日本山海名産図会 第五巻 石灰
日本山海名産図会 第五巻 石灰
[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、前者は「近江石灰(あふみいしはひ)」で石灰岩の切り出し風景、後者は「美濃石灰櫓窯(みのいしはひやくらかま)」と「近江石灰窯(あふみいしはひかま)」。こちらは雲形で以って全く別な地方の景を合成したもの。]
○石灰(いしはひ) 一名「染灰(せんくわい)」 「散灰(さんくわい)」 「亞石(あせき)」
今、近江(あふみ)の物、上品とす。美濃、又、是れに等し。是れ、金氣(きんき)なき地なれば也。元は和刕芳野高原に燒き初めて、其の年月(としつき)、未詳(つまびらかならず)といへども、本朝、用ひきたること、甚だ古し。桓武天皇、大内裏御造營、淸凉殿御座(ござ)の傍らに石灰擅(いしはひたん)を塗り作らせたまひて、天子、親(みづか)ら、四方拜(しはうはい)などの𡈽席(とせき)とす。其の外、人用(じんよう)に益(えき)すること、もつとも多し。先づ億萬の舟楫(しうせつ[やぶちゃん注:ママ。])、億萬の垣牆(ゑんしやう)、凡そ、水を載するの物、溝洫(こうき[やぶちゃん注:ママ。])・器物(きぶつ)に至るまで、是れに寄ざれば、成らず。實(まこと)に天下の至寳なり。諺に、「都なす処、百里の内外(うちそと)、土中(どちう)、かならず、この石を生ず」といへり。○今、江州伊吹山近邉、又、石部(いしべ)に、燒く物、皆、靑石(あをいし)なり。山州鞍馬に燒く物は、夜(や)色石にして靑石には劣れり。靑白(あをしろ)なるは、是れに次く。石は、必ず、土内(どない)に掩(おゝ)ふ事、二、三尺なるを、堀り取り、あらはれて風霧(ふうむ)を見る物は、取らず。伊吹山の麓(ふもと)、更地(さらち)山は、一面の靑石なり。島筋(しますし)ある物は、下品とす。堀り出だし、矢をもつて、打ち破り、手拐(てこ)・轉木(ころぎ)を以つて、二百間斗(ばか)りの山を、磨(す)り落せば、凡そ、碎けて、地に付く。くだけざる物は、よしと、せず。やぶ川は舩にて渡せり。
蠣蠔(かきから)を燒くもの、石灰に劣れり。
燔(や)き法は、 窯の高さ、三尺、廣さ、周径(めぐり)四間計(ばか)り、田土(たつち)にて製(つく)る。下に、風の通ずる穴あり。先つ、石を、尚(なを)、打ち碎(くだ)きて、程よく、滿たしめ 其の上へ、炭を敷きならべて、火を置き、火気(くわき)、滿ちて、底に透(とを)るを候(うかゝ)ひて、火を消し、灰を取り出だして、幾度(いくたび)も、しかり、又、美濃にて燒く窯の方は、異(こと)なり、櫓窯(やくらがま)といひて、髙さ一丈、周径三尺斗り、内は下程(したほど)、次第に細く三角になして、燒きたる灰を、自然(せん)と、底に落とさんが爲(ため)なり。石と炭とを夾(はさ)みて、幾く重(え)も積み重ね、下より、燒きて、火氣を登(のほ)せ、底よりさきへ、燔(や)き落ちるを、橫の穴より、搔き出だせり。かくて、次㐧(しだい)に石と炭とを、上へ積み添へて、燔き初むるより、凡そ百日斗りの間(あひだ)、晝夜(ついや)、絕へる事、なし。是れ、中華の方(はう)のごとし。尤も、夏・冬は燔くこと、なし。燔きて、二十日ばかり風中(ふうちう)におけば、𤍽(ねつ)[やぶちゃん注:正確には上の部分は「執」。]に蒸(む)せて 自然(しぜん)、吹化(すひくわ)して、粉(こ)となる。又、急に用ゐる者は、水をそゝげは、忽ち、觧散(けさん)す。しかれども、風化の物を「よし」として、はじめより、俵に篭(こ)めて、風のあたる處に、おき、尚、貯(たくは)へ置けば、次第に、目も重く、灰も自然に倍し、はじめ、ゆるき俵も、後(のち)には、張り切る許りとは、なれり。是れを「フケル」といふ。かくて一年づゝを越えて、かはるがはるに、市中へ送り出だせり。さて、かくなりて後は、大(おゝい)に水を忌めり。もし、水を沃(そゝ)げは、忽ち、燃へ出でて、いかんともする事、なし。故に舟中には、是れを專らと守り、又、牛に負ふせて出るに、若(も)し、雨にあひて、火(ひ)出でて、牛を損ずを恐れ、常に牛御(うしつかひ)の腰に鐮(かま)をさし、結ひたる縄を、手はやく切り解(と)くの用意とす。
