芥川龍之介書簡抄75 / 大正六(一九一七)年書簡より(七) 江口渙・佐藤春夫連名宛
大正六(一九一七)年六月十六日・鎌倉発信・江口渙・佐藤春夫連名宛
拜復 羅生門の會は少々恐縮ですがやつて下されば難有く思ひます文壇の士で本を送つたのは森田 鈴木 小宮 阿部 安倍 和辻 久保田 秦 谷崎 後藤 野上 山宮 日夏 山本の諸君です
但廿二日(金曜ですぜ土曜は廿三日でさあ)にかへれません廿四日の日曜なら徵兵檢査の爲かへるので甚都合がよろしいその夜か夕方ではどうですか場所と時間とはきまり次第田端の方へ御一報下さい江口君の新聞も田端へねがひ
ます 以上
六月十六日 龍
江 口 漢
佐藤春夫雨大人
[やぶちゃん注:傍点「◦」は太字・下線に代えた。連名なのは二人が『星座』同人で、孰れとも親しかったからである。佐藤春夫とは書簡の遣り取りの後、この年の四月に対面している。
「羅生門の會」芥川龍之介の処女作品集「羅生門」(大正六年五月二十三日阿蘭陀書房刊。収録作品は「羅生門」・「鼻」・「父」・「猿」・「孤獨地獄」・「運」・「手巾」・「尾形了覺え書」・「酒蟲」・「煙管」・「貉」・「忠義」・「芋粥」の全十四篇。定価一円。新全集宮坂年譜によれば、印税は八パーセントであったとある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る。出版は「木曜会」のメンバーであった赤木桁平(池崎忠孝)の紹介によったものであった)の出版記念会。佐藤春夫の発案で計画され、発起人には『新思潮』・『星座』同人の他、小宮豊隆・谷崎潤一郎・赤木桁平がなり、案内状は五十通ほど発送された。この記念会は、ここでは龍之介が「二十四日」を望んでいるが、実際には、この九日後の六月二十七日水曜日に日本橋の「レストラン鴻の巣」で開催された。出席者は龍之介を含めて二十三名であった。開会の辞を佐藤が述べ、以下、谷崎らがスピーチを行った。参照した鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)によれば、『店の主人が画帳に記念の揮毫を求めると、芥川は「本是山中人」』(「本(もと)、是れ、山中の人」)『と六朝まがいの余り上手でない字を書いた』とあり、鷺氏は、『この夜の記念会は期せずして若い世代の文壇への出発宣言というような趣があった』と記しておられる。参加者は新全集宮坂年譜によれば、『発起人をはじめ、岩野泡鳴、日夏耿之介、中村武羅夫、田村俊子、滝田樗陰、有島生馬、豊島与志雄、加能作次郎、和辻哲郎、北原鉄雄ら』とある。先の鷺氏の当該書にある「羅生門」出版記念会の全体写真のキャプションを見ると、他に久保勘三郎(明治二六(一八九三)年~昭和三六(一九六一)年:福岡生まれの作家。龍之介の一高・東京帝大英文科の一年後輩。『星座』同人。小説「炭鉱唄」などがあるが、後に後楽園スタジアム取締役となった。これは新全集「人名解説索引」に拠った)・柴田勝衛(明治二一(一八八八)年~昭和四六(一九七一)年:ジャーナリストで翻訳家。仙台市生まれ。青山学院高等科明治四二(一九〇八)年卒。当時は時事新報社勤務。後の大正八(一九一九)年、読売新聞社に入社し、社会部長・整理部長などを経て、昭和五(一九三〇)年に編集局長となった。昭和一八(一九三三)年、大阪新聞社に出向し、取締役主筆となり、後に社友となった。一方で、文芸時評を書き、また、パピニーの「きりすと伝」など、多くの翻訳も成した。ここは日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)・加藤某(ママ。可能性の一人に小説家で編集者であった加藤武雄がいる)の名を見出せる。ここまでで二十一名までは判った。
