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2021/07/31

伽婢子卷之八 長鬚國

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。ネタバレになるので、挿絵についての解説は最後の注の頭に置いた。その観点から、挿絵は本文の途中で見た方がいいので、特異的に話中に配した。くれぐれも挿絵をじっくりとは先に見ない方がよい。謂わずもがなであるが、底本ではそうした配慮はなされてはいない。]

 

   ○長鬚國(ちようしゆこく)

 

 越前の國北の庄に商人あり。每年、松前に渡りて蝦夷(えぞ)と販賣(あきなふ)に、多く木綿・麻布(あさぬの)を遣して、昆布(こんぶ)・干鮑(ほしあわび)に替へて、國に歸り、出《いだ》し賣るを業(わざ)とす。

 或る年、舟に乘りて、松前に渡るに、俄かに、風、變り、浪、高く、檣(ほばしら)、をれ、梶(かぢ)、くだけて、吹《ふき》放されつゝ、漸(やうやう)にして、ひとつの嶋に寄せられたり。

 人心地、少しつきて、舟をあがりければ、五町[やぶちゃん注:約五百四十五メートル半。]ばかりにして、人里あり。

 其所《そのところ》の人は、髮、短かく、鬚(ひげ)、長し。

 物いふ聲は日本の言葉に通ず。

 或る家に立入《たちいり》て、國の名を問へば、

「長鬚扶桑州(ちやうしゆふさうしう)。」

といふ。國主を問へば、

「是より一里ばかりの東に城郭あり。」

と敎ゆ。

 彼(かしこ)に赴き、惣門(そうもん)を過《すぎ》て、見れば、國主の本城とおぼしくて、門の構へ・築地(ついぢ)、高く、石垣は、削り立《たて》たる如し。

 門のほとりに立よりければ、門を守るもの、一同に出《いで》て、大に敬ひ、奧のかたにいひ入《いり》たりしに、衣冠の躰(てい)、世に見なれざる出立(いでたち)したる者、はしり出て、殿中に請じ入りたり。

 

Lbn1

 

 宮殿、はなはだ、花麗(くわれい)にして、きらびやかなる事、いふばかりなし。

 紫檀・くわりん・白檀(びやくだん)なんど、入違《いれちが》へ、沈香(ぢんこう)・金銀をちりばめ交へて、立《たち》たり。

 錦のしとねを敷き、國主、立出て、對面す。

「大日本國の珍客(ちんきやく)、只今、此所に來れり。我等、邊國(へんごく)のえびすとして、まのあたり、請(しやう)じ參らす事、是れ、幸ひにあらずや。」

とて、一族にふれめぐらすに、皆、おのおの、來り集まる。

 いづれも、出たち、花やかなれ共、勢(せい)、短く、髮、かれて、鬚ばかりは、長く生(お)ひのび、腰、少し、かゞまりて見ゆ。

 座、定まりて後に、綠の蔕(ほぞ)ある色よき柹(かき)一つ、はらめる黃なる膚(はだへ)の栗、紫の菱(ひし)、くれなゐの芡(みづふき)、靑乳(せいにう)の梨、赤壺(せきこ)の橘(たちはな)を、瑠璃(るり)の盆・水精(すいしよう)の鉢に、うづたかく積みて、出したり。

 膳には、野邊の初鳫(はつかり)、澤沼(さわぬま)の鳬(かもめ)、鳴鶉(うづら)、雲雀(ひはり)、紫菨(しきやう)、靑蓴(せいじゆん)、溪山(けいざん)の筍(たかんな)、靈澤(れいたく)の芹(せり)、數を盡して、出し、そなふ。

 葡萄(ぶどう)・珠崖(しゆがい)の名酒に、茱萸(しゆゆ)・黃菊(くわうきく)を盃(さかづき)に浮べ、誠に妙(たへ)なる、あるじまうけ、其の味ひ、更に人間の飮食にあらず。

 されども、海川のうろくづ、蛤(はまぐり)のたぐひは、一種の肴(さかな)も、これ、なし。

 商人、いぶかしくぞ、覺えたる。

 國主の曰く、

「我に一人の娘あり。願くは、君、是れに、とゞまり給へ。配偶(はいぐ)の緣を、むすび奉らん。榮耀(えいよう)、いかで極まり有らん。」

といふに、商人、大《おほき》に喜び、

「ともかうも、仰せに隨ひ奉らん。」

とて、數盃(すはい)を傾け侍りしに、

「今宵は、月、巳に滿(みち)て、光り、四方(よも)に輝きて、明らかなる事、白日の如し。これぞ、我等の酒宴遊興を催す時なり。」

とて、滿座のともがら、舞《まひ》、かなで、歌ひ、どよめく。

 かゝる所に、姬君、出給ふ。

 附きしたがふ女房達、廿餘人、何れも、花を飾り、もすそを引て、ねり出たれば、沈麝(じんじや)の薰(かほり)、座中にみちたり。

 商人、これを見るに、かたちは、たをやかに。うるはしけれ共、女にも、鬚、あり。

 商人、甚だ、怪しみて、悅びず、古風の躰(てい)一種を詠みける。

 さくとても蕊(しべ)なき花はあしからめ

    妹(いも)がひげあるかほのうるはし

 國主、聞きて、えつぼに入《いり》て笑ひしかば、滿座、かたぶきて、腹をさゝげたり。

 娘と女房達は、世に耻かしげ也。

 

Lbn2

 

 此夜より、商人に一官を進めて、「司風(しふう)の長」とぞ、かしづきける。

 身の榮花に、たのしみを極め、國中、敬ひ、もてはやす故に、鬚ある妻に、なれそめて、三年(みとせ)を過れば、男子一人、女子二人をぞ、まうけたる。

 ある日、家、こぞりて、泣き悲しみ、妻、甚だ、愁へ、歎く。

 城中、打ちひそまりて、色を失へり。

 商人、驚きて、妻に問ければ、泣く泣く、答へけるやう、

「きのふ、海龍王(かいりゆうわう)の召しによりて、我が父、巳に龍宮城に赴き給へり。命、生きて、二たび、歸り給ふべからず。此の故に、歎き悲しむ也。

といふ。

 商人、大に仰天して、

「其は、如何にもはかりごとあらば、逃(のが)るゝ道、侍べらむや。然(しか)らば、我、たとひ、命をすつる共、何か顧(かへりみ)るべき。」

といふ。

 妻のいふやう、

「此事、君にあらずしては、禍ひを逃れて、安穩(あんをん)の地に歸り給ふ事、かなふべからず。願くは、龍宮城に赴き、『東海の第三の迫戶(せと)・第七の嶋・長鬚國、巳に大禍難(《だい》くわなん)に依(よつ)て、今より衰微に及ぶべき也。憐みを以つて首長(しゆうちよう)を放ち返し給はゞ、宜しく太平安穩の政道なるべし。』と、よくよく、の給はゞ、龍神、よこしま、なし。必ず、此歎きを引かへて、喜びの眉(まゆ)を開かん。然らば、一足《いちあし》も早く赴きて給へ。」

とて、聲も、をしまず、泣きければ、商人も、なさけの色に、心、引かれて、急ぎ出立《いでたち》、花やかに裝束(さうぞく)して、十人の侍(さふらひ)・五人の中間(ちうげん)・二人の道びきを招し連れ、龍宮城に赴き、舟に乘りて、しばしの間(あひだ)に着きて、濱おもてを見れば、皆、金銀のいさごにて、國人は、衣冠正しく、かたち、大にして天竺(《てん》ぢく)の人に似たり。

 櫻門にさし入《いり》て見れば、七寶莊嚴(《しつ》ほうしようごん)の宮殿、其のさまは、堂寺(だう《じ》)の如し。玉のきざはしに進めば、

「『司風の長』とは汝の事か。今、何故に來れる。」

と問ふ。

 商人、こまごまと、いひければ、龍神、すなはち、「海府錄事」を召して勘(かん)がへさせけるに、

「龍宮城の境内(けいだい)に、左樣の國は、これ、なし。」

といふ。

 商人、重ねていふやう、

「長鬚國は東海第三の迫戶(せと)・第七の嶋にあたれり。」

と。

 龍神、又勘辨(かんべん)せさするに、暫く有りて、錄事(ろくじ)、すなはち、本帳を考へて曰はく、

「其の嶋は、蝦魚(えび)の住所(じうしよ)也。龍宮大王の此月の食料に當てゝ、昨日、召し捕りたり。」

と申す。

 龍神、笑ひて曰はく、

「『司風の長』は、まことに人間ながら、蝦(ゑび)のために魅(ばか)されたり。我は海中の王なりといへ共、食(しよく)する所の魚(きよ)・鳥(てう)・生類(しやうるい)、皆、天帝より布(しき)さづけられて、日每(《ひ》ごと)に其の數あり。たとひ人といふとも天帝の定め給ふ數の外に、奢りて生類(しようるゐ)を食する時は、必ず、天の責めを受けて、禍ひあり。況や、我等、數の外に、漫(みだ)りに食する事、かなはず。さりながら、今、はるばるこゝに來れる人の心を、破るべからず。數の定めを耗(へら)して參らせむ。」

とて、内に入て、「司膳掌(しぜんしやう)」に仰せて、商人をつれて、料理臺盤所(れうりだいばんところ)を見せしむるに、麞(くじか)の胎(はら)ごもり、熊の掌(たなごゝろ)、猿のことり、兎の水鏡(みづかゝみ)、五種の削物(けづり《もの》)、七種の菓(くだもの)、䡄則(きそく)・花形、かざり立てて、鳳髓(ほうずゐ)、獅子膏(《しし》かう)、靑肪(《せい》はう)、白蜜(はくみつ)、其の外、海陸(かいろく)のうち、あらゆる珍味、心も言葉も及ばれず。

 

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 黃金(こがね)の釜、白銀(がね)の鍋、あかゞねの鼎(かなへ)を並べ、傍らなる籃(かご)の中に、蝦、五、六頭(づ)あり。

 大《おほい》さ三尺あまり、色は、さながら、濃紫(こむらさき)にして、鬚、甚だ、長し。

 此商人を見て、淚を流す事、雨の如く、頻りに蹕躍(はねおど)りて、其のありさま、

『助け給へ。』

と云はぬばかり也。

 「司膳の司」のいふやう、

「是れこそ、蝦の中の王なれ。」

と。

 商人、きゝて、不覺の淚を落とす。

 龍神、かさねて、使ひを立て、蝦の王を赦(ゆる)し放ち、商人をば、送りて、日本に歸らしむ。

 其の夜の曙に、能登の國「鈴(すゞ)の御崎(みさき)」に付《つき》たり。

 岸にあがりて、うしろを顧れば、送りける使ひは、大龍となり、波を分けて、海底(かいてい)に隱れ、商人は本國に歸りて、筆に記して、人に語り傅へしと也。

 

[やぶちゃん注:挿絵の一枚目は長鬚国扶桑州に着き、国主の城を訪れたシーン。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、『門は青海波の紋様』で、門の屋根の『棟の両端には海老の形をした飾りがついている。左』幅の迎えている人物は『衣冠の応対人』で、『頭上に海老の冠。左に番の者二人』が描かれているが、右幅の拱手した民草も応対する官人も二人の家来も、皆、長い鬚を持っている。さしてネタバレともなるまいから言っておくが、これが真相の伏線である。二枚目は商人が宮殿内で饗応を受けるシーン。右幅の列の先頭、一番左にいるのが、王の娘。同前で、『床下には、満々とした海水』らしきものが描かれ、左幅の上座にあるのが国主であるが、冠の蝦が一段と大きいのが判る。手前の三人は招かれた長鬚国内の客人。商人以外、女性も例外なく、総てが長い鬚を生やしている。三枚目は龍宮内の台番所(調理室)へ商人が赴くシーン。かすれているが、商人の左手にいるのが、司膳掌(総調理監督官)で、同前で『蓬髪に竜の冠』をつけている『か』とされる。二人の足下に大きな籠に大蝦が三尾おり、商人の方に向いている一尾が長鬚国国主であろう。左幅の手前に食材が吊り下げられてあり、右から二番目に鶴っぽい長い頸を持った鳥、中央に甚だ大きな兎らしきもの、その左手には鴨っぽい鳥二羽が見える。同前解説に、『壺、鼎、鍋、釜、瓶子、盤など多数の器物に珍味が盛られる。当話は挿絵をふんだんに配し、異境のおもむきを充分に醸し出している』とある。本話は他の戦国時代設定の拘りを排して、文字通りの御伽話として楽しめるものに仕上がっている。「越前の國北の庄」現在の福井県福井市大手(グーグル・マップ・データ。以下同じ)は旧越前国足羽(あすわ)郡北ノ庄(後に改めて福居)と呼んだ。現在の福井全体の呼称としても通用した。

「松前」北海道松前郡松前町。中世以降の蝦夷地交易の要地。

「木綿・麻布(あさぬの)」越前は温暖多湿の気候に恵まれ、古代より優れた絹織物など織布の生産が盛んであった。

「昆布(こんぶ)」松前の東方、北海道函館市宇賀浦町附近(正確にはその東の銭亀沢地区の沖合)の昆布は「宇賀の昆布」として古くから知られた。私の「日本山海名産図会 第五巻 昆布」も参照されたい。

「干鮑(ほしあわび)」エゾアワビ Haliotis discus hannai (クロアワビの北方亜種であるが同一種説もあり)を用いたもの。大脱線になるが、私の大好きな、アイヌに伝わる「ムイ(オオバンヒザラガイ)とアワビとの間の戦いと住み分けの物語」を、最近やっと、ちゃんと書けたので、未読の方は是非、どうぞ! 「大和本草諸品圖下 ワレカラ・梅花貝・アメ・(標題無し) (ワレカラ類他・ウメノハナガイ・ヒザラガイ類・ミドリイシ類)」の私の「アメ」の長い注の中にある。

「扶桑州(ふさうしう)」「扶桑」国は古代中国で、太陽の出る東海中にあるとされた、葉が桑の木に似た神木。またはその霊木が生えている地の称。後に日本の異名とはなった。

「紫檀」マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。

「くわりん」「花梨・花林・花櫚」。マメ目マメ科マメ亜科ツルサイカチ連インドカリン属カリン Pterocarpus indicus (但し、同じく「花梨」とも書く「榠樝」、カリン酒や砂糖漬けで知られる黄色な大きな丸い実を結ぶところの、バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリン Pseudocydonia sinensis とは全く別種であるので注意されたい)。当該ウィキによれば、『タイ、ミャンマーなどの東南アジアからフィリピン、ニューギニアの熱帯雨林に自生する』。『日本では八重山諸島が北限。金木犀に似たオレンジ色の小さな花が密集して咲く。芳香があるが、花期は短く』、一~二日で、『東南アジアの緑化や街路樹や公園に好んで使用される。シンガポールのメインストリートであるオーチャード通りやバンコク、ホーチミン、クアラルンプールなどでも多く見られる』。『フィリピンの国樹』。『古くから唐木細工に使用される銘木。心材は黄色がかった紅褐色から桃色がかった暗褐色。木材にはバラの香りがあり、赤色染料が取れる。木材を削り、試験管に入れて水を注ぎ、これを太陽にかざすと、美しい蛍光を出す』。『家具、仏壇、床柱、床框、装飾、楽器、ブラシの柄などに使われる。シタンに似ており、代用材としても使われる』とある。

「白檀(びやくだん)」ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン Santalum albumウィキの「ビャクダン」を参照されたい。

「入違《いれちが》へ」複数の高級木材を巧みに組み合わせて。

「沈香(ぢんこう)」狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。

「勢(せい)」背丈。背(せい)。

「蔕(ほぞ)」蒂(へた)のこと。

「菱(ひし)」私の好きな双子葉植物綱フトモモ目ミソハギ(禊萩)科ヒシ属ヒシ Trapa japonica 。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 芰實(ひし) (ヒシ)」を参照されたい。

「芡(みづふき)」「水蕗」で、双子葉植物綱スイレン(睡蓮)目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox の異名。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 芡蓮(をにはす) (オニバス)」を参照。

「靑乳(せいにう)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『不詳。ただし、乳梨(にゅうり=別名空閑梨(こがなし))や青梨(あおなし)があり、これらを指すか』とある。調べてみると、「こがなし」は「空閑梨・古河梨」などと書き、小学館「日本国語大辞典」には、『ナシの歴史上の品種。現在では、大古河(おおこが)という品種が知られ、九月中旬に熟し、大果で帯緑黄赤色、果肉は色が白く緻密で柔軟』とあり、「大古河」は岐阜県又は新潟県原産とウィキの「月潟の類産ナシ」にあった(「月潟(つきがた)の類産(るいさん)梨」は新潟県新潟市南区大別当(おおべっとう)地区(旧新潟県西蒲原郡月潟村大別当)に生育するナシ(バラ目バラ科サクラ亜科ナシ属ヤマナシ変種(ニホン)ヤマナシ Pyrus pyrifolia var. culta の古木を指す)。また、サイト「旬の果物百科」の「梨」に、『和梨は果皮の色で大きく』二『つのタイプに分類され』、『幸水や新高梨に代表される皮の色が黄褐色の』「赤梨」『系と、二十世紀梨や菊水に代表される色が淡黄緑色の』「青梨」系がそれで、『青梨系は二十世紀が一世を風靡し』『たが、その後数は減り、現在では幸水や豊水など赤梨系が大半を占めるようにな』ったとある。ナシ、少なくとも、本邦産にニホンヤマナシの原種は青ではなく、赤である。

「赤壺(せきこ)の橘(たちはな)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『未詳。橘は食用みかん類総称の古名』とある。種としては、ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナCitrus tachibana であるが、当該種の実は酸味が強く、生食用には向かず、加工品用に用いる。

「水精(すいしよう)」水晶。

「鳫(かり)」広義の「かり」=ガン(「雁」)は以下の広義のカモよりも大きく、ハクチョウ(カモ科Anserinae亜科Cygnus属の六種及びCoscoroba 属の一種の全七種。全長百四十~百六十五センチメートルで、翼開長は二百十八~二百四十三センチメートルあるだけでなく、飛翔する現生鳥類の中では最大級の重量を有する種群で、平均七・四~十四、最大で十五・五キログラムにも達する)より小さい種群の総称。より詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」を参照。

「鳬(かもめ)」広義の「鴨」(かも)(「新日本古典文学大系」版脚注に『「かもめ」は作者の読み癖か』とある)。カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas を総称するもの。より詳しくは、私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」を参照。

「鳴鶉(うづら)」キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を参照。

「雲雀(ひはり)」スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、本邦には亜種ヒバリAlauda arvensis japonica が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi や亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis が冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もする。私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり) (ヒバリ)」を参照。

「紫菨(しきやう)」「新日本古典文学大系」版は、本文を『紫姜』とするばかりでなく、注でも『しょうがの異名』としている。単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ショウガ属ショウガ Zingiber officinale だが、これは私は納得出来ない。底本も元禄本もここは「紫菨」であって「姜」ではないからである。しかも、電子版「漢字林 艸部」でも「菨」(音「ショウ」)については、『「菨餘(ショウヨ)」、アサザ(莕菜、荇菜)、ミツガシワ科アサザ属の水草』である『アサザ』の類を指すとあるのである。されば、ここは、双子葉植物綱ナス目ミツガシワ科アサザ属アサザ Nymphoides peltata 、或いは、アサザ属ヒメシロアサザ Nymphoides coreana 、或いは、アサザ属ガガブタ(鏡蓋) Nymphoides indica とすべきであろう。大和本草卷之八 草之四 水草類 荇 (ヒメシロアザサ・ガガブタ/(参考・アサザ))」を見られたいが、「詩経」の昔から、アサザは「荇菜」(かうさい(こうさい))として出、若葉が食用に供されることから「菜」と言ったのである。

「靑蓴(せいじゆん)」現行では一属一種の、私の好きな(見るのも、食べるのも。採取したことは残念なことにない。いつか採ってみたいな)、スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ属ジュンサイ Brasenia schreberi である。私の「大和本草卷之八 草之四 水草類 蓴 (ジュンサイ)」を参照されたい。

「溪山(けいざん)の筍(たかんな)」奥深い人跡未踏の幽谷に生える笋(たけのこ)。

「靈澤(れいたく)の芹(せり)」同前の深い沢辺に生えるセリ。日本原産の双子葉植物綱セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。私の「大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 芹(せり) (セリ)」を参照されたい。

「葡萄(ぶどう)」葡萄酒。

「珠崖(しゆがい)の名酒」「珠崖」は漢の郡名。現在の広東省海南島に置かれた。前漢の武帝は南越国を征服し、そこに郡を配したが、珠崖は、その一つ。設置後五十年ほどで廃止されている。「新日本古典文学大系」版脚注は『酒との関係は未詳』とするが、寺本祐司氏の論文「海南島の酒に関する比較考察」PDF・『日本醸造協会誌』(二〇〇九年五月)発行所収)によれば(コンマを読点に代えた)、冒頭の紹介文章で、『海南島は、中国南部に浮ぶ島であり、大陸やフィリピンなどと深い関係がありながらも異なった伝統酒があることが予想される』。一九九五『年には「いも焼酎の源流を採る」調査部(南日本新聞社主催)が海南島におけるサツマイモ焼酎の製造を確認している。本稿では最近著者が行った調査結果を紹介していただいた』として、本文に、「海南島の伝統酒について」として、『海南島では熱帯・亜熱帯地域で栽培される農産物をもちいて酒がつくられていた。以下黎族』(リー族:海南島に住む少数民族)『に伝わる伝統酒についてまとめた。主な酒の原料は糯米』(もちごめ)、『サツマイモ、バナナであった』として、以下「米を原料とした酒」・「吸酒管で飲む酒」・「サツマイモを原料とした酒」・「バナナを原料とした酒」と標題した解説が続く。地理的にも南海の大きな島嶼である海南島は、如何にも本桃源郷のロケーションとも親和性がよい。

「茱萸(しゆゆ)」バラ目グミ科グミ属 Elaeagnus (種は多い)以外に、似たような実をつける「山茱萸」(やまぐみ)=ミズキ目ミズキ科ミズキ属サンシュユ Cornus officinalis がある。

「あるじまうけ」「主設け」。主人(ホスト)による客人(ゲスト)への饗応(オーギー)。

「うろくづ」「鱗屑」。広義の魚類。

「蛤(はまぐり)」広義の魚類を除く貝類を始めとする軟体動物や甲殻類・棘皮動物の水産食用動物の総て。海産動物が全く出てこないという重要な伏線である。

「沈麝(じんじや)」沈香(じんこう)と麝香。「沈香」は狭義にはカンボジア産「沈香木(じんこうぼく)」を指す。東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ属 Aquilaria の、例えば、アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha が、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際に、その防御策としてダメージを受けた部分の内側に樹脂を分泌する。その蓄積したものを採取して乾燥させ、木部を削り取ったものを「沈香」と呼ぶ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することによって比重が増し、水に沈むようになることからかく呼ぶ。原木は幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても、微妙に香りが違うために、僅かな違いを利き分ける香道において「組香」での利用に適している(以上はウィキの「沈香」を参考にした)。「麝香」はヒマラヤ山脈・中国北部の高原地帯に生息するジャコウジカ(鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschus のジャコウジカ類)或いはジャコウネコ(食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae のジャコウネコ類)の雄の生殖腺分泌体。包皮小嚢状の腺嚢を乾燥した暗褐色粒状物に約一、二%程度ばかり含有される高価な動物性香料。アルコール抽出により「ムスクチンキ」として高価な香水だけに利用される。近年、希少動物保護の立場から、香科用目的の捕獲は制限されており、殆んど同一の香気を有する合成香料で代用されている。芳香成分は「ムスコン」と呼ぶ。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麝(じやかう) (ジャコウジカ)」及び「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」を参照。

「甚だ、怪しみて、悅びず」「内心は」ということである。

「古風の躰(てい)」「妹(いも)」という古代歌謡以来の語を用いているからであろう。

「さくとても蕊(しべ)なき花はあしからめ妹(いも)がひげあるかほのうるはし」「新日本古典文学大系」版脚注には、これは、本話がほぼ筋立てをそのまま使った原拠「五朝小説」の「諾皐記」の「大足初有士人云々」の中にでる、『「花ニ蘂無キハ妍(うつく)シカラズ、女ニ鬚無キモ亦醜シ。丈人試ミニ遣(もう)サバ、惣無(すべてなきもの)ハ未ダ必ズシモ惣有(すべてあるもの)ニハ如(し)カズ」という詩の翻案歌。蘂(花蕊)を髭に見立てたもの』とある。原拠本文を確認出来ないので、これ以上は踏み込むことが出来ない。悪しからず。

「えつぼに入《いり》て」「笑壺に入(い)る」は「思い通りになって大いに喜ぶ」ことを言う。

「腹をさゝげたり」腹を抱えて笑った。海老の後方に跳ねるさまをミミクリーしたか。

「司風(しふう)の長」「新日本古典文学大系」版脚注に、『風に関する事を掌握する官職』とする。原話に出ることが示されてある。

「迫戶(せと)」「瀨戶」に同じ。海峡。

「よこしま、なし」横暴なところは、ない。

「道びき」水先案内人。

「海府錄事」「錄事」は実際の記録等を職掌する官職を指す。海を司る龍王の竜宮王府のそれなので「海府」としたものであろう。

「魅(ばか)されたり」「化かされたり」。

「布(しき)さづけられて」「布(し)く」は「遍(あまね)く、勘案して、決め、治める」の意。天帝によって、日々の食料の量まで厳密に決められていて、自分(龍王)の好き勝手にはならない。正確には、過剰に食うことも、恣意的に減らすことも出来ないと言っているのであるが、前者はだめでも、後者は可能ということなのだろう。

「たとひ人といふとも天帝の定め給ふ數の外に、奢りて生類(しようるゐ)を食する時は、必ず、天の責めを受けて、禍ひあり。況や、我等、數の外に、漫(みだ)りに食する事、かなはず」ここは面白い。龍王は、人間よりも、ある種の格(系)の中に於いては低い地位にあるか、或いは束縛が大きいということになる。

「麞(くじか)の胎(はら)ごもり」鯨偶蹄目反芻亜目シカ科オジロジカ亜科ノロジカ族キバノロ属キバノロ Hydropotes inermis (朝鮮半島及び中国の長江流域の、アシの茂みや低木地帯に棲息する、体高四十五~五十五センチメートル、体重九~十一キログラムの小形のシカ)の胎児。

「猿のことり」「新日本古典文学大系」版脚注には、『「猿木取(さるのことり)手足の事なり」(新撰庭訓抄・五月返状)』とある。手羽先を好んで食う人間には残酷と批難する資格はない。

「兎の水鏡(みづかゝみ)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。但し、「みずかがみ」には具の少ない汁の意がある』(出典「可笑記」)とある。

「五種の削物(けづり《もの》)」礼式用の料理で、青・黄・赤・白・黒の五色に見立て、乾き物の魚介五種を削って、器に盛ったもの。種類は一定しないが、普通は「鮑・鰹・鯛・蛸・海鼠」を用いる(小学館「大辞泉」に拠る)。

「七種の菓(くだもの)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『未詳。通常は「五菓」とも。「五菓 ゴクハ〈李、杏、棗、桃。栗〉(書言字考)』などとある。

「䡄則(きそく)」「新日本古典文学大系」版脚注には、『亀足(きそく)か。魚鳥を刺した串の手に持つ部分を巻いた飾りのある紙や、折敷』(おしき)『の底のの紙で四隅を折り返したものなど』を言う旨の記載がある。

「花形」同前で、『花形をした亀足か』としつつ、『または銚子の口を蝶形に結んだ紙をも称した』とある。

「鳳髓(ほうずゐ)」同前で、『鳳凰の髄(骨の脂)』とする。

「獅子膏(《しし》かう)」同前で、『獅子肉の脂』とする。

「靑肪(《せい》はう)」同前では『未詳』とある。

「白蜜(はくみつ)」同前で『蜂蜜』とする。

「海陸(かいろく)」「陸」の「リク」は漢音、「ロク」は呉音。

「大《おほい》さ三尺あまり、色は、さながら、濃紫(こむらさき)にして、鬚、甚だ、長し」色と圧倒的大きさから、イセエビ属の最大種である十脚目イセエビ科イセエビ属ニシキエビ Panulirus ornatus であろう。当該ウィキによれば、成体の体長は五十センチメートルほどだが、体長六十センチメートル・体重五キログラムに達する個体も稀れに漁獲される。体つきは同属のイセエビ Panulirus japonicus に『似るが、頭胸甲に棘が少なく、腹節に横溝がない。頭胸甲の地色は暗緑色で、橙色の小突起が並ぶ。腹部背面は黄褐色で、各節に太い黒の横しまがあり、両脇に黄色の斑点が』二『つずつ横に並ぶ。第』一『触角は黒いが』、七『本の白いしま模様があり』、五『対の歩脚も白黒の不規則なまだら模様となる。第』二『触角や腹肢、尾扇などは赤橙色を帯びる。この様々に彩られた体色を「錦」になぞらえてこの和名がある。種小名 ornatus も「武装した」、「飾りたてた」という意味で、やはり体色に因んだ命名である』。『アフリカ東岸からポリネシアまで、インド太平洋の熱帯域に広く分布する。日本でも神奈川県、長崎県以南の各地で記録されているが、九州以北の採集記録は稀で、南西諸島や伊豆諸島、小笠原諸島でも個体数が少ない』。『サンゴ礁の外礁斜面から、礁外側のやや深い砂泥底に生息し、他のイセエビ属より沖合いに生息する。生態はイセエビと同様で、昼は岩陰や洞窟に潜み、夜に海底を徘徊する。食性は肉食性が強く、貝類、ウニ、他の甲殻類など様々な小動物を捕食する』。『分布域沿岸、特に島嶼部では重要な食用種として漁獲されるが、食味はイセエビより大味とされている。大型で鮮やかな体色から、食用以外にも観賞用の剥製にされて珍重され、水族館等でも飼育される』。グーグルの学名の画像検索をリンクさせておく。私は実物の剥製を何度か見たが、暗い紫色という印象が記憶にあって、この本文の叙述と齟齬がない。

「鈴(すゞ)の御崎(みさき)」珠洲岬(すずみさき)。能登半島の先を占める石川県珠洲市にある岬。その先端部にある金剛崎のこととも、その周辺の岬を含めた総称であるとも言われ、「金剛崎のこと」、「金剛崎・遭崎・宿崎のこと」、「禄剛崎・金剛崎・遭崎・のこと、「禄剛崎・金剛崎・長手崎のこと」とする説があり一致を見ない。国土地理院図では「金剛崎」の位置に「珠洲岬」と併記されており、「日本の地名がわかる事典」によれば、珠洲岬とは、能登半島の東端部を指す総称であるとしながらも、狭義には「金剛崎」をいうとあるとある。参照した当該ウィキに幾つかの岬の配置図がある。]

2021/07/30

伽婢子卷之七 雪白明神 / 卷之七~了

 

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[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。一枚目に使者の描いた横筋がないのが、少し残念。標題は「ゆきしろみやうじん」。]

 

○雪白明神

 

 長亨(ちやうかう)元年九月、將軍源義凞(よしてる)公、みづから軍兵を率して江州に發向し、坂本に陣をとりて、佐々木六角判官高賴(たかより)を攻めさせらるゝに、高賴、ふせぎかねて、城を落ちて、甲賀郡(こうかこほり)の山中に隱れ入りたり。

 高賴が郞等、堅田(かたゝ)又五郞といふものは、武勇ありて、力量、人に勝れ、然かも、常に佛神を敬まひ、後世《ごぜ》を願ふ心ざし、淺からず。「觀音普門品(くわんのんふもんぼん)」一返(へん)、「彌陀經(みだきやう)」一卷、念佛百返を以つて、每日の所作(しよさ)とす。

 已に、大將高賴、城を落ちければ、又五郞も、力なく、むかふ寄手(よせて)に切《きり》かゝり、終に大軍の中を切ぬけて、安養寺山の奧に落ち行《ゆき》たり。

 かくて、日、暮れたりければ、いづかたに出《いづ》べき道も、知らず。

 かたはらに、一つの藁屋(わらや)あり。

 谷陰に立《たち》ながら、内には、人、なし。

 まづ、此家に隱れ居(ゐ)たれば、軍兵、廿騎ばかりの音して、

「まさしく後ろ影は見えしぞ。さだめて、伊賀路(いがぢ)にかゝりて、落行(《おち》ゆき)けむ。」

といふを聞けば、我を討ちとめんとする追手の兵也。

 されども、隱れ居たる家には、目もかけず、やうやう、遠ざかり行く。

『今は、心安し。』

と思ふ所に、又、人の打ち過《すぐ》る音の聞えしかば、ひそかに窓より、覗(のぞ)き見れば、一人の女房、その齡(よはひ)四十ばかりなるが、勢(せい)、細く、高し。

 褐色(かちいろ)の中《なか》なれたる小袖着て、手に、美くしき袋、もちて、

「堅田又五郞殿は、こゝに在(おは)するや。」

といふに、又五郞、物をもいはず、忍び居(ゐ)たり。

 女房、打ち笑ひて、

「何をか、怖れて、忍び給ふぞ。少しも、苦しき事、なし。我はこれ、當國栗太郡(くりもとのこほり)におはします、『雪白(ゆきしろ)の宮《みや》』の御使ひとして、『君が心安くせん』とて、遣はされたり。ゆめゆめ、疑ひ給ふな。君、常に、慈悲深く、神佛を敬ひ、後世を求めて怠りなき故に、其の心ざしを感じて、『雪白の明神』、守り給ふなり。」

とて、すなはち、持ちたる袋の緖(を)をとき、燒餅(やきもちひ)、とり出《いだ》して、食(くは)せ、小き甁(かめ)に、酒を入れて、とり出して、飮ませけるに、又五郞、大《おほき》に飽(あき)みちて、かたじけなく、有難き事、譬(たと)へんかたなし。

 女房いふやう、

「此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」

とて、歸るか、とみえし、銷(けす)が如くに、失せたり。

 案の如く、夜半ばかりに、怪しき光り、ひらめき、輝きて、來《きた》る者、あり。

 又五郞、

『さればこそ。』

と思ひ、窓より、覗きければ、身のたけ、一丈あまりの鬼、赤き髮、亂れ、白き牙(きば)、くひちがふて、兩の角は、火のごとし。

 口は耳元までさけて、眼(まなこ)の光り、鏡の面(おもて)に朱をさしたるがごとし。

 爪は鷂(くまたか)の如く、豹(へう)の皮を腰當(こしあて)とし、直(ぢき)に内に駈(か)け入らんとするに、かの女房、庭の土に書きたる筋を見て、大《おほき》に怒れる。

 まなこのひかり、いなびかりの如く、ひらめき、口より、火を吐きて、立《たち》やすらひ、力足(ちからあし)踏みて、響(どよ)みける。

 其の有樣、身の毛、よだち、魂(たましゐ)きえて、恐しといふも、愚か也。

 鬼、すでに、筋を越(こゆ)る事、かなはず、怒りを抑へて、かたはらに立寄りし所に、軍兵(ぐんびやう)、又、十騎ばかり、追ひ求りて、

「又五郞は此家に隱れしと聞ゆ。出《いで》よ出よ。」

と、責めけるに、かの鬼、かけ出《いで》て、馬上の兵を摑(つか)み、馬を踏み殺して、食(くら)ふに、其外の郞等(らうどう)共は蛛(くも)の子を散らす如くに、足にまかせて、にげうせたり。

 夜、已に明方になりたれば、鬼も消えうせて、物靜か也。

 立出《たちいで》て見れば、馬のかしら、人の手足、血まじりに、散(ちり)みだれ、よろひ・甲(かぶと)・太刀、皆、ひき散らしてあり。

 又五郞、終に逃るゝ事を得て、それより、伊勢にくだり、白子(しろこ)と云ふ所より、舟に乘り、駿州にゆきて、今川氏親(うぢちか)を賴みて、身を隱し、後に、その終はる所を知らず。

 

伽婢子卷之七終

 

[やぶちゃん注:「長亨(ちやうかう)元年」一四八七年。正しい漢字は「長享」(ちょうきょう)で、歴史的仮名遣は「ちやうきやう」。

「源義凞(よしてる)公」室町幕府第九代将軍足利義尚(寛正六(一四六五)年~長享三(一四八九)年:在職:文明五(一四七四)年から没年まで)のこと。この翌年の長享二(一四八八)年)に改名して義煕と称した。当該ウィキによれば、ここに出る長享元年九月十二日、公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約二万もの軍勢を率いて近江へ出陣した(「長享・延徳の乱」)。高頼は観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走したが、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの一年五ヶ月もの間、近江鈎(まがり:現在の滋賀県栗東市(りっとうし)。ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)への長期在陣を余儀なくされた(「鈎の陣」)。そのため、「鈎の陣所」は実質的に将軍御所として機能し、京都から公家や武家らが訪問するなど、華やかな儀礼も行われた。彼は長享三年三月二十六日、近江「鈎の陣」中で病死した。享年二十五(満二十四歳)であった。死因は過度の酒色による脳溢血とされるが、荒淫のためという説もある、とある。

「坂本」不詳。琵琶湖南西岸に知られた地名(比叡山の東方の登り口)としてあるが、ここでは位置的におかしい。「新日本古典文学大系」版脚注でも注をしていない。

「佐々木六角判官高賴(たかより)」(?~永正一七(一五二〇)年)は大名。近江国守護佐々木(六角)久頼の嫡子。文明一五(一四八三)年には大膳大夫となり、その時既に高頼を名乗っている。「応仁の乱」(一四六七年~一四七七年)においては、西軍(山名持豊方)に組みし、東軍(細川勝元方)の京極持清と結んだ従兄の六角政尭(まさたか)や、江北の京極氏と敵対した。近江国守護職については、たびたび、解任と補任を繰り返すが、これは「応仁の乱」による影響や、高頼が幕命に従わず、領国経営に傾倒したためであった。戦国大名化する六角氏による所領横領などの行為は、当然、幕府の許すところではなく、幕府はたびたび高頼討伐の軍を近江に出した。この年の将軍足利義尚の出陣は、最大規模のもので、長期に亙った。しかし、高頼は、その都度、巧みに甲賀郡や伊勢国に落ち延び、したたかに勢力を持ち直しては近江に君臨したのであった(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。彼の居城であった観音寺城はここにあった。

「甲賀郡(こうかこほり)」現在の滋賀県甲賀市

「堅田(かたゝ)又五郞」近江堅田(現在の琵琶湖南西岸の大津市堅田)に由来する姓であろう。

「觀音普門品(くわんのんふもんぼん)」「法華経」の中野「觀世音菩薩普門品第二十五」。

「彌陀經(みだきやう)」「佛說阿彌陀經」一巻。鳩摩羅什(くらまじゅう)訳。

「安養寺山」現在の滋賀県栗東市安養寺にある。標高二百三十七メートル。ここを山伝いに南西に向かえば、伊賀を経て、主君の落ちのびた甲賀へは行けるが、しかし、この山の北麓にある安養寺は、この時、将軍の本陣が最初に置かれた場所で(「鈎の陣」へは後に移った)、これはもう、幕府軍のテリトリーに入ってしまった形になり、甚だ「危険がアブナいよ」。

「まさしく後ろ影は見えしぞ」「さっき、確かには不審な者の後ろ姿を見かけたぞ!」。

「さだめて、伊賀路(いせぢ)にかゝりて、落行(《おち》ゆき)けむ。」

「勢(せい)」身の丈(たけ)。背(せい)。

「褐色(かちいろ)」染色の名で、中世以降、紺色乃至は黒みのある藍色を指す。

「中《なか》なれたる」ほどよく着馴れた感じのする。妙に新品だったりして目立たないいのである。寧ろ、その方が自然で、神の使者と聴いて、構えてしまい、警戒しない感じもしないでもない。

「栗太郡(くりもとのこほり)」滋賀県の旧栗太郡(くりたぐん:現在の草津市・栗東市の全域と大津市及び守山市の一部を含む広域郡であった)は古くは「栗太」「栗本」とも記され、「くりもと」と読んでいた。現在は郡そのものは消失している。

「雪白(ゆきしろ)の宮《みや》」現在の滋賀県栗東市高野にある高野神社。安養寺山の東北直近。公式サイトの「御由緒」に、『秀峰三上山を背景に野洲川の辺り、湖南の沃野に鎮座する延喜式神名帳に記された栗太八座に一する位階ある式内社である。社伝によると、天智天皇の御代以降』、『高野造』(「たかののみやつこ」か)『なる人が』、『この地一帯を開墾開発し』、『高野郷と名付けられ、特に飛鳥時代、和銅年間』(七〇八年~七一四年)『我が国で、最初に鋳造された「和銅開珍」の鋳師(鋳銭師)高野縮禰道経』(「たかのすくねみちつね」か)『一族が住んでいたことは有名であり、それ等の人々の氏神として祖先を祀ったのが、当社である。中世よりは、通称「由岐志呂宮」』(「ゆきしろのみや」と読める)『又「由岐宮」』(「ゆきのみや」と読める)『として尊崇されてきた。これは大同元年』(八〇六年)、『大嘗祭の悠紀方』(ゆきかた:大嘗祭で「悠紀の国」(神饌の新穀を奉るように卜定(ぼくじょう)によって選ばれる国。平安以後は近江国に一定するようになった)の神事の行なわれる東方の祭場。また、そこに関係する人々や事物を指す)『として新稲を進納したことに由来する。南北朝時代』、『戦火により社殿類焼するが、氏子等』が『仮殿を営み』、『祭祀十年余経て』、貞治元(一三六二)年・天文二(一五三三)年・寛永七(一六三〇)年と『改築修造を重ね』、天保三(一八三二)年に『現在の社殿を建立し』たとある。

『女房いふやう、「此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」』どうもピンとこない箇所である。ここは錯文が疑われる。則ち、

   *

 女房、此窓の前、庭の面(おも)に、橫筋(よこすぢ)一つ書きつけて、いふやう、

「今宵、夜半ばかりに、怪しき物、來《きた》り、おびやかさん。君、構へて、恐れ動き給ふな。是れをのがれて後は、行末、更に惡しき事、あるべからず。」

   *

が正しいのではないか?

「鷂(くまたか)」この漢字「鷂」は現在のタカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus を指し、「くまたか」という読みの方は、タカ目タカ科クマタカ属クマタカ亜種クマタカ Nisaetus nipalensis orientalis で種が異なる。ここは迫力から圧倒的に後者であり、だとすれば、漢字は「鵰」である。(但し、「鵰」の漢字は広義の大型猛禽類としてのワシをも指す)。

まあ、順番に、私の、

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)」

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)」

「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)」

を見て戴くのがよかろう。因みに、先般、電子化注したばかりの、

「日本山海名産図会 第二巻 田獵品(かりのしな) 鷹」

も参考になると思う。お暇な方は見られたい。因みに、「新日本古典文学大系」版脚注でも『鵰の誤り』とする。幾ら国文学的注とはいえ、「鷂」が何を指すかを示さないのはいかにも不親切である。

「豹(へう)」食肉目ネコ科ヒョウ属ヒョウ Panthera pardus 。丑寅の「トラ」としないところが、ナウい感じがする。

「力足(ちからあし)」「地團駄・地團太」(ぢだんだ:元は「地蹈鞴」(ぢたたら)の音変化への当て字)で、足で地を何回も踏みつけること。

「響(どよ)みける」使者の女の引いた筋の向こう側から、大声を立てて雄叫びを挙げながら、しかし、そこから前に進めずにいるのである。地団駄と絶妙のマッチングである。にしても、女の筋は呪的結界であることは判るが、この鬼は、どのようにして、どこから誰が遣わした者なのか、その辺りは必ずしも、分明ではないのが、ちょっと不満な気もするのである。

「魂(たましゐ)」元禄版の読み。歴史的仮名遣は「たましひ」が正しい。

「白子(しろこ)」三重県鈴鹿市白子(しろこ)。白子港を持つ水産業の町で。江戸時代には紀州藩が手厚く保護し、伊勢湾内の物流の中核として発達した。

「今川氏親(うぢちか)」(文明三(一四七一)年或いは文明五(一四七三)年~大永六(一五二六)年)。父は駿河守護職今川義忠、母は北条早雲の妹北川殿。文明八年の父の不慮の死により、暫くの間は駿河小川城に避難したが、この長享元(一四八七)年、伯父に当たる北条早雲の援助で当主として国政を執り始めた。この時の発給文書に印文不詳の印判を捺しているのが、戦国期武将印判使用の第一号として知られている。また、検地の施行や分国法「仮名目録」の制定など、守護大名から戦国大名への脱皮を図っている。明応三(一四九四)年から、遠江への侵入を開始し、文亀元(一五〇一)年には、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏の連合軍を撃破し、永正一四(一五一七)年、遠江を平定した(ここは「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

伽婢子卷之七 菅谷(すげのや)九右衞門

 

Tugetakikawa

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。]

 

   ○菅谷(すげのや)九右衞門

 

 天正年中に、伊勢の國司具敎(とものり)公をば、「武井(たけゐ)の御所」とぞ云ひける。民部少輔具時(ともとき)は國司の甥(をひ)にて、南伊勢の木作(こづくり)といふ所にすみ侍べり。此の郞等《らうどう》に柘植(つげの)三郞左衞門・瀧河三郞兵衞とて、二人の侍あり。武勇智謀ある者なりければ、時にとりて、名を施しけり。

 然るに、國司具敎、その甥民部少輔、おなじく奢り(おごり)を極め、國民をむさぼり、侫奸(ねいかん)の者に親しみ、國政、正しからざる故に、

『行末、賴もしからず。』

と思ひ、柘植と瀧川、二人、心を合はせ、信長公に屬(しよく)せしめ、國司を亡ぼし、すなはち、勸賞(けんじやう)をかうふり、立身して、權(けん)を取り、威を震ひけり。

 其ころ、伊賀國に一揆起り、近鄕のあぶれもの、武井の城(じやう)の餘黨ども、多く集まり、要害を構へて楯こもり、土民百姓を惱まし、國郡村里を掠(かす)めしかば、信長公、

「早く是れをせめほさずば、大なる難義に及び、諸方の手づかひ、障(さはり)とならん。」

とて、軍兵を差向けられし所に、城中、强くして、人數、多く損じける中に、柘植・瀧川、二人ながら、打たれたり。

 是れによりて、あつかひを入られ、終に、信長公に隨ひけり。[やぶちゃん注:『そこで、信長は「あつかひ」(調停・仲裁)を伊賀との間に入れ、伊賀の衆や「近鄕のあぶれもの」や「武井の餘黨」は、皆、信長に従った』。]

 其後、一年ばかりを經て、信長公の家臣菅谷(すげのや)九右衞門、所用ありて、山田郡(《やまだ》のこほり)に行ける道にて、柘植・瀧川に行合《ゆきあひ》たり。

 菅谷、思ひけるは、

『此の二人は正しく打ち死《じに》したりと聞しに、是れは夢にてやあるらん。』

と怪しみながら、立向ひ、物語するに、柘植、云やう、

「久しくて對面す。いざ、こゝにて、酒ひとつ、のみ給へ。」

とて、召し連れたる中間に仰付けて、小袖ひとつ、持たせ、酒屋に遣はし、質物(しちもつ)として、酒、取りよせ、むしろを借(かり)て、道端の草むらに敷かせ、柘植・瀧川・菅谷三人、打ち向ひて、數盃(すはい)を傾けたり。

 瀧川、云やう、

「昔、もろこしの諸葛長民と云《いふ》人は、劉毅(りうき)が殺されし時、これがために軍兵(ぐんひやう)を催し、亂を作《な》さんとして、未だ、思ひ定めず。かくて曰はく、『貧賤なれば、富貴(ふうき)を願ふ。富貴になれば、かならず、危き事に逢ふ。其時、又、「元の貧賤にならばや」と思ふとも、是れも又、かなふべからず。腰に十萬貫の錢を纒(まと)ひて、鶴にのりて楊洲に登る』といふ。思ふ儘なる事は、なし。武士(ものゝふ)と生れ、其名を後代に傅ふる程の手柄なき者は、必ず、耻を萬事に殘す事、いにしへ、今、ためし多し。遠く他家に求むべからず。織田掃部(おだかもん)は、さしも勳功を致せしか共、終に日置(へき)大膳に仰せて誅せられ、佐久間右衞門は、信長公草業の御時より忠節ありけれ共、忽ちに追ひはなたれて、耻に逢ひたり。歷々の功臣、猶、かくの如し。まして、其の外の人、更に行末、知り難し。」

といふ。

 瀧川がいふやう、

「下間(しもづま)筑後守は越前の朝倉に方人(かたうど)して、木目(きのめ)峠の城に籠りしを、朝倉、うたれて後、平泉寺に隱れて跡をくらまし、醒悟發明(せいごはつめい)の道人《だうにん》となりて、

 梓弓(あつさゆみ)ひくとはなしにのがれずは

   今宵の月をいかでまちみむ

と詠ぜしは、名を埋(うづ)みて道(だう)に替へたり。荒木攝津守が家人《けにん》小寺官兵衞は、主君の逆心を諫めかねて、髻(もとゞり)きりて、僧になりつゝ、

 四十年來謀戰功

 鐵胃着盡折良弓

 緇衣編衫靡人識

 獨誦妙經梵風

[やぶちゃん注:返り点のみで示した。底本の訓点に従った訓読を以下に示す。

   *

 四十年來 戰功を謀(はか)り

 鐵胃(てつちう) 着盡(きつ)くして 良弓を折(くじ)く

 緇衣(しえ)編衫(へんさん) 人の識ること靡(な)し

 獨り妙經(めうきやう)を誦(じゆ)して 梵風(ぼんふう)を詢(した)ふ

   *]

という詩を題して、世を逃れたるもたふとしや。此の二人は、其の身、逆心の君《くん》に仕へながら、終に、よく、禍ひを免かれたり。是れ、智慮の深きに侍べらずや。」

といふ。

 柘植、うち笑ひて、いふやう、

「此の輩《ともがら》は、我等のため、耻かしからずや。いで、其の伊賀の一揆ばら、謀(はかりこと)は、つたなかりし者を。」

といふ。

 瀧川、

「いや、其事は、只今、又、いふべきにあらず。思へば、口惜しきに、たゞ、酒のみ給へ、菅谷殿。」

とて、互ひに、盃(さかづき)の數、かさなりて後(のち)、菅谷、二人に向ひて、

「如何に、かたがた、日來(ひごろ)は、數奇(すき)の道とて、もて遊ばるゝに、今日(けふ)の遊びに、一首、なきか。」

といふ。

「されば。」

とて、打案じつゝ、柘植三郞左衞門、

 露霜ときえての後はそれかとも

   くさ葉より外(ほか)しる人もなし

瀧川三郞兵衞、

 うづもれぬ名は有明の月影に

   身はくちながらとふ人もなし

と、よみて、二人ながら、そゞろに淚を押し拭(ぬく)ひけり。

 菅谷、歌の言葉、いとゞあやしく、又、この有樣、心得がたく驚き思ひて、

「いかに。日ごろは、武勇智謀を心に掛けて、少しも物事によわげなき氣象のともがら、只今の歌のさま、哀傷(あいしやう)ふかく、淚を流しけるこそ、怪しけれ。」

といふに、二人ながら、更に言葉はなく、大息(《おほ》いき)つきて、嘯(うそふ)きつゝ、酒、已になくなれば、

「今は。是までなり。」

とて、座をたち、暇乞(いとまご)ひして半町ばかり行くかと見えしが、召しつれたる中間ばらもろ友に、跡なく消《きえ》うせたり。

 菅谷、大に驚き、伊賀にて打死せし事を、やうやう、思ひ出したり。

 日は、山の端に傾(かたふ)き、鳥は、梢(こづへ)にやどりを爭ふ。

 人を遣はして、酒うる家に、質物とせし小袖を取寄せて見れば、手にとるや、ひとしく、

「ほろほろ」

と碎けて、土ほこりの如くになれり。

 菅谷、いそぎ、歸りて、密かに僧を請じ、二人の菩提を吊(とふら)ひけると也。

 

[やぶちゃん注:「菅谷(すげのや)九右衞門」菅屋長頼(すがやながより ?~天正一〇(一五八二)年:通称に九右衛門)は織田信長の側近。姓は「菅谷」とも書かれる。長頼は織田信房次男。但し、信房は織田氏一族ではなく、別姓を名乗っていた信房が、その功績により織田姓を与えられたと伝わる。長頼が生まれた時期は明確ではないが、史書には一五六〇年代後半に菅屋九右衛門として登場しており、若い頃から織田信長に仕えていたと考えられる。長頼、菅屋姓を名乗った時期は、諸史料から、元服前後と考えられる。初見は山科言継「言継卿記」の永禄一二(一五六九)年三月十六日の条が初見で、この時、岐阜を訪れた言継を織田信広・飯尾尚清・大津長昌らとともに接待し、山科家の知行地の目録を委ねられている。同年八月の伊勢大河内城攻めで、「尺限廻番衆」(さくきわまわりばんしゅう:旗本格)として前田利家らとともに戦っている。元亀元(一五七〇)年六月には「姉川の戦い」の前に近江北部に布陣している様子が確認できる。信長の家臣としては馬廻役であったが、ただの馬廻役よりも高位であったことが諸事実から伺える。同年九月の「志賀の陣」に参陣したが、この時、馬廻ながら、足利義昭への使いを務めたり、陣中を訪れた山科言継を取り次いだりしていることから、前線には出ず、信長の傍らで側近のような役割をしていたと思われる。同年十月二十日、信長の使者として朝倉義景陣中へ赴き、織田軍との決戦に応じるよう、促したが、不調に終わった。初期の頃は馬廻として戦に赴く信長に付き従って行動していた長頼であったが、程なくして各種奉行に用いられるようになった。天正元(一五七三)年九月、鉄砲による狙撃で信長を暗殺しようとした杉谷善住坊の尋問役と、鋸挽きによる処刑を執行している。天正二(一五七四)年三月の東大寺蘭奢待切り取りの際の奉行の一人を務め、同年七月二十日には羽柴秀吉が長頼と相談の上、朝倉氏旧臣たちの知行の割当てを執行すると通達している。天正三(一五七五)年八月二十日、「越前一向一揆」討伐のため、越前日野山を前田利家とともに攻め、一揆一千名余りを討ち取り、また捕らえた捕虜百名も即刻、首を刎ねている。天正六(一五七八)年十一月の「摂津有岡城の戦い」では鉄砲隊を率いる一人として有岡城を攻撃した。天正八(一五八〇)年からは能登・越中など北陸の政務を担当するようになった。翌年三月には、七尾城代として能登入りし、以後、暫く直接の政務にも当たっている。また、上杉氏に対する外交担当も務めていたらしい(かく鎮撫が済んだ能登は前田利家に与えられた)。かく北陸方面で政務に実績を残した長頼であったが、この間、北陸方面軍を統括する柴田勝家や越中の一職支配権を持っていた佐々成政らに了承などを仰いだことは一度としてなく、信長から遣わされた「上使」として、単独で政務を執行できるだけの強い権限を与えられていたことが窺われる。天正一〇(一五八二)年の「甲州征伐」には信長に近侍して三月中に出馬し、四月に甲斐入りしたが、既に織田信忠によってほぼ武田氏は駆逐されており、戦闘はなかった。五月二十九日、信長に従って上洛、六月二日に発生した「本能寺の変」においては、市中に宿を取っており、本能寺に駆けつけたものの、明智勢の前に本能寺に入ることが出来ず、妙覚寺の織田信忠の元に駆けつけて、二条新御所で信忠に殉じた。子として角蔵・勝次郎の二人の息子がいたが、「本能寺の変」において角蔵は本能寺で、勝次郎は長頼とともに二条新御所で討死しており、子孫は伝わっていない(私は名すらも知らない人物なので、以上は当該ウィキに拠った)。

「天正年中」ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。天正一〇(一五八二)年に、ヨーロッパで用いられる西暦はカトリック教会が主導してユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦された。その実施が最も早かった国々では、ユリウス暦一五八二年十月四日(木曜日)の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日(金曜日)としている。

「伊勢の國司具敎(とものり)」北畠具教(享禄元(一五二八)年~天正四(一五七六)年)は戦国武将。伊勢国司(南北朝初めの北畠顕能(あきよし)以来、七代に亙って世襲)は、北畠晴具の長男、母は細川高国の娘。天文六(一五三七)年叙爵以降、朝位朝官を歴任し、弘治三(一五五七)年には正三位に叙された。北畠氏は具教の時期に極盛期を迎えるが、永禄一二(一五六九)年八月、織田信長の総攻撃を受けた。一族の精鋭は大河内(現在の三重県松阪市)に籠城して持ちこたえ、信長の次男茶筅丸(ちゃせんまる:後の信雄(のぶかつ/のぶお)を具教の長男具房の養子とすることで和議が成立したが、七年後の天正四(一五七六)年、具教は織田方に籠絡された旧臣に三瀬御所(現在の三重県大台町)で暗殺され、北畠氏は滅んだ(「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「武井(たけゐ)の御所」北畠氏が本拠地とした、伊勢国一志(いちし/いし)郡多気(たげ)にあった霧山城の別名多気城のこと(現在の三重県津市美杉町上多気及び美杉町下多気。ここ一帯。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「民部少輔具時(ともとき)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『北畠支流木造家に具時の名は見えない。ここは木造具政が当たるか。北畠晴具の三男。「国司の甥に民部少輔といふ人は南伊勢の木造といふ所に城をかまへてをかれたり(古老軍物語・』『伊勢の国司ほろびし事)』とある。木造具政(こづくりともまさ 享禄三(一五三〇)年~?)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・公家。堂上家・木造家の最後の当主。参議・北畠晴具の三男。左近衛中将木造具康の養子。北畠家第七代当主北畠晴具の三男(次男説もある)として生まれたが、父の命で木造具康の跡を継いで、分家の木造家の当主となった。天文一三(一五四四)年に従五位下に叙爵し、侍従となり、天文二一(一五五二)年には正五位下・左近衛少将に叙任され、翌年、従四位下・左近衛中将に昇った。天文二十三年には戸木城(現在の三重県津市戸木町)を築城している。永禄一二(一五六九)年五月に織田信長が伊勢国に侵攻して来ると、長兄具教に背いて、信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった信長の次男織田信雄の家老となった。信長没後も信雄に仕え、天正一二(一五八四)年の「小牧・長久手の戦い」では戸木城に籠城して、羽柴秀吉方の蒲生氏郷率いる軍勢と奮戦したが、信雄が秀吉と和議を結んだことから、城を退去した。後の行方は不明か(当該ウィキに拠った)。

「南伊勢の木作(こづくり)」三重県津市木造町(こつくりちょう:現在の地名は清音)。

「柘植(つげの)三郞左衞門」柘植保重(つげ やすしげ ?~天正七(一五七九)年)は織田氏家臣。通称は三郎左衛門。柘植氏の出身で、確証は得られていないが、伊賀国の土豪福地宗隆の子で、滝川雄利(かつとし:本「瀧河三郞兵衞」のこと。後注参照)の姉の夫、或いは雄利の実父との説がある。初め、木造具政に仕えたが、織田信長が伊勢攻めを開始した際、具政に対し、北畠家から寝返るよう説得し、滝川雄利らとともに信長に降った。この時、保重が北畠家に人質に出していた妻子は磔(はりつけ)にされている。永禄一二(一五六九)年、信長の軍勢七万(実数は五万とも)が北畠領に侵攻すると、織田軍とともに、国司北畠具房(具教の子)の居城であった大河内城を攻めた。信長の次男茶筅丸(信雄)を北畠家の養子に入れることで、具房は織田家と和睦し、これ以降、保重は茶筅丸付きの家老となった。天正四(一五七六)年、「三瀬の変」(同年十一月二十五日、伊勢国三瀬御所の北畠具教や同国田丸城に招かれていた長野具藤らが同日に襲撃され、討死した事件)では、保重は北畠具教と、未だ三歳の徳松丸、一歳の亀松丸らを討ち取るべく、三瀬御所に向かい、これらを殺害したグループに属している(但し、「勢州軍記」では三瀬御所ではなく、大河内御所である大河内教通の宿泊所を襲ったとある)。天正七(一五七九)年、主君の信雄に従い、伊賀国に攻め込むが、信雄軍は伊賀の諸豪族の抵抗に遭い、戦況が不利となったため、退却した。この撤退時の殿軍(しんがり)を務めた最中、保重は伊賀側の植田光次に討たれた(「第一次天正伊賀の乱」。以上は当該ウィキに拠った)。「新日本古典文学大系」版脚注には、『「木作殿の郎等につげの三郎左衛門といふものは、男がら人にすぐれ兵法に達し智慮さかしき武勇のものなり」(古老軍物語六・伊勢の国司ほろびし事)』とある。

「瀧河三郞兵衞」滝川雄利(天文一二(一五四三)年~慶長一五(一六一〇)年)は伊勢国一志郡木造生まれの大名で、伊勢神戸城主、後の常陸片野藩初代藩主。伊勢国司北畠家の庶流木造家の出身とされるが、父母については諸説あって一致を見ない。「寛永諸家系図伝」の「木造氏系図」では具康の娘、「星合(ほしあい)氏系図」では俊茂の娘と北畠氏家臣柘植三郎兵衛の間の子とし、「滝川氏系図」では具康の子とする。また、「寛政重修諸家譜」の編纂時に、滝川家が提出した家譜では、雄利は具政(北畠宗家からの養子)の三男で母は俊茂の娘としていた。さらに、「系図纂要」では俊茂の子となっている。初め、出家して源浄院の僧主玄を称したが、後に還俗して、滝川一益(かずます/いちます)から滝川の姓を与えられ、滝川三郎兵衛を名乗った。一益との関係は、娘婿に迎えられたとも、養子とされた可能性も指摘されている。一益没落の後も、豊臣政権下で重用され、従五位下下総守に叙任、羽柴氏を賜姓された。江戸幕府に仕えた晩年まで、羽柴下総守と称し、滝川に復姓したのは子息正利の代である。永禄一二(一五六九)年、織田信長の北畠家攻略戦の際、信長の家臣滝川一益の調略を受け、柘植保重とともに当主の木造具政を織田方に寝返らせ、織田軍の侵攻を手引きして、その勝利に貢献した。この時、一益は源浄院の才能を見出して家中に引き取り、還俗させて滝川姓を与え、自身の甥として織田信長に仕えさせた。初め。通称を兵部少輔、諱は自署によれば友足(ともたり)で、後、別名として伝わる一盛(かずもり)・雅利(まさとし)に改めたと思われる。信長の命により、北畠家に養子入りした北畠具豊(後、信意(のぶおき)、さらに織田信雄に改名)の家老となり、通称を三郎兵衛に改めた。天正四(一五七六)年、他将とともに軍勢を率い、北畠具教の居城三瀬御所を密かに包囲して具教を討ち果たした(「三瀬の変」)。「勢州軍記」によれば、雄利は策をもって具教の近習を寝返らせ、太刀を抜けないように細工しておいたという。天正六(一五七八)年、信意の命によって伊賀国に侵攻し、丸山城を修復するが、伊賀の国侍衆(くにざむらいしゅう)の反撃に遭い、伊勢国へ敗走した(「第一次天正伊賀の乱」)。「伊乱記」によると、この時、比自岐(ひじき)附近で合戦になり、雄利の軍勢は谷底へ追い詰められたが、雄利は地形をよく把握していたので、自ら鑓をとって反撃に転じ、伊賀衆に攻めあぐねさせ、遂に夜間のうちに抜け出し、無事に松ヶ島城に帰還した。雄利の兵も、戦意をなくしたように見せかけて逃亡したので、これを見た伊賀衆らは「雄利を討ち取った」と喜んだ、という。天正九(一五八一)年)の「第二次天正伊賀の乱」の際には、主力とともに近江側から侵攻する信意に代わり、伊勢衆の大将として加太口からの侵攻を受け持った。雄利は伊賀衆を調略して結束力を弱めて勝利に貢献し、伊賀国中三郡を得た信意によって伊賀国守護に任命されている。雄利は大寺院・丸山城・滝川氏城を改修、平楽寺の跡に後の伊賀上野城となる砦を築き、伊賀国を支配した。翌天正十年、「本能寺の変」の後、伊勢で蜂起した北畠具親が伊賀に落ちのびて伊賀国一揆の再起をはかった際には、「大剛之者也」と評される活躍ぶりで、これを鎮圧した。同年、主君・信意が「信勝」に改名したのに伴い、その偏諱を与えられて勝雅(かつまさ)と改名、さらに信勝が「信雄」に改名すると、重ねて偏諱の授与を受け、雄利(かつとし)と改名した。天正十二年、信雄が羽柴秀吉に通じたとして津川義冬ら三家老を殺し、「小牧・長久手の戦い」を起こすと、雄利も秀吉の誘いを受けたが、拒絶した。雄利は信雄によって津川の居城であった松ヶ島城に日置大膳亮とともに入れられ、徳川家康の送った服部正成の援軍を得て、羽柴秀長の包囲に対し、四十日に亙って籠城したが、奮戦及ばず、開城して尾張に退いた後も、北伊勢の浜田城に入って、再び籠城している。信雄が和睦を決意すると、義父(岳父)の一益を通じて秀吉に接近し、単独講和を実現させ、秀吉側の講和の使者として家康の元へ派遣されている。豊臣秀吉の下では羽柴姓を賜り、信雄重臣として北伊勢の運営を任された。天正十三年の「織田信雄分限帳」では3万八千三百七十貫という信雄家中では異例の高禄を与えられている。翌天正十四年には、秀吉の意を受けて、家康の元に派遣され、家康と秀吉の妹朝日姫との婚儀を成立させて、輿入れに同行した。その後は九州平定に参加し、戦後に石田三成・長束正家・小西行長らとともに荒廃した博多の復興事業を奉行として命じられている。天正一八(一五九〇)年の「小田原征伐」にも従軍し、陣中に北条氏直の訪問を受けて、その降伏を仲介している。同年七月十三日、伊勢神戸城二万石を領し、織田信雄改易の後も、そのまま領国を安堵され、秀吉直臣となり、秀吉の御伽衆に加えられた。「文禄の役」では肥前名護屋城に参陣し、文禄三(一五九四)年には伏見城普請に加わって七千石、翌文禄四年には、さらに伊勢員弁(いなべ)郡五千石を加増された。同年の「秀次事件」にも連座したが、叱責されただけで、特に処罰は受けずに済んでいる。慶長三(一五九八)年の秀吉の死に際して遺物金十五両を拝領した。慶長五年の「関ヶ原の戦い」では西軍に与し、軍勢四百名で関ヶ原・伊勢口の防備にあたった後、居城神戸城に籠城した。このため、戦後に改易された。後に徳川家康に召し出され、常陸国片野二万石の所領を与えられ、再び出家し、刑部卿法印一路と号し、徳川秀忠の御伽衆となった。慶長十五年に死去し、片野藩二万石は子の滝川正利が継いだが、病弱で嗣子がなく、寛永二(一六二五)年に所領を幕府に返上し、片野藩は二代で終わった。一方、滝川家の名跡は正利の娘婿滝川利貞が継承し、子孫は四千石の旗本として幕末まで続いた。また、幕末の大目付滝川具挙(ともたか)は、その分家千二百石の当主であり、その次男海軍少将滝川具和を通じて子孫は明治以降も存続している(以上は当該ウィキに拠った)。さても、以上の史実から、本話の三人の登場人物は、

菅屋長頼は信忠に殉じて天正一〇(一五八二)年に自死

柘植保重は「第一次天正伊賀の乱」の伊賀撤退の際に天正七(一五七九)年に討死

滝川雄利は江戸時代初期まで生き延びて慶長一五(一六一〇)年)に数え六十八歳で遷化

しており、事実と「瀧河」に関しては全く齟齬することが判明する。

「勸賞(けんじやう)」「かんじょう」「けじょう」とも読む。主君が、功労を賞して、官位や物品・土地などを授けること。

「山田郡(《やまだ》のこほり)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『三重県阿山郡大山田村および上野市の一部』とあるが、現在は統合により、伊賀市となっている。この附近であろう。

「小袖」大袖或いは広袖の着物に対して、袖口が縫い詰まった着物のこと。初めは筒袖で、平服として、また大袖の下着として用いられたが、鎌倉・室町頃から表着とされ、袂の膨らみのついた現在の着物のような形となり、衣服の中心となった。縫箔(ぬいはく)・摺箔(すりはく)・絞染・友禅染など、あらゆる染織技術が応用され、桃山・江戸時代を通じて最もはなやかな衣服であった。ここではエンディングでの重要なアイテムとなる。

「諸葛長民」(しょかつ ちょうみん ?~四一三年)は東晋末期の武将・政治家。本貫は琅邪郡陽都県。文武に才能があったが、行いが悪く、郷里での評判は挙がらなかった。桓玄によって参平西軍事に取り立てられたが、貪欲で、民衆から厳しい搾取を行ったことにから、免官された。桓玄が安帝を廃して皇帝に即位すると、豫州刺史刁逵(りょうき)の左軍府参軍・揚武将軍となるが、劉裕(後の南朝宋の武帝)らの桓玄打倒の計画に参加し、歴陽で劉裕らと呼応する約束をした。劉裕が挙兵すると、諸葛長民は期日に間に合わず、刁逵に捕らえられたが、護送される途中で救い出され、輔国将軍・宣城郡内史に任じられた。劉敬宣とともに桓歆(かんきん)を討ち破り、新淦(しんかん)県公に封じられた。南燕の慕容超が下邳(かひ)を攻めると、武将の徐琰(じょえん)を派遣し、これを撃退し、使持節・都督青揚二州諸軍事・青州刺史・晋陵郡太守に昇進した。四一〇年、盧循が反乱を起こして首都建康に迫ると、諸葛長民は都を守るため、軍を率いて建康に入り、劉裕の命令で劉毅(?~ 四一二年:東晋の武将。沛国沛県の生まれ。四〇三年の桓玄の帝位簒奪に際して、翌年に劉裕や何無忌らと共に反桓玄の兵を挙げこれを打倒し、また、その後の盧循の乱の平定に貢献、衛将軍・荊州刺史に就任した。しかし以下に見る通り、劉裕への不満を抱いていたことを逆に察知され、攻められて敗死した)と北陵を守備して石頭城を援護し、反乱軍を撃退した。盧循が平定されると、都督豫州揚州之六郡諸軍事・豫州刺史・淮南郡太守に転任した。四一二年、劉裕は劉毅を討ちに江陵に向かう際、諸葛長民を監太尉留府事に任じて首都の留守を任せた。これより以前、諸葛長民は調子に乗って驕慢になり、政務に励まず、財貨や女性を集め大邸宅を築くなど、乱脈な行いで民衆を苦しめていた。劉裕はこれを大目に見ていたが、諸葛長民は自分の不行跡が法に触れていることに、常々、恐れを抱いていた上、劉毅が誅殺されたことで、次は自分も粛清されるのではないかと疑心暗鬼に陥り、劉裕に対して謀反を考えるようになった。弟の諸葛黎民(れいみん)は、劉裕が都に戻る前に決行を勧めたが、諸葛長民は実行をためらった。劉裕は諸葛長民の動きを察知すると、予め、都に戻る期日を伝えながら、期日通りには戻らず、諸葛長民ら公卿以下を待ちぼうけさせる一方で、密かに軽舟に乗って東府城に戻った。劉裕の帰還を知った諸葛長民が驚いて出向いてみると、劉裕は人払いをして諸葛長民を普段以上に歓待した。諸葛長民が喜んで安心したところ、帳に隠れていた壮士の丁旿(ていご)が、背後からこれを殺害した。諸葛長民の弟の諸葛黎民・諸葛幼民も誅殺された(以上は当該ウィキに拠った)。

「貧賤なれば、富貴(ふうき)を願ふ……」「新日本古典文学大系」版脚注に、『世に諸葛長民の言として膾炙。事文別集二十九(富貴・群書要語・諸葛長民云)などにも同文』で載るとある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書のここ(二行目から三行目)に冒頭部に類似した、

