芥川龍之介書簡抄79 / 大正六(一九一七)年書簡より(十一) 塚本文宛三通
大正六(一九一七)年九月四日・鎌倉発信・塚本文宛
文ちやん 九月四日鎌倉海岸通にて
この二三日伯母が鎌倉にゐて、今東京へかへりました、それを送つて歸つて來たさびしい心もちで、この手紙を書きます 何だかこの手紙を書かなければ、このさびしさがなくならないやうな氣がするから、書くのです
先日は失禮しました
あの時、文ちやんが倫理の先生に叱られた話をしたでせう あれが大へん嬉しかつたのです 何時でもあゝ云ふやうな心もちでゐなければいけません 叱るのは叱る先生の方が間違つてゐるのです あれで一生通せれば立派なものです どんな人の前へ出ても 恥しい事はありません 何時までも ああ云ふやうに正直でお出でなさい 知らないものは知らないでお通しなさい それがほんとうの人間のする事です イカモノの令夫人や令孃には、いくらめかし立てても、ほんとうの人間のする事は出來ません あの話を聞いた時に、僕は嬉しいと同時に敬服しました
但しほめても、自慢をしちやいけません
それからもう一つうれしかつたのは、伯母が文ちやんの正直なのに大へん感心してゐた事です、あとで文ちやんから手紙が來た時などには、淚をこぼしてうれしがつてゐました 正直な人間には 正直な人間の心がすぐに通じるのです 不正直な世間がどうする事も出來ないやうな心が、動かされるのです 僕も伯母と一しよに 僕たちの幸福をうれしく思ひました。文ちやんも一しよに、うれしく思つて下さい
最後に 八洲さんと三人で停車場へ行く途中で、女の人がすれちがふ時に 相手を偸むやうにして見る話をしたでせう あの時文ちやんがさうしないと云つたのが又 うれしかつたのです
これは皆世間の人から見たら、つまらない事をうれしがつてゐると思ふやうな事かも知れません しかし さう思ふだけ、世間の方が墮落してゐるのです 人間の價(ね)うちはつまらない事で一番よくわかります 大きな事になると、誰でも考へてやりますから、さう露骨に下等さが見えすきません しかしつまらない事になると、別に考へを使はずにやります 云ひかへると、自然にやります そこでいくら隱さうとしても その人の價うちが知らず知らず外へ出てしまふのです。だからその人の價うちがわかると云ふ點から云へばつまらない事は、反つてつまらない事ではありません 僕は今までに さう云ふつまらない事から曝露される男の人や女の人の下等さを、いやになる程見て來ました さうしてさう云ふ人間が、鼻につく程しみじみいやになつてしまひました。世間には實際そんな人間がうぢやうぢや集つてゐるのです。
お互に利巧ぶらず えらがらず 靜に幸福にくらして行きませう さうする事が出來たら、人間としてどの位高等だかわかりません
この頃はいろいろ 持つべき家の事を考へてゐます どうせ貧乏人だから 碌な暮しは出來ませんよ よござんすか
風が吹いて 海が鳴つてゐます 松も鳴つてゐます 月夜ですが、雲があるので、光がさしません 電燈には絕えず 蟲がとんで來ます ここまで書いたら、やつと少しさびしくなくなりました、
お母樣によろしく 先日の御手紙のお禮をよく申上げて下さい それから休み中に一度上りたかつたのですが、忙しかつて[やぶちゃん注:ママ。]それも出來なかつた御詫も 序に御傳へ下さい
こないだ八洲さんから 繪はがきを頂きました。その字が去年一の宮で頂いた繪はがきの字にくらべると 非常にうまくなつてゐたのに大に感心しました、これは實際大に感心したんですから、文ちやんからよくさう云つて下さい
この一日に入校式で、僕はフロツクでシルクハツトをかぶりました さうしたらフロツクは消毒法を施さなかつたせいか、チョツキのボタンが黴びてゐました
これでやめます 龍
[やぶちゃん注:「伯母」フキ。
「八洲」塚本八洲(やしま 明治三六(一九〇三)年三月八日~昭和一九(一九四四)年)。塚本文の弟。長崎県生まれ。書簡当時は満十四歳。父善五郎が戦死したため、母鈴の実家であった本所の山本家(龍之介の親友山本喜誉司の父母)に家族と身を寄せていた。一高に入学し、将来を期待されたが、結核に罹患、大正一三(一九二四)年頃に喀血し、翌年の三度目の喀血の際には、芥川は、芥川家主治医下島勲(龍之介検死担当者)と塚本家に駆けつけて見舞っている。結局、快方に向かわず、没年まで闘病生活を送った。大正一五(一九二六)年には療養のために鵠沼に移住したが、この転地が芥川最晩年の鵠沼滞在のきっかけとなっている。]
