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2021/06/20

ブログ1,550,000アクセス突破記念 梅崎春生 亡日

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十一月号『光』初出。翌年の講談社刊の作品集「餓ゑの季節」に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。文中に注を附した。

 標題は私は亡日(ぼうじつ)と読みたい。所謂、陰陽道が元の易暦で凶日とされる一つに「往亡日(おうもうにち)」があるが(外出を忌み、特に出発・船出・出征・移転・結婚・元服・建築などに不吉な日とし、一年に十二日ある)、どうも「もうにち」は響きが悪く、本作の題名としては、出征絡みではあるが、それを象徴するほど意味を持つようには思われない。彼の「幻化」と同じで、これはシンボライズされた「失われた日」であり、「失われた太陽」「失われた日々」の意であるように思われるのである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが今朝、1,550,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021620日 藪野直史】]

 

   亡  日

 

 エンジン扉(ドア)が暑苦しいおとをたてて、いっせいに閉じた。停車中しばらくしゃべりやめていた座席の老人が、それにうながされたように甲高い声で叫び出した。

「だから日本は神国というのじゃ。あらぶる神々のしろしめす国じぅあ。二千六百年もつづいた尊いくにがらじゃ」

 乗客のからだを揺って、がたんと電車は動き出した。歩廊の号笛がふたつ重なって、ホオムをへだてた向う側の線の電車も、これと同時に動き出すのが窓硝子ごしに見えた。老人は防空服の小柄な肩をいからして、あたりを見廻しながらしゃべりつづける。その眼は義眼のようにへんにキラキラして、そのくせ視線は何ものもとらえていないらしかった。真中からふたつに割れたあの厭な恰好の大きな国民帽を、此の老人はしなびた頭にのせていた。両掌で弁当箱のふたを支えていて、その中には砕いた氷の破片がなかば溶けかかっていくつも乗っていた。老人は言葉の合間にそのひとつを口に含むと、銅板を小槌でたたくような声でまた忙がしげにしゃべり出すのだ。[やぶちゃん注:「国民帽」グーグル画像検索「国民帽」をリンクさせておく。]

「……それで神風が吹かんというのか。そんなに吹いてはたまらんわい。いつもわしが言うとるではないか。あれはけんこんいってきということじゃ。建国祭の旗がばたばたじゃ。そら、真珠湾の特別攻撃隊じゃ……」

 此の暑いのに脚絆(きゃはん)を巻いたり、防毒面包をさげたり、モンペを着けたりしている乗客たちは皆、言いようのない冷淡な無感動な顔つきで、老人のくるった饒舌(じょうぜつ)を聞き流している。私は扉口の脇によりかかって、老人の座席を視野の端にぼんやり入れながら汗づく眼を見ひらいてした。

 電車は次第に速度を増して、歩廊の端を切捨てるように走りぬけ、線路の砂利の上に明確な陰影を飛ばし始めたと思うと、先刻駅を同時に発車した向うの線路の車体が、吸いよせられるように見る見るこちらに近寄って来て、そして三尺ほどの幅をへだてて平行して走り出した。それはぴったり同じ速度に重なった。向うの車体の内部が手に取るように近く眺められた。そこにはこちらと同じ服装の人々が、腰かけたり吊皮に下っていたりした。誰もこちらに注意をはらっていなかった。ただ無関心に揺られていた。腰かけに立って外を眺めている子供がひとり、興味深そうにこちらを眺めているだけだった。頭の鉢のひらいた五つ位の子供であった。何を思ったのか両掌を窓枠に支えて、顔を窓硝子に押しつけた。……顔が白っぽくへんにふやけて、アルコオル漬の胎児みたいになる。そしてそれは動く。鼻がひらたくつぶれて、なまなましい皮の断面になって行く。子供は押しつけたそのままの顔で、或る表情になった。……一一つの車体はきしみながら同じ速度で奔(はし)りつづけた。同じ方向に行く線ではない。しばらく雁行してそこらあたりから九十度の角度に分れて行く筈であった。それは私も知っている。しかしその束の間の併行の中で、向うの車の無心な子供や大人が、ゆるぎなく連結されたみたいに、私の位置と同じ速力で動いている。ある生理的な不安がふと私をとらえた。その不安は急激に私の肉体にひろがって来る。白いエナメル塗りの把手(とって)をにぎりしめたまま、私はそれに堪えようとする。――

 その瞬間、むこうの薄墨色の鋼鉄の車体はちょっと振動して、そのまま少しずつ下にずれて行くらしい。等高にあった窓々が、一寸、二寸とさがって行く。それは沈下して行く世界のように、窓硝子に畸形な子供の顔を貼りつけたまま、皆おなじ姿勢のまま沈んで行く。一尺。二尺。そしてぐっと沈み込むと、灰色にすすけた車の屋根、平たい通風孔、折り畳まれたパンタグラフ。その彼方にはすでに家家の黒い屋根が連なり見えて、視野からふりおとすように此の同伴者のすがたは消えてしまう。重復した音の流れが急に単一の轟音にかわり、そのあいだを老人の甲高い声が縫って聞えて来る。

「それが蝙蝠(こうもり)傘の骨じゃ。墓場のしきみの匂いじや。やがて空から火が降って来るぞ。みんなみんな火の中に凍えてしまうぞ」

 老人は口に含んだ氷片を勢よくはき出した。氷は床をすべって私の足もとでとまり、やがて紙のように薄くなり、そのまま透明に溶けてしまった。私はそれを眺めていた。片掌で把手を支え、片掌で内かくしを確めていた。あんな薄い紙片なのに、布地をへだてても核のように探りあてられる。それはまるで内臓の痛みのようだ。