   *

貧賤常富貴富貴必履(フ)ム危機諸葛長民云

   *

がある。但し、調べた限りでは、漢籍にこの全文と全く同じ文字列はないようである。

「織田掃部(おだかもん)」織田忠寛(?~天正四(一五七七)年)は織田信長に仕えた武将。織田一族である織田藤左衛門家の一人。津田一安又は官途名の掃部助から織田掃部と称された(他に丹波守とも)。法号は一安。尾張国日置城主。信長に仕え、永禄年間は織田氏の対武田氏外交を担い、永禄一二(一五六九)年五月には甲府に派遣されている。「甲陽軍鑑」によれば、永禄八年九月九日に武田信玄の許へ派遣され、信長の養女(龍勝院)と信玄の嗣子勝頼との婚姻を纏めたとされるが、文書上からは確認されない。また、後には、信長の庶子坊丸(勝長、信房)をおつやの方の養子とする縁組を纏めたともいわれている。「甲陽軍鑑」によれば、忠寛は信長に勘当され、十一年間、甲府に滞在していた経歴があったという。永禄一一(一五六八)年二月の北伊勢侵攻後、忠寛は北畠家への押さえとして安濃津城に入れおかれた。翌年の「大河内城の戦い」に参加し、北畠具教・具房が信長の次男茶筅丸(信雄)に家督を譲って退去すると、滝川一益とともに大河内城を接収、茶筅丸の入城に際してはこれに伴っている。天正三(一五七五)年の「長篠の戦い」や「越前一向一揆討伐」にも参加している。しかし、この武田家との繋がりが遠因となったのか、後に信長の不興を買い、誅殺されたという。或いは、追放を受け、信長の死後に出家し、羽柴秀吉に仕えるも、信長の遺児信雄に誅された説もある。また、「勢州軍記」には、天正四(一五七六)年十一月二十五日、北畠具教ら北畠一族が信雄に暗殺された際(「三瀬の変」)に、その親族を養い扶助すると言った(忠寛は北畠家と縁戚関係を結んでいた)ことを柘植保重・滝川雄利に讒言されたために、二十日後の同年十二月十五日、田丸城の普請場にて、日置大膳亮により討たれたと記述されている(当該ウィキに拠った)。この最後の記載が事実とすれば、ここでの「瀧河」の謂いは、「ぬけぬけぬけぬけよくまあ言ってくれるじゃないの!」ということになる。

「日置(へき)大膳」(へきだいぜん 生没年未詳)は北畠具教の家臣で松ヶ島細首城主。サイト「戦国武将列伝Ω 武将辞典」の彼の記載によれば、寺社奉行を務めていたようで、兄高松左兵衛督は大河内城旗頭であった。永禄一二(一五六九)年に織田信長が伊勢を攻めた際、彼は居城である細頸城(松ヶ島細首城)を焼き払って、大河内城で籠城した北畠具教に合流し、家城之清(家城主水)、長野左京亮らと織田勢に対した。籠城戦では池田信輝らの織田勢と戦い、彼は池田恒興・丹羽長秀・稲葉良通らの夜襲を撃退するなど、劣勢な北畠家の中でも奮戦したようである。北畠具教が織田勢に屈したあとは、織田信雄の家臣となって活躍した。元亀三(一五七二)年、北畠家が誅殺された際、田丸城にて、土方雄久・森雄秀・津田一安・足助十兵衛尉・立木久内らと、北畠一族の長野具藤・北畠親成・坂内具義・坂内千松丸・波瀬具祐・岩内光安などの惨殺に関与した。その後、北畠一族を庇おうとしたことが露見した津田一安の斬首では、織田信長の命を受けた日置大膳亮が首を刎ねたとされる。生き残りの北畠具親が、家城之清(いえしろゆききよ)などの旧臣らと再起を図った際にも、日置大膳亮と日置次太夫の兄弟らは、鳥屋尾(とやお)右近将監の富永城を攻略するなどし、反乱軍を二回も破っている。天正七(一五七九)年の「第一次天正伊賀の乱」では織田信雄の軍勢に柘植保重らとともに加わり、伊賀に侵攻したが、松ヶ島城が陥落し、その後、尾張に落ちると、弓の達人でもあった彼は徳川家康から頼まれて、徳川家に仕えたようであるが、まもなく亡くなったようである、とある。

「佐久間右衞門」佐久間信盛(大永七(一五二七)年~天正九(一五八一)年)は織田家家臣。佐久間信晴の子として尾張に生まれる。初め、牛助、次いで出羽介、右衛門尉を称した。織田信秀に仕え、信長が家督相続をする際には、これを支持し、以後、信長の信任を得たとされる。永禄一一(一五六八)年の信長の上洛に従い、京都の治安維持に努め、次いで近江永原城を預けられ、柴田勝家とともに、近江から六角義賢(よしかた)の勢力を掃討するに力があった。元亀三(一五七二)年十二月の「遠江三方ケ原の戦い」に、徳川家康の援軍として浜松城に送られたが、この時は完敗を喫している。「長篠の戦い」、伊勢長島一向一揆との戦い、越前一向一揆との戦いなど、信長の戦闘の殆んどに参陣しているが、中でも、天正四(一五七六)年から本格化した「石山本願寺包囲戦」では、その中心的な位置にあった。ところが、石山本願寺が降服してきた直後の同八年八月、「無為に五ヶ年間を費した」と信長から問責され、子正勝ともども、高野山に追放されてしまう。明智光秀の讒言によるとも、実際、茶の湯に耽溺して軍務を怠ったからとも言われているが、真相は不明で。信長の所謂、「捨て殺し」政策の犠牲になったとされる。剃髪して宗盛と号したが、紀伊国十津川の温泉で病気療養中に病死した。なお、子正勝は、後に許されて、織田信長に仕え、不干斎と号して豊臣秀吉の御咄衆となり、茶人としても名を残している(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「下間(しもづま)筑後守」下間頼照(しもつまらいしょう 永正一三(一五一六)年~天正三(一五七五)年)は下間頼清の子。官位が筑後守であったことから、通称を筑後法橋(ほっきょう)という。下間氏は親鸞の時代から本願寺に仕えた一族で、頼照はやや傍流にあたるが、顕如によって一向一揆の総大将として越前国に派遣され、「朝倉始末記」の記述や、その発給文書から、実質的な越前の守護或いは守護代であったと認識されている。名は頼照のほかに頼昭・述頼(じゅつらい)がある。頼照の前半生については詳らかではなく、記録が残るのは天正元(一五七三)年頃からで、同年、朝倉義景が織田信長によって滅ぼされ、越前国が織田勢力下に置かれたが、翌年一月、越前で守護代桂田長俊(かつらだながとし)に反発する民衆を誘って富田長繁が指導者として土一揆を起こし、長俊を滅ぼした。だが、長繁と一揆衆はまもなく敵対し出し、一揆衆は長繁に代わって、加賀国から一向宗の七里頼周(しちり よりちか:武将で本願寺の坊官)を呼んで自らの指導者とし、長繁を滅ぼした。こうして、越前を平定した後、頼照は顕如によって一向一揆の新たな総大将として派遣され、豊原寺を本陣として越前を平定し、実質的な本願寺領とした。しかし、一揆の主力である地元の勢力は、大坂から派遣された頼照や七里頼周らによって家臣のように扱われることに不満をもち、反乱を企てた。天正二(一五七四)年閏十一月、頼照はじめ、本願寺側勢力はこれを弾圧した。天正三年夏には織田の勢力が越前に進攻、頼照は観音丸城に立て籠り、木芽峠で信長を迎え撃つ準備をする。八月十五日、信長は一万五千の軍をもって越前総攻撃に着手すると、地元の一揆勢の十分な協力を得られなかったこともあり、織田方の猛攻に拠点の城は落城し、頼照は海路で逃れようとしたが、真宗高田派の門徒に発見され、首を討たれた(当該ウィキに拠った)。

「方人(かたうど)」味方。誤り。上記の史実から、浅井は何か勘違いをしている。

「平泉寺に隱れて跡をくらまし」そういう説があるのか。「平泉寺」は福井県勝山市平泉寺町平泉寺にある現在の平泉寺白山(へいせんじはくさん)神社(グーグル・マップ・データ)。廃仏毀釈までは霊応山平泉寺という天台宗の有力な寺院であった。珍しく私が行ったことがある場所である。ウィキの「平泉寺白山神社」によれば、『江戸時代には福井藩・越前勝山藩から寄進を受けたが、規模は』六坊に二ヶ寺で寺領は三百三十石であった。但し、寛保三(一七四三)年、紛争が『絶えなかった越前馬場』の平泉寺と加賀馬場の白山比咩(しらやまひめ)神社との『利権争いが』、漸く『江戸幕府寺社奉行によって、御前峰・大汝峰の山頂は平泉寺、別山山頂は長瀧寺(長滝白山神社)が管理すると決められ、白山頂上本社の祭祀権を獲得した』。『明治時代に入ると』、『神仏分離令により』、『寺号を捨て』、『神社として生きていくこととなり』、『寺院関係の建物は』総て廃棄された。明治五(一八七二)年十一月には『江戸時代の決定とは逆の裁定が行われ、白山各山頂と主要な禅定道』(ぜんじょうどう:山岳信仰に於いて、禅定(=山頂)に登ぼるまでの山道を指す。禅定道の起点は修行の起点でもあり、起点またはその場所を「馬場(ばんば)」と呼ぶ)は『白山比咩神社の所有となっ』てしまっている。

「醒悟發明(せいごはつめい)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『すべてをはっきりと悟ること』とある。

「道人《だうにん》」同前で、「日葡辞書」から、『仏法語。禅宗の観念・瞑想において完全の域に達した人』とある。

「梓弓(あつさゆみ)ひくとはなしにのがれずは今宵の月をいかでまちみむ」「梓弓」(あづさゆみ)は「引く」の枕詞。原拠ないか。

「荒木攝津守」私の大嫌いな戦国武将荒木村重(天文四(一五三五)年~天正一四(一五八六)年)。

「小寺官兵衞」ご存知、黒田官兵衛孝高(天文一五(一五四六)年~慶長九(一六〇四)年)。播磨出身。初姓は小寺(こでら)。法号は如水。織田信長に仕え、信長死後、羽柴秀吉の統一事業の参謀として活躍。秀吉の死後、「関ヶ原の戦い」では徳川方についた。キリシタン大名で受洗名は「ドン・シメオン」。

「四十年來謀戰功……」の漢詩は、「新日本古典文学大系」版脚注によれば、原拠とした「剪燈新話」巻之一の「華亭逢故人記」の「詩を題して云はく、『鐡衣 着け盡して 僧衣を着く』……」に『基づき、特に』同書の『句解注「四十年前馬上ニ飛ブ功名、蔵尽キテ僧衣ヲ擁ス…天津橋上人識ル無シ」の辞句や心情を翻案したもの』とある。私は原拠考証をしないことにしているが、同句解の早稲田大学図書館「古典総合データベース」の当該部の画像をリンクさせておく。右頁である。

「良弓を折(くじ)く」「新日本古典文学大系」版脚注に、『立派な弓も折り捨てた』とある。

「緇衣(しえ)」僧侶の着る墨染めのころも。転じて「僧侶」の意でもある。

「編衫(へんさん)」「偏衫」「褊衫」の誤字。僧衣の一種。両袖を備えた上半身を覆う法衣。下半身に裙子 (くんす:黒色で襞の多い下半身用の僧衣) をつける。転じて広義の「僧衣」の意でもある。

「妙經(めうきやう)」ありがたい経典。特に「法華経」を指す。

「梵風(ぼんふう)を詢(した)ふ」「新日本古典文学大系」版脚注に、『仏の教えを求めること』とある。「詢」音「ジュン・シュン」で、訓は「とう・はかる・まことに」の意がある。

「此の輩《ともがら》は、我等のため、耻かしからずや。いで、其の伊賀の一揆ばら、謀(はかりこと)は、つたなかりし者を。」「きゃつらは、あの折りの貴殿や私の正統にして戰さの道理に基づいた奮戦を見て、さて、恥ずかしくはないのだろうか? さても! あの、伊賀の一揆どもの謀略は、全く以って拙(つた)ないものだったに!」。

「露霜ときえての後はそれかともくさ葉より外(ほか)しる人もなし」原拠はないか。

「うづもれぬ名は有明の月影に身はくちながらとふ人もなし」同前。「有明」(ありあけ)の「有り」に「在り」が掛詞。

「氣象」「氣性」に同じ。

「半町」五十四・五四メートル。

ばかり行くかと見えしが、召しつれたる中間ばらもろ友に、跡なく消《きえ》うせたり。

 菅谷、大に驚き、伊賀にて打死せし事を、やうやう、思ひ出したり。

 日は、山の端に傾(かたふ)き、鳥は、梢(こづへ)にやどりを爭ふ。

 人を遣はして、酒うる家に、質物とせし小袖を取寄せて見れば、手にとるや、ひとしく、

「ほろほろ」底本は「ぼろぼろ」だが、元禄版・「新日本古典文学大系」版に従った。]

ブログ1,570,000アクセス突破記念 梅崎春生 朽木

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十二月発行の『文学 季刊』第五号に初出、翌年八月刊の講談社「飢ゑの季節」に所収された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 傍点「ヽ」は太字に代えた。文中に注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが本未明、1,570,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021730日 藪野直史】]

 

   朽  木

 

 ……ときどき誰かが私にはなしかける。それはあつい膜を隔てたように、意味も内容もわかちない。遠くはるかな国から流れてくる声のようだ。しかしその度に私はうなずいたり、唇のはしであいづちをうったりしながら、そしてまたとろとろと眠りに入ってしまう。何か堅くつめたいものが、始終私の脇腹を押している。掌を額にあて、それによりかかって私は眠っているらしい。身じろぐたびにどこかで堅く重いものが軋(きし)るらしく、ぐるぐる同心円を描きながら次第に私はうすらあかりに浮びあがって来る。深い霧のなかからぼんやり物の形が現われるような風で、昏迷におちていた私の意識も、すこしずつ黒白をはっきりし始めてくるらしかった。

 抵抗を感じながらけだるく開いた瞼のあいだで、外象がそれぞれぼんやりと形をとりはじめた。掌にあてていた顔の半分がねばっこく濡れていて、そして気がつくと私は妙な車のようなものに身体を曲げるようにして腰かけていた。

 トロッコから三方の外蓋をとり外したような形で、くろずんだいろのその手車は、鉄の把手(とって)のついた外蓋を一方だけ残していた。脇腹をつめたく押していたのはこれである。身体を動かすたびに軋るのは、腰かけた台をささえる古びた車輪であるらしい。眼の前から混凝土(コンクリート)の床がぬめぬめとひろがり、電燈のひかりの及ぶもっともっとむこうまで、細長く帯のように連なっているらしい。彼方はふかい闇である。闇をながい天蓋がささえている。その下に梱包(こんぽう)がところどころ積んであるのを見れぱ、これは駅の歩廊にまぎれもなかった。

(そうだ)と、とつぜん私は頭のすみで憶い出した。(あれから電車に乗って、そのまま眠りこんだらしい。起されたのが此の終点で、おれはあの長い歩廊を、ぶったおれそうになるのを耐えながら、此処まで歩いて来たのだ)

 口の中に酒精のにおいがのこっていて、からだの内側は熱っぽく乾いていた。先刻こちらにあるいてきながら、もう戻りの電車は出ないのかと訊ねたら、帚(ほうき)をもって歩廊にいた若い駅員がじろりと私を見返して、終電はとっくに出たよ、と無愛想に答えたのだった。私を乗せて来た空の電車は、車庫に入るらしく、人気の絶えた車内にあかあかと燈をともして、そのとき私のそばをゆるゆると逆行していた。吊皮だけが同じように揺れているのが、へんに印象的だった。そして私はぼんやり眼をひらいて遠くをながめていたのだ。改札のちかく荷受台のところが鍵の手になっていて、そしてそこに五六人のうずくまったちいさな人影を、私の視線は茫漠ととらえていた。ここで一夜をあかすとすれば、やはり風とひかりを避けたあのような片すみが適当なのだと、酔いでみだれた頭で私はしきりに合点した。それからがたぴしよろめきながら、私はここまであるいて来たのだ。ずいぶん長い時間がかかったような気がする。そして逆行する電車のおとも、何時までも何時までもつづいていたような気がする。それから此の手車にこしをおろして、隣にいる男となにか話しあったような記憶がある。男の話をききながら、うとうとと私はねむりこんだのだろう。「眼が覚めたかい」そのとき隣から声がした。「煙草もってたら一本お呉れよ」

 軽く舌のさきで流すような口調である。この声と眠る前まで私ははなしこんでいたのだった。そうだ。それは船や波止場や熱い風のことを話していたのだ。だんだんはっきりしてくる。ポケットを探りながら私はからだをその男の方にむきかえた。車輪がギイと鳴った。

「何時ごろだろうな」

「さあ」男は軽くあくびをした。「もうそろそろ夜明けだろう」

 押しつぶれて板のようになった箱をひらくと、平たくなった莨(たばこ)の棒が四五ほん、麻雀の籌馬(チューマ)みたいにならんでいた。マッチをすって火をつけ、しばらくだまって煙を吸った。ざらざらになった舌に、煙はへんないやな味がした。男は胸のひらいた派手ないろの襯衣(シャツ)をきている。鼻のしゃくれた浅黒い顔をしている。しだいに記億がもどってくる。――[やぶちゃん注:「籌馬(チューマ)」読み方は「チョーマ」が一般的のようだ。麻雀で用いる点棒のこと。]

 鍵の手になった白い壁にそって、四五人がよりかかってうずくまっている。そろって膝な抱き、頭をふかく埋めている。荷受台の下にもひとり横になっている。ほとんどが襤褸(ぼろ)のかたまりだ。裾から見える両脚は、まるで牛蒡(ごぼう)のようだ。煙をふかぶかと吸いこみながら、私は暫くそれをながめていた。酔いがまだからだをみたしている。部分部分の感覚は正気にちかづいているのに、ぜんたいとしてはまだぶよぶよと呆けているのだ。前の夜からの記憶がさだかでないのが不安なので、頭や皮膚にのこる後感を心の中で手さぐりしていると、なにか幽(かす)かにつきあたるものがあった。それはそして記憶の形をなさないままながれてしまう。[やぶちゃん注:「後感」「こうかん」と読んでいるか。ある体験の後の感覚という意味であることは分かるが、私は使ったことがないし、小学館「日本国語大辞典」にも載らない。]

「で、それからどうしたね」

 なんだかそれではっきりしたようなつもりになって、私は男に話しかけた。そして短くなった莨をしきりに吸いこんだ。煙の影が白い壁にうすくみだれる。男は莨のすいさしを指で器用にはじきとばした。混凝土の床で赤い火は吸いこまれるように消えてしまう。

「それで出撃というわけさ」

 男は満足したような落ちついた声で答えた。

「擬装だというのでね、馬鹿な話さ、マストから甲板から木の枝をうえてよ。島にみせかけようというんだ。だいいち島が動くかい。波止場をはなれて一時間たらずさ。まだ港が見えていたんだ。そこに空から飛んできたというわけなんだ」

「何という船だったっけ」

「そら、海二十九さ」

 そうだ。この男は第二十九号海防艦の乗組兵だったのだ。そう私は思いだした。思いだしたつもりになっただけで、他への聯想(れんそう)はなにもうかんでこない。[やぶちゃん注:「第二十九号海防艦」「海防艦」は日本海軍の沿岸防御用の軍艦のこと。小型で喫水の浅い小戦艦や、大型砲艦のようなものもある。「第二十九号」のそれは、昭和一九(一九四四)年八月八日竣工(日本鋼管製)で、昭和二十年五月二十八日、触雷して航行不能となり、戦後の昭和二十二年、佐世保で解体された(ウィキの「丙型海防艦」に拠る)。以下の展開は、しかし、事実に基づいていない。]

「おれは高射機銃の第一射手だろう。かまえて見ていたんだ。ゆっくり旋回する。丁度(ちょうど)真上をゆきすぎる。一回目はおとさないんだ。いつもあいつはそうなんだ。二回目がこわいのだ。おれはそれを知っていたんだ。ぐるっと向うの方まで行って方向を変えようとする。おれはそのとき身体がつめたくなるような気がして、顔をあげてあたりを見廻したんだ。甲板を右往左往して叫んでいる。手すりのむこうは海だわな。おっそろしく青い海だ。どこまでもどこまでも拡がっている。みんなは気ちがいのような眼になって、飛行機をながめているんだ。大きく旋回して機首をこちらに向けた。それから――おれはどうしたと思う」

 舌をまるめるようにして軽やかにわらった。

「おれはぱっと走りだしたさ。手すりをこえるとき、甲板士官がなにか大声でさけんだっけ。何とさげんだかわからない。まるでしめころされる女みたいな声だった。何かに二三度ぶつかりながらおれは落ちて行った。海面でぴしゃっと身体をたたかれて、それから水飴みたいにねばっこい水の中を、おれはむちゃくちゃにもがいたさ。スクリュウに巻きこまれては大変だからな。口から鼻から塩水がはいる。苦しくてしかたがないのに、いくらあばれても海面に浮びあがらないのだ。どのくらいもぐっていたのか知らないが、ほっとあたりが明るくなって、ぽっかりおれは浮きあがったという訳なんだ。おれは無茶苦茶に空気をすいこんだよ。見るとおどろいたねえ、二百米位先で、海二十九がそのとき爆発したところなんだ。只一発で命中したんだ。あれじゃあ乗組員も逃げる間もありやしない。皆こなごなだろう。またたく間に焰のかたまりが沈んでしまって、旋回していた飛行機も行っちまって、それからへんにしんとしちゃってねえ。日がぎらぎら照っているし、海は鏡みたいに静かだし、おれは背中を下にしてぼんやり浮いていたんだが、顔のところが変な感じなんで、ふと手をやってみたら、真紅な血だ。びっくりしてねえ、それが何でもありやしない。ただの鼻血だったんだ」

 男は鼻をちょっとすすって、また軽やかなわらい声をたてた。

「それ以来、鼻血がでる癖がついて仕様がねえや」

「それじゃお前」視線を壁の方にうつしながら私はこたえた。「敵前逃亡としうわけじゃないか」

「そんなことになるかな」と男はまた短くわらった。

「あとで大発にひろわれたとき、ごまかすのにほんとに骨折ったよ。皆死んじゃっているのに、海に浮んでたのはおれだけだからな。しかもかすり傷ひとつ負ってねえ。爆風で吹きとばされたとかなんとかねえ」[やぶちゃん注:「大発」大発動艇(だいはつどうてい)の通称。一九二〇年代中期から一九三〇年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の上陸用舟艇。は大発(だいはつ)。また、陸軍と同型の大発を相当数運用した海軍においては、十四米特型運貨船の名称が使用されていた(ウィキの「大発動艇」に拠った)。]

 壁によりかかって眠っている四五人のひとりは女であった。九月だというのに、まだ白い浴衣(ゆかた)を着ている。顔をうずめているから顔は判らないが、豊かな体つきであった。頭をうずめてかるく割った膝の、もっとおくは白瓜のような腿のいろで、私が眺めているのはそれであった。その女によりかかるようにして寝ているのは、十四五になるらしい少年である。これは顔を埋めていない。手足の割に大きな顔を、女の肩と壁に半々にもたせて、白眼をわずか開いて眠っているらしいのが、なにか脅えたように突然からだを動かして、くるしそうな声で何か叫んだ。その声に自分でびっくりしたらしく、ごそごそと起きなおった。

「あにき。あにき」

 今度ははっきりとそう言った。そう言いながら手を前に伸ばして、空間を手さぐるような形をした。

「ふん。ねぼけてら」

 隣の男がひくい声で呟いた。そして少年は意識をとりもどしたらしい。ぼんやり開いた瞳にしだいに暗くずるそうな光がもどってきて、しきりに背中を壁にこすりつけた。そのたびに女の体が邪険にゆれて、女は少年の方からしりぞくように肩をずらし、ゆっくり頭をもたげた。

「なぜそんなに動くのよ。なぜあたしを起したりするのよ」

「ナマ言ってらあ」[やぶちゃん注:「ナマ」「生意気」の略。]

 少年はいやしく口をゆがめて、はぎすてるように言った。それは何か憎しみをおびていて、そのくせ少年の視線は弱々しく女から外れた。女の眼はそれを追って不安定にうごくらしかった。ちょっと見るとととのった感じの顔だが、視線に光がなくて、口辺にうかんでいるのは痴呆めいたうすわらいであった。

「こいつ、馬鹿なんだよ。兄貴」

 少年は私達の方にむかってそんなことを言った。ずるそうな口調であった。隣の男がふと興味を感じたように女に話しかけた。

「ここに長いこといるのかい」

 女はびっくりした顔になったが、すぐもとの放心した表情になって、抑揚のない低い声でこたえた。

「――そんなに長くはないわ。ずっと弱ってたからね。そら、お母さんが死んじゃったでしょう。着物だってこれっぎり、あとは屋根うらにかくしといたんだけれど、お祭りの晩におまわりさんが来てね。ねえ、あんたおまわりさん?」

「おれはおまわりじゃないよ」

「そう」女は急に安堵したような表情になった。「それで安心したわ。高い塀(へい)が立っててね、向日葵(ひまわり)なんかが咲いているのよ。窓から首を出して歌なんかをうたってるの。おなかがとってもすいたのよ。泣きながら線路づたいに走ったわ。八王子に兄さんがいるからね。食べるものが芋(いも)でしょう。芋だって高いのよ。だから呉れというの。そうするといくらでも持ってけとくるでしょう。そして頰ぺたなんかくっつけて来るの。あんた食べるものなにか持ってない?」

「ちょっとおかしいな」男は誰にともなくそう言った。

「おれは梨をもっているんだが、こいつは商売ものだよ」

「売りに行くのかね」と暫くして私が聞いた。

「そうだよ」男は手を伸ばして、足もとにおいたこぶこぶにふくらんだ袋を撫でるようにした。「ゆうべは一足ちがいで終電車をにがした」

「梨ひとつ呉れない?」女が突然口をはさんできた。「あたしとてもひもじいのよ」

 男はそれに返事をしなかった。なにか考えこんでいる風(ふう)だった。

 やがて沈んだような声になってぽつんと私に問いかけてきた。

「昨夜は酔っぱらっての乗越しかい」

「まあそんなものだ」

「どこで飲んだんだね」

 昨夜のことを考えるのは苦痛なので、私は黙って女の方に視線をうつした。それを感じたらしく女は指で膝前をかき合せるようにした。私はそのとき兇暴な眼付をしていたのかも知れなかった。女は肩をすくめるようにして身ぶるいをしたらしい。その側で少年はふたたびうとうとと眠りかかっていた。隣で男が軽くあくびをした。

「さあ、一眠りすれば夜明けだい」

 女の白い脚のいろが残像のようにのこっていて、ふしぎな嫉妬がしだいに私の胸をいっぱいにしはじめていたのである。

(ふじ子もあんな白い肌を写真にとられたにちがいないのだ!)

 男は身体をかがめて袋の紐(ひも)をしっかりむすびなおしながら、斜にちらと私の顔を見上げた。陰翳(いんえい)をふくんだ妙な笑いが頰をかすめるようにはしった。

「眠ってるうちにかっぱらわれると大変だからな。こいつらはほんとにやくざな奴たちだからな」

「ひとつ分けてやれよ」と私はそっけなく言った。

「いやだよ」男は結びあげた袋を脚ではさみ、おおいかぶさるように眠る姿勢になった。

「やったって何にもなりゃしねえ。そんなことをおれはしねえたちなんだ」

 女は梨のことなどすっかり忘れはてた顔になって、ぼんやり遠くの方をながめているらしかった。よごれた白い壁が女の背にあった。乏しい光のなかで、それはさまざまのしみを浮ぺていた。何故白い壁には、人間がかんがえつかないような形のしみや模様が、いつのまにかできてしまうのだろう。ふじ子の部屋の階段から登り口のところにも、白いよごれた壁があった。それに赤いしみと青いしみがついていた。赤いインクと青いインクのしみであった。それがふしぎに、赤いのは女の立った形に、青いのは男の立った形に酷似していた。それらはむき合って立っていた。どうしてこんな形にインクをこぼしてしまったのだろう。ふじ子の部屋に泊るたびに、私は枕に顎(あご)をのせて、此の壁の像に見入っていた。昨夜もそうだった。私は赤い女のレインコオトや、青い男の鳥打帽までも、はっきりその輪郭から感じとっていた。それはふたつとも、言いようもなく感傷的なポオズだった。私がそれに見入っている心の感じから言えば、私はあるかすかな嫌悪をおさえつけているようであった。その輪郭はうすれて、むしろ色褪せた感じであった。ふじ子が誤ってふりかけたインクの筈ではなかった。幾代も幾代も前のこの部屋の住人がこぼした跡にちがいなかった。色はぼんやり古びていて、リトマス試験紙のいろを聯想させた。その色あいに私が嫌悪をそそられているのかも知れなかった。その壁つづきにふじ子のまずしい家財があった。ふるぼけてがたがたになった食器棚や、壁にかけたくすんだ色の着物。ふじ子はまだ若いのに、何故こんな地味なものを着るのか。派手な着物は売りつくして、死んだ母親のものを着ているのに相違なかった。着物ひとつ買ってやれないという程度でなく、着物を売食いしているのをすら、手を束ねて私は眺めている他はなかったのだ。私は収入の乏しい小役人だったし、ふじ子はある個人商会の女給仕だった。二十四にもなって女給仕だなんて。ときに私がいぎどおろしく、また惨めな気持にそそられてこんなことを口走ると、ふじ子は真面目なかおになってそれをさえぎった。

「だってあたし、小学校も卒業していないのよ。みんなみんな良い人なのよ」

 ふじ子の肌はしろくて熱かった。私が泊ると翌朝は必ず、階下の家主から厭味を言われるということであった。それをふじ子は辛がった。

「でも一緒になったら、あたしたちもっと不幸になるわね。今のままが一番いいのよ」

 だから時期が来るまで待てぱいいという私の言葉を、ふじ子はうたがわず信じていた。ふじ子は私を信じているだけではなかった。世の中にあるものをすぺて信じていた。また将来にきっと暮し良い時代が来て、そこで人々の善意にかこまれて生きている自分を空想していた。その空想はふじ子にとっては言わば確信であるようだった。だからふじ子のいつもの表情に暗いかげはなかった。ただ金に困って何か着物でも売りたいと私に相談したりするときだけ、ふじ子の顔には暗く翳(かげ)がさした。私がだまって腕をくんでいると、ふじ子はあわてたように言葉をつぐのだ。

「いいのよ。いいのよ。私なんかもうこんな派手なのは似合わないのよ。今売ってしまったって、また金が出来たとき買いもどせばいいわね」

 そしてそれが金にかわると、昔五十円で拵(こしら)えたのが、九百円にも買ってくれたと、びっくりしたように私に話すのだ。ふじ子はもうその喜びをかくすことが出来ない。マアケットの古着屋のおじさんがどんなに好意にあふれた善良な人物であったかを、私に判らせようとしてふじ子はどんなに言葉をつくすことか。そしてだんだん私が不機嫌になってくるのを見て、ふじ子はわけがわからない途惑(とまど)った表情になって、かなしそうに私を見上げながら言うのだ。

「ではこれで御馳走を買って来て食べましょうね」

 そして私達はしみのある壁にふたつの影法師を投げながら、うすぐらい燈の下で、貧しい食事をしたためる。ふじ子はおいしそうにたべる。どんなものでも私と一緒にたベるときはふじ子はおいしいというのだ。ふじ子の顔は色がしろくて円い。頰がふっくらしている。食事をするときはなおのことそうだ。会社に出入するある「お客さん」が「空飛ぶ円盤」という綽名(あだな)をつけたと言って、ふじ子は時々思い出して笑うのである。ふじ子の写真をとったのはそのお客であった。それを昨夜私はふじ子を間いつめて知ったのだった。[やぶちゃん注:「空飛ぶ円盤」今は知らぬ者とてないが、実はこれは出来立てほやほやの新語であったのである。この半年足らず前の一九四七年六月二十四日、アメリカ人実業家ケネス・アルバート・アーノルド(Kenneth Albert Arnold 一九一五年~ 一九八四年)が、アメリカ西海岸のワシントン州のレーニア山附近上空を自家用機(単発プロペラ機)で飛行中、当時としては信じられないほどの高速で、編隊飛行をする九つの「三日月形」の奇体な物体を目撃したというのが始まりである。彼は新聞記者の取材を受けた際、「水面を ‘saucer’(受け皿)が跳ねながら飛んでゆくような独特の飛び方をしていた」(所謂、水面に石を飛ばして遊「水切り」のような運動を想起するとよい)と語ったことから、‘flying saucer’ という名称が独り歩きした結果、生まれた語で、その後に大発生するそれが、何故か円盤になってしまうという点で都市伝説の形成として面白いのである。因みに、私は小学校六年から高校時代まで、自分で「未確認飛行物体研究調査会」という会を作って漫画雑誌に募集をかけ、私を含めて僅か三人でやらかしていた人間である。]

「でもあの人は芸術家なのよ。ほんとうに芸術的な立場から写真をとりたいと言ったのよ」

 着物をすっかり脱いで撮らせたのかと、詰問しようとする声調がふいに力弱くなるのを感じながら私が言ったとき、ふじ子は子供のように素直にうなずいた。

「上半身だけじゃ金を払えないと言うんですもの」

 私が黙っていると、やがてふじ子も悲しそうに黙ってしまった。ふじ子の給料が自分の口をやしなうにも足りないこと、段々売りに出すものも底をついてきたこと、それらのことを私は身体の熱くなって米るような衝動に耐えながら考えていた。そのことも私の責任であるのかも知れなかったが、私としてはどうするすべもなしことだった。ふじ子がつとめている会社は、ある新興の個人店であった。そのことだけで私はその会社の内容が想像出来た。したがってそこに出入する客というのも、派手な洋服やぞろりとした和服をきた卑しげな顔つきの男たちを、私は想像のなかにうかべていた。ふじ子の身体の写真をとった男というのも、やはりその類の男であるに違いなかった。その男のふじ子に対する、舐(な)めるような興味や嗜欲(しよく)をかんがえたとき、私は憤怒に似た暗く濁った亢奮(こうふん)が胸のなかに湧きあがって来るのを感じていた。やがてふじ子はふと思いついたように呟いた。

「金をもらったから、これで御馳走買って来ましょうね」

 買物包みをもってもどってきたころは、ふじ子はすっかり明るさを取りもどしていて、自分の肌を見せたことなどすっかり忘れはてた風だった。そしていそがしく膳ごしらえをした。押入の中からビイル瓶につめた液体を膳の上に立てた。これもそのお客が帰りに呉れたというものだった。

「これ本物のウィスキイよ、本物だっていう話なのよ」

 膳の上にごたごたならべられたのは、マアケットで売っている一個五円のコロッケや、黄色いわさび漬や、佃煮(つくだに)や、昨日のものと思われる揚物(あげもの)などであった。それらは膳いっぱいにひろがっていた。膳の上にのりきれない程であった。ふちの欠けた湯呑にウィスキイを注いだ。口にふくむとへんに舌ざわりが刺激的で、酒精のにおいがするどく口腔の中にひろがった。ふじ子は膳の上のものに箸を迷わしながら、喜びにあふれたような声でひとりごとのように言った。

「まあすてき。こんな豊富な夕食は天皇さまだって召し上らないわね」

 そうだ、ふじ子。ソロモンの王様だって、こんなに高価な代償をはらった豪華な食事はとらなかっただろう。何故かはげしい羨望の念をふじ子にたいして感じながら、その瞬間私はそう胸のなかで呟いていた。ふじ子は円い顔をたのしそうにほころばせて、自分も湯呑のウィスキイを少し舐めたりした。

「まあ、本物ね。此のウィスキイはほんとに本物だわ」

 そして私はもはや酔っていたのだ。飲んで飲んで酔いたおれたい気持だけが、しきりに私を駆っていた。写真機の前にたったふじ子の裸のすがたが、酔った頭の中をしきりに去来した。羽毛をむしられた鶏を私は思い浮べていた。やがて私はふじ子に、どんな風の部屋だったとか、どんな風に着物を脱いだとか、そのとき男はどうしたかとか、そんなことをくどくどと執拗(しつよう)に問いただし始めていたのだ。――

 深夜の此の駅の白い壁を、そして今私は眺めているのであった。少年も女も、またもとの姿勢にかえって、しんしんと眠りに入るらしかった。隣の男もからだを伏せて、もう微かないびきを立てはじめるらしい。眼を覚ましているのは私だけであった。駅の構内はがらんと静まっていて、ときどぎ風のおとがした。歩廊の天蓋に点々とともる燈から、光の輪がつぎつぎならんでおちていて、その輪のひとつずつを順次に、塵埃(じんあい)がかろやかに騰(のぼ)った。風の速度がそれで判った。脚をふと手車の下にずらすと、靴の踵(かかと)がなにかぶよぶよしたものに触れた。車輪がぎいぎいと鳴った。身体を曲げて手車のしたをのぞきこんだ。

 顔の長い小柄な犬が手車のしたにねそべっていた。

 私の気配をかんじたのか薄眼をあけてこちらをちらと見たらしい。かすかに身動きしてまたふかぶかと瞼をとじた。曲げた脚が骨のままに細く、皮の毛は地図を描いたように処々すりきれていた。垂れた耳には毛は一本もなくて、まるでブリキみたいに堅そうな感じであった。うすくらがりの中で、その灰色の犬の形を私はまざまざと見ていたのであった。頭をさかさに垂れているせいで、顔中がはじけるように熱苦しくなって来る。しばらくして私は顔をあげた。もとの風景がまた眼の前にあった。頭に一斉に血がのぼったせいか、風物があからみを帯びていて、吹いてゆく風のおとが耳鳴りにまじって、へんに倒錯した感じであった。そして冷気がするどくせまって来た。

 まだ夜明けは遠いらしい。此のしずかさの中で私ひとりが目覚めているということ、それが次第に私にはおそろしいことに思われ出した。手車の外蓋に腕をおき、しめって冷たくなった服の袖に顔をおしあて、やがてこみあげてくる混乱した想念を、私はひとつひとつ押しつぶしながら、麻をひっかきまわしたような断続した悪夢のなかに、うつつとも知れず引入れられて行った。……

 

 しきりにぎいぎいと車輪がきしむ。重くつめたく執拗にその音は、ぼんやりと意識のなかにはいって来る。昏迷した意識で私は、あのごわごわした犬の耳の感じを、嘔(は)きたいような感じと共に思い浮べていた。そんなに手車を押したら、あの犬は轢(ひ)かれてしまうではないか。薄明のなかで私は懸命に気をもんでいる。意識が混濁したままするどく尖って、しきりにそこに走るらしい。あの冷たく重い鉄輪に轢殺(れきさつ)される感覚を、私は疲労した肉体のどこかにまざまざと感じとりながら、そこから脱出しようと必死に身もだえしている。ある現実的な気配がそのあつい腰をやぶって、いきなり皮膚を冷たくする。私はそしてどろどろした沼の中から浮き上るようにして目が覚めた。

 女が私の前にいた。

 私に横姿をみせて、白い浴衣の脇あけから軟かそうな皮膚が鳥肌になっていた。女の手がかすかに、そして素早く動いている。手のさきは、隣の男の果物袋の口に触れているのだ。紐がずるずると解かれる。女の手が男を目覚まさないように、ふしぎなくねり方をしながら、袋の中に入って行く。淡黄色のすべすべした大粒の梨が、ゆっくり引出されて来る。そしてまたひとつ。その梨の肌になにか電燈の光とちがう白っぽい光があると思ったら、天蓋のかなたに夜がしらじらと明けはなつらしかった。女はぎょっとしたように身をすくめた。眠っている男が何か言いながら身体をうごかしたからである。女はそしてゆっくり私の前をはなれた。男はそれきり動かない、幽(かす)かないびきがふたたび始まる。

 女はもとの場所にもどって腰をおろした。胸をはだけて梨を入れ、両手でかたく襟(えり)をあわせるようなしぐさをする。安堵したような笑いが頬にうかぶ。あたりを見廻した視線が私にとまった。襟をおさえた女の指にふと力が入ったらしいが、そのくせ顔にはほのぼのと笑みをたたえて私をみつめて来る。その側で少年が薄眼をあけたような眠り方で壁によりかかっていた。

(あの笑いなんだな!)と何故ともなく私はいつまでも考えている。考えているだけで何も判りはしないのだ。ただ心の内側をなで廻しているだけだ。女はすでに私から視線かそらして、ぼんやりあちこちを眺めまわしているのに、私は何故か放っておけないような気がして、じっと女に視線をとどめている。口の中がねばねばして気持がわるい。酔いの醒めぎわのあの厭な悪感が、絶えず背筋をはいまわっている。歩廊にともった燈がしだいに光をうすれはじめ、遠くの森や家がくろく浮きあがって来た。女のすがたはしろっぽい暁方のひかりの中で、夜の感じを失って、だんだん生気をとりもどしてくるらしい。

 隣でとつぜん男が唸り出す。しぼりだすような沈欝な声で、ちょっととぎれてはまた呻きはじめる。袋を脚ではさんだまま、上半身をそれにうつむけているのだが、手指が袋の外側を搔くようにしながら、段々苦しそうな声が高まってくる。額が汗でびっしょりだ。うつむいた顔に眉根をよせて、海防艦二十九号の旧乗組員は暗い翳(かげ)を顔いっぱいにたたえて、しきりに袋をかきむしる。呻声(うめきごえ)はひとをおびやかすような響きを帯びて、しだいに切迫して来る。女はふしぎそうな面もちでそれを眺めている。私はだんだん耐えがたくなって来る。少年やその他の連中も眼をさますらしい。欠伸(あくび)の声がする。

「おい。おい」

 肩に手をかけて私はゆさぶった。男の首ががくんと揺れて、はっとしたように顔をあげた。表情を失った放心した眼が私におちる。やがてその眼にゆっくりと光が戻ってきた。

「……夢をみていた」

 吐息と一緒に男はしばらくしてそんな言葉をはきだした。まだ夢が身体にのこっているような具合で、男は派手な襯衣(シャツ)の袖をしきりにひっぱった。

「ずいぶん苦しそうだったよ」

「……くるしかったなあ。ほんとにくるしかった。海の中におっこちてさ――海ん中におっこちて、それから無茶苦茶にもがいたんだが、なんだか海藻みたいなものにからんでさ、脚や手にべたべたまきついて来てさ、どんなにしても浮き上らねえ。呼吸がくるしかったなあ。ほんとにほんとにくるしかった」

 男はだんだん調子を取りもどしてくる。額にばらばら乱れ落ちた髪を乱暴にかきあげた。

「うん、そうだ」舌を丸めるような元の口調になる。「さっきお前にあんな話をしたからだ。それできっと思い出したんだ」

「そう。そんなことはよくあるよ」

「――まったくそっくりだった。死ぬかと思った位だ」

 男はゆっくり顔をうごかして遠くを眺める眼つきになった。

「夜があけたんだなあ。もう始発がやってくるよ」

「で、そんな夢をときどき見るのかい」肩にのしかかるにぶい苦痛を押えながら、暫くして私が聞いた。

「え。ああ夢のことか」男は手巾(ハンカチ)を出して首筋のへんを拭いた。「あまり見ねえな。見てもすぐ忘れてしまう」

「戦友のことなど思い出さないかい」

「戦友って軍隊のか」

「海二十九に乗ってた連中だよ」

「うん」急に冷淡な口調になって男はうなずいた。「思い出しもしねえな。思い出そうにも名前なんか忘れてしまった。ああ、あの甲板士官は何て名前だったっけ。四国の男だと言ってたが――」

 夜明けの光に浮き上った男の健康そうな顔が、突然言葉を止めて凝縮した。

「おかしいな。紐が解けている」

 急に兇暴ないろが瞳にあふれて、男は袋の口を押しひろげて中をのぞぎこんだ。そして紐をかたくしめなおしながら、四辺をぐるりと見廻した。

「たしか紐を締めておいたと思ったがなあ]

「締めわすれていたんだよ」と、私はふとこみあげてくる嘔気(はきけ)をおさえながらそう答えた。「忘れることはよくあることだ」

「そうかも知れないな」男はなぜか弾けるような声を立てて短くわらい出した。「お前食いたいなら、ひとつやろうか」

「そうだな」私は自分の食欲をちょっと確めてみた。「食いたくないけれど、呉れるなら貰うよ」

 よし、と言いながら男は堅くむすんだ紐を、また力を入れてほどいた。生気にあふれたその横顔を眺めながら、ある茫漠たるものが、しだいに胸の中で形をとりはじめて来るのを私は感じていたのである。私は低い声で言った。

「皆にも分けてやんなよ。みんな腹へらしてんだろ」

「いやなこった。腹なんぞへらしているものか」

 男から受取った梨ひとつを、私は掌にのせていた。それは実質のある重量感であった。私はそれをポケットにしまった。

「しかしこんな重いものを毎日かついで動き廻るのも大変だな。ずいぶんもうかるのかい」

「そんなでもないさ」紐を再び締めて男はむきなおった。

「見せてやろうか」

 男はなにか真面目な顔つきになって、ポケットから厚い革の金入れをとりだした。それを開いて私の眼の前につきだした。その中に束となった紫色の紙幣を、私はある戦慄に似たものと共にはっきり見た。それは一寸位の厚さであった。すぐ金入れは鈍い皮のおとをたてて閉じられた。男の顔はむしろ堅く沈んだ色を浮べていた。だまって金入れをポケットに戻した。

「――おれは、朝という時刻がすきなんだ。さっぱりしていて、あかるくて」

 暫くして男がそう言った。

 駅の事務室に泊りこんでいたらしい駅員が、歩廊の水道で顔洗うのが見えた。ざわざわした朝の物音が、すでにあちこちから起りはじめて来るらしかった。男は靴のひもをしめなおすと、勢よく立ち上った。手車が強くきしんだ。

「おれはあっちで始発を待つぜ。おまわりなんかが来るとうるさいからな」

 袋をかつぎあげると私に背をむけたまま、また会おうぜ、と言いのこしたままあるき出した。靴裏が混凝土(コンクリート)に触れるたしかな音が、反響しながら歩廊の方に遠ざかって行った。私は軽く眼を閉じてそれを聞いていた。眼のふちが幽かにふるえて、それまで耐えていた悪感がしきりに背をはしった。

(あれはきっと悪いアルコオルだったにちがいない)

 昨夜から千切れ千切れになった記憶をむすびあわせようとしながら、私は次第に今日という日を負担に感じはじめていた。昨夜ふじ子は泥酔した私につきそって駅まで送って来たのだ。そのあたりをところどころ思い出せる。それから電車にのって終点まで眠りつづけて来たにちがいないのだ。そしてこんなに酔っぱらった私にたいして、あの男がどんなきっかけで軍隊のおもいで話などを始めたのか。それを酔った私がどんな具合に受答えたのか。何故昨夜はこんなに酔っぱらってしまったのだろう。

 そうだ。あのときはまだラジオがなっていたのだ。膳のものは食べてしまって、私ひとりがしきりに湯呑のウィスキイを傾けていたとき、ふじ子は窓にこしかけてぼんやり外を眺めていた。はっきり覚えていないけれども、裸になったという事をわざと執拗にふじ子に問いただしていた記憶もあるから、あるいはそれを避けるためにふじ子は窓の方に立って行ったのかも知れない。はっきりと胸に残っているのは、そのとき私はしめつけられるような哀憐の情で、窓にいるふじ子を眺めていたのだった。そして私は、ふじ子が裸を売って得た金で今私が酔い痴れていることを、はっきり意識にきざんでいたのだ。ふじ子を眺めるその気持を、此の意識が二重に裏打ちをしていた。頭のかたすみで私はなにかをせせら笑いながら、そのくせ腹の中をまっくろに凝りかたまらせ、肩を張ってわざとその状態を育てるように、しきりにやけつくような液体を咽喉(のど)に流しこんでいたのだった。そのとき遠い町の光に影絵のように浮んだふじ子の顔が、何か口ずさんでいるのにふと私は気づいたのだ。私は飲む手をやすめて耳を立てた。それは幽(かす)かな無心なうた声だった。

 

  夕やけ小やけのあかとんぼ

  追われてみたのはいつの日か……

 

 むこうの家のラジオがなっていて、それがふじ子の歌声に重なるのを見れば、ふじ子はラジオにつられてふと此の歌をうたい出したものにちがいなかった。ある言いようのないむなしさが私の身体を奔(はし)りぬけた。私はそれをごまかすために、あわててまたウィスキイを口の中に流しこんでいた。――それから記億がぼんやりしてしまう。ふじ子の背につかまって、暗い道をあるいていた。私は何かくどくどとあやまっていたような気もするし、また厭がらせを言っていたような気もする。そうだ。金などはつくってやるから、明日にでも沢山もってきてやるから、もうあんなことをやめるがいい、と何度も私はくりかえしてふじ子に言ったのだ。あんなことをやれば一生こころに傷を負うから、それは止めたがいい。そうするとふじ子は私を見上げてあえぐように言った。

「何でもないのよわたし。あなたはそんなに苦しまなくてもいいのよ」

 そのときは明るい街に来ていたような気もする。私はふじ子のその声と見上げた円い顔をぼんやり思いだす。それから暫くして、何故泣いているの、と私の背をしきりに撫でていたのだ。私は電信柱の根元にしやがみこんでいた。記億がそこらで前後しているのかも知れない。私はなぜしやがんでいたのか。嘔(は)きたくてそうしていたのか、それは何もわからない。その瞬間のふじ子の声と私の姿勢が頭にうかんで来るだけだ。それから駅の明るい燈や、電車を待っている人々や、そんなものが瞼にちらちらしたようだ。いつ改札を通りぬけたか覚えがない。足もとがむやみにふらつくから、今日はずいぶん酔ったのだなと、階段をのぼりながら考えたようでもある。歩廊に風に吹かれて立っていた。ふじ子とむかい合って立っていた。そうだ。私はそのとき、その姿勢のままで、ふじ子の部屋の壁のインクのしみを頭にうかべていたのだ。何故かそのとき私は非常に露悪的な気持になって、わざとふじ子の顔に私の顔をちかづけてみたりしたような気がする。ずいぶん長い間そうしていたような気がする。ふじ子はその間にこにこと笑みをふくんで私をみつめていたのだ。壁のしみのように私たちはむきあっていたのだ。いや、そうじゃない。わらっていたのはふじ子じゃない。それは梨をぬすみおおせた女が、壁にもどって私にわらって見せたのだ。一瞬前にぬすんだことすら忘れ果てたような、あかるいほのぼのとした笑いだった。少しも傷つかないレンズのように透明なわらいだった。……

「兄貴。おい。兄貴」

 耳のそばでそんな声がする。私はすこしうとうとしていたらしい。私を呼びさましたのはあの少年の声である。私のとなりに何時しか腰かけて、脚をゆすってわざと車輪をぎいぎいきしませながら、幅のひろい顔で私の方をのぞきこむようにした。そして私ははっきり眼がさめた。

「兄貴。病気じゃないのかい。顔色がひどくわるいよ」

 気がつくと待合室のあたりにちらほら人影が見えて、歩廊にはすでに制服の駅員の姿が隠見して、床に積まれた梱包(こんぽう)を次々動かしているらしい。天蓋の稜線に断(き)りとられた空は、鈍い灰色に曇り、やがて始発車がホオムに入って来るような気配であった。少年は汚れた襯衣(シャツ)を着こんでいて、私にわらいかける瞳はなにかずるそうに光った。

「ああ、病気なんだ」

 私は素直にそう答えた。視界がどこか白々しいと思ったら、壁にうずくまって寝ていた連中は、私の知らないうちに皆どこかに行ってしまったらしく、少しはなれた荷受台によりかかって、さっきの女がひとり梨をかじっているだけであった。さくさくと嚙む音がここまで聞えて来た。唾液にぬれた白いすこやかな歯を、私は女の唇の間に見た。

「病気かい。病気だろうなあ。おれも先刻からどうも変だと思っていたんだ」

 脚にぶよぶよするものがさわって、ぎいぎい鳴る手車の下から、そのときやせて惨(みじ)めな犬の首がのぞいた。少年の足先がその耳のあたりをしたたか蹴とばした。犬は弱々しい声で一声啼(な)くと、すこしよろめきながら歩廊の方に出て行き、脚を前後につっぱるようにして伸びをした。少年は乾いた声をたててわらった。

「ねぼけてやがら。あいつ」

 そして更に脚を揺って手車をぎいぎい鳴らした。

「お前、今からどこに行くんだい」

「今日かい。今日はねえ、仕方がないから田舎廻りだよ」

 どんな意味か判らなかった。問い返すのもものうく私がだまっていると、

「あいつ、淫売なんだぜ」すりよって低い声でいった。「あいつ頭が馬鹿になってんだけど、あれでいい稼ぎやるんだぜ」

「淫売がどうしてこんな処で夜を明すんだね」

「昨夜はあぶれたのさ、あいつ」少年ははげしく舌打ちをした。「ちぇっ。梨なんか食ってやがら。先刻のやみやが呉れたのかい」

 女をみつめる少年の眼はきらきら光っていた。女は身体でその視線を感じたらしく、こちらをふりむいた。おびえたように手の梨をうしろにかくすと、すこしずつ後ずさりはじめた。

「ふん、馬鹿にしてやがら」

 少年はそして私にふり向くと、心配そうな声で言った。

「病気なら早くなおしたがいいぜ」

「うん。わかってるよ」

「ふん。やっぱり病気だったんだな。病気なら、ねえ、兄貴。兄貴はさっきの梨は食わねえだろ」

 暗い可笑しさがふとこみあげて来て、私は頰をゆるめながらポケットを探った。冷たい梨の肌が手にふれた。私はそれをつかむと少年の方にさしだした。

「やるよ」

 少年は有難うとも言わずそれを受取り、だまって口に持って行った。歯が梨に食いこむ音がした。上眼使いに私を見ながら、少年は更に次の部分を嚙んだ。私はぼんやり少年の顔をながめていた。そのとき何故か私は、先刻軽く眼を閉じてあの男の靴音が遠ざかって行くのを聞いていた気持を、漠然と胸によみがえらせていたのである。梨を嚙むさわやかな歯音と、堅く確かな靴のひびきが、ある気持を橋としてひとつにかさなった。私は少年から視線をそらして、遠く歩廊の方に瞼をあげた。線路の遙かから電車がゆるゆる逆行して来る。あれが始発電車になるらしかった。私は立ち上った。長い間腰をかけていたせいか、腰のへんが凝るように痛んだ。

(別れるときあの男は、どんなつもりで金入れの中などを見せようと思ったのだろう?)

 紫色の紙幣の束を瞼のうらにあざやかに浮べたとき、不快な濁った亢奮(こうふん)が急速に湧きあがるのを感じながら、私は歩廊の方に足をひきずりひきずり歩き出していた。

 

 盛り場のまんなかがぽっかり脱落したように建物にかこまれた小広場になっていて、そこに今日も聴衆がぐるりと輪をつくっていた。その輪の中央に不思議な容貌の青年が大きな身ぶりで手摺(ず)れのした手風琴をひいていた。午前の曇天の鈍色のひかりが、そこにも静かにおちていた。

 青年の顔の中央にある鼻は、粘土のように黄色いセルロイドの代用鼻であった。顔全体を巨大な灼熱した物体が擦過(さっか)したような趣きがあって、あるべきところに器官が歪んでいたり、また無かったりした。髪だけが不気味なほど漆黒に、つやつやと光っていた。韻律は乱れながら小広場の果てに消えて行った。

 輪をつくって囲んでいる人々は、皆おなじようなひとつの表情をうかべていた。彼等の耳がその手風琴の曲目にとらわれるよりもっと激しく、彼等の眼はその青年の顔にそそがれていた。人々の表情はみな眉根をかるくよせて、ある感じを露骨にただよわせていた。その感じは非常に複雑で、一口ではうまいこと言えない位であった。単に哀傷でもなく、単に憐憫(れんびん)でもなく、まして単に好奇でもなく、単なる嫌悪でもなかった。それらのものがみんな入り組んで、そしてそれが露骨にひとつの表情をつくっていた。そしてその表情が自然のものでなく、自分で無意識に強いたものであることに、人々は誰も自ら気付いていない風であった。人の輪からぬけでて来ると、人々はそこらに唾(つば)をはいたり、空を眺めたりして、それからトットッと何処かヘ急ぎ足で消えて行った。また通りかかった人々が新しい聴衆となって、人の背にとりついた。背伸びをして内をのぞきこむと、早速同じ表情を露骨につくり、青年の大げさな身振りとその顔に瞳を据えて見入るらしかった。

 私もそのひとりになって聴衆の輪にまじって立っていた。あれから始発電車に乗ってこの盛り場にやって来て、そこらをやたらに歩きまわった揚句、ここに止っているのであった。私は一夜のために草臥れてしわだらけになった洋服を着て、よごれた顔をして楽師の顔をながめていた。

 此の異相の楽師の姿を見るのは、私は今日が始めてではなかった。此の数年の間に、あちらの街角やこちらの広場で、何度も何度も私は此の楽師を眺めていた。特徴のある手風琴のおとが聞えれば、すぐそれとわかった。近頃では音楽が聞えずとも、その人の輪から離れてくる人の顔をひとめ見るだけで、そこに浮んでいる表情で判ることが出来た。今日もそれであった。私は吸いよせられるように人の輪にとりつき、いつもと同じように、なにものかをはっきり確めるような気持で、私は楽師の顔から眼をはなせないでいた。

 顔?

 それは顔ではなかった。顔の輪郭であるにすぎなかった。それにも拘らずそれは表情をもっていた。静かな曇り日のひかりのなかで、手風琴を大きく引き伸ばしながら、上半身を反らす。空を斜にあおぐ顔の痕跡には、たしかに一つの陶酔にまぎれもない表情がみなぎっているのだ。あの陶酔をささえているものはなにか?

 やがて私はあわてたように楽師から眼を外らすと、押しわけるようにして人混みをぬけだした。土埃を踏みながら広場をよこぎった。広場の果ては建物の壁となり、それをヘだてる有剌鉄線の垣根があった。その根もとに材木が一本横たわっていた。湿気を吸って黒く沈んだ色であった。私はそれに腰をおろした。ふかぶかと肩につみかさなる宿酔の疲労をはらいのけるように、私はポケットからつぶれた莨をとりだすとライタアで火を点じた。ライタアの錆色(さびいろ)のはだに、髪の乱れた私のかおがぼんやりうつった。

 莨(たばこ)の煙をふかく肺まで吸いこんで、私は何となく眼を閉じた。あの楽師の前にはふるぼけた帽子があって、それには聴衆が入れた紙幣がたくさん入っていた。それを前にして楽師は大きく身体を反(そ)らして手風琴をひいていたのだ。その旋律は幽(かす)かに乱れながら、今ここに腰をおろしている私の耳にまで届いてくる。私はふと昨夜のふじ子のかすかな歌声を思い出していた。今頃ふじ子は何をしているだろう。やはり弁当をかかえてあの会社に出て行ったにちがいない。みんなにお茶をついで廻ったり、銀行に使いに行ったり、皆から「空飛ぶ円盤」などとからかわれたりして、そして裸になって写真をとられたことなどすっかり忘れはてているだろう。昨夜私に酒をのませたことも、私が酔っぱらって厭味をさんざん言ったことも、ときどき微笑しながら思い出すだけだろう。たとえ着物の最後の一枚を脱ぐとき、耐えがたい苦痛をしのんだとしても、それはそのときですっかり終ってしまったのだ。今から先ときどきそのときのことを夢にみて、あるいは苦しそうな声を出して呻くだろうが、覚めてしまえばそれだけで忘れてしまうにちがいない。――

 材木に深く腰をおろし、いらだたしく莨の煙をはき散らしながら、私はすこしずつ気持がたかぶりはじめるのを感じていた。それはなぜか判らなかった。こんな日のこんな時刻に、こんな場所に私がぼんやり腰かけているという、得体のしれない不安から来ているのかも知れなかった。しかし今ここに尾を引く気持の後感としては、私はむしろ誰かを憎んでいた。誰を憎んでいるのか。その気持を手探って行けぱ、突きあたるものは私の眼前に輪をつくっている人々であり、その中にいる異相の楽師であった。私は楽師をひっくるめた此の広場の群集を心のそこからにくんでいるのかも知れなかった。

(不幸というものは、あんなものではないだろう)

 私は吸いさしを地面にぎりぎりこすりつけた。今日も人の輪にまじって、長いこと楽師を眺めていたというのも、私にははっきり判っていることであった。それは此の楽師の容姿をながめることが、私にいつもある刺戟をあたえるからであった。その胸を逆にこすりあげるような切なさが、むしろ私には甘美なものとして感じられるのだった。だから今日も長いこと立って見ていたのだ。しかし不幸というものがあんな形で肉体にあらわれ、あんな具合に人眼にさらされ、そして人々がそれに打たれるものとすれば、それは何と通俗で退屈なことだろう。まるで不幸の登録商標みたいに、あの楽師は立って手風琴をひいている。私は知っている。人の輪をくぐり出た人々の、眉をしかめた複雑な表情が、ものの一町もあるかないうちに次第に和んできて、やがて深い満足のいろがしたたか顔中にひろがり始めて来るのだ。人々は排泄(はいせつ)を終了したときのように、そこでほっと肩をおとすのだ。――

 ふと気がつくと、私の手の甲を脚の沢山ある小さな赤黒い虫がゆるゆると這っていた。一匹かとおもうと洋服の胸のところにも膝のところにも、その小さな虫は無数にはいのぼっていた。ぎょっとして私は立ち上った。あわてて掌をふってあちこちからばたばたと払いおとした。虫たちは赤黒い点になって掌につぶれたり、地面に飛びちったりした。見るとその湿った材木は古くくされて、すでに朽ち果てているのであった。赤黒い虫は層をなしてむらがり動いていた。[やぶちゃん注:「赤黒い虫」所謂、「木食い虫」「蠹」であろう。赤黒いとなると、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目(亜目) Cucujiformia 下目ゾウムシ上科ナガキクイムシ科ナガキクイムシ亜科 Platypus 属カシノナガキクイムシ Platypus quercivorus か。]

「――ふん」

 肩のところを這っているのを横眼で見つけて、忌々しくそれをはたきおとしながら、私はのろのろと歩き出した。

 堅い舗装路を人々は無表情なかおでぞろぞろあるいていた。私は柵を越えて路に出た。なにもかもむなしい気がした。人混みにまじって私は歩き出していた。背中に手風琴のおとがだんだん遠ざかる。今晩のあの終点の駅の風景は、もはや遠い世界のようにも感じられたけれども、またおそろしく身近にも感じられた。此の一夜が、朝が好きだという闇屋の男や、梨をぬすんだ女や、少年や犬が、しかし私にどんな関わりがあるのだろう。何にもないにきまっていた。しかし私は此の行きずりの人々を、今後ときどき思い起しては激しく嫉妬したり羨望したり憎悪したりするのかも知れない。それは愚かなことだ。しかし愚かといえば、酒に酔って前後不覚になって終点まで運ばれたことからして、全然おろかなことなのだ。そんなおろかなことを性こりもなく積みかさね積みかさねして、そしてそこで傷だらけになることで今までも、また今から先もすごして行くのだろう。正常な市民にもなれず、その反対のものにもなれず、自分の露床につきあたるのをおそれながら、毎日を身ぶりで胡麻化(ごまか)して行くのだろう。胡麻化そうとすることで剣は皆するどく、私のむねに刃を立ててくるだろう。揚句のはては自分の眼や心をも傷だらけにして、やがて私は一本の材木のように健康な感動をなくしてしまうだろう。そしてあの材木のように朽ちてしまうだろう。そのときになって朽木のような私を、どうして私は彫ることが出来るだろう。赤黒い小さな陰惨な虫たちだけが、私のむくろに根強く執拗に巣くうだろう。そしてそのときは私は生きながら死んでいるのだろう。――

 両手をポケットにつっこみ、人通りの少い道へ曲りこみながら、昨夜ふじ子に明日金を持って来ると約束したことを私は思い出していた。日がかげっているので時間は判らなかった。遅刻はしても今から勤め先に行ってみようか、このまま下宿にもどって眠ろうかと、ぼんやり考えなやみながら、曇り日の下を私は欝々とうなだれてあるいて行った。

2021/07/29

日本山海名産図会 第二巻 捕熊(くまをとる) / 第二巻~了

 


Kuma1

 


Kuma2

 

Kuma3

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を三枚をトリミングして、纏めて前に出した。キャプションは一枚目が「※弩捕(おううて、くまをとる)」[やぶちゃん注:「※」=「陞」の「升」を「在」に代えた字体。]。二枚目「捕洞中熊(とうちうのくまをとる)」。三枚目「以ㇾ斧擊熊手(おのをもつてくまのてをうつ)」。孰れも残酷な印象を与え、本書の蔀関月の挿絵で、私は初めて、生理的に厭な感じを持った。そうして、私は実は私が熊が好きだということに、この年になって初めて気づいたのである。]

 

   ○捕熊(くまをとる) 熊の一名「子路」

熊は、必ず、大樹の洞(ほら)の中(うち)に住みて、よく眠る物なれば、丸木を、藤かづらにて、格子のごとく結ひたるを以つて、洞口(どうこう)を閉塞し、さて、木の枝を切りて、其の洞中へ多く入るれば、熊、其の枝を、引き入れ、引き入れて、洞中を埋(うつ)み、終に、おのれと、洞口にあらはるを待ちて、美濃の國にては、竹鎗、因幡に鎗、肥後には鐵鉋、北國にては「なたき」といへる薙刀(なきなた)のごとき物にて、或ひは切り、或ひは突きころす。何れも、月の輪の少し上を急所とす。又、石見國の山中(さんちう)には、昔、多く炭燒きし古穴(ふるあな)に住めり。是れを捕るに、鎗・鐵炮にて頓(すみやか)にうちては、膽、甚だ小さし、とて、飽くまで苦しめ、憤怒(いか)らせて打ち取るなり。○又、一法には、落としにて捕るなり。是れを豫洲にて「天井釣(てんじやうつり)」と云ふ【又、「ヲソ」とも云。】。阿州にて「おす」といふ【「ヲス」は「ヲシ」にて、古語也。】。其の樣、圖にて知るべし。長さ二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル。]余(よ)の竹筏(いかだ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])のごとき下に、鹿(しか)の肉を、火に燻べたるを、餌(え)とす。又、柏の實、シヤシヤキ實(み)なども蒔く也。上には大石(おほいし)二十荷(か)[やぶちゃん注:大人一人が肩に担えるだけの物の量を単位として数えるのにいう助数詞。]ばかり置く【又、阿州にて七十五荷置くといふなり。】。もの、きよれば、落つる時の音、雷(らい)のごとく、落ちて、尚、下より、機(おし)を動かすこと、三日ばかり、其の止む時を見て、石を除き、機(おし)をあぐれば、熊は、立ちながら、足は、土中に一尺許り、踏み入りて死すること、みな、しかり。○又、一法に、「陷(おと)し穴」あれども、機(おし)の制(せい)に似たり。中にも飛騨・加賀・越の國には、大身(おほみ)、鎗を以つて、追ひ𢌞しても、捕れり。逃ることの甚しければ、「歸せ。」と、一聲、あぐれば、熊、立ちかへりて、人にむかふ。此の時、又、「月の輪。」といふ一聲に、恐るゝ躰(てい)あるに、忽ち、つけいりて、突き留(とゞ)めり。これ、獵師の剛勇、且つ、手練(しゆれん)・早業(はやわざ)にあらざれば、却つて、危きことも、多し。

○又、一法に、駿州府中に捕るには、熊の巢穴の左右に、両人、大ひなる斧を振り擧げ持ちて、待ちかけ、外(ほか)に一兩人の人して、樹の枝ながきをもつて、窠穴(すあな)の中(うち)を突き探ぐれば、熊、其の樹を巢中(すちう)へ、ひきいれんと、手をかけて引くに、橫たはりて、任(まか)せ、されば、尚、枝の爰かしこに、手をかくるをうかゞひて、かの両方より、斧にて、兩手を打ち落とす。熊は、手に力多き物なれば、是れに、勢ひ、つきて、終に獲る。かくて、膽(きも)を取り、皮を出だすこと、奧刕に多し。津輕にては、脚(あし)の肉を食ふて、貴人(きにん)の膳にも、是れを加ふ。○熊、常に食とするものは、山蟻(やまあり)・笋(たけのこ)・ズカニ。凡そ、木(こ)の實(み)は、甘きを好めり。獸肉も喰らはぬにあらず。蝦夷には、人の乳(ちゝ)にて養ひ置くとも云へり。

○ 取膽(きもをとる)

熊の膽(ゐ)は加賀を上品とす。越後・越中・出羽に出づる物、これに亞(つ)ぐ。其の余(よ)、四國・因幡・肥後・信濃・美濃・紀州、其の外、所々(ところところ)より出(いた)す。松前。蝦夷に出たす物、下品、多し。されども、加賀、必す、上品にもあらず。松前、かならず、下品にもあらず。其の性(しやう)、其の時節、其の屠(さは)く者の、手練(しゆれん)・工拙(こうせつ)にも有りて 一概には論じがたし。加賀に上品とするもの、三種、「黑樣(くろて)」・「豆粉樣(まめのこで)」・「琥珀樣(こはくで)」、是れなり。中にも、「琥珀樣」、尤とも勝(まさ)れり。是れは、「夏膽(なつのゐ)」・「冬膽(ふゆのゐ)」といひ、取る時節によりて、名を異(こと)にす。夏の物は、皮、厚く、膽汁(たんじう)、少なし。下品とす。八月以後を「冬膽(ふゆのい)」とす。是れ、皮、薄く、膽汁、滿てり。上品とす。されども、「琥珀樣」は「夏膽」なれども、冬の膽に勝(まさ)る。黄赤色(わうしやくしよく)にて、透き明(とほ)り、「黑樣」は、さにあらず、黑色(こくしよく)、光りあるは、是れ、世に多し。

○試眞僞法(にせをこゝろみるはう)

和漢ともに、僞物多きものと見へて、「本草綱目」にも試みの法を載せたり。膽(ゐ)を、米粒許り、水面に黙[やぶちゃん注:ママ。「㸃」の誤字であろう。以下同じ。]ずるに、塵(ちり)を避けて、運轉し(うんてん/きりきりまわり[やぶちゃん注:右/左のルビ。])し、一道(ひとすぢ)に水底へ線(いと)のごとくに引く物を「眞なり」と。按ずるに、是れ、古質(こしつ)の法にして、未だ、つくさぬに似たり。凡て、獸(けもの)の膽(きも)、何(いづ)れの物たりとも、水面に運轉(めく)ること、熊膽(くまのい)に限るべからず。或ひは獸肉を屠(ほふ)り、或ひは煮𤎅(しやがう)などせし家の煤(すゝ)を、是れ亦、水面に運轉(うんてん)すること、試みて、しれり。されども、素人業(しろとわざ)に試みるには、此の方の外、なし。若(も)し、止むことを不得(ゑず)、水に黙[やぶちゃん注:ママ。「㸃」の誤刻であろう。]して水底(すいてい)に線(いと)を引くを試みるならば、運轉(めくること)、飛ぶがごとく、疾(はや)く、其の線(いと)、至つて細くして、尤も疾勢物(をとるときのもの)を、よしとす。運轉(めくること)遲き物、又、舒(しつか)にめぐりて止(とゞ)まる物は、皆、よろしからず。又、運轉(めくること)速きといへとも、盡(ことごと)く消へざる物も、佳(よ)からず。不佳物(よからさるもの)は、おのづから、勢ひ、碎(くだ)け、線(いと)、進疾(すみやか)ならず。又、粉(こ)のごとき物の落ちるも、下品とすべし。又、水底(すいてい)にて、黄赤色(わうしやくしよく)なるは、上品にて、褐色(ちやいろ)なるは、極めて、僞物(ぎぶつ)なり。作業者(くろうとぶん)は、香味の有無を以つて分別す。およそ、眞物(しんぶつ)にして、其の上品なる物は、舌上(ぜつしやう)にありて、俄かに濃き苦味を、あらはす。彼(か)の苦甘(くかん)、口に入りて、黏(むちや)つかず、苦味(くみ)、侵潤(しだひ)に增さり、口中(こうちう)、分然(ふんぜん/さつはり[やぶちゃん注:右/左のルビ。])として淸潔(きよ)し[やぶちゃん注:二字へのルビ。]。たゞ、苦味(くみ)のみある物は僞物(ぎぶつ)なり。苦甘(くみ)の物を良しとす。また、羶臭(なまくさ)き香味の物は、良らずといへども、是れは、肉に養はれし熊の性(せい)にして、必ず僞物(ぎぶつ)とも定めがたし。其の中(うち)、初め、甘く、後(のち)、苦(にが)き物は、劣れり。又、焦氣(こげくさき)物は、良品なり。是の試法(しはう)、教へて教ゆべからず。必ず、年来(ねんらい)の練(れん)、妙たりとも、眞僞(しんき)は辨(へん)じやすくして、美𢙣(びあく)は辨(べん)じがたし。

○制僞膽法(にせをせいするほう)

黄柏(わうばく)・山梔子(さんしし[やぶちゃん注:ママ。])・毛黄蓮(けわうれん)の三味(み)を、極(ご)く、細末とし、山梔子(さんしし)を、少し、𤎅りて、其の香(か)を除き、三味、合せて、水を和して、煎(せん)し詰(つ)むれば、黒色(こくしよく)光澤(ひかり)、乾はきて、眞物(しんふつ)のごとし。是れを裏むに、美濃紙二枚を合はせ、水仙花(すいせんくわ)の根の汁をひきて、乾かせば、裏(うゝ)みて、物を洩らすこと、なし。包みて、絞り、板に挾みて、陰乾(かげぼし)とすれは、紙の皺(しわ)、又、藥汁(やくこう[やぶちゃん注:ママ。「やくじる」の誤刻であろう。])の潤(うるほ)ひ入(し)みて、實(じつ)の膽皮(たんひ)のごとし。尤も冬月(ふゆ)に制すれば、暑中に至りて、爛潤(たゝれ)やすし。故に、必ず、夏の日(ひ)に製す。是れは、備後邊(へん)の製にして、他國も、大抵、かくのごとし。他方(たはう)、悉くは知りがたし。○又、俗說には、『「こねり柿(かき)」といふ物、味、苦し。是れを、古傘の紙につゝむもあり。』と云へり。或ひは眞(しん)の膽皮(たんひ)に、僞物を納(い)れし物も、まゝありて、是れ、大ひに、人を惑はすの甚だしき也。

