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2021/06/01

伽婢子卷之六 長生の道士

 

  ○長生(ちやうせい)の道士(だうし)

 

Tyouseinodousi

 

[やぶちゃん注:今回は底本の挿絵をトリミング補正し、かなり念を入れて清拭した。シーンは「刀自」が指を女房たちに指しているところで、最後の怪異の起こる場面である。左幅手前の若衆髷の御側の者の右手手元に置かれた長柄の柄杓銚子が凄い。私だったら、客に粗相しそうなほどに大きくて重そうだ。]

 

 安房(あはの)國里見義廣は、武勇を以て、國家を治め、其(その)威、やうやく盛りならむとす。

 そのころ、朝夷郡(あさゐなのこほり)より、老翁一人、めしつれて、城中に來〔きた〕る。

 其年を尋ぬれば、

「さらに數百年に及ぶ。」

と、いうて、年の數をば、覺えず。髮鬚(かみひげ)は白きを變じて、黃金絲(わうごんし)の如く、眼の色、碧く、耳、長し。顏色は、いまだ、五十ばかりの男にて、髮は垂(たれ)て、坐すれば、地にたまり、名を問へば、

「岩田刀自(いはたのとじ)。」

と號す。

 後鳥羽院の御時に、信州奈須野の狩(かり)に、三浦大輔(みうらのおほすけ)に具せられて狩塲(かりば)に赴く。九尾(きうび)の狐を殺せし事、砒霜(ひさう)の殺生石を碎きて、人數〔にんず〕多く、毒に中(あて)られ、大熱狂亂して死せし事、今見るやうに語る。

「其時、年十八歲、狩場の跡に、父母兄弟、皆、死せしかば、是れを、ものうき事に思ひ、山に籠りて、道を修(しゆ)す。いづ方ともなく、仙人とおぼしき人、來りて、藥を授づけたり。一粒(りふ)の靑丸(せいぐわん)を服せしより、身もかろく、心もさわやかになりし所を、かの仙人、我を召し連れて、空をかけり、太山の峯に行(ゆく)。その所は、いづくとも知らず。七寳の床の上に坐せしめ、丹栗(たんりつ)の赤き栗、霞漿(かしやう)の霞の漿(こんづ)を、あたふ。我、これに醉(ゑひ)て死せしかば、玄天(げん〔てん〕)の甘露(かんろ)、半合ばかりを飮(のま)せしに、醉(ゑひ)、さめて、心、いさぎよし。其時、仙人、語りけるやうは、

『汝、鶴龜(つるかめ)を見ずや。氣(いき)を伏(ふく)し、息(いき)をしづかにす。此の故に、神氣(しんき)、耗散(がうさん)せず、命、至りて、長し。又、病、ある事なし。今より九十年の後、兩眼の色、靑くなりて、光りあり、よく闇の中にも、物を見るべし。一千年にして、骨を易(かへ)、二千年にして、皮(かわ)を蛻(もぬ)け、毛(け)を易(かゆ)べし。これより、二たび、形、衰へず、よはひ、かたぶかず、命、更に限りあるべからず。およそ、世の人、内には、七情(じやう)の氣、欝滯(うつたい)し、外には、風寒暑濕に陷溺(くわんでき)し、色をほしいまゝにし、食を濫(みだ)りにす。心火(しんくわ)、たかぶり、君火(くんくわ)、亂れ、内に五臟六府をこがし、九百分(ぶん)の宍(しゝむら)を爛(たゞら)かし、外には、四十九重(へ)の皮、八萬の毛の孔(あな)、空しくひすろぎ、十四の經(けい)・十五の絡(らく)、皆、もぢれ、ゆるまり、三百六十の骨つがひ、ことごとく、離れ、諸病、これより生じ、命、此故に縮まり、終(つゐ)に、百年を保つ、人生に稀也。其の外、もろもろのうれへ、よろづの悲しみ、かはるがはる、心をまとひ、縛る事、夏の蟲の、ともし火に入〔いる〕が如し。名のため、利のために、物思ひ、絕ゆる事、なし。流れの魚の、毒餌(ごくゑ)をはむに、似たり。いたづらに魂(たましひ)つかれ、精(せい)くづをれ、わづかに方寸の胸の間に妄念の波、高くあがり、たがひにねたみ、そこなふ事、たけきけだものよりも、はげし。此故に佛經には、世界を以つて、「火宅(くわたく)」と名づけ、道敎には、此身を以つて、大〔おほき〕なるうれへの元とす。すでに是を免かるれば、人の世の中を見れば、沸湯(にえゆ)の如く、すさまじく覺ゆ。何ぞ身をすてゝ其の間(あひだ)に置くべきや。すでに三尺の形を練(ねり)て一寸の心をみがく時は、天にのぼり、地に入〔いり〕、雲に乘り、水を走り、千變萬化、更に無方にして、飛行自在(ひぎやうじざい)なる事、たとひ萬乘(ばんじやう)の君〔くん〕も、及ばず。まして、世の常の人、誰か之れに勝らむ。』