 ――今朝私は此の紙片を受取った。それを私にわたしたのは年寄りの郵便脚夫みたいな男であった。受取った瞬間に私はその紙片が何であるかをはっきりと察知した。その男の身振りがそれを教えたからである。動悸(どうき)をおさえながら私はそれを開いた。薄い印刷面に、私の名前と参集すべき年月日だけがにじんだインクで書きこまれてあった。末尾のひときわ大きい活字は、佐世保鎮守府という活字だった。[やぶちゃん注:召集令状は各役所役場の兵事係吏員が応召者本人に直接手渡しするのが普通であった。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、梅崎春生は東京市教育局教育研究所の雇員(こいん)であった昭和十七年、陸軍対馬重砲隊に召集されたが、軽度の気管支カタルであったのを肺疾患と診断されて即日帰郷となり、その年一杯、療養生活を楽しんで、職に復したものの、昭和十九年三月には、『徴兵をおそれて教育局を辞職、東京芝浦電気通信工業支社に入社。一ヵ月勤務したが、役所と違って仕事がきついので三ヵ月の静養が必要であるとの診断書を医者に頼んで書いてもらい、月給だけ貰って喜んでいたところ、六月、海軍に召集され、佐世保相ノ浦海兵団に入団』することとなったとある。]

(そうするとこの俺が、海軍水兵になるという訳だな)

 先刻から数十度も考えたこのことを、また意識にあたらしく浮べながら、私はぼんやり車中を見渡していた。何故みんなこんなに沈欝な顔をしてゆられているのだろう。ひとりひとりが自分の内部に折れこんだような表情をつくって、まるで仮面で外気を拒否しているようだ。あの防毒マスクを腰に下げた会社員風の男も、その隣のだぶだぶのモンペを着けた四十女も、あるいはここに寄りかかっている私も同じかも知れないのだ。それは同じなのだ。あの狂老人の言葉を、私もつめたく聞き流しているではないか。顔にわらいも浮べず、軽蔑のいろを浮べることすらしていないのだ。私はただ私のことだけ考えている。私の運命を一瞬にして変えた此の紙片すら、此の乗客たちにとっては老人の叫び声ほどの重量もありはしないのだ。

 電車ががたんと揺れて曲路(カーブ)に入るらしい。壁ぎわの床においた私の酒瓶を、私は足でぐっと支えた。いっぱい詰った酒瓶の実質的な重量感が、私の足首をやわらかく押しもどして来る。壁板に背をささえて、私は眼を窓外にはなっていた。ふと気がつくと、二百米ほどの遠方を再び高架線となって、先刻沈下した電車が微かな傾斜を奔(はし)りのぼるらしい。ひとつの車体だけでなく、七八輛の全長として眺められた。それに群がり乗った人々の姿は、もはや遠く豆粒ほどの大きさであった。そのむこうに家々がかすみ、家並の果てる彼方に巨大な積乱雲が立ちのぼり、白くあかるくかがやいていた。黄金色にはじける太陽の直射光の下を、その電車は音もなく、淡黝(あわぐろ)い柩(ひつぎ)をいくつもつらねたように、遠く線路のかなたに小さくなって行った。窓硝子だけが陽を反射してチカチカと光った。そのきらめきすらだんだん小さく幽かになって行く。まるで遠い昔に帰って行くように。……

 荒涼とした孤独の感じが、それを眺めたとき波紋のように私の胸いっぱいにひろがってきた。

 

 改札のふきんには、なにか酢に似た匂いがうすくただよっていた。私から受取った切符を指にまきつけ、その若い女駅員は視線を私の酒瓶におとし、なんだと言うような表情をした。駅のスピイカアが時々思い出したように、きしんだ声をはり上げる。

 「今日は防空服装日であります。皆さま。今日は防空服装日であります」

 駅前のアスファルトがやわらかく轍(わだち)のあとを残していた。斜陽がじりじりとそれを照りつけていた。踏切を渡って曲ると、道はしばらく線路に沿ってつづく。道の右手は二間ほどの崖になっていて、その下を線路が青黒く走っていた。蓖麻(ひま)が生えている。そして左手は雑草地となって来る。此の道をいままで私は何度か通った。通るたびにある抵抗がある。そして今日も。私は手にした酒瓶をわざと勢よく振りながら歩いた。今朝受取った召集令状を区役所に提示し、出征用酒配給切符を貰い、そして酒屋から現物を手に入れる。今日の昼はそのことで終ったのだ。何かいらいらしながら、私は役所や酒屋をかけまわっていたのだが、こうやって手に入れてしまうと、不思議にそれは落着いた重さとなって、私の腕にしっとりとしずみ込んで来る。たのしい酩酊(めいてい)の予感さえ、いま私にはあるのだ。しかしそれは感官の皮膚面だけのことだ。いらだつものは胸の奥の奥に折れ曲り、そこで眼をくらく光らせているのだ。ある終末的な感じに耐えながら、私はしらずしらず崖の縁をあぶなく歩いていた。遠く電車の音がレエルを伝ってにぶく羽音のようにひびいて来る。額の汗はふいてもふいてもしたたり落ちた。[やぶちゃん注:「蓖麻(ひま)」下剤「蓖麻子(ひまし)油」でしられるキントラノオ目トウダイグサ科トウゴマ属トウゴマ Ricinus communis の異名。種子には猛毒であるリシン(Ricin)が含まれている(解毒剤なし)。推定で東アフリカ原産とされる。]

 二町ほどもあるくと、やがて左手の雑草地が尽きるところ、小さな屋根が見えて来る。あれが天願氏の家である。近づくにしたがって屋根のトタンの照返しが、黒くぎらぎら眼を射たりした。その小さな庭の伸び切った玉蜀黍(とうもろこし)のかげに、椅子に腰かけた裸の男が見える。頭をうつむけて何か手を動かしているらしい。草いきれの小径をよぎり、破れた背戸を押したとき、気がついたように背を起した。

