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2021/06/27

日本山海名産図会 第五巻 織布

 

Etigonuno

 

Etigoyurisarasi

 

[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「越後織布(ゑちごぬの)」、第二図は「越後布晒雪(ゑちごぬの ゆきに さらす)。家屋に立てかけえあるように見えるのが、ごく簡易な「雁木」であろう。]

 

   ○織布(ぬのおる)

大和奈良・越後・近江などに織り出だす事、夥し。中(なか)にも、越後を名產とし、「越後縮(ゑちごちゞみ)」と稱して、苧麻(まを)の生質(せいしつ)、よく、紡績(はうせき)の精工なりとす。是、越後に織りはじめしことは、未詳(つまびらかならず)といへども、南都・近江よりは、古(ふ)るし。其の故は、越後連接の國信濃をはじめ、武藏・下総・下野・常陸など。皆、古へ、苧麻の多く生ぜし地なれば、國の名をも、それによりて号(なづ)くる物、下総(しもふさ)・上総・信濃なり。上総・下総は、元、「フサの國」といひて、即ち、「フサ」、「アサ」の轉語なり。又、麻(あさ)を「シナ」といふは、東國の方言にて、今も尚、しかり。蝦夷(ゑぞ)人の、帶(おび)を、「シナ」云、木の皮にて、作る、と云うも、是れなり。信濃は「シナヌノ」と云ふことにて、專ら、織り出だせし地なるべし。「和名抄」に信濃の國郡に「シナ」といふ名、多し。更科(さらしな)【是れ、晒したる地なるべし。】・穗科(ほしな)【干したる地なるへし。】・倉科(くらしな)【麻を納めし倉か。】・仁科(にしな)【煮て、皮を剥(はき)きし[やぶちゃん注:ママ。衍字とも「剝ぎ來し」ともとれる。]地なるか。】、又、伊那郡のうちに、麻績(をみ)、更科郡に麻績(をみ)などの名ありて、即ち、麻(を)を績(う)みたる地なり。又、「神樂歌」に ┌─木綿(ゆふ)作る しなの原にや麻(あさ)たつねたつねと。又、「延喜式」、『内藏寮(くられう)、長門の國、交易にすゝむる所、常陸・武藏・下総の麻(を)の子【是、古の食なり。】。』、又、『大藏省(おほくらせう)、春秋二季の禄布(ろくふ)に、「信濃布(しなのぬの)」を以(も)ち、内侍司(ないしのつかさ)に充つる。』とも見へて、皆、是れ、證とするに足れり。故に越後の國は、連接なるを以つて、自(おのづか)ら、後世、此(こゝ)に移せしなるべし。常陸(ひだち)は「倭文(しづか)」といひて、「島模樣」など、織り出したる名なりともいへり。

○越後の國は、十月頃より三月までは、雪、家(いへ)を埋みて、大道の往來は、屋の棟(むね)よりも高く、故に家の宇(のき)を、深く作りて、是れを、往來ともす。家向(いへむか)ひへ、通ふには、雪に、多く、雁木(がんぎ)を付けて、上下す。されば、山野谷中(さんやこくつい)といへども、草葉樹梢(さらやうじゆしやう)を隱し、耕作の便(たより)を失へば、男女老少(なんによらうせう)となく、織布(しよくふ)を業(こと)とすること、實(まこと)に、國中、天資(てんし)の富(とみ)なり。○今、柏嵜(かしはざき)といふは、海邉(かいへん)にして、布商人(ぬのあきひと)の幅湊(ふくそう)し、小千谷(をぢや)は、畧(やゝ)隔てゝ、亦、商人、有り。是れ、信濃に、ちかし。苧麻(まを)を種(う)ゆる地は、今、下谷(しもたに)の邉に多く、千手(せんじゆ)と云ふ所は、「かすり島(しま)」上織(じやうをり)の塲にて、塩澤町(しほさわまち)は「紺かすり」、十日町は「かはり島」、堀の内の邉は「白縮(しろちゞみ)」を専らとす。一村に一品(しな)の島模樣(しまもやう)をのみ織りて、他品(たひん)を混ぜず。問屋、是れを取り合わせて諸國に貨賣(くわはひ)す。

