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2021/06/22

日本山海名産図会 第四巻 河鹿

 

   ○河鹿(かしか)

諸國に「かしか」とさすもの、品類(ひんるい)、すくなからず。或ひは「魚」、或は「蛙なり」ともいひて、ひとの口には唱ふといへども、慥かに「かじか」と云ふ名を、古歌、又、古き物語等(とう)に見ること、なし。唯(たゞ)、連歌の季寄(きよせ)、「溫故日録(おんこじつろく)」に、「杜父魚(とふぎよ)」・「カシカ」として、なんの子細も見へず。八目の部に出だせるを見るのみなり。其の余(よ)、又、俳諧の季寄等に、近來(きんらい)、注釋を加えし物を出だせしに、「三才圖會」などの俗書につきて、「ごり」・「石伏」などに、決して、古書・物語等を引き用ゆるにおよばず。又、貝原氏(うぢ)、「大和本草」の「杜父魚」の条にも、「河鹿」として、『古歌にもよめり』といふは、全く筆の誤りなるべし。案ずるに、「かしか」の名目は、是れ、俳諧師などの口ずさみにいひはじめて、恐らくは、寛永前後の流行(りうこう)なるを、西行の歌などゝいへるを作り出だして、人に信ぜさせしにもあるべき。既に俗傳に、西行、更級(さらしな)に住みけるときによめり、とて、

 山川に汐(しほ)のみちひはしられけり秋風さむく河鹿(かしか)なく也

是れ、何の書に出だせる哥(うた)ともしらず。されども、或る人に就きて、此哥の意(こゝろ)を尋ぬれば、「『かしか』は汐の滿ちぬる時は、川上にむかひて、『軋々(ぎぎ)』となき、汐のひく時は、川下に向かひて『こりこり』と鳴く。」とは答へき。されば、解く處、「ゴリ」・「キヽ」など云ふ魚をさすに似て、いよいよ、昔の證據にはあらず。水中に聲(こへ)ある物は、蛙・水鳥の類(るい)ならて、古へより、吟賞(きんしやう)の例(れい)を、きかず。されども、西行は哥を隨意につらねたるひとなれば、ものに當つて、いかゞの物をよめりとも、あながちに論ずるには及ばねども、若(も)しくわ[やぶちゃん注:ママ。]、偽作(ぎさく)なるべし。又、『「萬葉集」の歌なり』とて【一說に「落合(おちあひ)の瀧」とよみて、大原に建禮門院の御詠(こえい)と云いつたふ。】

 山川に小石ながるゝころころと河鹿(かしか)なくなる谷の落合(おちあひ)

是れ又、「萬葉集」にあること、なし。其の余、他書に載せたるをも、きこへす。又、「夫木集」二十四「雜六」岡本天皇御製とて、

 あふみちの床の山なるいさや川このころころに戀つゝあらん

この「ころころ」といふにつきて、『「かしか」の鳴くによせしなり』なと、いひもてつたへたり。是れ又、誤りの甚しきなり。是れは「萬葉集」第四に、

 あふみちの床の山なるいさや川けのころころは戀つゝあらむ

とありて、「代匠記(たいしやうき)」の注に、『「け」とは「水氣(すいき)」にて、「川霧」なり。「ころころ」とは、唯、「頃」なり。「ねもころころ」とよみたる例(れい)のごとし。』と見へて、かならず、「かしか」の歌には、あらざるなり。歌は、かゝることどもにて、かたがた、さだかならずといへども、今、さしてそれを定むべき「かしか」の證もなければ、今は、魚にもあれ、むしにもあれ、たゞ、流行に從ひて、秋の水中(すいちう)に鳴くものを、「河の鹿(しか)」になすらへて、凡(およ)そ「かしか」といはんには、强く妨(さまた)けも、あるまじきことながら、さもあらぬ物によりて、詠歌などせんこそ、いと、口おしからめ。さらば、まさしく古きを求めんとならば、長明「無明抄」にいへる「井堤(いで)の蛙(かはず)」こそ、いまの「かしか」といふには、よくよく當れり。

○其文に曰、

[やぶちゃん注:以下「云々」までは、底本では全体が一字下げ。]

井堤の蛙は外(ほか)に侍らず、たゞ、此の井堤の川にのみ、侍るなり。色黑きやうにて、いと大きにあらず、よのつねのかへるのやうに、あらはに、おどりありくことなとも侍らず、つねに、水にのみすみて、夜(よ)更(ふく)るほどに、かれが鳴(なき)たるは、いみじく心すみて、物あはれなる聲にて侍る云々。

是れ、今、洛には八瀬(やせ)にもとめ、浪花(なには)の人は、有馬「皷(つゞみ)が瀧」の邊(へん)に捕る物、即ち、「井堤の蛙」に同物にして、今の「かしか」なる事、疑かふべくもあらず。

されば、和歌には「かわつ」とよみて、「かしか」とは、よまざる也。「かしか」の名は彌(いよいよ)俳言といふに愆(あやま)ちなかるべし。昔、「井堤のかわづ」をそゝろに愛せしことは、書々に見たり。今、八脊(やせ)・有馬・井堤に取るもの、悉く、其の聲の、