大正六(一九一七)年九月五日・鎌倉発信・塚本文宛
手紙が行きちがひになりました
今文ちやんの手紙を見ましたから、又之を書きます
夏目さんの話は誤解の起り易い話だから 僕は誰にも話した事がありません 唯兄さんにだけは 前から何も彼も話し合つてゐる仲なので、その話をしました さうしてその話は誰にも(勿論お母さんや文ちやんにも)默つてゐろと云ひました そんな事を僕が得意になつてゐるやうに思はれるが嫌だつたからですそれを話してしまつたのは、兄さんが惡いのです 今度あつたら小言を云つてやります 約束を守らないのは 甚いけません
夏目さんの方は向うでこつちを何とも思つてゐない如く こつちも向うを何とも思つてゐません[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集にはこの後に編者傍注『〔削除〕』があり、及び岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)でも『〔以下削除〕』となっており、岩波新全集でも復元されていないようである。或いは既に原書簡は行方不明となっているものか。]
僕は文ちやんと約束があつたから 夏目さんのを斷るとか何とか云ふのではありません 約束がなくつても、斷るのです
文ちやん以外の人と幸福に暮す事が出來ようなぞとは、元より夢にも思つてはゐません、僕に力を與へ 僕の生活を愉快にする人があるとすれば、それは唯文ちやんだけです だから僕には文ちやんが大事です 昔の妻爭ひのやうに、文ちやんを得る爲に戰はなければならないとしら[やぶちゃん注:ママ。]、僕は誰とでも戰ふでせう さうして勝つまではやめないでせう それ程に僕は文ちやんを思つてゐます 僕はこの事だけなら神樣の前へ出ても恥しくはありません 僕は文ちやんを愛してゐます 文ちやんも僕を愛して下さい
愛するものは何事をも征服します 死さへも愛の前にはかなひません
僕が文ちやんを何よりも愛してゐると云ふ事を忘れないで下さい さうして時々は僕の事を思ひ出して下さい 僕は今みぢめな下宿生活をしてゐます しかし文ちやんと一しよになれたら 僕は僕に新しい力の生まれる事を信じてゐます さうすれば 僕は何も怖いものがありません
唯 僕は文ちやんが僕の所へ來たら、文ちやんのお母樣が嘸さびしくおなりだらうと思ひます さうしてそれがお氣の毒です 文ちやんもさう思ふでせう 僕はそれがほんとうにお氣の毒です
それから安井夫人が文ちやんに幾分でも面白かつたのは 何よりです 旦那樣の安井仲平と云ふのは 德川時代の末にゐた大學者の安井息軒先生です 息軒先生のお子さんは今一高の漢文の先生をしてゐられます(四十五六でせう)安井夫人はえらいですね 僕はああ云ふ人の方が、今の女學者よりどの位えらいか知れないと思ひます
又長くなつたから これでやめます
ひまがあつたら 手紙を書いて下さい
九月五日午後 芥川龍之介
塚本文子樣
[やぶちゃん注:「夏目さんの話は誤解の起り易い話」新全集宮坂年譜に、この手紙について、『夏目筆子(漱石の長女)の婿候補として芥川が話題に上ったことについて、塚本文に釈明の手紙を書く』として、以上の書簡の一部を示し、その後に参考資料として、同年十二月九日附『東京日日新聞』の記事(恐らく文芸欄)が示されてある。漢字を恣意的に正字化して示す。『漱石氏の後嗣に就ては其死の前後から久米正雄君が長女筆子さんの女婿として夏目家を嗣ぐべく門生間に噂され之を慶賀したのは若い漱石門下の連中で森田草平、安倍能成、小宮豐隆君等の第一級門生は「久米の樣な後輩が夏目家の株を奪ふのは不快だ」と非常な反對で之に対抗する(中略)芥川龍之助氏も一時矚目の的となつたが氏には既に妻たるべき人がある』と書かれてある。また、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」のコラム「漱石の娘筆子と久米・松岡」には、
《引用開始》
漱石が死んだ時長女の筆子は満一七歳の女学生、長男の純一は一〇歳(他に子供は四人)といずれも幼く、鏡子夫人としては何かにつけて家政の相談役、援肋者が必要で、それが漱石の命日にちなんだ九日会の集まりであり、さらに死後も続けられた本曜会であった。
初めはともかく、定期的に集まることのできる者は限られ、必然的に定職のない久米や松岡が顔を出すことが多く、子供達との接触も深くなっていった。