とて、其方を敎へられしに、我、それより、當國の山中に歸り、深く籠りて、習ひ侍べり。食は、松の葉をとり、茯苓(ぶくりやう)をくらひ、藥は又、兎絲子(としし)・茅根(ばうこん)を求め、石をねりて、膏(あぶら)を取り、霜を煮て、飴(あめ)となし、百花の露を凝(こら)して、是れをねり、しばしば服(ぶく)するに、長く、五穀を斷(たつ)。更に飢(うゆ)る事を覺えず。心を松風朗月に嘯(うそぶ)き、瀧水(りようすゐ)に慰むれば、欲もなく、怒りもなし。」

といふ。

 義廣、問はれけるやう、

「我も又、この仙術をつとめば、習ひ得べきや。」

と。

 答へて曰はく、

「心を沈めて、わが物とし、色を遠ざかり、欲を離れ、味(あぢは)ひうまき食を、しりぞけ、樂しみも悲しみも、只(たゞ)、これ一つにして、心にとゞめず、德を施して、かたおちなくば、自然に、天地の惠みにかなひ、日月〔じつげつ〕とひとしく、壽(ことぶき)、ながく侍べらん。目に、みだりに見ず、耳、みだりに聞かず、聲、みだりに出〔いだ〕さず、身、みだりに使はず、行〔ゆく〕も、とゞまるも、立〔たち〕も、ふすも、只、みだりにせず、常によく守るべし。」

といふ。

 義廣、きゝて、

「扨は。是れ、人間の交りは、此道のさはり也。さはりをのけて、つとめんとすれば、鹿猿(しゝさる)のごとく也。しからば、長生(ながいき)して、詮(せん)なし。」

とて、さまざま、食をすゝむるに、刀自、更に食(くら)はず。只、酒、よくのむといへども、醉(ゑひ)たる色、なし。

 其形、をかしげに、見苦しき事を、若き女房達、大〔おほき〕に笑ひしかば、刀自、打笑らひて、

「女房達、くやみ給ふな。」

とて、指(ゆび)ざしけるに、十七、八、廿四、五ばかりの女房達、十五、六人、俄かに變じて、姥(うば)となり、膚(はだへ)は、鷄(にはとり)の皮の如く、背(せなか)は鮐(さめ)の鱗(うろこ)に似たり。髮、白く、色、黑う、腰かゞまりしかば、女房達、大に驚き、歎き悲しみて、淚は雨の如し。