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの寛政一二(一八〇〇)年版では、ここから二ページ分が、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文政一三(一八三〇)年と異なる。しかし、そこはジョイントがちょっとおかしく、突如、平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」の能因法師絡みの数奇者の話の引用(私の所持する「新日本古典文学大系」版とはかなり原文が異なっている。そもそもがここで作者が引用書名が示さないというのも甚だ不審である。この奇体なエピソードは「山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)」で知っていた)になっており、その次の次の頁の最後で、以上の最終部と相同形で、「今、八脊(やせ)・有馬・井堤に取るもの、悉く、其の聲の」で次の頁に続いている。ところが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」ではこの二ページ分が全くない(当該部のHTML画像)のである。ところが、国文学研究資料館底本の前年をクレジットする寛政十一年版では、やはりこの二ページ分は存在しないのである。奇怪であるが、ともかくも、以下、底本の国立国会図書館デジタルコレクションのそれを視認して電子化する。加工データとしている「ARC書籍閲覧システム」(寛政一一(一七九九)版・立命館ARC蔵画像)の同巻でもこの二ページ分は全く存在しない。「云々」までは、底本では全体が一字下げである。]

帯刀の長節信(ちやう ときのぶ)は數竒(すき)の物なり。始めて能因に逢ひ、相ひ互ひに、感(かん)、有り。能因云、「今日見参(げんさん)の引出物(ひきでもの)に見るべきもの、侍り。」とて、懷中より、錦の帒(ふくろ)より銫屑(かんなくづ)を取り出だし、「是れは吾が重寳にて、長柄(ながら)の橋造りの時の、鉋屑なり。」といへば、時に、節信、喜悦、甚はだしくて、これも懐中より帋(かみ)につゝみる物を取り出だせり。是れを開きて見るに、かれたる「蛙(かはず)」なり。「是れは『井堤(いで)の蛙』に侍り。」と云へり。共に感歎して、各(おのおの)、懷にして退散す。今の世の人々、嗚呼とす

是れ、かわりなくも、古きを弄(もてあそ)ひし風流人(ふうりうじん)の一癖(へき)なり。長柄(なから)の橋は、既に「古今集」に「世の中にふりぬるもの津の國の長柄の橋と我(われ)となりけり」と、又、「蛙(かはつ)なく井堤の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」と、同「古今」春の下に見へたるより、「かはずなく」をもて、「井堤」の冠辞(かんじ)にをけるの、はしめとするによりて、古(いにし)へより、「かはつ」のやうもかはりしとおもふも、是、俗意(ぞくゐ)なり。「後拾遺」の秋、

                良暹法師

 みかくれてすたく蛙の諸聲にさわきそ渡る井堤の浮草

この風情は「いての蛙(かはづ)」の諸聲に鳴(な)ぎ[やぶちゃん注:ママ。]立てて、すだき、さわぐの、かまびすきに似たり。是れによりて、今古(こんこ)の変遷を察するに、井堤(いで)をよむことは、ふるく、「萬葉」、人丸(ひとまる)よりはじまり、「蛙(かはづ)」を詠み合はせとすること、古くは小町・貫之が家(いへ)の集に見えたり。又、良暹(りやうせん)は祇園の別當にして、母は實方(さねかた)朝臣(あそん)家(いへ)の童女白菊(しらきく)といひし者にて、是れ、一条院前後の人にて、詠みし「蛙(かはづ)」も「いて」のことのなりしを、長明の時までは、皆、大凡(おほうよそ)三百年二百年を經(へ)しかは、大いなる「井堤(いで)の川」も、年月に埋(うづ)もれ、又、山陰(さんいん)の茂樹(もじゆ)に覆(おゝ)はれ、至つて陰地(いんち)となり、蛙も形色(けいしよく)・音聲(おんせい)を、あらためしとは見へたり。是れを、いかんとならば、只今も、常(つね)のかはずをもて、陰地(ゑんち)の池、あるひは、野中(のなか)の井(い)などに放(はな)てば、月を經て、色、黒く変して、聲も改ること、試みて、しれり。故に今、八脊(やせ)・有馬・井堤(いで)に取るもの、悉く、其の聲の、[やぶちゃん注:ここが前と相同の部分で、しかも見開きの改頁の最終行なのである。あるにもあらず。かならず、閑情(かんせい)に鳴く物は、又、其のさまも異(こと)なる所あり。是れ、蝦蟇(かま)の一種類にして、蒼黒色(さうこくしよく)也。向ふの足に水かきなく、指先、皆、丸く、淸水にすみて、なく聲、夜(よる)は「こま鳥」に似て、「ころころ」といふがごとく、六、七月の間(あひた)、夜(よる)、一時(とき)に一度、鳴けり。晝も、なきて、鵙(もず)の聲の如し。尤も足早くして、捕ふにやすからざれば、夏の土用の水底(すいてい)にある時をのみ、窺ひて、捕れり。今、魚をもて、其物に混ぜしは、かの「かしか」の俳言より、「かはつ」の昔をわすれ、元より、長明の程よりは、幾たびの変世(へんせい)に下(くだ)り來て、近來(きんらい)、「かしか」の名のみを、きゝ覺へ、かの川原・谷川に出でて、「ごり」・「ぎゝ」の聲を聞き得て、鳴く處も、おなしければ、「是れぞ『かしか』なり」と、おもひ定めしより、乱れ苧(お)のもとのすぢをこそ、失なはれぬるやらん。

 

 再考

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げ。]

加茂眞淵「古今打聽(こきんうちきき)」に云、『かはづは「萬葉」にも「祝詞(のつと)」にも、一名(いちめう)「谷潛(たにくゞ)」とて、山河に住みて、音の、いとおもしろき物なり。今も、夏より秋かけて鳴く故に、「萬葉」には、秋の題に出だせり。いまの田野陂澤(はたく)にすみて、うたてかしましき物には、あらず。後世は、もはら、さるものをのみよむは、いにしへの歌をしらざるなり。「萬葉」に ┌─おもほゑす來ませし君を佐保川の蛙(かはず)きかせてかへしぬるかも とよめるをもても、音のおもしろきをしらる。今の、俗に「かしか」といふ物も、いにしへの「かはづ」なるべし。さて、それは、春には、いまだ、なき出てずして、夏のなかばより、秋をかねて、鳴くなり。』云々。

