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2021/07/31

伽婢子卷之八 長鬚國

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。ネタバレになるので、挿絵についての解説は最後の注の頭に置いた。その観点から、挿絵は本文の途中で見た方がいいので、特異的に話中に配した。くれぐれも挿絵をじっくりとは先に見ない方がよい。謂わずもがなであるが、底本ではそうした配慮はなされてはいない。]

 

   ○長鬚國(ちようしゆこく)

 

 越前の國北の庄に商人あり。每年、松前に渡りて蝦夷(えぞ)と販賣(あきなふ)に、多く木綿・麻布(あさぬの)を遣して、昆布(こんぶ)・干鮑(ほしあわび)に替へて、國に歸り、出《いだ》し賣るを業(わざ)とす。

 或る年、舟に乘りて、松前に渡るに、俄かに、風、變り、浪、高く、檣(ほばしら)、をれ、梶(かぢ)、くだけて、吹《ふき》放されつゝ、漸(やうやう)にして、ひとつの嶋に寄せられたり。

 人心地、少しつきて、舟をあがりければ、五町[やぶちゃん注:約五百四十五メートル半。]ばかりにして、人里あり。

 其所《そのところ》の人は、髮、短かく、鬚(ひげ)、長し。

 物いふ聲は日本の言葉に通ず。

 或る家に立入《たちいり》て、國の名を問へば、

「長鬚扶桑州(ちやうしゆふさうしう)。」

といふ。國主を問へば、

「是より一里ばかりの東に城郭あり。」

と敎ゆ。

 彼(かしこ)に赴き、惣門(そうもん)を過《すぎ》て、見れば、國主の本城とおぼしくて、門の構へ・築地(ついぢ)、高く、石垣は、削り立《たて》たる如し。

 門のほとりに立よりければ、門を守るもの、一同に出《いで》て、大に敬ひ、奧のかたにいひ入《いり》たりしに、衣冠の躰(てい)、世に見なれざる出立(いでたち)したる者、はしり出て、殿中に請じ入りたり。

 

Lbn1

 

 宮殿、はなはだ、花麗(くわれい)にして、きらびやかなる事、いふばかりなし。

 紫檀・くわりん・白檀(びやくだん)なんど、入違《いれちが》へ、沈香(ぢんこう)・金銀をちりばめ交へて、立《たち》たり。

 錦のしとねを敷き、國主、立出て、對面す。

「大日本國の珍客(ちんきやく)、只今、此所に來れり。我等、邊國(へんごく)のえびすとして、まのあたり、請(しやう)じ參らす事、是れ、幸ひにあらずや。」

とて、一族にふれめぐらすに、皆、おのおの、來り集まる。

 いづれも、出たち、花やかなれ共、勢(せい)、短く、髮、かれて、鬚ばかりは、長く生(お)ひのび、腰、少し、かゞまりて見ゆ。

 座、定まりて後に、綠の蔕(ほぞ)ある色よき柹(かき)一つ、はらめる黃なる膚(はだへ)の栗、紫の菱(ひし)、くれなゐの芡(みづふき)、靑乳(せいにう)の梨、赤壺(せきこ)の橘(たちはな)を、瑠璃(るり)の盆・水精(すいしよう)の鉢に、うづたかく積みて、出したり。

 膳には、野邊の初鳫(はつかり)、澤沼(さわぬま)の鳬(かもめ)、鳴鶉(うづら)、雲雀(ひはり)、紫菨(しきやう)、靑蓴(せいじゆん)、溪山(けいざん)の筍(たかんな)、靈澤(れいたく)の芹(せり)、數を盡して、出し、そなふ。

 葡萄(ぶどう)・珠崖(しゆがい)の名酒に、茱萸(しゆゆ)・黃菊(くわうきく)を盃(さかづき)に浮べ、誠に妙(たへ)なる、あるじまうけ、其の味ひ、更に人間の飮食にあらず。

 されども、海川のうろくづ、蛤(はまぐり)のたぐひは、一種の肴(さかな)も、これ、なし。

 商人、いぶかしくぞ、覺えたる。

 國主の曰く、

「我に一人の娘あり。願くは、君、是れに、とゞまり給へ。配偶(はいぐ)の緣を、むすび奉らん。榮耀(えいよう)、いかで極まり有らん。」

といふに、商人、大《おほき》に喜び、

「ともかうも、仰せに隨ひ奉らん。」

とて、數盃(すはい)を傾け侍りしに、

「今宵は、月、巳に滿(みち)て、光り、四方(よも)に輝きて、明らかなる事、白日の如し。これぞ、我等の酒宴遊興を催す時なり。」

とて、滿座のともがら、舞《まひ》、かなで、歌ひ、どよめく。

 かゝる所に、姬君、出給ふ。

 附きしたがふ女房達、廿餘人、何れも、花を飾り、もすそを引て、ねり出たれば、沈麝(じんじや)の薰(かほり)、座中にみちたり。

 商人、これを見るに、かたちは、たをやかに。うるはしけれ共、女にも、鬚、あり。

 商人、甚だ、怪しみて、悅びず、古風の躰(てい)一種を詠みける。

 さくとても蕊(しべ)なき花はあしからめ

    妹(いも)がひげあるかほのうるはし

 國主、聞きて、えつぼに入《いり》て笑ひしかば、滿座、かたぶきて、腹をさゝげたり。

 娘と女房達は、世に耻かしげ也。

 

Lbn2

 

 此夜より、商人に一官を進めて、「司風(しふう)の長」とぞ、かしづきける。

 身の榮花に、たのしみを極め、國中、敬ひ、もてはやす故に、鬚ある妻に、なれそめて、三年(みとせ)を過れば、男子一人、女子二人をぞ、まうけたる。

 ある日、家、こぞりて、泣き悲しみ、妻、甚だ、愁へ、歎く。

 城中、打ちひそまりて、色を失へり。

 商人、驚きて、妻に問ければ、泣く泣く、答へけるやう、

「きのふ、海龍王(かいりゆうわう)の召しによりて、我が父、巳に龍宮城に赴き給へり。命、生きて、二たび、歸り給ふべからず。此の故に、歎き悲しむ也。

といふ。

 商人、大に仰天して、

「其は、如何にもはかりごとあらば、逃(のが)るゝ道、侍べらむや。然(しか)らば、我、たとひ、命をすつる共、何か顧(かへりみ)るべき。」

といふ。

 妻のいふやう、

「此事、君にあらずしては、禍ひを逃れて、安穩(あんをん)の地に歸り給ふ事、かなふべからず。願くは、龍宮城に赴き、『東海の第三の迫戶(せと)・第七の嶋・長鬚國、巳に大禍難(《だい》くわなん)に依(よつ)て、今より衰微に及ぶべき也。憐みを以つて首長(しゆうちよう)を放ち返し給はゞ、宜しく太平安穩の政道なるべし。』と、よくよく、の給はゞ、龍神、よこしま、なし。必ず、此歎きを引かへて、喜びの眉(まゆ)を開かん。然らば、一足《いちあし》も早く赴きて給へ。」

とて、聲も、をしまず、泣きければ、商人も、なさけの色に、心、引かれて、急ぎ出立《いでたち》、花やかに裝束(さうぞく)して、十人の侍(さふらひ)・五人の中間(ちうげん)・二人の道びきを招し連れ、龍宮城に赴き、舟に乘りて、しばしの間(あひだ)に着きて、濱おもてを見れば、皆、金銀のいさごにて、國人は、衣冠正しく、かたち、大にして天竺(《てん》ぢく)の人に似たり。

 櫻門にさし入《いり》て見れば、七寶莊嚴(《しつ》ほうしようごん)の宮殿、其のさまは、堂寺(だう《じ》)の如し。玉のきざはしに進めば、

「『司風の長』とは汝の事か。今、何故に來れる。」

と問ふ。

 商人、こまごまと、いひければ、龍神、すなはち、「海府錄事」を召して勘(かん)がへさせけるに、

「龍宮城の境内(けいだい)に、左樣の國は、これ、なし。」

といふ。

 商人、重ねていふやう、

「長鬚國は東海第三の迫戶(せと)・第七の嶋にあたれり。」

と。

 龍神、又勘辨(かんべん)せさするに、暫く有りて、錄事(ろくじ)、すなはち、本帳を考へて曰はく、

「其の嶋は、蝦魚(えび)の住所(じうしよ)也。龍宮大王の此月の食料に當てゝ、昨日、召し捕りたり。」

と申す。

 龍神、笑ひて曰はく、

「『司風の長』は、まことに人間ながら、蝦(ゑび)のために魅(ばか)されたり。我は海中の王なりといへ共、食(しよく)する所の魚(きよ)・鳥(てう)・生類(しやうるい)、皆、天帝より布(しき)さづけられて、日每(《ひ》ごと)に其の數あり。たとひ人といふとも天帝の定め給ふ數の外に、奢りて生類(しようるゐ)を食する時は、必ず、天の責めを受けて、禍ひあり。況や、我等、數の外に、漫(みだ)りに食する事、かなはず。さりながら、今、はるばるこゝに來れる人の心を、破るべからず。數の定めを耗(へら)して參らせむ。」

とて、内に入て、「司膳掌(しぜんしやう)」に仰せて、商人をつれて、料理臺盤所(れうりだいばんところ)を見せしむるに、麞(くじか)の胎(はら)ごもり、熊の掌(たなごゝろ)、猿のことり、兎の水鏡(みづかゝみ)、五種の削物(けづり《もの》)、七種の菓(くだもの)、䡄則(きそく)・花形、かざり立てて、鳳髓(ほうずゐ)、獅子膏(《しし》かう)、靑肪(《せい》はう)、白蜜(はくみつ)、其の外、海陸(かいろく)のうち、あらゆる珍味、心も言葉も及ばれず。

 

Lbn3

 

 黃金(こがね)の釜、白銀(がね)の鍋、あかゞねの鼎(かなへ)を並べ、傍らなる籃(かご)の中に、蝦、五、六頭(づ)あり。

 大《おほい》さ三尺あまり、色は、さながら、濃紫(こむらさき)にして、鬚、甚だ、長し。

 此商人を見て、淚を流す事、雨の如く、頻りに蹕躍(はねおど)りて、其のありさま、

『助け給へ。』

と云はぬばかり也。

 「司膳の司」のいふやう、

「是れこそ、蝦の中の王なれ。」

と。

 商人、きゝて、不覺の淚を落とす。

 龍神、かさねて、使ひを立て、蝦の王を赦(ゆる)し放ち、商人をば、送りて、日本に歸らしむ。

 其の夜の曙に、能登の國「鈴(すゞ)の御崎(みさき)」に付《つき》たり。

 岸にあがりて、うしろを顧れば、送りける使ひは、大龍となり、波を分けて、海底(かいてい)に隱れ、商人は本國に歸りて、筆に記して、人に語り傅へしと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の一枚目は長鬚国扶桑州に着き、国主の城を訪れたシーン。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『門は青海波の紋様』で、門の屋根の『棟の両端には海老の形をした飾りがついている。左』幅の迎えている人物は『衣冠の応対人』で、『頭上に海老の冠。左に番の者二人』が描かれているが、右幅の拱手した民草も応対する官人も二人の家来も、皆、長い鬚を持っている。さしてネタバレともなるまいから言っておくが、これが真相の伏線である。二枚目は商人が宮殿内で饗応を受けるシーン。右幅の列の先頭、一番左にいるのが、王の娘。同前で、『床下には、満々とした海水』らしきものが描かれ、左幅の上座にあるのが国主であるが、冠の蝦が一段と大きいのが判る。手前の三人は招かれた長鬚国内の客人。商人以外、女性も例外なく、総てが長い鬚を生やしている。三枚目は龍宮内の台番所(調理室)へ商人が赴くシーン。かすれているが、商人の左手にいるのが、司膳掌(総調理監督官)で、同前で『蓬髪に竜の冠』をつけている『か』とされる。二人の足下に大きな籠に大蝦が三尾おり、商人の方に向いている一尾が長鬚国国主であろう。左幅の手前に食材が吊り下げられてあり、右から二番目に鶴っぽい長い頸を持った鳥、中央に甚だ大きな兎らしきもの、その左手には鴨っぽい鳥二羽が見える。同前解説に、『壺、鼎、鍋、釜、瓶子、盤など多数の器物に珍味が盛られる。当話は挿絵をふんだんに配し、異境のおもむきを充分に醸し出している』とある。本話は他の戦国時代設定の拘りを排して、文字通りの御伽話として楽しめるものに仕上がっている。「越前の國北の庄」現在の福井県福井市大手(グーグル・マップ・データ。以下同じ)は旧越前国足羽(あすわ)郡北ノ庄(後に改めて福居)と呼んだ。現在の福井全体の呼称としても通用した。

「松前」北海道松前郡松前町。中世以降の蝦夷地交易の要地。

「木綿・麻布(あさぬの)」越前は温暖多湿の気候に恵まれ、古代より優れた絹織物など織布の生産が盛んであった。

「昆布(こんぶ)」松前の東方、北海道函館市宇賀浦町附近(正確にはその東の銭亀沢地区の沖合)の昆布は「宇賀の昆布」として古くから知られた。私の「日本山海名産図会 第五巻 昆布」も参照されたい。

「干鮑(ほしあわび)」エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)を用いたもの。大脱線になるが、私の大好きな、アイヌに伝わる「ムイ(オオバンヒザラガイ)とアワビとの間の戦いと住み分けの物語」を、最近やっと、ちゃんと書けたので、未読の方は是非、どうぞ! 「大和本草諸品圖下 ワレカラ・梅花貝・アメ・(標題無し) (ワレカラ類他・ウメノハナガイ・ヒザラガイ類・ミドリイシ類)」の私の「アメ」の長い注の中にある。

「扶桑州(ふさうしう)」「扶桑」国は古代中国で、太陽の出る東海中にあるとされた、葉が桑の木に似た神木。またはその霊木が生えている地の称。後に日本の異名とはなった。

「紫檀」マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。

「くわりん」「花梨・花林・花櫚」。マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属カリン Pterocarpus indicus (但し、同じく「花梨」とも書く「榠樝」、カリン酒や砂糖漬けで知られる黄色な大きな丸い実を結ぶところの、バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis とは全く別種であるので注意されたい)。当該ウィキによれば、『タイ、ミャンマーなどの東南アジアからフィリピン、ニューギニアの熱帯雨林に自生する』。『日本では八重山諸島が北限。金木犀に似たオレンジ色の小さな花が密集して咲く。芳香があるが、花期は短く』、一~二日で、『東南アジアの緑化や街路樹や公園に好んで使用される。シンガポールのメインストリートであるオーチャード通りやバンコク、ホーチミン、クアラルンプールなどでも多く見られる』。『フィリピンの国樹』。『古くから唐木細工に使用される銘木。心材は黄色がかった紅褐色から桃色がかった暗褐色。木材にはバラの香りがあり、赤色染料が取れる。木材を削り、試験管に入れて水を注ぎ、これを太陽にかざすと、美しい蛍光を出す』。『家具、仏壇、床柱、床框、装飾、楽器、ブラシの柄などに使われる。シタンに似ており、代用材としても使われる』とある。

「白檀(びやくだん)」ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum albumウィキの「ビャクダン」を参照されたい。

「入違《いれちが》へ」複数の高級木材を巧みに組み合わせて。

「沈香(ぢんこう)」狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。

「勢(せい)」背丈。背(せい)。

「蔕(ほぞ)」蒂(へた)のこと。

「菱(ひし)」私の好きな双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ(禊萩)科ヒシ属ヒシ Trapa japonica 。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 芰實(ひし) (ヒシ)」を参照されたい。

「芡(みづふき)」「水蕗」で、双子葉植物綱スイレン(睡蓮)目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox の異名。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 芡蓮(をにはす) (オニバス)」を参照。

「靑乳(せいにう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『不詳。ただし、乳梨(にゅうり=別名空閑梨(こがなし))や青梨(あおなし)があり、これらを指すか』とある。調べてみると、「こがなし」は「空閑梨・古河梨」などと書き、小学館「日本国語大辞典」には、『ナシの歴史上の品種。現在では、大古河(おおこが)という品種が知られ、九月中旬に熟し、大果で帯緑黄赤色、果肉は色が白く緻密で柔軟』とあり、「大古河」は岐阜県又は新潟県原産とウィキの「月潟の類産ナシ」にあった(「月潟(つきがた)の類産(るいさん)梨」は新潟県新潟市南区大別当(おおべっとう)地区(旧新潟県西蒲原郡月潟村大別当)に生育するナシ(バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属ヤマナシ変種(ニホン)ヤマナシ Pyrus pyrifolia var. culta の古木を指す)。また、サイト「旬の果物百科」の「梨」に、『和梨は果皮の色で大きく』二『つのタイプに分類され』、『幸水や新高梨に代表される皮の色が黄褐色の』「赤梨」『系と、二十世紀梨や菊水に代表される色が淡黄緑色の』「青梨」系がそれで、『青梨系は二十世紀が一世を風靡し』『たが、その後数は減り、現在では幸水や豊水など赤梨系が大半を占めるようにな』ったとある。ナシ、少なくとも、本邦産にニホンヤマナシの原種は青ではなく、赤である。

「赤壺(せきこ)の橘(たちはな)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『未詳。橘は食用みかん類総称の古名』とある。種としては、ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナCitrus tachibana であるが、当該種の実は酸味が強く、生食用には向かず、加工品用に用いる。

「水精(すいしよう)」水晶。

「鳫(かり)」広義の「かり」=ガン(「雁」)は以下の広義のカモよりも大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種。全長百四十~百六十五センチメートルで、翼開長は二百十八~二百四十三センチメートルあるだけでなく、飛翔する現生鳥類の中では最大級の重量を有する種群で、平均七・四~十四、最大で十五・五キログラムにも達する)より小さい種群の総称。より詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照。

「鳬(かもめ)」広義の「鴨」(かも)(「新日本古典文学大系」版脚注に『「かもめ」は作者の読み癖か』とある)。カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas を総称するもの。より詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」を参照。

「鳴鶉(うづら)」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を参照。

「雲雀(ひはり)」スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、本邦には亜種ヒバリAlauda arvensis japonica が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi や亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis が冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もする。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり) (ヒバリ)」を参照。

「紫菨(しきやう)」「新日本古典文学大系」版は、本文を『紫姜』とするばかりでなく、注でも『しょうがの異名』としている。単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale だが、これは私は納得出来ない。底本も元禄本もここは「紫菨」であって「姜」ではないからである。しかも、電子版「漢字林 艸部」でも「菨」(音「ショウ」)については、『「菨餘(ショウヨ)」、アサザ(莕菜、荇菜)、ミツガシワ科アサザ属の水草』である『アサザ』の類を指すとあるのである。されば、ここは、双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ属アサザ Nymphoides peltata 、或いは、アサザ属ヒメシロアサザ Nymphoides coreana 、或いは、アサザ属ガガブタ(鏡蓋) Nymphoides indica とすべきであろう。大和本草卷之八 草之四 水草類 荇 (ヒメシロアザサ・ガガブタ/(参考・アサザ))」を見られたいが、「詩経」の昔から、アサザは「荇菜」(かうさい(こうさい))として出、若葉が食用に供されることから「菜」と言ったのである。

「靑蓴(せいじゆん)」現行では一属一種の、私の好きな(見るのも、食べるのも。採取したことは残念なことにない。いつか採ってみたいな)、スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi である。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 蓴 (ジュンサイ)」を参照されたい。

「溪山(けいざん)の筍(たかんな)」奥深い人跡未踏の幽谷に生える笋(たけのこ)。

「靈澤(れいたく)の芹(せり)」同前の深い沢辺に生えるセリ。日本原産の双子葉植物綱セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。私の「大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 芹(せり) (セリ)」を参照されたい。

「葡萄(ぶどう)」葡萄酒。

「珠崖(しゆがい)の名酒」「珠崖」は漢の郡名。現在の広東省海南島に置かれた。前漢の武帝は南越国を征服し、そこに郡を配したが、珠崖は、その一つ。設置後五十年ほどで廃止されている。「新日本古典文学大系」版脚注は『酒との関係は未詳』とするが、寺本祐司氏の論文「海南島の酒に関する比較考察」PDF・『日本醸造協会誌』(二〇〇九年五月)発行所収)によれば(コンマを読点に代えた)、冒頭の紹介文章で、『海南島は、中国南部に浮ぶ島であり、大陸やフィリピンなどと深い関係がありながらも異なった伝統酒があることが予想される』。一九九五『年には「いも焼酎の源流を採る」調査部(南日本新聞社主催)が海南島におけるサツマイモ焼酎の製造を確認している。本稿では最近著者が行った調査結果を紹介していただいた』として、本文に、「海南島の伝統酒について」として、『海南島では熱帯・亜熱帯地域で栽培される農産物をもちいて酒がつくられていた。以下黎族』(リー族:海南島に住む少数民族)『に伝わる伝統酒についてまとめた。主な酒の原料は糯米』(もちごめ)、『サツマイモ、バナナであった』として、以下「米を原料とした酒」・「吸酒管で飲む酒」・「サツマイモを原料とした酒」・「バナナを原料とした酒」と標題した解説が続く。地理的にも南海の大きな島嶼である海南島は、如何にも本桃源郷のロケーションとも親和性がよい。

「茱萸(しゆゆ)」バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus (種は多い)以外に、似たような実をつける「山茱萸」(やまぐみ)=ミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis がある。

「あるじまうけ」「主設け」。主人(ホスト)による客人(ゲスト)への饗応(オーギー)。

「うろくづ」「鱗屑」。広義の魚類。

「蛤(はまぐり)」広義の魚類を除く貝類を始めとする軟体動物や甲殻類・棘皮動物の水産食用動物の総て。海産動物が全く出てこないという重要な伏線である。

「沈麝(じんじや)」沈香(じんこう)と麝香。「沈香」は狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。「麝香」はヒマラヤ山脈・中国北部の高原地帯に生息するジャコウジカ(鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus のジャコウジカ類)或いはジャコウネコ(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae のジャコウネコ類)の雄の生殖腺分泌体。包皮小嚢状の腺嚢を乾燥した暗褐色粒状物に約一、二%程度ばかり含有される高価な動物性香料。アルコール抽出により「ムスクチンキ」として高価な香水だけに利用される。近年、希少動物保護の立場から、香科用目的の捕獲は制限されており、殆んど同一の香気を有する合成香料で代用されている。芳香成分は「ムスコン」と呼ぶ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」を参照。

「甚だ、怪しみて、悅びず」「内心は」ということである。

「古風の躰(てい)」「妹(いも)」という古代歌謡以来の語を用いているからであろう。

「さくとても蕊(しべ)なき花はあしからめ妹(いも)がひげあるかほのうるはし」「新日本古典文学大系」版脚注には、これは、本話がほぼ筋立てをそのまま使った原拠「五朝小説」の「諾皐記」の「大足初有士人云々」の中にでる、『「花ニ蘂無キハ妍(うつく)シカラズ、女ニ鬚無キモ亦醜シ。丈人試ミニ遣(もう)サバ、惣無(すべてなきもの)ハ未ダ必ズシモ惣有(すべてあるもの)ニハ如(し)カズ」という詩の翻案歌。蘂(花蕊)を髭に見立てたもの』とある。原拠本文を確認出来ないので、これ以上は踏み込むことが出来ない。悪しからず。

「えつぼに入《いり》て」「笑壺に入(い)る」は「思い通りになって大いに喜ぶ」ことを言う。

「腹をさゝげたり」腹を抱えて笑った。海老の後方に跳ねるさまをミミクリーしたか。

「司風(しふう)の長」「新日本古典文学大系」版脚注に、『風に関する事を掌握する官職』とする。原話に出ることが示されてある。

「迫戶(せと)」「瀨戶」に同じ。海峡。

「よこしま、なし」横暴なところは、ない。

「道びき」水先案内人。

「海府錄事」「錄事」は実際の記録等を職掌する官職を指す。海を司る龍王の竜宮王府のそれなので「海府」としたものであろう。

「魅(ばか)されたり」「化かされたり」。

「布(しき)さづけられて」「布(し)く」は「遍(あまね)く、勘案して、決め、治める」の意。天帝によって、日々の食料の量まで厳密に決められていて、自分(龍王)の好き勝手にはならない。正確には、過剰に食うことも、恣意的に減らすことも出来ないと言っているのであるが、前者はだめでも、後者は可能ということなのだろう。

「たとひ人といふとも天帝の定め給ふ數の外に、奢りて生類(しようるゐ)を食する時は、必ず、天の責めを受けて、禍ひあり。況や、我等、數の外に、漫(みだ)りに食する事、かなはず」ここは面白い。龍王は、人間よりも、ある種の格(系)の中に於いては低い地位にあるか、或いは束縛が大きいということになる。

「麞(くじか)の胎(はら)ごもり」鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis (朝鮮半島及び中国の長江流域の、アシの茂みや低木地帯に棲息する、体高四十五~五十五センチメートル、体重九~十一キログラムの小形のシカ)の胎児。

「猿のことり」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「猿木取(さるのことり)手足の事なり」(新撰庭訓抄・五月返状)』とある。手羽先を好んで食う人間には残酷と批難する資格はない。

「兎の水鏡(みづかゝみ)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。但し、「みずかがみ」には具の少ない汁の意がある』(出典「可笑記」)とある。

「五種の削物(けづり《もの》)」礼式用の料理で、青・黄・赤・白・黒の五色に見立て、乾き物の魚介五種を削って、器に盛ったもの。種類は一定しないが、普通は「鮑・鰹・鯛・蛸・海鼠」を用いる(小学館「大辞泉」に拠る)。

「七種の菓(くだもの)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。通常は「五菓」とも。「五菓 ゴクハ〈李、杏、棗、桃。栗〉(書言字考)』などとある。

「䡄則(きそく)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『亀足(きそく)か。魚鳥を刺した串の手に持つ部分を巻いた飾りのある紙や、折敷』(おしき)『の底のの紙で四隅を折り返したものなど』を言う旨の記載がある。

「花形」同前で、『花形をした亀足か』としつつ、『または銚子の口を蝶形に結んだ紙をも称した』とある。

「鳳髓(ほうずゐ)」同前で、『鳳凰の髄(骨の脂)』とする。

「獅子膏(《しし》かう)」同前で、『獅子肉の脂』とする。

「靑肪(《せい》はう)」同前では『未詳』とある。

「白蜜(はくみつ)」同前で『蜂蜜』とする。

「海陸(かいろく)」「陸」の「リク」は漢音、「ロク」は呉音。

「大《おほい》さ三尺あまり、色は、さながら、濃紫(こむらさき)にして、鬚、甚だ、長し」色と圧倒的大きさから、イセエビ属の最大種である十脚目イセエビ科イセエビ属ニシキエビ Panulirus ornatus であろう。当該ウィキによれば、成体の体長は五十センチメートルほどだが、体長六十センチメートル・体重五キログラムに達する個体も稀れに漁獲される。体つきは同属のイセエビ Panulirus japonicus に『似るが、頭胸甲に棘が少なく、腹節に横溝がない。頭胸甲の地色は暗緑色で、橙色の小突起が並ぶ。腹部背面は黄褐色で、各節に太い黒の横しまがあり、両脇に黄色の斑点が』二『つずつ横に並ぶ。第』一『触角は黒いが』、七『本の白いしま模様があり』、五『対の歩脚も白黒の不規則なまだら模様となる。第』二『触角や腹肢、尾扇などは赤橙色を帯びる。この様々に彩られた体色を「錦」になぞらえてこの和名がある。種小名 ornatus も「武装した」、「飾りたてた」という意味で、やはり体色に因んだ命名である』。『アフリカ東岸からポリネシアまで、インド太平洋の熱帯域に広く分布する。日本でも神奈川県、長崎県以南の各地で記録されているが、九州以北の採集記録は稀で、南西諸島や伊豆諸島、小笠原諸島でも個体数が少ない』。『サンゴ礁の外礁斜面から、礁外側のやや深い砂泥底に生息し、他のイセエビ属より沖合いに生息する。生態はイセエビと同様で、昼は岩陰や洞窟に潜み、夜に海底を徘徊する。食性は肉食性が強く、貝類、ウニ、他の甲殻類など様々な小動物を捕食する』。『分布域沿岸、特に島嶼部では重要な食用種として漁獲されるが、食味はイセエビより大味とされている。大型で鮮やかな体色から、食用以外にも観賞用の剥製にされて珍重され、水族館等でも飼育される』。グーグルの学名の画像検索をリンクさせておく。私は実物の剥製を何度か見たが、暗い紫色という印象が記憶にあって、この本文の叙述と齟齬がない。

「鈴(すゞ)の御崎(みさき)」珠洲岬(すずみさき)。能登半島の先を占める石川県珠洲市にある岬。その先端部にある金剛崎のこととも、その周辺の岬を含めた総称であるとも言われ、「金剛崎のこと」、「金剛崎・遭崎・宿崎のこと」、「禄剛崎・金剛崎・遭崎・のこと、「禄剛崎・金剛崎・長手崎のこと」とする説があり一致を見ない。国土地理院図では「金剛崎」の位置に「珠洲岬」と併記されており、「日本の地名がわかる事典」によれば、珠洲岬とは、能登半島の東端部を指す総称であるとしながらも、狭義には「金剛崎」をいうとあるとある。参照した当該ウィキに幾つかの岬の配置図がある。]

2021/07/30

伽婢子卷之七 雪白明神 / 卷之七~了

 

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[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。一枚目に使者の描いた横筋がないのが、少し残念。標題は「ゆきしろみやうじん」。]

 

○雪白明神

 

 長亨(ちやうかう)元年九月、將軍源義凞(よしてる)公、みづから軍兵を率して江州に發向し、坂本に陣をとりて、佐々木六角判官高賴(たかより)を攻めさせらるゝに、高賴、ふせぎかねて、城を落ちて、甲賀郡(こうかこほり)の山中に隱れ入りたり。

 高賴が郞等、堅田(かたゝ)又五郞といふものは、武勇ありて、力量、人に勝れ、然かも、常に佛神を敬まひ、後世《ごぜ》を願ふ心ざし、淺からず。「觀音普門品(くわんのんふもんぼん)」一返(へん)、「彌陀經(みだきやう)」一卷、念佛百返を以つて、每日の所作(しよさ)とす。

 已に、大將高賴、城を落ちければ、又五郞も、力なく、むかふ寄手(よせて)に切《きり》かゝり、終に大軍の中を切ぬけて、安養寺山の奧に落ち行《ゆき》たり。

 かくて、日、暮れたりければ、いづかたに出《いづ》べき道も、知らず。

 かたはらに、一つの藁屋(わらや)あり。

 谷陰に立《たち》ながら、内には、人、なし。

 まづ、此家に隱れ居(ゐ)たれば、軍兵、廿騎ばかりの音して、

「まさしく後ろ影は見えしぞ。さだめて、伊賀路(いがぢ)にかゝりて、落行(《おち》ゆき)けむ。」

といふを聞けば、我を討ちとめんとする追手の兵也。

 されども、隱れ居たる家には、目もかけず、やうやう、遠ざかり行く。

『今は、心安し。』

と思ふ所に、又、人の打ち過《すぐ》る音の聞えしかば、ひそかに窓より、覗(のぞ)き見れば、一人の女房、その齡(よはひ)四十ばかりなるが、勢(せい)、細く、高し。

 褐色(かちいろ)の中《なか》なれたる小袖着て、手に、美くしき袋、もちて、

「堅田又五郞殿は、こゝに在(おは)するや。」

といふに、又五郞、物をもいはず、忍び居(ゐ)たり。

 女房、打ち笑ひて、

「何をか、怖れて、忍び給ふぞ。少しも、苦しき事、なし。我はこれ、當國栗太郡(くりもとのこほり)におはします、『雪白(ゆきしろ)の宮《みや》』の御使ひとして、『君が心安くせん』とて、遣はされたり。ゆめゆめ、疑ひ給ふな。君、常に、慈悲深く、神佛を敬ひ、後世を求めて怠りなき故に、其の心ざしを感じて、『雪白の明神』、守り給ふなり。」

とて、すなはち、持ちたる袋の緖(を)をとき、燒餅(やきもちひ)、とり出《いだ》して、食(くは)せ、小き甁(かめ)に、酒を入れて、とり出して、飮ませけるに、又五郞、大《おほき》に飽(あき)みちて、かたじけなく、有難き事、譬(たと)へんかたなし。

 女房いふやう、

「此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」

とて、歸るか、とみえし、銷(けす)が如くに、失せたり。

 案の如く、夜半ばかりに、怪しき光り、ひらめき、輝きて、來《きた》る者、あり。

 又五郞、

『さればこそ。』

と思ひ、窓より、覗きければ、身のたけ、一丈あまりの鬼、赤き髮、亂れ、白き牙(きば)、くひちがふて、兩の角は、火のごとし。

 口は耳元までさけて、眼(まなこ)の光り、鏡の面(おもて)に朱をさしたるがごとし。

 爪は鷂(くまたか)の如く、豹(へう)の皮を腰當(こしあて)とし、直(ぢき)に内に駈(か)け入らんとするに、かの女房、庭の土に書きたる筋を見て、大《おほき》に怒れる。

 まなこのひかり、いなびかりの如く、ひらめき、口より、火を吐きて、立《たち》やすらひ、力足(ちからあし)踏みて、響(どよ)みける。

 其の有樣、身の毛、よだち、魂(たましゐ)きえて、恐しといふも、愚か也。

 鬼、すでに、筋を越(こゆ)る事、かなはず、怒りを抑へて、かたはらに立寄りし所に、軍兵(ぐんびやう)、又、十騎ばかり、追ひ求りて、

「又五郞は此家に隱れしと聞ゆ。出《いで》よ出よ。」

と、責めけるに、かの鬼、かけ出《いで》て、馬上の兵を摑(つか)み、馬を踏み殺して、食(くら)ふに、其外の郞等(らうどう)共は蛛(くも)の子を散らす如くに、足にまかせて、にげうせたり。

 夜、已に明方になりたれば、鬼も消えうせて、物靜か也。

 立出《たちいで》て見れば、馬のかしら、人の手足、血まじりに、散(ちり)みだれ、よろひ・甲(かぶと)・太刀、皆、ひき散らしてあり。

 又五郞、終に逃るゝ事を得て、それより、伊勢にくだり、白子(しろこ)と云ふ所より、舟に乘り、駿州にゆきて、今川氏親(うぢちか)を賴みて、身を隱し、後に、その終はる所を知らず。

 

伽婢子卷之七終

 

[やぶちゃん注:「長亨(ちやうかう)元年」一四八七年。正しい漢字は「長享」(ちょうきょう)で、歴史的仮名遣は「ちやうきやう」。

「源義凞(よしてる)公」室町幕府第九代将軍足利義尚(寛正六(一四六五)年~長享三(一四八九)年:在職:文明五(一四七四)年から没年まで)のこと。この翌年の長享二(一四八八)年)に改名して義煕と称した。当該ウィキによれば、ここに出る長享元年九月十二日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約二万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(「長享・延徳の乱」)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの一年五ヶ月もの間、近江鈎(まがり:現在の滋賀県栗東市(りっとうし)。ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)への長期在陣を余儀なくされた(「鈎の陣」)。そのため、「鈎の陣所」は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど、華やかな儀礼も行われた。彼は長享三年三月二十六日、近江「鈎の陣」中で病死した。享年二十五(満二十四歳)であった。死因は過度の酒色による脳溢血とされるが、荒淫のためという説もある、とある。

「坂本」不詳。琵琶湖南西岸に知られた地名(比叡山の東方の登り口)としてあるが、ここでは位置的におかしい。「新日本古典文学大系」版脚注でも注をしていない。

「佐々木六角判官高賴(たかより)」(?~永正一七(一五二〇)年)は大名。近江国守護佐々木(六角)久頼の嫡子。文明一五(一四八三)年には大膳大夫となり、その時既に高頼を名乗っている。「応仁の乱」(一四六七年~一四七七年)においては、西軍(山名持豊方)に組みし、東軍(細川勝元方)の京極持清と結んだ従兄の六角政尭(まさたか)や、江北の京極氏と敵対した。近江国守護職については、たびたび、解任と補任を繰り返すが、これは「応仁の乱」による影響や、高頼が幕命に従わず、領国経営に傾倒したためであった。戦国大名化する六角氏による所領横領などの行為は、当然、幕府の許すところではなく、幕府はたびたび高頼討伐の軍を近江に出した。この年の将軍足利義尚の出陣は、最大規模のもので、長期に亙った。しかし、高頼は、その都度、巧みに甲賀郡や伊勢国に落ち延び、したたかに勢力を持ち直しては近江に君臨したのであった(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼の居城であった観音寺城はここにあった。

「甲賀郡(こうかこほり)」現在の滋賀県甲賀市

「堅田(かたゝ)又五郞」近江堅田(現在の琵琶湖南西岸の大津市堅田)に由来する姓であろう。

「觀音普門品(くわんのんふもんぼん)」「法華経」の中野「觀世音菩薩普門品第二十五」。

「彌陀經(みだきやう)」「佛說阿彌陀經」一巻。鳩摩羅什(くらまじゅう)訳。

「安養寺山」現在の滋賀県栗東市安養寺にある。標高二百三十七メートル。ここを山伝いに南西に向かえば、伊賀を経て、主君の落ちのびた甲賀へは行けるが、しかし、この山の北麓にある安養寺は、この時、将軍の本陣が最初に置かれた場所で(「鈎の陣」へは後に移った)、これはもう、幕府軍のテリトリーに入ってしまった形になり、甚だ「危険がアブナいよ」。

「まさしく後ろ影は見えしぞ」「さっき、確かには不審な者の後ろ姿を見かけたぞ!」。

「さだめて、伊賀路(いせぢ)にかゝりて、落行(《おち》ゆき)けむ。」

「勢(せい)」身の丈(たけ)。背(せい)。

「褐色(かちいろ)」染色の名で、中世以降、紺色乃至は黒みのある藍色を指す。

「中《なか》なれたる」ほどよく着馴れた感じのする。妙に新品だったりして目立たないいのである。寧ろ、その方が自然で、神の使者と聴いて、構えてしまい、警戒しない感じもしないでもない。

「栗太郡(くりもとのこほり)」滋賀県の旧栗太郡(くりたぐん:現在の草津市・栗東市の全域と大津市及び守山市の一部を含む広域郡であった)は古くは「栗太」「栗本」とも記され、「くりもと」と読んでいた。現在は郡そのものは消失している。

「雪白(ゆきしろ)の宮《みや》」現在の滋賀県栗東市高野にある高野神社。安養寺山の東北直近。公式サイトの「御由緒」に、『秀峰三上山を背景に野洲川の辺り、湖南の沃野に鎮座する延喜式神名帳に記された栗太八座に一する位階ある式内社である。社伝によると、天智天皇の御代以降』、『高野造』(「たかののみやつこ」か)『なる人が』、『この地一帯を開墾開発し』、『高野郷と名付けられ、特に飛鳥時代、和銅年間』(七〇八年~七一四年)『我が国で、最初に鋳造された「和銅開珍」の鋳師(鋳銭師)高野縮禰道経』(「たかのすくねみちつね」か)『一族が住んでいたことは有名であり、それ等の人々の氏神として祖先を祀ったのが、当社である。中世よりは、通称「由岐志呂宮」』(「ゆきしろのみや」と読める)『又「由岐宮」』(「ゆきのみや」と読める)『として尊崇されてきた。これは大同元年』(八〇六年)、『大嘗祭の悠紀方』(ゆきかた:大嘗祭で「悠紀の国」(神饌の新穀を奉るように卜定(ぼくじょう)によって選ばれる国。平安以後は近江国に一定するようになった)の神事の行なわれる東方の祭場。また、そこに関係する人々や事物を指す)『として新稲を進納したことに由来する。南北朝時代』、『戦火により社殿類焼するが、氏子等』が『仮殿を営み』、『祭祀十年余経て』、貞治元(一三六二)年・天文二(一五三三)年・寛永七(一六三〇)年と『改築修造を重ね』、天保三(一八三二)年に『現在の社殿を建立し』たとある。

『女房いふやう、「此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」』どうもピンとこない箇所である。ここは錯文が疑われる。則ち、

   *

 女房、此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、いふやう、

「今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」

   *

が正しいのではないか?

「鷂(くまたか)」この漢字「鷂」は現在のタカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指し、「くまたか」という読みの方は、タカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalis で種が異なる。ここは迫力から圧倒的に後者であり、だとすれば、漢字は「鵰」である。(但し、「鵰」の漢字は広義の大型猛禽類としてのワシをも指す)。

まあ、順番に、私の、

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)」

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)」

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)」

を見て戴くのがよかろう。因みに、先般、電子化注したばかりの、

「日本山海名産図会 第二巻 田獵品(かりのしな) 鷹」

も参考になると思う。お暇な方は見られたい。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注でも『鵰の誤り』とする。幾ら国文学的注とはいえ、「鷂」が何を指すかを示さないのはいかにも不親切である。

「豹(へう)」食肉目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus 。丑寅の「トラ」としないところが、ナウい感じがする。

「力足(ちからあし)」「地團駄・地團太」(ぢだんだ:元は「地蹈鞴」(ぢたたら)の音変化への当て字)で、足で地を何回も踏みつけること。

「響(どよ)みける」使者の女の引いた筋の向こう側から、大声を立てて雄叫びを挙げながら、しかし、そこから前に進めずにいるのである。地団駄と絶妙のマッチングである。にしても、女の筋は呪的結界であることは判るが、この鬼は、どのようにして、どこから誰が遣わした者なのか、その辺りは必ずしも、分明ではないのが、ちょっと不満な気もするのである。

「魂(たましゐ)」元禄版の読み。歴史的仮名遣は「たましひ」が正しい。

「白子(しろこ)」三重県鈴鹿市白子(しろこ)。白子港を持つ水産業の町で。江戸時代には紀州藩が手厚く保護し、伊勢湾内の物流の中核として発達した。

「今川氏親(うぢちか)」(文明三(一四七一)年或いは文明五(一四七三)年~大永六(一五二六)年)。父は駿河守護職今川義忠、母は北条早雲の妹北川殿。文明八年の父の不慮の死により、暫くの間は駿河小川城に避難したが、この長享元(一四八七)年、伯父に当たる北条早雲の援助で当主として国政を執り始めた。この時の発給文書に印文不詳の印判を捺しているのが、戦国期武将印判使用の第一号として知られている。また、検地の施行や分国法「仮名目録」の制定など、守護大名から戦国大名への脱皮を図っている。明応三(一四九四)年から、遠江への侵入を開始し、文亀元(一五〇一)年には、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏の連合軍を撃破し、永正一四(一五一七)年、遠江を平定した(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

伽婢子卷之七 菅谷(すげのや)九右衞門

 

Tugetakikawa

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。]

 

   ○菅谷(すげのや)九右衞門

 

 天正年中に、伊勢の國司具敎(とものり)公をば、「武井(たけゐ)の御所」とぞ云ひける。民部少輔具時(ともとき)は國司の甥(をひ)にて、南伊勢の木作(こづくり)といふ所にすみ侍べり。此の郞等《らうどう》に柘植(つげの)三郞左衞門・瀧河三郞兵衞とて、二人の侍あり。武勇智謀ある者なりければ、時にとりて、名を施しけり。

 然るに、國司具敎、その甥民部少輔、おなじく奢り(おごり)を極め、國民をむさぼり、侫奸(ねいかん)の者に親しみ、國政、正しからざる故に、

『行末、賴もしからず。』

と思ひ、柘植と瀧川、二人、心を合はせ、信長公に屬(しよく)せしめ、國司を亡ぼし、すなはち、勸賞(けんじやう)をかうふり、立身して、權(けん)を取り、威を震ひけり。

 其ころ、伊賀國に一揆起り、近鄕のあぶれもの、武井の城(じやう)の餘黨ども、多く集まり、要害を構へて楯こもり、土民百姓を惱まし、國郡村里を掠(かす)めしかば、信長公、

「早く是れをせめほさずば、大なる難義に及び、諸方の手づかひ、障(さはり)とならん。」

とて、軍兵を差向けられし所に、城中、强くして、人數、多く損じける中に、柘植・瀧川、二人ながら、打たれたり。

 是れによりて、あつかひを入られ、終に、信長公に隨ひけり。[やぶちゃん注:『そこで、信長は「あつかひ」(調停・仲裁)を伊賀との間に入れ、伊賀の衆や「近鄕のあぶれもの」や「武井の餘黨」は、皆、信長に従った』。]

 其後、一年ばかりを經て、信長公の家臣菅谷(すげのや)九右衞門、所用ありて、山田郡(《やまだ》のこほり)に行ける道にて、柘植・瀧川に行合《ゆきあひ》たり。

 菅谷、思ひけるは、

『此の二人は正しく打ち死《じに》したりと聞しに、是れは夢にてやあるらん。』

と怪しみながら、立向ひ、物語するに、柘植、云やう、

「久しくて對面す。いざ、こゝにて、酒ひとつ、のみ給へ。」

とて、召し連れたる中間に仰付けて、小袖ひとつ、持たせ、酒屋に遣はし、質物(しちもつ)として、酒、取りよせ、むしろを借(かり)て、道端の草むらに敷かせ、柘植・瀧川・菅谷三人、打ち向ひて、數盃(すはい)を傾けたり。

 瀧川、云やう、

「昔、もろこしの諸葛長民と云《いふ》人は、劉毅(りうき)が殺されし時、これがために軍兵(ぐんひやう)を催し、亂を作《な》さんとして、未だ、思ひ定めず。かくて曰はく、『貧賤なれば、富貴(ふうき)を願ふ。富貴になれば、かならず、危き事に逢ふ。其時、又、「元の貧賤にならばや」と思ふとも、是れも又、かなふべからず。腰に十萬貫の錢を纒(まと)ひて、鶴にのりて楊洲に登る』といふ。思ふ儘なる事は、なし。武士(ものゝふ)と生れ、其名を後代に傅ふる程の手柄なき者は、必ず、耻を萬事に殘す事、いにしへ、今、ためし多し。遠く他家に求むべからず。織田掃部(おだかもん)は、さしも勳功を致せしか共、終に日置(へき)大膳に仰せて誅せられ、佐久間右衞門は、信長公草業の御時より忠節ありけれ共、忽ちに追ひはなたれて、耻に逢ひたり。歷々の功臣、猶、かくの如し。まして、其の外の人、更に行末、知り難し。」

といふ。

 瀧川がいふやう、

「下間(しもづま)筑後守は越前の朝倉に方人(かたうど)して、木目(きのめ)峠の城に籠りしを、朝倉、うたれて後、平泉寺に隱れて跡をくらまし、醒悟發明(せいごはつめい)の道人《だうにん》となりて、

 梓弓(あつさゆみ)ひくとはなしにのがれずは

   今宵の月をいかでまちみむ

と詠ぜしは、名を埋(うづ)みて道(だう)に替へたり。荒木攝津守が家人《けにん》小寺官兵衞は、主君の逆心を諫めかねて、髻(もとゞり)きりて、僧になりつゝ、

 四十年來謀戰功

 鐵胃着盡折良弓

 緇衣編衫靡人識

 獨誦妙經梵風

[やぶちゃん注:返り点のみで示した。底本の訓点に従った訓読を以下に示す。

   *

 四十年來 戰功を謀(はか)り

 鐵胃(てつちう) 着盡(きつ)くして 良弓を折(くじ)く

 緇衣(しえ)編衫(へんさん) 人の識ること靡(な)し

 獨り妙經(めうきやう)を誦(じゆ)して 梵風(ぼんふう)を詢(した)ふ

   *]

という詩を題して、世を逃れたるもたふとしや。此の二人は、其の身、逆心の君《くん》に仕へながら、終に、よく、禍ひを免かれたり。是れ、智慮の深きに侍べらずや。」

といふ。

 柘植、うち笑ひて、いふやう、

「此の輩《ともがら》は、我等のため、耻かしからずや。いで、其の伊賀の一揆ばら、謀(はかりこと)は、つたなかりし者を。」

といふ。

 瀧川、

「いや、其事は、只今、又、いふべきにあらず。思へば、口惜しきに、たゞ、酒のみ給へ、菅谷殿。」

とて、互ひに、盃(さかづき)の數、かさなりて後(のち)、菅谷、二人に向ひて、

「如何に、かたがた、日來(ひごろ)は、數奇(すき)の道とて、もて遊ばるゝに、今日(けふ)の遊びに、一首、なきか。」

といふ。

「されば。」

とて、打案じつゝ、柘植三郞左衞門、

 露霜ときえての後はそれかとも

   くさ葉より外(ほか)しる人もなし

瀧川三郞兵衞、

 うづもれぬ名は有明の月影に

   身はくちながらとふ人もなし

と、よみて、二人ながら、そゞろに淚を押し拭(ぬく)ひけり。

 菅谷、歌の言葉、いとゞあやしく、又、この有樣、心得がたく驚き思ひて、

「いかに。日ごろは、武勇智謀を心に掛けて、少しも物事によわげなき氣象のともがら、只今の歌のさま、哀傷(あいしやう)ふかく、淚を流しけるこそ、怪しけれ。」

といふに、二人ながら、更に言葉はなく、大息(《おほ》いき)つきて、嘯(うそふ)きつゝ、酒、已になくなれば、

「今は。是までなり。」

とて、座をたち、暇乞(いとまご)ひして半町ばかり行くかと見えしが、召しつれたる中間ばらもろ友に、跡なく消《きえ》うせたり。

 菅谷、大に驚き、伊賀にて打死せし事を、やうやう、思ひ出したり。

 日は、山の端に傾(かたふ)き、鳥は、梢(こづへ)にやどりを爭ふ。

 人を遣はして、酒うる家に、質物とせし小袖を取寄せて見れば、手にとるや、ひとしく、

「ほろほろ」

と碎けて、土ほこりの如くになれり。

 菅谷、いそぎ、歸りて、密かに僧を請じ、二人の菩提を吊(とふら)ひけると也。

 

[やぶちゃん注:「菅谷(すげのや)九右衞門」菅屋長頼(すがやながより ?~天正一〇(一五八二)年:通称に九右衛門)は織田信長の側近。姓は「菅谷」とも書かれる。長頼は織田信房次男。但し、信房は織田氏一族ではなく、別姓を名乗っていた信房が、その功績により織田姓を与えられたと伝わる。長頼が生まれた時期は明確ではないが、史書には一五六〇年代後半に菅屋九右衛門として登場しており、若い頃から織田信長に仕えていたと考えられる。長頼、菅屋姓を名乗った時期は、諸史料から、元服前後と考えられる。初見は山科言継「言継卿記」の永禄一二(一五六九)年三月十六日の条が初見で、この時、岐阜を訪れた言継を織田信広・飯尾尚清・大津長昌らとともに接待し、山科家の知行地の目録を委ねられている。同年八月の伊勢大河内城攻めで、「尺限廻番衆」(さくきわまわりばんしゅう:旗本格)として前田利家らとともに戦っている。元亀元(一五七〇)年六月には「姉川の戦い」の前に近江北部に布陣している様子が確認できる。信長の家臣としては馬廻役であったが、ただの馬廻役よりも高位であったことが諸事実から伺える。同年九月の「志賀の陣」に参陣したが、この時、馬廻ながら、足利義昭への使いを務めたり、陣中を訪れた山科言継を取り次いだりしていることから、前線には出ず、信長の傍らで側近のような役割をしていたと思われる。同年十月二十日、信長の使者として朝倉義景陣中へ赴き、織田軍との決戦に応じるよう、促したが、不調に終わった。初期の頃は馬廻として戦に赴く信長に付き従って行動していた長頼であったが、程なくして各種奉行に用いられるようになった。天正元(一五七三)年九月、鉄砲による狙撃で信長を暗殺しようとした杉谷善住坊の尋問役と、鋸挽きによる処刑を執行している。天正二(一五七四)年三月の東大寺蘭奢待切り取りの際の奉行の一人を務め、同年七月二十日には羽柴秀吉が長頼と相談の上、朝倉氏旧臣たちの知行の割当てを執行すると通達している。天正三(一五七五)年八月二十日、「越前一向一揆」討伐のため、越前日野山を前田利家とともに攻め、一揆一千名余りを討ち取り、また捕らえた捕虜百名も即刻、首を刎ねている。天正六(一五七八)年十一月の「摂津有岡城の戦い」では鉄砲隊を率いる一人として有岡城を攻撃した。天正八(一五八〇)年からは能登・越中など北陸の政務を担当するようになった。翌年三月には、七尾城代として能登入りし、以後、暫く直接の政務にも当たっている。また、上杉氏に対する外交担当も務めていたらしい(かく鎮撫が済んだ能登は前田利家に与えられた)。かく北陸方面で政務に実績を残した長頼であったが、この間、北陸方面軍を統括する柴田勝家や越中の一職支配権を持っていた佐々成政らに了承などを仰いだことは一度としてなく、信長から遣わされた「上使」として、単独で政務を執行できるだけの強い権限を与えられていたことが窺われる。天正一〇(一五八二)年の「甲州征伐」には信長に近侍して三月中に出馬し、四月に甲斐入りしたが、既に織田信忠によってほぼ武田氏は駆逐されており、戦闘はなかった。五月二十九日、信長に従って上洛、六月二日に発生した「本能寺の変」においては、市中に宿を取っており、本能寺に駆けつけたものの、明智勢の前に本能寺に入ることが出来ず、妙覚寺の織田信忠の元に駆けつけて、二条新御所で信忠に殉じた。子として角蔵・勝次郎の二人の息子がいたが、「本能寺の変」において角蔵は本能寺で、勝次郎は長頼とともに二条新御所で討死しており、子孫は伝わっていない(私は名すらも知らない人物なので、以上は当該ウィキに拠った)。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。天正一〇(一五八二)年に、ヨーロッパで用いられる西暦はカトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦された。その実施が最も早かった国々では、ユリウス暦一五八二年十月四日(木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日(金曜日)としている。

「伊勢の國司具敎(とものり)」北畠具教(享禄元(一五二八)年~天正四(一五七六)年)は戦国武将。伊勢国司(南北朝初めの北畠顕能(あきよし)以来、七代に亙って世襲)は、北畠晴具の長男、母は細川高国の娘。天文六(一五三七)年叙爵以降、朝位朝官を歴任し、弘治三(一五五七)年には正三位に叙された。北畠氏は具教の時期に極盛期を迎えるが、永禄一二(一五六九)年八月、織田信長の総攻撃を受けた。一族の精鋭は大河内(現在の三重県松阪市)に籠城して持ちこたえ、信長の次男茶筅丸(ちゃせんまる:後の信雄(のぶかつ/のぶお)を具教の長男具房の養子とすることで和議が成立したが、七年後の天正四(一五七六)年、具教は織田方に籠絡された旧臣に三瀬御所(現在の三重県大台町)で暗殺され、北畠氏は滅んだ(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「武井(たけゐ)の御所」北畠氏が本拠地とした、伊勢国一志(いちし/いし)郡多気(たげ)にあった霧山城の別名多気城のこと(現在の三重県津市美杉町上多気及び美杉町下多気。ここ一帯。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「民部少輔具時(ともとき)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『北畠支流木造家に具時の名は見えない。ここは木造具政が当たるか。北畠晴具の三男。「国司の甥に民部少輔といふ人は南伊勢の木造といふ所に城をかまへてをかれたり(古老軍物語・』『伊勢の国司ほろびし事)』とある。木造具政(こづくりともまさ 享禄三(一五三〇)年~?)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・公家。堂上家・木造家の最後の当主。参議・北畠晴具の三男。左近衛中将木造具康の養子。北畠家第七代当主北畠晴具の三男(次男説もある)として生まれたが、父の命で木造具康の跡を継いで、分家の木造家の当主となった。天文一三(一五四四)年に従五位下に叙爵し、侍従となり、天文二一(一五五二)年には正五位下・左近衛少将に叙任され、翌年、従四位下・左近衛中将に昇った。天文二十三年には戸木城(現在の三重県津市戸木町)を築城している。永禄一二(一五六九)年五月に織田信長が伊勢国に侵攻して来ると、長兄具教に背いて、信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった信長の次男織田信雄の家老となった。信長没後も信雄に仕え、天正一二(一五八四)年の「小牧・長久手の戦い」では戸木城に籠城して、羽柴秀吉方の蒲生氏郷率いる軍勢と奮戦したが、信雄が秀吉と和議を結んだことから、城を退去した。後の行方は不明か(当該ウィキに拠った)。

「南伊勢の木作(こづくり)」三重県津市木造町(こつくりちょう:現在の地名は清音)。

「柘植(つげの)三郞左衞門」柘植保重(つげ やすしげ ?~天正七(一五七九)年)は織田氏家臣。通称は三郎左衛門。柘植氏の出身で、確証は得られていないが、伊賀国の土豪福地宗隆の子で、滝川雄利(かつとし:本「瀧河三郞兵衞」のこと。後注参照)の姉の夫、或いは雄利の実父との説がある。初め、木造具政に仕えたが、織田信長が伊勢攻めを開始した際、具政に対し、北畠家から寝返るよう説得し、滝川雄利らとともに信長に降った。この時、保重が北畠家に人質に出していた妻子は磔(はりつけ)にされている。永禄一二(一五六九)年、信長の軍勢七万(実数は五万とも)が北畠領に侵攻すると、織田軍とともに、国司北畠具房(具教の子)の居城であった大河内城を攻めた。信長の次男茶筅丸(信雄)を北畠家の養子に入れることで、具房は織田家と和睦し、これ以降、保重は茶筅丸付きの家老となった。天正四(一五七六)年、「三瀬の変」(同年十一月二十五日、伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが同日に襲撃され、討死した事件)では、保重は北畠具教と、未だ三歳の徳松丸、一歳の亀松丸らを討ち取るべく、三瀬御所に向かい、これらを殺害したグループに属している(但し、「勢州軍記」では三瀬御所ではなく、大河内御所である大河内教通の宿泊所を襲ったとある)。天正七(一五七九)年、主君の信雄に従い、伊賀国に攻め込むが、信雄軍は伊賀の諸豪族の抵抗に遭い、戦況が不利となったため、退却した。この撤退時の殿軍(しんがり)を務めた最中、保重は伊賀側の植田光次に討たれた(「第一次天正伊賀の乱」。以上は当該ウィキに拠った)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『「木作殿の郎等につげの三郎左衛門といふものは、男がら人にすぐれ兵法に達し智慮さかしき武勇のものなり」(古老軍物語六・伊勢の国司ほろびし事)』とある。

「瀧河三郞兵衞」滝川雄利(天文一二(一五四三)年~慶長一五(一六一〇)年)は伊勢国一志郡木造生まれの大名で、伊勢神戸城主、後の常陸片野藩初代藩主。伊勢国司北畠家の庶流木造家の出身とされるが、父母については諸説あって一致を見ない。「寛永諸家系図伝」の「木造氏系図」では具康の娘、「星合(ほしあい)氏系図」では俊茂の娘と北畠氏家臣柘植三郎兵衛の間の子とし、「滝川氏系図」では具康の子とする。また、「寛政重修諸家譜」の編纂時に、滝川家が提出した家譜では、雄利は具政(北畠宗家からの養子)の三男で母は俊茂の娘としていた。さらに、「系図纂要」では俊茂の子となっている。初め、出家して源浄院の僧主玄を称したが、後に還俗して、滝川一益(かずます/いちます)から滝川の姓を与えられ、滝川三郎兵衛を名乗った。一益との関係は、娘婿に迎えられたとも、養子とされた可能性も指摘されている。一益没落の後も、豊臣政権下で重用され、従五位下下総守に叙任、羽柴氏を賜姓された。江戸幕府に仕えた晩年まで、羽柴下総守と称し、滝川に復姓したのは子息正利の代である。永禄一二(一五六九)年、織田信長の北畠家攻略戦の際、信長の家臣滝川一益の調略を受け、柘植保重とともに当主の木造具政を織田方に寝返らせ、織田軍の侵攻を手引きして、その勝利に貢献した。この時、一益は源浄院の才能を見出して家中に引き取り、還俗させて滝川姓を与え、自身の甥として織田信長に仕えさせた。初め。通称を兵部少輔、諱は自署によれば友足(ともたり)で、後、別名として伝わる一盛(かずもり)・雅利(まさとし)に改めたと思われる。信長の命により、北畠家に養子入りした北畠具豊(後、信意(のぶおき)、さらに織田信雄に改名)の家老となり、通称を三郎兵衛に改めた。天正四(一五七六)年、他将とともに軍勢を率い、北畠具教の居城三瀬御所を密かに包囲して具教を討ち果たした(「三瀬の変」)。「勢州軍記」によれば、雄利は策をもって具教の近習を寝返らせ、太刀を抜けないように細工しておいたという。天正六(一五七八)年、信意の命によって伊賀国に侵攻し、丸山城を修復するが、伊賀の国侍衆(くにざむらいしゅう)の反撃に遭い、伊勢国へ敗走した(「第一次天正伊賀の乱」)。「伊乱記」によると、この時、比自岐(ひじき)附近で合戦になり、雄利の軍勢は谷底へ追い詰められたが、雄利は地形をよく把握していたので、自ら鑓をとって反撃に転じ、伊賀衆に攻めあぐねさせ、遂に夜間のうちに抜け出し、無事に松ヶ島城に帰還した。雄利の兵も、戦意をなくしたように見せかけて逃亡したので、これを見た伊賀衆らは「雄利を討ち取った」と喜んだ、という。天正九(一五八一)年)の「第二次天正伊賀の乱」の際には、主力とともに近江側から侵攻する信意に代わり、伊勢衆の大将として加太口からの侵攻を受け持った。雄利は伊賀衆を調略して結束力を弱めて勝利に貢献し、伊賀国中三郡を得た信意によって伊賀国守護に任命されている。雄利は大寺院・丸山城・滝川氏城を改修、平楽寺の跡に後の伊賀上野城となる砦を築き、伊賀国を支配した。翌天正十年、「本能寺の変」の後、伊勢で蜂起した北畠具親が伊賀に落ちのびて伊賀国一揆の再起をはかった際には、「大剛之者也」と評される活躍ぶりで、これを鎮圧した。同年、主君・信意が「信勝」に改名したのに伴い、その偏諱を与えられて勝雅(かつまさ)と改名、さらに信勝が「信雄」に改名すると、重ねて偏諱の授与を受け、雄利(かつとし)と改名した。天正十二年、信雄が羽柴秀吉に通じたとして津川義冬ら三家老を殺し、「小牧・長久手の戦い」を起こすと、雄利も秀吉の誘いを受けたが、拒絶した。雄利は信雄によって津川の居城であった松ヶ島城に日置大膳亮とともに入れられ、徳川家康の送った服部正成の援軍を得て、羽柴秀長の包囲に対し、四十日に亙って籠城したが、奮戦及ばず、開城して尾張に退いた後も、北伊勢の浜田城に入って、再び籠城している。信雄が和睦を決意すると、義父(岳父)の一益を通じて秀吉に接近し、単独講和を実現させ、秀吉側の講和の使者として家康の元へ派遣されている。豊臣秀吉の下では羽柴姓を賜り、信雄重臣として北伊勢の運営を任された。天正十三年の「織田信雄分限帳」では3万八千三百七十貫という信雄家中では異例の高禄を与えられている。翌天正十四年には、秀吉の意を受けて、家康の元に派遣され、家康と秀吉の妹朝日姫との婚儀を成立させて、輿入れに同行した。その後は九州平定に参加し、戦後に石田三成・長束正家・小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行として命じられている。天正一八(一五九〇)年の「小田原征伐」にも従軍し、陣中に北条氏直の訪問を受けて、その降伏を仲介している。同年七月十三日、伊勢神戸城二万石を領し、織田信雄改易の後も、そのまま領国を安堵され、秀吉直臣となり、秀吉の御伽衆に加えられた。「文禄の役」では肥前名護屋城に参陣し、文禄三(一五九四)年には伏見城普請に加わって七千石、翌文禄四年には、さらに伊勢員弁(いなべ)郡五千石を加増された。同年の「秀次事件」にも連座したが、叱責されただけで、特に処罰は受けずに済んでいる。慶長三(一五九八)年の秀吉の死に際して遺物金十五両を拝領した。慶長五年の「関ヶ原の戦い」では西軍に与し、軍勢四百名で関ヶ原・伊勢口の防備にあたった後、居城神戸城に籠城した。このため、戦後に改易された。後に徳川家康に召し出され、常陸国片野二万石の所領を与えられ、再び出家し、刑部卿法印一路と号し、徳川秀忠の御伽衆となった。慶長十五年に死去し、片野藩二万石は子の滝川正利が継いだが、病弱で嗣子がなく、寛永二(一六二五)年に所領を幕府に返上し、片野藩は二代で終わった。一方、滝川家の名跡は正利の娘婿滝川利貞が継承し、子孫は四千石の旗本として幕末まで続いた。また、幕末の大目付滝川具挙(ともたか)は、その分家千二百石の当主であり、その次男海軍少将滝川具和を通じて子孫は明治以降も存続している(以上は当該ウィキに拠った)。さても、以上の史実から、本話の三人の登場人物は、

菅屋長頼は信忠に殉じて天正一〇(一五八二)年に自死

柘植保重は「第一次天正伊賀の乱」の伊賀撤退の際に天正七(一五七九)年に討死

滝川雄利は江戸時代初期まで生き延びて慶長一五(一六一〇)年)に数え六十八歳で遷化

しており、事実と「瀧河」に関しては全く齟齬することが判明する。

「勸賞(けんじやう)」「かんじょう」「けじょう」とも読む。主君が、功労を賞して、官位や物品・土地などを授けること。

「山田郡(《やまだ》のこほり)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『三重県阿山郡大山田村および上野市の一部』とあるが、現在は統合により、伊賀市となっている。この附近であろう。

「小袖」大袖或いは広袖の着物に対して、袖口が縫い詰まった着物のこと。初めは筒袖で、平服として、また大袖の下着として用いられたが、鎌倉・室町頃から表着とされ、袂の膨らみのついた現在の着物のような形となり、衣服の中心となった。縫箔(ぬいはく)・摺箔(すりはく)・絞染・友禅染など、あらゆる染織技術が応用され、桃山・江戸時代を通じて最もはなやかな衣服であった。ここではエンディングでの重要なアイテムとなる。

「諸葛長民」(しょかつ ちょうみん ?~四一三年)は東晋末期の武将・政治家。本貫は琅邪郡陽都県。文武に才能があったが、行いが悪く、郷里での評判は挙がらなかった。桓玄によって参平西軍事に取り立てられたが、貪欲で、民衆から厳しい搾取を行ったことにから、免官された。桓玄が安帝を廃して皇帝に即位すると、豫州刺史刁逵(りょうき)の左軍府参軍・揚武将軍となるが、劉裕(後の南朝宋の武帝)らの桓玄打倒の計画に参加し、歴陽で劉裕らと呼応する約束をした。劉裕が挙兵すると、諸葛長民は期日に間に合わず、刁逵に捕らえられたが、護送される途中で救い出され、輔国将軍・宣城郡内史に任じられた。劉敬宣とともに桓歆(かんきん)を討ち破り、新淦(しんかん)県公に封じられた。南燕の慕容超が下邳(かひ)を攻めると、武将の徐琰(じょえん)を派遣し、これを撃退し、使持節・都督青揚二州諸軍事・青州刺史・晋陵郡太守に昇進した。四一〇年、盧循が反乱を起こして首都建康に迫ると、諸葛長民は都を守るため、軍を率いて建康に入り、劉裕の命令で劉毅(?~ 四一二年:東晋の武将。沛国沛県の生まれ。四〇三年の桓玄の帝位簒奪に際して、翌年に劉裕や何無忌らと共に反桓玄の兵を挙げこれを打倒し、また、その後の盧循の乱の平定に貢献、衛将軍・荊州刺史に就任した。しかし以下に見る通り、劉裕への不満を抱いていたことを逆に察知され、攻められて敗死した)と北陵を守備して石頭城を援護し、反乱軍を撃退した。盧循が平定されると、都督豫州揚州之六郡諸軍事・豫州刺史・淮南郡太守に転任した。四一二年、劉裕は劉毅を討ちに江陵に向かう際、諸葛長民を監太尉留府事に任じて首都の留守を任せた。これより以前、諸葛長民は調子に乗って驕慢になり、政務に励まず、財貨や女性を集め大邸宅を築くなど、乱脈な行いで民衆を苦しめていた。劉裕はこれを大目に見ていたが、諸葛長民は自分の不行跡が法に触れていることに、常々、恐れを抱いていた上、劉毅が誅殺されたことで、次は自分も粛清されるのではないかと疑心暗鬼に陥り、劉裕に対して謀反を考えるようになった。弟の諸葛黎民(れいみん)は、劉裕が都に戻る前に決行を勧めたが、諸葛長民は実行をためらった。劉裕は諸葛長民の動きを察知すると、予め、都に戻る期日を伝えながら、期日通りには戻らず、諸葛長民ら公卿以下を待ちぼうけさせる一方で、密かに軽舟に乗って東府城に戻った。劉裕の帰還を知った諸葛長民が驚いて出向いてみると、劉裕は人払いをして諸葛長民を普段以上に歓待した。諸葛長民が喜んで安心したところ、帳に隠れていた壮士の丁旿(ていご)が、背後からこれを殺害した。諸葛長民の弟の諸葛黎民・諸葛幼民も誅殺された(以上は当該ウィキに拠った)。

「貧賤なれば、富貴(ふうき)を願ふ……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『世に諸葛長民の言として膾炙。事文別集二十九(富貴・群書要語・諸葛長民云)などにも同文』で載るとある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のここ(二行目から三行目)に冒頭部に類似した、

   *

貧賤常富貴富貴必履(フ)ム危機諸葛長民云

   *

がある。但し、調べた限りでは、漢籍にこの全文と全く同じ文字列はないようである。

「織田掃部(おだかもん)」織田忠寛(?~天正四(一五七七)年)は織田信長に仕えた武将。織田一族である織田藤左衛門家の一人。津田一安又は官途名の掃部助から織田掃部と称された(他に丹波守とも)。法号は一安。尾張国日置城主。信長に仕え、永禄年間は織田氏の対武田氏外交を担い、永禄一二(一五六九)年五月には甲府に派遣されている。「甲陽軍鑑」によれば、永禄八年九月九日に武田信玄の許へ派遣され、信長の養女(龍勝院)と信玄の嗣子勝頼との婚姻を纏めたとされるが、文書上からは確認されない。また、後には、信長の庶子坊丸(勝長、信房)をおつやの方の養子とする縁組を纏めたともいわれている。「甲陽軍鑑」によれば、忠寛は信長に勘当され、十一年間、甲府に滞在していた経歴があったという。永禄一一(一五六八)年二月の北伊勢侵攻後、忠寛は北畠家への押さえとして安濃津城に入れおかれた。翌年の「大河内城の戦い」に参加し、北畠具教・具房が信長の次男茶筅丸(信雄)に家督を譲って退去すると、滝川一益とともに大河内城を接収、茶筅丸の入城に際してはこれに伴っている。天正三(一五七五)年の「長篠の戦い」や「越前一向一揆討伐」にも参加している。しかし、この武田家との繋がりが遠因となったのか、後に信長の不興を買い、誅殺されたという。或いは、追放を受け、信長の死後に出家し、羽柴秀吉に仕えるも、信長の遺児信雄に誅された説もある。また、「勢州軍記」には、天正四(一五七六)年十一月二十五日、北畠具教ら北畠一族が信雄に暗殺された際(「三瀬の変」)に、その親族を養い扶助すると言った(忠寛は北畠家と縁戚関係を結んでいた)ことを柘植保重・滝川雄利に讒言されたために、二十日後の同年十二月十五日、田丸城の普請場にて、日置大膳亮により討たれたと記述されている(当該ウィキに拠った)。この最後の記載が事実とすれば、ここでの「瀧河」の謂いは、「ぬけぬけぬけぬけよくまあ言ってくれるじゃないの!」ということになる。

「日置(へき)大膳」(へきだいぜん 生没年未詳)は北畠具教の家臣で松ヶ島細首城主。サイト「戦国武将列伝Ω 武将辞典」の彼の記載によれば、寺社奉行を務めていたようで、兄高松左兵衛督は大河内城旗頭であった。永禄一二(一五六九)年に織田信長が伊勢を攻めた際、彼は居城である細頸城(松ヶ島細首城)を焼き払って、大河内城で籠城した北畠具教に合流し、家城之清(家城主水)、長野左京亮らと織田勢に対した。籠城戦では池田信輝らの織田勢と戦い、彼は池田恒興・丹羽長秀・稲葉良通らの夜襲を撃退するなど、劣勢な北畠家の中でも奮戦したようである。北畠具教が織田勢に屈したあとは、織田信雄の家臣となって活躍した。元亀三(一五七二)年、北畠家が誅殺された際、田丸城にて、土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らと、北畠一族の長野具藤・北畠親成・坂内具義・坂内千松丸・波瀬具祐・岩内光安などの惨殺に関与した。その後、北畠一族を庇おうとしたことが露見した津田一安の斬首では、織田信長の命を受けた日置大膳亮が首を刎ねたとされる。生き残りの北畠具親が、家城之清(いえしろゆききよ)などの旧臣らと再起を図った際にも、日置大膳亮と日置次太夫の兄弟らは、鳥屋尾(とやお)右近将監の富永城を攻略するなどし、反乱軍を二回も破っている。天正七(一五七九)年の「第一次天正伊賀の乱」では織田信雄の軍勢に柘植保重らとともに加わり、伊賀に侵攻したが、松ヶ島城が陥落し、その後、尾張に落ちると、弓の達人でもあった彼は徳川家康から頼まれて、徳川家に仕えたようであるが、まもなく亡くなったようである、とある。

