『「パピプペポ」はポルトガル人の発明!? 意外と知らない濁点、半濁点の歴史』によれば、『そもそも日本の平仮名、片仮名の表記には、濁音を表す「゛」(濁点)、半濁音を表す「゜」(半濁点)はありませんでした。平仮名、片仮名が誕生した当初、平安時代にどうしていたかというと「文脈から判断できる」と、そのままだったのです』。『しかし、やはり紛らわしいということで、まず濁点が生まれます』。『仏典(正確には「陀羅尼」)の音読に使われていた「声点」を、平仮名に導入することにしたのです。声点というのは、漢字の横に「・」を入れてアクセントを示す記号でした。これを「・・」にして濁音を表す記号とし、仮名の横に付けたのです』。『最初は、他にも濁音を表す記号があったのですが、徐々に淘汰』『されて』十二『世紀の前半には現在の濁点に近い形になったのだそうです』。『ちなみに、日本で法令文書に濁点が登場するようになったのは昭和になってからです。歴史の授業で「大日本帝国憲法」の条文が教科書に掲載されていたでしょう。そこには「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と記載されていて濁点はありません。当時は法令文に濁点を使うことはなかったからです』。『では、パ・ピ・プ・ペ・ポ、ピャ・ピュ・ピョと、半濁音を表す「半濁点」はいつ生まれたのでしょうか? これは時代がぐっと下って室町時代末期・戦国時代といわれます』。十六『世紀には外国から宣教師が布教のため来日していました』。『ポルトガル宣教師が著したキリシタン文書に初めて半濁点が登場するといわれています。布教の過程で、ポルトガル人は日本語の勉強をするのですが、彼らは日本語の仮名表記に半濁音を表す文字がないことに気付きます。そこで、半濁音を表記するために「゜」を使うようにし、それが一般的になったというのです』。『ただし、この説はあくまでも一つの説で、実は』既に独自に『室町時代から一部で使われていた』とする『異説があります。でも、本当だったら』、『ポルトガル人の宣教師が苦労して作った表記が現在にまでつながっていることになります。不思議な気持ちになりますね』とある。
「飛舩(ひせん)」速度の速い船。図のキャプションの解読で示した第一図の右端の二艘と推断する。通常の快速船は小型・中型が多いが、通詞の大小が複数人、それ以外の御朱印検(あらた)めの官僚及び船内検死の官人など複数が乗船し、何らかの問題があれば、そこで乗組員や違法或いは不審な荷物を押収する必要もあったに違いなく、そのためには大型の船である必要があったに違いないと推測するものである。
「引舩(ふね)、あまたありて」私は引き船(タグ・ボート)は二艘と採り、その他、「あまた」の船は荷船と採った。タグ・ボートは現在の巨大タンカーのような余程巨大なものであっても、前二艘が普通で、用心に後尾の振れを押さえるのに、二艘がつくかいつかないかであり、そんなに「あまた」(数多)はいらぬものである。
「西戸まる・戸町」私が前の「異國產物」注で推理したことが恐らく正しいことが、ここで証明されたものと思う。ここでは、「西戸まる」と「戸町」の二箇所の見張り番所が正しく示されてある。「西戸まる」は「西泊(にしどまり)」の誤りで、長崎湾の最深部の北西右岸の小さな湾の奥に「西泊番所跡」が、その丁度、対称位置である南東位置左岸に「戸町番所跡」が確認出来る。
「出島の湊に入りて、又、九つを※(ひゞ)かし」(「※」=(上)「几」(縦に潰れたもの)+(下)「音」)第一図はこの時の様子を描いたものと思われる。
『此の時、舩に旛(はた)を立てれば、「出島屋敷」にも、同じく竪(た)てる。是れを「旛合」と云う』第一図の出島の方には残念ながら旗は揚がっていない。「旛合」には「旛」に「はた」とルビするだけであるが、まあ、「はたあはせ」であろうとは思う。
「こゝに於て、音樂、有り。其の音(おん)、妙なり。これより、碇をおろし、又、石火矢を發す事、十八にして、此の時、黒烟(くろけふり)、空中に滿ちて、暫時(ざんじ)、舩を見る事、なし。舩中には、其、の烟の間(あいひだ)に、四十八の帆を悉く巻き上げ、十所(とところ)に旗を立てて、すべて、裝飾し、烟り、次㐧に消へるに顯はれ、更に造り立てたるごとく、其の花(くわ)、美眼(みめ)を奪ふばかり。甚だ見事なり」ここは作者の表現が非常に上手く機能していて、映像的に成功している箇所である。本書の本文頭尾であり、当時の読者は挿絵とともに、見たことのない異国の巨大な船と空砲の音を想像して、そのシークエンスを永く記憶に残したに違いない。
以下、最終巻なので、全体の「跋」と奥書等が載るが、これは全部の電子化注が終わった後に配する。]