○愚案に、「谷(たに)クヽ」のこと、さして、「蛙なり」といふ引証を得ざれば、姑(しばら)く一說とすべし。山河(やまかわ)にすみて、音(こへ)おもしろき、と、めでゝいへるは、いかさま、「萬葉」のをもむきには見へたれども、一編中、必ず「秋なり」とも、さだめがたし。これ古質(こしつ)の常にして、種類の物を、あながちにわかつことなく混じて、同名に詠む事、其の例(れい)、すくなからず。されども、㐧六 ┌─おもほへずきませる君を佐保川のかはづきかせてかへしつるかも 又、蛙によせたる戀哥(こひうた)に ┌─朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)が下になく蛙(かはす)こへだに聞かは我(われ)戀(こひ)めやは といふなどは、秋なくものをよみて、尤も、題も秋なり。又、「後選集」雜四、「かはづをきゝて」との端書(はしかき)にて、我宿(わがやど)にあひやとりしてなくかはづよるになればやものはかなしき 是れも秋の物とこそ聞きゆれ。又、「萬葉」 ┌─佐保川の淸き川原(かはら)になく千鳥(ちとり)かはづとふたつわすれかねつも なと、みな、こえをめでし、とは聞こへはべる。「かはづなく吉の川」、「蛙(かはづ)なく六田の淀(よど)」、「かはづなく神奈備川(かみなみかわ)」、「かはづなく淸川原(きよきかはら)」なとにて、とかく山河(やまかは)の淸流にのみ、詠み合はせて、田野の物をよみたること、「萬葉」一編にあること、なし。元より、井堤(いて)を詠むは、「古今集」に見へて、「六帖(ろくてう)」にも載せし哥なり。かたかた、「かじか」は蛙(かはず)にして、名は俳言(はいご)たることを知るべし。

[やぶちゃん注:以下一行空きで、全体は底本では頭の「○」のみが二字半目の位置で突き出て、本文全体は三字半下げ位置で揃っている。何となく、字は小さめである。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの当該画像を確認されたい。但し、底本は刷が薄く見難いので、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該画像の方もリンクさせておく。]

 

○形、幷に、聲のおもしろきことは、前に云ふごとし。

 カジカといふ名は俗語にして、哥に詠むことなし。

 もし、よまば、カハヅとよむべし。「萬葉」を證とす。

[やぶちゃん注:以下「万葉集」の引用。一行空きで「前書」(但し、これは「万葉集」では歌の「後書」である)と歌の間も)は底本では本文位置から一字下げているが、逆に歌(二行)は本文位置から上に一字分突出している。底本は訓点(読みは歌を含めてべったりとカタカナでルビのように張り付く)附きであるが、まず、返り点・記号(。)のみのものを底本通りの一行文字数で示し、その後に私が続けた訓読文にしたものを示す。なお、底本ではこの下部に後に掲げたカジカガエルの挿絵が載る。]

 

内匠寮。大屬。按作。村主。益人聊設飲饌

長宦佐為王未ㇾ及日斜王既還歸於

ㇾ時益人怜惜不ㇾ厭之歸仍作此歌

 

不所念來座君乎佐保川乃河蝦不令聞

還都流香聞

 

○やぶちゃんの書き下し文

 内匠寮(たくみのれう)、大屬(をおさくはん)、

 按作村主益人(くらつくりすくりますひと)、

 聊(いささ)か、飲饌を設け、以つて、

 長宦(ちやうくわん)佐為王(さゐわう)に、

 饗(きやう)す。

 未だ、日(ひ)、斜(なゝ)め

 及(な)らずして、王、既(すて)に

 還-歸(かへ)る。時に、益人、

 厭(いと)はず、歸(かえ)るを、

 怜-惜(うれ)え、仍(よつ)て此の歌を作る。

 

不所念(おもほえす) 來座君乎(きませるきみを) 佐保川乃(さほかはの) 河蝦不令聞(かはづきかせず) 還都流香聞(かへしつるかも)

 

Kajika

 

[やぶちゃん注:以下、底本では「諸國に河鹿といふ魚」の図と解説が続くが、以上の「河鹿」が長い上に、先に示した底本の特異な挿入部もあるので、ここで切って注することとする。

 本篇を読み解くには、まず、「第四巻 鮴」(ごり)を読んでおく必要がある。ここで作者は古書をつまびらいて、かなり迂遠な路程を巡る煩を厭わず、結論として、鳴く「河鹿」は、

両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri

であるという、正しい真相に辿り着いている。

「連歌の季寄(きよせ)」連歌・俳諧で季詞(きことば)を大切にするが、句作の参考にするために、そうした現在の季語相当の語句を集めたものを「季寄」と呼ぶ。一般には俳諧歳時記の小型のもので、季詞を四季別(現在のように「新年」の部を立てるものもある)に分類し、月別に分け、さらに時候・人事・宗教行事・動植物などに分けて配列し,簡単な説明や例句を付したものもある。古くは連歌・俳諧の作法書に付されているものが多い。

「溫故日録(おんこじつろく)」江戸前期に書かれた連歌作法書。杉村友春作。古いものでは延寳四(一六七六)年の識を記す。『「杜父魚(とふぎよ)」・「カシカ」として、なんの子細も見へず』早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のこちらの「葉月」の条下に(右頁一行目)、確かに「杜父魚(カジカ)」と、ただ出るだけである。

