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2021/06/26

日本山海名産図会 第五巻 陶器

 

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[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「肥前伊萬里陶器(ひぜんいまりやきもの)」、第二図は「同素燒窯(すやきかま)」・「同過銹(くすりをかくる)」・「同打圈書画(ゑをかく)」、第三図は「同本窯(ほんかま)」。]

 

  ○陶器(やきもの)

諸州數品(すひん)有る中(なか)にも、肥前國「伊萬里燒」と云ふを、本朝㐧一とす。此の窯、山、凡そ十八ケ所を上塲(じやうば)とす。

[やぶちゃん注:以下、底本では概ね四段表記であるが、一段で示した。]

 ○大河内山(おほかはちやま)

 ○三河内山(みかわちやま)

 ○和泉山(いづみやま)

 ○上幸平(うへかうひら)

 ○本幸平(ほんかうひら)

 ○大樽(おゝたる)

 ○中樽(なかたる)

 ○白川(しらかわ)

 ○稗古塲(ひへこば)

 ○赤繪町(あかゑまち)

 ○中野原(なかのはら)

 ○岩屋(いわや)

 ○長原(ながはら)

 ○南河原(みなみかはら【上下[やぶちゃん注:「かみ・しも」か。]二所。】

 ○外尾(そとを)

 ○黒牟田(くろむた)

 ○廣瀬(ひろせ)

 ○一(いち)の瀬(せ)

 ○應法山(わうはうやま)

等とう)にて、此の内、大河内(おゝかわち)は鍋島の御用山(ごようやま)、三河内は平戸の御用山にして、他(た)に貨賣(くわはい)する事を禁ず。伊萬里は、商人(あきびと)の幅湊(ふくそう)[やぶちゃん注:漢字はママ。]せる津(つ)にて、燒き造るの塲には、あらず。凡そ松浦郡(まつらこほり)有田(ありだ)のうちにして、其の内、中尾・三つの股(また)・稗古場は、同國の領ちがひ、また、廣瀬などは、靑磁物、多くして、上品、なし。都合、二十四、五所にはなれとも、十八ケ所は、泉山の脇にありて、是れ、土(つち)の出づる山也。

○堊土(しろつち)  泉山に出でて、國中の名產。本朝他山に比類(ひるい)なし。中華は、中國の、五、六處(しよ)にも出だせり。是れ、圡(つち)にして、圡にあらず、石(いし)にして、石にあらず、其の性(せい)、甚だ、堅硬(かた[やぶちゃん注:二字へのルビ。])し。拳鑿(げんのう)をもつて、打ちかき、金杵(かなきね)の添水碓(そうすからうす[やぶちゃん注:ママ。恐らくは水車によって自動的に舂く臼のこと。第一図の右上がそれ。])に、是れを𣇃(つ)かしむ[やぶちゃん注:底本では「𣇃」(「舂」の異体字)の「旧」は「臼」。]【杵の幅、一尺斗り。厚さ、一尺五、六寸。長さ、一間半[やぶちゃん注:二メートル七十三センチメートル弱。]斗り。】。最も、水勢(すいせい)、つよくしかけて、碓(からうす)の、數(かす)多く連らね、よく末粉(こ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]となりたるに、又、他の土、粢軟(やはらか)なるを、二、三品(ひん)、和(くわ)し合わせて、家の内の溜池(ためいけ)に漂(ひた)し、度々(たびたび)拌(か)き通(まは)[やぶちゃん注:漢字はママ。]し、よく和したるを、飯籮(いかき)に漉(こ)し、又、他の溜池へ移し、よく澄(すま)し、其の上に浮きたるものを、細料(さいれう)とし、中(なか)を普通の上品(しやうひん)に用ひ、底に下沉(しづみ)たるは、取ち捨てて、不用(もちひず)。さて、其の水干(すひひ)の土を、素燒窯(すやきかま)の背に塗り附け、内(うち)の火力(くわりき)を借りて、吸い乾かす。最もこれによき程を候(うかゞ)ひみて、搔き落とし、重ねて、淸水(せいすい)に調和(てうくは)し、かの團子(だんご)のごとく、粘(こ)ね和して、工人(こうじん)に與ふなり。是れまで婦人の所爲(しよい)なり。