 「なんだ」と私はすこしおどろいた声を出した。「居たんですか。居ないのかと思った」

 ふと呆けたような眼付になって天願氏は立ち上った。かぶさった髪のしたの顔。裸の上半身は何か見ちがえるほど肉の落ちた感じであった。立ち上った膝から竹屑が散って地面に落ちた。けずり上げたのは一尺ほどの細い筆筒らしい。掌に握っているのは、よく磨ぎすまされた鋭い形の鑿(のみ)である。なにか対峙(たいじ)するように私は背を堅くして、じっと天願氏を眺めていた。大儀そうなわらいが天願氏の頰に一寸浮んだ。[やぶちゃん注:「天願氏」戦前の小説「風宴」(昭和一四(一九三九)年八月号『早稲田文学』発表。リンク先は「青空文庫」)にも登場するが、これは五高時代以来の友人で作家の霜多正次(大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:元日本共産党員)である。がモデルとされる。但し、彼は昭和十五(一九四〇)年に応召し、外地を転戦した後、ブーゲンビル島に配属され、日本の敗色が濃厚となった昭和二十年五月、オーストラリア軍に投降して、捕虜となったから、設定は全くの架空である。]

「居ないのかと思う位なら、何故訪ねて来るんだね」

 かすめるような視線が一瞬私の手の酒瓶におちて、台所の引手に身体を入れながら天願氏が私をふりかえった。

「玄関から上れよ。それとも井戸端で身体をふくかね」

「磯さん。磯さん」家の中からそんなこもったような声がした。その弱々しい調子にふと私は耳をとめた。それは夫人の声にちがいなかった。なだめるような男の声が、やはり障子の内側でした。押えた声音であったけれども若々しい響きであった。声はそれだけで止んだ。

 玄関に廻るとよごれた下駄箱に、骨の折れた古傘や火たたきが立てかけられ、紙袋から洩(も)れた防火砂が土間にざらざらこぼれていた。そこに無造作に脱ぎ捨てられた一足の靴のそばに、私は靴の紐を解いた。革と汗の臭いがただよった。それは私の靴からであった。私のと並んだその靴は、今日おろしたかと思えるほど真新しくて、形から言えばあきらかに軍隊用のものだった。私は何故となく自分の靴を土間のすみにかたよせた。足音をふと忍ばせて部屋に入ると、もはや天願氏は黒い大きな卓を前にして欝然とすわっていた。卓の上には空の湯呑がふたつ置かれていた。私はその前にきちんとすわり、暫く経って背後から酒瓶を引寄せ、湯呑にふたつともトクトクと酒を満たした。[やぶちゃん注:「火たたき」火叩き。消火用具で、竹竿の先に三十センチメートルほどに切った縄の束を付けたもの。これで叩いて火を消す。空襲時の火災のためのもの。]

「今日はいろいろお願いがあってね、何からしゃべっていいか、先ず、僕の荷物をね、しばらくあなたの家にあずかって貰いたいと思ってね、そう思って今日はやって来たんですよ」

 そう言いながら私は湯呑のなまぬるい酒をすこし含んだ。天願氏は無精鬚のはえかけた顔をややのり出して、探るような視線で私の方をしばらく見詰めていた。

「荷物って。何故?」

「布団や机、そんなものです」

「ふん」天願氏は湯呑をとりあげて、ゆっくりした動作で半分ほど飲んだ。「どこかに逃げるんだな。故郷にかえるのかい」

「あなた、そこにいるのは誰?」

 それは隣室から夫人の声であった。それと一緒に唐紙(からかみ)ががたがたと少し開いて、窓かけをおろした青暗いその部屋から、白い服を着たわかい男がぬっとこちらに入って来た。部屋のすみに膝をついてすわった。眼鼻だちはつめたい程ととのっているくせに、どこか変に粗暴な感じのする男だった。

「やはり医師を呼ばんければいけませんな。天願さん。それはあんたの責任だ」

 若い男は両掌をきちんと膝の上にそろえて、上目使いに天願氏をみつめながら低い声でそんなことを言った。こんなに暑いのに此の男はきちんと服を着ていると思うと、すこし身じろいだとたんに微かな音が鳴って、それは男の腰に下げられた短剣の鞘(さや)であった。男はそう言いながら卓上にふと不審気な視線をはしらせた。

「呼ばなくちゃいけないと僕も思うよ」

 天願氏は押えたような声でそう答えた。そして語尾を曖昧(あいまい)にぼかしたまま、また湯呑をとりあげた。

「奥さんにもお話しておいたが、私も四五日中に出撃するかも知れません。こんなことは秘密だが、こんな場合だから特に申上げるのです」

 唐紙がなかば開いたままになっていて、そこから見えるむこうの部屋の一部に私は気をうばわれていた。床がしいてあって、その上に夫人が布団によりかかってすわっているらしかった。うすぐらい中でその顔はお面のように蒼白であった。そして夫人は私の姿を認めたらしい。

「ああ、あんたなのね」あえぐような弱い声であった。身体を少し傾けながら「お酒をのんでるのね。わたし病気になってしまったのよ」

 何かしめつけられる思いで私はその声を聞いた。眼をそこから外らして私は卓の方に手を伸ばした。

「もちろん生還は考えてはいない。だから後に心を残したくないのです。そんなことは皆でやってくれなければ――」

「それは僕の責任じゃないよ」と天願氏はさえぎった。

「医者に見せたがらないのは僕じゃない。鳥子だよ」

「それは別間題です」

 男はふいに傲慢な口調になった。それから変な沈黙が来た。瓶を傾けて酒を注ぐおとが大きくひびいた。

「それで」と私は耐えきれないで誰にともなくそんな言葉を口に出した。「御病気なんですね。何時ごろからです」

「もう半月位前だ」沈欝な声で天願氏はそう言った。「そこの道で、暗いものだから線路におっこちてしまった」

 そして脾腹(ひばら)を打ったのだという。鋭い眼付でじっと見詰めていた若い男は、天願氏がとぎれとぎれその事情を話している途中でふと立ち上った。では、と言ったらしかった。部屋を出て行ったと思うと玄関の板の間に剣鞘がふれる音がし、暫くすると表の方に出て行く靴の音がした。

