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2021/06/10

伽婢子卷之六 死難先兆 / 伽婢子卷之六~了

 

   ○死ㇾ難先兆(なんにしすのせんてう)

 

Sisurunanizentyou

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本(昭和二(一九二七)年刊日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」)のものを用いた。]

 

 享德(かうとく)年中に、細川右京大夫勝元が家人〔けにん〕、磯谷(いそのや)甚七といふもの、晝寢を致しけり。

 其の妻、面(おもて)に出〔いで〕たれば、誰とも知れざる人、右の手に、太刀を引きそばめ、左の手に、磯谷が首を、ひつさげて、走り出て、去りけり。

 妻、大〔おほき〕に驚き恐れて、内に入〔いり〕て見れば、磯谷は、前後も知らず、臥(ふ)して、あり。

 妻は、胸、つぶれ、手足、なえて、只、夢の如くに覺えたり。

 かくて、驚かしければ、磯谷、ねふりを覺まし、起きあがり、

「我れ、夢に、或る人、それがしの首、うちきりて、もち去る、と、みたり。怪しくも、心にかゝる也。」

とて、やがて、山臥(〔やま〕ぶし)を雇ひ、「夢ちがへの法」を、おこなはしむ。

 其月の末に、主君勝元が、將軍家に御いきどをりをかうぶる事ありて、是れを陳(ちん)じ申さんが爲に、とがを家人におふせて、是非なく磯谷が首を切らせ、これをもつて我身の科(とが)をのがれたり。

 

 

伽婢子卷之六終

[やぶちゃん注:「享德(かうとく)年中」歴史的仮名遣は「きやうとく」が正しい。一四五二年から一四五五年まで。室町幕府将軍は足利義政。

「細川右京大夫勝元」(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)室町中期の武将。室町幕府管領。右京大夫(うきょうのだいぶ)。一時、武蔵守を兼ねた。細川持之(もちゆき)の子。嘉吉二(一四四二)年に十三歳で細川宗家を継ぎ、摂津・丹波・讃岐・土佐守護を兼任。文安二(一四四五)年、僅か十六歳で管領となり、幼少の将軍義政を助けた。前後三回延べ二十年あまりに亙って管領に在任した。山名宗全(持豊(もちとよ))の娘を妻とし、宗全と結んで、畠山氏の内争に干渉したが、次いで、政所執事伊勢貞親と結んで、赤松氏の再興を助け、斯波義敏・畠山政長を援助して、斯波義廉(よしかど)、畠山義就(よしなり)を援助する宗全と対立することとなり、遂に味方の諸大名を京都に結集させ、応仁元(一四六七)年、約十一年に及ぶ「応仁の乱」の口火を切ってしまった。勝元は将軍義政を擁し、東軍の総大将として宗全の率いる西軍と戦ったが、勝敗が決しないうち宗全が没し、勝元もその約二ヶ月後のに病没してしまった。生活は華美であったが、和歌・絵画・犬追物を嗜み、医術を研究し、また、妙心寺の義天玄承・雪江宗深に参禅、京に龍安寺、丹波に龍興寺を創建してもいる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「磯谷(いそのや)甚七」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「廿八日、徳本すでに建仁寺の西来院に居て政長に家督を継しむ。勝元これをめしつれて将軍家の御前にまかり出る。しかるに今度の事いきどをりふかくおはしましければ、勝元その家人磯谷(いそやの)某が所ㇾ為なりとて、これが首を切て陳じ申す(本朝将軍記・義政・享徳三年八月)』とある。この「本朝將軍記」は本書の筆者浅井了意の作であるが、史実としてあったらしい事件があるようである。

「驚かしければ」寝ている磯谷を起こしたところ。

磯谷、ねふりを覺まし、起きあがり、

「我れ、夢に、或る人、それがしの首、うちきりて、もち去る、と、みたり。怪しくも、心にかゝる也。」

「夢ちがへの法」悪夢を見た際、それが正夢とならぬように咒(まじな)いをすること。

「其月の末」先の注記載が事実なら、享徳三(一五四五)年八月の末ということになる。]

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