大和本草諸品圖下 鰣魚(エツ) (エツ) / 「諸品圖」の魚類パート~了
[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのここの画像をトリミングした。魚体図のみをさらにトリミングし、横にして示しておいた。キャプションの原文復刻は長いので、初めから続けて示した。]
鰣魚(エツ)
本書ニ載タリ大河ノ下(シモ)潮(ウシホ)ノ通スル處ニアリ河魚ナリ長六七寸大ナルハ八九寸バカリ橫ハヾ一寸餘首(カシラ)短ク目小シナリ目ハ口(クチ)ノ傍(ソハ)ニ近シヒレ處々ニアリ色頗ル白シ尾ハナマヅノ如ク小ニ扁(ヒラ)シ肉ニ脂(アフラ)少有口(クチ)ノ廣キコト鰷如シ背ハ淡(ウス)黒シ其餘ハ白シ夏間多シ大鼓ナドノナリ物ヲヲソル雷ニヲソル是ヲトラントテハ漁人大鼓ヲタヽキ船ハタヲタヽギ[やぶちゃん注:ママ。訓読では訂した。]板ヲウチナラシ一方ニ追ヨセテアミニシテ引ヨセトル此魚小ナル橫骨甚多シ乾(ホ)シテカハケルハ其骨外ニアラハレ見ユム子ニコトニ骨出たる處橫ニ多クアラハレ見ユ處々鯵ノウロコノ如シ腹下ニカドアリ是鰣魚ナルベシ此魚味ヨキ故ニ彭淵材カ五恨ノ一ニ鰣魚ニ骨多キヲ恨ムトイヘリ此魚諸州ニマレニアリ京江戶大坂ニハ在モヤスラン未見肉ヲ細ク切水ニ入ヨクモミアラヒテ油ヲ去ベシツヨクモンデモクダケズ味カロクヨシ多ク食シテ害ナシサシミナマスニシテヨシヤキテモ食ス上品ナリ
○やぶちゃんの書き下し文[やぶちゃん注:長いので、段落を成形した。]
鰣魚(エツ)
本書に載せたり。
大河の下(しも)、潮(うしほ)の通ずる處にあり。河魚なり。長〔(た)け〕、六、七寸、大なるは、八、九寸ばかり。橫はゞ、一寸餘〔(あまり)〕。首(かしら)、短く、目、小〔(ちいさ)〕しなり。目は、口(くち)の傍(そば)に近し。ひれ、處々にあり。色、頗る白し。尾は「なまづ」のごとく、小に〔して〕、扁(ひら)し。肉に、脂(あぶら)、少し有り。口(くち)の廣きこと、鰷〔(あゆ)の〕ごとし。背は淡黒(うす〔ぐろ〕)し。其の餘は白し。
夏〔の〕間、多し。大鼓などの「なり物」を、をそる。雷に、をそる。是れをとらんとては、漁人、大鼓をたゝき、船ばたをたゝき、板を、うちならし、一方に追ひよせて、あみにして、引きよせ、とる。
此の魚、小なる橫骨、甚だ多し。乾(ほ)してかはけるは、其の骨、外にあらはれ、見ゆ。むねに、ことに、骨、出でたる處、橫に多くあらはれ見ゆ。處々、鯵のうろこのごとし。腹〔の〕下にかどあり。
是れ、鰣魚なるべし。此の魚、味よき故に、彭淵材〔(はうゑんざい)〕が「五恨〔(ごこん)〕」の一つに、「鰣魚〔(しぎよ)〕に骨多きを恨む」といへり。
此の魚、諸州に、まれに、あり。京・江戶・大坂には在るもやすらん、未だ見ず。
肉を細く切り、水に入れ、よく、もみあらひて、油を去るべし。つよくもんでも、くだけず。味、かろく、よし。多く食して、害、なし。さしみ・なますにして、よし。やきても、食す。上品なり。
[やぶちゃん注:図の魚体から見て、条鰭綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目カタクチイワシ科エツ亜科エツ属エツ Coilia nasus で間違いない。「大和本草卷之十三 魚之下 エツ」を、まず、参照されたい。何故かと言うと、本邦での棲息域は筑後川河口域を中心とした有明海の湾奥部汽水域にほぼ限られている(産卵時には河口から十五キロメートル以上の純淡水域まで遡る)有明海特産魚だからである。私も生魚を見たことがないし、食したこともない。だから、キャプションで「此の魚、諸州に、まれに、あり。京・江戶・大坂には在るもやすらん、未だ見ず」とあるのは、当たらずとも遠からずなのであって、益軒及びその弟子たちは福岡藩がオリジナルなフィールドであり、日常的にエツを見かけることが出来たエツについて観察し、その漁法風俗・食味を知ることに関しては、「悦(エツ)」に入ってよい、すこぶる稀に幸せな環境にあったのである。