「――電車が丁度走って来た処でね、危く轢(ひ)かれるところだった。急停車したからたすかった」

「だって電車には前燈がついていたのでしょう?」

「そりや点いているだろうさ。何故?」

「では道は暗くなかった筈だ」

 天願氏はいきを引くようにして暫くだまった。湯呑の残りをぐっとあおった。

「暗かったのか、前燈に目がくらんだのか、それは僕は知らない。とにかく近所の人がせおって来て呉れたんだ。それから鳥子はずっと寝ているんだ」

 へんにつめたい顔になって天願氏は隣室の方を顎でしゃくった。

 それから暫く酒を湯呑に注いでは飲み注いでは飲んだ。そのあいまに堅いするめの脚をしきりに嚙んだ。隣室と境の唐紙は半ば開いたままになっていて、夫人はまた床に横になったらしい。私の眼からは今、うすい夏布団が体の形にふくらんでいるのが見えるだけである。私たちの会話は聞えないのか、それはじっと動かない。何かしゃべることが沢山あるような気持がするが、さて口に出そうとすると何も言うことはなかった。湧きあがるむなしいものを押えながら、奥歯で鯣(するめ)をしきりに嚙んだ。明日は荷物をまとめて天願氏のところに運びこむ。明後日は赤だすきなど肩にかけて、見送りもなくひっそりと東京を離れてしまう。それでもう帰って来ることはないだろう。私は水兵服を着こみ軍艦に乗せられ、遠い南の海で戦争し、やがて静かに青い海に沈んで行く。何もかもそれで終る。青じろくふやけた私の屍の中に、赤や青や斑の魚たちが巣をつくってしまうだろう。ぼんやり私はそんな想像に堪えながら、また瓶から酒を注ぎたしては飲んだ。ようやく酔いが熱く身体のすみずみに廻って来た。[やぶちゃん注:実際の梅崎春生は敗戦まで九州地区を転々とした内地勤務であった。]

「どうも少し変なんだ」と暫くして赤くなった顔をあげて、天願氏がぽつんと言った。まるで前からの話のつづきみたいな具合だった。「なんだかぼんやりして、役所に出たって面白くないもんだから、近頃はずっと休んでいるんだが、うちにじっとしているとへんに退屈でね。昨日はひとりで浅草に遊びに行ったのさ。おどろいたねえ、普通の日だというのに満員だ。男の歌手が舞台に出て来てね、気取った声で勇ましい軍歌をうたったよ。皆聞いてるような聞いてないようなぼんやりした顔で舞台を眺めているんだ。その中にいて、だんだん不安になって来た位だ。何のためにみんな木戸銭払って入って来ているんだろう。うたい終ると平土間の片すみから、ようハイクラス、という掛声がかかったよ。それでも誰も笑いなんかしない。歌い手もしろうとっぽい笑い方しながら引込んで行ったんだが――」[やぶちゃん注:「役所」梅崎春生に教育研究所への就職を世話したのは霜多であったから、彼も東京の役人(教育関係)であったものと考えられる。]

 湯呑をかざして西陽(にしび)にすかすようにした。

「ハイクラスだなんて、きっと国民酒場のウイスキイのレッテルでも思い出したんだよ。しかし何故そんなことばかりを僕は覚えているんだろう」

「それで」と私も調子を合せるように訊ねた。「それはそれとしてもね、先刻の若者はあれは海軍の士官?」

「そうなんだ」天願氏はちょっと厭な顔をしてうなずいた。「鳥子の遠縁にあたるというんで、近頃しょっちゅうやって来るのさ。東京通信隊付の海軍少尉さ。あれで学徒出陣と自称しているんだがね」

「学生上り、にしては一寸いやなところがありますね」

「近頃の学生って皆そんなもんだよ。変に悟ったような恰好で、その癖おそろしく俗才に長(た)けていてさ。あれでマルスに来ていたと言うんだが、君は覚えていないか?」

 珈琲(コーヒー)の香や莨(たばこ)の煙や、壁にかけたロオランサンの模写や、鉢植のかげから音楽が流れていたマルスの店を、私は今あざやかに思い出していた。そこでは角帽の学生たちが眼鏡をひからせながら珈琲をのんだり、ハイボールを飲んでいたりした。その二階のきたない部屋で、若い私達はひそかに何度も会合した。階段のところに見張りを立て、私達は熱心に議論したり、仕事を打合せたりした。天願氏と相知ったのも此の二階の一室だった。天願氏は錆(さ)びた特徴のある声で、常に私達をリイドした。此の会合がだんだん不活潑になって来たのは何時頃のことだろう。そして、私がそれから次第に情熱を外(そ)らして行ったのは。――世の中がなんだか変な具合になって来て、マルスが丸巣と改名させられたり、大学の軍事教練が必須課目となった頃から、私はむしろ階下に入りびたって酒ばかり飲むような男になっていた。その頃の仲間もみな四散し、昔のことなど忘れたような顔付で、常凡な会社員になったり、地方の中学教師になって行ったりした。生きていることがくるしく、私は毎夜マルスに通った。酒をのんだり、そこの女の顔をながめることが、その頃の私の唯一の生甲斐だった。取残されたという意識が、はなはだしく私を駆りたてていた。――そこの女に心から惚れていたのかどうか、私は今でもわからないのだ。しかしその給仕女の顔を見ると胸が押しつけられるような気がした。何時からこんな気持になったのか、それも覚えていなかった。私が丸巣の扉を押して入って行くと、何も言わないうちに黙って強い酒を注いで呉れた。めったに笑顔を見せない冷たい感じのする女だった。酒をのみながら私は遠くの卓から眺めているだけであった。その女の冷たい感じがどこか人を牽くらしく、その取巻の中に先刻の若い男の顔もあったような気もする。しかもそれもはっきりしていない。――ある夜、長い間の盥(たらい)廻しから出て来た天願氏をつれて、私は丸巣の扉をくぐった。天願氏は蒼くやつれて、変に元気をなくしていた。うしろめたい気持があって、私はしきりに天願氏に強い酒をすすめ私も飲んだ。酔ってから、あの女をぼくは好きなんですよ、と天願氏にささやいた。天願氏はきらきら光る眼でその女の方をじっと眺めていた。――それからどんな経過やいきさつがあったのか、私は全然知らない、二箇月も経(た)たないうちに天願氏は、その鳥子という給仕女と結婚したのだ。それから三年経つ。