「佐久間右衞門」佐久間信盛(大永七(一五二七)年~天正九(一五八一)年)は織田家家臣。佐久間信晴の子として尾張に生まれる。初め、牛助、次いで出羽介、右衛門尉を称した。織田信秀に仕え、信長が家督相続をする際には、これを支持し、以後、信長の信任を得たとされる。永禄一一(一五六八)年の信長の上洛に従い、京都の治安維持に努め、次いで近江永原城を預けられ、柴田勝家とともに、近江から六角義賢(よしかた)の勢力を掃討するに力があった。元亀三(一五七二)年十二月の「遠江三方ケ原の戦い」に、徳川家康の援軍として浜松城に送られたが、この時は完敗を喫している。「長篠の戦い」、伊勢長島一向一揆との戦い、越前一向一揆との戦いなど、信長の戦闘の殆んどに参陣しているが、中でも、天正四(一五七六)年から本格化した「石山本願寺包囲戦」では、その中心的な位置にあった。ところが、石山本願寺が降服してきた直後の同八年八月、「無為に五ヶ年間を費した」と信長から問責され、子正勝ともども、高野山に追放されてしまう。明智光秀の讒言によるとも、実際、茶の湯に耽溺して軍務を怠ったからとも言われているが、真相は不明で。信長の所謂、「捨て殺し」政策の犠牲になったとされる。剃髪して宗盛と号したが、紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死した。なお、子正勝は、後に許されて、織田信長に仕え、不干斎と号して豊臣秀吉の御咄衆となり、茶人としても名を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「下間(しもづま)筑後守」下間頼照(しもつまらいしょう 永正一三(一五一六)年~天正三(一五七五)年)は下間頼清の子。官位が筑後守であったことから、通称を筑後法橋(ほっきょう)という。下間氏は親鸞の時代から本願寺に仕えた一族で、頼照はやや傍流にあたるが、顕如によって一向一揆の総大将として越前国に派遣され、「朝倉始末記」の記述や、その発給文書から、実質的な越前の守護或いは守護代であったと認識されている。名は頼照のほかに頼昭・述頼(じゅつらい)がある。頼照の前半生については詳らかではなく、記録が残るのは天正元(一五七三)年頃からで、同年、朝倉義景が織田信長によって滅ぼされ、越前国が織田勢力下に置かれたが、翌年一月、越前で守護代桂田長俊(かつらだながとし)に反発する民衆を誘って富田長繁が指導者として土一揆を起こし、長俊を滅ぼした。だが、長繁と一揆衆はまもなく敵対し出し、一揆衆は長繁に代わって、加賀国から一向宗の七里頼周(しちり よりちか:武将で本願寺の坊官)を呼んで自らの指導者とし、長繁を滅ぼした。こうして、越前を平定した後、頼照は顕如によって一向一揆の新たな総大将として派遣され、豊原寺を本陣として越前を平定し、実質的な本願寺領とした。しかし、一揆の主力である地元の勢力は、大坂から派遣された頼照や七里頼周らによって家臣のように扱われることに不満をもち、反乱を企てた。天正二(一五七四)年閏十一月、頼照はじめ、本願寺側勢力はこれを弾圧した。天正三年夏には織田の勢力が越前に進攻、頼照は観音丸城に立て籠り、木芽峠で信長を迎え撃つ準備をする。八月十五日、信長は一万五千の軍をもって越前総攻撃に着手すると、地元の一揆勢の十分な協力を得られなかったこともあり、織田方の猛攻に拠点の城は落城し、頼照は海路で逃れようとしたが、真宗高田派の門徒に発見され、首を討たれた(当該ウィキに拠った)。

「方人(かたうど)」味方。誤り。上記の史実から、浅井は何か勘違いをしている。

「平泉寺に隱れて跡をくらまし」そういう説があるのか。「平泉寺」は福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある現在の平泉寺白山(へいせんじはくさん)神社(グーグル・マップ・データ)。廃仏毀釈までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院であった。珍しく私が行ったことがある場所である。ウィキの「平泉寺白山神社」によれば、『江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受けたが、規模は』六坊に二ヶ寺で寺領は三百三十石であった。但し、寛保三(一七四三)年、紛争が『絶えなかった越前馬場』の平泉寺と加賀馬場の白山比咩(しらやまひめ)神社との『利権争いが』、漸く『江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(長滝白山神社)が管理すると決められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した』。『明治時代に入ると』、『神仏分離令により』、『寺号を捨て』、『神社として生きていくこととなり』、『寺院関係の建物は』総て廃棄された。明治五(一八七二)年十一月には『江戸時代の決定とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道』(ぜんじょうどう:山岳信仰に於いて、禅定(=山頂)に登ぼるまでの山道を指す。禅定道の起点は修行の起点でもあり、起点またはその場所を「馬場(ばんば)」と呼ぶ)は『白山比咩神社の所有となっ』てしまっている。

「醒悟發明(せいごはつめい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『すべてをはっきりと悟ること』とある。

「道人《だうにん》」同前で、「日葡辞書」から、『仏法語。禅宗の観念・瞑想において完全の域に達した人』とある。

「梓弓(あつさゆみ)ひくとはなしにのがれずは今宵の月をいかでまちみむ」「梓弓」(あづさゆみ)は「引く」の枕詞。原拠ないか。

「荒木攝津守」私の大嫌いな戦国武将荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)。

「小寺官兵衞」ご存知、黒田官兵衛孝高(天文一五(一五四六)年~慶長九(一六〇四)年)。播磨出身。初姓は小寺(こでら)。法号は如水。織田信長に仕え、信長死後、羽柴秀吉の統一事業の参謀として活躍。秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」では徳川方についた。キリシタン大名で受洗名は「ドン・シメオン」。

「四十年來謀戰功……」の漢詩は、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠とした「剪燈新話」巻之一の「華亭逢故人記」の「詩を題して云はく、『鐡衣 着け盡して 僧衣を着く』……」に『基づき、特に』同書の『句解注「四十年前馬上ニ飛ブ功名、蔵尽キテ僧衣ヲ擁ス…天津橋上人識ル無シ」の辞句や心情を翻案したもの』とある。私は原拠考証をしないことにしているが、同句解の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該部の画像をリンクさせておく。右頁である。

「良弓を折(くじ)く」「新日本古典文学大系」版脚注に、『立派な弓も折り捨てた』とある。

「緇衣(しえ)」僧侶の着る墨染めのころも。転じて「僧侶」の意でもある。

「編衫(へんさん)」「偏衫」「褊衫」の誤字。僧衣の一種。両袖を備えた上半身を覆う法衣。下半身に裙子 (くんす:黒色で襞の多い下半身用の僧衣) をつける。転じて広義の「僧衣」の意でもある。

「妙經(めうきやう)」ありがたい経典。特に「法華経」を指す。

「梵風(ぼんふう)を詢(した)ふ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『仏の教えを求めること』とある。「詢」音「ジュン・シュン」で、訓は「とう・はかる・まことに」の意がある。

「此の輩《ともがら》は、我等のため、耻かしからずや。いで、其の伊賀の一揆ばら、謀(はかりこと)は、つたなかりし者を。」「きゃつらは、あの折りの貴殿や私の正統にして戰さの道理に基づいた奮戦を見て、さて、恥ずかしくはないのだろうか? さても! あの、伊賀の一揆どもの謀略は、全く以って拙(つた)ないものだったに!」。

「露霜ときえての後はそれかともくさ葉より外(ほか)しる人もなし」原拠はないか。

「うづもれぬ名は有明の月影に身はくちながらとふ人もなし」同前。「有明」(ありあけ)の「有り」に「在り」が掛詞。

「氣象」「氣性」に同じ。

「半町」五十四・五四メートル。

ばかり行くかと見えしが、召しつれたる中間ばらもろ友に、跡なく消《きえ》うせたり。

 菅谷、大に驚き、伊賀にて打死せし事を、やうやう、思ひ出したり。

 日は、山の端に傾(かたふ)き、鳥は、梢(こづへ)にやどりを爭ふ。

 人を遣はして、酒うる家に、質物とせし小袖を取寄せて見れば、手にとるや、ひとしく、

「ほろほろ」底本は「ぼろぼろ」だが、元禄版・「新日本古典文学大系」版に従った。]

ブログ1,570,000アクセス突破記念 梅崎春生 朽木

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十二月発行の『文学 季刊』第五号に初出、翌年八月刊の講談社「飢ゑの季節」に所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。文中に注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本未明、1,570,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021730日 藪野直史】]

 

   朽  木

 

 ……ときどき誰かが私にはなしかける。それはあつい膜を隔てたように、意味も内容もわかちない。遠くはるかな国から流れてくる声のようだ。しかしその度に私はうなずいたり、唇のはしであいづちをうったりしながら、そしてまたとろとろと眠りに入ってしまう。何か堅くつめたいものが、始終私の脇腹を押している。掌を額にあて、それによりかかって私は眠っているらしい。身じろぐたびにどこかで堅く重いものが軋(きし)るらしく、ぐるぐる同心円を描きながら次第に私はうすらあかりに浮びあがって来る。深い霧のなかからぼんやり物の形が現われるような風で、昏迷におちていた私の意識も、すこしずつ黒白をはっきりし始めてくるらしかった。

 抵抗を感じながらけだるく開いた瞼のあいだで、外象がそれぞれぼんやりと形をとりはじめた。掌にあてていた顔の半分がねばっこく濡れていて、そして気がつくと私は妙な車のようなものに身体を曲げるようにして腰かけていた。

 トロッコから三方の外蓋をとり外したような形で、くろずんだいろのその手車は、鉄の把手(とって)のついた外蓋を一方だけ残していた。脇腹をつめたく押していたのはこれである。身体を動かすたびに軋るのは、腰かけた台をささえる古びた車輪であるらしい。眼の前から混凝土(コンクリート)の床がぬめぬめとひろがり、電燈のひかりの及ぶもっともっとむこうまで、細長く帯のように連なっているらしい。彼方はふかい闇である。闇をながい天蓋がささえている。その下に梱包(こんぽう)がところどころ積んであるのを見れぱ、これは駅の歩廊にまぎれもなかった。

(そうだ)と、とつぜん私は頭のすみで憶い出した。(あれから電車に乗って、そのまま眠りこんだらしい。起されたのが此の終点で、おれはあの長い歩廊を、ぶったおれそうになるのを耐えながら、此処まで歩いて来たのだ)

 口の中に酒精のにおいがのこっていて、からだの内側は熱っぽく乾いていた。先刻こちらにあるいてきながら、もう戻りの電車は出ないのかと訊ねたら、帚(ほうき)をもって歩廊にいた若い駅員がじろりと私を見返して、終電はとっくに出たよ、と無愛想に答えたのだった。私を乗せて来た空の電車は、車庫に入るらしく、人気の絶えた車内にあかあかと燈をともして、そのとき私のそばをゆるゆると逆行していた。吊皮だけが同じように揺れているのが、へんに印象的だった。そして私はぼんやり眼をひらいて遠くをながめていたのだ。改札のちかく荷受台のところが鍵の手になっていて、そしてそこに五六人のうずくまったちいさな人影を、私の視線は茫漠ととらえていた。ここで一夜をあかすとすれば、やはり風とひかりを避けたあのような片すみが適当なのだと、酔いでみだれた頭で私はしきりに合点した。それからがたぴしよろめきながら、私はここまであるいて来たのだ。ずいぶん長い時間がかかったような気がする。そして逆行する電車のおとも、何時までも何時までもつづいていたような気がする。それから此の手車にこしをおろして、隣にいる男となにか話しあったような記憶がある。男の話をききながら、うとうとと私はねむりこんだのだろう。「眼が覚めたかい」そのとき隣から声がした。「煙草もってたら一本お呉れよ」

 軽く舌のさきで流すような口調である。この声と眠る前まで私ははなしこんでいたのだった。そうだ。それは船や波止場や熱い風のことを話していたのだ。だんだんはっきりしてくる。ポケットを探りながら私はからだをその男の方にむきかえた。車輪がギイと鳴った。

「何時ごろだろうな」

「さあ」男は軽くあくびをした。「もうそろそろ夜明けだろう」

 押しつぶれて板のようになった箱をひらくと、平たくなった莨(たばこ)の棒が四五ほん、麻雀の籌馬(チューマ)みたいにならんでいた。マッチをすって火をつけ、しばらくだまって煙を吸った。ざらざらになった舌に、煙はへんないやな味がした。男は胸のひらいた派手ないろの襯衣(シャツ)をきている。鼻のしゃくれた浅黒い顔をしている。しだいに記億がもどってくる。――[やぶちゃん注:「籌馬(チューマ)」読み方は「チョーマ」が一般的のようだ。麻雀で用いる点棒のこと。]

 鍵の手になった白い壁にそって、四五人がよりかかってうずくまっている。そろって膝な抱き、頭をふかく埋めている。荷受台の下にもひとり横になっている。ほとんどが襤褸(ぼろ)のかたまりだ。裾から見える両脚は、まるで牛蒡(ごぼう)のようだ。煙をふかぶかと吸いこみながら、私は暫くそれをながめていた。酔いがまだからだをみたしている。部分部分の感覚は正気にちかづいているのに、ぜんたいとしてはまだぶよぶよと呆けているのだ。前の夜からの記憶がさだかでないのが不安なので、頭や皮膚にのこる後感を心の中で手さぐりしていると、なにか幽(かす)かにつきあたるものがあった。それはそして記憶の形をなさないままながれてしまう。[やぶちゃん注:「後感」「こうかん」と読んでいるか。ある体験の後の感覚という意味であることは分かるが、私は使ったことがないし、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。]

「で、それからどうしたね」

 なんだかそれではっきりしたようなつもりになって、私は男に話しかけた。そして短くなった莨をしきりに吸いこんだ。煙の影が白い壁にうすくみだれる。男は莨のすいさしを指で器用にはじきとばした。混凝土の床で赤い火は吸いこまれるように消えてしまう。

「それで出撃というわけさ」

 男は満足したような落ちついた声で答えた。

「擬装だというのでね、馬鹿な話さ、マストから甲板から木の枝をうえてよ。島にみせかけようというんだ。だいいち島が動くかい。波止場をはなれて一時間たらずさ。まだ港が見えていたんだ。そこに空から飛んできたというわけなんだ」

「何という船だったっけ」

「そら、海二十九さ」

 そうだ。この男は第二十九号海防艦の乗組兵だったのだ。そう私は思いだした。思いだしたつもりになっただけで、他への聯想(れんそう)はなにもうかんでこない。[やぶちゃん注:「第二十九号海防艦」「海防艦」は日本海軍の沿岸防御用の軍艦のこと。小型で喫水の浅い小戦艦や、大型砲艦のようなものもある。「第二十九号」のそれは、昭和一九(一九四四)年八月八日竣工(日本鋼管製)で、昭和二十年五月二十八日、触雷して航行不能となり、戦後の昭和二十二年、佐世保で解体された(ウィキの「丙型海防艦」に拠る)。以下の展開は、しかし、事実に基づいていない。]

「おれは高射機銃の第一射手だろう。かまえて見ていたんだ。ゆっくり旋回する。丁度(ちょうど)真上をゆきすぎる。一回目はおとさないんだ。いつもあいつはそうなんだ。二回目がこわいのだ。おれはそれを知っていたんだ。ぐるっと向うの方まで行って方向を変えようとする。おれはそのとき身体がつめたくなるような気がして、顔をあげてあたりを見廻したんだ。甲板を右往左往して叫んでいる。手すりのむこうは海だわな。おっそろしく青い海だ。どこまでもどこまでも拡がっている。みんなは気ちがいのような眼になって、飛行機をながめているんだ。大きく旋回して機首をこちらに向けた。それから――おれはどうしたと思う」

 舌をまるめるようにして軽やかにわらった。

「おれはぱっと走りだしたさ。手すりをこえるとき、甲板士官がなにか大声でさけんだっけ。何とさげんだかわからない。まるでしめころされる女みたいな声だった。何かに二三度ぶつかりながらおれは落ちて行った。海面でぴしゃっと身体をたたかれて、それから水飴みたいにねばっこい水の中を、おれはむちゃくちゃにもがいたさ。スクリュウに巻きこまれては大変だからな。口から鼻から塩水がはいる。苦しくてしかたがないのに、いくらあばれても海面に浮びあがらないのだ。どのくらいもぐっていたのか知らないが、ほっとあたりが明るくなって、ぽっかりおれは浮きあがったという訳なんだ。おれは無茶苦茶に空気をすいこんだよ。見るとおどろいたねえ、二百米位先で、海二十九がそのとき爆発したところなんだ。只一発で命中したんだ。あれじゃあ乗組員も逃げる間もありやしない。皆こなごなだろう。またたく間に焰のかたまりが沈んでしまって、旋回していた飛行機も行っちまって、それからへんにしんとしちゃってねえ。日がぎらぎら照っているし、海は鏡みたいに静かだし、おれは背中を下にしてぼんやり浮いていたんだが、顔のところが変な感じなんで、ふと手をやってみたら、真紅な血だ。びっくりしてねえ、それが何でもありやしない。ただの鼻血だったんだ」

 男は鼻をちょっとすすって、また軽やかなわらい声をたてた。

「それ以来、鼻血がでる癖がついて仕様がねえや」

「それじゃお前」視線を壁の方にうつしながら私はこたえた。「敵前逃亡としうわけじゃないか」

「そんなことになるかな」と男はまた短くわらった。

「あとで大発にひろわれたとき、ごまかすのにほんとに骨折ったよ。皆死んじゃっているのに、海に浮んでたのはおれだけだからな。しかもかすり傷ひとつ負ってねえ。爆風で吹きとばされたとかなんとかねえ」[やぶちゃん注:「大発」大発動艇(だいはつどうてい)の通称。一九二〇年代中期から一九三〇年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の上陸用舟艇。は大発(だいはつ)。また、陸軍と同型の大発を相当数運用した海軍においては、十四米特型運貨船の名称が使用されていた(ウィキの「大発動艇」に拠った)。]

 壁によりかかって眠っている四五人のひとりは女であった。九月だというのに、まだ白い浴衣(ゆかた)を着ている。顔をうずめているから顔は判らないが、豊かな体つきであった。頭をうずめてかるく割った膝の、もっとおくは白瓜のような腿のいろで、私が眺めているのはそれであった。その女によりかかるようにして寝ているのは、十四五になるらしい少年である。これは顔を埋めていない。手足の割に大きな顔を、女の肩と壁に半々にもたせて、白眼をわずか開いて眠っているらしいのが、なにか脅えたように突然からだを動かして、くるしそうな声で何か叫んだ。その声に自分でびっくりしたらしく、ごそごそと起きなおった。

「あにき。あにき」

 今度ははっきりとそう言った。そう言いながら手を前に伸ばして、空間を手さぐるような形をした。

「ふん。ねぼけてら」

 隣の男がひくい声で呟いた。そして少年は意識をとりもどしたらしい。ぼんやり開いた瞳にしだいに暗くずるそうな光がもどってきて、しきりに背中を壁にこすりつけた。そのたびに女の体が邪険にゆれて、女は少年の方からしりぞくように肩をずらし、ゆっくり頭をもたげた。

「なぜそんなに動くのよ。なぜあたしを起したりするのよ」

「ナマ言ってらあ」[やぶちゃん注:「ナマ」「生意気」の略。]

 少年はいやしく口をゆがめて、はぎすてるように言った。それは何か憎しみをおびていて、そのくせ少年の視線は弱々しく女から外れた。女の眼はそれを追って不安定にうごくらしかった。ちょっと見るとととのった感じの顔だが、視線に光がなくて、口辺にうかんでいるのは痴呆めいたうすわらいであった。

「こいつ、馬鹿なんだよ。兄貴」

 少年は私達の方にむかってそんなことを言った。ずるそうな口調であった。隣の男がふと興味を感じたように女に話しかけた。

「ここに長いこといるのかい」

 女はびっくりした顔になったが、すぐもとの放心した表情になって、抑揚のない低い声でこたえた。

「――そんなに長くはないわ。ずっと弱ってたからね。そら、お母さんが死んじゃったでしょう。着物だってこれっぎり、あとは屋根うらにかくしといたんだけれど、お祭りの晩におまわりさんが来てね。ねえ、あんたおまわりさん?」

「おれはおまわりじゃないよ」

「そう」女は急に安堵したような表情になった。「それで安心したわ。高い塀(へい)が立っててね、向日葵(ひまわり)なんかが咲いているのよ。窓から首を出して歌なんかをうたってるの。おなかがとってもすいたのよ。泣きながら線路づたいに走ったわ。八王子に兄さんがいるからね。食べるものが芋(いも)でしょう。芋だって高いのよ。だから呉れというの。そうするといくらでも持ってけとくるでしょう。そして頰ぺたなんかくっつけて来るの。あんた食べるものなにか持ってない?」

「ちょっとおかしいな」男は誰にともなくそう言った。

「おれは梨をもっているんだが、こいつは商売ものだよ」

「売りに行くのかね」と暫くして私が聞いた。

「そうだよ」男は手を伸ばして、足もとにおいたこぶこぶにふくらんだ袋を撫でるようにした。「ゆうべは一足ちがいで終電車をにがした」

「梨ひとつ呉れない?」女が突然口をはさんできた。「あたしとてもひもじいのよ」

 男はそれに返事をしなかった。なにか考えこんでいる風(ふう)だった。

 やがて沈んだような声になってぽつんと私に問いかけてきた。

「昨夜は酔っぱらっての乗越しかい」

「まあそんなものだ」

「どこで飲んだんだね」

 昨夜のことを考えるのは苦痛なので、私は黙って女の方に視線をうつした。それを感じたらしく女は指で膝前をかき合せるようにした。私はそのとき兇暴な眼付をしていたのかも知れなかった。女は肩をすくめるようにして身ぶるいをしたらしい。その側で少年はふたたびうとうとと眠りかかっていた。隣で男が軽くあくびをした。

「さあ、一眠りすれば夜明けだい」

 女の白い脚のいろが残像のようにのこっていて、ふしぎな嫉妬がしだいに私の胸をいっぱいにしはじめていたのである。

(ふじ子もあんな白い肌を写真にとられたにちがいないのだ!)

 男は身体をかがめて袋の紐(ひも)をしっかりむすびなおしながら、斜にちらと私の顔を見上げた。陰翳(いんえい)をふくんだ妙な笑いが頰をかすめるようにはしった。

「眠ってるうちにかっぱらわれると大変だからな。こいつらはほんとにやくざな奴たちだからな」

「ひとつ分けてやれよ」と私はそっけなく言った。

「いやだよ」男は結びあげた袋を脚ではさみ、おおいかぶさるように眠る姿勢になった。

「やったって何にもなりゃしねえ。そんなことをおれはしねえたちなんだ」

 女は梨のことなどすっかり忘れはてた顔になって、ぼんやり遠くの方をながめているらしかった。よごれた白い壁が女の背にあった。乏しい光のなかで、それはさまざまのしみを浮ぺていた。何故白い壁には、人間がかんがえつかないような形のしみや模様が、いつのまにかできてしまうのだろう。ふじ子の部屋の階段から登り口のところにも、白いよごれた壁があった。それに赤いしみと青いしみがついていた。赤いインクと青いインクのしみであった。それがふしぎに、赤いのは女の立った形に、青いのは男の立った形に酷似していた。それらはむき合って立っていた。どうしてこんな形にインクをこぼしてしまったのだろう。ふじ子の部屋に泊るたびに、私は枕に顎(あご)をのせて、此の壁の像に見入っていた。昨夜もそうだった。私は赤い女のレインコオトや、青い男の鳥打帽までも、はっきりその輪郭から感じとっていた。それはふたつとも、言いようもなく感傷的なポオズだった。私がそれに見入っている心の感じから言えば、私はあるかすかな嫌悪をおさえつけているようであった。その輪郭はうすれて、むしろ色褪せた感じであった。ふじ子が誤ってふりかけたインクの筈ではなかった。幾代も幾代も前のこの部屋の住人がこぼした跡にちがいなかった。色はぼんやり古びていて、リトマス試験紙のいろを聯想させた。その色あいに私が嫌悪をそそられているのかも知れなかった。その壁つづきにふじ子のまずしい家財があった。ふるぼけてがたがたになった食器棚や、壁にかけたくすんだ色の着物。ふじ子はまだ若いのに、何故こんな地味なものを着るのか。派手な着物は売りつくして、死んだ母親のものを着ているのに相違なかった。着物ひとつ買ってやれないという程度でなく、着物を売食いしているのをすら、手を束ねて私は眺めている他はなかったのだ。私は収入の乏しい小役人だったし、ふじ子はある個人商会の女給仕だった。二十四にもなって女給仕だなんて。ときに私がいぎどおろしく、また惨めな気持にそそられてこんなことを口走ると、ふじ子は真面目なかおになってそれをさえぎった。

「だってあたし、小学校も卒業していないのよ。みんなみんな良い人なのよ」

 ふじ子の肌はしろくて熱かった。私が泊ると翌朝は必ず、階下の家主から厭味を言われるということであった。それをふじ子は辛がった。

「でも一緒になったら、あたしたちもっと不幸になるわね。今のままが一番いいのよ」

 だから時期が来るまで待てぱいいという私の言葉を、ふじ子はうたがわず信じていた。ふじ子は私を信じているだけではなかった。世の中にあるものをすぺて信じていた。また将来にきっと暮し良い時代が来て、そこで人々の善意にかこまれて生きている自分を空想していた。その空想はふじ子にとっては言わば確信であるようだった。だからふじ子のいつもの表情に暗いかげはなかった。ただ金に困って何か着物でも売りたいと私に相談したりするときだけ、ふじ子の顔には暗く翳(かげ)がさした。私がだまって腕をくんでいると、ふじ子はあわてたように言葉をつぐのだ。

「いいのよ。いいのよ。私なんかもうこんな派手なのは似合わないのよ。今売ってしまったって、また金が出来たとき買いもどせばいいわね」

 そしてそれが金にかわると、昔五十円で拵(こしら)えたのが、九百円にも買ってくれたと、びっくりしたように私に話すのだ。ふじ子はもうその喜びをかくすことが出来ない。マアケットの古着屋のおじさんがどんなに好意にあふれた善良な人物であったかを、私に判らせようとしてふじ子はどんなに言葉をつくすことか。そしてだんだん私が不機嫌になってくるのを見て、ふじ子はわけがわからない途惑(とまど)った表情になって、かなしそうに私を見上げながら言うのだ。

「ではこれで御馳走を買って来て食べましょうね」

 そして私達はしみのある壁にふたつの影法師を投げながら、うすぐらい燈の下で、貧しい食事をしたためる。ふじ子はおいしそうにたべる。どんなものでも私と一緒にたベるときはふじ子はおいしいというのだ。ふじ子の顔は色がしろくて円い。頰がふっくらしている。食事をするときはなおのことそうだ。会社に出入するある「お客さん」が「空飛ぶ円盤」という綽名(あだな)をつけたと言って、ふじ子は時々思い出して笑うのである。ふじ子の写真をとったのはそのお客であった。それを昨夜私はふじ子を間いつめて知ったのだった。[やぶちゃん注:「空飛ぶ円盤」今は知らぬ者とてないが、実はこれは出来立てほやほやの新語であったのである。この半年足らず前の一九四七年六月二十四日、アメリカ人実業家ケネス・アルバート・アーノルド(Kenneth Albert Arnold 一九一五年~ 一九八四年)が、アメリカ西海岸のワシントン州のレーニア山附近上空を自家用機(単発プロペラ機)で飛行中、当時としては信じられないほどの高速で、編隊飛行をする九つの「三日月形」の奇体な物体を目撃したというのが始まりである。彼は新聞記者の取材を受けた際、「水面を ‘saucer’(受け皿)が跳ねながら飛んでゆくような独特の飛び方をしていた」(所謂、水面に石を飛ばして遊「水切り」のような運動を想起するとよい)と語ったことから、‘flying saucer’ という名称が独り歩きした結果、生まれた語で、その後に大発生するそれが、何故か円盤になってしまうという点で都市伝説の形成として面白いのである。因みに、私は小学校六年から高校時代まで、自分で「未確認飛行物体研究調査会」という会を作って漫画雑誌に募集をかけ、私を含めて僅か三人でやらかしていた人間である。]

「でもあの人は芸術家なのよ。ほんとうに芸術的な立場から写真をとりたいと言ったのよ」

 着物をすっかり脱いで撮らせたのかと、詰問しようとする声調がふいに力弱くなるのを感じながら私が言ったとき、ふじ子は子供のように素直にうなずいた。

「上半身だけじゃ金を払えないと言うんですもの」

 私が黙っていると、やがてふじ子も悲しそうに黙ってしまった。ふじ子の給料が自分の口をやしなうにも足りないこと、段々売りに出すものも底をついてきたこと、それらのことを私は身体の熱くなって米るような衝動に耐えながら考えていた。そのことも私の責任であるのかも知れなかったが、私としてはどうするすべもなしことだった。ふじ子がつとめている会社は、ある新興の個人店であった。そのことだけで私はその会社の内容が想像出来た。したがってそこに出入する客というのも、派手な洋服やぞろりとした和服をきた卑しげな顔つきの男たちを、私は想像のなかにうかべていた。ふじ子の身体の写真をとった男というのも、やはりその類の男であるに違いなかった。その男のふじ子に対する、舐(な)めるような興味や嗜欲(しよく)をかんがえたとき、私は憤怒に似た暗く濁った亢奮(こうふん)が胸のなかに湧きあがって来るのを感じていた。やがてふじ子はふと思いついたように呟いた。

「金をもらったから、これで御馳走買って来ましょうね」

 買物包みをもってもどってきたころは、ふじ子はすっかり明るさを取りもどしていて、自分の肌を見せたことなどすっかり忘れはてた風だった。そしていそがしく膳ごしらえをした。押入の中からビイル瓶につめた液体を膳の上に立てた。これもそのお客が帰りに呉れたというものだった。

「これ本物のウィスキイよ、本物だっていう話なのよ」

 膳の上にごたごたならべられたのは、マアケットで売っている一個五円のコロッケや、黄色いわさび漬や、佃煮(つくだに)や、昨日のものと思われる揚物(あげもの)などであった。それらは膳いっぱいにひろがっていた。膳の上にのりきれない程であった。ふちの欠けた湯呑にウィスキイを注いだ。口にふくむとへんに舌ざわりが刺激的で、酒精のにおいがするどく口腔の中にひろがった。ふじ子は膳の上のものに箸を迷わしながら、喜びにあふれたような声でひとりごとのように言った。

「まあすてき。こんな豊富な夕食は天皇さまだって召し上らないわね」

 そうだ、ふじ子。ソロモンの王様だって、こんなに高価な代償をはらった豪華な食事はとらなかっただろう。何故かはげしい羨望の念をふじ子にたいして感じながら、その瞬間私はそう胸のなかで呟いていた。ふじ子は円い顔をたのしそうにほころばせて、自分も湯呑のウィスキイを少し舐めたりした。

「まあ、本物ね。此のウィスキイはほんとに本物だわ」

 そして私はもはや酔っていたのだ。飲んで飲んで酔いたおれたい気持だけが、しきりに私を駆っていた。写真機の前にたったふじ子の裸のすがたが、酔った頭の中をしきりに去来した。羽毛をむしられた鶏を私は思い浮べていた。やがて私はふじ子に、どんな風の部屋だったとか、どんな風に着物を脱いだとか、そのとき男はどうしたかとか、そんなことをくどくどと執拗(しつよう)に問いただし始めていたのだ。――

 深夜の此の駅の白い壁を、そして今私は眺めているのであった。少年も女も、またもとの姿勢にかえって、しんしんと眠りに入るらしかった。隣の男もからだを伏せて、もう微かないびきを立てはじめるらしい。眼を覚ましているのは私だけであった。駅の構内はがらんと静まっていて、ときどぎ風のおとがした。歩廊の天蓋に点々とともる燈から、光の輪がつぎつぎならんでおちていて、その輪のひとつずつを順次に、塵埃(じんあい)がかろやかに騰(のぼ)った。風の速度がそれで判った。脚をふと手車の下にずらすと、靴の踵(かかと)がなにかぶよぶよしたものに触れた。車輪がぎいぎいと鳴った。身体を曲げて手車のしたをのぞきこんだ。

 顔の長い小柄な犬が手車のしたにねそべっていた。

 私の気配をかんじたのか薄眼をあけてこちらをちらと見たらしい。かすかに身動きしてまたふかぶかと瞼をとじた。曲げた脚が骨のままに細く、皮の毛は地図を描いたように処々すりきれていた。垂れた耳には毛は一本もなくて、まるでブリキみたいに堅そうな感じであった。うすくらがりの中で、その灰色の犬の形を私はまざまざと見ていたのであった。頭をさかさに垂れているせいで、顔中がはじけるように熱苦しくなって来る。しばらくして私は顔をあげた。もとの風景がまた眼の前にあった。頭に一斉に血がのぼったせいか、風物があからみを帯びていて、吹いてゆく風のおとが耳鳴りにまじって、へんに倒錯した感じであった。そして冷気がするどくせまって来た。

 まだ夜明けは遠いらしい。此のしずかさの中で私ひとりが目覚めているということ、それが次第に私にはおそろしいことに思われ出した。手車の外蓋に腕をおき、しめって冷たくなった服の袖に顔をおしあて、やがてこみあげてくる混乱した想念を、私はひとつひとつ押しつぶしながら、麻をひっかきまわしたような断続した悪夢のなかに、うつつとも知れず引入れられて行った。……

 

 しきりにぎいぎいと車輪がきしむ。重くつめたく執拗にその音は、ぼんやりと意識のなかにはいって来る。昏迷した意識で私は、あのごわごわした犬の耳の感じを、嘔(は)きたいような感じと共に思い浮べていた。そんなに手車を押したら、あの犬は轢(ひ)かれてしまうではないか。薄明のなかで私は懸命に気をもんでいる。意識が混濁したままするどく尖って、しきりにそこに走るらしい。あの冷たく重い鉄輪に轢殺(れきさつ)される感覚を、私は疲労した肉体のどこかにまざまざと感じとりながら、そこから脱出しようと必死に身もだえしている。ある現実的な気配がそのあつい腰をやぶって、いきなり皮膚を冷たくする。私はそしてどろどろした沼の中から浮き上るようにして目が覚めた。

 女が私の前にいた。

 私に横姿をみせて、白い浴衣の脇あけから軟かそうな皮膚が鳥肌になっていた。女の手がかすかに、そして素早く動いている。手のさきは、隣の男の果物袋の口に触れているのだ。紐がずるずると解かれる。女の手が男を目覚まさないように、ふしぎなくねり方をしながら、袋の中に入って行く。淡黄色のすべすべした大粒の梨が、ゆっくり引出されて来る。そしてまたひとつ。その梨の肌になにか電燈の光とちがう白っぽい光があると思ったら、天蓋のかなたに夜がしらじらと明けはなつらしかった。女はぎょっとしたように身をすくめた。眠っている男が何か言いながら身体をうごかしたからである。女はそしてゆっくり私の前をはなれた。男はそれきり動かない、幽(かす)かないびきがふたたび始まる。

 女はもとの場所にもどって腰をおろした。胸をはだけて梨を入れ、両手でかたく襟(えり)をあわせるようなしぐさをする。安堵したような笑いが頬にうかぶ。あたりを見廻した視線が私にとまった。襟をおさえた女の指にふと力が入ったらしいが、そのくせ顔にはほのぼのと笑みをたたえて私をみつめて来る。その側で少年が薄眼をあけたような眠り方で壁によりかかっていた。

(あの笑いなんだな!)と何故ともなく私はいつまでも考えている。考えているだけで何も判りはしないのだ。ただ心の内側をなで廻しているだけだ。女はすでに私から視線かそらして、ぼんやりあちこちを眺めまわしているのに、私は何故か放っておけないような気がして、じっと女に視線をとどめている。口の中がねばねばして気持がわるい。酔いの醒めぎわのあの厭な悪感が、絶えず背筋をはいまわっている。歩廊にともった燈がしだいに光をうすれはじめ、遠くの森や家がくろく浮きあがって来た。女のすがたはしろっぽい暁方のひかりの中で、夜の感じを失って、だんだん生気をとりもどしてくるらしい。

 隣でとつぜん男が唸り出す。しぼりだすような沈欝な声で、ちょっととぎれてはまた呻きはじめる。袋を脚ではさんだまま、上半身をそれにうつむけているのだが、手指が袋の外側を搔くようにしながら、段々苦しそうな声が高まってくる。額が汗でびっしょりだ。うつむいた顔に眉根をよせて、海防艦二十九号の旧乗組員は暗い翳(かげ)を顔いっぱいにたたえて、しきりに袋をかきむしる。呻声(うめきごえ)はひとをおびやかすような響きを帯びて、しだいに切迫して来る。女はふしぎそうな面もちでそれを眺めている。私はだんだん耐えがたくなって来る。少年やその他の連中も眼をさますらしい。欠伸(あくび)の声がする。

「おい。おい」

 肩に手をかけて私はゆさぶった。男の首ががくんと揺れて、はっとしたように顔をあげた。表情を失った放心した眼が私におちる。やがてその眼にゆっくりと光が戻ってきた。

「……夢をみていた」

 吐息と一緒に男はしばらくしてそんな言葉をはきだした。まだ夢が身体にのこっているような具合で、男は派手な襯衣(シャツ)の袖をしきりにひっぱった。

「ずいぶん苦しそうだったよ」

「……くるしかったなあ。ほんとにくるしかった。海の中におっこちてさ――海ん中におっこちて、それから無茶苦茶にもがいたんだが、なんだか海藻みたいなものにからんでさ、脚や手にべたべたまきついて来てさ、どんなにしても浮き上らねえ。呼吸がくるしかったなあ。ほんとにほんとにくるしかった」

 男はだんだん調子を取りもどしてくる。額にばらばら乱れ落ちた髪を乱暴にかきあげた。

「うん、そうだ」舌を丸めるような元の口調になる。「さっきお前にあんな話をしたからだ。それできっと思い出したんだ」

「そう。そんなことはよくあるよ」

「――まったくそっくりだった。死ぬかと思った位だ」

 男はゆっくり顔をうごかして遠くを眺める眼つきになった。

「夜があけたんだなあ。もう始発がやってくるよ」

「で、そんな夢をときどき見るのかい」肩にのしかかるにぶい苦痛を押えながら、暫くして私が聞いた。

「え。ああ夢のことか」男は手巾(ハンカチ)を出して首筋のへんを拭いた。「あまり見ねえな。見てもすぐ忘れてしまう」

「戦友のことなど思い出さないかい」

「戦友って軍隊のか」

「海二十九に乗ってた連中だよ」

「うん」急に冷淡な口調になって男はうなずいた。「思い出しもしねえな。思い出そうにも名前なんか忘れてしまった。ああ、あの甲板士官は何て名前だったっけ。四国の男だと言ってたが――」

 夜明けの光に浮き上った男の健康そうな顔が、突然言葉を止めて凝縮した。

「おかしいな。紐が解けている」

 急に兇暴ないろが瞳にあふれて、男は袋の口を押しひろげて中をのぞぎこんだ。そして紐をかたくしめなおしながら、四辺をぐるりと見廻した。

「たしか紐を締めておいたと思ったがなあ]

「締めわすれていたんだよ」と、私はふとこみあげてくる嘔気(はきけ)をおさえながらそう答えた。「忘れることはよくあることだ」

「そうかも知れないな」男はなぜか弾けるような声を立てて短くわらい出した。「お前食いたいなら、ひとつやろうか」

「そうだな」私は自分の食欲をちょっと確めてみた。「食いたくないけれど、呉れるなら貰うよ」

 よし、と言いながら男は堅くむすんだ紐を、また力を入れてほどいた。生気にあふれたその横顔を眺めながら、ある茫漠たるものが、しだいに胸の中で形をとりはじめて来るのを私は感じていたのである。私は低い声で言った。

「皆にも分けてやんなよ。みんな腹へらしてんだろ」

「いやなこった。腹なんぞへらしているものか」

 男から受取った梨ひとつを、私は掌にのせていた。それは実質のある重量感であった。私はそれをポケットにしまった。

「しかしこんな重いものを毎日かついで動き廻るのも大変だな。ずいぶんもうかるのかい」

「そんなでもないさ」紐を再び締めて男はむきなおった。

「見せてやろうか」

 男はなにか真面目な顔つきになって、ポケットから厚い革の金入れをとりだした。それを開いて私の眼の前につきだした。その中に束となった紫色の紙幣を、私はある戦慄に似たものと共にはっきり見た。それは一寸位の厚さであった。すぐ金入れは鈍い皮のおとをたてて閉じられた。男の顔はむしろ堅く沈んだ色を浮べていた。だまって金入れをポケットに戻した。

「――おれは、朝という時刻がすきなんだ。さっぱりしていて、あかるくて」

 暫くして男がそう言った。

 駅の事務室に泊りこんでいたらしい駅員が、歩廊の水道で顔洗うのが見えた。ざわざわした朝の物音が、すでにあちこちから起りはじめて来るらしかった。男は靴のひもをしめなおすと、勢よく立ち上った。手車が強くきしんだ。

「おれはあっちで始発を待つぜ。おまわりなんかが来るとうるさいからな」

 袋をかつぎあげると私に背をむけたまま、また会おうぜ、と言いのこしたままあるき出した。靴裏が混凝土(コンクリート)に触れるたしかな音が、反響しながら歩廊の方に遠ざかって行った。私は軽く眼を閉じてそれを聞いていた。眼のふちが幽かにふるえて、それまで耐えていた悪感がしきりに背をはしった。

(あれはきっと悪いアルコオルだったにちがいない)

 昨夜から千切れ千切れになった記憶をむすびあわせようとしながら、私は次第に今日という日を負担に感じはじめていた。昨夜ふじ子は泥酔した私につきそって駅まで送って来たのだ。そのあたりをところどころ思い出せる。それから電車にのって終点まで眠りつづけて来たにちがいないのだ。そしてこんなに酔っぱらった私にたいして、あの男がどんなきっかけで軍隊のおもいで話などを始めたのか。それを酔った私がどんな具合に受答えたのか。何故昨夜はこんなに酔っぱらってしまったのだろう。

 そうだ。あのときはまだラジオがなっていたのだ。膳のものは食べてしまって、私ひとりがしきりに湯呑のウィスキイを傾けていたとき、ふじ子は窓にこしかけてぼんやり外を眺めていた。はっきり覚えていないけれども、裸になったという事をわざと執拗にふじ子に問いただしていた記憶もあるから、あるいはそれを避けるためにふじ子は窓の方に立って行ったのかも知れない。はっきりと胸に残っているのは、そのとき私はしめつけられるような哀憐の情で、窓にいるふじ子を眺めていたのだった。そして私は、ふじ子が裸を売って得た金で今私が酔い痴れていることを、はっきり意識にきざんでいたのだ。ふじ子を眺めるその気持を、此の意識が二重に裏打ちをしていた。頭のかたすみで私はなにかをせせら笑いながら、そのくせ腹の中をまっくろに凝りかたまらせ、肩を張ってわざとその状態を育てるように、しきりにやけつくような液体を咽喉(のど)に流しこんでいたのだった。そのとき遠い町の光に影絵のように浮んだふじ子の顔が、何か口ずさんでいるのにふと私は気づいたのだ。私は飲む手をやすめて耳を立てた。それは幽(かす)かな無心なうた声だった。

 

  夕やけ小やけのあかとんぼ

  追われてみたのはいつの日か……

 

 むこうの家のラジオがなっていて、それがふじ子の歌声に重なるのを見れば、ふじ子はラジオにつられてふと此の歌をうたい出したものにちがいなかった。ある言いようのないむなしさが私の身体を奔(はし)りぬけた。私はそれをごまかすために、あわててまたウィスキイを口の中に流しこんでいた。――それから記億がぼんやりしてしまう。ふじ子の背につかまって、暗い道をあるいていた。私は何かくどくどとあやまっていたような気もするし、また厭がらせを言っていたような気もする。そうだ。金などはつくってやるから、明日にでも沢山もってきてやるから、もうあんなことをやめるがいい、と何度も私はくりかえしてふじ子に言ったのだ。あんなことをやれば一生こころに傷を負うから、それは止めたがいい。そうするとふじ子は私を見上げてあえぐように言った。

「何でもないのよわたし。あなたはそんなに苦しまなくてもいいのよ」

 そのときは明るい街に来ていたような気もする。私はふじ子のその声と見上げた円い顔をぼんやり思いだす。それから暫くして、何故泣いているの、と私の背をしきりに撫でていたのだ。私は電信柱の根元にしやがみこんでいた。記億がそこらで前後しているのかも知れない。私はなぜしやがんでいたのか。嘔(は)きたくてそうしていたのか、それは何もわからない。その瞬間のふじ子の声と私の姿勢が頭にうかんで来るだけだ。それから駅の明るい燈や、電車を待っている人々や、そんなものが瞼にちらちらしたようだ。いつ改札を通りぬけたか覚えがない。足もとがむやみにふらつくから、今日はずいぶん酔ったのだなと、階段をのぼりながら考えたようでもある。歩廊に風に吹かれて立っていた。ふじ子とむかい合って立っていた。そうだ。私はそのとき、その姿勢のままで、ふじ子の部屋の壁のインクのしみを頭にうかべていたのだ。何故かそのとき私は非常に露悪的な気持になって、わざとふじ子の顔に私の顔をちかづけてみたりしたような気がする。ずいぶん長い間そうしていたような気がする。ふじ子はその間にこにこと笑みをふくんで私をみつめていたのだ。壁のしみのように私たちはむきあっていたのだ。いや、そうじゃない。わらっていたのはふじ子じゃない。それは梨をぬすみおおせた女が、壁にもどって私にわらって見せたのだ。一瞬前にぬすんだことすら忘れ果てたような、あかるいほのぼのとした笑いだった。少しも傷つかないレンズのように透明なわらいだった。……

「兄貴。おい。兄貴」

 耳のそばでそんな声がする。私はすこしうとうとしていたらしい。私を呼びさましたのはあの少年の声である。私のとなりに何時しか腰かけて、脚をゆすってわざと車輪をぎいぎいきしませながら、幅のひろい顔で私の方をのぞきこむようにした。そして私ははっきり眼がさめた。

「兄貴。病気じゃないのかい。顔色がひどくわるいよ」

 気がつくと待合室のあたりにちらほら人影が見えて、歩廊にはすでに制服の駅員の姿が隠見して、床に積まれた梱包(こんぽう)を次々動かしているらしい。天蓋の稜線に断(き)りとられた空は、鈍い灰色に曇り、やがて始発車がホオムに入って来るような気配であった。少年は汚れた襯衣(シャツ)を着こんでいて、私にわらいかける瞳はなにかずるそうに光った。

「ああ、病気なんだ」

 私は素直にそう答えた。視界がどこか白々しいと思ったら、壁にうずくまって寝ていた連中は、私の知らないうちに皆どこかに行ってしまったらしく、少しはなれた荷受台によりかかって、さっきの女がひとり梨をかじっているだけであった。さくさくと嚙む音がここまで聞えて来た。唾液にぬれた白いすこやかな歯を、私は女の唇の間に見た。

「病気かい。病気だろうなあ。おれも先刻からどうも変だと思っていたんだ」

 脚にぶよぶよするものがさわって、ぎいぎい鳴る手車の下から、そのときやせて惨(みじ)めな犬の首がのぞいた。少年の足先がその耳のあたりをしたたか蹴とばした。犬は弱々しい声で一声啼(な)くと、すこしよろめきながら歩廊の方に出て行き、脚を前後につっぱるようにして伸びをした。少年は乾いた声をたててわらった。

「ねぼけてやがら。あいつ」

 そして更に脚を揺って手車をぎいぎい鳴らした。

「お前、今からどこに行くんだい」

「今日かい。今日はねえ、仕方がないから田舎廻りだよ」

 どんな意味か判らなかった。問い返すのもものうく私がだまっていると、

「あいつ、淫売なんだぜ」すりよって低い声でいった。「あいつ頭が馬鹿になってんだけど、あれでいい稼ぎやるんだぜ」

「淫売がどうしてこんな処で夜を明すんだね」

「昨夜はあぶれたのさ、あいつ」少年ははげしく舌打ちをした。「ちぇっ。梨なんか食ってやがら。先刻のやみやが呉れたのかい」

 女をみつめる少年の眼はきらきら光っていた。女は身体でその視線を感じたらしく、こちらをふりむいた。おびえたように手の梨をうしろにかくすと、すこしずつ後ずさりはじめた。

「ふん、馬鹿にしてやがら」

 少年はそして私にふり向くと、心配そうな声で言った。

「病気なら早くなおしたがいいぜ」

「うん。わかってるよ」

「ふん。やっぱり病気だったんだな。病気なら、ねえ、兄貴。兄貴はさっきの梨は食わねえだろ」

 暗い可笑しさがふとこみあげて来て、私は頰をゆるめながらポケットを探った。冷たい梨の肌が手にふれた。私はそれをつかむと少年の方にさしだした。

「やるよ」

 少年は有難うとも言わずそれを受取り、だまって口に持って行った。歯が梨に食いこむ音がした。上眼使いに私を見ながら、少年は更に次の部分を嚙んだ。私はぼんやり少年の顔をながめていた。そのとき何故か私は、先刻軽く眼を閉じてあの男の靴音が遠ざかって行くのを聞いていた気持を、漠然と胸によみがえらせていたのである。梨を嚙むさわやかな歯音と、堅く確かな靴のひびきが、ある気持を橋としてひとつにかさなった。私は少年から視線をそらして、遠く歩廊の方に瞼をあげた。線路の遙かから電車がゆるゆる逆行して来る。あれが始発電車になるらしかった。私は立ち上った。長い間腰をかけていたせいか、腰のへんが凝るように痛んだ。

(別れるときあの男は、どんなつもりで金入れの中などを見せようと思ったのだろう?)

 紫色の紙幣の束を瞼のうらにあざやかに浮べたとき、不快な濁った亢奮(こうふん)が急速に湧きあがるのを感じながら、私は歩廊の方に足をひきずりひきずり歩き出していた。

 

 盛り場のまんなかがぽっかり脱落したように建物にかこまれた小広場になっていて、そこに今日も聴衆がぐるりと輪をつくっていた。その輪の中央に不思議な容貌の青年が大きな身ぶりで手摺(ず)れのした手風琴をひいていた。午前の曇天の鈍色のひかりが、そこにも静かにおちていた。

 青年の顔の中央にある鼻は、粘土のように黄色いセルロイドの代用鼻であった。顔全体を巨大な灼熱した物体が擦過(さっか)したような趣きがあって、あるべきところに器官が歪んでいたり、また無かったりした。髪だけが不気味なほど漆黒に、つやつやと光っていた。韻律は乱れながら小広場の果てに消えて行った。

 輪をつくって囲んでいる人々は、皆おなじようなひとつの表情をうかべていた。彼等の耳がその手風琴の曲目にとらわれるよりもっと激しく、彼等の眼はその青年の顔にそそがれていた。人々の表情はみな眉根をかるくよせて、ある感じを露骨にただよわせていた。その感じは非常に複雑で、一口ではうまいこと言えない位であった。単に哀傷でもなく、単に憐憫(れんびん)でもなく、まして単に好奇でもなく、単なる嫌悪でもなかった。それらのものがみんな入り組んで、そしてそれが露骨にひとつの表情をつくっていた。そしてその表情が自然のものでなく、自分で無意識に強いたものであることに、人々は誰も自ら気付いていない風であった。人の輪からぬけでて来ると、人々はそこらに唾(つば)をはいたり、空を眺めたりして、それからトットッと何処かヘ急ぎ足で消えて行った。また通りかかった人々が新しい聴衆となって、人の背にとりついた。背伸びをして内をのぞきこむと、早速同じ表情を露骨につくり、青年の大げさな身振りとその顔に瞳を据えて見入るらしかった。

 私もそのひとりになって聴衆の輪にまじって立っていた。あれから始発電車に乗ってこの盛り場にやって来て、そこらをやたらに歩きまわった揚句、ここに止っているのであった。私は一夜のために草臥れてしわだらけになった洋服を着て、よごれた顔をして楽師の顔をながめていた。

 此の異相の楽師の姿を見るのは、私は今日が始めてではなかった。此の数年の間に、あちらの街角やこちらの広場で、何度も何度も私は此の楽師を眺めていた。特徴のある手風琴のおとが聞えれば、すぐそれとわかった。近頃では音楽が聞えずとも、その人の輪から離れてくる人の顔をひとめ見るだけで、そこに浮んでいる表情で判ることが出来た。今日もそれであった。私は吸いよせられるように人の輪にとりつき、いつもと同じように、なにものかをはっきり確めるような気持で、私は楽師の顔から眼をはなせないでいた。

 顔?

 それは顔ではなかった。顔の輪郭であるにすぎなかった。それにも拘らずそれは表情をもっていた。静かな曇り日のひかりのなかで、手風琴を大きく引き伸ばしながら、上半身を反らす。空を斜にあおぐ顔の痕跡には、たしかに一つの陶酔にまぎれもない表情がみなぎっているのだ。あの陶酔をささえているものはなにか?

 やがて私はあわてたように楽師から眼を外らすと、押しわけるようにして人混みをぬけだした。土埃を踏みながら広場をよこぎった。広場の果ては建物の壁となり、それをヘだてる有剌鉄線の垣根があった。その根もとに材木が一本横たわっていた。湿気を吸って黒く沈んだ色であった。私はそれに腰をおろした。ふかぶかと肩につみかさなる宿酔の疲労をはらいのけるように、私はポケットからつぶれた莨をとりだすとライタアで火を点じた。ライタアの錆色(さびいろ)のはだに、髪の乱れた私のかおがぼんやりうつった。

 莨(たばこ)の煙をふかく肺まで吸いこんで、私は何となく眼を閉じた。あの楽師の前にはふるぼけた帽子があって、それには聴衆が入れた紙幣がたくさん入っていた。それを前にして楽師は大きく身体を反(そ)らして手風琴をひいていたのだ。その旋律は幽(かす)かに乱れながら、今ここに腰をおろしている私の耳にまで届いてくる。私はふと昨夜のふじ子のかすかな歌声を思い出していた。今頃ふじ子は何をしているだろう。やはり弁当をかかえてあの会社に出て行ったにちがいない。みんなにお茶をついで廻ったり、銀行に使いに行ったり、皆から「空飛ぶ円盤」などとからかわれたりして、そして裸になって写真をとられたことなどすっかり忘れはてているだろう。昨夜私に酒をのませたことも、私が酔っぱらって厭味をさんざん言ったことも、ときどき微笑しながら思い出すだけだろう。たとえ着物の最後の一枚を脱ぐとき、耐えがたい苦痛をしのんだとしても、それはそのときですっかり終ってしまったのだ。今から先ときどきそのときのことを夢にみて、あるいは苦しそうな声を出して呻くだろうが、覚めてしまえばそれだけで忘れてしまうにちがいない。――

 材木に深く腰をおろし、いらだたしく莨の煙をはき散らしながら、私はすこしずつ気持がたかぶりはじめるのを感じていた。それはなぜか判らなかった。こんな日のこんな時刻に、こんな場所に私がぼんやり腰かけているという、得体のしれない不安から来ているのかも知れなかった。しかし今ここに尾を引く気持の後感としては、私はむしろ誰かを憎んでいた。誰を憎んでいるのか。その気持を手探って行けぱ、突きあたるものは私の眼前に輪をつくっている人々であり、その中にいる異相の楽師であった。私は楽師をひっくるめた此の広場の群集を心のそこからにくんでいるのかも知れなかった。

(不幸というものは、あんなものではないだろう)

 私は吸いさしを地面にぎりぎりこすりつけた。今日も人の輪にまじって、長いこと楽師を眺めていたというのも、私にははっきり判っていることであった。それは此の楽師の容姿をながめることが、私にいつもある刺戟をあたえるからであった。その胸を逆にこすりあげるような切なさが、むしろ私には甘美なものとして感じられるのだった。だから今日も長いこと立って見ていたのだ。しかし不幸というものがあんな形で肉体にあらわれ、あんな具合に人眼にさらされ、そして人々がそれに打たれるものとすれば、それは何と通俗で退屈なことだろう。まるで不幸の登録商標みたいに、あの楽師は立って手風琴をひいている。私は知っている。人の輪をくぐり出た人々の、眉をしかめた複雑な表情が、ものの一町もあるかないうちに次第に和んできて、やがて深い満足のいろがしたたか顔中にひろがり始めて来るのだ。人々は排泄(はいせつ)を終了したときのように、そこでほっと肩をおとすのだ。――

 ふと気がつくと、私の手の甲を脚の沢山ある小さな赤黒い虫がゆるゆると這っていた。一匹かとおもうと洋服の胸のところにも膝のところにも、その小さな虫は無数にはいのぼっていた。ぎょっとして私は立ち上った。あわてて掌をふってあちこちからばたばたと払いおとした。虫たちは赤黒い点になって掌につぶれたり、地面に飛びちったりした。見るとその湿った材木は古くくされて、すでに朽ち果てているのであった。赤黒い虫は層をなしてむらがり動いていた。[やぶちゃん注:「赤黒い虫」所謂、「木食い虫」「蠹」であろう。赤黒いとなると、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目(亜目) Cucujiformia 下目ゾウムシ上科ナガキクイムシ科ナガキクイムシ亜科 Platypus 属カシノナガキクイムシ Platypus quercivorus か。]

「――ふん」

 肩のところを這っているのを横眼で見つけて、忌々しくそれをはたきおとしながら、私はのろのろと歩き出した。

 堅い舗装路を人々は無表情なかおでぞろぞろあるいていた。私は柵を越えて路に出た。なにもかもむなしい気がした。人混みにまじって私は歩き出していた。背中に手風琴のおとがだんだん遠ざかる。今晩のあの終点の駅の風景は、もはや遠い世界のようにも感じられたけれども、またおそろしく身近にも感じられた。此の一夜が、朝が好きだという闇屋の男や、梨をぬすんだ女や、少年や犬が、しかし私にどんな関わりがあるのだろう。何にもないにきまっていた。しかし私は此の行きずりの人々を、今後ときどき思い起しては激しく嫉妬したり羨望したり憎悪したりするのかも知れない。それは愚かなことだ。しかし愚かといえば、酒に酔って前後不覚になって終点まで運ばれたことからして、全然おろかなことなのだ。そんなおろかなことを性こりもなく積みかさね積みかさねして、そしてそこで傷だらけになることで今までも、また今から先もすごして行くのだろう。正常な市民にもなれず、その反対のものにもなれず、自分の露床につきあたるのをおそれながら、毎日を身ぶりで胡麻化(ごまか)して行くのだろう。胡麻化そうとすることで剣は皆するどく、私のむねに刃を立ててくるだろう。揚句のはては自分の眼や心をも傷だらけにして、やがて私は一本の材木のように健康な感動をなくしてしまうだろう。そしてあの材木のように朽ちてしまうだろう。そのときになって朽木のような私を、どうして私は彫ることが出来るだろう。赤黒い小さな陰惨な虫たちだけが、私のむくろに根強く執拗に巣くうだろう。そしてそのときは私は生きながら死んでいるのだろう。――

 両手をポケットにつっこみ、人通りの少い道へ曲りこみながら、昨夜ふじ子に明日金を持って来ると約束したことを私は思い出していた。日がかげっているので時間は判らなかった。遅刻はしても今から勤め先に行ってみようか、このまま下宿にもどって眠ろうかと、ぼんやり考えなやみながら、曇り日の下を私は欝々とうなだれてあるいて行った。

2021/07/29

日本山海名産図会 第二巻 捕熊(くまをとる) / 第二巻~了

 


Kuma1

 


Kuma2

 

Kuma3

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を三枚をトリミングして、纏めて前に出した。キャプションは一枚目が「※弩捕(おううて、くまをとる)」[やぶちゃん注:「※」=「陞」の「升」を「在」に代えた字体。]。二枚目「捕洞中熊(とうちうのくまをとる)」。三枚目「以ㇾ斧擊熊手(おのをもつてくまのてをうつ)」。孰れも残酷な印象を与え、本書の蔀関月の挿絵で、私は初めて、生理的に厭な感じを持った。そうして、私は実は私が熊が好きだということに、この年になって初めて気づいたのである。]

 

   ○捕熊(くまをとる) 熊の一名「子路」

熊は、必ず、大樹の洞(ほら)の中(うち)に住みて、よく眠る物なれば、丸木を、藤かづらにて、格子のごとく結ひたるを以つて、洞口(どうこう)を閉塞し、さて、木の枝を切りて、其の洞中へ多く入るれば、熊、其の枝を、引き入れ、引き入れて、洞中を埋(うつ)み、終に、おのれと、洞口にあらはるを待ちて、美濃の國にては、竹鎗、因幡に鎗、肥後には鐵鉋、北國にては「なたき」といへる薙刀(なきなた)のごとき物にて、或ひは切り、或ひは突きころす。何れも、月の輪の少し上を急所とす。又、石見國の山中(さんちう)には、昔、多く炭燒きし古穴(ふるあな)に住めり。是れを捕るに、鎗・鐵炮にて頓(すみやか)にうちては、膽、甚だ小さし、とて、飽くまで苦しめ、憤怒(いか)らせて打ち取るなり。○又、一法には、落としにて捕るなり。是れを豫洲にて「天井釣(てんじやうつり)」と云ふ【又、「ヲソ」とも云。】。阿州にて「おす」といふ【「ヲス」は「ヲシ」にて、古語也。】。其の樣、圖にて知るべし。長さ二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]余(よ)の竹筏(いかだ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])のごとき下に、鹿(しか)の肉を、火に燻べたるを、餌(え)とす。又、柏の實、シヤシヤキ實(み)なども蒔く也。上には大石(おほいし)二十荷(か)[やぶちゃん注:大人一人が肩に担えるだけの物の量を単位として数えるのにいう助数詞。]ばかり置く【又、阿州にて七十五荷置くといふなり。】。もの、きよれば、落つる時の音、雷(らい)のごとく、落ちて、尚、下より、機(おし)を動かすこと、三日ばかり、其の止む時を見て、石を除き、機(おし)をあぐれば、熊は、立ちながら、足は、土中に一尺許り、踏み入りて死すること、みな、しかり。○又、一法に、「陷(おと)し穴」あれども、機(おし)の制(せい)に似たり。中にも飛騨・加賀・越の國には、大身(おほみ)、鎗を以つて、追ひ𢌞しても、捕れり。逃ることの甚しければ、「歸せ。」と、一聲、あぐれば、熊、立ちかへりて、人にむかふ。此の時、又、「月の輪。」といふ一聲に、恐るゝ躰(てい)あるに、忽ち、つけいりて、突き留(とゞ)めり。これ、獵師の剛勇、且つ、手練(しゆれん)・早業(はやわざ)にあらざれば、却つて、危きことも、多し。

○又、一法に、駿州府中に捕るには、熊の巢穴の左右に、両人、大ひなる斧を振り擧げ持ちて、待ちかけ、外(ほか)に一兩人の人して、樹の枝ながきをもつて、窠穴(すあな)の中(うち)を突き探ぐれば、熊、其の樹を巢中(すちう)へ、ひきいれんと、手をかけて引くに、橫たはりて、任(まか)せ、されば、尚、枝の爰かしこに、手をかくるをうかゞひて、かの両方より、斧にて、兩手を打ち落とす。熊は、手に力多き物なれば、是れに、勢ひ、つきて、終に獲る。かくて、膽(きも)を取り、皮を出だすこと、奧刕に多し。津輕にては、脚(あし)の肉を食ふて、貴人(きにん)の膳にも、是れを加ふ。○熊、常に食とするものは、山蟻(やまあり)・笋(たけのこ)・ズカニ。凡そ、木(こ)の實(み)は、甘きを好めり。獸肉も喰らはぬにあらず。蝦夷には、人の乳(ちゝ)にて養ひ置くとも云へり。

○ 取膽(きもをとる)

熊の膽(ゐ)は加賀を上品とす。越後・越中・出羽に出づる物、これに亞(つ)ぐ。其の余(よ)、四國・因幡・肥後・信濃・美濃・紀州、其の外、所々(ところところ)より出(いた)す。松前。蝦夷に出たす物、下品、多し。されども、加賀、必す、上品にもあらず。松前、かならず、下品にもあらず。其の性(しやう)、其の時節、其の屠(さは)く者の、手練(しゆれん)・工拙(こうせつ)にも有りて 一概には論じがたし。加賀に上品とするもの、三種、「黑樣(くろて)」・「豆粉樣(まめのこで)」・「琥珀樣(こはくで)」、是れなり。中にも、「琥珀樣」、尤とも勝(まさ)れり。是れは、「夏膽(なつのゐ)」・「冬膽(ふゆのゐ)」といひ、取る時節によりて、名を異(こと)にす。夏の物は、皮、厚く、膽汁(たんじう)、少なし。下品とす。八月以後を「冬膽(ふゆのい)」とす。是れ、皮、薄く、膽汁、滿てり。上品とす。されども、「琥珀樣」は「夏膽」なれども、冬の膽に勝(まさ)る。黄赤色(わうしやくしよく)にて、透き明(とほ)り、「黑樣」は、さにあらず、黑色(こくしよく)、光りあるは、是れ、世に多し。

○試眞僞法(にせをこゝろみるはう)

和漢ともに、僞物多きものと見へて、「本草綱目」にも試みの法を載せたり。膽(ゐ)を、米粒許り、水面に黙[やぶちゃん注:ママ。「㸃」の誤字であろう。以下同じ。]ずるに、塵(ちり)を避けて、運轉し(うんてん/きりきりまわり[やぶちゃん注:右/左のルビ。])し、一道(ひとすぢ)に水底へ線(いと)のごとくに引く物を「眞なり」と。按ずるに、是れ、古質(こしつ)の法にして、未だ、つくさぬに似たり。凡て、獸(けもの)の膽(きも)、何(いづ)れの物たりとも、水面に運轉(めく)ること、熊膽(くまのい)に限るべからず。或ひは獸肉を屠(ほふ)り、或ひは煮𤎅(しやがう)などせし家の煤(すゝ)を、是れ亦、水面に運轉(うんてん)すること、試みて、しれり。されども、素人業(しろとわざ)に試みるには、此の方の外、なし。若(も)し、止むことを不得(ゑず)、水に黙[やぶちゃん注:ママ。「㸃」の誤刻であろう。]して水底(すいてい)に線(いと)を引くを試みるならば、運轉(めくること)、飛ぶがごとく、疾(はや)く、其の線(いと)、至つて細くして、尤も疾勢物(をとるときのもの)を、よしとす。運轉(めくること)遲き物、又、舒(しつか)にめぐりて止(とゞ)まる物は、皆、よろしからず。又、運轉(めくること)速きといへとも、盡(ことごと)く消へざる物も、佳(よ)からず。不佳物(よからさるもの)は、おのづから、勢ひ、碎(くだ)け、線(いと)、進疾(すみやか)ならず。又、粉(こ)のごとき物の落ちるも、下品とすべし。又、水底(すいてい)にて、黄赤色(わうしやくしよく)なるは、上品にて、褐色(ちやいろ)なるは、極めて、僞物(ぎぶつ)なり。作業者(くろうとぶん)は、香味の有無を以つて分別す。およそ、眞物(しんぶつ)にして、其の上品なる物は、舌上(ぜつしやう)にありて、俄かに濃き苦味を、あらはす。彼(か)の苦甘(くかん)、口に入りて、黏(むちや)つかず、苦味(くみ)、侵潤(しだひ)に增さり、口中(こうちう)、分然(ふんぜん/さつはり[やぶちゃん注:右/左のルビ。])として淸潔(きよ)し[やぶちゃん注:二字へのルビ。]。たゞ、苦味(くみ)のみある物は僞物(ぎぶつ)なり。苦甘(くみ)の物を良しとす。また、羶臭(なまくさ)き香味の物は、良らずといへども、是れは、肉に養はれし熊の性(せい)にして、必ず僞物(ぎぶつ)とも定めがたし。其の中(うち)、初め、甘く、後(のち)、苦(にが)き物は、劣れり。又、焦氣(こげくさき)物は、良品なり。是の試法(しはう)、教へて教ゆべからず。必ず、年来(ねんらい)の練(れん)、妙たりとも、眞僞(しんき)は辨(へん)じやすくして、美𢙣(びあく)は辨(べん)じがたし。

○制僞膽法(にせをせいするほう)

黄柏(わうばく)・山梔子(さんしし[やぶちゃん注:ママ。])・毛黄蓮(けわうれん)の三味(み)を、極(ご)く、細末とし、山梔子(さんしし)を、少し、𤎅りて、其の香(か)を除き、三味、合せて、水を和して、煎(せん)し詰(つ)むれば、黒色(こくしよく)光澤(ひかり)、乾はきて、眞物(しんふつ)のごとし。是れを裏むに、美濃紙二枚を合はせ、水仙花(すいせんくわ)の根の汁をひきて、乾かせば、裏(うゝ)みて、物を洩らすこと、なし。包みて、絞り、板に挾みて、陰乾(かげぼし)とすれは、紙の皺(しわ)、又、藥汁(やくこう[やぶちゃん注:ママ。「やくじる」の誤刻であろう。])の潤(うるほ)ひ入(し)みて、實(じつ)の膽皮(たんひ)のごとし。尤も冬月(ふゆ)に制すれば、暑中に至りて、爛潤(たゝれ)やすし。故に、必ず、夏の日(ひ)に製す。是れは、備後邊(へん)の製にして、他國も、大抵、かくのごとし。他方(たはう)、悉くは知りがたし。○又、俗說には、『「こねり柿(かき)」といふ物、味、苦し。是れを、古傘の紙につゝむもあり。』と云へり。或ひは眞(しん)の膽皮(たんひ)に、僞物を納(い)れし物も、まゝありて、是れ、大ひに、人を惑はすの甚だしき也。

 

  附記

熊は黒き物(もの)故(ゆへ)に「クマ」といふとは云へども、さだかには、定めがたし。是れ、全く朝鮮の方言なるべし。「熊川」を「コモガイ」といふは、即ち、「クマカハ」の轉(てん)したるなり。今も朝鮮の俗、熊を「コム」といへり。

 

 

日本山海名產圖會巻二終

 

[やぶちゃん注:本邦に棲息するのは、

食肉目クマ科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus(本州及び四国。九州では絶滅(最後の九州での捕獲は一九五七年で、二〇一二年に九州の絶滅危惧リストからも抹消されている。二〇一五年に二件の目撃例があったが、アナグマ或いはイノシシの誤認かとされる)

及び、北海道の、

クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis

である。本文で「蝦夷」の熊も語られてあるので、後者も含まれる。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま) (ツキノワグマ・ヒグマ)」を参照されたい。

『熊の一名「子路」』私の好きな暴虎馮河の気骨の人で義を重んじて最後には塩漬けにされえ食われてしまった子路を異名とするのは、いかにも尤もだ、などと勝手に一人ごちたのだが、サイト「Yoshimi Arts」の上出惠悟氏の「熊について」に、熊をテーマとして作品を発表された理由について(平成二八(二〇一六)年の記事)、

   《引用開始》

私は昨年から突如として熊のことが気にかかり彼らのことを頻繁に考えるようになりました。しかし思い出してみますと私が熊に興味をもった発端は、たまたま「子路(しろ)」という熊の異称を知った時のことだったように思われます。陶淵明による六朝 時代の志怪小説集「捜神後記(続捜神記)」の中に、「熊無穴有居大樹孔中者 東土呼熊子路」という記述があり、また江戸時代の獣肉屋でも子路と書いて「くま」と読ませていたことを知りまし た(寺門静軒著「江戸繁盛記」)。論語に詳しい方はご存知と思いますが、子路とは孔門十哲の一人仲由のことで、子路という異称の由来は、熊が住処とした樹の「孔」と孔子の「孔」をもじった言葉遊びからの洒落です。子路のことなら中島敦の小説「弟子」(昭和十八年発表)で主人公として描かれており、私はこの小説を幾度と読み感動しています。子路は子供がそのまま大人になった 様な直情径行な性格から度々孔子に叱られます。激越でしかし素直な子路はまこと獣のように美しく、これを読むと熊と子路を結びつけた人の気持ちが腹に落ちるように理解できます。物語の最後、子路は主君を救う為に反逆者のいる広庭へと単身跳び込み、気高くも無残に殺されてしまいます。孔門の後輩、子羔[やぶちゃん注:「しこう」。]と共にその場から遁れることも出来た子路が子羔に声を荒げた「何の為に難を避ける?」という言葉が私の心の中で何度も反復されました。「何の為に難を避ける?」。里に現れる熊は一体どのような気持ちで里に降りて行くのだろう。私の中でその熊と子路の姿が妙に重なり始めました。日常生活でも植木を熊と見間違えたり、車のヘッドライトの影に熊を見たり、空に浮かぶ雲を見て熊を思ったり、実際に会えないかと山へ行ってみたり、北海道を旅したりと熊の痕跡をっています[やぶちゃん注:ママ。「追っています」「辿っています」か。]。結局のところ私はなぜ熊なのかと自分でも判らないまま熊を心に宿してしまったのです。