「森田」小説家・翻訳家森田草平(明治一四(一九八一)年~昭和二四(一九四九)年)。岐阜市生まれ。本名は米松。東京帝大英文科卒。漱石の門下生。作家平塚らいてう(当時は生田長江門下)との那須塩原での情死未遂事件(明治四一(一九〇八)年三月)後、漱石の庇護を受け、明治四二(一九〇九)年に当該事件を最後に配した自伝小説「煤煙」を『東京朝日新聞』に発表する機会を与えられ、文壇的地位を得た。小宮豊隆とともに漱石主宰の『朝日新聞』文芸欄を編集しつつ、「煤煙」の続編「自叙伝」(明治四四(一九一一)年)を完成させ、活発な創作活動に入ったが、特に注目された作品は少なく、次第に翻訳を本業とするようになる。大正末期以後は歴史小説に新開地を見出した。終生、漱石に対して「永遠の弟子」という意識を持ち、その評伝「夏目漱石」(正・続。昭和一七(一九四二)年から翌年にかけて発表)は漱石研究の基本文献として不朽の価値をもつ。第二次世界大戦後に日本共産党に入党し、話題を呼んだ(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「鈴木」鈴木三重吉。以下、よく知られた作家や既出既注の人物は注しない。
「阿部」阿部次郎。
「安倍」阿部能成。
「和辻」和辻哲郎。
「久保田」久保田万太郎。
「秦」秦豊吉。
「後藤」作家でフランス文学者の後藤末雄(明治一九(一八八六)年~昭和四二(一九六七)年)東京生まれ。府立一中・一高・東京帝大学英文科(後に仏文科に転科)の先輩で、一高時代から小説を書いていた。大学在学中に和辻哲郎・谷崎潤一郎・木村荘太らと第二次『新思潮』の創刊に参加し、小説家として出発した。大正二(一九一三)年に東帝大卒業し、陸軍士官学校の教師となった。龍之介は先輩としての親しみもあって、彼の作品を愛読していた。後に慶應義塾大学教授となり、立教大学教授も兼任した。
「野上」野上弥生子。
「山宮」山宮允(さんぐうまこと)。
「日夏」日夏耿之介。
「山本」山本有三。
「徵兵檢査の爲かへる」一度、注したが、再掲しておくと、推定だが、芥川龍之介はこの大正六(一九一七)年六月二十四日頃、満二十五歳の時に徴兵検査を受けている模様である。この場合は、勤務先(横須賀機関学校教授嘱託(英語学))からして、徴兵の可能性は限りなくゼロとなる。但し、この徴兵検査の件は新全集宮坂年譜に拠ったものだが、少し不審がある。何故なら、同年譜にも載る通り、この六月二十日午後一時半頃、芥川龍之介は横須賀機関学校教授嘱託として航海見学のために、軍艦「金剛」に乗艦し、横須賀から山口県由宇(ゆう)(グーグル・マップ・データ)に向けて出航して、二十二日午後に由宇に着艦し、その後は降りて、陸路で帰っている。しかも、この『帰途、岩国、京都に立ち寄る』ともあるからである(この航海見学は「軍艦金剛航海記」として同年七月二十五日から二十九日附の『時事新報』に連載されている。これは「青空文庫」のこちらで正字正仮名で電子化されているが、私はブログ・カテゴリ「芥川龍之介 手帳」で、当該航海時の記録を砲塔部の図などとともに、電子化注してある。「芥川龍之介手帳 1―15」・「同 1-16」・「同 1-17」・「同 1-18」及び『芥川龍之介メモランダ――軍艦「金剛」乗艦時のノート――』を参照されたい)。これは、龍之介が田端(土日なので、その可能性が高い)に帰りつくのは、早くても二十三日(土曜)の夜、或いは二十四日(日曜)となる。ともかくも、この帰った直後の二十四日(日曜)のところに、宮坂氏は『頃』と不確かな言い添えをした上で、『夕方、帰宅する。徴兵検査を受けるか』とあるのである。この宮坂氏の『帰宅』が、京阪から田端へのそれなのか、鎌倉の下宿からなのか、はたまたどこかにその日の朝か午後一で行って(徴兵検査はその一つ)、そこから田端に帰ってきたの謂いなのかは、判らない。しかし、同日に徴兵検査を受けているとなると、本籍地ではない鎌倉で受けることは不可能と思われるから、或いは、前日夜に帰宅し、この日曜に徴兵検査を受けて、夕刻に田端に帰った、或いは翌日からの授業のために田端からトンボ返りで鎌倉に帰ったという意味であろうか? その辺りがどうもはっきりせず、しかも時間的に異常にタイトで、ことが徴兵検査というだけに、甚だ不審なのである。
「江口君の新聞」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、『江口渙「芥川君の作品」(『東京朝日新聞』六月二八日―七月一日)』とある。]
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