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2021/06/27

芥川龍之介書簡抄88 / 大正七(一九一八)年(三) 五通

 

大正七(一九一八)年七月二十二日・相州鎌倉町扇ヶ谷要山上 有田四郞樣・七月廿二日 鎌倉町大町辻 芥川龍之介

 

拜啓

まだ御病氣は癒りませんか

實はあの交涉に關して僕一人でステ公の所へ行つてもよいのだがあいつの所には小さいがよく吠へる犬がゐるでせう だから出來得べくんば君と一しよに出かけたいと思ふのです 君が一しよにピアノを聞く事が出來れば更に都合が好いから

癒り次第出て御出でなさい

久米正雄が二三日中に鎌倉へ來る筈です さうしたら皆で騷ぎませう

もしまだ君の手許にあつたら來る時元信の春画を持つて來て見せて下さい

十八日から休みですが廿三、四日とちよいと出校する義務があります それから先をいゝ加減に怠けて暮すつもりです

   赤玉のみすまるの玉の勾玉のぶらりぶらりと怠くべからん

    七月廿二日          龍

   有田四郞樣

 

[やぶちゃん注:短歌の採録のために採った。

「扇ヶ谷要山上」現在の鎌倉市扇ガ谷三丁目の「亀ケ谷坂切通」のこの辺りの旧名。鉱泉旅館が「香風園」「米新亭」「養氣園」などが数軒あり、「要山(かなめやま)温泉」と呼ばれていた(現在は最後まで旅館として残ってはいた(私の若い頃まではあった)「香風園」も廃業し、「要山」の地名も残っていない)。

「有田四郞」(明治一八(一八八五)年~昭和二一(一九四六)年)は東京生まれの洋画家。明治三六(一九〇三)年、東京美術学校洋画科に入学、黒田清輝に師事し、在学中の明治四十年第一回文展に入選し、その後も文展に出品した。黒田らが創設した「白馬会」展にも二度、参加している。熱心なキリスト教信者として本郷教会に所属し、在学中に洗礼を受けた。明治四四(一九一一)年秋から翌春にかけて南方への旅に出た。大正四(一九一五)年から鎌倉に転居し、芥川龍之介や有島武郎ら文化人たちと交流した。大正十二年の関東大震災後に愛媛県に転居し、大正十四年には宮崎県富高町伊勢ケ浜に転居した。昭和二(一九二七)年に県立延岡中学校の、昭和十年には宮崎県師範学校の美術教師となり、宮崎の美術教育に尽力した。昭和一七(一九三二)年に東京に戻り、エッチングを手がけたが、昭和十九年には瀬戸内海に惹かれ、香川県に転居、宮崎在住時からのスケッチをもとに水墨や淡彩の制作に励んだ。晩年は仏画も描いた(サイト「UAG美術家研究所」の「宮崎の美術教育に尽力したボヘミアン・有田四郎」に拠った)。新全集の「人名解説索引」には『絵が好きだった芥川は』、『有田の絵をねだって』おり、『その交際は後年にまで及』んだとある。

「ステ公」不詳。

「犬」芥川龍之介は大の犬嫌いであった。

「元信」室町時代の絵師で京都生まれ。狩野派の祖狩野正信の子(長男又は次男とされる)であった狩野元信(文明八(一四七六)年?~永禄二(一五五九)年)。彼は春画も残している。父の画風を継承するとともに、漢画の画法を整理しつつ、大和絵の技法を取り入れ(土佐光信の娘千代を妻にしたとも伝えられる)、狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた。幕府・朝廷・石山本願寺・有力町衆など、時の有力者から庇護を受けつつ、戦国の乱世をしたたかに生き抜いた絵師であった(当該ウィキを参照した)。

「十八日から休みです」海軍機関学校んお夏季休業は七月十八日から八月三十一日までであった。

「怠くべからん」「た(或いは「だ」)るくべからん」か。]

 

 

大正七(一九一八)年七月二十三(消印)・東京本鄕菊坂町菊富士本店内 赤木桁平樣・鎌倉小町橋本屋 久米正雄・久米との寄書(葉書)