「八目」月別の「葉月」で陰暦八月の部の意か。

「三才圖會」これは寺島良安の「和漢三才圖會」のことであろうが、あれを「俗書」呼ばわりするというのは、甚だ、気に入らぬ! 「和漢三才圖會 卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚」の「石斑魚(いしぶし)」の項などを指していよう。そこでは「河鹿」は挙げてはいないが、「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」の第二項の「黃顙魚(ごり/かじか)」の読みを与えている。そこで私は「ごり」をまず、

淡水産カジカ類カサゴ目カジカ科のカジカ Cottus pollux

及び、

ウツセミカジカ Cottus reinii

及び、アユカケ Cottus kazika

を比定候補とした。そうして鳴き声を立てるとする、明の李時珍の「本草綱目」の叙述するものの正体として、『一読、「軋軋」の車の軋(きし)る時の音、少なくともこれは擬音語としては『キーキー』、『ギーギー』(中国音は「yà yà」であるが)で、この叙述は、釣り上げた際に、腹鰭の棘とそれを支えている基底部分の骨をこすり合わせて、「ギーギー」と低い音を出す、

ナマズ目ギギ科ギバチ属ギギ Pelteobagrus nudiceps の仲間(ギギ Pelteobagrus nudiceps は日本固有種であるから、ギバチ属 Pelteobagrus の仲間というのが正確)

に相応しい。そうしてこの正当性は』先にリンクさせた『「黄顙魚」等の考証でも明らかになった。また付け加えるならば、この「吾里」(ごり)という呼称はもしかすると、ギギの音を聞き違えたものとも思われる。そもそも、この「吾里吾里」(ごりごり)という声自体が、「加之加」(かじか)の異物同名ともなり、その声と混同されもしたと思われる、

両生綱無尾目カエル亜目アオガエル科カジカガエル亜科のカジカガエル Buergeria buergeri

等の鳴き声を誤認したものではなかろうか)』と注した。この古い私の見解を私は今以って修正する必要を感じない。

『貝原氏(うぢ)、「大和本草」の「杜父魚」の条』「大和本草卷之十三 魚之下 杜父魚 (カジカ類)」である。しかし、それを読めば判る通り、作者の読みは恣意的で、自分が指弾し易いように受け取っているに過ぎないことが判る。益軒は、『此の魚を「河鹿(カジカ)」と云ふ〔とする〕說あり。夜、なく。故に名づく。古哥にもよめり。一說、「ゴリ」の大なるを、「河鹿」と云ふ。「ゴリ」・「杜父魚」、同類なり』であって、益軒は一部で「杜父魚」(私は益軒が名指すのは本邦の条鰭綱カサゴ目カジカ科カジカ属カジカ Cottus pollux と断じている)を「河鹿」とする説、と呼ぶ地方があり、大型の「ゴリ」個体を「河鹿」と呼ぶ説や地方があるとまっとうな(現在でもこれは――確かな事実――なのである)言っているに過ぎないのである。作者の喧嘩の売り方は、これ、汚ねえやい!

『「河鹿」として、『古歌にもよめり』といふは、全く筆の誤りなるべし』だからね! お前さんが後でばかばか引いているように「かじか」なる正体不明の何かは、いっぱい、古歌に読まれているというだけの、素朴なフラットな事実を益軒は言っているわけよ!

『「かしか」の名目は、是れ、俳諧師などの口ずさみにいひはじめて、恐らくは、寛永』(一六二四年~一六四五年)『前後の流行(りうこう)なるを、西行の歌などゝいへるを作り出だして、人に信ぜさせしにもあるべき』ここでの作者の謂いには、傾聴すべき部分があるように思う。則ち、博物学的に「かじか」という動物が何物であり(狭義の昆虫類か、魚か、両生類か)、それを確かに名指すと同時に示す(現代風に言えば種を同定比定する)という、インキ臭いアカデミックな鉄則などなかった時代に、俳諧連歌の風流仮想生物として「かじか」が誕生したという可能性は大いにあり得るということである。

「山川に汐(しほ)のみちひはしられけり秋風さむく河鹿(かしか)なく也」如何にも嘘臭さプンプンである。出典や相似歌を確認出来ない。ただ、調べていたところ、瀧澤馬琴の文政七(一八二四)年閏八月七日の小泉蒼軒宛「令問愚答」に、

   *

前問。越後の地名に「鮖」といふ字を「カジカ」とよませ候。此字も物に御見當り候ハヾ、御知らせ奉願候。

答。「鮖」ハ、全く土俗の造り字にて、田地に用る「圦」[やぶちゃん注:「圦樋(いりひ)」の略。土手の下に樋(とい) を埋め込んで水の出入りを調節する装置。一種の水門のこと。]字などゝ同格なるべし。今俗のカジカといふ物に二種あり。その一ハ魚なり、山河の水中に住ミ、好て砂石の間に隱れて、よく鳴くもの也。これを今、俗は「カジカ」といへども、古來よりの和名ハ、「イシブシ」といふ。「鮖」といふ魚、これ也。「和名抄」に、「鮖『食經』云、性、伏沈シテ石間者也。」「和名伊師布之(イシブシ)」。この魚、方言、多し。山城以西ハ、「ゴリ」といふ。「石ゴリ」とも云。水中に在て、「ゴリゴリ」と鳴くを名とす。魚の形ハ、些シ沙魚(はぜ)にも似て、沙魚より大きく、又、少し鯸䱌(フグ)にも似たり。「字考」にハ、「䱌」を「伊」の部にも、「加」の部にも収めて、「いしぶし」ともよませ、「かじか」とも訓じたり。種俗の稱呼に從ふのミ。この魚の和名を「石伏(イシブシ)」といひ、今、俗ハ「カジカ」ともいふにより、土俗の「カジカ」の正字をしらぬもの、私に魚に從ひ、「石」に從ハして、「鮖」の字を作り出して、「カジカ」と讀するのミ。これ「圦」字などゝおなじく、近來、土俗の造り字なること疑ひなし。「カジカ」の言ハ「河鹿」也。『「かじか」の歌、西行にあり。』などゝいふ者あれども、そら言也、信ずベからず。近來の俗稱にて、「カジカ」ハ「蛙」の聲よきもの也。形ハ「蛙」と異なること、なし。只、手足の指、よのつねの物とおなじからず、

