伽婢子卷之六 白骨の妖恠
伽婢子卷之六 白骨の妖恠
○白骨(はくこつ)の妖恠(ようくわい)
[やぶちゃん注:挿絵は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」)のものを用いた。怪異のさった直後を描いたもの。佐太は向こう鉢巻きを締めており、両足の膝の下にある黒い部分から以下に脛巾(はばき:足の脛を保護するためのゲートル)を履いていることが判る。彼は隠棲者で庵に住んではいるが、別に正規の出家をした者ではなく、最初にも述べられている通り、生活のために柴を京の町で売って歩いていたのだから、腑に落ちる姿である。画面の右手に、そのボテ振りに振り分けられた柴の菰巻きが、突き立て刺した杖に支ええられて、立てかけてある。本文は単に塚と言っているが、崩れたそれは、絵を見るに、五輪塔、或いは、最下部の華飾りや傘の四角の盛り上がりからは宝篋印塔のようにも見える。絵師にとっては、ただの土饅頭では、崩れた様子が描きにくかったのであろう。]
長間(ながまの)佐太は濃(ぢよう)州の者也。文龜丙寅(ひのへとら)の年、公方の軍役(ぐんやく)に驅(から)れて、京都に上り、役、果てゝ後も、國に歸らず。
わすれてもまた手にとらじあづさ弓
もとの家路をひきはなれては
と詠じて、道心、おこし、都の北、柏野(かしはの)のかたほとりに、草の庵〔いほり〕を結び、さすがに乞食(こつじき)せんもあまりなれば、北山に行〔ゆき〕て、柴といふものを買い受けて、都に出〔いで〕て、賣(うり)しろなし、少しの利を求め、餅(もちひ)くひ、酒、かうて、打飮みつゝ、庵にかへる時は、尻、うちたゝき、歌、うたひ、或る時は、房(てら)に行て、庭の塵(ちり)を掃治(さうぢ)し、佛前の塧(ほこり)をはらひ、日、暮(く)れて、道、遠ければ、堂の軒に、夜をあかし、明〔あく〕れば、又、柴をになひ、賣りけり。
澁染(しぶそめ)の帷子(かたびら)一重(ひとへ)だに、肩・すそ、破れ侍れども、心にかゝるすべもなし。
土岐成賴(ときなりより)が家人〔けにん〕石津(いしづ)の某(なにがし)といふものは、同國のよしみを以つて、小袖ひとつ・錢三百文を與へて、
「時々は、こゝへおはして、食事をも受け給へ。」
といふ。
佐太、是れをとりて、庵に歸りしが、四、五日ありて、錢も小袖も、皆、返して、いふやう、
「物をたくはゆるといふは、妻子のある人にとりての事ぞや。我は、思ひ離れて、妻子も、なし。身ひとつは、行先を泊りと定め、食事は、あるにまかせ、物事に心をとゞめねば、樂しさ、いふばかりなし。然るを、此小袖・錢を庵におきぬれば、外に出ては、『早く歸らん』と思ひ、出る時には戶をたて、『盜(ぬす)人にとられじ』と、用心に、隙間なく、此の程のたのしみ、ことごとく、うせはてたり。只、これ程の物に心をつかはれむは、誠に淺間しからずや。」
とて、返し侍べり。
或る日、北山に赴き、歸るさ、遲く、蓮臺野(れんだいの)にさしかゝりては、夜半ばかりと覺ゆ。
道のかたはらに、ひとつの古塚(ふるつか)ありて、俄かに、兩方にくづれ、開(ひら)けたり。
佐太は、心、もとより、不敵にして、力も强かりければ、少しも驚かず、立〔たち〕とまりて、みれば、内より、ひかり出〔いで〕て、あたり迄、輝く事、松明(たいまつ)の如し。
一具の白骨ありて、頭(かうべ)より足まで、全く、つゞきながら、肉もなく、筋(すぢ)も見えず。