   《引用終了》

元は字遊びか。ちょっと残念。「搜神後記」(續搜神記:陶淵明の作とされるが、後世の偽作)のそれは、第十一卷補遺の以下。

   *

 熊居樹孔

熊無穴、居大樹孔中。東土呼熊爲子路。以物擊樹云、「子路可起。」。於是便下。不呼、則不動也。

   *

で、寺門静軒(寛政八(一七九六)年~慶応四(一八六八)年:幕末の儒学者)の「江戶繁盛記」(天保二(一八三一)年より執筆・板行。但し、天保六(一八三五)年三月、青表紙本検閲の最終責任を負う昌平坂学問所林述斎の助言を受けた江戸南町奉行筒井伊賀守の命により、本書の初篇と二篇は「敗俗の書」として出版差留の処分を受けた。しかし、その申し渡しを無視して第三篇以降の刊行を継続、天保十三年には悪名高い江戸南町奉行鳥居甲斐守(鳥居耀蔵)に召喚され、第五篇まで書いていた本書は『風俗俚談を漢文に書き綴り鄙淫猥雑を極めその間に聖賢の語を引證」、『聖賢の道を穢し』たとされ、「武家奉公御構」(奉公禁止)という処分を受けた。この際、鳥居は、「儒学者の旨とするところは何か」と問い、静軒が「孔孟の道に拠って己を正し、人を正すところにある」と答えると、すかさず本書を突きつけ、「この書のどこに孔孟の道が説かれているか答えよ」と迫り、返す答えのない静軒は罪に服したという。ここはウィキの「寺門静軒」に拠った)、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本の当該部(「山鯨」(猪肉のこと)の条の一節を見ることが出来る(右頁三行目に「子路(クマ)」とある)。

「なたき」不詳。

「おす」「ヲス」「ヲシ」最初のそれは歴史的仮名遣から、「押す」「壓す」でああろう。後者二つはその訛りであろう。

「柏の實」ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata の実。クヌギ(コナラ属クヌギ Quercus acutissima )に似て丸く、殻斗は先がとがって反り返る包が密生する。アク抜きすれば、人も食することが出来る。

「シヤシヤキ實(み)」「シャシャキ」はツツジ目モッコク科ヒサカキ属ヒサカキ Eurya japonica の異名。漢字は「柃」「姫榊」。他に「ビシャコ」「ビシャ」「ヘンダラ」「ササキ」などの別名がある。その実は五ミリメートルほどで、黒い。染料に利用されることもあるという。

「機(おし)」やはり「押し」「壓し」で、広く罠の一つ。知らずに踏むと、「おもし」が人や動物を打ち、圧死させる仕掛けを言う。ただ、そうした構造の仕掛け(機械)としての当て字かとも思われる「機」だが、第一図を見て貰うと判る通り、この字を当てたのは、その様態が「機(はたおり)」のそれに似ているからのように思われる。

「越の國」越前・越中(殆んどが実質的には加賀藩)・越後。

『「月の輪。」といふ一聲に、恐るゝ躰(てい)ある』相手の名を名指して呼称すると、相手を支配できるという古い呪術的な言上(ことあ)げである。

「駿州府中」現在の静岡市葵区相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。南部の静岡市街を除いて大半は山間である。

「脚(あし)の肉」四肢の謂いであるが、前肢の、所謂、「熊の手」であろう。

「山蟻(やまあり)」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科アリ科ヤマアリ亜科ヤマアリ属クロヤマアリ亜属クロヤマアリ Formica japonica

「ズカニ」短尾下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica 「大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ)」を参照されたい。

「蝦夷には、人の乳(ちゝ)にて養ひ置くとも云へり」イオマンテの儀式で知られる通り、アイヌの人々にとってエゾヒグマはカムイ(神)の変じたものとして尊崇される。

「屠(さは)く」「捌(さば)く」。

「三種」「黑樣(くろて)」・「豆粉樣(まめのこで)」・「琥珀樣(こはくで)」は、胆嚢の外見上の色による分類のようである。「豆粉樣」は黄色の強いものか。

『「本草綱目」にも試みの法を載せたり』巻五十一上の「獸之二」の「熊」の項の「膽」に以下のようにある(囲み字は太字に代えた)。

   *

 頌曰はく、「熊膽(ようたん)は隂乾しして用ゆ。然れども、僞せ者、多し。但(ただ)、一粟(いちぞく)許りを取り、水中に滴らして、一道、線のごとく散らざる者を眞と爲す」と。時珍曰はく、「按ずるに、錢乙が云はく、『熊膽の佳なる者の通明(つうめい)[やぶちゃん注:明るい光を通すこと。]する每(たび)に、米粒[やぶちゃん注:ほどの大きさの意であろう。]を以つて、水中に㸃じて、運轉して、飛ぶがごとき者の良なり。餘の膽、亦、轉じて、但(ただ)、緩(ゆる)きのみ。』と。周宻齊が「東埜語」に云はく、『熊の膽、善く塵(ちり)を辟(さ)く。之れを試みるに、浄水一器を以つて、塵、其の上を幕(おほ)ひ、膽の米許りを投ずるときは、則ち、塵、凝りて、豁然として開くなり。』と。

   *

「古質(こしつ)の法にして、未だ、つくさぬに似たり」古びた判別法であって、未だ、それで決定的とは思われない。

「煮𤎅(しやがう)」煮たり、炒ったりすること。

「疾勢物(をとるときのもの)」「をとる」は「劣る」であろう。ゆっくりとしか動かないもの。

「舒(しつか)に」「靜かに」。「舒」には「緩やか」の意がある。

「作業者(くろうとぶん)」「玄人分」。実際の「熊の胆」を扱う専門の職人。薬種屋なども含まれる。

「黏(むちや)つかず」「ねちゃつかず」(ねちゃねちゃと粘(ねば)らず)の意であろう。

「侵潤(しだひ)に」「次第に」。

「苦味(くみ)」「苦甘(くみ)」この後者は読みの誤刻(「くかん」或いは「にがあまし」)が疑われる。

「羶臭(なまくさ)き」「腥(なまぐさ)き」に同じ。

「教へて教ゆべからず」「(こうして書いたものの)実際には非常に微妙なもので、教えて判るレベルのものではない」というのである。

「年来(ねんらい)の練(れん)、妙たりとも」長年、熊の胆に関わった専門家で業師(わざし)であっても。

「美𢙣(びあく)は辨(べん)じがたし」本物の熊の胆の良し悪しは弁別し難い。

「黄柏(わうばく)」落葉高木アジア東北部の山地に自生し、日本全土にも植生する、ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の樹皮から製した生薬。薬用名は通常は「黄檗(オウバク)」が知られ、「黄柏」とも書く。ウィキの「キハダ」によれば、『樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると』、『生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれているほか、中皮を粉末にし』、『酢と練って』、『打撲や腰痛等の患部に貼』り、『また』、『黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』。『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とある。

「山梔子(さんしし)」「さんざし」で、リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides の異名。その強い芳香は邪気を除けるともされ、庭の鬼門方向に植えるとよいともされ、「くちなし」は「祟りなし」の語呂を連想をさせるからとも言う。真言密教系の修法では、供物として捧げる「五木」(梔子・木犀・松・梅花・榧(かや:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )の五種の一つ。

「毛黄蓮(けわうれん)」キンポウゲ目メギ科タツタソウ(竜田草)属 Jeffersonia dubia 。現行では園芸品種として知られる。NHK出版「趣味の園芸」のこちらを参照されたい。

「水仙花(すいせんくわ)の根」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科スイセン連スイセン属スイセン変種ニホンズイセン Narcissus tazetta var. chinensis 。全草有毒で死亡例もある。但し、ウィキの「スイセン属によれば、『民間療法で、乳腺炎、乳房炎、咳が出るときの腫れに、鱗茎を掘り上げて黒褐色の外皮を除き、白い部分をすりおろしてガーゼに包んで外用薬として患部に当てておくと、消炎や鎮咳に役立つと言われている』。『身体にむくみがあるときも同様に、足裏の土踏まずに冷湿布すると方法が知られている』とある。

「こねり柿(かき)」「木練り柿」で、枝になったままで甘く熟する柿のこと。味はともかく、形状は腑に落ちる。

『熊は黒き物(もの)故(ゆへ)に「クマ」といふとは云へども、さだかには、定めがたし。是れ、全く朝鮮の方言なるべし。「熊川」を「コモガイ」といふは、即ち、「クマカハ」の轉(てん)したるなり。今も朝鮮の俗、熊を「コム」といへり』関岡東生氏のブログ「川場の森林(やま)づくり」の「熊の名の由来」に、加納喜光著「動物の漢字語源辞典」(二〇〇七年東京堂出版刊)から、以下のように『同書よりかいつまんで紹介』されておられる(行空けは詰めた)。

   《引用開始》

“熊”の文字は、見たままに“能”と“火”が組み合わされてできている。

“能”の下に位置する四つの点は、“連火(れんが)”という部首名が付けられているとおり“火”を表すのだ。

“能”は、粘り強い力があるという意味の文字で、ここから“能力”などという言葉も生み出されたという。

クマが食べ物とても強い執着をみせることなどを考えると、とても説得力があるではないか。

さらに、“連火”が合わせられることによって、火のように勢いがあり、強い様を表すのだという。

つまり、“熊”は、粘り強くそして火のような勢いがある動物であるというわけである。

また、同書では、“くま”という音(読み)については、“隈(くま)”が語源となっているとも説明している。

“目に隈(くま)ができる”といえば、目の下が窪んで見える様を指すし、“隈”は云うまでもなく、“すみ”とも読む字であるが、こちらは“すみっこ”の“隈(すみ)”である。

クマが穴に入って冬眠することから、「奥まったところに棲む動物」という意味で、この音が与えられたのだという。

   《引用終了》

朝鮮語で熊は「곰(コム)」。「熊川」は「こもがい」と読むが、これは作者の言うように、朝鮮語で「高麗 (こうらい) 茶碗の一種」を指す。口縁が反り返り、高台が大きく、見込みの底に「鏡」と呼ばれる円形の窪みがある。「真熊川 (まこもがい)」・「鬼熊川(きこもがい)」などに分けられる。朝鮮半島南東部の港、熊川から積み出されたための称と言われる。これを知ると、作者の朝鮮語由来説もそれらしくは聴こえる。]

2021/07/28

日本山海名産図会 第二巻 鳬(かも)・峯越鴨(おごしのかも)

 

Kamo0

 

[やぶちゃん注:これ以下、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「高縄(たかなは)をはつて鳬(かも)を捕(とる)」。本文に出る皮革で出来た「水足袋(みづたび)」を装着した「なんば」(田下駄)を履いている。少なくとも、私はこうした特殊な履物を描いたのを見たのは初めてである。而して、何より、向こうの田圃道に、鴨を掠め取らんとして来たのであろう、二匹の狐が絶妙のアクセントとして描かれて見事である。]

 

   ○鳬(かも)

○鳬は攝州大坂近邉に捕るもの、甚だ美味なり。北中島を上品とす。河内、其の次ぎなり。是れを捕るに 他國にては「鴨羅」といへども、津の國にては「シキデン」とて、橫幅、五、六間[やぶちゃん注:約九・一〇~一〇・九一メートル。]に、竪一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]斗の細き糸の羅を、左右、竹に付けて立つる。又、三間程づゝ隔てゝ、三重(ぢう)・四重に張るなり。是れを「霞」共云。○又、一法に、池の辺(ほとり)にては、竹に黐(もち)を塗り、横に、多く、さし置けば、鳬、渚(みぎは)の芹(せり)など求食(あさる)とて、竹の下を潜(くゝ)るに、觸れて黐にかゝる。是れを「ハゴ」と云ふ。○又、一法に、水中(すいちう)に有る鳥をとるには、「流し黐」とて、藁蘂(わらしべ)に黐を塗り、川上より、流しかけ、翅(つはさ)にまとはせて捕らふ。○又、一法に、「高縄(たかなは)」と云ふ有り。是れは池・沼・水田の鳥を捕るが爲めなり。先づ、黐を寒(かん)に凍らざるが爲め、油を加えて、是れを、一度(いちど)、煮て、苧(お)に塗り、轤(わく)に卷き取り、さて、兩岸に(りやうきし)に篠竹(しのたけ)の細きを、長さ一間斗りなるを、間(あひだ)一間半に一本宛(づゝ)立て並らべ、右の糸を纏ひ張る事、圖のごとし。一方に向ひたる一本つゝの竹は、尖(かど)の切りかけの筈(はづ)に、油を塗り、糸の端(はし)をかけ置き、鳥のかかるに付きて、筈、はづれて、纏(まと)はるゝを、捕ふ。是を「棚が落ちる」といふ。東西の風には、南北に延(ひ)き、南北の風には東西にひき、必ず、風に向ふて飛び來たるを、待つなり。又、鴨、群飛(ぐんひ)して、糸の、皆、落るを「惣(そう)まくり」と云ふ。獵師は、「水足袋(みづたび)」とて、韋(かわ)にて作りたる沓をはき、又、下に「なんば」と云ふ物を副差(そへは)きて、沼・ふけ田の泥上(でいじやう)を行くに便利とす。又、鳥の、朝、下(お)りしと、宵に下りしとは、水の濁りを以つて知り、又、足跡について、其の夜(よ)、來(く)る・來らざるを考へ、旦(あす)、來たるべき時刻など、察するに一(ひとつ)もあたらずといふこと、なし。

○雁(がん)を捕るにも此の高縄を用ゆとは云へども、雁は、鴨より、智(ち)、さとくて、元より、夜(よる)も目の見ゆるもの故に、飼の多きには、下(お)りず、土砂(どしや)乱れたる地には、下(くだ)らず。或ひは、番(つが)ひ鳥の、其の邊(へん)を廽(めぐ)り、一聲、鳴ひて、飛ぶ時は、群鳥、隨つて去る。たまたま、高縄の邊(ほとり)に下(くだ)れば、獵師、竹を以つて、急に是れを追へば、驚きて、縄にかゝること、十(ぢう)に一度(いちど)なり。○又、一法、「無双がへし」といふあり。是れ、攝刕嶌下郡(しましもこほり)鳥飼(とりかい)にて鳬(かも)を捕る法なり。昔は、「おふてん」と高縄を用ひたれども、近年、尾刕の獵師に習ひて、「かへし䋄」を用ゆ。是れ、便利の術なり。大抵、六間[やぶちゃん注:約十・九一メートル。]に幅二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル弱。]ばかりの䋄に、二拾間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]斗の綱(つな)を付けて、水の干泻、或ひは砂地に短き杭(くひ)を、二所(ふたところ)、打ち、䋄の裾の方(かた)を結び留(とゞ)め、上の端には竹を付、其の竹を、すぢかひに、両方へ開き、元(もと)、打ちたる杭に結び付け、よく、かへるように、しかけ、羅(あみ)・竹縄とも、砂の中に、よく、かくし、其の前を、すこし掘りて、窪め、穀(こめ)・稗(ひへ)などを蒔きて、鳥の群れるを待ちて、遠くひかへたる。䋄を、二人がゝりにひきかへせば、鳥のうへに覆ひて、一ツも洩らすことなく、一擧、數十羽(すじつば)を獲るなり。是れを、羽を、打ちがひに、ねぢて、堤(つゝみ)などに放(はな)つに、飛ぶこと、あたわず。是れを「羽がひじめ」といふ。雁(がん)を取るにも、是れを用ゆ。されども、砂の埋(うづみ)やう 餌のまきやう、ありて、未練の者は取り獲(え)がたし。  ○鳬(かも)は山澤(さんたく)・海邊(かいへん)・湖中(こちう)にありて、人家に畜(か)はず。中華、綠頭(りよくとう)を上品とす。日本、是れを「眞鳬(まかも)」といふ故に、「萬葉集」、靑きによせて、よめり。又。「尾尖(をさき)」は、是れに次ぎて、「小ガモ」といふ。古名「タカへ」なり。「黑鴨(くろかも)」◦「赤頭(あかかしら)」◦「ヒトリ」◦「ヨシフク」◦「島フク」◦「※𪂬(かいつぶり)」[やぶちゃん注:「※」=「群」+「鳥」。恐らく「鸊」の誤字であろう。]◦「シハヲシ」◦「秋紗(あいさ)」◦「トウ長」◦「ミコアイ」◦「ハシヒロ」◦「冠鳥(あじかも)」【「アシ」とも云なり】)◦尾長(をなが)、此の外、種類、多し。「緑頸(あをくび)」・「小鳬(こかも)」・「アヂ」は、味、よし。其の余(よ)は、よからず。

 

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Kamo3

 

[やぶちゃん注:キャプションは一枚目は「豫刕峯越鳬(よしうおこしかも)」、二枚目は「攝刕霞羅(せつしうかすみあみ)」、三枚目は「津訓國無雙返鳬羅(つのくにむさうかへしかもあみ)」。後の二者は前に語られてあるが、底本の配置に従い、その順番通りに示した。最後の挿絵には中景に肥桶を天秤棒で荷った農夫が点景されている。こういう農夫が家にやって来て屎尿を買い取った実景を記憶に持っているのは、多分、私の世代が終わりかも知れない(小学校低学年の昭和六四(一九八九)年頃の記憶)。言っておくが、私の家が水洗になったのは、私が結婚した一九九〇年のことである。]

 

  ○峯越鴨(おごしのかも)【「鴨」の字は「アヒロ」なり。故に一名「水鴨」といふ。「カモ」は「鳬」を正字とす。今、俗にしたかふ。】

是れ、豫刕の山に捕る方術(はうじゆつ)なり。八、九月の朝夕、鳬の群れて、峯(みね)を越へるに、茅草(ちくさ)も翅(つばさ)に摺り、切れ、高く生る事なきに、人、其草の陰に、周𢌞(まはり)・深さ共に三尺ばかりに穿(うが)ちたる穴に隱れ、羅(あみ)を扇(あふぎ)の形に作り、其の要(かなめ)の所に、長き竹の柄を付て、穴の上ちかく飛來たるを、ふせ捕るに、是れも、羅(あみ)の縮(ちゞま)り、鳥に纏(まと)はるゝを捕らふ。尤も、手練(てれん)の者ならでは、易(やす)くは獲がたし。【但し、峯(みね)は両方に田のある所を、よし、とす。朝夕ともに、闇(くら)き夜(よ)を専(もちば)らとす。䋄を、なつけて「坂䋄(さかあみ)」といふ。】

 

[やぶちゃん注:「鳬」「鴨(かも)」である。但し、本邦に於ける「かも・カモ」自体は鳥類の分類学上の纏まった群ではない。鳥綱カモ目カモ科 Anatidae の鳥類のうち、雁(これも通称総称で、カモ目カモ科ガン亜科 Anserinaeのマガモ属 Anas よりも大型で、カモ科 Anserinae 亜科に属するハクチョウ類よりも小さいものを指す)に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)は♂と♀で色彩が異なるものを指すが、カルガモ(マガモ属カルガモ Anas zonorhyncha )のように雌雄で殆んど差がないものもいるので決定的な弁別属性とは言えない。また、「鳬」は本書では「鴨」の意で、「鳧」とも書き、これらは「鴨」の異体字であり、総て上記の広義な「鴨・かも・カモ」を指している。しかし乍ら、何より困るのは、この字を「かも」と和訓せず、「けり」と読んだ場合は、現行の和名では、全く異なる種である、チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ(田鳧・田計里)属ケリ Vanellus cinereus を指すので非常に注意が必要である。なお、本邦で古くから食用にされたものは、主に、

カモ目カモ科マガモ属マガモ Anas platyrhynchos

で、加えて野生のマガモとアヒル(マガモ品種アヒル Anas platyrhynchos var. domesticus )との交雑交配種である、

マガモ属マガモ品種アイガモAnas platyrhynchos var. domesticus

も食用とする。但し、アヒルはマガモを品種改良した家禽品種で生物学的にはマガモの一品種であり、その交配であるアイガモもまた、学名はアヒルと同じである。「マガモ」・「アヒル」・「アイガモ」という呼び変え区別は生物学的鳥類学的なものではなく、歴史的伝統による慣例や認識に過ぎないか、或いは商業的理由によるものである。無論、ここで捕っている種はマガモやアイガモ(飼育していたものが野生化している)に限らず、他の「鴨」類も混雑するし、それらも「鴨」として食していたと考えられるから、他の種も含まれると考えねばならない。しかし、カモ科Anatidaeはガンカモ科とも言い、五亜科五十八属百七十二種もおり、リュウキュウガモ亜科 Dendrocygninae(二属九種)・ゴマフガモ亜科 Stictonettinae(一属一種・ゴマフガモ Stictonetta naevosa 。本邦には棲息しない)・ツメバガン亜科 Plectropterinae 一属一種:ツメバガン Plectropterus gambensis 。本邦には棲息しない)・ガン亜科 Anserinae(十四属三十七種)・カモ亜科 Anatinae(三十八属百二十二種)もいるから、可能性のある種を総て挙げることは私には不可能である。詳しくは「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」の私の注を参照されたい。

「北中島」この附近かと思われる(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「シキデン」不詳。網を敷き張った様子が大きな屋敷のように見えることからの「敷殿」か。死語のようで、ネット検索の網には掛かってこない。

「黐(もち)」鳥黐(とりもち)。「耳嚢 巻之七 黐を落す奇法の事」の私の注を参照されたい。

「芹(せり)」日本原産の双子葉植物綱セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。私の「大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 芹(せり) (セリ)」を参照されたい。

「ハゴ」「擌・黐擌」で「はが」「はか」とも呼ぶ。竹・木の枝・藁などに黐を塗り、田の中などに囮(おとり)の傍に於いて鳥を捕らえる罠。小学館「日本国語大辞典」を見ると、全国に「はご」の呼び名があり、特定の地方方言とは言い難い。

「流し黐」小学館「日本国語大辞典」に、冬の夜、長い縄や板に黐を塗りつけて、湖沼に流し、鴨などの水鳥を捕獲すること、とある。

「高縄(たかなは)」同前に、鳥を捕えるために縄に黐をつけて高いところに張っておくもの、とある。

「凍らざるが爲め」凍らないようにするために。

「苧(お)」「お」は歴史的仮名遣の誤り。既出既注えあるが、再掲すると、苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎの網。苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて網糸にしたもの。

「轤(わく)」車木(くるまぎ)。或いは「桛・綛」で「かせ」。本来は、紡(つむ)いだ糸を巻き取るH形またはX形の道具。「かせぎ」とも呼ぶ。二本又は四本の木を対にして、横木に打ち付け、中央部に軸を設けて回転するようにしたもの。

「篠竹(しのたけ)」根笹の仲間の総称で、細くて群がって生える竹を指すが、中でも幹が細く丸く均整のとれたものを矢柄などに用いる。

「筈(はづ)」通常は、矢の端の弓の弦につがえる切り込みのある部分である「矢筈(やはず)」を指す。ここは篠竹の端をそのような切り込みを加工した部分を指す。

「なんば」漢字不詳。小学館「日本国語大辞典」に、『深田にはいる時にもぐらないようにはく田下駄』とある。

「ふけ田」「ふけた」「ふけだ」とも読む。「深田」(ふかた・ふかだ)に同じ。泥・水の多い田としては低級な田。私は直ぐに水上勉の「飢餓海峡」の「汁田(しるた)」を想起する。東南アジアなどには多く、実際、それらは異様に深く、収穫は舟を用いるのを私は映画作品の中で見たことがある。

「雁」広義のガン(「鴈」とも書く)カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas )より大きく、ハクチョウ(カモ科 Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba 属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」の私の注を参照されたい。狭義の一属一種であるノガン(野雁)目 Otidiformesノガン科ノガン属ノガン Otis tarda を扱った「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴇(のがん)〔種としての「ノガン」〕」も一緒に見られたい。

「攝刕嶌下郡(しましもこほり)鳥飼(とりかい)」現在の摂津市鳥飼の各町。淀川右岸。

「無双がへし」福岡県小郡市小郡にあるかも料理・季節料理の「さとう別荘」公式サイト内の「小郡の野鴨猟」として、「無双網」の解説が図や写真附きで載り、『小郡の野鴨猟は特徴的な狩猟法を用います』。『それが「無双(むそう)網」です。この方法は「昼とり」と「夜とり」の』二『種類があり、鴨が朝夕に餌を食べる習慣を利用したものです』。『狩猟に用いる道具は幅』一メートル、『長さ』二十メートル『程の細長い網です』。『野生の鴨は非常に敏感なため』、『鴨がため池まで飛んでくる前に餌となる籾をまき』、『無双網を仕掛けておきます』。『その後、鴨からは見えない場所に用意してある見張り小屋に隠れ』、『鴨が来るのを待ち、ころあいを見はかり、無双網の仕掛け(針金)を引くと』、『文字通り一網打尽のうちに鴨が捕らえられるというわけです』とあり、非常に参考になる。なお、同ページには、かも料理に適したカモがリストされてあり、マガモ・オナガガモ・ヒドリガモ・トモエガモ・コガモの五種が挙げられてある。

「おふてん」不詳。物自体が判らない。「覆(お)ふ天」網などを考えはした。

「羽を、打ちがひに、ねぢて」両主翼を無理に捩じって背中で交差させることを言う。

『是れを「羽がひじめ」といふ』実際に鳥類をこうすることで、飛翔出来なくなり、「羽交い締め」の語源もそれである。なお、「締め」を「絞め」と表記するのは誤りである。「絞」は「喉を絞める」の意だからである。

「綠頭(りよくとう)」これは先に示したマガモの成鳥の繁殖期の♂。黄色の嘴、緑色の頭、白い首輪、灰白色と黒褐色の胴体と、♂は非常に鮮やかな体色をしている。♀は年中、嘴が橙と黒で、ほぼ全身が黒褐色の地に黄褐色の縁取りがある羽毛に覆われている。但し、非繁殖期の♂は♀とよく似た羽色になる(エクリプス:eclipse。カモ類の♂は派手な体色をするものが多いが、繁殖期を過ぎた後、一時的に♀のような地味な羽色になるものがおり、その状態を指す。この語は日食や月食などの「食」を意味し、それが鳥類学で転訛して学術用語となったものである)が、嘴の黄色が残るので判別出来る。但し、幼鳥は嘴にやや褐色を呈する(以上はウィキの「マガモ」に拠った)。

『「萬葉集」、靑きによせて、よめり』「かも」「まかも」「みかも」「あしかも」の語で出る。二十七首を数える。他に「あいさ」(後述)も一首、「をし」「をしどり」も五首ある。

「尾尖(をさき)」「小ガモ」「タカへ」カモ科カモ亜科マガモ属コガモ亜種コガモ Anas crecca crecca 。古名は「たかべ」。こちらの鳥図鑑によれば(PDF)、古名の「たか」は「高」、「べ」は「群(め)」の転じたもので、「高く群れ飛ぶ鳥」の意であるとある。「尾尖(をさき)」の異名は確認出来ない。

「黑鴨(くろかも)」カモ科クロガモ属クロガモ Melanitta nigra。マガモ属ではないので注意されたい。以下の幾つかは、「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」の私の注で同定しているものもある。

「赤頭(あかかしら)」「ヒトリ」マガモ属ヒドリガモ(緋鳥鴨)Anas penelope 当該ウィキによれば、『和名は頭部の羽色を緋色にたとえたことに由来』し、『緋鳥(ひどり)と呼ばれ、その後』、『ヒドリガモとなった』。『異名として、赤頭、息長鳥、あかがし、そぞがも、みょうさく、ひとり、あかなどがある』とあった。

「ヨシフク」不詳。但し、幕末・明治頃の自筆写本の山本渓山(章夫)の鳥類図譜「禽品」の「ヨシフクカモ」とある。「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」のこちらの詳細書誌を参照。

「島フク」不詳。

「※𪂬(かいつぶり)」(「※」=「群」+「鳥」。恐らく「鸊」の誤字であろう)カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei 。言わずもがな、水鳥ではあるが、カモ類でさえない。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり)」を参照されたい。

「シハヲシ」不詳。「シハ」は不明だが、「ヲシ」はカモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata を指している可能性が高く、同種には見紛うような近縁種はいないから、或いはオシドリの♀や♂の非繁殖期個体、或いは双方の若年個体を指しているように私は思う。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」を参照されたい。

「秋紗(あいさ)」「秋沙」が普通。「あきさ」の音変化。カモ科カモ亜科アイサ属 Mergus の水鳥の総称。嘴は細長く、縁が鋸歯状を呈する。ほとんどの種は繁殖期以外は海辺や河川近くに住む。潜水が巧みで、魚を捕食する。本邦では冬鳥であるが、北海道で繁殖するものもある。「あいさがも」「のこぎりばがも」の異名もある。本邦には、概ね、冬の渡り鳥として、

アイサ属ミコアイサ Mergus albellus

ウミアイサ属ウミアイサ Mergus serrator

ウミアイサ属カワアイサ Mergus merganser

の三種が知られる。

「トウ長」不詳。

「ミコアイ」不詳。アイはアイガモか。白色個体っぽい名ではある。

「ハシヒロ」カモ科マガモ属ハシビロガモ Anas clypeata

「冠鳥(あじかも)」『「アシ」とも云なり』「アヂ」カモ目カモ科マガモ属トモエガモ(巴鴨) Anas Formosa当該ウィキによれば、『オスの繁殖羽は頭部に黒、緑、黄色、白の巴状の斑紋が入り』、『和名の由来になって』おり、『種小名formosa 』も『「美しい」の意』であるとあり、『食用とされることもあった。またカモ類の中では最も美味であるとされる。そのため古くはアジガモ(味鴨)や単にアジ(䳑)と呼称されることもあった』。『アジガモが転じて鴨が多く越冬する滋賀県塩津あたりのことを指す枕詞「あじかま」が出来た』とある。

「尾長(をなが)」マガモ属オナガガモ Anas acuta

「緑頸(あをくび)」既に出したマガモの♂。

「峯越鴨(おごしのかも)」「尾越の鴨」の漢字の当て字。晩秋の頃、峰を越えて、北から飛んでくる鴨を指す。

「アヒロ」既に出したマガモを家畜化した品種アヒル。

「茅草(ちくさ)も翅(つばさ)に摺り、切れ」「カヤに翼を擦(す)ってしまって、翅が傷つき」の意を出すだめに敢えて読点を打った。

「高く生る事なきに」不審。長い渡りのために、翼の損傷のみでなく、体力も衰え、「高く」上「る事」は出来なくなっており、の誤りかと思う。「長く生(いく)る」とは、あまりに可哀そうで、私は採れない。

「坂䋄(さかあみ)」最後に「加賀市観光情報センター KAGA旅・まちネット」の中の『「坂網猟」伝統が生んだ究極の天然鴨料理』という素敵なページを発見した! そこには、またしても写真と図入りで、『飛ぶ鳥を網で落とす名人技 伝統の「坂網猟(さかあみりょう)」』がある。そこには挿絵の「豫刕峯越鳬(よしうおこしかも)」に描かれた、アクロバティクな猟法が今も伝承されていることが判った。以下、その解説を引く。『坂網猟は石川県民俗文化財に指定された伝統猟法で、片野鴨池周辺の丘陵地を低く飛び越える鴨を、坂網と呼ばれるY字形の網を投げ上げて捕らえます』。『坂網猟が始まったのは今から約』三百『年前の江戸時代の元禄年間』(一六八八年~一七〇四年:本書の刊行は寛政一一(一七九九)年)『と伝えられ、大聖寺藩主が武士の心身の鍛錬として坂網猟を奨励したことから』、『多くの藩士がこれを行っていました』。『坂網は長さ』三・五メートル、『Y字形の先端の幅』一・三『メートル、重さ約』八百『グラムで、ヒノキと竹、ナイロン網などで作り、羽音を頼りに鴨をめがけて数メートル、時には』十『メートル以上の高さに投げ上げます』。『猟期中の夕暮れ時、鴨が近くの水田へ落穂などの餌を求めて鴨池を飛び立ち、周囲の丘を飛び越える僅か』十五分から二十『0分ほどの時間だけ』、『猟を行います』。『また、この地では、坂網猟で捕ったつがいの鴨を結婚式の引出物にするなど、鴨を活かした食文化と坂網猟を守ってきた歴史があります』とあった。私はこのページを見て、精神的にすっかり満腹になった。]

「南方隨筆」版「詛言に就て」(全オリジナル電子化注附き・PDF縦書版・2.02MB・26頁)一括版公開

昨日、分割終了した「南方隨筆」の「詛言に就て」の一括版(全オリジナル電子化注附き・PDF縦書版・2.02MB・26頁)をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

2021/07/27

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (8) / 「詛言に就て」~了

 

 グリンムの獨逸童話篇に父が水汲みに往つた子供の歸り遲きを憤り、皆鴉に成れと詛ふと、七人悉く忽ち鴉と成て飛び去つたと有り。Kirby, ‘The Hero of Esthonia,’ 1895, vol.ii, p. 45  seqq. に、エストニアの勇士カレヴヰデ醉て鍛工の子を殺し、鍛工恨んで前刻カレヴヰデに與へた名刀を援(ひい)て彼を詛ふと、後年果して其刀に兩膝以下を截られて此の世を去つたと出づ。羅馬法皇ジヤン廿一世の時、サキソン國の不信心の輩、一法師の持る尊像を禮せず。法師之を詛ひしより彼輩一年の間踊りて少しも輟得なんだ[やぶちゃん注:「やめえなんだ」。](Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ n. e., Paris, 1879, tom. ii, p. 79)。北ウエールスのデムビシヤヤーのエリアン尊者の井近く尼樣の女住む。人を詛わんと欲する者少しの金を捧げると、其女被詛者の名を簿に注し、其名を呼乍ら留針一本井に落すと詛ひが利(きい)た。(Gomme, ‘Ethnologiy in Folklore,’ 1892, p. 87)。リグヴヱダには梟痛く鳴くを聞く者死と死の神を詛ふべしと有り、ラーマーヤナムには、梵授王肉と魚を瞿曇仙人[やぶちゃん注:「くどんせんにん」。]に捧げ、仙人瞋つて王を詛ひ鵰(ヴルチユール)と化す譚有り、以上の諸例を稽へて[やぶちゃん注:「かんがえへて」。]、昔重大だつた呪詛術が今日輕々しく發する詛言と成たと知るべし。

  (大正四年四月、人類第三〇卷)  

[やぶちゃん注:「グリンムの獨逸童話篇に父が水汲みに往つた子供の歸り遲きを憤り、皆鴉に成れと詛ふと、七人悉く忽ち鴉と成て飛び去つたと有り」「七羽のカラス」。多言語の対訳が載る「グリム童話」の卓抜なサイト「grimmstories.com」のこちらで読める。

「Kirby, ‘The Hero of Esthonia,’ 1895」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の同年出版の著作。「エストニア」はバルト三国では最も北にある現在のエストニア共和国(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノルマン人などとの混血の過程を経て』、十『世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった』。十三『世紀以降、デンマークとドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し』、『海上交易で栄えた』。但し、『その後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた』とある。一九〇五年版の原本をざっと見たが、どうも見当たらない。但し、以上の話に出るは、エストニアの巨人の英雄カルヴィデ(英語:Kalevide)である。英文ウィキの彼の「Kalevipoeg」を見ると、その「Synopsis」の条に、

   *

   Kalevipoeg travels to Finland in search of his kidnapped mother. During his travel he purchases a sword but kills the blacksmith's eldest son in an argument. The blacksmith places a curse on the sword and is thrown in the river. On returning to Estonia Kalevipoeg becomes king after defeating his brothers in a stone hurling competition. He constructs towns and forts and tills the land in Estonia. Kalevipoeg then journeys to the ends of the earth to expand his knowledge. He defeats Satan in a trial of strength and rescues three maidens from hell. War breaks out and destruction visits Estonia. Kalevipoeg's faithful comrades are killed, after which he hands the kingship to his brother Olev and withdraws to the forest, depressed. Crossing a river, the sword cursed by the Blacksmith and previously thrown in the river attacks and cuts off his legs. Kalevipoeg dies and goes to heaven. Taara, in consultation with the other gods, reanimates Kalevipoeg, places his legless body on a white steed, and sends him down to the gates of hell where he is ordered to strike the rock with his fist, thus entrapping it in the rock. So Kalevipoeg remains to guard the gates of hell.

   *

とあって、ここに記した話は含まれており、死んだ後に、神々によって蘇生させられ、足のない体を白い馬に乗せて、「地獄の門」に送られ、岩に閉じ込められたまま、今も彼は「地獄の門」を守っている、とある。

「羅馬法皇ジヤン廿一世の時」「廿一世」を称するローマ教皇はヨハネスXXI世(Ioannes XXI 一二一五年~一二七七年:本名はペドロ・ジュリアォン(Pedro Julião))しかいない。しかも彼の教皇在位は一二七六年ペドロ九月十三日から亡くなった一二七七年五月二十日で、僅か八ヶ月であった。当該ウィキによれば、彼は『ヴィテルボにある別荘に新たな翼を付けさせた』が、『それは手抜き工事で』あっため、『彼が就寝していると』、『屋根が崩れ落ち、重傷を負った。そして、事故から』八『日後』『に死んだ。恐らく、偶発的な事故で死んだ教皇は』彼が『唯一』人『である』とあり、さらに『死後、「ヨハネス」XXI『世は魔法使いであったのだ」と噂が広まった』とある。また、『ダンテ・アリギエーリは』「神曲」の『中で、偉大なる宗教学者の魂と共に太陽の天空で』彼と『面会した話を書い』ているとある。まあ、ここでは彼が主人公なわけではないが。

「サキソン國」グレートブリテン島にあったサクソン人の王国群。

「Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ n. e., Paris, 1879」アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:パリ生まれの古典学者・印刷業者。ラテン語名ヘンリクス・ステファヌス(Henricus Stephanus)としても知られる。一五七八年に彼が出版した「プラトン全集」は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている。以上は当該ウィキに拠った)の「ヘロドトスの謝罪」。当該書の当該部はここだが、そんなことは書いてないように思われる。ページ数が違うか。

「北ウエールスのデムビシヤヤー」現在、ウェールズ北東部にデンビーシャー(英語:Denbighshire)州があるが、旧デンビーシャー地区の境界域とはかなり異なっている。

「エリアン尊者」不詳。

「Gomme, ‘Ethnologiy in Folklore,’ 1892」イギリスの民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の「民間伝承の民族学」。

「リグヴヱダ」「リグ・ヴェーダ」(英語:Rigveda)は古代インドの聖典であるヴェーダの一つ。サンスクリットの古形であるヴェーダ語で書かれている。全十巻で千二十八篇の讃歌(内十一篇は補遺)から成る。

「梟痛く鳴くを聞く者死と死の神を詛ふべしと有り」フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)、或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群、或いは種としてフクロウ属フクロウ Strix uralensis がいる。まず、「ミネルヴァのフクロウ」のように総体が智や学問の象徴とされても、その鳴き声自体は汎世界的に不吉なものとされることが多いから、腑に落ちる。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を見られたい。

「ラーマーヤナム」「ラーマーヤナ」。「ラーマ王の物語」の意。インドの大叙事詩。全七編、二万四千頌(しょう)の詩句から成る。詩人バールミキの作。成立は二世紀末とされる。英雄ラーマが猿の勇士ハヌマンらと協力して魔王ラーバナと戦い、誘拐された妻シータを取り戻す物語。

「梵授王」梵天王(ブラフマー)から王位を正当に授かった国の王の意であろう。

「瞿曇仙人」「瞿曇」は釈迦の出家する前の本姓として知られるが、ここは同じ名で別人(「ゴータマ」の漢音写。サンスクリット語で「最上の牛」の意)。古いインドに於いて暦法を考えた人とされる。但し、完訳本を所持しないので、本シークエンスが「ラーマーヤナ」どこに書かれているのかは知らない。ウィキのラーマーヤナ」や、「ラーマーヤナの登場人物一覧」などを見、梗概を日本語訳した本もざっと見たが、判らない。悪しからず。

「鵰(ヴルチユール)」この漢字(音「チョウ」)は新顎上目タカ目 Accipitriformesタカ科 Accipitridae の鳥の中でも大形の個体や種群を指す漢字である。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)」を参照されたい。私は熊楠がこの漢字に何故このルビを附したのかよく判らないが、この「ヴルチユール」は直ちに「ヴァルキューレ」(ドイツ語:Walküre)或いは「ヴァルキュリャ」(古ノルド語:valkyrja:「戦死者を選ぶも者」の意)を想起させ、北欧神話に於いて、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のそれ(この部分はウィキの「ワルキューレ」に拠った)を音写したものかと思う。但し、ドイツ語の Walküre には上記の意味だけで、いかにもかと思った「鷲」などの転訛した意味はない。なお本邦では「地獄の黙示録」以降、「ワルキューレ」の読みが跋扈しているが、ドイツ語では決してこうは発音しないそうである。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (7)

 

 東歐州に有りと信ぜらるゝ吸血鬼(ヴアムパヤー)は、父母又は僧に詛言されし者死して成る所と云ふ(エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁)從つて葬式の誄(ダーヂ)に、子が母に詛はれて死ぬ所を悲しく作つたのも有る。マセドニアの妖巫は、印度のと同じく人を詛ふ時其人の後[やぶちゃん注:「うしろ」。]に灰を撒く又詛害を除く水を調へ之を詛ふた者に飮せ若くは其戶前に注ぐべしといふ。曾てサロニカの大僧正、怒つて一人を詛ひ、地汝を容れざれというた。此大僧正、後年基督敎を退き回敎に歸し其僧主となつた。以前詛はれた者死し三年經つて其墓を開くに尸壞れず。又埋めて三年して掘り見るに依然たり。死人の後家彼僧主を賴み僧主官許を得て、今は回敎僧だが昔取つた杵柄(きねづか)と丹誠を凝し、上帝に祈る事僅かに數分、爾時[やぶちゃん注:「じじ」。その時。]尸肉忽ち落ち失せ白骨のみ存(のこ)つた。又十五世紀にコンスタンチノプルの最初サルタン珍事を好む。基督敎の大僧正に詛はれた者は、地も其尸を壞らず[やぶちゃん注:「やぶらず」。]。數千年經るも太皷の如く膨れ色黑くて存するが、詛ひ一たび取り消ゆれば尸忽壞るを聞き、コ府の門跡をして實試せしむ。門跡衆僧と審議して漸く一人を得た。其は或僧の妻、妖麗他に優れ淫縱度無かつたので、門跡之を叱ると、汝も亦我と歡樂したでは無いかと反詰したので世評區々と起り、門跡大に困つて、止むを得ず大會式の場で其女を宗門放逐に處すと宣言した。頓て其女死して多年埋もれ居る故、恰好の試驗材料と云ふ事で掘出して見れば、髮落ちず肉骨と離れず今死たるが如し。之を聞てサルタン人を使はし見せしむるに報告に違はず。一先づ堂圓に封じ置き、定日サルタンの使到つて之を開き、門跡特に追善して赦罪の詞を讀むと尸の手脚の關節碎け始めた。再び封じ置きて三日歷て開いて見ると尸全く解けて埃塵のみ殘つちよつたので、サルタン流石に基督敎の眞の道たるに敬伏したさうぢや(G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903,pp. 195, 211, 212, 226)。古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず。黃色の油の如き水のみ漏出で、底に頭骨一寸許り殘る「好色の道罪深きことなれば跡迄も斯ぞ有ける。其女の母をも同時改葬しけるに、遙に先だち死たる者なれども其の體變らで續き乍らに有ける。」基督敎と反對に吾が佛敎では罪深い者の尸は葬後早く消失するとしたらしい。

[やぶちゃん注:「エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁」Internet archiveの原本のここの左ページ右の「VAMPIRE」の項の、そこの中央附近に、

The persons who turn vampires are generally wizards, witches, suicides and those who have come to a violent end or have been cursed by their parents or by the church.

という一文があり、引用で私が太字部にした部分が南方熊楠の言っている部分である。

「誄(ダーヂ)」「誄」(音「ルイ」)は「偲(しの)び言(ごと)」の意で、本邦で古くに「しのひこと」と訓じ、「死者を慕い、その霊にむかって生前の功徳などを述べる言葉・死者に対する哀悼の辞」を言う。「ダーヂ」は英語で、dirge。「葬送歌・哀歌・悲歌」の意。

「マセドニア」(英語:Macedonia)はバルカン半島中央部に当たる歴史的・地理的な地域でアレクサンドロス大王が君臨したマケドニア王国が知られる。ギリシャ人が多く住んでいた。

「サロニカ」ギリシャのエーゲ海サロニコス湾に浮かぶ諸島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淫縱度無かつた」「度無かつた」は「どなかった」と読むか。淫(みだ)らなる振舞いを、程度というものを知ることことなく、続けた、と言う意ではあろう。

「G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903」Internet archiveで原本を見ることができ、195」はここで、211」はここ212」はここ、最後の226」はここである。但し、ここで熊楠が述べている部分は「211」から「212」「213」(ここは見開き)にかけての部分である。

「古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず……」以下の「慶澄注記の伯母、好色によりて、死後、黃水(わうすい)となる事」。

   *

 山[やぶちゃん注:延暦寺。]に慶澄注記といふ僧ありけり。件(くだん)の僧が伯母にて侍りける女は、心すきずきしくて、好色甚だしかりけり。年比(としごろ)の男にも、少しも、うちとけたる形を見せず、事におきて[やぶちゃん注:何かにつけて常に。]、色深く情けありければ、心を動かす人多かりけり。

 病ひを受けて、命、終りける時、念佛を勸めけれども、申すに及ばず、枕なる棹(さを)[やぶちゃん注:竹製の衣紋懸け。]にかけたる物を取らんとするさまにて、手をあばきけるが、やがて、息絕えにけり。法性寺(ほふしやうじ)邊に土葬にしてけり。

 その後、二十餘年を經て、建長五年[やぶちゃん注:一二五三年。]の比、改葬せんとて、墓を掘りたりけるに、すべて、物、なし。

 なほ深く掘るに、黃色なる水の、油のごとくにきらめきたるぞ、涌き出でける。汲みほせども、干(ひ)ざりけり。その油の水を、五尺ばかり掘りたるに、なほ、物、なし。

 底に棺(ひつぎ)やらんと覺ゆる物、鋤(すき)に當たりければ、掘り出ださんとすれども、いかにもかなはざりければ、そのあたりを、手をいれて探るに、頭(かうべ)の骨、わづかに一寸ばかり、割れ殘りてありけり。

 好色の道、罪深きことなれば、跡までも、かくぞ、ありける。

 その女の母をも、同じ時、改葬しけるに、遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者なれども、その體、變らで、つづきながらぞ、ありける。

   *

「慶澄注記」人物は不詳。「注記」は延暦寺の六月会などに行われる豎義(じゅぎ:論議による学僧の資格試験)の際に筆記役を勤める僧を指す。さて、この話、最後の部分で何となく変な感じがあるのに気づく。「遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者」が、慶澄の母であるその女の母で、慶澄の伯母の母というのでは、何となく「ややこしや」で、違和感を感じるのである。だいたいが、改葬しているからには、親と慶澄の兄弟姉妹などの親族だけを分骨したと考えるべきであるからである。そこに伯母を入れ、さらにその伯母の母まで納めるというのは変だからである。ところが、本文及び注を参考にした「新潮日本古典集成」(昭和五八(一九八三)年刊)を見ると、実は別伝本では、最初の『件の僧の伯母』は『件の僧の伯女』となっており、この「伯女」とは慶澄の年上の姉と読めるのである。同書でも、『改葬を行った人物を慶澄と考えると、自分の長姉と』実『母との改葬をしたとみるのが自然なので』、冒頭の『「伯母」は「伯女」とあるべきかとも思われる』とあるのである。私もそれに無条件で賛同するものである。

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (6)

 

 南洋ヂユーク、オヴ、ヨーク島の人は、邪視(イヴルアイ)を怕れぬが、詛言は被詛者に禍ひすと信じ、多くのサモア島人は、今も詛言を懼れ、屢ば重病を受く。因て一人他人を犯し續いて數兒を亡なふ時は必定かの者に詛はれたと察し、其人に聞合せ、果して然らば其詛を取消下されと哀願す。彼輩は其所有の樹園で果蔬を盜む者を捕ふるも怒らず「お前はよい事をした。たんとお持ち下さい」と挨拶す。然るに、自分の不在中に盜まるゝと、大に瞋つて樹一本切り又椰子一顆打破る。是は盜人を詛ふのだといふ(George Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, pp. 240, 248, 264)。中央メラネシアの或島民は、人殺しに往く前に自分の守護鬼の名を援(ひい)て敵手を詛ふ。ヂユーク、オヴ、ヨーク島で、有力家を葬るに、覡師[やぶちゃん注:「げきし」。呪術師。シャーマン。]來たつて樹葉に唾吐き、數多の毒物と俱に墓穴に投じ、死人を詛殺せし者を高聲に詛ひ、一たび去つて浴し返つて復た詛ふ。彼者從ひ[やぶちゃん注:「たとひ」。]第一詛を受ずとも、第二詛必ずよく彼を殺すと信じ、老覡敵を詛ふに其の父や伯叔父や兄弟の魂を喚び、敵の眼耳口を塞いで、庚申さんの猿其儘、見も聞きも叫びも出來ざらしめて、容易く[やぶちゃん注:「たやすく」。]詛はれ死なしむ(Frazer, ‘The Belief in Inmorality,’ 1913,vol.i, pp. 370, 403-404.)

[やぶちゃん注:「ヂユーク、オヴ、ヨーク島」パプア・ニュー・ギニアの東北海上にあるデューク・オブ・ヨーク諸島(Duke of York Islands)。ここ(グーグル・マップ・データ)。北西のビスマルク海を囲む形のビスマルク諸島の内、ニュー・ブリテン島とニュー・アイルランド島の間、南東のソロモン海との海峡に浮かぶ島嶼である。

「邪視(イヴルアイ)」南方熊楠 小兒と魔除 (1)」で既出既注。そこの『「視害(ナザル)」(しがい)「邪視(Evil Eye)」(じやし(じゃし))』の私の注を参照。

「サモア」ここ(グーグル・マップ・データ)。島嶼に居住する人々は総てポリネシア系人種。

「George Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, pp. 240, 248, 264」ジョージ・ブラウン(一八三五年~一九一七年)はイギリスのメソジストの宣教師にして民族学者。若い頃は医師の助手などをしていたが、一八五五年三月にニュージーランドに移住し、説教者となり、一八五九年にフィジーへ宣教師として渡り、翌年、シドニーからサモアに向かった。一八六〇年十月三十日に到着してより一八七四年までサモアに住んだ(主にサバイイ島に居住)。布教の傍ら、サモアの言語・文化を学び、シドニーに戻り、その集大成として、後にメラネシア人とポリネシア人の生活史の概説と比較を試みたものが本書であった(英文の当該ウィキに拠った)。Internet archiveで同原本が読め、ページ240はここで、248」はここで、264」ここ

「中央メラネシア」メラネシア(Melanesia)は、オセアニアの海洋部の分類の一つで、概ね、赤道以南、東経一八〇度以西にある島々の総称。オーストラリア大陸より北及び北東に位置する島嶼群が含まれる(ギリシャ語で「メラス」(黒い)+「ネソス」(島)で、「肌の黒い人々が住む島々」の意)。西はニュー・ギニア、東はフィジー及びニュー・カレドニアまで。ミクロネシアの南、ポリネシアの西南方に当たる。

「庚申さんの猿」所謂、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿信仰。これは元々は庚申信仰とは無縁で、私は、庚申信仰が「塞の神」・「道祖神」・「青面金剛」などを習合する内に、「猿田彦」も混淆し、その「猿」からこれが芋蔓式に入り込んだものと考えている。

「Frazer, ‘The Belief in Inmorality,’ 1913」ご存知「金枝篇」の著者ジェームズ・フレイザーの著作「背徳の信念」。Internet archiveで原本が読め、370」はここで、403」はここ。死者の親族の霊をも援軍とするところがなかなかに面白い。]

2021/07/26

譚海 卷之四 常州筑波山幷椎名觀音の事

 

○筑波山は四時登山する也。結城よりのぼるには先(まづ)西の方男體山に登り女體に至る、男體女體の際六七十間ばかりあり、いとちかし。それより東へくだれば椎名の觀音に至る、大伽藍也、すべてかけこし三里也。山はみな巖石にて樹木も又おほし。落かゝる樣なる大石の下を通る、山中に人家なし。日出(いづ)れば麓よりのぼりて見せをひらき、餅あるひはだん子をうる也。水もふもとより汲來(くみきた)るゆゑ一椀五錢づつなり。東海を遙にのぞみて、風景言語同斷也とぞ。

[やぶちゃん注:【二〇二一年七月三十一日削除・改稿】「結城」は旧結城郡であろう。現在の結城郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下注記のないものは同じ)。

「男體山」「女體」国土地理院図のこちらで確認出来る。西側の男体山は標高八百七十一メートル、東側の女体山は八百七十七メートル。両者は直線で七百二十四メートルほど離れている

「六七十間」百九~百二十七メートル。これはそれぞれのピークの計測点を誤っているように思われる。或いは、六百七十間(一キロ百二十八メートル)の誤記かも知れない。高低差を入れて山道を実測すれば、それぐらいにはなりそうだ。現在の整備されたそれでは、登山サイトを見ると、両ピーク間は実測八百五十メートルで、時間にして片道三十分ほどかかるとある。

「椎名の觀音」距離から見ると、茨城県石岡市半田にある観音堂かとも思ったが、大伽藍ではない。嘗て大きな寺となら、この近くに関東八十八ヵ所霊場第三十六番札所の阿彌陀院があるが、観音はなさそうだし、だいたい、孰れも「椎名」という呼称と縁がない。お手上げ。識者の御教授を乞うものである。

【同前追記】いつも情報を指摘して下さるT氏より以下の旨のメールを戴いた(少し手を加えさせて貰った)。

   《引用開始》

上記項の元ネタは、「倭漢三才図会」の巻第六十六の「常陸國」の「筑波山權現」の記載で、国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここに、

   *

筑波山權現 在筑波郡【自椎尾三里】 社領五百石

 祭神 稻村權現   【別當眞言】知足院

 桓武天皇朝德一上人當山開基後万巻上人勸請

 權現鎭守 源家光公再興シ玉フ

 大御堂(ミトウ) 千手觀音 堂塔樓門最美ナリ

   *

と冒頭にあり、「椎名」は「椎尾」の誤写です。

椎尾は、現在の茨城県桜川市真壁町椎尾[やぶちゃん注:ここ。]で、「結城よりのぼるには」とありますが、実際は旧常陸国真壁郡椎尾から「男體山に」椎尾「よりのぼるには」が正しいということになります。

 観音は、以上に出る「知足院大御堂」「千手觀音」となります。知足院は明治の神仏分離で廃寺になった後、昭和五(一九三〇)年に再建されています。ウィキペディアの「筑波山神社」の「中善寺」の項や、坂本正仁氏の論文「近世初期の知足院」[やぶちゃん注:PDF日本印度学仏教学会『学術大会紀要』(二)・第二十六回学術大会・一九七六年]に知足院と幕府初期の関係が書かれています。

   《引用終了》

以上のウィキのリンク先には、『中禅寺(ちゅうぜんじ)は、筑波山神社拝殿』ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『を主とする一帯に存在した真言宗の無本寺寺院』。『山号は筑波山、院号は知足院(ちそくいん)。本尊は千手観音。また、坂東三十三箇所第25番札所であった』。『法相宗の僧、徳一が筑波山寺を開いたことに始まるとされ、筑波山寺の記載は鎌倉時代の』「元亨釈書」にもあり、『その開基年は、延暦元年』(七八二年)、『延暦年間』(七八二年~八〇六年)、『天長元年』(八二四年)、『天長年間』(八二四年~八三四年)』などと伝える。『この筑波山寺の開山に伴い、筑波山の男女二神は観音を本地仏とする「筑波山両部権現」として祀られるようになったという』。『筑波山は古くより山岳修行の場であったため、その後次第に寺勢が盛んになり、寺名も中禅寺(筑波山知足院中禅寺)と称するようになったとされる』。『中世には日光山(輪王寺)・相模大山(大山寺)・伊豆走湯(伊豆山三所権現)等とともに、関東では有数の修験道の霊場であったといわれ』、『その別当は筑波為氏(明玄)に始まる筑波氏が担った』。『中世の様子は詳らかでないが、江戸時代に入ると』、『幕府の鬼門の祈願所として庇護を受け、寺勢は再び隆盛した』。『徳川家康は』慶長五(一六〇〇)年『に筑波山別当から筑波氏を廃し、新たに宥俊を任命して中興の祖とし、慶長』七年『に神領として』五百石、慶長十五年『には寺領として』五百石を寄進し』ている。また、三代『将軍徳川家光は山頂の二社を修復するとともに、本堂(大御堂)、三重塔、鐘楼、楼門、神橋、日枝・春日・厳島の各境内社を造営し』、五代『将軍徳川綱吉の時には「護持院」と改称され、寺領は』千五百『石を数えた』。『その後も江戸時代を通じて霊山として発展し、門前町も発達していった』が、『明治維新後、廃仏毀釈によって中禅寺の機能は停止し、一部の社殿を除いて堂塔は破壊され、法具も各地に散逸した』が、昭和五(一九三〇)年に『筑波山神社拝殿の南西に真言宗豊山派の寺院として大御堂(おおみどう)が再興され、現在に至っている』とあるここ。また、サイト「神殿大観」の「江戸・護持院」を見ると、『護持院(ごじいん)は、江戸にあった真言宗新義派僧録を務めた徳川家ゆかりの寺院。本尊は不動明王。筑波の知足院の別院が起源。当初は知足院と称したが、のち護持院と改称した。元禄寺とも。元号寺。真言宗新義派の江戸触頭(江戸四カ寺)の一つだったが、根生院に譲った。隆光の旧跡。のち焼失して護国寺の子院となった。明治に護国寺に合併。山号は筑波山、元禄山』と冒頭概説にある。護国寺は東京都文京区大塚のここにある。ウィキの「護国寺」を見ると、『護国寺の東に隣接し、護国寺と一体のものとして存在した「護持院」(筑波山大御堂の別院)は、新義真言宗僧録であり、新義真言宗で最も格式の高い寺院であった。護持院は明治時代に護国寺に合併』とある。

 T氏の御指摘を受けて、国立国会図書館デジタルコレクションの原本活字本(底本の親本は狩野文庫本と加賀文庫本にこの国立国会図書館本を対照させたもの)を見たが、やはり「椎名」と誤っており、さらに今回さらに発見した「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部を見ても、「椎尾」ではなく、「椎名」と書かれているように見える(字の崩し方が激しく判読しづらいものの、「尾」よりも「名」の崩しである可能性の方が遙かに高い)ので、T氏の言うように、津村の原本からの写した際の誤写である可能性が高いように思われる(ただ、孰れも始めの「結城」の方もはっきりそう書かれており、「椎尾」ではないので、或いは津村の原本の崩し字自体が判読しづらいものであった可能性もある)。孰れにせよ、T氏の仰る通り、「結城」は「椎尾」の誤りであり、「椎名觀音」は「椎尾」の観音と考えるべきであろう。ここにはまた、今一つなやましいことがあるように思う。それは、筑波山知足院中禅寺は少なくとも現在の椎尾地区とは有意に離れていること、同寺の千手観音が「椎尾観音」と呼ばれていたことは奇異であり、資料でも確認出来ないことである。ともかくも、T氏に心より御礼申し上げるものである。]

譚海 卷之四 房州きさらづ・丹後橋立の事

 

○房州きさらづ海中に井五箇所有。浦に近き所なれば常に汲(くみ)つかふ事也。潮の中ながら湧出(わきいづ)るゆゑ、淸水にして潮まじる事なしとぞ。又丹波國天のはしだてにも松原の際に井有、左右は海にして淸水潮の氣ある事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「海中」はママ。不審に思いつつ調べたところ、やはり海中ではなく、海辺でもない、内陸である。「君津市」公式サイト内の『山本(やまもと)の「殿の下井戸」』に、この千葉県君津市の『山本には』、十四『町歩の水田を潤していた市の沢の水源不足対策と農業環境保全のために、昭和』六二(一九八七)『年掘削の自噴井戸が』五『カ所あります』。『かつてこの地には、現在の木更津市下郡』(☜:ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『字湯名谷とまたがり、里見氏の臣下、山本由那之丞の居城がありました』(「千葉懸誌」大正二(一九一三)年刊)。『今でも「東殿の下」「殿の下」などの小字名が残っており』、五『カ所の自噴井戸の内』、『「殿の下」にある』二『カ所の井戸は、「殿の下井戸」』(ここ)『と呼ばれています』。『この井戸は、完成後から』三『年ほどで生活用水として利用され始め、地元約』五十『戸の生活になくてはならないものとなりました。井戸は深いもので地下』六百『メートルもあり、水量は毎分』百五十『リットルから』四百『リットルで、無色無臭の豊富な地下水が』二十四『時間湧き出ています』。『現在、この井戸水は、地元の生活用水や農業用水に利用されているだけでなく、市内はもとより、遠くは東京都内からも汲みに来る人が増えています。また、最近ではゲンジボタルが確認できるほどに自然の再生がみられ、小・中学生のホタル狩の風情も垣間見ることもできます』、『自然の恵みに感謝する地元の人々の気持ちから、水天宮(水神様)の短柱が設置されている山本の「殿の下井戸」は、上総掘りによる「久留里の自噴井戸」と同じく本市の貴重な「水」の遺産です』とある。掘削は現代だが、恐らくは江戸時代には、その原型となるものがあったのであろう。

「丹波國天のはしだてにも松原の際に井有」「磯清水」として知られている。ここ。現在は引用不可で、私は手だけを洗った。]

譚海 卷之四 常州外川銚子浦幷紀州加多・江戶佃島等の事

 

○常州の外川は、銚子のうらつゞきにて紀州領なり。皆漁鼠を業とし、一村妻子を帶する事なし、妻子は紀州の賀多に住する也。又江戶の佃島も紀州賀多の漁人雜居し、一島みな本願寺宗旨にて他宗なる事なし。

[やぶちゃん注:底本では、二箇所の「賀多」に編者が注して、『(加田)』(「田」はママ)とし、後注で、『常州の外川とあるが、千葉県(下総)銚子の南にある漁村。紀州漁夫の出かせぎ漁村として発達した特殊なところ。多くは紀州加太浦のもので、イワシ地曳網漁業の開発によるものであった』とある。現在の千葉県銚子市外川町(とかわまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「紀州加太浦」和歌山県和歌山市加太。]

譚海 卷之四 下總國行德德願寺住持入定の事

 

○下總國行德に德願寺といふ有。其住持年﨟つもり念佛の功能いちじるしき事廿年あまりに及び、都下の貴賤男女常に參詣し群をなせしが、今年天明二年二月十八日、住持八十餘にして入定せられぬ、哀にとふとき事也。

[やぶちゃん注:「下總國行德德願寺」現在の千葉県市川市本行徳にある浄土宗海蔵山普光院徳願寺(グーグル・マップ・データ)。

「年﨟」(ねんらふ(ねんろう))は「年臘」とも書く。仏語で、生年と戒﨟(出家受戒してからの年数)。則ち、生まれてからの年数と、受戒して僧となってからの年数であるが、転じて僧侶の年齢を指す語となった。

「今年天明二年」(一七八二年)「二月十八日、住持八十餘にして入定せられぬ」この住持の生年は元禄一四(一七〇一)年以前となる。なお、「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞奇譚集であるが、珍しく巻四のこの条の執筆時制が天明二年二月十八日以降であったことが判明する特異点である。]

甲子夜話卷之六 34 松平不昧【出羽守】、坊主某の宅へ茶會にゆきし事

 

6―34 松平不昧【出羽守】、坊主某の宅へ茶會にゆきし事

松平出羽守隱居、南海と稱せしは、茶事に名高く、且學者の人なり。出入の坊主衆某も、茶事に達したるを以て、常に懇遇なりしが、或時某が別宅へ日を訂して茶讌に赴んと、南海約せられければ、茅屋の光輝これに過ずとて、某善で諾す。その別宅は東山の根岸にありける。其日に及び、約期違はず南海訪問せられしに、門も鎖し住居も閉戶して塵も拂はず。從臣門番人へ尋れば、一向に知らずと答ふ。從臣の中一人、かねて某が茶室に至りし者ありて、自ら路次に入りて見れば、蛛網樹枝に纏ひ、通行すべきやうも無し。扨は日を誤訂したることよとて、君臣とも興を醒して、門を出行く。この時、小路の橫徑より、某蓑笠の形にて網を肩に掛け、從僕兩三、大なる桶を荷ひ來り、南海を見てこはいかにと云ふに、相共に驚き、今其宅に至り、しかじかなれば歸る所なりと云。某恐懼して、今朝より荒河へ鯉打んとて罷りしが、生憎不獵にて遲刻し、無興なりしことを頻りに陳謝し、何とぞもとの宅地に戾り玉へと乞へば、南海も止事を得ず、さらばとて立返らる。某先に立案内して、今度はかねてありし住居より、畑を越、遙か奧にて、樹竹生茂れる蔭に、新に設たる路次へぞ案内しける。飛石は新らしき土俵を以て、おもしろく道を取り、手水所は白木の湯桶にて、數奇屋一切新規に造作し、其席に入れば、白木の爐ぶちには釜かゝりて、はや勝手口より某茶具を持出るに、水指も建も皆白木の曲物。茶碗を始め陶器不ㇾ殘皆其所々の今燒にて、茶を勸め、會席のときの椀も、皆陶器にて土器蓋、膳盆の類、悉皆白木造りにして、鯉一式の料理組なりしには、流石の南海も、意表に出て驚歎せられ、尤も興に入りしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「松平不昧【出羽守】」出雲国松江藩七代藩主松平治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年)。従四位下・侍従で出羽守・左近衛権少将。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続き、彼の収集した茶道具の目録帳は「雲州蔵帳」と呼ばれる。但し、「南海」とあるのは治郷の実父で先代藩主であった松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年)が隠居後に入道した際の法号であるから、誤りである。

「坊主某」茶「坊主」の「某」(なにがし)。

「赴ん」「おもむかん」。「東洋文庫」版は『ゆか』とルビする。

「訂して」日時を取り決めて。

「茶讌」「ちやえん」。茶の会を設け、打ち解けて寛いで語り合うそれを指す。

「東山の根岸」「とうざんのねぎし」。現在の東京都台東区根岸(グーグル・マップ・データ)。「東山」は、江戸時代、ここは武蔵国豊島郡金杉村の一部であったが、正保三(一六四六)年に東叡山寛永寺領となったことによる。また、ウィキの「根岸台東区によれば、金杉村の中央以南の地の字名(あざめい)は、旧村の南部を「根岸」とし、西北及び新田部分を「杉ノ崎」、東北を「中村」、そのさらに東北を「大塚」と分けて呼んだが、「根岸」が最も南側に当たるため、江戸では、これらの四つの地を纏めて「根岸」と呼んだ、とある。

「尋れば」「たづぬれば」。

「蛛網」「くも(の)あみ」。

「橫徑」「よこみち」。

「其宅」「そこたく」。そなたの屋敷。

「荒河」荒川。

「鯉打ん」「こひ、うたん」。

「無興」(ぶきやう)「なりしこと」は、不興な思いをさせてしまったこと。

「止事を得ず」「やむことをえず」。

「某先に立案内して」「某(なにがし)、先に立ち、案内して」。

「畑を越」「はたをこえ」。

「手水所」「てうづ(ちょうず)どころ」。手を洗うそれ。

「建」「けん」、茶道具の建水(けんすい)。茶碗を清めたり、温めたりしたときに使った湯や水を捨てるための入れ物。「こぼし」とも呼ぶ。形状は筒型・桶型・壺型・碗型などさまざまであるが、湯を捨てやすいよう、口は大きく開いているものが殆んどである。

も皆白木の曲物。茶碗を始め陶器不ㇾ殘皆其所々の

「今燒」「いまやき」。広義には、古い伝統的なものや骨董の名品に対して、新しく焼かれた焼き物の謂いで、茶の湯では、歴史的には利休時代の「楽焼き」などを指すものの、慶長年間(一五九六年~一六一五年)には、茶入れ・黒茶碗・香合なども「今焼き」と呼ばれた。ここは、妙に御大層な逸品というわけでなく、各地の新しいもので、原義でよかろう。寧ろ、構える感じになる名器などでないところが、逆に気をつかうことなく、楽しく楽しめることを不昧は喜んだのであろう。

「土器蓋」「どきふた」か。素朴な素焼きの椀物などに被せてある蓋。

「悉皆」「ことごとく、みな」。

「料理組」「れうりぐみ」。献立が鯉尽くしであったのである。

芥川龍之介書簡抄107 / 大正一〇(一九二一)年(二) 中国特派帰国後 三通

 

[やぶちゃん注:「108」末尾に示した通り、これ以前の芥川龍之介の中国特派に関わる(直前の関連書簡も含む)書簡群は、既に、サイトで「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」として完全電子化注済みであるので、そちらを見られたい。]

 

大正一〇(一九二一)年八月三日・消印四日・田端発信・長野縣中央線洗馬驛志村樣方 小穴隆一樣・八月三日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

支那がへり我鬼は病みゝ汝を待てり洗馬ゆかへらばとひ來ませすぐ

病めばまだ入谷もとはずこもり居り草の家にふる雨をききつつ

汝がために筆と墨とは買ひ來しもよきや惡しきやためしもまだせず

 八月三日夜         夜來花庵主

一 游 亭 樣

[やぶちゃん注:三月十九日に東京を経って(風邪のために大阪で静養したため、実際に日本を離れたのは三月二十三日であった。また、上海でも到着(三月三十日)早々に治りきっていなかった感冒に乾性肋膜炎を併発して四月一日に日本人医師経営する租界の里見病院に入院、退院したのは四月二十三日で、最初の一ヵ月は実は物理的にはあまり動いていない)、四ヶ月に及んだ中国特派旅行から田端に帰ったのは(北京から天津・奉天・釜山経由)七月二十日頃であったが、以後、一ヵ月以上に亙って体調がすぐれず(特に胃腸障害が甚だしかった)、寝たり起きたりの生活が続いた。

「洗馬」「せば」と読む。長野県の旧東筑摩郡洗馬村。現在の塩尻市大字洗馬及び松本市空港東に当たり、木曾街道の入り口である。ここ(グーグル・マップ・データ)。小穴隆一は北海道函館市生まれであるが、長野県塩尻市の祖父のもとで育った。しかし父はこの中山道洗馬宿の旧家である志村家の出であった。

「入谷」小澤碧童を指す。]

 

 

大正一〇(一九二一)年八月二十七日・田端発信・蕪湖唐家花園 齋藤貞吉宛

 

 床の上にこの頃わびしさ庭べの百日紅もちりそめにけり

 心なき我と思ふな床の上に蟬を聞きつゝ晝もねむるに

  八月二十七日      病 我 鬼

 さいとうていきち樣

二伸 あとは後便筆をもつのは面倒臭い故 支那紀行少し書いたもう見て居るだらう五郞のこともつと傷心せよ傷心はくすりなり

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国の安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた(グーグル・マップ・データ)。旧姓西村であったが、結婚で改姓した。「長江游記」の「一 蕪湖」等も参照。芥川龍之介とは、この二伸でも、龍之介は結構、きつい調子で物言いをしているが、「僕」「お前」と呼び合う、ごく親しい間柄であったせいでもある。

「支那紀行少し書いたもう見て居るだらう」身体の状態が悪い中、大阪毎日新聞社からの要求で、「上海游記」の執筆を八月初旬に始めて、『大阪毎日新聞』に八月十七日から九月九月に六回の休載を挟んで連載した(『東京日日新聞』では八月二十日から)。

「五郞のこと」不詳。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月十四日・田端発信・森林太郞 與謝野晶子宛(宛名は破れており、上記は推定の旨の記載が底本の岩波旧全集にはある)

 

拜啓 明星御發刊のよしまづ御よろこびを中上げますそれから私をも同人の一人に御加へ下すつたよし御厚意難有く御禮申しますしかし明星は同人以上に執筆を許さない雜誌でせうかもしさもなくば私は同人の列に加はらずに寄稿したいと存じますと云ふのは私の我ままですが、どうも同人と云ふ名から生ずる束縛の感じが苦しいのですたとひ實際は自由であつても兎に角同人一人前の責任を持つのが苦しいのですいや責任は持たなくても責任のありさうな氣がする事がそれ自身もう苦しいのです私は既にその點では大阪每日新聞社員と云ふ、厄介な荷を背負つてゐますですからもうこの上にはなる可く氣樂にしてゐたいのですどうか幾重にも不惡この我儘を御恕し下さいさうしてもし同人以外の原稿も載せる時があれば私の作品を御加へ下さい私は現在四百四病一時に發し床上に呻吟してゐますその爲にこれも十分に文意をつくせたかどうかわかりませんどうかよろしく御判讀下さい 頓首

    九月十四日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「森林太郞」森鷗外。彼はこの翌年の大正一一(一九二二)年七月九日に委縮腎及び肺結核で満六十歳で没した。