○造瓷坏器(うつはをつくる) 凡そ、瓷坏(うつは)を造るに、兩種あり。一には、印器(かたおし)と云ふ。方(ほう)・圓(ゑん)、數品(すひん)、甁(とびん)・甕(つぼ)・爐合(こうろ)の類(るい)、屛風・燭臺の類にも及べり。是等(これとう)は、凡そ、塑(つく)ね成(な)して、或ひは、兩(ふたつ)に破(わ)り、或ひは兩(ふたつ)に截(き)り、又、再び白泥(つち)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を埏(ね)りて範(かた)に模(うつ)し、或ひは、そのまゝに、印(かた)を押すも、あり。又、おなし土に銹(くすり)水を和して、塗り合はせ、取り付けなども、するなり。○一には、「圓器(ゑんき)」といひて、凡そ、大小、億萬の杯盤(はいばん)は、人間(にんげん)日用の物にして、其の數(かず)を造る事、十に九なり。此の圓器を造るには、先づ、陶車(たうしや/くるま[やぶちゃん注:右/左のルビ。])を製す。其の圓盤、上下二ツにして、下の物、少し、大(おほ)ひなり。眞中(まんなか)に眞木(しんき)一根(こん)を竪(た)てて、埋(うつ)む事、三尺ばかり、高さ二尺許り、上の車(くるま)の眞中に、土を置きて造る也。下の車は工人の足にて𢌞(まわ)し、須臾(しばらく)も𢌞り止むこと、なし。両手を以つて、かの上の圡を、上へ押し捧(さゝ)げ、指(ゆび)自(おのづか)ら内(うち)に交(まじは)り、車の旋轉(めくる)が中(うち)に拇指(おやゆび)は器(うつは)の底にありて、其の形の異法(いはう)、心にまかせ、すべて、手のうち・指尖(ゆびさき)の妙工(めうこう)、見るがうちに、其の數(かず)を造り、其の樣(やう)、千萬の數も、一範(ひとかた)の内に出づるがごとくにして、大小を、あやまらず。又、椀(わん)・鉢(はち)の類(るい)の、外(そと)の輪臺(いとそこ)を付けるには、微(すこ)し、乾して、再び、車に上(のぼ)せ、小刀(こがたな)を以つて、輪臺(いとこそ)の内外(うちそと)を削り成し、碎(わ)れ缺(かけ)も、此の時に、補ひ、或ひは鈕手(とつて)・瓶(どびん)の水口(すいくち)などは、別に造り、粘土(ねりつち)を合わせて、和付(くわふ)す。又、是れを陰乾(かげぼし)とし、極白(ごくしろ)に至らしめ、素燒窯(すやきかま)へ入るゝなり。

○素燒窯は圖するごとく、糀室(かうじむろ)の如き物にて、器物(きぶつ)を内に積みかさね、火門(くわもん)、一方にありて、薪を用ゆ。度量を候(うかゞ)ひ、火を消し、其まゝ、能(よ)く、さます。

○打圈書畫再入窯(わをうち、ゑをかき、ふたゝび、かまにいるゝ)  右(みぎ)素燒の、よく冷(□[やぶちゃん注:判読不能。元禄版でもダメ。底本のここ(左頁五行目)。「さ」と思われる。])めたるを、取り出だし、一度(ひとたび)、水に洗ひ、毛綿裂(もめんきれ)にて巾(ふ)き、磨くなり。茶椀・鉢などの、内外(うちそと)・上下(うへした)の圈輪(わ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])の筋(すじ)を画(えが)くには、又、車に上(のほ)せ、筆(ふで)を其の所にあてゝ、くるまをめぐらせり。然(しかし)して、書画(しよぐわ)を施し、其の上へ銹漿(くすり)を、二度(ど)、過(か)けて、よく乾(ほ)し、本窯(ほんかま)へ納(い)れて、燒けば、火を出でて後(のち)、画(ゑ)、自(おのづか)ら、顯(あらは)る。取り出だし、又、水に洗ふを、全備(ぜんび)とす。すべて、圡(つち)を取るよりはしめて、終成(できあがる)までは、たゞ一杯の小皿(こさら)なりといへとも、其の工力(こうりよく)を過(すく)ること、七十二度にして、其の微細・節目、尚、其の數(かず)、云盡(いゝつく)すべからず。

