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2021/06/28

日本山海名産図会 第五巻 腽肭獣

 

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Otutotu2

 

[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「蝦夷人腽肭獸(ゑそひと をつとつ を とる)」で、オットセイを脅すための狐の尾が見え、見張り役の一匹だけ起きている彼が驚いている。後ろに、すやすやと眠る彼ら。後の注で明らかにするアイヌ独自の技術で造られた「イタオマチプ」(板綴り舟)に着目されたい。第二図は「同運上屋(うんじやうや)」。]

 

  ○腽肭獸(おつとつじう)

是れ、松前の產物といへども、蝦夷地(ゑそち)オシヤマンベといふ所にて、採るなり。寒中[やぶちゃん注:二十四節気の「小寒」(旧暦の十二月前半。新暦では一月五日頃)から大寒を経て立春(旧暦では十二月から一月。新暦では二月四日頃)前日まで。]の三十日より、二月に及ぶ。されども、春の物は、塩の利、あしきとて、貢献、必ず、寒中の物を、よしとす。蝦夷地に運上屋といひて、松前より、七、八十里東北にあり。最も、舟路、其の遠きこと、七、八百里もあることし、といへり。此の運上屋は、松前・奧刕・近江など、其の外、商人(あきひと)の出店(てみせ)ありて、先づ、松前より有司(ゆうし)下(くだ)り、其の交易を校監(こうかん)す。日本より渡す物は、米・塩・麺(かうじ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]・古手(ふるて)[やぶちゃん注:古着。]・たばこ・器物等(とう)にて、刄物は、なし。又、蝦夷(ゑぞ)の產は、海狗(かいく)・腽肭・熊・同膽(ゐ)・鹿の皮・鱈・鮭(さけ)・昆布・蚫(あはひ)・鱒・ニシン・數の子、等(とう)なり。其の内、蝦夷錦(ゑぞにしき)は、滿刕(まんしう)【韃靼(さらさん)にて、「エソ」へ近し。】の產にして、蝦夷地ソウヤと云ふ所へ、持ち渡る。又、熊は、先つ、子を手取(てとり)にして、其の翌日、親を捕れり。子は婦人の乳(ち)に養ひ、歯の生(お)ふるに至りて、雜物(そうぶつ)を食(しよく)せしめ、成長の後(のち)、材木にて、しめころしたるを、さらに薦(こも)にのせ、酒肉を具(そな)へ、祭りて後(のち)、膽を取り、肉を食(くら)ふ。

○腽肭獸(おつとつじう)をヲツトセイといふは、誤りなり。獸(けもの)の名は「ヲツトツ」なり。或る書に、「腽肭臍(おつとせい)」とかきしは、外腎(がいじん)の事にして、睾丸(きんたま)なり。藥用、是れを要(よう)として、肉の論は、すくなし。故に「陰莖(たけり)」といひて、貨賣(くわばい)する物、此の外、腎(じん)の間違ひなるべし。津輕南部よりも出でて、眞僞、甚だ紛らはし。是れ、種類、有るか故なり。海獺(かいたつ)・海狗(かいく)、一名とはすれども、是れ、種類の惣名(そうめう)なるべし。其の余(よ)、海豹(かいひやう)と云ふ有り。是れを和語に「アサラシ」と云ふ。皮に黒斑点(こくはんてん)有りて、腽肭に似たり。葦鹿(あじか)の同種なるべし。○海獺(かいたつ)は海の「カハヲソ」にて、是れ、全く、形狀(ぎやうぜう)、腽肭に相ひ似たり。是れを、別には、前の歯、二重(じう)に生(を)ふる物、眞(しん)の腽肭とす。又、一說には、二重齒(じうは)は、上齒(うはは)許りなり、ともいへり。又、頭上に、塩をふく一穴(いつけつ)有り。毛にかくれて、見えがたし。肉にても、百ヒロにても、寒水の内に投(とう)して、其の水、寒暖にして氷(こほ)らざる物、眞の腽肭と知るべし。

○陰莖(たけり)といふにも、僞物有りて、百ヒロを以て造るといへり。故に、毛、なし。号(なづ)けて「百ヒロタケリ」と云ふ。眞なる物は、三寸許り、赤色(あかいろ)にして、本(もと)に毛あり。全身、灰黒(うすくろ)。水獺(かはをそ)におなじくして、微(すこ)し、長し。顏は、猫に似て、小さし。口の吻鬚(ひげ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]、甚だ大(おほ)きし。※[やぶちゃん注:「※」=「口」+「思」。](あぎと)の次(つぎ)に、左右に、足、有り。大鰭(おほひれ)のごとし。後(うしろ)の足は尾の前に有りて、ともに、長さ一尺許り。其の尖(とがり)に五つの爪(つめ)あり。尾は細し。海底、最とも深き所に棲む。又は、海邉(かいへん)石上(せきじやう)に鼾睡(ひしい/いひき[やぶちゃん注:右/左のルビ。])す。或ひは群(くん)をなして、寐なから、流る。其の内、一疋、睡(めむ)らずして候(うかゞ)ひ、若(も)し、船、來たれば、忽ち、聲をあげて、睡りをさまさせ、水中に隱(かく)る。水を行く時は、半身を水上(すじやう)に出だして、能く游き、波を切ること、最も盛んなり。海獺(かいたつ)も、すべて、右にいふがごとく、今、「腽肭」といひて來たる物、多くは海獺にて、其の眞(しん)は得がたし。「南部一粒金丹(なんぶいちりうきんたん)」も、是れを、ゑらふを、第一とは、聞へたり。「本草」、集解に、『東海水中に出づる』と記せしは、是れ、中華も稀にして、即ち、日本より渡すとは見えたり。○ 蝦夷には、大(たい)を「ネツフ」、中を「チヨキ」、小を「ウネウ」と云ふ。是れ、眞(しん)の腽肭なり。鰭を「テツヒ」と云(いゝ)、一疋を「一羽(いちわ)」と云ふ。津輕にて此「テツヒ」を採りて「サカナ」とす。其の中(なか)に大なるを「ト」といへり。今、女兒(じよじ)の言(ことば)に、「魚」をさして「トヽ」と云ふは、若(も)しや、是れより言ひ來たりぬるも、しるべからず。中華にも此の言(こと)あり。