「是れ、ゆるし給へ。」

と、手を合せ、詫び言(こと)す。

 刀自、

「さて。懲(こ)り給へ。」

とて、又、指さしければ、もとの姿となりたり。

 義廣、大に怒りて、刀自を殺さむ事を謀(はか)られたり。

 刀自、先立(さき〔だち〕)て、是れを知りつゝ、

――君 此の心ざしあり 國運 久しかるまじ 今より五百月の後 必らず 橫さまに禍(わざはひ)あらむ――

と、書きおきて、坐を立〔たつ〕か、と、見えし。

 二度(〔ふた〕たび)、その行きかたを、知らず。

 追つて、國中の山々、くまなく求むるに、これ、なし。

 義廣曰はく、

「五百月は四十餘年也。我、なんぞ、それまでの命あらんや。」

と。

 然るを、よくよく見れば、「百」の字にはあらで、「箇(か)」の字也。

 果(はた)して、五箇月の後、北條氏康のために、鵠野臺(かうのだい)にして、敗漬(はいせき)しけり。

 そもそも岩田刀自は、生國、如何なる所とも知らず、誰(たれ)がしの子とも聞えず。又、その終る所も、後に知る人、なし、といふ。

[やぶちゃん注:最後に書き綴る部分をダッシュ句読点なしで示した。一読、如何にも中国の仙人譚がもとと判る。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「五朝小説」(明代に編集された伝奇・志怪小説の叢書。魏・晋・唐・宋・明のそれらが収められてある)の「杜陽雑編」(唐末の蘇鶚が唐代後半期の珍宝について伝聞等によりながら、時代を追って記録したものだが、怪奇譚を多く含む)の下にある「羅浮先生軒轅集云々」を原話としているとある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の陶宗儀(元末明初の学者で文人。「輟耕録」(てっこうろく)の著者として知られる)の纂になる「説郛」巻四十六PDF)の51コマ目から原拠が読める(但し、完全な白文)。

「里見義廣」安房の戦国大名里見義弘(享禄三(一五三〇)年或いは大永五(一五二五)年~天正六年五月二十日(ユリウス暦一五七八年六月二十五日)のこと。字を変えたのは、創作であることの確信犯であろう。当該ウィキによれば、安房里見氏第六代当主。里見義堯(よしたか)嫡男。初めは義舜(「よしきよ」か)を名乗った。永禄年間(一五五八年から一五七〇年)のごく初期に、『父より実権を譲られて、義舜から義弘へと改名したといわれている』。永禄四(一五六一)年、『越後国の上杉謙信の北条氏康攻めに呼応したり』、永禄七(一五六四)年)の「第二次国府台(こうのだい)合戦」(永禄七(一五六四)年)で『北条綱成』(今、私の書斎の目の前にある難攻不落の玉繩城の城主であった)『と戦うなど、父と同様に後北条氏と徹底して対立した。しかし、この』「第二次国府台合戦」で、『北条軍に大敗し』、『安房国に退却し、更に北条水軍などの攻撃と正木時忠、土岐為頼、酒井敏房ら上総国の有力領主の離反によって』、『上総国の大半を喪失してしまう』。『このため、里見氏の勢力は一時衰退したが』、永禄一〇(一五六七)年、義弘は「三船山合戦」で『北条軍を撃破して勢力を挽回し、佐貫城を本拠地として』、『安房国から上総国・下総国にかけて』、『領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を誇った』。しかし、永禄一二(一五六九)年、『上杉謙信と北条氏政の間で越相同盟が締結されたことで上杉氏の支援を失い、また』、『下総関宿城が陥落したことなどにより、後北条氏は攻勢を強めていく。そしてついに』、天正五(一五七七)年、『これまでの態度を一転、後北条氏と和を結んだ(房相一和)』。しかし、その翌年、『久留里』(くるり)『城にて急死した。だが、遺言に弟(庶長子とも)・義頼と嫡男・梅王丸への領土分割を命じた事から、死後に里見氏の分裂を招いた』とある。本篇の話柄内ロケーションは、その久留里城(現在の千葉県君津市久留里。グーグル・マップ・データ(以下同じ)。房総半島のド真ん中である)を、その候補としてよかろう。

「朝夷郡(あさゐなのこほり)」「朝夷郡」(あさいなのこおり)。この呼称は古く、「和名類聚抄」に載る。現在の南房総市の一部と鴨川市の一部で房総半島の先端部から東岸を少し北に行った位置である。この中心部付近

「黃金絲(わうごんし)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『黄金は不老不死の仙薬で、黄金に鬚を有する仙人もいた(太平広記十・神仙十・劉根)』とある。その「劉根」は「中國哲學書電子化計劃」のこちらで影印本(無論、白文)で読める。

「岩田刀自(いはたのとじ)」「刀自」は「戸主(とぬし)」の意で「刀自」は当て字。「家の内の仕事を掌る者」を指すものの、古くより「主婦」や、広く女性の尊称・親愛呼称、老婦人、平安以降に宮中の御厨子所(みずしどころ)・台盤所(だいばんどころ)・内侍所(ないしどころ)などで雑役を勤めた女官、及び、貴人の家に仕えて雑役などをする婦人と、女性に附す称であるから、自称としても不審。