「明星御發刊」第二次。大正一〇(一九二一)年十一月、與謝野鉄幹らにより復刊された。森鷗外は同人ではないと思うが、大反響を惹起した第一次(明治三三(一九〇〇)年四月~明治四一(一九〇八)年十一月)の折りに上田敏とともに後援した経緯から、今回も名が列記されていたことから、御大に敬意を以って宛名に彼の名を先に挙げたのであろう。

「不惡」「あしからず」。

「四百四病」(しひゃくしびょう:現代仮名遣)は仏教で言う人の罹る病気の総体。人体は地・水・火・風の四つの四大(しだい)元素から構成されており、これが不調になると、それぞれが百一の病気を生ずるとされる。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (5)

 

 印度のトダ人水牛の牧場を移す式に司僧(パロール)の助手童(カルトモク)を詛ひ次に忽其詛を除く事有り。一寸爰に述べ得ぬから、Rivers, ‘The Todas,’ 1906, p. 140 に就いて讀め。同書一九四―六頁に、クヲテンの妻パールデンと通じ夫を愛せぬ故、クヲテン怒つて奸夫を殺さんとて逐ひ廻るを見て、クヲテンの母パールデン荊棘に鈎けられて留まれと詛ふと、果たして棘に留められたところをクヲテンが殺した。パールデンと同村の住民クヲテンを懼れ、皆立退き老夫婦一對のみ殘る。クヲテン襲ひ來るを見て詛ふと、クヲテンは蜂に螫殺され、其從類は石と成たと有る。スマトラのバツタス族は、子を生まぬのは他人に詛はれた故と信じ、所謂詛ひを飛去しむる式を行ふ。先づ子無き女「ばつた」三疋牛頭と水牛頭と馬頭に見ゆるものを神として牲を献じ、扨燕一羽を放つと同時に、詛ひが其燕に移つて鳥と共に飛去しめよと祈るのだ。(Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol. ii, p. 150)

[やぶちゃん注:底本では、ここでは、改行が施されてある。

「トダ人」Toda。トダ族。インド南西部カルナータカ州のマイアル川とバワニ川に挟まれたニルギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に住む少数民族。ドラビダ語系の言語を話すが、形質的には北方インド系で、皮膚は暗褐色、背が高く、がっしりしている。水牛と牛の放牧をして、粗放な酪農を行う。文化的にはきわめて保守的で、周辺民族と往来しながらも、同化されず、古来の習俗を保っている。彼らの社会は二つの内婚的集団から成り、各々が幾つかの外婚的父系氏族に分れる。幼児結婚が普通であり、一妻多夫婚がみられ、数人の男性、普通は兄弟が一人の妻を共有する。妻が妊娠すると、夫たちの一人が彼女に玩具の弓と矢を贈る。これが生れてくる子の父親の公示である。宗教は、水牛酪農の行事を中心とする特殊な儀礼を持っている。古くはイラン高原付近に居住したが、インド北部を経て、現住地へ移入してきたという説もある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。一時は人口が数百人に減少したが、文化政策で、現在は千七百人ほどに増加した。

「司僧(パロール)」原文 oalol (斜体表示)。

「助手童(カルトモク)」原文 kaltmokh (同前)。

「Rivers, ‘The Todas,’ 1906」イギリスの人類学者・民族学者・神経内科及び精神科医であったウィリアム・ホールス(ハルセ)・リヴァース(William Halse Rivers 一八六四年~一九二二年)が書いたトダ族の民族誌。彼は一九〇一年から二〇〇二年にかけて六ヶ月ほど、トダ族と交流し、彼らの儀式的社会的生活に関する驚くべき事実を調べ上げ、本書はインド民族誌の中でも傑出したものと評価され、専門家からも人類学的な「フィールド・ワークの守護聖人」と称讃された(英文の彼のウィキに拠った)。Internet archiveで原本が読め、ここが「140」ページで、呪いの話は「143」まで続いている。しかし、当該原文を読んでも、原著者自身がこの呪詛をかけて、指定された小屋に禁足され、而してそれを解く理由は十全には理解されていないように読め、すぐ南方熊楠が具体に示すのを略したのはそのためかと思われる。私は一種の、古いこの地の生贄の習慣の名残、或いは、精霊を確かに呼び出すための方便(依代としてのそれ。助手の童子カルトモクというのはまさに親和性の強さを感じる)としての呪いのようには思われる。

「同書一九四―六頁」ここから。詛言部分の事実は眉唾だが、これはトダ族の一妻多夫制の中で生じる、男の嫉妬による「ペイバック」的な、半意識的な母子による殺人としての現実的興味の方にそそられるものが、私にはある。

「スマトラのバツタス族」現在の表記はBatak で、バタック族。但し、引用元のフレーザーの「金枝篇」では、Battasと綴ってある。インドネシアのスマトラ島北部のトバ湖周辺の高地に住むプロト・マレー系先住民。人口約 三百十万と推定される。バタック語はオーストロネシア語族の西インドネシア語派に属する。水稲・陸稲・ヤムイモ・サツマイモなどを作る農耕民で、水牛・牛・馬も飼育し、また、湖で漁労にも従事する。十九世紀までは比較的孤立していたが、まず、イスラム教が、次いでキリスト教が伝えられた。しかし、古くからインド文化の影響を受けてきたことは明らかである。バタック族は、現在、幾つかの下位集団(トバ・アンコラ・カロ・マンダイリン・パクパク・シマルングンなど)に分れており、アンコラ・マンダイリン・シマルングンにはイスラム教が普及しているが、トバ・カロ・パクパクでは十九世紀以降、キリスト教が信仰されてきている。以前は、トバの村は一つの外婚制父系親族集団から成立していた。母の兄弟の娘との婚姻が優先され、妻与者側と妻受者側の各リニージ(lineage:出自集団の一種で、成員間の系譜関係が相互に明確な場合のみを言う語)間に贈り物と祭宴が交換される。このような親族体系は、二元的世界観と結びついており、相続は父から息子になされ、長子と末子が優先される。祖先崇拝も行われ、女のシャーマンや男の呪医・祭司がいる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「スマトラのバツタス族は、子を生まぬのは他人に詛はれた故と信じ……」南方熊楠の示す当該年の「金枝篇」第二巻の同年版原本がInternet archiveで見つからないため、所持する岩波文庫の一九六七年改版の永橋卓介訳「金枝篇」の第四冊目から引用する。

   《引用開始》

 スマトラのバタク族は、「飛び去らせる呪詛」という一つの儀式を行なう。女に子が生まれない場合には、牛の頭、水牛の頭、馬の頭になぞらえて、三匹のキリギリスを供犠して[やぶちゃん注:形態相似の類感呪術であるとともに貴重な家畜を代替する意味があろう。]神々に供える。それから呪詛が島の上に落ちて一緒に飛び去るようにという祈禱と共に、一羽の燕を放してやるのである。ふつう人間の住まいに入って来てすまうことを求めない動物が、家の中へ入って来ることは凶兆だとマレー人は考えている。野鳥が人家へ飛びこんで来た時には、ていねいにそれを捕えて油を塗ってやり、ある言葉を繰り返しながら空へ放ってやらねばならぬとされているが、繰り返される言葉の中で家主の一切の不運と災厄を負うて飛び去れと命じるのである。古代ギリシアでも、女たちは家の中で捕えた燕を同様に取り扱ったらしい。すなわちそれに油を灌いで飛ばせてやるのであったが、明らかにその家庭から不幸を取り去るのが目的であった。カルパチアのフズル人[やぶちゃん注:ヨーロッパ東部のチェコ東端及びスロバキア北部から弧状に湾曲して、ルーマニア中部に至るカルパチア山脈に住む一族らしい。]は、湧き水で顔を洗いながら、「燕よ、燕よ。私のソバカスをとって健康な色の頰にしておくれ」と言えば、その春になって見る最初の燕にソバカスを移すことが出米ると信じている。

   《引用終了》]

日本山海名産図会 第二巻 田獵品(かりのしな) 鷹

 

田獵品(かりのしな)

   ○鷹(たか)

 

Takatori

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「張切羅をもつて鷹を捕(はりきりあみをもつてたかをとる)」。本文に書かれた特殊な狩猟法である。ダミーの蛇形(へびがた)を糸で操作して、上の網の中央に杭で結い附けた生きた鵯鳥(ひよどり)を脅し、それを見た鷹が餌にせんと襲いかかったところを描いて(この絵はその瞬間を捉えたととる。ただ、上の網の底は暗くごちゃついていて、無論、鷹に搦めさせる漆塗りの針をつけた竹というのもどれやらわからぬ点は、遺憾で、後注するが、右の猟師の部分にも描き込みに不審がある)、非常に興味深いものである。なお、標題の「田獵」(たらふ)は、「田」は「田野」で、「野に出でて狩りをすること・その狩り・狩猟」の意。]

 

甲斐山中(やまなか)・日向・丹後・伊豫等(とう)に捕るもの、皆、小鷹(こたか)にして、大鷹は、奧州黒川・上黒川(かみくろかは)・大澤・冨澤(とみさは)・油田(あぶらた)・年遣(とつかひ)・大爪(おほつめ)・矢俣(やまた)等にて捕るなり。しのぶ郡(こほり)にて捕る者、凡て「しのぶ鷹」とはいへり。白鷹(おほたか)は朝鮮より來りて、鶴・雁(かん)を撃つ者、是れなり。鷹を養ふ事は、朝鮮を原(もと)として「鷹鶻方(ようこつはう)」と云ふ書、あり。故に本朝仁德天皇の御宇、依網屯倉(よあみみやけ)の阿珥(あひ)、古鷹を獻せしに、其の名さへ知り給はざりけるを、百濟の皇子(こうし)酒君(さけのきみ)、「是れは朝鮮にて『倶知(くち)』と云ふ鳥なり」とて、韋緡(ふくさ)・小鈴(こすゞ)を着けて得馴(ならしえ)て、百舌野遊猟(もすのゆうれう)に、多く雉子を捕る故に、時人(ときひと)、其の養鷹(やふかひ)せし處を号(なつ)けて、「鷹甘邑(たかいのやう)」と云ふて、今の住吉郡(すみよしこほり)鷹合村(たかあひむら)、是れなり。されば、我國に養ひ始めし事、朝鮮の法を傳へりと見へたり。○捕り養(か)ふ者は、凡そ、巢中(すちう)に獲りて、養ひ馴れしむ。其の中(なか)に伊豫國小山田(おやまた)には、羅(あみ)して捕れり。此の山は土佐・阿波三國に跨たがりたる大山(たいさん)なり。されば、鷹は、高山を目がけて、わたり來たるものなれば 必ず、此の山に在り。凡そ、七、八月の間、柚(ゆ)の實の色、付きかゝる折りを、渡り來(く)るの期(ご)とす。

○「羅ははり切羅」といひて、目の廣さ一寸、或、二寸、すが糸にても、苧(お)にても作る。竪(たて)、三、四尺、横二間[やぶちゃん注:約三・六五メートル。]許りなるを張りて、其の下に、「提灯羅(てうちんあみ)」とて、長三尺ばかり、周徑(わたり)一釈斗の、もめん糸の羅に、鵯(ひよとり)を入れ、杭に結い付、又、其の傍らに、木にて作りたる、蛇の形(なり)の、よく似たるを、竹の筒に入れて、糸をながく付けて、夜中(やちう)より仕かけ置き、早天(さうてん)に、鷹、木末(こすへ)を出でて、求食(あさる)を見かけ、「しかき」の内より、蛇の糸を引きて、鵯のかたを目かけ、動かせは、恐れて、騷立(さはた)つを見て、鷹、是れを捕らんと、飛び下(お)りて、羅にかゝる。両方に着けたる竹の釣(は[やぶちゃん注:ママ。「はり」の脱字か。])に、漆(うるし)をぬりて、能く走る樣に、しかけし物にて、鷹、觸るれば、自(おのづか)ら、縮(しゞ)まり寄りて、鷹の纏(まと)はるるを、捕ふなり。此の羅を張るに、窮所(きうしよ)ありて、是、又、庸易(ようい)のわざにはあらず、といへり。其の猟師、皆、惣髮(さうはつ)にして、男女(なんによ)分かちかたし。冬も麻を重ねて、着(ちやく)せり。○此(こゝ)に捕る鷹、多くは、鷂(はいたか)、又、ハシタカともいひて、兒鷂(このり)の䳄(めん)なり。逸物(いちもつ)は、鴨・鷺をとり、白鷹(おほたか)に似て小也。其の班(ふ)、色々、有り。○かく、捕り獲(え)て後、「山足緖(やまあしを)」・「山大緖(やまおほを)」を差すなり。何(いづ)れも、苧(お)を以つて作る。尤も足にあたる処は、揉皮(もみかわ)を用ひ、旋(もとをり)は、竹の管、又は、鹿の角にて制(つく)る。小鷹(こたか)は、紙にて、尾羽をはり、樊籠(ふせご)に入れて、里に售(ひさ)く。○他國、又、奧州の大鷹は「巢鷹(すたか)」と云ひて、巢より、捕らふあり。其の法、未詳(つまひらかならず)。○餌(え)は、餌板(えいた)に入れて、差し入れ、飼ふ。○大鷹は尾袋(おふくろ)・羽袋(はふくろ)を、和らかなる布にて、尾羽(おは)の筋(すし)に、一處(ひとどころ)、縫ひ附ける。其の寸法、尾羽の大小に隨がふ。

○以捕時異名(とるときによりて、なを、ことにす)

「赤毛」【一名「䋄掛(あうけ)」「初種(わかくさ)」「黄鷹(わかたか)」。是れ、夏の子を、秋、捕りたるを云也。】・「巢鷹(すたか)」【巢にあるを捕りたるなり。】・「巢𢌞(すまはり)」【五、六月、巢立ちたるを捕りたるなり。】・「野曝(のされ)鷹」【「山曝(やまされ)」「木曝(こされ)」とも云。十月、十一月に捕りたるなり。】・「里落鷹(さとおちたか)」【十二月に取る物の名なり。】・「新玉鷹(あらたまたか)」【正月に捕りたる也。】・「佐保姬鷹(さほひめてう)」【「乙女(をとめ)鷹」「小山鴘(こやまかへり)」とも云ふ。二、三月に取りたる也。】・鴘(かへり)【山野にて毛をかへたるを云ふ。「片かへり」とは、一度、かへたるを云ふ。二度、かへたるを、「諸(もろ)かへり」と云ふ。】。

○鷹懷(たかをなつける)

獲(ゑ)たるまゝなるを「打ちおろし」といふ。是れに人肌の湯を以て、尾羽・觜(はし)の𢌞り、餌(え)じみなどを、能く洗らひ、觜・爪を切り、足緖(あしを)をさして、「夜据(よすへ)」をするなり。「夜据」とは、「打おろし」の、稍(やゝ)、人に馴れたるを視候(うかゞ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])ひ、夜(よる)、塒(とや)を開き、燈(ともしび)を用ひず、手に据へて、山野を徘徊し、夜(よ)を經(ふ)るについて、燈を※(かすか)に見せ[やぶちゃん注:「※」=「凵」の中に「※」。「幽」の異体字。これ(グリフィスウィキ)。]、又、夜(よ)をかさねて、次㐧にちかくす。是れは、若始(としはじ)めに、火の光りに驚かせては、終(つひ)に癖となりて、後(のち)に、水に濡れたる羽(は)を、焚火(たきひ)に乾かすこと、成りがたき爲め也。其の外、數多(あまた)、害あり。さて、「夜据」、積りて、鷹、熟(くつろ)き、手、ふるひ、身、せゝりなどして、和らぎたるを見て、「朝据(あさすへ)」をするなり。是れは、未明より、次㐧に、朝を重ねて、後に、白昼に、野にも、出だせり。其の時、肉、よくなり、野鳥(のとり)を見て、目かくる心を察し、かねて貯へし小鳥を見せて、手𢌞りにて、是れを捕らせり。但し、其の小鳥の觜(はし)をきり、あるひは括(くゝ)る也。是れは、鷹を、啄(ついば)み、聲を立てさせさるが、爲めなり。若(も)し、聲立(こへたて)などして、鷹、おどろけば、終に癖となるを、厭へばなり。是れを「腰丸觜(こしまるはし)をまろばす」とは云へり。此の鳥、よく取り得たる時は、暖血(ぬくち)【肉のこと也。】を、少し飼ひて、多くは飼はず。多く飼へは、肉、ふとりて、惡(あ)しし。尚、生育に心を附けて、肥へる、瘦せる、又は、羽振(はふり)・顏貌(かんほう)などの善𢙣(せんあく)、或いは、大鷹は、眸(ひとみ)の小さくなるを、肉のよきとし、小鷹はこれに反し、又、屎(うち)の色をも考へ、能く調はせて【是れを、「肉をこしらへる」といふ也。】、「飛流(とびなかし)」の活鳥(いけとり)を飼ふ【「飛流し」とは、鳥の目を縫ひ、野に出でて、高く飛はせて、鷹に羽合(はあはせ)するなり。目をぬふは、高く一筋に飛ばさんが爲め也。】。是れを、手際よく取れは、夫(それ)より、山野に出でて、取り飼ふなり。

○巢鷹は、巢より取りて、籠のうちに艾葉(もくさ)・莵(うさぎ)の皮を敷きて、小鳥を、細かに切りて、あたへ、少しも、水を交じへず。○初生を「のり毛」「綿毛」共云。又、「村毛」・「つばな毛」と、生育の次㐧あり。尾の生(ふ)を以つて、成長の期(ご)として、一生(ひとふ)・二生(ふたふ)を見する、といふなり。三生(みふ)に及べば、籠中(こちう)に架(ほこ)をさすなり。初めより、籠に蚊帳をたれて、蚊の螫すを厭ふ。又、雄(お)を「兄鷹(せう)」といひ、雌(め)を「弟鷹(たい)」といひて、是れをわかつには、輕重をもつてす。輕きを「兄(せう)」とし、重きを「弟(たい)」とす。又、尾羽(おは)、延び揃ひかたまりたる後は、足緖(あしを)をさして、五日ばかり、架(ほこ)につなぎ、靜かに据へて、三日ばかり、㳀湯(ぬるゆ)[やぶちゃん注:「㳀」は「淺」の異体字。]を浴びするなり。若(も)し、浴びざれば、ふりかけて、度(と)を重(かさ)ぬ。縮(しゞま)りたる羽を伸ばし、尚、前法のごとく、活鳥(いけとり)をまろはして、後には、常のごとし。

○鷹品大概(たかのしなたいがい)

角鷹(おほたか)【「蒼鷹」「黄鷹」ともいふ。】・「波廝妙(はしたへ)」【「弟(たい)」とも「兄(せう)」とも見知りがたきを云。】・「鶻(はやぶさ)」【雄(お)なり。形。小也。】・「隼(は)」【雌(め)なり。形、大(おほい)なり。仕(つ)かふに用之(これをもちゆ)。】・「鷂(はいたか)」【雌(め)也。】・「兄鷹(このり)」【鷂の雄(お)也。】・「萑鷂(つみ)」【「𪄄」とも書きて、品(しな)、多し。「黑―」・「木葉―」・「通―」・「熊―」・「北山―」、いづれも同品なり府をもつて別かつ。】[やぶちゃん注:ダッシュは前掲字の省略。後も同じ。]・「萑𪀚(しつさい)」【「ツミ」より小也。】・「鵊鳩(さしば)」【「赤※(あかさしば)」[やぶちゃん注:「※」=(上)「治」或いは「冶」+(下)「鳥」。]。「靑―」・「底―」・「下―」・「裳濃(すそご)―」。】・鷲(わし)【全躰(せんたい)、黑し。年を經て、白き府(ふ)、種々に変ず。哥に「毛は黒く眼は靑し觜(はし)靑く脛(あし)に毛あるを鷲としるべし」。】・「鵰(くまたか)」【全躰、黒し。尾の府、年を經て、樣々に變ず。哥に「觜黑く靑ばし靑く足靑く脛に毛あるをくまたかとしれ」。】其の外、品類、多し。○任鳥(かふり)【「まくそつかみ」「くそつかみ」。】惰鳥(よたか)も種類なり。

[やぶちゃん注:以下、全体が底本では一字下げ。]

「大和本草」云、『「鷹鶻方(ようこつはう)」を案ずるに、鷹の類(るい)、三種あり。鶻(はやぶさ)・鷹・鷲なり。今、案ずるに、白鷹(おほたか)・鷂(はいたか)・角鷹(くまたか)は鷹なり。』。○隼(はやぶさ)・鵊鳩(さしは)は鶻(こつ)なり。○鷲・鳶等(とう)は鷲なり。鷹(よう)・鶻(こつ)の二類は、敎へて、鳥を取らしむ。鷲の類ひは敎しへて鳥を取らしめず。又、諸鳥は、雄(お)、大(おほ)いなり。唯、鷹は雌(めん)、大いなり。此の事、中華の書にも見たり。尚、詳かなることは、原本によりて見べし。此(こゝ)に略す。

 

[やぶちゃん注:「鷹」は新顎上目タカ目 Accipitriformesタカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、比較的、大きさが小さめの種群を指す一般通称である。作者は、後半で明らかに現在のそれらの中の幾つかの種をも挙げている。さらに、同一種でも鷹飼いの過程の中での個体差や経年による異名も挙げており、なかなかに面白いのだが、それが、また、かなり圧縮された形で書かれてあるため、種を同定比定することは、これ、鳥類の素人である私などには、聊か難物である。ともかくも、私は思うに、作者は寺島良安の「和漢三才図会」の膨大な鷹類や鷲類の叙述を参考にしていることは間違いないと思われる。幸い、私は既にブログでそれらを総て電子化注してある。以下である。

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 雀鷂(すすみだか・つみ) (ツミ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご) (ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷸子(つぶり・つぐり) (チョウヒ・ハイイイロチョウヒ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵟(くそとび) (ノスリ或いはチョウゲンボウ)

但し、その総論部である最初に挙げた「鷹」だけでも、「まず、参照されたい」と言うのが気が引けるほど、異様に長いので、相応の覚悟をして貰わないと、途中でお挫け遊ばされるかも知れないということは、一言、言っておかねばなるまい。

「田獵」

「甲斐山中(やまなか)」山梨県南都留郡山中湖村山中附近ととっておく(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「奧州黑川」特定不能。一番大きな地域名なら、宮城県黒川郡がある。但し、黒川や上黒川の地名は現行では、ない。

「上黑川(かみくろかは)」特定不能。山形県酒田市上黒川はあるが、その西に下黒川はあっても、黒川は、ない。

「大澤」山形県最上郡真室川町大沢か。

「冨澤(とみさは)」山形県最上郡最上町富澤か。

「油田(あぶらた)」地名としては、非常に多数、存在し、特定不能。ウィキの「油田(曖昧さ回避)」を参照されたい。

「年遣(とつかひ)」不詳。

「大爪(おほつめ)」不詳。

「矢俣(やまた)」旧茨城県猿島郡八俣村(やまたむら)はここだが(今昔マップ)、ここかどうか不明。この前までは東北だとすれば、違う。

「しのぶ郡(こほり)」陸奥国・岩代国(現在の福島県)にあった古代からの郡名。現在の福島市の大部分が相当する。

「白鷹(おほたか)」タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis 。本邦における鷹類の代表的種で、古今、「鷹」や「鷹狩りの鷹」といえば、オオタカを指すことが多いから、ここでもメインのそれは本種を想定してよい。但し、本和名のもとは「大鷹」(タカ科では中型の種である)ではなく(現行はそう書くことが多いが)、「蒼鷹」が元で、羽の色が青みがかった灰色をした鷹を意味する「蒼鷹(あをたか)」が訛ったものである。また、作者は「朝鮮より來りて」などと言っているが、「日本書紀」の記載にかぶれたものであろう。北アフリカからユーラシア大陸及び北アメリカ大陸にかけて分布し、日本列島でも、南西諸島・南方諸島を除く全域にもともと分布している。但し、ウィキの「鷹狩」によれば、江戸時代、鷹狩用の鷹は、『奥羽諸藩、松前藩で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は朝鮮通信使や対馬藩を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は』一据』(すゑ(すえ):鷹の序数詞)『十両』、『中期では』二十~三十『両に及び、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった』とはある。

「鷹鶻方(ようこつはう)」高麗(九一八年~一三九二年)時代から李王朝(李氏朝鮮:一三九二年から一八九七年。大韓帝国として一九一〇年まで存続)時代に複数の異本が製作された鷹養(おうよう)の特殊実用書。「鶻」はタカの一種であるハヤブサやクマタカを指す漢字。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、訓点附きの「新增鷹鶻方」(李爓(りえん)編・寛永二〇(一六四三)年南輪書堂板行本)が読める。また、サイト「大阪大学学術情報庫」のこちらで、二本松泰子氏の手になる「韓国国立中央図書館蔵『鷹鶻方 全』全文翻刻」(『日本語・日本文化』二〇一三年三月発行)がPDFでダウン・ロード出来る。

「仁德天皇の御宇、依網屯倉(よあみみやけ)の阿珥(あひ)、古鷹を獻せしに……」「日本書紀」の仁徳天皇四十三年(三五五年)九月の条。

   *

四十三年秋九月庚子朔。依網屯倉阿弭古捕異鳥。獻於天皇曰。臣每張網捕鳥。未曾得是鳥之類。故奇而獻之。天皇召酒君示鳥曰。是何鳥矣。酒君對言。此鳥之類多在百濟。得馴而能從人。亦捷飛之掠諸鳥。百濟俗號此鳥曰倶知【是今時鷹也。】。乃授酒君令養馴。未幾時而得馴。酒君則以韋緡著其足。以小鈴著其尾。居腕上、獻于天皇。是日、幸百舌鳥野而遊獵。時雌雉多起。乃放鷹令捕。忽獲數十雉。是月。甫定鷹甘部。故時人號其養鷹之處。曰鷹甘邑也。

   *

 四十三年秋九月(ながつき)庚子(かのえね)朔(つきたち)、依網屯倉(よさみにみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕へて、天皇(すめらみこと)に獻(たてまつ)りて曰(のたま)はく、

「臣(やつかれ)、每(つね)に網を張りて鳥を捕へど。未だ曾つて是の鳥の類(たぐひ)を得ず。故(かれ)、奇(あや)しみて、之れを獻らむ。」

と。

 天皇、酒君(さけのきみ)を召したまひて、鳥を示して曰はく。

「是れ、何(いか)なる鳥ぞ。」

と。

 酒君、對(こた)へて言(まう)さく、

「此の鳥の類(るゐ)、多(さは)に百濟に在り。馴(なつ)け得ば、能く人に從ひて、亦、捷(と)く飛びて、諸鳥を掠(かす)む。百濟の俗(ひと)、此の鳥を號(な)づけて『倶知(くち)』と曰ふ【是れ、今の時の鷹なり。】。」

と。

 乃(すなは)ち、酒君に授けて、養ひ馴けしむ。

 未だ幾時(いくばく)ならずして、得馴くことを得しむ。

 酒君、則ち、韋(をしかは)・緡(あしを)を以つて、其の足に著け、小鈴を以つて、其の尾に著けて、腕(ただむき)の上(へ)に居(す)ゑて、天皇に獻る。

 是の日、百舌鳥野(もずの)に幸(いでま)して、獵り、遊ばす。

 時に、雌雉(めきぎす)、多く起(た)つ。乃ち、鷹を放ちて、捕へしむ。忽ち、數十(あまた)の雉を獲りつ。

 是の月。甫(はじめ)て鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時の人、其の、鷹を養(か)へる處を號(なづ)けて、鷹甘邑(たかかひむら)曰ふ。

   *

作者は「韋緡(ふくさ)」(「袱紗」?)と読んでおり、昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀  訓讀 中卷」では、「韋緡(をしかはのあしを)」と一語で読んでいるが、これは「韋(をしかは)」は「鞣(なめ)し革」で、「緡(あしを)」は「細くて見えにくい釣り糸」の意であろう、というサイト「古事記をそのまま読む」の「上代語で読む日本書紀〔仁徳天皇(1)〕」の注に従って訓じておいた。そこで、「依網屯倉(よさみにみやけ)の阿弭古(あびこ)」については、『「依網(よさみ)」が氏、「屯倉(みやけ)」が名で、「阿弭古(あびこ)」が姓』とされ、『「依網阿毘古」は』『摂津国・住吉郡・大羅【於保与佐美〔おほよさみ〕】』『が本貫か』と注されている。「酒君」は講談社「日本人名大辞典」によれば、百済の王族の一人で、この二年前の仁徳天皇四十一年に紀角(きのつの)が百済に遣わされた際、角に対して無礼をはたらいたために捕えられ、日本に護送されたものの、その後、罪を許されて、ここにあるように、鷹の飼育を命じられて、鷹甘部(たかかいべ)の始祖となったとある。「百舌鳥野(もずの)」は現在の伝仁徳天皇陵とされる大山陵古墳を含む百舌鳥(もず)古墳群のある一帯に比定される。「鷹甘部(たかかひべ)」大化前代からあった職業部。鷹養部とも書く。狩猟のための鷹と犬の飼育・調教及び放鷹に従事した。彼らの居地は大和・河内・摂津・近江にあったが、全体を統轄する伴造(とものみやつこ)は見当たらず,地域ごとの伴造に率いられたようである。近江の伴造は「鷹養君」という君(きみ)姓であった(平凡社「世界大百科事典」ニに拠る)。作者は「住吉郡(すみよしこほり)鷹合村(たかあひむら)」とする。これは現在の大阪府大阪市東住吉区鷹合(たかあい)附近であろう。

「伊豫國小山田(おやまた)」愛媛県松山市小山田。しかし、ここを出しておいて、突然、直後に「此の山は」として「土佐・阿波三國に跨たがりたる大山(たいさん)なり」(これはマクロな四国山地を指している)というのは掟破りも甚だしい謂い方である。

「柚(ゆ)」柚子。ムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos の実が黄色く色づく秋である。

「すが糸」絓糸。縒りを掛けずに、そのまま一本で用いる生糸。白髪糸(しらがいと)。

「苧(お)」「お」は歴史的仮名遣の誤り。苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎの網。苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて網糸にしたもの。

「鵯(ひよとり)」スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis

「しかき」「鹿垣」で「しかぎ」或いは「しかぎ」と読み、鹿などが来るのを待つ猟師が、自分の身を隠すために、立ち木に横木を渡し、柴などを結びつけたもの。挿絵では、右の糸を操っていると思しい男の向こう側に、それらしい柴らしきものが見えるのだが、蔀関月にしては、珍しく遠近感を誤ってしまっていて、おかしい。頗る惜しい。

「惣髮(さうはつ)」歴史的仮名遣は「そうはつ」でよい。男の結髪の一つ。額の上の月代(さかやき)を剃らず、全体の髪を伸ばし、頂で束ねて結ったもの。また、後ろへ撫でつけて垂れ下げただけで、束ねないものもいう。江戸時代、医者・儒者・浪人・神官・山伏などが多く結った髪型。挿絵の男がほっかむりの後ろから、垂れ下がったそれが描かれてある。

「鷂(はいたか)」「ハシタカ」タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus 。「疾(はや)き鷹(たか)」が語源であり、それが転じて「はいたか」となった。嘗ては「はしたか」とも呼ばれていた。また、元来、「ハイタカ」とは「ハイタカ」の♀のことを指す名前で、♀とは体色が異なる♂は「コノリ」(ここで出る「兒鷂(このり)」)と呼ばれた。「大言海」によれば、「コノリ」の語源は「小鳥ニ乗リ懸クル意」であるという(当該ウィキに拠った)。個人的には好きな鷹の一種である。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)を参照されたい。

「䳄(めん)」雌鳥(めんどり)。

「逸物(いちもつ)」行動性能の優れた個体。

「班(ふ)」斑紋。

「山足緖(やまあしを)」「山大緖(やまおほを)」「足緖」は鷹狩りに使う鷹の足につける紐のこと。足革(あしかわ)とも言うから、後者はその厳重なものか。飼育係氏のサイト「フクロウのいる家」の「大緒(おおお)の製作_結びかた」を参照されたい。

「旋(もとをり)」前記リンク先から考えるに、紐を固定する大事な部分を指すか。

「紙にて、尾羽をはり」自ら、飛び立った際に、距離を延ばすことが出来ないようにするためか。

「樊籠(ふせご)」「樊」(音「ハン」)には「鳥籠」の意がある。

「餌板(えいた)」細い板の上に餌を置いて、駕籠を開けずに入れるための細い板状の餌やりの板か。

「尾袋(おふくろ)」鷹の尾を傷めないようにするために懸ける生絹(すずし)の袋。

「羽袋(はふくろ)」恐らくは、前注と同じく、損傷や逃走を防ぐための両主翼へ被せるそれであろう。

「赤毛」「䋄掛(あうけ)」「初種(わかくさ)」「黄鷹(わかたか)」若い鷹のことであろう。

「野曝(のされ)鷹」「山曝(やまされ)」「木曝(こされ)」「十月、十一月に捕りたるなり」生まれて三か月以内に捕らえた若鷹。一説に、秋を過ぎて冬に捕らえた鷹。「のざれの鷹」「のざらし」と、小学館「日本国語大辞典」にあるのに一致する。

「里落鷹(さとおちたか)」タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus との親和性を少し感じる和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)を参照されたい。

「新玉鷹(あらたまたか)」これは種ではなく、言祝ぎとして広汎に使うものであろう。

「佐保姬鷹(さほひめてう)」「乙女(をとめ)鷹」、前の年の新春に生まれた若鷹を獲って、鷹養用に訓練した、その時の、或いはそれから修業をして一年目に達したものであろうか。春を司る処女の「佐保姫」に通じさせたものであろう。

「小山鴘(こやまかへり)」の「鴘」の音「ヘン」で、原義は「二歳の鷹」及び「二歳の鷹の持つ羽の色」の意。但し、「こやまかえり」(「小山帰」とも書く)は、鷹用語で、前年に生まれた若鷹が翌春になっても、羽毛がまだ完全に抜け変わらないこと。また、その若鷹のことを指す。

「鷹懷(たかをなつける)」「なつける」は「手馴づける」であろう。

「打ちおろし」鷹養用語で「訓練を始めたばかりの鷹」。後に転じて、「修行を始めたばかりの者」の意となった。

「餌(え)じみ」鷹の摂取した餌で汚れた染み。

「塒(とや)」鳥屋(とや)。塒(ねぐら)。ここは飼育小屋。

「肉、よくなり」体幹の肉付きが良くなって。

「目かくる」「目掛くる」。

「手𢌞りにて」鷹匠の手ずから。

「聲立(こへたて)などして」ここは「鷹匠自らが、餌をやるのに、声を発したりなどしてしまうと」の意であろう。

「腰丸觜(こしまるはし)をまろばす」不詳。識者の御教授を乞う。

「屎(うち)」読みの由来不詳だが、「くそ」「まり」で、鷹の体の内(うち)より出る排泄物の謂い。小学館「日本国語大辞典」にも、『鷹の糞(ふん)』とある。これは飼育上の大事な観察物である。鳥は大小便の排泄は分離せず、総排泄腔から総てが排出されるから、それを調べることは、鳥個体の体内の状態を知るに、最も重要なものとなる。先の二本松泰子氏の手になる「韓国国立中央図書館蔵『鷹鶻方 全』全文翻刻」(サイト「大阪大学学術情報庫」のこちらから入手出来る)にも(三〇ページ三行目。訓点に従って書き下した)、『鷹の鷹鶻の屎(うち)に長(なか)き虫(むし)あるは、狼牙(らうけ)草を以つて水に煎(せん)して灌(そゝ)き下す。或は細末して食に和(まつ)る』とある。「狼牙草」とは、恐らくバラ目バラ科バラ亜科キジムシロ属ミツモトソウ Potentilla cryptotaeniae (水元草:中文表記「狼牙委陵菜」。「本草経」に「狼牙」で載る)と思われる。

『「飛流(とびなかし)」の活鳥(いけとり)を飼ふ【「飛流し」とは、鳥の目を縫ひ、野に出でて、高く飛はせて、鷹に羽合(はあはせ)するなり。目をぬふは、高く一筋に飛ばさんが爲め也。】。是れを、手際よく取れは、夫(それ)より、山野に出でて、取り飼ふなり』「目を縫」うというのは、ちょっと残酷な感じだが、恐らくは、片方だけをそうしたのかも知れない。但し、さんざん探したが、ネットでは縫うという記載は見当たらない。ただ、遮眼するのは片目ではないか。立体視で視野が広がると、本能的に索敵・索餌のために下界を見渡して高く飛ばないのではなかろうか。「中森康之ブログ」の「羽合:人鷹一体」に、『鷹狩り用語に「羽合」(あはせ)というのがある』として、大塚紀子著「鷹匠の技とこころ-鷹狩文化と諏訪流放鷹術」(白水社刊)から以下を引用されておられる。『「羽合」は日本の鷹匠の独特な猟法の一つで、鷹に加速をつけてやるために、拳から鷹を獲物に向かって投げるように押し出すことをいう』とあり、さらに『鷹と鷹匠が呼吸を合わせて、これをうまく成功させたときの技の境地を「人鷹一体」といい、これが、鷹匠が追求する究極の感覚である。(略)カモ猟などで鷹匠が十分に寄せたのち、絶妙の頃合いで羽合が成功したとき、それはまるで自分の拳が伸びたかのように感じられ、鷹の動きが線を描くかのように明確に見えて一瞬で捕らえることができる場合がある。この時の感覚は「羽合拳」といわれる』とある。ちょっと私の推理とは異なるけれども。

「艾葉(もくさ)」ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii

「のり毛」「糊毛」或いは「載り毛」か。ぺたっとしたそれか。

「村毛」「叢毛」であろう。

「つばな毛」さらに毛先が突き出始めて、「茅(ちがや)」(単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica 。花期は初夏(五 ~六月)で、葉が伸びないうちに葉の間から花茎を伸ばして、赤褐色の花穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも花穂は高く伸び上がり、花茎の上部に葉は少なく、ほぼまっすぐに立つ。小穂は基部に白い毛がある。花は小さく、銀白色の絹糸のような長毛に包まれて花穂に群がり咲かせ、褐色の雄しべがよく目立つ。当該ウィキに拠る)の穂の綿毛のようになるということであろう。

「尾の生(ふ)」恐らくは、斑(ふ)で、翼のそれと区別するために言っているように思う。尾羽の先の方に目立つ縞状の斑点模様は、主翼のそれらよりも寧ろ目立つように思われる。

「架(ほこ)」太い止まり木。別に「鷹槊」と書いて「たかほこ」と読ませる。

『雄(お)を「兄鷹(せう)」といひ、雌(め)を「弟鷹(たい)」といひて、是れをわかつには、輕重をもつてす。輕きを「兄(せう)」とし、重きを「弟(たい)」とす』小学館「日本国語大辞典」の「しょう」(セウ)「兄鷹」と見出して、『小さい鷹。また、おすの鷹。しょうたか。⇔弟鷹(だい)』とあり、「和名類聚抄」に載るので、中古にはあった呼称である。補注があって、『鷹は、めすが大きく、おすが小さいので、おすの鷹を「小」といい、これに「兄」をあてたといわれるが、一方、「妹(いも)」に対する「兄(せ)」に関係づけて説明する説』『もある』とある。私はまさに一読、直ちに後者の説と同じ感じを持った。後の方にも出る通り、「鷹は雌(めん)、大いなり」で、タカ類は極端ではないがものの、種によって♀の方がやや大きい性的二型が多いことは事実である。

『「角鷹(おほたか)【蒼鷹」「黄鷹」ともいふ。】』既注。

『「波廝妙(はしたへ)」【「弟(たい)」とも「兄(せう)」とも見知りがたきを云。】』ハイタカ。既注。なお、辞書類を見ると、「箸鷹」(はしたか)があり、そこには、聖霊の箸を火に焼いて、その微かな火影(ほかげ)で鷹を鳥屋(とや)からり出したことを言うともあった。

『「鶻(はやぶさ)」【雄(お)なり。形。小也。】・「隼(は)」【雌(め)なり。形、大(おほい)なり。仕(つ)かふに用之(これをもちゆ)。】』ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ亜種ハヤブサ Falco peregrinus japonensis和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)を参照されたい。

『「鷂(はいたか)」【雌(め)也。】・「兄鷹(このり)」【鷂の雄(お)也。】』既注。

『「萑鷂(つみ)」【「𪄄」とも書きて、品(しな)、多し。「黑―」・「木葉―」・「通―」・「熊―」・「北山―」、いづれも同品なり府をもつて別かつ。】』これは、タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis 和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 雀鷂(すすみだか・つみ) (ツミ)を参照されたい。なお、「𪄄」(音「テウ(チョウ)」は「鵰」に同じで、タカ科の鳥の中でも、大形のものを指す。また、「鵰雞(ちょうけい)」はミサゴ(鶚)で、タカ目ミサゴ科ミサゴ属 Pandionの鳥、或いは、ミサゴ属ミサゴ Pandion haliaetus を指す(一種説と、亜種を立てる二種説がある。当該ウィキを見られたい)。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご) (ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))を参照されたい。

『「萑𪀚(しつさい)」【「ツミ」より小也。】』これは、前注のタカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis ♂のことと思われる。「悦哉・雀𪀚」(えっさい)という語があり、これはツミの♂の呼称だからである。同種は♂の全長が二十七センチメートル、♀が三十センチメートルと、♀の方が大きい性的二型で区別してもおかしくないのである。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 雀鷂(すすみだか・つみ) (ツミ)も参照されたい。

「鷲(わし)」「全躰(せんたい)、黑し。年を經て、白き府(ふ)、種々に変ず」ウィキの「鷲」によれば、『鷲(わし)とは、タカ目タカ科』Accipitridae『に属する鳥のうち、オオワシ、オジロワシ、イヌワシ、ハクトウワシなど、比較的大き目のものを指す通称である。タカ科にて、比較的大きいものをワシ、小さめのものをタカ(鷹)と呼ぶが、明確な区別はなく、慣習に従って呼び分けているに過ぎない』とある。そこ上がった種は、

タカ科オジロワシ属オオワシ Haliaeetus pelagicus

オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla

イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos

ウミワシ属ハクトウワシ Haliaeetus leucocephalus

で、前の三種は本邦に普通に分布し、最後のハクトウワシのみは、北アメリカ大陸(アラスカなど)の沿岸部に広範囲に分布するが、国後島・北海道で限定的に発見されている北方種である。

『哥に「毛は黒く眼は靑し觜(はし)靑く脛(あし)に毛あるを鷲としるべし」』出典未詳。識者の御教授を乞う。

「鵰(くまたか)」「全躰、黒し。尾の府、年を經て、樣々に變ず」タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)を参照されたい。

『哥に「觜黑く靑ばし靑く足靑く脛に毛あるをくまたかとしれ」』同じく出典未詳。識者の御教授を乞う。前のも含め、これらは江戸時代の狂歌或いは俗謡のような気はする。

『任鳥(かふり)【「まくそつかみ」「くそつかみ」。】』声も姿も小さな時から私のお気に入りの「トンビ」、タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)を参照されたい。但し、「くそとび」という語が古くからあるものの、それはトンビと区別されて使用されている可能性があり、「糞鳶」という蔑称は恐らくは「鷹狩り」に使えない鷲鷹類であったためかとも思われ、そうなると、タカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus 及び、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculus を指している可能性も排除は出来ない。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵟(くそとび) (ノスリ或いはチョウゲンボウ)も参照されたい。

「惰鳥(よたか)」ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ(夜鷹)亜科ヨタカ属ヨタカ Caprimulgus indicus 。姿は確かにちょいと小さな鷹っぽくは見える。タスマニアに旅行した時に同属の幼鳥二羽を撮った写真がある。和漢三才圖會第四十一 水禽類 蚊母鳥 (ヨタカ)を参照されたい。

『「大和本草」云、『「鷹鶻方(ようこつはう)」を案ずるに、鷹の類(るい)、三種あり。鶻(はやぶさ)・鷹・鷲なり。今、案ずるに、白鷹(おほたか)・鷂(はいたか)・角鷹(くまたか)は鷹なり。』これは貝原益軒の「大和本草」の巻十五「山鳥」の冒頭に記された「鷹」の冒頭部分だが、引用は正確ではない。

   *

鷹 「鷹鶻方(ようこつはう)」を案ずるに、鷹の類(るゐ)、三種あり。「鶻(はやぶさ)」の類、「鷹」の類、鷲の類なり。今、案ずるに、「白鷹(おほたか)」・「鷂(はいたか)」・「角(くま)鷹」は鷹の類なり。

   *

である。この「鷹」の条はかなり長いので、電子化はしないが(面倒だかではなく、それをやりだすと、何時までもこの条を公開出来ないからである)、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認して戴くと判るが、実は作者の種本は「和漢三才図会」の他にこちらにも拠っていることが判る。

「隼(はやぶさ)」既注。

『「鵊鳩(さしは)」【「赤※(あかさしば)」[やぶちゃん注:「※」=(上)「治」或いは「冶」+(下)「鳥」。]。「靑―」・「底―」・「下―」・「裳濃(すそご)―」。】』」タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus 。タカの一種で、トビより小さく、全長約五十センチメートル。背面は濃い褐色で腹面に白地に褐色の横斑がある。額と喉は白く、喉の中央に一本の黒い縦条があり、尾羽に四本の黒褐色の横帯がある。山麓や平野の森林にすみ、昆虫・小鳥・蛇などを捕食する。本州以南に普通に見られ、冬は大群をなして南方へ渡る。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)も参照されたい。なお、異名の一つとする「裳濃鵊鳩(すすごさしは)」の「裳濃」は「裾濃」に同じで、同系色で、上方を淡くし、下方を次第に濃くしてゆく染め方や織り方を指す。また、甲冑の縅(おどし)では、上方を白、次を黄とし、次第に濃い色とするものを言う。

「諸鳥は、雄(お)、大(おほ)いなり」既に述べた通り、逆で、誤り。]

2021/07/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (4)

 

 是ら何れも現存の人や物を詛ふのだが、回敎には死んだ人を詛ふのが有る。波斯(ペルシア)人は、每歲マホメツトの外孫フツサインが殺された當日追弔大會を修する前夜、彼を殺したオマー等の像を廣場で燒きながら、詛言を吐く(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 556) 蓋し回敎にシアとスンニの二大派有て、波斯等のシア派徒はアリと其子フツサインを正統の回主とするに、土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]阿非利加等のスンニ派徒はアリ父子の敵だつたオマー等を奉崇す、因て波斯人はオマーを、土耳其人はアリ父子を魔の如く忌み、波斯人惡人を訕る[やぶちゃん注:「そしる」。]に彼はオマーだ抔と言ひ、祈禱の終りに必ずオマーを詛ひ、オマーを一口詛ふは徹夜の誦經に勝るとし、スンニ派よりシア派に改宗する者に、アリの敵アブベツクルとオスマンとオマー三人を詛はしむ(Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811, tom. Ix, p.36)

[やぶちゃん注:「‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843」ローマの貴族で作家・音楽家にして旅行家であったピエトロ・デッラ・ヴァッレ(Pietro Della Valle 一五八六年~一六五二年)の旅行記。Internet archiveのイタリア語原本のこちらが指示ページであるが、どうもここに書かれた内容はそこにはない。ページが違うようである。幾つかの固有名詞で調べてみたが、よく判らない。なお、リンク先のタイトル、

‘Viaggi di Pietro della Valle, il pellegrino : descritti da lui medesimo in lettere familiari all'erudito suo amico Mario Schipano, divisi in tre parti cioè : La Truchia, La Persia, e l'India, colla vita dell'autore’

を機械翻訳を参考にすると、

「巡礼者ピエトロ・デッラ・ヴァッレの旅――学者にして親しい友人であったマリオ・スキパノに宛てた書簡で、著者の生涯とともに、トルキア・ペルシャ・インドの三部に分かれる。」

といった意味らしい。

「マホメツトの外孫フツサインが殺された」六八〇年十月十日に発生した、ウマイヤ朝軍のシーア派討伐「カルバラーの戦い」のこと。ウマイヤ朝カリフ(預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体・国家の指導者にして最高権威者の称号)・ヤズィードの派遣した軍勢と宗祖預言者ムハンマドの外孫フサイン・イブン・アリーの軍勢との戦いで、フサイン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ(六二六年~六八〇年:父はムハンマドの従兄弟で養子となったアリー・イブン・アビー・ターリブ(六〇〇年頃~六六一年:イスラム教第四代正統カリフ(在位六五六年~六六一年)でシーア派初代イマーム(イスラム教の公的に認定された「指導者」の意)で、母はムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー)が虐殺されたことを指す。

「追弔大會」アーシューラー(ペルシア語ラテン文字転写:Âshurâ)。これは本来はヒジュラ暦におけるムハッラム月(一年で最初の月)の十日目を指すが、そこから転じて、この日に行われる宗教行事を指す場合もある。ウィキの「アーシューラー」によれば、『シーア派の信徒の間でアーシューラーはイマーム・フサインが殉教した日として特に重要視されている』。『ムハンマドの死から』五十『年後、ヒジュラ暦』六一『年アーシューラーの日(ユリウス暦』六八〇年十月一日)『に、初代イマームアリーと預言者の娘ファーティマの次男であり、シーア派の人々から第』三『代イマームとみなされるフサインが、現在のイラク、カルバラー付近の戦場でウマイヤ朝の軍隊によって殺害された(カルバラーの戦い)。シーア派の説によれば、フサインは、彼を指導者として推戴することを望むシーア派の人々の求めに応じ、父アリーの旧本拠地クーファに向かう途上、これを阻止しようとするウマイヤ朝カリフのヤズィード』Ⅰ『世の手にかかって殺されたということになっている。このため』、『シーア派の人々は、フサインをウマイヤ朝の手にかけさせてしまったことを哀悼し、タアズィーヤと呼ばれる殉教追悼行事を行うようになった』。『アーシューラーのタアズィーヤでは、フサインの殉教を哀悼する詩の朗読や、殉教したときの様子を再現する宗教劇が上演され、人々はフサインの死を大声で喚き、涙を流して嘆き悲しむ。さらに、フサインの棺を模した神輿が担ぎ出されたり、人々が鎖で自分の体を鞭打って哀悼の意を表現するなど、熱狂的な儀礼が繰り広げられる』。『宗教的な感情が最高潮を迎えるアーシューラーの日は、シーア派社会のエネルギーが爆発する日であり、イラン革命においてもアーシューラーの日に行われたデモが大きな影響力を持った』とある。

「オマー」不詳。ウィキの「カルバラーの戦い」によれば、『ヤズィードはこの戦いが原因で全シーア派から凄まじい憎しみを浴びせられ、現在でもこの一件はシーア派とスンナ派の感情的しこりとなって残っている』とあるが、ヤズィードの名や別称にはオマーに似たものはない。

「Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811」フランスに生まれ、後にイギリスへ亡命した商人ジャン・シャルダン(Jean Chardin 一六四三年~一七一三年:フランスのパリに富裕な宝石商の息子。フランスでは少数派だったキリスト教プロテスタントのカルヴァン派に所属していたため、身の危険を感じて、イギリスに移住し、王宮付き宝石商となり、チャールズⅡ世によりナイトの爵位を得た)は、二度、ペルシアへ旅行しており、一度目は一六六四年で、リヨンの商人とともにインドとペルシアへ向い、滞在中にサファヴィー朝王アッバースⅡ世の死去とスレイマーンⅠ世の即位に際会している。一六七〇年にフランスに帰国すると、「ペルシア王スレイマーンの戴冠」を出版したが、フランスにいてもプロテスタントでは出世が望めぬことから、一六七一年、再度、ペルシアへ出発し、イスタンブール・グルジアを経由して、一六七三、年ペルシアに到着、その後も商売のため、インドとペルシアを行き来し、最終的には、一六八〇年に喜望峰経由でフランスに帰国した。十四年余り東方で過ごし、ダイヤモンドなどにより、大量の利益を上げた一方、ペルシア語なども習得していて、現地人との交流も深かった。二度目の旅行から帰った後、イギリスの東インド会社に多額の出資を行ったが、役員選挙では落選している。そのためか、弟と新会社を設立し、一方では東インド会社の代表者としてオランダに赴任したりしている。一六八二年には王立協会フェロー(Fellowship of the Royal Society:ロンドン王立協会のフェロー・シップ(会員資格))に選出されている。一六八六年には二度目のペルシア旅行に関する「旅行記」を出版し、一七一一年までに、残る部分の旅行記を刊行している。当時、殆んど知られていなかったペルシアに関する旅行記は、当時大きな反響を呼んだ(当該ウィキに拠った))のその旅行記。Internet archiveのこちらで原本が見られるが、指示ページはここだが、これまた、どうも違うような気がする。幾つかの単語で調べてみたが、よく判らない。なお、この旅行記は日本語サイト「シャルダン 17世紀ペルシア旅行記図録 デジタルアーカイブ(Atlas of Chardin's Voyages from 17th-Century Persia Digital Archiveとして、図版を見ることが出来る。画像が非常に大きく、しかも美麗である。是非、見られたい。

「アブベツクル」アブー・バクル・アッ=スィッディーク(五七三年~六三四年)のことであろう。初代正統カリフ(在位六三二年~六三四年)で、預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリム(アラビア語で「神に帰依する者」の意で「イスラム教信者」のこと)であり、「カリフ」、則ち、「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」を名乗った最初の人物。但し、当該ウィキによれば、『アブー・バクルはスンナ派では理想的なカリフの一人として賞賛されているが、シーア派では』、『本来』、『預言者ムハンマドの後継者であるべきだったアリーの地位を簒奪したとして、批判の対象となることもある』とある。

「オスマン」オスマン帝国のオスマン家。オスマン帝国は例えばイラクをスンニ派の住民を介して支配していたという。]

2021/07/24

伽婢子卷之七 死亦契

 

Sisitematatigiru

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。標題は「死して、亦、契る」。【2021年10月17日追記】なお、まことにお恥ずかしいこと乍ら、これ以降、私の推定読み挿入を〔 〕でなく、《 》にしてしまい、それに気づいていなかった(他の複数の電子化で統一しているわけではないため、うっかりそれでずっと続けてしまい、最早、修正が甚だ面倒なほどに先までやってしまったので、悪しからず、ご了承戴きたい。心朽窩主人敬白。]

  

 ○死亦契

 

 大和の奈良に櫻田源五といふものあり。年廿五になり、父母を失ひ、いまだ妻も無くて、只獨りすみけり。

 源五が舅(をぢ)津田長兵衞といふもの一人の子あり。年、廿四、五なり。彥八と名づく。源五・彥八は從兄弟なりければ、したしく侍べり。

 或時、源五、

「東大寺にまうでゝ歸る。」

とて、猿澤の邊にて、奇麗なる乘物に、女、のりて、男一人、女二人を召つれ、池のはたに乘物をたてさせ、煎餅を碎きて、池に入れ、魚に食はせて、慰みける。

 其さし出せる手の白く美くしき、指は笋(たかんな)の如く、爪の色は赤銅色(しやくどうしき)にて、肘(かひな)のかゝり、不束(ふつゝか)ならず。

 源五、立ちとまりければ、内より、乘物の戶を開き、暫く、源五が顏をまぼり、已に立《たち》て歸る。

 源五、これに隨うて行《ゆき》ければ、三條通といふすゑに、筒井某(つゝゐなにがし)といふ者の家に入りたり。

 源五、是れを見そめて、心惑ひ、さまざま、たよりを求めて聞《きき》ければ、父は筒井順昭(じゆんせう)に屬(しよく)して、河内の軍(いくさ)に打死す。

 母、やもめにて、只、この娘一人をやしなうて、住《すみ》けり。

 娘の乳母(おち)は、源五、もとより知たる者也ければ、是に近づきて、いろいろ、たのみけり。

 乳母も、源五が美男にして、然も有德(うとく)なるを以つて、

『是に逢せばや。』

と思ふ。

「まづ、一筆のたよりを傅へん。」

とて、紅葉がさねの薄(うす)えふに、中々、言葉はなくて、

 いさり火のほのみてしより衣手に

   磯邊のなみのよせぬ日ぞなき

と、かきて、遣はしたり。

 乳母(おち)、是を姬君に見せしかば、顏、打ちあかめ、袂に入れて、立退(の)きぬ。

 然るに、如何なる者か、知らせけん、源五が舅(おぢ)津田、この娘の事を聞て、

『我子彥八が妻にせむ。』

と思ひ、なかだちを入れて、娘の母に、いはせたり。

 津田も武門の末也。世もよかりければ、うけごひて、賴みをとりたり。

 娘はこゝち煩ひて、つやつや、湯(ゆ)水をだに、聞入れず。

 母、云やう、

「津田彥八と云ふ人に緣を定めたり。心を引立よ。近き比に、かの方に遣しなん。」

といふ。

 娘、更に、恨みたる色、あり。

 乳母(おち)に語りけるやう、

「源五が許にこそ、行かまほしけれ。其の彥八とかや、何せんに、只、死したるこそ、よからめ。」

とて、猶、藥をだに飮まず。

 母悲しさの餘り、乳母に心を合はせ、源五に、

「かく。」

といひて、娘を盜み取らせたり。

 源五、大に喜び、乳母と妻をつれて、奈良をば、立のき、郡山(こほり《やま》)といふ所に隱れ住みけり。

 津田、又、

「ゆきて、娘を迎へ取らん。」

と云ふ。

 母、なくなくいふやう、

「此間、誰人(たれ《ひと》)かかどはしけむ、乳母と共に行方なし。」

といへば、

「わが甥の源五が、心を懸けしと聞たり。盜みて隱れぬらん。」

と、大に怒り、腹立、其の間に、娘の母、死したり。

 跡の事は母の弟(おとゝ)、是れを、まかなふ。

 源五夫婦、餘所(よそ)ながら、野邊の送りに出つゝ、いと忍びたりけるを、津田彥八、見付て跡をしたひ、郡山に行きて、家、よく見屆け、立歸りて、父長兵衞に語る。

 長兵衞、すなはち、奈良の所司代松永に訴へて、對決(たいけつ)に及ぶ。

 源五、いふやう、

「それがし、前に契約して、賴みを遣はせし。」

といふ。

 津田は、なかだちを證據として、

「賴みを遣はせし。」

といふ。

 娘の母は死たり。

 いづれとも知りがたし。

 されども津田が賴みを遣はしける事は、なかだち、たしか也。

 源五にも、理《り》有りといへ共、此娘をとゞむる事、法にそむけり。

 只、

「津田がもとに返し遣はせ。」

とあり。

 力なく女房は彥八に取られぬ。

 娘も乳母も此事を病として、打續き、二人ながら、むなしくなれり。

 源五が事をや、思ひけむ。

 さりともと思ひしまでの命さへ

   今はたのみもなき身とぞなる

 彥八、いと悲しく、妻と乳母が墓所を、ひとつ寺の地に作りて、跡を弔ひけり。

 さるほどに、源五は妻を取られて後は、よろづ、あぢきなく、其面影を忘れ兼つゝ、

「せめては、風のたよりの音づれだに聞えぬは、此女も、彥八にわりなくなりて、我をば、忘れぬらん。」

と、恨めしく思ひて、

 なびくかと見えしもしほの煙だに

   今はあとなき浦かぜふく

と打詠めをる。

 其暮がた、門をたゝく。

 開きて見れば、妻の女房の乳母也。

 櫛・鏡、入《いれ》たる袋(ふくろ)を前に抱へて、

「只今、我君、こゝに走り來り給ふ。」

といふ。

 源五、うれしくて、門を開き、内に呼入《よびいれ》しに、女のかたち、そのかみにも替らず。

 餘りの事に、夫婦、手を取りて、嬉し泣きに、なきけり。

 斯くて其故を語る。

「君の事、つゆ忘るゝ事なく、彥八の家にあるにもあられず、忍び出て、逃げ來れり。日ごろの願ひ、今、已にかなひ侍べり。」

といふに、源五、堪がたく、喜びつゝ、偕老のかたらひ、今更なり。

 彥八が家人、ある時、郡山に行て、源五が門を見いれたりければ、乳母、何心なく立出たるを見つけ、走り歸りて、彥八に告げたり。

 彥八が父は、去ぬる月、死にたり。

 彥八、きゝて怪しみ、

「それは、正しく死して、埋み侍べりし。如何に世に似たる者こそあれ。人違へにてぞあるらん。」

といふに、

「正しく、見損ぜず。」

と、あらがひけり。

 彥八、行きて垣(かき)のひまより、覗きければ、女は鏡をたてゝ、けさうし、乳母は其前にあり。

 彥八、内に突き入《いり》て、源五に對面し、

「女も、乳母も、此春、うちつゞきてむなしくなりしを、寺に送り、同じ所に埋(うづ)みしに、今、こゝに、來り住む事の怪しさよ。」

といふ。

 源五も、奇特(きどく)の事に思ひ、部屋に行きて見れば、女も、乳母も、行がたなくなりて、跡も見えず。

 二人ながら云やう、

「さては。幽靈の來りけるにこそ。此上は互に日比(《ひ》ごろ)の恨みも、なし。」

とて、源五・彥八、打つれて寺にゆき、塚をほりて見れば、女も乳母も、形ち、少しも損ぜず、只、生たる時のごとし。

 やがて、もとの如くに埋みて、源五・彥八、共に高野山に籠り、道心おこして、二たび、山を出ず。

 

[やぶちゃん注:「櫻田源五」不詳。

「舅(おぢ)」伯父・叔父に同じ。

「津田」不詳。

「肘(かひな)のかゝり」裾からのぞく前腕と、手首の様子。

「不束(ふつゝか)ならず」いかにも嫋やかな美しい風情である。

「三條通」奈良市街を東西に貫通する通り。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「筒井某(つゝゐなにがし)」本書内の話柄は戦国時代が殆んどであるが、大和四家と言われる筒井氏、特に筒井順慶が知られるが、ここはその父筒井順昭(じゅんしょう 大永三(一五二三)年~天文一九(一五五〇)年)の同族の一人という設定である。

「河内の軍(いくさ)に打死す」「新日本古典文学大系」版脚注では、まず、天文一一(一五四二)年三月十七日に起こった「太平寺の戦い」(現在の大阪府柏原市太平寺周辺で行われた戦いで、凡そ十年の間、畿内で権勢を揮っていた木沢長政が三好長慶・遊佐長教らに討ち取られた)を指すかとされ、『畠山植長と組んだ順昭が、遊佐・三好連合軍とともに太平寺に木沢長政を討った』としつつも、『また同年九月にには河内飯盛城の戦いもあり、特定できない』とされる。

「乳母(おち)」乳母(うば)に同じ。

「紅葉がさねの」本来は襲(かさね)の色目(いろめ)の名。表は紅、裏は青。一説に、表は赤色、裏は濃い赤色。また、女房の五衣の襲の色目では、上には黄、次に山吹の濃淡、紅の濃淡、これに蘇芳の単(ひとえ)を着る。ここはそのように和紙を重ねて、紅葉のような雰囲気の色の濃淡を作った書信䇳を指す。

「薄(うす)えふ」「薄樣」「薄葉」で和紙の名。雁皮(がんぴ:バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ガンピ属ガンピ Diplomorpha sikokiana 。奈良時代から製紙原料として用いられた)で薄く漉いた鳥の子紙。楮(こうぞ)でも作った。古く、和歌、文書等を書き写したり、物を包んだり、あるいは子供の髪を結ぶ元結ともした。

「いさり火のほのみてしより衣手に磯邊のなみのよせぬ日ぞなき」「なみ」に「波」と「涙」の「なみ」を掛ける。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「題林愚抄」の「恋一」の「見恋」の経家卿(「六百番歌合」)の転用とする。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たることが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「12」コマ目の右頁の最初にある。異同なし。

「なかだち」仲人(なこうど)。

「世もよかりければ」「新日本古典文学大系」版脚注に『生活も裕福であったので』とある。

うけごひて、賴みをとりたり。

「つやつや」副詞で 否定辞を伴った場合は、「まるっきり・まったく~(ない)」の意。ここはそれを聞き入れないだけでなく、食事はおろか、「湯(ゆ)水」(みづ)をさえ拒んで絶食で「ノー!」の意を示したのである。

「源五が許にこそ、行かまほしけれ。其の彥八とかや、何せんに、只、死したるこそ、よからめ。」「妾(わらわ)は源五さまがもとにこそ行って、結ばれたい!……その彦八とかいうお人は……いったい、どこのどいつです?……こうなっては……いっそのこと、死んだ方がましだわ!」。

「郡山(こほり《やま》)」現在の奈良県大和郡山市

「跡の事」葬儀。

「所司代松永」「新日本古典文学大系」版脚注に、『筒井順慶と対立した松永久秀等を想定するか』とある。

「なかだち、たしか也」仲人に当たった者が証言して、事実と確認されたのであった。

「さりともと思ひしまでの命さへ今はたのみもなき身とぞなる」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「題林愚抄」の「恋二」の「契絶恋」の為定卿(「元亨三後宇多院十首」)の転用とする。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たることが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「30」コマ目の左頁の七行目にあるが、そこでは、

 さりともと思ひしまでの契にて今はたのみもなき身成けり

である。

「なびくかと見えしもしほの煙だに今はあとなき浦かぜふく」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「題林愚抄」の「恋二」の「恨絶恋」の法印憲実(「続拾遺集」恋五)の転用とする。前注の指示した歌の後に続いて載り、異同はない。]

芥川龍之介書簡抄106 / 大正一〇(一九二一)年(一) 八通

 

大正一〇(一九二一)年一月六日・田端発信・小澤忠兵衞宛

 

拜啓 咋夜は御來駕を得た所留守にて何とも殘念に存じましたしかも正月になつてから元日の夜は除きあの日始めて外へ出たのです大阪每日へ怪しげな小說を書き出した爲又多忙になりました但しこれは一週間ばかりすると片づきますその上でゆつくり優游します僕この頃思ふに雅號に二種あり一は支那直輸一は日本特製でありますつまり漱石は前者最仲は後者なのですなそこで僕も日本雅號を一つつけたいと思つていろいろ考へて見たのですがどうも好いのにあたりません光悅の子の空中、小堀遠州の宗中、なぞ中の字の號が好いと思つても最仲の向うを張る程のは一つも遭遇しないのです姓名判斷によると了中と云ふ號が好いさうですが何だか男藝者じみる爲ためらつてゐます序に見て貰つたら最仲はあなたに大へん好いさうです但しこの姓名判斷家は素人ださうですから餘り當てにはなりません日本及日本人の選句をなさる由僕は舊傾向故投句出來ません聊殘念な氣がしますそれから齋藤茂吉氏の「あらたま」一部差上げるつもりのがあります故御買ひ求めにならずに下さい可成好い歌があるやうです僕は歌も俳句もなまけてゐます唯この間人に金瓶梅を一部贈る時歌二首を添へてやりました御高覽に供します

   老らくの身を忘れむはこのふみに玉子の酒もけだし若かざらむ

   かにかくにこの長ふみを讀まゝくは霜月はつか藥喰ひの後

われわれの鬼趣帖に題して頂いた歌中ろくろ首の歌壓卷と存じます「ぬばたまの雨夜を化けて」の御歌にも敬禮したのですが「ぬばたまの」が「雨夜」にかかる例があるかどうか心配に思つてゐます近々御目にかかります 以上

     一月六日      我 鬼 拜

    最 仲 樣 まゐる

   二伸 別紙は前に書いて出さずにしまつた手紙です序に御らん下さい

 

拜 啓御手紙拜見しました今度も御歌は結構に存じます雅號の事最仲はモナカと讀む讀まないに不關だんだん好い氣がして來ました藻中、御尤好音悉最仲に及びません貌を御改めになるなら是非最仲になさい江戶百年の風流が上品にまとまるとあの號以外に出ない事になります雲田の惡口などはいくら云つてもかまひません遠慮なく申上げると僕の句なり歌なり或は又趣味全般はもつと露骨に批評して頂いた方が好いのですその批評が當つてゐたら僕はすぐ禮拜します當つてゐなかつたらもう一度押し返します古人は道の爲には師弟を問はないと云つたさうですが我々の間では風流が卽道ですから御互に遠慮のない方が道の爲になるだらうと思ひます僕は新到の雲水ですがそれでも說がある時は愚說でも僻說でも述べる氣でゐますまして久參の衲子たる先生は僕なぞの理窟に間違つてゐる所があつたらかまはずピシピシやつて下さい「山鴫」は全然出來そくなひました

 

[やぶちゃん注:「優游」(いういう(ゆうゆう))は「ゆったりとして心のままに楽しむこと。のどかでこせつかないこと」。

「僕は舊傾向故投句出來ません」小澤碧童は新傾向派の河東碧梧桐門下であり、龍之介はここでは自分は守旧派であるから、と言っているのである。但し、瀧井辺りからの感化から、龍之介は明白な新傾向や自由律さえも実は既に自作している。

『齋藤茂吉氏の「あらたま」』この一月に茂吉は第二歌集「あらたま」(春陽堂刊。作歌期間は大正二年から六年のもの)を刊行している。

「藥喰ひ」冬、滋養や保温のための薬と称して鹿・猪などの獣肉を食べることを江戸以前に言ったもの。殺生や差別観から、表向きは、獣肉は忌まれ、一般には食べなかったが、病人や好事家などはこういう口実を設けて、結構、食べていた。

「鬼趣帖」筑摩全集類聚版脚注に、『芥川と小穴の合作になる「鬼趣図」のこと。奉書に描かれ、大正九年十二月二十一日小沢宛に送られた。それに碧童が「鬼趣図をみてよめる狂歌」二首をつけた』として、その歌二首を引き、最後に括弧書きで『小穴隆一「鬼趣図」参照』とある。その参照元は私が既に『小穴隆一「二つの繪」(42) 「河郎之舍」(1) 鬼趣圖』で電子化注してある。そこに、

   *

   龍之介隆一兩先生合作

   鬼趣圖をみてよめる狂歌

 ろくろ首はいとしむすめと思ひしに縞のきものの男の子なりけり

 うばたまのやみ夜をはけてからかさの舌長々し足駄にもまた

   *

とあるのがそれである。「鬼趣圖」の画像も添えられてあるが、ぼんやりとしていて、見るに堪えるものではないので、期待せずにリンク先を見られたい。なお、小穴は後の『「鯨のお詣り」(38)「河郎之舍」(1)「鬼趣圖」』(こちらも私の電子化注)でも前掲書に加筆したものをものしている。

「衲子」「なふす(のうす)」或いは「なつす(なっす)」と読む。「衲衣(のうえ:本来は、修行僧が俗人の捨てた襤褸を拾って縫った袈裟を指し、古代インドでは、これを着ることを「十二頭陀 行」の一つとしたが、中国に至って、実態は華美となってしまい、本邦では綾・錦・金襴などを用いた荘厳された「七条の袈裟」を指すに堕落してしまった)を着けた者」の意で、特に禅僧を指す。

「山鴫」大正十年一月一日発行の『中央公論』初出。龍之介の偏愛するトルストイとツルゲーネフの邂逅を切り取ったもの。トルストイとツルゲーネフを愛すること、特に後者については、龍之介に劣らぬ自信が私にはあるが、この作品は、あまり成功しているとは言えない。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月六日・消印七日・田端発信(推定)・本鄕區東片町百三十四 小穴隆一樣・一月六日 芥川龍之介

 

拜啓

昨晩はわざわざ御光來下さつた所留守にて恐縮 昨日始めて外へ出たのにてそれまでは每日ゐたのにと思つたそれから歲旦の名畫難有う 仲丙先生からも歌や句を貰つた僕何時ぞやのお降りの句以來句も歌も作らず 大阪の新聞へ變な小說執筆中 あの南畫の本もまだ一册しか見ず畫は一枚仿雲林をやつて失敗した天神の古道具屋の鉢君が買つたですか 咋夜行つたらもうなかつた 人手に落ちたのだと少し口惜しい 僕も中の字のつく號がつけたくなつた爲いろいろ考へた

宗中(コレハ小堀遠州の號)

空中(本阿彌光悅の子の號)

などつけたいのは人がもうつけてゐる 旦中としようかと思つたが未定、中の字のつく號は惡くすると男藝者じみるのでむづかしい

昌中、玄中、童中、呆中、寂中、景中、素中、了中、

皆落第 昌中はどうかと思つたがこれ亦未定 田中と云ふのを考へたらタナカだつたので困つたいづれ年始𢌞り完結次第仲丙先生を訪ねます

    一月六日       未生子旦中

   一游亭主人梧右

 

[やぶちゃん注:「仲丙先生」小澤碧童の篆刻家としての号。

「お降りの句」既出既注

「變な小說」「奇怪な再會」。『大阪毎日新聞』夕刊に大正十年一月五日から同年二月二日まで、休載を挟んで十七回で連載した。ジャンルとしては「開化物」の怪談である。

「仿雲林をやつて失敗した」「仿」(はう(ほう))は動詞では「ならふ」で「模倣する」の意。「雲林」は元末の画家で「元末四大家」や「金陵九子」の一人に数えられた倪瓚(げいさん 一三〇一年~一三七四年)の号。グーグル画像検索「倪瓚」をリンクさせておく。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月九日・田端発信・香取秀眞宛(封筒に「東南離芥川龍之介」とある)

 