又、「夫木集」雜十八、「夢」の題に、建長八年百首歌合、衣笠内大臣(きぬかさないだいじん)、

 ┌─我(わが)戀は海驢(とど)の寢ながれさめやらぬ夢なりなから絕(たへ)やはてなん

と詠みたるは、海馬(かいば)の種類にて、別なり。又、「海驢(かいろ)」の文字を「日本記」神代卷(しんだいのまき)、龍宮の章に「ミチ(海驢[やぶちゃん注:左側にルビのように小文字で記す。])の皮」とも訓(よ)めり。

○捕猟(ほれう) 蝦夷人(ゑぞひと)、是れを捕ふに、縄にて、からみたる舟に乘りて、かの寢ながれの群(むれ)を見れば、狐(きつね)の尾を以つて、ふりて、かの起番(おきばん)の一羽(いちは)に見すれば、大(おほ)きに恐れて、聲を立てず。去(さ)るを待ちて、寢たる所を、弓、或ひはヤスなどにて、採ること、其の手練(しゅれん)、他(た)の及ぶ所にあらず。舟は、すべて、棹さす事、なし。前後(ぜんご)へ漕ぐなり。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字半下げ。]

○或ひは云ふ、「腽肭臍」といへは、「臍(ほぞ)」なるべし。然(しか)るに、『外腎也』とするは如何。或る書に、彼の臍を得んと欲(ほつ)して、松前・南部の人に覓(もと)むれども、兎角して、得がたし。此比(このころ)、圡人(とじん)の謂ふを聞けば、臍と陰莖と、甚はだ、通(ちか)し。故に、陰莖(いんきやう[やぶちゃん注:ママ。])を取る時、必ず、臍を損じて、全く、なし。或る人、云ふ。「是れ、雄(お)なり。」。其の雌(め)は、必ず、臍、あらんか。

[やぶちゃん注:食肉目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科キタオットセイ属キタオットセイ Callorhinus ursinus 。日本はキタオットセイの南限とされる。私の和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)」を参照されたい。

「松前」北海道道南地方の渡島半島南西部の、現在。渡島総合振興局管内の松前郡前町(まつまえちょう:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「松前藩」によれば、『藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり』、『同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる』。幕末の慶応四(一八七二)年に、『居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の』一『万石格、幕末に』は三『万石格となった』。『江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部、渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった』。『江戸時代後期からは』、『しばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた』とある。おぞましい蝦夷支配の歴史はリンク先を読まれたい。

「オシヤマンベ」長万部。北海道渡島総合振興局北部の内浦湾湾奥にある山越郡長万部町(おしゃまんべちょう)。因みに、現在、北海道には百七十九の市町村(三十五市・百二十九町・十五村)と六十四の郡があるが、今の北海道では渡島総合振興局内の茅部郡森町を「もりまち」と読む以外は、町は全て「ちょう」である(森町は内浦湾南岸のここ)。