 

  附記

熊は黒き物(もの)故(ゆへ)に「クマ」といふとは云へども、さだかには、定めがたし。是れ、全く朝鮮の方言なるべし。「熊川」を「コモガイ」といふは、即ち、「クマカハ」の轉(てん)したるなり。今も朝鮮の俗、熊を「コム」といへり。

 

 

日本山海名產圖會巻二終

 

[やぶちゃん注:本邦に棲息するのは、

食肉目クマ科クマ属ツキノワグマ亜種ニホンツキノワグマ Ursus thibetanus japonicus(本州及び四国。九州では絶滅(最後の九州での捕獲は一九五七年で、二〇一二年に九州の絶滅危惧リストからも抹消されている。二〇一五年に二件の目撃例があったが、アナグマ或いはイノシシの誤認かとされる)

及び、北海道の、

クマ属ヒグマ亜種エゾヒグマ Ursus arctos yesoensis

である。本文で「蝦夷」の熊も語られてあるので、後者も含まれる。「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 熊(くま) (ツキノワグマ・ヒグマ)」を参照されたい。

『熊の一名「子路」』私の好きな暴虎馮河の気骨の人で義を重んじて最後には塩漬けにされえ食われてしまった子路を異名とするのは、いかにも尤もだ、などと勝手に一人ごちたのだが、サイト「Yoshimi Arts」の上出惠悟氏の「熊について」に、熊をテーマとして作品を発表された理由について(平成二八(二〇一六)年の記事)、

   《引用開始》

私は昨年から突如として熊のことが気にかかり彼らのことを頻繁に考えるようになりました。しかし思い出してみますと私が熊に興味をもった発端は、たまたま「子路(しろ)」という熊の異称を知った時のことだったように思われます。陶淵明による六朝 時代の志怪小説集「捜神後記(続捜神記)」の中に、「熊無穴有居大樹孔中者 東土呼熊子路」という記述があり、また江戸時代の獣肉屋でも子路と書いて「くま」と読ませていたことを知りまし た(寺門静軒著「江戸繁盛記」)。論語に詳しい方はご存知と思いますが、子路とは孔門十哲の一人仲由のことで、子路という異称の由来は、熊が住処とした樹の「孔」と孔子の「孔」をもじった言葉遊びからの洒落です。子路のことなら中島敦の小説「弟子」(昭和十八年発表)で主人公として描かれており、私はこの小説を幾度と読み感動しています。子路は子供がそのまま大人になった 様な直情径行な性格から度々孔子に叱られます。激越でしかし素直な子路はまこと獣のように美しく、これを読むと熊と子路を結びつけた人の気持ちが腹に落ちるように理解できます。物語の最後、子路は主君を救う為に反逆者のいる広庭へと単身跳び込み、気高くも無残に殺されてしまいます。孔門の後輩、子羔[やぶちゃん注:「しこう」。]と共にその場から遁れることも出来た子路が子羔に声を荒げた「何の為に難を避ける?」という言葉が私の心の中で何度も反復されました。「何の為に難を避ける?」。里に現れる熊は一体どのような気持ちで里に降りて行くのだろう。私の中でその熊と子路の姿が妙に重なり始めました。日常生活でも植木を熊と見間違えたり、車のヘッドライトの影に熊を見たり、空に浮かぶ雲を見て熊を思ったり、実際に会えないかと山へ行ってみたり、北海道を旅したりと熊の痕跡をっています[やぶちゃん注:ママ。「追っています」「辿っています」か。]。結局のところ私はなぜ熊なのかと自分でも判らないまま熊を心に宿してしまったのです。

   《引用終了》

元は字遊びか。ちょっと残念。「搜神後記」(續搜神記:陶淵明の作とされるが、後世の偽作)のそれは、第十一卷補遺の以下。

   *

 熊居樹孔

熊無穴、居大樹孔中。東土呼熊爲子路。以物擊樹云、「子路可起。」。於是便下。不呼、則不動也。

   *

で、寺門静軒(寛政八(一七九六)年~慶応四(一八六八)年:幕末の儒学者)の「江戶繁盛記」(天保二(一八三一)年より執筆・板行。但し、天保六(一八三五)年三月、青表紙本検閲の最終責任を負う昌平坂学問所林述斎の助言を受けた江戸南町奉行筒井伊賀守の命により、本書の初篇と二篇は「敗俗の書」として出版差留の処分を受けた。しかし、その申し渡しを無視して第三篇以降の刊行を継続、天保十三年には悪名高い江戸南町奉行鳥居甲斐守(鳥居耀蔵)に召喚され、第五篇まで書いていた本書は『風俗俚談を漢文に書き綴り鄙淫猥雑を極めその間に聖賢の語を引證」、『聖賢の道を穢し』たとされ、「武家奉公御構」(奉公禁止)という処分を受けた。この際、鳥居は、「儒学者の旨とするところは何か」と問い、静軒が「孔孟の道に拠って己を正し、人を正すところにある」と答えると、すかさず本書を突きつけ、「この書のどこに孔孟の道が説かれているか答えよ」と迫り、返す答えのない静軒は罪に服したという。ここはウィキの「寺門静軒」に拠った)、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本の当該部(「山鯨」(猪肉のこと)の条の一節を見ることが出来る(右頁三行目に「子路(クマ)」とある)。

「なたき」不詳。

「おす」「ヲス」「ヲシ」最初のそれは歴史的仮名遣から、「押す」「壓す」でああろう。後者二つはその訛りであろう。

「柏の實」ブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属 Mesobalanus 節カシワ Quercus dentata の実。クヌギ(コナラ属クヌギ Quercus acutissima )に似て丸く、殻斗は先がとがって反り返る包が密生する。アク抜きすれば、人も食することが出来る。

「シヤシヤキ實(み)」「シャシャキ」はツツジ目モッコク科ヒサカキ属ヒサカキ Eurya japonica の異名。漢字は「柃」「姫榊」。他に「ビシャコ」「ビシャ」「ヘンダラ」「ササキ」などの別名がある。その実は五ミリメートルほどで、黒い。染料に利用されることもあるという。

「機(おし)」やはり「押し」「壓し」で、広く罠の一つ。知らずに踏むと、「おもし」が人や動物を打ち、圧死させる仕掛けを言う。ただ、そうした構造の仕掛け(機械)としての当て字かとも思われる「機」だが、第一図を見て貰うと判る通り、この字を当てたのは、その様態が「機(はたおり)」のそれに似ているからのように思われる。

「越の國」越前・越中(殆んどが実質的には加賀藩)・越後。

『「月の輪。」といふ一聲に、恐るゝ躰(てい)ある』相手の名を名指して呼称すると、相手を支配できるという古い呪術的な言上(ことあ)げである。

「駿州府中」現在の静岡市葵区相当(グーグル・マップ・データ航空写真)。南部の静岡市街を除いて大半は山間である。

「脚(あし)の肉」四肢の謂いであるが、前肢の、所謂、「熊の手」であろう。

「山蟻(やまあり)」膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科アリ科ヤマアリ亜科ヤマアリ属クロヤマアリ亜属クロヤマアリ Formica japonica

「ズカニ」短尾下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica 「大和本草卷之十四 水蟲 介類 津蟹(モクズガニ)」を参照されたい。

「蝦夷には、人の乳(ちゝ)にて養ひ置くとも云へり」イオマンテの儀式で知られる通り、アイヌの人々にとってエゾヒグマはカムイ(神)の変じたものとして尊崇される。

「屠(さは)く」「捌(さば)く」。

「三種」「黑樣(くろて)」・「豆粉樣(まめのこで)」・「琥珀樣(こはくで)」は、胆嚢の外見上の色による分類のようである。「豆粉樣」は黄色の強いものか。

『「本草綱目」にも試みの法を載せたり』巻五十一上の「獸之二」の「熊」の項の「膽」に以下のようにある(囲み字は太字に代えた)。

   *

 頌曰はく、「熊膽(ようたん)は隂乾しして用ゆ。然れども、僞せ者、多し。但(ただ)、一粟(いちぞく)許りを取り、水中に滴らして、一道、線のごとく散らざる者を眞と爲す」と。時珍曰はく、「按ずるに、錢乙が云はく、『熊膽の佳なる者の通明(つうめい)[やぶちゃん注:明るい光を通すこと。]する每(たび)に、米粒[やぶちゃん注:ほどの大きさの意であろう。]を以つて、水中に㸃じて、運轉して、飛ぶがごとき者の良なり。餘の膽、亦、轉じて、但(ただ)、緩(ゆる)きのみ。』と。周宻齊が「東埜語」に云はく、『熊の膽、善く塵(ちり)を辟(さ)く。之れを試みるに、浄水一器を以つて、塵、其の上を幕(おほ)ひ、膽の米許りを投ずるときは、則ち、塵、凝りて、豁然として開くなり。』と。

   *

「古質(こしつ)の法にして、未だ、つくさぬに似たり」古びた判別法であって、未だ、それで決定的とは思われない。

「煮𤎅(しやがう)」煮たり、炒ったりすること。

「疾勢物(をとるときのもの)」「をとる」は「劣る」であろう。ゆっくりとしか動かないもの。

「舒(しつか)に」「靜かに」。「舒」には「緩やか」の意がある。

「作業者(くろうとぶん)」「玄人分」。実際の「熊の胆」を扱う専門の職人。薬種屋なども含まれる。

「黏(むちや)つかず」「ねちゃつかず」(ねちゃねちゃと粘(ねば)らず)の意であろう。

「侵潤(しだひ)に」「次第に」。

「苦味(くみ)」「苦甘(くみ)」この後者は読みの誤刻(「くかん」或いは「にがあまし」)が疑われる。

「羶臭(なまくさ)き」「腥(なまぐさ)き」に同じ。

「教へて教ゆべからず」「(こうして書いたものの)実際には非常に微妙なもので、教えて判るレベルのものではない」というのである。

「年来(ねんらい)の練(れん)、妙たりとも」長年、熊の胆に関わった専門家で業師(わざし)であっても。

「美𢙣(びあく)は辨(べん)じがたし」本物の熊の胆の良し悪しは弁別し難い。

「黄柏(わうばく)」落葉高木アジア東北部の山地に自生し、日本全土にも植生する、ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense の樹皮から製した生薬。薬用名は通常は「黄檗(オウバク)」が知られ、「黄柏」とも書く。ウィキの「キハダ」によれば、『樹皮をコルク質から剥ぎ取り、コルク質・外樹皮を取り除いて乾燥させると』、『生薬の黄柏となる。黄柏にはベルベリンを始めとする薬用成分が含まれ、強い抗菌作用を持つといわれる。チフス、コレラ、赤痢などの病原菌に対して効能がある。主に健胃整腸剤として用いられ、陀羅尼助、百草などの薬に配合されている。また強い苦味のため、眠気覚ましとしても用いられたといわれているほか、中皮を粉末にし』、『酢と練って』、『打撲や腰痛等の患部に貼』り、『また』、『黄連解毒湯、加味解毒湯などの漢方方剤に含まれる。日本薬局方においては、本種と同属植物を黄柏の基原植物としている』。『アイヌは、熟した果実を香辛料として用いている』とある。

「山梔子(さんしし)」「さんざし」で、リンドウ目アカネ科サンタンカ亜科クチナシ連クチナシ属クチナシ Gardenia jasminoides の異名。その強い芳香は邪気を除けるともされ、庭の鬼門方向に植えるとよいともされ、「くちなし」は「祟りなし」の語呂を連想をさせるからとも言う。真言密教系の修法では、供物として捧げる「五木」(梔子・木犀・松・梅花・榧(かや:裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )の五種の一つ。

「毛黄蓮(けわうれん)」キンポウゲ目メギ科タツタソウ(竜田草)属 Jeffersonia dubia 。現行では園芸品種として知られる。NHK出版「趣味の園芸」のこちらを参照されたい。

「水仙花(すいせんくわ)の根」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ヒガンバナ亜科スイセン連スイセン属スイセン変種ニホンズイセン Narcissus tazetta var. chinensis 。全草有毒で死亡例もある。但し、ウィキの「スイセン属によれば、『民間療法で、乳腺炎、乳房炎、咳が出るときの腫れに、鱗茎を掘り上げて黒褐色の外皮を除き、白い部分をすりおろしてガーゼに包んで外用薬として患部に当てておくと、消炎や鎮咳に役立つと言われている』。『身体にむくみがあるときも同様に、足裏の土踏まずに冷湿布すると方法が知られている』とある。

「こねり柿(かき)」「木練り柿」で、枝になったままで甘く熟する柿のこと。味はともかく、形状は腑に落ちる。

『熊は黒き物(もの)故(ゆへ)に「クマ」といふとは云へども、さだかには、定めがたし。是れ、全く朝鮮の方言なるべし。「熊川」を「コモガイ」といふは、即ち、「クマカハ」の轉(てん)したるなり。今も朝鮮の俗、熊を「コム」といへり』関岡東生氏のブログ「川場の森林(やま)づくり」の「熊の名の由来」に、加納喜光著「動物の漢字語源辞典」(二〇〇七年東京堂出版刊)から、以下のように『同書よりかいつまんで紹介』されておられる(行空けは詰めた)。

   《引用開始》

“熊”の文字は、見たままに“能”と“火”が組み合わされてできている。

“能”の下に位置する四つの点は、“連火(れんが)”という部首名が付けられているとおり“火”を表すのだ。

“能”は、粘り強い力があるという意味の文字で、ここから“能力”などという言葉も生み出されたという。

クマが食べ物とても強い執着をみせることなどを考えると、とても説得力があるではないか。

さらに、“連火”が合わせられることによって、火のように勢いがあり、強い様を表すのだという。

つまり、“熊”は、粘り強くそして火のような勢いがある動物であるというわけである。

また、同書では、“くま”という音(読み)については、“隈(くま)”が語源となっているとも説明している。

“目に隈(くま)ができる”といえば、目の下が窪んで見える様を指すし、“隈”は云うまでもなく、“すみ”とも読む字であるが、こちらは“すみっこ”の“隈(すみ)”である。

クマが穴に入って冬眠することから、「奥まったところに棲む動物」という意味で、この音が与えられたのだという。

   《引用終了》

朝鮮語で熊は「곰(コム)」。「熊川」は「こもがい」と読むが、これは作者の言うように、朝鮮語で「高麗 (こうらい) 茶碗の一種」を指す。口縁が反り返り、高台が大きく、見込みの底に「鏡」と呼ばれる円形の窪みがある。「真熊川 (まこもがい)」・「鬼熊川(きこもがい)」などに分けられる。朝鮮半島南東部の港、熊川から積み出されたための称と言われる。これを知ると、作者の朝鮮語由来説もそれらしくは聴こえる。]

2021/07/28

日本山海名産図会 第二巻 鳬(かも)・峯越鴨(おごしのかも)

 

Kamo0

 

[やぶちゃん注:これ以下、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「高縄(たかなは)をはつて鳬(かも)を捕(とる)」。本文に出る皮革で出来た「水足袋(みづたび)」を装着した「なんば」(田下駄)を履いている。少なくとも、私はこうした特殊な履物を描いたのを見たのは初めてである。而して、何より、向こうの田圃道に、鴨を掠め取らんとして来たのであろう、二匹の狐が絶妙のアクセントとして描かれて見事である。]

 

   ○鳬(かも)

○鳬は攝州大坂近邉に捕るもの、甚だ美味なり。北中島を上品とす。河内、其の次ぎなり。是れを捕るに 他國にては「鴨羅」といへども、津の國にては「シキデン」とて、橫幅、五、六間[やぶちゃん注:約九・一〇~一〇・九一メートル。]に、竪一間[やぶちゃん注:約一・八二メートル。]斗の細き糸の羅を、左右、竹に付けて立つる。又、三間程づゝ隔てゝ、三重(ぢう)・四重に張るなり。是れを「霞」共云。○又、一法に、池の辺(ほとり)にては、竹に黐(もち)を塗り、横に、多く、さし置けば、鳬、渚(みぎは)の芹(せり)など求食(あさる)とて、竹の下を潜(くゝ)るに、觸れて黐にかゝる。是れを「ハゴ」と云ふ。○又、一法に、水中(すいちう)に有る鳥をとるには、「流し黐」とて、藁蘂(わらしべ)に黐を塗り、川上より、流しかけ、翅(つはさ)にまとはせて捕らふ。○又、一法に、「高縄(たかなは)」と云ふ有り。是れは池・沼・水田の鳥を捕るが爲めなり。先づ、黐を寒(かん)に凍らざるが爲め、油を加えて、是れを、一度(いちど)、煮て、苧(お)に塗り、轤(わく)に卷き取り、さて、兩岸に(りやうきし)に篠竹(しのたけ)の細きを、長さ一間斗りなるを、間(あひだ)一間半に一本宛(づゝ)立て並らべ、右の糸を纏ひ張る事、圖のごとし。一方に向ひたる一本つゝの竹は、尖(かど)の切りかけの筈(はづ)に、油を塗り、糸の端(はし)をかけ置き、鳥のかかるに付きて、筈、はづれて、纏(まと)はるゝを、捕ふ。是を「棚が落ちる」といふ。東西の風には、南北に延(ひ)き、南北の風には東西にひき、必ず、風に向ふて飛び來たるを、待つなり。又、鴨、群飛(ぐんひ)して、糸の、皆、落るを「惣(そう)まくり」と云ふ。獵師は、「水足袋(みづたび)」とて、韋(かわ)にて作りたる沓をはき、又、下に「なんば」と云ふ物を副差(そへは)きて、沼・ふけ田の泥上(でいじやう)を行くに便利とす。又、鳥の、朝、下(お)りしと、宵に下りしとは、水の濁りを以つて知り、又、足跡について、其の夜(よ)、來(く)る・來らざるを考へ、旦(あす)、來たるべき時刻など、察するに一(ひとつ)もあたらずといふこと、なし。

○雁(がん)を捕るにも此の高縄を用ゆとは云へども、雁は、鴨より、智(ち)、さとくて、元より、夜(よる)も目の見ゆるもの故に、飼の多きには、下(お)りず、土砂(どしや)乱れたる地には、下(くだ)らず。或ひは、番(つが)ひ鳥の、其の邊(へん)を廽(めぐ)り、一聲、鳴ひて、飛ぶ時は、群鳥、隨つて去る。たまたま、高縄の邊(ほとり)に下(くだ)れば、獵師、竹を以つて、急に是れを追へば、驚きて、縄にかゝること、十(ぢう)に一度(いちど)なり。○又、一法、「無双がへし」といふあり。是れ、攝刕嶌下郡(しましもこほり)鳥飼(とりかい)にて鳬(かも)を捕る法なり。昔は、「おふてん」と高縄を用ひたれども、近年、尾刕の獵師に習ひて、「かへし䋄」を用ゆ。是れ、便利の術なり。大抵、六間[やぶちゃん注:約十・九一メートル。]に幅二間[やぶちゃん注:約三・六四メートル弱。]ばかりの䋄に、二拾間[やぶちゃん注:三十六・三六メートル。]斗の綱(つな)を付けて、水の干泻、或ひは砂地に短き杭(くひ)を、二所(ふたところ)、打ち、䋄の裾の方(かた)を結び留(とゞ)め、上の端には竹を付、其の竹を、すぢかひに、両方へ開き、元(もと)、打ちたる杭に結び付け、よく、かへるように、しかけ、羅(あみ)・竹縄とも、砂の中に、よく、かくし、其の前を、すこし掘りて、窪め、穀(こめ)・稗(ひへ)などを蒔きて、鳥の群れるを待ちて、遠くひかへたる。䋄を、二人がゝりにひきかへせば、鳥のうへに覆ひて、一ツも洩らすことなく、一擧、數十羽(すじつば)を獲るなり。是れを、羽を、打ちがひに、ねぢて、堤(つゝみ)などに放(はな)つに、飛ぶこと、あたわず。是れを「羽がひじめ」といふ。雁(がん)を取るにも、是れを用ゆ。されども、砂の埋(うづみ)やう 餌のまきやう、ありて、未練の者は取り獲(え)がたし。  ○鳬(かも)は山澤(さんたく)・海邊(かいへん)・湖中(こちう)にありて、人家に畜(か)はず。中華、綠頭(りよくとう)を上品とす。日本、是れを「眞鳬(まかも)」といふ故に、「萬葉集」、靑きによせて、よめり。又。「尾尖(をさき)」は、是れに次ぎて、「小ガモ」といふ。古名「タカへ」なり。「黑鴨(くろかも)」◦「赤頭(あかかしら)」◦「ヒトリ」◦「ヨシフク」◦「島フク」◦「※𪂬(かいつぶり)」[やぶちゃん注:「※」=「群」+「鳥」。恐らく「鸊」の誤字であろう。]◦「シハヲシ」◦「秋紗(あいさ)」◦「トウ長」◦「ミコアイ」◦「ハシヒロ」◦「冠鳥(あじかも)」【「アシ」とも云なり】)◦尾長(をなが)、此の外、種類、多し。「緑頸(あをくび)」・「小鳬(こかも)」・「アヂ」は、味、よし。其の余(よ)は、よからず。

 

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Kamo3

 

[やぶちゃん注:キャプションは一枚目は「豫刕峯越鳬(よしうおこしかも)」、二枚目は「攝刕霞羅(せつしうかすみあみ)」、三枚目は「津訓國無雙返鳬羅(つのくにむさうかへしかもあみ)」。後の二者は前に語られてあるが、底本の配置に従い、その順番通りに示した。最後の挿絵には中景に肥桶を天秤棒で荷った農夫が点景されている。こういう農夫が家にやって来て屎尿を買い取った実景を記憶に持っているのは、多分、私の世代が終わりかも知れない(小学校低学年の昭和六四(一九八九)年頃の記憶)。言っておくが、私の家が水洗になったのは、私が結婚した一九九〇年のことである。]

 

  ○峯越鴨(おごしのかも)【「鴨」の字は「アヒロ」なり。故に一名「水鴨」といふ。「カモ」は「鳬」を正字とす。今、俗にしたかふ。】

是れ、豫刕の山に捕る方術(はうじゆつ)なり。八、九月の朝夕、鳬の群れて、峯(みね)を越へるに、茅草(ちくさ)も翅(つばさ)に摺り、切れ、高く生る事なきに、人、其草の陰に、周𢌞(まはり)・深さ共に三尺ばかりに穿(うが)ちたる穴に隱れ、羅(あみ)を扇(あふぎ)の形に作り、其の要(かなめ)の所に、長き竹の柄を付て、穴の上ちかく飛來たるを、ふせ捕るに、是れも、羅(あみ)の縮(ちゞま)り、鳥に纏(まと)はるゝを捕らふ。尤も、手練(てれん)の者ならでは、易(やす)くは獲がたし。【但し、峯(みね)は両方に田のある所を、よし、とす。朝夕ともに、闇(くら)き夜(よ)を専(もちば)らとす。䋄を、なつけて「坂䋄(さかあみ)」といふ。】

 

[やぶちゃん注:「鳬」「鴨(かも)」である。但し、本邦に於ける「かも・カモ」自体は鳥類の分類学上の纏まった群ではない。鳥綱カモ目カモ科 Anatidae の鳥類のうち、雁(これも通称総称で、カモ目カモ科ガン亜科 Anserinaeのマガモ属 Anas よりも大型で、カモ科 Anserinae 亜科に属するハクチョウ類よりも小さいものを指す)に比べて体が小さく、首があまり長くなく、冬羽(繁殖羽)は♂と♀で色彩が異なるものを指すが、カルガモ(マガモ属カルガモ Anas zonorhyncha )のように雌雄で殆んど差がないものもいるので決定的な弁別属性とは言えない。また、「鳬」は本書では「鴨」の意で、「鳧」とも書き、これらは「鴨」の異体字であり、総て上記の広義な「鴨・かも・カモ」を指している。しかし乍ら、何より困るのは、この字を「かも」と和訓せず、「けり」と読んだ場合は、現行の和名では、全く異なる種である、チドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ(田鳧・田計里)属ケリ Vanellus cinereus を指すので非常に注意が必要である。なお、本邦で古くから食用にされたものは、主に、

カモ目カモ科マガモ属マガモ Anas platyrhynchos

で、加えて野生のマガモとアヒル(マガモ品種アヒル Anas platyrhynchos var. domesticus )との交雑交配種である、

マガモ属マガモ品種アイガモAnas platyrhynchos var. domesticus

も食用とする。但し、アヒルはマガモを品種改良した家禽品種で生物学的にはマガモの一品種であり、その交配であるアイガモもまた、学名はアヒルと同じである。「マガモ」・「アヒル」・「アイガモ」という呼び変え区別は生物学的鳥類学的なものではなく、歴史的伝統による慣例や認識に過ぎないか、或いは商業的理由によるものである。無論、ここで捕っている種はマガモやアイガモ(飼育していたものが野生化している)に限らず、他の「鴨」類も混雑するし、それらも「鴨」として食していたと考えられるから、他の種も含まれると考えねばならない。しかし、カモ科Anatidaeはガンカモ科とも言い、五亜科五十八属百七十二種もおり、リュウキュウガモ亜科 Dendrocygninae(二属九種)・ゴマフガモ亜科 Stictonettinae(一属一種・ゴマフガモ Stictonetta naevosa 。本邦には棲息しない)・ツメバガン亜科 Plectropterinae 一属一種:ツメバガン Plectropterus gambensis 。本邦には棲息しない)・ガン亜科 Anserinae(十四属三十七種)・カモ亜科 Anatinae(三十八属百二十二種)もいるから、可能性のある種を総て挙げることは私には不可能である。詳しくは「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」の私の注を参照されたい。

「北中島」この附近かと思われる(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「シキデン」不詳。網を敷き張った様子が大きな屋敷のように見えることからの「敷殿」か。死語のようで、ネット検索の網には掛かってこない。

「黐(もち)」鳥黐(とりもち)。「耳嚢 巻之七 黐を落す奇法の事」の私の注を参照されたい。

「芹(せり)」日本原産の双子葉植物綱セリ目セリ科セリ属セリ Oenanthe javanica 。私の「大和本草卷之五 草之一 蔬菜類 芹(せり) (セリ)」を参照されたい。

「ハゴ」「擌・黐擌」で「はが」「はか」とも呼ぶ。竹・木の枝・藁などに黐を塗り、田の中などに囮(おとり)の傍に於いて鳥を捕らえる罠。小学館「日本国語大辞典」を見ると、全国に「はご」の呼び名があり、特定の地方方言とは言い難い。

「流し黐」小学館「日本国語大辞典」に、冬の夜、長い縄や板に黐を塗りつけて、湖沼に流し、鴨などの水鳥を捕獲すること、とある。

「高縄(たかなは)」同前に、鳥を捕えるために縄に黐をつけて高いところに張っておくもの、とある。

「凍らざるが爲め」凍らないようにするために。

「苧(お)」「お」は歴史的仮名遣の誤り。既出既注えあるが、再掲すると、苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎの網。苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて網糸にしたもの。

「轤(わく)」車木(くるまぎ)。或いは「桛・綛」で「かせ」。本来は、紡(つむ)いだ糸を巻き取るH形またはX形の道具。「かせぎ」とも呼ぶ。二本又は四本の木を対にして、横木に打ち付け、中央部に軸を設けて回転するようにしたもの。

「篠竹(しのたけ)」根笹の仲間の総称で、細くて群がって生える竹を指すが、中でも幹が細く丸く均整のとれたものを矢柄などに用いる。

「筈(はづ)」通常は、矢の端の弓の弦につがえる切り込みのある部分である「矢筈(やはず)」を指す。ここは篠竹の端をそのような切り込みを加工した部分を指す。

「なんば」漢字不詳。小学館「日本国語大辞典」に、『深田にはいる時にもぐらないようにはく田下駄』とある。

「ふけ田」「ふけた」「ふけだ」とも読む。「深田」(ふかた・ふかだ)に同じ。泥・水の多い田としては低級な田。私は直ぐに水上勉の「飢餓海峡」の「汁田(しるた)」を想起する。東南アジアなどには多く、実際、それらは異様に深く、収穫は舟を用いるのを私は映画作品の中で見たことがある。

「雁」広義のガン(「鴈」とも書く)カモ目カモ科ガン亜科 Anserinae の水鳥の中で、カモ(カモ目カモ亜目カモ科 Anatidae の仲間、或いはマガモ属 Anas )より大きく、ハクチョウ(カモ科 Anserinae 亜科 Cygnus 属の六種及び Coscoroba 属の一種の全七種)より小さい種群を総称する。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴈(かり・がん)〔ガン〕」の私の注を参照されたい。狭義の一属一種であるノガン(野雁)目 Otidiformesノガン科ノガン属ノガン Otis tarda を扱った「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴇(のがん)〔種としての「ノガン」〕」も一緒に見られたい。

「攝刕嶌下郡(しましもこほり)鳥飼(とりかい)」現在の摂津市鳥飼の各町。淀川右岸。

「無双がへし」福岡県小郡市小郡にあるかも料理・季節料理の「さとう別荘」公式サイト内の「小郡の野鴨猟」として、「無双網」の解説が図や写真附きで載り、『小郡の野鴨猟は特徴的な狩猟法を用います』。『それが「無双(むそう)網」です。この方法は「昼とり」と「夜とり」の』二『種類があり、鴨が朝夕に餌を食べる習慣を利用したものです』。『狩猟に用いる道具は幅』一メートル、『長さ』二十メートル『程の細長い網です』。『野生の鴨は非常に敏感なため』、『鴨がため池まで飛んでくる前に餌となる籾をまき』、『無双網を仕掛けておきます』。『その後、鴨からは見えない場所に用意してある見張り小屋に隠れ』、『鴨が来るのを待ち、ころあいを見はかり、無双網の仕掛け(針金)を引くと』、『文字通り一網打尽のうちに鴨が捕らえられるというわけです』とあり、非常に参考になる。なお、同ページには、かも料理に適したカモがリストされてあり、マガモ・オナガガモ・ヒドリガモ・トモエガモ・コガモの五種が挙げられてある。

「おふてん」不詳。物自体が判らない。「覆(お)ふ天」網などを考えはした。

「羽を、打ちがひに、ねぢて」両主翼を無理に捩じって背中で交差させることを言う。

『是れを「羽がひじめ」といふ』実際に鳥類をこうすることで、飛翔出来なくなり、「羽交い締め」の語源もそれである。なお、「締め」を「絞め」と表記するのは誤りである。「絞」は「喉を絞める」の意だからである。

「綠頭(りよくとう)」これは先に示したマガモの成鳥の繁殖期の♂。黄色の嘴、緑色の頭、白い首輪、灰白色と黒褐色の胴体と、♂は非常に鮮やかな体色をしている。♀は年中、嘴が橙と黒で、ほぼ全身が黒褐色の地に黄褐色の縁取りがある羽毛に覆われている。但し、非繁殖期の♂は♀とよく似た羽色になる(エクリプス:eclipse。カモ類の♂は派手な体色をするものが多いが、繁殖期を過ぎた後、一時的に♀のような地味な羽色になるものがおり、その状態を指す。この語は日食や月食などの「食」を意味し、それが鳥類学で転訛して学術用語となったものである)が、嘴の黄色が残るので判別出来る。但し、幼鳥は嘴にやや褐色を呈する(以上はウィキの「マガモ」に拠った)。

『「萬葉集」、靑きによせて、よめり』「かも」「まかも」「みかも」「あしかも」の語で出る。二十七首を数える。他に「あいさ」(後述)も一首、「をし」「をしどり」も五首ある。

「尾尖(をさき)」「小ガモ」「タカへ」カモ科カモ亜科マガモ属コガモ亜種コガモ Anas crecca crecca 。古名は「たかべ」。こちらの鳥図鑑によれば(PDF)、古名の「たか」は「高」、「べ」は「群(め)」の転じたもので、「高く群れ飛ぶ鳥」の意であるとある。「尾尖(をさき)」の異名は確認出来ない。

「黑鴨(くろかも)」カモ科クロガモ属クロガモ Melanitta nigra。マガモ属ではないので注意されたい。以下の幾つかは、「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鳧(かも)〔カモ類〕」の私の注で同定しているものもある。

「赤頭(あかかしら)」「ヒトリ」マガモ属ヒドリガモ(緋鳥鴨)Anas penelope 当該ウィキによれば、『和名は頭部の羽色を緋色にたとえたことに由来』し、『緋鳥(ひどり)と呼ばれ、その後』、『ヒドリガモとなった』。『異名として、赤頭、息長鳥、あかがし、そぞがも、みょうさく、ひとり、あかなどがある』とあった。

「ヨシフク」不詳。但し、幕末・明治頃の自筆写本の山本渓山(章夫)の鳥類図譜「禽品」の「ヨシフクカモ」とある。「西尾市岩瀬文庫/古典籍書誌データベース」のこちらの詳細書誌を参照。

「島フク」不詳。

「※𪂬(かいつぶり)」(「※」=「群」+「鳥」。恐らく「鸊」の誤字であろう)カイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei 。言わずもがな、水鳥ではあるが、カモ類でさえない。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり)」を参照されたい。

「シハヲシ」不詳。「シハ」は不明だが、「ヲシ」はカモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata を指している可能性が高く、同種には見紛うような近縁種はいないから、或いはオシドリの♀や♂の非繁殖期個体、或いは双方の若年個体を指しているように私は思う。「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」を参照されたい。

「秋紗(あいさ)」「秋沙」が普通。「あきさ」の音変化。カモ科カモ亜科アイサ属 Mergus の水鳥の総称。嘴は細長く、縁が鋸歯状を呈する。ほとんどの種は繁殖期以外は海辺や河川近くに住む。潜水が巧みで、魚を捕食する。本邦では冬鳥であるが、北海道で繁殖するものもある。「あいさがも」「のこぎりばがも」の異名もある。本邦には、概ね、冬の渡り鳥として、

アイサ属ミコアイサ Mergus albellus

ウミアイサ属ウミアイサ Mergus serrator

ウミアイサ属カワアイサ Mergus merganser

の三種が知られる。

「トウ長」不詳。

「ミコアイ」不詳。アイはアイガモか。白色個体っぽい名ではある。

「ハシヒロ」カモ科マガモ属ハシビロガモ Anas clypeata

「冠鳥(あじかも)」『「アシ」とも云なり』「アヂ」カモ目カモ科マガモ属トモエガモ(巴鴨) Anas Formosa当該ウィキによれば、『オスの繁殖羽は頭部に黒、緑、黄色、白の巴状の斑紋が入り』、『和名の由来になって』おり、『種小名formosa 』も『「美しい」の意』であるとあり、『食用とされることもあった。またカモ類の中では最も美味であるとされる。そのため古くはアジガモ(味鴨)や単にアジ(䳑)と呼称されることもあった』。『アジガモが転じて鴨が多く越冬する滋賀県塩津あたりのことを指す枕詞「あじかま」が出来た』とある。

「尾長(をなが)」マガモ属オナガガモ Anas acuta

「緑頸(あをくび)」既に出したマガモの♂。

「峯越鴨(おごしのかも)」「尾越の鴨」の漢字の当て字。晩秋の頃、峰を越えて、北から飛んでくる鴨を指す。

「アヒロ」既に出したマガモを家畜化した品種アヒル。

「茅草(ちくさ)も翅(つばさ)に摺り、切れ」「カヤに翼を擦(す)ってしまって、翅が傷つき」の意を出すだめに敢えて読点を打った。

「高く生る事なきに」不審。長い渡りのために、翼の損傷のみでなく、体力も衰え、「高く」上「る事」は出来なくなっており、の誤りかと思う。「長く生(いく)る」とは、あまりに可哀そうで、私は採れない。

「坂䋄(さかあみ)」最後に「加賀市観光情報センター KAGA旅・まちネット」の中の『「坂網猟」伝統が生んだ究極の天然鴨料理』という素敵なページを発見した! そこには、またしても写真と図入りで、『飛ぶ鳥を網で落とす名人技 伝統の「坂網猟(さかあみりょう)」』がある。そこには挿絵の「豫刕峯越鳬(よしうおこしかも)」に描かれた、アクロバティクな猟法が今も伝承されていることが判った。以下、その解説を引く。『坂網猟は石川県民俗文化財に指定された伝統猟法で、片野鴨池周辺の丘陵地を低く飛び越える鴨を、坂網と呼ばれるY字形の網を投げ上げて捕らえます』。『坂網猟が始まったのは今から約』三百『年前の江戸時代の元禄年間』(一六八八年~一七〇四年:本書の刊行は寛政一一(一七九九)年)『と伝えられ、大聖寺藩主が武士の心身の鍛錬として坂網猟を奨励したことから』、『多くの藩士がこれを行っていました』。『坂網は長さ』三・五メートル、『Y字形の先端の幅』一・三『メートル、重さ約』八百『グラムで、ヒノキと竹、ナイロン網などで作り、羽音を頼りに鴨をめがけて数メートル、時には』十『メートル以上の高さに投げ上げます』。『猟期中の夕暮れ時、鴨が近くの水田へ落穂などの餌を求めて鴨池を飛び立ち、周囲の丘を飛び越える僅か』十五分から二十『0分ほどの時間だけ』、『猟を行います』。『また、この地では、坂網猟で捕ったつがいの鴨を結婚式の引出物にするなど、鴨を活かした食文化と坂網猟を守ってきた歴史があります』とあった。私はこのページを見て、精神的にすっかり満腹になった。]

「南方隨筆」版「詛言に就て」(全オリジナル電子化注附き・PDF縦書版・2.02MB・26頁)一括版公開

昨日、分割終了した「南方隨筆」の「詛言に就て」の一括版(全オリジナル電子化注附き・PDF縦書版・2.02MB・26頁)をサイトの「心朽窩旧館」に公開した。

2021/07/27

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (8) / 「詛言に就て」~了

 

 グリンムの獨逸童話篇に父が水汲みに往つた子供の歸り遲きを憤り、皆鴉に成れと詛ふと、七人悉く忽ち鴉と成て飛び去つたと有り。Kirby, ‘The Hero of Esthonia,’ 1895, vol.ii, p. 45  seqq. に、エストニアの勇士カレヴヰデ醉て鍛工の子を殺し、鍛工恨んで前刻カレヴヰデに與へた名刀を援(ひい)て彼を詛ふと、後年果して其刀に兩膝以下を截られて此の世を去つたと出づ。羅馬法皇ジヤン廿一世の時、サキソン國の不信心の輩、一法師の持る尊像を禮せず。法師之を詛ひしより彼輩一年の間踊りて少しも輟得なんだ[やぶちゃん注:「やめえなんだ」。](Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ n. e., Paris, 1879, tom. ii, p. 79)。北ウエールスのデムビシヤヤーのエリアン尊者の井近く尼樣の女住む。人を詛わんと欲する者少しの金を捧げると、其女被詛者の名を簿に注し、其名を呼乍ら留針一本井に落すと詛ひが利(きい)た。(Gomme, ‘Ethnologiy in Folklore,’ 1892, p. 87)。リグヴヱダには梟痛く鳴くを聞く者死と死の神を詛ふべしと有り、ラーマーヤナムには、梵授王肉と魚を瞿曇仙人[やぶちゃん注:「くどんせんにん」。]に捧げ、仙人瞋つて王を詛ひ鵰(ヴルチユール)と化す譚有り、以上の諸例を稽へて[やぶちゃん注:「かんがえへて」。]、昔重大だつた呪詛術が今日輕々しく發する詛言と成たと知るべし。

  (大正四年四月、人類第三〇卷)  

[やぶちゃん注:「グリンムの獨逸童話篇に父が水汲みに往つた子供の歸り遲きを憤り、皆鴉に成れと詛ふと、七人悉く忽ち鴉と成て飛び去つたと有り」「七羽のカラス」。多言語の対訳が載る「グリム童話」の卓抜なサイト「grimmstories.com」のこちらで読める。

「Kirby, ‘The Hero of Esthonia,’ 1895」イギリスの昆虫学者でフィンランドの民族叙事詩カレワラや北欧の神話・民話の翻訳紹介も行ったウィリアム・フォーセル・カービー(William Forsell Kirby 一八四四年~一九一二年)の同年出版の著作。「エストニア」はバルト三国では最も北にある現在のエストニア共和国(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『現在のエストニアの地に元々居住していたエストニア族(ウラル語族)と、外から来た東スラヴ人、ノルマン人などとの混血の過程を経て』、十『世紀までには現在のエストニア民族が形成されていった』。十三『世紀以降、デンマークとドイツ騎士団がこの地に進出して以降、エストニアはその影響力を得て、タリンがハンザ同盟に加盟し』、『海上交易で栄えた』。但し、『その後もスウェーデン、ロシア帝国と外国勢力に支配されてきた』とある。一九〇五年版の原本をざっと見たが、どうも見当たらない。但し、以上の話に出るは、エストニアの巨人の英雄カルヴィデ(英語:Kalevide)である。英文ウィキの彼の「Kalevipoeg」を見ると、その「Synopsis」の条に、

   *

   Kalevipoeg travels to Finland in search of his kidnapped mother. During his travel he purchases a sword but kills the blacksmith's eldest son in an argument. The blacksmith places a curse on the sword and is thrown in the river. On returning to Estonia Kalevipoeg becomes king after defeating his brothers in a stone hurling competition. He constructs towns and forts and tills the land in Estonia. Kalevipoeg then journeys to the ends of the earth to expand his knowledge. He defeats Satan in a trial of strength and rescues three maidens from hell. War breaks out and destruction visits Estonia. Kalevipoeg's faithful comrades are killed, after which he hands the kingship to his brother Olev and withdraws to the forest, depressed. Crossing a river, the sword cursed by the Blacksmith and previously thrown in the river attacks and cuts off his legs. Kalevipoeg dies and goes to heaven. Taara, in consultation with the other gods, reanimates Kalevipoeg, places his legless body on a white steed, and sends him down to the gates of hell where he is ordered to strike the rock with his fist, thus entrapping it in the rock. So Kalevipoeg remains to guard the gates of hell.

   *

とあって、ここに記した話は含まれており、死んだ後に、神々によって蘇生させられ、足のない体を白い馬に乗せて、「地獄の門」に送られ、岩に閉じ込められたまま、今も彼は「地獄の門」を守っている、とある。

「羅馬法皇ジヤン廿一世の時」「廿一世」を称するローマ教皇はヨハネスXXI世(Ioannes XXI 一二一五年~一二七七年:本名はペドロ・ジュリアォン(Pedro Julião))しかいない。しかも彼の教皇在位は一二七六年ペドロ九月十三日から亡くなった一二七七年五月二十日で、僅か八ヶ月であった。当該ウィキによれば、彼は『ヴィテルボにある別荘に新たな翼を付けさせた』が、『それは手抜き工事で』あっため、『彼が就寝していると』、『屋根が崩れ落ち、重傷を負った。そして、事故から』八『日後』『に死んだ。恐らく、偶発的な事故で死んだ教皇は』彼が『唯一』人『である』とあり、さらに『死後、「ヨハネス」XXI『世は魔法使いであったのだ」と噂が広まった』とある。また、『ダンテ・アリギエーリは』「神曲」の『中で、偉大なる宗教学者の魂と共に太陽の天空で』彼と『面会した話を書い』ているとある。まあ、ここでは彼が主人公なわけではないが。

「サキソン國」グレートブリテン島にあったサクソン人の王国群。

「Henri Estienne, ‘Apologie pour Hérodote,’ n. e., Paris, 1879」アンリ・エティエンヌ(Henri Estienne 一五二八年~一五九八年:パリ生まれの古典学者・印刷業者。ラテン語名ヘンリクス・ステファヌス(Henricus Stephanus)としても知られる。一五七八年に彼が出版した「プラトン全集」は、現在でも「ステファヌス版」として標準的底本となっている。以上は当該ウィキに拠った)の「ヘロドトスの謝罪」。当該書の当該部はここだが、そんなことは書いてないように思われる。ページ数が違うか。

「北ウエールスのデムビシヤヤー」現在、ウェールズ北東部にデンビーシャー(英語:Denbighshire)州があるが、旧デンビーシャー地区の境界域とはかなり異なっている。

「エリアン尊者」不詳。

「Gomme, ‘Ethnologiy in Folklore,’ 1892」イギリスの民俗学者ジョージ・ローレンス・ゴム(George Laurence Gomme 一八五三年~一九一六年)の「民間伝承の民族学」。

「リグヴヱダ」「リグ・ヴェーダ」(英語:Rigveda)は古代インドの聖典であるヴェーダの一つ。サンスクリットの古形であるヴェーダ語で書かれている。全十巻で千二十八篇の讃歌(内十一篇は補遺)から成る。

「梟痛く鳴くを聞く者死と死の神を詛ふべしと有り」フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)、或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群、或いは種としてフクロウ属フクロウ Strix uralensis がいる。まず、「ミネルヴァのフクロウ」のように総体が智や学問の象徴とされても、その鳴き声自体は汎世界的に不吉なものとされることが多いから、腑に落ちる。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を見られたい。

「ラーマーヤナム」「ラーマーヤナ」。「ラーマ王の物語」の意。インドの大叙事詩。全七編、二万四千頌(しょう)の詩句から成る。詩人バールミキの作。成立は二世紀末とされる。英雄ラーマが猿の勇士ハヌマンらと協力して魔王ラーバナと戦い、誘拐された妻シータを取り戻す物語。

「梵授王」梵天王(ブラフマー)から王位を正当に授かった国の王の意であろう。

「瞿曇仙人」「瞿曇」は釈迦の出家する前の本姓として知られるが、ここは同じ名で別人(「ゴータマ」の漢音写。サンスクリット語で「最上の牛」の意)。古いインドに於いて暦法を考えた人とされる。但し、完訳本を所持しないので、本シークエンスが「ラーマーヤナ」どこに書かれているのかは知らない。ウィキのラーマーヤナ」や、「ラーマーヤナの登場人物一覧」などを見、梗概を日本語訳した本もざっと見たが、判らない。悪しからず。

「鵰(ヴルチユール)」この漢字(音「チョウ」)は新顎上目タカ目 Accipitriformesタカ科 Accipitridae の鳥の中でも大形の個体や種群を指す漢字である。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)」を参照されたい。私は熊楠がこの漢字に何故このルビを附したのかよく判らないが、この「ヴルチユール」は直ちに「ヴァルキューレ」(ドイツ語:Walküre)或いは「ヴァルキュリャ」(古ノルド語:valkyrja:「戦死者を選ぶも者」の意)を想起させ、北欧神話に於いて、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のそれ(この部分はウィキの「ワルキューレ」に拠った)を音写したものかと思う。但し、ドイツ語の Walküre には上記の意味だけで、いかにもかと思った「鷲」などの転訛した意味はない。なお本邦では「地獄の黙示録」以降、「ワルキューレ」の読みが跋扈しているが、ドイツ語では決してこうは発音しないそうである。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (7)

 

 東歐州に有りと信ぜらるゝ吸血鬼(ヴアムパヤー)は、父母又は僧に詛言されし者死して成る所と云ふ(エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁)從つて葬式の誄(ダーヂ)に、子が母に詛はれて死ぬ所を悲しく作つたのも有る。マセドニアの妖巫は、印度のと同じく人を詛ふ時其人の後[やぶちゃん注:「うしろ」。]に灰を撒く又詛害を除く水を調へ之を詛ふた者に飮せ若くは其戶前に注ぐべしといふ。曾てサロニカの大僧正、怒つて一人を詛ひ、地汝を容れざれというた。此大僧正、後年基督敎を退き回敎に歸し其僧主となつた。以前詛はれた者死し三年經つて其墓を開くに尸壞れず。又埋めて三年して掘り見るに依然たり。死人の後家彼僧主を賴み僧主官許を得て、今は回敎僧だが昔取つた杵柄(きねづか)と丹誠を凝し、上帝に祈る事僅かに數分、爾時[やぶちゃん注:「じじ」。その時。]尸肉忽ち落ち失せ白骨のみ存(のこ)つた。又十五世紀にコンスタンチノプルの最初サルタン珍事を好む。基督敎の大僧正に詛はれた者は、地も其尸を壞らず[やぶちゃん注:「やぶらず」。]。數千年經るも太皷の如く膨れ色黑くて存するが、詛ひ一たび取り消ゆれば尸忽壞るを聞き、コ府の門跡をして實試せしむ。門跡衆僧と審議して漸く一人を得た。其は或僧の妻、妖麗他に優れ淫縱度無かつたので、門跡之を叱ると、汝も亦我と歡樂したでは無いかと反詰したので世評區々と起り、門跡大に困つて、止むを得ず大會式の場で其女を宗門放逐に處すと宣言した。頓て其女死して多年埋もれ居る故、恰好の試驗材料と云ふ事で掘出して見れば、髮落ちず肉骨と離れず今死たるが如し。之を聞てサルタン人を使はし見せしむるに報告に違はず。一先づ堂圓に封じ置き、定日サルタンの使到つて之を開き、門跡特に追善して赦罪の詞を讀むと尸の手脚の關節碎け始めた。再び封じ置きて三日歷て開いて見ると尸全く解けて埃塵のみ殘つちよつたので、サルタン流石に基督敎の眞の道たるに敬伏したさうぢや(G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903,pp. 195, 211, 212, 226)。古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず。黃色の油の如き水のみ漏出で、底に頭骨一寸許り殘る「好色の道罪深きことなれば跡迄も斯ぞ有ける。其女の母をも同時改葬しけるに、遙に先だち死たる者なれども其の體變らで續き乍らに有ける。」基督敎と反對に吾が佛敎では罪深い者の尸は葬後早く消失するとしたらしい。

[やぶちゃん注:「エンサイクロペジア、ブリタンニカ十一板廿七卷八七六頁」Internet archiveの原本のここの左ページ右の「VAMPIRE」の項の、そこの中央附近に、

The persons who turn vampires are generally wizards, witches, suicides and those who have come to a violent end or have been cursed by their parents or by the church.

という一文があり、引用で私が太字部にした部分が南方熊楠の言っている部分である。

「誄(ダーヂ)」「誄」(音「ルイ」)は「偲(しの)び言(ごと)」の意で、本邦で古くに「しのひこと」と訓じ、「死者を慕い、その霊にむかって生前の功徳などを述べる言葉・死者に対する哀悼の辞」を言う。「ダーヂ」は英語で、dirge。「葬送歌・哀歌・悲歌」の意。

「マセドニア」(英語:Macedonia)はバルカン半島中央部に当たる歴史的・地理的な地域でアレクサンドロス大王が君臨したマケドニア王国が知られる。ギリシャ人が多く住んでいた。

「サロニカ」ギリシャのエーゲ海サロニコス湾に浮かぶ諸島。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「淫縱度無かつた」「度無かつた」は「どなかった」と読むか。淫(みだ)らなる振舞いを、程度というものを知ることことなく、続けた、と言う意ではあろう。

「G. F. Abbott, ‘Macedonian Folklore,’ 1903」Internet archiveで原本を見ることができ、195」はここで、211」はここ212」はここ、最後の226」はここである。但し、ここで熊楠が述べている部分は「211」から「212」「213」(ここは見開き)にかけての部分である。

「古今著聞集卷八に、多情の女葬後廿餘年にして尸を掘見るに影も見えず……」以下の「慶澄注記の伯母、好色によりて、死後、黃水(わうすい)となる事」。

   *

 山[やぶちゃん注:延暦寺。]に慶澄注記といふ僧ありけり。件(くだん)の僧が伯母にて侍りける女は、心すきずきしくて、好色甚だしかりけり。年比(としごろ)の男にも、少しも、うちとけたる形を見せず、事におきて[やぶちゃん注:何かにつけて常に。]、色深く情けありければ、心を動かす人多かりけり。

 病ひを受けて、命、終りける時、念佛を勸めけれども、申すに及ばず、枕なる棹(さを)[やぶちゃん注:竹製の衣紋懸け。]にかけたる物を取らんとするさまにて、手をあばきけるが、やがて、息絕えにけり。法性寺(ほふしやうじ)邊に土葬にしてけり。

 その後、二十餘年を經て、建長五年[やぶちゃん注:一二五三年。]の比、改葬せんとて、墓を掘りたりけるに、すべて、物、なし。

 なほ深く掘るに、黃色なる水の、油のごとくにきらめきたるぞ、涌き出でける。汲みほせども、干(ひ)ざりけり。その油の水を、五尺ばかり掘りたるに、なほ、物、なし。

 底に棺(ひつぎ)やらんと覺ゆる物、鋤(すき)に當たりければ、掘り出ださんとすれども、いかにもかなはざりければ、そのあたりを、手をいれて探るに、頭(かうべ)の骨、わづかに一寸ばかり、割れ殘りてありけり。

 好色の道、罪深きことなれば、跡までも、かくぞ、ありける。

 その女の母をも、同じ時、改葬しけるに、遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者なれども、その體、變らで、つづきながらぞ、ありける。

   *

「慶澄注記」人物は不詳。「注記」は延暦寺の六月会などに行われる豎義(じゅぎ:論議による学僧の資格試験)の際に筆記役を勤める僧を指す。さて、この話、最後の部分で何となく変な感じがあるのに気づく。「遙かに先き立(だ)ちて死にたりける者」が、慶澄の母であるその女の母で、慶澄の伯母の母というのでは、何となく「ややこしや」で、違和感を感じるのである。だいたいが、改葬しているからには、親と慶澄の兄弟姉妹などの親族だけを分骨したと考えるべきであるからである。そこに伯母を入れ、さらにその伯母の母まで納めるというのは変だからである。ところが、本文及び注を参考にした「新潮日本古典集成」(昭和五八(一九八三)年刊)を見ると、実は別伝本では、最初の『件の僧の伯母』は『件の僧の伯女』となっており、この「伯女」とは慶澄の年上の姉と読めるのである。同書でも、『改葬を行った人物を慶澄と考えると、自分の長姉と』実『母との改葬をしたとみるのが自然なので』、冒頭の『「伯母」は「伯女」とあるべきかとも思われる』とあるのである。私もそれに無条件で賛同するものである。

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (6)

 

 南洋ヂユーク、オヴ、ヨーク島の人は、邪視(イヴルアイ)を怕れぬが、詛言は被詛者に禍ひすと信じ、多くのサモア島人は、今も詛言を懼れ、屢ば重病を受く。因て一人他人を犯し續いて數兒を亡なふ時は必定かの者に詛はれたと察し、其人に聞合せ、果して然らば其詛を取消下されと哀願す。彼輩は其所有の樹園で果蔬を盜む者を捕ふるも怒らず「お前はよい事をした。たんとお持ち下さい」と挨拶す。然るに、自分の不在中に盜まるゝと、大に瞋つて樹一本切り又椰子一顆打破る。是は盜人を詛ふのだといふ(George Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, pp. 240, 248, 264)。中央メラネシアの或島民は、人殺しに往く前に自分の守護鬼の名を援(ひい)て敵手を詛ふ。ヂユーク、オヴ、ヨーク島で、有力家を葬るに、覡師[やぶちゃん注:「げきし」。呪術師。シャーマン。]來たつて樹葉に唾吐き、數多の毒物と俱に墓穴に投じ、死人を詛殺せし者を高聲に詛ひ、一たび去つて浴し返つて復た詛ふ。彼者從ひ[やぶちゃん注:「たとひ」。]第一詛を受ずとも、第二詛必ずよく彼を殺すと信じ、老覡敵を詛ふに其の父や伯叔父や兄弟の魂を喚び、敵の眼耳口を塞いで、庚申さんの猿其儘、見も聞きも叫びも出來ざらしめて、容易く[やぶちゃん注:「たやすく」。]詛はれ死なしむ(Frazer, ‘The Belief in Inmorality,’ 1913,vol.i, pp. 370, 403-404.)

[やぶちゃん注:「ヂユーク、オヴ、ヨーク島」パプア・ニュー・ギニアの東北海上にあるデューク・オブ・ヨーク諸島(Duke of York Islands)。ここ(グーグル・マップ・データ)。北西のビスマルク海を囲む形のビスマルク諸島の内、ニュー・ブリテン島とニュー・アイルランド島の間、南東のソロモン海との海峡に浮かぶ島嶼である。

「邪視(イヴルアイ)」南方熊楠 小兒と魔除 (1)」で既出既注。そこの『「視害(ナザル)」(しがい)「邪視(Evil Eye)」(じやし(じゃし))』の私の注を参照。

「サモア」ここ(グーグル・マップ・データ)。島嶼に居住する人々は総てポリネシア系人種。

「George Brown, ‘Melanesians and Polynesians,’ 1910, pp. 240, 248, 264」ジョージ・ブラウン(一八三五年~一九一七年)はイギリスのメソジストの宣教師にして民族学者。若い頃は医師の助手などをしていたが、一八五五年三月にニュージーランドに移住し、説教者となり、一八五九年にフィジーへ宣教師として渡り、翌年、シドニーからサモアに向かった。一八六〇年十月三十日に到着してより一八七四年までサモアに住んだ(主にサバイイ島に居住)。布教の傍ら、サモアの言語・文化を学び、シドニーに戻り、その集大成として、後にメラネシア人とポリネシア人の生活史の概説と比較を試みたものが本書であった(英文の当該ウィキに拠った)。Internet archiveで同原本が読め、ページ240はここで、248」はここで、264」ここ

「中央メラネシア」メラネシア(Melanesia)は、オセアニアの海洋部の分類の一つで、概ね、赤道以南、東経一八〇度以西にある島々の総称。オーストラリア大陸より北及び北東に位置する島嶼群が含まれる(ギリシャ語で「メラス」(黒い)+「ネソス」(島)で、「肌の黒い人々が住む島々」の意)。西はニュー・ギニア、東はフィジー及びニュー・カレドニアまで。ミクロネシアの南、ポリネシアの西南方に当たる。

「庚申さんの猿」所謂、「見ざる言わざる聞かざる」の三猿信仰。これは元々は庚申信仰とは無縁で、私は、庚申信仰が「塞の神」・「道祖神」・「青面金剛」などを習合する内に、「猿田彦」も混淆し、その「猿」からこれが芋蔓式に入り込んだものと考えている。

「Frazer, ‘The Belief in Inmorality,’ 1913」ご存知「金枝篇」の著者ジェームズ・フレイザーの著作「背徳の信念」。Internet archiveで原本が読め、370」はここで、403」はここ。死者の親族の霊をも援軍とするところがなかなかに面白い。]

2021/07/26

譚海 卷之四 常州筑波山幷椎名觀音の事

 

○筑波山は四時登山する也。結城よりのぼるには先(まづ)西の方男體山に登り女體に至る、男體女體の際六七十間ばかりあり、いとちかし。それより東へくだれば椎名の觀音に至る、大伽藍也、すべてかけこし三里也。山はみな巖石にて樹木も又おほし。落かゝる樣なる大石の下を通る、山中に人家なし。日出(いづ)れば麓よりのぼりて見せをひらき、餅あるひはだん子をうる也。水もふもとより汲來(くみきた)るゆゑ一椀五錢づつなり。東海を遙にのぞみて、風景言語同斷也とぞ。

[やぶちゃん注:【二〇二一年七月三十一日削除・改稿】「結城」は旧結城郡であろう。現在の結城郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下注記のないものは同じ)。

「男體山」「女體」国土地理院図のこちらで確認出来る。西側の男体山は標高八百七十一メートル、東側の女体山は八百七十七メートル。両者は直線で七百二十四メートルほど離れている

「六七十間」百九~百二十七メートル。これはそれぞれのピークの計測点を誤っているように思われる。或いは、六百七十間(一キロ百二十八メートル)の誤記かも知れない。高低差を入れて山道を実測すれば、それぐらいにはなりそうだ。現在の整備されたそれでは、登山サイトを見ると、両ピーク間は実測八百五十メートルで、時間にして片道三十分ほどかかるとある。

「椎名の觀音」距離から見ると、茨城県石岡市半田にある観音堂かとも思ったが、大伽藍ではない。嘗て大きな寺となら、この近くに関東八十八ヵ所霊場第三十六番札所の阿彌陀院があるが、観音はなさそうだし、だいたい、孰れも「椎名」という呼称と縁がない。お手上げ。識者の御教授を乞うものである。

【同前追記】いつも情報を指摘して下さるT氏より以下の旨のメールを戴いた(少し手を加えさせて貰った)。

   《引用開始》

上記項の元ネタは、「倭漢三才図会」の巻第六十六の「常陸國」の「筑波山權現」の記載で、国立国会図書館デジタルコレクションの同書のここに、

   *

筑波山權現 在筑波郡【自椎尾三里】 社領五百石

 祭神 稻村權現   【別當眞言】知足院

 桓武天皇朝德一上人當山開基後万巻上人勸請

 權現鎭守 源家光公再興シ玉フ

 大御堂(ミトウ) 千手觀音 堂塔樓門最美ナリ

   *

と冒頭にあり、「椎名」は「椎尾」の誤写です。

椎尾は、現在の茨城県桜川市真壁町椎尾[やぶちゃん注:ここ。]で、「結城よりのぼるには」とありますが、実際は旧常陸国真壁郡椎尾から「男體山に」椎尾「よりのぼるには」が正しいということになります。

 観音は、以上に出る「知足院大御堂」「千手觀音」となります。知足院は明治の神仏分離で廃寺になった後、昭和五(一九三〇)年に再建されています。ウィキペディアの「筑波山神社」の「中善寺」の項や、坂本正仁氏の論文「近世初期の知足院」[やぶちゃん注:PDF日本印度学仏教学会『学術大会紀要』(二)・第二十六回学術大会・一九七六年]に知足院と幕府初期の関係が書かれています。

   《引用終了》

以上のウィキのリンク先には、『中禅寺(ちゅうぜんじ)は、筑波山神社拝殿』ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『を主とする一帯に存在した真言宗の無本寺寺院』。『山号は筑波山、院号は知足院(ちそくいん)。本尊は千手観音。また、坂東三十三箇所第25番札所であった』。『法相宗の僧、徳一が筑波山寺を開いたことに始まるとされ、筑波山寺の記載は鎌倉時代の』「元亨釈書」にもあり、『その開基年は、延暦元年』(七八二年)、『延暦年間』(七八二年~八〇六年)、『天長元年』(八二四年)、『天長年間』(八二四年~八三四年)』などと伝える。『この筑波山寺の開山に伴い、筑波山の男女二神は観音を本地仏とする「筑波山両部権現」として祀られるようになったという』。『筑波山は古くより山岳修行の場であったため、その後次第に寺勢が盛んになり、寺名も中禅寺(筑波山知足院中禅寺)と称するようになったとされる』。『中世には日光山(輪王寺)・相模大山(大山寺)・伊豆走湯(伊豆山三所権現)等とともに、関東では有数の修験道の霊場であったといわれ』、『その別当は筑波為氏(明玄)に始まる筑波氏が担った』。『中世の様子は詳らかでないが、江戸時代に入ると』、『幕府の鬼門の祈願所として庇護を受け、寺勢は再び隆盛した』。『徳川家康は』慶長五(一六〇〇)年『に筑波山別当から筑波氏を廃し、新たに宥俊を任命して中興の祖とし、慶長』七年『に神領として』五百石、慶長十五年『には寺領として』五百石を寄進し』ている。また、三代『将軍徳川家光は山頂の二社を修復するとともに、本堂(大御堂)、三重塔、鐘楼、楼門、神橋、日枝・春日・厳島の各境内社を造営し』、五代『将軍徳川綱吉の時には「護持院」と改称され、寺領は』千五百『石を数えた』。『その後も江戸時代を通じて霊山として発展し、門前町も発達していった』が、『明治維新後、廃仏毀釈によって中禅寺の機能は停止し、一部の社殿を除いて堂塔は破壊され、法具も各地に散逸した』が、昭和五(一九三〇)年に『筑波山神社拝殿の南西に真言宗豊山派の寺院として大御堂(おおみどう)が再興され、現在に至っている』とあるここ。また、サイト「神殿大観」の「江戸・護持院」を見ると、『護持院(ごじいん)は、江戸にあった真言宗新義派僧録を務めた徳川家ゆかりの寺院。本尊は不動明王。筑波の知足院の別院が起源。当初は知足院と称したが、のち護持院と改称した。元禄寺とも。元号寺。真言宗新義派の江戸触頭(江戸四カ寺)の一つだったが、根生院に譲った。隆光の旧跡。のち焼失して護国寺の子院となった。明治に護国寺に合併。山号は筑波山、元禄山』と冒頭概説にある。護国寺は東京都文京区大塚のここにある。ウィキの「護国寺」を見ると、『護国寺の東に隣接し、護国寺と一体のものとして存在した「護持院」(筑波山大御堂の別院)は、新義真言宗僧録であり、新義真言宗で最も格式の高い寺院であった。護持院は明治時代に護国寺に合併』とある。

 T氏の御指摘を受けて、国立国会図書館デジタルコレクションの原本活字本(底本の親本は狩野文庫本と加賀文庫本にこの国立国会図書館本を対照させたもの)を見たが、やはり「椎名」と誤っており、さらに今回さらに発見した「国文学研究資料館」の「オープンデータセット」の写本の当該部を見ても、「椎尾」ではなく、「椎名」と書かれているように見える(字の崩し方が激しく判読しづらいものの、「尾」よりも「名」の崩しである可能性の方が遙かに高い)ので、T氏の言うように、津村の原本からの写した際の誤写である可能性が高いように思われる(ただ、孰れも始めの「結城」の方もはっきりそう書かれており、「椎尾」ではないので、或いは津村の原本の崩し字自体が判読しづらいものであった可能性もある)。孰れにせよ、T氏の仰る通り、「結城」は「椎尾」の誤りであり、「椎名觀音」は「椎尾」の観音と考えるべきであろう。ここにはまた、今一つなやましいことがあるように思う。それは、筑波山知足院中禅寺は少なくとも現在の椎尾地区とは有意に離れていること、同寺の千手観音が「椎尾観音」と呼ばれていたことは奇異であり、資料でも確認出来ないことである。ともかくも、T氏に心より御礼申し上げるものである。]

譚海 卷之四 房州きさらづ・丹後橋立の事

 

○房州きさらづ海中に井五箇所有。浦に近き所なれば常に汲(くみ)つかふ事也。潮の中ながら湧出(わきいづ)るゆゑ、淸水にして潮まじる事なしとぞ。又丹波國天のはしだてにも松原の際に井有、左右は海にして淸水潮の氣ある事なしとぞ。

[やぶちゃん注:「海中」はママ。不審に思いつつ調べたところ、やはり海中ではなく、海辺でもない、内陸である。「君津市」公式サイト内の『山本(やまもと)の「殿の下井戸」』に、この千葉県君津市の『山本には』、十四『町歩の水田を潤していた市の沢の水源不足対策と農業環境保全のために、昭和』六二(一九八七)『年掘削の自噴井戸が』五『カ所あります』。『かつてこの地には、現在の木更津市下郡』(☜:ここ。グーグル・マップ・データ。以下同じ)『字湯名谷とまたがり、里見氏の臣下、山本由那之丞の居城がありました』(「千葉懸誌」大正二(一九一三)年刊)。『今でも「東殿の下」「殿の下」などの小字名が残っており』、五『カ所の自噴井戸の内』、『「殿の下」にある』二『カ所の井戸は、「殿の下井戸」』(ここ)『と呼ばれています』。『この井戸は、完成後から』三『年ほどで生活用水として利用され始め、地元約』五十『戸の生活になくてはならないものとなりました。井戸は深いもので地下』六百『メートルもあり、水量は毎分』百五十『リットルから』四百『リットルで、無色無臭の豊富な地下水が』二十四『時間湧き出ています』。『現在、この井戸水は、地元の生活用水や農業用水に利用されているだけでなく、市内はもとより、遠くは東京都内からも汲みに来る人が増えています。また、最近ではゲンジボタルが確認できるほどに自然の再生がみられ、小・中学生のホタル狩の風情も垣間見ることもできます』、『自然の恵みに感謝する地元の人々の気持ちから、水天宮(水神様)の短柱が設置されている山本の「殿の下井戸」は、上総掘りによる「久留里の自噴井戸」と同じく本市の貴重な「水」の遺産です』とある。掘削は現代だが、恐らくは江戸時代には、その原型となるものがあったのであろう。

「丹波國天のはしだてにも松原の際に井有」「磯清水」として知られている。ここ。現在は引用不可で、私は手だけを洗った。]

譚海 卷之四 常州外川銚子浦幷紀州加多・江戶佃島等の事

 

○常州の外川は、銚子のうらつゞきにて紀州領なり。皆漁鼠を業とし、一村妻子を帶する事なし、妻子は紀州の賀多に住する也。又江戶の佃島も紀州賀多の漁人雜居し、一島みな本願寺宗旨にて他宗なる事なし。

[やぶちゃん注:底本では、二箇所の「賀多」に編者が注して、『(加田)』(「田」はママ)とし、後注で、『常州の外川とあるが、千葉県(下総)銚子の南にある漁村。紀州漁夫の出かせぎ漁村として発達した特殊なところ。多くは紀州加太浦のもので、イワシ地曳網漁業の開発によるものであった』とある。現在の千葉県銚子市外川町(とかわまち:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「紀州加太浦」和歌山県和歌山市加太。]

譚海 卷之四 下總國行德德願寺住持入定の事

 

○下總國行德に德願寺といふ有。其住持年﨟つもり念佛の功能いちじるしき事廿年あまりに及び、都下の貴賤男女常に參詣し群をなせしが、今年天明二年二月十八日、住持八十餘にして入定せられぬ、哀にとふとき事也。

[やぶちゃん注:「下總國行德德願寺」現在の千葉県市川市本行徳にある浄土宗海蔵山普光院徳願寺(グーグル・マップ・データ)。

「年﨟」(ねんらふ(ねんろう))は「年臘」とも書く。仏語で、生年と戒﨟(出家受戒してからの年数)。則ち、生まれてからの年数と、受戒して僧となってからの年数であるが、転じて僧侶の年齢を指す語となった。

「今年天明二年」(一七八二年)「二月十八日、住持八十餘にして入定せられぬ」この住持の生年は元禄一四(一七〇一)年以前となる。なお、「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る見聞奇譚集であるが、珍しく巻四のこの条の執筆時制が天明二年二月十八日以降であったことが判明する特異点である。]

甲子夜話卷之六 34 松平不昧【出羽守】、坊主某の宅へ茶會にゆきし事

 

6―34 松平不昧【出羽守】、坊主某の宅へ茶會にゆきし事

松平出羽守隱居、南海と稱せしは、茶事に名高く、且學者の人なり。出入の坊主衆某も、茶事に達したるを以て、常に懇遇なりしが、或時某が別宅へ日を訂して茶讌に赴んと、南海約せられければ、茅屋の光輝これに過ずとて、某善で諾す。その別宅は東山の根岸にありける。其日に及び、約期違はず南海訪問せられしに、門も鎖し住居も閉戶して塵も拂はず。從臣門番人へ尋れば、一向に知らずと答ふ。從臣の中一人、かねて某が茶室に至りし者ありて、自ら路次に入りて見れば、蛛網樹枝に纏ひ、通行すべきやうも無し。扨は日を誤訂したることよとて、君臣とも興を醒して、門を出行く。この時、小路の橫徑より、某蓑笠の形にて網を肩に掛け、從僕兩三、大なる桶を荷ひ來り、南海を見てこはいかにと云ふに、相共に驚き、今其宅に至り、しかじかなれば歸る所なりと云。某恐懼して、今朝より荒河へ鯉打んとて罷りしが、生憎不獵にて遲刻し、無興なりしことを頻りに陳謝し、何とぞもとの宅地に戾り玉へと乞へば、南海も止事を得ず、さらばとて立返らる。某先に立案内して、今度はかねてありし住居より、畑を越、遙か奧にて、樹竹生茂れる蔭に、新に設たる路次へぞ案内しける。飛石は新らしき土俵を以て、おもしろく道を取り、手水所は白木の湯桶にて、數奇屋一切新規に造作し、其席に入れば、白木の爐ぶちには釜かゝりて、はや勝手口より某茶具を持出るに、水指も建も皆白木の曲物。茶碗を始め陶器不ㇾ殘皆其所々の今燒にて、茶を勸め、會席のときの椀も、皆陶器にて土器蓋、膳盆の類、悉皆白木造りにして、鯉一式の料理組なりしには、流石の南海も、意表に出て驚歎せられ、尤も興に入りしとなり。

■やぶちゃんの呟き

「松平不昧【出羽守】」出雲国松江藩七代藩主松平治郷(はるさと 寛延四(一七五一)年~文政元(一八一八)年)。従四位下・侍従で出羽守・左近衛権少将。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続き、彼の収集した茶道具の目録帳は「雲州蔵帳」と呼ばれる。但し、「南海」とあるのは治郷の実父で先代藩主であった松平宗衍(むねのぶ 享保一四(一七二九)年~天明二(一七八二)年)が隠居後に入道した際の法号であるから、誤りである。