Kajikaasi

指の先ニ、如此、まろきものあり。山川にありて鳴くに、その聲、淸朗也。いにしヘハ、これをも「かハづ」といへり。『万葉集』に、嗚く聲を憎むがごとくよみたるは、よのつねの水田に住る「かハづ」也。又、「かハづ聞さえ[やぶちゃん注:「で」の誤りか。]かへしつるかも」など詠て、その聲を愛(めづ)る心によめるハ、今、いふ、「かじか」なるよし、先輩、既にいへり。いづれも、「かハづ」といヘバ、紛るヽゆゑに、近來、その聲よきものを、「かじか」と呼べり。その聲、聊、鹿に似たれバ、「カジカ」の言ハ「河鹿」也。山城にハ、嵯峨・宇治等の山川にあり。大和にハ、よし野にあり。近江以東、奥幷ニ松前にあるものハ「䱌」にて、眞の「河鹿」にあらず。方言にも、又、さまざまにて、松前にてハけしからぬ名に呼ぶよし、松前の波響大夫、いへり。「河鹿」、幷に「石伏」の圖ハ、近來の印本「山海名產圖會」に出たり。披きて閲し給へかし。

   *

と、本書まで紹介してある(以上は「馬琴書翰集成一」(柴田光彦編・二〇〇二年八木書店刊のグーグルブックスのこちらを参考に漢字を恣意的に正字化し、記号も増やして示した。カジカガエルの足の図はスクリーン・ショットで取り込み、トリミングしたものである)。

「ゴリ」多様な種を指す。「大和本草卷之十三 魚之上 ゴリ」の私の注を参照されたい。

「キヽ」ギギ。条鰭綱ナマズ目ギギ科ギギ科Bagridae のギギの仲間を指す。「大和本草卷之十三 魚之上 𫙬※魚 (ギギ類)」の私の注を参照されたい。

「ならて」「ならで」。

『「落合(おちあひ)の瀧」とよみて、大原に建禮門院の御詠(こえい)と云いつたふ』京都府京都市左京区大原草生町(おおはらくさおちょう)の焼杉谷川と西田谷川が合流する地点(グーグル・マップ・データ)にある瀧で、建礼門院の御歌、

 ころころと小石流るる谷川のかじかなくなる落合の瀧

で知られている。

『「夫木集」二十四「雜六」岡本天皇御製とて』『あふみちの床の山なるいさや川このころころに戀つゝあらん』日文研の「和歌データベース」で確認。「夫木抄」巻二十の「雜二」に読人不知として、

 あふみちのとこのやまなるいさやかはけのこのころはこひつつもあらむ

とある。これは作者が示す通り、「万葉集」巻第四に載る一首で(四八七番)、

   *

 淡海路(あふみぢ)の

     鳥籠(とこ)の山なる

   不知哉(いさや)川

        日(け)のころごろは

      戀ひつつもあらむ

   *

で、後書に、

   *

右は、今案(かむが)ふるに、高市崗本宮(たけちのをかもとのみや)と、後(のち)の崗本宮と、二代二帝、各々、異(こと)なり。ただ「崗本天皇」といへるは、未だその指(さ)すところを審(つばひ)らかにせず。

   *

とあるのだが、中西進氏は講談社文庫版「万葉集」で、歌意からは斉明天皇(推古天皇二(五九四)年~斉明天皇七(六六一)年)とする(今一人の「崗本天皇」は斉明天皇の夫舒明天皇(五九三年?~六四一年))。作者の言う通り、この「日(け)​のころころ」は鳴き声の「コロコロ」や「ゴロゴロ」なんぞではなく、今日「この頃」の意であることは言うまでもない。

「代匠記(たいしやうき)」「萬葉代匠記」(まんやうだいしやうき)。江戸前期の「万葉集」の注釈書。契沖が徳川光圀の依頼を受けて、下河辺長流(しもこうべちょうりゅう)に代わって著したもの。貞享末年(一六八八年)頃に初稿本が成り、さらに光圀から写本や注釈書類が与えられたり、貸し出されて、「万葉集」の校本作りが進められ、本文研究とともに元禄三(一六九〇)年に精撰本が完成した。初稿本は平仮名、精撰本は片仮名で書き、惣釈に於いて「万葉集」の書名・作者・品物・地理・音韻・枕詞等を概説し、巻順に、ほぼ全歌と漢詩文・題詞左注・目録等について、約三千箇所に及ぶ本文訓読を改訂した(この内の約二千の条々は現在も定説とされて有効である)。さらに内外の典籍を博引旁証して語句・歌意や作者作意の解明を試み、精密な注釈を加えてある。仙覚の「万葉集註釈」、鹿持雅澄(かもちまさずみ)の「万葉集古義」と並び称され、中世の古今伝授と異なり、文献による実証主義にたつ近代的手法は古典注釈史上、画期的とされる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

