芥川龍之介書簡抄78 / 大正六(一九一七)年書簡より(十) 佐野慶造・佐野花子宛
大正六(一九一七)年八月二十九日・田端発信・佐野慶造 佐野花子宛
休みがなくなるので大に心細くなつてゐます
航海記これへ封入します甚恐縮ですが私のスクラツプブツクヘ貼る分ですから御よみずみの後は私迄御返し下さい
さて私はこの手紙を書きながら大に良心の呵責を惑じてゐますこれは特に奧さんへ申上げますもつと早く書くべき手紙でもあればもつと早く送るべき航海記だつたんです誠に申譯がありません
しかし私が用で忙しくないときは遊びまはるので忙しい事は御察し下さい橫須賀に善友がゐる程それ程左樣に東京には惡友がゐます私は彼等に誘惑されて無暗に芝居を見たり音曲を聞いたりしてゐましたそこで性來の筆不精が益[やぶちゃん注:「ますます」。]不精になつてしまつたのです
今惡友の遊びに來てゐた連中が歸つた所ですさうしてそのあとが甚靜な夜になりました私は小さな机と椅子とを椽側へ持ち出してこれを書いてゐるのです
卽興
銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ
これでやめます 頓首
八月二十九日 芥川龍之介
佐野慶造樣
仝 花子樣
[やぶちゃん注:遂にここに辿り着いたという感慨がある。「佐藤慶造」(明治一七(一八八四)年~昭和一二(一九三七)年)は東京生まれで、東京帝大物理学科卒。当時の横須賀海軍機関学校での龍之介の同僚の物理教官である。その妻花子(明治二八(一八九五)年~昭和三六(一九六一)年)は旧姓山田で、長野県諏訪郡下諏訪町東山田生まれ。諏訪高等女学校を首席卒業(現在の県立長野県諏訪二葉高等学校)し、東京女子高等師範学校文科(現在の御茶の水女子大学)に進んだ。歌人でもあった。女子師範を卒業して一年で慶造と結婚した。龍之介は花子より三つ年上であった。龍之介は同校着任以降、妻花子とともに親しく交流した。龍之介は既に塚本文と正式な婚約を終えていたが、私は、この同僚で友人でもあった佐野慶造の妻花子を芥川龍之介は恋していたと考えている。佐野花子は、芥川龍之介研究者の間では、触れることが頗る附きでタブーな(という謂いがおかしいとなら、はっきり言えば――「芥川龍之介に愛された」と妄想し、そう主張した危ない女性であって、触れる価値がない無視すべき)存在である。しかし、私は彼女の綴った、「芥川龍之介の思い出(原文のみ)」(私のサイト版)を虚心に読み、それをさらに、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、十二回に分けてテクスト附注した(別に佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注(ワード縦書版・上記ブログ版原稿)も公開してある)結果として、ある種のかなり病的な錯誤・思い込みと、記憶の強い変形が認められるものの――龍之介が彼女に思いを寄せた事実はあった――と大真面目に考えている人間である。その中で、佐野花子が、芥川龍之介が機関学校をやた後、雑誌『新潮』誌上に「佐野さん」という作品を発表し、夫慶造の『悪口を書い』た、慶造自身が『学校当局も問題にしている』と言うシーンが出てくる。しかし、『新潮』誌上に発表された「佐野さん」という芥川龍之介の作品はどこにも存在しないのである。ここで、研究者は精神のおかしくなった人物の完全妄想としてそれを退けてしまうのである。しかし、彼女の叙述は、それ以外の部分ではすこぶる正常であり、決して、病的な妄想体系の中のものとして全排除・全否定することは、私には到底、出来ないのである。そうして、私はこの妄想の端緒となった作品を探り当てたと考えてもいる。それは、大正一三(一九二三)年四月発行の雑誌『改造』に掲載され、後に作品集『黄雀風』などに収録された小説「寒さ」である(リンク先は私の古いサイト版)。それは、ブログの『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察』で細かく示してあるが、花子の記憶の中で病的な変成が生じ、「寒さ」→「さむさ」→「さのさ」→「さのさん」と音変化したものと私は考えているのである。うん? 笑うかね? 因みに「寒さ」の冒頭は明らかに海軍機関学校が舞台である。しかもそこは「物理の教官室」である。そこで恋愛を冷徹な物理現象として比喩する厭味な「宮本と云ふ理學士」は明らかに佐野慶造をモデルとしていると読めるのである(但し、実際の佐野慶造はそのような人物ではないので、キャラクター設定としは全くの架空である)。私は、この佐野花子の「芥川龍之介の思い出」の叙述をもとに、田中純が芥川龍之介を実名で用いた小説「二本のステッキ」(挿絵は佐藤泰治。昭和三一(一九五六)年二月『小説新潮』発表)も挿絵も含めて電子化してある。未読の方は、お読みあれかし。なお、佐野慶造宛書簡はこの前に一通、大正六年四月十三日が先行してあり、
*
春寒や竹の中なる銀閣寺
十三日
奥樣によろしく先日は失禮しましたから
*
とある。この添え書きはそれが本来は花子に送った気分のものであることを示す。花子は俳句創作を龍之介に勧められて、龍之介が添削などもしていたのである。
「休みがなくなるので大に心細くなつてゐます」海軍機関学校の夏季休業は二日後の八月三十一日までであった。
「航海記」先の書簡の私の注を参照。『時事新報』に連載された「軍艦金剛航海記」のそれを芥川龍之介自身が切り抜いたものを貸与したである。]
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