「坊主某」茶「坊主」の「某」(なにがし)。

「赴ん」「おもむかん」。「東洋文庫」版は『ゆか』とルビする。

「訂して」日時を取り決めて。

「茶讌」「ちやえん」。茶の会を設け、打ち解けて寛いで語り合うそれを指す。

「東山の根岸」「とうざんのねぎし」。現在の東京都台東区根岸(グーグル・マップ・データ)。「東山」は、江戸時代、ここは武蔵国豊島郡金杉村の一部であったが、正保三(一六四六)年に東叡山寛永寺領となったことによる。また、ウィキの「根岸台東区によれば、金杉村の中央以南の地の字名(あざめい)は、旧村の南部を「根岸」とし、西北及び新田部分を「杉ノ崎」、東北を「中村」、そのさらに東北を「大塚」と分けて呼んだが、「根岸」が最も南側に当たるため、江戸では、これらの四つの地を纏めて「根岸」と呼んだ、とある。

「尋れば」「たづぬれば」。

「蛛網」「くも(の)あみ」。

「橫徑」「よこみち」。

「其宅」「そこたく」。そなたの屋敷。

「荒河」荒川。

「鯉打ん」「こひ、うたん」。

「無興」(ぶきやう)「なりしこと」は、不興な思いをさせてしまったこと。

「止事を得ず」「やむことをえず」。

「某先に立案内して」「某(なにがし)、先に立ち、案内して」。

「畑を越」「はたをこえ」。

「手水所」「てうづ(ちょうず)どころ」。手を洗うそれ。

「建」「けん」、茶道具の建水(けんすい)。茶碗を清めたり、温めたりしたときに使った湯や水を捨てるための入れ物。「こぼし」とも呼ぶ。形状は筒型・桶型・壺型・碗型などさまざまであるが、湯を捨てやすいよう、口は大きく開いているものが殆んどである。

も皆白木の曲物。茶碗を始め陶器不ㇾ殘皆其所々の

「今燒」「いまやき」。広義には、古い伝統的なものや骨董の名品に対して、新しく焼かれた焼き物の謂いで、茶の湯では、歴史的には利休時代の「楽焼き」などを指すものの、慶長年間(一五九六年~一六一五年)には、茶入れ・黒茶碗・香合なども「今焼き」と呼ばれた。ここは、妙に御大層な逸品というわけでなく、各地の新しいもので、原義でよかろう。寧ろ、構える感じになる名器などでないところが、逆に気をつかうことなく、楽しく楽しめることを不昧は喜んだのであろう。

「土器蓋」「どきふた」か。素朴な素焼きの椀物などに被せてある蓋。

「悉皆」「ことごとく、みな」。

「料理組」「れうりぐみ」。献立が鯉尽くしであったのである。

芥川龍之介書簡抄107 / 大正一〇(一九二一)年(二) 中国特派帰国後 三通

 

[やぶちゃん注:「108」末尾に示した通り、これ以前の芥川龍之介の中国特派に関わる(直前の関連書簡も含む)書簡群は、既に、サイトで「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」として完全電子化注済みであるので、そちらを見られたい。]

 

大正一〇(一九二一)年八月三日・消印四日・田端発信・長野縣中央線洗馬驛志村樣方 小穴隆一樣・八月三日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

支那がへり我鬼は病みゝ汝を待てり洗馬ゆかへらばとひ來ませすぐ

病めばまだ入谷もとはずこもり居り草の家にふる雨をききつつ

汝がために筆と墨とは買ひ來しもよきや惡しきやためしもまだせず

 八月三日夜         夜來花庵主

一 游 亭 樣

[やぶちゃん注:三月十九日に東京を経って(風邪のために大阪で静養したため、実際に日本を離れたのは三月二十三日であった。また、上海でも到着(三月三十日)早々に治りきっていなかった感冒に乾性肋膜炎を併発して四月一日に日本人医師経営する租界の里見病院に入院、退院したのは四月二十三日で、最初の一ヵ月は実は物理的にはあまり動いていない)、四ヶ月に及んだ中国特派旅行から田端に帰ったのは(北京から天津・奉天・釜山経由)七月二十日頃であったが、以後、一ヵ月以上に亙って体調がすぐれず(特に胃腸障害が甚だしかった)、寝たり起きたりの生活が続いた。

「洗馬」「せば」と読む。長野県の旧東筑摩郡洗馬村。現在の塩尻市大字洗馬及び松本市空港東に当たり、木曾街道の入り口である。ここ(グーグル・マップ・データ)。小穴隆一は北海道函館市生まれであるが、長野県塩尻市の祖父のもとで育った。しかし父はこの中山道洗馬宿の旧家である志村家の出であった。

「入谷」小澤碧童を指す。]

 

 

大正一〇(一九二一)年八月二十七日・田端発信・蕪湖唐家花園 齋藤貞吉宛

 

 床の上にこの頃わびしさ庭べの百日紅もちりそめにけり

 心なき我と思ふな床の上に蟬を聞きつゝ晝もねむるに

  八月二十七日      病 我 鬼

 さいとうていきち樣

二伸 あとは後便筆をもつのは面倒臭い故 支那紀行少し書いたもう見て居るだらう五郞のこともつと傷心せよ傷心はくすりなり

 

[やぶちゃん注:「齋藤貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国の安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた(グーグル・マップ・データ)。旧姓西村であったが、結婚で改姓した。「長江游記」の「一 蕪湖」等も参照。芥川龍之介とは、この二伸でも、龍之介は結構、きつい調子で物言いをしているが、「僕」「お前」と呼び合う、ごく親しい間柄であったせいでもある。

「支那紀行少し書いたもう見て居るだらう」身体の状態が悪い中、大阪毎日新聞社からの要求で、「上海游記」の執筆を八月初旬に始めて、『大阪毎日新聞』に八月十七日から九月九月に六回の休載を挟んで連載した(『東京日日新聞』では八月二十日から)。

「五郞のこと」不詳。]

 

 

大正一〇(一九二一)年九月十四日・田端発信・森林太郞 與謝野晶子宛(宛名は破れており、上記は推定の旨の記載が底本の岩波旧全集にはある)

 

拜啓 明星御發刊のよしまづ御よろこびを中上げますそれから私をも同人の一人に御加へ下すつたよし御厚意難有く御禮申しますしかし明星は同人以上に執筆を許さない雜誌でせうかもしさもなくば私は同人の列に加はらずに寄稿したいと存じますと云ふのは私の我ままですが、どうも同人と云ふ名から生ずる束縛の感じが苦しいのですたとひ實際は自由であつても兎に角同人一人前の責任を持つのが苦しいのですいや責任は持たなくても責任のありさうな氣がする事がそれ自身もう苦しいのです私は既にその點では大阪每日新聞社員と云ふ、厄介な荷を背負つてゐますですからもうこの上にはなる可く氣樂にしてゐたいのですどうか幾重にも不惡この我儘を御恕し下さいさうしてもし同人以外の原稿も載せる時があれば私の作品を御加へ下さい私は現在四百四病一時に發し床上に呻吟してゐますその爲にこれも十分に文意をつくせたかどうかわかりませんどうかよろしく御判讀下さい 頓首

    九月十四日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「森林太郞」森鷗外。彼はこの翌年の大正一一(一九二二)年七月九日に委縮腎及び肺結核で満六十歳で没した。

「明星御發刊」第二次。大正一〇(一九二一)年十一月、與謝野鉄幹らにより復刊された。森鷗外は同人ではないと思うが、大反響を惹起した第一次(明治三三(一九〇〇)年四月~明治四一(一九〇八)年十一月)の折りに上田敏とともに後援した経緯から、今回も名が列記されていたことから、御大に敬意を以って宛名に彼の名を先に挙げたのであろう。

「不惡」「あしからず」。

「四百四病」(しひゃくしびょう:現代仮名遣)は仏教で言う人の罹る病気の総体。人体は地・水・火・風の四つの四大(しだい)元素から構成されており、これが不調になると、それぞれが百一の病気を生ずるとされる。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (5)

 

 印度のトダ人水牛の牧場を移す式に司僧(パロール)の助手童(カルトモク)を詛ひ次に忽其詛を除く事有り。一寸爰に述べ得ぬから、Rivers, ‘The Todas,’ 1906, p. 140 に就いて讀め。同書一九四―六頁に、クヲテンの妻パールデンと通じ夫を愛せぬ故、クヲテン怒つて奸夫を殺さんとて逐ひ廻るを見て、クヲテンの母パールデン荊棘に鈎けられて留まれと詛ふと、果たして棘に留められたところをクヲテンが殺した。パールデンと同村の住民クヲテンを懼れ、皆立退き老夫婦一對のみ殘る。クヲテン襲ひ來るを見て詛ふと、クヲテンは蜂に螫殺され、其從類は石と成たと有る。スマトラのバツタス族は、子を生まぬのは他人に詛はれた故と信じ、所謂詛ひを飛去しむる式を行ふ。先づ子無き女「ばつた」三疋牛頭と水牛頭と馬頭に見ゆるものを神として牲を献じ、扨燕一羽を放つと同時に、詛ひが其燕に移つて鳥と共に飛去しめよと祈るのだ。(Frazer, ‘The Golden Bough,’ 1890, vol. ii, p. 150)

[やぶちゃん注:底本では、ここでは、改行が施されてある。

「トダ人」Toda。トダ族。インド南西部カルナータカ州のマイアル川とバワニ川に挟まれたニルギリ丘陵(グーグル・マップ・データ)に住む少数民族。ドラビダ語系の言語を話すが、形質的には北方インド系で、皮膚は暗褐色、背が高く、がっしりしている。水牛と牛の放牧をして、粗放な酪農を行う。文化的にはきわめて保守的で、周辺民族と往来しながらも、同化されず、古来の習俗を保っている。彼らの社会は二つの内婚的集団から成り、各々が幾つかの外婚的父系氏族に分れる。幼児結婚が普通であり、一妻多夫婚がみられ、数人の男性、普通は兄弟が一人の妻を共有する。妻が妊娠すると、夫たちの一人が彼女に玩具の弓と矢を贈る。これが生れてくる子の父親の公示である。宗教は、水牛酪農の行事を中心とする特殊な儀礼を持っている。古くはイラン高原付近に居住したが、インド北部を経て、現住地へ移入してきたという説もある(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。一時は人口が数百人に減少したが、文化政策で、現在は千七百人ほどに増加した。

「司僧(パロール)」原文 oalol (斜体表示)。

「助手童(カルトモク)」原文 kaltmokh (同前)。

「Rivers, ‘The Todas,’ 1906」イギリスの人類学者・民族学者・神経内科及び精神科医であったウィリアム・ホールス(ハルセ)・リヴァース(William Halse Rivers 一八六四年~一九二二年)が書いたトダ族の民族誌。彼は一九〇一年から二〇〇二年にかけて六ヶ月ほど、トダ族と交流し、彼らの儀式的社会的生活に関する驚くべき事実を調べ上げ、本書はインド民族誌の中でも傑出したものと評価され、専門家からも人類学的な「フィールド・ワークの守護聖人」と称讃された(英文の彼のウィキに拠った)。Internet archiveで原本が読め、ここが「140」ページで、呪いの話は「143」まで続いている。しかし、当該原文を読んでも、原著者自身がこの呪詛をかけて、指定された小屋に禁足され、而してそれを解く理由は十全には理解されていないように読め、すぐ南方熊楠が具体に示すのを略したのはそのためかと思われる。私は一種の、古いこの地の生贄の習慣の名残、或いは、精霊を確かに呼び出すための方便(依代としてのそれ。助手の童子カルトモクというのはまさに親和性の強さを感じる)としての呪いのようには思われる。

「同書一九四―六頁」ここから。詛言部分の事実は眉唾だが、これはトダ族の一妻多夫制の中で生じる、男の嫉妬による「ペイバック」的な、半意識的な母子による殺人としての現実的興味の方にそそられるものが、私にはある。

「スマトラのバツタス族」現在の表記はBatak で、バタック族。但し、引用元のフレーザーの「金枝篇」では、Battasと綴ってある。インドネシアのスマトラ島北部のトバ湖周辺の高地に住むプロト・マレー系先住民。人口約 三百十万と推定される。バタック語はオーストロネシア語族の西インドネシア語派に属する。水稲・陸稲・ヤムイモ・サツマイモなどを作る農耕民で、水牛・牛・馬も飼育し、また、湖で漁労にも従事する。十九世紀までは比較的孤立していたが、まず、イスラム教が、次いでキリスト教が伝えられた。しかし、古くからインド文化の影響を受けてきたことは明らかである。バタック族は、現在、幾つかの下位集団(トバ・アンコラ・カロ・マンダイリン・パクパク・シマルングンなど)に分れており、アンコラ・マンダイリン・シマルングンにはイスラム教が普及しているが、トバ・カロ・パクパクでは十九世紀以降、キリスト教が信仰されてきている。以前は、トバの村は一つの外婚制父系親族集団から成立していた。母の兄弟の娘との婚姻が優先され、妻与者側と妻受者側の各リニージ(lineage:出自集団の一種で、成員間の系譜関係が相互に明確な場合のみを言う語)間に贈り物と祭宴が交換される。このような親族体系は、二元的世界観と結びついており、相続は父から息子になされ、長子と末子が優先される。祖先崇拝も行われ、女のシャーマンや男の呪医・祭司がいる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「スマトラのバツタス族は、子を生まぬのは他人に詛はれた故と信じ……」南方熊楠の示す当該年の「金枝篇」第二巻の同年版原本がInternet archiveで見つからないため、所持する岩波文庫の一九六七年改版の永橋卓介訳「金枝篇」の第四冊目から引用する。

   《引用開始》

 スマトラのバタク族は、「飛び去らせる呪詛」という一つの儀式を行なう。女に子が生まれない場合には、牛の頭、水牛の頭、馬の頭になぞらえて、三匹のキリギリスを供犠して[やぶちゃん注:形態相似の類感呪術であるとともに貴重な家畜を代替する意味があろう。]神々に供える。それから呪詛が島の上に落ちて一緒に飛び去るようにという祈禱と共に、一羽の燕を放してやるのである。ふつう人間の住まいに入って来てすまうことを求めない動物が、家の中へ入って来ることは凶兆だとマレー人は考えている。野鳥が人家へ飛びこんで来た時には、ていねいにそれを捕えて油を塗ってやり、ある言葉を繰り返しながら空へ放ってやらねばならぬとされているが、繰り返される言葉の中で家主の一切の不運と災厄を負うて飛び去れと命じるのである。古代ギリシアでも、女たちは家の中で捕えた燕を同様に取り扱ったらしい。すなわちそれに油を灌いで飛ばせてやるのであったが、明らかにその家庭から不幸を取り去るのが目的であった。カルパチアのフズル人[やぶちゃん注:ヨーロッパ東部のチェコ東端及びスロバキア北部から弧状に湾曲して、ルーマニア中部に至るカルパチア山脈に住む一族らしい。]は、湧き水で顔を洗いながら、「燕よ、燕よ。私のソバカスをとって健康な色の頰にしておくれ」と言えば、その春になって見る最初の燕にソバカスを移すことが出米ると信じている。

   《引用終了》]

日本山海名産図会 第二巻 田獵品(かりのしな) 鷹

 

田獵品(かりのしな)

   ○鷹(たか)

 

Takatori

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「張切羅をもつて鷹を捕(はりきりあみをもつてたかをとる)」。本文に書かれた特殊な狩猟法である。ダミーの蛇形(へびがた)を糸で操作して、上の網の中央に杭で結い附けた生きた鵯鳥(ひよどり)を脅し、それを見た鷹が餌にせんと襲いかかったところを描いて(この絵はその瞬間を捉えたととる。ただ、上の網の底は暗くごちゃついていて、無論、鷹に搦めさせる漆塗りの針をつけた竹というのもどれやらわからぬ点は、遺憾で、後注するが、右の猟師の部分にも描き込みに不審がある)、非常に興味深いものである。なお、標題の「田獵」(たらふ)は、「田」は「田野」で、「野に出でて狩りをすること・その狩り・狩猟」の意。]

 

甲斐山中(やまなか)・日向・丹後・伊豫等(とう)に捕るもの、皆、小鷹(こたか)にして、大鷹は、奧州黒川・上黒川(かみくろかは)・大澤・冨澤(とみさは)・油田(あぶらた)・年遣(とつかひ)・大爪(おほつめ)・矢俣(やまた)等にて捕るなり。しのぶ郡(こほり)にて捕る者、凡て「しのぶ鷹」とはいへり。白鷹(おほたか)は朝鮮より來りて、鶴・雁(かん)を撃つ者、是れなり。鷹を養ふ事は、朝鮮を原(もと)として「鷹鶻方(ようこつはう)」と云ふ書、あり。故に本朝仁德天皇の御宇、依網屯倉(よあみみやけ)の阿珥(あひ)、古鷹を獻せしに、其の名さへ知り給はざりけるを、百濟の皇子(こうし)酒君(さけのきみ)、「是れは朝鮮にて『倶知(くち)』と云ふ鳥なり」とて、韋緡(ふくさ)・小鈴(こすゞ)を着けて得馴(ならしえ)て、百舌野遊猟(もすのゆうれう)に、多く雉子を捕る故に、時人(ときひと)、其の養鷹(やふかひ)せし處を号(なつ)けて、「鷹甘邑(たかいのやう)」と云ふて、今の住吉郡(すみよしこほり)鷹合村(たかあひむら)、是れなり。されば、我國に養ひ始めし事、朝鮮の法を傳へりと見へたり。○捕り養(か)ふ者は、凡そ、巢中(すちう)に獲りて、養ひ馴れしむ。其の中(なか)に伊豫國小山田(おやまた)には、羅(あみ)して捕れり。此の山は土佐・阿波三國に跨たがりたる大山(たいさん)なり。されば、鷹は、高山を目がけて、わたり來たるものなれば 必ず、此の山に在り。凡そ、七、八月の間、柚(ゆ)の實の色、付きかゝる折りを、渡り來(く)るの期(ご)とす。

○「羅ははり切羅」といひて、目の廣さ一寸、或、二寸、すが糸にても、苧(お)にても作る。竪(たて)、三、四尺、横二間[やぶちゃん注:約三・六五メートル。]許りなるを張りて、其の下に、「提灯羅(てうちんあみ)」とて、長三尺ばかり、周徑(わたり)一釈斗の、もめん糸の羅に、鵯(ひよとり)を入れ、杭に結い付、又、其の傍らに、木にて作りたる、蛇の形(なり)の、よく似たるを、竹の筒に入れて、糸をながく付けて、夜中(やちう)より仕かけ置き、早天(さうてん)に、鷹、木末(こすへ)を出でて、求食(あさる)を見かけ、「しかき」の内より、蛇の糸を引きて、鵯のかたを目かけ、動かせは、恐れて、騷立(さはた)つを見て、鷹、是れを捕らんと、飛び下(お)りて、羅にかゝる。両方に着けたる竹の釣(は[やぶちゃん注:ママ。「はり」の脱字か。])に、漆(うるし)をぬりて、能く走る樣に、しかけし物にて、鷹、觸るれば、自(おのづか)ら、縮(しゞ)まり寄りて、鷹の纏(まと)はるるを、捕ふなり。此の羅を張るに、窮所(きうしよ)ありて、是、又、庸易(ようい)のわざにはあらず、といへり。其の猟師、皆、惣髮(さうはつ)にして、男女(なんによ)分かちかたし。冬も麻を重ねて、着(ちやく)せり。○此(こゝ)に捕る鷹、多くは、鷂(はいたか)、又、ハシタカともいひて、兒鷂(このり)の䳄(めん)なり。逸物(いちもつ)は、鴨・鷺をとり、白鷹(おほたか)に似て小也。其の班(ふ)、色々、有り。○かく、捕り獲(え)て後、「山足緖(やまあしを)」・「山大緖(やまおほを)」を差すなり。何(いづ)れも、苧(お)を以つて作る。尤も足にあたる処は、揉皮(もみかわ)を用ひ、旋(もとをり)は、竹の管、又は、鹿の角にて制(つく)る。小鷹(こたか)は、紙にて、尾羽をはり、樊籠(ふせご)に入れて、里に售(ひさ)く。○他國、又、奧州の大鷹は「巢鷹(すたか)」と云ひて、巢より、捕らふあり。其の法、未詳(つまひらかならず)。○餌(え)は、餌板(えいた)に入れて、差し入れ、飼ふ。○大鷹は尾袋(おふくろ)・羽袋(はふくろ)を、和らかなる布にて、尾羽(おは)の筋(すし)に、一處(ひとどころ)、縫ひ附ける。其の寸法、尾羽の大小に隨がふ。

○以捕時異名(とるときによりて、なを、ことにす)

「赤毛」【一名「䋄掛(あうけ)」「初種(わかくさ)」「黄鷹(わかたか)」。是れ、夏の子を、秋、捕りたるを云也。】・「巢鷹(すたか)」【巢にあるを捕りたるなり。】・「巢𢌞(すまはり)」【五、六月、巢立ちたるを捕りたるなり。】・「野曝(のされ)鷹」【「山曝(やまされ)」「木曝(こされ)」とも云。十月、十一月に捕りたるなり。】・「里落鷹(さとおちたか)」【十二月に取る物の名なり。】・「新玉鷹(あらたまたか)」【正月に捕りたる也。】・「佐保姬鷹(さほひめてう)」【「乙女(をとめ)鷹」「小山鴘(こやまかへり)」とも云ふ。二、三月に取りたる也。】・鴘(かへり)【山野にて毛をかへたるを云ふ。「片かへり」とは、一度、かへたるを云ふ。二度、かへたるを、「諸(もろ)かへり」と云ふ。】。

○鷹懷(たかをなつける)

獲(ゑ)たるまゝなるを「打ちおろし」といふ。是れに人肌の湯を以て、尾羽・觜(はし)の𢌞り、餌(え)じみなどを、能く洗らひ、觜・爪を切り、足緖(あしを)をさして、「夜据(よすへ)」をするなり。「夜据」とは、「打おろし」の、稍(やゝ)、人に馴れたるを視候(うかゞ[やぶちゃん注:二字へのルビ。])ひ、夜(よる)、塒(とや)を開き、燈(ともしび)を用ひず、手に据へて、山野を徘徊し、夜(よ)を經(ふ)るについて、燈を※(かすか)に見せ[やぶちゃん注:「※」=「凵」の中に「※」。「幽」の異体字。これ(グリフィスウィキ)。]、又、夜(よ)をかさねて、次㐧にちかくす。是れは、若始(としはじ)めに、火の光りに驚かせては、終(つひ)に癖となりて、後(のち)に、水に濡れたる羽(は)を、焚火(たきひ)に乾かすこと、成りがたき爲め也。其の外、數多(あまた)、害あり。さて、「夜据」、積りて、鷹、熟(くつろ)き、手、ふるひ、身、せゝりなどして、和らぎたるを見て、「朝据(あさすへ)」をするなり。是れは、未明より、次㐧に、朝を重ねて、後に、白昼に、野にも、出だせり。其の時、肉、よくなり、野鳥(のとり)を見て、目かくる心を察し、かねて貯へし小鳥を見せて、手𢌞りにて、是れを捕らせり。但し、其の小鳥の觜(はし)をきり、あるひは括(くゝ)る也。是れは、鷹を、啄(ついば)み、聲を立てさせさるが、爲めなり。若(も)し、聲立(こへたて)などして、鷹、おどろけば、終に癖となるを、厭へばなり。是れを「腰丸觜(こしまるはし)をまろばす」とは云へり。此の鳥、よく取り得たる時は、暖血(ぬくち)【肉のこと也。】を、少し飼ひて、多くは飼はず。多く飼へは、肉、ふとりて、惡(あ)しし。尚、生育に心を附けて、肥へる、瘦せる、又は、羽振(はふり)・顏貌(かんほう)などの善𢙣(せんあく)、或いは、大鷹は、眸(ひとみ)の小さくなるを、肉のよきとし、小鷹はこれに反し、又、屎(うち)の色をも考へ、能く調はせて【是れを、「肉をこしらへる」といふ也。】、「飛流(とびなかし)」の活鳥(いけとり)を飼ふ【「飛流し」とは、鳥の目を縫ひ、野に出でて、高く飛はせて、鷹に羽合(はあはせ)するなり。目をぬふは、高く一筋に飛ばさんが爲め也。】。是れを、手際よく取れは、夫(それ)より、山野に出でて、取り飼ふなり。

○巢鷹は、巢より取りて、籠のうちに艾葉(もくさ)・莵(うさぎ)の皮を敷きて、小鳥を、細かに切りて、あたへ、少しも、水を交じへず。○初生を「のり毛」「綿毛」共云。又、「村毛」・「つばな毛」と、生育の次㐧あり。尾の生(ふ)を以つて、成長の期(ご)として、一生(ひとふ)・二生(ふたふ)を見する、といふなり。三生(みふ)に及べば、籠中(こちう)に架(ほこ)をさすなり。初めより、籠に蚊帳をたれて、蚊の螫すを厭ふ。又、雄(お)を「兄鷹(せう)」といひ、雌(め)を「弟鷹(たい)」といひて、是れをわかつには、輕重をもつてす。輕きを「兄(せう)」とし、重きを「弟(たい)」とす。又、尾羽(おは)、延び揃ひかたまりたる後は、足緖(あしを)をさして、五日ばかり、架(ほこ)につなぎ、靜かに据へて、三日ばかり、㳀湯(ぬるゆ)[やぶちゃん注:「㳀」は「淺」の異体字。]を浴びするなり。若(も)し、浴びざれば、ふりかけて、度(と)を重(かさ)ぬ。縮(しゞま)りたる羽を伸ばし、尚、前法のごとく、活鳥(いけとり)をまろはして、後には、常のごとし。

○鷹品大概(たかのしなたいがい)

角鷹(おほたか)【「蒼鷹」「黄鷹」ともいふ。】・「波廝妙(はしたへ)」【「弟(たい)」とも「兄(せう)」とも見知りがたきを云。】・「鶻(はやぶさ)」【雄(お)なり。形。小也。】・「隼(は)」【雌(め)なり。形、大(おほい)なり。仕(つ)かふに用之(これをもちゆ)。】・「鷂(はいたか)」【雌(め)也。】・「兄鷹(このり)」【鷂の雄(お)也。】・「萑鷂(つみ)」【「𪄄」とも書きて、品(しな)、多し。「黑―」・「木葉―」・「通―」・「熊―」・「北山―」、いづれも同品なり府をもつて別かつ。】[やぶちゃん注:ダッシュは前掲字の省略。後も同じ。]・「萑𪀚(しつさい)」【「ツミ」より小也。】・「鵊鳩(さしば)」【「赤※(あかさしば)」[やぶちゃん注:「※」=(上)「治」或いは「冶」+(下)「鳥」。]。「靑―」・「底―」・「下―」・「裳濃(すそご)―」。】・鷲(わし)【全躰(せんたい)、黑し。年を經て、白き府(ふ)、種々に変ず。哥に「毛は黒く眼は靑し觜(はし)靑く脛(あし)に毛あるを鷲としるべし」。】・「鵰(くまたか)」【全躰、黒し。尾の府、年を經て、樣々に變ず。哥に「觜黑く靑ばし靑く足靑く脛に毛あるをくまたかとしれ」。】其の外、品類、多し。○任鳥(かふり)【「まくそつかみ」「くそつかみ」。】惰鳥(よたか)も種類なり。

[やぶちゃん注:以下、全体が底本では一字下げ。]

「大和本草」云、『「鷹鶻方(ようこつはう)」を案ずるに、鷹の類(るい)、三種あり。鶻(はやぶさ)・鷹・鷲なり。今、案ずるに、白鷹(おほたか)・鷂(はいたか)・角鷹(くまたか)は鷹なり。』。○隼(はやぶさ)・鵊鳩(さしは)は鶻(こつ)なり。○鷲・鳶等(とう)は鷲なり。鷹(よう)・鶻(こつ)の二類は、敎へて、鳥を取らしむ。鷲の類ひは敎しへて鳥を取らしめず。又、諸鳥は、雄(お)、大(おほ)いなり。唯、鷹は雌(めん)、大いなり。此の事、中華の書にも見たり。尚、詳かなることは、原本によりて見べし。此(こゝ)に略す。

 

[やぶちゃん注:「鷹」は新顎上目タカ目 Accipitriformesタカ科 Accipitridae に属する鳥の内で、比較的、大きさが小さめの種群を指す一般通称である。作者は、後半で明らかに現在のそれらの中の幾つかの種をも挙げている。さらに、同一種でも鷹飼いの過程の中での個体差や経年による異名も挙げており、なかなかに面白いのだが、それが、また、かなり圧縮された形で書かれてあるため、種を同定比定することは、これ、鳥類の素人である私などには、聊か難物である。ともかくも、私は思うに、作者は寺島良安の「和漢三才図会」の膨大な鷹類や鷲類の叙述を参考にしていることは間違いないと思われる。幸い、私は既にブログでそれらを総て電子化注してある。以下である。

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷹(たか)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 雀鷂(すすみだか・つみ) (ツミ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵰(わし) (鷲(ワシ)類)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご) (ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷸子(つぶり・つぐり) (チョウヒ・ハイイイロチョウヒ)

和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵟(くそとび) (ノスリ或いはチョウゲンボウ)

但し、その総論部である最初に挙げた「鷹」だけでも、「まず、参照されたい」と言うのが気が引けるほど、異様に長いので、相応の覚悟をして貰わないと、途中でお挫け遊ばされるかも知れないということは、一言、言っておかねばなるまい。

「田獵」

「甲斐山中(やまなか)」山梨県南都留郡山中湖村山中附近ととっておく(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「奧州黑川」特定不能。一番大きな地域名なら、宮城県黒川郡がある。但し、黒川や上黒川の地名は現行では、ない。

「上黑川(かみくろかは)」特定不能。山形県酒田市上黒川はあるが、その西に下黒川はあっても、黒川は、ない。

「大澤」山形県最上郡真室川町大沢か。

「冨澤(とみさは)」山形県最上郡最上町富澤か。

「油田(あぶらた)」地名としては、非常に多数、存在し、特定不能。ウィキの「油田(曖昧さ回避)」を参照されたい。

「年遣(とつかひ)」不詳。

「大爪(おほつめ)」不詳。

「矢俣(やまた)」旧茨城県猿島郡八俣村(やまたむら)はここだが(今昔マップ)、ここかどうか不明。この前までは東北だとすれば、違う。

「しのぶ郡(こほり)」陸奥国・岩代国(現在の福島県)にあった古代からの郡名。現在の福島市の大部分が相当する。

「白鷹(おほたか)」タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis 。本邦における鷹類の代表的種で、古今、「鷹」や「鷹狩りの鷹」といえば、オオタカを指すことが多いから、ここでもメインのそれは本種を想定してよい。但し、本和名のもとは「大鷹」(タカ科では中型の種である)ではなく(現行はそう書くことが多いが)、「蒼鷹」が元で、羽の色が青みがかった灰色をした鷹を意味する「蒼鷹(あをたか)」が訛ったものである。また、作者は「朝鮮より來りて」などと言っているが、「日本書紀」の記載にかぶれたものであろう。北アフリカからユーラシア大陸及び北アメリカ大陸にかけて分布し、日本列島でも、南西諸島・南方諸島を除く全域にもともと分布している。但し、ウィキの「鷹狩」によれば、江戸時代、鷹狩用の鷹は、『奥羽諸藩、松前藩で捕らえられたもの、もしくは朝鮮半島で捕らえられたものが上物とされ、後者は朝鮮通信使や対馬藩を通じてもたらされた。近世初期の鷹の相場は』一据』(すゑ(すえ):鷹の序数詞)『十両』、『中期では』二十~三十『両に及び、松前藩では藩の収入の半分近くは鷹の売上によるものだった』とはある。

「鷹鶻方(ようこつはう)」高麗(九一八年~一三九二年)時代から李王朝(李氏朝鮮:一三九二年から一八九七年。大韓帝国として一九一〇年まで存続)時代に複数の異本が製作された鷹養(おうよう)の特殊実用書。「鶻」はタカの一種であるハヤブサやクマタカを指す漢字。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、訓点附きの「新增鷹鶻方」(李爓(りえん)編・寛永二〇(一六四三)年南輪書堂板行本)が読める。また、サイト「大阪大学学術情報庫」のこちらで、二本松泰子氏の手になる「韓国国立中央図書館蔵『鷹鶻方 全』全文翻刻」(『日本語・日本文化』二〇一三年三月発行)がPDFでダウン・ロード出来る。

「仁德天皇の御宇、依網屯倉(よあみみやけ)の阿珥(あひ)、古鷹を獻せしに……」「日本書紀」の仁徳天皇四十三年(三五五年)九月の条。

   *

四十三年秋九月庚子朔。依網屯倉阿弭古捕異鳥。獻於天皇曰。臣每張網捕鳥。未曾得是鳥之類。故奇而獻之。天皇召酒君示鳥曰。是何鳥矣。酒君對言。此鳥之類多在百濟。得馴而能從人。亦捷飛之掠諸鳥。百濟俗號此鳥曰倶知【是今時鷹也。】。乃授酒君令養馴。未幾時而得馴。酒君則以韋緡著其足。以小鈴著其尾。居腕上、獻于天皇。是日、幸百舌鳥野而遊獵。時雌雉多起。乃放鷹令捕。忽獲數十雉。是月。甫定鷹甘部。故時人號其養鷹之處。曰鷹甘邑也。

   *

 四十三年秋九月(ながつき)庚子(かのえね)朔(つきたち)、依網屯倉(よさみにみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕へて、天皇(すめらみこと)に獻(たてまつ)りて曰(のたま)はく、

「臣(やつかれ)、每(つね)に網を張りて鳥を捕へど。未だ曾つて是の鳥の類(たぐひ)を得ず。故(かれ)、奇(あや)しみて、之れを獻らむ。」

と。

 天皇、酒君(さけのきみ)を召したまひて、鳥を示して曰はく。

「是れ、何(いか)なる鳥ぞ。」

と。

 酒君、對(こた)へて言(まう)さく、

「此の鳥の類(るゐ)、多(さは)に百濟に在り。馴(なつ)け得ば、能く人に從ひて、亦、捷(と)く飛びて、諸鳥を掠(かす)む。百濟の俗(ひと)、此の鳥を號(な)づけて『倶知(くち)』と曰ふ【是れ、今の時の鷹なり。】。」

と。

 乃(すなは)ち、酒君に授けて、養ひ馴けしむ。

 未だ幾時(いくばく)ならずして、得馴くことを得しむ。

 酒君、則ち、韋(をしかは)・緡(あしを)を以つて、其の足に著け、小鈴を以つて、其の尾に著けて、腕(ただむき)の上(へ)に居(す)ゑて、天皇に獻る。

 是の日、百舌鳥野(もずの)に幸(いでま)して、獵り、遊ばす。

 時に、雌雉(めきぎす)、多く起(た)つ。乃ち、鷹を放ちて、捕へしむ。忽ち、數十(あまた)の雉を獲りつ。

 是の月。甫(はじめ)て鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時の人、其の、鷹を養(か)へる處を號(なづ)けて、鷹甘邑(たかかひむら)曰ふ。

   *

作者は「韋緡(ふくさ)」(「袱紗」?)と読んでおり、昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「日本書紀  訓讀 中卷」では、「韋緡(をしかはのあしを)」と一語で読んでいるが、これは「韋(をしかは)」は「鞣(なめ)し革」で、「緡(あしを)」は「細くて見えにくい釣り糸」の意であろう、というサイト「古事記をそのまま読む」の「上代語で読む日本書紀〔仁徳天皇(1)〕」の注に従って訓じておいた。そこで、「依網屯倉(よさみにみやけ)の阿弭古(あびこ)」については、『「依網(よさみ)」が氏、「屯倉(みやけ)」が名で、「阿弭古(あびこ)」が姓』とされ、『「依網阿毘古」は』『摂津国・住吉郡・大羅【於保与佐美〔おほよさみ〕】』『が本貫か』と注されている。「酒君」は講談社「日本人名大辞典」によれば、百済の王族の一人で、この二年前の仁徳天皇四十一年に紀角(きのつの)が百済に遣わされた際、角に対して無礼をはたらいたために捕えられ、日本に護送されたものの、その後、罪を許されて、ここにあるように、鷹の飼育を命じられて、鷹甘部(たかかいべ)の始祖となったとある。「百舌鳥野(もずの)」は現在の伝仁徳天皇陵とされる大山陵古墳を含む百舌鳥(もず)古墳群のある一帯に比定される。「鷹甘部(たかかひべ)」大化前代からあった職業部。鷹養部とも書く。狩猟のための鷹と犬の飼育・調教及び放鷹に従事した。彼らの居地は大和・河内・摂津・近江にあったが、全体を統轄する伴造(とものみやつこ)は見当たらず,地域ごとの伴造に率いられたようである。近江の伴造は「鷹養君」という君(きみ)姓であった(平凡社「世界大百科事典」ニに拠る)。作者は「住吉郡(すみよしこほり)鷹合村(たかあひむら)」とする。これは現在の大阪府大阪市東住吉区鷹合(たかあい)附近であろう。

「伊豫國小山田(おやまた)」愛媛県松山市小山田。しかし、ここを出しておいて、突然、直後に「此の山は」として「土佐・阿波三國に跨たがりたる大山(たいさん)なり」(これはマクロな四国山地を指している)というのは掟破りも甚だしい謂い方である。

「柚(ゆ)」柚子。ムクロジ目ミカン科ミカン属ユズ Citrus junos の実が黄色く色づく秋である。

「すが糸」絓糸。縒りを掛けずに、そのまま一本で用いる生糸。白髪糸(しらがいと)。

「苧(お)」「お」は歴史的仮名遣の誤り。苧績紡(をうみつみ(おうみつみ))ぎの網。苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea)の繊維を撚り合わせて網糸にしたもの。

「鵯(ひよとり)」スズメ目ヒヨドリ科ヒヨドリ属ヒヨドリ Hypsipetes amaurotis

「しかき」「鹿垣」で「しかぎ」或いは「しかぎ」と読み、鹿などが来るのを待つ猟師が、自分の身を隠すために、立ち木に横木を渡し、柴などを結びつけたもの。挿絵では、右の糸を操っていると思しい男の向こう側に、それらしい柴らしきものが見えるのだが、蔀関月にしては、珍しく遠近感を誤ってしまっていて、おかしい。頗る惜しい。

「惣髮(さうはつ)」歴史的仮名遣は「そうはつ」でよい。男の結髪の一つ。額の上の月代(さかやき)を剃らず、全体の髪を伸ばし、頂で束ねて結ったもの。また、後ろへ撫でつけて垂れ下げただけで、束ねないものもいう。江戸時代、医者・儒者・浪人・神官・山伏などが多く結った髪型。挿絵の男がほっかむりの後ろから、垂れ下がったそれが描かれてある。

「鷂(はいたか)」「ハシタカ」タカ目タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus 。「疾(はや)き鷹(たか)」が語源であり、それが転じて「はいたか」となった。嘗ては「はしたか」とも呼ばれていた。また、元来、「ハイタカ」とは「ハイタカ」の♀のことを指す名前で、♀とは体色が異なる♂は「コノリ」(ここで出る「兒鷂(このり)」)と呼ばれた。「大言海」によれば、「コノリ」の語源は「小鳥ニ乗リ懸クル意」であるという(当該ウィキに拠った)。個人的には好きな鷹の一種である。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鷂(はいたか・はしたか) (ハイタカ)を参照されたい。

「䳄(めん)」雌鳥(めんどり)。

「逸物(いちもつ)」行動性能の優れた個体。

「班(ふ)」斑紋。

「山足緖(やまあしを)」「山大緖(やまおほを)」「足緖」は鷹狩りに使う鷹の足につける紐のこと。足革(あしかわ)とも言うから、後者はその厳重なものか。飼育係氏のサイト「フクロウのいる家」の「大緒(おおお)の製作_結びかた」を参照されたい。

「旋(もとをり)」前記リンク先から考えるに、紐を固定する大事な部分を指すか。

「紙にて、尾羽をはり」自ら、飛び立った際に、距離を延ばすことが出来ないようにするためか。

「樊籠(ふせご)」「樊」(音「ハン」)には「鳥籠」の意がある。

「餌板(えいた)」細い板の上に餌を置いて、駕籠を開けずに入れるための細い板状の餌やりの板か。

「尾袋(おふくろ)」鷹の尾を傷めないようにするために懸ける生絹(すずし)の袋。

「羽袋(はふくろ)」恐らくは、前注と同じく、損傷や逃走を防ぐための両主翼へ被せるそれであろう。

「赤毛」「䋄掛(あうけ)」「初種(わかくさ)」「黄鷹(わかたか)」若い鷹のことであろう。

「野曝(のされ)鷹」「山曝(やまされ)」「木曝(こされ)」「十月、十一月に捕りたるなり」生まれて三か月以内に捕らえた若鷹。一説に、秋を過ぎて冬に捕らえた鷹。「のざれの鷹」「のざらし」と、小学館「日本国語大辞典」にあるのに一致する。

「里落鷹(さとおちたか)」タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus との親和性を少し感じる和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)を参照されたい。

「新玉鷹(あらたまたか)」これは種ではなく、言祝ぎとして広汎に使うものであろう。

「佐保姬鷹(さほひめてう)」「乙女(をとめ)鷹」、前の年の新春に生まれた若鷹を獲って、鷹養用に訓練した、その時の、或いはそれから修業をして一年目に達したものであろうか。春を司る処女の「佐保姫」に通じさせたものであろう。

「小山鴘(こやまかへり)」の「鴘」の音「ヘン」で、原義は「二歳の鷹」及び「二歳の鷹の持つ羽の色」の意。但し、「こやまかえり」(「小山帰」とも書く)は、鷹用語で、前年に生まれた若鷹が翌春になっても、羽毛がまだ完全に抜け変わらないこと。また、その若鷹のことを指す。

「鷹懷(たかをなつける)」「なつける」は「手馴づける」であろう。

「打ちおろし」鷹養用語で「訓練を始めたばかりの鷹」。後に転じて、「修行を始めたばかりの者」の意となった。

「餌(え)じみ」鷹の摂取した餌で汚れた染み。

「塒(とや)」鳥屋(とや)。塒(ねぐら)。ここは飼育小屋。

「肉、よくなり」体幹の肉付きが良くなって。

「目かくる」「目掛くる」。

「手𢌞りにて」鷹匠の手ずから。

「聲立(こへたて)などして」ここは「鷹匠自らが、餌をやるのに、声を発したりなどしてしまうと」の意であろう。

「腰丸觜(こしまるはし)をまろばす」不詳。識者の御教授を乞う。

「屎(うち)」読みの由来不詳だが、「くそ」「まり」で、鷹の体の内(うち)より出る排泄物の謂い。小学館「日本国語大辞典」にも、『鷹の糞(ふん)』とある。これは飼育上の大事な観察物である。鳥は大小便の排泄は分離せず、総排泄腔から総てが排出されるから、それを調べることは、鳥個体の体内の状態を知るに、最も重要なものとなる。先の二本松泰子氏の手になる「韓国国立中央図書館蔵『鷹鶻方 全』全文翻刻」(サイト「大阪大学学術情報庫」のこちらから入手出来る)にも(三〇ページ三行目。訓点に従って書き下した)、『鷹の鷹鶻の屎(うち)に長(なか)き虫(むし)あるは、狼牙(らうけ)草を以つて水に煎(せん)して灌(そゝ)き下す。或は細末して食に和(まつ)る』とある。「狼牙草」とは、恐らくバラ目バラ科バラ亜科キジムシロ属ミツモトソウ Potentilla cryptotaeniae (水元草:中文表記「狼牙委陵菜」。「本草経」に「狼牙」で載る)と思われる。

『「飛流(とびなかし)」の活鳥(いけとり)を飼ふ【「飛流し」とは、鳥の目を縫ひ、野に出でて、高く飛はせて、鷹に羽合(はあはせ)するなり。目をぬふは、高く一筋に飛ばさんが爲め也。】。是れを、手際よく取れは、夫(それ)より、山野に出でて、取り飼ふなり』「目を縫」うというのは、ちょっと残酷な感じだが、恐らくは、片方だけをそうしたのかも知れない。但し、さんざん探したが、ネットでは縫うという記載は見当たらない。ただ、遮眼するのは片目ではないか。立体視で視野が広がると、本能的に索敵・索餌のために下界を見渡して高く飛ばないのではなかろうか。「中森康之ブログ」の「羽合:人鷹一体」に、『鷹狩り用語に「羽合」(あはせ)というのがある』として、大塚紀子著「鷹匠の技とこころ-鷹狩文化と諏訪流放鷹術」(白水社刊)から以下を引用されておられる。『「羽合」は日本の鷹匠の独特な猟法の一つで、鷹に加速をつけてやるために、拳から鷹を獲物に向かって投げるように押し出すことをいう』とあり、さらに『鷹と鷹匠が呼吸を合わせて、これをうまく成功させたときの技の境地を「人鷹一体」といい、これが、鷹匠が追求する究極の感覚である。(略)カモ猟などで鷹匠が十分に寄せたのち、絶妙の頃合いで羽合が成功したとき、それはまるで自分の拳が伸びたかのように感じられ、鷹の動きが線を描くかのように明確に見えて一瞬で捕らえることができる場合がある。この時の感覚は「羽合拳」といわれる』とある。ちょっと私の推理とは異なるけれども。

「艾葉(もくさ)」ヨモギ属ヨモギ変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii

「のり毛」「糊毛」或いは「載り毛」か。ぺたっとしたそれか。

「村毛」「叢毛」であろう。

「つばな毛」さらに毛先が突き出始めて、「茅(ちがや)」(単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ属チガヤ Imperata cylindrica 。花期は初夏(五 ~六月)で、葉が伸びないうちに葉の間から花茎を伸ばして、赤褐色の花穂を出す。穂は細長い円柱形で、葉よりも花穂は高く伸び上がり、花茎の上部に葉は少なく、ほぼまっすぐに立つ。小穂は基部に白い毛がある。花は小さく、銀白色の絹糸のような長毛に包まれて花穂に群がり咲かせ、褐色の雄しべがよく目立つ。当該ウィキに拠る)の穂の綿毛のようになるということであろう。

「尾の生(ふ)」恐らくは、斑(ふ)で、翼のそれと区別するために言っているように思う。尾羽の先の方に目立つ縞状の斑点模様は、主翼のそれらよりも寧ろ目立つように思われる。

「架(ほこ)」太い止まり木。別に「鷹槊」と書いて「たかほこ」と読ませる。

『雄(お)を「兄鷹(せう)」といひ、雌(め)を「弟鷹(たい)」といひて、是れをわかつには、輕重をもつてす。輕きを「兄(せう)」とし、重きを「弟(たい)」とす』小学館「日本国語大辞典」の「しょう」(セウ)「兄鷹」と見出して、『小さい鷹。また、おすの鷹。しょうたか。⇔弟鷹(だい)』とあり、「和名類聚抄」に載るので、中古にはあった呼称である。補注があって、『鷹は、めすが大きく、おすが小さいので、おすの鷹を「小」といい、これに「兄」をあてたといわれるが、一方、「妹(いも)」に対する「兄(せ)」に関係づけて説明する説』『もある』とある。私はまさに一読、直ちに後者の説と同じ感じを持った。後の方にも出る通り、「鷹は雌(めん)、大いなり」で、タカ類は極端ではないがものの、種によって♀の方がやや大きい性的二型が多いことは事実である。

『「角鷹(おほたか)【蒼鷹」「黄鷹」ともいふ。】』既注。

『「波廝妙(はしたへ)」【「弟(たい)」とも「兄(せう)」とも見知りがたきを云。】』ハイタカ。既注。なお、辞書類を見ると、「箸鷹」(はしたか)があり、そこには、聖霊の箸を火に焼いて、その微かな火影(ほかげ)で鷹を鳥屋(とや)からり出したことを言うともあった。

『「鶻(はやぶさ)」【雄(お)なり。形。小也。】・「隼(は)」【雌(め)なり。形、大(おほい)なり。仕(つ)かふに用之(これをもちゆ)。】』ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ亜種ハヤブサ Falco peregrinus japonensis和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)を参照されたい。

『「鷂(はいたか)」【雌(め)也。】・「兄鷹(このり)」【鷂の雄(お)也。】』既注。

『「萑鷂(つみ)」【「𪄄」とも書きて、品(しな)、多し。「黑―」・「木葉―」・「通―」・「熊―」・「北山―」、いづれも同品なり府をもつて別かつ。】』これは、タカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis 和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 雀鷂(すすみだか・つみ) (ツミ)を参照されたい。なお、「𪄄」(音「テウ(チョウ)」は「鵰」に同じで、タカ科の鳥の中でも、大形のものを指す。また、「鵰雞(ちょうけい)」はミサゴ(鶚)で、タカ目ミサゴ科ミサゴ属 Pandionの鳥、或いは、ミサゴ属ミサゴ Pandion haliaetus を指す(一種説と、亜種を立てる二種説がある。当該ウィキを見られたい)。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鶚(みさご) (ミサゴ/〔附録〕信天翁(アホウドリ))を参照されたい。

『「萑𪀚(しつさい)」【「ツミ」より小也。】』これは、前注のタカ目タカ科ハイタカ属ツミ Accipiter gularis ♂のことと思われる。「悦哉・雀𪀚」(えっさい)という語があり、これはツミの♂の呼称だからである。同種は♂の全長が二十七センチメートル、♀が三十センチメートルと、♀の方が大きい性的二型で区別してもおかしくないのである。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 雀鷂(すすみだか・つみ) (ツミ)も参照されたい。

「鷲(わし)」「全躰(せんたい)、黑し。年を經て、白き府(ふ)、種々に変ず」ウィキの「鷲」によれば、『鷲(わし)とは、タカ目タカ科』Accipitridae『に属する鳥のうち、オオワシ、オジロワシ、イヌワシ、ハクトウワシなど、比較的大き目のものを指す通称である。タカ科にて、比較的大きいものをワシ、小さめのものをタカ(鷹)と呼ぶが、明確な区別はなく、慣習に従って呼び分けているに過ぎない』とある。そこ上がった種は、

タカ科オジロワシ属オオワシ Haliaeetus pelagicus

オジロワシ属オジロワシ Haliaeetus albicilla

イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos

ウミワシ属ハクトウワシ Haliaeetus leucocephalus

で、前の三種は本邦に普通に分布し、最後のハクトウワシのみは、北アメリカ大陸(アラスカなど)の沿岸部に広範囲に分布するが、国後島・北海道で限定的に発見されている北方種である。

『哥に「毛は黒く眼は靑し觜(はし)靑く脛(あし)に毛あるを鷲としるべし」』出典未詳。識者の御教授を乞う。

「鵰(くまたか)」「全躰、黒し。尾の府、年を經て、樣々に變ず」タカ科クマタカ属クマタカ Nisaetus nipalensis和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 角鷹(くまたか) (クマタカ)を参照されたい。

『哥に「觜黑く靑ばし靑く足靑く脛に毛あるをくまたかとしれ」』同じく出典未詳。識者の御教授を乞う。前のも含め、これらは江戸時代の狂歌或いは俗謡のような気はする。

『任鳥(かふり)【「まくそつかみ」「くそつかみ」。】』声も姿も小さな時から私のお気に入りの「トンビ」、タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)を参照されたい。但し、「くそとび」という語が古くからあるものの、それはトンビと区別されて使用されている可能性があり、「糞鳶」という蔑称は恐らくは「鷹狩り」に使えない鷲鷹類であったためかとも思われ、そうなると、タカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus 及び、ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ Falco tinnunculus を指している可能性も排除は出来ない。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵟(くそとび) (ノスリ或いはチョウゲンボウ)も参照されたい。

「惰鳥(よたか)」ヨタカ目ヨタカ科ヨーロッパヨタカ(夜鷹)亜科ヨタカ属ヨタカ Caprimulgus indicus 。姿は確かにちょいと小さな鷹っぽくは見える。タスマニアに旅行した時に同属の幼鳥二羽を撮った写真がある。和漢三才圖會第四十一 水禽類 蚊母鳥 (ヨタカ)を参照されたい。

『「大和本草」云、『「鷹鶻方(ようこつはう)」を案ずるに、鷹の類(るい)、三種あり。鶻(はやぶさ)・鷹・鷲なり。今、案ずるに、白鷹(おほたか)・鷂(はいたか)・角鷹(くまたか)は鷹なり。』これは貝原益軒の「大和本草」の巻十五「山鳥」の冒頭に記された「鷹」の冒頭部分だが、引用は正確ではない。

   *

鷹 「鷹鶻方(ようこつはう)」を案ずるに、鷹の類(るゐ)、三種あり。「鶻(はやぶさ)」の類、「鷹」の類、鷲の類なり。今、案ずるに、「白鷹(おほたか)」・「鷂(はいたか)」・「角(くま)鷹」は鷹の類なり。

   *

である。この「鷹」の条はかなり長いので、電子化はしないが(面倒だかではなく、それをやりだすと、何時までもこの条を公開出来ないからである)、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認して戴くと判るが、実は作者の種本は「和漢三才図会」の他にこちらにも拠っていることが判る。

「隼(はやぶさ)」既注。

『「鵊鳩(さしは)」【「赤※(あかさしば)」[やぶちゃん注:「※」=(上)「治」或いは「冶」+(下)「鳥」。]。「靑―」・「底―」・「下―」・「裳濃(すそご)―」。】』」タカ科サシバ属サシバ Butastur indicus 。タカの一種で、トビより小さく、全長約五十センチメートル。背面は濃い褐色で腹面に白地に褐色の横斑がある。額と喉は白く、喉の中央に一本の黒い縦条があり、尾羽に四本の黒褐色の横帯がある。山麓や平野の森林にすみ、昆虫・小鳥・蛇などを捕食する。本州以南に普通に見られ、冬は大群をなして南方へ渡る。和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 隼(はやぶさ) (ハヤブサ・サシバ)も参照されたい。なお、異名の一つとする「裳濃鵊鳩(すすごさしは)」の「裳濃」は「裾濃」に同じで、同系色で、上方を淡くし、下方を次第に濃くしてゆく染め方や織り方を指す。また、甲冑の縅(おどし)では、上方を白、次を黄とし、次第に濃い色とするものを言う。

「諸鳥は、雄(お)、大(おほ)いなり」既に述べた通り、逆で、誤り。]

2021/07/25

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (4)

 

 是ら何れも現存の人や物を詛ふのだが、回敎には死んだ人を詛ふのが有る。波斯(ペルシア)人は、每歲マホメツトの外孫フツサインが殺された當日追弔大會を修する前夜、彼を殺したオマー等の像を廣場で燒きながら、詛言を吐く(‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843, vol. i, p. 556) 蓋し回敎にシアとスンニの二大派有て、波斯等のシア派徒はアリと其子フツサインを正統の回主とするに、土耳其[やぶちゃん注:「トルコ」。]阿非利加等のスンニ派徒はアリ父子の敵だつたオマー等を奉崇す、因て波斯人はオマーを、土耳其人はアリ父子を魔の如く忌み、波斯人惡人を訕る[やぶちゃん注:「そしる」。]に彼はオマーだ抔と言ひ、祈禱の終りに必ずオマーを詛ひ、オマーを一口詛ふは徹夜の誦經に勝るとし、スンニ派よりシア派に改宗する者に、アリの敵アブベツクルとオスマンとオマー三人を詛はしむ(Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811, tom. Ix, p.36)

[やぶちゃん注:「‘Viaggi di Pietro della Valle,’ Brighton, 1843」ローマの貴族で作家・音楽家にして旅行家であったピエトロ・デッラ・ヴァッレ(Pietro Della Valle 一五八六年~一六五二年)の旅行記。Internet archiveのイタリア語原本のこちらが指示ページであるが、どうもここに書かれた内容はそこにはない。ページが違うようである。幾つかの固有名詞で調べてみたが、よく判らない。なお、リンク先のタイトル、

‘Viaggi di Pietro della Valle, il pellegrino : descritti da lui medesimo in lettere familiari all'erudito suo amico Mario Schipano, divisi in tre parti cioè : La Truchia, La Persia, e l'India, colla vita dell'autore’

を機械翻訳を参考にすると、

「巡礼者ピエトロ・デッラ・ヴァッレの旅――学者にして親しい友人であったマリオ・スキパノに宛てた書簡で、著者の生涯とともに、トルキア・ペルシャ・インドの三部に分かれる。」

といった意味らしい。

「マホメツトの外孫フツサインが殺された」六八〇年十月十日に発生した、ウマイヤ朝軍のシーア派討伐「カルバラーの戦い」のこと。ウマイヤ朝カリフ(預言者ムハンマド亡き後のイスラーム共同体・国家の指導者にして最高権威者の称号)・ヤズィードの派遣した軍勢と宗祖預言者ムハンマドの外孫フサイン・イブン・アリーの軍勢との戦いで、フサイン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ(六二六年~六八〇年:父はムハンマドの従兄弟で養子となったアリー・イブン・アビー・ターリブ(六〇〇年頃~六六一年:イスラム教第四代正統カリフ(在位六五六年~六六一年)でシーア派初代イマーム(イスラム教の公的に認定された「指導者」の意)で、母はムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー)が虐殺されたことを指す。

「追弔大會」アーシューラー(ペルシア語ラテン文字転写:Âshurâ)。これは本来はヒジュラ暦におけるムハッラム月(一年で最初の月)の十日目を指すが、そこから転じて、この日に行われる宗教行事を指す場合もある。ウィキの「アーシューラー」によれば、『シーア派の信徒の間でアーシューラーはイマーム・フサインが殉教した日として特に重要視されている』。『ムハンマドの死から』五十『年後、ヒジュラ暦』六一『年アーシューラーの日(ユリウス暦』六八〇年十月一日)『に、初代イマームアリーと預言者の娘ファーティマの次男であり、シーア派の人々から第』三『代イマームとみなされるフサインが、現在のイラク、カルバラー付近の戦場でウマイヤ朝の軍隊によって殺害された(カルバラーの戦い)。シーア派の説によれば、フサインは、彼を指導者として推戴することを望むシーア派の人々の求めに応じ、父アリーの旧本拠地クーファに向かう途上、これを阻止しようとするウマイヤ朝カリフのヤズィード』Ⅰ『世の手にかかって殺されたということになっている。このため』、『シーア派の人々は、フサインをウマイヤ朝の手にかけさせてしまったことを哀悼し、タアズィーヤと呼ばれる殉教追悼行事を行うようになった』。『アーシューラーのタアズィーヤでは、フサインの殉教を哀悼する詩の朗読や、殉教したときの様子を再現する宗教劇が上演され、人々はフサインの死を大声で喚き、涙を流して嘆き悲しむ。さらに、フサインの棺を模した神輿が担ぎ出されたり、人々が鎖で自分の体を鞭打って哀悼の意を表現するなど、熱狂的な儀礼が繰り広げられる』。『宗教的な感情が最高潮を迎えるアーシューラーの日は、シーア派社会のエネルギーが爆発する日であり、イラン革命においてもアーシューラーの日に行われたデモが大きな影響力を持った』とある。

「オマー」不詳。ウィキの「カルバラーの戦い」によれば、『ヤズィードはこの戦いが原因で全シーア派から凄まじい憎しみを浴びせられ、現在でもこの一件はシーア派とスンナ派の感情的しこりとなって残っている』とあるが、ヤズィードの名や別称にはオマーに似たものはない。

「Chardin, ‘Voyage en Perse,’ ed. Langles, 1811」フランスに生まれ、後にイギリスへ亡命した商人ジャン・シャルダン(Jean Chardin 一六四三年~一七一三年:フランスのパリに富裕な宝石商の息子。フランスでは少数派だったキリスト教プロテスタントのカルヴァン派に所属していたため、身の危険を感じて、イギリスに移住し、王宮付き宝石商となり、チャールズⅡ世によりナイトの爵位を得た)は、二度、ペルシアへ旅行しており、一度目は一六六四年で、リヨンの商人とともにインドとペルシアへ向い、滞在中にサファヴィー朝王アッバースⅡ世の死去とスレイマーンⅠ世の即位に際会している。一六七〇年にフランスに帰国すると、「ペルシア王スレイマーンの戴冠」を出版したが、フランスにいてもプロテスタントでは出世が望めぬことから、一六七一年、再度、ペルシアへ出発し、イスタンブール・グルジアを経由して、一六七三、年ペルシアに到着、その後も商売のため、インドとペルシアを行き来し、最終的には、一六八〇年に喜望峰経由でフランスに帰国した。十四年余り東方で過ごし、ダイヤモンドなどにより、大量の利益を上げた一方、ペルシア語なども習得していて、現地人との交流も深かった。二度目の旅行から帰った後、イギリスの東インド会社に多額の出資を行ったが、役員選挙では落選している。そのためか、弟と新会社を設立し、一方では東インド会社の代表者としてオランダに赴任したりしている。一六八二年には王立協会フェロー(Fellowship of the Royal Society:ロンドン王立協会のフェロー・シップ(会員資格))に選出されている。一六八六年には二度目のペルシア旅行に関する「旅行記」を出版し、一七一一年までに、残る部分の旅行記を刊行している。当時、殆んど知られていなかったペルシアに関する旅行記は、当時大きな反響を呼んだ(当該ウィキに拠った))のその旅行記。Internet archiveのこちらで原本が見られるが、指示ページはここだが、これまた、どうも違うような気がする。幾つかの単語で調べてみたが、よく判らない。なお、この旅行記は日本語サイト「シャルダン 17世紀ペルシア旅行記図録 デジタルアーカイブ(Atlas of Chardin's Voyages from 17th-Century Persia Digital Archiveとして、図版を見ることが出来る。画像が非常に大きく、しかも美麗である。是非、見られたい。

「アブベツクル」アブー・バクル・アッ=スィッディーク(五七三年~六三四年)のことであろう。初代正統カリフ(在位六三二年~六三四年)で、預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリム(アラビア語で「神に帰依する者」の意で「イスラム教信者」のこと)であり、「カリフ」、則ち、「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」を名乗った最初の人物。但し、当該ウィキによれば、『アブー・バクルはスンナ派では理想的なカリフの一人として賞賛されているが、シーア派では』、『本来』、『預言者ムハンマドの後継者であるべきだったアリーの地位を簒奪したとして、批判の対象となることもある』とある。

「オスマン」オスマン帝国のオスマン家。オスマン帝国は例えばイラクをスンニ派の住民を介して支配していたという。]

2021/07/24

伽婢子卷之七 死亦契

 

Sisitematatigiru

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。標題は「死して、亦、契る」。【2021年10月17日追記】なお、まことにお恥ずかしいこと乍ら、これ以降、私の推定読み挿入を〔 〕でなく、《 》にしてしまい、それに気づいていなかった(他の複数の電子化で統一しているわけではないため、うっかりそれでずっと続けてしまい、最早、修正が甚だ面倒なほどに先までやってしまったので、悪しからず、ご了承戴きたい。心朽窩主人敬白。]

  

 ○死亦契

 

 大和の奈良に櫻田源五といふものあり。年廿五になり、父母を失ひ、いまだ妻も無くて、只獨りすみけり。

 源五が舅(をぢ)津田長兵衞といふもの一人の子あり。年、廿四、五なり。彥八と名づく。源五・彥八は從兄弟なりければ、したしく侍べり。

 或時、源五、

「東大寺にまうでゝ歸る。」

とて、猿澤の邊にて、奇麗なる乘物に、女、のりて、男一人、女二人を召つれ、池のはたに乘物をたてさせ、煎餅を碎きて、池に入れ、魚に食はせて、慰みける。

 其さし出せる手の白く美くしき、指は笋(たかんな)の如く、爪の色は赤銅色(しやくどうしき)にて、肘(かひな)のかゝり、不束(ふつゝか)ならず。

 源五、立ちとまりければ、内より、乘物の戶を開き、暫く、源五が顏をまぼり、已に立《たち》て歸る。

 源五、これに隨うて行《ゆき》ければ、三條通といふすゑに、筒井某(つゝゐなにがし)といふ者の家に入りたり。

 源五、是れを見そめて、心惑ひ、さまざま、たよりを求めて聞《きき》ければ、父は筒井順昭(じゆんせう)に屬(しよく)して、河内の軍(いくさ)に打死す。

 母、やもめにて、只、この娘一人をやしなうて、住《すみ》けり。

 娘の乳母(おち)は、源五、もとより知たる者也ければ、是に近づきて、いろいろ、たのみけり。

 乳母も、源五が美男にして、然も有德(うとく)なるを以つて、

『是に逢せばや。』

と思ふ。

「まづ、一筆のたよりを傅へん。」

とて、紅葉がさねの薄(うす)えふに、中々、言葉はなくて、

 いさり火のほのみてしより衣手に

   磯邊のなみのよせぬ日ぞなき

と、かきて、遣はしたり。

 乳母(おち)、是を姬君に見せしかば、顏、打ちあかめ、袂に入れて、立退(の)きぬ。

 然るに、如何なる者か、知らせけん、源五が舅(おぢ)津田、この娘の事を聞て、

『我子彥八が妻にせむ。』

と思ひ、なかだちを入れて、娘の母に、いはせたり。

 津田も武門の末也。世もよかりければ、うけごひて、賴みをとりたり。

 娘はこゝち煩ひて、つやつや、湯(ゆ)水をだに、聞入れず。

 母、云やう、

「津田彥八と云ふ人に緣を定めたり。心を引立よ。近き比に、かの方に遣しなん。」

といふ。

 娘、更に、恨みたる色、あり。

 乳母(おち)に語りけるやう、

「源五が許にこそ、行かまほしけれ。其の彥八とかや、何せんに、只、死したるこそ、よからめ。」

とて、猶、藥をだに飮まず。

 母悲しさの餘り、乳母に心を合はせ、源五に、

「かく。」

といひて、娘を盜み取らせたり。

 源五、大に喜び、乳母と妻をつれて、奈良をば、立のき、郡山(こほり《やま》)といふ所に隱れ住みけり。

 津田、又、

「ゆきて、娘を迎へ取らん。」

と云ふ。

 母、なくなくいふやう、

「此間、誰人(たれ《ひと》)かかどはしけむ、乳母と共に行方なし。」

といへば、

「わが甥の源五が、心を懸けしと聞たり。盜みて隱れぬらん。」

と、大に怒り、腹立、其の間に、娘の母、死したり。

 跡の事は母の弟(おとゝ)、是れを、まかなふ。

 源五夫婦、餘所(よそ)ながら、野邊の送りに出つゝ、いと忍びたりけるを、津田彥八、見付て跡をしたひ、郡山に行きて、家、よく見屆け、立歸りて、父長兵衞に語る。

 長兵衞、すなはち、奈良の所司代松永に訴へて、對決(たいけつ)に及ぶ。

 源五、いふやう、

「それがし、前に契約して、賴みを遣はせし。」

といふ。

 津田は、なかだちを證據として、

「賴みを遣はせし。」

といふ。

 娘の母は死たり。

 いづれとも知りがたし。

 されども津田が賴みを遣はしける事は、なかだち、たしか也。

 源五にも、理《り》有りといへ共、此娘をとゞむる事、法にそむけり。

 只、

「津田がもとに返し遣はせ。」

とあり。

 力なく女房は彥八に取られぬ。

 娘も乳母も此事を病として、打續き、二人ながら、むなしくなれり。

 源五が事をや、思ひけむ。

 さりともと思ひしまでの命さへ

   今はたのみもなき身とぞなる

 彥八、いと悲しく、妻と乳母が墓所を、ひとつ寺の地に作りて、跡を弔ひけり。

 さるほどに、源五は妻を取られて後は、よろづ、あぢきなく、其面影を忘れ兼つゝ、

「せめては、風のたよりの音づれだに聞えぬは、此女も、彥八にわりなくなりて、我をば、忘れぬらん。」

と、恨めしく思ひて、

 なびくかと見えしもしほの煙だに

   今はあとなき浦かぜふく

と打詠めをる。

 其暮がた、門をたゝく。

 開きて見れば、妻の女房の乳母也。

 櫛・鏡、入《いれ》たる袋(ふくろ)を前に抱へて、

「只今、我君、こゝに走り來り給ふ。」

といふ。

 源五、うれしくて、門を開き、内に呼入《よびいれ》しに、女のかたち、そのかみにも替らず。

 餘りの事に、夫婦、手を取りて、嬉し泣きに、なきけり。

 斯くて其故を語る。

「君の事、つゆ忘るゝ事なく、彥八の家にあるにもあられず、忍び出て、逃げ來れり。日ごろの願ひ、今、已にかなひ侍べり。」

といふに、源五、堪がたく、喜びつゝ、偕老のかたらひ、今更なり。

 彥八が家人、ある時、郡山に行て、源五が門を見いれたりければ、乳母、何心なく立出たるを見つけ、走り歸りて、彥八に告げたり。

 彥八が父は、去ぬる月、死にたり。

 彥八、きゝて怪しみ、

「それは、正しく死して、埋み侍べりし。如何に世に似たる者こそあれ。人違へにてぞあるらん。」

といふに、

「正しく、見損ぜず。」

と、あらがひけり。

 彥八、行きて垣(かき)のひまより、覗きければ、女は鏡をたてゝ、けさうし、乳母は其前にあり。

 彥八、内に突き入《いり》て、源五に對面し、

「女も、乳母も、此春、うちつゞきてむなしくなりしを、寺に送り、同じ所に埋(うづ)みしに、今、こゝに、來り住む事の怪しさよ。」

といふ。

 源五も、奇特(きどく)の事に思ひ、部屋に行きて見れば、女も、乳母も、行がたなくなりて、跡も見えず。

 二人ながら云やう、

「さては。幽靈の來りけるにこそ。此上は互に日比(《ひ》ごろ)の恨みも、なし。」

とて、源五・彥八、打つれて寺にゆき、塚をほりて見れば、女も乳母も、形ち、少しも損ぜず、只、生たる時のごとし。

 やがて、もとの如くに埋みて、源五・彥八、共に高野山に籠り、道心おこして、二たび、山を出ず。

 

[やぶちゃん注:「櫻田源五」不詳。

「舅(おぢ)」伯父・叔父に同じ。

「津田」不詳。

「肘(かひな)のかゝり」裾からのぞく前腕と、手首の様子。

「不束(ふつゝか)ならず」いかにも嫋やかな美しい風情である。

「三條通」奈良市街を東西に貫通する通り。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「筒井某(つゝゐなにがし)」本書内の話柄は戦国時代が殆んどであるが、大和四家と言われる筒井氏、特に筒井順慶が知られるが、ここはその父筒井順昭(じゅんしょう 大永三(一五二三)年~天文一九(一五五〇)年)の同族の一人という設定である。

「河内の軍(いくさ)に打死す」「新日本古典文学大系」版脚注では、まず、天文一一(一五四二)年三月十七日に起こった「太平寺の戦い」(現在の大阪府柏原市太平寺周辺で行われた戦いで、凡そ十年の間、畿内で権勢を揮っていた木沢長政が三好長慶・遊佐長教らに討ち取られた)を指すかとされ、『畠山植長と組んだ順昭が、遊佐・三好連合軍とともに太平寺に木沢長政を討った』としつつも、『また同年九月にには河内飯盛城の戦いもあり、特定できない』とされる。

「乳母(おち)」乳母(うば)に同じ。

「紅葉がさねの」本来は襲(かさね)の色目(いろめ)の名。表は紅、裏は青。一説に、表は赤色、裏は濃い赤色。また、女房の五衣の襲の色目では、上には黄、次に山吹の濃淡、紅の濃淡、これに蘇芳の単(ひとえ)を着る。ここはそのように和紙を重ねて、紅葉のような雰囲気の色の濃淡を作った書信䇳を指す。

「薄(うす)えふ」「薄樣」「薄葉」で和紙の名。雁皮(がんぴ:バラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ガンピ属ガンピ Diplomorpha sikokiana 。奈良時代から製紙原料として用いられた)で薄く漉いた鳥の子紙。楮(こうぞ)でも作った。古く、和歌、文書等を書き写したり、物を包んだり、あるいは子供の髪を結ぶ元結ともした。

「いさり火のほのみてしより衣手に磯邊のなみのよせぬ日ぞなき」「なみ」に「波」と「涙」の「なみ」を掛ける。「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「題林愚抄」の「恋一」の「見恋」の経家卿(「六百番歌合」)の転用とする。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たることが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「12」コマ目の右頁の最初にある。異同なし。

「なかだち」仲人(なこうど)。

「世もよかりければ」「新日本古典文学大系」版脚注に『生活も裕福であったので』とある。

うけごひて、賴みをとりたり。

「つやつや」副詞で 否定辞を伴った場合は、「まるっきり・まったく~(ない)」の意。ここはそれを聞き入れないだけでなく、食事はおろか、「湯(ゆ)水」(みづ)をさえ拒んで絶食で「ノー!」の意を示したのである。

「源五が許にこそ、行かまほしけれ。其の彥八とかや、何せんに、只、死したるこそ、よからめ。」「妾(わらわ)は源五さまがもとにこそ行って、結ばれたい!……その彦八とかいうお人は……いったい、どこのどいつです?……こうなっては……いっそのこと、死んだ方がましだわ!」。