○苧麻種植(まを、たねうへ)漂染織(さらし、そめ、おる)の事。  苧麻(まを)は土(つち)として、生ぜざる所、なし。「撒子(みうへ)」・「分頭(わけうへ)」の兩法あり。色も、靑・黄の兩樣あり。每歲(まいねん)、兩度(りやうど)、刈る物、あり。然(しか)れども、圡(つち)によりて、同種のものも、其の性の、强弱、有り。既に近江に種ゆる物、其の性、柔滑(じゆうくわつ)なり。東國寒地(かんち)の物は、至つて强し。故に、越後は、其の性のみにもあらず。都に遠くて、人性(しんせい)も質素なれば、工巧(こうこう)、最も精(くわ)し。

○大麻(あさ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])は楓(もみち)の葉の如く、苧麻(まを)は桐の葉に似て、大(おほ)ひに異(こと)なり、苧麻(まを)は、生(しよう)にて皮を剥ぎ、大麻(あさ)は「煮ゴキ」と云ひて、煮て、剥くなり。大麻(あさ)は雄(お)は、花、あり、「サクラアサ」と云ふ。雌(め)は、花、なく、實(み)、あり。是れ、種(たね)にて、蒔けは、自(おのづか)ら、交(まじ)りて、生ず。即ち、雌雄(しゆう)なり。苧麻(まを)は「カラムシ」とも云ひて、苗(なへ)の高さ、五尺ばかり、五月八日に刈り、其の跡を、焚(や)きておけば、來年、肥大なり、とす。是れ、「奈良そ」とも、いひて、南都に織る物、是れなり。越後、最も苧麻(まを)なり。種類、山野に多し。○凡そ、苧(お)の皮、剥き取りて後(のち)、若(も)し、雨にあへば、腐爛する故に、晴天を見窮むるにあらざれは、折らず。されども、草を破折(はぐ)の時は、水を以て、侵(ひた)し[やぶちゃん注:漢字はママ。]、是れ亦、廿刻(にじつこく)ばかりより久しくは、ひたさず。色は淡黄(あはき)なるを、漂工屋(さらしや)、是れを晒して、白色とするには、先づ、稻の灰(はひ)と、石灰(いしばひ)とを、以つて、水を加へ、煮て、又、流れに入れて、ふたゝび、晒らす。

○糸を紡(よ)るには、上手の者は、脚車(あしくるま)を用ゆ。是れ、女一人の手力(ちから)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に三倍す。其のうち、性(しやう)よき物を撰(ゑ)りて、細く破(さ)きて、織るなり。粗きは糾合(よりあわ)せて、縄、或ひは、縫線(ぬひいと)の糸(いと)とす。

是れ、皆、婦人の手力(しゆりき)、専らにして、男、相ひ交はれり。故に國俗、女を產することを、喜べり。それが中(なか)に、二歲、三歲の時、指の爪を候(うかゞ)ひ、細手(ほそて)・粗手(あらて)の生質(せいしつ)を候ひ、若(も)し、細手の生れ付きなれは、國中、あらそふて、是れを、もとむ。

○糸を染る事、京都のしわざに、かはること、なし。島類(しまるい)は、織り上けを、宿水(ねみづ)に、揉み洗ひ、陰乾しとす。白布(はくふ)は織りて後(のち)に、晒らす。是れを晒すには、彼(か)の灰汁(あく)にて、揉みあらふ事、三、五度にして、又、降り積みたる雪に、敷きならべて、其の上に、亦、雪を積らせ、又、其の上へ、ならべて、幾重(いくゑ)といふことなく、高く堤(つゝみ)を筑(つ)きたる如く、日のあたりて、自然(しぜん)と消へゆくに、したかひ、至つて白くなるを、又、水に、よく揉み洗らふ。