「寒中」二十四節気の「小寒」(旧暦の十二月前半。新暦では一月五日頃)から大寒を経て「立春」(旧暦では前年十二月から一月。新暦では二月四日頃)前日まで。

「春の物は、塩の利、あしき」気温上昇とともに塩蔵でも凍っていたものが溶け出し、腐りやすくなるからであろう。

「運上屋」松前からの方角と距離から見て、北海道後志総合振興局にある余市郡余市町であろう。「運上屋(家(や))」は、松前藩が設置し、場所請負人によって作られれた施設で、和人とアイヌとの交易場である。現存する運上家は「旧下ヨイチ運上家」一箇所のみである。ウィキの「旧下ヨイチ運上家」や、個人サイト「顧建築」の「下余市運上屋」(図や写真有り)を読まれたいが、後者には、『徳川幕藩体制下、最北の松前藩では、米の収穫が零であった。従って藩士達は』「場所」を『藩主からもらった。場所というのは、他の藩で言えば、米の収穫できる領地=知行地をもらうのであるが、米の穫れない松前藩では、その代りに場所一水産物が獲れる海辺の土地をもらい』、『水産物などを得、それを換金して、収入としていた。初めは、藩士が直接行なっていたのであろうが、やはり武家の商法、商人に請負わせた方がほるかに楽であった。こうした場所請負制は、享保年間』(一七〇〇年代初め)『には、確立していたとされている』。『場所請負人が設置、建築した建物が、運上家(屋)である。運上屋の業務は場所の請負金を、場所持ちの武士に払うだけではなく、対アイヌ政策の出先機関でもあり、駅逓などの諸業務も負わされていた』。『話が横道にそれるが、日本海側に多く存在する番屋とは、この運上』屋『の出先機関が語源であろうとも言われている』。『運上屋の数については、年代によっても異なるが、全部で』八十『を超える数であったようである。しかし現存する運上』屋『は、下余市運上家と古平運上屋の二つの遺構であるという』。『後者については、規模も小さく、建築時からの改変も著しいものであるという』。『北海道の開拓の上でも、場所請負いというこの制度は見逃せないものであり、そういう意味でも大切にしたい建物である』とある。

「有司(ゆうし)」藩の正規の役人。

「校監(こうかん)」取り調べて監督すること。

「刄物は、なし」藩政(或いは幕府)の強制支配の意図がよく判る。

「海狗(かいく)」現行ではオットセイの異名であるが、ここは同じ鰭脚類のアザラシ(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 水豹(あざらし) (アザラシ)」を参照)やアシカ(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)」を参照)などを指すととっておく。

「熊」食肉目クマ科クマ亜科クマ属ヒグマ Ursus arctos

「膽(ゐ)」所謂「熊の胆」「熊胆(ゆうたん)」。熊の胆汁の入った胆嚢を乾燥させたもの。暗黒褐色の卵円板状を成し、健胃薬・強壮薬として古くから用いられた。

「蝦夷錦(ゑぞにしき)」当該ウィキによれば、『蝦夷錦(えぞにしき)・山丹服(さんたんふく)は、江戸時代に松前藩がアイヌ民族を介した交易で、黒竜江下流から来航する民族から入手した、中国本土産絹や清朝官服のことである』。『かつて中華王朝の明や満州族が建国したツングース系の清王朝は、外交関係を結んだ周辺国や周辺民族から貢物を贈られ返礼品を下賜する交流を行っており、ウリチをはじめとする他のツングース系民族にも清朝の品や中国本土の物産が伝わっていた。黒竜江下流域(沿海州)には、現在「山丹人」に比定されるウリチが住んでいた』。『江戸時代、蝦夷地の樺太や宗谷に山丹人が来航し、松前藩は当時蝦夷と呼ばれたアイヌを仲介して彼らと交易を行った。これが山丹交易である。その交易で様々な中国本土や清朝の品がもたらされ、その代表的な例が雲竜(うんりゅう)などを織り出した満州族風の錦の官服・蝦夷錦である。当時の参勤交代の際、松前藩主がその清朝風の錦を着て将軍に謁見したところ、将軍は華美なその錦を大いに気に入った。以降、松前藩は錦を幕府に献上するようになった』。『その際、松前藩はこれが清からもたらされたものだということを知っていたが、それを隠して』「蝦夷錦」と『呼び、錦の輸入を独占した。しかし、その陰には、苦境に立つアイヌがいたのである。アイヌは蝦夷錦入手のため』、『多額の累積債務を抱え、借財のかたに連れ去られるなど』、『山丹人との間に軋轢があり、蝦夷地が幕府直轄領となった際発覚し』、『問題となった』。『幕府の役人で樺太に詰めた松田伝十郎はアイヌの債務を調査し、支払不可能な分を松前奉行が立て替えて山丹人に支払い、アイヌは債務から救済された』。『同時に、松前奉行は山丹交易を直営化、アイヌの大陸渡航も禁じた。また、その後』、『山丹人は白主会所』(しらぬしかいしょ:寛政二(一七九〇)年に樺太南端の本斗郡(ほんとぐん)好仁村白主に松前藩が設置した樺太商場(場所)。国土地理院所蔵「蝦夷闔境輿地全図(「古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)で樺太(サハリン島)の南端を拡大して見られたい。「シラヌシ」とある)『において江戸幕府に対する朝貢をおこなう結果となった』とある。

「韃靼(さらさん)」「だつたん(だったん)」は本来はモンゴル系部族の一つで、八世紀頃から東モンゴリアに現われ、後にモンゴル帝国に併合された。宋ではモンゴルを「黒韃靼」、トルコ系部族オングートを「白韃靼」と称し、明では滅亡後、北方に逃れた元の遺民を韃靼と称した。外来語では「タタール」である。「さらさん」は全く異なる「サラセン」(古代ギリシア・ローマ世界でのアラビア北部のアラブ人の呼称。また、中世、ヨーロッパ人がイスラム教徒を呼んだ語で、イスラム帝国(サラセン帝国)の通称ともされた)を誤って当てて、訛ったものであろう。実際には「沿海地方」を指す。現在はロシア領であるが、『歴史的にはツングース系などの北方諸民族が活動してきた地域で、渤海や金などの統治下に置かれた。また』、『ツングース系の満州人が建国した清の故地・満州の一部で、中国人などの入植は規制されていた。この地方は多くの毛皮が採れるほか、この地を通じた山丹貿易で樺太のアイヌのもたらす毛皮も多く、清にとっては毛皮の産地として重要であった。西洋人には満州民族の居住地、満州の一部(外満州)として知られ』、十九『世紀には清の入植規制が緩み、李氏朝鮮の圧政を逃れてきた朝鮮民族も定住した』とウィキの「沿海地方」にある。

