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2021/06/05

日本山海名産図会 第四巻 堅魚(かつを)

 ○堅魚(かつを)

 

Katuo1

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした(以下同じ)。キャプションは「土刕鰹釣(としうかつをつり)」。餌の鰯の桶が見える。波除けの竹の簀(す)が舷側に着けられている。]

 

 

土佐・阿波・紀州・伊豫・駿河・伊豆・相摸・安房・上総・陸奧・薩摩、此の外、諸刕に採るなり。四、五月のころは、陽に向ひて、東南の海に群集(くんしゆ)して、浮泳(ふゑい)す。故に相摸・土佐・紀州にあり。殊に鎌倉・熊野に多く、就中(なかんづく)、土佐・薩州を名產として、味、厚く、肉、肥へ、乾魚(かつを)の上品とす。生食(なましよく)しては美癖(むまみさかる[やぶちゃん注:左ルビ。意味訓であるが、後半の判読は自信がない。])なり。阿波・伊勢、これに亞(つ)く。駿河・伊豆・相摸・武藏は、味、淺く、肉、脆(かろ)く、生食(せいしよく)には上とし、乾魚(かつを)にして、味、薄し。安房・上総・奧州は、是れに亞ぐ。

○魚品(きよひん)は、縷鰹(すぢかつを)・横輪鰹(よこかつを)・餅鰹(もちかつを)・宇津和鰹(うつわかつを)・ヒラ鰹(かつを)等(とう)にて、中にも縷鰹を真物(しんもつ)として、次に橫輪なり。此の二種を以つて、乾魚(ふし)に製す。東國(とうこく)にて小なるを「メジカ」といふ。

○漁捕(ぎよほ)は、網は稀にして、釣、多し。尤も、其の時節を撰(えら)はずして、つねに沖に出つれども、三月の初めより、中旬まてを初鰹(はつかつを)として、專ら、生食(せいしよく)す。五月までを「春節(はるふし)」として上品の乾魚(かつを)とす。八月までを「秋節(あきふし)」といふ。飼(ゑ)は鰯の生餌(いきゑ)を用ゆる。故に、先つ、鰯網を引く事も、常也。鰯、二坪ばかりの餌籠に入れて、汐潮水(しほみづ)に浸し、是れを、又、三石ばかりの桶に、潮水をたゝへて、移し入れ、十四、五石ばかりの釣舟に乘せて、一人、長柄の扚(しやく)[やぶちゃん注:漢字はママ。]を以つて、其の汐を汲み出たせは、一人は、傍(かたはら)より、又、汐を汲み入れて、いれかへ、いれかへて、魚の生(せい)を保(たも)たしむ。釣人(つりて)は一艘に十二人、釣さほ、長一間半、糸の長さ、一間ばかり。ともに常の物よりは太し。針の尖(とがり)に「かゑり」なし。舟に竹簀(たけす)・筵(むしろ)等の「波除け」あり。さて、釣をはじむるに、先つ、生きたる鰯を、多く、水上に放てば、鰹、これに附きて、踊り集まる。其の中へ、針に、鰯を、尾より、さし、群集(ぐんじゆ)の中へ投ぐれば、乍(たちまち)、喰ひ附きて、暫くも、猶豫(ゆうよ)のひまなく、ひきあげ、ひきあげ、一顧(いつこ)に數十尾(すしつび)を獲ること、堂に數矢(かすや)を發(はな)つがごとし。○又、一法に、水、淺きところに、自然(しせん)、魚の集まるをみれは、鯨(くじら)の牙(きば)、或ひは、犢牛(めうし)[やぶちゃん注:ママ。挿絵の附図では「雄牛(おうし)」とする。]の角(つの)の空(うつほ)の中へ、針を通し、餌(ゑ)なくしても、釣るなり。是れを「かける」と云ふ。【牛角(うしつの)を用ることは、水に入て、おのづから、光りありて、いわしの群(むれ)にも、まがへり。】○又、魚を集めんと欲する時は、おなじく、牛角(きうかく)に鷄(にはとり)の羽(は)を加へ、水上に振り動かせば、光耀(くわうよう)、尚を、鰯の大群に似たり。此の余(よ)、「天秤釣」などの法なとあれども、皆、是れ、里人(さとひと)の手すさひにして、漁人(あま)の所業(しわさ)にはあらす。