「後鳥羽院の御時」言わずもがな、「承久の乱」(承久三(一二二一)年)の張本第八十二代天皇である後鳥羽天皇。在位は寿永二(一一八三)年~建久九(一一九八)年。前で「岩田刀自」は現在、「數百歲」と言っているが、仮に永禄七(一五六四)年の「第二次国府台合戦」の前年から数えると、後鳥羽の即位年で三百八十年前であるから、四百歳は超えていると考えてよかろう。但し、以下に出る殺生石伝説から、「新日本古典文学大系」版脚注では、『玉藻の前との関連で、ここは第七十四代天皇鳥羽院(在位は嘉承二年〔一一〇七〕―保安四年〔一一二三〕がふさわしい』とあり、そうなると、鳥羽の即位年で、同前で四百五十六年前となり、岩田刀自が九尾狐の狩(退治)に従った時に既に数え十八とあるので、満で四百七十三歳ということになり、生れは康平三(一〇六〇)年を上限とすることになる。この年は源頼義が安倍貞任を衣川柵・鳥海柵・厨川柵で破って殺し、宗任を降伏させた「前九年の役」が終わる二年前である。

「信州奈須野」「信州」は「野州」(下野国)の誤り。殺生石のある附近ならば、現在の栃木県那須郡那須町湯本となる。但し、「那須野ヶ原」はもっと広域。ページ「那須野ってどんあとこ」の地図を参照。

「三浦大輔(みうらのおほすけ)」平安末期の相模国三浦郡衣笠城城主三浦大介義明(寛治六(一〇九二)年~治承四(一一八〇)年)。大介は官名。三浦荘(現神奈川県横須賀市)の在庁官人で、桓武平氏平良文を祖とする三浦氏の一族。鎌倉幕府の有力御家人となる和田義盛・三浦義村の祖父にして、源頼朝を救って房州へ逃し、自身は衣笠城で自害した英雄。ウィキの「玉藻前」によれば、江戸後期の高井蘭山の読本「絵本三国妖婦伝」(享和三(一八〇三)年~文化二(一八〇五)年成立)では、鳥羽上皇が『那須野領主須藤権守貞信の要請に応え』、「玉藻の前」=九尾狐の討伐を命じ、『三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍に、陰陽師・安部泰成を軍師に任命し、軍勢を那須野へと派遣し』、『那須野で、既に九尾の狐と化した玉藻前を発見した討伐軍はすぐさま攻撃を仕掛けたが、九尾の狐の妖術などによって多くの戦力を失い、失敗に終わった。三浦介と上総介をはじめとする将兵は』、『犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び攻撃を開始する』。『対策を十分に練ったため、討伐軍は次第に九尾の狐を追い込んでいった。九尾の狐は貞信の夢に娘の姿で現れ』、『許しを願ったが、貞信はこれを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えた』とある。

「狩塲(かりば)」実際の「那須野ヶ原」が本格的な狩場として史料に登場するのは、先の「那須野ってどんなとこ」にも書かれている通り、鎌倉時代で、「吾妻鏡」の建久四(一一九三)年四月二日、この那須野ヶ原一帯で、源頼朝による大規模な巻狩が行われたとするのが初出である。

   *

二日戊戌。覽那須野。去夜半更以後入勢子。小山左衞門尉朝政・宇都宮左衞門尉朝綱。・八田右衞門尉知家、各依召獻千人勢子云々。

那須太郎郞光助奉駄餉云々。

   *

二日戊戌(つちのえいぬ)。那須野を覽(み)る。去(いん)ぬる夜(よ)、半更[やぶちゃん注:真夜中。]以後、勢子(せこ)を入る。小山左衞門尉朝政・宇都宮左衞門尉朝綱・八田右衛門尉知家、各々、召しに依りて、千人の勢子を獻ずと云々。

那須太郞助光、駄餉(だしやう)[やぶちゃん注:弁当。]を奉ると云々。

   *

されば、この場面では前にも示した通り、「狩り場」なのではなく、あくまで、九尾狐を退治する場所の謂いである。

「砒霜(ひさう)」本来は砒素を含む有毒の砒霜石(ひそうせき)或いは怪しい呪物に使われたとされる幻想薬物を指すが、ここは「猛毒を発する石」の謂いで用いている。

「殺生石を碎だきて、人數〔にんず〕多く、毒に中(あて)られ、大熱狂亂して死せし事」言わずもがなであるが、ウィキの「玉藻前」にあるように、退治された九尾狐は巨大な毒石に変じ、『近づく人間や動物等の命を奪うようになった。そのため』、『村人は後にこの毒石を『殺生石』と名付けた。この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせた。鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に次々と倒れたが、南北朝時代、会津の元現寺を開いた玄翁和尚』(源翁心昭(げんのうしんしょう 嘉暦四(一三二九)年~応永七(一四〇〇)年:越後出身。曹洞宗の僧)『が殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したといわれる』のは誰もが知っていようが、玄翁が碎いた砕片が、またまた禍いを齎したというのは聴かない。ここは以下の父母兄弟が死んだという事態を引き出すための勝手な創作で、後代の玄翁の殺生石粉砕譚を無理にこじつけたもののように思われ、以下の注に記すのと同じく、何となく、尻の座りが悪い、不自然な感じを否めない。