「ソウヤ」北海道稚内市宗谷岬から南西の稚内附近。

『腽肭獸(おつとつじう)をヲツトセイといふは、誤りなり。獸(けもの)の名は「ヲツトツ」なり』ウィキの「オットセイ」によれば、『オットセイはアイヌ語で「オンネカムイ(onne-kamuy、「老大な神」を意味する)」、「オンネプ(onnep、老大なもの)」、「ウネウ(unew)」と呼ばれていた』。『それが中国語で「膃肭」と音訳され、そのペニスは「膃肭臍」と呼ばれ』、『精力剤とされていた。現代の中国語では「海狗」と呼ばれる』。『日本では』文明本「節用集」に「膃肭臍(ヲットッセイ)」の表記が見られるほか』、江戸時代頃には、『生薬名が種を指す言葉になっており』、「和漢三才図会」でも『「をっとつせい」で解説されている』(私の和漢三才圖會卷第三十八 獸類 膃肭臍(をつとせい) (キタオットセイ)」を参照)。『あまりにも一般的になったため』、昭和三二(一九五七)年に(私の生まれた年である)、『北太平洋のオットセイの保存に関する暫定条約が締結された際、出席した日本代表団がオットセイを英語であると誤解』し、『英語でオットセイと説明しても理解されず、何回か発音を変えて言い直しを行うニュース映像が残されている。なお』、『日本語では「膃肭獣」と書いて「おっとつじゅう」と読むが』、「臘虎膃肭獣猟獲取締法」(らっこおっとつじゅうりょうかくとりしまりほう:明治四五(一九一二)年四月二十二日公布)では、『同じ字を「おっとせい」と読んでいる』。『東北地方の海岸まで流されることもあり、三陸地方で「沖の犬」と呼ばれる生物の正体とされる』。『英語ではfur seal(毛皮アザラシ)と呼ばれ、アザラシよりも質の良い毛皮が取れるため、この名前がついたといわれている』とある。

「外腎(がいじん)」睾丸。

「要(よう)」最も大切な部位。

「肉の論は、すくなし」「日本オルソ株式会社」公式サイト内の4)三大要素:カロペプタイド」に(Carropeptide:アミノ酸とペプチドの混合物)、『北オットセイの筋肉から特殊な方法で分解抽出したペプチドで』、十八『種類のアミノ酸(必須アミノ酸全てを含む)を含むタンパク価の高い、最高質のタンパク源と言われて』おり、『オットセイの肉は古来より強精強壮薬として珍重され、徳川家康の持薬であったという記録も残ってい』るとし、『また、カロペプタイドは、ほかのペプタイドに比べると、生理活性の働きがはるかに優れてい』るとあり、『主な働き』として、『毛細血管を拡張し、新陳代謝を促進』し、『新陳代謝機能を増進させ、老化ならびに病的組織の活力を高める効果が大き』く、『血圧降下作用』・『鎮痛効果』・『美容的効果』、及び『肝臓の機能回復に有効で、解毒作用が高まる』とし、『老化防止効果』もあるとある。

「海獺(かいたつ)」既注のアシカの異名。また、ラッコ(「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獵虎(らつこ) (ラッコ)」参照)の異名でもある。

「種類の惣名(そうめう)なるべし」概ね正しい。海棲哺乳類及び同鰭脚類の小・中型の動物の総称である。

『海豹(かいひやう)と云ふ有り。是れを和語に「アサラシ」と云ふ。皮に黒斑点(こくはんてん)有りて、腽肭に似たり』「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 水豹(あざらし) (アザラシ)」を参照。

「葦鹿(あじか)」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 海獺(うみうそ) (アシカ類・ニホンアシカ)」を参照。ウィキの「アシカ」によれば、『北海道を除く日本本土近海に生息するアシカ類は、絶滅したと見られるニホンアシカのみであり、この語も本来はニホンアシカを指したものである』。『「あしか」の語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。古くは「海(あま)鹿」説もあったが、アクセントから否定されている』。『奈良時代には「みち」』(☜)『と呼ばれていた。他に異名として「うみおそ(うみうそ)」「うみかぶろ」がある』「うみおそ」は『海にいるカワウソ』の意で、「うみかぶろ」は『海にいる禿』(かむろ:昔の遊女見習いの幼女をさす語)『の意である』。『佐渡島では』、『この「うみかぶろ」(海禿)の名で妖怪視されており、両津港近辺の海でよく人を騙したという伝承がある』とある。最後の話は、私が電子化注した中でも最も偏愛する「佐渡怪談藻鹽草」の「小川權助河童と組し事」の私の注を見られたい。