○又、釣に乘(じやう)ずる時、若(も)し、遠く餌を遂(おほ)ふて、鰹の群(むれ)、來(く)る時にあへは、自(おのづから)、船中に飛び入りて、其勢、なかなか、人力(しんりき)の防ぐ所にあらず。至つて多き時は、殆ど、舟を壓沈(しつま)す。故に、遥かに是れを窺ひて、急(いそ)き、船を漕(こ)き退(の)けて、其の過ぐるを待つなり。

 

Katuo2

 

[やぶちゃん注:キャプションは「海人釣舟迎て鰹魚を汀に屠る(かいしん、つりふねをむかへて、かつをを、みきはに、ほふる)」。風俗画としても優れている。左上に「鰹魚釣圖(かつをつりのづ)」とあって、釣針三種が附図(一番左のそれは、下部の鶏の細い羽毛の中に針が見える)。されてあり、そこに「此外(このほか)、釣針、多くあれども、たいてい、かくのごとし。雄牛(おうし)の角を用ゆ。」/「角の中へ鷄(にはとり)」の首毛(くびげ)を遏(と)め、針を付(つけ)、用ゆ。外に『てんひん針』も在(あ)り)」とある。]

 

Katuo3

 

Katuo4

 

[やぶちゃん注:上のキャプションは「蒸(む)して乾魚(かつを)に制(せい)す」、下は「乾魚(かつを)を(磨(みがき)て納(おさ)む」。]

 

○行厨蒸乾制鰹鮑(りやうりして、むしほし、かつおにつくる)  釣舟を渚によせて、魚を砂上に拗(ほ)り上ぐれば、水郷(すいきやう)の男女(なんによ)、老少を分かたず、皆、桶、又、板一枚、庖丁を持ちて、呼(よは)ひ集まり、桶の上に板を渡して俎(まないた)とし、先つ、魚の頭(かしら)を切り、腹を拔き、骨を除き、二枚におろしたるを、又、二ツに切りて、一尾(び)を四片となすなり。骨・膓(はらのこ)は、桶の中へ落し入れて、是れを、雇人(やとひど)、各々(それそれ)の得ものとして、別に賃(ちん)を請(うけ)ず。其膓(わた)を塩に漬け、「酒盗(しゆとう)」として售(う)るを、德用とするなり。○又、所によりて、行厨(りやうりば)を、一里ばかり、他所(たしよ)に構へ、大俎板(おほまないた)を置きて、兩人、向ひあわせ、頭(かしら)を切り、尾を攜(たつさ)へて、下げ切りとす。手練(しゆれん)、甚だ、早し。熊野辺(へん)、皆、然り。

○かくて、形樣(かたち)を、能き程に造り、籠にならべ、幾重(いくゑ)にもかさねて、大釜(おほかま)の沸湯(にへゆ)に蒸して、下の籠より、次第に取り出だし、水に冷し、又、小骨を去り、よく洗浄(あら)ひ、又、長五尺許りの底は、竹簀(たけす)の蒸籠(むしかご)にならべ、大抵、三十日許り、乾し暴(さら)し、鮫をもつて、又、削り作り、繩にて磨くを、成就(じやうしゆ)とす。「背節(せふし)」を上とし、「腹節」を次(つぎ)とす。背は上へ反り、腹は直(すく)也。贋(にせ)ものは、鮪(しび)を用ひて、甚だ腥(なまぐさ)し【乾かすに、あめふれば、藁火(わらひ)をもつて、籠の下より、水氣(すいき)を去るなり。冷やすに、水を撰(えら)めり。故に土佐には「淸水」といふ所の名水を用ゆる。故に名產の第一とす。】。

[やぶちゃん注:以下、底本では前の割注と同じポイントで全体が二字下げ(頭の「○」のみ上に突出。]

○或ひは云う、「『腹節』の味、劣るにはあらざれども、武家の音物(ゐんもつ)とするに、『腹節』の名をいみて、用ひられざるゆへなり。

[やぶちゃん注:以下、本文に戻る。]

