フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 芥川龍之介書簡抄87 / 大正七(一九一八)年(二) 小島政二郎宛五通(後者四通は一括投函で、雑誌上の「地獄變」批評への応答) | トップページ | 日本山海名産図会 第五巻 石灰 »

2021/06/24

伽婢子卷之七 廉直頭人死司官職

 

Rentyokuasinuma

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。左幅の、衾から半身を出して横たわって、頭を蓬髪姿の兵卒に剃られつつあるのが、庄八。左幅に立ちはだかっているのが、大将。その前で頭に三角巾をつけているのが、冥官(みょうかん)となった蘆沼である。]

 

 ○廉直頭人死司官職 (廉直の頭人(とうにん)、死して官職を司(つかさ)どる)

 蘆沼(あしぬま)次郞右衞門重辰(しげとき)は、鎌倉の管領(くわんれい)上杉憲政公の時に、相州藤澤の代官として、病によりて、死す。

 蘆沼が甥三保(みほの)庄八と云者、其跡に替りぬ。

 蘆沼は一生の中、妻を持たず、妾(おもひもの)[やぶちゃん注:元禄版は「てかけ」とルビする。]もなく、只、其の身を潔白に無欲をおもてとし、さして學問せるにもあらず、又、後世〔ごせ〕を願ふにもあらず、天性(むまれつき)、正直(〔しやう〕ぢき)・正道〔しやうだう〕にして、百姓を憐み、少しも物を貪る思ひ、なし。