『「ねもころころ」とよみたる例(れい)のごとし』これは「万葉集」巻第十一に載る一首(二四〇〇番)、

 いで如何に

   ここだはなはだ

  利心(とごころ)の

      失(う)せなむまでに思ふ戀ゆゑ

の古訓、

 いで如何に

   ねもころころに

  利心の

      失するまで念(おも)戀ふらくの故

辺りを指しているか。「ねもころころに」は「ねんごろ」の古形である「懇(ねもこ)ろ」の強調形或いは韻律操作とするか。孰れにせよ、鳴き声では、確かに、ない。

『長明「無明抄」にいへる「井堤(いで)の蛙(かはず)」』「無明抄」は鴨長明の歌論書。建暦元(一二一一)年十月以降から鴨長明が没する(建保四(一二一六)年閏六月)までの間と推定されている。「大和本草卷十四 陸蟲 山蝦蟆(やまかへる) (カジカガエル)」の私の注で当該箇所「井手の山吹幷(ならびに)かはづ」全文を電子化してある。

「井堤の川」現在の京都府綴喜(つづき)郡井手町(いでちょう)(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。古来より、山吹と蛙(かはづ)の名所として知られており、歌枕として多くの和歌に歌われた。

「八瀬(やせ)」京都市左京区八瀬野瀬町附近。

『有馬「皷(つゞみ)が瀧」』兵庫県神戸市北区有馬町にある鼓ヶ滝」

「愆(あやま)ち」「愆」は音「ケン」で、「誤る・過(あやま)つ・過ち・罪・咎」の意がある。

「八脊(やせ)」前の「八瀬」に同じ。

「帯刀の長節信(ちやう ときのぶ)は數竒(すき)の物なり。始めて能因に逢ひ……」以下、文中に注で入れた通りだが、再度、言っておくと、前振りなしに、突然、平安後期の保元年間(一一五六年~一一五九年)頃に公家で六条家流の歌人であった藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」の能因法師絡みの数奇者の話の引用が始まる(この奇体なエピソードは「山吹や井手を流るる鉋屑 蕪村 萩原朔太郎 (評釈)」で知っていたし、怪奇談集の「谷の響 四の卷 一 蛙 かじか」でも電子化している)。私の所持する「新日本古典文学大系」版とはかなり原文が異なっており、そもそもがここで作者が引用書名が示さないというのも甚だ不審である。この前までは必ず引用書目を出しているからである。しかも他の版本に見られない内容である。しかも、驚くべきことに、二頁目がダブりを示しながらも、次の頁にすんなり繋がっている点である。されば、底本のこの不思議な二頁分は、実は本書の元原稿分が、そのまま刷られたものである可能性が強いように思われる。理由は判らないが、作者は、この二頁分を、初摺りの直後にカットすることにして別に原稿を渡したが、一部で、その元版が刷られて、誤って刊本に綴じ込まれてしまったのではないか? と私は考えている。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の版本当該部(PDF・55コマ目)視認して、電子化する。カタカナはひらがなに直し、漢文脈部分は訓読し、一部の送り仮名を打った。読みは「新日本古典文学大系」版で補った。

   *

 加久夜(かくや)の長(をさ)の刀帯(たてはき)節信(ときのぶ)は、數竒(すき)の者也。始めて能因に逢ひて、相ひ互ひに、感(かん)、有り。能因が云はく、

「今日、見参の引出物に、見すべきもの、侍り。」

とて、懐中より、錦の袋(ふくろ)を取り出だす。其の中に、銫屑(かんなくず)一筋(ひとすぢ)あり、示して云はく、

「是れは、吾が重寳也。長柄(ながら)の橋造りの時の、『鉋くつ』なり。」

と云々。

 時に、節信、喜悦、甚しくて、又、懐中より、帋(かみ)に褁(つつ)める物を、取り出だせり。之れを開きて見るに、かれたる「かへる」なり。

「是れは『井堤(ゐで)のかはづ』に侍り。」

と云へり。

 共に感歎して、各(おのおの)、懐にして、退散す。今の世の人々、「嗚呼(をこ)」と稱すべきか。

   *

こちらで注しておくと、「加久夜の長の刀帯節信」は「新日本古典文学大系」版では『加久夜(かくや)の長(をさ)の帯刀(たてはき)節信(ときのぶ)』である(但し、編者にようる補正)。藤原姓。生没年未詳。「新日本古典文学大系」版脚注では、『「加久夜」は鹿児矢か。鹿などを射る矢。「帯刀」は』『舎人帯刀の略で、帯刀して東宮を護衛する役。その長を「帯刀の長」といい、本文の「長に帯刀」とあるのは同意か。不詳』とある。「今日、見参の引出物」今日、かくもお越し下さった記念の贈り物。但し、見せるだけの「引き出物」であり、最後にはそれぞれが自分の宝物を懐に入れて別れている。「長柄の橋」は淀川の支流であった旧長柄川に架かっていた橋。歌枕として著名。現在、淀川に架橋する長柄橋があるが、往古とは河川流域が異なり、ここに出る長柄橋がどこにあったかは、不明である。『かれたる「かへる」』ミイラになった蛙。

「世の中にふりぬるもの津の國の長柄の橋と我(われ)となりけり」「古今和歌集」巻第十七「雜歌上」の詠人不知の一首(八九〇番)。表記に問題なし。

「蛙(かはつ)なく井堤の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを」「古今和歌集」巻第二「春歌下」の詠人不知の一首(一二五番)。