 今更自分の気持をいたわってもしかたがないとは思いながら、酔いが廻って来るにつれて妙な感傷が私を領し始めていた。事態がこんなにせっぱつまっているのだから、沢山やるべきことが残っているような気がするのに、西陽(にしび)がかんかんあたる此の小さな部屋でぼんやり酒を飲んでいるということが、変にぴったりしない奇怪なことに思われだした。膜をへだてて撫でるように、真の感覚から遠ざかったものがある。時折私は思い出したように隣室をぬすみ見ながら、天願氏と調子の合わない会話をぽつりぽつりと交していた。天願氏は酔いが廻るにつれて、沈みこんでいた何ものかが表面にいらいらと浮び出るらしかった。

「近頃なんだか神経衰弱のような気味があるんだよ」天願氏は鯣(するめ)の胴を無意味にひきさきながら言った。「しきりに故郷のことばかり頭に浮んで来るのだ。僕の生れた石垣島という処はまことに大風の吹く島で、家はみんな鯣のように平たく地面に這ったような形なのだ。がじまる。びんろうじゅ。僕の生家は大きな家で、おやじが六十九にもなって、まだ生きている。ひとつ家に、おふくろとお妾と、ぼくの兄弟や甥たちが、ごちゃごちゃに、しかも仲良く住んでいるんだ。お互に愛情をもちながら平和に暮しているんだ。僕はそんな愛情が鎖のように重くて、若いときその島を飛び出したんだが、東京のように人と人の間が乾いた風土も始めのうちは面白かったけれど、近頃はもうやりきれなくなった。他人がどんなことを考えているか判らないということは、君、おそろしいことだよ」[やぶちゃん注:モデルとされる霜多は沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれである。「がじまる」バラ目クワ科イチジク属ガジュマル Ficus macrocarpa 。沖縄ではこの大木に妖精キジムナーが棲むことで知られる。「びんろうじゅ」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu 。噛み煙草に似た使われ方をする嗜好品としての実、「ビンロウジ(檳榔子)」で知られる。]

「歳のせいですよ」と私はわらった。

「歳のせいだけでもないらしい」天願氏は渋い顔でこたえた。「だいいちそんなに僕は年寄りじゃない。まだこれでも四十だよ。四十になってぼんやり何にも判らないでいるのだ。ああ、ちょっと」掌を上げて耳をすますような恰好をした。「聞えるだろう。あれが」

 屋根の上でなにか軽いものをころがすような丸い断続した音がした。ぐるる。ぐるる。ぐるるる。そして止んだ。天願氏は手を伸ばして、畳の上にころがっていた先刻の竹の筒をひろいあげた。

「夕方になるといつもやって来て啼くんだ。あれは鳩なんだよ」

 鳩の啼声(なきごえ)がまた短くおちて来た。

「あの鳩を射落してやろうと思ってね、今日は昼からこれをつくったんだ。吹矢のつもりだよ。でももう此の吹矢を使う気持はなくなった。吹矢で鳩をおとせるものか。そんなこと判っていながら僕はせっせと此の竹筒をけずっていたんだよ。げずり上げた処に君がやって来たんだ。だから今安心して僕はのんでいる。いい酒だね、これは。よくこんな酒がいまどき手に入ったもんだね」

「――召集が来たんです。先刻言いそびれたけれど」

 湯呑を口に持って行こうとした手がはたと止って、天願氏は赤くにごった瞳でじっと私を見つめた。鳩の声が、ぐるぐるる、とおちて来た。窓におろしたすだれのむこうで、大きな夕陽がいま沈むらしかった。

「鳥子」しばらくして天願氏がかすれた声で呼んだ。「召集が来たってさ」

「聞いたわ」

 弱々しい声が隣から戻って来た。夫人はそして床の上に起きなおるらしい。湯呑をぐっとあおると、天願氏はまた酒瓶の方に手をのばした。

 

 陽が沈むと少し風が出たらしく、玉蜀黍(とうもろこし)の葉がさやさやと鳴り始めた。そのむこうの線路を電車が屋根だけ見せて時々走って行った。身体はすっかり酔っているくせに、皮膚だけがしらじらと醒めている感じだった。私達は何だか大きな身振りをしてしゃべり合っていた。こんなに酒をのむのも今夜だけだという気持が、なにか私をかなしくさせていた。天願氏は役所の仕事のことをしきりに話していた。天願氏のかかりというのは、国民学校の教員たちを道場につれて行って、みそぎをさせたり、講話を聞かせたりするのが仕事であるらしかった。

「霊火の行(ぎょう)というのがあるんだ。午前二時頃広場のまんなかに火を焚(た)いて、皆でそれを取巻くんだ。他愛もない話だよ。拝火教のたぐいさ。どんなことをするかというと、白い紙に自分の懺悔(ざんげ)や祈願を書きしるして、折りたたんだやつを順々に火の中に投げこんで行くという趣向なんだ。僕は火のそばにいてね、風に外れて燃えないままのやつを、此のあいだ三枚ばかり拾い上げたんだ。先生どもは皆深刻な顔付で投げこんで行く。どんなことを書いているかと、つまり僕はふと好奇心をおこしたわけなんだ」