 それに引替へ、庄八、大に百姓を虐(しいたげ)げ、欲深く貧りければ、

「此の人、久しく續くべからず。」

と、爪彈(つまはじ)きして、惡(にく)み、嫌ひけり。

 庄八、或る夜の夢に、怪しき人、來りて、其の面(おもて)に怒れる色あり。

 付〔つき〕從ふ者、十餘人、手每(ごと)に弓・鑓・長刀〔なぎなた〕、もちたり。

 大將、顧みていふよう、

「三保庄八が惡行、つもれり。高手小手〔たかてこて〕に縛(いまし)めて、首(かうべ)を刎ねよ。」

といふ。

 其時に伯父、蘆沼、來りて、

「庄八が所行、まことに人望(にんばう)に背けり。其の科(とが)かろからずと雖も、まげて、許し給はらん。然(しか)らば、髮を剃り侍べらん。」

と云ふ。

 大將、少し打ち笑ひ、

「汝が甥なれば、憐み思ふところ、理〔ことわ〕りなきにあらず。但し、今よりのち、日比〔ひごろ〕〕の惡行を改めて、善道に赴くべき歟(か)。」

とありしに、庄八、恐れて、怠狀(たいじやう)しければ、大將、すなはち、

「我が見る前にして、髮を、それ。」

とて、剃刀(かみそり)を取ち出〔いだ〕し、押へて、剃り落としぬ。

 かくて、夢、さめしかば、かしらを探りて見るに、髮は、みな、落ちて、枕もとにあり。

 是非なき法師になされたり。

 妻子、これを見て、泣き悲みけれ共、甲斐なし。

 庄八は、暇(いとま)乞ふて、心(しん)も起らぬ道心者(だうしんじや)となり、光明寺に籠りて、念佛、唱へ居たり。

 或夜、蘆沼、入來〔いりきた〕れり。

 庄八入道、夢の如くに覺えて、

「扨(さて)、如何にして來り給ふよ。」

と云へば、蘆沼、云やう、

「汝、入道して、佛法に歸依しながら、ついに我が墓所(はかしよ)に、まうでたる事、なし。明日、かならず、參りて、卒塔婆(そとば)を立てよ。」

といふ。

「さて、いかに書〔かき〕て立〔たつ〕べき。」

と問(とふ)に、硯(すゞり)を請ふて、書たり。

 其の文字、皆、梵形(ぼんぎやう)にして、よむ事、かなはず。

「されば、人間と迷途(めいど)[やぶちゃん注:既に何度も出た通り、「冥途」と同じ。]と、文字、同じからず。是れは『光明眞言』也。後(うしろ)に書くべきは我が戒名也。我、死して、地府(ぢふ)の官人となれり。汝、日比、惡行を以て私(わたくし)を構へ、百姓をせめはたり、定(さだめ)の外に、賦斂(ふれん)を重くし、糠(ぬか)藁木〔ぼく〕竹〔ちく〕に至るまで、貪り取〔とり〕て、おのれが所分となし、恣(ほしいまゝ)に非道を行ふ。此故〔このゆゑ〕に、疎(うと)まれ、人望(にんばう)に背き、天帝、是れを惡(にく)みて、福分の符(ふ)を破り、地府、是れを怒りて、命〔いのち〕の籍(ふだ)を削り、惡鬼(あつき)、たよりを得て、禍(わざはひ)をなす。汝、かならず、縲紲(るいせつ)の繩(なは)に縛(しば)られ、白刄(はくじん)の鋒(きつさき)に掛かり、身を失ひ、命(いのち)を亡ぼし、其のあまり、猶、妻子に及ばんとす。我、是を憐み、出家になして、禍(わざはひ)に替へたり。然るを、我が恩を、思ひ知らず、終(つゐ)に墓所(むしよ)にもまうでず。」

と、責(せめ)ければ、庄八、一言(ごん)の陳(ちん)ずべき道、なし。

 酒を出〔いだ〕して勸めければ、飮〔のみ〕たり、と見えて、却(かへつ)て故(もと)の如し。

 庄八、とひけるやう、

「君、已に地府の官人となり、又、何事をか、職とし給ふ。」

 蘆沼、答へけるは、

「此〔この〕人間〔にんげん〕にして、一德一藝ある者、心だて、正直、慈悲深く、私〔わたくし〕の邪(よこしま)なきは、皆、死して、地府の官職に、あづかる。たとひ、勝(すぐ)れて藝能あるも、邪欲奸曲(じやよくかんきよく)にして私あり、君に忠なく、親に孝なく、誠(まこと)を行はざる者は、死して、地獄に落つ。後世〔ごぜ〕を願ふといへども、我が宗(しう)に着(ちやく)して、他〔た〕の法〔ほふ〕をおとしむる者は、是れ、やがて『謗法罪(ばうほふざい)』なれば、たとひ强く修行すれども、死して、地獄に落つる也。然れば、われ、常に、慈悲深く、百姓を憐れみ、君に忠を思ひ、邪欲奸曲を忘れ、私をかえりみず、正直・正道を行ひし故に、今、地府の修文郞(しゆぶんらう)といふ官にあづかり、天地四海八極(きよく)の人間の善惡を、しるし侍べり。靑砥(あをと)左衞門藤孝(ふじたか)・長尾左衞門昌賢(まさかた)以下、我、その數に加へられ、修文郞の官、八人あり。楠正成・細川賴之は、武官の司(つかさ)となり、相摸守泰時・最明寺時賴入道は、文官の司なり。其の以前、文武の官職のともがらは、皆、辭退して、佛になり侍べり。今は文武の兩職になるべき人、なし。されば、每日、地府の廳に來〔きた〕る者、日本の諸國より、市の如く見ゆれ共、皆、不忠・不義・不孝・奸曲なるともがら、我が知れる人ながら、私には贔負(ひいき)もかなはず、地獄に送り遣(つか)はす。其のふだを出〔いだ〕すも、痛(いた)はしながら、是非なきなり。」

といふ。

 庄八、とひけるは、

「生きたる時と、死して後とは、如何ならん。」

と。

 答へて曰はく、

「別に替る事なし。され共、死する者は、虛(きよ)にして、生きたる時は、實(じつ)するのみ也。」

 又、問けるやう、

「然らば、魂(たましゐ)、二たび、かばねの中に心の儘(まま)に還り入(い)らざるは、如何なる故ぞや。」

 答へて曰はく、

「例へば、人の肘(かいな)、切落〔きりお〕とすに、落〔おち〕たるかいなに、痛みなきが如し。死して、かたちを離(はな)るれば、其の體(たい)は、土の如く、覺え知る所、なし。」