「狩場の跡に、父母兄弟、皆、死せしかば」この「跡」は、「その後」「それから暫くして」の「あと」であろう。そうでないと、「父」「兄弟」は理解出来るものの、「母」はなんでそんな現場にいなくてはならぬのかが、普通に考えると不審だからである。一族郎党揃ってつき従ったというのは、これもまた、何んとやらん、私には不自然に感ずるのである。

「靑丸(せいぐわん)」仙薬であったわけである。

「太山」(たいざん)ここは一般名詞で「高く大きな山」の意であるが、反射的に、山東省中部にある中国五岳の一つである名山泰山(標高千五百二十四メートル。「太山」「岱山」とも書く)を想起させる。古来、信仰の対象となり、秦・漢時代から皇帝が封禅(ほうぜん)の儀式を行った、謂わば、道家に於ける最高の霊山・仙山なのである。

「丹栗(たんりつ)」「真っ赤な栗」で不詳だが、「丹」は「朱」で、水銀の硫化鉱物「辰砂」(しんしゃ)を意味し、仙人の重要なアイテムである。

「霞漿(かしやう)」「新日本古典文学大系」版脚注では、『仙薬。霞の飲物』とある。

「漿(こんづ)」「漿」は液体であるが、一般には「どろりとした飲み物」を指す。「こんず」おいうのは「濃漿」で、「濃水」「こみづ」の音変化した和語で「米を煮た汁」「重湯(おもゆ)」や、粟や糯米(もちごめ)などで醸造した早酢 (はやず) 、或いは酒の異称でもある。ここでは「(ゑひ)て死」んだとあるわけだから、正体不明のドロりとした濁り酒のようなものなのであろう。

「玄天(げん〔てん〕)」道家では宇宙を支配する不可知の神聖神を「谷神」(こくしん)と称し、それは「不死」であって、「玄牝」(げんぴん)と呼ぶ。所謂、ユング的な「原母」(グレート・マザー)で、谷の裂け目・暗く見通すことの出来ないそこ・則ち、「牝」の生殖器である、あらゆる存在の源を指す。まさに「玄天」とは道家的世界に於ける無限宇宙と同義である。

「甘露」当該ウィキによれば、『中華世界古代の伝承で、天地陰陽の気が調和すると天から降る甘い液体。後世、王者が高徳であると、これに応じて天から降るともされ、また』、『神話上の異界民たる沃民はこれを飲んでいるとされている。後にインドから仏教が伝来すると』、『インド神話の伝承で不死の霊薬とされたアムリタを、漢訳仏典では中国の伝承の甘露と同一視し、甘露、あるいは醍醐と訳すようになった』とある。

「汝、鶴龜(つるかめ)を見ずや」「お前は、動物の中でも驚くべき長寿であるところの鶴と亀のことを知らないか?」。以下、長寿のシンボル・アニマルを引き合いに出しながら、仙道に於ける最も大切な「導引法」(無為自然に応じた理想の呼吸法・生活術)を判り易く解説している。

「神氣(しんき)」ここは先に述べた万物を生み出す谷神・玄牝の不可知の霊力を指す。

「耗散(がうさん)」減って無くなること。

「骨を易(かへ)、二千年にして、皮(かわ)を蛻(もぬ)け、毛(け)を易(かゆ)べし」人から仙人になることを「換骨羽化」(かんこつうか)と称する。「換骨」は仙人の術を用いて、人間の不完全な骨を、仙人としての強靭にして重さのない骨に換えることであり、「羽化」は「羽化登仙」の熟語もある通り、人体に羽が生えて、最も上級の仙人の一種となって空を翔び、仙界へ向かうことを指す。最後の「毛(け)を易(かゆ)べし」は、老衰による脱毛や白髪が永遠に黒く生え変わることを言っているというよりも、この羽化のことを示唆しているように私は思う。なお、「皮(かわ)を蛻(もぬ)け」というのも、一度、人間として死んだような状態になり、その一見、死骸にしか見えない中から、蟬が殻から脱け出すようにして、仙人となって仙化するという最もレベルの低い「尸解仙」を指しているものと採るものである。