[やぶちゃん注:以下、底本では最後まで全体が三字下げ。]

○一說に云はく、布商人(ぬのあきびと)習俗の俚言(りげん)に、布の精粗(せいそ)上下の品(ひん)を見わくるに、「一合」と言ふを、「極細(こくさい)の布」とし、「二合」・「三合」、是れに次第す。但し、是れ、山中にて織る布(ぬの)なり。「一合」は、山の頂上にして、人質(しんしつ)も、甚だ、素朴なり。故に衣食住の費(ついへ)、一年の入用、妻子に給する所といへ共、五、六十目ばかりにして、細布(さいふ)一端(いつたん)の料(りやう)の紡績(ほうせき)に、事足(ことた)り、其いとま、せはしからず。故に至細(しさい)の物は、山の「一合」にありて、それより、「二合」、「三合」と、次第に、ふとくなること、全く、世事(せじ)の緩急(くわんきう)にありとは、見へたり。これに依りておもへば、當世の器物(きぶつ)・諸藝、萬端(ばんたん)、精良(せいりやう)、昔に劣ること、此の「二合」・「三合」に等し。

[やぶちゃん注:「越後縮(ゑちごちゞみ)」越後国小千谷(おぢや)地方(現在の新潟県小地谷市。グーグル・マップ・データ。以下同じ)で織られる麻織物。「小千谷縮」とも。当地では古来より「青苧(あおそ)」(被子植物門双子葉植物綱イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea 当該ウィキによれば、この本文でも多様に現われる通り、『文献上の別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)などがあ』り、『また』、他に『カツホウ、シラノ、シロソ、ソロハ、シロホ、ヒウジ、コロモグサ、カラソともい』い、『古代日本においては「ヲ」という表記もある』とある)呼ばれる苧麻(ちょま)の一種を原料として作った糸を、「躄機(いざりばた)」(織る人が足を前に出して地面や床に座って織る原始的な織機。縦糸の一端につけた帯を腰に当てて織る。地機(じばた)とも呼ぶ。「青森県庁」公式サイト内のこちらで見られる)で織った「越後上布(じょうふ)」が知られた。江戸初期、明石の浪人堀将俊(まさとし)が、「越後上布」に改良を加え、「縮地(ちぢみぢ)」を創案し、将軍家の「御用縮」となり、武士の式服に制定され、普及した。最盛期は十八世紀後半であった。現在、その技術は国指定重要無形文化財となっている(平凡社「百科事典マイペディア」を主文とした)。グーグル画像検索「越後縮」をリンクさせておく。布以外にも「雪晒し」の画像や諸器具のそれもある。