 又、問けるやう、

「此春、世間に、疫癘(えきれい)はやり、人、多く死す。是れ、如何なる故ぞ。」

といふ。

 蘆沼が曰はく、

「三浦道寸、その子荒次郞(あら〔じらう〕)は、正直・武勇の者とて、暫し、地府に留め、武官の職に補せらるべき所に、謀叛(むほん)を企(くはだ)て、人をとりて、我が軍兵(ぐん〔ひやう〕)にせん爲(ため)に、恣(ほしいまま)に厄神(やくじん)を語らひ、疫癘(えきれい)を行ひし所に、其の事、顯(あらは)れて、北帝(ほくてい)、これを捕へて、地獄に送り遣はし給へり。」

といふ。

 又、問けるは、

「生きたる時、にくき怨(あだ)を、死して後に、害すべきや。」

 答へて曰はく、

「迷途の廳には、生けるを守り、死するを憐み、殺す事を嫌ふ故に、此世にして敵(てき)なれども、死して後には、心の儘(まま)に殺す事、かなはず。其の中に、もしは、わが敵の亡靈(まうれい)を見て、是れにおびえて死する者は、元、これ、惡人也。地府より、是れを戒(いまし)められ、其の敵を、遣はして、命を奪ひ給ふもの也。今は、夜も明けなむ。かまへて道心堅固なるべし。邪(よこしま)なる道に入〔いり〕て、地獄に落つる事、なかれ。」

とて、立出〔たちいづ〕る、とぞ、見えし、姿は、消え失せぬ。

 庄八、今は、浮き世を思ひ離れ、念佛、怠たらず、來迎(らいがう)往生を遂げにける、とぞ。

[やぶちゃん注:「廉直」心が清らかで、私欲がなく、正直なこと。

「蘆沼(あしぬま)次郞右衞門重辰(しげとき)」ロケーションは如何にも私の現在の居所に近く、相応の時代資料もあるが、全く不詳。

「上杉憲政」(大永三(一五二三)年~天正七(一五七九)年)は戦国時代の武将で関東管領。山内上杉家憲房の長子。大永五(一五二五)年に父憲房が病没したが、未だ数え三歳と幼少であったため、一時、古河公方足利高基の子憲寛(のりひろ)が繋ぎで管領となり、享禄四(一五三一)年九歳の年に同職に就任したが、奢侈・放縦な政治で民心を失った。天文一〇(一五四一)年に信州に出兵、同十二年には河越(現在の川越市)の北条綱成を攻めるなど、南方の北条氏と戦うも、相い次いで敗れ、同十四年四月の「河越合戦」でも、北条氏康に敗れ、上野平井城に退いた。この戦いでは、倉賀野・赤堀などの有力な家臣を失い、上野の諸将は出陣命令に応じず、結局、同二十一年一月に平井城を捨て、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼った。永禄三(一五六〇)年八月、景虎に擁されて関東に出陣、翌年三月には小田原を囲んだ。帰途、鶴岡八幡宮で上杉の家名を景虎に譲り、剃髪して光徹と号した。天正六(一五七八)年三月、謙信が病没すると、その跡目を巡って、上杉景勝は春日山城本丸に、同景虎は憲政の館に籠って相い争うこととなり、城下は焼き払われ、景虎方は城攻めに失敗して、敗北、翌年三月十七日、憲政の館も攻略され、混戦の最中、殺害された。