「カハヲソ」「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を参照されたい。

「前の歯、二重(じう)に生(を)ふる物、眞(しん)の腽肭とす。又、一說には、二重齒(じうは)は、上齒(うはは)許りなり、ともいへり」これは作者が怪しい誰かから吹き込まれた大嘘ではないか? 歯が二重に生えている海棲哺乳類なんていないんじゃないかと思う。因みに、オットセイでは、乳歯は母体内にいる際に早々と抜けてしまい、産まれてきた時には既に永久歯が生えているそうである。これは個人サイト「看板HP」のこちらの記事に拠った。実はこの条の後に続く「昆布」の一節に『右は[やぶちゃん注:この「腽肭獸(おつとつじう)」も含むので注意。]、皆、俳諧行脚の人、松前往來の話に傳へきゝて、實に予が見及びしことにはあらず』とあるのである。「俳諧師見てきたやうな噓をつき」でおじゃるよ。

「陰莖(たけり)」勃起して猛(たけ)り立つ物の意であろう。

「百ヒロ」「百尋」。長い腸のこと。鯨のそれが有名。私の大好物。

にても、寒水の内に投(とう)して、其の水、寒暖にして氷(こほ)らざる物、眞の腽肭と知るべし。

「※(あぎと)」(「※」=「口」+「思」)ここは顎(あご)のこと。

「南部一粒金丹(なんぶいちりうきんたん)」サイト「津軽デジタル風土記」の「一粒金丹治症/一粒金丹試功」から引く(天明八(一七七八)年(推定)及び寛政十一(一七九九)年刊本の本薬についての板行されたものの一部画像が見られる)。『弘前藩が製造し、江戸時代を通じて巷間に知られた秘薬として「一粒金丹」がある。鎮静剤や強壮剤として用いられ、下痢や脳卒中の後遺症などにも効能があるとされた』。『その製造は、四代藩主・津軽信政の懇願により、岡山藩の支藩として一万五千石を領し、後に幕府の奏者番を務めた池田丹波守輝録から、その藩医・木村道石を通して、元禄二年(一六八九)に弘前藩医・和田玄良へ製法が伝えられたことに始まる。以後、弘前藩では、和田家をはじめ、国元と江戸常府の限られた藩医(「弘前藩庁日記(御国)(以下「国日記」)」文化十三年(一八一六)二月十八日条では一粒金丹の伝法は国元四人・江戸三人の七人に限ることを決定)にのみ製造方法を伝授する方法で、製造法の伝承を管理した。一例として、松木明・松木明知』「津軽の医史」に『掲載された嘉永三年(一八五〇)の渋江抽斎から中丸昌庵への製造方法伝授においては、藩の用人兼松久通から製造方法の伝授について許可する旨の書状が出されるなど、藩が主体的に伝承体制を維持管理すると共に、伝承体制の整備が品質の確保につながるという認識を持っていたと考えられる』。『一粒金丹は、阿芙蓉すなわち阿片』(!☜!)『を主成分とし、他に膃肭臍(オットセイの陰茎)』(☜)・『麝香・辰砂・龍脳・原蚕蛾・射干などを薬種として製造されるが、阿芙蓉は、弘前藩の特産品として有名であったとされ、オットセイは松前・南部と共に津軽が主要な捕獲地とされていた。「国日記」では、藩領内で芥子の栽培が実施され、阿芙蓉の採取が行われていたことが確認でき、また、膃肭臍については領内アイヌからのオットセイの献上について散見される。これらの記録から、阿芙蓉と膃肭臍を他地域より比較的容易に入手できたことが、弘前藩の一粒金丹製造を大きく前進させ、全国的なブランドに押し上げた要因だったと考えられる』とある。

『「本草」、集解に、『東海水中に出づる』』李時珍の「本草綱目」の巻五十一下の「獸之二」の「膃肭獸」の「集解」の記載の一節に、

   *

李珣曰はく、『按ずるに、「臨海志」に云はく、『東海の水中に出づ。狀(かたち)、鹿の形のごとく、頭(かしら)、狗(いぬ)に似たり。長き尾。每日、出でて、卽ち、浮かび、水面に在り。崑崙家、弓矢を以つて、之れを射て、其の外腎を取りて、隂乾しすること、百日、味、甘く、香、美なり。』と。』。

   *

とある。「崑崙家」というのは意味不明。崑崙は内陸の西方(黄河の源)でおかしい。或いは北方の少数民族の名前で「クンルン」に近い発音の族名に漢字を当てたものか? 「本草綱目」の海産生物の記載は誤りが多いが、これは概ね信じてよい内容と私には見受けられる。

『蝦夷には、大(たい)を「ネツフ」、中を「チヨキ」、小を「ウネウ」と云ふ』平凡社「世界大百科事典」の「オットセイ(膃肭臍)」では、本書のこの部分を引用した後、『アイヌ語でオンネプ onnep は成獣の雌』、『あるいは雄をいったらしい(《分類アイヌ語辞典》)』とある。