『上総・下総は、元、「フサの國」といひて、即ち、「フサ」、「アサ」の轉語なり』ウィキの「総国」(ふさのくに)によれば、『斎部広成』(いんべのひろなり 生没年未詳:平安初期の貴族官人)『が自家の掌職を主張したとされる』「古語拾遺」(大同二(八〇七)年に平城天皇の朝儀に関する召問に応えて編纂した神道資料)『よれば、天富命』(あまのとみのみこと)『が天日鷲命』(あまのひわしのみこと)『の孫達を従えて、初め阿波国麻植』(おえ)『(後の麻植郡)において、穀物や麻を栽培していたが、後により豊かな土地を求めて衆を分け』、『一方は黒潮に乗って東に向かった。東の陸地に上陸した彼らは新しい土地に穀物や麻を植えたが、特に麻の育ちが良かったために、麻の別称である「総」から、「総国」(一説には「総道」)と命名したと言われている』。『麻の栽培して成功した肥沃な大地が』「総の国」であり、『天日鷲命の後裔の阿波の忌部の居住地は』「阿波」の名をとって「安房」と『したのだという』。「古語拾遺」の説に『従えば、「麻=総」という図式が成立することになるが、「総」という字には麻に関係する意味は存在しない。そのため、この説は伝承にすぎず』、『信頼できないともいわれていた』。一方、「日本書紀」の『律令制に関する記事は正史として高く評価されており』、「大化の改新」(大化元(六四五)年)が『日本の律令制導入の画期だったと理解され、令制国の成立を大化の改新からそう遠くない時期とし、この時期に上総国と下総国も成立したとするのが定説だった』。昭和四二(一九六七)年十二月、『藤原京の北面外濠から』「己亥年十月上挾國阿波評松里」(「己亥年」は西暦六九九年)と『書かれた木簡が掘り出された。この木簡により』、七『世紀末には』「郡」ではなく、「評」と『表記されていたことが判明し、郡評論争に決着が付けられた』(「評」は七世紀後半の日本の地方行政単位。古代大和国家では初期の行政単位として「国造」制がとられていたが、「大化の改新」の数年後、旧来の国造が支配していた領域を分割し、新たに「評」という行政単位を設けた。その役人を「評造」(こおりのみやつこ=「評督」「助督」)と称し、徴税などの農民支配に当たった。大宝元(七〇一)年に成立した「大宝律令」により、「評」は「郡」に、「評造」は「郡司」と改められた。「評」は「郡」よりも軍事的性格が強かったと考えられている。「評」から「郡」への変更時期を巡っては長く論争が行なわれてきたが、相次いで発見されたこうした木簡調査の結果から、七〇一年以前のものが「評」を使い、それ以後のものが「郡」を使っているところから、一挙に解決を見た。なお、古代朝鮮でも軍営の置かれた地区を示す語として「評」の語が使われていた)。『この際』、「上挾國阿波」の『表記については(=上総国安房)と解釈されていた。続いて』、「天觀上捄國道前」という『木簡も発見されたが、こちらの』四『字目は判読しにくく、様々な文字を当てはめる説が出された。そのうちに「捄」と読む説も出たものの、「上捄」では意味が通じないとされ、一旦は保留とされていた』。『その後の研究で「捄」という字の和訓は』「總」と同じ「ふさ」であること、「天觀」という上総出身の僧侶が、『この時代に実在していた事が明らかとなり、律令制以前の表記は』「總」ではなく、「捄國」・「上捄」・「下捄」など、『「捄」の字が用いられていた可能性が高くなった』。『「房をなして実る物」という「捄」の意味は』、『麻の実にも該当することから』、「麻」と「總」を『間接的には結び付けることが可能となり、この地域は「捄」と称され』、『令制国成立後』、『同じ和訓を持つ』「總」に『書き改められたとすれば』、「古語拾遺」の『説話は簡単には信じられないながらも、一定の評価がされることとなった』。それに対し、「日本書紀」にある「大化の改新」の『詔の文書は、編纂に際し』、『書き替えられたことが明白になり』、「大化の改新」の『諸政策は後世の潤色であることが判明』し、「日本書紀」による『編年は、他の史料による多面的な検討が必要とされるようになった』。『このことから、令制国の成立を』「大化の改新」から『そう遠くない時期とした従来の定説は崩れ』、『現在では一般的に国(令制国)の成立は』「大宝律令」制定に『よるとされるようになった。だが、上総国・下総国については』、『これとは別の見方がある。下総国については』、「常陸国風土記」に『香島郡(鹿島郡)の建郡について』「大化五(六四九)年、下総国海上国造の部内軽野以南の一里と、那賀国造の部内寒目以北の五里を、別けて、神郡を置いた」とあり、『孝徳期』(在位:孝徳天皇元(六四五)年~白雉五(六五四)年)『以前に成立していたことがうかがえ、また』、「帝王編年記」では、『上総国の成立を安閑天皇元年』(五三四年)『としており、語幹の下に「前、中、後」を付けた吉備・越とは異なり、毛野と同じく「上、下」を上に冠する形式をとることから』、六『世紀中葉の成立とみる説もある』とある。