○蠣灰(かきのからのはひ) 蠣房(れいほう)のことは、蠣の条下にいへるがごとし。年久(としひさ)しき物は、大(おゝ)いさ、數丈(すじやう)、﨑嶇(きく)として、山形(さんたい)のごときものもあり。海邉(かいへん)の人は、別に、鑿(のみ)と槌(つち)とを持(じ)して、足を濡らして、是れを採りて、燔(や)き用ゆ【今、藥舖(くすりや)に售(う)る所の「牡蛎(ほれい)」は、即ち、此の碎けたるなり。】。大坂などに用ゆるもの、多くは、此の灰にして、石灰は、すくなし。故に灰屋招牌(はひやかんばん)に「本石灰(ほにしばひ)」と記しぬる物は、近江の物を、させり。燔き方(かた)、石灰(やきかたいしはひ)にかはる事、なし。但し、蛤(はまぐり)・蜆(しゞみ)を燔きたるは、至つて、下品なり。
○灰用方(はひのよう) 舟の縫い合せの目を固(かた)うするには、桐(きり)の油(あぶら)・魚の油に、厚き絹・細き羅(うすもの)を調(とゝの)へ和(くわ)して、杵(つ)く事、千(せん)許りにて、用ゆ。○又、墻(かき)・石砌(せきれき)などには、先づ、篩(ふる)ふて、石塊(せきくわい)を去り、水に調へ、粘(こ)ね合はせ、油を加ふ。○壁を塗るには、帋苆(かみすさ)を加ふ。○水を貯ふ池などには、灰一分(ぶ)に河沙黃土(じやりつち)二分、土塊(どくわい)を篩ふて、水に和し、粘ね合はせて造れば、堅固にして、永(なが)く墮壞(だくわい)せず。此の余(よ)、澱(あひしろ)を造り、又、紙なと造るにも、加え用ちゆ。尚、其の用、枚(あけ)て述(の)ぶべからず。
[やぶちゃん注:「石灰」生石灰(せいせっかい)。酸化カルシウム(CaO)。石灰岩などを窯の中で二酸化炭素を放出させる熱分解(摂氏千百度前後)で作る。この技術は人類が古代から知っていた化学反応の一つで、先史時代から行われていた。
「金氣(きんき)なき地」めぼしい鉱物が採取出来ない土地柄ということか。
「和刕芳野高原」奈良県吉野郡川上村高原(たかはら)か(グーグル・マップ・データ)。
「桓武天皇、大内裏御造營……」これは延暦一三(七九四)年の長岡京からの平安京への再遷都の時のこと。
「淸凉殿御座(ござ)の傍らに石灰擅(いしはひたん)を塗り作らせたまひて」「石灰壇(いしばひのだん)」の誤り。平安宮内裏の清涼殿の東廂(ひがしびさし)南端の二間(けん)(三・六四メートルほど)、及び仁寿殿(じじゅうでん)南廂東端の二間を占め、板敷きの床の高さまで土を盛り上げ、床を石灰(漆喰(しっくい))で塗り固めた場所。「石灰の間」「壇の間」とも呼んだ。天皇が毎朝、伊勢神宮と皇居内の内侍所(ないしどころ)に向かって遙拝を行い、国家国民の安寧と五穀豊穣を祈った旧京都御所最大の聖域。清涼殿の石灰壇は(現在の「河竹」のある附近となる)、母屋(もや)に続く西側には四季屏風が立てられており、南にある殿上の間との境は壁になっていた(主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。現在の復元された京都御所では、再現されていない。概ねこの中心(グーグル・マップ・データ航空写真)附近に当たるか。
「舟楫(しうせつ[やぶちゃん注:ママ。])」正しくは「しうしふ(しゅうしゅう)」で「舟檝」とも書き、船と楫(かじ)。また、単に「舟」をも指す。ここは後者。
「垣牆(ゑんしやう)」ある領域を囲うための障壁。
「溝洫(こうき[やぶちゃん注:ママ。])」「こうきよく(こうきょく)」が正しい。「洫」は「田の水路」の意。溝(みぞ・どぶ)。田と田との間の水路。溝渠(こうきょ)。
「江州伊吹山」現在の滋賀県米原市・岐阜県揖斐(いび)郡揖斐川町・不破郡関ケ原町に跨る伊吹山地の主峰で最高峰(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。標高千三百七十七メートル。
「石部(いしべ)」滋賀県湖南市石部。
「靑石(あをいし)」ここは建築用・室内装飾用に用いる青色の凝灰岩又は凝灰質砂岩を指すか。
「夜(や)色石」「やいろいし」か。不詳。
「更地(さらち)山」「新譯目本地學論文集(十七) ライン――中山道誌(三)」(PDF)の「五十」ページ下段に『更地山(さらぢざん)註石山』とあり、その記述を見るに、恐らくは伊吹山南東(この周辺。国土地理院図)の孰れかのピーク名と思われる。