『鰭を「テツヒ」と云(いゝ)、一疋を「一羽(いちわ)」と云ふ。津輕にて此「テツヒ」を採りて「サカナ」とす』「サカナ」がカタカナなのはよく判らないが、魚でないのに「魚(さかな)」として食している。これは肉食(にくじき)を禁じた仏教の「肉食(ししぐい)」に当たるのを誤魔化すためであろう(「膃肭獸」と書く如く、江戸時代に於いても彼らが獣(けもの)として認識されていたことは疑いようがない)。さすれば、『大なるを「ト」といへり』というのも、前にあるように、前脚が平たくて鳥の翼のようだから、「一羽」(いちは)と数えるとなら、「ト」とは「鳥(とり)」の縮約であるようにも思われてくる。さて。そんな語源考証はどうでもいい。「テツヒ」について述べる。素敵な個人サイト「アイヌ学 : アイヌの生業」の「オットセイ猟」が、カラーの絵図が掲げられ、多数の書籍を渉猟していて驚くほど詳しいのだが、そこに、かの江戸後期の大旅行家にして優れた博物学者であった三河国吉田生まれの菅江真澄(宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の「蝦夷逎天布利(えぞのてぶり)」の一節が載っており、そこに「テツヒ」が出現する。同旅行記は、毎年、夏の「昆布刈り」に東蝦夷地へ行く漁師の舟があることを松前で聴き伝えた彼が、松前藩主松前道広から発行された特別な通行手形を携えて、寛政三(一七九一)年五月二十四日に福山(松前町)を発ち、「有珠山詣で」の旅に出かけた素晴らしい北海道紀行である(松前へ帰ったのは七月半ば以降)。リンク先に示された国立国会図書館デジタルコレクションの柳田國男監修「秋田叢書」の「別集」菅江眞澄集 第四」の当該部(頭書「海狗漁の話」」が始まり)を視認して電子化する。頭書(かしらがき)があるが、これは柳田國男が附したものと思われるので、除外した。長万部での六月の記録である(この作品、電子化したい!)。