「郡山(こほり《やま》)」現在の奈良県大和郡山市

「跡の事」葬儀。

「所司代松永」「新日本古典文学大系」版脚注に、『筒井順慶と対立した松永久秀等を想定するか』とある。

「なかだち、たしか也」仲人に当たった者が証言して、事実と確認されたのであった。

「さりともと思ひしまでの命さへ今はたのみもなき身とぞなる」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「題林愚抄」の「恋二」の「契絶恋」の為定卿(「元亨三後宇多院十首」)の転用とする。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで後代の再板(寛政四(一七九二)板)であるが、原本に当たることが出来た。ここの「7」が「戀」の巻で、その全巻(PDF)だと、「30」コマ目の左頁の七行目にあるが、そこでは、

 さりともと思ひしまでの契にて今はたのみもなき身成けり

である。

「なびくかと見えしもしほの煙だに今はあとなき浦かぜふく」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、「題林愚抄」の「恋二」の「恨絶恋」の法印憲実(「続拾遺集」恋五)の転用とする。前注の指示した歌の後に続いて載り、異同はない。]

芥川龍之介書簡抄106 / 大正一〇(一九二一)年(一) 八通

 

大正一〇(一九二一)年一月六日・田端発信・小澤忠兵衞宛

 

拜啓 咋夜は御來駕を得た所留守にて何とも殘念に存じましたしかも正月になつてから元日の夜は除きあの日始めて外へ出たのです大阪每日へ怪しげな小說を書き出した爲又多忙になりました但しこれは一週間ばかりすると片づきますその上でゆつくり優游します僕この頃思ふに雅號に二種あり一は支那直輸一は日本特製でありますつまり漱石は前者最仲は後者なのですなそこで僕も日本雅號を一つつけたいと思つていろいろ考へて見たのですがどうも好いのにあたりません光悅の子の空中、小堀遠州の宗中、なぞ中の字の號が好いと思つても最仲の向うを張る程のは一つも遭遇しないのです姓名判斷によると了中と云ふ號が好いさうですが何だか男藝者じみる爲ためらつてゐます序に見て貰つたら最仲はあなたに大へん好いさうです但しこの姓名判斷家は素人ださうですから餘り當てにはなりません日本及日本人の選句をなさる由僕は舊傾向故投句出來ません聊殘念な氣がしますそれから齋藤茂吉氏の「あらたま」一部差上げるつもりのがあります故御買ひ求めにならずに下さい可成好い歌があるやうです僕は歌も俳句もなまけてゐます唯この間人に金瓶梅を一部贈る時歌二首を添へてやりました御高覽に供します

   老らくの身を忘れむはこのふみに玉子の酒もけだし若かざらむ

   かにかくにこの長ふみを讀まゝくは霜月はつか藥喰ひの後

われわれの鬼趣帖に題して頂いた歌中ろくろ首の歌壓卷と存じます「ぬばたまの雨夜を化けて」の御歌にも敬禮したのですが「ぬばたまの」が「雨夜」にかかる例があるかどうか心配に思つてゐます近々御目にかかります 以上

     一月六日      我 鬼 拜

    最 仲 樣 まゐる

   二伸 別紙は前に書いて出さずにしまつた手紙です序に御らん下さい

 

拜 啓御手紙拜見しました今度も御歌は結構に存じます雅號の事最仲はモナカと讀む讀まないに不關だんだん好い氣がして來ました藻中、御尤好音悉最仲に及びません貌を御改めになるなら是非最仲になさい江戶百年の風流が上品にまとまるとあの號以外に出ない事になります雲田の惡口などはいくら云つてもかまひません遠慮なく申上げると僕の句なり歌なり或は又趣味全般はもつと露骨に批評して頂いた方が好いのですその批評が當つてゐたら僕はすぐ禮拜します當つてゐなかつたらもう一度押し返します古人は道の爲には師弟を問はないと云つたさうですが我々の間では風流が卽道ですから御互に遠慮のない方が道の爲になるだらうと思ひます僕は新到の雲水ですがそれでも說がある時は愚說でも僻說でも述べる氣でゐますまして久參の衲子たる先生は僕なぞの理窟に間違つてゐる所があつたらかまはずピシピシやつて下さい「山鴫」は全然出來そくなひました

 

[やぶちゃん注:「優游」(いういう(ゆうゆう))は「ゆったりとして心のままに楽しむこと。のどかでこせつかないこと」。

「僕は舊傾向故投句出來ません」小澤碧童は新傾向派の河東碧梧桐門下であり、龍之介はここでは自分は守旧派であるから、と言っているのである。但し、瀧井辺りからの感化から、龍之介は明白な新傾向や自由律さえも実は既に自作している。

『齋藤茂吉氏の「あらたま」』この一月に茂吉は第二歌集「あらたま」(春陽堂刊。作歌期間は大正二年から六年のもの)を刊行している。

「藥喰ひ」冬、滋養や保温のための薬と称して鹿・猪などの獣肉を食べることを江戸以前に言ったもの。殺生や差別観から、表向きは、獣肉は忌まれ、一般には食べなかったが、病人や好事家などはこういう口実を設けて、結構、食べていた。

「鬼趣帖」筑摩全集類聚版脚注に、『芥川と小穴の合作になる「鬼趣図」のこと。奉書に描かれ、大正九年十二月二十一日小沢宛に送られた。それに碧童が「鬼趣図をみてよめる狂歌」二首をつけた』として、その歌二首を引き、最後に括弧書きで『小穴隆一「鬼趣図」参照』とある。その参照元は私が既に『小穴隆一「二つの繪」(42) 「河郎之舍」(1) 鬼趣圖』で電子化注してある。そこに、

   *

   龍之介隆一兩先生合作

   鬼趣圖をみてよめる狂歌

 ろくろ首はいとしむすめと思ひしに縞のきものの男の子なりけり

 うばたまのやみ夜をはけてからかさの舌長々し足駄にもまた

   *

とあるのがそれである。「鬼趣圖」の画像も添えられてあるが、ぼんやりとしていて、見るに堪えるものではないので、期待せずにリンク先を見られたい。なお、小穴は後の『「鯨のお詣り」(38)「河郎之舍」(1)「鬼趣圖」』(こちらも私の電子化注)でも前掲書に加筆したものをものしている。

「衲子」「なふす(のうす)」或いは「なつす(なっす)」と読む。「衲衣(のうえ:本来は、修行僧が俗人の捨てた襤褸を拾って縫った袈裟を指し、古代インドでは、これを着ることを「十二頭陀 行」の一つとしたが、中国に至って、実態は華美となってしまい、本邦では綾・錦・金襴などを用いた荘厳された「七条の袈裟」を指すに堕落してしまった)を着けた者」の意で、特に禅僧を指す。

「山鴫」大正十年一月一日発行の『中央公論』初出。龍之介の偏愛するトルストイとツルゲーネフの邂逅を切り取ったもの。トルストイとツルゲーネフを愛すること、特に後者については、龍之介に劣らぬ自信が私にはあるが、この作品は、あまり成功しているとは言えない。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月六日・消印七日・田端発信(推定)・本鄕區東片町百三十四 小穴隆一樣・一月六日 芥川龍之介

 

拜啓

昨晩はわざわざ御光來下さつた所留守にて恐縮 昨日始めて外へ出たのにてそれまでは每日ゐたのにと思つたそれから歲旦の名畫難有う 仲丙先生からも歌や句を貰つた僕何時ぞやのお降りの句以來句も歌も作らず 大阪の新聞へ變な小說執筆中 あの南畫の本もまだ一册しか見ず畫は一枚仿雲林をやつて失敗した天神の古道具屋の鉢君が買つたですか 咋夜行つたらもうなかつた 人手に落ちたのだと少し口惜しい 僕も中の字のつく號がつけたくなつた爲いろいろ考へた

宗中(コレハ小堀遠州の號)

空中(本阿彌光悅の子の號)

などつけたいのは人がもうつけてゐる 旦中としようかと思つたが未定、中の字のつく號は惡くすると男藝者じみるのでむづかしい

昌中、玄中、童中、呆中、寂中、景中、素中、了中、

皆落第 昌中はどうかと思つたがこれ亦未定 田中と云ふのを考へたらタナカだつたので困つたいづれ年始𢌞り完結次第仲丙先生を訪ねます

    一月六日       未生子旦中

   一游亭主人梧右

 

[やぶちゃん注:「仲丙先生」小澤碧童の篆刻家としての号。

「お降りの句」既出既注

「變な小說」「奇怪な再會」。『大阪毎日新聞』夕刊に大正十年一月五日から同年二月二日まで、休載を挟んで十七回で連載した。ジャンルとしては「開化物」の怪談である。

「仿雲林をやつて失敗した」「仿」(はう(ほう))は動詞では「ならふ」で「模倣する」の意。「雲林」は元末の画家で「元末四大家」や「金陵九子」の一人に数えられた倪瓚(げいさん 一三〇一年~一三七四年)の号。グーグル画像検索「倪瓚」をリンクさせておく。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月九日・田端発信・香取秀眞宛(封筒に「東南離芥川龍之介」とある)

 

この間は御歌を難有うございました惡歌を御返し致します

  一杯の酒ものまねど夜語りのあとはうつべしわれをよばさね

 

[やぶちゃん注:「あとはうつべしわれをよばさね」よく判らぬが、「うつ」は囲碁か将棋を「打つ」か? 「さね」は万葉以来の連語で上代の尊敬の助動詞「す」の未然形に、相手の同意・返答などを期待する意を表わす終助詞「ね」で、敬意を込めて相手に「是非ともそうして欲しい」という気持ちを表わすそれであろう。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月十三日 大阪市東區空堀通二三三ノニ 玉林憲義樣

 

啓 今朝あなたの手紙を見ましたあなたの手紙は好い手紙です私は愉快に讀みました時に私の所へも知らない人が手紙をくれます書生に置いてくれと云ふ手紙もあります原稿を見てくれと云ふ手紙もあります色紙や短册を書けと云ふ手紙もあります私はさういふ手紙が來ると大抵顏をしかめますさうして斷りの返事を書きますあなたの手紙はそんな手紙ぢやないそれだけでも既に愉快ですその上あなたの手紙には我我三十前後の人間には失はれた純粹な感情があるやうですもう一度繰返すと私は愉快にあなたの手紙を讀む事が出來ましたしかしあなたを知らない私には何をあなたに注意して好いかわかりません唯私が誰にでも云ふ事を書けばあなたが何になるにしても勉强おしなさいと云ふだけです勉强おしなさい私も負けずに勉强します 以上

    一月十三日      芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:「玉林憲義(たまばやしのりよし 明治四〇(一九〇七)年~平成八(一九九六)年)は後のドイツ文学者。山口県生まれ。昭和五(一九三〇)年京都帝国大学文学部独逸文学科を卒業し、同大学院で修学、後に関西学院大学予科教授・文学部部長・キリスト教主義教育研究室長・院長事務取扱・理事・評議員などを歴任した。関西学院大学の独文学科設立の尽力者でもある。関西学院大学を定年退職後は兵庫医科大学教授に就任した(主文は当該ウィキに拠った)。但し、当時は未だ満十三歳であった。]

 

 

大正一〇(一九二一)年一月十九日・田端発信・中西秀男宛

 

この間はわかさぎを難有うあのわかさぎはお母さんが送つて下すつたのですか

   わかさぎを火に炙りつついまだ見ぬ人のなさけを嬉しみにけり

   久方の霞が浦にとりにけむこのわかさぎの味のよろしも

羊羹もかたねりでうまいですねあれも難有う

   大寒や羊羹殘る皿の底

これはあの羊羹を食ひ食ひ夜原稿を書いた時の實景です土浦のお宅を知らせてくれゝばそちらへも御禮狀を出します序の節御しらせなさい小說は出來ましたか今度君にあつたら淺草文庫の批評をします小生は今大阪每日に「奇怪な再會」と云ふ怪談を書いてゐます 以上

    一月十九日      我 鬼 拜

   中西秀男樣 まゐる

 

[やぶちゃん注:「中西秀男」既出既注

「淺草文庫」中西が嘗ていた東京高等工業(現在の東工大)の文芸部の機関誌。芥川龍之介は同雑誌の選者を引き受けていた。但し、中西は、この当時は早稲田大学高等師範部英語科に移籍しており、この年に卒業している。]

 

 

大正一〇(一九二一)年二月十二日・田端発信・本鄕區東片町百卅四 小穴隆一樣・十二日 市外田端四三五 芥川龍之介(葉書)

 

啓碧童大哥の都合さへよければ十六日に書く會をやらばやと思ふが如何僕校正が未にすまぬ 嫌で嫌で眞實へこたれた皆屎(クソ)の臭がする 且急用ありて大阪の社へも行かねばならん苦娑婆苦無限

 

[やぶちゃん注:「大哥」(たいか)は中国語で「兄・一番上の兄」の意。

「書く會」小澤碧童・小穴隆一・芥川龍之介の三人が集まっては、短歌・俳句・絵画などをものし合って遊んだ会合のこと。幾つものそれが現存している。

「急用ありて大阪の社へも行かねばならん」新全集宮坂年譜によれば、この七日後の二月十九日に『大阪毎日新聞社から下阪を命じる電報が届く』とあり、二十二日の夜、同新聞社の『接待を受け』たが、その席上で、同『新聞社から、海外視察員としての中国特派が提案され』、以前から中国に非常な興味を抱いていた龍之介は、『この提案を承諾し』、三『月中旬から三、四か月の予定で中国に特派されることが決まった』とある。されば、この一月の初旬頃には、内々に田端の龍之介に中国特派の慫慂が通知されていたものと考えられるのである。

 

 

大正一〇(一九二一)年二月・田端発信・小穴隆一宛

 

 武士あり。郞等四五人と鹿獵に出でし歸途或寺の說法をきき、突然剃髮す。郞等共驚き悲めどせんなし。水干袴の代りに袈裟法衣を著、金鼓(こんぐ)を胸にかけ、「阿彌陀佛よや、おおいおおい」と呼びながら、西の方へ步き行く。阿彌陀佛は衆生渴仰の聲に、答へ給ふべしと聞きし故なり。西に大海あり。海邊に二股の枯木あり。その上に登り、海を望んで「阿彌陀佛よや、おおい、おおい」と言ふ。七日にして餓ゑて死す。そのほとりに住む僧一人、尋ね行きて見れば、枯木梢上の屍骸、口中より一朶の蓮華を生ぜしを見る。往生せしを知る。隨喜極りなし。[やぶちゃん注:ここまで底本では全体が一字下げ。]

この物語より畫二枚作られたし。二十六日までに國粹へ送られたし。屍骸は枯木より下さざりしなり。よろしく願ひ奉る。僕は向うより原稿を送るべし。二十六日までは好いと言ふ故、無理に書く事と仕つたのなり。

 

[やぶちゃん注:ここに描かれたシノプシスは芥川龍之介の「往生繪卷」(リンク先は「青空文庫」の同作)のそれである。同作はこの年の四月に雑誌『國粹』に発表された。その挿絵を小穴に依頼するものである(描いたか、採用されたいかは、孰れも不明)。「向う」は大阪。但し、実際の脱稿は大阪から帰京(二月二十四日夕刻)した、三日後の二月二十七日であった。評価は全体に低いが、私は好きな一篇である。なお、本作はシナリオ式のベーゼ・ドラマで、典拠は「今昔物語集」巻第十九の「讚岐國多度郡五位聞法卽出家語第十四」(讃岐國多度郡(たどのこほり)の五位、法を聞きて、卽ち、出家せる語(こと)第十四)である。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。

「金鼓(こんぐ)」「こんく」とも読む。仏家の楽器の一つ。銅製で、平たい円形で中空。仏堂で架に取り付けて打ち鳴らしたり、僧侶が行脚の際、首にかける小型の鉦鼓(しょうこ)のことも指す。ここは後者。前者は鰐口(わにぐち)とも呼ぶ。]

 

 

大正一〇(一九二一)年二月二十日・田端発信・小穴隆一宛

 

Mikanbakari

 

  ぬばたまの夜風に冴えは返る頃を一游亭よ風ひくなゆめ

  打ち日さす都をさかる汽車の窓に圓中なんぢを思ふ男あり

一日おくれ今夜發足同行は宇野耕右衞門二人共下戶故[やぶちゃん注:※1。]や[やぶちゃん注:※2。]はなし[やぶちゃん注:※3。]ばかり

                夜來花庵主

  小穴隆一君

 

[やぶちゃん注:※1・※2・※3とした部分は、絵。底本の岩波旧全集の活字部を消去して前に掲げた。上から※1(猪口=酒)、※2(ビール瓶=ビール)、※3(蜜柑)である。

「宇野耕右衞門」宇野浩二の渾名。宇野の小説「耕右衞門の改名」(大正七(一九一八)年発表)に由来するもの。]

   *

 なお、これ以降の芥川龍之介の中国特派に関わる(直前の関連書簡も含む)書簡群は、既に、サイトで「芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈」として完全電子化注済みであるので、その分はここでは再度取り上げるつもりはない。

2021/07/23

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (8) 詐欺騙盜を取扱つた文學(晝夜用心記と世間用心記)

 

      詐欺騙盜を取扱つた文學(晝夜用心記と世間用心記)

 

 櫻陰、鎌倉、藤陰三比事が『探偵』の面白さを目的として書かれたといふよりも、むしろ教訓を目的として書かれたものであることは言ふ迄もないことであるが、それと同じくその時代に書かれた騙盜小說も、やはり、教訓小說の一種と見倣すべきである。私はこれから、三比事と同時代の騙盜小說として名高い『晝夜用心記』(寶永四年[やぶちゃん注:一七〇九年]刊行)と、『世間用心記』(寶永六年刊行、最初儻偶(てれん)用心記と言つた。)との二種に就て述へようと思ふが、『晝夜用心記』は、『櫻陰比事』の著者たる井原西鶴の弟子北條團水の著はす所であり、『世間用心記』は『鎌倉比事』の著者月尋堂の著はす所てあつて、團水も月尋堂ち、共に數多くの敎訓小說の作者である。例へば團水には、『武述張合大鑑』『日本新永代藏』などの述作があり、月尋堂には『今樣二十四孝』、『子孫大黑柱』などの述作があつて、これ等の小說は、いづれも『敎訓』を主として居るのである。[やぶちゃん注:「儻偶」は仲間内で上手く相手を騙す「手練手管」を弄する集団の意であろう。]

 すてに、書名となつて居る『用心』といふ言葉そのものからでも敎訓の意味は察し得られるが、兩書の序文を見ればなほ一層明かである。卽ち『晝夜用心記』には、湖西繁平《こにししげへい》といふ人が、[やぶちゃん注:以下、底本では引用は全体が一字下げ。]

『此晝夜用心記全部六册は、鳳城團粹居士醉中の戯れに書捨てられしを撮萃《とりあつ》めて一帙と成せり、大槪《おほよそ》世間に謀計子《かたり》といふ者、僞をたくみ辯舌もつて人を誑《たぶら》かし、金銀を掠め奪ひし方便《てだて》、古今の間語り傳へしを、三十六種に書きつらねたり。這裏《このうち》虛あり實あるべし、只民家用心の爲に記して、眞僞覺悟の種に編める者也』[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションで大正四(一九一五)年珍書会刊の活字本が読める。「序」はここ。]と序し、『世間用心記』には、定延といふ人が、

 『儻偶(てれん)とは頭のことか、それは天邊《てへん》ぞや、何のことぞ、答へて申しける、凡《およそ》こと葉は折からの童謠にて、ふしは替れど事の道理はちがはず、古き神の代も、慮《はか》りに計りゐましける、釋迦も方便に脇腹から生れ、孔子も斯く事なかれと敎へ、大和歌には二《ふた》おもてを、なら坂の兒手《このて》がしはにたとへ時雨にくらべし僞り名を、末《すゑ》の諺《ことわざ》にだますといへり、かたられしといへり、うつむけにしやるのといひ、一ぱいくはした、ちやかしたと申す、其名儀(めうぎ)の飜譯かぞへるに盡きずちかき此頃よろはちらてんといへば、てれんと中略し、いふも聞くも、てれんの心は通ひぬ、かならず大鼓のひゞきにあらず、また三味線《さみせん》かぶる鼠《ねづみ》にあらず、あたまの黑い儻偶子《たばかり/てれん》に用心し御座せとや。』[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで江戸中期の板行本が読め、ここからが序である。「飜譯」は原本を見ると(右頁一行目)、「飜釈」とあり、しかも読みが「おんしよく」と読める。当て訓で、私には腑に落ちる。まさに当て読みして、掟破りにいろいろと呼び方が変わってきたことを言っているのだから、激しく腑に落ちるのである。最後の「儻偶子《たばかり/てれん》」も原本の左右の読みを添えたものである。]

と序して居る。

 然し乍ら、こゝでいふ『敎訓』といふ言葉は必ずしも勸善懲惡の意義を有しては居ない。何となれば、詐欺を取り扱つた小說の大部分は、詐欺の方法そのものが興味の中心となつて居て、詐欺師は逮捕されもしなければまた罰せられもしないからである。この取扱ひ方は、現今の探偵小說にもその儘應用せられ、詐欺小說の讀者は、詐欺の方法が巧妙であればある程痛快を感じ、詐欺にかけられた方の人に同情するものはめつたに無いのである。だからうつかりすると、詐欺小說を讀んだものは、自分も同じやうな方法を實地に試みて見ようかここといふ惡心を起さぬとも限らず、敎訓小說が却つて『惡』を鼓醉[やぶちゃん注:ママ。「鼓吹」の誤り。]する役をつとめる場合がなきにしもあらずである。この點に於て詐欺を取扱つたこれ等の小說は、探偵小說として、より現代的であるといふことが出來るのである。たとへば、兩用心記の中の物語をその儘現代語に飜譯しても探偵小說として相當なものが出來、又、歐米の現代の騙盜小說の中には、兩用心記の物語の内容と頗る似て居るものがある。それ故、櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事が、探偵小說として頗る幼椎なものであるに反して、兩用心記は、探偵小說としては比較的優れた價値を持つて居るのである。

 

      兩用心記の比較

 

 櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事が、支那の棠陰比事の影響を受けて居ることは既に述べたところであるが、晝夜、世間兩用心記もまた、支那の騙盜小說、『杜編新書』、『騙術奇談』などと、その趣を同じうして居るのである。晝夜用心記には總計三十六の物語があり、世問用心記には總計三十の物語があつて、その書き方は大たいに於て似寄つたものであるが、取扱はれて居る材料には多少の差異がないでもない。一口に言ふと晝夜用心記の物語は、殆ど皆、金錢又は物品を詐取する話であるが、世間用心記には、金錢又は物品を詐取する話以外に、所謂手練手管を取り扱つた人情話が澤山あつて、中には殺人などを取り扱つた探偵小說まではひつて居るのである。

 文章の巧拙に至つては、私にはよくわからぬけれど、世間用心記が頗る凝つた筆の運び方をして居て、よく味つて見てはじめてその意味がわかるに反して、晝夜用心記の方はすらすらとした筆の運び方で、すぐその意味がわかる。今左に兩者の文章を比較するために短い物語を一つ宛引用して見ようと思ふ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一行下げ。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ではここから。]

 

        御祈禱申せば大吉院(晝夜用心記)

『本石町に唐津屋とて、虎の生膽、白象の鼻油《はなぶら》、蠟虎《らつこ》の毛貫袋《けぬきぶくろ》、天龍の涎《よだれ》、一切の珍物、阿蘭陀、東京《とんきん》、三韓の藥種、此店に無いものはどこにもなし。ある時若黨草履とり挾箱持《はさみばこもち》めしつれたる侍、此見世に腰かけて、朝鮮人參極上々を見たきよし、吟味のうへ、當年は殊の外り高直は合點にて此店にある程の高、髭折《ひげをれ》七十三兩[やぶちゃん注:二キロ七百三十五グラム。「髭折」は髭根を綺麗に除去したものを指すか。]、所々見合はする中、是よきに極まれば、皆召さるべし。代金は念のため一往旦那へ披露の上相渡すべし。則ち亭主の弟八之丞同道して、挾箱に入れさせ、屋敷へあゆみける其比目黑臺座町《だいざまち》の裏店《うらだな》に、大吉院とてかくれもなき祈禱者、うせ物、待人、相性、門出、今晴明《いませいめい》と大看板をかけて、萬《よろづ》見通しの大法印あり。此行者《ぎやうじや》へ八之丞をともなひ、法印に對面して、きのふ物がたりいたしたる氣違、只今めしつれ參りたり。約束のごとく先づ一七日御留置き、加持祈念賴み申したし。當座の御初尾《おはつを》として銀貳枚さしだしさて病人まゐれといへば、かの八之丞をつれて出るとき、興さめ顏になつて申すやう私事病氣の覺えなし、人參の代銀取りにまゐりたれば、御渡しなされよといふに、此侍すこしも驚く氣色なく、此四五日人參人參と、晝夜口はしり候といへば、法印つくづくうちながめ、此亂氣上性《じやうしやう》より起ると見えたり。氣違ひは力つよくものぞ。林學坊、不動坊、愛染坊と手をたゝけば、かけ出《で》のあら山伏四五人出て、右左よりすがり、すこしもはたらかせず、先づ護摩の壇をかざらせて、佛眼金輪五壇《ぶつげんこんりんごだん》の法、五大虛空藏八字《ごだいこくうざうはちじ》の法、金剛童子繫縛《こんがうどうじけばく》の法、たとへいかなる生靈死靈《いきりやう しりやう》、狐狸の障碍なりとも、急々に去れ去れと、鈴錫杖《れいしやくじやう》をおつとり、飛びあがり踊りあがり、既に祈禱はじまれば、侍は皆々御大儀《おたいぎ》賴み存ずと暇乞して歸りける。かくて二夜三日汗水になつて祈りけれども、さらにしるし無かりければ、法印をはじめ各《おのおの》退屈して、一休みこそ休みけれ。時に八之丞淚をはらはらとながし、まことの氣違よと、いづれもかたりにあらはれたり。此上は法印も同類の訴人仕るべしと、かけ出すを引きとゞめ、段々樣子を聞き屆け、かの藥種屋へうかゞひけるに、一昨日より弟歸らざるにより只今公儀へ罷出る所へ此仕合《しあひ》。法印は相盜《あひすり》のいひわけは立ちぬれどもその侍の行方《ゆくへ》たしかならざるを、わづかなる賄《まひなひ》にふけり、理不盡の仕方、數珠袈裟頭巾までを人參代に賣立て、唐津屋へ晦日ばらひ。』

 餘談ではあるが、昨年五月八日發行の‘The Detective Magazine’に R.  Ajayezといふ人が、『一時的發狂』と題して、全くこれと同じ趣向の探偵小說を發表して居る。ある美しい婦人が醫師をたづねて、私の良人はダイヤモンド商であるが、近頃大損したゝめに、少し氣が觸れて、ダイヤモンドのことばかり言つて居ますので、明日連れて來るからどうか診てやつて頂たいといふ。翌日その女は約東の時間よろ少し早く醫師をたづねて應接室に待つて居ると、一人の男がはひつて來て、御注文のダイヤモンドの頸飾を持つて來ましたといつて渡す。女はそれを受取つて代は主人が拂ふからといつて診察室へ行き、醫師に向つて良人をつれて來たから診てやつてくれといつて男を案内する。醫師は、大うくうなづいて男に向つて色々質問する――その問答の場面が頗る滑稽である。遂に二人が女の詐欺にかゝつたことを發見したときには女はもはや逃げた跡である。卽ち彼女は醫師の妻として頸飾を寶石商なるその男に註文し、醫師に向つては寶石商の妻だといつて、まんまと頸飾を詐取したのである。この物語の作者は、恐らく、二百年も前の日本の物語に同じ趣向のものがあるとは氣附かなかつたのであらう。いや、或は何かゝら傳へきいて飜案したのかも知れない。[やぶちゃん注:以下、前と同じく底本では全体が一字下げ。以下は早稲田大学図書館「古典総合データベース」の方の巻二にある。PDF14コマ目から。]

 

       身は祝ひがら宵待戎(世間用心記)

『世になき物は野郞の脇差に小づか、はかまきた坊主、名の立たぬ若後家、女はどれも同じ事を、かみきりと言へばこのもしがる、氣のまへな人心《いとごころ》、しがや辻のまるぎんちやくとて、終によめ入りもせで、一そくがみの細元《ほそもと》ゆひ、仕出しごかしの、つられ女、大豆板御用ならば、仰せつかはさるべし、こゝに天外町二丁目、八まんや矢右衞門後家、夫にはなれて跡しき大ぶんの身代、いかな。少しもくつろがせず、金銀は飴に似たり、細う長う延びる棚おろし、ことしは七𢌞忌、梅月佳春信士のため御代官所へ、御ことわりを申し、當所仕合橋《しあはせばし》、福德ばし、よひまつ橋、右三ヶ所のはし板、ふしの拔穴を見つくろひ、あやうきを取換へ申したきおもむき、是いく萬人枚の行來《ゆきき》も心やすく、よろこぶ功德、大きなる追善なり、しかし右の橋いづれも、八年このかたに、上より丈夫にかけ渡され、さのみ破損に及ぶまじ、同じくは、よの橋の大破を見立て、造作仕れとの上意。かへし申すもはゞかり乍ら、橋は勢至菩薩の御背中、ふみ行くあしのおそれ、覺えぬ人のつみとがや、夫存生のとき、あさゆふ此三つの橋を、見つくろひ、二まい目の板を兩むかひながら、取りかへける、此後家の兄、大佛師しうけい方へ、六まいの板を取りこみて、細工手ぎはを見せて仕合戎《えびす》、福德戎、宵待戎、と橋の名をよび付に取つて、しかも十月二十日に賣出しける時節の持ちこみよく、商人前後を爭ひ買ひもとめける、是れ名は祝ひがら、人は氣のまへに迷ふをつもつて、目出度い橋の名の、板きれにて、戎を作りて、賣出すために、七年忌までを取りこして、手れんのたねとなしぬ、後は六枚の橋えびすを、皆賣りしまひてあらぬ木の、えびすもそれなりけりに賣つて、とほる人檢《あらた》むるべきしるしもなく、知らぬが佛、正直のかうべに、いたゞく人によろこび來り、賣物はずゐぶん利をとれば、何よりの事。』

 これなどは、むしろ、人をだまして金を儲ける方法を敎へるやうなものである。その當時は勿論のことであるが、現今でも、これに似た方法を講じたならば、きつと成功すること請合である。

日本山海名産図会 第二巻 嬰萸蟲(ゑひつるのむし)

 

Ebiturumusi

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「鷹が峯嬰萸虫(たかがみねゑつるのむし)」。]

 

○嬰萸蟲(ゑひつるのむし) 木の一名「野葡萄(のぶとう)」

山城國鷹が峯に出る物、上品とす。蔓・葉・花(はな)・實(み)ともに、葡萄(ぶどう)に異なることなし。「詩經」、「六月薁(いく)を食らふ」とは、是れなり。春月、萠芽(め)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]を出して、三月、黄白(わうはく)の小花穗(せうかほ)をなす。七、八月、實を結ぶ。小にして、圓く、色、薄紫。其の莖、吹いて、氣(き)、出づ。汁は通草(あけひ)のごとし。蔓に、徃々(ところところ)、盈(ふく)れたる所ありて、眞菰(まこも)の根に似たり。其の中に、白き蟲あり。是れ、「小兒の疳を治(ぢ)する藥なり」とて、枝とも切りて、市に售(う)る。然(しか)るに、此の莖中(けいちう)に、薬とはすれども、尚、勝(まさ)れりとは云へり。南都に眞(しん)の葡萄、なし。此の實を採りて核(たね)を去り、煎熬(せんかう/いり[やぶちゃん注:右/左のルビ。])して膏(あぶら)のごとし。食用とす。又、葉の脊(せ)に、毛、あり。乾して、よく揉めば、艾綿(よもき)のごとし。是れにて、附贅(いぼ)を治(ぢ)す故に「イホおとし」の名あり。中華には酒に釀(かも)し、「葡萄の美酒 欝金香(うつきんこう)」と唐詩に見へたるは、是れなり。

[やぶちゃん注:以下、底本ではポイント落ち。]

 【和名(わみやう)「エヒツル」とは、久しく誤り來(きた)れり。「エヒツル」は葡萄のことにて、「蘡薁(ゑびつる)」、「イヌエヒ」、又、「ブトウ」といへり。されとも、古しへより混していひしなるへし。】

 

[やぶちゃん注:まず、標題とされている「嬰萸蟲(ゑひつるのむし)」であるが、これは「葡萄蔓蟲」とも書き、蜂に見紛う形態をした蛾の一種、

ブドウスカシバ(鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目スカシバガ上科スカシバガ科スカシバガ亜科 Nokona 属ブドウスカシバ Nokona regalis )の幼虫

である。体長三センチメートルほどで、白っぽく、頭部は赤茶色を呈する。複数のブドウ目ブドウ科ブドウ属 Vitis の茎の内部に潜り込んでいる。ウィキの「ブドウスカシバ」によれば、『ブドウ園では、本種はブドウの主要害虫のため、見つけ次第捕殺される。ブドウ以外に、ノブドウ、エビヅル、ヤマブドウにも寄生するため、これらが付近にある場合、被害は深刻化する(これらのほうが寄生されやすい)』。『幼虫の被害にあった新梢は紫赤褐色に変色し、先端部は萎えて枯れる。しかし、先端部以外は枯れず、副梢が盛んに出現する』。大抵は、『被害部分からは虫糞が見られるが、部分や季節によっては、紡錘形のこぶが見られる』。『果実には、斑点が現れ、観賞価値を著しく低下させる』。一方で、小鳥の餌や、『渓流釣りにおいて良い餌であり、イワナ、ヤマメ、アマゴ、ニジマスを釣る際によく用いられ』、「かまえび」とも呼ばれるとある。現在、ここに書かれているような民間薬としての使用はないようである。

 前後するが、成虫とライフ・サイクルも引用すると、『翅の開』長は三~三・五センチメートルで、『体は黒と橙黄色帯がある。体型はハチに似ているため、ハチと間違われやすい』。『年』一『回発生する。卵は』六『月頃に葉柄の基部に産まれ』、二『週間程で孵化する。幼虫は葉柄や新梢に侵入し』、二~三『回脱皮を繰り返しながら』、新しい梢や『幹の基部へと移動する。この移動は』八『月下旬あたりに行われる』。『基部へ移動して脱皮し、老齢幼虫になったのち、秋頃より越冬の準備に入る。幼虫は越冬場所の基部に紡錘形のこぶを作り、その中で翌年の初夏まで越冬する。越冬形態は幼虫・蛹である。初夏の』五~六『月頃、成虫が羽化する』。『体型や体色がハチに似ており、ベイツ型擬態』(ベイツ(Bates)擬態とも呼ぶ。自身は有毒でも不味くもないが、他の有毒であったり、不味いの種と形態・色彩・行動などを似せて捕食を免れる擬態を指し、発見者のイギリスの探検家ヘンリー・ウォルター・ベイツ(Henry Walter Bates 一八二五年~一八九二年)に因む。詳しくは「進化論講話 丘淺次郎 第十四章 生態學上の事實(5) 四 保護色(Ⅱ)」の「6」(まさにスカシバが挙がっている)の私の注を参照されたい。私は個人的にベイツ擬態とされる一部は言われるほどの有効性(天敵回避効果)を持たないものも結構多いように思うので、必ずしも総てを認めようと思わないが、この種の成体の形態と行動には確かにベイツ擬態を感ずる。少なくとも、熟知していない人間には蜂にしか見えないからである。グーグル画像検索「ブドウスカシバ」をリンクさせておく)『の一例だと考えられている。捕らえられると』、『体を曲げてハチが針を刺すような動作をするが、実際には毒針を持っていない』とある。

 次に作者が指示する本体の「ゑひつる」であるが、これは、

バラ亜綱クロウメモドキ目ブドウ科ブドウ属エビヅルVitis ficifolia var. lobata

である。当該ウィキによれば、本邦での漢字表記は「蝦蔓」「蘡薁」で、『雌雄異株。古名は』「山葡萄」とともに「葡萄葛(蔓)(エビカズラ)」(葡萄)と称した。但し、現在の『中国では「蘡薁」はVitis adstricta 』『という別の野生ブドウを指』おり、また、『学名にVitis ficifoliaを使われることが多い』(シノニムに Vitis thunbergii がある)ものの、『Vitis ficifoliaのタイプ標本は中国の桑葉葡萄につけられたもので、桑葉葡萄とエビヅルでは形態的な違いも大きい』とある。蔓『性の木本で』、『他の木本などに巻きひげによって』巻きついて這い上る。『巻きひげは茎に対して葉と対生するが』、三『節目ごとに消失していく。葉には葉柄があり、形は扁卵形で長さ』五~八センチメートルで、三つから五つに浅く或いは深く裂け、『葉裏にはクモ毛がある』。『花期は』六~八『月で、花序は総状円錐花穂で長さ』六~十二センチメートルに『なる。雄花、雌花ともに黄緑色。秋には直径』五~六ミリメートルの『果実がブドウの房状に黒く熟し、食すると』、『甘酸っぱい味がする。しかし、果汁にエビヅル臭という青臭いにおいを有するため、果実品質の評価は一般に低い』とある。『北海道西南部、本州、四国、九州、朝鮮に分布し、山地や丘陵地に』普通に見られる、とする。

 但し、ブドウスカシバは限定的に産卵時にエビヅルを選ぶわけではないので、当時の「嬰萸蟲」を求めた人々が必ずエビヅルを選んで採取していたということは考え難いから、本邦産の真正の「ブドウ」である、

ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae (ヴィティス・コワネティアエ。古名を「えびかづら」(葡萄葛;「えび」を「ゑび」と書くのは歴史的仮名遣の誤りである)と言い、日本の伝統色で山葡萄の果実のような赤紫色を葡萄色(えびいろ)と呼ぶのは本種に由来する)

や、

ブドウ目ブドウ科 Vitoideae 亜科ノブドウ属ノブドウ変種ノブドウ Ampelopsis glandulosa var. heterophylla

も示しておく必要があろう。というより、標題は「嬰萸蟲(ゑひつるのむし)」としながら、本文冒頭は明らかに実を食用とすることが記されているのであってみれば、作者は執拗ねく最後に否定しているが、エビヅルよりも、寧ろ、ヤマブドウ Vitis coignetiae をこそ採取し食に供するに足ると考える。

「山城國鷹が峯」京都市北区の鷹峯街道を中心に広がる地域、及び、その西南方に連なる丘陵の名称でもあり、旧愛宕(おたぎ)郡鷹峯村(たかがみねむら)の村名でもある。この広域(グーグル・マップ・データ航空写真)。

『「詩經」、「六月薁(いく)を食らふ」』「詩経」の「国風」の「豳風」(ひんぷう)の冒頭の「七月」の一節。この「七月」は「詩経」の「風」の中で最も長い詩である。yang氏のサイト「言葉と格闘する日々」のこちらに、『農事歴の歌であり、兄武王の死後、幼い甥成王の後見人となった周公が、新しい国家の出発にあたり、その遠祖たちが、まだ陝西奥地・豳の地方で農事に励んでいたころの生活を、民族の記憶とすべく、甥の成王に歌い聞かせるべく、歌ったものとされる』とある。「六月食鬱及薁」で「六月は鬱(うつ)と薁(おう)とを食らひ」。先のリンク先には訳文が載るが、私がネットをつなげて以来、最も信頼している植物サイトの一つである田英誠氏編の「跡見群芳譜」こちらに原文と訓読文が載る。そこで嶋田氏は「薁」をエビヅルに、「鬱」をバラ目バラ科スモモ属ニワウメ亜属ニワウメ Prunus japonica に比定されておられる。当該ウィキによれば、『中国語では郁李』で、『中国華北、華中、華南などの山地に自生し、日本へは江戸時代に渡来し』ており、『観賞用のために広く栽培されている』。『実は甘い香りがし』一・四センチメートル『ほどの大きさになり、パイやジャムなどに利用されることもあるが』、『味は』『酸味が強い』とある。

「通草(あけひ)」木通。キンポウゲ目アケビ科 Lardizabaloideae 亜科 Lardizabaleae 連 アケビ属アケビ Akebia quinata

「葡萄の美酒 欝金香(うつきんこう)」知られた李白の次の一篇。

   *

 客中行

蘭陵美酒鬱金香

玉碗盛來琥珀光

但使主人能醉客

不知何處是他鄕

  客中行

 蘭陵の美酒 鬱金香(うつこんかう)

 玉碗 盛り來たる 琥珀の光

 但だ 主人をして 能く客を醉はしめば

 知らず 何(いづ)れの處か 是れ 他鄕なるを

   *

どうも、この条、叙述している対象がころころ変わっていて、非常に困る。ここは、また、もとのエビヅルの実に戻って、その実で作った葡萄酒の話になっている。しかも、「鬱金香」を酒の銘柄のように扱っている。実際には、葡萄酒に単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属ウコン Curcuma longa の根茎を漬けて色と香りづけを施したものであろう。それならまだしも、呆けた連中はうっかり「嬰萸蟲」を漬けこんだ酒などと誤読しそうだ。]

芥川龍之介書簡抄105 / 大正九(一九二〇)年(十) 五通

 

大正九(一九二〇)年十二月三日・消印四日・田端発信・本柳區東片町百三十四 小穴隆一樣・十二月三日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

この間辛氣くささのあまり碧童先生を訪ねいろいろ聞いて貰ひましたおかげで家へかへつたら小說を書く氣分になれましたこの頃人に四王吳惲の画集を借りました南田が一番好いやうです今度おめにかけます

碧童先生の所で見た君の歌皆よろしあの中僕が頂戴した二首で云へば後の歌の方より好きなり今度大阪にて矢野橋村と云ふ南畫家の御馳走になる健筆家です六月から今日までに屛風六枚折二双二枚曲二双尺八位な絹本双幅十便十宜の小幅幷せて二十一枚その外長卷も一つ書いてゐます但し畫品は君に比べると段違ひに下等です

   ぬばたまの夜さりくればその空にいまあかあかと彥星たるる

註に曰これでも戀歌です 頓首

    十二月三日      我   鬼

   倪隆一先生 侍史

  二伸 大阪堀江の妓僕に曰

  Hanjimono

  と云ふのがよめますか僕曰よめない妓曰敎へて上げまほか僕日敎へてくれ妓曰

  油ハタカシ夜ハナガシコマル=マル大コマル

  さうだつしやろ僕曰なある程 以上

 

[やぶちゃん注:「二伸」にある「判じ絵」は、底本の岩波旧全集をトリミングし、印刷された「油」の字を消して、新たに私が活字を挿入して合成した。

「辛氣くささ」「辛氣臭さ」。思うようにならないず、じれったい感じがすること。気がくさくさして滅入ってしまう状態。翌月の新年号(実際の発表作は九編)の執筆に追われていた。

「四王吳惲」(しだいごうん)は中国の南宗画系の呉派の正系を受継ぐ明末清初の王時敏・王鑑・王翬(おうき)・王原祁(おうげんき)と呉歴・惲寿平(うんじゅへい)の六人の画家のこと。「清初の六大家」ともいう。当時の画壇の指導的役割を果すとともに、清代の山水画・文人画の発展の基礎を築き、四王の立論や完整な画風は清代宮廷絵画様式の基礎となった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「南田」(なんでん)は前注に出た惲寿平の号。本邦では号の方がよく知られる。清初の文人画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年)。初名が格、字(あざな)を寿平であったが、後、寿平を通常の名とし、常州(江蘇省武進県)出身で、もとは名家の出であったが、彼の生まれた明末には貧窮し、在野の画家として一生を過ごし、清貧のうちに五十六歳で没した。詩文とともに書もよくした。王翬と親交を結び、王翬の山水に優れているのをみて、山水画を断念して花鳥画に専心したとも伝える。着色没骨(もっこつ:筆線でくくった輪郭を用いずに、モチーフの形態を直接に描く技法)の写生画風を以ってそれまでの花鳥画に新生面を開き、以後の清朝花鳥画の一典型となった(小学館「日本大百科全書」)。

「矢野橋村」前回の最初の書簡で既注。グーグル画像検索「矢野橋村」をリンクさせておく。

「屛風六枚折二双二枚曲二双」屏風の呼び名の違いは、正しくは「曲」が屏風を折り畳んだ面の数を指し、「隻(せき)」は面がが繋がったものを、「双(そう)」は面が連なった隻が、二つで一組になったものを呼ぶ。よく判らぬが、龍之介の謂いは「屛風六枚折」が「二双」(この様式はかなり稀なものらしい)、「二枚曲」が「二双」の意か。

「尺八」筑摩全集類聚版脚注に、『紙・絹などの幅が一尺八寸』(五十四・五センチメートル)『のもの』とある。

「十便十宜」(じふべんじふぎ)は、元来は清の劇作家李漁(李笠翁)が、別荘伊園での生活を詠った詩「十便十二宜詩」の内の十便十宜(二つの宜の詩は見つかっていない)のことで、この詩は、草蘆を山麓に結んで、門をとじて閑居したところ、客の訪問を受け、静は静であろうが、不便なことが多いであろうと評されたのに対し、「便」(便利なこと)と「宜」(よいこと)の詩を作って答えたというものである。この故事に基づいて明和八(一七七一)年に南画家池大雅が「十便帖」、俳人で絵もよくした与謝蕪村が「十宜帖」を描いて合作した画帖「十便十宜帖」が専らよく知られる(特にその中の大雅の「釣便」が著名)。但し、ここは元の故事に基づく画題を指している。

「二十一枚」オリジナルに一枚を加えているものか。

「長卷」「ちやうかん」と読むか。絵巻物。日本水墨画中の傑作として有名な雪舟の描いた山水画「山水長巻」は「さんすいちょうかん」と読む。]

 

 

大正九(一九二〇)年十二月六日・田端発信・小澤忠兵衞宛

 

合掌 御手紙難有く頂きました相不變每日原稿に惱まされてゐます 昨日も折柴改造の社長と同道にて參り何でも六日中に脫稿を賴むとの事にて今日は嫌々ながらずつとペンを握りつづけですその後私雲田と云ふ號をつけると申した所、大分諸君子にひやかされました雲田の號がそんなに惡いでせうか 小穴先生に聞けば蜆川あたりはの御歌畫䇳紙に御書きになつたのがある由頂戴出來るなら頂戴したく思ひますそれから河郞舍の印も頂戴しないとつぶされてしまふ由欲張つてゐるやうですが頂かせて下さいこれも小穴先生の入知惠です何しろ原稿の催促ばかりされてゐる爲一向歌も句も出來ません仕事をしまつたら一日ゆつくり風流三昧にはひつて見たいと思つてゐます風流三昧と云へば小穴先生に素ばらしい鷄の畫を貰ひました意淡にして神古るとでも云ひたさうな畫ですあゝなると河童ではとても追ひつきませんこの頃でも時々氣が滅入つて弱ります

     僅に一首

   苦しくもふり來る雨か紅がらの格子のかげに人の音すも

その内又參上愚痴を聞いて頂きます 頓首

    十二月六日      龍 之 介

 

[やぶちゃん注:「折柴改造の社長と同道にて參り何でも六日中に脫稿を賴むとの事」『改造』の大正十年新年号に発表された「秋山圖」。新全集宮坂年譜によれば、前日(十二月五日日曜日)に来たのは、編集者瀧井と社長の山本実彦で、翌日までの脱稿が求められている。流石に社長直々の懇請に、確かに六日に龍之介は改造社に原稿を送ってはいるが、『(途中まで)』とあり、同日中に、それの『改稿を』書簡で『瀧井孝作に送る』という複雑なことをしている。これは、やはり執筆に難渋している龍之介の脱稿引き延ばしの戦略のようである。実際の「秋山圖」の脱稿は十二月九日頃であったらしい。採用していないが、その瀧井宛の「二伸」に『今日は一枚なり あと少しかきたれど持つてかれると續けるのに困る故止める事にした』とあり、最後に『約束の日限なれど もう眠くて書けぬ。山本社長には平あやまりあやまる故、明日夜まで待つてくれ給へ。中途え切るのは困る。よろしくたのみ入り奉り候』とある。龍之介の原稿小出し作戦の様子が見て取れる。さらに、先の書簡で、どうも他者へ移籍したい希望があった瀧井に対して、「改造の口もそんなに難有くないものではない」などと助言しているのは、実は「おためごかし」で、『改造』に瀧井がいれば、原稿脱稿の遅れなどで融通が利く「渡りに舟」の存在だったからなのではないか? と勘繰りたくなった。

 

 

大正九(一九二〇)年十二月十日・田端発信・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・十二月十日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

啓 驚いた事には咋日が九日だつたさうだ 僕は今日が九日だとばかり思つてゐた その爲折角君の所へ行かうとしたのは駄目になつた 今度は原稿の片づき次第にする 十二日の日曜は執筆多忙の爲面會謝絕だ まだ改造と赤い鳥の續稿を書いたばかりだ 中央公論の山鴫は未に出來ん

   春日さす樺の木の芽の事を繁みわが山鴫は立ちがてぬかも

と云ふのは歌になりませんか

今樗陰先生來り三汀が行方不明で困ると云つてゐた 以上

    十二月十日      雲 田 生

   大 芸 先 生

 

[やぶちゃん注:「赤い鳥の續稿」「アグニの神」。これは新年号と二月号に分割されている。原稿二十枚半だが、恐らくは『赤い鳥』側は一回完結にしたかったのではないかと私には思われる。ただ、この小説、文体こそ子ども向けになっているものの、私は『赤い鳥』に載せるには、ややグロテスク過ぎる気がする。展開も如何にも人工的で、私はおどろおどろしさは評価しても、作品としてはそれほど認めていない。

「山鴫」は間に合った(脱稿日不明)。

「三汀」久米正雄の俳号。]

 

 

大正九(一九二〇)年十二月二十八日・上野投函・小潭忠兵衞宛(葉書二枚、小穴隆一と寄書)

 

Koinutakematu

 

   水鳥の一羽はかなし松にゐて羽根切るは見ゆ音は聞えず  我鬼卽景

   大年や藥も賣らぬ隱君子

[やぶちゃん注:ここに底本の岩波旧全集には『〔我鬼醉墨。德利の繪あり〕』とある。]

     歲末青蓋翁へ御歲暮一句

   鳥瓜届けずじまひ師走かな

     小穴先生の驥尾に附するの句

   お降りや竹ふかぶかと町の空

[やぶちゃん注:ここに底本の岩波旧全集には『〔小穴隆一筆、門松の傍に子供に似たる犬の繪あり〕』とある。]

淸凌亭の御稻さんの御酌にて小穴先生と飮み居候 我鬼拜

 

[やぶちゃん注:掲げた画像は「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)に載る本書簡の後半部分の画像をトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。それを視認して、底本の岩波旧全集の表示字体や配置をそこだけ一部、変えておいた。同引用書の解説には、『子犬を描いたのは小穴、松』(下方のそれ。門松らしいが、松に見えぬ)『と竹を書き添えたのは龍之介。大事にしていた矢立を初めて表に持ち出した記念に、龍之介は葉書の表の、自分の名の上に、小さくその絵を描いている。なお、青蓋翁とは碧童のこと』とある。

「羽根切る」筑摩全集類聚版脚注に、『羽ばたきする』とある。

「大年」「おほとし」或いは「おほどし」。大晦日。

「驥尾に附する」「驥尾(きび)に附(ふ)す」は、青蠅が名馬の尾につかまって一日で千里の遠方に行ったという「史記」の「伯夷傳」の故事から、「優れた人に従って行けば、何とはなしに物事を遂げられるの意で、先達(せんだつ)を見習って行動することを遜った気持ちで言う語句である。

「お降り」「御降り」は「おさがり」と読み、季語で、元日、又は、三が日の雪、又は、雨を指す。この句は芥川龍之介の自身作で、旧全集の正規の「發句」にも、

 お降(さが)りや竹深ぶかと町のそら

の表記で載り(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」を参照)、「點心 芥川龍之介 《初出復元版》 附やぶちゃん注」でも冒頭に配されて、長い随想の後に置かれてある。

「淸凌亭」上野不忍の池の池之端にあった日本料理屋。この中央附近にあった(グーグル・マップ・データ)。

「御稻さん」後の作家佐多稲子(明治三七(一九〇四)年~平成一〇(一九九八)年)。当時、この料理屋で一年ほど仲居をしていた。未だ満十六歳であった。一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、この年の五月頃、『上野の清凌亭で仲居をしていた佐多』(当時は田島姓)『稲子を知り、友人としばしば通』ったとあり、コラム『文学女中――佐多稲子』に『佐多稲子』『の前半生は数奇に富んでいる。中学生の父と女学生の母の間に生まれ、その母は七歳の時に死に、生活困窮のため小学校を五年でやめたあと、キャラメルエ場・中華そば屋などを転々とする。一六歳の大正九年には上野池之端の料亭清凌亭の座敷女中として一年ほど奉公する。稲子の月収は七〇円ぐらいだった(ちなみに帝大出の芥川の初任給は六〇円)。その時に芥川の顔を知っていたところからその係となる』とあり、昭和五八(一九八三)年中央公論社刊の「年譜の行間」か引用されてある。『「芥川さんをはじめて清凌亭に連れていらしたのは小島政二郎さんのようですが、(略)あたしが『あれは芥川龍之介という小説家だわ』とその係の人に言ったら、その女中さんが芥川さんに『先生を存じあげてる者がおりました』と伝えたのね、それを芥川さんが、こういうところで自分の顔を知ってる女中がいるというのは面白いとお思いになったの。(略)文学少女がいるというので、菊池さんも久米さんも芥川さんも、きっと面白かったのでしょう、よく来てくだすった。(略)『僕の掌は鶏のようだ』と芥川さんが自分の掌をひろげながらおっしゃったとき、あらほんとだわって思ったし、また、ひとりの芸者の身ごなしがどうもちがうと思ったら、やはり父親がお茶の宗匠だそうだ、なんて言われたのを聞いたときは、やはり作家というのは人を見てるのだなあと思いました。(略)江口渙さんの書かれたものに、清凌亭時代のあたしが芥川さんに本をもらったということがありますが、その事実はありません」』。以下、鷺氏の文。『のち、稲子は自殺直前の芥川と再会し、彼女の自殺末遂の経験について質問され』ていることは、かなり知られている。]

 

 

大正九(一九二〇)年(年次推定・月不詳)十八日・田端発信(手渡し)・香取先生 侍史・十八日夜 龍之介

 

啓吉井勇の歌御めにかけます内鐙で吉井にさゝげる歌を作りましたから是亦御らんに入れる事にしました 天岡氏の宿所書序を以て使の者に御渡し下されば幸甚です 頓首

               我 鬼 生

   香 取 先 生

   ひさかたの天主の堂に糞長くまりはまるとも歌なよみそね

   長崎の南京でらの瘦せ女餓鬼まぎはまぐとも歌なよみそね

   黑船の黑き奴の瘡の膿なめばなむとも歌なよみそね

 

[やぶちゃん注:「香取先生」芥川家の隣りに住んでいた著名な鋳金工芸作家で歌人でもあった香取秀真(ほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)。学問としての金工史を確立し、研究者としても知られ、美術の工芸家として初の文化勲章を受章している。東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授。

「天岡氏」天岡均一(あまおかきんいち 明治八(一八七五)年~大正一三(一九二四)年)は彫刻家。兵庫県出身。東京美術学校卒。高村光雲らに学び、明治三六(一九〇三)年の第五回内国勧業博覧会で「漆灰製豊公乗馬像」が三等賞となった。大阪難波橋の「ライオン像」の作者としても知られる。彼であることは、芥川龍之介の「小杉未醒氏」(大正一〇(一九二一)年三月発行の『中央美術』に「小杉未醒論」の一編として「外貌と肚の底」の表題で掲載。後に改題して大正十五年の作品集「梅・馬・鶯」に収録)で確定。同作は「青空文庫」のこちらで見られたい。

「宿所書」「やどところがき」。住所。]

2021/07/22

芥川龍之介書簡抄104 / 大正九(一九二〇)年(九) 四通

 

大正九(一九二〇)十一月十六日・田端発信(推定)・空谷先生 侍史・十一月十六日夕 三拙生拜

 

伊豆ゆ來し蜜柑十あまり盆に盛りこれ食(ヲ)しませとわがたてまつる

井月のほ句寫し倦む折々はこれ食(ヲ)しませとわがたてまつる

 十一月十六日        我 鬼 拜

空 谷 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:新全集の宮坂覺年譜によれば、この日のまさに『夕方、久米正雄、菊池寛、直樹三十五、佐々木茂索、宇野浩二』、矢野橋村(きょうそん 明治二三(一八九〇)年~昭和四〇(一九六五)年:日本画家。愛媛県越智郡(現在の今治市)出身。本名一智。この翌年の大正十年には他の画家らとともに日本南画院を設立、大正十三年には、当時の大阪に美術学校がなかったことから、三十三の若さで大阪市天王寺区に私立大阪美術学校を設立して校長に就任し、自ら教鞭を取り、全国から南画家が結集、発表・研究の場をとなった。南画は南宗画(なんしゅうが)とも言い、元の四大家(黄公望・倪瓚(げいさん)・呉鎮・王蒙)によって大成された絵画様式。柔らかい筆致を重ねた淡彩の山水画を特色とする。日本では江戸中期に盛んとなり、池大雅・与謝蕪村らによって日本独自のものが確立され、のちに文人画と同義に用いられるようになった。なお、この彼が参加していたことは「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の本書簡(恐らくは葉書)の画像の解説で判明した。次の寄書にも登場する)、『らとともに、主潮社(日本画家の団体)主催の公開講座講演のため、大阪に向けて出発』とあるから、その出しなに投函したものと推測する。その前に、誰かに託して伊豆から送られてきた蜜柑を下島勳(空谷)の元へ届けたのであろう。]

 

大正九(一九二〇)年十一月十七日・大阪発信・岡榮一郞宛(葉書・寄せ書き)

 

Oosakagoninnotoko

 

   我鬼君の像

    宇野浩二筆       宗

        私はかり、

 上方は     色男かも橋村

  まがい真珠の    自画像

   菊池カン 純■      我鬼

 

       大阪表にて   五人の男

 

[やぶちゃん注:「宋」は丸印内(これは直木三十五の本名植村宗一の「宗」である。この右下のそれは植村(直木)の自画像か?)。大阪の彼らは前記注の通り。橋村は画家だから絵は避けて、言葉だけを載せたものか。同寄せ書きを画像で載せる本は幾つかあるのだが、殆んどが文字の完全な判読が出来ないほど状態がよくない。一番よく判読出来るのは、意外なことに(失礼)筑摩全集類聚版だったので、ここでは、それをトリミングして示した。宇野浩二・直木三十五・矢野橋村・田中純の作品は全員総てがパブリック・ドメインである。「純」の下に文字様のものが見えるが、判読出来ない。「も」或いは「也」か? 或いはただの「純」の字の余勢かも知れない。「大阪表にて」「五人の男」というのは表書きにあるようであるが、最後に配しておいた。

「私はかり」「私ばかり」の意か。

「まがい真珠」この年の六月九日から後の十二月二十二日まで、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞」に連載された菊池寛の長編小説「真珠夫人」は大ヒットとなっていたのを皮肉ったものである。ともかくも専従作家となった菊池を流行作家に押し上げた作品であった。シノプシスは当該ウィキを読まれたい。私は読んでいないし、向後、死ぬまで読むことはない。]

 

 

大正九(一九二〇)年十一月二十四日・諏訪発信・東京市牛込區天神町十三 佐々木茂索樣(絵葉書)

 

白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ來し

 二十四日              龍

二伸 但し宇野、僕二人この地にゐる事公表しないでくれ給ヘ

 

[やぶちゃん注:「白玉」大切に思う人・大事なわが子などに喩えて言う語。

「ゆめ子」宇野の愛人であった鮎子(芸妓名。本名は原とみ)。宇野浩二の「諏訪物」と呼ばれる複数の作品に出る芸妓「ゆめ子」は彼女をモデルとしている。なお、彼女は宇野浩二の入れ込んだ女性であるが、現在の研究では、彼女とは肉体関係はなく、プラトニックな支えであったと考えられているようである。大阪の講演の後、龍之介は盟友宇野浩二とともに、京都に遊び、さらに宇野に誘われて木曾・諏訪方面に出かけ、二十三日昼過ぎに諏訪に到着して、この鮎子(ゆめ子)と会っているのである。宇野浩二の「芥川龍之介 上巻」(リンク先は私の注附きのサイト版)の「三」に、この時の芥川龍之介のかなり際どい彼女へのモーション行動などが赤裸々に語られてある。さすれば、この佐々木への禁止は、実は、芥川家の者へ伝えるなということではなかったか? そこに龍之介の「ゆめ子」への非常にアブナい執心が隠れていると読めるのである。次の書簡も――これ――必読である。

 

 

大正九(一九二〇)年十一月二十八日・田端発信(推定)・原とみ宛

 

拜啓

先日中はいろいろ御世話になりありがたく御礼申上げます 今夕宇野と無事歸京しました 他事ながら御安心下さい

あなたの御世話になつた三日間は今度の旅行中最も愉快な三日間です これは御せいじぢやありません實際あなたのやうな利巧な人は今の世の中にはまれなのです 正直に白狀すると私は少し惚れました もつと正直に白狀すると余程惚れたかもしれません但し氣まりが惡いから宇野には少し惚れたと云つて置きました それでも顏が赤くなつた位ですから可笑しかつたら澤山笑つて下さい

その内にもつとゆつくり十日でも一月でも龜屋ホテルの三階にころがつてゐたい氣がします ああなたは唯側にゐて御茶の面倒さへ見て下さればよろしい いけませんか どうもいけなさそうな氣がするため、汽車へ乘つてからも時々ふさぎました これも可笑しかつたら御遠慮なく御笑ひ下さい

こんなことを書いてゐると切がありませんから この位で筆を置きます さやうなら

   十一月廿八日    芥 川 龍 之 介

  鮎 子 樣 粧次

 二伸 いろは單歌「ほ」の字は「骨折り損のくたびれ儲け」です 今日汽車の中で思ひつきました

            龍 之 介 拜

 

[やぶちゃん注:何をか言わんや――ともかく目を疑う人は、宇野浩二の「芥川龍之介 上巻」(リンク先は私の注附きのサイト版)の「三」を総て読まれるがいい。そこには前の書簡も、この書簡も引かれてあり、さらに、もっとおぞましいことが書かれてあるから――何が「おぞましい」かって?――この原とみに送った手紙の言葉遣や言い回し……どこかで見たことはないかね?……そうさ!……結婚前の塚本文に送ったラヴ・レターのそれと――これ――全く同じ口調ではないかね!?!…………

芥川龍之介書簡抄103 / 大正九(一九二〇)年(八) 五通(知られた河童図書簡を含む)

 

大正九(一九二〇)年十月二十一日・田端発信・本鄕區東片町百三十六 小穴隆一樣・十月二十一日 市外田端四三五 芥川龍之介(速達印有り)

 

Kappazu2

 

           田端之河童

 

     二十二日ハ出ラレマセン

     ドウカオユルシヲネガヒマス

     二十五日スギナラ

     又御一シヨニ

     屁子玉ヲトリニマイリマセウ

     ドウカ入谷ノ兄貴ニヨロシク

 

 

 ヘン

 イクヂノナイヤラウダナ

 

本鄕之河童

 

[やぶちゃん注:太字は御覧の通り、書簡原本では囲み字であるのを代えたもので、台詞は吹き出しの中にある。台詞内容を考えて改行して示した。画像は今までと同じく、「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)にあるものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。

「屁子玉」河童の「尻子玉(しりこだま)」はよく知られている。「しりごだま」とも呼び、肛門の所にあると想像された玉で、河童が好んで引き抜くとされた。思うに、これは水死人の腐敗膨張が進み、肛門が開いて、直腸が露出したのを、見間違えたものと私は思っている。ただ、「屁子玉」(へのこだま)はついぞ知らない。筑摩全集類聚版脚注では、『あるいはこれ』(尻子玉)『に「へのこ」(きんたま)をつきまぜて、きんたまの意を含ませたか』という卓抜な注を附してある。座布団二枚!

「入谷の兄貴」小澤碧童。既出既注。

「二十二日ハ出ラレマセン」「入谷ノ兄貴ニヨロシク」と言っているところからは、この日に句会を設けて、小穴が龍之介を誘ったものか。実は、難産で延び延びにしていた「お律と子等」を漸くこの十月二十三日に分割した後半を脱稿しているので(但し、未完)、この頃には尻に火がついて可能性が高い。

「二十五日」年譜では、この日の記載はない。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月二十四日・田端発信・小澤忠兵衞宛(葉書)

 

肅啓傘の御歌格段に結構と存じますあれは何度讀んでもうれしくなりますさて親戚に病人あり日曜はそちらへ參ります萬一御來駕を得ると恐縮ですからこの端書きを差上げます

    爐の灰にこぼるゝ榾の木の葉かな

と云ふのは落第ですか?