「七情(じやう)」道家思想に親和性の高い漢方(中)医学で言う「喜・怒・憂・思・悲・恐・驚」ととる。儒家では「喜・怒・哀・懼・愛・悪(にくむこと)・欲」、仏教では「喜・怒・憂・懼・愛・憎・欲」とする。

「陷溺(くわんでき)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『外気によって身体が好ましくないない状態に落ち込むこと』とある。典拠なし。

「心火(しんくわ)」火のように激しく燃え立つ怒り・恨み・嫉妬などの感情。

「君火(くんくわ)」漢方でさす広義の仮想臓器系としての「心」(しん)の陽気を指す。肝腎の「相火」(そうか)と対置される。

「九百分(ぶん)の宍(しゝむら)」前後から判る通り、原拠は不明だが、漢方では人体を構成する筋肉の命数を九百種に分けるのであろう。

「ひすろぎ」すり減って薄くなり、細く弱まり。

「十四の經(けい)」漢方で人体の気血の運行を十四の経(けい:人体を縦方向に流れる気脈)に分けたものの総称。人体の気血を陰陽に分け、それぞれに三種、手の三陰三陽、足の三陰三陽、合わせて十二経に、任脈と督脈を加えたもの。

「十五の絡(らく)」経脈の間を横に繋ぐ支脈十五種。各個に知りたければ、サイト「杉山流三部書」(江戸中期の関東総検校で鍼術の名医として知られる杉山和一の著)のこちらをどうぞ。現代語訳である。

「骨つがひ」骨の関節。

「火宅(くわたく)」苦しみや煩悩に苛まれて安住出来ない三界を、燃えさかる家に喩えたもの。とくに「法華経」譬喩品(ひゆぼん)の「三車火宅の譬(たと)え」が有名。「無量の財富を有する長者がいたが、その家は古く朽ちていた。ある時、その家が火事になり、長者は門外へ退避出来たが、幼い子供たちは、遊びに興じて、逃げ出すように呼びかけても出て来ない。燃えさかる朽ちた家の危険が分からないため、危機的状況に気付いていないのである。一度は腕力で救い出そうと考えたものの、さまざまな状況を考慮し、長者は方便で門の外に羊車(ようしゃ)と鹿車(ろくしゃ)と牛車(ごしゃ)という、子供たちが欲しがっていた三つの車があるぞ、と呼びかけた。その声に誘われ、子供たちは我先にと、燃えさかる家より門外へ出てきたので助かることができた。しかし、長者が用意していたのは三車ではなく、もっとすばらしい大白牛車であった。」と。この譬えの「長者」とは「仏」であり、「火宅」に遊ぶ「子供たち」は「衆生」を表わしている(「新纂浄土宗大辞典」の「火宅」に拠った。比喩部分の車の箇所は原シンボルをカットしてあるので、必ず引用元を参照されたい)。

「萬乘(ばんじやう)の君〔くん〕」天皇。

「茯苓(ぶくりやう)」菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensa の漢方名。詳しくは「三州奇談卷之二 切通の茯苓」の私の冒頭注を参照。

「兎絲子(としし)」双子葉植物綱キク亜綱ナス目ネナシカズラ科ネナシカズラ属 Cuscuta の種子の漢方名。補陽・固精・明目・止瀉・強壮の効能があり、一般には滋養強壮剤として腎陰虚や腎陽虚などに用いられる。

「茅根(ばうこん)」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica の根の漢方名。当該ウィキによれば、『晩秋』の十一~十二月頃に、『地上部が枯れてから、細根と節についていた鱗片葉を除いた根茎を掘り起こして、日干しまたは陰干したものは茅根(ぼうこん)と呼ばれる生薬で、利尿、消炎、浄血、止血に効用がある薬草として使われる』とある。

「石」道家に於いて、不老不死の薬「丹薬」を練り出す「煉丹術」(の「外丹」法)の原料とされるものには、先に示した丹砂(硫化水銀)を主原料とする「神丹」「金丹」「大丹」「還丹」などと称される鉱物性・化学性のもの(水銀・鉛・硫黄・砒素など)や、金そのものを液状にした「金液」が服用されたりした。これらの中には人体に有意に毒性があるものが多く含まれ、実際に唐の皇帝の中にさえも、何人もが丹薬の害によって死亡している(ここはウィキの「錬丹術」に拠った)。