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五日。つとめて風吹浪たち、雨さへふれば出たゝず。あるし靑山しげよしいへらく、ことしは海狗(ウネオ)多かりつれど、去年の冬は海のあれて、おもふにたがひしかと、卯月の漁(レバ)もよかりけるなと語れり。此ウネヲてふものは頭(シヤバ)は猫に似て、身(むくろ)は獺(をそ)にことならぬ獣也。もろこし人は膃肭といふものゝ、それが臍(ハング)といへどもしからず、まことは、それが雄元(チエヰ/たけり[やぶちゃん注:右/左のルビ。以下同じ。])をとりて藥とはせり。ウネヲは、かんな月の寒さを待得て、冬の鯡(ヘロキ/にしん)の集(すた)くをくはんと追ひあさるを、蝦夷舟(チイツフ)こゝら、このコタンより乘出て、突きてんとねらひありけど、冬の海のならはしとて、いつも浪あれ風はげしければ、アヰノら擧て平波(ノト/なぎ)あらん事をいのり、齋醼(カムヰノミ)とて神にみわ[やぶちゃん注:お神酒。]奉り、をのれらも醉ひ、かく祈禱(ツシユ)して、あら浪のうちなごむしるしをうれば、海はいづらにかウネヲのあらんと狐(シユマリ)の頭(シヤバ)を、をのれをのれがかうべにいたゞき【天註――狐をシユマリともシュマイカムヰともいひ、もはら黑狐ををそり尊めり。さりけれと擊てとりぬ。】そとふりおとして、そのシユマリのシヤバの口(ハシ)の向(むき)たらん方に、ウネヲのあるてふ神占(トシユヰ)して、それをしるへに十餘里の沖に、あまたの船(チイツプ)をはるはるとこき出るに、たかはずウネヲは、あをうなはらの潮と浪とを枕に寐るといふ【天註――千尼袁(ウネチ)は海寐魚、又倦寢魚ちふシヤモ詞のうつりにてや。仁德紀に、瀰灘曾虛赴於瀰能鳥苫咩(みなそこふおみのをとめ)なといへり[やぶちゃん注:不審なことに「古事記」「日本書紀」孰れにもこの文字列は見当たらない。]。こは水底歷魚(みなそこふを)とつゝきたる辭にして、ウネヲも倦み寐る魚ちふこと葉にてや。】それか寢るに、そのかたちしなしな[やぶちゃん注:「品々」。]也。ヨコモツプといふは片鰭(テツヒ)[やぶちゃん注:「鰭」のみのルビ。]にて、ふたつ(兩)[やぶちゃん注:漢字の右宛て字。]の足(ケマ)をとりおさへて、左のテツヒをぱ海にさしおろし、汐をかいやりてふしぬ。これには、投鋒(ハナリ)いと擊やすし。テキシカマオマレとて、片鰭(テツヒ[やぶちゃん注:同前。])をば水にさし入れ、右のテツヒを腰にさしあてて、シヤバのなからばかり潮にひぢて寢たり。チヨロボツケとは、かたテツヒを水に入れて、さし出したるふたつの脚(ケマ)を、かたテツヒしておさへたり。カヰコシケルといふは左のテツヒを水に入れ、右のテツピを上にさゝげて、身をふるはして寢たり。セタボツケといふは犬(セタ)の寢(ふ)したる姿にことならず。かゝるなかにも、テキシカマオマレといふが耳のいとはやき宿(ね)やうなれば、いつも、これを突もらすと、蝦夷(アヰノ)の物話(イタク)にせり。ウネヲの牝をポンマツプネヲといひ、牡をデタルウネヲといへど、寤寐[やぶちゃん注:「ごび」。寝ること。]たるすがたは牝牡ともにことならず。ウネヲの漁(レバ)にとて男(ヲツカヰ)の沖に出れは【天註――ヲツカヰの假字にや、オツカヒのかなにてや。】女(メノコ)はゆめ鍼(ケム)も把らず木布(アツシ)も織らず、飯(アマム)もかしがず手もあらはず、たゞふしにふしてのみぞありける。其ゆへは、オツカヒ漁(レバ)に出てハナリ[やぶちゃん注:先に示したオットセイ猟」の電子化のここに『投げ銛』(なげもり)とあった。]とりうちねらふに、そのアヰノの家に在るへカチ[やぶちゃん注:アイヌ語で「子ども」。]にてまれ、メノコにてまれ、家(チセヰ)にせしとせし事のかぎりを、波に寢たるウネヲの、ふとめさめてそのまねをすれば、えつきもとゝめず、手もむなしう、はらぐろにのゝしりこき皈り[やぶちゃん注:「漕ぎ歸り」に同じ。]來て、けふはしかしかの事やありつらんと、そのせし事どもを掌をさすやうにとふに、家に、せしとせしわざの露もたがはねば、屋を守る人をそれをのゝき、身じろきもせすして、ふしてのみそありける。かゝればウネヲも、うなの上に能ふし、よくいねて、搏(うち)やるハナリのあたらずといふ事なけんと。つとめてウネヲを漁りに出んといふとき、なにくれと其漁(レバ)の具どもを南の牕(フヰ[やぶちゃん注:「まど」。「窓」。])より取出し、カンヂ[やぶちゃん注:アイヌ語で「櫂・オール」のこと。]、アリンベ[やぶちゃん注:アイヌ語で「一本銛」。]、ウリンベ[やぶちゃん注:不詳。銛の一種かと推測される。]、マリツプ[やぶちゃん注:これはアイヌ語で「マレ」が正しい。鮭や鱒を捕る道具で、二十センチメートルほどの鉤(大きな釣り針のようなもの)を紐などで台木に取り付けたものを、二~三メートルほどの木の柄の先に組み込んで、先頭部のそれと柄をさらに紐で繋げて巻いたもので、銛と同じく泳ぐ魚に突き刺すと、尖頭の鉤が台木から外れて、魚は紐で繋がれた鉤にぶら下がる形になって漁獲される。十勝のアイヌ文化を紹介したこちらPDF)を参照した。]やうのものとりそろへ搒[やぶちゃん注:「こぎ」。「漕ぎ」。]出て、海の幸(さち)もありてウネヲを捕得て皈來て、其ウネヲをば船底に隱しおきて舟よりおりて、をのが家に入て、ウネヲ擊たる事は露もそれともらさで、なにげなう、つねの物話をし、※(たばこ)[やぶちゃん注:「烟」の「大」を「コ」に換えた字体。]酒くゆらせなどして、れいのごとく南の窻[やぶちゃん注:「まど」。]より、擊たるウネヲも、その漁(レバ)の具も取ぐして入れ、ウネヲをは厨下(うちには)に伏せて、臠刀(エビラ)[やぶちゃん注:漢字は「らんたう(らんとう)」で「肉切り庖丁」のこと。]もてウネヲの腹を割(さき)て膽(ニンゲ)を採りしぼりて、舟の舳に、ウネヲの血ぬる齋祀(まつり)あり。ウネヲをさいたる小刀(エビラ)もて、ゆめ、こと魚を、さきつくることなけん。十月(かみなつき)のへロキにあさる[やぶちゃん注:「ヘロキ」は魚のニシンの成魚を指すアイヌ語。そのニシンをオットセイが漁りにくるのである。]ウネヲより捕り始(そ)め、春の海に突めぐり、夏のはじめ卯月の海となりては、シヤモの名に智加(ちか)といひ、アヰノこれをヌラヰといふ魚にあさるを取りて【天註――蝦夷辭にいふヌラキ、松前俚言に智加、飽田の方言地加と濁音にいひ[やぶちゃん注:「ぢか」か。]松前方言なへて淸音也。此魚、東海、南海のわかさぎちふもの也。】、卯月の末にウネヲのレバの具をばとりをさめ、ひめおきて、こと漁(レバ)にさらに用さる、此コタンのならはし也。ウネヲひとつとり得ても、米、酒、淡婆姑[やぶちゃん注:「たばこ」。「煙草」。]などの酬料(ブンマ)を、それそれにおほみつかさよりものたうばりけれぱ、此御惠のかしこさに、むくつけき、あら蝦夷人もこゝろなごやかにうち擧り、よろこひの淚磯輪にみちて、かゝる貢をば、をのれをのれが命にかへて、あら潮のからきうきめもいとはず、八重のしほちをかいわけてとりて奉り、公[やぶちゃん注:「おほやけ」。]にも、みつきにそなへ奉り給ふといふ。