 

[やぶちゃん注:「小澤忠兵衞」小澤碧童の本名。

「傘の御歌」筑摩全集類聚版脚注に『不詳』とある。

「榾」は「ほた」或いは「ほだ」で、炉や竃で焚く薪(たきぎ)のこと。それに小枝と葉がついていたのである。佳句である。龍之介も少し自信があったことが、類型句を龍之介は幾つか作っていることから判る。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集 三 書簡俳句 (明治四十三年~大正十一年迄)」で「榾」で検索されたい。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月二十四日・消印十月二十四日・本鄕區東片町百三十六 小穴隆一樣(速達印)・あくた川龍のすけ(葉書)

 

鴉瓜よろし百舌の句も惡しからず 章魚に似たるの蜘珠、感じは通ずれど最も劣るべし

    小說の出來そくなふ日天が下の百舌もとんびも落ちよとぞ思ふ

 

[やぶちゃん注:この十月二十四日は日曜で龍之介の決めた面会日であったのだが、ここにある通り、親戚に病人があってそれを見舞いに行って留守にするという。新全集の宮坂覺年譜には、この親族見舞いが誰であったのかは『詳細未詳』と附記する。どうも、芥川龍之介の怪しい行動をさんざん知ってしまった私などは、こんな謎の一日も気になってくるのである。前文は小穴の句に対する龍之介の評。後の芥川龍之介と小穴の二人句集「鄰の笛」(大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』に「芥川龍之介」の署名の龍之介の発句五十句と小穴一游亭隆一の発句五十句から成るものとして発表されたもの)私のブログ版「鄰の笛 (芥川龍之介・小穴隆一二人句集推定復元版)」を参照されたい)に、

百舌鳥(もず)なくや聲(こゑ)かれがれの空曇(そらぐも)り

  雨日

熟(う)れおつる蔓(つる)のほぐれて烏瓜(からすうり)

という二句が載るのが、それ(或いは改作決定稿)であろう。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月二十七日・田端発信・小島政二郞宛

 

啓 碧童氏の歌を御めにかけます字も出來がよろしい龍字の印は碧童氏自用のもの僕とは關係も何もありません僕も咋日のたくりました 頓首

   生きの身のあはれを求(と)むるわれなれば五錢の踊り今日も見に來し

   舞姬の一人はかなし錢を乞ふ手のおしろいも剝げてゐにけり

               我 鬼 生

   古 瓦 軒 主 人 御床下

 

[やぶちゃん注:間違えぬように断っておくが、これは芥川龍之介の短歌ではなく、俳人小澤碧童の二首である。「五錢の踊り」筑摩全集類聚版脚注に『不詳』とする。女の門付け芸のそれか。

「古瓦軒」碧童の別号か。確認は出来ない。

「龍字の印」不詳。小澤書簡の写真を封入したとも思われぬ。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月二十七日・田端発信(推定)・空谷先生 梧右・十月廿七日・芥川龍之介

 

合掌

御旅先よりの御はがき並に今日は御手紙の外結構なる品頂きありがたく存じそろ 井月翁の材料も御集まりの由御同慶の至に存じそろ その後賣文糊口の匇忙たる日を送り居り候へどもたまたま興を得川童の歌少し作り候閒御めにかけ候 御笑ひ下され度そろ

   川郞のすみけむ川に芦は生ひその芦の葉のゆらぎやまずも

   赤らひく肌もふれつゝ河郞の妹脊はいまだ眠りて居らむ

   わすらえぬ丹(ニ)の穗(ホ)の面輪見まくほり川べぞ行きし河郞われは

   人間の女(メ)をこひしかばこの川の河郞の子は殺されにけり

   いななめの波たつなべに河郞は目蓋冷たくなりにけらしも

   川庭の光消えたれ河郞は水(ミ)こもり草に眼をひらくらし

   水底の小夜ふけぬらし河郞のあたまの皿に月さし來る

   岩根まき命(イノチ)終りし河郞のかなしき瞳をおもふにたへめや

                  頓首

    廿七日朝        我   鬼

   空 谷 先 生

 

[やぶちゃん注:既注であるが、芥川家の主治医で俳人でもあった下島勳は、芥川も愛した俳人で「乞食井月」の異名で呼ばれる井上井月(文政五(一八二二)年?~明治二〇(一八八七)年:信州伊那谷を中心に活動し、放浪と漂泊を主題とした俳句を詠み続けた)の研究家としてもよく知られ、下島の井月の句集の出版を龍之介は後押しもしている。ウィキの「井上井月」によれば、『井月は自身の句集は残さなかったが、伊那谷の各地に発句の書き付けを残していた。伊那谷出身の医師であり、自らも年少時に井月を見知っていた下島勲(俳号:空谷)は、井月作品の収集を思い立ち、伊那谷に居住していた実弟の下島五老に調査を依頼。そして』、この翌大正一〇(一九二一)年に「井月の句集」を出版している。『本書の巻頭には、高浜虚子から贈られた「丈高き男なりけん木枯らしに」の一句が添えられて』おり、『この句が松尾芭蕉』の「野ざらし紀行」の発句「狂句木枯の身は竹齋に似たる哉」を『踏まえている点から、虚子が井月を芭蕉と比較していたことが分かる』とあり、『また、下島が芥川龍之介の主治医であった縁から』、「井月の句集」の『跋文』ここのために先程、急遽、ブログで電子化した『は芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』。但し、芥川が『井月の最高傑作と称揚している』「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」の句は、『皮肉にも』、『井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』ともある。さらに、昭和五(一九三〇)年十月には、『下島勲・高津才次郎編集による』「井月全集」が出版され、「井月の句集」に『掲載された虚子らの「井月賛」俳句と、芥川の序文はこの全集にも再掲され、井月の評価を高める役割を果たした。また、本全集には、井月が残した日記も収録されている』とある。同ウィキには下島が描いた井上井月の肖像(大正一〇(一九二一)年作)の画像も載る。

「赤らひく」「赤ら引く」は万葉以来の枕詞で、「明るく照り映える」の意から「日」「朝」に、また、「赤みを帯びる」の意から「色」「肌」に掛かる。ここは後者。

「丹(ニ)の穗(ホ)」赤く実った美しい稲穂。赤い顔をしているともされる河童、その雌河童の顔を言ったものか。或いは次の一首の「人間の女(メ)をこひしかば」を考えると、紅を塗った人間の女の唇の色を言ったものかも知れない。

「いななめの」「いなのめの」の誤りであろう。万葉以来の枕詞で「夜が明く」の「明く」に掛かる。小学館「日本国語大辞典」によれば、「補注」に『語源およびかかり方については諸説ある。(イ)「いな(寝)のめ(目)」が朝方に開くから「(夜が)明く」にかかる。(ロ)「いなのめ」は「しののめ」(暁方の意)と同義で』『あるところからとする。(ハ)「いな(稲)のめ(目)」(稲の穂の出始める意)を夜明けにたとえるところからとする。(ニ)「イナ(鯔)のめ(眼)」が赤いところから「赤」と同音の「明」にかかる。(ホ)採光、通風のために、稲藁を粗く編んだむしろのすきま(稲の目)から明け方の光がさし込むところから、など』とある。龍之介は同義の「しののめ」辺りから、うっかり、かく表記したのかも知れない。

「まく」「枕にする」の意。「万葉集」に「まくらとまく」 =「枕(まくら)と枕(ま)く」として「枕にして寝る」の用法がある。]

《芥川龍之介未電子化掌品抄》(ブログ版) 「井月句集」の跋

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年十月二十五日発行の下島勳編「井月の句集」(出版は空谷山房)に「跋」として掲げられ、後、作品集「點心」「梅・馬・鶯」に表記の題で収録された。同句集は原本を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで視認出来る。

 底本は岩波旧全集に拠った。標題はママ。

 本電子化は現在進行中の「芥川龍之介書簡抄」のために、急遽、行った。されば、注は附さない。この公開後に公開する「芥川龍之介書簡抄103 / 大正九(一九二〇)年(八)」を参照されたい。私は井月の生涯と俳句を偏愛する人間である。彼の漂泊の人生について、詳しくはウィキの「井上井月」がよい。龍之介のこの跋文についても言及されており、編者であった下島が芥川龍之介の主治医であった縁から、この跋文は『芥川が執筆している。芥川は「井月は時代に曳きずられながらも古俳句の大道は忘れなかつた」と井月を賞賛している』が、芥川がここで「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」を『井月の最高傑作と称揚しているが、皮肉にも』、『この俳句は井月の俳友であった橋爪山洲の作品であることが、芥川の没後に判明した』とあることは明記しておく必要がある。また、一ヶ所、「適く」は「ゆく」と読む。後日、語注を追加しようとは思っている。]

 

  「井月句集」の跋

 

 空谷下島先生の「井月の句集」が出るさうである。何しろ井月は草廬さへ結ばず、乞食をしてゐたと云ふのだから、その句を一々集めると云ふ事は、それ自身容易な業ではない。私はまづ編者の根氣に、敬服せざるを得ないものである。

 井月の句集を開いて見ると、惡句も決して少なくはない。天明の遺音は既に絕え、明治の新調は未起らなかつた時代は、彼にも薰習を及ぼしたのである。しかし山嶽の高さを云ふものは、最高峰の高さを計らなければならぬ。井月は時代に曳きずられながらも、古俳諧の大道は忘れなかつた。「咲いたのは動いてゐるや蓮の花」以下、集中に散見する彼の佳句は、この間の消息を語るものである。しかも亦彼の書技は、「幻住庵の記」等に至ると、入神と稱するをも妨げない。私は第二に烱眼の編者が、この巨鱗を網にした事を愉快に思はずにはゐられないのである。

 が、私の編者に負ふ所は、これのみに盡きてゐるのではない。昔天竺の鹿頭梵志は、善く髑髏を觀察し、手を以て之を擊つては、死の因緣を明らかにした。たとへば「是男子なり。衆病集つて百節酸痛し、命終を取る。是人死して三惡趣に墮つ」の類である。しかし世尊が試みに、優陀延比丘の髑髏を與へて見たら、彼は唯茫然として、「男に非ず女に非ず。亦生を見ず。亦斷を見ず。亦同胞往來するを見ず。」と、殆答へる所を知らなかつた。無余涅槃に入つてゐた比丘は、「無終無始、亦生死無く、亦八方上下適くべき所無し」だつた爲、梵志の神識も及ばなかつたのである。これは優陀延に限つた事ではない。井月の髑髏を擊たせて見ても、梵志はやはり喟然として、止むより外はなかつたであらう。このせち辛い近世にも、かう云ふ人物があつたと云ふ事は、我々下根の凡夫の心を勇猛ならしむる力がある。編者は井月の句と共に、井月を傳して謬らなかつた。私が最後に感謝したいのは、この一事に存するのである。

芥川龍之介書簡抄102 / 大正九(一九二〇)年(七) 八通(現存する書簡の最古の河童図を含む)

 

大正九(一九二〇)年九月八日・田端発信・本鄕區湯島三組町卅八 瀧井孝作樣・九月八日 芥川龍之介

 

咋夕電氣と文藝社の事を賴みし人の所へ行き話したるにあの社の當事者は零餘子に万事を賴みし爲差當りその手から仕事を引き離す訣にも行かぬ由 しかし雜誌が零餘子ではうまく行かぬに相違なければ早晚何とか始末をつける事になるべくその節はよろしく願ふと云ふ口上だつた さう云はれて見れば仕方なき故君の名だけ先方に通じて戾つて來た どうもこの口は至急どうと云ふ訣には行かぬと思ふ

猶僕も外に何かあるか氣をつけて置くから精々君も當分は現狀に辛抱する事にし給へ 冗員淘汰がやかましい咋今だから改造の口もそんなに難有くないものではないのだよ 相談がてら君の所へ行く心算だつたが暑さに負けて手紙にした 以上

     昨日作つた歌

   石燈籠立ちの佗しき夕空にあがりて消えし螢なるかも

    九月八日       我 鬼 拜

   折 柴 先 生

 

[やぶちゃん注:「電氣と文藝社」『電氣と文藝』は創刊年月日は調べ得なかったが、高橋士郎氏のサイト内にあるこちらによれば、編集人は辻嘉市で、発行所は電気文芸社とある。科学記事と芸術・文芸記事を併載する変わった雑誌のようで、『文芸関係の欄には田山花袋・室生犀星・与謝野晶子・芥川龍之介・寺田寅彦・高浜虚子・菊池寛など、同時代を代表する文学者が寄稿』したとある。そういえば、私がブログで電子化した私の好きな俳人杉田久女の自伝的中編小説「河畔に棲みて」(三回分割。ここと、ここと、ここ)の初出発表誌がこれだったことを思い出した(この作品は大正六(一九一七)年年初の『大阪毎日新聞』懸賞小説募集に応募したもので、選外佳作となったが、評者からは「素直に書けている」とかなり高い評価を受けた(この際、別な形での採用発表を勧誘されてもいる)。その直後に高浜虚子の弟子で『ホトトギス』編集人であった長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)が、この原稿を貰い受け、彼自身が編集していた同年発行の『電氣と文藝』の、一月号から三月号に掲載発表されたものであった)。本書簡に出る「零餘子」はその俳人長谷川零余子(れいよし 明治一九(一八八六)年~昭和三(一九二八)年)で、群馬県緑野郡鬼石町(現在の藤岡市)出身。本名は長谷川諧三(かいぞう:旧姓は富田)。東京大学薬学科専科卒。十六歳より俳句を始め、明治三八(一九〇五)年に新聞『日本』や『万朝報』に投句し、『日本』の選者であった河東碧梧桐の知遇を得、翌年、ホトトギス例会に出席するようになった。明治四十三年、俳人長谷川かな女と結婚し、婿養子として改姓、明治四五(一九一二)年には、高浜虚子に請われて『ホトトギス』編集部に入り、大正二(一九一三)年には『ホトトギス』の「地方俳句界」の選者となった。大正三年、『東京日日新聞』(『大阪毎日新聞』の系列紙)の選者となる。大正十年、『枯野』を創刊して主宰した。大正十五年には、講演概要筆記として「立体俳句論」を『枯野』に掲載、その幾何学的な俳風で、知識人層の支持を得た人物である。俳号はヤマノイモやオニユリなどに生ずる栄養体肉芽「むかご」に、「僅かな残り。端(はした)」の意を掛けたものであろう。ただ、ここで龍之介の不満ながらの辛抱を瀧井に言っている内容は、今一つ、はっきりとは分からない。既に虚子と親密だった龍之介にとっては、長谷川零余子とはぶつかりたくはないが、彼の文芸欄編集には大いに不満があり、自作を載せるのには躊躇する、という感じがあるようには見える。或いは後文から見るに、瀧井が『電気と文芸』の編集者として正規に雇って貰えないかと、龍之介に依頼したものかも知れない。

「冗員淘汰」(じようゐんとうた(じょういんとうた))とは「無駄な人員を整理すること」。

「改造の口もそんなに難有くないものではない」筑摩全集類聚版脚注に、『瀧井孝作はしばらく「改造」の記者をしていた』とある。なお、ウィキの「瀧井孝作」によれば、この年、彼は『改造』の文芸欄担当記者として、志賀直哉を知り、「暗夜行路」を『改造』に貰っている。]

 

 

大正九(一九二〇)年九月二十日・田端発信・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・九月二十日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

   夕影の鞍馬の山に人住めり嘯虎と云ひてこの紙作る

   はろばろと人が持て來し封筒の黃なるが裏に嘯虎の印あり

    九月二十日 目下風邪引籠中 我鬼拜

   大 芸 先 生

 

[やぶちゃん注:「嘯虎」(しやうこ(しょうこ))は佐々木茂索の兄。鞍馬寺に因んだ民芸品や玩具を製作していたらしい。

「大芸先生」芥川龍之介が佐々木を指して尊称したもの。恐らくは「たいうん・だいうん」と読む。「芸」は「藝」の略字ではなく、(くさかんむり)は間が切れる正字で、「藝」とは全くの別字である。これは本来は草の名で、地中海原産のバラ亜綱ムクロジ目ミカン科ヘンルーダ属ヘンルーダ Ruta graveolens を指す。本邦には江戸時代に渡来し、葉に含まれるシネオールという精油成分が通経剤・鎮痙剤・駆虫剤などに用いられ、料理の香りづけにも使われていたが、ウルシのように接触するとかぶれるなどの毒性があるとされ、現在は、殆んどその目的には使われていない。精油として採取されたルー油はグラッパなどの香り付けに使われている。漢字では「芸香」(うんこう)と書く。この成分故か、書物の栞(しおり)に使うと、本の虫食いを防ぐとされたことから、「芸」は転じて「書籍」を指すこととなり、古くは書斎のことを「芸室」(うんしつ)と称した。それを洒落たものであろう。私は大学時代に図書館司書の講座の中で(私は図書館司書及び司書教諭の資格も持っている)教わった「芸亭(うんてい)」を思い出す。日本最初の公開図書館で、奈良時代末に石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が設立したもので、彼の旧宅を寺とし、その一隅に、漢籍を収めた書庫を設け、自由に閲覧させたというものである。]

 

 

大正九(一九二〇)年九月二十二日・田端発信(推定)・本鄕區東片町百卅四 小穴隆一樣・二十二日 我鬼(葉書)

 

赤らひく肌(はだへ)ふりつゝ河童どちらはほのぼのとして眠りたるかも

この川の愛(めぐ)し河童は人間をまぐとせしかば殺されにけり

短夜の清き川瀨に河童われは人を愛(かな)しとひた泣きにけり

  この頃河童の画をかいてゐたら河童が可愛く

  なりました 故に河童の歌三首作りました 

  君の画の御礼に僕の画をお目にかけ併せて歌

  を景物とします 以上

 

 

大正九(一九二〇)年九月二十二日・田端発信(推定)・本鄕區東片町百三十四 小穴隆一君(自筆繪葉書・前の葉書と共に投函されたものと推定される)

 

Suikomondouzu

 

水虎文問荅之図

 

       三拙漁人 我鬼

 

[やぶちゃん注:「我鬼」は朱の落款。画像は「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)にある、前の書信分とカップリングされたものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。前の書信は改めて以上の画像を視認して削除訂正も再現しておいた。]

 

 

大正九(一九二〇)年九月二十三日・田端発信(推定)・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・九月二十三日 芥川龍之介

 

   腸の腐る病と聞きければわが腹さへも痒くなりにけり

   氷囊の下にまなこをつぶりつゝわが腦味噌の腐る日おもほゆ

   もう少しまじめに歌を考へん熱はあれども頭は鋭き

   人つ日にさ庭の草のけむるときわが腦味噌の腐るを氣づかふ

   目なかひにかゞやく星の今宵赤し人の膓腐れんとすも

   屋根草のうら枯早み腐れたる膓持ちて生くる人あり

まだ熱あり、時々起きて原稿を書く、苦しみ云ふばかりなし、膓の腐る方が樂だといふ氣がする、あの藥もまだ使はない

            病 我 鬼 拜

 

[やぶちゃん注:佐々木が罹患している「腸の腐る病」というのは不詳。一番一般的なのは腸捻転による捻転部の炎症腐敗である。芥川龍之介もこの九月下旬、風邪のために一週間ほど床についていた。

「目なかひに」「目交ひに・眼間に」。「目 (ま)の交(か)いに」で「目の先・目の前」の意。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月十一日(年次推定)・田端発信・恒藤恭宛(転載)

 

松茸を澤山ありがたう

奥樣にもよろしく

   風ひきてこやほどうれしはろばろと君がたばせし松茸一かご

   籠とけば羊齒草がくれ松茸の匂ふはことにうれしきろかも

   松茸はうれしきものか香を高みわが床のべを山になすかも

   別雷神のみことのしづまらす糺の森の松茸かこれ

   松茸の香深き森にすむ君のめぐし孤り子すこやけくあれ

   松茸の香にこそ思へ如何ならむ君がなき子のおくつきどころ

   秋を深み墓の木の枝うちなびき泣きてし心忘らえなくに

   松茸の匂は高し夕されば羊齒草さへにうすじめりつつ

   熱を高み咳にたへつゝ松茸の歌九首作る龍之介われは

    十月十一日      病 我 鬼

   恒 藤 恭 君

 

[やぶちゃん注:「羊齒草」「しだくさ」と読んでおく。贈られた松茸はシダを緩衝材として包装してされていたのである。

「別雷神のみこと」「わけいかづちのみこと」賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)は現在の京都府京都市北区上賀茂本山にある賀茂別雷神社(=上賀茂神社)の祭神。恒藤は当時、下加茂松原中ノ町に住んでいた。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月十六日・田端発信(推定)・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・十六日 我鬼拜

 

     新曲賣文八景

かなしきは、うき世なりけり身一つの、外にはたのむ椎の木の、木陰もさらに嵐ふく、鳰の湖(うみ)なる漁り舟、わたしや苫洩る雨にぬれ、身すぎ泣く泣く揖枕、夢もむすばぬ苦しさを、知るは浪風蘆ばかり、一つ浦屋の漁師さへ、粂も政二も榮一も、今夜ばかりは上機嫌、一盃機嫌、色機嫌、大津女郞衆の買ひ論に、さぞや顏にも夕燒けの、勢多の長橋なかなかと、時もうつれば唐崎や、まつ間せはしき夜の雨、比良の暮雪か女菩薩を、抱けば煩惱卽菩提、樣がためなら命も捨てよ、帶もやるやる笄ひも、閨の誓は堅田なる、雁の折り伏す蘆の穗の、寐くたれ居ろと思ふさへ、なじみ重ねたかの君に、わたしや粟津の靑あらし、つらいかなしい逢ひたいと、心矢ばせの歸り帆や、いつそこの儘向う地へ、舟をやろかと思つても、魚籃(びく)には魚もあら波の、しぶきうき世のすべなさに、男の意地を三井寺の、鐘鳴るまではやつしつし、やつと打つたる網がくれ、見えしは鯉か石山の、秋の月より夜もしるき、漁は金鱗二千丈、語るも聞くもいとほしき、作家修業の八景は、多情多恨のわが茂索、君が爲とぞ三重

しつかりし給へ さうしてえらくなつてくれ給へ 誰でもみんな樂ぢやないのだ

    十六日午後      我 鬼 拜

   佐 々 木 茂 索 樣 侍史

 

[やぶちゃん注:「新曲」は底本では右から左に横書きポイント落ち。全体は「近江八景」(琵琶湖南西部の八つの景勝。「石山の秋月」「比良(ひら)の暮雪」「瀬田の夕照」「矢橋(やばせ)の帰帆」「三井の晩鐘」「唐崎の夜雨」「堅田(かたた)の落雁」「粟津の晴嵐(せいらん)」。安藤広重の浮世絵でよく知られるが、もとは中国の洞庭湖の「瀟湘(しょうしょう)八景」に倣って選んだものである)を読み込みながら、しがない売文業のしがらみをカリカチャライズした小唄である。

「たのむ椎の木の」これは芭蕉の、「幻住庵の記」(大津の、門人菅沼曲水の別邸幻住庵在庵は元禄三(一六三〇)年四月六日から同年七月二十三日であるが、文の完成は翌八月。芭蕉四十七歳)の一末尾置かれた一句、

 先づたのむ椎の木も有(あり)夏木立(なつこだち)

であるが、その文末部分には芭蕉の観想する人生観が表明されているから、それを匂わせたととるべきであろう。以下に示す。

   *

 かく言へばとて、ひたぶるに閑寂を好み、山野に跡を隱さむとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り來し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬(ぶつり)祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を勞じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。『樂天は五臟の神を破り、老杜は瘦せたり。賢愚文質の等しからざるも、いづれか幻(まぼろし)の住みかならずや。』と、思ひ捨てて臥しぬ。

 

  先づ賴む椎の木も有り夏木立

 

   *

「鳰の湖(うみ)」「にほのうみ」は琵琶湖の異名。「鳰」はカイツブリ目カイツブリ科カイツブリ属カイツブリ亜種カイツブリ Tachybaptus ruficollis poggei の古名。博物誌は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸊鷉(かいつぶり)」を参照。「鳰の浮き巣」(カイツブリの巣。葦の間などに作られ、それが水に浮いているように見えるので、和歌・俳諧などでは「寄る辺ない哀れなもの」として詠まれる)が知られ、同じ芭蕉に、

 五月雨に鳰の浮巢を見にゆかん

がある。貞亨四(一六八七)年夏に江戸で詠まれたが、彼はこの年の十月に、かの「笈の小文」の旅に出る。この句はそれを門弟に示したものであった。

「苫」とま。菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだ蓆(むしろ)。和船や家屋を覆って雨露を凌ぐのに用いる。

「揖枕」かぢまくら(かじまくら)。舟中で寝ること。

「粂も政二も榮一」筑摩全集類聚版脚注に、『久米正雄、小島政二郎、岡栄一郎をさすのだろう』とある。

「女菩薩」「によぼさつ(にょぼさつ)」。といえば、私は即座に後の「藪の中」(大正一一(一九二二)年一月『新潮』掲載)を連想する(リンク先は私のもの)。

「煩惱卽菩提」既に述べた通り、龍之介の好んだ語。

「笄ひ」歴史的仮名遣は「かうがい」が正しい。元は、髪を搔き上げるのに使った箸(はし)に似た細長い道具。銀・象牙などで作るが、後に、女性の髷(まげ)に横に挿して飾りとした道具。金・銀・水晶・瑪瑙・鼈甲などで作るそれを指すようになった。

「閨」(ねや)「の誓」(ちかひ)「は堅田なる」。地名に男女の寝所での密やかな誓いが堅いことを掛けたのは言うまでもない。

「寐くたれ居ろ」しどけなく寝ていろ。しかし、意味からみるに「寐くたれ居(ゐ)ると思ふさへ」の方が躓かないのだが?

「わたしや粟津の靑あらし」「粟津の晴嵐」に「逢はず」を掛けたもの。

「心矢ばせの歸り帆や」「矢橋の帰帆」に「矢のように」を掛けたもの。

「三重」三味線楽の旋律型の一つ。浄瑠璃や長唄などで、一曲の最初や最後又は場面の変わり目などに用いる。義太夫節には、大三重(おおさんじゅう)・キオイ三重・引取三重など、種類が多い。本来は、高い音域の部分という意味からの名称である。ただ、ここで龍之介は訓じて「みつがさね」と読んでいるものと思う。]

 

 

大正九(一九二〇)年十月十六日・田端発信・小穴隆一宛

 

寂しもよ月の繪のある古德利誰か描きけんこの古德利

小(さ)柱に菊は香ぐはしとろとろと入谷の兄貴醉ひにけらずや

碧童は醉ひ泣きすらん隆一は眠るが常ぞ古原草は如何に

この鳥は何鳥ならん紅菊の菊の花見て啼けりや否や

隆一が醉ひて書きたる菊の花その花小さしあはれを感ず

御會式の夜ルをかきかく鰹節音冴えぬれば醉ひがてぬかも

男三人醉へばまさびしこの宵は日蓮上人の御命日かも

夜深み歸り來れば枕べに隆一が描きし菊の花あり

醉ひ居れば薄き羽織も脫がなくにただに筆とる龍之介われは

 十月十六日

小 穴 畫 宗 梧右

 

[やぶちゃん注:「入谷の兄貴」小「碧童」既出既注

「古原草」「こげんさう」と読む。遠藤古原草(こげんそう 明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年)は俳人・蒔絵師。本名は清平衛。芥川龍之介らは彼の仕事と本名からしばしば「蒔淸(まきせい)」と呼んだ。『海紅』同人で、小澤碧童や滝井孝作(俳号・折柴)の紹介で知り合い、小穴とも交流した。

「御會式」一般名詞としては法会の儀式であるが、一般には専ら、日蓮宗の各寺において、日蓮の忌日(十月十三日)に営まれる、宗祖報恩のための法会を指し、「御影供(みえいく)」「御影講(みえいこう)」とも呼ぶ。また、特に「御命講(おめいこう)」(大御影供がなまって「おめいく」となる)と称して、弘法大師忌の御影供と区別することもある。日蓮入寂の地である東京都大田区池上の本門寺と、杉並区堀ノ内の妙法寺の御会式は最も盛んで、本門寺の御会式は十月十一日から三日間行われるが、夜、花で飾った万灯を押し立て、団扇(うちわ)太鼓を打ち鳴らし、題目を唱えた信者が群参する。既に述べたが、芥川家の宗旨は日蓮宗である。]

芥川龍之介書簡抄101 / 大正九(一九二〇)年(六) 避暑した青根温泉関連五通

 

大正九(一九二〇)年七月三十一日・田端発信・本鄕區東片町一三四 小穴隆一樣・七月卅一日 市外田端四三五 芥川龍之介

 

啓みちのく靑根溫泉へ入湯に赴き候爲當分留守に致候碧童先生への御禮は歸京に節[やぶちゃん注:ママ。]に致す可く缺欠礼の段はよろしく御とりなし置き下され度候香取先生貴臺風景の畫を中々うまいと褒められ候も小生の軸の方よろしき由にてあの鷄一羽とられ候我鬼の印その後むやみやたらに本へ押し居り候二つ宛押したる本もあり自ら笑止に存居候碧童句集早く拜見致度候

   岩根踏みわが戀ひ行けばしらしらと靑峯の山に雲わくらんか

 七月卅一日         我 鬼 拜

   小 穴 隆 一 樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介はこの翌日九月一日、宮城県柴田郡川崎町青根(あおね)温泉(グーグル・マップ・データ)に避暑に出かけ、同月二十八日頃まで滞在した。八月三日附小穴宛書簡(絵葉書)では、当地は、『海拔千何百尺とかの由 周圍の風物皆高山の趣あり』とし(青根温泉は単純泉で、宮城県南西部の蔵王山の東方にあり、標高千六百六十六メートルの後烏帽子岳(うしろえぼしだけ:国土地理院図)の東北山腹の標高約五百メートル(=千六百五十尺)にあって眺望がよい)、歴史ある不亡閣という宿の『土藏の二階を陣取り これから小說を書き出す所』とあるが、執筆は進まず(『中央公論』九月号発表予定であった「お律と子等」(後に「お律と子等と」に改題)は遂に脱稿出来ず、十月号・十一月号に分載となっている)、佐々木茂索には『便秘で困つてゐる』(八月四日附)、瀧井孝作に『便秘の爲頭の具合惡く碌な小說も書けさうぢやない』『肉食交合二つながら絕緣だ』などと書き送っている。この山間の温泉地を選んだ理由は定かでないが、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、『あるいはこの時期』、交流が深くなって『いた与謝野晶子の勧めによるものであろうか。ちなみに晶子には青根の歌がある』とある。

「碧童先生」小沢碧童(へきどう 明治一四(一八八一)年~昭和一六(一九四一)年)は俳人。東京出身。本名は忠兵衛。河東碧梧桐に師事し、東京上根岸の自宅を「骨立舎」と命名して俳道場とした。『日本俳句』『海紅』で活躍した。書や篆刻にも優れており、芥川龍之介と親交があり、龍之介自身が最も年長(十一年上)の友人と称して、終始、敬愛した。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月九日消印・青根温泉発信・東京市本鄕區湯島三組町卅八 瀧井孝作樣(自筆絵葉書)

 

Jyukadokuza
 
 

               樹下独坐

                  我鬼画

もなか難有う 但悉つぶれて餡の塊りになつて來た 新潮の僕の小説 南部のなどとは品が違ふと思ふが如何 君の小説は、果して白眉だつたではないか 以上

                龍之介 記

 

[やぶちゃん注:画像は「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。書信文は以上の原書簡画像を視認して表記通りに示し、一部に字空けを施して読み易くした。芥川龍之介自身を羅漢に模した、なかなかいい一枚である。

「もなか」採用しなかったが、瀧井には先に引用した八月四日宛の冒頭で『うさぎやのもなか送つて頂ける由難有し』とある。「うさぎや」というのは大の甘党であった芥川龍之介御用達の上野広小路の和菓子屋。現存する(グーグル・マップ・データ)。龍之介はここの名物「喜作最中」が大好物であった。店主谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)は東京生まれで、俳人でもあり、多くの文化人との交流があり、『海紅』『碧』などの俳誌に句や随筆を発表してもいた。芥川龍之介の葬儀でも世話役として気を配り(一説では葬儀全般を取り仕切ったともされる)、『小穴隆一 「二つの繪」(22) 「橫尾龍之助」』によれば、『燒場の竃に寢棺が約められ、鍵がおろされてしまつて、門扉にかけた名札には芥川龍之助と書いてあつた。谷口喜作が燒場の者に注意をして芥川龍之介と書改めさせ、恒藤恭がよく注意してくれたと谷口に禮を言つて』いたとある。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月十八日・消印宮城遠刈田二十一日・青根温泉発信・東京市本鄕區三組町三十九 瀧井孝作樣

 

   入日さす赭土路の馬の跡坂は急なるこの若葉かも

葉卷やつとついた 最中も難有う 奧さんの御病氣如何

    十八日        我 鬼 拜

 

[やぶちゃん注:「赭土路」「あかつちみち」であろう。

「最中」も難有う」恐らく、前にあったように、先に送った最中が潰れて餡玉のようになっていたというのを受けて、包装を厳重にして、再度、「うさぎや」のそれを送ったものであろう。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月二十日青根発信・薄田淳介宛(絵葉書)

 

   入日さす赭土路の馬の跡坂は急なるこの若葉かも

   行く春の山の巖間に水は滴り巖根を見れば苔靑む見ゆ

季節は歌の便宜上二月ほど繰上げそろ、年鑑、短篇承知仕候御手紙こちらへ轉送されし爲漸昨日拜見致そろ 以上

 

[やぶちゃん注:「年鑑」芥川龍之介は大正九年十一月二十日発行の『毎日年鑑』(大阪毎日新聞社編纂)に「大正九年の文藝界」を執筆しているので、その依頼であろう。

「短篇」不詳。毎日系列では、劇評なら十月十五日・十一月十三日に書いてはいる。]

 

 

大正九(一九二〇)年八月二十一日・青根発信・松岡讓宛(自筆絵葉書)

 

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            樹下独坐

                我 鬼

 

[やぶちゃん注:画像は同じく「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした。前の瀧井宛の方が遙かによい。底本の旧全集ではモノクロームの画像のみ。掲げた画像から字を起こした。]

2021/07/21

芥川龍之介書簡抄100 / 大正九(一九二〇)年(五) 南部修太郎宛二通(南部の「南京の基督」批評への反駁)

 

大正九(一九二〇)年七月十五日・田端発信・南部修太郞宛

 

啓 君の手紙を見た君は手紙の中と新聞の月評とでは「南京の基督」に對する批評を別な調子で書いてゐるそれがどうも愉快な氣がせぬ僕には月評を書いてゐる君が僕の作品を或程度褒めながらしかも褒めた事によつて世間の輕蔑を買はないやうに用意してゐるやうな氣がするこれは僕の邪推かも知れぬしかし調子が違つてゐる事は事實だ又その點を看過しても純粹に理窟の上から云ふと君はあの作品に藝術的陶醉(エクスタシイ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。](君の言葉を借りる)を感じながら君の心にアツピイルする何物かがないと云つてゐる藝術品が君に與へるものは何故藝術的陶醉のみではならないか君の心にアツピイルする何物かとは如何なる摩訶不可思議なものかその點にどれだけ君が眞面目な考察をしてゐるか疑問だと云ふ心もちがする又君はあの作品を評して僕が遊びが過ぎると云つてゐる遊びが過ぎるとはあの種の作品を書く事かそれとも特にあの作品に現れた僕の態度を指して云ふのかもし前者ならば僕は卽座にトルストイ、フランス、バルザツクその他近代の大家の作品を十までは擧げる事が出來るそれらが何故遊びであるか君の答を聞きたいと思ふもし後者ならば君に問ふあの日本の旅行家が金花に眞理を告げ得ない心もちは何故遊びに墮してゐるか僕等作家が人生から Odious truth を摑んだ場合その曝露に躊躇する氣もちはあの日本の旅行家が惱んでゐる心もちと同じではないか君自身さう云ふ心もちを惑じる程殘酷な人生に對した事はないのか君自身無敷の金花たちを君の周圍に見た覺えはないのかさうして彼等の幻を破る事が反つて彼等を不幸にする苦痛を嘗めた事はないのか――それも君に問ひたいと思つてゐる又この二つの他に遊びの義を求めれば僕の仕事の仕方に遊びがあるかあの二十何枚中にたるんだり亂調子になつたりしてゐる所があるか、それも君に問ふのを躊躇しないもし夫 George Murry を點出したのを非難するに至つてはあの作品のテエマを押解しないか、全然それを否定するかだから又多言を要せずだと思ふ

眞面目になると云ふ事は作品中の人物に眞面目な事を云はせるのみではない僕等の日常生活を内外とも立派に處理する事だ僕は君が寸毫の惡意を持つてゐるとは思はないしかし君の眞面目さはもつと鍛鍊せねばならぬと思ふ先輩顏をするのではないが遠慮なく不服を書く君も遠慮なく答へて貰ひたいそれまでは君と會はないつもりだ

    七月十五日朝     我   鬼

   南部修太郞君

 

[やぶちゃん注:相手の南部修太郎は既出既注

「南京の基督」大正九(一九二〇)年七月一日発行の雑誌『中央公論』に掲載、後に「夜來の花」等に所収された。私の古い電子テクストはこちら。私が芥川龍之介の小説の中で五本の一つに挙げる偏愛の作品である。

「新聞の月評」岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)の注に、『この月一一日『東京日日新聞』掲載の「最近の創作を読む」で、南部は「南京の基督」について、「この種の作品から心にアッピイルする何物かを得ようなどと私は思はない」、「筆達者」は「気持ちが好い」が「たゞそれだけ」と評した』とある。また、ウィキの「南京の基督」には「作品評価・解釈」の項が充実しており、作品を読まれた後に、読まれんことをお勧めしておく。少しだけ引用しておくと、前作「秋」で『せっかく近代心理小説の新しい転換を図ったのに、また以前の得意な作風になったことを惜しむ久米正雄の評もある』とあり、また三島由紀夫は『「実によく出来た、実に芥川的な短篇」としながらも、「古典的名作」とされているこういった作品が、案外「芥川のもので一等早く古びさうに思へる」とし』、『その理由を、芥川が本来的に持っているナイーブさが見られないという主旨で以下のように解説している』として、三島由紀夫の昭和三一(一九五六)年角川文庫の「解説」の以下の引用がある。『それはあながち、一篇の主題の、アナトオル・フランス的な悠々たるシニシズムのためばかりではない。十九世紀趣味の物語手法のためばかりではない。似たやうな手法の谷崎潤一郎の初期作品に比べると、短篇技巧では谷崎のはうが粗雑かもしれないが、あの悪童が泥絵具をおもちやにしてゐるやうなヴァイタリティーがここにはない。「南京の基督」を成立たしめてゐる作者の人生観が、谷崎より幼稚でないならばないなりに、それだけ作者の本来のものではない感じを与へる。つまり完全にナイーヴィテが欠けてゐる』(引用終了)とまず、苦言染みたことを言いつつ、『しかし三島は、こういった評は、「後人のないものねだり」で、短篇小説というジャンルを、その当時の時代にここまで完成させることは、芥川以外の他の誰にもできなかったことであり、「近代日本の急激な跛行的発展の一つの頂点の文学的あらはれ」だと賛辞している』。『そして、その巧さを、「日本人本来の繊細なクラフツマンシップ(職人芸)が、ここまで近代芸術としての短篇小説を完成せしめたのは、現在のカメラ工業の発展とも似てゐる。この精妙なカメラは、本場物のライカをさへ凌いでゐる」とし、これに比して「昭和文学の短篇」はだらしない作品が増え、「川端康成と梶井基次郎と堀辰雄のみが短篇小説の孤塁を守るにいたる」と解説している』とあり、以下には、この書簡への言及もある。

「遊びが過ぎる」前掲書で石割氏は、『南部は「小器用に纏め上げた Fiction を書いて、気持好さそうに遊んでゐる」と評した。また、安倍能成や久米正雄も、ほぼ同じ批評を新聞に寄せた』とある。一部が、前の引用及びここでの引用とダブるが、所持する平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」の細川正義氏の本作の解説中の「評価と展望」によれば、『作品の発表された直後の七月十一日の『東京日日新聞』で南部修太郎が、この作品を「小綺麗に小器用に纏め上げた Fiction を書いて、気持好ささうに遊んでゐ」て「心の動きがない」作品に属するものであるが、「冴えた達者さは気持が好い。巧いものだと云ひたくなる」と評した。「遊んでゐる」という表現は後の芥川から南部宛ての書簡の発端にもなるが、「巧いものだ」という見方は、二日後の『読売新聞』に掲載された安倍能成の「巧みに造られたお話」、十四日の『時事新報』での久米正雄による「格を外さぬ文体の美しさ」、「全篇を作す態度の一糸乱れない立派さ、所々を機知で救ふ気禀の閃き」を高く評価した文章でも指摘された。しかし久米は「趣味ばかりで固めたメルヘンの領域」の作で、「作者の「心の動き」が、どうも真の意味での材料への食ひ入り方が、為に疎外されてゐるやうに感ぜられてならない」という辛目の評も加えた。この「メルヘンの鎖域」をが定的に見る久米の見方に対しては、以後、片岡鉄兵の「芥川氏のロマンチシズムの、最極の表れ」を見、「生の執着と、愛情に対する驚き」が描かれているという指摘』(引用元は「作家としての芥川氏」で昭和二(一九二七)年九月号『文藝春秋』芥川龍之介追悼号に掲載されたもの。私は古くにこちらで電子化している)『や、宮本顕治の「敗北の文学」(『改造』一九二九』(昭和四年)『八)における「氏のロマンチシズムに溢れてゐる」「儚い夢に氏は憐愍と愛撫をそゝいでゐる」といった肯定的評価に変わっていく』ともある。

「Odious truth」醜悪なる真実。

「George Murry」「南京の基督」の最後に出る若い日本の旅行家の心内語の中に出てくる本作の重要な人物。『日本人と亞米利加人との混血兒』で『英字新聞の通信員だと稱してゐた』、『男振りに似合はない、人の惡るさうな人間』と評する人物の名。ネタバレになるので、これ以上は言及しない。次の二信ではストーリーの一部が挙げられるので、未読の方や記憶の彼方に行ってしまっている方は、くれぐれも先ず.、作品を読まれてから読まれたい。

 

 

大正九(一九二〇)年七月十七日・田端発信・南部修太郞宛

 

一、手紙と月評の差は今後なる可く少く願ひたい不快に感ずるのはその差が僕の憎僞感を剌戟するからだその外の理由はない

二、僕の邪推は邪推として取消す

三、作品の批評 in sick に對する君の考は全然見當違ひだから左に個條を分けて反問する

1 君が藝術的陶醉と共に「讀者のモラルを動かし(註に曰モラルを動かすとは意味をなさずモオラル・コンシエンスを動かすの意か)或はそれに觸れる物」を求めるのは單に君の好みか否か好みなら自由だしかし客觀的な理由があるならそれを聞きたい近代の文豪の作品には藝術的陶醉(君の所謂)のみしか與へぬ作品も澤山ある。君が好み以外にそれらの作品を非とするなら(少くとも藝術的により劣つてゐるとするなら)その理由は聞き物だと思つてゐる

2 George Murry を點出しなくとも賣笑婦の信仰を憐んでゐる作者の態度は通じるかも知れんしかし憐みながらそのイリユウジヨンを破らうか止さうかとためらつてゐる心もちは通じない云ひかへれば憐んでゐるよりも一步先の心もちは通じないこれは自明過ぎる程自明の理だ(通じさせなくとも好いと云へば議論にならぬそれは個人的の好みの差だから)たとへば「憐むべき彼はパンを石と思へり」と云ふとする成程その時作者が彼を憐んでゐる心は通じるだらうしかしそれだけの文句では「予は彼にその石なる事を告げんか否かに躊躇せり」と云ふ心もちは通じないと思ふ通じたらその讀者は千里眼だ君にはこれが自明の理とは思へないか

附記 賣笑婦が健全でも傅染した梅毒の爲に相手の男が死ぬ場合は多くある殊に外國人に移つた場合は餘計多いそれを莫迦げた事だと思ふのは君の見聞が狹いからだ且君の使ふフイクシヨンと云ふ語義はひどく低級な意味があるやうに思ふそんな用語例はどこにもないフイクションに惡い意味があればそれは fact に對する場合だ

3 Odious truth 云々の條は更に個條を分けて反問する

(イ)金花の梅毒が治る事は今日の科學では可能だ唯根治ではない外面的微候は第一期から第二期へ第二期から第三期へ進む間に消滅するつまり間歇的に平人同樣となるのだいくら君が治るものかと威張つても治るのだから仕方がないもし君が今日の泌尿器醫學の記載を覆す事が出來るのなら僕は君に降參するさもなければ君が降參すべきだ

(ロ)、(イ)及び2の附記により君の所謂莫迦げた事が莫迦げた事でなくなつた以上 Odious truth 云々の一半は既に不必要になつたと思ふ。しかし更に云ひ餘した[やぶちゃん注:「のこした」。]點を云ふと

(a)金花にとつて基督が無賴漢だつたと云ふ事は Odious truth に違ひないぢやないか感染した梅毒の爲に被感染者が先に死ぬ事が科學的に事實であり且梅毒の一時的平癒が同じく科學的に事實である時詞[やぶちゃん注:「ことば」。]だけのみならず讀者にとつても Odious truth と感じられる事が可能ぢやないかそれでも感じないと云ふならば仕方がない結局個人的な見方の差に歸すべき事だから水掛論はせずに打ち切る事にする唯論理で押して行ける限りは Odious truthと號しても差支へないと思ふがどうか

(b)もし差支へないとすれば「遊んでゐる」と云ふ言葉は取消すべきかどうか[やぶちゃん注:「べきと思ふがどうか」のつもりであろう。]勿論差支へある場合(卽 a に君が no と答へる場合)はこの「b」の問題は始から起らない筈だから君は當然答へなくらよいのだ

4 トルストイ バルザツクetc. の作品は「あの程の作品」の例に擧げたのだ「あの程のうまさの作品」の例に擧げやのではないだから「あの種の作品」を否定せずあの作のみに就いて君がものを云つてゐる今、當然問題にはならない筈だそれは明に彼等の作品の方がうまいこの「うまい」と云ふ意味は勿論君に云はせると「遊んでゐない」と云ふ事になるのだらうが

以上四項に亙つて述べた所に猶君が服さないならもう一度答へ給へ但「1」は大問題だから輕率に答へてくれないやうに望む念の爲に例を擧げて⑴の問を說明すると(「好み」の場合は問題はないが)たとへばメリメの「カルメン」ポオの「赤き死の假面」の如き作品(あれが「南京の基督」とすつかり同傾向だと云ふのぢやない君の云ふ「藝術的陶醉」のみを與へる所の作品と云ふ意味だ)が君にとつて藝術的により望ましくないと思はれる場合その理由を說明せよと云ふ事になるのだ猶「カルメン」「赤き死の假面」が藝術的陶醉以上に君の心もちにもアツピイルする物を與へるならそれを事實(作品中の記載)によつて說明し且それらと「南京の基督」の與へる感銘との差を示してくれ給へ(勿論それがメリメやポオと僕との巧拙に歸するやうな論理の埒外に逸する場合は水掛論に終るから、さうならない限りに於て論じて貰ひたい)

末ながら書き加へる僕は君に些の[やぶちゃん注:「いささかの」。]惡意も持つてゐない君の人格を非議するものがあつたら僕はまつさきに君の爲に戰ふ一人だと思つてくれ給へ問題はすべて議論の上にある 以上

    七月十七日      我 鬼 拜

   南 部 修 太 郞 君

 

[やぶちゃん注:「憎僞感」(ざうぎかん)は、「偽りを憎む気持ち」のであろう。

「in sick」「気持ちの悪い違和感」の意か。筑摩全集類聚版脚注は『欠陥の意か』とする。

「モオラル・コンシエンス」moral conscience。道義感。道徳的良心。

『「憐むべき彼はパンを石と思へり」と云ふとする成程その時作者が彼を憐んでゐる心は通じるだらうしかしそれだけの文句では「予は彼にその石なる事を告げんか否かに躊躇せり」と云ふ心もちは通じないと思ふ』新約聖書の惡魔とイエス・キリストの対話を下敷きにした奇蹟と真の信仰と事実(外見上のそれ)の関係を龍之介風にアレンジしたもの。「一般社団法人キリスト教学校教育同盟」公式サイト内の佐々木哲夫氏の「信じるとは キリスト教Q&A」の「パンか 神の言葉か」に、

   《引用開始》

 悪魔の誘惑は、イエス・キリストの公生涯の始まりの時に起きました。四十日四十夜の断食を経験した直後ですから、イエス・キリストは、かなり、空腹を感じていたことでしょう。悪魔が誘惑したのは、実に、そのような時でした。悪魔とイエス・キリストの対話が成立するには、石をパンに変えるようにと誘う悪魔の言葉が真の誘惑にならねばなりません。即ち、悪魔は、イエス・キリストが石をパンに変え得る人物であると既に知っていたと推察されます。石をパンに変えることのできるイエス・キリストは、石をパンに変えずに旧約聖書の言葉「…人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる…(申命記8・3)」を引用しつつ答えたのです。

   《引用終了》

「唯根治ではない外面的微候は第一期から第二期へ第二期から第三期へ進む間に消滅するつまり間歇的に平人同樣となる」梅毒の後期潜伏期は、見かけ上の緩解期で、この期間は感染力を持たないことが知られているだけでなく、この期間は病態差が甚だしく、数年から実に数十年も続くことも知られている。無論、龍之介が言うように、これは治ったわけではない。しかし、それは見かけ上の「fact」から見れば、治ったように見え、また、当該潜伏期にある人物が別な疾患によって亡くなったならば、個人の意識の中に於ける「fact」にあっては、秘蹟による快癒と信じられるということは何ら「おかしなこと」「哀れむべきこと」では決して、ない。物理的生理的病理学的事実は信仰を裏切るものでは、もともとないことは自明であると私は思っている。私は何の信仰も持たないが、科学的知識が万能だともさらさら思っていない。

「赤き死の服面」の如き作品(あれが「南京の基督」とすつかり同傾向だと云ふのぢやない君の云ふ「藝術的陶醉」のみを與へる所の作品と云ふ意味だ)が君にとつて藝術的により望ましくないと思はれる場合その理由を說明せよと云ふ事になるのだ猶「カルメン」「赤き死の假面」「赤死病の仮面」(The Masque of the Red Death )は一八四二年に発表されたエドガー・アラン・ポーの短編小説。国内に「赤死病」(黒死病(Black Death)=ペスト(ドイツ語:Pest)をモデルとした架空の伝染病)が蔓延する中、病いを逃れて臣下とともに城砦に閉じこもり、饗宴に耽る王に、不意に現れた謎めいた仮面の人物によって死が齎されるまでを描いたゴシック恐怖小説。私の好きな作品である。より詳しいシノプシスは参照した当該ウィキを見られたい。]

2021/07/20

芥川龍之介書簡抄99 / 大正九(一九二〇)年(四) 二通

 

大正九(一九二〇)年七月三日・田端発信・中西秀男宛

 

啓 返事がおくれてすまないと思つてゐますその後引きつゞき忙しいのです六日(月曜)に暇だつたら來ませんか

(午後)僕は新聞では避暑した事になつてゐますが實は未だ東京にゐるのであれは客よけです ランヴィタシオン・オウ・ヴォアイヤアヂュは好いでせう僕は昔からあの中の「スマトラの忘れなぐさの花」なぞと云ふ文句が好きなのです「月」「薄明り」「窓」その外まだボオドレエルの中には好い散文詩が多い筈ですゴオティエの名高いボオドレエル論を讀みましたか

   風ふけば心かなしもスマトラの忘れなぐさの香やふきて來し

    七月三日       我   鬼

   中 西 秀 男 樣

 

[やぶちゃん注:「中西秀男」(明治三四(一九〇一)年~平成八(一九九六)年:龍之介より一つ年下)は英文学者。茨城県土浦市生まれ。茨城県立土浦中学校を経て、東京高等工業(現在の東工大)に入学して文芸部員となり、そこで、同部と交流のあった龍之介と知り合い、以降五年近くも龍之介の家に出入りし、文学を志した。大正一〇(一九二一)年には移籍していた早稲田大学高等師範部英語科を卒業し、早稲田中学校専任教諭となり、戦後、昭和二二(一九四七)年に母校早大の講師となり、翌年には助教授、翌翌年には教育学部教授となり、定年退任後、名誉教授となった。多くの英文学研究や翻訳で知られ、終生、芥川龍之介に傾倒し続けた(以上は当該ウィキ及び新全集「人名解説索引」に拠った)。

「ランヴィタシオン・オウ・ヴォアイヤアヂュ」ボードレールが没してから二年後の一八六九年に発表された散文詩集「パリの憂鬱」(Le Spleen de Paris)に収録された「旅への誘(いざな)い」(L'Invitation au voyage )個人サイト「LA BOHEME GALANTE  ボエム・ギャラント」のここと(但し、そこに示されてあるのは同題(第一ヴァージョン)の韻文のそれ。詩集「悪の華」(Les Fleurs du mal :詩集初版は一八五七年刊だが、これに載る殆んどの詩篇は一八五〇年までに書かれた。次からが当該詩)、ここと、ここで、原文及び訳(朗読データ付随)が読める。原文のフル・テクストはフランス語の「ウィキソース」のこちらで読める。

「スマトラの忘れなぐさの花」上記詩篇の第六節の末尾に出る。‘un revenez-y de Sumatra’。この「スマトラの忘れな草の花」は、まさにこの大正九(一九二〇)年三月一日発行の『改造』に掲載された「沼」に既に登場している(リンク先は私の古いテクスト)。さらに、「江南游記 三 杭州の一夜(上)」(私のブログ分割版)にも出る。また、私は芥川龍之介が残した現在知られる生涯最後の漢詩(リンク先は私のブログ分割版。注解附き)にも登場していると信じている。因みに、小沢章友はその小説「龍之介地獄変」(二〇〇一年新潮社刊)で頗る印象的に、この言葉を、龍之介が少年の次男多加志に語る形で示している。私の「蒼白 芥川多加志 /附 芥川多加志略年譜」の注で、そこを引用してあるので、是非、読まれたい。そこで僕はこんな風に書いた。

……後の昭和二〇(一九四五)年四月十三日、陸軍第四十九師団歩兵第一〇六連隊(狼一八七〇二)の一兵士となっていた芥川多加志は、ビルマのヤーン県ヤメセン地区の市街戦に於いて、胸部穿透性戦車砲弾破片創により戦死した。享年二十二歳。戦友の一人が、多加志の小指の第二関節を切除し、遺骨として持ち帰ろうと試みたが、その戦友もまた、行方不明となった。従って、慈眼寺のあの龍之介の墓の隣りにある芥川家の墓に、彼の骨は、ない――多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう……

 なお、この「スマトラの忘れなぐさの花」については、西川正二氏の論文「芥川龍之介の植物世界――感応する植物・植物への変容」(『慶応義塾大学日吉紀要 英語英米文学』・二〇一二年三月発行・PDFでこちらからダウン・ロード可能)の「7. スマトラの忘れな草の花」で素晴らしい考察が示されてあるので、是非、読まれたい。

「月」筑摩全集類聚版脚注では、「パリの憂鬱」の「月の恵み」(Les Bienfaits de la lune )のことか、とする。

「薄明り」「パリの憂鬱」の‘Le Crépuscule du soir’。「夕暮れの薄明」。

「窓」「パリの憂鬱」の‘Les Fenêtres’。

「ゴオティエ」フランスの詩人・小説家・劇作家ピエール・ジュール・テオフィル・ゴーティエ(Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)。既出既注

「名高いボオドレエル論」ゴーティエの追悼文と評伝・作家論でもある新版「悪の華」の序文のことか。]

 

 

大正九(一九二〇)年七月八日・田端発信・齋藤茂吉宛

 

拜啓 今月のアララギを讀み御病氣の由承知氣になり候まゝこの狀認め候 御容態如何に候や時節がら隨分御大事になされ度候御職業がら御手落ちは無之事と存候へども念の爲申添へ候

この頃のうん氣にて小說家業もつらく僅に夜凉を迎へては息をつき居り候

   押し照れる月夜靜けみ動かざる鐘の上に馬蠅一つ

歌のやうなもの御一笑下され度候 草々

    七月八日       芥川龍之介

   齋 藤 茂 吉 樣

 

[やぶちゃん注:「うん氣」表面上は「溫氣」で、「暑さ・蒸し暑さ」であるが、これはわざわざひらがなにしたことが、暗に「運氣」、自然界の現象に現れる人間の運勢。天地・人体を貫いて存在するとされた五運と六気、人間の脈にも現れるとして漢方医に重視されたそれが示唆されているものと読む。]

芥川龍之介書簡抄98 / 大正九(一九二〇)年(三) 恒藤恭・雅子宛(彼らの長男信一の逝去を悼む書簡)

 

大正九(一九二〇)年七月三日・田端発信・京都市外下加茂松原中ノ町 恒藤恭樣(書簡末尾に「恒藤雅子樣粧次」とも記す)・七月三日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

君の手紙を見て驚いた 實際驚いた

郵便局の莫迦が始ははがきの㈡を置いて行き㈠は君の手紙と殆同時に來たのだ だから餘計驚いた

さぞ君も奧さんも御力落しだらうと思ふ 比呂志を見てこいつに死なれたらと思ふと君たちの心もちも可成わかるやうな氣がする 僕の子もいやにませてゐるから何だか不安にもなり出した おやぢが君の手紙を讀んで泣いた

おふくろや何かも泣いた 文子は泣きながらぽかんと坐つて「まあどうしたんでせう まあどうしたんでせう」と愚痴のやうな事を云つてゐた 女や老人は淚もろいものだと思つた それが羨しいやうな氣も少しした 二番目の御子さんはどうした?

病氣の名が書いてなかつたが何病かななどと思つてゐる

     悼亡一句

   五月雨や鬼蓮の莟咲きもあへず

    七月二日       芥川龍之介

 恒 藤 恭 樣

二伸

   御悼みの歌一首

 ひんがしの國にかなしき沙羅木(ぼく)の花さきあへぬ朝なるかも

 

 恒 藤 雅 子 樣 粧次     芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)によれば、畏友恒藤恭(旧姓井川)と雅子夫妻の間には、大正六年に『長男信一が誕生したが、この年の六月二二日疫痢のために急逝した』とある。

「比呂志」既に見た通り、この三月前の四月十日に長男比呂志が生まれている。

「二番目の御子さん」石割氏の前掲書に、『恒藤の次男、武二は』、この前年の大正八(一九一九)年『八月誕生』とある。

「悼亡」(たうばう(とうぼう))は、ごく近しい人の死を悲しむこと。厳密には中国で「妻の死」を指した。中国には「悼亡詩」という妻の死を悲しむ詩群・ジャンルが存在する。中国では自身の妻に対する愛情を公然と表白することは避けられたが(妻は一族の者とは認められない伝統があるからである。さればこそ結婚しても姓は変わらないのである。中国や朝鮮の方が夫婦別姓で進んでいるなどとのたもうとんでもない輩がいるが、逆に極めて差別されていた故の別姓であったのである)、北宋の詩人梅堯臣が、その悼亡詩で「見盡人間婦 無如美且賢」(人間(じんかん)の婦(つま)を見盡くすも 如(か)くも美しく且つ賢なるは無し)と詠じたように(全篇は、優れた漢詩サイト「詩詞世界 二千七百首詳註 碇豊長の漢詩」のこちらを参照されたい)、悼亡詩の中でのみは許された。濫觴は西晋の潘岳に始まり、六朝時代に盛行したが、一時はマンネリズムに陥り、中絶したものの、中唐の韋応物や元稹が新たな生命を吹きこみ,詩の一ジャンルとして定着した。因みに芥川龍之介は悼亡句の達人であると私は思っている。

「鬼蓮」(おにばす)は双子葉植物綱スイレン(睡蓮)目スイレン科オニバス(鬼蓮)属オニバス Euryale ferox 。博物誌は私の大和本草卷之八 草之四 水草類 芡蓮(をにはす) (オニバス)」を参照されたい

「沙羅木(ぼく)」は「さらぼく」(「しやら(しゃら)ぼく」とも読む。ここではどちらであるかは断定出来ないが、晩年の絶唱「沙羅の花」から考えると、「さらぼく」であると思う。「やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成 Ⅰ ■1 旧全集「詩歌二」の内の十二篇」も参照)と読み、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli の別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹フタバガキ科  Dipterocarpaceaeの娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta )に擬せられた命名といわれ、実際に各地の寺院にこのナツツバキが「沙羅双樹」と称して植えられていることが多い。花期は六月~七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートル程度で五弁で白く、雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し、夕方には落花する一日花である(ここは主にウィキの「ナツツバキ」及び「サラソウジュ」に拠った。グーグル画像検索「Stewartia pseudocamelli もリンクしておく)。「沙羅双樹」に無常を匂わせた一首である。]

芥川龍之介書簡抄97 / 大正九(一九二〇)年(二) 四通

 

大正九(一九二〇)年五月十八日・田端発信・小穴隆一宛

 

     ふと君の事を思ひ出したる歌

   つゆぐもの光かそけし隆一は鼻の先見てけふもゐるらむ

   君が畫をかけてわがゐる草の家の天(あま)響かせて降る大雨かも

    五月十八日         我   鬼

   隆 一 樣

 

 

大正九(一九二〇)年五月二十二日・佐野宛(下書き)

 

啓この間は御祝下さつて難有う存じました

奧さんも御變りありませんか 御子樣はまだ御一人ですか

   はつなつはまどにあかるしまどのへのゆり籃(ご)のあかごなかんともせず

    五月廿二日         我   鬼

   佐 野 先 生 梧右

 

[やぶちゃん注:これは、百%、旧海軍機関学校時代の同僚佐野慶造宛である。「奥さん」は無論、かの芥川龍之介が愛した花子である。「御子樣」とは後の昭和四八(一九七三)年短歌新聞社刊の佐野花子・山田芳子著「芥川龍之介の思い出」(「彩光叢書」第八篇)を出版した二人の娘旧姓佐野芳子のことである。私の『佐野花子「芥川龍之介の思い出」(原文のみ)』をリンクさせておく。

「御祝」四月十日の龍之介の長男比呂志の誕生祝いへの返礼と思われる。]

 

 

大正九(一九二〇)年五月二十三日・宮澤虎雄宛(下書き)

 

啓先達は御祝辭難有う 別封哲學會雜誌所載の土居光知氏の論文面白いと思ふから御送りする 讀んで見てくれ給へ 暇があつたら橫須賀へ行つて諸先生に拜謁の光榮を得たい 頓首

   五月廿三日          我 鬼 生

  宮 澤 先 生 梧右

 

     宮澤先生淸鑒

   おそ春の入日きびしも平坂を宮澤虎雄今かねるらむ

   わが宿の橿(かし)の若葉にさす入日光かなしきを君は知らざらむ

   うち日さす宮澤虎雄今もかもうたひてあらん觀世の謠

                  我   鬼

 

[やぶちゃん注:「宮澤虎雄」海軍機関学校時代の同僚。物理担当。心霊学に関心を持ち、芥川の善人者浅野和三郎とも親しかった。芥川とは遠慮のない便りを交換し、宮澤は芥川に「紅楼夢」を贈っている(新全集「人名解説索引」に拠った)。名古屋大学大学院法学研究科公式サイト内の「日本研究のための歴史 情報『人事興信録』データベース」のこちらによれば、明治一九(一八八六)年一月生まれで(没年未詳)龍之介より六つ年上で、『海軍教授兼海軍技師、海軍機關學校教官』とあり、『東京府士族宮澤栞の二男にして』、『大正十四』(一九二五)『年家督を相續す先是明治四十二』(一九〇九)『年東京帝國大學理科大學實驗物理科を卒業し』、『同四十三年海軍機關學校物理學教授を囑託され』、『同四十五年海軍教授同機關學校教官に任ぜられ』、『練習艦隊司令部附呉海軍工廠水雷部々員舞鶴要港部々員に歷補し』、『現時前記官職にあり』とある(昭和三(一九二八)年七月時点の情報)。情報時は東京小石川大塚仲町に居住していた。彼は旧「東京心靈科學協會」の会員で、戦後の昭和二一(一九四六)年に設立された「財団法人日本心霊科学協会」の創設者の一人でもあり(同財団公式サイトの歴史年表にも名前がある)、国立情報学研究所公式サイトの「Webcat Plusのこちらには、編著に日本心霊科学協会刊の「死後の真相」「霊魂の世界  心霊科学入門」という著書もあるようであり、そこにある出版年は戦後で、或いは一九七六年時点では存命(とすれば九十歳)だったのかも知れない。

「土居光知」(どいこうち 明治一九(一八八六)年~昭和五四(一九七九)年)は英文学者・古典学者。当該ウィキによれば、『高知県生まれ。東京帝国大学卒業。イギリス、フランス、イタリアに留学。立正大学教員、東京女子大学教授、東京高等師範学校教授を経て』、大正一三(一九二四)年に『東北帝国大学教授』となり、退職『後に津田塾大学教授をつとめた。日本英文学会会長』でもあった。『専攻は英国浪漫主義で、ジェイムズ・ジョイス、D・H・ロレンス、オルダス・ハクスリーを紹介した。文化人類学、比較神話学を学び、古代文藝、東西比較文学などを行い、その』「文学序説」(大正一一(一九二二)年岩波書店刊)は『文学研究者の必読書だった。他に』「古代伝説と文学」(昭和三五(一九六〇)年同書店刊)が知られる。また一九四七年七月十九日に『産声を上げた、世界で最初の民間ユネスコ運動「仙台ユネスコ協力会」の創始者の一人。当時のUNESCO(パリ本部)の事務局長あてに起草したメッセージは、日本の民間ユネスコ運動を世界に伝える第一報となったが、その手紙は戦後の窮乏生活のため、土居宅にあった障子紙に書かれていた』とある。ここで、芥川龍之介が送ったそれは、調べたところ、『哲學會雜誌』第三十五巻(大正九(一九二〇) 年度発行)の土居光知の論説「日本文學を通じて見たる文化の展開」であることが判った。

「淸鑒」(せいかん:「清鑑」に同じ)は、他人の鑑識の優れていることを敬っていう語。自分の詩文・書画などを人に見てもらうときなどに使用する。

「平坂」筑摩全集類聚版脚注は『不詳』とするが、私は横須賀の坂の名ではないかと直感した。則ち、「ねる」は「練る」で「そろそろと行く」の意ではないかと。調べてみると、「坂学会」公式サイト内のこちらに、横須賀市若松町二丁目及び三丁目の間から、上町一丁目及び深田台の間までの坂道「平坂」があった。リンク先に地図もある。

「うち日さす」「うちひさす」は「日の光が輝く」の意から、万葉以来の「宮」「都」に掛かる枕詞である。]

 

 

大正九(一九二〇)年六月三十日・田端発信(私の推定)・森幸枝宛(封筒欠)

 

冠省 玉簪をありがたう但し祖母樣のものをとりなぞしてはいけません あの簪はわたしが頂戴しますからその代りにあなた何か祖母樣に買つてお上げなさい 寫眞は事によるとなくなります 萬一なくなつたら 前向きの寫眞にします どちらでも好いのでせう 玉簪の歌を製造しました次手に御拜聽なさい

 玉簪はうるみゐにけりなが雨はいまだ晴れずと思ひけるかな

 手にとれば重きものかな玉簪の花つややかにうるめるあはれさ

  六月卅日         我 鬼 生

 森 幸 枝 樣 粧次

 

[やぶちゃん注:「森幸枝」なるさわまや氏のサイト「芥川龍之介私的データベース」の「人名録」によれば、『静岡県出身。静岡高女卒』。『日本女子大学校国文科在学中で小説家を目指しており』、この大正九年三月十七日に『初めて芥川に会った』。『以来』、『幸枝は、芥川に、博多人形・菓子などを贈り』(ここでの「玉簪」もそうした龍之介の気を引くための贈り物の一つとせば、甚だ腑に落ちる)、『翌年』八『月頃まで交際があった』。この二ヶ月後の大正九年八月『頃、縁談が起こり、中退して竹内猪之介と結婚したが』、『まもなく離婚。杵屋勝吉次について長唄を習ううちに彼に恋し、周囲の反対も聞かず』五、六歳年下であった『杵屋と結婚した。しかし、生活は苦しく』、『加えて結核に冒され』、昭和五(一九三〇)年四月に二十七歳で『死去した』。『幸枝は、芥川のほかに市川猿之助とも関係があったといわれ』ている、とある。新全集「人名解説索引」には、生没年は示さず、『女流作家を目指していた』。『芥川好みの美人であったとの和田芳恵』(明治三九(一九〇六)年~昭和五二(一九七七)年:男性で小説家・文芸評論家)『の証言がある』とある。前の引用の末尾や和田の謂いからは、芥川龍之介の軽い恋愛対象者の一人であった可能性が高い。

「玉簪」「たまかんざし」或いは「ぎよくしん」(短歌ではそう詠んでいるか)で、玉(ぎょく)で美しく飾った簪(かんざし)のこと。

「寫眞」これは恐らくは龍之介に作家修行を乞うた森幸枝が、芥川龍之介の例のかの右斜めを向いた肖像写真のことを龍之介或いは誰かから耳にし、「欲しい」と望んだのではなかったか?

日本山海名産図会 第二巻 山蛤(あかかへる)

 


Akagaeru

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「山蛤(あかかへる)」。]

 

  ○山蛤(あかかへる)

山城嵯峩又は丹波・播州小夜の山より多く出す。又、攝津神嵜(かんさき)の邊にも出だせども、其の性(せい)、宜しからず。凡、笹原・茅野原のくまにありて、是れをとるには、小き䋄にて伏せ、又、唐䋄(からあみ)のごとくなる物の龍頭(りうづ)を両手に挾み、こまを𢌞すことくひねりて打ては、䋄、「きりゝ」と、まはりて、三尺四寸ばかりに廣がるなり。かく、し得て、腸(はらわた)を拔き、乾物(かんぶつ)として出だす。其の色、桃色、繻子(しゆす)のごとし。手足、甚だ長く、目は扇(あふぎ)の要(かなめ)に似たり。但し、今、市中(しちう)に售(う)るもの、僞物(ぎぶつ)多し。○「本草綱目」に、『山蛤(さんかう)は蝦蟇(かま)より大きく、色、黄なり。』とありて、日本の物には符合せず。國を異(こと)にするのゆへもあるか。「大和本草」に、長明「無名抄(むみやうしやう)」[やぶちゃん注:「無」は(れっか)のない異体字。]を引きて、『井堤(いて)の蛙(かはづ)、是れなり。晚(くれ)に鳴きて、常のかわづに變れり。色黑き樣(やう)にて、大きにもあらず。』といふて、山蛤(さんかう)に充てたるは、おぼつかなし。

[やぶちゃん注:乾して食用・薬用とするとあり、日本固有種の無尾目 Neobatrachia 亜目アカガエル科アカガエル属アカガエル亜属ヤマアカガエル Rana ornativentris に比定する。但し、古くは、日本固有種の平地に棲息する近縁種で嘗ては普通に見た(近年はヤマアカガエルよりも有意に減少した)ニホンアカガエル Rana japonica も同様に食用にしたから、並置する必要がある。それぞれはウィキの「ヤマアカガエル」、及び、ウィキの「ニホンアカガエル」を見られたいが、カエル類の総論である私の「大和本草卷十四 陸蟲 蝦蟆(がま/かへる) (カエル類)」がとりあえずあるものの、博物誌的には「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蝦蟇(かへる)」及び「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蛙(あまがえる)」の方が参考になろう。なお、アカガエルの食味については、私の高校時代の尊敬していた生物の先生は「アカガエルは鶏肉のようにヒジョーに美味い!」としばしば仰っていた。私はニホンアカガエルを食ったことは今までない。ヒジョーに残念である。なお、江戸時代にその鳴き声を楽しんで、生きたまま贈答にすることが一般に流行った無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル属カジカガエル Buergeria buergeri については、作者は「第四巻 河鹿」で非常に詳細な考証を行っているので、是非、見られたい。

「播州小夜の山」これを知られた静岡県掛川市佐夜鹿(さよしか)の「小夜の中山」ととると、並置されている京阪の地域から、これだけが異質に遠く飛んでしまうので、違和感がある。当初より、私は「播州小夜」の「山」間部の意で考えていた。それは、兵庫県内の山間部に嘗て「さよ」と呼ばれた地名があるからである。現在の兵庫県佐用(さよう)郡佐用町(さようちょう)である(グーグル・マップ・データ)。「播磨風土記」には『讚容(さよ)の郡(こほり)』と出、伝承として『五月夜(さよ)の郡と號(なづ)け、神を贊用都比賣(さよつひめ)の命(みこと)と名づく。今に讚容(さよ)の町田(まちだ)あり』とある。ロケーションとしてもヤマアカガエルの棲息地として問題がない。

「攝津神嵜(かんさき)」思うにこれは、現在の地名(大阪城南西に神崎町がある)ではなく、現在は淀川と安威(あい)川を結んでいる神崎川付近を指すのではないと考える。なお、兵庫県に恰好な山間部の神崎郡があるが、ここは旧播磨国であるから、違う。

「笹原・茅野原」(孰れも一般名詞)「のくま」「くま」は「隈」で草葉の陰。

「唐䋄(からあみ)」投網の異名。以下、そうした投網様(よう)の大きな『物の龍頭(りうづ)』(網の中央にあたかも梵鐘の龍頭のように突出した輪っかがあり、そこ『を両手に挾み、こま』(独楽)『を𢌞すことくひねりて打ては、䋄、「きりゝ」と、まはりて、三尺四寸』(一メートル三センチ四方)『ばかりに廣がるなり』と、広い範囲で蛙を文字通り一網打尽にする猟法もあるということである。挿絵の左手の男がそれを持って今にも七匹ほどのそれを獲ろうしている。

「繻子(しゆす)」布面(ぬのおもて)が滑らかで、つやがあり、縦糸又は横糸を浮かして織った織物。

「僞物(ぎぶつ)多し」何を用いた偽物か記しておいて欲しかった。ヒキガエルその他の種をミイラにすれば、まあ、見分けはつかんかものね。

『「本草綱目」に、『山蛤(さんかう)は蝦蟇(かま)より大きく、色、黄なり。』とありて、日本の物には符合せず』巻四十二の「蟲之四」に、

   *

山蛤【宋「圖經」。】  校正【原(もと)は「蝦蟇(がま)」の下に附す。今、分出す。】

集解【頌曰はく、「山蛤は山石中に在り。藏(かく)れ蟄す。蝦蟇に似て、大きく、黃色。能く、氣を吞み、風露を飮み、雜蟲を食らはず。山人、亦、之れを食ふ。】

主治 小兒勞瘦及び疳疾に最も良し。【蘓頌。】

   *

とあり、風体から見ても、恐らく本邦に棲息しない無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae の一種ではないかと私は踏んでいる。「蛤」という漢語にはカエルの一種或いはカジカガエルの仲間を指す意味がある。

『「大和本草」に、長明「無名抄(むみやうしやう)」[やぶちゃん注:「無」は(れっか)のない異体字。]を引きて、『井堤(いて)の蛙(かはづ)、是れなり。晚(くれ)に鳴きて、常のかわづに變れり。色黑き樣(やう)にて、大きにもあらず。』といふて、山蛤(さんかう)に充てたるは、おぼつかなし』「大和本草卷十四 陸蟲 山蝦蟆(やまかへる) (カジカガエル)」を参照。確かに、益軒の最後の『「本草」に「山蛤(さんがふ)」あり。『蝦蟆に似て、大に、黃色』とあり。是れ、「井堤のかはづ」』(これはカジカガエル特定済み)『と同じきか。』とあるのは、根拠もなく(カジカガエルはヒキガエルに似ていないし、黄色くもない)、極めて安易で受け入られない。]

2021/07/19

日本山海名産図会 第二巻 吉野葛

 

Yosinokuzu

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「吉野葛(よしのくず)」。]

 

  ○ 葛(くず) 葛穀(かつこく) 一名 鹿豆(ろくとう)

蔓草(つるくさ)なり。根を食らふ。是れを「葛根(かつこん)」といふ。粉(こ)とするを「葛粉」といふ。吉野より出だすもの、上品とす。今は紀州に「六郞太夫」といふを賞す。もつとも佳味(かみ)なり。是れ、全く他物を加わへざるゆへなるべし。草は山野とも自然生(しぜんせい)多く、中華には家園(には)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]に種えて「家葛(かかつ)」と云う。野生のものを「野葛(やかつ)」といふ。日本にては家園(には)に栽ゆること、なし。葉は遍豆(いんけんまめ)に似て、三葉(さんよう)一所に着きて、三尖(みつかど)。小豆(あづき)の葉のごときもあり。莖・葉とも毛茸(け)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]ありて、七月ころ、紫赤(むらさき)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]の花を開きて紫藤花(ふじのはな)[やぶちゃん注:三字へのルビ。]のごとし。穗を成して、下に垂れる。長さ三寸斗り。莢(さや)を結びて、是れ又、毛あり。冬月(ふゆ)、根を堀りて、石盤にて、打ち※(くだ)き[やぶちゃん注:「※」=「扌」+「叩」。]、汁を去り、金杵(かなきね)にてよく舂き細屑末(こまかきこ)[やぶちゃん注:三字へのルビ。]となして、水飛(すいひ)、數度(すど)に、飽(あ)かしめ、盆に盛りて、日に暴(さら)し、桶に納めて出だす【和方書、是を「水粉」といふ。】○葛根(かつこん)は藥肆(くすりや)に生乾(きほし)・暴乾(さらし)の二品あり。○蔓は、水に浸し、皮を去り、編み連(つら)ねて、器とし、是れを「葛簏(ふちこち)」といひて水口(みなくち)に製するもの、是なり。葛篭(つゞら)は蔓をつらねたるの名なり。○葛布(くづぬの)は、蔓を煮て、苧のごとく、裂き、紡(う)を績(つむ)きて、織るなり。「詩經」に「絺綌(ちげき)」と云は。「絺」は「細糸」、「綌」は「太き糸」にて、古へ、中華に織るもの、今の越後縮(えちごちゝみ)のごときもありと見たへり。○「クス」と云ふは、「細屑(くづ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]」の儀にて、「水粉(すいふん)」につきての名にして、草の本名は「葛(ふぢ)」なり。「フヂ」は即ち、「鞭(ぶち)」なり。古製(こせい)、是れをもつて「鞭(むち)」とす。故に号(なづ)けて、「喪服」を「葛衣(ふぢごろも)」といふは「葛布」なればなり。

[やぶちゃん注:以下、最後まで一字下げ。但し、後の二箇所の「○」の記号だけは下げがない。]

これ、蔓・葉・根・花(くわ)・皮ともに、民用に益あり。故に遠村の民は、親屬、手を携へ、山居(さんきよ)して、堀り食らひ、高く生ひて、粉なき時は、山下(さんか)に出でて、これを紡績(はうせき)す。皆、人に益し、救ふ事、五穀に亞(つ)げり。○蕨根(わらびのね)も亦、是れに亞(つ)きて、同しく「水粉(すいふん)」とす。其の品は賤しけれども、人の飢へを救ふにおゐては、その功用、變ること、なし。伯夷(はくゐ)・叔齋(しゆくせい)が、首陽の山居も、此れによりて生(せい)を保てり。【僞物(きぶつ)は生麩(せいふ)をくわへて、制し、味、甚だ、佳(くわ)ならす。】

○此の余(よ)、葛粉(かつふん)の功用、甚だ、多し。或ひは餠、又は、水麵(すいとん)に制し、白粉(おしろひ)に和(くわ)し、糊(のり)に適(てき)し、料理の調味なと、さまざま、人に益す。○或る書に云わく、『葛、よく、毒を除く。』といへども、其の根、土に入ること、五、六寸以上を「葛膽(かつたん)」といひて、これ、頸(がふ)なり。これを服すれば、人に吐(と)せしむ。

[やぶちゃん注:マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属クズ変種クズ Pueraria montana var. lobata 。私の家の県道方向に向かった斜面は一面の葛で覆い尽くされてしまっている。亡き母が丹精込めて育てた紫陽花もすっかり覆われて、殆んど花を咲かせなくなってしまった……

「六郞太夫」このブランドは現在は残っていない模様である。

「遍豆(いんけんまめ)」我々は当然の如く、マメ目マメ科インゲンマメ属インゲンマメ Phaseolus vulgaris を想起するが、しかし、ではインゲンマメとクズは似ているかというと、私は似ていないと思う。而して、作者は恐らくは浪速大坂の人間である。さすれば、西日本では別にインゲンマメでないものを「インゲンマメ」と呼んでおり、それはマメ亜科インゲンマメ連フジマメ属フジマメ Lablab purpureus で、同種はクズに草体は勿論、花もちょいと似ている(ウィキの「フジマメ」の画像リンク)から、ここはフジマメのことととる。

「三葉(さんよう)一所に着きて、三尖(みつかど)」クズの葉は大型の三出複葉。当該ウィキの葉の写真をリンクさせておく。御覧の通り、「三尖(みつかど)」とは、一つの葉自体が小葉で三方へ尖ることを言っている。