諸州は佐賀・長崎・熊本と考えれば、問題なく、京都・江戸・大坂には持ち込まれること自体が、まず、なく、私が未知であるのと変わらず、エツという魚がいること自体を、九州を除く当時の圧倒的多数の日本人は認知していなかったのである。それを敏感に感じ取った、この図とキャプションを担当した筆者(私はこの「大和本草諸品圖」のキャプションは益軒の指示を受けつつ、弟子の誰かが書いたものである可能性が高いように思われる。この妙に詳しいせせこましい記載と図の強引な吊るし乾しのような押し込み方がそれを示唆していると思うのである。益軒自身が書いたものなら、もっと読み易く大きく配置したと思うし、そうでないからこその圧縮と私は感じるのである)の渾身の仕事と読むものである。というより、これは、現在に至るまで、世界的に見ても(中国にも同種や近縁種が棲息しているというが、研究は殆んど成されていないようである)、優れた博物的図説と言って構わないと感ずるものである。学名のグーグル画像検索をリンクさせておくが、既知の同じ魚形の種を私は想起出来ない。
「鰣魚」残念乍ら、この漢名及び以下の漢籍に基づく『彭淵材〔(はうゑんざい)〕が「五恨〔(ごこん)〕」云々の一節は、総てこれ、エツではない。ニシン亜目ニシン科シャッド亜科テヌアロサ属鰣魚(和名なし)Tenualosa reevesii である。当該ウィキによれば(そこでは「仮称」として「鰣魚」を出して「ジギョ」と読んでいるが、私は「シギョ」と読んだ。それは「鰣」の音の「ジ」は中国の中古音を元にした呉音(仏教用語に多い)であり、漢音では本邦の官用の基本音である「シ」であるからに過ぎない)、『中国周辺の固有種』で、本邦には棲息しない。『ジギョは、通常』、『海水の上層で回遊している魚であるが』、四月から六月に『なると、長江、銭塘江、閩江、珠江など、中国の川の下流域に産卵のために遡上し、かつ脂が乗っているため、季節的に現れる魚との意味から「時魚」と称し、古来珍重されてきたが、標準和名は付けられていない。明治時代の』「漢和大字典」には『「鰣」に「ひらこのしろ」の注が見られるなど、ヒラコノシロやオナガコノシロと記した字書、辞書、料理書もあるが、根拠は不明』。魚のヒラは『ニシン目ヒラ科ヒラ亜科』Pelloninae『に分類され、コノシロは』ニシン科『コノシロ亜科』Dorosomatinae『で近縁種とはいえず、魚類学、水産学の書籍で使っている例は見いだせない。なお、国字の「鰣」は「ハス」と読むが、これは全く異なるコイ科』Cyprinidae『の魚である』(クセノキプリス亜科 Oxygastrinae ハス属ハス Opsariichthys uncirostris )。『広東省では「三黎」、「三鯠」(広東語 サームライ)と称する。古名に「魱」(ゴ、hú)、「鯦」(キュウ、jiù)、「當魱(当互)」、「魱鮥魚(河洛魚)」がある』。『学名は何度も変更されており、シノニムに』、Alosa reevesii ・Hilsa reevesii ・Macrura reevesii などがある。『いずれも、reevesii(レーベシー)という種名が入っているが、東インド会社の茶の鑑定人で』、一八一二年に広東を訪れ、この魚の記録を残した』イギリスの博物学者ジョン・リーヴス(John Reeves 一七七四 年~一八五六年)『の名にちなむ』。『一般的に成魚は、雄が体長』四十センチメートル前後、体重一・三キログラム程度、♀で体長五十センチメートル前後、体重二キログラム程度であるが、最大六十センチメートル以上に『なるものもある。体色は銀灰色で、背側が黒っぽく、腹側が白っぽい。体は長いひし形に近く、V字型の長い尾鰭を持つ』。『中国周辺の黄海南部から、台湾、フィリピン西部にかけての海域に生息する。春に淡水域まで遡上した成魚は』、五月頃に『産卵した後、海に戻る。一尾で』二百『万粒程度の卵を産む。産卵後』一『日程度で孵化し、稚魚は淡水域で数ヶ月育ち、秋の』九~十月に『海に移動する』。三『年で成魚となるといわれる』。