○「鰹」の字、日本の俗字なり。是れは「延喜式」・「和名抄」等(とう)に『堅魚(かつを)』とあるを、二合して制(つく)りたるなり。又、「カツヲ」の訓義は、「東雅」に『「䰴魚(こつぎよ)」と云字音の轉なり』といへども、是れ、信じがたし。或云、「カツヲは『堅き魚』の轉にして、即ち、『乾魚』の事なるを、それに通じて、生物の名にも呼びならひたるなり」。○又、『「東醫寶鑑」に『松魚(せうぎよ)』を此魚に充てたり。此書は、朝鮮の醫宦(いかん)許俊(きよしゆん)の撰なるに、近來(きんらい)、又、朝鮮の聘使(へいし)に尋ぬれば、「『松魚』は此(こゝ)に云ふ『鮭』のこと」と、いへり。尤も、肉、赤くして、松の節のごとし。又、後に來(きた)る聘使に尋ぬるに、「古固魚(ここきよ)」の文字を此の堅魚(かつを)に充てたり。されど、是れも、近俗(きんぞく)の呼ぶ所とは見へたり。前に云う、『䰴魚』は、此(こゝ)に云う、『マナカツヲ』にして、一名『鯧(しやう)』、又、『魚游(きよいう)』と云ふ」と』。『是れ、舜水(しゆんすい)のいへるに、おなしくして、「マナカツヲ」を「魴」とかくは誤りなるべし』

○乾魚(かつを)は、本邦日用の物にして、五味の偏(へん)を調和し、物を塩梅(ゑんばい)するの主(しゆ)なり。元より、「カツヲ」の名もふるし。「萬葉集」長哥 水の江の浦島の子が堅魚(かつを)つり鯛つりかねて下畧  「萬葉」は聖武の御宇(みよ)の歌集なり。又、「延喜式」、民部寮に堅魚(かつを)・煎汁(いかり)を貢(こう)すること、見へて、「イカリ」は、今、「ニトリ」といふ物なるべし。尚、主計寮にも、志摩・相摸・安房・紀刕・土佐・日向・駿河・豊後より貢献の事も見へたり。○又、兼好「徒然草」に、

[やぶちゃん注:以下は底本では前に続いて始まりながら、次の行以下は二字下げにされてある。]

鎌倉の海にかつをと云う魚は、彼(かの)さかひには、さうなき物にて、このころ、もてなすものなり。それも鎌倉の年寄の申傳へしは、「此魚、をのれら、若かりし世までは、はかばか敷(しく)人の前に出(いだ)すこと、侍らざりき。頭(かしら)は下部(しもべ)も食(くら)はず、きりて、捨(すて)侍りし物なり」と申き。かやうの物も、世の末になれば、上(うへ)さままでも、入たつわざにこそ侍れと」

[やぶちゃん注:以下の一文は底本では本文で三字下げで、頭の「○」のみが突出している。]

○是れは、兼好の時代には、貴人(きにん)などの、生(なま)にて喰ひし事を、あやしみいふこゝろと見えたり。

[やぶちゃん注:以下、本文に戻る。]

○「鰹魚のタヽキ」といふ物あり。即ち、醢(ひしほ)なり。勢刕・紀刕・遠江の物を上品として、相州小田原、これに亞(つ)く。又、奧刕棚倉(たなくら)の物は、色、白くして、味、他(た)に越へたり。即ち、國主の貢献とする所なりとぞ。

[やぶちゃん注:「節」(「節」は殆んどない)の字は「竹」(たけかんむり)が「艹」(くさかんむり)なっているものが混在するが、「節」で統一した。私の大好物であるカツオの種としてのそれは、

スズキ目サバ亜目サバ科カツオ属カツオ Katsuwonus pelamis

の一属一種であるが、本文では解説中にそうでない種も出る。なお、一般人がカツオと呼んで区別して認識していないものとしては、

サバ科ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis

サバ科スマ属スマ Euthynnus affinis

サバ科イソマグロ属イソマグロ Gymnosarda unicolor(本種にはマグロの名がかつくが、分類学上ハガツオに近縁で、魚体もカツオからそう離れていないので挙げておきたい)