○素燒(すやき)の窯は、家の内にあり。本窯は、斜(なゝ)めなる阜山(やま)[やぶちゃん注:「をかやま」と読ませるか。]・岡の上に造りて、必す、平地(ひらち)には、なし。皆。一窯(ひとかま)宛(づゝ)一級(ひとつあがり)に高くし 内(うち)の廣さ、凡そ三十坪、是れを、六つも連接(れんせつ)して、悉く、其の接目(つぎめ)に、火気(くわき)の通ずる窓(まど)を開く。然(しか)れども、火(ひ)は窯ごとに焚く也。内には器物(きぶつ)をのする臺(だひ)あり。即ち、圡(つち)にて制し、一ツ宛(づゝ)のせて、寸隙(すんげき)なく、一方を、細長く明け置き、それへ、薪(たきゞ)を入るゝ。此の火門くわもん)、八寸に、高さ二尺計(はか)り余(よ)にして、 焚くこと、凡そ晝夜(ちうや)三、四日にして、一窯に、薪、凡そ二萬本(ほん)を費(つい)やす。尤も、焚き樣(やう)に手練(しゆれん)ありて、上人(じやうず)・下(へた)、人の雇賃(やとひちん)を論ず【追々(おひおひ)、投げ込むに、たゞ、木の重(か)さならぬやうにするを、よし、とす。】。又、戸口の脇に手鞠(てまり)程(ほど)の穴、有り、是れを、時々、蓋(ふた)をとりて、度量を候(いかゞ)ひ、其の成熟(せいじゆく)を見れば、火を消し、其のまゝ、よく冷(ひや)して取り出だすに、一窯(ひとかま)の物、凡て、百俵(ひやくひやう)に及べり。

○過銹(かけくすり)は、即ち、おなし圡(つち)の内にて、上澄(うはずみ)の上品をゑり、それに蚊子木(からのき)の皮(か)はを燒きたる灰(はい)を調和(てうくわ)す。最も、增減・加味、家々の法ありて、一概(いちがひ)ならず。

○囘靑(あをゑのくすり)は  元(もと)、漢渡(からわた)りの物にして、その名、未詳(つまびらかならず)。是れ、亦、よく細末(さいまつ)して、水に和し、𤲿(ゑか)く時は、其色、眞皂(まくろ)なれども、火を出でて後(のち)、靑碧色(せいへきしよく)と變ず。

[やぶちゃん注:以下、「品多し」までは全体が一字下げ。]

「天工開物(てんこうかいぶつ)」を見るに、是れ、惣(すべ)て、一味(いちみ)の『無名異(むめうい)』なり。此の『無名異』といふは、山にて、炭(すみ)を久しく燒きたる下(した)に、異色(いしよく)の塊(かたまり)、生ず。是れを『藥木膠(やくぼくこう)』と云ふ。是れも『無名異』の名あり。又、石刕銀山(せきしうぎんざん)にも、同名の物(もの)あり。本条の物には、あらず。是れは、土中にある紫色(ししよく)の粉を、水干(すいひ)したる物にて、血止(ちどめ)とするのみ。最も、僞物(ぎぶつ)多し。本条の『無名異』は、地面に浮き生じて、深き土には、生ぜず。堀るに、三尺には、過ぎず。上・中・下の品(しな)ありて、これを、辨認(めきゝ)す。上なる物は、火を出でて、翠毛色(みとりいろ)となり、中(ちう)なるものは、微靑(びせい)なり。元(もと)、舶來(はくらい)の物を上品とす。大なるは、僅かに一分ばかり、小は至つて細(こまか)に、砂のごとし。尚、上品・下品、多し。

○「赤繪(あかゑ)」の物を「錦樣(にしきて)」と云ふて、五彩(ごさい)・金銀(きんぎん)を銹(くすり)に施すこと、是れ、一山(いつさん)の秘術として、口外を禁ず。故に此に略す。是れには、かの「硝子銹(びいどろくすり)」を用ゆと、いへり。