この間は御歌を難有うございました惡歌を御返し致します

  一杯の酒ものまねど夜語りのあとはうつべしわれをよばさね

 

[やぶちゃん注:「あとはうつべしわれをよばさね」よく判らぬが、「うつ」は囲碁か将棋を「打つ」か? 「さね」は万葉以来の連語で上代の尊敬の助動詞「す」の未然形に、相手の同意・返答などを期待する意を表わす終助詞「ね」で、敬意を込めて相手に「是非ともそうして欲しい」という気持ちを表わすそれであろう。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月十三日 大阪市東區空堀通二三三ノニ 玉林憲義樣

 

啓 今朝あなたの手紙を見ましたあなたの手紙は好い手紙です私は愉快に讀みました時に私の所へも知らない人が手紙をくれます書生に置いてくれと云ふ手紙もあります原稿を見てくれと云ふ手紙もあります色紙や短册を書けと云ふ手紙もあります私はさういふ手紙が來ると大抵顏をしかめますさうして斷りの返事を書きますあなたの手紙はそんな手紙ぢやないそれだけでも既に愉快ですその上あなたの手紙には我我三十前後の人間には失はれた純粹な感情があるやうですもう一度繰返すと私は愉快にあなたの手紙を讀む事が出來ましたしかしあなたを知らない私には何をあなたに注意して好いかわかりません唯私が誰にでも云ふ事を書けばあなたが何になるにしても勉强おしなさいと云ふだけです勉强おしなさい私も負けずに勉强します 以上

    一月十三日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「玉林憲義(たまばやしのりよし 明治四〇(一九〇七)年~平成八(一九九六)年)は後のドイツ文学者。山口県生まれ。昭和五(一九三〇)年京都帝国大学文学部独逸文学科を卒業し、同大学院で修学、後に関西学院大学予科教授・文学部部長・キリスト教主義教育研究室長・院長事務取扱・理事・評議員などを歴任した。関西学院大学の独文学科設立の尽力者でもある。関西学院大学を定年退職後は兵庫医科大学教授に就任した(主文は当該ウィキに拠った)。但し、当時は未だ満十三歳であった。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月十九日・田端発信・中西秀男宛

 

この間はわかさぎを難有うあのわかさぎはお母さんが送つて下すつたのですか

   わかさぎを火に炙りつついまだ見ぬ人のなさけを嬉しみにけり

   久方の霞が浦にとりにけむこのわかさぎの味のよろしも

羊羹もかたねりでうまいですねあれも難有う

   大寒や羊羹殘る皿の底

これはあの羊羹を食ひ食ひ夜原稿を書いた時の實景です土浦のお宅を知らせてくれゝばそちらへも御禮狀を出します序の節御しらせなさい小說は出來ましたか今度君にあつたら淺草文庫の批評をします小生は今大阪每日に「奇怪な再會」と云ふ怪談を書いてゐます 以上

    一月十九日      我 鬼 拜

   中西秀男樣 まゐる

 

[やぶちゃん注:「中西秀男」既出既注

「淺草文庫」中西が嘗ていた東京高等工業(現在の東工大)の文芸部の機関誌。芥川龍之介は同雑誌の選者を引き受けていた。但し、中西は、この当時は早稲田大学高等師範部英語科に移籍しており、この年に卒業している。]

 

 

大正一〇(一九二一)年二月十二日・田端発信・本鄕區東片町百卅四 小穴隆一樣・十二日 市外田端四三五 芥川龍之介(葉書)

 

啓碧童大哥の都合さへよければ十六日に書く會をやらばやと思ふが如何僕校正が未にすまぬ 嫌で嫌で眞實へこたれた皆屎(クソ)の臭がする 且急用ありて大阪の社へも行かねばならん苦娑婆苦無限

 

[やぶちゃん注:「大哥」(たいか)は中国語で「兄・一番上の兄」の意。

「書く會」小澤碧童・小穴隆一・芥川龍之介の三人が集まっては、短歌・俳句・絵画などをものし合って遊んだ会合のこと。幾つものそれが現存している。

「急用ありて大阪の社へも行かねばならん」新全集宮坂年譜によれば、この七日後の二月十九日に『大阪毎日新聞社から下阪を命じる電報が届く』とあり、二十二日の夜、同新聞社の『接待を受け』たが、その席上で、同『新聞社から、海外視察員としての中国特派が提案され』、以前から中国に非常な興味を抱いていた龍之介は、『この提案を承諾し』、三『月中旬から三、四か月の予定で中国に特派されることが決まった』とある。されば、この一月の初旬頃には、内々に田端の龍之介に中国特派の慫慂が通知されていたものと考えられるのである。

 

 

大正一〇(一九二一)年二月・田端発信・小穴隆一宛

 

 武士あり。郞等四五人と鹿獵に出でし歸途或寺の說法をきき、突然剃髮す。郞等共驚き悲めどせんなし。水干袴の代りに袈裟法衣を著、金鼓(こんぐ)を胸にかけ、「阿彌陀佛よや、おおいおおい」と呼びながら、西の方へ步き行く。阿彌陀佛は衆生渴仰の聲に、答へ給ふべしと聞きし故なり。西に大海あり。海邊に二股の枯木あり。その上に登り、海を望んで「阿彌陀佛よや、おおい、おおい」と言ふ。七日にして餓ゑて死す。そのほとりに住む僧一人、尋ね行きて見れば、枯木梢上の屍骸、口中より一朶の蓮華を生ぜしを見る。往生せしを知る。隨喜極りなし。[やぶちゃん注:ここまで底本では全体が一字下げ。]

この物語より畫二枚作られたし。二十六日までに國粹へ送られたし。屍骸は枯木より下さざりしなり。よろしく願ひ奉る。僕は向うより原稿を送るべし。二十六日までは好いと言ふ故、無理に書く事と仕つたのなり。

 

[やぶちゃん注:ここに描かれたシノプシスは芥川龍之介の「往生繪卷」(リンク先は「青空文庫」の同作)のそれである。同作はこの年の四月に雑誌『國粹』に発表された。その挿絵を小穴に依頼するものである(描いたか、採用されたいかは、孰れも不明)。「向う」は大阪。但し、実際の脱稿は大阪から帰京(二月二十四日夕刻)した、三日後の二月二十七日であった。評価は全体に低いが、私は好きな一篇である。なお、本作はシナリオ式のベーゼ・ドラマで、典拠は「今昔物語集」巻第十九の「讚岐國多度郡五位聞法卽出家語第十四」(讃岐國多度郡(たどのこほり)の五位、法を聞きて、卽ち、出家せる語(こと)第十四)である。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。

「金鼓(こんぐ)」「こんく」とも読む。仏家の楽器の一つ。銅製で、平たい円形で中空。仏堂で架に取り付けて打ち鳴らしたり、僧侶が行脚の際、首にかける小型の鉦鼓(しょうこ)のことも指す。ここは後者。前者は鰐口(わにぐち)とも呼ぶ。]

 

 

大正一〇(一九二一)年二月二十日・田端発信・小穴隆一宛

 

Mikanbakari

 

  ぬばたまの夜風に冴えは返る頃を一游亭よ風ひくなゆめ

  打ち日さす都をさかる汽車の窓に圓中なんぢを思ふ男あり

一日おくれ今夜發足同行は宇野耕右衞門二人共下戶故[やぶちゃん注:※1。]や[やぶちゃん注:※2。]はなし[やぶちゃん注:※3。]ばかり

                夜來花庵主

  小穴隆一君

 

[やぶちゃん注:※1・※2・※3とした部分は、絵。底本の岩波旧全集の活字部を消去して前に掲げた。上から※1(猪口=酒)、※2(ビール瓶=ビール)、※3(蜜柑)である。

「宇野耕右衞門」宇野浩二の渾名。宇野の小説「耕右衞門の改名」(大正七(一九一八)年発表)に由来するもの。]

   *

 なお、これ以降の芥川龍之介の中国特派に関わる(直前の関連書簡も含む)書簡群は、既に、サイトで「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」として完全電子化注済みであるので、その分はここでは再度取り上げるつもりはない。

2021/07/23

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (8) 詐欺騙盜を取扱つた文學(晝夜用心記と世間用心記)

 

      詐欺騙盜を取扱つた文學(晝夜用心記と世間用心記)

 

 櫻陰、鎌倉、藤陰三比事が『探偵』の面白さを目的として書かれたといふよりも、むしろ教訓を目的として書かれたものであることは言ふ迄もないことであるが、それと同じくその時代に書かれた騙盜小說も、やはり、教訓小說の一種と見倣すべきである。私はこれから、三比事と同時代の騙盜小說として名高い『晝夜用心記』(寶永四年[やぶちゃん注:一七〇九年]刊行)と、『世間用心記』(寶永六年刊行、最初儻偶(てれん)用心記と言つた。)との二種に就て述へようと思ふが、『晝夜用心記』は、『櫻陰比事』の著者たる井原西鶴の弟子北條團水の著はす所であり、『世間用心記』は『鎌倉比事』の著者月尋堂の著はす所てあつて、團水も月尋堂ち、共に數多くの敎訓小說の作者である。例へば團水には、『武述張合大鑑』『日本新永代藏』などの述作があり、月尋堂には『今樣二十四孝』、『子孫大黑柱』などの述作があつて、これ等の小說は、いづれも『敎訓』を主として居るのである。[やぶちゃん注:「儻偶」は仲間内で上手く相手を騙す「手練手管」を弄する集団の意であろう。]

 すてに、書名となつて居る『用心』といふ言葉そのものからでも敎訓の意味は察し得られるが、兩書の序文を見ればなほ一層明かである。卽ち『晝夜用心記』には、湖西繁平《こにししげへい》といふ人が、[やぶちゃん注:以下、底本では引用は全体が一字下げ。]

『此晝夜用心記全部六册は、鳳城團粹居士醉中の戯れに書捨てられしを撮萃《とりあつ》めて一帙と成せり、大槪《おほよそ》世間に謀計子《かたり》といふ者、僞をたくみ辯舌もつて人を誑《たぶら》かし、金銀を掠め奪ひし方便《てだて》、古今の間語り傳へしを、三十六種に書きつらねたり。這裏《このうち》虛あり實あるべし、只民家用心の爲に記して、眞僞覺悟の種に編める者也』[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションで大正四(一九一五)年珍書会刊の活字本が読める。「序」はここ。]と序し、『世間用心記』には、定延といふ人が、

 『儻偶(てれん)とは頭のことか、それは天邊《てへん》ぞや、何のことぞ、答へて申しける、凡《およそ》こと葉は折からの童謠にて、ふしは替れど事の道理はちがはず、古き神の代も、慮《はか》りに計りゐましける、釋迦も方便に脇腹から生れ、孔子も斯く事なかれと敎へ、大和歌には二《ふた》おもてを、なら坂の兒手《このて》がしはにたとへ時雨にくらべし僞り名を、末《すゑ》の諺《ことわざ》にだますといへり、かたられしといへり、うつむけにしやるのといひ、一ぱいくはした、ちやかしたと申す、其名儀(めうぎ)の飜譯かぞへるに盡きずちかき此頃よろはちらてんといへば、てれんと中略し、いふも聞くも、てれんの心は通ひぬ、かならず大鼓のひゞきにあらず、また三味線《さみせん》かぶる鼠《ねづみ》にあらず、あたまの黑い儻偶子《たばかり/てれん》に用心し御座せとや。』[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで江戸中期の板行本が読め、ここからが序である。「飜譯」は原本を見ると(右頁一行目)、「飜釈」とあり、しかも読みが「おんしよく」と読める。当て訓で、私には腑に落ちる。まさに当て読みして、掟破りにいろいろと呼び方が変わってきたことを言っているのだから、激しく腑に落ちるのである。最後の「儻偶子《たばかり/てれん》」も原本の左右の読みを添えたものである。]

と序して居る。

 然し乍ら、こゝでいふ『敎訓』といふ言葉は必ずしも勸善懲惡の意義を有しては居ない。何となれば、詐欺を取り扱つた小說の大部分は、詐欺の方法そのものが興味の中心となつて居て、詐欺師は逮捕されもしなければまた罰せられもしないからである。この取扱ひ方は、現今の探偵小說にもその儘應用せられ、詐欺小說の讀者は、詐欺の方法が巧妙であればある程痛快を感じ、詐欺にかけられた方の人に同情するものはめつたに無いのである。だからうつかりすると、詐欺小說を讀んだものは、自分も同じやうな方法を實地に試みて見ようかここといふ惡心を起さぬとも限らず、敎訓小說が却つて『惡』を鼓醉[やぶちゃん注:ママ。「鼓吹」の誤り。]する役をつとめる場合がなきにしもあらずである。この點に於て詐欺を取扱つたこれ等の小說は、探偵小說として、より現代的であるといふことが出來るのである。たとへば、兩用心記の中の物語をその儘現代語に飜譯しても探偵小說として相當なものが出來、又、歐米の現代の騙盜小說の中には、兩用心記の物語の内容と頗る似て居るものがある。それ故、櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事が、探偵小說として頗る幼椎なものであるに反して、兩用心記は、探偵小說としては比較的優れた價値を持つて居るのである。

 

      兩用心記の比較

 

 櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事が、支那の棠陰比事の影響を受けて居ることは既に述べたところであるが、晝夜、世間兩用心記もまた、支那の騙盜小說、『杜編新書』、『騙術奇談』などと、その趣を同じうして居るのである。晝夜用心記には總計三十六の物語があり、世問用心記には總計三十の物語があつて、その書き方は大たいに於て似寄つたものであるが、取扱はれて居る材料には多少の差異がないでもない。一口に言ふと晝夜用心記の物語は、殆ど皆、金錢又は物品を詐取する話であるが、世間用心記には、金錢又は物品を詐取する話以外に、所謂手練手管を取り扱つた人情話が澤山あつて、中には殺人などを取り扱つた探偵小說まではひつて居るのである。

 文章の巧拙に至つては、私にはよくわからぬけれど、世間用心記が頗る凝つた筆の運び方をして居て、よく味つて見てはじめてその意味がわかるに反して、晝夜用心記の方はすらすらとした筆の運び方で、すぐその意味がわかる。今左に兩者の文章を比較するために短い物語を一つ宛引用して見ようと思ふ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一行下げ。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ではここから。]

 

        御祈禱申せば大吉院(晝夜用心記)

『本石町に唐津屋とて、虎の生膽、白象の鼻油《はなぶら》、蠟虎《らつこ》の毛貫袋《けぬきぶくろ》、天龍の涎《よだれ》、一切の珍物、阿蘭陀、東京《とんきん》、三韓の藥種、此店に無いものはどこにもなし。ある時若黨草履とり挾箱持《はさみばこもち》めしつれたる侍、此見世に腰かけて、朝鮮人參極上々を見たきよし、吟味のうへ、當年は殊の外り高直は合點にて此店にある程の高、髭折《ひげをれ》七十三兩[やぶちゃん注:二キロ七百三十五グラム。「髭折」は髭根を綺麗に除去したものを指すか。]、所々見合はする中、是よきに極まれば、皆召さるべし。代金は念のため一往旦那へ披露の上相渡すべし。則ち亭主の弟八之丞同道して、挾箱に入れさせ、屋敷へあゆみける其比目黑臺座町《だいざまち》の裏店《うらだな》に、大吉院とてかくれもなき祈禱者、うせ物、待人、相性、門出、今晴明《いませいめい》と大看板をかけて、萬《よろづ》見通しの大法印あり。此行者《ぎやうじや》へ八之丞をともなひ、法印に對面して、きのふ物がたりいたしたる氣違、只今めしつれ參りたり。約束のごとく先づ一七日御留置き、加持祈念賴み申したし。當座の御初尾《おはつを》として銀貳枚さしだしさて病人まゐれといへば、かの八之丞をつれて出るとき、興さめ顏になつて申すやう私事病氣の覺えなし、人參の代銀取りにまゐりたれば、御渡しなされよといふに、此侍すこしも驚く氣色なく、此四五日人參人參と、晝夜口はしり候といへば、法印つくづくうちながめ、此亂氣上性《じやうしやう》より起ると見えたり。氣違ひは力つよくものぞ。林學坊、不動坊、愛染坊と手をたゝけば、かけ出《で》のあら山伏四五人出て、右左よりすがり、すこしもはたらかせず、先づ護摩の壇をかざらせて、佛眼金輪五壇《ぶつげんこんりんごだん》の法、五大虛空藏八字《ごだいこくうざうはちじ》の法、金剛童子繫縛《こんがうどうじけばく》の法、たとへいかなる生靈死靈《いきりやう しりやう》、狐狸の障碍なりとも、急々に去れ去れと、鈴錫杖《れいしやくじやう》をおつとり、飛びあがり踊りあがり、既に祈禱はじまれば、侍は皆々御大儀《おたいぎ》賴み存ずと暇乞して歸りける。かくて二夜三日汗水になつて祈りけれども、さらにしるし無かりければ、法印をはじめ各《おのおの》退屈して、一休みこそ休みけれ。時に八之丞淚をはらはらとながし、まことの氣違よと、いづれもかたりにあらはれたり。此上は法印も同類の訴人仕るべしと、かけ出すを引きとゞめ、段々樣子を聞き屆け、かの藥種屋へうかゞひけるに、一昨日より弟歸らざるにより只今公儀へ罷出る所へ此仕合《しあひ》。法印は相盜《あひすり》のいひわけは立ちぬれどもその侍の行方《ゆくへ》たしかならざるを、わづかなる賄《まひなひ》にふけり、理不盡の仕方、數珠袈裟頭巾までを人參代に賣立て、唐津屋へ晦日ばらひ。』

 餘談ではあるが、昨年五月八日發行の‘The Detective Magazine’に R.  Ajayezといふ人が、『一時的發狂』と題して、全くこれと同じ趣向の探偵小說を發表して居る。ある美しい婦人が醫師をたづねて、私の良人はダイヤモンド商であるが、近頃大損したゝめに、少し氣が觸れて、ダイヤモンドのことばかり言つて居ますので、明日連れて來るからどうか診てやつて頂たいといふ。翌日その女は約東の時間よろ少し早く醫師をたづねて應接室に待つて居ると、一人の男がはひつて來て、御注文のダイヤモンドの頸飾を持つて來ましたといつて渡す。女はそれを受取つて代は主人が拂ふからといつて診察室へ行き、醫師に向つて良人をつれて來たから診てやつてくれといつて男を案内する。醫師は、大うくうなづいて男に向つて色々質問する――その問答の場面が頗る滑稽である。遂に二人が女の詐欺にかゝつたことを發見したときには女はもはや逃げた跡である。卽ち彼女は醫師の妻として頸飾を寶石商なるその男に註文し、醫師に向つては寶石商の妻だといつて、まんまと頸飾を詐取したのである。この物語の作者は、恐らく、二百年も前の日本の物語に同じ趣向のものがあるとは氣附かなかつたのであらう。いや、或は何かゝら傳へきいて飜案したのかも知れない。[やぶちゃん注:以下、前と同じく底本では全体が一字下げ。以下は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の方の巻二にある。PDF14コマ目から。]

 

       身は祝ひがら宵待戎(世間用心記)

『世になき物は野郞の脇差に小づか、はかまきた坊主、名の立たぬ若後家、女はどれも同じ事を、かみきりと言へばこのもしがる、氣のまへな人心《いとごころ》、しがや辻のまるぎんちやくとて、終によめ入りもせで、一そくがみの細元《ほそもと》ゆひ、仕出しごかしの、つられ女、大豆板御用ならば、仰せつかはさるべし、こゝに天外町二丁目、八まんや矢右衞門後家、夫にはなれて跡しき大ぶんの身代、いかな。少しもくつろがせず、金銀は飴に似たり、細う長う延びる棚おろし、ことしは七𢌞忌、梅月佳春信士のため御代官所へ、御ことわりを申し、當所仕合橋《しあはせばし》、福德ばし、よひまつ橋、右三ヶ所のはし板、ふしの拔穴を見つくろひ、あやうきを取換へ申したきおもむき、是いく萬人枚の行來《ゆきき》も心やすく、よろこぶ功德、大きなる追善なり、しかし右の橋いづれも、八年このかたに、上より丈夫にかけ渡され、さのみ破損に及ぶまじ、同じくは、よの橋の大破を見立て、造作仕れとの上意。かへし申すもはゞかり乍ら、橋は勢至菩薩の御背中、ふみ行くあしのおそれ、覺えぬ人のつみとがや、夫存生のとき、あさゆふ此三つの橋を、見つくろひ、二まい目の板を兩むかひながら、取りかへける、此後家の兄、大佛師しうけい方へ、六まいの板を取りこみて、細工手ぎはを見せて仕合戎《えびす》、福德戎、宵待戎、と橋の名をよび付に取つて、しかも十月二十日に賣出しける時節の持ちこみよく、商人前後を爭ひ買ひもとめける、是れ名は祝ひがら、人は氣のまへに迷ふをつもつて、目出度い橋の名の、板きれにて、戎を作りて、賣出すために、七年忌までを取りこして、手れんのたねとなしぬ、後は六枚の橋えびすを、皆賣りしまひてあらぬ木の、えびすもそれなりけりに賣つて、とほる人檢《あらた》むるべきしるしもなく、知らぬが佛、正直のかうべに、いたゞく人によろこび來り、賣物はずゐぶん利をとれば、何よりの事。』

 これなどは、むしろ、人をだまして金を儲ける方法を敎へるやうなものである。その當時は勿論のことであるが、現今でも、これに似た方法を講じたならば、きつと成功すること請合である。

日本山海名産図会 第二巻 嬰萸蟲(ゑひつるのむし)

 

Ebiturumusi

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「鷹が峯嬰萸虫(たかがみねゑつるのむし)」。]

 

○嬰萸蟲(ゑひつるのむし) 木の一名「野葡萄(のぶとう)」

山城國鷹が峯に出る物、上品とす。蔓・葉・花(はな)・實(み)ともに、葡萄(ぶどう)に異なることなし。「詩經」、「六月薁(いく)を食らふ」とは、是れなり。春月、萠芽(め)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を出して、三月、黄白(わうはく)の小花穗(せうかほ)をなす。七、八月、實を結ぶ。小にして、圓く、色、薄紫。其の莖、吹いて、氣(き)、出づ。汁は通草(あけひ)のごとし。蔓に、徃々(ところところ)、盈(ふく)れたる所ありて、眞菰(まこも)の根に似たり。其の中に、白き蟲あり。是れ、「小兒の疳を治(ぢ)する藥なり」とて、枝とも切りて、市に售(う)る。然(しか)るに、此の莖中(けいちう)に、薬とはすれども、尚、勝(まさ)れりとは云へり。南都に眞(しん)の葡萄、なし。此の實を採りて核(たね)を去り、煎熬(せんかう/いり[やぶちゃん注:右/左のルビ。])して膏(あぶら)のごとし。食用とす。又、葉の脊(せ)に、毛、あり。乾して、よく揉めば、艾綿(よもき)のごとし。是れにて、附贅(いぼ)を治(ぢ)す故に「イホおとし」の名あり。中華には酒に釀(かも)し、「葡萄の美酒 欝金香(うつきんこう)」と唐詩に見へたるは、是れなり。

[やぶちゃん注:以下、底本ではポイント落ち。]

 【和名(わみやう)「エヒツル」とは、久しく誤り來(きた)れり。「エヒツル」は葡萄のことにて、「蘡薁(ゑびつる)」、「イヌエヒ」、又、「ブトウ」といへり。されとも、古しへより混していひしなるへし。】

 

[やぶちゃん注:まず、標題とされている「嬰萸蟲(ゑひつるのむし)」であるが、これは「葡萄蔓蟲」とも書き、蜂に見紛う形態をした蛾の一種、

ブドウスカシバ(鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目スカシバガ上科スカシバガ科スカシバガ亜科 Nokona 属ブドウスカシバ Nokona regalis )の幼虫

である。体長三センチメートルほどで、白っぽく、頭部は赤茶色を呈する。複数のブドウ目ブドウ科ブドウ属 Vitis の茎の内部に潜り込んでいる。ウィキの「ブドウスカシバ」によれば、『ブドウ園では、本種はブドウの主要害虫のため、見つけ次第捕殺される。ブドウ以外に、ノブドウ、エビヅル、ヤマブドウにも寄生するため、これらが付近にある場合、被害は深刻化する(これらのほうが寄生されやすい)』。『幼虫の被害にあった新梢は紫赤褐色に変色し、先端部は萎えて枯れる。しかし、先端部以外は枯れず、副梢が盛んに出現する』。大抵は、『被害部分からは虫糞が見られるが、部分や季節によっては、紡錘形のこぶが見られる』。『果実には、斑点が現れ、観賞価値を著しく低下させる』。一方で、小鳥の餌や、『渓流釣りにおいて良い餌であり、イワナ、ヤマメ、アマゴ、ニジマスを釣る際によく用いられ』、「かまえび」とも呼ばれるとある。現在、ここに書かれているような民間薬としての使用はないようである。

 前後するが、成虫とライフ・サイクルも引用すると、『翅の開』長は三~三・五センチメートルで、『体は黒と橙黄色帯がある。体型はハチに似ているため、ハチと間違われやすい』。『年』一『回発生する。卵は』六『月頃に葉柄の基部に産まれ』、二『週間程で孵化する。幼虫は葉柄や新梢に侵入し』、二~三『回脱皮を繰り返しながら』、新しい梢や『幹の基部へと移動する。この移動は』八『月下旬あたりに行われる』。『基部へ移動して脱皮し、老齢幼虫になったのち、秋頃より越冬の準備に入る。幼虫は越冬場所の基部に紡錘形のこぶを作り、その中で翌年の初夏まで越冬する。越冬形態は幼虫・蛹である。初夏の』五~六『月頃、成虫が羽化する』。『体型や体色がハチに似ており、ベイツ型擬態』(ベイツ(Bates)擬態とも呼ぶ。自身は有毒でも不味くもないが、他の有毒であったり、不味いの種と形態・色彩・行動などを似せて捕食を免れる擬態を指し、発見者のイギリスの探検家ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)に因む。詳しくは「進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(5) 四 保護色(Ⅱ)」の「6」(まさにスカシバが挙がっている)の私の注を参照されたい。私は個人的にベイツ擬態とされる一部は言われるほどの有効性(天敵回避効果)を持たないものも結構多いように思うので、必ずしも総てを認めようと思わないが、この種の成体の形態と行動には確かにベイツ擬態を感ずる。少なくとも、熟知していない人間には蜂にしか見えないからである。グーグル画像検索「ブドウスカシバ」をリンクさせておく)『の一例だと考えられている。捕らえられると』、『体を曲げてハチが針を刺すような動作をするが、実際には毒針を持っていない』とある。

 次に作者が指示する本体の「ゑひつる」であるが、これは、

バラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅルVitis ficifolia var. lobata

である。当該ウィキによれば、本邦での漢字表記は「蝦蔓」「蘡薁」で、『雌雄異株。古名は』「山葡萄」とともに「葡萄葛(蔓)(エビカズラ)」(葡萄)と称した。但し、現在の『中国では「蘡薁」はVitis adstricta 』『という別の野生ブドウを指』おり、また、『学名にVitis ficifoliaを使われることが多い』(シノニムに Vitis thunbergii がある)ものの、『Vitis ficifoliaのタイプ標本は中国の桑葉葡萄につけられたもので、桑葉葡萄とエビヅルでは形態的な違いも大きい』とある。蔓『性の木本で』、『他の木本などに巻きひげによって』巻きついて這い上る。『巻きひげは茎に対して葉と対生するが』、三『節目ごとに消失していく。葉には葉柄があり、形は扁卵形で長さ』五~八センチメートルで、三つから五つに浅く或いは深く裂け、『葉裏にはクモ毛がある』。『花期は』六~八『月で、花序は総状円錐花穂で長さ』六~十二センチメートルに『なる。雄花、雌花ともに黄緑色。秋には直径』五~六ミリメートルの『果実がブドウの房状に黒く熟し、食すると』、『甘酸っぱい味がする。しかし、果汁にエビヅル臭という青臭いにおいを有するため、果実品質の評価は一般に低い』とある。『北海道西南部、本州、四国、九州、朝鮮に分布し、山地や丘陵地に』普通に見られる、とする。

 但し、ブドウスカシバは限定的に産卵時にエビヅルを選ぶわけではないので、当時の「嬰萸蟲」を求めた人々が必ずエビヅルを選んで採取していたということは考え難いから、本邦産の真正の「ブドウ」である、

ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae (ヴィティス・コワネティアエ。古名を「えびかづら」(葡萄葛;「えび」を「ゑび」と書くのは歴史的仮名遣の誤りである)と言い、日本の伝統色で山葡萄の果実のような赤紫色を葡萄色(えびいろ)と呼ぶのは本種に由来する)

や、

ブドウ目ブドウ科 Vitoideae 亜科ノブドウ属ノブドウ変種ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla

も示しておく必要があろう。というより、標題は「嬰萸蟲(ゑひつるのむし)」としながら、本文冒頭は明らかに実を食用とすることが記されているのであってみれば、作者は執拗ねく最後に否定しているが、エビヅルよりも、寧ろ、ヤマブドウ Vitis coignetiae をこそ採取し食に供するに足ると考える。

「山城國鷹が峯」京都市北区の鷹峯街道を中心に広がる地域、及び、その西南方に連なる丘陵の名称でもあり、旧愛宕(おたぎ)郡鷹峯村(たかがみねむら)の村名でもある。この広域(グーグル・マップ・データ航空写真)。

『「詩經」、「六月薁(いく)を食らふ」』「詩経」の「国風」の「豳風」(ひんぷう)の冒頭の「七月」の一節。この「七月」は「詩経」の「風」の中で最も長い詩である。yang氏のサイト「言葉と格闘する日々」のこちらに、『農事歴の歌であり、兄武王の死後、幼い甥成王の後見人となった周公が、新しい国家の出発にあたり、その遠祖たちが、まだ陝西奥地・豳の地方で農事に励んでいたころの生活を、民族の記憶とすべく、甥の成王に歌い聞かせるべく、歌ったものとされる』とある。「六月食鬱及薁」で「六月は鬱(うつ)と薁(おう)とを食らひ」。先のリンク先には訳文が載るが、私がネットをつなげて以来、最も信頼している植物サイトの一つである田英誠氏編の「跡見群芳譜」こちらに原文と訓読文が載る。そこで嶋田氏は「薁」をエビヅルに、「鬱」をバラ目バラ科スモモ属ニワウメ亜属ニワウメ Prunus japonica に比定されておられる。当該ウィキによれば、『中国語では郁李』で、『中国華北、華中、華南などの山地に自生し、日本へは江戸時代に渡来し』ており、『観賞用のために広く栽培されている』。『実は甘い香りがし』一・四センチメートル『ほどの大きさになり、パイやジャムなどに利用されることもあるが』、『味は』『酸味が強い』とある。

「通草(あけひ)」木通。キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科 Lardizabaleae 連 アケビ属アケビ Akebia quinata

「葡萄の美酒 欝金香(うつきんこう)」知られた李白の次の一篇。

   *

 客中行

蘭陵美酒鬱金香

玉碗盛來琥珀光

但使主人能醉客

不知何處是他鄕

  客中行

 蘭陵の美酒 鬱金香(うつこんかう)

 玉碗 盛り來たる 琥珀の光

 但だ 主人をして 能く客を醉はしめば

 知らず 何(いづ)れの處か 是れ 他鄕なるを

   *

どうも、この条、叙述している対象がころころ変わっていて、非常に困る。ここは、また、もとのエビヅルの実に戻って、その実で作った葡萄酒の話になっている。しかも、「鬱金香」を酒の銘柄のように扱っている。実際には、葡萄酒に単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属ウコン Curcuma longa の根茎を漬けて色と香りづけを施したものであろう。それならまだしも、呆けた連中はうっかり「嬰萸蟲」を漬けこんだ酒などと誤読しそうだ。]

芥川龍之介書簡抄105 / 大正九(一九二〇)年(十) 五通

 

大正九(一九二〇)年十二月三日・消印四日・田端発信・本柳區東片町百三十四 小穴隆一樣・十二月三日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

この間辛氣くささのあまり碧童先生を訪ねいろいろ聞いて貰ひましたおかげで家へかへつたら小說を書く氣分になれましたこの頃人に四王吳惲の画集を借りました南田が一番好いやうです今度おめにかけます

碧童先生の所で見た君の歌皆よろしあの中僕が頂戴した二首で云へば後の歌の方より好きなり今度大阪にて矢野橋村と云ふ南畫家の御馳走になる健筆家です六月から今日までに屛風六枚折二双二枚曲二双尺八位な絹本双幅十便十宜の小幅幷せて二十一枚その外長卷も一つ書いてゐます但し畫品は君に比べると段違ひに下等です

   ぬばたまの夜さりくればその空にいまあかあかと彥星たるる

註に曰これでも戀歌です 頓首

    十二月三日      我   鬼

   倪隆一先生 侍史

  二伸 大阪堀江の妓僕に曰

  Hanjimono

  と云ふのがよめますか僕曰よめない妓曰敎へて上げまほか僕日敎へてくれ妓曰

  油ハタカシ夜ハナガシコマル=マル大コマル

  さうだつしやろ僕曰なある程 以上

 

[やぶちゃん注:「二伸」にある「判じ絵」は、底本の岩波旧全集をトリミングし、印刷された「油」の字を消して、新たに私が活字を挿入して合成した。

「辛氣くささ」「辛氣臭さ」。思うようにならないず、じれったい感じがすること。気がくさくさして滅入ってしまう状態。翌月の新年号(実際の発表作は九編)の執筆に追われていた。

「四王吳惲」(しだいごうん)は中国の南宗画系の呉派の正系を受継ぐ明末清初の王時敏・王鑑・王翬(おうき)・王原祁(おうげんき)と呉歴・惲寿平(うんじゅへい)の六人の画家のこと。「清初の六大家」ともいう。当時の画壇の指導的役割を果すとともに、清代の山水画・文人画の発展の基礎を築き、四王の立論や完整な画風は清代宮廷絵画様式の基礎となった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「南田」(なんでん)は前注に出た惲寿平の号。本邦では号の方がよく知られる。清初の文人画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年)。初名が格、字(あざな)を寿平であったが、後、寿平を通常の名とし、常州(江蘇省武進県)出身で、もとは名家の出であったが、彼の生まれた明末には貧窮し、在野の画家として一生を過ごし、清貧のうちに五十六歳で没した。詩文とともに書もよくした。王翬と親交を結び、王翬の山水に優れているのをみて、山水画を断念して花鳥画に専心したとも伝える。着色没骨(もっこつ:筆線でくくった輪郭を用いずに、モチーフの形態を直接に描く技法)の写生画風を以ってそれまでの花鳥画に新生面を開き、以後の清朝花鳥画の一典型となった(小学館「日本大百科全書」)。

「矢野橋村」前回の最初の書簡で既注。グーグル画像検索「矢野橋村」をリンクさせておく。

「屛風六枚折二双二枚曲二双」屏風の呼び名の違いは、正しくは「曲」が屏風を折り畳んだ面の数を指し、「隻(せき)」は面がが繋がったものを、「双(そう)」は面が連なった隻が、二つで一組になったものを呼ぶ。よく判らぬが、龍之介の謂いは「屛風六枚折」が「二双」(この様式はかなり稀なものらしい)、「二枚曲」が「二双」の意か。

「尺八」筑摩全集類聚版脚注に、『紙・絹などの幅が一尺八寸』(五十四・五センチメートル)『のもの』とある。

「十便十宜」(じふべんじふぎ)は、元来は清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活を詠った詩「十便十二宜詩」の内の十便十宜(二つの宜の詩は見つかっていない)のことで、この詩は、草蘆を山麓に結んで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうと評されたのに対し、「便」(便利なこと)と「宜」(よいこと)の詩を作って答えたというものである。この故事に基づいて明和八(一七七一)年に南画家池大雅が「十便帖」、俳人で絵もよくした与謝蕪村が「十宜帖」を描いて合作した画帖「十便十宜帖」が専らよく知られる(特にその中の大雅の「釣便」が著名)。但し、ここは元の故事に基づく画題を指している。

「二十一枚」オリジナルに一枚を加えているものか。

「長卷」「ちやうかん」と読むか。絵巻物。日本水墨画中の傑作として有名な雪舟の描いた山水画「山水長巻」は「さんすいちょうかん」と読む。]

 

 

大正九(一九二〇)年十二月六日・田端発信・小澤忠兵衞宛

 

合掌 御手紙難有く頂きました相不變每日原稿に惱まされてゐます 昨日も折柴改造の社長と同道にて參り何でも六日中に脫稿を賴むとの事にて今日は嫌々ながらずつとペンを握りつづけですその後私雲田と云ふ號をつけると申した所、大分諸君子にひやかされました雲田の號がそんなに惡いでせうか 小穴先生に聞けば蜆川あたりはの御歌畫䇳紙に御書きになつたのがある由頂戴出來るなら頂戴したく思ひますそれから河郞舍の印も頂戴しないとつぶされてしまふ由欲張つてゐるやうですが頂かせて下さいこれも小穴先生の入知惠です何しろ原稿の催促ばかりされてゐる爲一向歌も句も出來ません仕事をしまつたら一日ゆつくり風流三昧にはひつて見たいと思つてゐます風流三昧と云へば小穴先生に素ばらしい鷄の畫を貰ひました意淡にして神古るとでも云ひたさうな畫ですあゝなると河童ではとても追ひつきませんこの頃でも時々氣が滅入つて弱ります

     僅に一首

   苦しくもふり來る雨か紅がらの格子のかげに人の音すも

その内又參上愚痴を聞いて頂きます 頓首

    十二月六日      龍 之 介

 

[やぶちゃん注:「折柴改造の社長と同道にて參り何でも六日中に脫稿を賴むとの事」『改造』の大正十年新年号に発表された「秋山圖」。新全集宮坂年譜によれば、前日(十二月五日日曜日)に来たのは、編集者瀧井と社長の山本実彦で、翌日までの脱稿が求められている。流石に社長直々の懇請に、確かに六日に龍之介は改造社に原稿を送ってはいるが、『(途中まで)』とあり、同日中に、それの『改稿を』書簡で『瀧井孝作に送る』という複雑なことをしている。これは、やはり執筆に難渋している龍之介の脱稿引き延ばしの戦略のようである。実際の「秋山圖」の脱稿は十二月九日頃であったらしい。採用していないが、その瀧井宛の「二伸」に『今日は一枚なり あと少しかきたれど持つてかれると續けるのに困る故止める事にした』とあり、最後に『約束の日限なれど もう眠くて書けぬ。山本社長には平あやまりあやまる故、明日夜まで待つてくれ給へ。中途え切るのは困る。よろしくたのみ入り奉り候』とある。龍之介の原稿小出し作戦の様子が見て取れる。さらに、先の書簡で、どうも他者へ移籍したい希望があった瀧井に対して、「改造の口もそんなに難有くないものではない」などと助言しているのは、実は「おためごかし」で、『改造』に瀧井がいれば、原稿脱稿の遅れなどで融通が利く「渡りに舟」の存在だったからなのではないか? と勘繰りたくなった。

 

 

大正九(一九二〇)年十二月十日・田端発信・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・十二月十日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

啓 驚いた事には咋日が九日だつたさうだ 僕は今日が九日だとばかり思つてゐた その爲折角君の所へ行かうとしたのは駄目になつた 今度は原稿の片づき次第にする 十二日の日曜は執筆多忙の爲面會謝絕だ まだ改造と赤い鳥の續稿を書いたばかりだ 中央公論の山鴫は未に出來ん

   春日さす樺の木の芽の事を繁みわが山鴫は立ちがてぬかも

と云ふのは歌になりませんか

今樗陰先生來り三汀が行方不明で困ると云つてゐた 以上

    十二月十日      雲 田 生

   大 芸 先 生

 

[やぶちゃん注:「赤い鳥の續稿」「アグニの神」。これは新年号と二月号に分割されている。原稿二十枚半だが、恐らくは『赤い鳥』側は一回完結にしたかったのではないかと私には思われる。ただ、この小説、文体こそ子ども向けになっているものの、私は『赤い鳥』に載せるには、ややグロテスク過ぎる気がする。展開も如何にも人工的で、私はおどろおどろしさは評価しても、作品としてはそれほど認めていない。

「山鴫」は間に合った(脱稿日不明)。

「三汀」久米正雄の俳号。]

 

 

大正九(一九二〇)年十二月二十八日・上野投函・小潭忠兵衞宛(葉書二枚、小穴隆一と寄書)

 

Koinutakematu

 

   水鳥の一羽はかなし松にゐて羽根切るは見ゆ音は聞えず  我鬼卽景

   大年や藥も賣らぬ隱君子

[やぶちゃん注:ここに底本の岩波旧全集には『〔我鬼醉墨。德利の繪あり〕』とある。]

     歲末青蓋翁へ御歲暮一句

   鳥瓜届けずじまひ師走かな

     小穴先生の驥尾に附するの句

   お降りや竹ふかぶかと町の空

[やぶちゃん注:ここに底本の岩波旧全集には『〔小穴隆一筆、門松の傍に子供に似たる犬の繪あり〕』とある。]

淸凌亭の御稻さんの御酌にて小穴先生と飮み居候 我鬼拜

 

[やぶちゃん注:掲げた画像は「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)に載る本書簡の後半部分の画像をトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。それを視認して、底本の岩波旧全集の表示字体や配置をそこだけ一部、変えておいた。同引用書の解説には、『子犬を描いたのは小穴、松』(下方のそれ。門松らしいが、松に見えぬ)『と竹を書き添えたのは龍之介。大事にしていた矢立を初めて表に持ち出した記念に、龍之介は葉書の表の、自分の名の上に、小さくその絵を描いている。なお、青蓋翁とは碧童のこと』とある。

「羽根切る」筑摩全集類聚版脚注に、『羽ばたきする』とある。

「大年」「おほとし」或いは「おほどし」。大晦日。

「驥尾に附する」「驥尾(きび)に附(ふ)す」は、青蠅が名馬の尾につかまって一日で千里の遠方に行ったという「史記」の「伯夷傳」の故事から、「優れた人に従って行けば、何とはなしに物事を遂げられるの意で、先達(せんだつ)を見習って行動することを遜った気持ちで言う語句である。

「お降り」「御降り」は「おさがり」と読み、季語で、元日、又は、三が日の雪、又は、雨を指す。この句は芥川龍之介の自身作で、旧全集の正規の「發句」にも、

 お降(さが)りや竹深ぶかと町のそら

の表記で載り(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照)、「點心 芥川龍之介 《初出復元版》 附やぶちゃん注」でも冒頭に配されて、長い随想の後に置かれてある。

「淸凌亭」上野不忍の池の池之端にあった日本料理屋。この中央附近にあった(グーグル・マップ・データ)。

「御稻さん」後の作家佐多稲子(明治三七(一九〇四)年~平成一〇(一九九八)年)。当時、この料理屋で一年ほど仲居をしていた。未だ満十六歳であった。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、この年の五月頃、『上野の清凌亭で仲居をしていた佐多』(当時は田島姓)『稲子を知り、友人としばしば通』ったとあり、コラム『文学女中――佐多稲子』に『佐多稲子』『の前半生は数奇に富んでいる。中学生の父と女学生の母の間に生まれ、その母は七歳の時に死に、生活困窮のため小学校を五年でやめたあと、キャラメルエ場・中華そば屋などを転々とする。一六歳の大正九年には上野池之端の料亭清凌亭の座敷女中として一年ほど奉公する。稲子の月収は七〇円ぐらいだった(ちなみに帝大出の芥川の初任給は六〇円)。その時に芥川の顔を知っていたところからその係となる』とあり、昭和五八(一九八三)年中央公論社刊の「年譜の行間」か引用されてある。『「芥川さんをはじめて清凌亭に連れていらしたのは小島政二郎さんのようですが、(略)あたしが『あれは芥川龍之介という小説家だわ』とその係の人に言ったら、その女中さんが芥川さんに『先生を存じあげてる者がおりました』と伝えたのね、それを芥川さんが、こういうところで自分の顔を知ってる女中がいるというのは面白いとお思いになったの。(略)文学少女がいるというので、菊池さんも久米さんも芥川さんも、きっと面白かったのでしょう、よく来てくだすった。(略)『僕の掌は鶏のようだ』と芥川さんが自分の掌をひろげながらおっしゃったとき、あらほんとだわって思ったし、また、ひとりの芸者の身ごなしがどうもちがうと思ったら、やはり父親がお茶の宗匠だそうだ、なんて言われたのを聞いたときは、やはり作家というのは人を見てるのだなあと思いました。(略)江口渙さんの書かれたものに、清凌亭時代のあたしが芥川さんに本をもらったということがありますが、その事実はありません」』。以下、鷺氏の文。『のち、稲子は自殺直前の芥川と再会し、彼女の自殺末遂の経験について質問され』ていることは、かなり知られている。]

 

 

大正九(一九二〇)年(年次推定・月不詳)十八日・田端発信(手渡し)・香取先生 侍史・十八日夜 龍之介

 

啓吉井勇の歌御めにかけます内鐙で吉井にさゝげる歌を作りましたから是亦御らんに入れる事にしました 天岡氏の宿所書序を以て使の者に御渡し下されば幸甚です 頓首

               我 鬼 生

   香 取 先 生

   ひさかたの天主の堂に糞長くまりはまるとも歌なよみそね

   長崎の南京でらの瘦せ女餓鬼まぎはまぐとも歌なよみそね

   黑船の黑き奴の瘡の膿なめばなむとも歌なよみそね

 

[やぶちゃん注:「香取先生」芥川家の隣りに住んでいた著名な鋳金工芸作家で歌人でもあった香取秀真(ほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)。学問としての金工史を確立し、研究者としても知られ、美術の工芸家として初の文化勲章を受章している。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授。

「天岡氏」天岡均一(あまおかきんいち 明治八(一八七五)年~大正一三(一九二四)年)は彫刻家。兵庫県出身。東京美術学校卒。高村光雲らに学び、明治三六(一九〇三)年の第五回内国勧業博覧会で「漆灰製豊公乗馬像」が三等賞となった。大阪難波橋の「ライオン像」の作者としても知られる。彼であることは、芥川龍之介の「小杉未醒氏」(大正一〇(一九二一)年三月発行の『中央美術』に「小杉未醒論」の一編として「外貌と肚の底」の表題で掲載。後に改題して大正十五年の作品集「梅・馬・鶯」に収録)で確定。同作は「青空文庫」のこちらで見られたい。

「宿所書」「やどところがき」。住所。]

2021/07/22

芥川龍之介書簡抄104 / 大正九(一九二〇)年(九) 四通

 

大正九(一九二〇)十一月十六日・田端発信(推定)・空谷先生 侍史・十一月十六日夕 三拙生拜

 

伊豆ゆ來し蜜柑十あまり盆に盛りこれ食(ヲ)しませとわがたてまつる

井月のほ句寫し倦む折々はこれ食(ヲ)しませとわがたてまつる

 十一月十六日        我 鬼 拜

空 谷 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂覺年譜によれば、この日のまさに『夕方、久米正雄、菊池寛、直樹三十五、佐々木茂索、宇野浩二』、矢野橋村(きょうそん 明治二三(一八九〇)年~昭和四〇(一九六五)年:日本画家。愛媛県越智郡(現在の今治市)出身。本名一智。この翌年の大正十年には他の画家らとともに日本南画院を設立、大正十三年には、当時の大阪に美術学校がなかったことから、三十三の若さで大阪市天王寺区に私立大阪美術学校を設立して校長に就任し、自ら教鞭を取り、全国から南画家が結集、発表・研究の場をとなった。南画は南宗画(なんしゅうが)とも言い、元の四大家(黄公望・倪瓚(げいさん)・呉鎮・王蒙)によって大成された絵画様式。柔らかい筆致を重ねた淡彩の山水画を特色とする。日本では江戸中期に盛んとなり、池大雅・与謝蕪村らによって日本独自のものが確立され、のちに文人画と同義に用いられるようになった。なお、この彼が参加していたことは「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の本書簡(恐らくは葉書)の画像の解説で判明した。次の寄書にも登場する)、『らとともに、主潮社(日本画家の団体)主催の公開講座講演のため、大阪に向けて出発』とあるから、その出しなに投函したものと推測する。その前に、誰かに託して伊豆から送られてきた蜜柑を下島勳(空谷)の元へ届けたのであろう。]

 

大正九(一九二〇)年十一月十七日・大阪発信・岡榮一郞宛(葉書・寄せ書き)

 

Oosakagoninnotoko

 

   我鬼君の像

    宇野浩二筆       宗

        私はかり、

 上方は     色男かも橋村

  まがい真珠の    自画像

   菊池カン 純■      我鬼

 

       大阪表にて   五人の男

 

[やぶちゃん注:「宋」は丸印内(これは直木三十五の本名植村宗一の「宗」である。この右下のそれは植村(直木)の自画像か?)。大阪の彼らは前記注の通り。橋村は画家だから絵は避けて、言葉だけを載せたものか。同寄せ書きを画像で載せる本は幾つかあるのだが、殆んどが文字の完全な判読が出来ないほど状態がよくない。一番よく判読出来るのは、意外なことに(失礼)筑摩全集類聚版だったので、ここでは、それをトリミングして示した。宇野浩二・直木三十五・矢野橋村・田中純の作品は全員総てがパブリック・ドメインである。「純」の下に文字様のものが見えるが、判読出来ない。「も」或いは「也」か? 或いはただの「純」の字の余勢かも知れない。「大阪表にて」「五人の男」というのは表書きにあるようであるが、最後に配しておいた。

「私はかり」「私ばかり」の意か。

「まがい真珠」この年の六月九日から後の十二月二十二日まで、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞」に連載された菊池寛の長編小説「真珠夫人」は大ヒットとなっていたのを皮肉ったものである。ともかくも専従作家となった菊池を流行作家に押し上げた作品であった。シノプシスは当該ウィキを読まれたい。私は読んでいないし、向後、死ぬまで読むことはない。]

 

 

大正九(一九二〇)年十一月二十四日・諏訪発信・東京市牛込區天神町十三 佐々木茂索樣(絵葉書)

 

白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ來し

 二十四日              龍

二伸 但し宇野、僕二人この地にゐる事公表しないでくれ給ヘ

 

[やぶちゃん注:「白玉」大切に思う人・大事なわが子などに喩えて言う語。

「ゆめ子」宇野の愛人であった鮎子(芸妓名。本名は原とみ)。宇野浩二の「諏訪物」と呼ばれる複数の作品に出る芸妓「ゆめ子」は彼女をモデルとしている。なお、彼女は宇野浩二の入れ込んだ女性であるが、現在の研究では、彼女とは肉体関係はなく、プラトニックな支えであったと考えられているようである。大阪の講演の後、龍之介は盟友宇野浩二とともに、京都に遊び、さらに宇野に誘われて木曾・諏訪方面に出かけ、二十三日昼過ぎに諏訪に到着して、この鮎子(ゆめ子)と会っているのである。宇野浩二の「芥川龍之介 上巻」(リンク先は私の注附きのサイト版)の「三」に、この時の芥川龍之介のかなり際どい彼女へのモーション行動などが赤裸々に語られてある。さすれば、この佐々木への禁止は、実は、芥川家の者へ伝えるなということではなかったか? そこに龍之介の「ゆめ子」への非常にアブナい執心が隠れていると読めるのである。次の書簡も――これ――必読である。

 

 

大正九(一九二〇)年十一月二十八日・田端発信(推定)・原とみ宛

 

拜啓

先日中はいろいろ御世話になりありがたく御礼申上げます 今夕宇野と無事歸京しました 他事ながら御安心下さい

あなたの御世話になつた三日間は今度の旅行中最も愉快な三日間です これは御せいじぢやありません實際あなたのやうな利巧な人は今の世の中にはまれなのです 正直に白狀すると私は少し惚れました もつと正直に白狀すると余程惚れたかもしれません但し氣まりが惡いから宇野には少し惚れたと云つて置きました それでも顏が赤くなつた位ですから可笑しかつたら澤山笑つて下さい

その内にもつとゆつくり十日でも一月でも龜屋ホテルの三階にころがつてゐたい氣がします ああなたは唯側にゐて御茶の面倒さへ見て下さればよろしい いけませんか どうもいけなさそうな氣がするため、汽車へ乘つてからも時々ふさぎました これも可笑しかつたら御遠慮なく御笑ひ下さい

こんなことを書いてゐると切がありませんから この位で筆を置きます さやうなら

   十一月廿八日    芥 川 龍 之 介

  鮎 子 樣 粧次

 二伸 いろは單歌「ほ」の字は「骨折り損のくたびれ儲け」です 今日汽車の中で思ひつきました

            龍 之 介 拜

 

[やぶちゃん注:何をか言わんや――ともかく目を疑う人は、宇野浩二の「芥川龍之介 上巻」(リンク先は私の注附きのサイト版)の「三」を総て読まれるがいい。そこには前の書簡も、この書簡も引かれてあり、さらに、もっとおぞましいことが書かれてあるから――何が「おぞましい」かって?――この原とみに送った手紙の言葉遣や言い回し……どこかで見たことはないかね?……そうさ!……結婚前の塚本文に送ったラヴ・レターのそれと――これ――全く同じ口調ではないかね!?!…………

芥川龍之介書簡抄103 / 大正九(一九二〇)年(八) 五通(知られた河童図書簡を含む)

 

大正九(一九二〇)年十月二十一日・田端発信・本鄕區東片町百三十六 小穴隆一樣・十月二十一日 市外田端四三五 芥川龍之介(速達印有り)

 

Kappazu2

 

           田端之河童

 

     二十二日ハ出ラレマセン

     ドウカオユルシヲネガヒマス

     二十五日スギナラ

     又御一シヨニ

     屁子玉ヲトリニマイリマセウ

     ドウカ入谷ノ兄貴ニヨロシク

 

 

 ヘン

 イクヂノナイヤラウダナ

 

本鄕之河童

 

[やぶちゃん注:太字は御覧の通り、書簡原本では囲み字であるのを代えたもので、台詞は吹き出しの中にある。台詞内容を考えて改行して示した。画像は今までと同じく、「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)にあるものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。

「屁子玉」河童の「尻子玉(しりこだま)」はよく知られている。「しりごだま」とも呼び、肛門の所にあると想像された玉で、河童が好んで引き抜くとされた。思うに、これは水死人の腐敗膨張が進み、肛門が開いて、直腸が露出したのを、見間違えたものと私は思っている。ただ、「屁子玉」(へのこだま)はついぞ知らない。筑摩全集類聚版脚注では、『あるいはこれ』(尻子玉)『に「へのこ」(きんたま)をつきまぜて、きんたまの意を含ませたか』という卓抜な注を附してある。座布団二枚!

「入谷の兄貴」小澤碧童。既出既注。

「二十二日ハ出ラレマセン」「入谷ノ兄貴ニヨロシク」と言っているところからは、この日に句会を設けて、小穴が龍之介を誘ったものか。実は、難産で延び延びにしていた「お律と子等」を漸くこの十月二十三日に分割した後半を脱稿しているので(但し、未完)、この頃には尻に火がついて可能性が高い。

「二十五日」年譜では、この日の記載はない。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月二十四日・田端発信・小澤忠兵衞宛(葉書)

 

肅啓傘の御歌格段に結構と存じますあれは何度讀んでもうれしくなりますさて親戚に病人あり日曜はそちらへ參ります萬一御來駕を得ると恐縮ですからこの端書きを差上げます

    爐の灰にこぼるゝ榾の木の葉かな

と云ふのは落第ですか?

 

[やぶちゃん注:「小澤忠兵衞」小澤碧童の本名。

「傘の御歌」筑摩全集類聚版脚注に『不詳』とある。

「榾」は「ほた」或いは「ほだ」で、炉や竃で焚く薪(たきぎ)のこと。それに小枝と葉がついていたのである。佳句である。龍之介も少し自信があったことが、類型句を龍之介は幾つか作っていることから判る。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)」で「榾」で検索されたい。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月二十四日・消印十月二十四日・本鄕區東片町百三十六 小穴隆一樣(速達印)・あくた川龍のすけ(葉書)

 

鴉瓜よろし百舌の句も惡しからず 章魚に似たるの蜘珠、感じは通ずれど最も劣るべし

    小說の出來そくなふ日天が下の百舌もとんびも落ちよとぞ思ふ

 

[やぶちゃん注:この十月二十四日は日曜で龍之介の決めた面会日であったのだが、ここにある通り、親戚に病人があってそれを見舞いに行って留守にするという。新全集の宮坂覺年譜には、この親族見舞いが誰であったのかは『詳細未詳』と附記する。どうも、芥川龍之介の怪しい行動をさんざん知ってしまった私などは、こんな謎の一日も気になってくるのである。前文は小穴の句に対する龍之介の評。後の芥川龍之介と小穴の二人句集「鄰の笛」(大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』に「芥川龍之介」の署名の龍之介の発句五十句と小穴一游亭隆一の発句五十句から成るものとして発表されたもの)私のブログ版「鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)」を参照されたい)に、

百舌鳥(もず)なくや聲(こゑ)かれがれの空曇(そらぐも)り

  雨日

熟(う)れおつる蔓(つる)のほぐれて烏瓜(からすうり)

という二句が載るのが、それ(或いは改作決定稿)であろう。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月二十七日・田端発信・小島政二郞宛

 

啓 碧童氏の歌を御めにかけます字も出來がよろしい龍字の印は碧童氏自用のもの僕とは關係も何もありません僕も咋日のたくりました 頓首

   生きの身のあはれを求(と)むるわれなれば五錢の踊り今日も見に來し

   舞姬の一人はかなし錢を乞ふ手のおしろいも剝げてゐにけり

               我 鬼 生

   古 瓦 軒 主 人 御床下

 

[やぶちゃん注:間違えぬように断っておくが、これは芥川龍之介の短歌ではなく、俳人小澤碧童の二首である。「五錢の踊り」筑摩全集類聚版脚注に『不詳』とする。女の門付け芸のそれか。

「古瓦軒」碧童の別号か。確認は出来ない。

「龍字の印」不詳。小澤書簡の写真を封入したとも思われぬ。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月二十七日・田端発信(推定)・空谷先生 梧右・十月廿七日・芥川龍之介

 

合掌

御旅先よりの御はがき並に今日は御手紙の外結構なる品頂きありがたく存じそろ 井月翁の材料も御集まりの由御同慶の至に存じそろ その後賣文糊口の匇忙たる日を送り居り候へどもたまたま興を得川童の歌少し作り候閒御めにかけ候 御笑ひ下され度そろ

   川郞のすみけむ川に芦は生ひその芦の葉のゆらぎやまずも

   赤らひく肌もふれつゝ河郞の妹脊はいまだ眠りて居らむ

   わすらえぬ丹(ニ)の穗(ホ)の面輪見まくほり川べぞ行きし河郞われは

   人間の女(メ)をこひしかばこの川の河郞の子は殺されにけり

   いななめの波たつなべに河郞は目蓋冷たくなりにけらしも

   川庭の光消えたれ河郞は水(ミ)こもり草に眼をひらくらし

   水底の小夜ふけぬらし河郞のあたまの皿に月さし來る

   岩根まき命(イノチ)終りし河郞のかなしき瞳をおもふにたへめや

                  頓首

    廿七日朝        我   鬼

   空 谷 先 生

 

[やぶちゃん注:既注であるが、芥川家の主治医で俳人でもあった下島勳は、芥川も愛した俳人で「乞食井月」の異名で呼ばれる井上井月(文政五(一八二二)年?~明治二〇(一八八七)年:信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた)の研究家としてもよく知られ、下島の井月の句集の出版を龍之介は後押しもしている。ウィキの「井上井月」によれば、『井月は自身の句集は残さなかったが、伊那谷の各地に発句の書き付けを残していた。伊那谷出身の医師であり、自らも年少時に井月を見知っていた下島勲(俳号:空谷)は、井月作品の収集を思い立ち、伊那谷に居住していた実弟の下島五老に調査を依頼。そして』、この翌大正一〇(一九二一)年に「井月の句集」を出版している。『本書の巻頭には、高浜虚子から贈られた「丈高き男なりけん木枯らしに」の一句が添えられて』おり、『この句が松尾芭蕉』の「野ざらし紀行」の発句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」を『踏まえている点から、虚子が井月を芭蕉と比較していたことが分かる』とあり、『また、下島が芥川龍之介の主治医であった縁から』、「井月の句集」の『跋文』ここのために先程、急遽、ブログで電子化した『は芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』。但し、芥川が『井月の最高傑作と称揚している』「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」の句は、『皮肉にも』、『井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』ともある。さらに、昭和五(一九三〇)年十月には、『下島勲・高津才次郎編集による』「井月全集」が出版され、「井月の句集」に『掲載された虚子らの「井月賛」俳句と、芥川の序文はこの全集にも再掲され、井月の評価を高める役割を果たした。また、本全集には、井月が残した日記も収録されている』とある。同ウィキには下島が描いた井上井月の肖像(大正一〇(一九二一)年作)の画像も載る。

「赤らひく」「赤ら引く」は万葉以来の枕詞で、「明るく照り映える」の意から「日」「朝」に、また、「赤みを帯びる」の意から「色」「肌」に掛かる。ここは後者。

「丹(ニ)の穗(ホ)」赤く実った美しい稲穂。赤い顔をしているともされる河童、その雌河童の顔を言ったものか。或いは次の一首の「人間の女(メ)をこひしかば」を考えると、紅を塗った人間の女の唇の色を言ったものかも知れない。

「いななめの」「いなのめの」の誤りであろう。万葉以来の枕詞で「夜が明く」の「明く」に掛かる。小学館「日本国語大辞典」によれば、「補注」に『語源およびかかり方については諸説ある。(イ)「いな(寝)のめ(目)」が朝方に開くから「(夜が)明く」にかかる。(ロ)「いなのめ」は「しののめ」(暁方の意)と同義で』『あるところからとする。(ハ)「いな(稲)のめ(目)」(稲の穂の出始める意)を夜明けにたとえるところからとする。(ニ)「イナ(鯔)のめ(眼)」が赤いところから「赤」と同音の「明」にかかる。(ホ)採光、通風のために、稲藁を粗く編んだむしろのすきま(稲の目)から明け方の光がさし込むところから、など』とある。龍之介は同義の「しののめ」辺りから、うっかり、かく表記したのかも知れない。

「まく」「枕にする」の意。「万葉集」に「まくらとまく」 =「枕(まくら)と枕(ま)く」として「枕にして寝る」の用法がある。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 「井月句集」の跋

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房)に「跋」として掲げられ、後、作品集「點心」「梅・馬・鶯」に表記の題で収録された。同句集は原本を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。

 底本は岩波旧全集に拠った。標題はママ。

 本電子化は現在進行中の「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、行った。されば、注は附さない。この公開後に公開する「芥川龍之介書簡抄103 / 大正九(一九二〇)年(八)」を参照されたい。私は井月の生涯と俳句を偏愛する人間である。彼の漂泊の人生について、詳しくはウィキの「井上井月」がよい。龍之介のこの跋文についても言及されており、編者であった下島が芥川龍之介の主治医であった縁から、この跋文は『芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』が、芥川がここで「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」を『井月の最高傑作と称揚しているが、皮肉にも』、『この俳句は井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』とあることは明記しておく必要がある。また、一ヶ所、「適く」は「ゆく」と読む。後日、語注を追加しようとは思っている。]

 

  「井月句集」の跋

 

 空谷下島先生の「井月の句集」が出るさうである。何しろ井月は草廬さへ結ばず、乞食をしてゐたと云ふのだから、その句を一々集めると云ふ事は、それ自身容易な業ではない。私はまづ編者の根氣に、敬服せざるを得ないものである。

 井月の句集を開いて見ると、惡句も決して少なくはない。天明の遺音は既に絕え、明治の新調は未起らなかつた時代は、彼にも薰習を及ぼしたのである。しかし山嶽の高さを云ふものは、最高峰の高さを計らなければならぬ。井月は時代に曳きずられながらも、古俳諧の大道は忘れなかつた。「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」以下、集中に散見する彼の佳句は、この間の消息を語るものである。しかも亦彼の書技は、「幻住庵の記」等に至ると、入神と稱するをも妨げない。私は第二に烱眼の編者が、この巨鱗を網にした事を愉快に思はずにはゐられないのである。

 が、私の編者に負ふ所は、これのみに盡きてゐるのではない。昔天竺の鹿頭梵志は、善く髑髏を觀察し、手を以て之を擊つては、死の因緣を明らかにした。たとへば「是男子なり。衆病集つて百節酸痛し、命終を取る。是人死して三惡趣に墮つ」の類である。しかし世尊が試みに、優陀延比丘の髑髏を與へて見たら、彼は唯茫然として、「男に非ず女に非ず。亦生を見ず。亦斷を見ず。亦同胞往來するを見ず。」と、殆答へる所を知らなかつた。無余涅槃に入つてゐた比丘は、「無終無始、亦生死無く、亦八方上下適くべき所無し」だつた爲、梵志の神識も及ばなかつたのである。これは優陀延に限つた事ではない。井月の髑髏を擊たせて見ても、梵志はやはり喟然として、止むより外はなかつたであらう。このせち辛い近世にも、かう云ふ人物があつたと云ふ事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある。編者は井月の句と共に、井月を傳して謬らなかつた。私が最後に感謝したいのは、この一事に存するのである。

芥川龍之介書簡抄102 / 大正九(一九二〇)年(七) 八通(現存する書簡の最古の河童図を含む)

 

大正九(一九二〇)年九月八日・田端発信・本鄕區湯島三組町卅八 瀧井孝作樣・九月八日 芥川龍之介

 

咋夕電氣と文藝社の事を賴みし人の所へ行き話したるにあの社の當事者は零餘子に万事を賴みし爲差當りその手から仕事を引き離す訣にも行かぬ由 しかし雜誌が零餘子ではうまく行かぬに相違なければ早晚何とか始末をつける事になるべくその節はよろしく願ふと云ふ口上だつた さう云はれて見れば仕方なき故君の名だけ先方に通じて戾つて來た どうもこの口は至急どうと云ふ訣には行かぬと思ふ

猶僕も外に何かあるか氣をつけて置くから精々君も當分は現狀に辛抱する事にし給へ 冗員淘汰がやかましい咋今だから改造の口もそんなに難有くないものではないのだよ 相談がてら君の所へ行く心算だつたが暑さに負けて手紙にした 以上

     昨日作つた歌

   石燈籠立ちの佗しき夕空にあがりて消えし螢なるかも

    九月八日       我 鬼 拜

   折 柴 先 生

 

[やぶちゃん注:「電氣と文藝社」『電氣と文藝』は創刊年月日は調べ得なかったが、高橋士郎氏のサイト内にあるこちらによれば、編集人は辻嘉市で、発行所は電気文芸社とある。科学記事と芸術・文芸記事を併載する変わった雑誌のようで、『文芸関係の欄には田山花袋・室生犀星・与謝野晶子・芥川龍之介・寺田寅彦・高浜虚子・菊池寛など、同時代を代表する文学者が寄稿』したとある。そういえば、私がブログで電子化した私の好きな俳人杉田久女の自伝的中編小説「河畔に棲みて」(三回分割。ここと、ここと、ここ)の初出発表誌がこれだったことを思い出した(この作品は大正六(一九一七)年年初の『大阪毎日新聞』懸賞小説募集に応募したもので、選外佳作となったが、評者からは「素直に書けている」とかなり高い評価を受けた(この際、別な形での採用発表を勧誘されてもいる)。その直後に高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人であった長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)が、この原稿を貰い受け、彼自身が編集していた同年発行の『電氣と文藝』の、一月号から三月号に掲載発表されたものであった)。本書簡に出る「零餘子」はその俳人長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)で、群馬県緑野郡鬼石町(現在の藤岡市)出身。本名は長谷川諧三(かいぞう:旧姓は富田)。東京大学薬学科専科卒。十六歳より俳句を始め、明治三八(一九〇五)年に新聞『日本』や『万朝報』に投句し、『日本』の選者であった河東碧梧桐の知遇を得、翌年、ホトトギス例会に出席するようになった。明治四十三年、俳人長谷川かな女と結婚し、婿養子として改姓、明治四五(一九一二)年には、高浜虚子に請われて『ホトトギス』編集部に入り、大正二(一九一三)年には『ホトトギス』の「地方俳句界」の選者となった。大正三年、『東京日日新聞』(『大阪毎日新聞』の系列紙)の選者となる。大正十年、『枯野』を創刊して主宰した。大正十五年には、講演概要筆記として「立体俳句論」を『枯野』に掲載、その幾何学的な俳風で、知識人層の支持を得た人物である。俳号はヤマノイモやオニユリなどに生ずる栄養体肉芽「むかご」に、「僅かな残り。端(はした)」の意を掛けたものであろう。ただ、ここで龍之介の不満ながらの辛抱を瀧井に言っている内容は、今一つ、はっきりとは分からない。既に虚子と親密だった龍之介にとっては、長谷川零余子とはぶつかりたくはないが、彼の文芸欄編集には大いに不満があり、自作を載せるのには躊躇する、という感じがあるようには見える。或いは後文から見るに、瀧井が『電気と文芸』の編集者として正規に雇って貰えないかと、龍之介に依頼したものかも知れない。

「冗員淘汰」(じようゐんとうた(じょういんとうた))とは「無駄な人員を整理すること」。

「改造の口もそんなに難有くないものではない」筑摩全集類聚版脚注に、『瀧井孝作はしばらく「改造」の記者をしていた』とある。なお、ウィキの「瀧井孝作」によれば、この年、彼は『改造』の文芸欄担当記者として、志賀直哉を知り、「暗夜行路」を『改造』に貰っている。]

 

 

大正九(一九二〇)年九月二十日・田端発信・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・九月二十日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

   夕影の鞍馬の山に人住めり嘯虎と云ひてこの紙作る

   はろばろと人が持て來し封筒の黃なるが裏に嘯虎の印あり

    九月二十日 目下風邪引籠中 我鬼拜

   大 芸 先 生

 

[やぶちゃん注:「嘯虎」(しやうこ(しょうこ))は佐々木茂索の兄。鞍馬寺に因んだ民芸品や玩具を製作していたらしい。

「大芸先生」芥川龍之介が佐々木を指して尊称したもの。恐らくは「たいうん・だいうん」と読む。「芸」は「藝」の略字ではなく、(くさかんむり)は間が切れる正字で、「藝」とは全くの別字である。これは本来は草の名で、地中海原産のバラ亜綱ムクロジ目ミカン科ヘンルーダ属ヘンルーダ Ruta graveolens を指す。本邦には江戸時代に渡来し、葉に含まれるシネオールという精油成分が通経剤・鎮痙剤・駆虫剤などに用いられ、料理の香りづけにも使われていたが、ウルシのように接触するとかぶれるなどの毒性があるとされ、現在は、殆んどその目的には使われていない。精油として採取されたルー油はグラッパなどの香り付けに使われている。漢字では「芸香」(うんこう)と書く。この成分故か、書物の栞(しおり)に使うと、本の虫食いを防ぐとされたことから、「芸」は転じて「書籍」を指すこととなり、古くは書斎のことを「芸室」(うんしつ)と称した。それを洒落たものであろう。私は大学時代に図書館司書の講座の中で(私は図書館司書及び司書教諭の資格も持っている)教わった「芸亭(うんてい)」を思い出す。日本最初の公開図書館で、奈良時代末に石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が設立したもので、彼の旧宅を寺とし、その一隅に、漢籍を収めた書庫を設け、自由に閲覧させたというものである。]

 

 

大正九(一九二〇)年九月二十二日・田端発信(推定)・本鄕區東片町百卅四 小穴隆一樣・二十二日 我鬼(葉書)

 

赤らひく肌(はだへ)ふりつゝ河童どちらはほのぼのとして眠りたるかも

この川の愛(めぐ)し河童は人間をまぐとせしかば殺されにけり

短夜の清き川瀨に河童われは人を愛(かな)しとひた泣きにけり

  この頃河童の画をかいてゐたら河童が可愛く

  なりました 故に河童の歌三首作りました 

  君の画の御礼に僕の画をお目にかけ併せて歌

  を景物とします 以上

 

 

大正九(一九二〇)年九月二十二日・田端発信(推定)・本鄕區東片町百三十四 小穴隆一君(自筆繪葉書・前の葉書と共に投函されたものと推定される)

 

Suikomondouzu

 

水虎文問荅之図

 

       三拙漁人 我鬼

 

[やぶちゃん注:「我鬼」は朱の落款。画像は「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)にある、前の書信分とカップリングされたものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。前の書信は改めて以上の画像を視認して削除訂正も再現しておいた。]

 

 

大正九(一九二〇)年九月二十三日・田端発信(推定)・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・九月二十三日 芥川龍之介

 

   腸の腐る病と聞きければわが腹さへも痒くなりにけり

   氷囊の下にまなこをつぶりつゝわが腦味噌の腐る日おもほゆ

   もう少しまじめに歌を考へん熱はあれども頭は鋭き

   人つ日にさ庭の草のけむるときわが腦味噌の腐るを氣づかふ

   目なかひにかゞやく星の今宵赤し人の膓腐れんとすも

   屋根草のうら枯早み腐れたる膓持ちて生くる人あり

まだ熱あり、時々起きて原稿を書く、苦しみ云ふばかりなし、膓の腐る方が樂だといふ氣がする、あの藥もまだ使はない

            病 我 鬼 拜

 

[やぶちゃん注:佐々木が罹患している「腸の腐る病」というのは不詳。一番一般的なのは腸捻転による捻転部の炎症腐敗である。芥川龍之介もこの九月下旬、風邪のために一週間ほど床についていた。

「目なかひに」「目交ひに・眼間に」。「目 (ま)の交(か)いに」で「目の先・目の前」の意。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月十一日(年次推定)・田端発信・恒藤恭宛(転載)

 

松茸を澤山ありがたう

奥樣にもよろしく

   風ひきてこやほどうれしはろばろと君がたばせし松茸一かご

   籠とけば羊齒草がくれ松茸の匂ふはことにうれしきろかも

   松茸はうれしきものか香を高みわが床のべを山になすかも

   別雷神のみことのしづまらす糺の森の松茸かこれ

   松茸の香深き森にすむ君のめぐし孤り子すこやけくあれ

   松茸の香にこそ思へ如何ならむ君がなき子のおくつきどころ

   秋を深み墓の木の枝うちなびき泣きてし心忘らえなくに

   松茸の匂は高し夕されば羊齒草さへにうすじめりつつ

   熱を高み咳にたへつゝ松茸の歌九首作る龍之介われは

    十月十一日      病 我 鬼

   恒 藤 恭 君

 

[やぶちゃん注:「羊齒草」「しだくさ」と読んでおく。贈られた松茸はシダを緩衝材として包装してされていたのである。

「別雷神のみこと」「わけいかづちのみこと」賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)は現在の京都府京都市北区上賀茂本山にある賀茂別雷神社(=上賀茂神社)の祭神。恒藤は当時、下加茂松原中ノ町に住んでいた。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月十六日・田端発信(推定)・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・十六日 我鬼拜

 

     新曲賣文八景

かなしきは、うき世なりけり身一つの、外にはたのむ椎の木の、木陰もさらに嵐ふく、鳰の湖(うみ)なる漁り舟、わたしや苫洩る雨にぬれ、身すぎ泣く泣く揖枕、夢もむすばぬ苦しさを、知るは浪風蘆ばかり、一つ浦屋の漁師さへ、粂も政二も榮一も、今夜ばかりは上機嫌、一盃機嫌、色機嫌、大津女郞衆の買ひ論に、さぞや顏にも夕燒けの、勢多の長橋なかなかと、時もうつれば唐崎や、まつ間せはしき夜の雨、比良の暮雪か女菩薩を、抱けば煩惱卽菩提、樣がためなら命も捨てよ、帶もやるやる笄ひも、閨の誓は堅田なる、雁の折り伏す蘆の穗の、寐くたれ居ろと思ふさへ、なじみ重ねたかの君に、わたしや粟津の靑あらし、つらいかなしい逢ひたいと、心矢ばせの歸り帆や、いつそこの儘向う地へ、舟をやろかと思つても、魚籃(びく)には魚もあら波の、しぶきうき世のすべなさに、男の意地を三井寺の、鐘鳴るまではやつしつし、やつと打つたる網がくれ、見えしは鯉か石山の、秋の月より夜もしるき、漁は金鱗二千丈、語るも聞くもいとほしき、作家修業の八景は、多情多恨のわが茂索、君が爲とぞ三重

しつかりし給へ さうしてえらくなつてくれ給へ 誰でもみんな樂ぢやないのだ

    十六日午後      我 鬼 拜

   佐 々 木 茂 索 樣 侍史

 

[やぶちゃん注:「新曲」は底本では右から左に横書きポイント落ち。全体は「近江八景」(琵琶湖南西部の八つの景勝。「石山の秋月」「比良(ひら)の暮雪」「瀬田の夕照」「矢橋(やばせ)の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田(かたた)の落雁」「粟津の晴嵐(せいらん)」。安藤広重の浮世絵でよく知られるが、もとは中国の洞庭湖の「瀟湘(しょうしょう)八景」に倣って選んだものである)を読み込みながら、しがない売文業のしがらみをカリカチャライズした小唄である。

「たのむ椎の木の」これは芭蕉の、「幻住庵の記」(大津の、門人菅沼曲水の別邸幻住庵在庵は元禄三(一六三〇)年四月六日から同年七月二十三日であるが、文の完成は翌八月。芭蕉四十七歳)の一末尾置かれた一句、

 先づたのむ椎の木も有(あり)夏木立(なつこだち)

であるが、その文末部分には芭蕉の観想する人生観が表明されているから、それを匂わせたととるべきであろう。以下に示す。

   *

 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隱さむとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り來し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬(ぶつり)祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。『樂天は五臟の神を破り、老杜は瘦せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻(まぼろし)の住みかならずや。』と、思ひ捨てて臥しぬ。

 

  先づ賴む椎の木も有り夏木立

 

   *

「鳰の湖(うみ)」「にほのうみ」は琵琶湖の異名。「鳰」はカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei の古名。博物誌は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり)」を参照。「鳰の浮き巣」(カイツブリの巣。葦の間などに作られ、それが水に浮いているように見えるので、和歌・俳諧などでは「寄る辺ない哀れなもの」として詠まれる)が知られ、同じ芭蕉に、

 五月雨に鳰の浮巢を見にゆかん

がある。貞亨四(一六八七)年夏に江戸で詠まれたが、彼はこの年の十月に、かの「笈の小文」の旅に出る。この句はそれを門弟に示したものであった。

「苫」とま。菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだ蓆(むしろ)。和船や家屋を覆って雨露を凌ぐのに用いる。

「揖枕」かぢまくら(かじまくら)。舟中で寝ること。

「粂も政二も榮一」筑摩全集類聚版脚注に、『久米正雄、小島政二郎、岡栄一郎をさすのだろう』とある。

「女菩薩」「によぼさつ(にょぼさつ)」。といえば、私は即座に後の「藪の中」(大正一一(一九二二)年一月『新潮』掲載)を連想する(リンク先は私のもの)。

「煩惱卽菩提」既に述べた通り、龍之介の好んだ語。

「笄ひ」歴史的仮名遣は「かうがい」が正しい。元は、髪を搔き上げるのに使った箸(はし)に似た細長い道具。銀・象牙などで作るが、後に、女性の髷(まげ)に横に挿して飾りとした道具。金・銀・水晶・瑪瑙・鼈甲などで作るそれを指すようになった。

「閨」(ねや)「の誓」(ちかひ)「は堅田なる」。地名に男女の寝所での密やかな誓いが堅いことを掛けたのは言うまでもない。

「寐くたれ居ろ」しどけなく寝ていろ。しかし、意味からみるに「寐くたれ居(ゐ)ると思ふさへ」の方が躓かないのだが?