サバ科ソウダガツオ属ヒラソウダガツオ Auxis thazard

サバ科ソウダガツオ属マルソウダガツオ Auxis rochei

の五種辺りを挙げておけばよかろう。カツオについては、私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚」の「鰹(かつを)」の渾身注にとどめを刺す。種々の点で、有益な補塡になるので(というより、一読されれば、作者がこれを参考にしていることは明らかである)、訓読文を引いておく。リンク先は古い仕儀なので、原本に再度当たって訂した。

   *

かつを

[やぶちゃん注:以下、標題下の釈名相当部。]

鰹【俗に「堅」「魚」の二字を以つて「鰹」と爲す。蓋し、「鰹」は、乃(すなは)ち「鮦(とう)」の大なる者にして、是れに非ざるなり。此の魚の脯(ほじし)、極めて堅硬、削用すべし。故に俗に呼びて「堅魚」と曰ふ。】

【和名、「加豆乎(かつを)」。】

[やぶちゃん注:以下、本文。]

△按ずるに、「鮪(しび)」[やぶちゃん注:マグロ。]の屬なり。狀(かたち)、「目黑(まぐろ)」に似て、圓く、肥え、頭、大、嘴(はし)、尖りて、鱗、無し。蒼黑色。光る膩(あぶら)有り。腹、白く、雲母泥(きらゝでい)のごとく、背に、硬き鰭、有り。尾の端に到るまで、兩片、鋸齒に似たり。尾に、岐、有り。其の肉、深紅、味、甘く温。背の上、兩邊、肉中、黑血肉、一條有り【之れを「血合(ちあひ)」と謂ひ、其の味、正肉にしかず。】。之れを釣るに、餌を用ひずして、牛角、或いは、鯨の牙を以つて、一瞬に數百を釣る。關東、殊に多く有り。

縷(すぢ)鰹 皮の上に縱(たつ)に、白き縷、三、四條有り。胾(さしみ)と爲し、芥醋(からしず)・未醬(みそ)に和して食ふ、甚だ佳し。之れを「真鰹(まがつを)」と名づく。節(ふし)に作りて、極上と爲す。

橫輪(よこわ) 皮の上、橫に、白斑四、五條有り。大いさ、一尺五、七寸、尾、極めて細き故、又、「尾纎(をほぞ)」と名づく。節に作り、縷鰹に亞(つ)ぐ。𩸆(ひしほ)に作り、味、甚だ佳し。俗に呼んで「須宇麻」と曰ふ。]

餅(もち)鰹 形・色、鰹に同じくして、肉、粘(ねば)る。頗(すこぶ)る飴のごとし。生・𩸆とも、味、佳ならず。

鰹節(ぶし) 鰹の肉を乾脯(ほし)たる者なり。漁人、之れを造るに、鮮(あたら)しき魚、頭尾を去り、膓(わた)を出だし、兩片と爲し、中骨を去り、復た、兩片の肉を割(さ)き、兩三條と作(な)し、以て煮熟し、取り出だし、曝し乾せば、則ち、堅硬(かた)くして、色、赤きこと、松の節のごとし。【故に「鰹節」と名づく。】本邦日用の佳肴(かかう)、五味の偏(かたより)を調和す。一日も欠(か)くべからざる者なり。土佐の產を上と爲す【俗に呼びて「投出節」と稱す。】。紀州熊野、之れに次ぐ。阿州・勢州、又、之れに次ぐ【「鮪脯(まぐろのほじし)」を以つて之れを偽る、肥大と雖も、味、杳(はるか)に劣れり。】。

煮取(にとり) 鰹節を造る時、其の液(しる)、滯(とどこほ)る者を取りて、之れを収む。黑紫色、味、甘美。

鰹醢(たゝき)【俗に「太太木」と云ふ。】 肉の耑(はし)及び小骨、敲(たた)き和して、醢(しほから)と爲し、紀州【熊野。】・勢州【桑名。】・遠州【荒井。】の者、上と爲し、相州【小田原。】、之れに次ぐ。奥州【棚倉。】の醢(しほから)、色、白くして、味、佳し。