「かたおちなくば」「片落ち無くば」。「対処の法に、うっかりした重大な見落としなどがなかったなら。」。

「扨は。是れ、人間の交りは、此道のさはり也。さはりをのけて、つとめんとすれば、鹿猿(しゝさる)のごとく也。しからば、長生(ながいき)して詮(せん)なし。」「なるほどね。さてさて、ということは、だな、これ、人が人と交わること、そのものが、既にして長生(ちょうせ)の道の障(さわ)りとなるということに他ならぬ。そうした障りを徹底的に避け退(の)けて、不老不死の修行に努めんとするとすれば、これ、人間ではなく、鹿(しし)[やぶちゃん注:猪も含む。]や猿となるようなものではないか。然らば、これ、長生きしても、何の甲斐もないということじゃな。」。

「女房達、くやみ給ふな。」「女房がたよ、悔みなさるなよ。」。

「指(ゆび)ざしけるに」刀自がその女房達を一人ずつ、指で指したところが。

「鮐(さめ)」鮫の異体字。

「義廣、大に怒りて、刀自を殺さむ事を謀(はか)られたり」ここは注意が必要で、実際に義広が怒りの表情をちらりとも現わしたのでもなければ、謀殺せんと誰かを呼ぼうとしたり、何か恣意的な動作をしたのでもない、ということである。「刀自、先立(さき〔だち〕)て是れを知りつゝ」と言って次の台詞を即座にさらりと口に出すのである。則ち、刀自は義弘の心を瞬時に読心したのである。

「君、此の心ざしあり。國運、久しかるまじ。今より五百月の後、必らず、橫さまに禍(わざはひ)あらむ。」「あなた、そこで示されたような貪欲なる危うい野心がある。あなたの国の運命もそう永くはなかろうぞ。今日より、五百ヶ月後、必ず、思いもよらぬ禍いに逢うであろう。」。「五百ヶ月」は陰暦では閏月が加わるので四十三年以上になる。

「五百月は四十餘年也。我、なんぞ、それまでの命あらんや」今一度、確認しよう。里見義弘は享禄三(一五三〇)年、或いは、大永五(一五二五)年生まれで天正六年五月二十日(一五七八年六月二十五日)に亡くなっている。則ち、数えで四十九或いは五十四で亡くなっているのである。彼が北条氏康軍に大敗を喫した「第二次国府台合戦」は、実は現在では、永禄六(一五六三)年一月頃、北条氏康と武田信玄が上杉謙信方の武蔵松山城を攻撃した際、謙信の要請を受けた里見義堯が嫡男義弘を救援に向かわせた際に、国府台でこれを阻止しようとする北条軍と衝突した合戦との混同部分があるとされており、そのために発生時が永禄六~七年(一五六三年~一五六四年)となっている。しかし、ウィキの「国府台合戦」によれば、『現存する北条氏による発給文書において永禄』七『年の戦いで里見軍を潰走させた日付を』二月十八日と『しているものが存在する』とあるから、里見の大敗走は永禄七年年初と見てよい。さても、この永禄七年時点では、義広は数え三十五か四十歳である。確かに、四十になるかなろうかという戦国武将が「四十年後に禍いがある」と書面で示されて、鼻でせせら笑うのは当たり前だ。だが、その場合、義広は注意深く、岩田刀自の書いたものを確かに眺めたに違いない。とすれば――『然るを、よくよく見れば、「百」の字にはあらで「箇(か)」の字也』――というのは、せせら笑った後に、再度見たところが、「百」が「箇」に書き替っていたと読むのが、〈正統怪談のお約束〉――コーダの怪異――であると、私は思うのである。

「五箇月の後、北條氏康のために、鵠野臺(かうのだい)にして、敗漬(はいせき)しけり」史実通りであるとなら、義弘が岩田刀自に対面したこのシークエンスは「第二次国府台合戦」(下総国にあった国府台城。現在の千葉県市川市国府台のここ)敗走の五ヶ月前の、永禄六年十一月ということになろう(永禄六年は閏十二月があるため)。「意味、無い」ってか? 俺は怪談を自ずと未読してるんだよ! インキ臭い学者じゃ、ねえんだよ!]

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