○惣(すへ)て、「南京燒(なんきんやき)」の古器(こき)は、いまだ、其の白堊(しらつち)を得さる時なるにや。圡(つち)は土器土(かはらけつち)に似て、甚だ軟らかなり。其の上、藥に硝子(びいどろ)を加ふるゆへに、自(おのづか)ら缺(か)け損(そん)ず。是れを、今、「虫喰出(むしくひで)」などゝ賞(しやう)ずれども、用に適しては、今の物に劣れり。但し、「囘靑繪(あをゑ)」の上銹(うはくすり)は、銹の上より、書きたる如く見ゆるは、「南京物」の妙也とは云へ共、「硝子藥(びいどろくすり)」の助けなり。日本の「靑繪」は、藥の下に沈みたるが如く見ゆるは、硝子(びいどろ)を用ひざる故にして、是れ又、適用の爲(ため)に勝(まさ)れり。

○陶器の事は、「舊事記(くじき)」に、『茅渟縣(ちぬのあがた)に大陶祇(おほすへすみ)』と云ふあり。茅渟は和泉(いづみ)の國に屬して、今も陶器村、あり。古へは、物を盛るに、すべて、土器、又、木(こ)の葉を用ゆ。今、堂上(どうじやう)、すべて、土器を用ひて、しかも塑(つくね[やぶちゃん注:先に出た動詞「塑(つく)ぬ」=「捏(つく)ぬ」「捏(つく)ねる」の名詞化したもの。])なり。是れ、上古、質朴の遺製(いせい)を、捨てたまはぬ風儀を見るべし。

「日本記」、神代巻(しんだいのまき)に、『嚴瓫(いつえ)』・『嚴瓫之置(いつほんのおきもの)』・『忌瓮(いんべ)』など、皆、神を祭るの土器(どき)也。又、「和名鈔」に、『缶(ホドキ)』を『ヒラカ』といひて、『斗(と)を受(うく)るの酒器なり』とす。【「斗」は今の「一升」なり。】。「延喜式」に、『盆(ほどき)、瓫(ほどき)』と云ふも、皆、古質(こしつ)の器(き)なり。後世(こうせい)に軍陣の出門のとき、是れを設(まふ)くを、『「イツヘ」の「オキモノ」』とは云ふ也。又、今も、「忌部」といふ古物(こぶつ)は古語(こご)也。是れを以つて、陶器を司どる性(せい)[やぶちゃん注:「姓」に同じ。]にも、いへり。今の伊萬里に燒はしめし、年月、未詳(いまだつまびらかならず)。

[やぶちゃん注:私は陶磁器に冥く、向後も興味を抱くことは全くないと思われる。従って、細かな注をつける資格も持ち合わせていない上に、興味が全体に全く湧かないので、判らない部分は深く調べず、正直に示しておくに留める。悪しからず。

「大河内山(おほかはちやま)」現在の佐賀県伊万里市大川内町(おおかわちちょう)附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。地名としての「大川内山」は現在でも「おおかわちやま」と読む。

「三河内山(みかわちやま)」現在の長崎県佐世保市三川内町(みかわちちょう)か。しかし、ここで作られるものは、少なくとも現在は「伊万里焼」ではない。「三川内焼(みかわちやき)」或いは「平戸焼(ひらどやき)」とも呼ぶ、場所も長崎県佐世保市で生産される陶磁器である。詳しくはウィキの「三川内焼」を見られたいが、「伊万里焼」との関係性は記されていない。ただ、本文でも後で言っているのだが、実際には伊万里の南の有田が主な製造地であったのであり、「長崎県」公式サイト内の「広報誌コーナー『ながさきにこり』の「三川内焼と波佐見焼のルーツを探る」に、『江戸時代は当時の積出港(つみだしこう)の名をとり』、『「伊万里(いまり)焼」、明治以降は出荷駅の有田の名で「有田焼」として流通していた』とあったので、不審は解けた。