「わたしや粟津の靑あらし」「粟津の晴嵐」に「逢はず」を掛けたもの。

「心矢ばせの歸り帆や」「矢橋の帰帆」に「矢のように」を掛けたもの。

「三重」三味線楽の旋律型の一つ。浄瑠璃や長唄などで、一曲の最初や最後又は場面の変わり目などに用いる。義太夫節には、大三重(おおさんじゅう)・キオイ三重・引取三重など、種類が多い。本来は、高い音域の部分という意味からの名称である。ただ、ここで龍之介は訓じて「みつがさね」と読んでいるものと思う。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月十六日・田端発信・小穴隆一宛

 

寂しもよ月の繪のある古德利誰か描きけんこの古德利

小(さ)柱に菊は香ぐはしとろとろと入谷の兄貴醉ひにけらずや

碧童は醉ひ泣きすらん隆一は眠るが常ぞ古原草は如何に

この鳥は何鳥ならん紅菊の菊の花見て啼けりや否や

隆一が醉ひて書きたる菊の花その花小さしあはれを感ず

御會式の夜ルをかきかく鰹節音冴えぬれば醉ひがてぬかも

男三人醉へばまさびしこの宵は日蓮上人の御命日かも

夜深み歸り來れば枕べに隆一が描きし菊の花あり

醉ひ居れば薄き羽織も脫がなくにただに筆とる龍之介われは

 十月十六日

小 穴 畫 宗 梧右

 

[やぶちゃん注:「入谷の兄貴」小「碧童」既出既注

「古原草」「こげんさう」と読む。遠藤古原草(こげんそう 明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年)は俳人・蒔絵師。本名は清平衛。芥川龍之介らは彼の仕事と本名からしばしば「蒔淸(まきせい)」と呼んだ。『海紅』同人で、小澤碧童や滝井孝作(俳号・折柴)の紹介で知り合い、小穴とも交流した。

「御會式」一般名詞としては法会の儀式であるが、一般には専ら、日蓮宗の各寺において、日蓮の忌日(十月十三日)に営まれる、宗祖報恩のための法会を指し、「御影供(みえいく)」「御影講(みえいこう)」とも呼ぶ。また、特に「御命講(おめいこう)」(大御影供がなまって「おめいく」となる)と称して、弘法大師忌の御影供と区別することもある。日蓮入寂の地である東京都大田区池上の本門寺と、杉並区堀ノ内の妙法寺の御会式は最も盛んで、本門寺の御会式は十月十一日から三日間行われるが、夜、花で飾った万灯を押し立て、団扇(うちわ)太鼓を打ち鳴らし、題目を唱えた信者が群参する。既に述べたが、芥川家の宗旨は日蓮宗である。]

芥川龍之介書簡抄101 / 大正九(一九二〇)年(六) 避暑した青根温泉関連五通

 

大正九(一九二〇)年七月三十一日・田端発信・本鄕區東片町一三四 小穴隆一樣・七月卅一日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

啓みちのく靑根溫泉へ入湯に赴き候爲當分留守に致候碧童先生への御禮は歸京に節[やぶちゃん注:ママ。]に致す可く缺欠礼の段はよろしく御とりなし置き下され度候香取先生貴臺風景の畫を中々うまいと褒められ候も小生の軸の方よろしき由にてあの鷄一羽とられ候我鬼の印その後むやみやたらに本へ押し居り候二つ宛押したる本もあり自ら笑止に存居候碧童句集早く拜見致度候

   岩根踏みわが戀ひ行けばしらしらと靑峯の山に雲わくらんか

 七月卅一日         我 鬼 拜

   小 穴 隆 一 樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介はこの翌日九月一日、宮城県柴田郡川崎町青根(あおね)温泉(グーグル・マップ・データ)に避暑に出かけ、同月二十八日頃まで滞在した。八月三日附小穴宛書簡(絵葉書)では、当地は、『海拔千何百尺とかの由 周圍の風物皆高山の趣あり』とし(青根温泉は単純泉で、宮城県南西部の蔵王山の東方にあり、標高千六百六十六メートルの後烏帽子岳(うしろえぼしだけ:国土地理院図)の東北山腹の標高約五百メートル(=千六百五十尺)にあって眺望がよい)、歴史ある不亡閣という宿の『土藏の二階を陣取り これから小說を書き出す所』とあるが、執筆は進まず(『中央公論』九月号発表予定であった「お律と子等」(後に「お律と子等と」に改題)は遂に脱稿出来ず、十月号・十一月号に分載となっている)、佐々木茂索には『便秘で困つてゐる』(八月四日附)、瀧井孝作に『便秘の爲頭の具合惡く碌な小說も書けさうぢやない』『肉食交合二つながら絕緣だ』などと書き送っている。この山間の温泉地を選んだ理由は定かでないが、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、『あるいはこの時期』、交流が深くなって『いた与謝野晶子の勧めによるものであろうか。ちなみに晶子には青根の歌がある』とある。

「碧童先生」小沢碧童(へきどう 明治一四(一八八一)年~昭和一六(一九四一)年)は俳人。東京出身。本名は忠兵衛。河東碧梧桐に師事し、東京上根岸の自宅を「骨立舎」と命名して俳道場とした。『日本俳句』『海紅』で活躍した。書や篆刻にも優れており、芥川龍之介と親交があり、龍之介自身が最も年長(十一年上)の友人と称して、終始、敬愛した。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月九日消印・青根温泉発信・東京市本鄕區湯島三組町卅八 瀧井孝作樣(自筆絵葉書)

 

Jyukadokuza
 
 

               樹下独坐

                  我鬼画

もなか難有う 但悉つぶれて餡の塊りになつて來た 新潮の僕の小説 南部のなどとは品が違ふと思ふが如何 君の小説は、果して白眉だつたではないか 以上

                龍之介 記

 

[やぶちゃん注:画像は「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。書信文は以上の原書簡画像を視認して表記通りに示し、一部に字空けを施して読み易くした。芥川龍之介自身を羅漢に模した、なかなかいい一枚である。

「もなか」採用しなかったが、瀧井には先に引用した八月四日宛の冒頭で『うさぎやのもなか送つて頂ける由難有し』とある。「うさぎや」というのは大の甘党であった芥川龍之介御用達の上野広小路の和菓子屋。現存する(グーグル・マップ・データ)。龍之介はここの名物「喜作最中」が大好物であった。店主谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)は東京生まれで、俳人でもあり、多くの文化人との交流があり、『海紅』『碧』などの俳誌に句や随筆を発表してもいた。芥川龍之介の葬儀でも世話役として気を配り(一説では葬儀全般を取り仕切ったともされる)、『小穴隆一 「二つの繪」(22) 「橫尾龍之助」』によれば、『燒場の竃に寢棺が約められ、鍵がおろされてしまつて、門扉にかけた名札には芥川龍之助と書いてあつた。谷口喜作が燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改めさせ、恒藤恭がよく注意してくれたと谷口に禮を言つて』いたとある。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月十八日・消印宮城遠刈田二十一日・青根温泉発信・東京市本鄕區三組町三十九 瀧井孝作樣

 

   入日さす赭土路の馬の跡坂は急なるこの若葉かも

葉卷やつとついた 最中も難有う 奧さんの御病氣如何

    十八日        我 鬼 拜

 

[やぶちゃん注:「赭土路」「あかつちみち」であろう。

「最中」も難有う」恐らく、前にあったように、先に送った最中が潰れて餡玉のようになっていたというのを受けて、包装を厳重にして、再度、「うさぎや」のそれを送ったものであろう。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月二十日青根発信・薄田淳介宛(絵葉書)

 

   入日さす赭土路の馬の跡坂は急なるこの若葉かも

   行く春の山の巖間に水は滴り巖根を見れば苔靑む見ゆ

季節は歌の便宜上二月ほど繰上げそろ、年鑑、短篇承知仕候御手紙こちらへ轉送されし爲漸昨日拜見致そろ 以上

 

[やぶちゃん注:「年鑑」芥川龍之介は大正九年十一月二十日発行の『毎日年鑑』(大阪毎日新聞社編纂)に「大正九年の文藝界」を執筆しているので、その依頼であろう。

「短篇」不詳。毎日系列では、劇評なら十月十五日・十一月十三日に書いてはいる。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月二十一日・青根発信・松岡讓宛(自筆絵葉書)

 

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            樹下独坐

                我 鬼

 

[やぶちゃん注:画像は同じく「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした。前の瀧井宛の方が遙かによい。底本の旧全集ではモノクロームの画像のみ。掲げた画像から字を起こした。]

2021/07/21

芥川龍之介書簡抄100 / 大正九(一九二〇)年(五) 南部修太郎宛二通(南部の「南京の基督」批評への反駁)

 

大正九(一九二〇)年七月十五日・田端発信・南部修太郞宛

 

啓 君の手紙を見た君は手紙の中と新聞の月評とでは「南京の基督」に對する批評を別な調子で書いてゐるそれがどうも愉快な氣がせぬ僕には月評を書いてゐる君が僕の作品を或程度褒めながらしかも褒めた事によつて世間の輕蔑を買はないやうに用意してゐるやうな氣がするこれは僕の邪推かも知れぬしかし調子が違つてゐる事は事實だ又その點を看過しても純粹に理窟の上から云ふと君はあの作品に藝術的陶醉(エクスタシイ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。](君の言葉を借りる)を感じながら君の心にアツピイルする何物かがないと云つてゐる藝術品が君に與へるものは何故藝術的陶醉のみではならないか君の心にアツピイルする何物かとは如何なる摩訶不可思議なものかその點にどれだけ君が眞面目な考察をしてゐるか疑問だと云ふ心もちがする又君はあの作品を評して僕が遊びが過ぎると云つてゐる遊びが過ぎるとはあの種の作品を書く事かそれとも特にあの作品に現れた僕の態度を指して云ふのかもし前者ならば僕は卽座にトルストイ、フランス、バルザツクその他近代の大家の作品を十までは擧げる事が出來るそれらが何故遊びであるか君の答を聞きたいと思ふもし後者ならば君に問ふあの日本の旅行家が金花に眞理を告げ得ない心もちは何故遊びに墮してゐるか僕等作家が人生から Odious truth を摑んだ場合その曝露に躊躇する氣もちはあの日本の旅行家が惱んでゐる心もちと同じではないか君自身さう云ふ心もちを惑じる程殘酷な人生に對した事はないのか君自身無敷の金花たちを君の周圍に見た覺えはないのかさうして彼等の幻を破る事が反つて彼等を不幸にする苦痛を嘗めた事はないのか――それも君に問ひたいと思つてゐる又この二つの他に遊びの義を求めれば僕の仕事の仕方に遊びがあるかあの二十何枚中にたるんだり亂調子になつたりしてゐる所があるか、それも君に問ふのを躊躇しないもし夫 George Murry を點出したのを非難するに至つてはあの作品のテエマを押解しないか、全然それを否定するかだから又多言を要せずだと思ふ

眞面目になると云ふ事は作品中の人物に眞面目な事を云はせるのみではない僕等の日常生活を内外とも立派に處理する事だ僕は君が寸毫の惡意を持つてゐるとは思はないしかし君の眞面目さはもつと鍛鍊せねばならぬと思ふ先輩顏をするのではないが遠慮なく不服を書く君も遠慮なく答へて貰ひたいそれまでは君と會はないつもりだ

    七月十五日朝     我   鬼

   南部修太郞君

 

[やぶちゃん注:相手の南部修太郎は既出既注

「南京の基督」大正九(一九二〇)年七月一日発行の雑誌『中央公論』に掲載、後に「夜來の花」等に所収された。私の古い電子テクストはこちら。私が芥川龍之介の小説の中で五本の一つに挙げる偏愛の作品である。

「新聞の月評」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、『この月一一日『東京日日新聞』掲載の「最近の創作を読む」で、南部は「南京の基督」について、「この種の作品から心にアッピイルする何物かを得ようなどと私は思はない」、「筆達者」は「気持ちが好い」が「たゞそれだけ」と評した』とある。また、ウィキの「南京の基督」には「作品評価・解釈」の項が充実しており、作品を読まれた後に、読まれんことをお勧めしておく。少しだけ引用しておくと、前作「秋」で『せっかく近代心理小説の新しい転換を図ったのに、また以前の得意な作風になったことを惜しむ久米正雄の評もある』とあり、また三島由紀夫は『「実によく出来た、実に芥川的な短篇」としながらも、「古典的名作」とされているこういった作品が、案外「芥川のもので一等早く古びさうに思へる」とし』、『その理由を、芥川が本来的に持っているナイーブさが見られないという主旨で以下のように解説している』として、三島由紀夫の昭和三一(一九五六)年角川文庫の「解説」の以下の引用がある。『それはあながち、一篇の主題の、アナトオル・フランス的な悠々たるシニシズムのためばかりではない。十九世紀趣味の物語手法のためばかりではない。似たやうな手法の谷崎潤一郎の初期作品に比べると、短篇技巧では谷崎のはうが粗雑かもしれないが、あの悪童が泥絵具をおもちやにしてゐるやうなヴァイタリティーがここにはない。「南京の基督」を成立たしめてゐる作者の人生観が、谷崎より幼稚でないならばないなりに、それだけ作者の本来のものではない感じを与へる。つまり完全にナイーヴィテが欠けてゐる』(引用終了)とまず、苦言染みたことを言いつつ、『しかし三島は、こういった評は、「後人のないものねだり」で、短篇小説というジャンルを、その当時の時代にここまで完成させることは、芥川以外の他の誰にもできなかったことであり、「近代日本の急激な跛行的発展の一つの頂点の文学的あらはれ」だと賛辞している』。『そして、その巧さを、「日本人本来の繊細なクラフツマンシップ(職人芸)が、ここまで近代芸術としての短篇小説を完成せしめたのは、現在のカメラ工業の発展とも似てゐる。この精妙なカメラは、本場物のライカをさへ凌いでゐる」とし、これに比して「昭和文学の短篇」はだらしない作品が増え、「川端康成と梶井基次郎と堀辰雄のみが短篇小説の孤塁を守るにいたる」と解説している』とあり、以下には、この書簡への言及もある。

「遊びが過ぎる」前掲書で石割氏は、『南部は「小器用に纏め上げた Fiction を書いて、気持好さそうに遊んでゐる」と評した。また、安倍能成や久米正雄も、ほぼ同じ批評を新聞に寄せた』とある。一部が、前の引用及びここでの引用とダブるが、所持する平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の細川正義氏の本作の解説中の「評価と展望」によれば、『作品の発表された直後の七月十一日の『東京日日新聞』で南部修太郎が、この作品を「小綺麗に小器用に纏め上げた Fiction を書いて、気持好ささうに遊んでゐ」て「心の動きがない」作品に属するものであるが、「冴えた達者さは気持が好い。巧いものだと云ひたくなる」と評した。「遊んでゐる」という表現は後の芥川から南部宛ての書簡の発端にもなるが、「巧いものだ」という見方は、二日後の『読売新聞』に掲載された安倍能成の「巧みに造られたお話」、十四日の『時事新報』での久米正雄による「格を外さぬ文体の美しさ」、「全篇を作す態度の一糸乱れない立派さ、所々を機知で救ふ気禀の閃き」を高く評価した文章でも指摘された。しかし久米は「趣味ばかりで固めたメルヘンの領域」の作で、「作者の「心の動き」が、どうも真の意味での材料への食ひ入り方が、為に疎外されてゐるやうに感ぜられてならない」という辛目の評も加えた。この「メルヘンの鎖域」をが定的に見る久米の見方に対しては、以後、片岡鉄兵の「芥川氏のロマンチシズムの、最極の表れ」を見、「生の執着と、愛情に対する驚き」が描かれているという指摘』(引用元は「作家としての芥川氏」で昭和二(一九二七)年九月号『文藝春秋』芥川龍之介追悼号に掲載されたもの。私は古くにこちらで電子化している)『や、宮本顕治の「敗北の文学」(『改造』一九二九』(昭和四年)『八)における「氏のロマンチシズムに溢れてゐる」「儚い夢に氏は憐愍と愛撫をそゝいでゐる」といった肯定的評価に変わっていく』ともある。

「Odious truth」醜悪なる真実。

「George Murry」「南京の基督」の最後に出る若い日本の旅行家の心内語の中に出てくる本作の重要な人物。『日本人と亞米利加人との混血兒』で『英字新聞の通信員だと稱してゐた』、『男振りに似合はない、人の惡るさうな人間』と評する人物の名。ネタバレになるので、これ以上は言及しない。次の二信ではストーリーの一部が挙げられるので、未読の方や記憶の彼方に行ってしまっている方は、くれぐれも先ず.、作品を読まれてから読まれたい。

 

 

大正九(一九二〇)年七月十七日・田端発信・南部修太郞宛

 

一、手紙と月評の差は今後なる可く少く願ひたい不快に感ずるのはその差が僕の憎僞感を剌戟するからだその外の理由はない

二、僕の邪推は邪推として取消す

三、作品の批評 in sick に對する君の考は全然見當違ひだから左に個條を分けて反問する

1 君が藝術的陶醉と共に「讀者のモラルを動かし(註に曰モラルを動かすとは意味をなさずモオラル・コンシエンスを動かすの意か)或はそれに觸れる物」を求めるのは單に君の好みか否か好みなら自由だしかし客觀的な理由があるならそれを聞きたい近代の文豪の作品には藝術的陶醉(君の所謂)のみしか與へぬ作品も澤山ある。君が好み以外にそれらの作品を非とするなら(少くとも藝術的により劣つてゐるとするなら)その理由は聞き物だと思つてゐる

2 George Murry を點出しなくとも賣笑婦の信仰を憐んでゐる作者の態度は通じるかも知れんしかし憐みながらそのイリユウジヨンを破らうか止さうかとためらつてゐる心もちは通じない云ひかへれば憐んでゐるよりも一步先の心もちは通じないこれは自明過ぎる程自明の理だ(通じさせなくとも好いと云へば議論にならぬそれは個人的の好みの差だから)たとへば「憐むべき彼はパンを石と思へり」と云ふとする成程その時作者が彼を憐んでゐる心は通じるだらうしかしそれだけの文句では「予は彼にその石なる事を告げんか否かに躊躇せり」と云ふ心もちは通じないと思ふ通じたらその讀者は千里眼だ君にはこれが自明の理とは思へないか

附記 賣笑婦が健全でも傅染した梅毒の爲に相手の男が死ぬ場合は多くある殊に外國人に移つた場合は餘計多いそれを莫迦げた事だと思ふのは君の見聞が狹いからだ且君の使ふフイクシヨンと云ふ語義はひどく低級な意味があるやうに思ふそんな用語例はどこにもないフイクションに惡い意味があればそれは fact に對する場合だ

3 Odious truth 云々の條は更に個條を分けて反問する

(イ)金花の梅毒が治る事は今日の科學では可能だ唯根治ではない外面的微候は第一期から第二期へ第二期から第三期へ進む間に消滅するつまり間歇的に平人同樣となるのだいくら君が治るものかと威張つても治るのだから仕方がないもし君が今日の泌尿器醫學の記載を覆す事が出來るのなら僕は君に降參するさもなければ君が降參すべきだ

(ロ)、(イ)及び2の附記により君の所謂莫迦げた事が莫迦げた事でなくなつた以上 Odious truth 云々の一半は既に不必要になつたと思ふ。しかし更に云ひ餘した[やぶちゃん注:「のこした」。]點を云ふと

(a)金花にとつて基督が無賴漢だつたと云ふ事は Odious truth に違ひないぢやないか感染した梅毒の爲に被感染者が先に死ぬ事が科學的に事實であり且梅毒の一時的平癒が同じく科學的に事實である時詞[やぶちゃん注:「ことば」。]だけのみならず讀者にとつても Odious truth と感じられる事が可能ぢやないかそれでも感じないと云ふならば仕方がない結局個人的な見方の差に歸すべき事だから水掛論はせずに打ち切る事にする唯論理で押して行ける限りは Odious truthと號しても差支へないと思ふがどうか

(b)もし差支へないとすれば「遊んでゐる」と云ふ言葉は取消すべきかどうか[やぶちゃん注:「べきと思ふがどうか」のつもりであろう。]勿論差支へある場合(卽 a に君が no と答へる場合)はこの「b」の問題は始から起らない筈だから君は當然答へなくらよいのだ

4 トルストイ バルザツクetc. の作品は「あの程の作品」の例に擧げたのだ「あの程のうまさの作品」の例に擧げやのではないだから「あの種の作品」を否定せずあの作のみに就いて君がものを云つてゐる今、當然問題にはならない筈だそれは明に彼等の作品の方がうまいこの「うまい」と云ふ意味は勿論君に云はせると「遊んでゐない」と云ふ事になるのだらうが

以上四項に亙つて述べた所に猶君が服さないならもう一度答へ給へ但「1」は大問題だから輕率に答へてくれないやうに望む念の爲に例を擧げて⑴の問を說明すると(「好み」の場合は問題はないが)たとへばメリメの「カルメン」ポオの「赤き死の假面」の如き作品(あれが「南京の基督」とすつかり同傾向だと云ふのぢやない君の云ふ「藝術的陶醉」のみを與へる所の作品と云ふ意味だ)が君にとつて藝術的により望ましくないと思はれる場合その理由を說明せよと云ふ事になるのだ猶「カルメン」「赤き死の假面」が藝術的陶醉以上に君の心もちにもアツピイルする物を與へるならそれを事實(作品中の記載)によつて說明し且それらと「南京の基督」の與へる感銘との差を示してくれ給へ(勿論それがメリメやポオと僕との巧拙に歸するやうな論理の埒外に逸する場合は水掛論に終るから、さうならない限りに於て論じて貰ひたい)

末ながら書き加へる僕は君に些の[やぶちゃん注:「いささかの」。]惡意も持つてゐない君の人格を非議するものがあつたら僕はまつさきに君の爲に戰ふ一人だと思つてくれ給へ問題はすべて議論の上にある 以上

    七月十七日      我 鬼 拜

   南 部 修 太 郞 君

 

[やぶちゃん注:「憎僞感」(ざうぎかん)は、「偽りを憎む気持ち」のであろう。

「in sick」「気持ちの悪い違和感」の意か。筑摩全集類聚版脚注は『欠陥の意か』とする。

「モオラル・コンシエンス」moral conscience。道義感。道徳的良心。

『「憐むべき彼はパンを石と思へり」と云ふとする成程その時作者が彼を憐んでゐる心は通じるだらうしかしそれだけの文句では「予は彼にその石なる事を告げんか否かに躊躇せり」と云ふ心もちは通じないと思ふ』新約聖書の惡魔とイエス・キリストの対話を下敷きにした奇蹟と真の信仰と事実(外見上のそれ)の関係を龍之介風にアレンジしたもの。「一般社団法人キリスト教学校教育同盟」公式サイト内の佐々木哲夫氏の「信じるとは キリスト教Q&A」の「パンか 神の言葉か」に、

   《引用開始》

 悪魔の誘惑は、イエス・キリストの公生涯の始まりの時に起きました。四十日四十夜の断食を経験した直後ですから、イエス・キリストは、かなり、空腹を感じていたことでしょう。悪魔が誘惑したのは、実に、そのような時でした。悪魔とイエス・キリストの対話が成立するには、石をパンに変えるようにと誘う悪魔の言葉が真の誘惑にならねばなりません。即ち、悪魔は、イエス・キリストが石をパンに変え得る人物であると既に知っていたと推察されます。石をパンに変えることのできるイエス・キリストは、石をパンに変えずに旧約聖書の言葉「…人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる…(申命記8・3)」を引用しつつ答えたのです。

   《引用終了》

「唯根治ではない外面的微候は第一期から第二期へ第二期から第三期へ進む間に消滅するつまり間歇的に平人同樣となる」梅毒の後期潜伏期は、見かけ上の緩解期で、この期間は感染力を持たないことが知られているだけでなく、この期間は病態差が甚だしく、数年から実に数十年も続くことも知られている。無論、龍之介が言うように、これは治ったわけではない。しかし、それは見かけ上の「fact」から見れば、治ったように見え、また、当該潜伏期にある人物が別な疾患によって亡くなったならば、個人の意識の中に於ける「fact」にあっては、秘蹟による快癒と信じられるということは何ら「おかしなこと」「哀れむべきこと」では決して、ない。物理的生理的病理学的事実は信仰を裏切るものでは、もともとないことは自明であると私は思っている。私は何の信仰も持たないが、科学的知識が万能だともさらさら思っていない。

「赤き死の服面」の如き作品(あれが「南京の基督」とすつかり同傾向だと云ふのぢやない君の云ふ「藝術的陶醉」のみを與へる所の作品と云ふ意味だ)が君にとつて藝術的により望ましくないと思はれる場合その理由を說明せよと云ふ事になるのだ猶「カルメン」「赤き死の假面」「赤死病の仮面」(The Masque of the Red Death )は一八四二年に発表されたエドガー・アラン・ポーの短編小説。国内に「赤死病」(黒死病(Black Death)=ペスト(ドイツ語:Pest)をモデルとした架空の伝染病)が蔓延する中、病いを逃れて臣下とともに城砦に閉じこもり、饗宴に耽る王に、不意に現れた謎めいた仮面の人物によって死が齎されるまでを描いたゴシック恐怖小説。私の好きな作品である。より詳しいシノプシスは参照した当該ウィキを見られたい。]

2021/07/20

芥川龍之介書簡抄99 / 大正九(一九二〇)年(四) 二通

 

大正九(一九二〇)年七月三日・田端発信・中西秀男宛

 

啓 返事がおくれてすまないと思つてゐますその後引きつゞき忙しいのです六日(月曜)に暇だつたら來ませんか

(午後)僕は新聞では避暑した事になつてゐますが實は未だ東京にゐるのであれは客よけです ランヴィタシオン・オウ・ヴォアイヤアヂュは好いでせう僕は昔からあの中の「スマトラの忘れなぐさの花」なぞと云ふ文句が好きなのです「月」「薄明り」「窓」その外まだボオドレエルの中には好い散文詩が多い筈ですゴオティエの名高いボオドレエル論を讀みましたか

   風ふけば心かなしもスマトラの忘れなぐさの香やふきて來し

    七月三日       我   鬼

   中 西 秀 男 樣

 

[やぶちゃん注:「中西秀男」(明治三四(一九〇一)年~平成八(一九九六)年:龍之介より一つ年下)は英文学者。茨城県土浦市生まれ。茨城県立土浦中学校を経て、東京高等工業(現在の東工大)に入学して文芸部員となり、そこで、同部と交流のあった龍之介と知り合い、以降五年近くも龍之介の家に出入りし、文学を志した。大正一〇(一九二一)年には移籍していた早稲田大学高等師範部英語科を卒業し、早稲田中学校専任教諭となり、戦後、昭和二二(一九四七)年に母校早大の講師となり、翌年には助教授、翌翌年には教育学部教授となり、定年退任後、名誉教授となった。多くの英文学研究や翻訳で知られ、終生、芥川龍之介に傾倒し続けた(以上は当該ウィキ及び新全集「人名解説索引」に拠った)。

「ランヴィタシオン・オウ・ヴォアイヤアヂュ」ボードレールが没してから二年後の一八六九年に発表された散文詩集「パリの憂鬱」(Le Spleen de Paris)に収録された「旅への誘(いざな)い」(L'Invitation au voyage )個人サイト「LA BOHEME GALANTE  ボエム・ギャラント」のここと(但し、そこに示されてあるのは同題(第一ヴァージョン)の韻文のそれ。詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal :詩集初版は一八五七年刊だが、これに載る殆んどの詩篇は一八五〇年までに書かれた。次からが当該詩)、ここと、ここで、原文及び訳(朗読データ付随)が読める。原文のフル・テクストはフランス語の「ウィキソース」のこちらで読める。

「スマトラの忘れなぐさの花」上記詩篇の第六節の末尾に出る。‘un revenez-y de Sumatra’。この「スマトラの忘れな草の花」は、まさにこの大正九(一九二〇)年三月一日発行の『改造』に掲載された「沼」に既に登場している(リンク先は私の古いテクスト)。さらに、「江南游記 三 杭州の一夜(上)」(私のブログ分割版)にも出る。また、私は芥川龍之介が残した現在知られる生涯最後の漢詩(リンク先は私のブログ分割版。注解附き)にも登場していると信じている。因みに、小沢章友はその小説「龍之介地獄変」(二〇〇一年新潮社刊)で頗る印象的に、この言葉を、龍之介が少年の次男多加志に語る形で示している。私の「蒼白 芥川多加志 /附 芥川多加志略年譜」の注で、そこを引用してあるので、是非、読まれたい。そこで僕はこんな風に書いた。

……後の昭和二〇(一九四五)年四月十三日、陸軍第四十九師団歩兵第一〇六連隊(狼一八七〇二)の一兵士となっていた芥川多加志は、ビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦に於いて、胸部穿透性戦車砲弾破片創により戦死した。享年二十二歳。戦友の一人が、多加志の小指の第二関節を切除し、遺骨として持ち帰ろうと試みたが、その戦友もまた、行方不明となった。従って、慈眼寺のあの龍之介の墓の隣りにある芥川家の墓に、彼の骨は、ない――多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう……

 なお、この「スマトラの忘れなぐさの花」については、西川正二氏の論文「芥川龍之介の植物世界――感応する植物・植物への変容」(『慶応義塾大学日吉紀要 英語英米文学』・二〇一二年三月発行・PDFでこちらからダウン・ロード可能)の「7. スマトラの忘れな草の花」で素晴らしい考察が示されてあるので、是非、読まれたい。

「月」筑摩全集類聚版脚注では、「パリの憂鬱」の「月の恵み」(Les Bienfaits de la lune )のことか、とする。

「薄明り」「パリの憂鬱」の‘Le Crépuscule du soir’。「夕暮れの薄明」。

「窓」「パリの憂鬱」の‘Les Fenêtres’。

「ゴオティエ」フランスの詩人・小説家・劇作家ピエール・ジュール・テオフィル・ゴーティエ(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)。既出既注

「名高いボオドレエル論」ゴーティエの追悼文と評伝・作家論でもある新版「悪の華」の序文のことか。]

 

 

大正九(一九二〇)年七月八日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

拜啓 今月のアララギを讀み御病氣の由承知氣になり候まゝこの狀認め候 御容態如何に候や時節がら隨分御大事になされ度候御職業がら御手落ちは無之事と存候へども念の爲申添へ候

この頃のうん氣にて小說家業もつらく僅に夜凉を迎へては息をつき居り候

   押し照れる月夜靜けみ動かざる鐘の上に馬蠅一つ

歌のやうなもの御一笑下され度候 草々

    七月八日       芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「うん氣」表面上は「溫氣」で、「暑さ・蒸し暑さ」であるが、これはわざわざひらがなにしたことが、暗に「運氣」、自然界の現象に現れる人間の運勢。天地・人体を貫いて存在するとされた五運と六気、人間の脈にも現れるとして漢方医に重視されたそれが示唆されているものと読む。]

芥川龍之介書簡抄98 / 大正九(一九二〇)年(三) 恒藤恭・雅子宛(彼らの長男信一の逝去を悼む書簡)

 

大正九(一九二〇)年七月三日・田端発信・京都市外下加茂松原中ノ町 恒藤恭樣(書簡末尾に「恒藤雅子樣粧次」とも記す)・七月三日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

君の手紙を見て驚いた 實際驚いた

郵便局の莫迦が始ははがきの㈡を置いて行き㈠は君の手紙と殆同時に來たのだ だから餘計驚いた

さぞ君も奧さんも御力落しだらうと思ふ 比呂志を見てこいつに死なれたらと思ふと君たちの心もちも可成わかるやうな氣がする 僕の子もいやにませてゐるから何だか不安にもなり出した おやぢが君の手紙を讀んで泣いた

おふくろや何かも泣いた 文子は泣きながらぽかんと坐つて「まあどうしたんでせう まあどうしたんでせう」と愚痴のやうな事を云つてゐた 女や老人は淚もろいものだと思つた それが羨しいやうな氣も少しした 二番目の御子さんはどうした?

病氣の名が書いてなかつたが何病かななどと思つてゐる

     悼亡一句

   五月雨や鬼蓮の莟咲きもあへず

    七月二日       芥川龍之介

 恒 藤 恭 樣

二伸

   御悼みの歌一首

 ひんがしの國にかなしき沙羅木(ぼく)の花さきあへぬ朝なるかも

 

 恒 藤 雅 子 樣 粧次     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)によれば、畏友恒藤恭(旧姓井川)と雅子夫妻の間には、大正六年に『長男信一が誕生したが、この年の六月二二日疫痢のために急逝した』とある。

「比呂志」既に見た通り、この三月前の四月十日に長男比呂志が生まれている。

「二番目の御子さん」石割氏の前掲書に、『恒藤の次男、武二は』、この前年の大正八(一九一九)年『八月誕生』とある。

「悼亡」(たうばう(とうぼう))は、ごく近しい人の死を悲しむこと。厳密には中国で「妻の死」を指した。中国には「悼亡詩」という妻の死を悲しむ詩群・ジャンルが存在する。中国では自身の妻に対する愛情を公然と表白することは避けられたが(妻は一族の者とは認められない伝統があるからである。さればこそ結婚しても姓は変わらないのである。中国や朝鮮の方が夫婦別姓で進んでいるなどとのたもうとんでもない輩がいるが、逆に極めて差別されていた故の別姓であったのである)、北宋の詩人梅堯臣が、その悼亡詩で「見盡人間婦 無如美且賢」(人間(じんかん)の婦(つま)を見盡くすも 如(か)くも美しく且つ賢なるは無し)と詠じたように(全篇は、優れた漢詩サイト「詩詞世界 二千七百首詳註 碇豊長の漢詩」のこちらを参照されたい)、悼亡詩の中でのみは許された。濫觴は西晋の潘岳に始まり、六朝時代に盛行したが、一時はマンネリズムに陥り、中絶したものの、中唐の韋応物や元稹が新たな生命を吹きこみ,詩の一ジャンルとして定着した。因みに芥川龍之介は悼亡句の達人であると私は思っている。

「鬼蓮」(おにばす)は双子葉植物綱スイレン(睡蓮)目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox 。博物誌は私の大和本草卷之八 草之四 水草類 芡蓮(をにはす) (オニバス)」を参照されたい

「沙羅木(ぼく)」は「さらぼく」(「しやら(しゃら)ぼく」とも読む。ここではどちらであるかは断定出来ないが、晩年の絶唱「沙羅の花」から考えると、「さらぼく」であると思う。「やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成 Ⅰ ■1 旧全集「詩歌二」の内の十二篇」も参照)と読み、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli の別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹フタバガキ科  Dipterocarpaceaeの娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta )に擬せられた命名といわれ、実際に各地の寺院にこのナツツバキが「沙羅双樹」と称して植えられていることが多い。花期は六月~七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートル程度で五弁で白く、雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し、夕方には落花する一日花である(ここは主にウィキの「ナツツバキ」及び「サラソウジュ」に拠った。グーグル画像検索「Stewartia pseudocamelli もリンクしておく)。「沙羅双樹」に無常を匂わせた一首である。]

芥川龍之介書簡抄97 / 大正九(一九二〇)年(二) 四通

 

大正九(一九二〇)年五月十八日・田端発信・小穴隆一宛

 

     ふと君の事を思ひ出したる歌

   つゆぐもの光かそけし隆一は鼻の先見てけふもゐるらむ

   君が畫をかけてわがゐる草の家の天(あま)響かせて降る大雨かも

    五月十八日         我   鬼

   隆 一 樣

 

 

大正九(一九二〇)年五月二十二日・佐野宛(下書き)

 

啓この間は御祝下さつて難有う存じました

奧さんも御變りありませんか 御子樣はまだ御一人ですか

   はつなつはまどにあかるしまどのへのゆり籃(ご)のあかごなかんともせず

    五月廿二日         我   鬼

   佐 野 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:これは、百%、旧海軍機関学校時代の同僚佐野慶造宛である。「奥さん」は無論、かの芥川龍之介が愛した花子である。「御子樣」とは後の昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇)を出版した二人の娘旧姓佐野芳子のことである。私の『佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)』をリンクさせておく。

「御祝」四月十日の龍之介の長男比呂志の誕生祝いへの返礼と思われる。]

 

 

大正九(一九二〇)年五月二十三日・宮澤虎雄宛(下書き)

 

啓先達は御祝辭難有う 別封哲學會雜誌所載の土居光知氏の論文面白いと思ふから御送りする 讀んで見てくれ給へ 暇があつたら橫須賀へ行つて諸先生に拜謁の光榮を得たい 頓首

   五月廿三日          我 鬼 生

  宮 澤 先 生 梧右

 

     宮澤先生淸鑒

   おそ春の入日きびしも平坂を宮澤虎雄今かねるらむ

   わが宿の橿(かし)の若葉にさす入日光かなしきを君は知らざらむ

   うち日さす宮澤虎雄今もかもうたひてあらん觀世の謠

                  我   鬼

 

[やぶちゃん注:「宮澤虎雄」海軍機関学校時代の同僚。物理担当。心霊学に関心を持ち、芥川の善人者浅野和三郎とも親しかった。芥川とは遠慮のない便りを交換し、宮澤は芥川に「紅楼夢」を贈っている(新全集「人名解説索引」に拠った)。名古屋大学大学院法学研究科公式サイト内の「日本研究のための歴史 情報『人事興信録』データベース」のこちらによれば、明治一九(一八八六)年一月生まれで(没年未詳)龍之介より六つ年上で、『海軍教授兼海軍技師、海軍機關學校教官』とあり、『東京府士族宮澤栞の二男にして』、『大正十四』(一九二五)『年家督を相續す先是明治四十二』(一九〇九)『年東京帝國大學理科大學實驗物理科を卒業し』、『同四十三年海軍機關學校物理學教授を囑託され』、『同四十五年海軍教授同機關學校教官に任ぜられ』、『練習艦隊司令部附呉海軍工廠水雷部々員舞鶴要港部々員に歷補し』、『現時前記官職にあり』とある(昭和三(一九二八)年七月時点の情報)。情報時は東京小石川大塚仲町に居住していた。彼は旧「東京心靈科學協會」の会員で、戦後の昭和二一(一九四六)年に設立された「財団法人日本心霊科学協会」の創設者の一人でもあり(同財団公式サイトの歴史年表にも名前がある)、国立情報学研究所公式サイトの「Webcat Plusのこちらには、編著に日本心霊科学協会刊の「死後の真相」「霊魂の世界  心霊科学入門」という著書もあるようであり、そこにある出版年は戦後で、或いは一九七六年時点では存命(とすれば九十歳)だったのかも知れない。

「土居光知」(どいこうち 明治一九(一八八六)年~昭和五四(一九七九)年)は英文学者・古典学者。当該ウィキによれば、『高知県生まれ。東京帝国大学卒業。イギリス、フランス、イタリアに留学。立正大学教員、東京女子大学教授、東京高等師範学校教授を経て』、大正一三(一九二四)年に『東北帝国大学教授』となり、退職『後に津田塾大学教授をつとめた。日本英文学会会長』でもあった。『専攻は英国浪漫主義で、ジェイムズ・ジョイス、D・H・ロレンス、オルダス・ハクスリーを紹介した。文化人類学、比較神話学を学び、古代文藝、東西比較文学などを行い、その』「文学序説」(大正一一(一九二二)年岩波書店刊)は『文学研究者の必読書だった。他に』「古代伝説と文学」(昭和三五(一九六〇)年同書店刊)が知られる。また一九四七年七月十九日に『産声を上げた、世界で最初の民間ユネスコ運動「仙台ユネスコ協力会」の創始者の一人。当時のUNESCO(パリ本部)の事務局長あてに起草したメッセージは、日本の民間ユネスコ運動を世界に伝える第一報となったが、その手紙は戦後の窮乏生活のため、土居宅にあった障子紙に書かれていた』とある。ここで、芥川龍之介が送ったそれは、調べたところ、『哲學會雜誌』第三十五巻(大正九(一九二〇) 年度発行)の土居光知の論説「日本文學を通じて見たる文化の展開」であることが判った。

「淸鑒」(せいかん:「清鑑」に同じ)は、他人の鑑識の優れていることを敬っていう語。自分の詩文・書画などを人に見てもらうときなどに使用する。

「平坂」筑摩全集類聚版脚注は『不詳』とするが、私は横須賀の坂の名ではないかと直感した。則ち、「ねる」は「練る」で「そろそろと行く」の意ではないかと。調べてみると、「坂学会」公式サイト内のこちらに、横須賀市若松町二丁目及び三丁目の間から、上町一丁目及び深田台の間までの坂道「平坂」があった。リンク先に地図もある。

「うち日さす」「うちひさす」は「日の光が輝く」の意から、万葉以来の「宮」「都」に掛かる枕詞である。]

 

 

大正九(一九二〇)年六月三十日・田端発信(私の推定)・森幸枝宛(封筒欠)

 

冠省 玉簪をありがたう但し祖母樣のものをとりなぞしてはいけません あの簪はわたしが頂戴しますからその代りにあなた何か祖母樣に買つてお上げなさい 寫眞は事によるとなくなります 萬一なくなつたら 前向きの寫眞にします どちらでも好いのでせう 玉簪の歌を製造しました次手に御拜聽なさい

 玉簪はうるみゐにけりなが雨はいまだ晴れずと思ひけるかな

 手にとれば重きものかな玉簪の花つややかにうるめるあはれさ

  六月卅日         我 鬼 生

 森 幸 枝 樣 粧次

 

[やぶちゃん注:「森幸枝」なるさわまや氏のサイト「芥川龍之介私的データベース」の「人名録」によれば、『静岡県出身。静岡高女卒』。『日本女子大学校国文科在学中で小説家を目指しており』、この大正九年三月十七日に『初めて芥川に会った』。『以来』、『幸枝は、芥川に、博多人形・菓子などを贈り』(ここでの「玉簪」もそうした龍之介の気を引くための贈り物の一つとせば、甚だ腑に落ちる)、『翌年』八『月頃まで交際があった』。この二ヶ月後の大正九年八月『頃、縁談が起こり、中退して竹内猪之介と結婚したが』、『まもなく離婚。杵屋勝吉次について長唄を習ううちに彼に恋し、周囲の反対も聞かず』五、六歳年下であった『杵屋と結婚した。しかし、生活は苦しく』、『加えて結核に冒され』、昭和五(一九三〇)年四月に二十七歳で『死去した』。『幸枝は、芥川のほかに市川猿之助とも関係があったといわれ』ている、とある。新全集「人名解説索引」には、生没年は示さず、『女流作家を目指していた』。『芥川好みの美人であったとの和田芳恵』(明治三九(一九〇六)年~昭和五二(一九七七)年:男性で小説家・文芸評論家)『の証言がある』とある。前の引用の末尾や和田の謂いからは、芥川龍之介の軽い恋愛対象者の一人であった可能性が高い。

「玉簪」「たまかんざし」或いは「ぎよくしん」(短歌ではそう詠んでいるか)で、玉(ぎょく)で美しく飾った簪(かんざし)のこと。

「寫眞」これは恐らくは龍之介に作家修行を乞うた森幸枝が、芥川龍之介の例のかの右斜めを向いた肖像写真のことを龍之介或いは誰かから耳にし、「欲しい」と望んだのではなかったか?

日本山海名産図会 第二巻 山蛤(あかかへる)

 


Akagaeru

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「山蛤(あかかへる)」。]

 

  ○山蛤(あかかへる)

山城嵯峩又は丹波・播州小夜の山より多く出す。又、攝津神嵜(かんさき)の邊にも出だせども、其の性(せい)、宜しからず。凡、笹原・茅野原のくまにありて、是れをとるには、小き䋄にて伏せ、又、唐䋄(からあみ)のごとくなる物の龍頭(りうづ)を両手に挾み、こまを𢌞すことくひねりて打ては、䋄、「きりゝ」と、まはりて、三尺四寸ばかりに廣がるなり。かく、し得て、腸(はらわた)を拔き、乾物(かんぶつ)として出だす。其の色、桃色、繻子(しゆす)のごとし。手足、甚だ長く、目は扇(あふぎ)の要(かなめ)に似たり。但し、今、市中(しちう)に售(う)るもの、僞物(ぎぶつ)多し。○「本草綱目」に、『山蛤(さんかう)は蝦蟇(かま)より大きく、色、黄なり。』とありて、日本の物には符合せず。國を異(こと)にするのゆへもあるか。「大和本草」に、長明「無名抄(むみやうしやう)」[やぶちゃん注:「無」は(れっか)のない異体字。]を引きて、『井堤(いて)の蛙(かはづ)、是れなり。晚(くれ)に鳴きて、常のかわづに變れり。色黑き樣(やう)にて、大きにもあらず。』といふて、山蛤(さんかう)に充てたるは、おぼつかなし。

[やぶちゃん注:乾して食用・薬用とするとあり、日本固有種の無尾目 Neobatrachia 亜目アカガエル科アカガエル属アカガエル亜属ヤマアカガエル Rana ornativentris に比定する。但し、古くは、日本固有種の平地に棲息する近縁種で嘗ては普通に見た(近年はヤマアカガエルよりも有意に減少した)ニホンアカガエル Rana japonica も同様に食用にしたから、並置する必要がある。それぞれはウィキの「ヤマアカガエル」、及び、ウィキの「ニホンアカガエル」を見られたいが、カエル類の総論である私の「大和本草卷十四 陸蟲 蝦蟆(がま/かへる) (カエル類)」がとりあえずあるものの、博物誌的には「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)」及び「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蛙(あまがえる)」の方が参考になろう。なお、アカガエルの食味については、私の高校時代の尊敬していた生物の先生は「アカガエルは鶏肉のようにヒジョーに美味い!」としばしば仰っていた。私はニホンアカガエルを食ったことは今までない。ヒジョーに残念である。なお、江戸時代にその鳴き声を楽しんで、生きたまま贈答にすることが一般に流行った無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri については、作者は「第四巻 河鹿」で非常に詳細な考証を行っているので、是非、見られたい。

「播州小夜の山」これを知られた静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)の「小夜の中山」ととると、並置されている京阪の地域から、これだけが異質に遠く飛んでしまうので、違和感がある。当初より、私は「播州小夜」の「山」間部の意で考えていた。それは、兵庫県内の山間部に嘗て「さよ」と呼ばれた地名があるからである。現在の兵庫県佐用(さよう)郡佐用町(さようちょう)である(グーグル・マップ・データ)。「播磨風土記」には『讚容(さよ)の郡(こほり)』と出、伝承として『五月夜(さよ)の郡と號(なづ)け、神を贊用都比賣(さよつひめ)の命(みこと)と名づく。今に讚容(さよ)の町田(まちだ)あり』とある。ロケーションとしてもヤマアカガエルの棲息地として問題がない。

「攝津神嵜(かんさき)」思うにこれは、現在の地名(大阪城南西に神崎町がある)ではなく、現在は淀川と安威(あい)川を結んでいる神崎川付近を指すのではないと考える。なお、兵庫県に恰好な山間部の神崎郡があるが、ここは旧播磨国であるから、違う。

「笹原・茅野原」(孰れも一般名詞)「のくま」「くま」は「隈」で草葉の陰。

「唐䋄(からあみ)」投網の異名。以下、そうした投網様(よう)の大きな『物の龍頭(りうづ)』(網の中央にあたかも梵鐘の龍頭のように突出した輪っかがあり、そこ『を両手に挾み、こま』(独楽)『を𢌞すことくひねりて打ては、䋄、「きりゝ」と、まはりて、三尺四寸』(一メートル三センチ四方)『ばかりに廣がるなり』と、広い範囲で蛙を文字通り一網打尽にする猟法もあるということである。挿絵の左手の男がそれを持って今にも七匹ほどのそれを獲ろうしている。

「繻子(しゆす)」布面(ぬのおもて)が滑らかで、つやがあり、縦糸又は横糸を浮かして織った織物。

「僞物(ぎぶつ)多し」何を用いた偽物か記しておいて欲しかった。ヒキガエルその他の種をミイラにすれば、まあ、見分けはつかんかものね。

『「本草綱目」に、『山蛤(さんかう)は蝦蟇(かま)より大きく、色、黄なり。』とありて、日本の物には符合せず』巻四十二の「蟲之四」に、

   *

山蛤【宋「圖經」。】  校正【原(もと)は「蝦蟇(がま)」の下に附す。今、分出す。】

集解【頌曰はく、「山蛤は山石中に在り。藏(かく)れ蟄す。蝦蟇に似て、大きく、黃色。能く、氣を吞み、風露を飮み、雜蟲を食らはず。山人、亦、之れを食ふ。】

主治 小兒勞瘦及び疳疾に最も良し。【蘓頌。】

   *

とあり、風体から見ても、恐らく本邦に棲息しない無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae の一種ではないかと私は踏んでいる。「蛤」という漢語にはカエルの一種或いはカジカガエルの仲間を指す意味がある。

『「大和本草」に、長明「無名抄(むみやうしやう)」[やぶちゃん注:「無」は(れっか)のない異体字。]を引きて、『井堤(いて)の蛙(かはづ)、是れなり。晚(くれ)に鳴きて、常のかわづに變れり。色黑き樣(やう)にて、大きにもあらず。』といふて、山蛤(さんかう)に充てたるは、おぼつかなし』「大和本草卷十四 陸蟲 山蝦蟆(やまかへる) (カジカガエル)」を参照。確かに、益軒の最後の『「本草」に「山蛤(さんがふ)」あり。『蝦蟆に似て、大に、黃色』とあり。是れ、「井堤のかはづ」』(これはカジカガエル特定済み)『と同じきか。』とあるのは、根拠もなく(カジカガエルはヒキガエルに似ていないし、黄色くもない)、極めて安易で受け入られない。]

2021/07/19

日本山海名産図会 第二巻 吉野葛

 

Yosinokuzu

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「吉野葛(よしのくず)」。]

 

  ○ 葛(くず) 葛穀(かつこく) 一名 鹿豆(ろくとう)

蔓草(つるくさ)なり。根を食らふ。是れを「葛根(かつこん)」といふ。粉(こ)とするを「葛粉」といふ。吉野より出だすもの、上品とす。今は紀州に「六郞太夫」といふを賞す。もつとも佳味(かみ)なり。是れ、全く他物を加わへざるゆへなるべし。草は山野とも自然生(しぜんせい)多く、中華には家園(には)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に種えて「家葛(かかつ)」と云う。野生のものを「野葛(やかつ)」といふ。日本にては家園(には)に栽ゆること、なし。葉は遍豆(いんけんまめ)に似て、三葉(さんよう)一所に着きて、三尖(みつかど)。小豆(あづき)の葉のごときもあり。莖・葉とも毛茸(け)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]ありて、七月ころ、紫赤(むらさき)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の花を開きて紫藤花(ふじのはな)[やぶちゃん注:三字へのルビ。]のごとし。穗を成して、下に垂れる。長さ三寸斗り。莢(さや)を結びて、是れ又、毛あり。冬月(ふゆ)、根を堀りて、石盤にて、打ち※(くだ)き[やぶちゃん注:「※」=「扌」+「叩」。]、汁を去り、金杵(かなきね)にてよく舂き細屑末(こまかきこ)[やぶちゃん注:三字へのルビ。]となして、水飛(すいひ)、數度(すど)に、飽(あ)かしめ、盆に盛りて、日に暴(さら)し、桶に納めて出だす【和方書、是を「水粉」といふ。】○葛根(かつこん)は藥肆(くすりや)に生乾(きほし)・暴乾(さらし)の二品あり。○蔓は、水に浸し、皮を去り、編み連(つら)ねて、器とし、是れを「葛簏(ふちこち)」といひて水口(みなくち)に製するもの、是なり。葛篭(つゞら)は蔓をつらねたるの名なり。○葛布(くづぬの)は、蔓を煮て、苧のごとく、裂き、紡(う)を績(つむ)きて、織るなり。「詩經」に「絺綌(ちげき)」と云は。「絺」は「細糸」、「綌」は「太き糸」にて、古へ、中華に織るもの、今の越後縮(えちごちゝみ)のごときもありと見たへり。○「クス」と云ふは、「細屑(くづ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]」の儀にて、「水粉(すいふん)」につきての名にして、草の本名は「葛(ふぢ)」なり。「フヂ」は即ち、「鞭(ぶち)」なり。古製(こせい)、是れをもつて「鞭(むち)」とす。故に号(なづ)けて、「喪服」を「葛衣(ふぢごろも)」といふは「葛布」なればなり。

[やぶちゃん注:以下、最後まで一字下げ。但し、後の二箇所の「○」の記号だけは下げがない。]

これ、蔓・葉・根・花(くわ)・皮ともに、民用に益あり。故に遠村の民は、親屬、手を携へ、山居(さんきよ)して、堀り食らひ、高く生ひて、粉なき時は、山下(さんか)に出でて、これを紡績(はうせき)す。皆、人に益し、救ふ事、五穀に亞(つ)げり。○蕨根(わらびのね)も亦、是れに亞(つ)きて、同しく「水粉(すいふん)」とす。其の品は賤しけれども、人の飢へを救ふにおゐては、その功用、變ること、なし。伯夷(はくゐ)・叔齋(しゆくせい)が、首陽の山居も、此れによりて生(せい)を保てり。【僞物(きぶつ)は生麩(せいふ)をくわへて、制し、味、甚だ、佳(くわ)ならす。】

○此の余(よ)、葛粉(かつふん)の功用、甚だ、多し。或ひは餠、又は、水麵(すいとん)に制し、白粉(おしろひ)に和(くわ)し、糊(のり)に適(てき)し、料理の調味なと、さまざま、人に益す。○或る書に云わく、『葛、よく、毒を除く。』といへども、其の根、土に入ること、五、六寸以上を「葛膽(かつたん)」といひて、これ、頸(がふ)なり。これを服すれば、人に吐(と)せしむ。

[やぶちゃん注:マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata 。私の家の県道方向に向かった斜面は一面の葛で覆い尽くされてしまっている。亡き母が丹精込めて育てた紫陽花もすっかり覆われて、殆んど花を咲かせなくなってしまった……

「六郞太夫」このブランドは現在は残っていない模様である。

「遍豆(いんけんまめ)」我々は当然の如く、マメ目マメ科インゲンマメ属インゲンマメ Phaseolus vulgaris を想起するが、しかし、ではインゲンマメとクズは似ているかというと、私は似ていないと思う。而して、作者は恐らくは浪速大坂の人間である。さすれば、西日本では別にインゲンマメでないものを「インゲンマメ」と呼んでおり、それはマメ亜科インゲンマメ連フジマメ属フジマメ Lablab purpureus で、同種はクズに草体は勿論、花もちょいと似ている(ウィキの「フジマメ」の画像リンク)から、ここはフジマメのことととる。

「三葉(さんよう)一所に着きて、三尖(みつかど)」クズの葉は大型の三出複葉。当該ウィキの葉の写真をリンクさせておく。御覧の通り、「三尖(みつかど)」とは、一つの葉自体が小葉で三方へ尖ることを言っている。

「小豆(あづき)」マメ亜科ササゲ属アズキ Vigna angularis 。クズの若い個体の場合は、葉が似ているかも知れない。

「莖・葉とも毛茸(け)あり」葉の裏面は白い毛が密生しており、白色を帯びている。

「紫赤(むらさき)の花」当該ウィキの花の写真をリンクさせておく。うちの斜面では、もさもさ過ぎて、花一つだに見えぬ哀しさ……

「紫藤花(ふじのはな)」マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda 。小さな頃は、周囲の山々に幾らも咲いて、私の好きな花だったに。裏山の直近の藤沢の渓谷は本当に藤の沢だったに。今は完璧な住宅地に変貌してしまった。ウナギもカワエビもタニシもモッゴもウシガエルもアメリカアリガニもゴマンといたのに……

「水飛(すいひ)、數度(すど)に、飽(あ)かしめ」意味不明。前に出た「陶器(やきもの)」の文中では、「水干(すいひ)」で出、「水」で精製して、後に、しっかり「水」分を「飛」ばして「干」し上げることの意で用いていた。ここもそれをこれでもかと、複数回、「飽」きるぐらいに繰り返してやることの意味でとっておく。

「和方書」日本の本草書・農学書。

「葛根(かつこん)」基原植物は本原種の周皮を除いた根を乾燥したもので、「葛根湯」で現在もお馴染みの風邪薬・解熱鎮痛消炎薬に配合されている。なお、ウィキの「クズ」によれば、『花は可食で、シロップ漬け』『や天ぷらなどにすることができる。ただし』、『他のマメ科植物同様にレクチンを中心とした配糖体の毒性が含まれており、多量に摂取すると吐き気、嘔吐、眩暈、下痢、胃痛などを起こすおそれもあるため、あまり食用には適していない。加熱されていない種子は食中毒の可能性がより高くなる。その他に、樹皮や莢にはウイスタリン(wistarin)、種子には有毒性アルカロイドの一種であるシチシン(cytisine)が存在するという報告も上がっている』とあるので、要注意である。

「葛簏(ふちこち)」不詳。「簏」は「すり」と読んで、特に上代から中古に於いて、旅行の際などに携行した竹で編んだ籠状の小箱のことである。「あまはこ」とも。ここはしかし、クズの蔓で製した繩のことのようには思われる。

「水口(みなくち)」炊事場の水を引き入れたり、放出したりする口のことか。しかし、どこにどんな風に使うのか今一つ、私には判らない。識者の御教授を乞う。

「苧」は「を」或いは「からむし」。イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea の繊維を撚り合わせて糸や紐にしたもの。

「詩經」「絺綌(ちげき)」「詩経」の「国風」の「周南」にある「葛覃(かつたん)」の一節。

   *

葛之覃兮

施于中谷

維葉莫莫

是刈是濩

爲絺爲綌

服之無斁

 葛の覃(の)びて

 中谷(ちゆうこく)に施(いた)る

 維(これ) 葉 莫莫たり

 是(ここ)に刈り 是に濩(に)て

 絺(ち)と爲し 綌(げき)と爲し

 之れを服(ふく)して斁(いと)ふ無し

   *

全篇はサイト「漢詩と中国文化」のこちらがよい。「濩」は「煮」に同じ。「斁」は「厭」に同じで「厭(いや)になる」の意。思うに、これは婚姻後に女の主たる仕事となる着物を織る労働と、婚家と実家のいやさかを言祝いだ嫁入りの民謡であろう。詩篇の終わりは「歸寧父母」(歸(とつ)ぎて 父母を寧(やす)んぜん)である。

「越後縮(えちごちゝみ)」「織布」の私の注を参照。

「水粉(すいふん)」水に溶かして食用・水白粉(おしろい)などに使うものを言っているのであろう。

『草の本名は「葛(ふぢ)」なり』古くから「藤葛(ふぢかづら)」の呼称ああり、藤やなどの茎が他の物に巻きつく性質をもった植物の総称であったから、この謂いは奇異ではない。

『「フヂ」は即ち、「鞭(ぶち)」なり。古製(こせい)、是れをもつて「鞭(むち)」とす』これは一説としてはあってもいいが、私にはいかにも怪しく感じられる。因みに、小学館「日本国語大辞典」の「藤」の語源説にはこれは出ていないから、主要な説の一つとは言えないのではなかろうか。

『故に号(なづ)けて、「喪服」を「葛衣(ふぢごろも)」といふは「葛布」なればなり』平凡社「世界大百科事典」の「藤布」に、『木綿の伝わる中世末期までは植物性繊維として』、『アサ(麻)についで栲(たえ)などとともに庶民の間には広く行われていたと思われる。藤衣(ふじごろも)というのが公家(くげ)の服飾の中で喪服として用いられたが』、『これはもともと』は『粗末なものを用いることをたてまえとする喪服が』、『庶民の衣服材料である麻布や藤布で作られたため』、『このように称したのであろう』とある。この頭の「故に号(なづ)けて」というふりかざし方が何を指しているのか判らず、却ってはったりの感じを与えてよくない。

「生麩(せいふ)」小麦粉を水で練ったもの。

『「葛膽(かつたん)」といひて、これ、頸(がふ)なり。これを服すれば、人に吐(と)せしむ』「頸(がふ)」の読み不詳。謂わば、葛の精髄(「熊の胆」みたような)(頸=脊髄)の意か。これは或いは、先に引用した皮に含まれる有毒物質を指しているのかも知れない。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (7) 三比事に書かれた犯罪心埋

 

      三比事に書かれた犯罪心埋

 

 櫻陰比事の作者井原西鶴、鎌倉比事の作者月辱堂、藤陰比事の作者無名氏が、各々その比事を書くに當つて、犯罪者なるものに關し、どれ程の硏究をしたかは知る由もないが、もとよりその當時系統立つた犯罪學書のあつた譯ではなし、又、彼等自身が犯罪者について特別な硏究をしたとも思はれず、恐らく、直觀によつて書きなぐつたものであるにちがひない。彼等は犯罪者が一種特別なタイプに屬する人間であるといふことはもとより知らなかつたであらうし、男性犯罪者の犯罪心理と女性犯罪者のそれとがある點に於て根本的にちがつて居るといふことなどもはつきり意誠して居なかつたであらうと思はれる。三比事の各種の物語中に、犯罪者の特種の容貌の描かれて居るのは一つもなく、又、女性が中心となつて居る犯罪の數は、男性が中心となつて居るものゝ十分の一にも達しない。尤も現今の探偵小說でも男性犯人を取り扱つたものが女性犯人を取り扱つたものよりも遙かに多いから、或は當然の現象といつて差支ないかもしれぬ。もともと探偵小說は興味を中心として書かれるものであるから、多くの作者は犯罪心理の考察などは第二の問題として居るらしく、現今の歐米の探偵小說を見ても、犯罪學者の硏究に資し得べきものは極めて少ないのであるから、日本犯罪文學の搖籃期を作つた犯罪探偵物語の犯罪心理を考察するなどは野暮の骨頂かもしれない。然し乍ら三比事の中には、作者が知つてか知らずにか、犯罪者の特殊な心理を巧みに描いて居る物語があるから、後に近松巢林子《さうりんし》などの文學を考察する際の比較のために、その二三を紹介して置かうと思ふのである。[やぶちゃん注:「近松巢林子」近松門左衛門(承応二(一六五三)年~享保九(一七二五)年)の号の一つ。既に注してあるが、再掲すると、井原西鶴著「櫻陰比事」は元禄二(一六八九)年刊、月尋堂著「鎌倉(けんさう)比事」、作者不詳の「桃陰比事」(後に「藤陰比事」は宝永六(一七〇九)年刊。近松の「最初の世話物」とされる名作「曽根崎心中」は元禄一六(一七〇三)年の上演である。]

 犯罪者の心理を應用して探偵の實《じつ》をあげる物語については既に述べたところであるから、こゝではまづ鎌倉比事と櫻陰比事に描かれた女性の犯罪心理について述べて見よう。[やぶちゃん注:不木の謂いでは順序が逆で、以下は「櫻陰比事」の巻三の「九」に「妻に泣(なか)する梢の鶯」である。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本ではここから。]

 むかし都の町千本通りに一人の浪人があつた。音曲の名人で大名方へ呼ばれては生活を立てゝ居たが、あるとき某家に招かれると、庭に鶯が來て居て、主人は何とかしてあの鶯を飼鳥にしたいものだと言つたので、浪人はすぐ樣西の京の餌差《ゑさし》をよんで來て鶯を捕へさせた。主人は大に喜んで澤山の褒美を與へたので、浪人が翌目餌差のところへ挨拶に行く と、餌差の女房は浪人につかみついて、『良人をどこへ連れて行つのか』と泣きながらきめつけた。浪人は驚いて少しも知らぬといつたが女房はいつかな間き入れず、遂に御前へ訴へ出た。拷間の結果浪人はいさぎよく罪を引き受けて、自分の家で殺したといつたので、女房はさもさも悲しさうに浪人を怨んで泣いた。そこで御前は浪人に向つて、死體の在所をたづねられたが、意外にも浪人は言葉につまつたので、御前は犯人が別にあると睨み、死體を探させになると、餌差は以外にも竹田道で斬殺され居たので、御前は女房に向つて、多分强盜の仕業であらうが、不運とあきらめて良人の冥福を祈るがよい、明後十九日は、自分の家の法事をするので、お前の良人のためにも弔料《とむらひれう》を少し與へたいから、身内のものか、懇意のものを取りによこすがよいと諭して、女房を御かへしになつた。さて十九日になると年頃二十四五の男が弔料を取りに來たので、召捕つて色々拷問すると、たうとう、女房と密通し、二人で謀つて餌差を殺した旨を自白した。[やぶちゃん注:「餌差」ここでは単に小鳥を糯竿(もちざお)で刺して獲ることを生業としている者のことを指す。]

 大岡政談の『鐡砲彌市の件』といふ物語もこれと同じやうな筋であるが、自分が殺す計畫をして置き乍ら、さもさも悲しいやうに裝ふ女性の犯罪心理は、この短い物語に、はつきり寫し出されて居る。女のかやうな僞善的な惡魔的な心は、姦夫といへども後には呆れ恐れるものであつて、鎌倉比事の『情は敵、怨は恩』の一篇の如きは、この間の消息を遺憾なく傳へて居る。[やぶちゃん注:「大岡政談の『鐡砲彌市の件』」国立国会図書館デジタルコレクションの「繪本大岡政談大全」(明二六(一八九三)年聚栄堂刊)のこちらから読める。但し、明治書院平成五(一九九三)年刊の「対訳西鶴全集」第十一巻「本朝櫻陰比事」の注によれば、『本章に酷似する話に、『棠陰比事物語』一の二七、「李傑買ㇾ棺」がある。これは『太平広記』一七一「李傑」(国史異纂)とほぼ同じ内容である』とある。前者は国立国会図書館デジタルコレクションの寛永年間板行の「棠陰比事物語」のここから読めが、草書体でかなり読みにくい。後者は「中國哲學書電子化計劃」のここから影印本で読める。一番いいのは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の山本北山閲になる訓点附きの刊本がよい。ここPDF)の293031コマ目である。「棠陰比事」原拠のその話はもっと救い難く、寡婦が実の息子を親不孝として訴え出て、「死罪にしてくれ」と判事である李傑に乞い、傑は「処刑した息子の遺骸を収める棺を買ってくるがよい」と命ずる。しかし、実はそれは、その寡婦が道士と関係しているのを(中国では永く寡婦は死んだ夫の兄弟以外のものとしか再婚は出来なかった)、息子が咎めたことを根に持って、二人で結託してでっち上げたことであることが、傑の命じた捜査によって判明し、傑は最後に寡婦と道士を棒打ちの刑に処して、その棺桶に二人の遺骸を詰め込んで終わる。][やぶちゃん注:以下は、底本では、全体が一字下げ。]