『麻(あさ)を「シナ」といふは、東國の方言にて、今も尚、しかり』この辺りから、作者の謂いには対象を十把一絡げにしてしまった致命的な誤りが生じているように思われる。「しな」は小学館「日本国語大辞典」によれば、作者が引く「神樂歌」の「明星」の「木綿作る」の「木綿(ゆふ)作る しなの原にや麻(あさ)たつねたつね」の原表記は「木綿(ゆふ)作る 志名乃波良(シナのはら)に や 朝尋ね 朝尋ねや」で、『神楽歌の例「志名乃波良」は、「信濃原」として信濃の国の原の意ともする説もあるが、元来「木綿(ゆふ)を作る科(しな)」の意である、信濃の国名の由来を「科(しな)野」と解する』のに従うならば、掛詞『的表現とも考えられる』とあるのだが、そもそもがそこでは意味を、『「しなのき(科木)の略』としているのである。ここではっきりさせておかないといけないのは、「しなのき」と「麻(あさ)」(カラムシ)とは全く別な植物である点である。一応、小学館「日本国語大辞典」のそちらを引くと、『シナノキ科の落葉高木。日本特産で、北海道から九州までの山地に生え、高さ一〇メートルに達する。葉は互生し、長柄をもち』、『長さ四~八センチメートルの心臓形で』、『縁に不規則な鋸歯(きょし)がある。初夏、葉腋(ようえき)から長い花柄を下垂し、芳香のある褐色の小さな五弁花を集めてつける。花柄の基部には』、『へら形の苞葉があり、花柄と苞葉とは途中まで癒合している。果実は径約五ミリメートルの卵状球形で褐色の短毛におおわれる。材は彫刻・げた・鉛筆材に使う。樹皮の繊維で布を織り、船舶用のロープを作る。和名は』「結ぶ」の『意味のアイヌ語に基づく』とあるのだ。則ち、これは日本特産種である、被子植物門双子葉植物綱アオイ目アオイ科 Tilioideae 亜科シナノキ属シナノキ Tilia japonica なのである。当該ウィキによれば、『長野県の古名である信濃は、古くは「科野」と記したが、シナノキを多く産出したからだともいわれている』。『樹皮は「シナ皮」とよばれ、繊維が強く主にロープの材料とされてきたが、近年合成繊維のロープが普及したため、あまり使われなくなった。大型船舶の一部では未だに使用しているものがある』。『古くはこの木の樹皮をはぎ、ゆでて取り出した繊維で布を織り榀布(科布=しなぬの・しなふ)、まだ布、まんだ布と呼び、衣服なども作られ』(☜)、『アイヌは衣類など織物を作るため』(☜)、『シナノキの繊維を使った。現在でもインテリア小物などの材料に使われる事もある』とある。これはまさに、作者がこの直後に言う、『蝦夷(ゑぞ)、人の帶(おび)を、「シナ」云』(ここは「と云ひ、」であろう。)『木の皮にて、作る、と云うも、是れなり』とあるのと一致してしまうのだ。この「シナ」は「シナノキ」であり、「カラムシ」=「麻(あさ)」ではないのである。以下、調子に乗った作者は『信濃は「シナヌノ」と云ふことにて、專ら、織り出だせし地なるべし』とやらかして、悦に入っている。我々は、この誤りを、ここで遮断して、以下は正常に「カラムシ」の意味に戻して読み進めなければ、以下の叙述総てが無効化してしまうのである(直後の地名のそれは面白く、「シナノキ」としては一面で正しい可能性がないとは言えぬ気もしそうになるが、作者はシナノキがカラムシだと思っているわけでからして、これ、全然、ダメなのである)。

『「和名抄」に信濃の國郡に「シナ」といふ名、多し』表記に嘘がある。「和名類聚抄」の巻第七の「國郡部第十二」の「信濃國第九十一」では、「更科」の表記は「更級」である。あるのは「穗科」と「倉科」だけで、「仁科」はない(後は郡(こほり)名の「埴科(はにしな)郡」であるが、作者はそれを挙げていない)。面白いとは言ったが、安易な語呂合わせが面白いだけで、賛同しているわけではないので、注意されたい。所持する松永美吉著「民俗地名語彙事典」(一九九四年三一書房刊の「日本民俗文化資料集成」に含まれてあるもの)もでは、最後にちょろっと「シナノキ」説が一行余り出るだけで、信濃の地名としての「シナ」は地形の階段状の傾斜地の平坦部の意であると断定されている。