「和泉山(いづみやま)」佐賀県西松浦(まつうら)郡有田町(ありたちょう)泉(いずみやま)にある泉山磁石場(いずみやまじせきば)附近。

「上幸平(うへかうひら)」佐賀県西松浦郡有田町上幸平(かみこうひら)附近。

「本幸平(ほんかうひら)」前の上幸平の南西直近にある同町幸平付近か。

「大樽(おゝたる)」前の幸平に東北で接する同町大樽

「中樽(なかたる)」前の大樽の南東に広がる同町中樽

「白川(しらかわ)」佐賀県西松浦郡有田町白川

「稗古塲(ひへこば)」有田町稗古場

「赤繪町(あかゑまち)」稗古場の南東、幸平の北西の同町赤絵町

「中野原(なかのはら)」赤絵町に南西で接する同町中の原

「岩屋(いわや)」前の「中の原」の南に広がる同町岩谷川内(いわやがわち)。

「長原(ながはら)」不詳。

「南河原(みなみかはら)」佐賀県伊万里市大川町川原があるが、前後に有田町なので、違う可能性が高い。

「外尾(そとを)」佐賀県西松浦郡有田町丙外尾町附近か。北西で「外尾山」にも接している。

「黒牟田(くろむた)」有田町丙黒牟田

「廣瀬(ひろせ)」黒牟田に北で接する有田町甲広瀬

「一(いち)の瀬(せ)」不詳。

「應法山(わうはうやま)」黒牟田に北東で接する有田町丙応法(おうぼう)。

「幅湊(ふくそう)」漢字はママ。普通は「輻輳(ふくそう)」で、物が一ヶ所に集中して混雑する様態を指す。まあ、港だからうっかり「湊」になったとも言えよう。

「三つの股(また)」不詳。

「堊土(しろつち)」ウィキの「有田焼」に、『肥前磁器の焼造は』十七『世紀初期の』一六一〇『年代から始まった』。豊臣秀吉の「朝鮮出兵」の折り、『有田を含む肥前の領主であった鍋島直茂に同行してきた陶工たちの一人の李参平は』、元和二(一六一六)年(慶長九(一六〇四)年説もある)に『有田東部の泉山で白磁鉱を発見し、近くの上白川に天狗谷窯を開き』、『日本初の白磁を焼いたとされ、有田焼の祖である。李参平は日本名を「金ヶ江三兵衛(かながえさんべえ)」と称し、有田町龍泉寺の過去帳などにも記載されている実在の人物である。有田町では李参平を「陶祖」として尊重し祭神とする陶山神社(すえやまじんじゃ)もある』。『有田は小山に囲まれた盆地にあり、この泉山の白磁鉱はもともとは茶褐色の火山性の流紋岩で、それが近くの英山(はなぶさやま)の噴火で蓋をされて、長い時間をかけて温泉効果で白色に替わ』ったもので、『「変質流紋岩火砕岩」と呼ばれている。この岩石を』、『盆地に流れ混む小川に水車を応用して、細かく砕き』、『陶土(磁器用土)として、また』、『坂を利用して登り窯を作りやすかったという』。『近年の学術調査の進展によって、有田東部の天狗谷窯の開窯よりも早い』一六一〇『年代前半から、西部の天神森窯、小溝窯などで磁器製造が始まっていたことが明かになっている。この頃の有田では』、『当時』、『日本に輸入されていた、中国・景徳鎮の磁器の作風に影響を受けた染付磁器(初期伊万里)を作っていた。「染付」は中国の「青花」と同義で、白地に藍色』一『色で図柄を表した磁器である。磁器の生地にコバルト系の絵具である「呉須」(焼成後は藍色に発色する)で図柄を描き、その後釉薬を掛けて焼造する。当時の有田では窯の中で生地を重ねる目積みの道具として朝鮮半島と同じ砂を用いており、胎土を用いる中国とは明らかに手法が違うことから』、『焼成技術は朝鮮系のものとされる。一方で』十七『世紀の朝鮮では』、専ら、『白磁が製造され、染付や色絵の技法は発達していなかったため、図柄は中国製品に学んだと考えられ、絵具の呉須も中国人から入手したものと考えられている』。寛永一四(一六三七)年、『鍋島藩は、伊万里・有田地区の窯場の統合・整理を敢行し、多くの陶工を廃業させて、窯場を有田の』十三『箇所に限定した。こうして有田皿山が形成された。この頃までの有田焼を美術史・陶芸史ではしばしば初期伊万里と称する。陶石を精製する技術(水漉)が未発達だったことから、鉄分の粒子が表面に黒茶のシミ様となって現れていること、素焼きを行わないまま釉薬掛けをして焼成するため』、『柔らかな釉調であること、形態的には』六寸から七寸『程度の大皿が多く、皿径と高台径の比がほぼ』三対一の、『いわゆる三分の一』、『高台』(こうだい)『が多いことが特徴である』とある。