久米は惚れっぽい男で、いつでも誰かに恋をしないではいられない〈恋愛病患者〉だった。
これに配するに長女の筆子はコケティッシュなところのある娘で、たちまち二人の間は燃え上がり、久米は求婚を鏡子夫人に申出る。それを聞いた古い門下生達からは芥川ならよいが、久米ではという反対もあったが、夫人から猶予つきながら内諾を与えられた。
ところが大正六年の夏から家庭教師ということで旧友の松岡譲が夏目家に同居するに及んで筆子の気持は松岡に移ってしまい、久米には冷たくなる。挽回をはかって久米は自らを婚約者にしたてた小説「一挿話」を発表すると、夫人の激怒を買い、六年一〇月内諾は解消され、翌七年四月松岡と筆子は婚約し、結婚した。当時ジャーナリズムの話題となった[やぶちゃん注:以下略。引用が全文にならないようにするために残り僅かであるが、カットした。]
《引用終了》
とある。筑摩全集類聚版脚注では、『芥川が夏目家の令嬢の第一候補に擬せられた。文子は自分が龍之介の将来を妨げるのではないかと考え、身を引こうとしたことを指す』と突っ込んで注してある。因みに、夏目筆子は明治三二(一八九九)年五月三十一日生まれで、当時満十九歳、塚本文は明治三三(一九〇〇)年七月四日生まれで一年一ヶ月ほど年下であった。
「兄さん」塚本文の叔父で龍之介の幼馴染みで親友の山本喜誉司(明治二五(一八九二)九月十七日生まれ)。龍之介の方が六ヶ月早く生まれているものの、少年期より山本を慕い、同性愛感情も濃厚で、非常に親密であったから、姪である文に対して、自身の強い親愛を込めて、「兄さん」と呼称しているものと考えられる。
「安井夫人」森鷗外の小説。大正三(一九一四)年四月『太陽』に発表。後、作品集「堺事件」に収録された。国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここから視認出来る。トビウオ氏のブログ「空も飛べる魚になりたい」の「【精読】森鴎外『安井夫人』自立する女性を描いた文学 -平塚雷鳥との親交を通して-」が、判り易く纏まっている。
「安井息軒」(そっけん 寛政一一(一七九九)年~明治九(一八七六)年)は日向国宮崎郡清武郷(現在の宮崎県宮崎市)生まれの儒学者。名は衡、息軒は号、仲平は字(あざな)である。日向飫肥(おび)藩儒安井滄洲(そうしゅう)の子。二十六歳で昌平黌に入り,松崎慊堂(こうどう)に学んだ。一時、飫肥藩校助教などを務めたが,後、昌平黌教授となった。漢・唐の古注を尊び、清の考証学を好んだ。嘉永六(一八五三)年のペリー続くプチャーチンの来航に際し、「海防私議」を著わし、時事を説いた。注釈書に「左伝輯釈」・「管子纂詁」があり、文集「息軒文鈔」「息軒遺稿」など著作も多い。
「息軒先生のお子さん」石割氏の注に、『実際には孫に当たる、漢学者の安井小太郎』とある。安井小太郎(安政五(一八五八)年~昭和一三(一九三八)年)は江戸生まれで、父中村貞太郎が尊皇攘夷運動で捕縛され、江戸伝馬町にて獄死し、母方の祖父であった安井息軒に引きとられた。島田篁村・草場船山に学んだ後、明治一五(一八八二)年に東京大学に入学、卒業後、学習院・一高・大東文化学院などの教授を歴任した。
「四十五六でせう」実際には数えで六十である。]
大正六(一九一七)年九月十三日・鎌倉発信・塚本文宛
この前の私の二通の手紙はとどかなかつたのではないでせうか
實は文ちやんの手紙が來るかと思つて、心まちに待つてゐました。私の手紙がとどかなかつたか、文ちやんのがとどかなかつたかと思つて 少し心配してゐます
私は近い中に 橫須賀の方へ轉居するつもりです、(今週中に)ですから、轉居先がわかるまでは、田端の方へ誰の手紙でも貰ふ事にしてゐます もし書けたら書いて下さい さうしないと さびしい
星月夜鎌倉山の山すすき穗に出(で)て人を思ふころかも
九月十三日夜 芥川龍之介
塚本文子樣
[やぶちゃん注:芥川龍之介は、この翌日の十月十四日に横須賀市汐入五八〇番地尾鷲梅吉方の二階(八畳)に転居している。通勤時間を減らすことが目的とは思われる(私は他にも動機があったと考えている。それは、前に述べた同僚教官佐野慶造の新妻佐野花子の近くに住むという秘かなそれである)。現在の横須賀市汐入町三丁目一附近である(グーグル・マップ・データ)。]
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