『呂東萊《りよとうらい》が弱きは天下の大害なり、又學者の大患なり、人の善をなさゞるは志《こころざし》をたつる事の弱さ故なりといへり、すべて志のうすく根の弱きものは勞して功なし、善をするは則今よりこそなれ、萬《よろづ》の惡の源は弱きよりなるとなん鎌倉市町に魚屋半助といふ者の女房、あたりちかきも馬醫の新平といふ者と密通して、此四五年の間、夫半助七ツ[やぶちゃん注:午前四時頃。]起して魚市に出《いで》たる留守ごとに戀ひ人と不義の枕をかはしぬ。又も夫市に行きたるをうかゞひて新平忍び入けるところへ、半助道より小もどりして、今朝は霧ふかく風もはげし、我はとても道を行けば寒きを厭《いと》[やぶちゃん注:底本は「壓」であるが、訂した。]はんやうもなし、跡にてねざめ寒く、嘸《さぞ》くるしからん、此羽織を上に着よとて脫ぎ捨て走り行ぬ。女房跡にて、扨もうつけかな、己が寒きを苦にせいでと言ふを、密夫新平聞て淚を流し、夫の有る身として我になじむさへ恐ろしきに、夫の深き志をもわきまへず、惡言に及ぶ心底いかにしても堪忍なりがたしとて取て引よせ、たゞ一刀にさし殺して歸りぬ。其後夫歸りて盜人のしわざか不便やと歎く體《てい》、なほ新平心にこたヘてかなしく、我と此段々を書き附けて、最明寺殿へ申し上げ、密夫の御仕置のがれがたしと、いさぎよき覺悟の心底を御前にも御感じあつて、命を助け、此魚賣が奴《やつこ》[やぶちゃん注:下男。]となし扨《さて》殺されたる女房の死骸とならびに密夫新平と言ふ名ばかりを書附けて、諸人にさらし見せしめになし給ひぬ。最明寺殿の御慈悲、新平が誠、半助が情、時の人感じて、いよいよ女の死骸に唾をはきけるとなり。』[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの影印本ではここから。「呂東萊」は南宋の朱子学の源流に位置する儒学者呂祖謙(一一三七年~一一八一年)の通称。]

 誠に立派な一篇の悲劇である。作者が、萬の惡の源を、『弱』に歸して居るのも、中々面白い考へだと思ふ。然し私たちは、女性の弱さが、ある場合には、『裝はれたる弱さ』てあることを忘れてはならない。

 私は拙著『近代犯罪硏究』の中に『自白の心理』と題して、犯罪者が、その罪を自由するに至る心理の數々を述べたが、藤陰比事には、先天性犯罪者に見られる打算的な自白心理を取り扱つた、『大赦に漏る自業の訴訟』といふ一篇があるから、左に紹介しよう。[やぶちゃん注:「近代犯罪硏究」は大正一四(一九二五)年春陽堂刊。幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇が読める。当該箇所はここから。なお、以下は底本では全体が一字下げ。「国文研データセット」版では、巻五の、標題は「㊀自業自得の火焙り」。ここと、ここと、ここと(見開き挿絵のみ)、ここ。]

『乍ㇾ言上仕候、私儀は山科より伏見へ每日のぼりくだりの步荷物《かちにもつ》を渡仕に仕り候久助と申すものにて御座候、當月二十一日大津の問屋《といや》、北國《ほくこく》より上り候ふ干鱈干鮭蒸鰈の荷物、ふし見へ持まゐれのよし、不斷出入仕候へぱ、大分の金銀にても、請取り申ほど數年顏見しられ、右の荷物をも相認《あひしたため》て狼谷《おほかみだに》の茶屋にかたを休め罷在候うち、一荷《いつか》ゆく方なくとられ申候につき、みちすぢ追かけ、ぎん味仕候へば、いなろりへにて右の荷物を荷ひ行《ゆき》候ものをとらへ、奪ひかへし申べく存候所、此盜人竹田髭六《ひげろく》と申す强力《がうりき》の雲助にて、かヘつて橫道《わうだう》[やぶちゃん注:道理から外れた不正な行為。]を申懸けかへし申さず候を、ねぢあひたゝきあひ申すにより、近所の者共出合、右の段々を申ことわり、町中へ預け置罷り候間、召出され、急度《きつと》荷物を返し候上、如何樣共《いかやうなるとも》被仰付可被下候はゞ、忝可ㇾ奉ㇾ存候以上

  月  日     にあげ 久 助 判

 地頭聞召しあげられ、大津の問屋ならびに、かの髭六を預け置たるいなり町の者共まで召出され、御穿鑿ありければ、髭六ちんじて私盜みたるにて御座なく候、麁相にて荷物取ちがへたるなどと申上げけれども、糺明のうへ落度《おつど》極り籠舍《らうしや》仰付られける、二十日あまり過ぎて天ドに大赦行はれねるにより、諸國私領公領の罪人、のこらずたすかりけれ共、此髭六と小罪の者二人そのまゝ籠に殘されしかぱ、此者共訴訟申上げるは、此たびの大赦には、極惡死罪の人數《にんず》さへ出籠仰せつけられ候うへは、我等事少分の御咎のもの共にて御座候へば、早速御たすけ可ㇾ被ㇾ下所、そのままこれあり苦しみ候間、急に出籠仰付られ下され候はば、有がたかるべきだん申上ければ、目代、これは御前へ申上るに及ばざる儀なり、其仔細は、最前籠舍御ゆるされありしもの共は、大罪の者共にて、かならず死罪に極りたる故に、早速御免ありしなり、其方共はいまだ、御仕置の品さだまりがたき程の小罪の故に相殘りたり、直訴申上たりともかなひがたかるべしと申聞せければ、扨は大罪の者はかへつてたすかるならば、我々も人知らぬ大科《おほとが》を申立御免をかうむるべしとて、舊惡をおもひ出して願ひ申上げる、一人は西樂寺の什物を盜み出し、金子百二十兩に賣り博奕を打、五百兩勝て町遊女かゝへてゆるりと渡世したりけるが、此科しる人なし、此度《このたび》籠に入しは、少の事をいひつのり、相手のあたまをたたき破りたりとへども、死ねる程の深手にあらず、され共、さきさまおびたゞしく訴へし故に、當分の籠舍と覺え候なり、大罪右白狀に相違なしと申す、一人は東國がたの者なりしが、十三年已前に生國にて人を切殺し、上方へにげのぽり、似せ銀《がね》を吹て渡世仕り侯へども、人知ることなし、此たびの寵舍はかけ落《おつ》者[やぶちゃん注:徒歩で走る運送業のことであろう。]の羽織をひとつ預りたる少科として、入籠付られけると申す、さて髭六は六年已前に盜賊に入、家内の者を柱にしばりつけ、金銀を取り、その家に火をかけ、首尾よく、その場をのがるといへども、その翌年より七年の間楊梅瘡[やぶちゃん注:梅毒。]を煩ひ、腰ぬけのごとく、大分の藥代等に、かの金銀をのこりなく、漸く命助かり、手と身にてかちにもち、前の惡事、人夢にもしらざうけるが、此たびの荷物わづかなる事にて此仕合と白狀申けるに、大赦の日限ははや過て、籠舍御免なり難く、右二人は磔《はりつけ》にかけられ、髭六は火あぶりになりけるとなり。』[やぶちゃん注:べらべら旧悪を語り出すところが実に面白い。なお、「已前」は底本も所持する刊本も総て『己前』とし、後者などでは『きぜん』などとルビを振っているが(こんな熟語はない)、原拠の原本を見るに、「已前」と判読出来るので、特異的に訂した。]

 この外なほ犯罪者が、一女性の心に感じて改心する話が櫻陰比事にあり、放火者の心理を取り扱つたものが藤陰比事にあるが大して興味のある物語ではないから、その記述は省略する。[やぶちゃん注:作者が興味がないというものまで探す暇は私にはない。何かの機会に見つけたら、追記する。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (3)



 古アツシリア人は、詛言が人を殺す事罕[やぶちゃん注:ママ。「羊」の誤字と推定する。後注参照。]を殺す如く容易也、其の言を除くは日神と海神の力を借る有るのみと信じ、太古グデアの代よりダリウスの時迄も石碑に詛詞を鐫て[やぶちゃん注:「ほりて」。]墓を犯す者を防いだ(C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175)。東トルキスタンの最大都會ヤルカンドの住民は、四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し、古傳に、サレー、ペイガムバール上人此所を通つた時、所の人其駱駝を盜みて喉を切り河岸に殘せしを、上人怒つて此所の民每に[やぶちゃん注:「つねに」。]此病に罹るべしと詛うたのが起りだと云ふ(Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.)。同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを、住民驕奢にして尊ばず。時に一阿羅漢有り來て[やぶちゃん注:「きたつて」。]之を拜せしを住民怒て砂に埋め其唇に達す。唯一人佛を奉ずる者有て密かに食を與ふ。阿羅漢脫れ去るに蒞み[やぶちゃん注:「のぞみ」。]、彼に語るらく、一週内に砂と土が降て全城を瘞め[やぶちゃん注:「うづめ」。]住民皆死ぬが、汝一人は助かるべしと。羅漢卽ち消えて見えず。彼人城に歸つて親族に語るに信ぜずして嘲笑す。因て獨り去て身を洞中に隱すと七日めの夜半から砂の雨が始つて全城を埋めたと載す。熊楠謂く是は昔全盛だつた市街が沙漠となつたに附會した佛說で、其原話は元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王[やぶちゃん注:「うだえんわう」。]の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず。遊びに出た歸路迦旃延[やぶちゃん注:「かせんねん」。]が坐禪するを見、群臣と共に之を埋む。一大臣佛を奉ずる者後に至つて土を除く、尊者言く、却後七日天土を雨して[やぶちゃん注:「あめふらして」。]土山城内に滿ち、王及び人民皆覆滅せんと。大臣之を王に白し[やぶちゃん注:「まうし」。]、又自ら地道を造り出て城外に向ふ。七日滿て天香花珍寶衣服[やぶちゃん注:「天、香花・珍寶・衣服」。]を雨らす。城内歡喜せぬ者無く、惡緣ある者、善瑞有りと聞き、皆來り集る。其時城の四門盡く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]鐵關下り逃るゝに地無し。天便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]土を雨らし、彼大臣一人の外悉く埋滅さると出づ。

[やぶちゃん注:「古アツシリア人」アツシリアはティグリス川中流域のアッシュール市から興ったセム人の国家。紀元前三千年紀後半から前六一〇年まで存続した。ティグリス・ユーフラテス川の流域地方をバビロニアと称するのに対し、その北の地方をアッシリアと称する場合がある。この地方は、本来、フルリ系住民が多数を占めていたと思われるが、アッシュールはシュメール人の植民都市として成立し、その後、セム系のアッカド人の都市になったと推測されている。都市名としてのアッシュールが文献に初めて現れるのはアッカド王朝時代(紀元前二三〇〇年頃)である。前二〇〇〇年頃はウル第三王朝治下にあった。アッシュールの君侯ザーリクムは、スーサの同名の君侯ザーリクムと同一人物と考えられ、彼は東方及び北方辺境の防備と通商路の確保を、ウルの王から任されていたと思われている。古アッシリアは紀元前二千年紀前半に当たり、この時期にアッシュールは独立した有力商業都市国家となり、アナトリアのカネシュに商業植民市を置いて、主に銅・錫の交易を活発に行っていた。機嫌前二千年紀初頭から西方セム語族に属するアモリ人が移動を開始し、バビロンなどの諸都市に王朝を建てた。王朝はアッシュールにも成立した。シャムシ・アダドⅠ世(在位紀元前一八一三年~紀元前一七八一年)は長子イシュメダガンを首都近くに配置し、アナトリアに通じる道の防衛とともに、エシュヌンナ王国に対抗させた。また、征服したマリ王国に次子を王として送り込んだ。こうした配置は、アナトリアとエラムを結ぶ通商路の確保と、その権益の擁護が主目的であったと思われる。しかし、このアッシリアもバビロン第一王朝のハムラビに屈し、独立国の地位を失ってしまった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。位置はウィキの「アッシリアにある、周囲との関連広域地図がよい。

「グデア」古代メソポタミアの都市国家ラガシュ第二王朝の王。在位は紀元前二一四四年頃~紀元前二一二四年頃か。シュメール時代の王中で最も名前の知られている人物の一人。「グデア」という名は「呼びかけられし者」の意(当該ウィキに拠った)。

「ダリウス」Ⅰ世であろう(在位:紀元前五二二年~紀元前四八六年)古代ペルシアのアケメネス朝の大王。国内の叛乱を鎮め、財政整備をし、中央集権を確立した。インドまで遠征して全オリエントを支配し、帝国の極盛期を築いた。ゾロアスター教を信じたが、被征服地の宗教には寛大で、バビロン捕囚から帰国したユダヤ人に好意を示し、エルサレム神殿再建を助けた。エジプトの叛乱を鎮めるために出征中、陣内で没した。ダレイオスとも表記する。マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅亡させられたアケメネス朝ペルシアの最後の王ダレイオスⅢ世まで含めるなら、彼の在位は紀元前三三六年から紀元前三三〇年である。

「C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175」イギリスの軍人で探検家クロード・レニエ・コンダー(Claude Reignier Conder  一八四八年~一九一〇年)の「人間の台頭」。彼はパレスチナを中心とした中東からエジプトに軍務で派遣される中、歴史的・民俗学的研究を多く残している(英文の彼のウィキを参照した)。Internet archive」のこちらで原本が見られるが、その指示ページに(右ページ下から三行目から次のページの頭。太字は私が附した問題個所)、

   *

   The power of a curse is the subject of another tablet — the curse of some one unintentionally wronged bringing misfortune — “ an evil cry cleaves to him ; the curse is a curse of sickness.  The curse slays a man like a sheep.  It makes his god punish his body.  His mother goddess makes him sad. The voice that cries cloaks him as a garment, and strangles him.”  It can only be removed through discovery of the cause, by intercession of the sun god with his all-wise father Ea.  The sun is called “the protecting hero,” and is described as the “ merciful one ” who “raises the dead alive" (in the other world) — a “saviour" from demons. From the earliest age (that of Gudea) down to the time of Darius curses were inscribed on monuments to preserve them from any future mutilation or alteration.

   *

とあるのが、南方熊楠の訳した部分である。これを読むに、

「罕」(音「カン」。「長い柄の附いた鳥を獲る」「柄の附いた旗」「稀れ・少ない・珍しい」)は、「羊」の誤字である

ことが判明した。推定だが、南方熊楠は「羊」の異体字のこれ(グリフィスウィキ)辺りを崩して原稿に書いたのを、植字工が「罕」と誤ったのではなかったか? それにしても、正直、発表から百六年も経った今まで、誰一人として原書を調べず、この「罕」のまま放置されて、補正注する者がなく、全集でさえ、ただのママ表記で済まされてきたことに、私は激しい驚きを隠せない。南方熊楠の研究者は一体、何をしてきたのだろう?

「東トルキスタンの最大都會ヤルカンド」現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区にあるヤルカンド県(ウイグル語カタカナ転写)。漢字では莎車(さしゃ)県。新疆西南部の崑崙山脈北麓、パミール高原南面のヤルカンド川沖積平野に位置する。平均海抜千二百三十一メートル、山地が三十九%、平原が約六十一%を占める。暖温帯大陸性気候。四季は分明で、気候は乾燥しており、日照時間は長い。年平均気温は摂氏十二・三度で、年平均降水量はわずか五十六・六ミリである。ヤルカンドは二千年あまりの歴史を有し、嘗て莎車国(前漢の時代)、渠沙国、ヤルカンド・ハン国を形成していた。

「四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し」河川水に何が含まれているのか、未詳。そもそもこれが一種の疾患なのかどうかも不詳。喉仏が民族的に大きいだけではないのか?

「サレー、ペイガムバール上人」以下の原本では綴りは‘Saleh Peygambär’。ネットを調べると、海外のものばかりで、はっきりとは言えないが、どうもイスラムの預言者としてはかなり有名な人物らしい。

「Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.」スウェーデンの地理学者にしてかの中央アジア探検で知られるスヴェン・アンダシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の中央アジア探検録の一巻。Internet archiveのこちらで原本当該部(右ページ上から三行目。古伝承)が読める。

「同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを……」同上のInternet archiveのここの左ページ下方の‘We also possess a legend about an image of Buddha,’で始まる次のページまで続く段落がこの話である。左ページ下から五行目に城の名‘Ho-lao-lo-kia’が出る。

「元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず……」これも同経の巻第「八」ではなく、巻第「十」にある。「大正蔵経」データベースのここの「T0203_.04.0494c24」の「優陀羨王縁」以下に、「T0203_.04.0495b20」以降で父を殺すシークエンスが出、「T0203_.04.0495c24」と次行で「而見尊者迦栴延。端坐靜處。坐禪入定。時王見之。便生惡心」とあり、「T0203_.04.0496a08」で、天が「香華珍寶衣服」を雨ふらして、「T0203_.04.0496a15」「此城。一日覆沒。雨土成山」というカタストロフが描かれている。]

2021/07/18

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (2)

 

 印度にも古く詛言を太く[やぶちゃん注:「いたく」。]怖れたは根本說一切有部毘奈耶雜事九に、惡生王[やぶちゃん注:「あくしやうわう」。]が苦母[やぶちゃん注:「くも」と読んでおく。]怖勸めにより[やぶちゃん注:後注参照。恐らく誤読。]、釋種の男子を殺盡し、五百釋女己れを罵るを瞋り悉く其手足を截らしめた時、佛其因緣を說て、迦葉佛の世に、此五百釋女、出家し乍ら常に諸他の尼輩に、手を截られよ足を截られよと罵詈したので、無量歲の間地獄で燒れ後人間に生れても五百年中常に手足を截らると言た。惡生王傳へ聞て極て憂ふ。苦母對ふらく、婆羅門輩が人家に物を乞ひて吳れぬ時は、其家に百千種の不祥事を生ぜしめんと欲す。況や沙門喬答摩(ゴータマ)(佛の事)其親族を王に誅盡されたから、其惡心のまゝにどんな深重の呪詛を爲るか知れぬとて、王を池中の一柱樓に住ませ避難せしめたと出るで分(わか)る。十九世紀にも印度人が瞋れば怖ろしい詛言を吐く風[やぶちゃん注:「ふう」。]盛んだと Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897 に見え、古印度仙人の詛言のいかに怖るべきものなりしは、西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れ、自ら王宮に詣り求めしに一人も應ぜず。王の最幼女王憂るを見兼ねて、請て自ら行しに、仙人其不妍[やぶちゃん注:「うるはしからざる」。]を見、怒て便ち惡呪し、王の九十九女一時腰曲り形毀れて誰も婚する者無かれと罵ると、忽ち其通り腰曲つたので、王當時住んだ花宮城を曲女城と改名したと有るを見て知るべし。

[やぶちゃん注:「根本說一切有部毘奈耶雜事九」「根本說一切有部毘奈耶」(こんぽんせついっさいうぶびなや:現代仮名遣)は仏教経典で全五十巻。初唐の七〇三年に義浄によって漢訳された。部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に教訓物語を挿入した大部なもの。「大正蔵」で調べると、「雜事九」ではなく、「雜事八」である。標題は「第二門第四子攝頌之餘【說勝光王信佛因緣及惡生誅釋種等事】」。「240」コマの「T1451_.24.0239b27」の『時惡生王納苦母諫……』(「苦母怖勸めにより」ではなく、「苦母が諫めを納れ」である)から、「241」『苦母對曰。大王如乞索婆羅門入舍乞求。不得物時欲令其家。生百千種不吉祥事。何況沙門喬答摩。所有親族被王誅盡。寧無深重怨恨之言。隨其惡心而爲呪咀。王若懼者於後園中池水之内。』(最後は「T1451_.24.0243c15」)までが当該する話と読める。私が太字にした部分が熊楠の示したかった箇所である。

「Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897」作者ジャン・アントワーヌ・デュボア(Jean-Antoine Dubois 一七六五年~一八四八年)はインドで布教活動に従事したフランスのカトリック宣教師。「Internet archive」のこちらで同年版原本が見られる。

「西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れて……」「大唐西域記」の「卷第五 六國」の「羯若鞠闍國」(カーニヤクブジャ:現在の北インドの都市カナウジ。この伝承通り、「カーニヤクブジャ」とは「傴(せむし)の娘たちの町」の意)の条の冒頭の「一 國號由來」に(「維基文庫」のこちらのものを参考に漢字を正字化した)、

   *

羯若鞠闍國人長壽時。其舊王城號拘蘇磨補邏【唐言「花宮」。】。王號梵授、福智宿資、文武允備、威懾贍部、聲震鄰國。具足千子、智勇弘毅、復有百女、儀貌妍雅。時有仙人居殑伽河側、棲神入定、經數萬歲、形如枯木、遊禽棲集、遺尼拘律果於仙人肩上、暑往寒來、垂蔭合拱。多歷年所、從定而起、欲去其樹、恐覆鳥巢、時人美其德、號大樹仙人。仙人寓目河濱、遊觀林薄、見王諸女相從嬉戲、欲界愛起、染著心生、便詣花宮、欲事禮請。王聞仙至、躬迎慰曰、「大仙棲情物外、何能輕舉。」。仙人曰、「我棲林藪、彌積歲時、出定遊覽、見王諸女、染愛心生、自遠來請。」。王聞其辭、計無所出、謂仙人曰、「今還所止、請俟嘉辰。」。仙人聞命、遂還林藪。王乃歷問諸女、無肯應娉。王懼仙威、憂愁毀悴。其幼稚女候王事隙、從容問曰、「父王千子具足、萬國慕化、何故憂愁、如有所懼。」。王曰、「大樹仙人幸顧求婚、而汝曹輩莫肯從命。仙有威力、能作災祥、倘不遂心、必起瞋怒、毀國滅祀、辱及先生。深惟此禍、誠有所懼。」。稚女謝曰、「遺此深憂、我曹罪也。願以微軀、得延國祚。」。王聞喜悅、命駕送歸。既至仙廬、謝仙人曰、「大仙俯方外之情、垂世間之顧、敢奉稚女、以供灑掃。」。仙人見而不悅、乃謂王曰、「輕吾老叟、配此不妍。」。王曰、「歷問諸女、無肯從命。唯此幼稚、願充給使。」。仙人懷怒、便惡咒曰、「九十九女、一時腰曲、形既毀弊、畢世無婚。」。王使往驗、果已背傴。從是以後、便名曲女城焉。

   *

にあるのが、それ。]

 

 支那にも古く詛言が盛んだつた。淵鑑類凾三一五に、厥口呪詛、言怨上也、子罕曰、宋國區々、有詛有兕、亂之本也、康煕字典に書無逸を引て、民否則厥心違怨、否則厥口詛祝、是等は惡政に堪ざる民が爲政者を詛ふので、詩に此出三物、以詛爾斯、また晏子曰、祝有益也、詛亦有損、雖其善祝、豈勝億兆人之詛者とも有る。范文子使祝宗祈死、曰愛我者惟呪我、使我速死、無及於難范氏之福、是は死ねと詛われて速に死なんと望んだのだ。

[やぶちゃん注:「淵鑑類凾」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。以下は巻三百十五の「口咒・國詛」に連続した一文として出る。

「厥口呪詛……」「厥(そ)の口、呪詛すとは、上を怨むを言ふなり。子罕(しかん)曰く、『宋國、區々として詛あり。呪あるは亂の本なり。』と」。

「民否則厥心違怨……」まず、底本は「違怨」が「達」であるが、諸本と「書経」原本から訂した。「民、否とせば、則ち、厥の心、違怨し、否とせば、則ち、厥の口、詛祝(じゆしゆく)す。」。

「康煕字典に書無逸を引いて……」まず、「書無逸」は底本では「書無極」となっている。しかし、諸本及び以下に示す「康煕字典」を確認、これは「書経」の「無逸」の誤りであることが判明したので訂した。「康煕字典」のそれは、「口部」の「五」の「呪」の条である。「中國哲學書電子化計劃」のものを一部カットして加工した。

   *

呪 [やぶちゃん注:中略。]「廣韻」、『呪詛也。』。「戰國策」、『許綰爲我呪。』。「後漢・王忳傳」、『忳呪曰、有何枉狀。』。「關尹子・七釜篇」、『有誦呪者。』。又、「集韻」、『通作祝。』。「書・無逸」、『民否、則厥心違怨否、則厥口詛祝。』。「詩・大雅」、『侯作侯祝。』。「周禮・春官」、『有詛祝。』。「集韻」、『或作詶、亦作詋。』。

   *

「詩に出此三物……」「詩」は「詩経」。「此の三物を出だして、以つて爾(なんぢ)を詛ふ。」。

「晏子曰、祝有益也……」「晏子」に曰く、『祝は益する有るなり。詛も亦、損ふ有り。其れ、善く祝すと雖も、豈(あに)億兆人の詛ふ者に勝たんや。」。「晏子」は「晏子春秋」で、春秋時代の斉で霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)の、後代に作られた言行録。

「范文子使祝宗祈死……」まず、これは出典を示していないが、「春秋左氏伝」の「成公十七年(紀元前五七四年)で、「使我速死」は底本では「速」を「連」に誤っているので訂した(これは後の熊楠の謂いからもおかしいことが判る)。「范文子、祝宗をして死を祈らしめ、曰く、『我を愛する者は、惟(ただ)我を呪せ。我をして速やかに死せしめ、難に及ぶ無からしむれば、范氏の福なり。』と」。「范文子」は晋に仕えていた名臣士燮(し しょう ?~紀元前五七四年)の諡(おくりな)。「祝宗」は王の名ではなく、士燮の家で祈禱を掌った官。ウィキの「士燮」によれば(太字は私が附した)、紀元前五七五年に「鄢陵(えんりょう)の戦い」(同年、鄢陵(現在の河南省許昌市鄢陵県)で晋と楚が激突した戦い)が『起こって』楚との『講和は敗れてしまう。士燮は戦争を極力回避しようと働きかけるが、徒労に終わってしまう。更に、嫡子の士匄』(しかい)『が戦闘の開始を諸将に勧めるのを見るや、「国の存亡は天命であり、お前のような小僧に何が分かるか。しかも聞かれもしないのに勝手に発言するのは大罪である。必ず処刑されよう」と激怒し、戈を持って士匄を追い掛け回した』。『結局』、「鄢陵の戦い」は、『晋軍の勝利に終わったが、士燮は徳のない厲公が徳のある共王に勝ってしまったことをむしろ恐れ、家臣に自らを呪わせて死んだ』(☜)。『家督は士匄が継いだ。死後、恭謙な態度を生涯貫き通した事と、一時的ながら楚との和睦の大功を成した事から、諡号「文」を諡され、范文子と呼ばれる』とある。]

日本山海名産図会 第二巻 鯢(さんしやういを) (オオサンショウウオ及びサンショウウオ類)

 

Sannsyouuo

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「山椒魚(さんせううを)」。但し、この成体は左頁の瀧の部分を攀じ登っている七個体からみて、本文の中間部に出る、通常の「山椒魚」、則ち、所謂、両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ科 Hynobiidae の多くのサンショウウオ類(本邦に棲息する種群はウィキの「サンショウウオ」の「おもな日本産種」を参照されたいが、そこだけでも十九種が挙げられており、しかも、この内で日本固有種でないのは、サンショウウオ科キタサンショウウオ属キタサンショウウオ Salamandrella keyserlingii 一種のみとされている)の一種である。この図はどこと断っていないので、種を同定することは出来ないが、本文の記載と、現在の分布から見て、サンショウウオ科ハコネサンショウウオ属ハコネサンショウウオ Onychodactylus japonicus と比定しても強ち誤りとは言えないように思う(現在の長野県軽井沢にハコネサンショウウオは現に分布している)。]

 

  〇鯢(さんしやういを)

溪澗水(たにみづ)に生ず。牛尾魚(こち)に似て、口、大なり。茶褐色(ちやいろ)にして、甲に斑文(またら)あり。能く水を離れて陸地を行く。大なるものは、三尺斗り、甚だ、山椒の氣(き)あり。又、椒樹(さんせうのき)に上(のぼ)り、樹の皮を採り、食らふ。此の魚、畜ゐおけは、夜、啼きて小児(せうに)の聲のごとく、性(せい)、至つて强き物にて、常に小池(せんすい)に畜なひ用ゆべき時、其の半身を裁ち斷り、其の半(なかは)を、復た、小池へ放ちおけば、自(み)づから、肉を生じ、元の全身となる故に、作州の方言にハンサキといふ。又、其の去りたる、川も久しくして、尚、動くなり、といへり。〇別に一種、箱根の山椒魚といふものあり。小魚なり。越後にてセングハンウヲといふ。其の形、水蜥蜴(いもり)に似て、腹も赤し。故にアカハラともいふ。乾物(かんぶつ)として出だし、小兒の疳蟲(かんむし)を治す。「物理小識」に、『閩高(みんかう)の源(もと)に黑魚あり』とは、是れなり。今、相州・信刕輕井澤和田の邉(ほとり)より出る物も、かの、いもりのごとき物にて、夜る、瀧の左右の岩を攀ぢ上(のぼ)るなり。土人、是れを採るに、木綿袋にて、玉䋄(たまあみ)のごときものゝ底を、巾着(きんちやく)の口のごとくにして、松明(たいまつ)を照らして、魚の上(のぼ)るを候(うかゞ)ひ、袋をさし附けて、自(おのづ)から入るを、取りて、袋の尻を解き、壺へ納む。又、丹波・但馬。土佐よりも出だせり。〇「本草」に一種、「䱱魚」といふもの、おなじく「山椒魚」ともいへども、是は「人魚」なり。河中及び湖水に生す。形、鮧魚(なまず)に似て、翅(つばさ)、長く、手足のごとし。又、時珎の「諬神録(けいしんろく)」に載する所の物は、「華考(くわかう)」の「海人魚(うみにんぎよ)」なり。紅毛人、此の海人魚の骨、持と來たりて、蛮名(ばんめう)「へイシムルト」云。甚だ、僞もの、多し。

[やぶちゃん注:冒頭部のそれは、所謂、「大山椒魚」で、

両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus

である。本種は日本固有種であるが、現在の分布は、自然破壊が進み、南西部(岐阜県以西の本州・四国・九州の一部)に限られている。私は「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」でサンショウウオ類について注を施しているので、そちらをまず読まれたい。実は記載の類似性から見て、作者は益軒のその記載を参考にしている可能性が頗る高いからである。

「牛尾魚(こち)」現行においても、「コチ」は広汎にして多様な種を指す。ウィキの「コチ」を見られたいが、オオサンショウウオにミミクリーとなら、最大一メートルにもなるカサゴ目コチ亜目コチ科コチ属マゴチ Platycephalus sp.を挙げておくべきであろう。「海水魚のコチを比較に出すのはおかしい」と思われる方のために、「大和本草卷之十三 魚之下 こち」を読まれることを強くお薦めする。そこで益軒は『或いは曰はく、「蟾〔(ひきがへる)〕、化して『こち』となる者、稀れに、之れ、有り」〔と〕。』というトンデモ化生説を紹介している。ヒキガエルとオオサンショウウオとコチ――繋がるでしょ?

「能く水を離れて陸地を行く。大なるものは、三尺斗り、甚だ、山椒の氣(き)あり。又、椒樹(さんせうのき)に上(のぼ)り、樹の皮を採り、食らふ」「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」で「水中のみにあらず、陸地にて、よく歩〔き〕動く」に対して、ウィキの「サンショウウオ」によれば、『オオサンショウウオは繁殖期に川を遡上するとき以外はほとんど水中から出ることはないが、他の種類は陸上生活を送ることが多く、森林の落ち葉の下やモグラやネズミが掘った穴の中や、川近くの石の下などに生息する。繁殖期以外は』、『あまり人の目にはふれることはない』とある、と注し、また、「能く樹に上〔ぼ〕る」というのは、あり得ないと思う。結局、体に山椒に似た香りがある種がいることから「山椒魚」と呼ばれることから、彼らが「山椒の樹皮を食ふ」と誤認されたに過ぎないと考える、と注した。しかし、これは三年前のもので、その後、TVでオオサンショウウオの生態番組を見た中では、雨の時期の夜、オオサンショウウオが新しい棲息場所(或いは繁殖期で相手を求めてか)を探して、川から這い出し、湿った林を抜けて、河川の別な場所まで遠征するのを見た。日常的によく陸地を歩くとは言えないが、こうしたシーンに遭遇すれば、それはかなり強烈な記憶として人々に刻印されるから、この「陸地を行く」或いは後の「其の去りたる、川も久しくして、尚、動くなり、といへり」という部分は、決して誤認とは言えない気がしている。

「此の魚、畜ゐおけは、夜、啼きて小児(せうに)の聲のごとく」これも「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」で「其の聲、小兒のごとし」に対して、ササンショウウオ類やオオサンショウウオは一般的に鳴かないと私は思う。「日本サンショウウオセンター」の記事(三重県名張市赤目町。現在はリンク切れ)を見ても「鳴かない」とあり(但し、ごく稀に一瞬、おし殺したような声(体内腔を用いた音か)を発することがあり、『ちょっとハスキーな声』と半分おふざけ気味で記してはある)、通常のサンショウウオ類が鳴いたとする記事はざっとみたところではない。ところが一件、サンショウウオ科サンショウウオ属ベッコウサンショウウオ Hynobius ikioi(阿蘇山系以南・霧島山系以北の鹿児島県北部・熊本県・宮崎県)が鳴くという記事を見つけたのだ。個人ブログ「古石交流館みどりの里」の「サンショウウオ(ベッコウ)が鳴く」である。記事の山名と方言と高度から見て、熊本県葦北郡芦北町古石の「大関山」(頂上で標高九百二メートル)と推定される、として引用しておいた(こちらもリンク切れ)。しかし、今回、今一度、調べてみると、二〇二一年二月二日附『読売新聞』の記事「世界最大級の両生類・オオサンショウウオ、どんな鳴き声?」というのがあり、まさに「日本サンショウウオセンター」で、飼育しているオオサンショウウオの身体測定が来館者にも公開して行われた、という記事があり、そこで、『地元の小学』六『生』『と中学』二『年生』『も助手として参加。記録係を務めた小学』六『年生は「鳴き声を初めて聞いた。『ウー』という感じの声だった」という』と述べているのを見つけた。これは、両生類であるオオサンショウウオを水から引き揚げて計測しており、とすれば、消化管内に空気が取り込まれて、物理的に腹が鳴った可能性がありそうだが、呼鳴器官はないにしても、何らかの音を稀に発する可能性はないとは言えない気がした。但し、研究者が聴いたことがないという以上は、やはり、ないかなぁ。

「小池(せんすい)」「泉水」の当て訓。

「其の半身を裁ち斷り、其の半(なかは)を、復た、小池へ放ちおけば、自(み)づから、肉を生じ、元の全身となる故に、作州の方言にハンサキといふ」イモリやサンショウウオが軽微の指欠損を再生することは知られている。かく言う私自身、高校時代、生物部でイモリの四肢の一部を切断して再生させるという今考えれば、ひどい実験をしていた(完全再生は達成できなかった。「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 六 再生」の私の注を参照されたい)。なお、イモリの再生能力の高さは脊椎動物の中では群を抜いて優れていることはよく知られている。ウィキの「アカハライモリ」によれば、『たとえば、尾を切ったとしても本種では完全に骨まで再生するほか、また四肢を肩の関節より先で切断しても指先まで完全に再生し、さらには目のレンズも再生することができる』。『この性質は教科書にも記載されている。多くの脊椎動物ではこれらの部位は再生できない。ちなみに、尾を自切し再生することが知られているトカゲでも、尾骨までは再生しない』とある)。しかし、私はオオサンショウウオの半身再生というのは都市伝説レベルの妄説に過ぎないと考えている当該ウィキには、和名の解説で、『「山椒魚」の名の由来は、一説に、山椒のような香りを発することによるという。平安時代以前からの古称に「はじかみいを」』『があり、これもすなわち、「山椒(はじかみ)魚(いを)」の意である』。『また、「ハンザキ」の異称があり、引用されることも多い。由来として「からだを半分に裂いても生きていそうな動物だから」「からだが半分に裂けているような大きな口の動物だから」などとも言われ、疑問符付きながらこうした説を載せている辞書などもあるが、信頼できる古文献の類は現在のところ知られていない。ほかに、「ハジカミ > ハミザキ > ハンザキ」のように変化したとする説や、体表の模様が花柄のようにも見えることから「花咲き」から転訛した、といった説もあるが、これらについても現在のところ裏付けは乏しい』。『オオサンショウウオは特別天然記念物であり、捕獲して食利用することは禁じられているが、特別天然記念物の指定を受けるまでは、貴重な蛋白源として食用としていた地域も多い。北大路魯山人の著作』「魯山人味道」に『よると、さばいた際に強い山椒の香りが家中に立ち込めたといい、魯山人はこれが山椒魚の語源ではないかと推測している。最初は堅かったが、数時間煮続けると柔らかくなり、香りも抜けて非常に美味であったという。また、白土三平』の「カムイ外伝」でも『食用とする場面が見られ、半分にしても生きている「ハンザキ」と説明されている』とあるように、誰もそうした強力な再生現象を記録してもいないし、見てもいないのである。また、ブログ「斉藤勝司のサイエンス・ウォッチ」の「15年かけてオオサンショウウオの指が完全再生」(二〇〇九年四月十三日の記事)に、姫路市立水族館で約二十年間も飼育されているオオサンショウウオについて、同年四月十一日附『産経新聞』が『興味深いニュースを報じている』として、

   《引用開始》

 このオオサンショウウオは水族館生まれの個体で、5歳の時に仲間(同じオオサンショウウオなんだろうな)との喧嘩で、右前肢上腕骨の先が食いちぎられた。ただし、その後、約15年かけて、再生したと報じられているのだ。X線撮影したところ、4本の指の骨がすべて元通りになっていることも確かめられ、完全に再生したという。

 再生医療や細胞工学に詳しい方であれば、イモリには高い再生能力があり、四肢を欠損しても、骨まで元通りに再生することはご存知のことと思う。

 そのため、同じ有尾目に属するということだけで、不勉強にも、私は、オオサンショウウオの体にも同様の再生能力が備わっていると思っていた。ところが、産経新聞の記事によると、オオサンショウウオの四肢が再生したという報告はこれまでなかったという。再生能力はゼロではないにしても、失われた四肢を完全な形にまで再生することは稀だということなのだろう。

 ならば、なぜ、このオオサンショウウオは、失われた右前肢を完全に再生させることがきたのだろうか。

 産経新聞の記事では、オオサンショウウオの生態に詳しい、元姫路市立水族館館長の栃本武良氏の「条件さえよければ欠損した指が完全に再生されることがわかった」というコメントを紹介している。

 この「条件」は、餌が十分に与えられていることを指さしていると思うが(温度条件考えられるが・・・)、私が気になることは、餌が十分であるという環境条件が何に作用して、再生を促したのかってことだ。

 再生するかどうかは、その個体の体に、(1)多分化能と、(2)高い分裂能を有した細胞があるかどうかによって決まってくると思う。多分化能については、未分化の細胞、つまり、幹細胞が有無によって決まってくるのだろうが、高い分裂能については栄養が豊かかどうかが大きく影響するだろう。不死化して、無尽蔵に増えるはずのがん細胞でも、栄養が滞れば、細胞分裂のスピードは鈍化するわけで、栄養が豊富だからこそ、このオオサンショウウオも前肢を完全に再生することができたんじゃないか。

 だったら、オオサンショウウオの再生能力は環境次第で、コントロールできるとも考えられるだろう。

 つまり、環境条件一つで、再生するか、しないかが決まるなら、オオサンショウウオを実験材料に使えれば、がい[やぶちゃん注:ママ。「組織が」とか「器官が」か?]再生するかどうかを決める何らかの因子を見つけることができるんじゃないかって期待をもってしまうのだが・・・。富栄養条件で四肢が再生できるようになったオオサンショウウオと、貧栄養条件で四肢が再生できなくしたオオサンショウウオで、細胞中の分子の発現を調べると、再生するかどうかを決定する因子が見つかったりするんじゃないかなんて考えちゃったわけだ。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

高校時代の私なら、斉藤氏の意見に諸手を挙げて賛同するであろう。

「箱根の山椒魚」図注で示したサンショウウオ科ハコネサンショウウオ属ハコネサンショウウオ Onychodactylus japonicus 。全長十~十九センチメートル。胴体側面にそれぞれ入る皺(肋条)は十四~十五本。卵は球形で直径五ミリメートルで、白や淡黄色を呈する。♂の後肢は繁殖期には肥大化し、後肢の掌や趾基部に角質の突起が出現する。

「越後にセングハンウヲといふ」不詳。現行ではこの呼称は生き残っていない。「ハンウヲ」は「斑魚」か或いは前の「ハンザキ」由来の「半魚」か。Weblio 辞書」の「方言」「新潟県田上町方言」「せんがむし」に「サンショウウオ」の方言として出、体長約十五センチメートル、四月に流れの遅い水中に産卵し、卵嚢は、ほぼ透明で太い紐状を呈し、卵は中心部に揃う。『黒山椒魚か?』とあった。私は「セングハンウヲ」を眺めていたら、漠然と「背」が「黒」い「山椒魚」というイメージが浮かんでいた。さらに富山の渓谷で同種を父が見つけたのも思い出したし、当時、住んでいた高岡市伏木矢田新町の奥の「矢田の堤」(既に干乾びて消失してしまったようである)で同種の木通のような卵も見つけたのも甦ってきた。

サンショウウオ属クロサンショウウオ Hynobius nigrescens

である。全長十三~十六センチメートルで、体色は暗褐色(種小名nigrescens は「黒っぽい、黒みがかった」の意)。胴体の左右側面の肋条は十一本。尾は長く、縦に平たい。四肢は長い。いわゆる止水性のサンショウウオで、幼体は三対の外鰓と、眼下部に「バランサー」(balancer:平衡桿。一般には水底で体を安定させるためのものとされる)と呼ばれる器官を持つが、前肢が生えると、消失する。近年の研究ではサンショウウオ属カスミサンショウウオ Hynobius nebulosus に近縁であることが判明している。しかし、作者は続けて、「其の形、水蜥蜴(いもり)に似て、腹も赤し。故にアカハラともいふ」とするのは戴けない。腹の赤いサンショウウオはいない。これは似てるんじゃなくて、有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ属アカハライモリ Cynops pyrrhogaster そのものだぜ?!

「乾物(かんぶつ)として出だし、小兒の疳蟲(かんむし)を治す」サンショウウオは古くから、薫製干物が疲労回復・滋養強壮・美肌などに効果があるとして食されてきた歴史がある。私は湯西川で食ったことがある。「小兒の疳蟲」は以下に示す「物理小識」の記載に拠るものと推定される。益軒は「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」で『京都魚肆〔(うをみせ)〕の小池にも時々生魚〔(せいぎよ)〕あり。小なるを生〔(なま)〕にて呑めば、膈噎』(かくいつ:「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病気を、「膈」は食物が少し下の胸の附近でつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされるが、ここはそんな重病という記載とも思えないから、広義の咽喉や気道附近での「痞(つか)え」でよい)『を治す』と記している。なお、イモリも媚薬とされた。ウィキの「アカハライモリ」によれば、『かつて日本では、イモリの黒焼きはほれ薬として有名であり、販売もされていた』。『竹筒のしきりを挟んで両側に雄雌一匹ずつを分けて入れ、これを焼いたもので、しきりの向こうの相手に恋焦がれて心臓まで真っ黒に焼けると伝える。実際の成分よりは、配偶行動などからの想像が主体であると思われるが、元来中国ではヤモリの黒焼きが用いられ、イモリの黒焼きになったのは日本の独自解釈による』とある。なお、アカハライモリはフグ毒と同じテトロドトキシンを持っていることが知られているが、過去、アカハライモリの黒焼きを食って中毒したケースは古文献でも近現代のデータにもなく、一個体当たりのテトロドトキシン含有量が少ないのではないかと考えられているようであるが、まあ、ヤモリで我慢した方が無難である。

「物理小識」明末・清初の思想家方以智(一六一一年~一六七一年:一六四〇年進士に登第し、翰林院検討を授けられたが、満州族の侵略に遭い、嶺南の各地を流浪、清軍への帰順を拒んで、僧侶となった。朱子学の「格物窮理」説は事物の理を探究するには不十分とし、当時、渡来していたジェスイット宣教師たちから、西洋の学問を摂取し、また、元代の医師朱震亨(しゅしんこう)の「相火論」や、覚浪道盛の「尊火論」に基づいて、あくまで事物の「然る所以の理」を探究する方法としての「質測の学」と形而上的真理の探究の方法としての「通幾」を唱えた)の哲学書。

「閩高(みんかう)の源(もと)に黑魚あり」「物理小識」の巻十一の以下(下線太字は私が附した)。

   *

四足魚 魶魚有足緣木。音如兒啼。周益公記宜興洞有四足鮎。張舜民記黃州四足鮎。全義之西南盤龍山乳洞有金沙龍盤魚、皆四足。脩尾丹腹。狀若守宮。泰和鄕有四足、如螭。有時上岸、見人則入水不傷人。鱉無裙而尾長亦謂之魶【游子六曰、閩高山源有黑魚、如指大。其鱗卽皮四足。可調粥治小兒。】

   *

「閩高」「閩」(びん)は福建省の古くからの呼称・略称である。閩地方の高原地方の渓谷の上流の謂いであろう。

「信刕輕井澤和田」和田は判らない。サンショウウオの棲息というロケーションからは、旧軽井沢宿のあった旧軽井沢の北の精進と矢ヶ崎川の上流附近を私は考えている(国土地理院図)。

「玉䋄(たまあみ)」攩網(たもあみ)。

『「本草」に一種、「䱱魚」といふもの、おなじく「山椒魚」ともいへども、是は「人魚」なり。河中及び湖水に生す。形、鮧魚(なまず)に似て、翅(つばさ)、長く、手足のごとし』作者は自分でも何を言っているのか分からなくなっている感じだ。ようするに、これは、「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」の以下を無批判に写しているに過ぎない。

   *

䱱魚(にんぎよ) 「人魚」〔と〕名〔づく〕。此の類、二種あり。江湖の中に生じ、形、鮎(なまづ)のごとく、腹下につばさのごとくにして、足に似たるもの、あり。是れ、「䱱魚」なり。「人魚」とも云ふ。其の聲、小兒のごとし。又、一種、「鯢魚」あり。下に記す。右、「本草綱目」の說なり。又、海中に人魚あり。海魚の類に記す。

   *

しかし、これ、今回、虚心に読んでみれば、ナマズのような形態で、腹の下の両側に翼みたようなビラビラがあり、足=脚=前後の四肢に似たものが生えていて、時に幼児の泣くような声を立てるのが魚」=「人魚」≒「鯢魚」だと言っているのだから、これは何の苦もなく、オオサンショウウオでいいだろうと今の私は思う。

『時珎の「諬神録(けいしんろく)」に載する所の物は』作者は遂にやらかしちまったね。益軒先生の「大和本草」の美味しいところをつまみ食いしているうちに、とんでもないしくじりをしちまった。現代の出版物だったら、とんでもない非難に曝されるぜ! 「諬神錄」ってのはね、「本草綱目」の李時珍の著作じゃねえ! 五代十国から北宋代の政治家で学者の徐鉉(じょげん 九一六年~九九一年)の伝奇小説集だ! そうして、あんたが、ちょろまかそうとして墓穴を掘ったその大元は、「大和本草卷之十三 魚之下 人魚 (一部はニホンアシカ・アザラシ類を比定)」だろうが!

   *

人魚 「本草綱目」〔の〕「魚」の「集解」に徐鉉〔(じよげん)〕が「諬神録〔(けいしんろく)〕」に云はく、『謝仲王といふ者、婦人、水中に出沒するを見る。腰より以下、皆、魚。乃〔(すなは)〕ち、「人魚」なり』〔と〕。又、「徂異記」に云はく、『査道、使を髙麗に奉ず、海沙の中、一婦人、肘〔(ひぢ)の〕後〔ろに〕、紅〔き〕鬣〔(たてがみ)〕有るを見る、之れを問へば、曰はく、「人魚なり」〔と〕』〔と〕。

○「」・「鯢」も亦、人魚と云ふ。乃ち、名、同〔じくして〕物〔は〕異〔(こと)なり〕。

○「日本記」二十二巻「推古帝二十七年」、『攝津國に漁父有り。罟(あみ)を掘江[やぶちゃん注:ママ。]に沈む。物、有り。罟に入る。其の形、兒〔(こ)〕のごとく、魚に非ず、人に非ず。名づくる所を知らず』〔と〕。今、案ずるに、此の魚、本邦に処〻、稀れに之れ有り。亦、人魚の類〔(るゐ)〕なるべし。

   *

リンク先をご覧いただけば、お判りの通り、ここはね、

   *

時珎(=珍)が、「本草綱目」の「魚」の「集解」に、徐鉉の「諬神錄」を引ける所の物は、

   *

とやんなきゃいけなかったんだ! まさか、二百二十二年後に安易なコピペの襤褸を暴かれるとは、お釈迦さまでも御存じあるめえ! ってこった!

『「華考」(くわかう)の「海人魚(うみにんぎよ)」なり』これは明の慎懋官(しんぼうかん)撰になる「華夷花木鳥獣珍玩考」のことであろう。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここだ(天保六(一八三五)年の写本)! 作者は、せめても引用しておくべきだったね。

『紅毛人、此の海人魚の骨、持と來たりて、蛮名(ばんめう)「へイシムルト」云。甚だ、僞もの、多し』ああっつ! 最後の最後まで杜撰をやらかしちまってる! 「へイシムルト」(或いは『「ヘイシムル」と云』とするところをうっかりカタカナにしてしまったか。にしても誤りに変わりはない)じゃあないぜ! 「ヘイシムレル」だ! 漢字表記は「歇伊止武禮兒」で、ポルトガル語の綴りは‘peixe mulher’である。詳しくは私の渾身の電子化注『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』をご覧あれかし!!!

2021/07/17

芥川龍之介書簡抄96 / 大正九(一九二〇)年(一) 三通

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集の第十一巻の「書簡 二」(同全集の書簡は二巻で終わりである)に入る。半分、来た。ここのところ、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」へのアクセスが急増している。心より感謝申し上げる。]

 

大正九(一九二〇)年一月十七日・田端発信・中戶川吉二宛(封筒に『小石川病院内流行性惑冒患者中戶川吉二樣』とある)

 

物干しへ蒲團と机とを出して原稿を書いてゐると僕の知つてゐる女が「これを捨てて下さい」と云つた受取つて見ると死んだ金魚だから物干しの下へ捨てた下には蒼い海が少し見えたするとその女が「あなたも捨てゝお貰ひなさいよ」と云つた「あなた」と云はれた女はお夏に違ひなかつたお夏は手のひらへ何か入つてゐるのを僕の手のひらの上へあけた見ると水の中にぼうふらが五六匹泳いでゐた何故かその時中戶川が燒かなければ好いがと思つた「水族館でござい」と云ふ聲がした聲の主は春樹さんだつたパツチに尻端折りで皮の鳥打帽をかぶつてゐた何が水族館かと思つたら扇子で僕の手のひらの中のぼうふらを指してゐた太鼓持のやうな嫌な奴だなと思つた雷が鳴つた僕の知つてゐる女が「雨がふるからこつちへおはいんなさい」と云つたその女はお夏と一しよに二階にゐた二階には朱ぶちの夏目漱石の額があつて鏡蒲團が澤山敷いてあつた お茶屋か何かの大廣間らしかつた實際雨がぽつぽつ降つて來た 上を見たら向うの屋根の上に繭玉のやうな雲が靑い空に白くぽっく浮んでゐた「あれは雷が鳴るから電氣で雲が細くなつたんだ」と僕が春樹氏に說明した春樹氏は何時か谷崎潤一郞になつて「田端は地震がなくつて好いな」と云つた僕は谷崎と田樂鍋を隔てて坐つてゐたそばに野上臼川君がゐたその外雜誌記者らしい人が二三人ゐた窓の下に稻田と雜木樹が見えた「狸はどうです」と野上君が云つた「狸は出る」と谷崎が云つた――そこで目がさめた「反射した心」を讀みながら寢てしまつたのだつた獨りでにやにや笑つた夢の中のお夏の顏は覺えてゐない

病中の御慰みまでにちよいと書いてごらんに入れた 以上

    一月十七日     病 我 鬼

   中 戶 川 樣

 

[やぶちゃん注:この年で芥川龍之介満二十八歳。

「中戶川吉二」(明治二九(一八九六)年~昭和一七(一九四二)年)は小説家・評論家。里見弴に師事。代表作「イボタの虫」。採用しなかったが、この同日か前日に彼から新著「反射する心」(当年一月十日新潮社刊。初版本が国立国会図書館デジタルコレクションで全篇視認出来る)を贈本されて、そのお礼を本書簡と同日発で述べている(恐らく葉書)。そこで芥川龍之介も『インフルエンザで寢てゐる』と記している。

「お夏」「春樹さん」「反射する心」の登場人物。主人公「私」は北川芳治(よしぢ)で、「お夏」はヒロイン格。龍之介の夢の中では中戸川自身が北川芳治扱いのようである。

「パツチ」パッチ。股引(ももひき)の一種。江戸では絹製のものを、関西では布地に関係なく、丈の長いものを指した。呼称は朝鮮語由来である。

「尻端折り」(しりは(ば)しより(しりは(ば)しょり))は、着物の裾を外側に折り上げて、その端を帯に挟み込むことを指す。

「太鼓持のやうな嫌な奴だなと思つた」反射する心」の最終の第三編のこで、芳治の友人山村が春樹のことを指して、「キザな男だね。あんなキザな男だの下品な女だのと、これからいろいろ交渉して行くんぢや君もなかなか堪らない……」と芳治へ語りかけるシーンがあり、すぐ後のここにも、芳治が自分で、『お千枝さん』(長いリーダ)『下等な女』(改行)『春樹さん』(長いリーダ)『キザな男』と悪戯書きをするシーンもある。

「鏡蒲團」蒲団の、裏の布を表に折り返して、表の縁としたもの。鏡の形に似ているところから、かく呼ぶ。

「春樹氏は何時か谷崎潤一郞になつて」私はここを読んで、思わず、ニンマリした。谷崎は気持ち悪いほど気障だから。

「野上臼川君」英文学者で能楽研究でも知られた野上豊一郎(明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)の号。「きゅうせん」(現代仮名遣)と読む。大分県臼杵市出身。臼杵中学・一高を経て、明治四一(一九〇八)年、東京帝国大学文科大学英文科卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいた。夏目漱石に師事した。帝大卒業後は国民新聞社の文芸記者となったが、翌年には法政大学講師、この大正九(一九二〇)年には同大学教授となった。後、法政大学総長。ここで芥川龍之介が彼を「君」と呼んでいるのは注目される。大正十二年から十三年にかけて、四通の書簡が底本には載るが、内容は能の関係書についての簡単な謝辞や能の会関連の書信でとるべき書簡ではない。それにしても九歳年上で、漱石山房及び英文学者としても直系の先輩(野上は龍之介も好きなバーナード・ショーなどのイギリス演劇の研究・紹介でも知られる)であるのに、「君」は意外である。或いは、芥川龍之介は彼のことを、英文学者としてはそれほど評価していなかった可能性、或いは、国民新聞社の文芸記者時代に龍之介と何かがあった可能性などが窺われるように私には思われる。]

 

 

大正九(一九二〇)年四月二十七日 田端から 菅忠雄宛(葉書)

 

和加布難有う

      卽興

    春寒き小包解けば和布かな

    軒先に和布干したる春日かな

赤ん坊比呂志と命名菊池を名づけ親にしたのです先生によろしく 拜

 

[やぶちゃん注:この十七日前の四月十日、長男芥川比呂志が誕生した。盟友菊池寛の名から命名した。但し、出生届は早生まれ扱いにするために、三月三十一日生まれとなっている。]

 

 

大正九(一九二〇)年四月二十八日京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣・四月廿八日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

手紙及雜誌難有う 君の論文は門外漢にも面白くよめた 法律哲學と云ふものはあんなものとは思はなかつた 正体がわかつたら大に敬服した 外の論文はちよいちよい引繰り返して見たがとても讀む氣は出なかつた

本がまだ屆かない由 日本の郵便制度は甚しく僕を惱ませる 君のも入れると二十册送つた本の中先方へ屆かないのが既に四册出來た譯だ 郵便局は盜人の巢窟のやうな氣がして頗不安だ 二三日中に今度は書留め小包で御送りする

素戔嗚の尊なんか感心しちやいかん 第一君の估券[やぶちゃん注:ママ。「沽券」が正しい。]に關る それより四月號の中央公論に書いた「秋」と云ふ小說を讀んでくれ給へ この方は五六行を除いてあとは大抵書けてゐると云ふ自信がある但しスサノオも廿三囘位から持直すつもりでゐる さうしたら褒めてくれ給へ 去る二十一日僕の弟の母が腹膜炎でなくなつた それやこれやでスサノオの尊は書き出す時からやつつけ仕事だつたのだ 去年は親父に死なれ今年は叔母に死なれ僕も大分うき世の苦勞を積んだわけだ どうも同志社なぞには倉田百三氏に感服する人が多かりさうな氣がする 違つたら御免この間藏六が感服してゐるのを見たらふとそんな氣がしたのだ 赤ん坊は比呂志とつけた 菊池を God-father にしたのだ 赤ん坊が出來ると人間は妙に腰が据るね 赤ん坊の出來ない内は一人前の人間ぢやないね 經驗の上では片羽の人間だね 大きな男の子で目方は今月十日生れだがもう一貫三百目ある 今ふと思ひ出したから書くがこの前君が東京へ來た時一しよに「鉢の木」で飯を食つたらう その時不二子さんの御亭主に遇つたらう あの御亭主の大學生は甚感じが惡るかつた あくる日の午過ぎ頃まで僕を不快にした こんな事を書いちや惡いかも知れないがほんたうだから申し上げる 久保正夫の講師は好いね 世の中はさう云ふものだ さう云ふものだから腹を立てる必要はない 同時にさう云ふものだと云つて詮め[やぶちゃん注:「あきらめ」。]切る必要もなささうだ 僕はこの頃になつてやつと active serenity の境に達しかけてゐる もう少し成佛すると好い小說も書けるし人間も向上するのだが遺憾ながらまだ其處まで行かない 相不變女には好く惚れる 惚れてゐないと寂しいのだね 惚れながらつくづく考へる事は惚れる本能が煩惱卽菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと向上卽墮落の因緣だと云ふ事だよ 理屈で云へば平凡だがしみじみさう思ひ當る所まで行くと妙に自分を大切にする氣が出て來る 實際惚れるばかりでなく人間の欲望は皆殺人劍活人劍だ 菊池は追々藝術家を癈業してソオシアリストの店を出しさうだ 元來さう云ふ人間なんだから仕方がないと思つてゐる但しこの仕方がないと云ふ意味は實に困つてゐると云ふ次第ぢやない 當に然る可しと云ふ事だよ むやみに長くなつたからこの邊で切り上げる

     近作二三

   白桃は沾(うる)み緋桃は煙りけり

   晝見ゆる星うらうらと霞かな

   春の夜や小暗き風呂に沈み居る

奧さん――と云ふより雅子さんと云ふ方が親しい氣がするが――によろしく さやうなら

    四月廿七日     一人の子の父

   二人の子の父樣 梧右

二伸 僕の信用し難き人間を報告する(但し作物その他には相當に敬意を表する事もないではないが)

福田德三、賀川豐彥 堺枯川、生田長江 倉田百三 和田三造 鈴木文治などと云ふ奴は大泥坊だね 福田德三は小泥坊、

實際ソオシアリストも人亂しだ 武者小路なぞは其處へ行くと嬉しい氣がする但しその御弟子は皆嫌ひ

 

[やぶちゃん注:最後の「二伸」は底本では全体が二字下げ。そこに不規則に打たれる読点はママである。

国立国会図書館デジタルコレクションで同志社大學敎授恒藤恭「批判的法律哲學の研究」

(大正一〇(一九二一)年内外出版刊)が読めるが、或いはこの中に芥川龍之介が読んだ論文が含まれているかも知れない。

「本がまだ屆かない由……」一月二十四日に春陽堂から刊行した第四作品集「影燈籠」のことであろう。

「素戔嗚の尊」大正九(一九二〇)年三月三十日に『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に連載を開始し、前者は六月六日で、後者は六月七日で終わった「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」。その後、全四十五回の前半四十五回分(恒藤が感心したのはその頭の部分となる)は芥川龍之介は単行本に収録せず、後半のたった十回分を「老いたる素戔嗚尊」と改題し、そのコーダ部分を大幅に書き直して第六作品集「春服」(大正十二年五月十二日春陽堂刊)に収録した。個人的には、この作品は私は好きである。「青空文庫」で「素戔嗚尊」(但し、新字新仮名)と、改稿版「老いたる素戔嗚尊」(但し、新字旧仮名)が読める。

「秋」大正九年四月発行の『中央公論』に初出。素材提供者は龍之介の不倫相手秀しげ子であった。研究者の評価は頗る高く、関口安義氏が『短編作家芥川龍之介が、自己の特色を最大限に発揮した小説であったとしてよい』(平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」)と述べておられるほどである。しかし私は告白する。大学四年の一九七八年十月、入手した芥川龍之介全集の全巻通読をした際、芥川龍之介の小説の中で、ただ一篇、退屈で、途中から読むのがいやになりかけた唯一無二の作品である。

「去る二十一日僕の弟の母が腹膜炎でなくなつた」「弟」は新原得二、「弟の母」は芥川龍之介の実母フクの妹で、龍之介の叔母にして継母に当たる、実父新原敏三の後妻フユ。この年の五月二十一日に亡くなった。享年五十七であった。

「藏六」藤岡蔵六。既出既注

「片羽」ママ。差別用語の「かたは(かたわ)」のそれは「片端」である。

「一貫三百目」四キロ八百七十五グラム。これは現在の標準体重から見ても太り過ぎである。

「不二子さんの御亭主」ウィキの恒藤恭の妻の父「恒藤規隆を見ると、規隆には『庶子としてフジ』がおり、『フジは男爵有馬純長と婚姻し』たとある。

「久保正夫」(明治二七(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)は芥川龍之介の一高・東帝大の後輩。既出既注だが、再掲する。大学では哲学を専攻し、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)講師となった。「フィヒテの哲学」などの翻訳で知られ、聖フランチェスコの関連書を多く訳し、友人であった劇作家の倉田百三とともに、大正時代の宗教文学ブームの先駆けを作った人物として知られる。恒藤も一高時代に知っていた。彼が、第三高等学校講師になったことを恒藤が龍之介に前便で知らせたのであろう。

「active serenity」能動的平静。活発なる沈着。

「相不變女には好く惚れる 惚れてゐないと寂しいのだね 惚れながらつくづく考へる事は惚れる本能が煩惱卽菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと向上卽墮落の因緣だと云ふ事だよ」「煩惱卽菩提」は芥川龍之介の宿命的に愛した公案である。この惚れた相手は、まず、肉体関係まで進行してしまった秀しげ子を第一としてよいだろう。しかし、それ以外にも、じつはちらほらしている。どうしても挙げておく必要があるのは、平松麻素子(ますこ)である。平松麻素子(明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)は戸籍上の名は「ます」で高輪の生まれ。芥川龍之介の妻文の幼馴染みで、文より二歳年下、龍之介より六歳年下であった。父平松福三郎は弁護士・公証人で、有楽町に法律事務所兼ねた公証人役場を営業していたが、大正八(一九一九)年に職を投げ打ち、出口王仁三郎の大本教に入信、東京支部長となった。麻素子は若くして結核に罹患、東京女学館を卒業後は家事手伝いをし、病気もあって婚期を逸していた。当初は、大正九(一九二〇)年三月頃、「秋」の執筆に際して、当時の女性の風俗を龍之介に解説して貰うために文自身が龍之介に紹介した女性である(芥川文述・中野妙子記「追想 芥川龍之介」(一九七五年筑摩書房刊)に拠る)。関東大震災で高輪に家を焼け出された平松一家は、一時、福三郎の長兄の住む田端に身を寄せたことなどから、近くの芥川家との訪問が頻繁となり、龍之介の晩年には文が龍之介の疲弊した神経を慰めて呉れるであろうこと、及び、彼の自殺を監視させる目的をも暗に含んで、龍之介との交際を文も勧めていたようである。父の縁で晩年の芥川の仕事場として、帝国ホテルを斡旋したのも彼女とされる。そして、彼女の出現をここで語っておかなくてはならないのは、二人は芥川龍之介が自死する昭和二年四月七日と五月下旬(或いは上旬ともされる)に二度の心中未遂事件を起こした時の相手であったからである。なお、彼女は戦後になって結核が悪化し、国立武蔵療養所に入院したが、ほどなく逝去した。

「ソオシアリスト」socialist。本来は「社会主義者」の意であるが、ここは、後の文藝春秋社創立に見るような、社会的事業家の意で用いている。

「福田德三」(明治七(一八七四)年~昭和五(一九三〇)年)は経済学者。東京神田生まれ。母がクリスチャンであったため、十二歳で洗礼を受けた。私立東京英語学校などを経て、高等商業学校(後の東京高等商業学校、現在の一橋大学)に入学、学生時代、東京の貧民窟(スラム)での伝道活動に参加し、明治二七(一八九四)年に同校を卒業し、神戸商業学校(現在の兵庫県立神戸商業高等学校)教諭となったが、翌年、教諭の職を辞して、再び高等商業学校の研究科に入学二年後に卒業後、翌明治三一(一八九八)年から文部省から命ぜられて、ドイツのライプツィヒ大学やミュンヘン大学に留学、一九〇〇年にミュンヘン大学で博士号を取得した。社会政策学派・新歴史学派として経済理論・経済史などを導入した。東京商科大学(現一橋大学)教授・慶應義塾教授・フランス学士院文科部外国会員などを歴任した。レジオン・ドヌール(L'ordre national de la légion d'honneur)勲章も受章している(当該ウィキに拠った)。

「賀川豐彥」(かがわとよひこ 明治二一(一八八八)年~昭和三五(一九六〇)年)はキリスト教社会運動家。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は「現代の三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称された。兵庫県神戸市生まれ。回漕業者賀川純一と徳島で芸妓をしていた菅生かめの子として生まれた。四歳の時に相次いで父母と死別し、姉とともに徳島の本家に引き取られる。徳島では血の繋がらない父の本妻と祖母に育てられたが、「妾の子」と周囲から陰口を言われるなど、孤独な幼年期を過ごした。兄の放蕩により十五歳の時に賀川家は破産、叔父の森六兵衛の家に移った。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)に通っていた明治三七(一九〇四)年、日本基督教会徳島教会にて南長老ミッションの宣教師H・W・マヤスより受洗、伝道者を志し、明治三八(一九〇五)年に明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の明治四〇(一九〇七)年、新設の神戸神学校(後の中央神学校)に入学する。そこを卒業後、さまざまな下層階級と生活を共にし、結婚した。結核に苦しまされたが、大正三(一九一四)年には渡米し、アメリカの社会事業、労働運動を垣間見つつ、プリンストン大学・プリンストン神学校に学んだ。大正六年に帰国すると、神戸のスラムに戻り、無料巡回診療を始め、また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる友愛会に接触し、大正八年に友愛会関西労働同盟会を結成して理事長となった。また同年には日本基督教会で念願の牧師の資格を得た。この大正九年には自伝的小説「死線を越えて」を出版、わずか一年で百万部超という一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。その後もベストセラー作家として、「一粒の麦」「空中征服」「乳と蜜の流るゝ郷」など、数々の小説を発表、これらの原稿料や莫大な印税は、殆んど、彼が関与した社会運動のために投じられた。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て、現在の日本最大の生協「コープこうべ」)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。また、キリスト教系業界紙『キリスト新聞』(キリスト新聞社発行)を立ち上げてもいる(当該ウィキに拠った)。

「堺枯川」知られた社会主義者にして作家でもあった堺利彦(明治三(一八七一)年~昭和八(一九三三)年)の号(「こせん」と読む)。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「生田長江」(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)は評論家・翻訳家。本名は弘治(ひろはる)。鳥取県の生まれ。仏教に信仰心厚い生家の影響を受けたが、若き日、キリスト教にも接近し、洗礼も受けた。明治三九(一九〇六)年東京帝大哲学科を卒業、在学時より同級の森田草平らと回覧雑誌を出し、馬場孤蝶に師事。雑誌『芸苑』に「小栗風葉論」(明治三九(一九〇六)年)を書いて注目された。与謝野晶子とも知遇を得て、「閨秀文学会」を作り、その聴講者に平塚らいてう等がおり、そこから『青鞜』が生まれた。この頃、佐藤春夫も長江に師事している。また、ニーチェの翻訳に没頭し、「ツァラトゥストラ」(明治四四(一九一一)年)などを刊行。ダヌンツィオ「死の勝利」(大正二(一九一三)年)、マルクス「資本論」(大正八(一九一九)年に第一部のみ刊行)、ダンテ「神曲」(昭和四(一九二九)年)などを訳出している。一方、作家論集「最近の小説家」(明治四五(一九一二)年)なども刊行、「自然主義前派の跳梁」(大正五(一九一六)年)は『白樺』派批判の論文として知られる。その後は宗教性を根底に置き、東洋回帰の論調をみせた。ハンセン病に罹患しており、後年には容貌が変容し、失明もしたが、活動は衰えなかった(主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「和田三造」(明治一六(一八八三)年~昭和四二(一九六七)年)は洋画家・版画家。

旧朽木藩御典医を勤めた父の四男として兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)に生まれた。兄が大牟田市の鉱山業に従事したため、十三の時に一家をあげて福岡市に転居、翌明治三〇(一八九七)年に福岡県立尋常中学修猷館に進学したが、明治三十二年に画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京して、黒田清輝邸の住み込み書生となり、白馬会洋画研究所に入所して黒田清輝に師事した。明治三四(一九〇一)年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学した。青木繁・熊谷守一らと同期であった。代表作は明治四〇(一九〇七)年第一回文展に出品した「南風(なんぷう)」。

「鈴木文治」(ぶんじ 明治一八(一八八五)年~昭和二一(一九四六)年)は政治家・労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在とされる人物。詳しくは当該ウィキを見られたい。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (6ー2) 三比事に書かれた特種の犯罪方法 二

 

        

 

 前にも述べたごとく、三比事の中には、これといふ目新らしい犯罪方法は描かれて居ないけれど、他人の迷信を利用する犯罪以外に多少注意すべきものもないではないから、二三その例をあげて置かうと思ふ。

 隱顯インキを利用して手形に署名し、その手形を無效ならしめることは、一寸考へると比較的新らしい犯罪のやうに考へられるが、櫻陰此事の中には、『手形は消えても、正直が立つ』と題して次の物語がある。[やぶちゃん注:以下、引用は、底本では全体が一字下げ。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本ではここ。]

 『昔、都の町に北國《ほつこく》の買問屋《かひどひや》[やぶちゃん注:北陸方面の物産を専門に買いつける問屋。]して、六角通ひに手前宜《よろし》きあり、親の代よろり懇《ねんごろ》せし方へ銀子五貨貫目貸して預り手形取置かれ、年々斷りにまかせて八年相待ち、其《その》大節季[やぶちゃん注:大晦日。]に入用《いりよう》とて人遣はしけるに、手形持たせて御越しあるべし、銀子返進《へんしん》と申せば、右の手形箱を開けて内見するに、これ白紙となつて不思議晴れ難し、あまたり證文吟味いたせしに外の 別條なし、何とも思案に及ばず、潜かに此段を貸したる方へ申せしに、いづれ其銀子は濟《すま》したやうに覺えたり、何分にしても手形無くでは不埒と、其後はいよいよ相濟 したに極めて、結句貸方の人惡く沙汰せられて、世上に外分失ひ、爰に堪忍なり難く、銀子の損は格別、せめて我正直を知せたき願ひ、ありの儘に書付け申上ぐれば、兩方召出され、先づ町の者に兩人が身代のほどを御尋ね遊ばしける、財寶かけて八百貫目をさして相違御座なく候と申上ぐる、又借《かり》申す方は三十貫目ばかりと、見及びの程、ありていに申上ぐる、然《しか》れば此銀子は借りたには紛れ無し、譬ひ手形は白紙になるとも銀は屹度相濟《すま》すべく、おのれ恐ろしき所存《しよぞん》世の仕置きものなれども、相渡せば仔細なしと仰せ出されし時、何とも御返答あり雖く、銀子相立て申す御請合《》うけあひ申上ぐる、其後《そののち》貸方のものを近う召され、定めて此手形はあの者が宿より書調《かきととの》へ持參いたしたかと御意のありしに、仰せの通り私宅《したく》より認《したた》め參りし、印判は見覺え別條無く存ず[やぶちゃん注:「存じ」の誤り。]請取置き候段々申上ぐる、重ねては眼前にて書かせ商賣の事まで念を入るべし、都にもあの如くなる惡人あり、此度《このたび》の手形は豫《かね》て拵らへたるものなり、鳥賊《いか》の黑みに粉糊《このり》[やぶちゃん注:飯粒で作った糊。]を磨交《すりま》ぜて書けるものは、三年過ぐれば白紙になるといふ事本草に見えたり、まさしくこれなるべしと仰せけるとなり。』