「添水碓(そうすからうす)」川「水」の流れに「添」うようにして工房が造られ、外装の「水」車が、室内にある唐臼(からうす)=「碓(うす)」を自動的に挽くことから、こういう漢字と読みとが与えられたものか。【2021年6月27日追記】Facebookの知人から、小学館「日本国語大辞典」の「添水」(そうづ(そうず))の項を紹介されたので、以下に所持するそれから引用する。『(語源未詳。「僧都」からとも、「そほど(案山子)」の転ともいう。また歴史的かなづかいは「そふづ」とも)一方をけずって水がたまるようにした竹筒に、懸樋(かけひ)などで水を落とし、その重みで支点の片側が下がり、水が流れだすとはねかえって、他の端が落ち、そこに設けた石や金属を打って音を出すようにした装置。谷や川など水辺に仕かけて、田畑を荒らす鳥獣を追ったり、あるいは庭に設けてその音を楽しんだりする。また、石を打つ部分に杵をつけ穀物を搗(つ)くようにしたものもある。ししおどし。《季・秋》』。「語源説」には、『⑴ソウズカラウス(添水唐臼)の略〔大言海〕。⑵玄賓僧都がはじめて作ったところから〔文明本節用集〕』とあった。ネットの精選版の日本国語大辞典「添水」で挿絵も見られる。

「爐合(こうろ)」「香爐」。

「塑(つく)ね成(な)して」しっかりと捏(こ)ねて。

「陶車(たうしや/くるま[やぶちゃん注:右/左のルビ。])」轆轤(ろくろ)。

「輪臺(いとそこ)」高台(こうだい)。茶碗の胴や腰をのせている円い輪の全体を指し、容器を卓上乃至は台上に乗せた際に卓や台に接する、安定させるための足の部分のこと。

「糀室(かうじむろ)」「麹室」。正しい歴史的仮名遣は「かうぢむろ」。酒や醬油・酢などの発酵食品を作るための麹を寝かす室。コウジカビを繁殖させるための温室。

「銹漿(くすり)」釉薬(ゆうやく)。

「囘靑(あをゑのくすり)」回青(くわいせい(かいせい))はそれ自体が中国で発明されたものではない(作者の「漢渡(からわた)りの物にして、その名、未詳(つまびらかならず)」は大間違い)。明代にイスラム圏から輸入され、「青花」(せいか:中国語では別に「釉里青」「釉裏青」(日本語読み「ゆうりせい」)と呼ぶ陶磁器の「染め付け」のこと)に用いる青色のコバルト顔料。回回青。回教徒から伝えられたから、かく呼ぶのである。

「天工開物(てんこうかいぶつ)」明末(十七世紀)に宋応星によって書かれた産業技術書。「天工」は「造化の巧み」(「自然の業」の意)、「開物」は「人間の巧み」を意味する。中国産業技術史を展望するに格好の書として高く評価されている。

「無名異(むめうい)」歴史的仮名遣「むみやうい」が正しい。原義は、天然に産するマンガンや鉄の酸化物を指したようで、薬用とした。後に、佐渡に産した酸化鉄を多量に含む赤色の粘土(「相川焼」などに用いられている)を指すようになり、さらに、後に出る釉薬「呉須(ごす)」(焼物の染付に用いるコバルト化合物を含む鉱物の名。また、「呉須焼」の略称。名称の由来は不明。原石は黒ずんだ青緑色で、粉末にして水に溶いて磁器に文様を描き、その上に釉薬(うわぐすり)をかけて焼くと、藍色に発色する。近年は人造呉須も用いる。陶磁器顔料の中で最も多く使用されている)の異名ともなった。

「藥木膠(やくぼくこう)」不詳。

「石刕銀山(せきしうぎんざん)」石見銀山。

「水干(すいひ)」「水」で精製して、後にしっかり水分を飛ばして「干」し上げること。顔料名としても使い、もととなる主な素材は貝殻から作られた顔料の一種「胡粉(ごふん)」で、それに着色したものが「水干」である。参照した絵画材料通販「PIGMENT TOKYO」の『絵具の素「水干」とは?』を読まれたい。