「伊那郡のうちに、麻績(をみ)、更科郡に麻績(をみ)などの名ありて」これは孰れもあるのを確認済み。

『常陸(ひだち)は「倭文(しづか)」といひて、「島模樣」など、織り出したる名なりともいへり』「南あわじ市立倭文中学校」公式サイト内の「倭文の由来」に、「シトオリという織布」は「倭文(しず)」(「旧事記」所収)『という織物の名で、正しくは「シズリ」「シドリ」』(「和訓栞」所収)、「シズオリ」(「天武記」所収)『等と読むべきで、これを「シトオリ」となまって読むのは最も拙い読みかたである。この織物は楮(こうぞ)、麻、苧(からむし)などの繊維で、その横糸を』、『赤青の原色で染めて乱れ模様に織ったもので、つまり横シマの楮(こうぞ)布、麻布、苧(からむし)布であるという』(シナノキは出てこないことを確認されたい)。『三原郡緑町と三原町(両町とも現在は南あわじ市)の倭文付近は』、「和名抄」に『でている「三原郡倭文郷」の地である。「倭文」という地名は』、「和名抄」に、「常陸國父慈郡倭文鄕」・「美作國久米郡倭文鄕」・「上野國那波郡倭文鄕」・「淡路國三原郡倭文鄕」・「因播國高草郡委文鄕」として出、『「倭文」「委文」ともに、「之土利」「之止里」と訓注されているので、「しとり」と読んだのである。三原町倭文委文の「委文」は、現在』、『「いぶん」と読んでいるが、これももとは「しとり」である』。「日本国語大辞典」に『よれば、「倭文」は「しず」とも「しつ」とも読み、古代の織物の一種で、梶の木・麻などで』、『筋や格子を織り出したものをいう』。「大漢和辭典」に『よれば、「倭文」は「しづ」「しどり」とあり、「しどり」は「しづおり」の約とある』。「織物の日本史」によると、『「倭文布(しずおり)」は、五世紀後半から確立される部民制的生産機構に編成された一つの倭文部民(しとりべ)によって生産されたものである』。『「工芸資料」では「シズ」は筋のことである。今日説く』「縞(シマ)」とは「島物」の『略で、もと南方諸島より渡来した布の意であるとする』。『一説にシズとはオモリのことである。これの織機は農家で用いていた「わらむしろ」を作るような原始的な機械で、相当なオモリを必要としたであろうことから、かく呼ぶのであるという』。「○倭人と海人族」の項。『シズオリの意義はいずれであるにしても、この織布は九州北部より南部朝鮮等をも占拠していた海人族の技巧品であって、 古代海人族は支那(中国)と交通しており、そこでは一般にこちらを』「倭」と『呼び、民族を』「倭奴」と『称して属国の』取り扱いを『した。中国で日本のことを記した最初の書物は「前漢地理志」「後漢書東夷伝」であって、これらの書では、日本を「倭」、日本人を「倭人」と呼ぶ。それは日本人が自分のことを「ワレ」と言ったので、 日本のことを「ワ」と称えると合点した中国人が「倭」の文字をあてたのだという』。『さて、「倭文」の場合、「倭」が』「古代日本」の意、「文」は「文布(あやぬの)」の『略語で』「アヤのある布」の意(「アヤ」とは「光彩・色彩・模様」をいう)で、『古記には』「文布」と記して「シトリ」と『読ませたのである。そこで倭人の織りなす文布という意味より、倭文の文字を』「シズオリ」と『読ませたということになる』とある。