酒盗(しゆとう) 鰹の膓(わた)を醢(しほから)と爲す。阿波より出づる者、名を得。肴と爲し、則ち、酒、益々、勸む。故に名づく。

「山家」いらこ崎に鰹釣舟ならび浮きて

      はがちの濱にうかびてぞ寄る

                 西行

   *

「乾魚(かつを)」鰹節。

「縷鰹(すぢかつを)」標準和名の真正の一属一種のカツオ Katsuwonus pelamis を指す。現在、魚類にあっては、体軸に沿って横に走る縞を「縱縞」と呼ぶが、それが本件でも通用するかどうかが問題となる。しかし、次の小項目の呼称が「横輪」(「輪」である以上、これは「魚体を一周する」の意である)であることに着目すれば、これはクリアされていると判断される。なお、この縦縞は生時には、殆ど見られないもので、死後に現れるとよく言われるが、実際には次項で述べる横縞同様、生時にあっても、興奮すると、出現する斑紋であるようだ。なお、この縦縞がカツオ Katsuwonus pelamis では腹部に現れ、ハガツオ属ハガツオ Sarda orientalis では背部に現れるので、容易に区別が出来る。

「横輪鰹(よこかつを)」恐らくはカツオ Katsuwonus pelamis の中型の大きさのものを言っているか。この横縞は、実はカツオに一般的に見られるもので、通常は目立たないが、興奮すると、浮き出してくるという(四条から十条程度)。この横縞は死ぬと消え、代わりに前項で示した縦縞がはっきり現れるという。

「餅鰹(もちかつを)」これもカツオ Katsuwonus pelamis 、死後硬直するまでの新鮮なカツオ(従って、身が柔らかく、餅のような食感がある)のことを指すか、もしくは、「味、佳ならず」という叙述からは、身がカツオより柔らかく、時間が経つと独特の薬品のような臭いを発するハガツオ Sarda orientalis を指している可能性もある。前者は、静岡県西部で現在も「モチガツオ」と呼称し、殆どが地元で消費されると聞く。

「宇津和鰹(うつわかつを)」「本朝食鑑」(医師で本草学者であった人見必大(ひとみひつだい 寛永一九(一六四二)年頃?~元禄一四(一七〇一)年:本姓は小野、名は正竹、父は四代将軍徳川家綱の幼少期の侍医を務めた人見元徳(玄徳)、兄友元も著名な儒学者であった)が元禄一〇(一六九七)年に刊行した本邦最初の本格的食物本草書。「本草綱目」に依拠しながらも、独自の見解をも加え、魚貝類など、庶民の日常食品について和漢文で解説したもの)の「鱗介部之三」の「鰹」の「集解」の末尾に、『海俗、所謂、鰹の小さき者を『渦輪』と曰ひ、最も小さきなる者を『橫輪』と曰ふ』とあった。国立国会図書館デジタルコレクションの板本のこちらの左頁終行から次の頁にかけてを参照されたい(訓読附漢文)。ここからやはり、これもカツオ Katsuwonus pelamis の大きさによる異称で、「横輪鰹」よりは大きなものを指すということになる。

「ヒラ鰹(かつを)」サバ科スマ属スマ Euthynnus affinis の異名。サバ科ソウダガツオ属ヒラソウダガツオ Auxis thazard の可能性もあるかも知れない。

「メジカ」二種のソウダガツオの別名で、特に関西での呼称。但し、マグロの幼魚もこう呼ぶ。所謂、「めじまぐろ」である。

「鰯」本邦で鰯と呼んだ場合は複数種を指す。標準和名のイワシという種は存在しない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 鰛(いはし) (マイワシ・ウルメイワシ・カタクチイワシ)」の私の注を見られたい。