 

今日は失敬した。あれから直ぐ此方へ來た。芥川健在、よく談じよく煙草をのむ。さすがに凉しいので、彼の話も聞くに堪へる。その中に御來遊を乞ふ。

   なれ死にて生れ變らば鎌倉の泡吹き蟹となるべからなむ

   われ死にて生れ變らば滑川川のべ蘆の戰ぎ葉たらなむ

                    龍

[やぶちゃん注:署名「龍」は底本では二首目の下方四字上げインデント。少なくも二首目は龍之介の短歌であることが判る。一首目は格調の低さから、久米の一首のように思われなくもないが、完全な対狂歌であり、「なれ」「われ」と用語・構成から察するに、前も龍之介の作ともとれなくはない。久米は俳句はよく詠み、一家言あったうるさ型だが、短歌はまず見ないから、やはり龍之介のものであろう。短歌のために採った。

「鎌倉小町橋本屋」料理屋。「e- ざ鎌倉・ITタウン」の『「鎌倉文士村」ができたわけ(6の「菅虎雄、忠雄父子から鎌倉居住を斡旋された文士たち(4)」の「久米正雄」の条に、『『現在の鎌倉』の「▲料理店」にみる「同上(鎌倉町雪の下八幡前)小林保五郎」が「橋本屋」であるといい、教育委員会刊の『としよりのはなし』や、小島政二郎の小説『芥川龍之介』には現在のスルガ銀行の辺りにあったと記されてい』るとある。神奈川県鎌倉市小町一丁目のこの附近(グーグル・マップ・データ)となる。]

 

 

大正七(一九一八)年八月六日・京都市外下加茂松原中の町 井川恭樣・消印七日・八月八日 鎌倉町大町辻 芥川龍之介

 

拜啓

こないだ東京へかへつたらおやぢの所へ君の手紙が來てゐた 寫眞は今一枚もないから燒き增して送る由 京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐたからその催促だと思つた。所がうちへ歸つて見ると妻が君の所へ出す筈の手紙を未に出さずにあると云ふ 封筒の上書きがしてないからまだ出しちやいけないんだと思つたんださうだ 莫迦 してなきやしてないと云ふが好いや こつちは忙しいから忘れたんだと云ふと私莫迦よと意氣地なく悲觀してしまふ そこでこの手紙を書く必要が出來た そんな事情だから君にはまだお茶の御禮も何も云はなかつた譯だらう 甚恐縮する 奧さんによろしくお詫びを願ふ 僕等夫婦はずぼらで仕方がないのだ 寫眞もおやぢに至急燒き增しを賴んだからその中に送るだらう

この頃は每日海へはいつたり人と話しをしたりして泰平に暮してゐる 一家無事 時々僕が肝癪[やぶちゃん注:ママ。]を起して伯母や妻をどなりつける丈

   晝の川霍乱人の目ざしやな

    八月六日           龍

   井 川 樣

 

[やぶちゃん注:「寫眞」二月二日の芥川龍之介と塚本文の結婚式の写真と思われる。

「京都からかへるとすぐ手紙を出したつもりでゐた」これは二ヶ月前の六月五日、横須賀海軍機関学校の出張で広島県江田島の海軍兵学校参観に行った帰りに京都に滞在したことを言っている。但し、この時、龍之介は恒藤(井川)恭とは逢っていないと思われる。龍之介が鎌倉へ戻ったのは六月十日頃であるから、一月半近くも文は表書きのない手紙をそのままにしていたということになる。ちょっと唖然とするが、しかし、それ以上に、結婚した途端、文への言葉遣いが荒くなるのは、ちょっと興醒めである。「時々僕が肝癪を起して伯母や妻をどなりつける丈」とあるのは、龍之介の書簡の中でも、かなり知られた一文である。また、この時期、伯母フキが鎌倉に滞在していたことも判る。なお、この六日後の八月十二日に名作「奉敎人の死」(九月一日『三田文学』発表)を脱稿(私の偏愛する作品で私はサイトとブログで、奉教人の死〔岩波旧全集版〕 → 作品集『傀儡師』版「奉教人の死」 ⇒ 芥川龍之介「奉教人の死」(自筆原稿復元版)ブログ版 → 同前やぶちゃん注 ブログ版 ⇒ 原典 斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」を完備させてある)、翌十三日からは、かの「枯野抄」を起筆している(九月二十一日脱稿で、十月一日『新小説』発表。同じく偏愛する一篇で、枯野抄〔岩波旧全集版〕 → 作品集『傀儡師』版「枯野抄」 ⇒ 本文+「枯野抄」やぶちゃんのオリジナル授業ノート(新版)PDF縦書版 ⇒ 同HTML横書版を完備している)。]