 天願氏の舌はすこしずつもつれるらしかった。

「そして道場に戻ってそっと開いて見たんだ。どんなことが書いてあったと思う。何にも書いてないのだ。全然の白紙だった。三枚とも」

 惨めなわらいが天願氏の頰にうかび上って来た。

「それは想像できるな。で、天願さんはまさかそれ以来役所を休んでいるという訳じゃないでしょうね」

「いやなことを聞くんだな。いまさら俺にそんな感傷はないよ」

「ほんとうに無意味なことをやるもんですね。大人たちは」ふとにがいものが胸におちて来て、私は独白のようにそう呟いた。天願氏の顔は酔いのために少し蒼ざめて、やせた頰のあたりは凝(こ)ったように動かなかった。

「無意味だと思うかね」

「思うわ。無意味じゃないのですか、そんなことは」

 暫く卓の上に視線をおとして、やがてしみじみした声になった。

「僕の友達は皆、いまはいいところになっていてね。君には判るまいが、日本が必ず敗北すると信じていながら、それで八紘一宇(はっこういちう)の宣伝なんかしているやつも居るんだよ。もっともこいつも役人なんだがね。八紘一宇なんてそんな馬鹿げたことを、当人は毛ほども信用してやしないのだ」[やぶちゃん注:「八紘一宇」「日本書紀」に神武天皇が大和橿原(かしはら)に都を定めた際の神勅に「六合(くにのうち)を兼ねて以って都を開き、八紘(あめのした)をおほひて宇(いへ)と爲(せ)んこと、また、よからずや」とあるのに基づく。それは「八紘爲宇」の文字であるが、昭和一五(一九四〇)年八月、第二次近衛内閣が「基本国策要綱」で大東亜新秩序の建設を謳った際、「皇國の國是は八紘を一宇とする肇國(ちようこく)の大精神に基」づくと述べた(「肇國」は「建国」の意)。これが「八紘一宇」という文字が公式に使われた最初で、これ以降、「教学刷新評議会」で「國體觀念をあきらかにする敎育」を論ずる中などで頻繁に使用された。日蓮宗の「国柱会」の田中智学もしばしばこの文字を使った。すべて「大東亜共榮圏の建設、ひいては世界萬國を日本天皇の御稜威(みいづ)の下に統合し、各々の國をして其の處を得せしめんとする理想」の表明であったとされる(小学館「日本大百科全書」を参考にした)。]

「しかしあんただって」私は湯呑を傾けて、酒がつめたく食道を流れおちるのを感じながら言った。「同じことですからね。あなただって日本が勝つとは思っていないですよ」

「そう。俺は思わないさ」

「そして心にもない錬成を、罪もない教師たちにやっている」

「君はそう思うだろう」少し経って天願氏は沈痛な声で言った。「――そんなこと俺にはどうでもいいんだよ。何でもないことなんだよ、俺には」

「――此の戦争がどんな意味で起りどんな具合に終るか、それを私に教えて呉れたのはあなたですからね、四年前」

「戦争には行きたくないだろうな」低い声で天願氏が私に聞いた。眼はまっすぐ私に向けられ、きらきらと光っていた。「行きたくないと言っても、もう遅いけれども」

 崖の下を轟(ごう)と電車が走りぬけ、パンタグラフのあたりから眼も醒めるようなうつくしい火花がチカチカと散りおちた。すだれ越しに私の眼はそれをぼんやりとらえていた。ある感傷が切なく私をよぎっていた。あの電車にのり、そして今夜中に遠いところに行ってしまう。どこか見知らぬ田舎町に下車して、名前を変えて一生そこの住人として暮して行く。此の感じが俄に現実性のあるものとして、私の胸を一瞬ゆすって来た。頭をあげて、私はまた口の中に酒を流しこんだ。意識がようやく四方に乱れて行くのが自分でも判った。

「白紙を燃しに来るあの教師たちの深刻そうな顔を考えると、俺はなんだかこわくなって来るよ。判っているつもりで、俺には何にも判っていないのだ。街をあるいていて、君は皆の顔がおそろしくないかね」

「おそろしい。そんな感じともちがうけれども――」私は先刻の、向う側の電車のことを想い出していた。あの水の乾上った水族館みたいな、硝子越しにうごめくひからびた人人の影を。そして窓に貼りついた病理標本の蠟(ろう)細工みたいな子供の顔が、突然あざやかに記憶によみがえって来た。

「先刻電車の中でね、氷を食ってる老人がいましたよ。何だか変なことをしゃべっていてね」そして私は口をつぐんだ。あの感じを言いあらわそうとすることが、へんに面倒になって来たのだ。天願氏はしかしそれには気もとめないらしかった。鯣(するめ)のくちばしを歯にくわえて、かりかりと嚙んだ。[やぶちゃん注:「鯣(するめ)のくちばし」タコ・イカの顎及びそこに付随する顎板。「カラストンビ」(烏鳶)のこと。]

 表の方から入って来る堅い靴の音がした。そして土間を踏む音が響いて、何かいう声がつづいた。

「どなた?」

 隣の部屋で夫人が立ち上るらしい。湯呑をおくと天願氏はすこしよろめきながら、玄関の方に出て行った。床柱に頭をもたせて私は眼をつむった。瞼のうらに紅い筋が入乱れて、身体がしんしんと奈落におちて行くような気がした。(俺は何のために今日此の家に訪ねて来たのだろう。自分のさしせまった情況を天願氏に聞いて貰いたかったのか?)