「三石」五百四十リットル。ドラム缶二本半強。

「十四、五石」近世初期以来、一般に知られた「三十石船」は長さ十五メートル、幅二メートル、深さ五十五センチメートルであったから、その凡そ半分弱と見ればよかろう。

「かゑり」「返し」のこと。

「一顧(いつこ)に」僅かの間に。

「數十尾(すしつび)」「すじっび」。

「堂に數矢(かすや)を發(はな)つがごとし」通し矢をどんどん射るみたような感じだというのである。

「かける」「引っ掛ける」の意。

「天秤釣」「天秤」は釣りに使う仕掛けの部品の一つで、「道糸」と」「鉤素(はりす)」と「錘(おもり)」を接続し、糸の絡みを防ぐようにしたもの。主に投げ釣りで使われ、錘によって遠くに投げることが出来る。

「德用」美味い上に、非常に長く保存できることから、かく呼んだのである。

『土佐には「淸水」といふ所の名水を用ゆる』足摺岬のある足摺半島の根元の西の、高知県土佐清水市の「清水の名水」

「音物(ゐんもつ)」歴史的仮名遣は「いんもつ」でよい。贈答品。

「延喜式」古くからお世話になっているサイト「真名真魚字典」の「鰹」によれば、献上国などとしてだけでも、伊豆・壱岐・志摩・駿河・伊豆・相摸・安房・紀伊・阿波・土佐・豊後・日向などが堅魚を貢いでいる。

「和名抄」「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部第三十」の「龍魚類第二百三十六」に、

   *

鰹魚(カツヲ) 「唐韻」に云はく、『鰹【音「堅」。「漢語抄」に云はく、『加豆乎』。「式」の文(ぶん)に「堅魚」の二字を用ゆ。】は大鮦なり。大を「鮦」と曰ひ、小を「鮵【音「奪」。】」と曰ふ。』と。野王[やぶちゃん注:顧野王撰の「玉篇」か。]、『按ずるに、「鮦」【音「同」。】。蠡魚(れいぎよ)なり』と【「蠡魚」、下の文に見えたり。今、案ずるに、「堅魚」と爲すの義、未だ詳かならず。】。

   *

残念ながら、「蠡魚」はカツオではない。現在は、所謂、いろいろな意味で悪名高い(獰猛にして同種に寄生する有棘顎口虫類もヒトに感染すると最悪)淡水産の「雷魚」、スズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科タイワンドジョウ属カムルチー Channa argus に比定されているようである

「東雅」既出既注ここが「堅魚(カツヲ)」の当該部だが、かなり長く、以下の部分は次のページの八行目以下。但し、また、前回と同じく、引用が違う。作者は『「䰴魚(こつぎよ)」と云字音の轉なり』とするが、『亦、漢語抄を引て、䰴魚をコツヲといふ。本朝式用乞魚二字と註せり。コツとは乞の字の音を以て呼ぶなり。ヲは魚也。卽今マナカツヲといふもの是也』である。さらに新井白石は考証を続け、古えの「䰴魚」は『マナカツヲなる事、疑ふべからず』とする。ただ、彼は「マナ」を「真正」の意で採っており、所謂、現在のカツオとは縁も所縁もなく、全く似てもいないスズキ目イボダイ亜目マナガツオ科マナガツオ属マナガツオ Pampus punctatissimus を指しているわけではなく、モノホンのカツオだと言っているのである。そして最後に『カツヲとは。コツヲといふ語の轉ぜしなり。或は後俗この音の骨に同じきを避けし事。猶笏をよびてサクといふ如くなりけんも。知るべからず』と結んでいる。海産生物に弱点の多い漢籍に堂々巡りさせられていることに気づかない白石は、ちょっと可哀そうになってくる。さらにいえば、作者は、『「東雅」に『「魚(こつぎよ)」と云字音の轉なり』といへども、是れ、信じがたし』と言い放っておきながら、その実、ここから後の部分は「『乾魚』の事なるを、それに通じて、生物の名にも呼びならひたるなり」辺りを除いて、実は白石の考証をそのまま引用していることが判り、かなり――相当に――イヤな感じ――なのである。

「東醫寶鑑」(とういほうかん/トンイボガム)は李氏朝鮮時代の医書。全二十三編二十五巻から成る。御医(王の主治医)であった許浚(きょしゅん)著。ウィキの「東医宝鑑」によれば、一六一三年に『刊行され、朝鮮第一の医書として評価が高く、中国・日本を含めて広く流布した』とある。