「雁木(がんぎ)」雁木造。当該ウィキを参照。

「柏嵜(かしはざき)」新潟県柏崎市

「幅湊(ふくそう)」漢字はママ。普通は「輻輳(ふくそう)」で、物が一ヶ所に集中して混雑する様態を指す。まあ、港だからうっかり「湊」になったとも言えよう。

「下谷(しもたに)」不詳。

「千手(せんじゆ)」新潟県長岡市千手か。

「塩澤町(しほさわまち)」新潟県南魚沼市塩沢か。

「十日町」新潟県十日町市

「堀の内」新潟県十日町市堀之内か。

「撒子(みうへ)」種を散らし蒔(=撒)(ま)いて植えること。

「分頭(わけうへ)」成長したカラムシの株を地下茎とともに分けて植えることか。

「每歲(まいねん)、兩度(りやうど)、刈る物、あり。然(しか)れども、圡(つち)によりて、同種のものも、其の性の、强弱、有り」ウィキの「カラムシ」によれば、『林の周辺や道端、石垣などのやや湿った地面を好む。地下茎を伸ばしながら繁茂するので群落を作ることが多い。刈り取りにも強く、地下茎を取り除かなければすぐに生えてくる。地上部の高さは』一メートル『ほどだが、半日陰で刈り取りがない環境では秋までに高さ』二メートル『に達し、株の根元付近が木化(木質化)する。地上部は寒さに弱く、霜が降りると葉を黒褐色にしおれさせ枯れてしまうが、地下茎は生き残って翌春には再び群落を形成する。細い茎は葉と共に枯れてしまうが、太い茎は冬を乗り越え、春に新芽を吹く』とある。

「大麻(あさ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])は楓(もみち)の葉の如く」これはマリファナの原料ともなる被子植物門双子葉植物綱バラ目アサ科アサ属アサCannabis sativa (麻・大麻草)であろう。当該ウィキによれば、『大麻から得た植物繊維から様々な製品が製造されている。衣類・履き物・カバン・装身具・袋類・縄・容器・調度品など。麻の織物で作られた衣類は通気性に優れているので、日本を含め、暑い気候の地域で多く使用されている。綿・絹・レーヨンなどの布と比較して、大麻の布には独特のざらざらした触感や起伏があるため、その風合いを活かした夏服が販売されている。大麻の繊維で作った縄は、木綿の縄と比べて伸びにくいため、荷重をかけた状態でしっかり固定するときに優先的に用いられる。伸びにくい特性を生かして弓の弦に用いられる。また日本では神聖な繊維とされており、神社の鈴縄、注連縄や大幣として神事に使われる。横綱の締める注連縄も麻繊維で出来ている』とある。

「大麻(あさ)は雄(お)は、花、あり、「サクラアサ」と云ふ。雌(め)は、花、なく、實(み)、あり」アサ Cannabis sativa は雌雄異株である。

「五月八日に刈り」何故この日に決まっているかは不詳。

「奈良そ」「奈良苧(ならそ)」であろう。

「廿刻(にじつこく)」二十時間。

「脚車(あしくるま)」糸車であるが、西洋の足で踏んで回転させるそれは知っているが、本邦のそうした装置を遂に発見し得なかった。御存じの方は画像のあるページをご紹介戴けると幸いである。

「指の爪を候(うかゞ)ひ、細手(ほそて)・粗手(あらて)の生質(せいしつ)を候ひ」「細手」というのが、如何なる手や爪を持っているのかよく判らないが、要は糸を縒り紡ぐ際に、糸が引っ掛かったり、擦れたりしないような、繊細な手の持ち主ということなのであろう。

「宿水(ねみづ)」前日のうちに汲んでおいた水。不純物を沈殿させるためか。

「衣食住の費(ついへ)、一年の入用、妻子に給する所といへ共、五、六十目ばかりにして」この「目」は「め」で貨幣単位の「匁(もんめ)」であろう。平均して江戸時代の金一両は銀五十匁から八十匁であった。

「細布(さいふ)一端(いつたん)の料(りやう)の紡績(ほうせき)に、事足(ことた)り」緻密な上製の「一合」の織り布一反分の売値で、一年分の入用の金子は入手出来ることを言ったものであろう。]

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