「三保(みほの)庄八」不詳。

と云者、其跡に替りぬ。

「正直(〔しやう〕ぢき)・正道〔しやうだう〕にして」「新日本古典文学大系」版脚注に、「正直」に『類語の「正道」を添えて「正直」を強調した語』とある。

「爪彈(つまはじ)き」「指彈」に同じ。

「高手小手〔たかてこて〕」重罪人を逃亡出来ないように、両手を後ろに回し、首から肘、手首に縄をかけて厳重に縛り上げること。

「人望(にんばう)」民草の当たり前の生活への期待。

「然(しか)らば、髮を剃り侍べらん。」「そのように罪一等減じてやれば、自身で、髪を剃りましょうぞ。」。

「怠狀(たいじやう)」元は、平安後期から鎌倉時代にかけて罪人に提出させた謝罪状。後に広く、自分の過失を詫びる旨を書いて人に渡した詫び状・謝り証文を指し、さらに、過ちを詫び謝ること、謝罪の意となった。ここは最後。

「剃刀(かみそり)を取ち出〔いだ〕し、押へて、剃り落としぬ」大将(地獄の軍団のそれ)の命を受けた地獄の軍兵の従卒が主語。その瞬間をスカルプティング・イン・タイムした。

「是非なき法師になされたり」最早、しっかり剃られてしまい、最早、どうしようもないつるんつるんの坊主頭にされていた、の意。

「光明寺」神奈川県鎌倉市材木座にある浄土宗天照山光明寺(グーグル・マップ・データ)。鎌倉時代の寛元元(一二四三)年開創とされ、永く関東に於ける念仏道場の中心として栄えた。「『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 光明寺」を参照。

「梵形(ごんぎやう)」梵字。古代サンスクリット語の文字。

「光明眞言」正確には「不空大灌頂光眞言」(ふくうだいかんぢょうこうしんごん)という真言密教でとなえる呪文(じゅもん)の一つ。密教経典「不空羂索神變眞言經」(菩提流志訳)や「不空羂索毘盧遮那佛大灌頂光眞言」(不空訳)に説かれる。「大日如来」の真言で、また、一切仏菩薩の総呪ともされる。「唵(おん)・阿謨伽(あぼきや)・尾盧左曩(べいろしやのう)・摩訶母捺羅(まかぼだら)・麽尼(まに)・鉢曇摩(はんどま)・忸婆羅(じんばら)・波羅波利多耶(はらばりたや)・吽(うん)」で、これをとなえると、一切の罪業が除かれるとされ、この真言を以って加持した土砂を死者にかけると、生前の罪障が滅するとされる。平安以来、「光明真言法」でとなえられたが、殊に中世の鎌倉新仏教の「念仏」や「唱題」の「易行道」に対抗して、平安旧仏教側が念仏に優るものとして普及に努めた。その結果、この光明真言の信仰が浄土思想と結びついて流布し、中世の石卒塔婆にも刻まれるなど広く盛行して、土俗化し、逆にまた、浄土教系にも吸収されてしまう結果となった(ここは「日本国語大辞典」を主文に用いた)。

「地府(ぢふ)」冥府。判り易いのは閻魔庁と言い換えること。

「私(わたくし)」自分の利益を計って不法を行なうこと。自己の利益のために不法に本来は公共のものである対象を自分のものとすること。

「定(さだめ)の外に、賦斂(ふれん)を重くし」公に決められた年貢賦役以外に、勝手に自分の領地の民草に私的なそれを重く課役し。

「糠(ぬか)藁木〔ぼく〕竹〔ちく〕に至るまで、貪り取〔とり〕て、おのれが所分となし」塵芥(ちりあくた)ほどの僅かな対象に至るまで、自身のものとして搾取し尽くしたことを指弾する。

「福分の符(ふ)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『衆生に善悪を考課して福分を定め、記しとどめておくという札』とある。

「命〔いのち〕の籍(ふだ)」同前で『寿命を定めて記しておく札』とある。何度も注したが、中国で形成された地獄思想では、一般には「倶生神(ぐしょうじん)」(個々の人間の一生に於ける善行と悪行の一切を記録し、その者が死を迎えた後に、生前の罪の裁判者たる地獄の十王(特に本邦ではその中の閻魔大王に集約されることが多い)に報告することが業務で、有名どころでは司命神(しみょうじん)や司録神(しろくじん)などがいる)と呼ばれる地獄の書記官が管理しているとされる。