「血止(ちどめ)とする」アルミニウム、・鉄・亜鉛・マンガン・ビスマス等の種々の金属塩は止血作用がある。

「翠毛色(みとりいろ)」カワセミ鳥綱 Carinatae 亜綱 Neornithes 下綱ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ亜科カワセミ属カワセミ Alcedo atthis )の羽毛の色。

「赤繪(あかゑ)」「錦樣(にしきて)」グーグル画像検索「赤絵 錦様」をリンクさせておく。平凡社「百科事典マイペディア」の「赤絵」によれば、赤を主調とする上絵付(うわえつけ)のある色絵のことを指すが、広義には上絵付を施された焼き物で、「色絵」とも呼び、中国では後に出る通り、「五彩」と呼ぶ。施釉(せゆう)され、本焼された焼き物の釉面(ゆうめん)に赤・緑・黒・黄色などの上絵具を塗り、それを、再度、低い温度(摂氏七百度から八百五十度程度)で焼き付ける(金や銀色の焼き付けの場合は、さらに低い温度で行う)。中国では金代に華北の磁州窯で創始された。元代には景徳鎮窯で、紅緑彩を白磁の上に施す作品が現われ、明代以降も、引き続き、多彩な上絵付の作品が焼造された。特徴的な作品としては、明代の嘉靖期(一五二二年~一五六六年)の「金襴手(きんらんで)」・「万暦赤絵(ばんれきあかえ)」・「天啓赤絵(てんけいあかえ)」などで、日本の茶人が好む「古赤絵」は、正徳(せいとく:一五〇六年~一五二一年)・嘉靖頃の景徳鎮民窯の作といわれる。福建省の漳州窯(しょうしゅうよう)では、明代末期に「呉須赤絵(ごすあかえ)」と呼ばれる大盤や鉢などを焼成(しょうせい)し、海外に大量に輸出した。日本では、一六四〇年代に伊万里焼の中で始められ、また、同様に十七世紀中葉、京都で野々村仁(ののむらにんせい 生没年不詳:江戸前期の著名な陶工)が陶器の色絵装飾を完成させている。朝鮮半島では赤絵の技法は発達しなかった、とある。

「硝子銹(びいどろくすり)」釉(うわぐすり)・釉薬(ゆうやく)と同義であろう。同じく平凡社「百科事典マイペディア」の「釉(うわぐすり)」を引いておく。陶磁器の表面に焼き付けて美観・強度・耐食性などを与え、吸湿性をなくすために用いられるガラス質の物質。素地と膨張係数がほぼ等しく、溶融点が素地より低いことが必須要件で、主成分はケイ酸化合物であり、融剤の特性により鉛釉・アルカリ釉・石灰釉・長石釉・ホウ酸釉などに分類される。透明釉のほか、金属酸化物を加えた色釉・乳白釉・結晶釉・つや消し釉などもある。特に呈色剤となる金属を釉が含有する場合、その含有率や、酸化炎焼成か還元炎焼成かで、発色は異なることが多い。また、各種の釉は、溶融温度から低火度釉と高火度釉に大別され、低火度釉のうち、アルカリ釉の古いものは、エジプトのタイルに、鉛釉は楽焼・唐三彩・緑釉に用いられている。高火度釉を代表する灰釉は、青磁釉の源流ともいうべきもので、灰釉陶器の初現は中国で商(殷)時代中期、紀元前一三〇〇年頃にまで遡る。日本でも平安時代から見られ、藁灰(乳白色不透明)・いす灰(白磁釉)など種々あるが、松の灰など、鉄とアルカリ分が多いと、還元して緑のビードロ釉となる。長石釉は花崗岩の風化したものを用い、その代表は「志野焼」である。金属表面に釉を焼き付けたものを「琺瑯(ほうろう)」と称する、とある。