 

 

大正七(一九一八)年九月十八日・京都市外下加茂村松原中ノ丁八田方裏 井川恭樣・消印十九日・十八日 龍(自筆絵葉書)

 

Basyousengaki

 

忙しかつたので返事が遲れた 土日兩日は大抵東京にゐる 秋來たら一度やつて來給へ 以上

   寸步却成千里隔

   紛々多在半途中  我鬼題幷画

 

[やぶちゃん注:画像は所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のカラー画像のものをトリミング補正した(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。底本の旧全集ではモノクロームで粒子が粗く、文字の判読も出来ない状態である。「龍」は○囲みの大きな印で、「画」の字の上に被っている。松樹下に芭蕉扇みたようなものを持ち、中国風のガウン(道教の道士の道服と思しい)と、これまた、それっぽい靴を身につけている龍之介自身のカリカチャアである。

「寸步却成千里隔」「紛々多在半途中」は、

 寸步 却つて成す 千里の隔(へだ)て

 紛々たる多在(たざい) 半途の中(うち)

か。漢詩というより、禪語・公案の類いと言える。芥川龍之介の漢詩や詞断片には縹渺たる虚ろな時空間を詠み込んだものが多い。]

 

 

大正七(一九一八)年九月二十二日・消印二十三日・東京市下谷區下谷町二ノ五 小嶋政二郞樣・九月廿二日 鎌倉町大町辻 芥川龍之介

 

拜啓

あした一日休みがあるから御伽噺をやつて見ます どうせ好い加減ですよ それでようござんすか

奉敎人の死の「二」はね内田魯庵氏が手紙をくれたのは久米から御聞きでせう所が今日東京にゐると東洋精藝株式會社とかの社長さんが二百圓か三百圓で讓つてくれつて來たには驚きました隨分氣の早い人がゐるものですね 出たらめだつてつたら呆れて歸りました

慶應の件來年から海軍拡張で生徒が殖ゑ從つて時間も增すのと戰爭の危險も畧なささうなのとで急に每日の橫須賀通ひが嫌になつたのです 來年の四月頃からでも東京へ舞戾れれば大慶この上なし それときまれば今年末位にこつちをやめて三ケ月位遊ばうかと思つてゐます さう云ふ次第だからよろしく得取り計らひ下さい もし必要なら上京の節澤木氏に御目にかかつてもいゝと思ひます 何しろ橫須賀はもう全くいやになつた 以上

   黑き熟るる實に露霜やだまり鳥

これはこの間虛子の御褒めに預つたから御らんに入れます

    九月廿二日      芥川龍之介

   小島政二郞樣 梧下

 

[やぶちゃん注:「御伽噺」これは翌大正八年一月一日と一月十五日発行の『赤い鳥』に載ることになる「犬と笛」であると思われる。

『奉敎人の死の「二」』「奉敎人の死」の最後に「二」として、芥川龍之介が「奉敎人の死」についてその原拠を記したものを指す。以下、「奉敎人の死〔岩波旧全集版〕」から、古い電子化なので、多少、不全な文字を正字に直して「二」総て示す。

   *

 予が所藏に關る、長崎耶蘇會出版の一書、題して「れげんだ・おうれあ」と云ふ。蓋し、LEGENDA AUREA の意なり。されど内容は必しも、西歐の所謂「黃金傳說」ならず。彼土の使徒聖人が言行を錄すると共に、併せて本邦西敎徒が勇猛精進の事蹟をも採錄し、以て福音傳道の一助たらしめんとせしものゝ如し。