「手拐(てこ)」「拐」は「枴」の誤字であろう。「枴」は「おほこ」で「御鉾(おほこ)」の転じたもので、物を人力で運ぶための棒。京では「担い棒」と称する。「ぼてぶり」が用いるような天秤棒のやや太いものであろう。
「轉木(ころぎ)」重い物を動かす際に下に敷いて移動し易くする丸い棒で、「くれ」「ごろた」などと呼ばれるものであろう。
「二百間」三百六十三・六メートル。
「やぶ川」不詳。
「蠣蠔(かきから)」海産のカキ類の殻。
「四間」七・二七メートル。
「櫓窯(やくらがま)」第二図の上方を見よ。これを見るに、富士山型を成しており、「内は下程(したほど)、次第に細く三角になして」の「細く」は「低く狭く」の謂いであろう。
「方(はう)のごとし」「方」は処方・手法で、「中国で行われる処理法と同じである」の意。
「吹化(すひくわ)」風化。
「觧散(けさん)」「觧」は「解」の異体字。粉々になること。
「大(おゝい)に水を忌めり。もし、水を沃(そゝ)げは、忽ち、燃へ出でて、いかんともする事、なし」生石灰(CaO)は水と反応する際に発熱するので、濡れた場合、高温になって、その周りにある可燃物が発火する危険性がある。
「牛御(うしつかひ)」牛使い。「牛」の「御」(馭)者。
の腰に鐮(かま)をさし、結ひたる縄を、手はやく切り解(と)くの用意とす。
「蠣房(れいほう)のことは、蠣の条下にいへるがごとし」「日本山海名産図会 第三巻 牡蠣」を参照。
「﨑嶇(きく)」峻(けわ)しいこと。前のリンク先の私の「蠔山(がうさん)」の注を参照。海中で恐るべき高さに達することがある。
「山形(さんたい)」「山體」からの当て読み。
『藥舖(くすりや)に售(う)る所の「牡蛎(ほれい)」』漢方生剤としての「牡蛎(ボレイ)」は斧足綱翼形亜綱カキ目イタボガキ亜目カキ上科イタボガキ科マガキ亜科マガキ属マガキ Crassostrea gigas を基原とし、主成分は炭酸カルシウム・リン酸カルシウムなどの無機塩類及びアミノ酸類・ビタミン類などで、薬能としては、主に胸脇部の動悸を治すとされ、他に精神不安・神経過敏・煩悶して落ちつかない症状も効果があるとされる。
「灰屋招牌(はひやかんばん)」石灰を売る商店の看板。
「石砌(せきれき)」石畳或いは軒下に配する敷き石。
「帋苆(かみすさ)」「苆(すさ)」は左官材料に混入される繊維状材料の総称で、塗り壁に発生し易い罅(ひび)割れの抑止を主目的とし、併せて、鏝(こて)塗り作業に必要な施工性を確保しようとするものである。苆使用の歴史は極めて古く、「旧約聖書」の「出エジプト記」などでは、「日干し煉瓦」の作製に麦稈(ばっかん)を混入することが記されてある。以来、洋の東西を問わず、左官工事のあるところでは、必ず、この材料を使用しているが、特に日本では、その使用法に優れており、「藁苆」・「麻苆」など、種類も多い。ここに出た「紙苆」は「大津壁」(土に苆と少量の石灰を混ぜた材料を塗りつけ、鏝で何度も押さえることで緻密な肌に仕上げる土壁で、その名は滋賀の大津が由来。当地えでは「江州白土」と呼ばれる高雅な光沢を持った磨き壁に適した土が取れ、その工法が全国に広まったことから「大津壁」と称されるようになった。「大津壁」は大別して三種あり、「泥大津」・「並大津」・「大津磨き」がある。「泥大津」は川や田圃の土などの上澄みの肌理(きめ)の細かい部分を取り出して石灰を混ぜ、磨き壁にしたもの。「並大津」は色土を用い、石灰と紙苆を混入し、鏝で押さえて仕上げたもので、黄・赤など、鮮やかなものが多く、光沢を押さえて仕上るため、上品な印象を与える。ここは東京の「原田左官工業所」公式サイトの「大津壁について」を参照した)や漆食の磨き仕上げ及び漆食塗りの一種であるパラリ壁(京都御所、桂離宮などに用いられている白色上塗り。通常の漆食が鏝押えされ、平滑に仕上げられるのに対し、表面に粗粉や斑(まだら)を残した仕上げとするもの)に用いる。上質の和紙を水に浸し、よくたたいて繊維をほぐして使用する(以上は主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「一分(ぶ)」ここは割合で十分の一のこと。
「澱(あひしろ)」澱(おり)。
「枚(あけ)て述(の)ぶべからず」枚挙に暇がない、の意。]