 かはづなく

   ゐでの山吹

  ちりにけり

     花のさかりに

        あはましものを

で問題ない。

『「後拾遺」の秋』「良暹法師」「みかくれてすたく蛙の諸聲にさわきそ渡る井堤の浮草」「後拾遺和歌集」巻第二「春下」にある良暹法師(りやうぜん(りょうぜん) 生没年不詳:平安中期の僧で歌人。出自・経歴もほぼ不明。作者が記すように、一説によると、父は彼と同じ比叡山の天台僧、母は藤原実方(?~長徳四(九九九)年)家に仕えていた童女(めのわらわ)白菊だったとも言われる。祇園社(現在の八坂神社)別当となり、その後、大原に隠棲し、晩年は雲林院に住んだとされている。一説に康平年間(一〇五八年~一〇六五年)に六十五歳ぐらいで没したともされる。「良暹打聞」という私撰集を編んだと伝えるが、現存しない)の一首(一五九番)、

   *

   長久二年弘徽殿女御家歌合に、

   「かはづ」をよめる

 みがくれて

   すだく蛙の

  諸聲(もろごゑ)に

     さわぎぞわたる

       池(ゐけ)の浮草

   *

であるが、前書の長久二(一〇四一)年の「弘徽殿女御家歌合」では、第五句が、作者の示すのと同義の「井手の浮草」となっている。この一首、蛙の集(すだ)き鳴き騒ぐその声に、池の浮草が揺れるさまを描いて聴覚と視覚が相俟って新鮮である。

『井堤(いで)をよむことは、ふるく、「萬葉」、人丸(ひとまる)よりはじまり』作者の自信に満ちた謂いを受けて調べてみたが、柿本人麻呂の「万葉集」の歌に、そのような歌は見当たらない。敢えて挙げると、巻第十一にある一首(二七二一番)、

 玉藻刈る

   井堤(ゐで)のしがらみ

  薄(うす)みかも

     戀の淀める

        我が心かも

があるが、この「井堤」は明らかに一般名詞の流れをせき止める柵(しがらみ)と同義のもの。但し、万葉仮名が「井堤乃四賀良美」であり、これが井手の地名と解釈され、歌枕化したであろうことは、想像に難くはない。

『「蛙(かはづ)」を詠み合はせとすること、古くは小町・貫之が家(いへ)の集に見えたり』両歌集を持ってはいるが、調べる気は全くない。悪しからず。

「一条院」一条天皇の在位は寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年。

「試みて、しれり」作者が実際に、「試みて」、観察・実証した、というのである。アッパレ!

「其の聲の、あるにもあらず」意味がよく判らない。所謂、他の蛙のかまびすしさと比べ、鳴いていても、それが気にならない、だから「あるにも」かかわらず、「あらず」と見做し得るほどに気にならない、不思議な安静感を醸し出すと言っているか。

「閑情(かんせい)」「かんじやう」(かんじょう)が普通。心静かな気持ち、もの静かな心持ちを言う。

「蝦蟇(かま)」普通はガマガエルであるが、ここは広義のカエルの意。

「蒼黒色(さうこくしよく)」「向ふの足に水かきなく、指先、皆、丸く」両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri は、性的二型で♀の方が♂よりも大きく、オスの体長は三・五~四・四センチメートルであるの対し、♀は四・九~八・五センチメートルもある。孰れも河原の石のような体色をした保護色で、♂は体の表面が平滑で石に紛れて見えにくいが、♀はさらに加えて体表に小さな疣があり、河原以外の場所でも目立たない姿をしている。「向ふの足」は対峙した際にこちらを向いている前脚のことであろう。前脚には後脚のようには蹼(みづかき)が発達せず、その代わり、長い指の先に大きな吸盤が発達している(オタマジャクシは口が吸盤状に発達している)。

『「こま鳥」に似て、「ころころ」といふがごとく』笛の音か、野鳥の囀りのような美声で、音写は難しいが、「フィフィフィフィ」に時にそれが圧縮されて「ルルルルルル」に聴こえるような連続音に近い。たっぷり聴けるmono-氏のYouTube の「カジカガエル 癒される鳴き声(奈良県 黒滝村)Song of Kajika Frogsがよい。因みに、作者の、似ている、とする「駒鳥」(スズメ目ヒタキ科コマドリ属コマドリ Luscinia akahige )の鳴き声はこちら(「日本野鳥の会」の「BIRD FAN」)。

「鵙(もず)」スズメ目スズメ亜目モズ科モズ属モズ Lanius Bucephalus 。鳴き声はこちら(同前)。

『加茂眞淵「古今打聽(こきんうちきき)」』国学者加茂真淵(元禄一〇(一六九七)年~明和六(一七六九)年)の「古今和歌集」の注釈書「古今和歌集打聽」。天明五(一七八五)年序。

「祝詞(のつと)」祝詞(のりと)に同じ。「青空文庫」の喜田貞吉「くぐつ名義考 古代社会組織の研究」に祝詞の中に「谷蟆」又は「谷潜」(ここでの「谷潛(たにくゞ)」)が出現することが記されてある。但し、「万葉集」に「たにくぐ」が出るのは、巻第五(八〇〇番)と巻第六(九七一番)で、孰れも台地を支える神聖なる地神のシンボルとしてのガマガエル=ヒキガエル(種は「大和本草卷十四 陸蟲 蟾蜍(ひきがへる) (ヒキガエル)を参照)を指しており、「カジカ」とは全く縁がないので、引かない(万葉サイトは腐るほどあるから御自身で探されたい)。『「萬葉」には、秋の題に出だせり』というのも、後者では当て嵌まるものの、前者では無効である。大体、「題」というマニエリスム的用語自体が「万葉集」には馴染まないと私は思う。さらに、ヒキガエルは「うたてかしましき物には、あらず」というのには、私は、否定しないまでも、賛同しない。「カジカ」と「ヒキガエル」の鳴き声は同一のものではないからであり、ここで真淵は万葉時代以降の蛙の鳴き声をそれこそマニエリスムとして一つにして処理しようとする無茶をしようとしているように思われるからである。因みに、「たにくぐ」とは、渓谷で「くぐくぐ……」と鳴く何者かの謂いであろう。そのオノマトペイアは、これ、それをそう表現した人間だけにしか、その声は明確に出来ず、従って、我々は、それを厳密に同定することは不可能である。