「南京燒(なんきんやき)」中国の清朝時代に製作された景徳鎮の民窯磁器の総称。江戸前期に中国の南京方面から渡来した。

「舊事記(くじき)」史書「先代旧事本紀」。「旧事紀」「旧事本紀」とも呼称。全十巻。天地開闢から推古天皇までの歴史を記し、序文に聖徳太子・蘇我馬子らが著したとあるものの、現在では大同年間(八〇六年~八一〇年)以後から、九〇四年から九〇六年以前に成立したとみられている。参照したウィキの「先代旧事本紀」によれば、『本書は度会神道や室町時代の吉田神道でも重視され、記紀と並ぶ「三部の本書」とされた。また江戸時代には『先代旧事本紀大成経』など古史古伝の成立にも影響を与えたが』、『江戸時代の国学者多田義俊』(後注参照)『や伊勢貞丈らによって偽書とされた。現在の歴史学では、物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価されている』とある。

「茅渟縣(ちぬのあがた)」大阪湾の東部、和泉国(現在の大阪府南部)の沿岸の古称。現在の堺市から岸和田市を経て、泉南郡までの一帯に当たる。「千沼」「血沼」「血渟」「珍努」などとも表記された。地名よりも、大阪湾の東岸沖が「茅渟の海」として歌枕で近代までよく知られていた。

「大陶祇(おほすへすみ)」「おほすへづみ」。元は神名で、大物主神の妻となった活玉依毘賣(いくたまよりひめ)の父とされ、陶津耳命(すへつみみのみこと)とも呼ばれる。

「陶器村」大阪府堺市中区陶器北の地名が残る。

「日本記」「日本書紀」。

「嚴瓫(いつえ)」「いつへ」が正しい。「いつ」は、「神聖な」の意で、「へ」は「容器」の意である。本来は「祭事に用いた壺」で、「神酒(みき)を入れる神聖な容器」を指す。ここはそれを特権的に製造する一族の姓としたものであろう。よく判らないが、「嚴瓫之置(いつほんのおきもの)」も同じ類いであろう。

「忌瓮(いんべ)」前注に同じ。神酒を入れて神に供えるために清められた容器が原義。「齋瓮」とも書き、「忌部氏(いんべうぢ)」後に「斎部氏」として、古代朝廷に於ける祭祀を担った氏族。ウィキの「忌部氏」によれば、『天太玉命』(あまのふとだまのみこと)『を祖とする流れと、天日鷲命』(あまのひわしのみこと)『を祖とする流れ(阿波忌部)、天道根命』(あまのみちねのみこと)『を祖とする流れ(紀伊忌部、讃岐忌部)の三種が有名で、いずれも神別(天神)に分類される』とある。

『「和名鈔」に、『缶(ホドキ)』を『ヒラカ』といひて、『斗(と)を受(うく)るの酒器なり』とす。【「斗」は今の「一升」なり。】。』「和名類聚抄」は「鈔」とも表記する。「瓦噐第二百四」に、

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盆(ヒラカ)【ホトキ】「唐韻」に云はく、【「蒲」・「奔」の反。字、亦、「瓫」に作る。「辨」なり。「立成」に云はく、『「比良加」。俗に云ふ、「保止岐」』と。】瓦噐なり。「爾雅」に云はく、『「瓫」は之れ、「缶」【音「不」。】と謂ふ。』と。「兼名苑」に云はく、『盆、一名は「盂」【音「于」。】』と。

罐(ツルヘ) 「唐韻」に云はく、『罐【音「貫」。「楊氏漢語抄」に云はく、『都流閉』と。】は水を汲む噐なり。』と。

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とあって、作者は「盆」と「罐」を混同していることが判る。「ヒラカ」とは「平瓦(ひらか)」で「平たい陶器の器」の意。「ホトキ」は後に「ほとぎ」と濁り。「缶」で、昔、水などを入れた胴が太く、口が小さい瓦製の器のこと。「ツルヘ」は「釣瓶(つるべ)」の古い呼称で、本来は「縄や竿の先につけて井戸水をくみあげる桶、「吊る瓮(つるへ)」の意とされれる。古く「日本書紀」の神代下に『豐玉姬の侍者(まかたち)、玉瓶(たまのつるべ)を以て水を汲む』とあるのを指す。ここで、作者は注ぎ口を持った陶器をそれに当てているようである。

「延喜式」「養老律令」に対する施行細則を集大成した古代法典。延喜五(九〇五)年に編纂を開始し、延長五(九二七)年撰進、施行は康保四(九六七)年。]

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