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最後に出た「智加(ちか)」「東海、南海のわかさぎちふもの」というのは、ちょっと誤りがあって、条鰭綱棘鰭上目キュウリウオ目キュウリウオ科ワカサギ属チカ Hypomesus japonicus である。同種は当該ウィキによれば、『北海道及び三陸海岸以北の本州、朝鮮半島、カムチャツカ半島、樺太、千島列島の沿岸に生息』し、『ワカサギ』(ワカサギ属ワカサギ Hypomesus nipponensis :湖沼の淡水魚だと思っている人が多いが、同種は成長期に降海する遡河回遊型(両側回遊型)と、生涯を淡水で生活する河川残留型(陸封型)が存在する)『によく似ているが、ワカサギの腹びれが背びれの起点の直下もしくはやや前方から始まることに対し、本種の腹びれは背びれの起点よりやや後方から始まるという違いがある』。『全長は約』二十センチメートル『ほどにまで育ち、ワカサギより大型』である。『内湾の岸近くに生息』し、三『月下旬から』五『月上旬の繁殖期になると』、『河川の河口へ集まり、汽水域の砂底部に産卵する』。一年から二年で『成熟する。産卵後も生き残り』三年から四年『生きる個体もいる』。『北海道や東北地方では、食用魚として流通している。定置網で漁獲されることが多い。また、漁港等に集まるので釣りの対象魚にもなっている』。『小骨がワカサギよりもやや硬いので、価格はチカの方がやや安価である』。『調理法としては、小型のものは天ぷらやフライなどが有名であるが』、三%『塩水で煮た後に乾燥させて煮干しにしたり、佃煮にして長期保存性を高めたりする調理法もある。大型のものは刺身、素焼き、塩焼きなどにしても美味である。ただし、生食の場合は寄生虫の危険があるので十分注意すること』とある。「飽田」というのは、恐らく、現在の「秋田」のことと思われる。秋田の語源には「飽田」と「惡田」の二説がある。

「中華にも此の言(こと)あり」「魚」を指す「とと」の語源を小学館「日本国語大辞典」で調べると、「幽遠随筆」「名言通」「大言海」からとして、『もと韃靼語であったのが伝わったものか』とあるのが、この作者の謂いにしっくりくる。但し、他に、柳田國男の「野草雑記」・「日本民俗語彙」からとして、『早く下さいという催促の言葉』である『トウトウ(疾々)から』(魚は腐りやすい=足がはやいからか)とし、『南朝人』(本邦の南北朝のそれであろう)『が食を頭、魚を斗と呼んだところから』(文明本「節用集」)、『魚をヒトヒトと数えたところから』(「大言海」)とあった。私は、元来が幼児語であるのだから、何らかの魚に纏わる古いオノマトペイアでないかと疑う。

『「夫木集」雜十八、「夢」の題に、建長八年』(一二五六年)『百首歌合、衣笠内大臣(きぬかさないだいじん)』「我(わが)戀は海驢(とど)の寢ながれさめやらぬ夢なりなから絕(たへ)やはてなん」「夫木和歌抄」の巻第三十六の「雜十八」の衣笠家良(いえよし 建久三(一一九二)年~文永元(一二六四)年:公卿・歌人。大納言粟田口忠良の次男。藤原家良とも称した。官位は正二位・内大臣)の一首だが、日文研の「和歌データベース」で調べると、

 わかこひは

   みちのねなかれ

  さめやらぬ

     ゆめなりなから

         たえやはてなむ

で、𠮷岡生夫氏のブログ「狂歌徒然草」の「夫木和歌抄と狂歌」を参考にすると、題は確かに「夢」で、

 わが戀は

   海驢(みち)の寢流れ

  さめやらぬ

     夢なりながら

         絕えやはてなん

である。後に出る「海馬(かいば)」と「海驢(かいろ)」も孰れもアシカの異名である(後者は漢名)。「みち」がアシカの古名であることは、先の引用に(☜)注を附しておいた。

『「海驢(かいろ)」の文字を「日本記」神代卷(しんだいのまき)、龍宮の章に「ミチ(海驢)の皮」とも訓(よ)めり』「海彦山彦」伝承パートに、『乃鋪設海驢皮八重、使坐其上』とある。

「縄にて、からみたる舟に乘りて」「イタオマチ」(板綴り舟)。第一図をよく見られたい。「舟敷」(ふなしき)と呼ばれる丸木舟の上に、波を避けるための羽板(はねいた)を縄で綴じるという、独特の工法で作られたアイヌ独自の、板(いた)を綴(つづ)り合わせた舟のこと。財団法人 アイヌ文化振興・研究推進機構の作成になる「アイヌ生活文化再現マニュアル 綴る イタオマチ 板綴り舟」(PDF)を、是非、読まれたい。「イタオマチ」の復元作業も細かな写真で再現されている優れものである!

「寢ながれ」「寢流れ」。

「ヤス」漁具の「簎(やす)」。魚などを刺して獲る漁具で、先端を鋭く尖らせた(金属や骨をそこだけに用いたりもした)木又は竹製の槍状のもの。歴史が古く、石器時代の貝塚からも、動物の骨で作られた先端部分が発見されている。]

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