日本山海名産図会 第四巻 鱒
[やぶちゃん注:図は底本の国立国会図書館デジタルコレクションのものをトリミングした。キャプションは「越中神道川之鱒(えつちうしんとうかわのます)」。「道」はママ。岐阜県及び富山県を流れる神通川(じんずうがわ・じんづうがわ・じんつうがわ)を「神道川」と呼んだ事実はないと思われるので、誤字であろう。]
○鱒(ます)
海鱒(うみます)・川鱒(かわます)二種あり。川の物、味、勝れり。越中・越後・飛驒・奧州・常陸等(とう)諸國に出づれども、越中神道川の物を名品とす。卽ち、「䱒(しほびき)」として納め來たる。形は、鮭に似て、住む處もおなしきなり。鱗、細く、赤脉(せきみやく)、瞳を貫き、肉に、赤刺(こほね)、多し。是れを捕るに、「乘川網(のりかわあみ)」といふて、橫七尺、長さ五尋の袋䋄(ふくろあみ)にて、上にアバを付け、下に岩をつけて、其の間(あひだ)、わづか四寸許りなれども、アバは浮き、イハは沈みて䋄の口を開けり。長き竹を、網の兩端に付けて、竹の端(はし)をあまし、人、二人づゝ乘りたる「スクリ船」と云ふ小船二艘にて、䋄をはさみて、魚の入(い)るを待ちて、手早く引きあげ、兩方より、しぼり寄するに、一尾(び)、或は、二、三尾を得るなり。魚は、流れに向ふて游(ゆ)く物なれば、舟子(ふなこ)は逆櫓(さかろ)をおして、扶持(ふち)す。
○鱒の古名は「腹赤(はらあか)」と云ふ。「年中行司」、腹赤の熟(にへ)を奏す歌に、
初春の千代の例(ためし)の長濱に釣れる腹赤(はらあか)も我君(わかきみ)のため
毎年(まいねん)正月元日、天子に貢(こう)す。若(も)し、遲參の時は、七日に貢す。是れ、「日本紀(にほんき)」景行天皇十八年、玉杵名(たまいな)の邑(いう)より渡る、と云ふ時に、海人の献(たてまつ)りし例(れい)を以て、今に不絕(たへず)、貢(みつ)ぎ奉れり。故に是れを「熟(にへ)の魚(うを)」とも云へり。長濱は、其の郡中にして、又、長渚(ながす)とも云ふ。
○「和名抄」には、「鰚魚(はらか)」又、「鱒」と二物(ぶつ)に別かてり。「鰚(はらか)」は字書に見る事なし。國俗なるべし。或云、今、元日に腹赤の奏を、御厨(みくり)に於いて鮭を用ゆることもあれば、若し、鱒・鮭ともに「腹赤」といふも、知るべからず。
○鮭の子を「ハラヽゴ」と云ふは、「腹赤子(はらあかご)」の轉にも有るか、と云へり。 又、稻若水(たうじやくすい)は、『鱒は、卽ち、淵魚(ゑんぎよ)にして、俗にヲヒカハと云ふ物なり』とも、いへり。されば、「和名抄」に二物に分かてる物、其の故、しかるや。かたがた、さだかならず。尚、可ㇾ考(かんがうべし)。「ヲヒカハ」ゝ、腹赤き魚也。
[やぶちゃん注:私は「大和本草卷之十三 魚之上 鱒 (マス類)」で細かく考証したが、その冒頭注で、
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「鱒」の指す「マス」とは、現在でも特定の種群を示す学術的な謂いでは、実はない。広義には、サケ目サケ科Salmonidae に属しながらも、和名の最後に「マス」が附く魚、又は、日本で一般にサケ類(ベニザケ・シロザケ・キングサーモン等)と呼称され認識されている魚以外の、サケ科の魚を総称した言い方であり、また、狭義には以下のサケ科タイヘイヨウサケ属の、
サクラマス Oncorhynchus masou
サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae
ニジマス Oncorhynchus mykiss
の三種を指すことが多い。また、「マルハニチロサーモンミュージアム」のQ&Aでは、英語圏では原則的には『淡水生活をおくるものをトラウトtrout(日本語訳はマス)、海に降るものをサーモンsalmon(日本語訳はサケ)と呼び、サケの仲間を区別して』いるとし、『日本語でも、サケ属の中で降海する種にはサケを、サケ科の中で淡水生活をおくる種にはマスと付けた名称が使われてい』るとするのだが、その言葉の直後で、その区別は洋の東西を問わず、かなり曖昧である、とも言っている。
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ここでの記載も、産地が明記されていても、また、「海鱒(うみます)・川鱒(かわます)二種あり」と断定して言っていても、特定種への同定は軽々には出来ないように思われるが、しかし、現在の富山名産の「鱒寿司」に使用されているのは、サクラマス Oncorhynchus masou とされる。
「䱒(しほびき)」しっかり塩をまぶした正統な塩漬けである。「大和本草卷之十三 魚之下 䱒(しほうを) (塩漬け)」を参照されたい。
「鮭」条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科サケ属サケ(又はシロザケ)Oncorhynchus keta。「大和本草卷之十三 魚之上 鱖魚 (サケ)」を参照。