 鳥賊の黑みが果してかやうな性質を持つて居るかどうかは、私自身實驗して見たことがないからわからねが、ヨードの極少量を糊汁にまぜた靑い液で文字を書けば、空氣中では、日ならずして消えてしまふ。數年前、ロンドンである男が競馬の賭にこの液を用ゐて逮捕された話がある。彼は紙片にこの液でものもを書いて先方へ渡し、それと同時に、書いた當座は見えないて、後になつてあらはれる液を以て別の馬の名を書いて置いたため、先方のものが日を經てその紙片を見ると、別のものもがあらはれ、賭金を詐取せられたといふのである。 quinoline blue の如き色素で書いた文字も、日光にさらせば消失するから、時折犯罪の目的に使用されるといはれて居る。[やぶちゃん注:「鳥賊《いか》の黑みに……」明治書院平成五(一九九三)年刊の「対訳西鶴全集」第十一巻「本朝櫻陰比事」の注に、『烏賊のくろみに粉のりを摺まぜて書置ば、三年以後には白紙になる物也。本草にみへたり。手形証文先より認〈したため〉きたらば、それをもちゆる事なかれ、おそるべし(男女御土産重宝記)』とある。同書は「なんにょおんみやげちょうほうき」(現代仮名遣)と読み、江戸中期に書かれた(作者未詳)生活マニュアル本の一つ。「イカ墨で文字を書くと消える」というのは都市伝説として古くからあり、今も信じている人が多いが、全くのデマである。「quinoline blue」キノリン・ブルー。シアニン(cyanine)とも呼び、ポリメチンに属する合成染料。初めて合成されたのは百年ほど前。]

 大岡政談を讀れた人は、『三方一兩損』といふ話を記憶して居られるだらうと思ふ。ある男が三兩の金を拾つて特主に返さうとすると、持主は、拾つたものはお前のものだから受取らぬといひ、拾ひ主は、金は持主のものだからどうしても受取れといふ。やがて、受取れ、いや受取らぬ、と爭ひ出して終に大岡越前守の裁判となり、越前守は自分で一兩を出して四兩となし、それを二分して二兩づつ二人に與へ、落し主もつまり一兩の損、拾ひ主も一兩の損、自分も一兩の損だと目出度くさばいたといふ話である。この話は多分、櫻陰比事の物語『落とし手あり拾ひ手あり』の話を燒き直したのだらうと思はれるが、櫻陰比事では、これが一種の犯罪の手段に用ゐられようとしてあるだけ、大岡政談よりも却つて一層面白いやうに思はれる。[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「大岡政談」のそれはここ。まずはそれを読まれてからの方がいい。以下、底本では同じく全体が一字下げ。以下は、国立国会図書館デジタルコレクションのここ。]

『昔、都の町はづれより加茂川の岸傳ひに北山へ歸る老人あり、折ふし十二月二十八日の夕暮、世間は春の事ども取急ぎ心忙《せは》しき今日《けふ》も、御堂《みだう》下向の道芝《みちしば》[やぶちゃん注:帰り道にあった芝草。]に、紙包見えけるを拾ひ上ぐれば、小判三兩と書付けあり、いかなる人の節季をしまふ心當《こころあて》[やぶちゃん注:大晦日の支払いに用意した大事な頼りとするもの。]にもやと、跡先見しに往來もなく、遙かの松蔭に柴賣《しばうり》と見えし人の立休むに追付き、其方はこれを遺失《おと》しはせぬかといへば、いかにも我等遺失したれども、其方の手に入るからはそなたのものといふ、これは近頃迷惑なる申され分なり、たとひ此主《ぬし》の無きとて取つては歸らじ、況《ま》して主ある金子を取りて歸るべさかと、其者に渡せば、拾ひし者に返しぬ、投げ遣れぱ投付《はふり》け、暫時《しばらく》此論やむ事なし、後には黑木賣《くろきうり》、牛使ひ立どまりて、今の世には例《ためし》なき事ぞと、兩人の志《こころざし》を感じける、いよいよ互に道を立て[やぶちゃん注:互いの言い分を頑固に押し通そうとして。]、此小判納まり所無く、とかく此論、下《した》に濟み難く、兩人御前へ罷出て、右の段々申し上ぐれば、當番の役人衆聞給ひて前代に無き事、これは都の今聖人《いませいじん》なるべしと、此段御取決[やぶちゃん注:「取次」の誤植であろう。]申上げらる、折ふし、御前には御氣色惡く、前後に京中の醫者衆相詰められける、時に御名代の家老職を召され、知慧だめしに此裁判を仰付けられしに、ここをを大事と思案して、其拾ひし三兩の小判を出させ、御前の小判三兩合せて六兩を取りませ、三所に置きて、先づ遺失したるものに二兩渡して一兩の損なり、又拾ふたるもの二兩取ればこれも一兩の損なり、御前の金も一兩御失墜[やぶちゃん注:浪費。]なり、兩方ともに罷立てと申付けられけるを、いづれも發明なるさばきなりとこれを感じ、これを御耳に立つるになかなか御同心無く、其方どもが氣の着け所相違なり、此二人内談にて斯く取結びし作りものなり、其仔細は拾ひしもの其主と論に及ばず、捨てやうはさまざまありしに、こゝに出でける所第一の聞《きき》[やぶちゃん注:「聞き所」の脱字か。注意して聞くべき不審な部分。]なり、正直者と都に顏を見知らせ、末々人をかたりの巧みせしには違《ちが》ふまじ、其二人呼返せと又御前に召出だされ、右の段、仰せ渡され、ありの儘に白狀申さぬに於ては拷問と、嚴しく御詮議かゝれば、山家《やまが》のもの驚き、あの者に賴まれ、何心もなく言含め候通りに、拾ひ手に罷成り爭ひ候と申上ぐる、されば惡事は遺失手めが巧みなり、見分《けんぶん》[やぶちゃん注:見たところは。]家に杖つく年齡して無用の心根仕置にもすべきなれども、おのれが身の上ばかり他に障らぬ事なれば、洛外までも拂ふべし、又賴まれし者めは久しく住所の鞍馬に近き麓里《ふもと(の)さと》を拂ひ給けるとなり。』

 如何に正直てあつても、拾つたものを返す、受取らぬで裁判所にまで出るはをかしい、これは正直であるといふことを世間へ知らせる手段にちがひないと睨んだ『御前』の眼力は、大岡政談の中にあらはれる『越前守』のそれよりも遙かに鋭いといはねばならない。探偵小說として二つを比較して見ても、三方一兩損で結末をつけるより、將來の犯罪の手段だと解決した方が一層の興味があると思ふ。[やぶちゃん注:不木の見解を大いに支持する。大岡の「三方一両損」は、私はもともと胡散臭い話として嫌いだった。但し、明治書院版の注によれば、これにも原拠があり、「板倉政要」の七の十四「聖人公事例」であるとある。]

 この外、櫻陰比事には、『あぶないものは筆の命毛《いのちげ》』と題して、馴染の女郞を棺桶の中に入れ、取人《とりにん》[やぶちゃん注:遺体の引き取り人の意であろう。原話では大門の番人は廓内の老婆の死体と勘違いしている。]として嚴しい門番の眼をくらませて連れ出す話があり、鎌倉比事には、『智慧の左繩』と題して、人を毆打して過《あやま》つて殺した死體を、自ら縊死したやうに見せかける話があり、藤陰比事には、『不審を肩に知る木割《きわり》の木工平《もくへい》』と題し、他人の女房を盜むために、頓死した女の首を切り落して胴體だけを亭主の家に殘し置き、女房が何ものかに殺されたやうに見せかけ、女房を我家へかくまひ置く話があるが、いづれも、さほど奇拔なものではなく、ことに、この藤陰比事の物語は支那の棠陰比事の話を燒直したものらしい。

[やぶちゃん注:「隱顯」(いんけん)「インキ」「不可視インク」或いは「隠顕インク」とは塗った時点、若しくは少し時間をおいた後に見えなくなる物質を使ったインクで、時に特定の処理を施すことによって可視化されるものを言う。当該ウィキによれば、『ステガノグラフィー』(steganography。中国語「隠写術」。情報隠蔽技術の一つで、情報を他の情報に埋め込む技術のこと、或いはその研究を指す。暗号(cryptography)が平文の内容を読めなくする手段を提供するのに対して、ステガノグラフィーは存在自体を隠す点が異なる。ギリシア語で「無口」を意味する(ラテン文字転写:steganos)と、ラテン語の「画法・記述した物」の意の接尾辞 -graphia に由来する)『の一種としてスパイによっても利用されてきた。他にも情報の標識、再入場を防止する押印、製品の同定のための印などに用いられる』。『日本においては忍者が方法・術を記録に残しており』、「甲賀流武術秘伝」の中の『「白文文法」に、「大豆を細かく刻んで水に浸し、その汁で紙に書き、または酒で書いて、日に干し、読む時は鍋炭をふりかけ、炭が無い時は、水火灰の当座書にして、封せずして、主将より忍者に与う」、「水は鉄汁、火は灯芯、灰は大豆汁や唐荏の実」と記述されている』という。「関東古戦録」巻三の『「武州松山城の攻防」において』、永禄四(一五六一)年十二月『上旬に、敵が松山城付近に陣を置き、忍びでも抜けられない大軍で包囲したため、太田資正(原文は三楽斎)が訓練を積ませた』五『匹の足の速いイヌ(城から岩築までの』三十『里を往復させていた)に封を入れた竹筒を首に結び付け、夜に出した逸話があるが、この密書は「水に浸すと文字が浮き出る」仕組みになっていたと記述される』。『「不可視の文字」という点のみであれば、特殊な事例として』、「日本書紀」の』敏達天皇元(五七三)年五月の『条に、高麗国使がカラスの羽に上表文を書いたものを持ってきたが、黒くて読めなかったため、これを炊飯の湯気で蒸し、柔らかい上等な絹布に羽を押し付け、字を写し取った話が記述されており、史実かは別として、この逸話は後代にまで日本国内で伝えられ』、「続日本紀」の延暦九(七九〇)年七月十七日の条にも同『話の引用が見られる。この場合、墨と同じ色のものに書くことによって、不可視にしている』。『不可視インクは、万年筆、爪楊枝、綿棒などを使うか、あるいは指を浸してそのまま塗りつけるなどして使用される。塗布し、乾燥したあとは無色となって周りの質感と見分けがつかないようになる』。『単なる白紙では秘密のメッセージが隠されているのではないかという疑念を抱かせる可能性があるため、見えなくなった文を補うための文章を付けたす必要がある』。『可視化する方法は用いた不可視インクの種類によって異なるが、加熱、薬品による化学反応、紫外線などがある。このうち化学反応としては、一般的に青写真の製造過程と類似した酸塩基反応を用いる。展開液はスプレーを用いて吹き付けるが、フェノールフタレインインクを発色させるアンモニアのように、蒸気のものもある』とある。以下、現代のそれは略す。

「あぶないものは筆の命毛」は国立国会図書館デジタルコレクションのここから活字本が読める。

「鎌倉比事」「智慧の左繩」は国立国会図書館デジタルコレクションのここから影印本が読める。

「藤陰比事」「不審を肩に知る木割の木工平」は本書に先立つ小酒井不木の「趣味の探偵談」(大正一四(一九二五)年黎明社刊)の中に既に取り上げて、原文を活字化しており、幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションに同書があったので、ここでは当該部箇所をリンクさせておく。

「この藤陰比事の物語は支那の棠陰比事の話を燒直したものらしい」上記リンク先の前に、「首無し死體」としてシノプシスが紹介されてあるのが、それ。「從事函首」である。「中國哲學書電子化計劃」のこちらから原文影印が読める。]

日本山海名産図会 第二巻 蜂蜜・蜜蝋(みつらう)・會津蝋(あいづらう)

 

Kumanohatimitu

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「熊野蜂蜜(くまのはちみつ)」。「蜜」の字は以下の本文でも、この(グリフィスウィキ)異体字である。ちょっと形が異様ではあるのだが、右上に三種の蜂の図を描いてあるのが、いい。また、絵の中の藁葺屋根の棟に猫が寝転んでいるのも、いい。絵師蔀関月のセンスはただものではない。]

 

  ○蜂蜜一名「百花精(ひやくくわせい)」・「百芲蕊(ひやくくわずゐ)」

○凡そ、蜜を釀(かも)する所、諸國、皆、有り。中にも紀刕熊野を第一とす。藝州、是れに亞(つ)ぐ。其外、勢州・尾州・圡州・石州・筑前・伊豫・丹波・丹後・出雲などに、昔より、出だせり。又、舶來の蜜あり、下品なり。是れは、砂糖、又、白砂糖にて製す。是れを試るに、和產の物は、煎(せん)ずれば、蜂、おのづから、聚(あつま)り、舶來の物は、聚まることなく、此れをもつて、知る。○蜜は、夏月(なつ)、蜂の脾(す)の中(うち)に貯へて、己(おの)が冬籠りの食物(しよくもつ)とせんがためなり。一種、人家に自然に脾を結び、其の中(なか)に貯はふ物を「山蜜(やまみつ)」といふ。又、大樹の洞中(たうちう)に脾を結び、貯はふを、「木蜜(きみつ)」といふ。以上、熊野にては「山蜜」といひて、上品とす。又、巖石間中(いわほのうち)に貯はふ物を「石蜜(せきみつ)」と云ふ。また、家に養(か)うて採る蜜は、毎年、脾を采り去る故に、氣味、薄く、これを「家蜜(かみつ)」といふ。脾を炎天に乾かし、下に器(うつは)を承(う)けて、解け流るる物を、「たれ蜜」といひて、上品なり。漢名「生蜜(せうみつ)」【一法、槽(おけ)に入れて、火を以つて、焚きて取るなり。但し、火氣の文武(ふんふ)の毫厘(かうり)の間(あひだ)を候(うかゞ)ふこと、大事あり。】。又、脾を取り潰し、蜂の子ともに、硏(す)り水を入れ、煎じて、絞り採るを、「絞り」といふ【漢名「熟蜜」。】。凡そ、蜜に、定まる色、なし。皆、方角の花の性(せい)によりて、數色(すしよく)に變ず。

○畜家蜂(いへにやしのふはち)【漢名「花賊(くはそく)」・「蜜宦(みつくわん)」・「王腰奴(わうようと)」・「花媒(くははい)」。】

家に畜(やしな)はんと欲(ほつ)すれば、先づ、桶にても、箱にても、作り、其の中に酒・砂糖・水などを沃(そゝ)ぎ、蓋(ふた)に孔(あな)を多くあけて、大樹の洞中(とうちう)に結びし窠(す)の傍(かたはら)に置けば、蜂、おのづから、其の中へ移るを、持ち歸りて蓋を更ためて、簷端(のき)、或ひは、牖下(まと)に懸け置くなり。此の箱・桶の大きさに、規矩あり。されども、諸刕、等しからず。先づ、九刕邉(へん)一家の法を聞くに、箱なれば、九寸四方・竪(たて)二尺九寸[やぶちゃん注:約八十九センチメートル。]にして、これを竪に掛くるなり。あるいは、斜横(ななめよこ)と、畜(やしな)ふ家の考へあり。その箱の材(き)は、香(か)のある物を忌みて、かならず、松の古木を用ひ、これまた、鋸(のこぎり)のみにて、鉋(かんな)に削ることを、忌む。板の厚さ、四步[やぶちゃん注:一・二センチメートル。]斗、両方の耳を、隨分、かたく造り、つよく縄をかけざれば、後には、甚だ重くなりて、おのづから落ち損ずることあり。戸は上下二枚にして、下の戶の上に、一步八厘[やぶちゃん注:五・四ミリメートル。]・横四寸ばかりの隙穴(ひまあな)を開(ひら)きて、蜂の出入りの口とす。若し、一、二厘も廣く開くれば、山蜂(やまはち)など、隙より窺ひて、大きに蜜蜂を擾亂す。又、大王の出づるにも、此の穴よりして、凡そ、小(ちい)さき物なり。箱の數(かず)は、家毎(いへごと)に、三、四を限りて、其の余(よ)は、隣家の軒を、往々、借りて畜なふ。

○造脾(すをつくる)     尋常(よのつね)の房(す)の鐘(つりかね)の如き物にあらず。穴も、下に向ふことなく、只、箱、一(いつ)はゐ[やぶちゃん注:いっぱい。]に造り、穴は横に向かふて、人家の鳩の家の如し。先づ、箱の内の上より、半月(はんげつ)のごとき物を造りはじめ、繼いで、下(した)一はひ・兩脇共に、盈(みた)しむ。其の厚さ、凡そ一寸八步、或いは、二寸ばかり。両面より、六角の孔、數多(あまた)を開き、柘榴(ざくろ)の膜(まく)に似て、孔、深き。八、九步、是くのごとき物を、幾重(いくえ)も製(つく)りて、其の脾と脾との間(あひだ)、纔か、人の指の通る程宛(ほどつゝ)の隙(ひま)あり。蜂、其の隙に入るには、下より潛(くゝる)なり。全躰、脾を、下迄は盈(みた)さずあればなり。脾の形或は、正面、或は、横斜(よこななめ)などにて、大抵、同じ其の孔には、子を生み、又、蜜を貯へ、又、子の食物の花を貯はふ。又、子、成育して飛んで出入(でいり)するに及べば、其の跡の孔へも、亦、蜜を貯はふ。凡そ、蜜、はじめは、甚だ、淡(あは)しき露(つゆ)なり。吐き積んで、日を經れば、甘芳(かんはう)、日毎に進むこと、實(まこと)に人の酒を釀(かも)するに等し。既に露(つゆ)、孔に盈(みつ)る時、其の表を閉ぢて、一滴一氣を漏らすことなく、蜂の數(かず)多ければ、氣味も厚し。

○蜂は、小なり。大きさ、五步(こふ)計り。マルハチに似て、黄に黑色(こくしよく)を帶ぶ。多く群(あつま)りて、花をとる物は、巢を造(つくら)ず、巢を造ものは花を採らず。時々、入れ替りて、其の役を、あらたむ。夫(そ)れが中に「蜂王(だいわう)」といひて、大きなる蜂一つあり。其王の居所(いどころ)は、黑蜂(くろはち)の巢の下(した)に一臺(いつたい)をかまふ。是を「臺(うてな)」といふ。その王の子は、世々(よゝ)繼きて王となりて、元より、花を採ることなく、毎日、群蜂(くんはう)、輪値(かはりはん)[やぶちゃん注:「替わり番」。かわりばんこ。]に、花を採りて、王に供(くう)す。是れ、一桶に一个(ひとつ)のみなるに、子を產むこと、雌雄ある物に同じ道理においては、希異(きい)なり。群蜂、是れに從侍(じうじ)すること、實(まこと)に玉體に向かふがごとし。又、黒蜂、十斗りありて、是れを「細工人(さいくにん)」と呼ぶ。孔口(あなくち)を守りて、衆蜂(しうはう)の出入(でいり)を檢(あら)ため、若し、花を持たずして孔に入らんとするものあれば、其の懈怠(けだい)を責めて敢へて入ることを許さず。若し、再三に怠る者は、遂に螫(さ)し殺して、軍令を行ふに異(こと)ならず。凡そ、家にあるも、野にあるも、儀(ぎ)においては同じ。

○頒脾(すをわかつ)[やぶちゃん注:所謂、彼自身の「分蜂」を見極めて、それを助けつつ、人工的に飼養領域内に人工分蜂する手法の記載である。] 大王の子、成育に至れば、飛んで、孔を出づるに、群蜂、半(なかば)、從がふて、恰(あたか)も、天子の行幸(みゆき)のごとく、擁衞(ようゑい)、甚だ、嚴重なり。其の飛び行くこと、大抵、五間[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]より十間の程にして、木の枝に取り附けは、其の背、其の腹に、重なり、留りて、枝より垂たるごとく、一團に凝(こ)り集まり、大王、其の中(なか)に、楯(たて)のごとく、裏(つゝ)まる。畜なふ人、是れを逐(お)ふて、袋を群蜂の下に𣴎(う)けて 羽箒(はがばき)を以つて、枝の下を掃くがごとくに切り落せば、一團のまゝにて、其の袋中(たいちう)へ、おつる。其の音、至つて、重きがごとし【今、世、此の袋を籠にて作りて、衆蜂の気(き)を洩らさしむ。さなくては、蜂、死ること、多し。】。是れを用意の箱に移し、畜なふを、「脾わかれ」といふて、人の分家するに等し。若し、其の一團の袋へ落つるに、早く飛び放なる者ありて、大王の從行(じゆうぎやう)に洩れて、其の至る所を知らず。又、原(もと)の巢へ飛び歸る時は、衆蜂、敢へて孔に入ることを不許(ゆるさず)、爭ひ起こりて、是れを螫し殺し、其の不忠を正すに似たり。見る人、慙愧して歎淚(たんるい)を流せり。又。「八ツさはぎ」とて、晝八つ時には、衆蜂、不殘(のこらず)、桶の外に現はれて、稍(やゝ)羽根を鳴らすこと、あり。三月頃、蜂の分散する時、彼(か)の王、一群ごとの中(なか)に、必ず、一つ、あり。巢中(すちう)に、王、三つある時は、群飛(ぐんひ)も、三つにわかる。其の時、畜なふ人、水、沃ぎて、其の翅(つばさ)を濕(うるほ)せば、蜂、外へ、分散せず、皆、元の器中(きちう)へ還る故に、年々、畜なふ、といへり。

○割脾取蜜(しをきりてみつをとる)  是れを採るには、蕎麦(そは)の花の凋(しぼ)む時を、十分、甘芳(かんはう)の成熟とす。採らんと欲する時は、先づ、蓋を「ホトホト」叩けば、蜂、皆、脾の後に移る。其の巢の三分の二を切り採り、三分が一を殘せば、再び、其の巢を補ひ、原(もと)のごとし。かく採ること、幾度(いくたび)といふことなし。冬に至れば、脾ともに、煎じて、熟蜜とす。○一種、「圡蜂(ぢはち)」と云ひて、大(おゝき)さ五分ばかり、圡(つち)を深く穿ち、其の中(なか)に脾を結ぶ。是れにも蜜あり。南部、是れを「デツチスガリ」といふ。但し、スガリは蜜の古訓なり。「古今集」「離別」に、   ┌─すがるなく秋の萩原(をきはら)あさたちてたび行人(ゆくひと)をいつとかまたん   又、深山(みやま)崖石上(かいせきじやう)に自然のもの、數歲(すさい)を經て、已(すて)に熟する者あれば、圡人(としん)、長き竿をもつて、刺して、蜜を流し採る。或ひは、年を經ざるものも、板緣(ふちのふち)、取れり。凡そ、箱に畜なふもの、「絞り蜜」ともに、二十斤【百六十目一斤。】、蜜蝋(みつろう)二斤を得るなり。此二斤のあたひを以つて、桶・箱修造の費用に抵(あて)ゝ足(た)れり、とす。

 ○蜜蝋(みつらう) 一名「黄蜡(おうさく)」

是れ、黄蝋(わうろう)といふ物にて。即ち、蜂の脾(す)なり。其の脾を絞りたる滓(かす)なり。蜜より蝋を取るには、生蜜(たれみつ)を采(と)りたるに、後(のち)の巢を鍋に入れ、水にて煎じたる時、別の器に冷水を盛りて、其上に籃(いかき)を置き、かの煎じたるを移せば、滓(かす)は籃に留(とゞま)りて、蝋は、下の器の水面(すいめん)に浮かふ。夫を、又、陶器に入れて、重湯(ゆせん)とすれば、自然に結びて、「ろう」となるなり。又、熟蜜(なりみつ)をとる時、鍋にて沸せば、蜜は、上に浮かび、蝋は中に在り。脚(あし)は底にあり。是れを采り冷しても、自然に黄蝋に結ぶ。

 ○會津蝋(あいづらう)

「本草」、「蟲白蝋(ちうはくらう)」といひて、奧刕會津に採る蝋なり。是れはイボクラヒといふ虫を畜(やし)なふて、「水蝋樹(いぼた)」といふ木の上に放せば、自然に枝の間に蝋を生(せう)して、至つて、色白し。其の虫は、奧州にのみありて、他國になく、故に形を詳(つまび)らかにせず。今、他國に白蝋(はくらう)といふものは、𣾰(うるし)の樹などの蝋を暴(さら)したる白色なり。また、藥店(やくてん)にて、外療(くわいりやう)に用いる「白蝋」といふも、蜜蝋の暴したるにて、是れ又、眞(しん)にあらず。水蝋樹といふ木は、處々に多し。葉は忍冬(にんどう)に似て、小なり。夏は枝の末、ことに、小白花(せうはくくわ)を開らき、花(はな)の後(のち)、實(み)を生ず。熟して、色、黑く、鼡(ねづみ)の屎(くそ)のことく、冬は、葉、おつる。又、此の蝋を刀劔(たうけん)に塗れは、久しくして、鏽(さび)を生ぜず。又、疣(いぼ)に貼(つく)れば、自(おのづ)から落つる。故に「イホオトシ」の名あり。今、蝋屋(らうや)に售(う)る會津蝋といふ物、眞僞、おぼつかなし。

[やぶちゃん注:ここでの種は、昆虫綱膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属トウヨウミツバチ亜種ニホンミツバチ Apis cerana japonica である。私はこの「蜂蜜」パートについては、特に大仰な注を附す必然性を感じていない。それは、比較的近年の仕儀で、かなり注に拘った、

「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 蜜蜂」

があるからである。他にも、

「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(24:蜜蜂)」

や、純粋な博物学的なものとしては、

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 木蜂

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 露蜂房

もあるので、是非、先に目を通して戴ければ、幸いである。

「マルハチ」ミツバチ亜科或いはマルハナバチ亜科マルハナバチ族マルハナバチ属 Bombus のマルハナバチ類。当該ウィキを見ても、本邦在来種だけで二十二種を数える。なお、採取や採算に堪え得るかどうかは別として、基本的にはミツバチ科 Apidae の種群は蜜を作る。

「山蜂(やまはち)」細腰亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinae の肉食性のスズメバチ類の総称。

「蜂王(だいわう)」以下の叙述を見るに、「一桶に一个(ひとつ)のみなるに、子を產むこと、雌雄ある物に同じ道理においては、希異(きい)なり」と言っていることから、この蜂の「大王」が♀であることを、作者は正しく認識していることが判る。

『又、黒蜂、十斗りありて、是れを「細工人(さいくにん)」と呼ぶ。孔口(あなくち)を守りて、衆蜂(しうはう)の出入(でいり)を檢(あら)ため、若し、花を持たずして孔に入らんとするものあれば、其の懈怠(けだい)を責めて敢へて入ることを許さず。若し、再三に怠る者は、遂に螫(さ)し殺して、軍令を行ふに異(こと)ならず』スズメバチ等の脅威を監視する役が「働き蜂」の中におり、警戒していることは古くから知られているが、直ぐに原資料を示すことが出来ないが、かなり新しい専門家の記事で、さらに「働き蜂」の中には、花蜜を持ってきたかのような振りをして、実は手ぶらで戻ってくる怠け者が実際にいることを読んだ。それが監視されているかどうかは、定かではないが(高度な社会性昆虫であるからにはそうしたシステムがあってもおかしくはない。しかし、スズメバチの脅威の方が遙かに甚大であるから、そのような怠け者を監視し処罰するというシステムは構築され難いように思われる。なお、ご存知と思うが、数少ない女王蜂と交尾する数少ない♂蜂は後尾終了と同時に内臓が引き出されて死んでしまうはずである。

「今、世、此の袋を籠にて作りて、衆蜂の気(き)を洩らさしむ。さなくては、蜂、死ること、多し」彼らはスズメバチなどに集団でとりついてスズメバチを中心に巨大な蜂球(ほうきゅう)を形成することで高熱を発生させ、自身ら諸共に熱死させる手法をとるから、人工的に蜂のある程度の有意な集団の動きを強制的に束縛して密閉してしまうと、蜂球と同じ現象が自動的に始まり、蜂が死んでしまうことを言っているように思われる。「原(もと)の巢へ飛び歸る時は、衆蜂、敢へて孔に入ることを不許(ゆるさず)、爭ひ起こりて、是れを螫し殺し、其の不忠を正すに似たり」確認は出来ないが、これは事実であろうと思われる。分蜂が厳密に守られなければ、双方に死滅の危機が生まれるからである。

『「八ツさはぎ」とて、晝八つ時には、衆蜂、不殘(のこらず)、桶の外に現はれて、稍(やゝ)羽根を鳴らすこと、あり』これは「記憶飛行」と呼ばれる行動である。「山田養蜂場」公式サイト内のこちらに、『働き蜂は、羽化してからすぐに外で仕事をすることはできません。掃除や子育て、巣作り、はちみつの仕上げ、警備と続く巣内の仕事が終わって初めて、はちみつや花粉を集める外の仕事につくことができるのです』。『初めての巣の外に出かけるときは、記憶飛行(オリエンテーションフライト)という訓練から始まります。暖かく晴れた日に、お昼から午後』三『時頃まで』(「八ツ」は定時法で午後二時頃から三時頃に当たる)、『何百匹もの若いミツバチは巣箱から一斉に出てきて、巣箱の位置や周辺の景色を覚えるために、飛行訓練を行うことがあります。養蜂家が昔から「時さわぎ」と呼んでいるのは、この記憶飛行のことです。その姿をお昼ごはんを食べながら眺めるのが、私は好きです』。『よく観察すると、ミツバチは顔を巣箱の方向に向けながら数秒間ホバリング(空中で同じ場所に定まったまま飛んでいる状態)して、それから数』キロメートル『先まで飛んで行き、巣に戻ってきます。そんなことを繰り返しながら飛び方を学んでいきます。また巣の入り口には、お尻を外側に向けて持ち上げ、羽を震わせている働き蜂がいます。若いミツバチが迷子にならないように、お尻のあたりからフェロモンを分泌し、その臭いを風にのせて巣の入り口を教えているのです。まだまだ世間を知らない若いミツバチは、こうして先輩ミツバチに助けられながら巣立ちの準備をしていくのです』。『内勤の仕事が終わり、やっと外の仕事についても、実は外に出始めると寿命は驚くほど短くなります。夏の働き蜂の寿命は平均して』四十『日にも満たないほどですが、外出できない雨の日を除けば、実際に外で仕事をしているのは』十『日ほどしかありません。ツバメなどの鳥に食べられたり、カエルが待ち構えていたり、突然の雨に打たれたり、と外の世界には危険がいっぱい。たくさんの天敵が待ち構えています。私たちが食べているはちみつやローヤルゼリー、プロポリスはミツバチが命をかけて採っているといってもよいでしょう』。『ミツバチは普通』二キロメートル『くらいを行動半径としていますので、その範囲内に蜜源となる花が豊富にあれば、ミツバチを飼うことができます。つまり、養蜂という仕事は「空間農業」、「空中農業」と言い換えることができます』。『しかし近年、ミツバチが安心して暮らすことができる場所は、どんどん減ってきています。ミツバチの天敵はたくさんいますが、本当の天敵は環境破壊を行う人間なのかもしれません。ミツバチにとって豊かで快適な環境こそ、私たち人間にとっても一番良い環境なのではないでしょうか』とある。心の籠った説明に心打たれた。

「圡蜂(ぢはち)」「地蜂」は現行ではスズメバチ亜科クロスズメバチ属クロスズメバチVespula flaviceps を指し、彼は蜜を作らない。他に「土蜂」としてツチバチ科 Scoliidae の昆虫の総称であるが、ご存知の通り、彼らは「狩り蜂」の原始的なタイプで、やはり蜜は作らないので、ここは不審である。

『南部、是れを「デツチスガリ」といふ』これでも前の不審は晴れない。これも「狩り蜂」の一種のジガバチ科ツチスガリ属 Cerceris の昆虫の総称であり、この名は「丁稚」ではなく「出地」或いは「出土」で例えば、同種のツチスガリ Cerceris hortivaga に親和性がある。或いは、その形状から、「出っ尻」の縮約の可能性もあるように私には思われる。さらに作者の「スガリは蜜の古訓なり」というのも大嘘である。「すがり」は広義には一般に仙台に於ける蜂全般の古名や、東北全般・長野県・山梨県で食用にした腰のくびれたクロスズメバチ類の地域名・地方名である。小学館「日本国語大辞典」によれば、「すがり」は「蜾蠃」で、『昆虫「はち(蜂)」の異名』としつつ、引用例三種は総て仙台を出元ととする。同「方言」のパートでは、①で『こしぼそばち(腰細蜂)』として南部・仙台を、『すがりばち』として隠岐を、『すがれ』として長野を挙げ、②で『じばち(地蜂)』として長野県諏訪郡、『すがれ』として長野県上伊那郡を、③で『つちばち(土蜂)』として秋田、『しがり』として青森・岩手を、④で『蜂の一種』として仙台・福島・山梨を、⑤で『蜂』として盛岡・仙台・岩手・宮城を、⑥で『蜂の一種。陰湿を好み色黒く人の肌を刺すもの』として鹿児島・長崎・壱岐を、⑧(⑦がない)では『蟻』として宮崎・福岡・佐賀・長崎・五島・熊本・天草・福岡を挙げた上で『すがり』として長崎・鹿児島の採取地を示す。どこにも蜂蜜を指すとは、ない。

「古今集」「離別」「すがるなく秋の萩原(をきはら)あさたちてたび行人(ゆくひと)をいつとかまたん」「古今和歌集」巻第六「離別歌」の詠み人知らずの二首目(三六六番)であるが、「荻原」ではなく、「萩原」である。

 すがるなく秋の萩原(はぎはら)朝たちて

    旅行く人をいつとか待たむ

しかし、この場合の「すがる」は女性的な腰のくびれた美しい色をした「じがばち」(似我蜂:細腰亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini)とするのが定説である(既に「万葉集」に詠われている)が、中世の注では鹿の鳴き声とする。

――「すがる」の鳴く――その飛ぶ音がする――秋萩の茂る野を、朝に立って行かれる旅人を――『何時、お帰りになられるか』と、待つのでありまする……

なお、この歌は次(三六七番)の以下(無論、詠み人知らず)との相聞歌である。

 かぎりなき雲井のよそにわかるとも

    人を心におくらさむやは

――遙かなる雲居のあたり――そんな果てしなく遠く別な地へと別れるにしても――どうしてあなたを残して行くものか……私の心の中にしっかりと添わせて連れて行くよ……

である。相聞を分断する作者は、無風流なること、極まりない!

「二十斤【百六十目一斤。】」一斤は六百グラムであるから、「二十斤」は十二キログラム。一斤は「百六十」匁(もんめ)で、一匁は三・七五グラム。

「蜜蝋」はミツバチ(働きバチ)の巣を構成する蝋を精製したものを指す。蝋は働きバチの蝋分泌腺から分泌され、当初は透明であるが、巣を構成し、巣が使用されるにつれて花粉・プロポリス(propolis:ミツバチが木の芽・樹液・その他の植物源から集めた樹脂製混合物。「蜂(はち)ヤニ」とも呼ぶ。「プロポリス」という名は、もともとギリシャ語で、「プロ」は「前」や「守る(防御)」の意、「ポリス」は「都市」という意の合成語で、社会性昆虫である蜂が「都市(巣)を守る」という意味である。プロポリスは巣の隙間を埋める封止剤として使われている)・幼虫の繭、さらには排泄物などが付着していくため、蜜蝋以外のものが蜜蝋に混入することもある。精製法は太陽熱を利用する陽熱法と、加熱圧搾法とがあり、効率上は後者が優れる。融点は摂氏六十二~六十五度と高く、身近では化粧品の原料として用いられることが多い。色はミツバチが持ち運んだ花粉の色素の影響を受け、鮮黄色、乃至は黄土色を呈している。最大の用途はクリームや口紅などの原料で、パラフィン・ワックス製の蝋燭に融点を高める目的で混ぜられることも多い。パラフィン・ワックスが発明される以前の中世ヨーロッパでは、教会用蠟燭の原料として盛んに用いられた。養蜂業では、巣礎(そうそ)の材料とする。巣礎とはロウでできた板で、ミツバチはこの上に蜜蝋を盛り、巣房(ミツバチの巣を構成する六角形の小部屋)を構成してゆくのである。サラシミツロウ(white beeswax)は軟膏基剤や、整形外科手術などで切除した骨の断端に詰めるなどして医療用に使用される。また、花粉由来のビタミン類や鉄分・カルシウムなどのミネラル類、蜜蝋本来の脂溶性ビタミン類といった栄養成分が含まれているため、食用になり、洋菓子にも使用されている。かつてヨーロッパではバターが量産普及する以前、調理用油脂としても用いられた。また古くから中世にかけて蜂蜜の精製方法が普及されていない時期は、欧州・中東地域・中国周辺地域・アフリカ大陸・南北アメリカ大陸で、蜂蜜と巣を一緒に摂取するという形で常食されてきた。特にヨーロッパでは蜜蝋のままで高カロリーの飢救食物としても利用された(以上は主文を当該ウィキに拠った)。

「黄蜡(おうさく)」この「蜡」は「蠟(蝋)」に同じ。

「重湯(ゆせん)」湯煎(ゆせん)。

「脚(あし)」重い不純物の滓(おり)のことであろう。

「會津蝋(あいづらう)」福島県会津地方で産する蝋。イボタロウムシの分泌物が原料で上質。絵蠟燭を造るほか、医薬用・工業用とする。イボタロウムシは半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科イボタロウムシ Ericerus pela で、当該ウィキによれば、『北海道から沖縄県まで日本に広く分布するほか、朝鮮半島やヨーロッパにも生息する。冬眠中の雌成虫は体長』五『ミリメートルほどの楕円形で、成熟個体は直径』一『センチメートル程度の球形になる』。『日本の本州では』五『月下旬頃に産卵し』、六月から七月頃に『孵化する。幼虫はモクセイ科』Oleaceae『の樹木の枝に密集してロウ状の物質を分泌する。枝がロウ物質により白くなるため』、『落葉後に発見されることが多いが、樹木の生育への影響は小さい。ロウ物質は』嘗ては『薬用・工業用に用いられており、その採取を目的に養殖が行われたこともある』。古くは日本刀の手入れにも用いられた。『雄幼虫のロウ物質の構成成分を検査したところ、構成する成分はワックスエステルが』九十%『以上を占め、他に遊離高級アルコールや炭化水素が含まれていることが明らかになった。これはトリアシルグリセロール(中性脂肪)が』八十%『以上を占める幼虫本体の脂質とは大きく異なる組成を示している』とある。辞書には、イボタロウムシについて、♀の成虫は暗褐色の約一センチの丸い殻を作り、五月頃に産卵し、♂は七月頃からイボタノキ(キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium )・ネズミモチ(イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum )などに寄生し、白色の蝋を分泌し、中でさなぎとなる。成虫は体長三ミリメートルほどで、透明な二枚の翅(はね)を有するとある。イボタノキは「疣取木」或いは「水蠟木」と漢字表記する。このイボタロウムシの蠟物質が、古来、「塗ると疣が取れる」とされたことによる。会津に行った時、買わんとして老舗に入ったが、私にはどうもあの絵柄と色が生理的に好きになれず、買わずにしてしまった。

「其の虫は、奧州にのみありて、他國になく」大嘘。イボタロウムシは北海道・本州・四国・九州・沖縄及び朝鮮からヨーロッパにまで広く分布する。

「忍冬(にんどう)」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の異名。]

2021/07/16

日本山海名産図会 第二巻 石茸(いわたけ)・附記(その他の「きのこ」類の解説)

 

Iwatame

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「熊野石苴(くまのいわたけ)」。「苴」の(くさかんむり)は間が切れたもの。この「苴」は音「ショ」で、①「苞(つと)・藁などで包んだもの」、②「あさ(麻)・実のなる麻」、③「沓敷(くつしき)・沓の中の敷き草」、④「くろい・色の黒い」、⑤「補う・繕う」であり、また、音「サ」で、「塵」芥(あくた)]の意であるから、「茸」の異体字にはなく、誤字である。]

 

 ○石茸(いわたけ) 一名「石芝(せきし)」

熊野天狗峯(てんぐがみね)の絕頂に大巖(おほいわ)あり、其の上に、多く生ず。皆、山石上(さんせきじやう)の嶮(けはしき)にあり、夏月(かげつ)、火熱(くわねつ)の時は、甚だ、小(せう)にして、松(まつ)の※(こけ)[やぶちゃん注:「※」は「蒳」の「糸」を「鄕」の(へん)に代えたような字体。]のごとし。面(おもて)、黒色(くろいろ)、裏、靑色(あをいろ)。形、木茸(きくらげ)に似て、莖、なし。黒き所、岩につきて生ず。これを採るには、梯(はしご)をかけ、縄にすがり、或ひは畚(ふご)に乘りて、木の枝より、釣り下りなどの所爲は、圖のごとし。よそめのおそろしさには、似ず、猿の、木づたふよりも、やすし。鶯(うぐひす)の子も、かくのごとくして、採る、といへり。今、又、吉野より出づるものを上品とす。

 

附記

[やぶちゃん注:以下の本文は原本では全体が本文より一字下げ。]

此の余、蕈(たけ)の品(しな)、甚だ多し。○松蕈(まつたけ)は山刕の產をよしとす。大凡(およそ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]牝松(めまつ)にあらざれば、生ぜず。故に西國には牡松(おまつ)多き故、松蕈、少なくして、茯苓(ぶくりやう)多し。京畿は牝松多きがゆへに、蕈(たけ)多くして、茯苓、少なし。○金菌(きんたけ)は冬・春の間に生じて、松蕈に似て、小なり。○玉箪(しめぢ)○布引箪(ぬのひきたけ)○初蕈(はつたけ)裏(うら)は緑靑(ろくせう)のごとし。尾張邉(へん)にては、「あをはち」といふ。○滑蕈(なめたけ)西國にては「水たたき」といふて、冬、生ず。○天花蕈(ひらたけ)高野より多く出だし、諸木、ともに、生ず。○舞蕈(まひたけ)「ひらたけ」に似て、一莖に、多く、重なり、生ず。針のごとし。小にして、尖(さき)は紫なり。○木茸(きくらげ)は、樹の皮に附きて生じ、初生は淡黄色(うすきいろ)に、赤色(あかいろ)を帶びたり。採りて、乾かせば、黒色(くろいろ)に變ず。日本にて、接骨木(にはとこのき)に生ずるを、上品とす。○桑蕈(くわたけ)は、二種、ありて、かたきは、桑の樹の胡孫眼(さるのこしかけ)なり。軟かなるは、食用の木耳(きくらげ)なり。此の余、槐(えんしゆ)・楡(にれ)・柳・楊櫨(うつき)なとに、皆、蕈(たけ)を生ず。○杉蕈(すきたけ)は、杉の切株に生じ、「ひらたけ」に似て、深山に多し。○葛花菜(くずたけ)葛の精花(せいくわ)にして、紅菌(へにたけ)も、此の種類なり。これに一種、春、生ずるものを、「鶯菌(うくひすたけ)」、又、「さゝたけ」と、いひ、丹波にて、「赤蕈(あかたけ)」、南都にて「仕丁(してう)たけ」等(とう)の名、あり。○雚菌(おきたけ)[やぶちゃん注:「雚」は(くさかんむり)の中央が切れ、その下の「口」二つは繋がって「日」を横転させたようになっている。]は蘆(あし)・萩(はぎ)の中にせうずる玉蕈(しめじ)なり。九月頃にあり。○蜀格(いのころたけ)は、ハリタケとも云(い)う。常の針蕈(はりたけ)には異なり、本條(ほんてう)は、傘を張りて生じ、かさの裏に、針、有り。色、白く、味、苦(にが)し。○地茸(うしのかはたけ)は、陰地・丘陵の樹の根に、多く生ず。脚、短く、多く重なり、生ず。面(おもて)、黒く、茶褐色(ちやいろ)の毛、あり。裏、白くして、刻(きれ)、なし。皮蕈(かはたけ)は、色、黑くして、此れ、同種なり。「黒皮たけ」も是れに同し。○蕈類(たけるい)、大抵、右のごとし。此の余(よ)、毒、有りて、食用にせざるもの、多し。あるひは、「竹蓐(すゝめのたまこ)」、竹林中に生(せう)し、「土菌(どくたけ)」はキツネノカラカサともいひて、是れにも、鬼蓋(きかい)・地岑(ちしん)・鬼筆(きひつ)の種類あり。

[やぶちゃん注:「石茸(いわたけ)」子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目イワタケ科イワタケ属イワタケ Umbilicaria esculenta「芝菌品(たけのしな)」の「イハタケ」の私の注を参照。

「熊野天狗峯(てんぐがみね)」紀伊山地台高山脈南部の三重県尾鷲市と北牟婁郡紀北町にまたがる標高五百二十二メートルの天狗倉山(てんぐらやま/てんぐらさん)であろう(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『西側に隣接する便石山』(びんしやま:標高五百九十九メートル)『との鞍部の馬越峠を世界遺産の熊野古道伊勢路が通』り、『南斜面の一部に自然林が残り、山域の多くがヒノキの植林地となっている』。『酸性マグマの巨大な溶岩湖が冷却、凝固した熊野酸性岩上にあり、これらの花崗斑岩が随所で露出している』。『山頂は一枚岩の岩盤となっていて、二重の岩場で中央の花を外縁の葉が取り囲むハスの花にたとえられている』。『その巨石の下には大きな洞窟のような窪みがあ』って、明治二二(一八八九)年に編纂された「北牟婁郡誌」には、『「深サ幾尋ナルヲ度ルベカラズ、里人コレヲ天狗ノ岩屋トイフ」とあり』、『古記では「天狗巌」と記されている』とある。

「畚(ふご)」通常は農夫などが物を入れて運ぶのに用いる縄の紐の附いた籠(かご)の一種で、竹や藁で編んだものを指すが、それを大きくした人が乗り込めるほどのものを指す。挿絵の左手に描かれたものがそれで、ちゃんと上の木の向こうに、命綱を保守する役の男がいる。

「松蕈(まつたけ)」真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科キシメジ属キシメジ亜属マツタケ節マツタケ Tricholoma matsutake ここで作者の述べている「牝松(めまつ)にあらざれば、生ぜず」以下は誤りである。マツタケは主にアカマツ(裸子(球果)植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora )林に生ずることが多いが、それに限定されるものでも、実は、ない。小学館「日本大百科全書」の記載が明瞭なので、以下に引く。『主としてアカマツ林に輪状または列状に並んで生える。傘は径』十~二十センチメートル、時に三十『センチメートルにも達する。表面は淡灰褐色で繊維状の鱗片(りんぺん)で覆われるが、しだいに茶褐色に近づく。傘が開く前は、傘の縁と茎の上部との間は綿毛状の膜で連なる。ひだは白く、茎に湾生する。茎は太く長く、肉は充実し、縦に裂ける。つばは初め明瞭』『だが、しだいにしおれて縮み、はっきりしなくなる。胞子は』六~七マイクロメートル✕四・五~六・五『マイクロメートルの広楕円(こうだえん)形。全体に日本人に好まれる独特の芳香がある。マツタケは、アカマツのほか』、コメツガ(米栂:マツ科ツガ属コメツガ Tsuga diversifolia )・アカエゾマツ(マツ科トウヒ(唐檜)属アカエゾマツ Picea glehnii )・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii )・ハイマツ(マツ属 Strobus 亜属 Strobi 節ハイマツ Pinus pumila )『の林にも生える。マツタケの菌糸は、これらの木の細根にまとい付いて、外生菌根をつくって生活する。マツタケは地温が』摂氏十九度『になると』、『キノコ形成の準備を始め』、二『週間ほどたつと』、『地表に頭を出す。発生はほとんど秋であるが、梅雨期にも発生することがある(ツユマツタケとかサマツなどとよばれる)。マツタケは、従来は北海道から九州にまで分布する日本特産種と考えられていたが、現在では朝鮮半島、中国(東北部、山東省、雲南省など)、台湾にも分布することがわかっている』。以下、「生育条件」の項。『日本におけるマツタケの生産は、長野県、広島県、岡山県、岩手県、京都府などで多く、ついで兵庫県、岐阜県、山口県などとなる。そのほかの県にも発生するが』、『量は少ない。本州以南では主としてアカマツ林にマツタケは生えるが、アカマツそのものは、本州以南ではきわめて普通である。それにもかかわらず、マツタケの産地がこのように偏るのは、マツタケと共生するマツ類の体質によっている。こうしたマツ類の体質を決めるのは、次のような条件である。その第一は土質の違い、すなわち土壌の母体である母岩の違いである。マツタケは一般に』、花崗岩・石英斑岩・角(かく)岩・砂岩・珪(けい)岩を『母岩とする山には発生し』、安山岩・頁(けつ)岩・丹土(たんど:赤い土)・『関東ロームなどでは発生しない。第二は地上部の状態、すなわち』、『マツの樹冠の茂り方、低木や地表草本の種類や密度、落葉堆積』『量の多少などである。したがって、土質条件はマツタケの発生に適していても、マツ林の手入れいかんによっては不適ともなりうるわけである』。『マツタケは菌根菌であるから、宿主に頼らねばならないが、宿主となる木はマツタケが存在しなくても生育することはできる。それにもかかわらず、その木がマツタケと菌根をつくって共生するのは、宿主側が主として栄養生活(土壌条件)の面で、マツタケの協力を必要とするためである。したがって、こうした条件を窮めずに、ただアカマツとマツタケ菌糸を接触させただけでは菌根は形成されない。マツタケ栽培が不可能とされてきたのはこのためである。しかし、最近では、これらに対する研究が進み、マツタケ菌の保菌苗をつくることに成功し、これを山林に植えてわずかではあるが』、『マツタケの発生をみている。マツタケの人工増殖に一つの布石を敷いたともいえるが、まだ完成までの道は遠いといえる』。『日本のマツタケ生産量は年度によって変動はあるが』、『第二次世界大戦前に比べると』、『激減している。逆に輸入量は激増しており』、『そのほとんどは中国および朝鮮半島産のものである。また、次に述べるヨーロッパ産やアメリカ産の近縁種も輸入の傾向をみせている。日本のマツタケ生産が激減した最大の原因は、薪炭から石油・ガスへの燃料改革、堆肥・下肥などの有機質肥料から化学肥料への農業における肥料革命によって、マツタケ山の手入れが十分に行われないことにある。もし戦前と同じような手入れを行えば、マツタケの増産は可能といえる』とある。

「茯苓(ぶくりやう)」菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensaウィキの「マツホド」によれば、アカマツ(球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora)・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)等のマツ属 Pinus の植物の根に寄生する。『菌核は伐採後』二~三『年経った切り株の地下』十五~三十センチメートルの『根っこに形成される。子実体は寄生した木の周辺に背着生し、細かい管孔が見られるが』(oso(おそ)氏のキノコ図鑑サイト「遅スギル」のこちらで画像で見られる)、『めったには現れず』、『球状の菌核のみが見つかることが多い』。『菌核の外層をほとんど取り除いたものを茯苓(ブクリョウ)と呼び、食用・薬用に利用される。天然ものしかなかった時代は、松の切り株の腐り具合から見当をつけて先の尖った鉄棒を突き刺して地中に埋まっている茯苓を見つける「茯苓突き」と言う特殊な技能が必要だった。中国では昔から栽培されていたようだが』、一九八〇『年代頃よりおがくず培地に発生させた菌糸を種菌として榾木に植え付ける(シイタケなどの木材腐朽菌と同様の)栽培技術が確立され、市場に大量に流通するようになって価格も下がった。現在ではハウス栽培で大量生産されて』おり、『北京では茯苓を餅にしてアンコをくるんだ物が「茯苓餅」または「茯苓夾餅」の名で名物となっている。かつては宮廷でも食された高級菓子で、西太后も好物だったという。現在は北京市内のスーパーでも購入することができる』。『薬用の物では、雲南省に産する「雲苓」と呼ばれる天然品が有名であるが、天然物は希少であるためほとんど見ることはできない』。『日本はほぼ全量を輸入に頼っていたが』、二〇一七年に『石狩市の農業法人が漢方薬メーカーのツムラ(夕張ツムラ)との協力で、日本初となるハウス量産に成功した』とある。『菌核の外層をほとんど取り除いたものは茯苓(ブクリョウ)という生薬(日本薬局方に記載)で、利尿、鎮静作用等があ』り、『多くの漢方方剤に使われ』ている。

「金菌(きんたけ)」真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科キシメジ属シモコシ Tricholoma auratum サイト「oso的キノコ写真図鑑」の同種のページを見られたい。そこに書かれてあるが、本種は古くから美味な「食用きのこ」として知られていたが、近年、急に致死性の「猛毒きのこ」に変更された。海外で本種と同一とされる「T. equestre」による重度の肝不全による死亡事故が起きたためで、毒成分は不明であるが、症状は横紋筋融解症で、横紋筋から溶け出したミオグロビンが肝臓に致命的なダメージを与えるとあり、『仮に同一種説が正しかった場合、当然』、『本種も有毒と言うことにな』るとあり、『古くから食されただけに驚きを隠せませんが』、『注意は必要でしょう』。『ただ』、『地元で会う年配の狩人は何十年も食べているとのことです、ご参考までに』とある。食べぬに、越したことはないと存ずる。進行した同疾患は最後は肝移植しか手がないはずだからである。

「玉箪(しめぢ)」真正担子菌綱ハラタケ目シメジ科シメジ属ホンシメジ Lyophyllum shimeji 。漢字表記は「占地」「湿地」「占地茸」「湿地茸」「王茸」。ウィキのシメジについての「食用きのこ」の「シメジ」の呼称のみを扱った特殊なページがあり、そこで、まず、『シメジと言えば本来』、『キシメジ科』Tricholomataceae『のキノコ、とりわけキシメジ科シメジ属のホンシメジを指す』とあるのだが、これはウィキの「ホンシメジ」によれば、『従来』、『ホンシメジの属しているシメジ属はキシメジ科に属していたが、分子系統解析の発達によって現在では独立したシメジ科に属するとされている』とあるので、そちらで示す。同前のページでは続けて、『場合によっては、漠然と』、『他の』旧で属していた『キシメジ科』に属する『キノコ(シメジ属』(くどいが、現在シメジ科である)『のハタケシメジ』(シメジ科シメジ属ハタケシメジ Lyophyllum decastes )『やシャカシメジ(センボンシメジ)』(シメジ科シメジ属シャカシメジ Lyophyllum fumosum )『シロタモギタケ属のブナシメジ』(シメジ科シロタモギタケ属ブナシメジ Hypsizygus marmoreus )『など)も含めた総称とされることもある。ホンシメジは、生きた木の外生菌根菌であるために栽培が非常に困難であり、ほぼ天然物に限られ』、『稀少なため』、『高級品とされる。ほとんど流通していない』とある。作者は名を出すだけで、解説を全くしていないので、希少種であるホンシメジに限定して考えてよいかと思われる。

「布引箪(ぬのひきたけ)」ハラタケ目ヌメリガサ科ヌメリガサ属サクラシメジ Hygrophorus russula の異名と思われる。個人サイト「きのこ なら」の「散歩雑記」のこちらの冒頭にある二〇一七年八月二十九日の「故郷のキノコ」の記事中に、岡山県真庭市北部にある蒜山高原での経験(筆者の生まれ育った地)では、『ブナの原生林へ入ると、大きな倒木にビッシリ生えたムキタケ』(ハラタケ目ガマノホタケ科ムキタケ属ムキタケ Sarcomyxa serotina )『に出合います。これを方言ではボタヒラと言いますが、その形がボッタリとして、ヒラタケ』(後の「天花蕈(ひらたけ)」参照)『に似ていることから付いた名前でしょう。このキノコも大量に採れるので大きな桶へ塩漬けにして、深い雪に覆われる冬の間に食べました』。『このムキタケと同様に大量に採れるキノコはサクラシメジです。その方言をヌノビキタケと言いますが、巻いた反物を林床に広げた様に長い群落を作るので、その名前が付いたのだろうと思います』とあったからである。当該ウィキによれば、「タニワタリ」「アカナバ」「ドヒョウモタセ」『などの俗称で呼ばれる場合もある』ともあった。「谷渡り」は「布引き」と親和性がある。

「初蕈(はつたけ)」「あをはち」担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属ハツタケ Lactarius hatsudake

「滑蕈(なめたけ)」「水たたき」ハラタケ目モエギタケ科スギタケ属 Hemipholiota 亜属 mixalannutae 節ナメコ Pholiota microspora に同定する。「水叩き」とは、生体の湿った状態では、全体に水を打ったように夥しいゼラチン質の粘性物質のムチンを分泌しているそれを言ったものと推定する。

「天花蕈(ひらたけ)」ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus 。当該ウィキによれば、『古くから親しまれた食用』きのこ『であり、平安』『中期には食用にされていた』。公卿藤原実資(さねすけ)の日記「小右記」(現存するものは天元五(九八二)年から長元五(一〇三二)年)に、『遊興の際の食物の一つとして「平茸一折樻」が記録されているほか、「近来往々食茸有死者、永禁断食平茸、戒家中上下」と、毒キノコによる死亡事故の多発を理由に家中にヒラタケを食べることを禁じる旨が記されている』。また、「今昔物語集」には、よく高校の古文教科書に載っていた(私は面白くも糞くもないので、一回しか授業していない)、『受領の藤原陳忠が谷底に落ちたついでにヒラタケを採ったという巻二十八「信濃守藤原陳忠落入御坂語」』(「やたがらすナビ」のこちらで読める)『をはじめ、ヒラタケの登場する説話が複数』、『存在する』。「梁塵秘抄」の『巻第二にも』(四二五番)、

 聖(ひじり)の好むもの

 比良(ひら)の山をこそ尋ぬなれ 弟子遣りて

 松茸 平茸 滑薄(なめすすき)

 さては池に宿る蓮の蔤(はひ)、

 根芹(ねぜり) 根蓴菜(ねぬなは) 牛蒡(ごんばう)

 河骨(かはほね) 獨活(うど) 蕨(わらび) 土筆(つくづくし)

『という歌があり、マツタケやエノキタケ』(ハラタケ目タマバリタケ科エノキタケ属エノキタケ Flammulina velutipes )『と並んでヒラタケが挙げられている』。なお、『岡村稔久』(としひさ)『は、平安時代の文献にヒラタケの話が多く』、『マツタケの話が少ない理由として、平安時代前期ごろまでは平安京周辺に広葉樹林が多く残っており、中期以降にマツ林が増えていったことを述べている』。『鎌倉時代以降も食材として親しまれ』。「平家物語」巻八「猫間」、「宇治拾遺物語」巻一ノ二「丹波国篠村平茸生の事」、「古今著聞集」巻十八「飲食 観知僧都」『などに登場するほか』、「庭訓往来」や『現存最古の茶会の記録である』「松屋会記」などに『ヒラタケを使った料理が記載されている』とある。

「舞蕈(まひたけ)」真正担子菌綱タマチョレイタケ目トンビマイタケ科マイタケ属マイタケ Grifola frondosa

「木茸(きくらげ)」菌界担子菌門真正担子菌綱キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属キクラゲ Auricularia auricula-judae当該ウィキによれば、学名の『属名はラテン語の「耳介」に由来する。種小名は「ユダの耳」を意味し、ユダが首を吊ったニワトコ』(マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属セイヨウニワトコ Sambucus nigra であろう)『の木からこのキノコが生えたという伝承に基づく。英語でも同様に「ユダヤ人の耳」を意味するJew's earという。この伝承もあってヨーロッパではあまり食用にしていない』とある)。既に述べたが、種小名は差別学名の臭いが濃厚で、私は変更すべきものと考えている。

「接骨木(にはとこのき)」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属亜種ニワトコSambucus sieboldiana var. pinnatisecta

「桑蕈(くわたけ)は、二種、ありて、かたきは、桑の樹の胡孫眼(さるのこしかけ)なり。軟かなるは、食用の木耳(きくらげ)なり」現行では、ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ亜種ナラタケ Armillaria mellea nipponica の異名であるが、記載はそれらしくない。前者は、長崎県の男女群島の女島(メシマ)に植生するも、個体が激減し、「幻しのきのこ」とされる、菌蕈綱ヒダナシタケ目タバコウロコタケキコブタケ属メシマコブ Phellinus linteus らしい感じはするが、局地種であり、作者がそれを指している可能性は必ずしも高くない感じもする。「木耳」は前の注を参照されたい。

「槐(えんしゆ)」中国原産のマメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum は、古くから日本にも植栽されている。

「楊櫨(うつき)」ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata 。和名の漢字表記は「空木」。当該ウィキによれば、『茎が中空であることからの命名であるとされる。花は卯月(旧暦』四『月)に咲くことから「卯(う)の花」とも呼ばれ』、『古くから初夏の風物詩とされており』、「枕草子」には、『卯の花と同じく初夏の風物詩であるホトトギスの鳴き声を聞きに行った清少納言一行が卯の花の枝を折って車に飾って帰京する話がある。近代においても唱歌』「夏は来ぬ」で『歌われるように初夏の風物詩とされている』とある。「楊櫨」は古い漢名。現行の中文名は「歯叶溲疏」である。

「杉蕈(すきたけ)」ハラタケ目モエギタケ科モエギタケ属 Stroholiota squarrosaサイト「きの図鑑」の当該種の記載には、『スギタケは昔は食用とされていたようですが、現在は毒性が見つかった為、食用としては推奨されていません。体質によっては胃腸系の中毒症状を起こす事があるようです』とある。

「葛花菜(くずたけ)」ハラタケ目ナヨタケ科ナヨタケ属センボンクズタケ Psathyrella multissima か? もしこれだとすると、作者の「葛の精花(せいくわ)」(マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属変種クズ Pueraria montana var. lobata の精気が凝って花となったということか)という謂いは誤りかも知れない。サイト「きのこアルバム」のセンボンクズタケによれば、『実は「クズタケ(屑茸)」とは、腐朽の進んだ木の上などに発生する』「何の役にも立たない」『きのこをまとめた呼称なのだそうで』、『それが多数群がって発生する様子から「センボン(千本)クズタケ(屑茸)」と名付けられ』たとあるからである。『有毒性は報告されていないものの味や香りが特に無く、何より』、『肉質のもろさから食用にも向かないそう』である、とある。

「紅菌(へにたけ)」担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科ベニタケ属 Russula に属する多数種を指す。当該ウィキによれば、『毒々しい色調のために、古くは毒きのこの代表格のように扱われてきていたが、すべてが有毒であるわけではない。ただし、辛味や苦味が強いものが含まれ、そうでないものも一般に歯切れが悪いために、食用きのことして広く利用されるものは少ない』。『中国福建省では永安市などの中部を中心に広く分布している』ドクベニタケ節ウスクレナイタケRussula rubra 『を「紅菇」、「正紅菇」、「大朱紅菇」などと称し、スープなどの食用に用いられている。乾燥品も流通しており、味はベニタケ類の中では比較的良い』『が、それでも食感は良くない。スープに入れると汁に鮮やかな紅色が付く』。『ニセクロハツ』(クロハツ節ニセクロハツ Russula subnigricans )『は致命的な有毒種として知られている』(当該ウィキによれば、『猛毒で致死量は』二、三『本とも言われる。潜伏期は、数分から』二十四『時間。嘔吐、下痢など消化器系症状の後、縮瞳、呼吸困難、言語障害、横紋筋融解症』『に伴う筋肉の痛み、多臓器不全、血尿を呈し重篤な場合は腎不全を経て死亡する。主な治療法は胃洗浄、利尿薬投与、人工透析』とある。先に出した横紋筋溶解症による肝不全である)『ほかにもいくつかの有毒種が含まれているといわれているが、どの種が食用となり、どの種が有毒なのかについては、不明な点も多い』とある。

「鶯菌(うくひすたけ)」「さゝたけ」「赤蕈(あかたけ)」「仕丁(してう)たけ」ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科ベニタケ属カワリハツ(変初)Russula cyanoxantha の品種で緑色を呈するものにウグイスタケRussula cyanoxantha form peltereaui の名が与えられてある(サイト「三河の植物観察野草」の「きのこ図鑑」のこちらに拠る)。しかし、作者がここで一気に並べているものは同一種でない可能性が高く、「さゝたけ」は現行では全くの別種であるハラタケ目ハラタケ科フウセンタケ属ササタケ亜属ササタケ Cortinarius cinnamomeus に与えられており、「あかたけ」は同じフウセンタケ属アカタケ Cortinarius sanguineus に(本種は毒きのこである。サイト「oso的キノコ写真図鑑」の同種のページを見られたい)、「仕丁(してう)たけ」は不明。「仕丁」は律令制における労役の一つで、一里(五十戸)に正丁二人の割で、三年交替で中央官庁の労役に従事した。奈良時代の諸造営事業の重要な労働力であったが、費用はその里の共同負担であり、実際は相当に長期間に亙って労役させられたために、逃亡する者もあった。されば、これは底辺の労働者たちの食い扶持に与えられた、下品の容易に手に入る「きのこ」の謂いであろうか? 対象のきのこよりも、名称が気になる。

「雚菌(おきたけ)」(「雚」は(くさかんむり)の中央が切れ、その下の「口」二つは繋がって「日」を横転させたようになっている)お手上げ。識者の御教授を乞う。

「蜀格(いのころたけ)」「ハリタケ」「常の針蕈(はりたけ)」記載が順序だっていないのが気になる。この「常の針蕈(はりたけ)」というのは、小学館 日本大百科全書」の「ハリタケ」によれば(一部いじったが、それでも分類部分はやりきれていない感がある)、『担子菌類』のヒダナシタケ目 Aphyllophorales 或いはサルノコシカケ科 Polyporaceae『に属し、傘の裏、またはキノコの下側に無数の針状の突起があるキノコの総称で、特定の菌の名ではない。針状の突起はマツタケ類の』襞『に相当する部分で、胞子を形成する子実層は針の表面に発達する。ハリタケと称されるキノコの種類はきわめて多い。また、生態的にみると地上に生えるもの、木に生えるものがあり、形態的にみると傘があるものとないもののほか、肉質、革質、木質などと硬軟さまざまである。従来はこれらをハリタケ科として一括し、傘の裏にひだがあるマツタケ科、管孔(くだあな)があるサルノコシカケ科などと対照させたが、いまではこのような見せかけの形の類似にとらわれない分類が採用されている』。『ハリタケ型のキノコは、ハリタケ科 Hydnaceae(新しい解釈による狭義のハリタケ科)とイボタケ科 Thelephoraceaeに多い。ハリタケ科はカノシタ属 Hydnum を基本とし(基本種はカノシタ H. repandum Fr.)、ほかにサンゴハリタケ属 Hericium 、サガリハリタケ属 Sarcodontia 、ニクハリタケ属 Steccherinum などがある。これらのうち、一部は肉質で食用になるが、革質、木質のものも少なくない。いずれも胞子は無色で表面は滑らかである。イボタケ科の基本となるのはイボタケ属 Thelephora であるが、典型的なハリタケ型のものにコウタケ属 Sarcodon 、ニオイハリタケ属 Hydnellum 、クロハリタケ属 Phellodon などがある。イボタケ科には食用菌として名高いコウタケS. aspratus (Berk.) S. Itoがあるが、多くの種は革質で食用にはならない。胞子はつねに細かい刺(とげ)、または』、『いぼを帯びる。多くはテレフォル酸という色素をもち、乾くと』、『漢方薬状の香りを放つ』とある。「蜀格(いのころたけ)」は全く分からなかった。「蜀格」はどうみても漢字和名ではない。古い漢名か。

「地茸(うしのかはたけ)」不詳。

「皮蕈(かはたけ)」「黒皮たけ」担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱イボタケ目 Thelephorales のそれか。平凡社「世界大百科事典」の「コウタケ(皮茸)」には、『かさの裏に剛毛状の針が密生しているのを』、『野獣の毛皮と連想してカワタケ(皮茸)と名づけられ、それが訛って「コウタケ」となったとある。当該ウィキによれば、同目の種群は、『一般に強靭な肉質あるいは革質』や『コルク質で、形態的には膏薬状をなして枯れ木などにべったりと広がってかさや柄を形成しないものから、樹枝状ないしサンゴ状に分岐するもの、分岐する柄の先端にへら状のかさを形成してハボタン状をなすもの、あるいは明らかなかさと柄とに分化するものまでが含まれ、胞子を形成する子実層托は多くの分類群において細い針状突起の形態をとることから、一般に Tooth fungus の名があるが、しわひだ状を呈するものや管孔状をなすものも僅かに含まれている』とある。サイト「たじまのしぜん」の「カワタケの一種」では、「皮茸」の一種として、ヒダナシタケ目Aphyllophoralesコウヤクタケ科 Corticaceae を示してある。

「竹蓐(すゝめのたまこ)」サイト「oso的キノコ写真図鑑」のこちらに、担子菌門プクキニア菌亜門Pucciniomycotinaプクキニア菌綱プクキニア目プクキニア科ステレオストラツム属ステレオストラツム・コルチキオイデス(メダケ赤衣病菌)tereostratum corticioides が載り、その解説に『地方によっては「スズメノタマゴ」』と『呼ばれてる』らしいとある。学名は鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の同種のページを参考にさせて戴いた。素人の「きのこ」感覚からはかなりズレるものである。

「土菌(どくたけ)」「キツネノカラカサ」ハラタケ科キツネノカラカサ Lepiota cristata 。可食とするページもあるが、本邦に植生するかどうかは知らないが、同属のドクキツネノカラカサ Lepiota helveloa は海外で致死性の猛毒種として知られるので、食べない方が無難。「土菌(どくたけ)」の表記・読みは気になるが、由来は判らない。ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属チチタケ節チチタケ Lactarius volemus を那須では「ツチタケ」とは呼ぶらしい。

「鬼蓋(きかい)・地岑(ちしん)・鬼筆(きひつ)」総て不詳。有毒きのこ、或いは、尋常でない奇体な形状(「岑」には「鋭い・嶮しく聳える」の意がある)の「きのこ」類を指すか。]

2021/07/15

日本山海名産図会 第二巻 香蕈(しいたけ)

 

   ○香蕈(しいたけ)○一名「香菰(かうこ)」・「香菌」(かうきん)・「處蕈(しよじん)」

日向の產を上品とす。多くは熊野邉(へん)にも出だせり。椎の木に生ずるを本條とす。但し、自然生(しねんせい)のものは少なし。故に、これを造るに、椎の木を伐りて、雨に朽(く)たし、米泔(しろみつ)を沃(そゝ)ぎて薦(こも)を覆ひ、日を經て、生ず。又、櫧(かし)の木を伐りて作るもあり。採りて、日に乾かさず、炙り乾かす。故に、香氣、全し。又、「生(なま)乾し」とは、木に生ひながら、乾かしたるものにて、香味、甚だ佳美なり。是れを漢名「家蕈(かじん)」といふ。形、松蕈(まつたけ)のごとく、莖、正中(まんなか)に着くものを、眞とす。また、漢に「雷菌(らいきん)」といふ物あり。疑ふらくは、作り蕈(たけ)の類(るい)なるべし。「通雅」に云、『椿・楡・構抔(など)を、斧をもつて、うち釿(き)り、その皮を、久しく雨に爛(たゞ)らかし、米潘(こめのしる)を沃ぎ、雷の音を聞けは、蕈(たけ)を生ず。若し、雷、鳴らざる時は、大斧(おほおの)をもって、これを擊てば、忽ち、蕈(たけ)を生ず。』と云へり。是れ、香蕈を作る法のごとし。今、和州吉野、又、伊勢山などに作り出だせるもの、日向には勝(まさ)れり。其の法は、扶移(しで)の樹を、多く伐りて、一所にあつめ、少し圡に埋(うづ)め、垣(かき)を結ひまはして、風を厭(いと)ひ、其のまゝ晴雨に暴すこと、凡そ一年斗り、程よく腐爛したるを候(うか)がひて、かの斧をもち、擊ちて、目(め)を入れ置くのみにて、米泔(しろみづ)を沃ぐことも、なし。されども、其の始めて生ふるのは、すくなく、大抵、三年の後(のち)を十分の盛りとし、それより每年に生ふるは、すくなければ、又、斧を入れつゝ年を重(かさ)ぬなり。春・夏・秋と出でて、冬は、なし。其の内、春の物を上品として「春香(はるこ)」と稱す。夏は、傘、薄く、味も劣れり。又、別に「雪香(ゆきこ)」と云ひて、絕品の物は、緣も厚く、形勢(きやうせい)も、全く、備(そな)へり。是れは「春香」の内より撰(え)り出だせるものにて、裏なども潔白なるを稱せり。

[やぶちゃん注:菌蕈綱ハラタケ目キシメジ科(或いはヒラタケ科 Pleurotaceae 或いはホウライタケ科 Marasmiaceae 或いはツキヨタケ科 Omphalotaceae )シイタケ属シイタケ Lentinula edodes当該ウィキによれば、種小名を『「江戸です」から採ったとする説があるが』、『イギリスの菌類学者マイルズ・ジョセフ・バークリー』による一八七八年の『原記載論文には学名の由来は記されて』おらず、『ギリシア語で「食用となる」という意味の語』を『ラテン文字に置き換えると edodimos となり、これに由来すると考えられている』とある。

「米泔(しろみつ)」以下、異なった表記や読みが出るが、孰れも米の研ぎ汁である。「ゆする」と統一して欲しかった。「泔坏(ゆするつき)」で知られ、本邦では平安以後に用いられた、調髪のため