「惡鬼(あつき)、たよりを得て、禍(わざはひ)をなす」地獄の実行担当である悪鬼の武官が、その執行命令を受けて、かくもお前に禍いを齎したというわけだ。

「縲紲(るいせつ)の繩(なは)」罪人を捕え縛る縄。「縲」は「罪人をつなぐ黒い縄」、「紲」は「繋ぐ」の意) 。罪人として縄目にかかって捕えられること。

「其のあまり」その余波は。

「陳(ちん)ず」釈明する。

「酒を出〔いだ〕して勸めければ、飮〔のみ〕たり、と見えて、却(かへつ)て故(もと)の如し」庄八は酒を出して蘆沼に勧めたが、飲んだか、と見えて、戻した盃(さかづき)を見ると、全く酒は減っていない。

「此〔この〕人間〔にんげん〕にして」この人間道(六道に於けるそれ)にあって。

「邪欲奸曲(じやよくかんきよく)」人倫の道から外れた邪(よこし)まな欲心や、他人を陥れては、それを喜ぶような、歪んだ心の持ち主。

「我が宗(しう)に着(ちやく)して」自分の信ずる神仏なんどに執着(しゅうじゃく)して。「ちやく」は元禄版であるが、「ぢやく」と濁りたいところである。

「他〔た〕の法〔ほふ〕をおとしむる者」他の者の信ずるところのものを誹謗する輩(やから)は。

「謗法罪(ばうほふざい)」本来、仏教では正法(しょうぼう)を誹謗する行為を指したが(最も重い罪とされる)、ここは当時の読者が読めば、他の宗教者のそれではなく、宗派の違う仏教徒が、互いの宗旨を誹謗することとして読んだことは間違いない。これは浄土宗や、作者で僧であった了意の属した浄土真宗に於いて、教義上は自明のことであったのである。でなければ、悪人正機説など、根底から無効化されてしまう。

「修文郞(しゆぶんらう)といふ官」「新日本古典文学大系」版脚注には、『文章を扱う冥府の官人、文官』とする。

「四海八極(きよく)」「四海」は須弥山(しゅみせん)を中心に、それをとりまく、四方の外海。仏教に於ける人間界を含む小宇宙ととらえてよい。四洲の一つで須彌山南方海上にある大陸(元はインドが措定されたもの)南瞻部洲(なんせんぶしゅう)が人間の住む世界とされる。「八極」は四方と四隅の全部。東・西・南・北・乾(けん:西北)・坤(こん:南西)・艮(ごん:北東)・巽(そん:東南)をいう。八方の遠い地域総てで、全世界・天下に同じ。「八紘一宇」の「八紘」も同じ。

「靑砥(あをと)左衞門藤孝(ふじたか)」「靑砥藤綱」の誤り。鎌倉の青砥橋のエピソード(「耳囊 卷之四 靑砥左衞門加增を斷りし事」の私の注の引用参照)で著名な鎌倉時代は北条時頼の執権時代の理想的武士。私の「北條九代記 卷之八 相摸の守時賴入道政務 付 靑砥左衞門廉直」を読まれたい。まことしやかな系譜も示されているが、実は一種の理想的幕府御家人の思念的産物であり、複数の部分的モデルは存在したとしても、実在はしなかったとされる。

「長尾左衞門昌賢(まさかた)」長尾景仲(元中五/嘉慶二(一三八八)年~寛正四(一四六三)年)の戒名。室町中期の武将で山内上杉家家宰。上野国・武蔵国守護代にして上野群馬郡白井城主。同時代の相模守護代にして扇谷上杉家家宰であった太田資清(おおたすけきよ)とともに「関東不双の案者(「知恵者」の意)」と称された。孫には長尾景春(嫡孫)・太田道灌(外孫)がいる。