「陂澤(はたく)」「陂」は河川の土手。「澤」は沼沢や氾濫原。

「おもほゑす來ませし君を佐保川の蛙(かはず)きかせてかへしぬるかも」本「河鹿」本文パートの最後に掲げられた「万葉集」巻第六の村主益人(すぐりのますひと)の一首である(一〇〇四番)。作者はどうも表記にブレがあり、直後でも性懲りもなくまた、「おもほへずきませる君を佐保川のかはづきかせてかへしつるかも」と引くし、最後の万葉仮名には「不所念(おもほえす) 來座君乎(きませるきみを) 佐保川乃(さほかはの) 河蝦不令聞(かはづきかせず) 還都流香聞(かへしつるかも)」と、また、ブれている。面倒なので、講談社文庫版の中西進のそれを参考に、正字化してここで出してしまおう。

   *

  按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)の歌一首

思ほえず來ましし君を佐保川の河蝦(かはづ)聞かせず歸しつるかも

   *

この「佐保川」は奈良県北部の奈良市・大和郡山市を流れる川。ここ。以下、後書。引き上げて繋げた。

   *

内匠大屬(たくみのだいさくわん)、按作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)、聊(いささ)か、飮饌(いんせん)を設(ま)けて、以ちて、長官佐爲王(かみさゐのおほきみ)に、饗(あへ)せしに、日(ひ)、斜(くた)つに及ばずして、王、既に還-歸(かへ)れり。時に、益人、厭(あ)かずして歸(かへ)るを、怜-惜(を)しみ、仍(よ)りて此の歌を作れり。

   *

この「内匠」は中務省に属する神亀五(七二八)年に新設された内匠寮(ないしょうりょう)で、天皇家の調度品や儀式用具などの製作を担当した。「大屬」は長官。

「朝霞(あさかすみ)鹿火屋(かひや)が下になく蛙(かはす)こへだに聞かは我(われ)戀(こひ)めやは」「万葉集」巻第十の一首(二二六五番)。

   蝦(かはづ)に寄せたる

 朝霞(あさかすみ)

     鹿火屋(かひや)が下に

  鳴くかはづ

        聲だに聞かば

    我れ戀ひめやも

この「鹿火屋」は田畑を鹿や猪などから守るために火をたく番小屋。一説に、稲の穂先(かひ)を収める小屋ともいう説もあると言う。

『「後選集」雜四、「かはづをきゝて」との端書(はしかき)にて、我宿(わがやど)にあひやとりしてなくかはづよるになればやものはかなしき 是れも秋の物とこそ聞きゆれ』

 

「萬葉」「佐保川の淸き川原(かはら)になく千鳥(ちとり)かはづとふたつわすれかねつも」巻第七の一首(一一二三番)、

 佐保川の

   淸き川原に

  鳴く千鳥

     蛙(かはづ)と二つ

    忘れかねつも

これは確かにカジカガエルと詠む。

「かはづなく吉の川」「万葉集」巻第十の一首(一八六八番)、

 河蝦(かはづ)鳴く

      吉野の川の

  瀧の上の

   馬醉木(あしび)の花ぞ

          はしに置くなゆめ

「蛙(かはづ)なく六田の淀(よど)」「万葉集」巻第九の絹(きぬ:女性名と思われる)の一首(一七二三番)、

   絹(きぬ)の歌一首

 河蝦鳴く

    六田(むつた)の川の

   川楊(かはやぎ)の

        ねもころ見れど

           飽かぬ川かも

ロケーションの「六田(むつた)の川」は奈良県吉野郡大淀町北六田(きたむだ)にあった「六田の渡し」。「ねもごろ」は「楊」の「根」に「懇(ねもこ)ろ」を掛けたもの。

「かはづなく神奈備川(かみなみかわ)」「万葉集」巻第八の厚見王(あつみのおほきみ:奈良時代の官吏。天平勝宝六(七五四)年の太皇太后藤原宮子の葬儀の御装束司(みそうぞくし)となり、翌七年には伊勢大神宮奉幣使を務めた)の一首(一四三五番)、

 蝦(かはづ)鳴く

      甘南備川(かむなびかは)に

    影見えて

       今か咲くらむ

      山吹の花

「かはづなく淸川原(きよきかはら)」「万葉集」巻第七の一首(一一〇六番)、

 かはづ鳴く

     淸き川原を

  今日見ては

      何時(いつ)か越え來て

         見つつ思(しの)はむ

「六帖(ろくてう)」(ろくぢよう)は平安時代に編纂された私撰和歌集「古今和歌六帖(こきんわかろくじょう)」。成立時期や撰者はともに不明であるが、大よその目安として、天禄から円融天皇の代の間(九七〇年から九八四年の間)に成立したとされており、撰者については、紀貫之・兼明親王・具平親王・源順の撰とする説がある。]

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