「小豆(あづき)」マメ亜科ササゲ属アズキ Vigna angularis 。クズの若い個体の場合は、葉が似ているかも知れない。

「莖・葉とも毛茸(け)あり」葉の裏面は白い毛が密生しており、白色を帯びている。

「紫赤(むらさき)の花」当該ウィキの花の写真をリンクさせておく。うちの斜面では、もさもさ過ぎて、花一つだに見えぬ哀しさ……

「紫藤花(ふじのはな)」マメ亜科フジ連フジ属フジ Wisteria floribunda 。小さな頃は、周囲の山々に幾らも咲いて、私の好きな花だったに。裏山の直近の藤沢の渓谷は本当に藤の沢だったに。今は完璧な住宅地に変貌してしまった。ウナギもカワエビもタニシもモッゴもウシガエルもアメリカアリガニもゴマンといたのに……

「水飛(すいひ)、數度(すど)に、飽(あ)かしめ」意味不明。前に出た「陶器(やきもの)」の文中では、「水干(すいひ)」で出、「水」で精製して、後に、しっかり「水」分を「飛」ばして「干」し上げることの意で用いていた。ここもそれをこれでもかと、複数回、「飽」きるぐらいに繰り返してやることの意味でとっておく。

「和方書」日本の本草書・農学書。

「葛根(かつこん)」基原植物は本原種の周皮を除いた根を乾燥したもので、「葛根湯」で現在もお馴染みの風邪薬・解熱鎮痛消炎薬に配合されている。なお、ウィキの「クズ」によれば、『花は可食で、シロップ漬け』『や天ぷらなどにすることができる。ただし』、『他のマメ科植物同様にレクチンを中心とした配糖体の毒性が含まれており、多量に摂取すると吐き気、嘔吐、眩暈、下痢、胃痛などを起こすおそれもあるため、あまり食用には適していない。加熱されていない種子は食中毒の可能性がより高くなる。その他に、樹皮や莢にはウイスタリン(wistarin)、種子には有毒性アルカロイドの一種であるシチシン(cytisine)が存在するという報告も上がっている』とあるので、要注意である。

「葛簏(ふちこち)」不詳。「簏」は「すり」と読んで、特に上代から中古に於いて、旅行の際などに携行した竹で編んだ籠状の小箱のことである。「あまはこ」とも。ここはしかし、クズの蔓で製した繩のことのようには思われる。

「水口(みなくち)」炊事場の水を引き入れたり、放出したりする口のことか。しかし、どこにどんな風に使うのか今一つ、私には判らない。識者の御教授を乞う。

「苧」は「を」或いは「からむし」。イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea の繊維を撚り合わせて糸や紐にしたもの。

「詩經」「絺綌(ちげき)」「詩経」の「国風」の「周南」にある「葛覃(かつたん)」の一節。

   *

葛之覃兮

施于中谷

維葉莫莫

是刈是濩

爲絺爲綌

服之無斁

 葛の覃(の)びて

 中谷(ちゆうこく)に施(いた)る

 維(これ) 葉 莫莫たり

 是(ここ)に刈り 是に濩(に)て

 絺(ち)と爲し 綌(げき)と爲し

 之れを服(ふく)して斁(いと)ふ無し

   *

全篇はサイト「漢詩と中国文化」のこちらがよい。「濩」は「煮」に同じ。「斁」は「厭」に同じで「厭(いや)になる」の意。思うに、これは婚姻後に女の主たる仕事となる着物を織る労働と、婚家と実家のいやさかを言祝いだ嫁入りの民謡であろう。詩篇の終わりは「歸寧父母」(歸(とつ)ぎて 父母を寧(やす)んぜん)である。

「越後縮(えちごちゝみ)」「織布」の私の注を参照。

「水粉(すいふん)」水に溶かして食用・水白粉(おしろい)などに使うものを言っているのであろう。

『草の本名は「葛(ふぢ)」なり』古くから「藤葛(ふぢかづら)」の呼称ああり、藤やなどの茎が他の物に巻きつく性質をもった植物の総称であったから、この謂いは奇異ではない。

『「フヂ」は即ち、「鞭(ぶち)」なり。古製(こせい)、是れをもつて「鞭(むち)」とす』これは一説としてはあってもいいが、私にはいかにも怪しく感じられる。因みに、小学館「日本国語大辞典」の「藤」の語源説にはこれは出ていないから、主要な説の一つとは言えないのではなかろうか。

『故に号(なづ)けて、「喪服」を「葛衣(ふぢごろも)」といふは「葛布」なればなり』平凡社「世界大百科事典」の「藤布」に、『木綿の伝わる中世末期までは植物性繊維として』、『アサ(麻)についで栲(たえ)などとともに庶民の間には広く行われていたと思われる。藤衣(ふじごろも)というのが公家(くげ)の服飾の中で喪服として用いられたが』、『これはもともと』は『粗末なものを用いることをたてまえとする喪服が』、『庶民の衣服材料である麻布や藤布で作られたため』、『このように称したのであろう』とある。この頭の「故に号(なづ)けて」というふりかざし方が何を指しているのか判らず、却ってはったりの感じを与えてよくない。

「生麩(せいふ)」小麦粉を水で練ったもの。

『「葛膽(かつたん)」といひて、これ、頸(がふ)なり。これを服すれば、人に吐(と)せしむ』「頸(がふ)」の読み不詳。謂わば、葛の精髄(「熊の胆」みたような)(頸=脊髄)の意か。これは或いは、先に引用した皮に含まれる有毒物質を指しているのかも知れない。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (7) 三比事に書かれた犯罪心埋

 

      三比事に書かれた犯罪心埋

 

 櫻陰比事の作者井原西鶴、鎌倉比事の作者月辱堂、藤陰比事の作者無名氏が、各々その比事を書くに當つて、犯罪者なるものに關し、どれ程の硏究をしたかは知る由もないが、もとよりその當時系統立つた犯罪學書のあつた譯ではなし、又、彼等自身が犯罪者について特別な硏究をしたとも思はれず、恐らく、直觀によつて書きなぐつたものであるにちがひない。彼等は犯罪者が一種特別なタイプに屬する人間であるといふことはもとより知らなかつたであらうし、男性犯罪者の犯罪心理と女性犯罪者のそれとがある點に於て根本的にちがつて居るといふことなどもはつきり意誠して居なかつたであらうと思はれる。三比事の各種の物語中に、犯罪者の特種の容貌の描かれて居るのは一つもなく、又、女性が中心となつて居る犯罪の數は、男性が中心となつて居るものゝ十分の一にも達しない。尤も現今の探偵小說でも男性犯人を取り扱つたものが女性犯人を取り扱つたものよりも遙かに多いから、或は當然の現象といつて差支ないかもしれぬ。もともと探偵小說は興味を中心として書かれるものであるから、多くの作者は犯罪心理の考察などは第二の問題として居るらしく、現今の歐米の探偵小說を見ても、犯罪學者の硏究に資し得べきものは極めて少ないのであるから、日本犯罪文學の搖籃期を作つた犯罪探偵物語の犯罪心理を考察するなどは野暮の骨頂かもしれない。然し乍ら三比事の中には、作者が知つてか知らずにか、犯罪者の特殊な心理を巧みに描いて居る物語があるから、後に近松巢林子《さうりんし》などの文學を考察する際の比較のために、その二三を紹介して置かうと思ふのである。[やぶちゃん注:「近松巢林子」近松門左衛門(承応二(一六五三)年~享保九(一七二五)年)の号の一つ。既に注してあるが、再掲すると、井原西鶴著「櫻陰比事」は元禄二(一六八九)年刊、月尋堂著「鎌倉(けんさう)比事」、作者不詳の「桃陰比事」(後に「藤陰比事」は宝永六(一七〇九)年刊。近松の「最初の世話物」とされる名作「曽根崎心中」は元禄一六(一七〇三)年の上演である。]

 犯罪者の心理を應用して探偵の實《じつ》をあげる物語については既に述べたところであるから、こゝではまづ鎌倉比事と櫻陰比事に描かれた女性の犯罪心理について述べて見よう。[やぶちゃん注:不木の謂いでは順序が逆で、以下は「櫻陰比事」の巻三の「九」に「妻に泣(なか)する梢の鶯」である。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本ではここから。]

 むかし都の町千本通りに一人の浪人があつた。音曲の名人で大名方へ呼ばれては生活を立てゝ居たが、あるとき某家に招かれると、庭に鶯が來て居て、主人は何とかしてあの鶯を飼鳥にしたいものだと言つたので、浪人はすぐ樣西の京の餌差《ゑさし》をよんで來て鶯を捕へさせた。主人は大に喜んで澤山の褒美を與へたので、浪人が翌目餌差のところへ挨拶に行く と、餌差の女房は浪人につかみついて、『良人をどこへ連れて行つのか』と泣きながらきめつけた。浪人は驚いて少しも知らぬといつたが女房はいつかな間き入れず、遂に御前へ訴へ出た。拷間の結果浪人はいさぎよく罪を引き受けて、自分の家で殺したといつたので、女房はさもさも悲しさうに浪人を怨んで泣いた。そこで御前は浪人に向つて、死體の在所をたづねられたが、意外にも浪人は言葉につまつたので、御前は犯人が別にあると睨み、死體を探させになると、餌差は以外にも竹田道で斬殺され居たので、御前は女房に向つて、多分强盜の仕業であらうが、不運とあきらめて良人の冥福を祈るがよい、明後十九日は、自分の家の法事をするので、お前の良人のためにも弔料《とむらひれう》を少し與へたいから、身内のものか、懇意のものを取りによこすがよいと諭して、女房を御かへしになつた。さて十九日になると年頃二十四五の男が弔料を取りに來たので、召捕つて色々拷問すると、たうとう、女房と密通し、二人で謀つて餌差を殺した旨を自白した。[やぶちゃん注:「餌差」ここでは単に小鳥を糯竿(もちざお)で刺して獲ることを生業としている者のことを指す。]

 大岡政談の『鐡砲彌市の件』といふ物語もこれと同じやうな筋であるが、自分が殺す計畫をして置き乍ら、さもさも悲しいやうに裝ふ女性の犯罪心理は、この短い物語に、はつきり寫し出されて居る。女のかやうな僞善的な惡魔的な心は、姦夫といへども後には呆れ恐れるものであつて、鎌倉比事の『情は敵、怨は恩』の一篇の如きは、この間の消息を遺憾なく傳へて居る。[やぶちゃん注:「大岡政談の『鐡砲彌市の件』」国立国会図書館デジタルコレクションの「繪本大岡政談大全」(明二六(一八九三)年聚栄堂刊)のこちらから読める。但し、明治書院平成五(一九九三)年刊の「対訳西鶴全集」第十一巻「本朝櫻陰比事」の注によれば、『本章に酷似する話に、『棠陰比事物語』一の二七、「李傑買ㇾ棺」がある。これは『太平広記』一七一「李傑」(国史異纂)とほぼ同じ内容である』とある。前者は国立国会図書館デジタルコレクションの寛永年間板行の「棠陰比事物語」のここから読めが、草書体でかなり読みにくい。後者は「中國哲學書電子化計劃」のここから影印本で読める。一番いいのは、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の山本北山閲になる訓点附きの刊本がよい。ここPDF)の293031コマ目である。「棠陰比事」原拠のその話はもっと救い難く、寡婦が実の息子を親不孝として訴え出て、「死罪にしてくれ」と判事である李傑に乞い、傑は「処刑した息子の遺骸を収める棺を買ってくるがよい」と命ずる。しかし、実はそれは、その寡婦が道士と関係しているのを(中国では永く寡婦は死んだ夫の兄弟以外のものとしか再婚は出来なかった)、息子が咎めたことを根に持って、二人で結託してでっち上げたことであることが、傑の命じた捜査によって判明し、傑は最後に寡婦と道士を棒打ちの刑に処して、その棺桶に二人の遺骸を詰め込んで終わる。][やぶちゃん注:以下は、底本では、全体が一字下げ。]

『呂東萊《りよとうらい》が弱きは天下の大害なり、又學者の大患なり、人の善をなさゞるは志《こころざし》をたつる事の弱さ故なりといへり、すべて志のうすく根の弱きものは勞して功なし、善をするは則今よりこそなれ、萬《よろづ》の惡の源は弱きよりなるとなん鎌倉市町に魚屋半助といふ者の女房、あたりちかきも馬醫の新平といふ者と密通して、此四五年の間、夫半助七ツ[やぶちゃん注:午前四時頃。]起して魚市に出《いで》たる留守ごとに戀ひ人と不義の枕をかはしぬ。又も夫市に行きたるをうかゞひて新平忍び入けるところへ、半助道より小もどりして、今朝は霧ふかく風もはげし、我はとても道を行けば寒きを厭《いと》[やぶちゃん注:底本は「壓」であるが、訂した。]はんやうもなし、跡にてねざめ寒く、嘸《さぞ》くるしからん、此羽織を上に着よとて脫ぎ捨て走り行ぬ。女房跡にて、扨もうつけかな、己が寒きを苦にせいでと言ふを、密夫新平聞て淚を流し、夫の有る身として我になじむさへ恐ろしきに、夫の深き志をもわきまへず、惡言に及ぶ心底いかにしても堪忍なりがたしとて取て引よせ、たゞ一刀にさし殺して歸りぬ。其後夫歸りて盜人のしわざか不便やと歎く體《てい》、なほ新平心にこたヘてかなしく、我と此段々を書き附けて、最明寺殿へ申し上げ、密夫の御仕置のがれがたしと、いさぎよき覺悟の心底を御前にも御感じあつて、命を助け、此魚賣が奴《やつこ》[やぶちゃん注:下男。]となし扨《さて》殺されたる女房の死骸とならびに密夫新平と言ふ名ばかりを書附けて、諸人にさらし見せしめになし給ひぬ。最明寺殿の御慈悲、新平が誠、半助が情、時の人感じて、いよいよ女の死骸に唾をはきけるとなり。』[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの影印本ではここから。「呂東萊」は南宋の朱子学の源流に位置する儒学者呂祖謙(一一三七年~一一八一年)の通称。]

 誠に立派な一篇の悲劇である。作者が、萬の惡の源を、『弱』に歸して居るのも、中々面白い考へだと思ふ。然し私たちは、女性の弱さが、ある場合には、『裝はれたる弱さ』てあることを忘れてはならない。

 私は拙著『近代犯罪硏究』の中に『自白の心理』と題して、犯罪者が、その罪を自由するに至る心理の數々を述べたが、藤陰比事には、先天性犯罪者に見られる打算的な自白心理を取り扱つた、『大赦に漏る自業の訴訟』といふ一篇があるから、左に紹介しよう。[やぶちゃん注:「近代犯罪硏究」は大正一四(一九二五)年春陽堂刊。幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇が読める。当該箇所はここから。なお、以下は底本では全体が一字下げ。「国文研データセット」版では、巻五の、標題は「㊀自業自得の火焙り」。ここと、ここと、ここと(見開き挿絵のみ)、ここ。]

『乍ㇾ言上仕候、私儀は山科より伏見へ每日のぼりくだりの步荷物《かちにもつ》を渡仕に仕り候久助と申すものにて御座候、當月二十一日大津の問屋《といや》、北國《ほくこく》より上り候ふ干鱈干鮭蒸鰈の荷物、ふし見へ持まゐれのよし、不斷出入仕候へぱ、大分の金銀にても、請取り申ほど數年顏見しられ、右の荷物をも相認《あひしたため》て狼谷《おほかみだに》の茶屋にかたを休め罷在候うち、一荷《いつか》ゆく方なくとられ申候につき、みちすぢ追かけ、ぎん味仕候へば、いなろりへにて右の荷物を荷ひ行《ゆき》候ものをとらへ、奪ひかへし申べく存候所、此盜人竹田髭六《ひげろく》と申す强力《がうりき》の雲助にて、かヘつて橫道《わうだう》[やぶちゃん注:道理から外れた不正な行為。]を申懸けかへし申さず候を、ねぢあひたゝきあひ申すにより、近所の者共出合、右の段々を申ことわり、町中へ預け置罷り候間、召出され、急度《きつと》荷物を返し候上、如何樣共《いかやうなるとも》被仰付可被下候はゞ、忝可ㇾ奉ㇾ存候以上

  月  日     にあげ 久 助 判

 地頭聞召しあげられ、大津の問屋ならびに、かの髭六を預け置たるいなり町の者共まで召出され、御穿鑿ありければ、髭六ちんじて私盜みたるにて御座なく候、麁相にて荷物取ちがへたるなどと申上げけれども、糺明のうへ落度《おつど》極り籠舍《らうしや》仰付られける、二十日あまり過ぎて天ドに大赦行はれねるにより、諸國私領公領の罪人、のこらずたすかりけれ共、此髭六と小罪の者二人そのまゝ籠に殘されしかぱ、此者共訴訟申上げるは、此たびの大赦には、極惡死罪の人數《にんず》さへ出籠仰せつけられ候うへは、我等事少分の御咎のもの共にて御座候へば、早速御たすけ可ㇾ被ㇾ下所、そのままこれあり苦しみ候間、急に出籠仰付られ下され候はば、有がたかるべきだん申上ければ、目代、これは御前へ申上るに及ばざる儀なり、其仔細は、最前籠舍御ゆるされありしもの共は、大罪の者共にて、かならず死罪に極りたる故に、早速御免ありしなり、其方共はいまだ、御仕置の品さだまりがたき程の小罪の故に相殘りたり、直訴申上たりともかなひがたかるべしと申聞せければ、扨は大罪の者はかへつてたすかるならば、我々も人知らぬ大科《おほとが》を申立御免をかうむるべしとて、舊惡をおもひ出して願ひ申上げる、一人は西樂寺の什物を盜み出し、金子百二十兩に賣り博奕を打、五百兩勝て町遊女かゝへてゆるりと渡世したりけるが、此科しる人なし、此度《このたび》籠に入しは、少の事をいひつのり、相手のあたまをたたき破りたりとへども、死ねる程の深手にあらず、され共、さきさまおびたゞしく訴へし故に、當分の籠舍と覺え候なり、大罪右白狀に相違なしと申す、一人は東國がたの者なりしが、十三年已前に生國にて人を切殺し、上方へにげのぽり、似せ銀《がね》を吹て渡世仕り侯へども、人知ることなし、此たびの寵舍はかけ落《おつ》者[やぶちゃん注:徒歩で走る運送業のことであろう。]の羽織をひとつ預りたる少科として、入籠付られけると申す、さて髭六は六年已前に盜賊に入、家内の者を柱にしばりつけ、金銀を取り、その家に火をかけ、首尾よく、その場をのがるといへども、その翌年より七年の間楊梅瘡[やぶちゃん注:梅毒。]を煩ひ、腰ぬけのごとく、大分の藥代等に、かの金銀をのこりなく、漸く命助かり、手と身にてかちにもち、前の惡事、人夢にもしらざうけるが、此たびの荷物わづかなる事にて此仕合と白狀申けるに、大赦の日限ははや過て、籠舍御免なり難く、右二人は磔《はりつけ》にかけられ、髭六は火あぶりになりけるとなり。』[やぶちゃん注:べらべら旧悪を語り出すところが実に面白い。なお、「已前」は底本も所持する刊本も総て『己前』とし、後者などでは『きぜん』などとルビを振っているが(こんな熟語はない)、原拠の原本を見るに、「已前」と判読出来るので、特異的に訂した。]

 この外なほ犯罪者が、一女性の心に感じて改心する話が櫻陰比事にあり、放火者の心理を取り扱つたものが藤陰比事にあるが大して興味のある物語ではないから、その記述は省略する。[やぶちゃん注:作者が興味がないというものまで探す暇は私にはない。何かの機会に見つけたら、追記する。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (3)



 古アツシリア人は、詛言が人を殺す事罕[やぶちゃん注:ママ。「羊」の誤字と推定する。後注参照。]を殺す如く容易也、其の言を除くは日神と海神の力を借る有るのみと信じ、太古グデアの代よりダリウスの時迄も石碑に詛詞を鐫て[やぶちゃん注:「ほりて」。]墓を犯す者を防いだ(C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175)。東トルキスタンの最大都會ヤルカンドの住民は、四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し、古傳に、サレー、ペイガムバール上人此所を通つた時、所の人其駱駝を盜みて喉を切り河岸に殘せしを、上人怒つて此所の民每に[やぶちゃん注:「つねに」。]此病に罹るべしと詛うたのが起りだと云ふ(Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.)。同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを、住民驕奢にして尊ばず。時に一阿羅漢有り來て[やぶちゃん注:「きたつて」。]之を拜せしを住民怒て砂に埋め其唇に達す。唯一人佛を奉ずる者有て密かに食を與ふ。阿羅漢脫れ去るに蒞み[やぶちゃん注:「のぞみ」。]、彼に語るらく、一週内に砂と土が降て全城を瘞め[やぶちゃん注:「うづめ」。]住民皆死ぬが、汝一人は助かるべしと。羅漢卽ち消えて見えず。彼人城に歸つて親族に語るに信ぜずして嘲笑す。因て獨り去て身を洞中に隱すと七日めの夜半から砂の雨が始つて全城を埋めたと載す。熊楠謂く是は昔全盛だつた市街が沙漠となつたに附會した佛說で、其原話は元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王[やぶちゃん注:「うだえんわう」。]の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず。遊びに出た歸路迦旃延[やぶちゃん注:「かせんねん」。]が坐禪するを見、群臣と共に之を埋む。一大臣佛を奉ずる者後に至つて土を除く、尊者言く、却後七日天土を雨して[やぶちゃん注:「あめふらして」。]土山城内に滿ち、王及び人民皆覆滅せんと。大臣之を王に白し[やぶちゃん注:「まうし」。]、又自ら地道を造り出て城外に向ふ。七日滿て天香花珍寶衣服[やぶちゃん注:「天、香花・珍寶・衣服」。]を雨らす。城内歡喜せぬ者無く、惡緣ある者、善瑞有りと聞き、皆來り集る。其時城の四門盡く[やぶちゃん注:「ことごとく」。]鐵關下り逃るゝに地無し。天便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]土を雨らし、彼大臣一人の外悉く埋滅さると出づ。

[やぶちゃん注:「古アツシリア人」アツシリアはティグリス川中流域のアッシュール市から興ったセム人の国家。紀元前三千年紀後半から前六一〇年まで存続した。ティグリス・ユーフラテス川の流域地方をバビロニアと称するのに対し、その北の地方をアッシリアと称する場合がある。この地方は、本来、フルリ系住民が多数を占めていたと思われるが、アッシュールはシュメール人の植民都市として成立し、その後、セム系のアッカド人の都市になったと推測されている。都市名としてのアッシュールが文献に初めて現れるのはアッカド王朝時代(紀元前二三〇〇年頃)である。前二〇〇〇年頃はウル第三王朝治下にあった。アッシュールの君侯ザーリクムは、スーサの同名の君侯ザーリクムと同一人物と考えられ、彼は東方及び北方辺境の防備と通商路の確保を、ウルの王から任されていたと思われている。古アッシリアは紀元前二千年紀前半に当たり、この時期にアッシュールは独立した有力商業都市国家となり、アナトリアのカネシュに商業植民市を置いて、主に銅・錫の交易を活発に行っていた。機嫌前二千年紀初頭から西方セム語族に属するアモリ人が移動を開始し、バビロンなどの諸都市に王朝を建てた。王朝はアッシュールにも成立した。シャムシ・アダドⅠ世(在位紀元前一八一三年~紀元前一七八一年)は長子イシュメダガンを首都近くに配置し、アナトリアに通じる道の防衛とともに、エシュヌンナ王国に対抗させた。また、征服したマリ王国に次子を王として送り込んだ。こうした配置は、アナトリアとエラムを結ぶ通商路の確保と、その権益の擁護が主目的であったと思われる。しかし、このアッシリアもバビロン第一王朝のハムラビに屈し、独立国の地位を失ってしまった(小学館「日本大百科全書」に拠った)。位置はウィキの「アッシリアにある、周囲との関連広域地図がよい。

「グデア」古代メソポタミアの都市国家ラガシュ第二王朝の王。在位は紀元前二一四四年頃~紀元前二一二四年頃か。シュメール時代の王中で最も名前の知られている人物の一人。「グデア」という名は「呼びかけられし者」の意(当該ウィキに拠った)。

「ダリウス」Ⅰ世であろう(在位:紀元前五二二年~紀元前四八六年)古代ペルシアのアケメネス朝の大王。国内の叛乱を鎮め、財政整備をし、中央集権を確立した。インドまで遠征して全オリエントを支配し、帝国の極盛期を築いた。ゾロアスター教を信じたが、被征服地の宗教には寛大で、バビロン捕囚から帰国したユダヤ人に好意を示し、エルサレム神殿再建を助けた。エジプトの叛乱を鎮めるために出征中、陣内で没した。ダレイオスとも表記する。マケドニアのアレクサンドロス大王によって滅亡させられたアケメネス朝ペルシアの最後の王ダレイオスⅢ世まで含めるなら、彼の在位は紀元前三三六年から紀元前三三〇年である。

「C. R. Conder, ‘The Rise of Man,’ 1908, pp.174-175」イギリスの軍人で探検家クロード・レニエ・コンダー(Claude Reignier Conder  一八四八年~一九一〇年)の「人間の台頭」。彼はパレスチナを中心とした中東からエジプトに軍務で派遣される中、歴史的・民俗学的研究を多く残している(英文の彼のウィキを参照した)。Internet archive」のこちらで原本が見られるが、その指示ページに(右ページ下から三行目から次のページの頭。太字は私が附した問題個所)、

   *

   The power of a curse is the subject of another tablet — the curse of some one unintentionally wronged bringing misfortune — “ an evil cry cleaves to him ; the curse is a curse of sickness.  The curse slays a man like a sheep.  It makes his god punish his body.  His mother goddess makes him sad. The voice that cries cloaks him as a garment, and strangles him.”  It can only be removed through discovery of the cause, by intercession of the sun god with his all-wise father Ea.  The sun is called “the protecting hero,” and is described as the “ merciful one ” who “raises the dead alive" (in the other world) — a “saviour" from demons. From the earliest age (that of Gudea) down to the time of Darius curses were inscribed on monuments to preserve them from any future mutilation or alteration.

   *

とあるのが、南方熊楠の訳した部分である。これを読むに、

「罕」(音「カン」。「長い柄の附いた鳥を獲る」「柄の附いた旗」「稀れ・少ない・珍しい」)は、「羊」の誤字である

ことが判明した。推定だが、南方熊楠は「羊」の異体字のこれ(グリフィスウィキ)辺りを崩して原稿に書いたのを、植字工が「罕」と誤ったのではなかったか? それにしても、正直、発表から百六年も経った今まで、誰一人として原書を調べず、この「罕」のまま放置されて、補正注する者がなく、全集でさえ、ただのママ表記で済まされてきたことに、私は激しい驚きを隠せない。南方熊楠の研究者は一体、何をしてきたのだろう?

「東トルキスタンの最大都會ヤルカンド」現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区にあるヤルカンド県(ウイグル語カタカナ転写)。漢字では莎車(さしゃ)県。新疆西南部の崑崙山脈北麓、パミール高原南面のヤルカンド川沖積平野に位置する。平均海抜千二百三十一メートル、山地が三十九%、平原が約六十一%を占める。暖温帯大陸性気候。四季は分明で、気候は乾燥しており、日照時間は長い。年平均気温は摂氏十二・三度で、年平均降水量はわずか五十六・六ミリである。ヤルカンドは二千年あまりの歴史を有し、嘗て莎車国(前漢の時代)、渠沙国、ヤルカンド・ハン国を形成していた。

「四分の三迄必ず喉突起(のどぶし)に癭(こぶ)を生ず。是は其地の河水を飮むからで井水を用る者は此病無し」河川水に何が含まれているのか、未詳。そもそもこれが一種の疾患なのかどうかも不詳。喉仏が民族的に大きいだけではないのか?

「サレー、ペイガムバール上人」以下の原本では綴りは‘Saleh Peygambär’。ネットを調べると、海外のものばかりで、はっきりとは言えないが、どうもイスラムの預言者としてはかなり有名な人物らしい。

「Sven Hedin, ‘Through Assia,’ 1898, vol.ii, p.728.」スウェーデンの地理学者にしてかの中央アジア探検で知られるスヴェン・アンダシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 一八六五年~一九五二年)の中央アジア探検録の一巻。Internet archiveのこちらで原本当該部(右ページ上から三行目。古伝承)が読める。

「同卷七八一頁に、昔ホラオロキア城に每夜光を放つ栴檀の大佛像が有たのを……」同上のInternet archiveのここの左ページ下方の‘We also possess a legend about an image of Buddha,’で始まる次のページまで続く段落がこの話である。左ページ下から五行目に城の名‘Ho-lao-lo-kia’が出る。

「元魏譯雜寳藏經八に、優陀羨王の子軍王立て父出家したるを弑し佛法を信ぜず……」これも同経の巻第「八」ではなく、巻第「十」にある。「大正蔵経」データベースのここの「T0203_.04.0494c24」の「優陀羨王縁」以下に、「T0203_.04.0495b20」以降で父を殺すシークエンスが出、「T0203_.04.0495c24」と次行で「而見尊者迦栴延。端坐靜處。坐禪入定。時王見之。便生惡心」とあり、「T0203_.04.0496a08」で、天が「香華珍寶衣服」を雨ふらして、「T0203_.04.0496a15」「此城。一日覆沒。雨土成山」というカタストロフが描かれている。]

2021/07/18

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (2)

 

 印度にも古く詛言を太く[やぶちゃん注:「いたく」。]怖れたは根本說一切有部毘奈耶雜事九に、惡生王[やぶちゃん注:「あくしやうわう」。]が苦母[やぶちゃん注:「くも」と読んでおく。]怖勸めにより[やぶちゃん注:後注参照。恐らく誤読。]、釋種の男子を殺盡し、五百釋女己れを罵るを瞋り悉く其手足を截らしめた時、佛其因緣を說て、迦葉佛の世に、此五百釋女、出家し乍ら常に諸他の尼輩に、手を截られよ足を截られよと罵詈したので、無量歲の間地獄で燒れ後人間に生れても五百年中常に手足を截らると言た。惡生王傳へ聞て極て憂ふ。苦母對ふらく、婆羅門輩が人家に物を乞ひて吳れぬ時は、其家に百千種の不祥事を生ぜしめんと欲す。況や沙門喬答摩(ゴータマ)(佛の事)其親族を王に誅盡されたから、其惡心のまゝにどんな深重の呪詛を爲るか知れぬとて、王を池中の一柱樓に住ませ避難せしめたと出るで分(わか)る。十九世紀にも印度人が瞋れば怖ろしい詛言を吐く風[やぶちゃん注:「ふう」。]盛んだと Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897 に見え、古印度仙人の詛言のいかに怖るべきものなりしは、西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れ、自ら王宮に詣り求めしに一人も應ぜず。王の最幼女王憂るを見兼ねて、請て自ら行しに、仙人其不妍[やぶちゃん注:「うるはしからざる」。]を見、怒て便ち惡呪し、王の九十九女一時腰曲り形毀れて誰も婚する者無かれと罵ると、忽ち其通り腰曲つたので、王當時住んだ花宮城を曲女城と改名したと有るを見て知るべし。

[やぶちゃん注:「根本說一切有部毘奈耶雜事九」「根本說一切有部毘奈耶」(こんぽんせついっさいうぶびなや:現代仮名遣)は仏教経典で全五十巻。初唐の七〇三年に義浄によって漢訳された。部派仏教上座部系の根本説一切有部で伝えた律蔵で、比丘戒二百四十九条に教訓物語を挿入した大部なもの。「大正蔵」で調べると、「雜事九」ではなく、「雜事八」である。標題は「第二門第四子攝頌之餘【說勝光王信佛因緣及惡生誅釋種等事】」。「240」コマの「T1451_.24.0239b27」の『時惡生王納苦母諫……』(「苦母怖勸めにより」ではなく、「苦母が諫めを納れ」である)から、「241」『苦母對曰。大王如乞索婆羅門入舍乞求。不得物時欲令其家。生百千種不吉祥事。何況沙門喬答摩。所有親族被王誅盡。寧無深重怨恨之言。隨其惡心而爲呪咀。王若懼者於後園中池水之内。』(最後は「T1451_.24.0243c15」)までが当該する話と読める。私が太字にした部分が熊楠の示したかった箇所である。

「Dubois,‘Hindu Manners, Customs and Ceremonies’ Oxford,1897」作者ジャン・アントワーヌ・デュボア(Jean-Antoine Dubois 一七六五年~一八四八年)はインドで布教活動に従事したフランスのカトリック宣教師。「Internet archive」のこちらで同年版原本が見られる。

「西域記五に、大樹仙人梵授王の諸女の實に惚れて……」「大唐西域記」の「卷第五 六國」の「羯若鞠闍國」(カーニヤクブジャ:現在の北インドの都市カナウジ。この伝承通り、「カーニヤクブジャ」とは「傴(せむし)の娘たちの町」の意)の条の冒頭の「一 國號由來」に(「維基文庫」のこちらのものを参考に漢字を正字化した)、

   *

羯若鞠闍國人長壽時。其舊王城號拘蘇磨補邏【唐言「花宮」。】。王號梵授、福智宿資、文武允備、威懾贍部、聲震鄰國。具足千子、智勇弘毅、復有百女、儀貌妍雅。時有仙人居殑伽河側、棲神入定、經數萬歲、形如枯木、遊禽棲集、遺尼拘律果於仙人肩上、暑往寒來、垂蔭合拱。多歷年所、從定而起、欲去其樹、恐覆鳥巢、時人美其德、號大樹仙人。仙人寓目河濱、遊觀林薄、見王諸女相從嬉戲、欲界愛起、染著心生、便詣花宮、欲事禮請。王聞仙至、躬迎慰曰、「大仙棲情物外、何能輕舉。」。仙人曰、「我棲林藪、彌積歲時、出定遊覽、見王諸女、染愛心生、自遠來請。」。王聞其辭、計無所出、謂仙人曰、「今還所止、請俟嘉辰。」。仙人聞命、遂還林藪。王乃歷問諸女、無肯應娉。王懼仙威、憂愁毀悴。其幼稚女候王事隙、從容問曰、「父王千子具足、萬國慕化、何故憂愁、如有所懼。」。王曰、「大樹仙人幸顧求婚、而汝曹輩莫肯從命。仙有威力、能作災祥、倘不遂心、必起瞋怒、毀國滅祀、辱及先生。深惟此禍、誠有所懼。」。稚女謝曰、「遺此深憂、我曹罪也。願以微軀、得延國祚。」。王聞喜悅、命駕送歸。既至仙廬、謝仙人曰、「大仙俯方外之情、垂世間之顧、敢奉稚女、以供灑掃。」。仙人見而不悅、乃謂王曰、「輕吾老叟、配此不妍。」。王曰、「歷問諸女、無肯從命。唯此幼稚、願充給使。」。仙人懷怒、便惡咒曰、「九十九女、一時腰曲、形既毀弊、畢世無婚。」。王使往驗、果已背傴。從是以後、便名曲女城焉。

   *

にあるのが、それ。]

 

 支那にも古く詛言が盛んだつた。淵鑑類凾三一五に、厥口呪詛、言怨上也、子罕曰、宋國區々、有詛有兕、亂之本也、康煕字典に書無逸を引て、民否則厥心違怨、否則厥口詛祝、是等は惡政に堪ざる民が爲政者を詛ふので、詩に此出三物、以詛爾斯、また晏子曰、祝有益也、詛亦有損、雖其善祝、豈勝億兆人之詛者とも有る。范文子使祝宗祈死、曰愛我者惟呪我、使我速死、無及於難范氏之福、是は死ねと詛われて速に死なんと望んだのだ。

[やぶちゃん注:「淵鑑類凾」清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。以下は巻三百十五の「口咒・國詛」に連続した一文として出る。

「厥口呪詛……」「厥(そ)の口、呪詛すとは、上を怨むを言ふなり。子罕(しかん)曰く、『宋國、區々として詛あり。呪あるは亂の本なり。』と」。

「民否則厥心違怨……」まず、底本は「違怨」が「達」であるが、諸本と「書経」原本から訂した。「民、否とせば、則ち、厥の心、違怨し、否とせば、則ち、厥の口、詛祝(じゆしゆく)す。」。

「康煕字典に書無逸を引いて……」まず、「書無逸」は底本では「書無極」となっている。しかし、諸本及び以下に示す「康煕字典」を確認、これは「書経」の「無逸」の誤りであることが判明したので訂した。「康煕字典」のそれは、「口部」の「五」の「呪」の条である。「中國哲學書電子化計劃」のものを一部カットして加工した。

   *

呪 [やぶちゃん注:中略。]「廣韻」、『呪詛也。』。「戰國策」、『許綰爲我呪。』。「後漢・王忳傳」、『忳呪曰、有何枉狀。』。「關尹子・七釜篇」、『有誦呪者。』。又、「集韻」、『通作祝。』。「書・無逸」、『民否、則厥心違怨否、則厥口詛祝。』。「詩・大雅」、『侯作侯祝。』。「周禮・春官」、『有詛祝。』。「集韻」、『或作詶、亦作詋。』。

   *

「詩に出此三物……」「詩」は「詩経」。「此の三物を出だして、以つて爾(なんぢ)を詛ふ。」。

「晏子曰、祝有益也……」「晏子」に曰く、『祝は益する有るなり。詛も亦、損ふ有り。其れ、善く祝すと雖も、豈(あに)億兆人の詛ふ者に勝たんや。」。「晏子」は「晏子春秋」で、春秋時代の斉で霊公・荘公・景公の三代に仕えて宰相となった晏嬰(あんえい ?~紀元前五〇〇年)の、後代に作られた言行録。

「范文子使祝宗祈死……」まず、これは出典を示していないが、「春秋左氏伝」の「成公十七年(紀元前五七四年)で、「使我速死」は底本では「速」を「連」に誤っているので訂した(これは後の熊楠の謂いからもおかしいことが判る)。「范文子、祝宗をして死を祈らしめ、曰く、『我を愛する者は、惟(ただ)我を呪せ。我をして速やかに死せしめ、難に及ぶ無からしむれば、范氏の福なり。』と」。「范文子」は晋に仕えていた名臣士燮(し しょう ?~紀元前五七四年)の諡(おくりな)。「祝宗」は王の名ではなく、士燮の家で祈禱を掌った官。ウィキの「士燮」によれば(太字は私が附した)、紀元前五七五年に「鄢陵(えんりょう)の戦い」(同年、鄢陵(現在の河南省許昌市鄢陵県)で晋と楚が激突した戦い)が『起こって』楚との『講和は敗れてしまう。士燮は戦争を極力回避しようと働きかけるが、徒労に終わってしまう。更に、嫡子の士匄』(しかい)『が戦闘の開始を諸将に勧めるのを見るや、「国の存亡は天命であり、お前のような小僧に何が分かるか。しかも聞かれもしないのに勝手に発言するのは大罪である。必ず処刑されよう」と激怒し、戈を持って士匄を追い掛け回した』。『結局』、「鄢陵の戦い」は、『晋軍の勝利に終わったが、士燮は徳のない厲公が徳のある共王に勝ってしまったことをむしろ恐れ、家臣に自らを呪わせて死んだ』(☜)。『家督は士匄が継いだ。死後、恭謙な態度を生涯貫き通した事と、一時的ながら楚との和睦の大功を成した事から、諡号「文」を諡され、范文子と呼ばれる』とある。]

日本山海名産図会 第二巻 鯢(さんしやういを) (オオサンショウウオ及びサンショウウオ類)

 

Sannsyouuo

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「山椒魚(さんせううを)」。但し、この成体は左頁の瀧の部分を攀じ登っている七個体からみて、本文の中間部に出る、通常の「山椒魚」、則ち、所謂、両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ科 Hynobiidae の多くのサンショウウオ類(本邦に棲息する種群はウィキの「サンショウウオ」の「おもな日本産種」を参照されたいが、そこだけでも十九種が挙げられており、しかも、この内で日本固有種でないのは、サンショウウオ科キタサンショウウオ属キタサンショウウオ Salamandrella keyserlingii 一種のみとされている)の一種である。この図はどこと断っていないので、種を同定することは出来ないが、本文の記載と、現在の分布から見て、サンショウウオ科ハコネサンショウウオ属ハコネサンショウウオ Onychodactylus japonicus と比定しても強ち誤りとは言えないように思う(現在の長野県軽井沢にハコネサンショウウオは現に分布している)。]

 

  〇鯢(さんしやういを)

溪澗水(たにみづ)に生ず。牛尾魚(こち)に似て、口、大なり。茶褐色(ちやいろ)にして、甲に斑文(またら)あり。能く水を離れて陸地を行く。大なるものは、三尺斗り、甚だ、山椒の氣(き)あり。又、椒樹(さんせうのき)に上(のぼ)り、樹の皮を採り、食らふ。此の魚、畜ゐおけは、夜、啼きて小児(せうに)の聲のごとく、性(せい)、至つて强き物にて、常に小池(せんすい)に畜なひ用ゆべき時、其の半身を裁ち斷り、其の半(なかは)を、復た、小池へ放ちおけば、自(み)づから、肉を生じ、元の全身となる故に、作州の方言にハンサキといふ。又、其の去りたる、川も久しくして、尚、動くなり、といへり。〇別に一種、箱根の山椒魚といふものあり。小魚なり。越後にてセングハンウヲといふ。其の形、水蜥蜴(いもり)に似て、腹も赤し。故にアカハラともいふ。乾物(かんぶつ)として出だし、小兒の疳蟲(かんむし)を治す。「物理小識」に、『閩高(みんかう)の源(もと)に黑魚あり』とは、是れなり。今、相州・信刕輕井澤和田の邉(ほとり)より出る物も、かの、いもりのごとき物にて、夜る、瀧の左右の岩を攀ぢ上(のぼ)るなり。土人、是れを採るに、木綿袋にて、玉䋄(たまあみ)のごときものゝ底を、巾着(きんちやく)の口のごとくにして、松明(たいまつ)を照らして、魚の上(のぼ)るを候(うかゞ)ひ、袋をさし附けて、自(おのづ)から入るを、取りて、袋の尻を解き、壺へ納む。又、丹波・但馬。土佐よりも出だせり。〇「本草」に一種、「䱱魚」といふもの、おなじく「山椒魚」ともいへども、是は「人魚」なり。河中及び湖水に生す。形、鮧魚(なまず)に似て、翅(つばさ)、長く、手足のごとし。又、時珎の「諬神録(けいしんろく)」に載する所の物は、「華考(くわかう)」の「海人魚(うみにんぎよ)」なり。紅毛人、此の海人魚の骨、持と來たりて、蛮名(ばんめう)「へイシムルト」云。甚だ、僞もの、多し。

[やぶちゃん注:冒頭部のそれは、所謂、「大山椒魚」で、

両生綱有尾目サンショウウオ亜目サンショウウオ上科オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus

である。本種は日本固有種であるが、現在の分布は、自然破壊が進み、南西部(岐阜県以西の本州・四国・九州の一部)に限られている。私は「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」でサンショウウオ類について注を施しているので、そちらをまず読まれたい。実は記載の類似性から見て、作者は益軒のその記載を参考にしている可能性が頗る高いからである。

「牛尾魚(こち)」現行においても、「コチ」は広汎にして多様な種を指す。ウィキの「コチ」を見られたいが、オオサンショウウオにミミクリーとなら、最大一メートルにもなるカサゴ目コチ亜目コチ科コチ属マゴチ Platycephalus sp.を挙げておくべきであろう。「海水魚のコチを比較に出すのはおかしい」と思われる方のために、「大和本草卷之十三 魚之下 こち」を読まれることを強くお薦めする。そこで益軒は『或いは曰はく、「蟾〔(ひきがへる)〕、化して『こち』となる者、稀れに、之れ、有り」〔と〕。』というトンデモ化生説を紹介している。ヒキガエルとオオサンショウウオとコチ――繋がるでしょ?

「能く水を離れて陸地を行く。大なるものは、三尺斗り、甚だ、山椒の氣(き)あり。又、椒樹(さんせうのき)に上(のぼ)り、樹の皮を採り、食らふ」「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」で「水中のみにあらず、陸地にて、よく歩〔き〕動く」に対して、ウィキの「サンショウウオ」によれば、『オオサンショウウオは繁殖期に川を遡上するとき以外はほとんど水中から出ることはないが、他の種類は陸上生活を送ることが多く、森林の落ち葉の下やモグラやネズミが掘った穴の中や、川近くの石の下などに生息する。繁殖期以外は』、『あまり人の目にはふれることはない』とある、と注し、また、「能く樹に上〔ぼ〕る」というのは、あり得ないと思う。結局、体に山椒に似た香りがある種がいることから「山椒魚」と呼ばれることから、彼らが「山椒の樹皮を食ふ」と誤認されたに過ぎないと考える、と注した。しかし、これは三年前のもので、その後、TVでオオサンショウウオの生態番組を見た中では、雨の時期の夜、オオサンショウウオが新しい棲息場所(或いは繁殖期で相手を求めてか)を探して、川から這い出し、湿った林を抜けて、河川の別な場所まで遠征するのを見た。日常的によく陸地を歩くとは言えないが、こうしたシーンに遭遇すれば、それはかなり強烈な記憶として人々に刻印されるから、この「陸地を行く」或いは後の「其の去りたる、川も久しくして、尚、動くなり、といへり」という部分は、決して誤認とは言えない気がしている。

「此の魚、畜ゐおけは、夜、啼きて小児(せうに)の聲のごとく」これも「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」で「其の聲、小兒のごとし」に対して、ササンショウウオ類やオオサンショウウオは一般的に鳴かないと私は思う。「日本サンショウウオセンター」の記事(三重県名張市赤目町。現在はリンク切れ)を見ても「鳴かない」とあり(但し、ごく稀に一瞬、おし殺したような声(体内腔を用いた音か)を発することがあり、『ちょっとハスキーな声』と半分おふざけ気味で記してはある)、通常のサンショウウオ類が鳴いたとする記事はざっとみたところではない。ところが一件、サンショウウオ科サンショウウオ属ベッコウサンショウウオ Hynobius ikioi(阿蘇山系以南・霧島山系以北の鹿児島県北部・熊本県・宮崎県)が鳴くという記事を見つけたのだ。個人ブログ「古石交流館みどりの里」の「サンショウウオ(ベッコウ)が鳴く」である。記事の山名と方言と高度から見て、熊本県葦北郡芦北町古石の「大関山」(頂上で標高九百二メートル)と推定される、として引用しておいた(こちらもリンク切れ)。しかし、今回、今一度、調べてみると、二〇二一年二月二日附『読売新聞』の記事「世界最大級の両生類・オオサンショウウオ、どんな鳴き声?」というのがあり、まさに「日本サンショウウオセンター」で、飼育しているオオサンショウウオの身体測定が来館者にも公開して行われた、という記事があり、そこで、『地元の小学』六『生』『と中学』二『年生』『も助手として参加。記録係を務めた小学』六『年生は「鳴き声を初めて聞いた。『ウー』という感じの声だった」という』と述べているのを見つけた。これは、両生類であるオオサンショウウオを水から引き揚げて計測しており、とすれば、消化管内に空気が取り込まれて、物理的に腹が鳴った可能性がありそうだが、呼鳴器官はないにしても、何らかの音を稀に発する可能性はないとは言えない気がした。但し、研究者が聴いたことがないという以上は、やはり、ないかなぁ。

「小池(せんすい)」「泉水」の当て訓。

「其の半身を裁ち斷り、其の半(なかは)を、復た、小池へ放ちおけば、自(み)づから、肉を生じ、元の全身となる故に、作州の方言にハンサキといふ」イモリやサンショウウオが軽微の指欠損を再生することは知られている。かく言う私自身、高校時代、生物部でイモリの四肢の一部を切断して再生させるという今考えれば、ひどい実験をしていた(完全再生は達成できなかった。「生物學講話 丘淺次郎 第九章 生殖の方法 六 再生」の私の注を参照されたい)。なお、イモリの再生能力の高さは脊椎動物の中では群を抜いて優れていることはよく知られている。ウィキの「アカハライモリ」によれば、『たとえば、尾を切ったとしても本種では完全に骨まで再生するほか、また四肢を肩の関節より先で切断しても指先まで完全に再生し、さらには目のレンズも再生することができる』。『この性質は教科書にも記載されている。多くの脊椎動物ではこれらの部位は再生できない。ちなみに、尾を自切し再生することが知られているトカゲでも、尾骨までは再生しない』とある)。しかし、私はオオサンショウウオの半身再生というのは都市伝説レベルの妄説に過ぎないと考えている当該ウィキには、和名の解説で、『「山椒魚」の名の由来は、一説に、山椒のような香りを発することによるという。平安時代以前からの古称に「はじかみいを」』『があり、これもすなわち、「山椒(はじかみ)魚(いを)」の意である』。『また、「ハンザキ」の異称があり、引用されることも多い。由来として「からだを半分に裂いても生きていそうな動物だから」「からだが半分に裂けているような大きな口の動物だから」などとも言われ、疑問符付きながらこうした説を載せている辞書などもあるが、信頼できる古文献の類は現在のところ知られていない。ほかに、「ハジカミ > ハミザキ > ハンザキ」のように変化したとする説や、体表の模様が花柄のようにも見えることから「花咲き」から転訛した、といった説もあるが、これらについても現在のところ裏付けは乏しい』。『オオサンショウウオは特別天然記念物であり、捕獲して食利用することは禁じられているが、特別天然記念物の指定を受けるまでは、貴重な蛋白源として食用としていた地域も多い。北大路魯山人の著作』「魯山人味道」に『よると、さばいた際に強い山椒の香りが家中に立ち込めたといい、魯山人はこれが山椒魚の語源ではないかと推測している。最初は堅かったが、数時間煮続けると柔らかくなり、香りも抜けて非常に美味であったという。また、白土三平』の「カムイ外伝」でも『食用とする場面が見られ、半分にしても生きている「ハンザキ」と説明されている』とあるように、誰もそうした強力な再生現象を記録してもいないし、見てもいないのである。また、ブログ「斉藤勝司のサイエンス・ウォッチ」の「15年かけてオオサンショウウオの指が完全再生」(二〇〇九年四月十三日の記事)に、姫路市立水族館で約二十年間も飼育されているオオサンショウウオについて、同年四月十一日附『産経新聞』が『興味深いニュースを報じている』として、

   《引用開始》

 このオオサンショウウオは水族館生まれの個体で、5歳の時に仲間(同じオオサンショウウオなんだろうな)との喧嘩で、右前肢上腕骨の先が食いちぎられた。ただし、その後、約15年かけて、再生したと報じられているのだ。X線撮影したところ、4本の指の骨がすべて元通りになっていることも確かめられ、完全に再生したという。

 再生医療や細胞工学に詳しい方であれば、イモリには高い再生能力があり、四肢を欠損しても、骨まで元通りに再生することはご存知のことと思う。

 そのため、同じ有尾目に属するということだけで、不勉強にも、私は、オオサンショウウオの体にも同様の再生能力が備わっていると思っていた。ところが、産経新聞の記事によると、オオサンショウウオの四肢が再生したという報告はこれまでなかったという。再生能力はゼロではないにしても、失われた四肢を完全な形にまで再生することは稀だということなのだろう。

 ならば、なぜ、このオオサンショウウオは、失われた右前肢を完全に再生させることがきたのだろうか。

 産経新聞の記事では、オオサンショウウオの生態に詳しい、元姫路市立水族館館長の栃本武良氏の「条件さえよければ欠損した指が完全に再生されることがわかった」というコメントを紹介している。

 この「条件」は、餌が十分に与えられていることを指さしていると思うが(温度条件考えられるが・・・)、私が気になることは、餌が十分であるという環境条件が何に作用して、再生を促したのかってことだ。

 再生するかどうかは、その個体の体に、(1)多分化能と、(2)高い分裂能を有した細胞があるかどうかによって決まってくると思う。多分化能については、未分化の細胞、つまり、幹細胞が有無によって決まってくるのだろうが、高い分裂能については栄養が豊かかどうかが大きく影響するだろう。不死化して、無尽蔵に増えるはずのがん細胞でも、栄養が滞れば、細胞分裂のスピードは鈍化するわけで、栄養が豊富だからこそ、このオオサンショウウオも前肢を完全に再生することができたんじゃないか。

 だったら、オオサンショウウオの再生能力は環境次第で、コントロールできるとも考えられるだろう。

 つまり、環境条件一つで、再生するか、しないかが決まるなら、オオサンショウウオを実験材料に使えれば、がい[やぶちゃん注:ママ。「組織が」とか「器官が」か?]再生するかどうかを決める何らかの因子を見つけることができるんじゃないかって期待をもってしまうのだが・・・。富栄養条件で四肢が再生できるようになったオオサンショウウオと、貧栄養条件で四肢が再生できなくしたオオサンショウウオで、細胞中の分子の発現を調べると、再生するかどうかを決定する因子が見つかったりするんじゃないかなんて考えちゃったわけだ。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

高校時代の私なら、斉藤氏の意見に諸手を挙げて賛同するであろう。

「箱根の山椒魚」図注で示したサンショウウオ科ハコネサンショウウオ属ハコネサンショウウオ Onychodactylus japonicus 。全長十~十九センチメートル。胴体側面にそれぞれ入る皺(肋条)は十四~十五本。卵は球形で直径五ミリメートルで、白や淡黄色を呈する。♂の後肢は繁殖期には肥大化し、後肢の掌や趾基部に角質の突起が出現する。

「越後にセングハンウヲといふ」不詳。現行ではこの呼称は生き残っていない。「ハンウヲ」は「斑魚」か或いは前の「ハンザキ」由来の「半魚」か。Weblio 辞書」の「方言」「新潟県田上町方言」「せんがむし」に「サンショウウオ」の方言として出、体長約十五センチメートル、四月に流れの遅い水中に産卵し、卵嚢は、ほぼ透明で太い紐状を呈し、卵は中心部に揃う。『黒山椒魚か?』とあった。私は「セングハンウヲ」を眺めていたら、漠然と「背」が「黒」い「山椒魚」というイメージが浮かんでいた。さらに富山の渓谷で同種を父が見つけたのも思い出したし、当時、住んでいた高岡市伏木矢田新町の奥の「矢田の堤」(既に干乾びて消失してしまったようである)で同種の木通のような卵も見つけたのも甦ってきた。

サンショウウオ属クロサンショウウオ Hynobius nigrescens

である。全長十三~十六センチメートルで、体色は暗褐色(種小名nigrescens は「黒っぽい、黒みがかった」の意)。胴体の左右側面の肋条は十一本。尾は長く、縦に平たい。四肢は長い。いわゆる止水性のサンショウウオで、幼体は三対の外鰓と、眼下部に「バランサー」(balancer:平衡桿。一般には水底で体を安定させるためのものとされる)と呼ばれる器官を持つが、前肢が生えると、消失する。近年の研究ではサンショウウオ属カスミサンショウウオ Hynobius nebulosus に近縁であることが判明している。しかし、作者は続けて、「其の形、水蜥蜴(いもり)に似て、腹も赤し。故にアカハラともいふ」とするのは戴けない。腹の赤いサンショウウオはいない。これは似てるんじゃなくて、有尾目イモリ亜目イモリ科イモリ属アカハライモリ Cynops pyrrhogaster そのものだぜ?!

「乾物(かんぶつ)として出だし、小兒の疳蟲(かんむし)を治す」サンショウウオは古くから、薫製干物が疲労回復・滋養強壮・美肌などに効果があるとして食されてきた歴史がある。私は湯西川で食ったことがある。「小兒の疳蟲」は以下に示す「物理小識」の記載に拠るものと推定される。益軒は「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」で『京都魚肆〔(うをみせ)〕の小池にも時々生魚〔(せいぎよ)〕あり。小なるを生〔(なま)〕にて呑めば、膈噎』(かくいつ:「噎」は食物がすぐ喉の附近でつかえて吐く病気を、「膈」は食物が少し下の胸の附近でつかえて吐く病気を指すが、現在では現行の胃癌又は食道癌の類を指していたとされるが、ここはそんな重病という記載とも思えないから、広義の咽喉や気道附近での「痞(つか)え」でよい)『を治す』と記している。なお、イモリも媚薬とされた。ウィキの「アカハライモリ」によれば、『かつて日本では、イモリの黒焼きはほれ薬として有名であり、販売もされていた』。『竹筒のしきりを挟んで両側に雄雌一匹ずつを分けて入れ、これを焼いたもので、しきりの向こうの相手に恋焦がれて心臓まで真っ黒に焼けると伝える。実際の成分よりは、配偶行動などからの想像が主体であると思われるが、元来中国ではヤモリの黒焼きが用いられ、イモリの黒焼きになったのは日本の独自解釈による』とある。なお、アカハライモリはフグ毒と同じテトロドトキシンを持っていることが知られているが、過去、アカハライモリの黒焼きを食って中毒したケースは古文献でも近現代のデータにもなく、一個体当たりのテトロドトキシン含有量が少ないのではないかと考えられているようであるが、まあ、ヤモリで我慢した方が無難である。

「物理小識」明末・清初の思想家方以智(一六一一年~一六七一年:一六四〇年進士に登第し、翰林院検討を授けられたが、満州族の侵略に遭い、嶺南の各地を流浪、清軍への帰順を拒んで、僧侶となった。朱子学の「格物窮理」説は事物の理を探究するには不十分とし、当時、渡来していたジェスイット宣教師たちから、西洋の学問を摂取し、また、元代の医師朱震亨(しゅしんこう)の「相火論」や、覚浪道盛の「尊火論」に基づいて、あくまで事物の「然る所以の理」を探究する方法としての「質測の学」と形而上的真理の探究の方法としての「通幾」を唱えた)の哲学書。

「閩高(みんかう)の源(もと)に黑魚あり」「物理小識」の巻十一の以下(下線太字は私が附した)。

   *

四足魚 魶魚有足緣木。音如兒啼。周益公記宜興洞有四足鮎。張舜民記黃州四足鮎。全義之西南盤龍山乳洞有金沙龍盤魚、皆四足。脩尾丹腹。狀若守宮。泰和鄕有四足、如螭。有時上岸、見人則入水不傷人。鱉無裙而尾長亦謂之魶【游子六曰、閩高山源有黑魚、如指大。其鱗卽皮四足。可調粥治小兒。】

   *

「閩高」「閩」(びん)は福建省の古くからの呼称・略称である。閩地方の高原地方の渓谷の上流の謂いであろう。

「信刕輕井澤和田」和田は判らない。サンショウウオの棲息というロケーションからは、旧軽井沢宿のあった旧軽井沢の北の精進と矢ヶ崎川の上流附近を私は考えている(国土地理院図)。

「玉䋄(たまあみ)」攩網(たもあみ)。

『「本草」に一種、「䱱魚」といふもの、おなじく「山椒魚」ともいへども、是は「人魚」なり。河中及び湖水に生す。形、鮧魚(なまず)に似て、翅(つばさ)、長く、手足のごとし』作者は自分でも何を言っているのか分からなくなっている感じだ。ようするに、これは、「大和本草卷之十三 魚之上 䱱魚/鯢魚 (オオサンショウウオを含む広範なサンショウウオ類)」の以下を無批判に写しているに過ぎない。

   *

䱱魚(にんぎよ) 「人魚」〔と〕名〔づく〕。此の類、二種あり。江湖の中に生じ、形、鮎(なまづ)のごとく、腹下につばさのごとくにして、足に似たるもの、あり。是れ、「䱱魚」なり。「人魚」とも云ふ。其の聲、小兒のごとし。又、一種、「鯢魚」あり。下に記す。右、「本草綱目」の說なり。又、海中に人魚あり。海魚の類に記す。

   *

しかし、これ、今回、虚心に読んでみれば、ナマズのような形態で、腹の下の両側に翼みたようなビラビラがあり、足=脚=前後の四肢に似たものが生えていて、時に幼児の泣くような声を立てるのが魚」=「人魚」≒「鯢魚」だと言っているのだから、これは何の苦もなく、オオサンショウウオでいいだろうと今の私は思う。

『時珎の「諬神録(けいしんろく)」に載する所の物は』作者は遂にやらかしちまったね。益軒先生の「大和本草」の美味しいところをつまみ食いしているうちに、とんでもないしくじりをしちまった。現代の出版物だったら、とんでもない非難に曝されるぜ! 「諬神錄」ってのはね、「本草綱目」の李時珍の著作じゃねえ! 五代十国から北宋代の政治家で学者の徐鉉(じょげん 九一六年~九九一年)の伝奇小説集だ! そうして、あんたが、ちょろまかそうとして墓穴を掘ったその大元は、「大和本草卷之十三 魚之下 人魚 (一部はニホンアシカ・アザラシ類を比定)」だろうが!

   *

人魚 「本草綱目」〔の〕「魚」の「集解」に徐鉉〔(じよげん)〕が「諬神録〔(けいしんろく)〕」に云はく、『謝仲王といふ者、婦人、水中に出沒するを見る。腰より以下、皆、魚。乃〔(すなは)〕ち、「人魚」なり』〔と〕。又、「徂異記」に云はく、『査道、使を髙麗に奉ず、海沙の中、一婦人、肘〔(ひぢ)の〕後〔ろに〕、紅〔き〕鬣〔(たてがみ)〕有るを見る、之れを問へば、曰はく、「人魚なり」〔と〕』〔と〕。

○「」・「鯢」も亦、人魚と云ふ。乃ち、名、同〔じくして〕物〔は〕異〔(こと)なり〕。

○「日本記」二十二巻「推古帝二十七年」、『攝津國に漁父有り。罟(あみ)を掘江[やぶちゃん注:ママ。]に沈む。物、有り。罟に入る。其の形、兒〔(こ)〕のごとく、魚に非ず、人に非ず。名づくる所を知らず』〔と〕。今、案ずるに、此の魚、本邦に処〻、稀れに之れ有り。亦、人魚の類〔(るゐ)〕なるべし。

   *

リンク先をご覧いただけば、お判りの通り、ここはね、

   *

時珎(=珍)が、「本草綱目」の「魚」の「集解」に、徐鉉の「諬神錄」を引ける所の物は、

   *

とやんなきゃいけなかったんだ! まさか、二百二十二年後に安易なコピペの襤褸を暴かれるとは、お釈迦さまでも御存じあるめえ! ってこった!

『「華考」(くわかう)の「海人魚(うみにんぎよ)」なり』これは明の慎懋官(しんぼうかん)撰になる「華夷花木鳥獣珍玩考」のことであろう。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のここだ(天保六(一八三五)年の写本)! 作者は、せめても引用しておくべきだったね。

『紅毛人、此の海人魚の骨、持と來たりて、蛮名(ばんめう)「へイシムルト」云。甚だ、僞もの、多し』ああっつ! 最後の最後まで杜撰をやらかしちまってる! 「へイシムルト」(或いは『「ヘイシムル」と云』とするところをうっかりカタカナにしてしまったか。にしても誤りに変わりはない)じゃあないぜ! 「ヘイシムレル」だ! 漢字表記は「歇伊止武禮兒」で、ポルトガル語の綴りは‘peixe mulher’である。詳しくは私の渾身の電子化注『毛利梅園「梅園魚譜」 人魚』をご覧あれかし!!!