「細川賴之」(元徳元(一三二九)年~元中九/明徳三(一三九二)年)は守護大名・室町幕府管領。「観応の擾乱」で将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、第二代将軍義詮(よしあきら)の執事だった清氏が失脚し、これを討った頼之が幼少の第三代将軍義満の管領として幕政を主導し、南朝との和睦なども図った。義満が長じた後、天授五/康暦(こうりゃく)元(一三七九)年の「康暦の政変」で、一度、失脚したが、その後に赦免されて幕政に復帰した。その後は養子(異母弟)頼元と、その子孫が、斯波氏・畠山氏とともに「三管領」として幕政を担った(ウィキの「細川頼之」に拠る)。

「今は文武の兩職になるべき人、なし。されば、每日、地府の廳に來〔きた〕る者、日本の諸國より、市の如く見ゆれ共、皆、不忠・不義・不孝・奸曲なるともがら、我が知れる人ながら、私には贔負(ひいき)もかなはず、地獄に送り遣(つか)はす。其のふだを出〔いだ〕すも、痛(いた)はしながら、是非なきなり」何と! 閻魔庁も深刻な人材不足というわけだ!

「別に替る事なし。され共、死する者は、虛(きよ)にして、生きたる時は、實(じつ)するのみ也」と、「例へば、人の肘(かいな)、切落〔きりお〕とすに、落〔おち〕たるかいなに、痛みなきが如し。死して、かたちを離(はな)るれば、其の體(たい)は、土の如く、覺え知る所、なし」というのは面白い。人間という「生」としての生物としての存在は、人体という殻に充満する、傷つきやすく、腐りやすい物が詰まっただけの存在(「實」)でしかなく、人体の「死」はそれが全くの空(「虛」)になるというだけのことだ、という仮定された無常な現存在を示しているように思われるからである。死は虛であり、永遠無限の無であるということである。輪廻から解脱するということは、量子レベルにまでなって見なければ存在しないという説明と同じである。

「疫癘(えきれい)」死に至るような悪性の流行り病い。

「三浦道寸」三浦義同(よしあつ 宝徳三(一四五一)年或いは長禄元(一四五七)年~永正一三(一五一六)年)は戦国初期の武将で東相模の大名。一般には出家後の「道寸」の名で呼ばれることが多い。北条早雲の最大の敵であり、平安時代から続いた豪族相模三浦氏の事実上の最後の当主。鎌倉前期の名門三浦氏の主家は、宝治元(一二四七)年に北条義時の策謀による「宝治合戦」で滅亡したが、その後三浦氏の傍流であった佐原氏出身の三浦盛時によって三浦家が再興され、執権北条氏の御内人として活動し、「建武の新政」以後は足利尊氏に従い、室町時代には浮き沈みはあったが、三浦郡・鎌倉郡などを支配し、相模国国内に大きく勢力を拡げた。道寸は扇谷上杉家から新井城(三崎城とも)主三浦時高の養子に入る(先に義同の実父上杉高救(たかひら)が時高の養子であったとする説もある)。しかし、時高に高教(たかのり)が生まれたために不和となり、明応三(一四九四)年に義同は上杉時高及び高教を滅ぼし、三浦家当主の座と、相模守護代職(後に守護。時期不明)を手に入れた。その後、北条早雲と敵対するようになり、道寸父子は新井城(グーグル・マップ・データ)に籠城すること三年、家臣ともども凄絶な討ち死をした。なお、この落城の際、討ち死にした三浦家主従たちの遺体によって城の傍の湾が一面に血に染まり、油を流したような様になったことから、同地が「油壺」と名付けられたと伝わる(以上は所持する諸歴史事典とウィキの「相模三浦氏」及び「三浦義同」を主に参考にした)。