 體裁は上下二卷、美濃紙摺草體交り平假名文にして、印刷甚しく鮮明を缺き、活字なりや否やを明にせず。上卷の扉には、羅甸字にて書名を橫書し、その下に漢字にて「御出世以來千五百九十六年、慶長二年三月上旬鏤刻也」の二行を縱書す。年代の左右には喇叭を吹ける天使の畫像あり。技巧頗幼稚なれども、亦掬す可き趣致なしとせず。下卷も扉に「五月中旬鏤刻也」の句あるを除いては、全く上卷と異同なし。

 兩卷とも紙數は約六十頁にして、載する所の黃金傳說は、上卷八章、下卷十章を數ふ。その他各卷の卷首に著者不明の序文及羅甸字を加へたる目次あり。序文は文章雅馴ならずして、間々歐文を直譯せる如き語法を交へ、一見その伴天連たる西人の手になりしやを疑はしむ。

 以上採錄したる「奉敎人の死」は、該「れげんだ・おうれあ」下卷第二章に依るものにして、恐らくは當時長崎の一西敎寺院に起りし、事實の忠實なる記錄ならんか。但、記事中の大火なるものは、「長崎港草」以下諸書に徴するも、その有無をすら明にせざるを以て、事實の正確なる年代に至つては、全くこれを決定するを得ず。

 予は「奉敎人の死」に於て、發表の必要上、多少の文飾を敢てしたり。もし原文の平易雅馴なる筆致にして、甚しく毀損せらるゝ事なからんか、予の幸甚とする所なりと云爾。

   *

芥川龍之介はこの「れげんだ・おうれあ」の閲覧を懇望してきた切支丹文学の識者らに、「出鱈目です」と平然と応じた。しかし、実は種本が実在することが現在は知られている。原典 斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人伝」より「聖マリナ」を見られたい。則ち、芥川龍之介は二重のフェイクの演技をして、読者を二度も騙していたのである。

「内田魯庵」(慶応四(一八六八)年~昭和四(一九二九)年)は評論家・翻訳家・小説家。本名は貢(みつぎ)。江戸下谷車坂六軒町(現在の東京都台東区)生まれ。旧幕臣の子として生まれ、当初は政治・実業に関心を持ち、立教学校(現在の立教大学)や東京専門学校(現在の早稲田大学)などで英語を学んだが、結局、どこも卒業することなく、文部省編輯局翻訳係であった叔父の井上勤の下で、下訳や編集の仕事をした。明治二一(一八八八)年に文壇に登場、硯友社勃興に際し、鋭利な批評眼と風刺性の強い文章で、『女学雑誌』・『国民之友』などの誌上で、文芸評論家として活躍した。二葉亭四迷と親交を結び、その文学観を揺すぶったドストエフスキーの「罪と罰」を翻訳し(明治二五(一八九二)年。前半部分で英訳からの重訳)、明治三一(一八九八)年には、「くれの廿八日」で本格的小説を発表、評論「社会百面相」(明治三四(一九〇一)年。私はこれしか読んだことがない)などを発表。近松門左衛門や芭蕉の研究を通じて得た書物への愛着から明治三十四年に丸善に入社し、『学鐙』の編集に、終生、当たったが、二葉亭の死後、トルストイの「復活」の翻訳を行った他、晩年は専ら随筆と考証が主であった。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注によれば、内田は『切支丹関係の文献収集にも熱心で、長崎耶蘇会出版「れげんだ・おうれあ」の実物を見たいと芥川に願』い出ていたのであった。

「東洋精藝株式會社とかの社長さんが二百圓か三百圓で讓つてくれつて來た」不詳。但し、筑摩全集類聚版脚注に、『猟書家の第一に挙げられていた和田雪邨が高価に買いとろうとした』とある人物か。

「慶應の件」以前のこちらの「就職問題が起つてゐたりする」の私の注を参照。そこに「澤木氏」のことも書いておいた。結構、ここで慶応大学の教授職招聘への期待に胸膨らませていることがよく判る。]

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