只、白骨のみ、かうべ・手足、つらなりて、臥し(ふし)てあり。
其外には、何も、なし。
この白骨、俄かに、
「むく」
と起き上がり、佐太に、
「ひし」
と、いだきつきたり。
佐太は、したゝか者なれば、力にまかせて、突きければ、のけさまに、たふれて、頭(かしら)・手足、
「ばらばら」
と、くづれちり、重ねて動かず。
火の光も消えて、くらやみになりたり。
如何なる人の塚とも、知れず。
次の日、行て見れば、白骨、くだけ、塚、くづれてあり。
後に、佐太は、其の終はる所を、知らず。
[やぶちゃん注:「長間(ながまの)佐太」不詳。
「濃(ぢよう)州」美濃国。
「文龜丙寅(ひのへとら)の年」文亀(一五〇一年~一五〇四年)年中に丙寅の年はない。
「公方の軍役(ぐんやく)」文亀元(一五〇一)年六月十日に室町幕府第十一代将軍足利義澄は大内義興(よしおき)の討伐令を発布してはいる。
「わすれてもまた手にとらじあづさ弓……」特に元歌は認められない。
「柏野(かしはの)」現在の京都府京都市北区紫野下柏野町(グーグル・マップ・データ。中央下方)他辺り。岩波文庫高田衛編・校注「江戸怪談集(中)」(一九八九年刊)の注によれば、『古くは蓮台野に続く広野で墓地でもあった』とある。ここから北に紫野、そして画面中央上方に、古くからの京の葬送地(火葬場)として知られ、最後の怪異のロケーションとなる蓮台野(地名としては北区紫野東蓮台野町が残る)がある。
「塧(ほこり)」底本の漢字であるが(音「アイ」)、これは「険(けわ)しい」の意でおかしい。元禄版はひらがなで「ほこり」である。「新日本古典文学大系」版では、『壒』(音「アイ」)とあって納得した。これは「土煙」とか「塵(ちり)」の意だからである。
をはらひ、日、暮(く)れて、道、遠ければ、堂の軒に、夜をあかし、明〔あく〕れば、又、柴をになひ、賣りけり。
「澁染(しぶそめ)」「しぶぞめ」で、柿渋で染めること。「新日本古典文学大系」版脚注には、『青い柿の渋い汁でそめたもの。色は黄味の灰赤』とある。
「帷子(かたびら)」裏をつけない布製の衣類の総称。夏は直衣(のうし)の下に着す下着相当である。
「土岐成賴(ときなりより)」(嘉吉二(一四四二)年~明応六(一四九七)年:「しげより」とも読む)は室町時代の武将。一色義遠(よしとお)の子。一説に饗庭(あえば)元明の子とも。土岐持益(もちます)の養子となり、美濃守護を継いだ。「応仁の乱」では西軍の山名持豊(もちとよ)方に加わり、乱後は足利義視・義材(よしき:後の義稙(よしたね))父子を伴って美濃へ戻った。明応四(一四九五)年、「船田合戦」で跡継ぎに長男政房を推す守護代斎藤利国に敗れて隠居した。
「石津(いしづ)の某(なにがし)」不詳だが、美濃国には石津郡があるから、或いは元はそこの出の国人であった可能性が高い。
「小袖」現在の和服のもととなった袖口の小さく縫い詰めてある衣服。室町頃には身分を問わず、普段着の上着となっていた。
「錢三百文」当時でも、たかだか現在の千三百円ほどでしかない。
「歸るさ」名詞。帰る時。
「一具」一揃い。
「筋(すぢ)」肉に比べて比較的腐りにくい腱。或いは髪の毛一筋をもなかったことを言うのかも知れない。
「したゝか者」「强(健)か者」で、強く勇猛な者の意。
「のけさまに」仰向けに。
「重ねて」二度とは。
「後に、佐太は、其の終はる所を、知らず」何となく仙化(せんか)したようなニュアンスである。]