「赤脉(せきみやく)、瞳を貫き」瞳と言っているのが不審であるが、これは鰓から尾鰭にかけての体側部に、赤から赤紫色の太い縦縞の模様があるニジマスのことを言っているようには読める。
「乘川網(のりかわあみ)」この呼称は現行では残っていないようである。
「アバ」浮き。
「岩」後の「イハ」とともに錘(おもり)のこと。古くは実際の岩を用いた。
「スクリ船」語源不詳。本来は古式の刳り舟で「素刳り舟」だったのではないかと思うのだが、図のように二艘で挟んで鱒を「掬う」様子からは「すくり」は「掬ふ」の転訛のようにも感じられる。
と云ふ。小船二艘にて、䋄をはさみて、魚の入(い)るを待ちて、手早く引きあげ、兩方より、しぼり寄するに、一尾(び)、或は、二、三尾を得るなり。魚は、流れに向ふて游(ゆ)く物なれば、舟子(ふなこ)は逆櫓(さかろ)をおして、扶持(ふち)す。
『「年中行司」、腹赤の熟(にへ)を奏す歌に』『初春の千代の例(ためし)の長濱に釣れる腹赤(はらあか)も我君(わかきみ)のため』出典不詳。当初、平安時代の「年中行事絵巻」かと思ったが、復刻の現存品には詞書がない。「熟(にへ)」は「贄(にへ)」で、元来は神に供える神饌であるが、天皇の食膳に供されるために諸国から調進される食物をさすそれに転じたものであろうが、「熟」は誤字や当て字ではなく、塩にしっかり漬けて「熟(な)らしたもの」の謂いを含んだ換字であろう。
『「日本紀(にほんき)」景行天皇十八年、玉杵名(たまいな)の邑(いう)より渡る、と云ふ時に、海人の献(たてまつ)りし』景行天皇十八年(西暦機械換算八八年)の六月の条に、
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癸亥六月辛酉朔癸亥。自高賴縣渡玉杵名邑。時殺其處之土蜘蛛津頰焉。
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とある。「玉杵名(たまいな)の邑(いう)」とは現在の熊本県玉名市(たまなし)の菊池川周辺か。玉杵名大橋(グーグル・マップ・データ。以下同じ)に名が残る。
「長濱は、其の郡中にして、又、長渚(ながす)とも云ふ」前の玉名市の西に接する海浜の熊本県玉名郡長洲町(ながすまち)であろう。
『「和名抄」には、「鰚魚(はらか)」又、「鱒」と二物(ぶつ)に別かてり。「鰚(はらか)」は字書に見る事なし。國俗なるべし』「和名類聚抄」の巻十九の「鱗介部」第三十の「龍魚類」第二百三十六の三丁目に、
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鰚魚(ハラカ) 「辨色立成」に云はく、『鰚魚【「波良可」。音「宣」。今、按ずるに、出づる所、未だ詳らかならず。「本朝式」に「腹赤」の二字を用ゆ】。』と。
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とし、後の七丁目に、
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鱒(マス) 「七卷食經」に云はく、『鱒【「慈」「損」の反。】一名は「赤魚」【和名「万須」。】』と。「兼名苑」に云はく、一名は「鮅」【音「必」。】。鯶に似て、赤目なる者なり。
とある。「鰚」は一説に鮸(にべ:スズキ目スズキ亜目ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii )、一説に鱒の別名とする。「辨色立成」は奈良時代八世紀の成立とされる字書であるが、散佚して原本はない。「兼名苑」唐の釈遠年撰とされる字書体語彙集だが、散佚。「鮅」鱒或いはカワムツ(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科クセノキプリス亜科 Oxygastrinae カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii )を指すとされる。「鯶」クセノキプリス亜科ソウギョ(草魚)属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus を指す。中国原産だが、明治時代に人為移入された。
「稻若水(たうじやくすい)」江戸中期の本草学者稲生若水(いのうじゃくすい 明暦元(一六五五)年~正徳五(一七一五)年)。名は宣義、若水は号であったが、自ら稲若水(とうじやくすい)と改名した。儒医稲生恒軒を父として江戸に生まれ、元禄六(一六九三)年、加賀藩主前田綱紀に儒者・本草家として召し出された。「庶物類纂」一千巻の編述を志し、綱紀の後援のもとに作業を始めたが、三百六十二巻を完成しただけで惜しくも没した。これは中国文献にある動植物の記事を集録したもので、名物学・博物学の傾向が強い本草書である。
「ヲヒカハ」コイ科クセノキプリス亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus 。]
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