 天願氏が無縁のものであることは、数年前から私はすでに感じていたことであった。私と天願氏をつなぐものは、もはや古い交情の惰性にすぎなかった。時折私が此の家をおとずれたのは、あるいは自分の脱落した感興を、私は天願氏の上に確めたかったのかも知れなかった。あさっては東京を去るというのに、しかし今私は何を確めようとするのか。ふと玄関の会話に聞耳を立てた。

「では行って参ります。お元気で。銃後の守りを果して下さい」

 それはあの若い士官の声だった。姿を見ないせいかその声は妙に暗くひびいて来た。それから天願氏が低い声で何か言うのが聞えた。扉を開く音がして、やがて再び靴の音が遠ざかって行った。しばらくして天願氏が何か包みをもって部屋にもどって来た。卓の前にゆっくりすわった。

「こんなものを呉れたよ」

 紙が破けて軍隊用らしい莨(たばこ)が畳にこぼれ出た。なにかぎょっとして私はふりむいた。半ばひらいた唐紙に身体をもたせて、白い寝衣を着た夫人がこちらを見おろしていた。障子におちかかる黄昏のいろのせいか、顔色は紙のように光がなくて、白い寝衣におおわれた腹のあたりがへんにふくらんだ感じだった。夫人はそのままくずれるように敷居の上にすわった。

「召集ですってね。みんな次々行ってしまうのね」

 それだけ言うのさえも大儀そうだった。眼が暗くくぼんで、ふと見違えるような衰えかたであった。

「磯がいま戻って来たんだ。出撃だと言っていたから、これが最後なんだろう。お前によろしくと言ったよ」

「それも聞いていたわ。私玄関に出ようと思ったのよ。そしたらもう行ってしまった」

「出なくてもよかったんだよ」

 天願氏の声はへんにやさしかった。畳にこぼれた莨を口にもって行く指が、小魚の腹のようにぶるぶるふるえていた。夫人が天願氏をちらと眺めたその視線は、なにか氷のようにひややかだった。天願氏は黙って腕をのばして電燈をひねった。薄色の花のように燈の光が散った。

「崖からおちたって、どうしたんです」視線を夫人から外(そ)らしながら、私は低い声で聞いた。「磯少尉の言草じゃないけれど、やはり医者にお見せになったがいいですよ」

「おっこちたのよ」と夫人は肩を大きくうごかした。「歩いているとね、ふらふらっとして、それっきりなの。気がついたら線路の上にいて、皆で大さわぎしていたわ」

 線路の上に横たわっている夫人の姿が、私の想像の中でありありと浮んで来た。その想像の中では、夫人はやはり真白な衣服をつけていた。青ぐろい線路が白い夫人の身体をつらぬいて走っていて、何かひやりとするような危惧の予感が一瞬私の胸をはしった。天願氏の錆びた声がふと憎しみの響きをおびて沈黙をやぶった。その声もすでに呂律(ろれつ)があやしく乱れていた。

「死ぬ時期が来なければ、人間は死なないものだよ」

「それはそうよ」と夫人がつめたい調于でそれに答えた。

「あたしだって、まだ憎まれながら生きているんですものねえ」

 背をもたせたまま私は内ポケットの辺を指で探った。酔っていてもそれははっきり感じ当てられた。酔いのための動悸がその紙片の下で打っていた。すべてむなしいものが此処のあたりから発するのかと思うと、何か嗜虐的な快感が毒のように手足の先までひろがって来た。掌で頭を押えて天願氏が私の方にむきなおった。

「あの道を歩いて来ると、必ず崖のふちを歩きたくなるのは何故だろう?」

「あなたにこれを上げるわ。これがあたしのせんべつよ」

 夫人の掌に白い小さなかたまりが見えて、弱々しい声であった。衣(きぬ)ずれがさらさらと鳴った。それは小さな布の人形であった。天願氏の視線が動いて、食い入るようにそれをとらえたらしかった。私はそれを受取って、燈の方にかざして見た。

「かわいい人形じゃないか」

 押しつぶされたような声で天願氏が言った。人形は小豆ほどの顔に、ちゃんと眼鼻をつけていた。マッチの棒の太さの脚が、裾からわずかに伸びていた。

「有難う」

 ふと瞼のうらが熱くなるような気がして、それを胡麻化(ごまか)すために私は身体をねじり、床柱の脇にそれをぶらさげようとした。具合よく人形には紐(ひも)がついているのだった。

「ニュース映両でみたのよ。みんなそんなものを腰に下げたりしているわ。だからいま思いついたの」

「多分ぼくが貰う餞別はこれっきりですよ」

 天願氏はかすれた声で短い笑い声を立てた。

 夫人はそのまま立ち上るらしい。燈のまわりを飛び廻っていた大きな燈取虫が畳に堅い音をたてて落ちた。そして畳の上に置かれた鑿(のみ)の刃の上に足音を立てて這い上った。鑿の刃が燈の光を反射してキラリと光った。夫人の白い後姿は消えるように次の間にかくれた。

「奥さんは――」私は声をひそめて確めるつもりで天願氏に問いかけた。「おめでたじゃないのですか」

 掌で頭をおさえたまま、天願氏はじっと酒瓶の方をみつめていた。もはや酒は僅かしか残っていなかった。私の言ったことが聞えたのかそれも定かでなかった。呆(ほう)けたような表情がふとゆがむと、天願氏はまたゆっくり顔を私にむけた。

「今日は何か用事があったのかね」

「だから荷物をたのみに来たんですよ。でも考えてみると、貴方も迷惑な話でしょうね」

「迷惑じゃないが、どちらでも良いんだよ」

「どのみち東京に戻って来れる見込もないから、僕もどうでもいいのです」

 燈の影で天願氏のかおは、言いようもなく苦渋(くじゅう)にみちた暗い表情であった。とつぜん声をおとして私にささやいた。

「――君は今日鳥子にあいに来たんだろう」

 背筋をつらぬく深い悲哀が、突風のように私をおそった。私は顔をうつむけたまま、湯呑をつかんだ自分の手にじっと視線を固定させていた。私は自分の手がふるえ、そして湯呑の底が卓に音を立てるのを聞いた。額から血の気が引いて行くのがわかった。私はしばらくそれに耐え、それから顔を上げた。再び天願氏のひそめた声が耳に来た。