「その子荒次郞」道寸の嫡男三浦義意(よしおき 明応五(一四九六)年~永正一三(一五一六)年)「荒次郞」は通称。当該ウィキによれば、『父から相模国三崎城(新井城とも。現在の神奈川県三浦市)を与えられ』、永正七(一五一〇)年頃、『家督を譲られる。「八十五人力の勇士」の異名を持ち、足利政氏や上杉朝良に従って北条早雲と戦うが』、永正一〇(一五一三)年『頃には岡崎城(現在の伊勢原市)・住吉城(現在の逗子市)を後北条氏によって奪われ』、『三浦半島に押し込められた』。『父と共に三崎城に籠って』三『年近くにわたって籠城戦を継続するが、遂に三崎城は落城、父・義同の切腹を見届けた後』、『敵中に突撃して討ち取られたと』される。『これによって三浦氏は滅亡し、北条氏による相模平定が完了』することとなった。三浦浄心の「北条五代記」によれば、背丈は七尺五寸(二メートル二十七センチメートル)と『伝え、最期の合戦で身につけた甲冑は鉄の厚さが』二分(六センチメートル)、『白樫の丸太を』一丈二寸(三メートル六十四センチメートル)に『筒切りにしたものを八角に削り、それに節金を通した棒(金砕棒)をもって戦い、逃げる者を追い詰めて兜の頭上を打つと』、『みぢんに砕けて胴に達し、横に払うと一振りで』、五人十人が『押し潰され、棒に当たって死んだものは』五百『余名になった。敵が居なくなると、自ら首をかき切って死んだ、と記されている』。しかし、同書よりも前に『成立したと推測されている』「北条記」には『そのような記述はなく』、永正一五(一五一八)年七月十一日に父『義同や家臣たちと共に討死した、と記されている』とある。

「北帝(ほくてい)」不詳。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠の五朝小説の「靈鬼志」の「蘇韶」(そしょう)の原話に基づくとしつつ、『未詳』とあり、まあ、如何にもっ道教的な名前であることだけは判る。

「生きたる時、にくき怨(あだ)を、死して後に、害すべきや。」「生きていた時に、深い恨みを抱いた奴を、自分が死んだ後、その憎っくき相手に恨みを晴らすために亡霊となって戻って殺害するということは出来ますか?」。

「迷途の廳には、生けるを守り、死するを憐み、殺す事を嫌ふ故に、此世にして敵(てき)なれども、死して後には、心の儘(まま)に殺す事、かなはず。其の中に、もしは、わが敵の亡靈(まうれい)を見て、是れにおびえて死する者は、元、これ、惡人也。地府より、是れを戒(いまし)められ、其の敵を、遣はして、命を奪ひ給ふもの也。」「冥途の閻魔庁にあっては、やはり当然の如く、仏法の正法に従うのである。「生」とは儚い仮のものには過ぎぬものではあるのだが、やはり「生」を守り、「死」を憐れみ、「殺す」ということは、これ、嫌うものであるからして、現世に於いて仇敵であっても、死んで後に「恨み晴らさでおくべきか」と思う通りに、その相手を殺すことなどは、到底、許されることでは、ない。ただ、次のようなケースはある。則ち、もし、自分の現世に生きている仇敵が、死んだ、彼に恨みを持った者の亡霊を見、これに怯えて死んだ場合は、これ、元々、その者が、そうなって死なねばならない『悪人』だったのである。これは、冥府の王が、その者の許し難い悪を戒め遊ばされるために、その敵(恨みを持って死んだ方の人物)の亡霊を遣わして、命を奪い遊ばされたという、至極、正当な事例なのである。」。

「來迎(らいがう)往生」浄土に往生したいと願う人の臨終に阿弥陀仏が菩薩・聖衆(しょうじゅ:浄土の聖者)を率いて、その人を迎えに来るという最上級の極楽往生を指す。但し、参照した「WikiArc」の「浄土真宗聖典」のこちらによれば、『浄土真宗では、平生聞信の一念に往生の業因が成就する(平生業成(へいぜいごうじょう))』という考え方をするので、『臨終来迎を期することはないと説き、臨終来迎を期するのは諸行往生、自力の行者であるとし、臨終の来迎をたのみにすることを否定する(不来迎)』とある。]

« 芥川龍之介書簡抄87 / 大正七(一九一八)年(二) 小島政二郎宛五通(後者四通は一括投函で、雑誌上の「地獄變」批評への応答) | トップページ | 日本山海名産図会 第五巻 石灰 »