「鯧(しやう)」現行では日本では先のマナガツオ Pampus punctatissimus に当てている。但し、中文で見ると、マナガツオは「銀鯧」である。

「魚游(きよいう)」この熟語が一種の魚類名であるという感じはしない。

「舜水(しゆんすい)」「朱舜水」(しゅしゅんすい 一六〇〇年~天和二(一六八二)年)は明の儒学者。江戸初期に来日。舜水は号で(郷里の川の名)、諱は之瑜(しゆ)。浙江省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度来たり、七度目の万治二(一六五九)年、長崎に流寓した。翌年、柳川藩の儒者安東省庵(せいあん)守約(もりなり)と会い、彼の知遇を受けた。水戸藩主徳川光圀が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)を長崎に遣して、舜水を招こうとしたのはその数年後のことで、当初は応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、寛文五(一六六五)年七月、六十六歳の時に水戸藩江戸藩邸に入った。以後、水戸を二度訪れたが、住居は江戸駒込の水戸藩中屋敷(現在の東京大学農学部)に与えられ、八十三歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。「大日本史」の編纂者として知られる安積澹泊(あさかたんぱく:後注参照)は、その高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山墓地(現在の常陸太田市)に儒式を以って建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる(舜水のそれは朱子学と陽明学の中間的なもので、実学とでもいうべきものであった)。その遺稿は光圀の命によって「朱舜水文集」(全二十八巻)等に収められてある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「魴」これは漢籍では淡水魚で、その料理を毛沢東が愛したとされる「武昌魚」、コイ科魴(中文名)属トガリヒラウオ Megalobrama amblycephala であろう。

「偏(へん)」偏(かたよ)り。

『「萬葉集」長哥 水の江の浦島の子が堅魚(かつを)つり鯛つりかねて下畧「第三巻 若狹小鯛・他州鯛網」の注で既に電子化した。

「煎汁(いかり)を貢(こう)すること、見へて」先の「真名真魚字典」の「鰹」に「延喜式」の引用部(総てではないので注意)に三ヶ所、「堅魚煎汁」の貢献が出る。そこでは献納元は駿河と伊豆である。「堅魚煎汁」は現在は通常は「かつおいろり」(現代仮名遣)と読むようである。平凡社「世界大百科事典」の「鰹節」最後の「利用」の項に(コンマを読点に代えた)、『カツオの煮干しをつくる』際の茹で汁は、『古くから堅魚匙汁(かつおいろり)とよばれて調味料とされていた。鰹節の名は室町時代から散見し、だし汁をとるのに用いられたことは明らかであり、「本朝食鑑」』『には土佐節、熊野節の名が見られる。ただし、この時期の文献の記載は、煮熟したのち』に、『曝乾(ばつかん)してつくるとだけになっており、いまのようなカビつけ法が延宝年間』(一六七三年~一六八一年)『に発見されたとする説は信用できそうである。鰹節は』「勝男武士」『などと書いてめでたいものとされ、祝儀のさいの引物(ひきもの)や結納品に使われる』とある。

『兼好「徒然草」に、鎌倉の海にかつをと云う魚は……』これも「第三巻 鮪(しび)」の注で既に電子化した。

『「鰹魚のタヽキ」といふ物あり。即ち、醢(ひしほ)なり』これは先のカツオの内臓の塩辛である「酒盗」と混同してしまっている。上手い「鰹のたたき」の作り方は、私のブログ最初期の投稿「鰹のたたきという幸福」をご覧あれ。騙されたと思ってやって御覧な、絶対、美味いで!

「奧刕棚倉(たなくら)」現在の福島県東白川郡棚倉町。内陸に位置するが、ここを支配していた棚倉藩は、飛び地として港湾地である平潟(茨城県北茨城市平潟町)を領地とし、そこが言わば、藩の表玄関の役割を持っていた。更に、仙台・三陸・松前の物産がこの平潟に集積した。平潟港の棚倉藩運上規定の「荷物出投」(物品税)が課せられた海産物の筆頭に鰹が挙げられている。さればこその、棚倉の鰹の塩辛なのであろう。]

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