「それならそれでも良いのだよ。俺は責めている訳じゃない」

「僕は荷物をたのみに来たんです」

「そりゃそんな積りもあっただろうさ。しかしそんなことを俺は言っているんじゃない。俺はもう鳥子と別れようかと思っているのだ。夫婦というのは形だけで、今は何でもありゃしないんだ。鳥子だってそんなことを考えているんだ。鳥子は俺をにくんでいるんだ。君には判らないいろんなことがあるんだよ。あの夜だって鳥子はふらふらと落っこちたと自分で言うのだけれども……」

「僕は荷物をたのみに来たんですよ。ほんとに」私は天願氏の話をさえぎって、同じことを繰り返した。「僕はそんなことにもう興味をなくしているんだ」

 そうか、と天願氏は低くつぶやくように言った。そして突然ぎらぎらと濁った眼を私に固定した。それは憤怒のいろでいっぱいに見開かれていた。

「俺は君をにくむよ」押えた烈しい声であった。「今日君が意味なくやって来たということだけで、俺は君をにくむ」

 私は頰をかたくしたまま天願氏の肩越に、今玉蜀黍(とうもろこし)のむこうを走って行く電車の屋根の大きな青白いスパアクのいろを追いかけていた。それは地上のものでない美しさであった。スパアクが二三度つづくと、電線から花火のように火の粉が散り、そして闇がふかぶかとかえって来た。風が吹く音が静かに聞えて来た。天願氏も私から視線をそらし、ふと弱々しい眼付になって窓をふりかえった。電車の号笛が遠くなりひびいた。次第にあるひとつの感情が私の心の中ではっきり形を定めて来たのである。私は莨(たばこ)をいっぽん拾い上げると、マッチをすった。あのマルスの薄汚ないせまい一室で天願氏と始めて会った記億から、フィルムを巻き取るように次々と記億がいま私の胸にうかんで来た。

(俺も此の男をずっと前から憎んでいたのではないか?)

 にがいものが胸にあふれた。今更そんなことを考えついても何になるだろう。他人を愛していようと憎んでいようと、いまの私にとっては、現在という時間は既に遠い過去なのだ。あの紙片を受取った瞬間から、私の生きている現在は死んでしまった。湯呑に残った冷たい液体をぐっとのみほすと、私はなにか兇暴なものを押えかねて、ぐっと卓の下に脚を伸ばした。伸ばした膝のあたりにくりくりと触れる硬いものがあった。身体を曲げて私はそれにふれた。それはあの竹の筒であった。私はそれを握りしめた。

 なにか感応するように、天願氏はぎくりと振返った。そして私の掌の竹筒を見た。あおざめた頰に冷酷な感じのするうすわらいがぼんやり浮び上って来た。

「鳥子が線路におっこちたのは、あれは自殺するつもりだったんだよ。きっと」

 抑揚のない調子だったので、なにかあたりまえのことを言っているように聞えた。天願氏の眼は私にむいているのだが、何故か遠いところを眺めているような眼付だった。さっきの電車の中の老人の眼付に、それはそっくりだった。

「自分が死ねば、俺を困らせることが出来ると思ったに違いないのだ」

 そう言いながら、天願氏の手は卓の抽出しを開いて、何か白い小さなものをかさかさとつまみ出した。円錐(えんすい)形に紙を巻いた、それは吹矢の針らしい。腕が伸びて私の竹筒をつかんだ。

「そんなことを考えるのはお止しなさい」

「――あの翌朝、俺はそこに行って見たんだ。線路のわきに夜露にぬれて、見覚えのあるあいつの腰紐がおちていた。それは輪になっていた。拾い上げると堅く結んであったのだ。何のために輪にむすんだのだろう。膝のあたりをくくったんだろうと俺は直感した。裾などが乱れないようにね。あいつはそんなことを考える女なんだ。何故あいつが死のうとするのか。俺は何にも知らない。何も見ない。見たって何も感じはしないのだ」

 天願氏の声はだんだん努力するような押えた口調になり、額から脂汗がしきりに滲み出て来た。指は絶間なくうごいて、針を筒の中に押しこむらしかった。

「しかしそんなことはどうでもいいのだ。俺がいちばん厭なのは、そんな鳥子を、俺がどうにもしないで放っておくより仕方のないことなんだ。つまり俺には何も判らなくなっているんだ。俺は自分の気持さえ判らなくなっているんだよ。今日も磯がやって来たのに、俺はあのかんかん日の当る裏庭で、一所懸命になって竹筒をこしらえていた。汗がむちゃくちゃに背中から流れた。しかし俺は、此の吹矢で射落される鳩の恰好をしきりに想像しながら、之を削っていた――」

 天願氏は急に言葉をやめて、凝結したような眼付をひとところに定めた。ある予感が突然つめたく私をおびやかした。私は天願氏の視線を追いながら身体をよじった。

 床柱のかげに白い小さな人形がふらふらと風に揺れていた。それは絞首台に下げられた人間の形にも見えた。ふと視野がぼやけると白い小さな人の形は二重にも三重にもみだれ散った。私はその瞬間、錯乱に傾こうとするものを必死に耐えていた。滲んだ視野の中で、天順氏は竹筒をゆるゆると唇に持って行くらしい。燈にかげった天願氏の顔は、仮面のように青白く表情をうしなっていた。私はひとつの終末のように、白い人形がするどい吹矢針で柱にぬいつけられる瞬間を、そしてその瞬間の戦慄を予覚しながら、次第に身体を天願氏の方に乗り出して行った。

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