芥川龍之介書簡抄76 / 大正六(一九一七)年書簡より(八) 塚本文宛
大正六(一九一七)年七月六日・鎌倉発信・塚本文宛
先達はお手紙難有う丈夫に平凡にくらしてゐます早く夏休みになればいいと思つてゐますまだ十五六日ありますから待遠しくつて仕方がありません下宿ももう可成り飽きましたすべてが利害關係だけで情味がないのだからやりきれません今からお料理の稽古をして置いて一しよに住むやうになつたら御馳走をたべさせて下さいうまいものなら何でも好きです
こなひだは橫須賀から山口縣の由宇(ユウ)と云ふ所まで軍艦で行つてそこから岩國と京都とによつて歸つて來ました京都へは駿河屋の羊羹をたべによつたのです甘みのうすい上品な羊羹ですこんど京都へ行つたらおみやげに買つて來てあげませうか鎌倉へは異人が大ぜい來てゐます夕方に彼等が大ぜい散步してゐるのを見ると西洋菓子が步いてゐるやうで大へんきれいですこなひだ異人のおばあさんが日本人の店で買物をして困つてゐたから通辯してやりました
さうしたらうれしがつて何度もお禮を云ひましたそれ以來顏を覺えて往來であふと向うから挨拶します尤ももう今はゐなくなつてしまひましたが
ボクのうちの前の不良少女は每日おしろいをつけてすましてゐますこの暑いのによくあれ丈根氣があるなと思つて大に感服してゐますその鄰りの薪屋では昨日誰か死んでお葬式がありました今朝前を通つたらそこのお上さんが淚をぽろぽろこぼしながら大きなお饅頭を食べてゐました氣の毒のやうな可笑しいやうなへんな氣がしましたいろんなくだらない事を澤山書いたからもうやめます 以上
七月六日 芥川龍之介
塚本文子樣
二伸 小說をかくのとかけないのを斷るのとで忙しい思ひをしてゐますその爲この手紙を書くのが一日ばかり遲れました皆さんによろしく
[やぶちゃん注:「二伸」は全体が二字下げであるが、引き上げた。
「橫須賀から山口縣の由宇(ユウ)と云ふ所まで軍艦で行つてそこから岩國と京都とによつて歸つて來ました」前の書簡の私の注を参照されたい。
「駿河屋の羊羹」芥川龍之介は大の甘党である(酒は飲めないわけでではなかったが、好きではなかった)。室町中期を創業とする京都府京都市伏見区京町に現存する老舗菓子屋「総本家駿河屋 伏見本舗」。ここ(グーグル・マップ・データ)。公式サイトはこちら。ここの総本店は「総本家 駿河屋善右衛門 駿河町本舗」で和歌山市駿河町にある。私は糖尿病だが、今度、食べてみたいと思う。]
« 芥川龍之介書簡抄75 / 大正六(一九一七)年書簡より(七) 江口渙・佐藤春夫連名宛 | トップページ | 芥川龍之介書簡抄77 / 大正六(一九一七)年書簡より(九) 片山廣子宛 »