『長江流域を中心に、かつて、年間数百トン獲れ』、一九七四年には千五百トンを『超えたともいわれる。当時は湖南省の洞庭湖や、さらに上流でも捕獲できたが、乱獲によって』一九八〇『年代には年間』一『トン未満となり、幻の魚と呼ばれるようになった。このため、資源が枯渇するのを防止すべく、中国政府は』一九八八『年に国家一級野生保護動物に指定し、現在は捕獲を禁じている』。『春の、産卵時期より早い』四月末から五月頃が『旬で、脂がのっている。川を遡上する途中で、餌はあまり取らないため、上流になるほど』、『脂は落ち、風味も下がるとされる。新鮮なものを、蒸し魚とすることが好まれた。鱗は取らず、湯で表面の臭みを洗ってから、塩などで下味をつけ、ネギなどの薬味を乗せて蒸し、後でたれをかけた「清蒸鰣魚」にする場合と、ブタの網脂で覆い、シイタケ、タケノコ、金華ハムなどを乗せて、鶏がらスープをかけて蒸す場合がある。また、醤油と砂糖を使った煮物や、鍋料理などにも用いられた。鱗を取らないのは、鱗が柔らかくて脂がのっているためとされるが、旧暦の端午の節句を過ぎると硬くなり』、『食べられなくなる』。二十『世紀には、特に長江流域の鎮江市から南京市辺りの名物料理とされた』。『現在、中国ではジギョの捕獲が禁止されているため、中国で養殖された別属のアメリカシャッド』(American shad:中国語「西鰣」:ニシン目ニシン科シャッド亜科 Alosinae アロサ属アメリカシャド Alosa sapidissima )『が「鰣魚」と称して流通しているが、少量にすぎず、しかも高価である』。『後漢の』「説文解字」に「鯦、當互也」の記載があり、「爾雅」の「釋魚」にも「鯦、當魱」という記載がある。孰れも本魚を指すと考えて問題はない。『明以降には皇帝への献上品として用いられた。南京は産地であって新鮮なものが食べられたが、北京に都が移ると』、『輸送が難しくなり、腐敗が始まって臭くなったため、「臭魚」とも呼ばれた』。『清の書籍には具体的な産地や調理法の記録も多くなる。浙江省紹興周辺の言葉を集めた』清の范寅(はんいん)の「越諺」(えつげん)には、『「厳瀬、富陽の物が良く、味が倍加する。滋味は鱗と皮の間にある。」と記載されている』。北宋の料理書「中饋録」(ちゅうきろく)には、『「わたは取るが』、『鱗は取らず、布で血を拭き取り、鍋に入れて、花椒、砂仁、醤、水、酒、ネギを加えて和え、蒸す。」と具体的に書かれている』。清の医師陸以湉(りくいてん)の医書「冷廬雑識」(れいろざっしき)には、『「杭州で鰣魚が初物として出回る時には、富豪がこぞって買いにやるため、値が高く、貧乏人は食べられない。」との記述がある。また、清の詩人袁枚』(えんばい)は、かの食通本「随園食単」の『「江鮮単」で、エツ類』(★!☜!★「川魚の部」。その最初に「刀魚(タオユイ)の煮方二種」が挙げられ(小骨の多さが、バッチリと語られてあり、その処理法も載るる!)、その後に「鰣魚(シイユイ)」の調理法が続いているのである。これを見ても、両者が別種であることは一目瞭然なのだ!)『と同様に甘い酒の麹や醤油と共に蒸したり、油をひいて焼くのが良い、風味が全くなくなるので、間違ってもぶつ切りにして鶏肉と煮たり、内臓や皮を取って調理してはならない、と述べている』とある。
『彭淵材〔(はうゑんざい)〕が「五恨〔(ごこん)〕」の一つに、「鰣魚〔(しぎよ)〕に骨多きを恨む」といへり』。彭淵材(生没年未詳)は北宋の官人文人。彼がある時、自身が世にあってある五つの恨み言の命数として「一恨時魚多骨 二恨金橘帶酸 三恨蓴菜性冷 四恨海棠無香 五恨曾子固不能詩」(「金橘」はキンカン。「曾子固」は北宋の散文家で、唐宋八大家の一人に数えられる曾鞏(そう きょう 一〇一九年~一〇八三年)を挙げたことをいう。恐らく、前に引かれた「隨園食單」の謂いからも、鰣魚もエツと同じように美味いけれども、小骨が異様に多いと読めるのである。]
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