2021/07/17

芥川龍之介書簡抄96 / 大正九(一九二〇)年(一) 三通

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集の第十一巻の「書簡 二」(同全集の書簡は二巻で終わりである)に入る。半分、来た。ここのところ、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介書簡抄」へのアクセスが急増している。心より感謝申し上げる。]

 

大正九(一九二〇)年一月十七日・田端発信・中戶川吉二宛(封筒に『小石川病院内流行性惑冒患者中戶川吉二樣』とある)

 

物干しへ蒲團と机とを出して原稿を書いてゐると僕の知つてゐる女が「これを捨てて下さい」と云つた受取つて見ると死んだ金魚だから物干しの下へ捨てた下には蒼い海が少し見えたするとその女が「あなたも捨てゝお貰ひなさいよ」と云つた「あなた」と云はれた女はお夏に違ひなかつたお夏は手のひらへ何か入つてゐるのを僕の手のひらの上へあけた見ると水の中にぼうふらが五六匹泳いでゐた何故かその時中戶川が燒かなければ好いがと思つた「水族館でござい」と云ふ聲がした聲の主は春樹さんだつたパツチに尻端折りで皮の鳥打帽をかぶつてゐた何が水族館かと思つたら扇子で僕の手のひらの中のぼうふらを指してゐた太鼓持のやうな嫌な奴だなと思つた雷が鳴つた僕の知つてゐる女が「雨がふるからこつちへおはいんなさい」と云つたその女はお夏と一しよに二階にゐた二階には朱ぶちの夏目漱石の額があつて鏡蒲團が澤山敷いてあつた お茶屋か何かの大廣間らしかつた實際雨がぽつぽつ降つて來た 上を見たら向うの屋根の上に繭玉のやうな雲が靑い空に白くぽっく浮んでゐた「あれは雷が鳴るから電氣で雲が細くなつたんだ」と僕が春樹氏に說明した春樹氏は何時か谷崎潤一郞になつて「田端は地震がなくつて好いな」と云つた僕は谷崎と田樂鍋を隔てて坐つてゐたそばに野上臼川君がゐたその外雜誌記者らしい人が二三人ゐた窓の下に稻田と雜木樹が見えた「狸はどうです」と野上君が云つた「狸は出る」と谷崎が云つた――そこで目がさめた「反射した心」を讀みながら寢てしまつたのだつた獨りでにやにや笑つた夢の中のお夏の顏は覺えてゐない

病中の御慰みまでにちよいと書いてごらんに入れた 以上

    一月十七日     病 我 鬼

   中 戶 川 樣

 

[やぶちゃん注:この年で芥川龍之介満二十八歳。

「中戶川吉二」(明治二九(一八九六)年~昭和一七(一九四二)年)は小説家・評論家。里見弴に師事。代表作「イボタの虫」。採用しなかったが、この同日か前日に彼から新著「反射する心」(当年一月十日新潮社刊。初版本が国立国会図書館デジタルコレクションで全篇視認出来る)を贈本されて、そのお礼を本書簡と同日発で述べている(恐らく葉書)。そこで芥川龍之介も『インフルエンザで寢てゐる』と記している。

「お夏」「春樹さん」「反射する心」の登場人物。主人公「私」は北川芳治(よしぢ)で、「お夏」はヒロイン格。龍之介の夢の中では中戸川自身が北川芳治扱いのようである。

「パツチ」パッチ。股引(ももひき)の一種。江戸では絹製のものを、関西では布地に関係なく、丈の長いものを指した。呼称は朝鮮語由来である。

「尻端折り」(しりは(ば)しより(しりは(ば)しょり))は、着物の裾を外側に折り上げて、その端を帯に挟み込むことを指す。

「太鼓持のやうな嫌な奴だなと思つた」反射する心」の最終の第三編のこで、芳治の友人山村が春樹のことを指して、「キザな男だね。あんなキザな男だの下品な女だのと、これからいろいろ交渉して行くんぢや君もなかなか堪らない……」と芳治へ語りかけるシーンがあり、すぐ後のここにも、芳治が自分で、『お千枝さん』(長いリーダ)『下等な女』(改行)『春樹さん』(長いリーダ)『キザな男』と悪戯書きをするシーンもある。

「鏡蒲團」蒲団の、裏の布を表に折り返して、表の縁としたもの。鏡の形に似ているところから、かく呼ぶ。

「春樹氏は何時か谷崎潤一郞になつて」私はここを読んで、思わず、ニンマリした。谷崎は気持ち悪いほど気障だから。

「野上臼川君」英文学者で能楽研究でも知られた野上豊一郎(明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)の号。「きゅうせん」(現代仮名遣)と読む。大分県臼杵市出身。臼杵中学・一高を経て、明治四一(一九〇八)年、東京帝国大学文科大学英文科卒業。同級生に安倍能成・藤村操・岩波茂雄がいた。夏目漱石に師事した。帝大卒業後は国民新聞社の文芸記者となったが、翌年には法政大学講師、この大正九(一九二〇)年には同大学教授となった。後、法政大学総長。ここで芥川龍之介が彼を「君」と呼んでいるのは注目される。大正十二年から十三年にかけて、四通の書簡が底本には載るが、内容は能の関係書についての簡単な謝辞や能の会関連の書信でとるべき書簡ではない。それにしても九歳年上で、漱石山房及び英文学者としても直系の先輩(野上は龍之介も好きなバーナード・ショーなどのイギリス演劇の研究・紹介でも知られる)であるのに、「君」は意外である。或いは、芥川龍之介は彼のことを、英文学者としてはそれほど評価していなかった可能性、或いは、国民新聞社の文芸記者時代に龍之介と何かがあった可能性などが窺われるように私には思われる。]

 

 

大正九(一九二〇)年四月二十七日 田端から 菅忠雄宛(葉書)

 

和加布難有う

      卽興

    春寒き小包解けば和布かな

    軒先に和布干したる春日かな

赤ん坊比呂志と命名菊池を名づけ親にしたのです先生によろしく 拜

 

[やぶちゃん注:この十七日前の四月十日、長男芥川比呂志が誕生した。盟友菊池寛の名から命名した。但し、出生届は早生まれ扱いにするために、三月三十一日生まれとなっている。]

 

 

大正九(一九二〇)年四月二十八日京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣・四月廿八日 東京市外田端四三五 芥川龍之介

 

手紙及雜誌難有う 君の論文は門外漢にも面白くよめた 法律哲學と云ふものはあんなものとは思はなかつた 正体がわかつたら大に敬服した 外の論文はちよいちよい引繰り返して見たがとても讀む氣は出なかつた

本がまだ屆かない由 日本の郵便制度は甚しく僕を惱ませる 君のも入れると二十册送つた本の中先方へ屆かないのが既に四册出來た譯だ 郵便局は盜人の巢窟のやうな氣がして頗不安だ 二三日中に今度は書留め小包で御送りする

素戔嗚の尊なんか感心しちやいかん 第一君の估券[やぶちゃん注:ママ。「沽券」が正しい。]に關る それより四月號の中央公論に書いた「秋」と云ふ小說を讀んでくれ給へ この方は五六行を除いてあとは大抵書けてゐると云ふ自信がある但しスサノオも廿三囘位から持直すつもりでゐる さうしたら褒めてくれ給へ 去る二十一日僕の弟の母が腹膜炎でなくなつた それやこれやでスサノオの尊は書き出す時からやつつけ仕事だつたのだ 去年は親父に死なれ今年は叔母に死なれ僕も大分うき世の苦勞を積んだわけだ どうも同志社なぞには倉田百三氏に感服する人が多かりさうな氣がする 違つたら御免この間藏六が感服してゐるのを見たらふとそんな氣がしたのだ 赤ん坊は比呂志とつけた 菊池を God-father にしたのだ 赤ん坊が出來ると人間は妙に腰が据るね 赤ん坊の出來ない内は一人前の人間ぢやないね 經驗の上では片羽の人間だね 大きな男の子で目方は今月十日生れだがもう一貫三百目ある 今ふと思ひ出したから書くがこの前君が東京へ來た時一しよに「鉢の木」で飯を食つたらう その時不二子さんの御亭主に遇つたらう あの御亭主の大學生は甚感じが惡るかつた あくる日の午過ぎ頃まで僕を不快にした こんな事を書いちや惡いかも知れないがほんたうだから申し上げる 久保正夫の講師は好いね 世の中はさう云ふものだ さう云ふものだから腹を立てる必要はない 同時にさう云ふものだと云つて詮め[やぶちゃん注:「あきらめ」。]切る必要もなささうだ 僕はこの頃になつてやつと active serenity の境に達しかけてゐる もう少し成佛すると好い小說も書けるし人間も向上するのだが遺憾ながらまだ其處まで行かない 相不變女には好く惚れる 惚れてゐないと寂しいのだね 惚れながらつくづく考へる事は惚れる本能が煩惱卽菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと向上卽墮落の因緣だと云ふ事だよ 理屈で云へば平凡だがしみじみさう思ひ當る所まで行くと妙に自分を大切にする氣が出て來る 實際惚れるばかりでなく人間の欲望は皆殺人劍活人劍だ 菊池は追々藝術家を癈業してソオシアリストの店を出しさうだ 元來さう云ふ人間なんだから仕方がないと思つてゐる但しこの仕方がないと云ふ意味は實に困つてゐると云ふ次第ぢやない 當に然る可しと云ふ事だよ むやみに長くなつたからこの邊で切り上げる

     近作二三

   白桃は沾(うる)み緋桃は煙りけり

   晝見ゆる星うらうらと霞かな

   春の夜や小暗き風呂に沈み居る

奧さん――と云ふより雅子さんと云ふ方が親しい氣がするが――によろしく さやうなら

    四月廿七日     一人の子の父

   二人の子の父樣 梧右

二伸 僕の信用し難き人間を報告する(但し作物その他には相當に敬意を表する事もないではないが)

福田德三、賀川豐彥 堺枯川、生田長江 倉田百三 和田三造 鈴木文治などと云ふ奴は大泥坊だね 福田德三は小泥坊、

實際ソオシアリストも人亂しだ 武者小路なぞは其處へ行くと嬉しい氣がする但しその御弟子は皆嫌ひ

 

[やぶちゃん注:最後の「二伸」は底本では全体が二字下げ。そこに不規則に打たれる読点はママである。

国立国会図書館デジタルコレクションで同志社大學敎授恒藤恭「批判的法律哲學の研究」

(大正一〇(一九二一)年内外出版刊)が読めるが、或いはこの中に芥川龍之介が読んだ論文が含まれているかも知れない。

「本がまだ屆かない由……」一月二十四日に春陽堂から刊行した第四作品集「影燈籠」のことであろう。

「素戔嗚の尊」大正九(一九二〇)年三月三十日に『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』に連載を開始し、前者は六月六日で、後者は六月七日で終わった「素戔嗚尊(すさのをのみこと)」。その後、全四十五回の前半四十五回分(恒藤が感心したのはその頭の部分となる)は芥川龍之介は単行本に収録せず、後半のたった十回分を「老いたる素戔嗚尊」と改題し、そのコーダ部分を大幅に書き直して第六作品集「春服」(大正十二年五月十二日春陽堂刊)に収録した。個人的には、この作品は私は好きである。「青空文庫」で「素戔嗚尊」(但し、新字新仮名)と、改稿版「老いたる素戔嗚尊」(但し、新字旧仮名)が読める。

「秋」大正九年四月発行の『中央公論』に初出。素材提供者は龍之介の不倫相手秀しげ子であった。研究者の評価は頗る高く、関口安義氏が『短編作家芥川龍之介が、自己の特色を最大限に発揮した小説であったとしてよい』(平成一二(二〇〇〇)年勉誠出版の「芥川龍之介全作品事典」)と述べておられるほどである。しかし私は告白する。大学四年の一九七八年十月、入手した芥川龍之介全集の全巻通読をした際、芥川龍之介の小説の中で、ただ一篇、退屈で、途中から読むのがいやになりかけた唯一無二の作品である。

「去る二十一日僕の弟の母が腹膜炎でなくなつた」「弟」は新原得二、「弟の母」は芥川龍之介の実母フクの妹で、龍之介の叔母にして継母に当たる、実父新原敏三の後妻フユ。この年の五月二十一日に亡くなった。享年五十七であった。

「藏六」藤岡蔵六。既出既注

「片羽」ママ。差別用語の「かたは(かたわ)」のそれは「片端」である。

「一貫三百目」四キロ八百七十五グラム。これは現在の標準体重から見ても太り過ぎである。

「不二子さんの御亭主」ウィキの恒藤恭の妻の父「恒藤規隆を見ると、規隆には『庶子としてフジ』がおり、『フジは男爵有馬純長と婚姻し』たとある。

「久保正夫」(明治二七(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)は芥川龍之介の一高・東帝大の後輩。既出既注だが、再掲する。大学では哲学を専攻し、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部及び岡山大学医学部の前身)講師となった。「フィヒテの哲学」などの翻訳で知られ、聖フランチェスコの関連書を多く訳し、友人であった劇作家の倉田百三とともに、大正時代の宗教文学ブームの先駆けを作った人物として知られる。恒藤も一高時代に知っていた。彼が、第三高等学校講師になったことを恒藤が龍之介に前便で知らせたのであろう。

「active serenity」能動的平静。活発なる沈着。

「相不變女には好く惚れる 惚れてゐないと寂しいのだね 惚れながらつくづく考へる事は惚れる本能が煩惱卽菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと向上卽墮落の因緣だと云ふ事だよ」「煩惱卽菩提」は芥川龍之介の宿命的に愛した公案である。この惚れた相手は、まず、肉体関係まで進行してしまった秀しげ子を第一としてよいだろう。しかし、それ以外にも、じつはちらほらしている。どうしても挙げておく必要があるのは、平松麻素子(ますこ)である。平松麻素子(明治三一(一八九八)年~昭和二八(一九五三)年)は戸籍上の名は「ます」で高輪の生まれ。芥川龍之介の妻文の幼馴染みで、文より二歳年下、龍之介より六歳年下であった。父平松福三郎は弁護士・公証人で、有楽町に法律事務所兼ねた公証人役場を営業していたが、大正八(一九一九)年に職を投げ打ち、出口王仁三郎の大本教に入信、東京支部長となった。麻素子は若くして結核に罹患、東京女学館を卒業後は家事手伝いをし、病気もあって婚期を逸していた。当初は、大正九(一九二〇)年三月頃、「秋」の執筆に際して、当時の女性の風俗を龍之介に解説して貰うために文自身が龍之介に紹介した女性である(芥川文述・中野妙子記「追想 芥川龍之介」(一九七五年筑摩書房刊)に拠る)。関東大震災で高輪に家を焼け出された平松一家は、一時、福三郎の長兄の住む田端に身を寄せたことなどから、近くの芥川家との訪問が頻繁となり、龍之介の晩年には文が龍之介の疲弊した神経を慰めて呉れるであろうこと、及び、彼の自殺を監視させる目的をも暗に含んで、龍之介との交際を文も勧めていたようである。父の縁で晩年の芥川の仕事場として、帝国ホテルを斡旋したのも彼女とされる。そして、彼女の出現をここで語っておかなくてはならないのは、二人は芥川龍之介が自死する昭和二年四月七日と五月下旬(或いは上旬ともされる)に二度の心中未遂事件を起こした時の相手であったからである。なお、彼女は戦後になって結核が悪化し、国立武蔵療養所に入院したが、ほどなく逝去した。

「ソオシアリスト」socialist。本来は「社会主義者」の意であるが、ここは、後の文藝春秋社創立に見るような、社会的事業家の意で用いている。

「福田德三」(明治七(一八七四)年~昭和五(一九三〇)年)は経済学者。東京神田生まれ。母がクリスチャンであったため、十二歳で洗礼を受けた。私立東京英語学校などを経て、高等商業学校(後の東京高等商業学校、現在の一橋大学)に入学、学生時代、東京の貧民窟(スラム)での伝道活動に参加し、明治二七(一八九四)年に同校を卒業し、神戸商業学校(現在の兵庫県立神戸商業高等学校)教諭となったが、翌年、教諭の職を辞して、再び高等商業学校の研究科に入学二年後に卒業後、翌明治三一(一八九八)年から文部省から命ぜられて、ドイツのライプツィヒ大学やミュンヘン大学に留学、一九〇〇年にミュンヘン大学で博士号を取得した。社会政策学派・新歴史学派として経済理論・経済史などを導入した。東京商科大学(現一橋大学)教授・慶應義塾教授・フランス学士院文科部外国会員などを歴任した。レジオン・ドヌール(L'ordre national de la légion d'honneur)勲章も受章している(当該ウィキに拠った)。

「賀川豐彥」(かがわとよひこ 明治二一(一八八八)年~昭和三五(一九六〇)年)はキリスト教社会運動家。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高く、戦前は「現代の三大聖人」として「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と称された。兵庫県神戸市生まれ。回漕業者賀川純一と徳島で芸妓をしていた菅生かめの子として生まれた。四歳の時に相次いで父母と死別し、姉とともに徳島の本家に引き取られる。徳島では血の繋がらない父の本妻と祖母に育てられたが、「妾の子」と周囲から陰口を言われるなど、孤独な幼年期を過ごした。兄の放蕩により十五歳の時に賀川家は破産、叔父の森六兵衛の家に移った。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)に通っていた明治三七(一九〇四)年、日本基督教会徳島教会にて南長老ミッションの宣教師H・W・マヤスより受洗、伝道者を志し、明治三八(一九〇五)年に明治学院高等部神学予科に入学、卒業後の明治四〇(一九〇七)年、新設の神戸神学校(後の中央神学校)に入学する。そこを卒業後、さまざまな下層階級と生活を共にし、結婚した。結核に苦しまされたが、大正三(一九一四)年には渡米し、アメリカの社会事業、労働運動を垣間見つつ、プリンストン大学・プリンストン神学校に学んだ。大正六年に帰国すると、神戸のスラムに戻り、無料巡回診療を始め、また、米国留学中の体験から貧困問題を解決する手段として労働組合運動を重要視した賀川は、鈴木文治率いる友愛会に接触し、大正八年に友愛会関西労働同盟会を結成して理事長となった。また同年には日本基督教会で念願の牧師の資格を得た。この大正九年には自伝的小説「死線を越えて」を出版、わずか一年で百万部超という一大ベストセラーとなり、賀川の名を世間に広めた。その後もベストセラー作家として、「一粒の麦」「空中征服」「乳と蜜の流るゝ郷」など、数々の小説を発表、これらの原稿料や莫大な印税は、殆んど、彼が関与した社会運動のために投じられた。また同年、労働者の生活安定を目的として神戸購買組合(灘神戸生協を経て、現在の日本最大の生協「コープこうべ」)を設立、生活協同組合運動にも取り組んだ。また、キリスト教系業界紙『キリスト新聞』(キリスト新聞社発行)を立ち上げてもいる(当該ウィキに拠った)。

「堺枯川」知られた社会主義者にして作家でもあった堺利彦(明治三(一八七一)年~昭和八(一九三三)年)の号(「こせん」と読む)。詳しくは当該ウィキを見られたい。

「生田長江」(明治一五(一八八二)年~昭和一一(一九三六)年)は評論家・翻訳家。本名は弘治(ひろはる)。鳥取県の生まれ。仏教に信仰心厚い生家の影響を受けたが、若き日、キリスト教にも接近し、洗礼も受けた。明治三九(一九〇六)年東京帝大哲学科を卒業、在学時より同級の森田草平らと回覧雑誌を出し、馬場孤蝶に師事。雑誌『芸苑』に「小栗風葉論」(明治三九(一九〇六)年)を書いて注目された。与謝野晶子とも知遇を得て、「閨秀文学会」を作り、その聴講者に平塚らいてう等がおり、そこから『青鞜』が生まれた。この頃、佐藤春夫も長江に師事している。また、ニーチェの翻訳に没頭し、「ツァラトゥストラ」(明治四四(一九一一)年)などを刊行。ダヌンツィオ「死の勝利」(大正二(一九一三)年)、マルクス「資本論」(大正八(一九一九)年に第一部のみ刊行)、ダンテ「神曲」(昭和四(一九二九)年)などを訳出している。一方、作家論集「最近の小説家」(明治四五(一九一二)年)なども刊行、「自然主義前派の跳梁」(大正五(一九一六)年)は『白樺』派批判の論文として知られる。その後は宗教性を根底に置き、東洋回帰の論調をみせた。ハンセン病に罹患しており、後年には容貌が変容し、失明もしたが、活動は衰えなかった(主文は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「和田三造」(明治一六(一八八三)年~昭和四二(一九六七)年)は洋画家・版画家。

旧朽木藩御典医を勤めた父の四男として兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)に生まれた。兄が大牟田市の鉱山業に従事したため、十三の時に一家をあげて福岡市に転居、翌明治三〇(一八九七)年に福岡県立尋常中学修猷館に進学したが、明治三十二年に画家を志し、父や教師の反対を押し切って修猷館を退学後、上京して、黒田清輝邸の住み込み書生となり、白馬会洋画研究所に入所して黒田清輝に師事した。明治三四(一九〇一)年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学した。青木繁・熊谷守一らと同期であった。代表作は明治四〇(一九〇七)年第一回文展に出品した「南風(なんぷう)」。

「鈴木文治」(ぶんじ 明治一八(一八八五)年~昭和二一(一九四六)年)は政治家・労働運動家。友愛会創始者。日本の労働運動の草分け的存在とされる人物。詳しくは当該ウィキを見られたい。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (6ー2) 三比事に書かれた特種の犯罪方法 二

 

        

 

 前にも述べたごとく、三比事の中には、これといふ目新らしい犯罪方法は描かれて居ないけれど、他人の迷信を利用する犯罪以外に多少注意すべきものもないではないから、二三その例をあげて置かうと思ふ。

 隱顯インキを利用して手形に署名し、その手形を無效ならしめることは、一寸考へると比較的新らしい犯罪のやうに考へられるが、櫻陰此事の中には、『手形は消えても、正直が立つ』と題して次の物語がある。[やぶちゃん注:以下、引用は、底本では全体が一字下げ。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本ではここ。]

 『昔、都の町に北國《ほつこく》の買問屋《かひどひや》[やぶちゃん注:北陸方面の物産を専門に買いつける問屋。]して、六角通ひに手前宜《よろし》きあり、親の代よろり懇《ねんごろ》せし方へ銀子五貨貫目貸して預り手形取置かれ、年々斷りにまかせて八年相待ち、其《その》大節季[やぶちゃん注:大晦日。]に入用《いりよう》とて人遣はしけるに、手形持たせて御越しあるべし、銀子返進《へんしん》と申せば、右の手形箱を開けて内見するに、これ白紙となつて不思議晴れ難し、あまたり證文吟味いたせしに外の 別條なし、何とも思案に及ばず、潜かに此段を貸したる方へ申せしに、いづれ其銀子は濟《すま》したやうに覺えたり、何分にしても手形無くでは不埒と、其後はいよいよ相濟 したに極めて、結句貸方の人惡く沙汰せられて、世上に外分失ひ、爰に堪忍なり難く、銀子の損は格別、せめて我正直を知せたき願ひ、ありの儘に書付け申上ぐれば、兩方召出され、先づ町の者に兩人が身代のほどを御尋ね遊ばしける、財寶かけて八百貫目をさして相違御座なく候と申上ぐる、又借《かり》申す方は三十貫目ばかりと、見及びの程、ありていに申上ぐる、然《しか》れば此銀子は借りたには紛れ無し、譬ひ手形は白紙になるとも銀は屹度相濟《すま》すべく、おのれ恐ろしき所存《しよぞん》世の仕置きものなれども、相渡せば仔細なしと仰せ出されし時、何とも御返答あり雖く、銀子相立て申す御請合《》うけあひ申上ぐる、其後《そののち》貸方のものを近う召され、定めて此手形はあの者が宿より書調《かきととの》へ持參いたしたかと御意のありしに、仰せの通り私宅《したく》より認《したた》め參りし、印判は見覺え別條無く存ず[やぶちゃん注:「存じ」の誤り。]請取置き候段々申上ぐる、重ねては眼前にて書かせ商賣の事まで念を入るべし、都にもあの如くなる惡人あり、此度《このたび》の手形は豫《かね》て拵らへたるものなり、鳥賊《いか》の黑みに粉糊《このり》[やぶちゃん注:飯粒で作った糊。]を磨交《すりま》ぜて書けるものは、三年過ぐれば白紙になるといふ事本草に見えたり、まさしくこれなるべしと仰せけるとなり。』

 鳥賊の黑みが果してかやうな性質を持つて居るかどうかは、私自身實驗して見たことがないからわからねが、ヨードの極少量を糊汁にまぜた靑い液で文字を書けば、空氣中では、日ならずして消えてしまふ。數年前、ロンドンである男が競馬の賭にこの液を用ゐて逮捕された話がある。彼は紙片にこの液でものもを書いて先方へ渡し、それと同時に、書いた當座は見えないて、後になつてあらはれる液を以て別の馬の名を書いて置いたため、先方のものが日を經てその紙片を見ると、別のものもがあらはれ、賭金を詐取せられたといふのである。 quinoline blue の如き色素で書いた文字も、日光にさらせば消失するから、時折犯罪の目的に使用されるといはれて居る。[やぶちゃん注:「鳥賊《いか》の黑みに……」明治書院平成五(一九九三)年刊の「対訳西鶴全集」第十一巻「本朝櫻陰比事」の注に、『烏賊のくろみに粉のりを摺まぜて書置ば、三年以後には白紙になる物也。本草にみへたり。手形証文先より認〈したため〉きたらば、それをもちゆる事なかれ、おそるべし(男女御土産重宝記)』とある。同書は「なんにょおんみやげちょうほうき」(現代仮名遣)と読み、江戸中期に書かれた(作者未詳)生活マニュアル本の一つ。「イカ墨で文字を書くと消える」というのは都市伝説として古くからあり、今も信じている人が多いが、全くのデマである。「quinoline blue」キノリン・ブルー。シアニン(cyanine)とも呼び、ポリメチンに属する合成染料。初めて合成されたのは百年ほど前。]

 大岡政談を讀れた人は、『三方一兩損』といふ話を記憶して居られるだらうと思ふ。ある男が三兩の金を拾つて特主に返さうとすると、持主は、拾つたものはお前のものだから受取らぬといひ、拾ひ主は、金は持主のものだからどうしても受取れといふ。やがて、受取れ、いや受取らぬ、と爭ひ出して終に大岡越前守の裁判となり、越前守は自分で一兩を出して四兩となし、それを二分して二兩づつ二人に與へ、落し主もつまり一兩の損、拾ひ主も一兩の損、自分も一兩の損だと目出度くさばいたといふ話である。この話は多分、櫻陰比事の物語『落とし手あり拾ひ手あり』の話を燒き直したのだらうと思はれるが、櫻陰比事では、これが一種の犯罪の手段に用ゐられようとしてあるだけ、大岡政談よりも却つて一層面白いやうに思はれる。[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの「大岡政談」のそれはここ。まずはそれを読まれてからの方がいい。以下、底本では同じく全体が一字下げ。以下は、国立国会図書館デジタルコレクションのここ。]

『昔、都の町はづれより加茂川の岸傳ひに北山へ歸る老人あり、折ふし十二月二十八日の夕暮、世間は春の事ども取急ぎ心忙《せは》しき今日《けふ》も、御堂《みだう》下向の道芝《みちしば》[やぶちゃん注:帰り道にあった芝草。]に、紙包見えけるを拾ひ上ぐれば、小判三兩と書付けあり、いかなる人の節季をしまふ心當《こころあて》[やぶちゃん注:大晦日の支払いに用意した大事な頼りとするもの。]にもやと、跡先見しに往來もなく、遙かの松蔭に柴賣《しばうり》と見えし人の立休むに追付き、其方はこれを遺失《おと》しはせぬかといへば、いかにも我等遺失したれども、其方の手に入るからはそなたのものといふ、これは近頃迷惑なる申され分なり、たとひ此主《ぬし》の無きとて取つては歸らじ、況《ま》して主ある金子を取りて歸るべさかと、其者に渡せば、拾ひし者に返しぬ、投げ遣れぱ投付《はふり》け、暫時《しばらく》此論やむ事なし、後には黑木賣《くろきうり》、牛使ひ立どまりて、今の世には例《ためし》なき事ぞと、兩人の志《こころざし》を感じける、いよいよ互に道を立て[やぶちゃん注:互いの言い分を頑固に押し通そうとして。]、此小判納まり所無く、とかく此論、下《した》に濟み難く、兩人御前へ罷出て、右の段々申し上ぐれば、當番の役人衆聞給ひて前代に無き事、これは都の今聖人《いませいじん》なるべしと、此段御取決[やぶちゃん注:「取次」の誤植であろう。]申上げらる、折ふし、御前には御氣色惡く、前後に京中の醫者衆相詰められける、時に御名代の家老職を召され、知慧だめしに此裁判を仰付けられしに、ここをを大事と思案して、其拾ひし三兩の小判を出させ、御前の小判三兩合せて六兩を取りませ、三所に置きて、先づ遺失したるものに二兩渡して一兩の損なり、又拾ふたるもの二兩取ればこれも一兩の損なり、御前の金も一兩御失墜[やぶちゃん注:浪費。]なり、兩方ともに罷立てと申付けられけるを、いづれも發明なるさばきなりとこれを感じ、これを御耳に立つるになかなか御同心無く、其方どもが氣の着け所相違なり、此二人内談にて斯く取結びし作りものなり、其仔細は拾ひしもの其主と論に及ばず、捨てやうはさまざまありしに、こゝに出でける所第一の聞《きき》[やぶちゃん注:「聞き所」の脱字か。注意して聞くべき不審な部分。]なり、正直者と都に顏を見知らせ、末々人をかたりの巧みせしには違《ちが》ふまじ、其二人呼返せと又御前に召出だされ、右の段、仰せ渡され、ありの儘に白狀申さぬに於ては拷問と、嚴しく御詮議かゝれば、山家《やまが》のもの驚き、あの者に賴まれ、何心もなく言含め候通りに、拾ひ手に罷成り爭ひ候と申上ぐる、されば惡事は遺失手めが巧みなり、見分《けんぶん》[やぶちゃん注:見たところは。]家に杖つく年齡して無用の心根仕置にもすべきなれども、おのれが身の上ばかり他に障らぬ事なれば、洛外までも拂ふべし、又賴まれし者めは久しく住所の鞍馬に近き麓里《ふもと(の)さと》を拂ひ給けるとなり。』

 如何に正直てあつても、拾つたものを返す、受取らぬで裁判所にまで出るはをかしい、これは正直であるといふことを世間へ知らせる手段にちがひないと睨んだ『御前』の眼力は、大岡政談の中にあらはれる『越前守』のそれよりも遙かに鋭いといはねばならない。探偵小說として二つを比較して見ても、三方一兩損で結末をつけるより、將來の犯罪の手段だと解決した方が一層の興味があると思ふ。[やぶちゃん注:不木の見解を大いに支持する。大岡の「三方一両損」は、私はもともと胡散臭い話として嫌いだった。但し、明治書院版の注によれば、これにも原拠があり、「板倉政要」の七の十四「聖人公事例」であるとある。]

 この外、櫻陰比事には、『あぶないものは筆の命毛《いのちげ》』と題して、馴染の女郞を棺桶の中に入れ、取人《とりにん》[やぶちゃん注:遺体の引き取り人の意であろう。原話では大門の番人は廓内の老婆の死体と勘違いしている。]として嚴しい門番の眼をくらませて連れ出す話があり、鎌倉比事には、『智慧の左繩』と題して、人を毆打して過《あやま》つて殺した死體を、自ら縊死したやうに見せかける話があり、藤陰比事には、『不審を肩に知る木割《きわり》の木工平《もくへい》』と題し、他人の女房を盜むために、頓死した女の首を切り落して胴體だけを亭主の家に殘し置き、女房が何ものかに殺されたやうに見せかけ、女房を我家へかくまひ置く話があるが、いづれも、さほど奇拔なものではなく、ことに、この藤陰比事の物語は支那の棠陰比事の話を燒直したものらしい。

[やぶちゃん注:「隱顯」(いんけん)「インキ」「不可視インク」或いは「隠顕インク」とは塗った時点、若しくは少し時間をおいた後に見えなくなる物質を使ったインクで、時に特定の処理を施すことによって可視化されるものを言う。当該ウィキによれば、『ステガノグラフィー』(steganography。中国語「隠写術」。情報隠蔽技術の一つで、情報を他の情報に埋め込む技術のこと、或いはその研究を指す。暗号(cryptography)が平文の内容を読めなくする手段を提供するのに対して、ステガノグラフィーは存在自体を隠す点が異なる。ギリシア語で「無口」を意味する(ラテン文字転写:steganos)と、ラテン語の「画法・記述した物」の意の接尾辞 -graphia に由来する)『の一種としてスパイによっても利用されてきた。他にも情報の標識、再入場を防止する押印、製品の同定のための印などに用いられる』。『日本においては忍者が方法・術を記録に残しており』、「甲賀流武術秘伝」の中の『「白文文法」に、「大豆を細かく刻んで水に浸し、その汁で紙に書き、または酒で書いて、日に干し、読む時は鍋炭をふりかけ、炭が無い時は、水火灰の当座書にして、封せずして、主将より忍者に与う」、「水は鉄汁、火は灯芯、灰は大豆汁や唐荏の実」と記述されている』という。「関東古戦録」巻三の『「武州松山城の攻防」において』、永禄四(一五六一)年十二月『上旬に、敵が松山城付近に陣を置き、忍びでも抜けられない大軍で包囲したため、太田資正(原文は三楽斎)が訓練を積ませた』五『匹の足の速いイヌ(城から岩築までの』三十『里を往復させていた)に封を入れた竹筒を首に結び付け、夜に出した逸話があるが、この密書は「水に浸すと文字が浮き出る」仕組みになっていたと記述される』。『「不可視の文字」という点のみであれば、特殊な事例として』、「日本書紀」の』敏達天皇元(五七三)年五月の『条に、高麗国使がカラスの羽に上表文を書いたものを持ってきたが、黒くて読めなかったため、これを炊飯の湯気で蒸し、柔らかい上等な絹布に羽を押し付け、字を写し取った話が記述されており、史実かは別として、この逸話は後代にまで日本国内で伝えられ』、「続日本紀」の延暦九(七九〇)年七月十七日の条にも同『話の引用が見られる。この場合、墨と同じ色のものに書くことによって、不可視にしている』。『不可視インクは、万年筆、爪楊枝、綿棒などを使うか、あるいは指を浸してそのまま塗りつけるなどして使用される。塗布し、乾燥したあとは無色となって周りの質感と見分けがつかないようになる』。『単なる白紙では秘密のメッセージが隠されているのではないかという疑念を抱かせる可能性があるため、見えなくなった文を補うための文章を付けたす必要がある』。『可視化する方法は用いた不可視インクの種類によって異なるが、加熱、薬品による化学反応、紫外線などがある。このうち化学反応としては、一般的に青写真の製造過程と類似した酸塩基反応を用いる。展開液はスプレーを用いて吹き付けるが、フェノールフタレインインクを発色させるアンモニアのように、蒸気のものもある』とある。以下、現代のそれは略す。

「あぶないものは筆の命毛」は国立国会図書館デジタルコレクションのここから活字本が読める。

「鎌倉比事」「智慧の左繩」は国立国会図書館デジタルコレクションのここから影印本が読める。

「藤陰比事」「不審を肩に知る木割の木工平」は本書に先立つ小酒井不木の「趣味の探偵談」(大正一四(一九二五)年黎明社刊)の中に既に取り上げて、原文を活字化しており、幸いにして国立国会図書館デジタルコレクションに同書があったので、ここでは当該部箇所をリンクさせておく。

「この藤陰比事の物語は支那の棠陰比事の話を燒直したものらしい」上記リンク先の前に、「首無し死體」としてシノプシスが紹介されてあるのが、それ。「從事函首」である。「中國哲學書電子化計劃」のこちらから原文影印が読める。]

日本山海名産図会 第二巻 蜂蜜・蜜蝋(みつらう)・會津蝋(あいづらう)

 

Kumanohatimitu

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「熊野蜂蜜(くまのはちみつ)」。「蜜」の字は以下の本文でも、この(グリフィスウィキ)異体字である。ちょっと形が異様ではあるのだが、右上に三種の蜂の図を描いてあるのが、いい。また、絵の中の藁葺屋根の棟に猫が寝転んでいるのも、いい。絵師蔀関月のセンスはただものではない。]

 

  ○蜂蜜一名「百花精(ひやくくわせい)」・「百芲蕊(ひやくくわずゐ)」

○凡そ、蜜を釀(かも)する所、諸國、皆、有り。中にも紀刕熊野を第一とす。藝州、是れに亞(つ)ぐ。其外、勢州・尾州・圡州・石州・筑前・伊豫・丹波・丹後・出雲などに、昔より、出だせり。又、舶來の蜜あり、下品なり。是れは、砂糖、又、白砂糖にて製す。是れを試るに、和產の物は、煎(せん)ずれば、蜂、おのづから、聚(あつま)り、舶來の物は、聚まることなく、此れをもつて、知る。○蜜は、夏月(なつ)、蜂の脾(す)の中(うち)に貯へて、己(おの)が冬籠りの食物(しよくもつ)とせんがためなり。一種、人家に自然に脾を結び、其の中(なか)に貯はふ物を「山蜜(やまみつ)」といふ。又、大樹の洞中(たうちう)に脾を結び、貯はふを、「木蜜(きみつ)」といふ。以上、熊野にては「山蜜」といひて、上品とす。又、巖石間中(いわほのうち)に貯はふ物を「石蜜(せきみつ)」と云ふ。また、家に養(か)うて採る蜜は、毎年、脾を采り去る故に、氣味、薄く、これを「家蜜(かみつ)」といふ。脾を炎天に乾かし、下に器(うつは)を承(う)けて、解け流るる物を、「たれ蜜」といひて、上品なり。漢名「生蜜(せうみつ)」【一法、槽(おけ)に入れて、火を以つて、焚きて取るなり。但し、火氣の文武(ふんふ)の毫厘(かうり)の間(あひだ)を候(うかゞ)ふこと、大事あり。】。又、脾を取り潰し、蜂の子ともに、硏(す)り水を入れ、煎じて、絞り採るを、「絞り」といふ【漢名「熟蜜」。】。凡そ、蜜に、定まる色、なし。皆、方角の花の性(せい)によりて、數色(すしよく)に變ず。

○畜家蜂(いへにやしのふはち)【漢名「花賊(くはそく)」・「蜜宦(みつくわん)」・「王腰奴(わうようと)」・「花媒(くははい)」。】

家に畜(やしな)はんと欲(ほつ)すれば、先づ、桶にても、箱にても、作り、其の中に酒・砂糖・水などを沃(そゝ)ぎ、蓋(ふた)に孔(あな)を多くあけて、大樹の洞中(とうちう)に結びし窠(す)の傍(かたはら)に置けば、蜂、おのづから、其の中へ移るを、持ち歸りて蓋を更ためて、簷端(のき)、或ひは、牖下(まと)に懸け置くなり。此の箱・桶の大きさに、規矩あり。されども、諸刕、等しからず。先づ、九刕邉(へん)一家の法を聞くに、箱なれば、九寸四方・竪(たて)二尺九寸[やぶちゃん注:約八十九センチメートル。]にして、これを竪に掛くるなり。あるいは、斜横(ななめよこ)と、畜(やしな)ふ家の考へあり。その箱の材(き)は、香(か)のある物を忌みて、かならず、松の古木を用ひ、これまた、鋸(のこぎり)のみにて、鉋(かんな)に削ることを、忌む。板の厚さ、四步[やぶちゃん注:一・二センチメートル。]斗、両方の耳を、隨分、かたく造り、つよく縄をかけざれば、後には、甚だ重くなりて、おのづから落ち損ずることあり。戸は上下二枚にして、下の戶の上に、一步八厘[やぶちゃん注:五・四ミリメートル。]・横四寸ばかりの隙穴(ひまあな)を開(ひら)きて、蜂の出入りの口とす。若し、一、二厘も廣く開くれば、山蜂(やまはち)など、隙より窺ひて、大きに蜜蜂を擾亂す。又、大王の出づるにも、此の穴よりして、凡そ、小(ちい)さき物なり。箱の數(かず)は、家毎(いへごと)に、三、四を限りて、其の余(よ)は、隣家の軒を、往々、借りて畜なふ。

○造脾(すをつくる)     尋常(よのつね)の房(す)の鐘(つりかね)の如き物にあらず。穴も、下に向ふことなく、只、箱、一(いつ)はゐ[やぶちゃん注:いっぱい。]に造り、穴は横に向かふて、人家の鳩の家の如し。先づ、箱の内の上より、半月(はんげつ)のごとき物を造りはじめ、繼いで、下(した)一はひ・兩脇共に、盈(みた)しむ。其の厚さ、凡そ一寸八步、或いは、二寸ばかり。両面より、六角の孔、數多(あまた)を開き、柘榴(ざくろ)の膜(まく)に似て、孔、深き。八、九步、是くのごとき物を、幾重(いくえ)も製(つく)りて、其の脾と脾との間(あひだ)、纔か、人の指の通る程宛(ほどつゝ)の隙(ひま)あり。蜂、其の隙に入るには、下より潛(くゝる)なり。全躰、脾を、下迄は盈(みた)さずあればなり。脾の形或は、正面、或は、横斜(よこななめ)などにて、大抵、同じ其の孔には、子を生み、又、蜜を貯へ、又、子の食物の花を貯はふ。又、子、成育して飛んで出入(でいり)するに及べば、其の跡の孔へも、亦、蜜を貯はふ。凡そ、蜜、はじめは、甚だ、淡(あは)しき露(つゆ)なり。吐き積んで、日を經れば、甘芳(かんはう)、日毎に進むこと、實(まこと)に人の酒を釀(かも)するに等し。既に露(つゆ)、孔に盈(みつ)る時、其の表を閉ぢて、一滴一氣を漏らすことなく、蜂の數(かず)多ければ、氣味も厚し。

○蜂は、小なり。大きさ、五步(こふ)計り。マルハチに似て、黄に黑色(こくしよく)を帶ぶ。多く群(あつま)りて、花をとる物は、巢を造(つくら)ず、巢を造ものは花を採らず。時々、入れ替りて、其の役を、あらたむ。夫(そ)れが中に「蜂王(だいわう)」といひて、大きなる蜂一つあり。其王の居所(いどころ)は、黑蜂(くろはち)の巢の下(した)に一臺(いつたい)をかまふ。是を「臺(うてな)」といふ。その王の子は、世々(よゝ)繼きて王となりて、元より、花を採ることなく、毎日、群蜂(くんはう)、輪値(かはりはん)[やぶちゃん注:「替わり番」。かわりばんこ。]に、花を採りて、王に供(くう)す。是れ、一桶に一个(ひとつ)のみなるに、子を產むこと、雌雄ある物に同じ道理においては、希異(きい)なり。群蜂、是れに從侍(じうじ)すること、實(まこと)に玉體に向かふがごとし。又、黒蜂、十斗りありて、是れを「細工人(さいくにん)」と呼ぶ。孔口(あなくち)を守りて、衆蜂(しうはう)の出入(でいり)を檢(あら)ため、若し、花を持たずして孔に入らんとするものあれば、其の懈怠(けだい)を責めて敢へて入ることを許さず。若し、再三に怠る者は、遂に螫(さ)し殺して、軍令を行ふに異(こと)ならず。凡そ、家にあるも、野にあるも、儀(ぎ)においては同じ。

○頒脾(すをわかつ)[やぶちゃん注:所謂、彼自身の「分蜂」を見極めて、それを助けつつ、人工的に飼養領域内に人工分蜂する手法の記載である。] 大王の子、成育に至れば、飛んで、孔を出づるに、群蜂、半(なかば)、從がふて、恰(あたか)も、天子の行幸(みゆき)のごとく、擁衞(ようゑい)、甚だ、嚴重なり。其の飛び行くこと、大抵、五間[やぶちゃん注:九・〇九メートル。]より十間の程にして、木の枝に取り附けは、其の背、其の腹に、重なり、留りて、枝より垂たるごとく、一團に凝(こ)り集まり、大王、其の中(なか)に、楯(たて)のごとく、裏(つゝ)まる。畜なふ人、是れを逐(お)ふて、袋を群蜂の下に𣴎(う)けて 羽箒(はがばき)を以つて、枝の下を掃くがごとくに切り落せば、一團のまゝにて、其の袋中(たいちう)へ、おつる。其の音、至つて、重きがごとし【今、世、此の袋を籠にて作りて、衆蜂の気(き)を洩らさしむ。さなくては、蜂、死ること、多し。】。是れを用意の箱に移し、畜なふを、「脾わかれ」といふて、人の分家するに等し。若し、其の一團の袋へ落つるに、早く飛び放なる者ありて、大王の從行(じゆうぎやう)に洩れて、其の至る所を知らず。又、原(もと)の巢へ飛び歸る時は、衆蜂、敢へて孔に入ることを不許(ゆるさず)、爭ひ起こりて、是れを螫し殺し、其の不忠を正すに似たり。見る人、慙愧して歎淚(たんるい)を流せり。又。「八ツさはぎ」とて、晝八つ時には、衆蜂、不殘(のこらず)、桶の外に現はれて、稍(やゝ)羽根を鳴らすこと、あり。三月頃、蜂の分散する時、彼(か)の王、一群ごとの中(なか)に、必ず、一つ、あり。巢中(すちう)に、王、三つある時は、群飛(ぐんひ)も、三つにわかる。其の時、畜なふ人、水、沃ぎて、其の翅(つばさ)を濕(うるほ)せば、蜂、外へ、分散せず、皆、元の器中(きちう)へ還る故に、年々、畜なふ、といへり。

○割脾取蜜(しをきりてみつをとる)  是れを採るには、蕎麦(そは)の花の凋(しぼ)む時を、十分、甘芳(かんはう)の成熟とす。採らんと欲する時は、先づ、蓋を「ホトホト」叩けば、蜂、皆、脾の後に移る。其の巢の三分の二を切り採り、三分が一を殘せば、再び、其の巢を補ひ、原(もと)のごとし。かく採ること、幾度(いくたび)といふことなし。冬に至れば、脾ともに、煎じて、熟蜜とす。○一種、「圡蜂(ぢはち)」と云ひて、大(おゝき)さ五分ばかり、圡(つち)を深く穿ち、其の中(なか)に脾を結ぶ。是れにも蜜あり。南部、是れを「デツチスガリ」といふ。但し、スガリは蜜の古訓なり。「古今集」「離別」に、   ┌─すがるなく秋の萩原(をきはら)あさたちてたび行人(ゆくひと)をいつとかまたん   又、深山(みやま)崖石上(かいせきじやう)に自然のもの、數歲(すさい)を經て、已(すて)に熟する者あれば、圡人(としん)、長き竿をもつて、刺して、蜜を流し採る。或ひは、年を經ざるものも、板緣(ふちのふち)、取れり。凡そ、箱に畜なふもの、「絞り蜜」ともに、二十斤【百六十目一斤。】、蜜蝋(みつろう)二斤を得るなり。此二斤のあたひを以つて、桶・箱修造の費用に抵(あて)ゝ足(た)れり、とす。

 ○蜜蝋(みつらう) 一名「黄蜡(おうさく)」

是れ、黄蝋(わうろう)といふ物にて。即ち、蜂の脾(す)なり。其の脾を絞りたる滓(かす)なり。蜜より蝋を取るには、生蜜(たれみつ)を采(と)りたるに、後(のち)の巢を鍋に入れ、水にて煎じたる時、別の器に冷水を盛りて、其上に籃(いかき)を置き、かの煎じたるを移せば、滓(かす)は籃に留(とゞま)りて、蝋は、下の器の水面(すいめん)に浮かふ。夫を、又、陶器に入れて、重湯(ゆせん)とすれば、自然に結びて、「ろう」となるなり。又、熟蜜(なりみつ)をとる時、鍋にて沸せば、蜜は、上に浮かび、蝋は中に在り。脚(あし)は底にあり。是れを采り冷しても、自然に黄蝋に結ぶ。

 ○會津蝋(あいづらう)

「本草」、「蟲白蝋(ちうはくらう)」といひて、奧刕會津に採る蝋なり。是れはイボクラヒといふ虫を畜(やし)なふて、「水蝋樹(いぼた)」といふ木の上に放せば、自然に枝の間に蝋を生(せう)して、至つて、色白し。其の虫は、奧州にのみありて、他國になく、故に形を詳(つまび)らかにせず。今、他國に白蝋(はくらう)といふものは、𣾰(うるし)の樹などの蝋を暴(さら)したる白色なり。また、藥店(やくてん)にて、外療(くわいりやう)に用いる「白蝋」といふも、蜜蝋の暴したるにて、是れ又、眞(しん)にあらず。水蝋樹といふ木は、處々に多し。葉は忍冬(にんどう)に似て、小なり。夏は枝の末、ことに、小白花(せうはくくわ)を開らき、花(はな)の後(のち)、實(み)を生ず。熟して、色、黑く、鼡(ねづみ)の屎(くそ)のことく、冬は、葉、おつる。又、此の蝋を刀劔(たうけん)に塗れは、久しくして、鏽(さび)を生ぜず。又、疣(いぼ)に貼(つく)れば、自(おのづ)から落つる。故に「イホオトシ」の名あり。今、蝋屋(らうや)に售(う)る會津蝋といふ物、眞僞、おぼつかなし。

[やぶちゃん注:ここでの種は、昆虫綱膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目ミツバチ上科ミツバチ科ミツバチ亜科ミツバチ族ミツバチ属トウヨウミツバチ亜種ニホンミツバチ Apis cerana japonica である。私はこの「蜂蜜」パートについては、特に大仰な注を附す必然性を感じていない。それは、比較的近年の仕儀で、かなり注に拘った、

「堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 蜜蜂」

があるからである。他にも、

「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(24:蜜蜂)」

や、純粋な博物学的なものとしては、

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 木蜂

和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 露蜂房

もあるので、是非、先に目を通して戴ければ、幸いである。

「マルハチ」ミツバチ亜科或いはマルハナバチ亜科マルハナバチ族マルハナバチ属 Bombus のマルハナバチ類。当該ウィキを見ても、本邦在来種だけで二十二種を数える。なお、採取や採算に堪え得るかどうかは別として、基本的にはミツバチ科 Apidae の種群は蜜を作る。

「山蜂(やまはち)」細腰亜目スズメバチ上科スズメバチ科スズメバチ亜科 Vespinae の肉食性のスズメバチ類の総称。

「蜂王(だいわう)」以下の叙述を見るに、「一桶に一个(ひとつ)のみなるに、子を產むこと、雌雄ある物に同じ道理においては、希異(きい)なり」と言っていることから、この蜂の「大王」が♀であることを、作者は正しく認識していることが判る。

『又、黒蜂、十斗りありて、是れを「細工人(さいくにん)」と呼ぶ。孔口(あなくち)を守りて、衆蜂(しうはう)の出入(でいり)を檢(あら)ため、若し、花を持たずして孔に入らんとするものあれば、其の懈怠(けだい)を責めて敢へて入ることを許さず。若し、再三に怠る者は、遂に螫(さ)し殺して、軍令を行ふに異(こと)ならず』スズメバチ等の脅威を監視する役が「働き蜂」の中におり、警戒していることは古くから知られているが、直ぐに原資料を示すことが出来ないが、かなり新しい専門家の記事で、さらに「働き蜂」の中には、花蜜を持ってきたかのような振りをして、実は手ぶらで戻ってくる怠け者が実際にいることを読んだ。それが監視されているかどうかは、定かではないが(高度な社会性昆虫であるからにはそうしたシステムがあってもおかしくはない。しかし、スズメバチの脅威の方が遙かに甚大であるから、そのような怠け者を監視し処罰するというシステムは構築され難いように思われる。なお、ご存知と思うが、数少ない女王蜂と交尾する数少ない♂蜂は後尾終了と同時に内臓が引き出されて死んでしまうはずである。

「今、世、此の袋を籠にて作りて、衆蜂の気(き)を洩らさしむ。さなくては、蜂、死ること、多し」彼らはスズメバチなどに集団でとりついてスズメバチを中心に巨大な蜂球(ほうきゅう)を形成することで高熱を発生させ、自身ら諸共に熱死させる手法をとるから、人工的に蜂のある程度の有意な集団の動きを強制的に束縛して密閉してしまうと、蜂球と同じ現象が自動的に始まり、蜂が死んでしまうことを言っているように思われる。「原(もと)の巢へ飛び歸る時は、衆蜂、敢へて孔に入ることを不許(ゆるさず)、爭ひ起こりて、是れを螫し殺し、其の不忠を正すに似たり」確認は出来ないが、これは事実であろうと思われる。分蜂が厳密に守られなければ、双方に死滅の危機が生まれるからである。

『「八ツさはぎ」とて、晝八つ時には、衆蜂、不殘(のこらず)、桶の外に現はれて、稍(やゝ)羽根を鳴らすこと、あり』これは「記憶飛行」と呼ばれる行動である。「山田養蜂場」公式サイト内のこちらに、『働き蜂は、羽化してからすぐに外で仕事をすることはできません。掃除や子育て、巣作り、はちみつの仕上げ、警備と続く巣内の仕事が終わって初めて、はちみつや花粉を集める外の仕事につくことができるのです』。『初めての巣の外に出かけるときは、記憶飛行(オリエンテーションフライト)という訓練から始まります。暖かく晴れた日に、お昼から午後』三『時頃まで』(「八ツ」は定時法で午後二時頃から三時頃に当たる)、『何百匹もの若いミツバチは巣箱から一斉に出てきて、巣箱の位置や周辺の景色を覚えるために、飛行訓練を行うことがあります。養蜂家が昔から「時さわぎ」と呼んでいるのは、この記憶飛行のことです。その姿をお昼ごはんを食べながら眺めるのが、私は好きです』。『よく観察すると、ミツバチは顔を巣箱の方向に向けながら数秒間ホバリング(空中で同じ場所に定まったまま飛んでいる状態)して、それから数』キロメートル『先まで飛んで行き、巣に戻ってきます。そんなことを繰り返しながら飛び方を学んでいきます。また巣の入り口には、お尻を外側に向けて持ち上げ、羽を震わせている働き蜂がいます。若いミツバチが迷子にならないように、お尻のあたりからフェロモンを分泌し、その臭いを風にのせて巣の入り口を教えているのです。まだまだ世間を知らない若いミツバチは、こうして先輩ミツバチに助けられながら巣立ちの準備をしていくのです』。『内勤の仕事が終わり、やっと外の仕事についても、実は外に出始めると寿命は驚くほど短くなります。夏の働き蜂の寿命は平均して』四十『日にも満たないほどですが、外出できない雨の日を除けば、実際に外で仕事をしているのは』十『日ほどしかありません。ツバメなどの鳥に食べられたり、カエルが待ち構えていたり、突然の雨に打たれたり、と外の世界には危険がいっぱい。たくさんの天敵が待ち構えています。私たちが食べているはちみつやローヤルゼリー、プロポリスはミツバチが命をかけて採っているといってもよいでしょう』。『ミツバチは普通』二キロメートル『くらいを行動半径としていますので、その範囲内に蜜源となる花が豊富にあれば、ミツバチを飼うことができます。つまり、養蜂という仕事は「空間農業」、「空中農業」と言い換えることができます』。『しかし近年、ミツバチが安心して暮らすことができる場所は、どんどん減ってきています。ミツバチの天敵はたくさんいますが、本当の天敵は環境破壊を行う人間なのかもしれません。ミツバチにとって豊かで快適な環境こそ、私たち人間にとっても一番良い環境なのではないでしょうか』とある。心の籠った説明に心打たれた。

「圡蜂(ぢはち)」「地蜂」は現行ではスズメバチ亜科クロスズメバチ属クロスズメバチVespula flaviceps を指し、彼は蜜を作らない。他に「土蜂」としてツチバチ科 Scoliidae の昆虫の総称であるが、ご存知の通り、彼らは「狩り蜂」の原始的なタイプで、やはり蜜は作らないので、ここは不審である。

『南部、是れを「デツチスガリ」といふ』これでも前の不審は晴れない。これも「狩り蜂」の一種のジガバチ科ツチスガリ属 Cerceris の昆虫の総称であり、この名は「丁稚」ではなく「出地」或いは「出土」で例えば、同種のツチスガリ Cerceris hortivaga に親和性がある。或いは、その形状から、「出っ尻」の縮約の可能性もあるように私には思われる。さらに作者の「スガリは蜜の古訓なり」というのも大嘘である。「すがり」は広義には一般に仙台に於ける蜂全般の古名や、東北全般・長野県・山梨県で食用にした腰のくびれたクロスズメバチ類の地域名・地方名である。小学館「日本国語大辞典」によれば、「すがり」は「蜾蠃」で、『昆虫「はち(蜂)」の異名』としつつ、引用例三種は総て仙台を出元ととする。同「方言」のパートでは、①で『こしぼそばち(腰細蜂)』として南部・仙台を、『すがりばち』として隠岐を、『すがれ』として長野を挙げ、②で『じばち(地蜂)』として長野県諏訪郡、『すがれ』として長野県上伊那郡を、③で『つちばち(土蜂)』として秋田、『しがり』として青森・岩手を、④で『蜂の一種』として仙台・福島・山梨を、⑤で『蜂』として盛岡・仙台・岩手・宮城を、⑥で『蜂の一種。陰湿を好み色黒く人の肌を刺すもの』として鹿児島・長崎・壱岐を、⑧(⑦がない)では『蟻』として宮崎・福岡・佐賀・長崎・五島・熊本・天草・福岡を挙げた上で『すがり』として長崎・鹿児島の採取地を示す。どこにも蜂蜜を指すとは、ない。

「古今集」「離別」「すがるなく秋の萩原(をきはら)あさたちてたび行人(ゆくひと)をいつとかまたん」「古今和歌集」巻第六「離別歌」の詠み人知らずの二首目(三六六番)であるが、「荻原」ではなく、「萩原」である。

 すがるなく秋の萩原(はぎはら)朝たちて

    旅行く人をいつとか待たむ

しかし、この場合の「すがる」は女性的な腰のくびれた美しい色をした「じがばち」(似我蜂:細腰亜目アナバチ科ジガバチ亜科ジガバチ族 Ammophilini)とするのが定説である(既に「万葉集」に詠われている)が、中世の注では鹿の鳴き声とする。

――「すがる」の鳴く――その飛ぶ音がする――秋萩の茂る野を、朝に立って行かれる旅人を――『何時、お帰りになられるか』と、待つのでありまする……

なお、この歌は次(三六七番)の以下(無論、詠み人知らず)との相聞歌である。

 かぎりなき雲井のよそにわかるとも

    人を心におくらさむやは

――遙かなる雲居のあたり――そんな果てしなく遠く別な地へと別れるにしても――どうしてあなたを残して行くものか……私の心の中にしっかりと添わせて連れて行くよ……

である。相聞を分断する作者は、無風流なること、極まりない!

「二十斤【百六十目一斤。】」一斤は六百グラムであるから、「二十斤」は十二キログラム。一斤は「百六十」匁(もんめ)で、一匁は三・七五グラム。

「蜜蝋」はミツバチ(働きバチ)の巣を構成する蝋を精製したものを指す。蝋は働きバチの蝋分泌腺から分泌され、当初は透明であるが、巣を構成し、巣が使用されるにつれて花粉・プロポリス(propolis:ミツバチが木の芽・樹液・その他の植物源から集めた樹脂製混合物。「蜂(はち)ヤニ」とも呼ぶ。「プロポリス」という名は、もともとギリシャ語で、「プロ」は「前」や「守る(防御)」の意、「ポリス」は「都市」という意の合成語で、社会性昆虫である蜂が「都市(巣)を守る」という意味である。プロポリスは巣の隙間を埋める封止剤として使われている)・幼虫の繭、さらには排泄物などが付着していくため、蜜蝋以外のものが蜜蝋に混入することもある。精製法は太陽熱を利用する陽熱法と、加熱圧搾法とがあり、効率上は後者が優れる。融点は摂氏六十二~六十五度と高く、身近では化粧品の原料として用いられることが多い。色はミツバチが持ち運んだ花粉の色素の影響を受け、鮮黄色、乃至は黄土色を呈している。最大の用途はクリームや口紅などの原料で、パラフィン・ワックス製の蝋燭に融点を高める目的で混ぜられることも多い。パラフィン・ワックスが発明される以前の中世ヨーロッパでは、教会用蠟燭の原料として盛んに用いられた。養蜂業では、巣礎(そうそ)の材料とする。巣礎とはロウでできた板で、ミツバチはこの上に蜜蝋を盛り、巣房(ミツバチの巣を構成する六角形の小部屋)を構成してゆくのである。サラシミツロウ(white beeswax)は軟膏基剤や、整形外科手術などで切除した骨の断端に詰めるなどして医療用に使用される。また、花粉由来のビタミン類や鉄分・カルシウムなどのミネラル類、蜜蝋本来の脂溶性ビタミン類といった栄養成分が含まれているため、食用になり、洋菓子にも使用されている。かつてヨーロッパではバターが量産普及する以前、調理用油脂としても用いられた。また古くから中世にかけて蜂蜜の精製方法が普及されていない時期は、欧州・中東地域・中国周辺地域・アフリカ大陸・南北アメリカ大陸で、蜂蜜と巣を一緒に摂取するという形で常食されてきた。特にヨーロッパでは蜜蝋のままで高カロリーの飢救食物としても利用された(以上は主文を当該ウィキに拠った)。

「黄蜡(おうさく)」この「蜡」は「蠟(蝋)」に同じ。

「重湯(ゆせん)」湯煎(ゆせん)。

「脚(あし)」重い不純物の滓(おり)のことであろう。

「會津蝋(あいづらう)」福島県会津地方で産する蝋。イボタロウムシの分泌物が原料で上質。絵蠟燭を造るほか、医薬用・工業用とする。イボタロウムシは半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科イボタロウムシ Ericerus pela で、当該ウィキによれば、『北海道から沖縄県まで日本に広く分布するほか、朝鮮半島やヨーロッパにも生息する。冬眠中の雌成虫は体長』五『ミリメートルほどの楕円形で、成熟個体は直径』一『センチメートル程度の球形になる』。『日本の本州では』五『月下旬頃に産卵し』、六月から七月頃に『孵化する。幼虫はモクセイ科』Oleaceae『の樹木の枝に密集してロウ状の物質を分泌する。枝がロウ物質により白くなるため』、『落葉後に発見されることが多いが、樹木の生育への影響は小さい。ロウ物質は』嘗ては『薬用・工業用に用いられており、その採取を目的に養殖が行われたこともある』。古くは日本刀の手入れにも用いられた。『雄幼虫のロウ物質の構成成分を検査したところ、構成する成分はワックスエステルが』九十%『以上を占め、他に遊離高級アルコールや炭化水素が含まれていることが明らかになった。これはトリアシルグリセロール(中性脂肪)が』八十%『以上を占める幼虫本体の脂質とは大きく異なる組成を示している』とある。辞書には、イボタロウムシについて、♀の成虫は暗褐色の約一センチの丸い殻を作り、五月頃に産卵し、♂は七月頃からイボタノキ(キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium )・ネズミモチ(イボタノキ属ネズミモチ Ligustrum japonicum )などに寄生し、白色の蝋を分泌し、中でさなぎとなる。成虫は体長三ミリメートルほどで、透明な二枚の翅(はね)を有するとある。イボタノキは「疣取木」或いは「水蠟木」と漢字表記する。このイボタロウムシの蠟物質が、古来、「塗ると疣が取れる」とされたことによる。会津に行った時、買わんとして老舗に入ったが、私にはどうもあの絵柄と色が生理的に好きになれず、買わずにしてしまった。

「其の虫は、奧州にのみありて、他國になく」大嘘。イボタロウムシは北海道・本州・四国・九州・沖縄及び朝鮮からヨーロッパにまで広く分布する。

「忍冬(にんどう)」マツムシソウ目スイカズラ科スイカズラ属スイカズラ Lonicera japonica の異名。]

2021/07/16

日本山海名産図会 第二巻 石茸(いわたけ)・附記(その他の「きのこ」類の解説)

 

Iwatame

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「熊野石苴(くまのいわたけ)」。「苴」の(くさかんむり)は間が切れたもの。この「苴」は音「ショ」で、①「苞(つと)・藁などで包んだもの」、②「あさ(麻)・実のなる麻」、③「沓敷(くつしき)・沓の中の敷き草」、④「くろい・色の黒い」、⑤「補う・繕う」であり、また、音「サ」で、「塵」芥(あくた)]の意であるから、「茸」の異体字にはなく、誤字である。]

 

 ○石茸(いわたけ) 一名「石芝(せきし)」

熊野天狗峯(てんぐがみね)の絕頂に大巖(おほいわ)あり、其の上に、多く生ず。皆、山石上(さんせきじやう)の嶮(けはしき)にあり、夏月(かげつ)、火熱(くわねつ)の時は、甚だ、小(せう)にして、松(まつ)の※(こけ)[やぶちゃん注:「※」は「蒳」の「糸」を「鄕」の(へん)に代えたような字体。]のごとし。面(おもて)、黒色(くろいろ)、裏、靑色(あをいろ)。形、木茸(きくらげ)に似て、莖、なし。黒き所、岩につきて生ず。これを採るには、梯(はしご)をかけ、縄にすがり、或ひは畚(ふご)に乘りて、木の枝より、釣り下りなどの所爲は、圖のごとし。よそめのおそろしさには、似ず、猿の、木づたふよりも、やすし。鶯(うぐひす)の子も、かくのごとくして、採る、といへり。今、又、吉野より出づるものを上品とす。

 

附記

[やぶちゃん注:以下の本文は原本では全体が本文より一字下げ。]

此の余、蕈(たけ)の品(しな)、甚だ多し。○松蕈(まつたけ)は山刕の產をよしとす。大凡(およそ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]牝松(めまつ)にあらざれば、生ぜず。故に西國には牡松(おまつ)多き故、松蕈、少なくして、茯苓(ぶくりやう)多し。京畿は牝松多きがゆへに、蕈(たけ)多くして、茯苓、少なし。○金菌(きんたけ)は冬・春の間に生じて、松蕈に似て、小なり。○玉箪(しめぢ)○布引箪(ぬのひきたけ)○初蕈(はつたけ)裏(うら)は緑靑(ろくせう)のごとし。尾張邉(へん)にては、「あをはち」といふ。○滑蕈(なめたけ)西國にては「水たたき」といふて、冬、生ず。○天花蕈(ひらたけ)高野より多く出だし、諸木、ともに、生ず。○舞蕈(まひたけ)「ひらたけ」に似て、一莖に、多く、重なり、生ず。針のごとし。小にして、尖(さき)は紫なり。○木茸(きくらげ)は、樹の皮に附きて生じ、初生は淡黄色(うすきいろ)に、赤色(あかいろ)を帶びたり。採りて、乾かせば、黒色(くろいろ)に變ず。日本にて、接骨木(にはとこのき)に生ずるを、上品とす。○桑蕈(くわたけ)は、二種、ありて、かたきは、桑の樹の胡孫眼(さるのこしかけ)なり。軟かなるは、食用の木耳(きくらげ)なり。此の余、槐(えんしゆ)・楡(にれ)・柳・楊櫨(うつき)なとに、皆、蕈(たけ)を生ず。○杉蕈(すきたけ)は、杉の切株に生じ、「ひらたけ」に似て、深山に多し。○葛花菜(くずたけ)葛の精花(せいくわ)にして、紅菌(へにたけ)も、此の種類なり。これに一種、春、生ずるものを、「鶯菌(うくひすたけ)」、又、「さゝたけ」と、いひ、丹波にて、「赤蕈(あかたけ)」、南都にて「仕丁(してう)たけ」等(とう)の名、あり。○雚菌(おきたけ)[やぶちゃん注:「雚」は(くさかんむり)の中央が切れ、その下の「口」二つは繋がって「日」を横転させたようになっている。]は蘆(あし)・萩(はぎ)の中にせうずる玉蕈(しめじ)なり。九月頃にあり。○蜀格(いのころたけ)は、ハリタケとも云(い)う。常の針蕈(はりたけ)には異なり、本條(ほんてう)は、傘を張りて生じ、かさの裏に、針、有り。色、白く、味、苦(にが)し。○地茸(うしのかはたけ)は、陰地・丘陵の樹の根に、多く生ず。脚、短く、多く重なり、生ず。面(おもて)、黒く、茶褐色(ちやいろ)の毛、あり。裏、白くして、刻(きれ)、なし。皮蕈(かはたけ)は、色、黑くして、此れ、同種なり。「黒皮たけ」も是れに同し。○蕈類(たけるい)、大抵、右のごとし。此の余(よ)、毒、有りて、食用にせざるもの、多し。あるひは、「竹蓐(すゝめのたまこ)」、竹林中に生(せう)し、「土菌(どくたけ)」はキツネノカラカサともいひて、是れにも、鬼蓋(きかい)・地岑(ちしん)・鬼筆(きひつ)の種類あり。

[やぶちゃん注:「石茸(いわたけ)」子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目イワタケ科イワタケ属イワタケ Umbilicaria esculenta「芝菌品(たけのしな)」の「イハタケ」の私の注を参照。

「熊野天狗峯(てんぐがみね)」紀伊山地台高山脈南部の三重県尾鷲市と北牟婁郡紀北町にまたがる標高五百二十二メートルの天狗倉山(てんぐらやま/てんぐらさん)であろう(グーグル・マップ・データ)。当該ウィキによれば、『西側に隣接する便石山』(びんしやま:標高五百九十九メートル)『との鞍部の馬越峠を世界遺産の熊野古道伊勢路が通』り、『南斜面の一部に自然林が残り、山域の多くがヒノキの植林地となっている』。『酸性マグマの巨大な溶岩湖が冷却、凝固した熊野酸性岩上にあり、これらの花崗斑岩が随所で露出している』。『山頂は一枚岩の岩盤となっていて、二重の岩場で中央の花を外縁の葉が取り囲むハスの花にたとえられている』。『その巨石の下には大きな洞窟のような窪みがあ』って、明治二二(一八八九)年に編纂された「北牟婁郡誌」には、『「深サ幾尋ナルヲ度ルベカラズ、里人コレヲ天狗ノ岩屋トイフ」とあり』、『古記では「天狗巌」と記されている』とある。

「畚(ふご)」通常は農夫などが物を入れて運ぶのに用いる縄の紐の附いた籠(かご)の一種で、竹や藁で編んだものを指すが、それを大きくした人が乗り込めるほどのものを指す。挿絵の左手に描かれたものがそれで、ちゃんと上の木の向こうに、命綱を保守する役の男がいる。

「松蕈(まつたけ)」真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科キシメジ属キシメジ亜属マツタケ節マツタケ Tricholoma matsutake ここで作者の述べている「牝松(めまつ)にあらざれば、生ぜず」以下は誤りである。マツタケは主にアカマツ(裸子(球果)植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora )林に生ずることが多いが、それに限定されるものでも、実は、ない。小学館「日本大百科全書」の記載が明瞭なので、以下に引く。『主としてアカマツ林に輪状または列状に並んで生える。傘は径』十~二十センチメートル、時に三十『センチメートルにも達する。表面は淡灰褐色で繊維状の鱗片(りんぺん)で覆われるが、しだいに茶褐色に近づく。傘が開く前は、傘の縁と茎の上部との間は綿毛状の膜で連なる。ひだは白く、茎に湾生する。茎は太く長く、肉は充実し、縦に裂ける。つばは初め明瞭』『だが、しだいにしおれて縮み、はっきりしなくなる。胞子は』六~七マイクロメートル✕四・五~六・五『マイクロメートルの広楕円(こうだえん)形。全体に日本人に好まれる独特の芳香がある。マツタケは、アカマツのほか』、コメツガ(米栂:マツ科ツガ属コメツガ Tsuga diversifolia )・アカエゾマツ(マツ科トウヒ(唐檜)属アカエゾマツ Picea glehnii )・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii )・ハイマツ(マツ属 Strobus 亜属 Strobi 節ハイマツ Pinus pumila )『の林にも生える。マツタケの菌糸は、これらの木の細根にまとい付いて、外生菌根をつくって生活する。マツタケは地温が』摂氏十九度『になると』、『キノコ形成の準備を始め』、二『週間ほどたつと』、『地表に頭を出す。発生はほとんど秋であるが、梅雨期にも発生することがある(ツユマツタケとかサマツなどとよばれる)。マツタケは、従来は北海道から九州にまで分布する日本特産種と考えられていたが、現在では朝鮮半島、中国(東北部、山東省、雲南省など)、台湾にも分布することがわかっている』。以下、「生育条件」の項。『日本におけるマツタケの生産は、長野県、広島県、岡山県、岩手県、京都府などで多く、ついで兵庫県、岐阜県、山口県などとなる。そのほかの県にも発生するが』、『量は少ない。本州以南では主としてアカマツ林にマツタケは生えるが、アカマツそのものは、本州以南ではきわめて普通である。それにもかかわらず、マツタケの産地がこのように偏るのは、マツタケと共生するマツ類の体質によっている。こうしたマツ類の体質を決めるのは、次のような条件である。その第一は土質の違い、すなわち土壌の母体である母岩の違いである。マツタケは一般に』、花崗岩・石英斑岩・角(かく)岩・砂岩・珪(けい)岩を『母岩とする山には発生し』、安山岩・頁(けつ)岩・丹土(たんど:赤い土)・『関東ロームなどでは発生しない。第二は地上部の状態、すなわち』、『マツの樹冠の茂り方、低木や地表草本の種類や密度、落葉堆積』『量の多少などである。したがって、土質条件はマツタケの発生に適していても、マツ林の手入れいかんによっては不適ともなりうるわけである』。『マツタケは菌根菌であるから、宿主に頼らねばならないが、宿主となる木はマツタケが存在しなくても生育することはできる。それにもかかわらず、その木がマツタケと菌根をつくって共生するのは、宿主側が主として栄養生活(土壌条件)の面で、マツタケの協力を必要とするためである。したがって、こうした条件を窮めずに、ただアカマツとマツタケ菌糸を接触させただけでは菌根は形成されない。マツタケ栽培が不可能とされてきたのはこのためである。しかし、最近では、これらに対する研究が進み、マツタケ菌の保菌苗をつくることに成功し、これを山林に植えてわずかではあるが』、『マツタケの発生をみている。マツタケの人工増殖に一つの布石を敷いたともいえるが、まだ完成までの道は遠いといえる』。『日本のマツタケ生産量は年度によって変動はあるが』、『第二次世界大戦前に比べると』、『激減している。逆に輸入量は激増しており』、『そのほとんどは中国および朝鮮半島産のものである。また、次に述べるヨーロッパ産やアメリカ産の近縁種も輸入の傾向をみせている。日本のマツタケ生産が激減した最大の原因は、薪炭から石油・ガスへの燃料改革、堆肥・下肥などの有機質肥料から化学肥料への農業における肥料革命によって、マツタケ山の手入れが十分に行われないことにある。もし戦前と同じような手入れを行えば、マツタケの増産は可能といえる』とある。

「茯苓(ぶくりやう)」菌界担子菌門真正担子菌綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科ウォルフィポリア属マツホド Wolfiporia extensaウィキの「マツホド」によれば、アカマツ(球果植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属アカマツ Pinus densiflora)・クロマツ(マツ属クロマツ Pinus thunbergii)等のマツ属 Pinus の植物の根に寄生する。『菌核は伐採後』二~三『年経った切り株の地下』十五~三十センチメートルの『根っこに形成される。子実体は寄生した木の周辺に背着生し、細かい管孔が見られるが』(oso(おそ)氏のキノコ図鑑サイト「遅スギル」のこちらで画像で見られる)、『めったには現れず』、『球状の菌核のみが見つかることが多い』。『菌核の外層をほとんど取り除いたものを茯苓(ブクリョウ)と呼び、食用・薬用に利用される。天然ものしかなかった時代は、松の切り株の腐り具合から見当をつけて先の尖った鉄棒を突き刺して地中に埋まっている茯苓を見つける「茯苓突き」と言う特殊な技能が必要だった。中国では昔から栽培されていたようだが』、一九八〇『年代頃よりおがくず培地に発生させた菌糸を種菌として榾木に植え付ける(シイタケなどの木材腐朽菌と同様の)栽培技術が確立され、市場に大量に流通するようになって価格も下がった。現在ではハウス栽培で大量生産されて』おり、『北京では茯苓を餅にしてアンコをくるんだ物が「茯苓餅」または「茯苓夾餅」の名で名物となっている。かつては宮廷でも食された高級菓子で、西太后も好物だったという。現在は北京市内のスーパーでも購入することができる』。『薬用の物では、雲南省に産する「雲苓」と呼ばれる天然品が有名であるが、天然物は希少であるためほとんど見ることはできない』。『日本はほぼ全量を輸入に頼っていたが』、二〇一七年に『石狩市の農業法人が漢方薬メーカーのツムラ(夕張ツムラ)との協力で、日本初となるハウス量産に成功した』とある。『菌核の外層をほとんど取り除いたものは茯苓(ブクリョウ)という生薬(日本薬局方に記載)で、利尿、鎮静作用等があ』り、『多くの漢方方剤に使われ』ている。

「金菌(きんたけ)」真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科キシメジ属シモコシ Tricholoma auratum サイト「oso的キノコ写真図鑑」の同種のページを見られたい。そこに書かれてあるが、本種は古くから美味な「食用きのこ」として知られていたが、近年、急に致死性の「猛毒きのこ」に変更された。海外で本種と同一とされる「T. equestre」による重度の肝不全による死亡事故が起きたためで、毒成分は不明であるが、症状は横紋筋融解症で、横紋筋から溶け出したミオグロビンが肝臓に致命的なダメージを与えるとあり、『仮に同一種説が正しかった場合、当然』、『本種も有毒と言うことにな』るとあり、『古くから食されただけに驚きを隠せませんが』、『注意は必要でしょう』。『ただ』、『地元で会う年配の狩人は何十年も食べているとのことです、ご参考までに』とある。食べぬに、越したことはないと存ずる。進行した同疾患は最後は肝移植しか手がないはずだからである。

「玉箪(しめぢ)」真正担子菌綱ハラタケ目シメジ科シメジ属ホンシメジ Lyophyllum shimeji 。漢字表記は「占地」「湿地」「占地茸」「湿地茸」「王茸」。ウィキのシメジについての「食用きのこ」の「シメジ」の呼称のみを扱った特殊なページがあり、そこで、まず、『シメジと言えば本来』、『キシメジ科』Tricholomataceae『のキノコ、とりわけキシメジ科シメジ属のホンシメジを指す』とあるのだが、これはウィキの「ホンシメジ」によれば、『従来』、『ホンシメジの属しているシメジ属はキシメジ科に属していたが、分子系統解析の発達によって現在では独立したシメジ科に属するとされている』とあるので、そちらで示す。同前のページでは続けて、『場合によっては、漠然と』、『他の』旧で属していた『キシメジ科』に属する『キノコ(シメジ属』(くどいが、現在シメジ科である)『のハタケシメジ』(シメジ科シメジ属ハタケシメジ Lyophyllum decastes )『やシャカシメジ(センボンシメジ)』(シメジ科シメジ属シャカシメジ Lyophyllum fumosum )『シロタモギタケ属のブナシメジ』(シメジ科シロタモギタケ属ブナシメジ Hypsizygus marmoreus )『など)も含めた総称とされることもある。ホンシメジは、生きた木の外生菌根菌であるために栽培が非常に困難であり、ほぼ天然物に限られ』、『稀少なため』、『高級品とされる。ほとんど流通していない』とある。作者は名を出すだけで、解説を全くしていないので、希少種であるホンシメジに限定して考えてよいかと思われる。

「布引箪(ぬのひきたけ)」ハラタケ目ヌメリガサ科ヌメリガサ属サクラシメジ Hygrophorus russula の異名と思われる。個人サイト「きのこ なら」の「散歩雑記」のこちらの冒頭にある二〇一七年八月二十九日の「故郷のキノコ」の記事中に、岡山県真庭市北部にある蒜山高原での経験(筆者の生まれ育った地)では、『ブナの原生林へ入ると、大きな倒木にビッシリ生えたムキタケ』(ハラタケ目ガマノホタケ科ムキタケ属ムキタケ Sarcomyxa serotina )『に出合います。これを方言ではボタヒラと言いますが、その形がボッタリとして、ヒラタケ』(後の「天花蕈(ひらたけ)」参照)『に似ていることから付いた名前でしょう。このキノコも大量に採れるので大きな桶へ塩漬けにして、深い雪に覆われる冬の間に食べました』。『このムキタケと同様に大量に採れるキノコはサクラシメジです。その方言をヌノビキタケと言いますが、巻いた反物を林床に広げた様に長い群落を作るので、その名前が付いたのだろうと思います』とあったからである。当該ウィキによれば、「タニワタリ」「アカナバ」「ドヒョウモタセ」『などの俗称で呼ばれる場合もある』ともあった。「谷渡り」は「布引き」と親和性がある。

「初蕈(はつたけ)」「あをはち」担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属ハツタケ Lactarius hatsudake

「滑蕈(なめたけ)」「水たたき」ハラタケ目モエギタケ科スギタケ属 Hemipholiota 亜属 mixalannutae 節ナメコ Pholiota microspora に同定する。「水叩き」とは、生体の湿った状態では、全体に水を打ったように夥しいゼラチン質の粘性物質のムチンを分泌しているそれを言ったものと推定する。

「天花蕈(ひらたけ)」ハラタケ目ヒラタケ科ヒラタケ属ヒラタケ Pleurotus ostreatus 。当該ウィキによれば、『古くから親しまれた食用』きのこ『であり、平安』『中期には食用にされていた』。公卿藤原実資(さねすけ)の日記「小右記」(現存するものは天元五(九八二)年から長元五(一〇三二)年)に、『遊興の際の食物の一つとして「平茸一折樻」が記録されているほか、「近来往々食茸有死者、永禁断食平茸、戒家中上下」と、毒キノコによる死亡事故の多発を理由に家中にヒラタケを食べることを禁じる旨が記されている』。また、「今昔物語集」には、よく高校の古文教科書に載っていた(私は面白くも糞くもないので、一回しか授業していない)、『受領の藤原陳忠が谷底に落ちたついでにヒラタケを採ったという巻二十八「信濃守藤原陳忠落入御坂語」』(「やたがらすナビ」のこちらで読める)『をはじめ、ヒラタケの登場する説話が複数』、『存在する』。「梁塵秘抄」の『巻第二にも』(四二五番)、

 聖(ひじり)の好むもの

 比良(ひら)の山をこそ尋ぬなれ 弟子遣りて

 松茸 平茸 滑薄(なめすすき)

 さては池に宿る蓮の蔤(はひ)、

 根芹(ねぜり) 根蓴菜(ねぬなは) 牛蒡(ごんばう)

 河骨(かはほね) 獨活(うど) 蕨(わらび) 土筆(つくづくし)

『という歌があり、マツタケやエノキタケ』(ハラタケ目タマバリタケ科エノキタケ属エノキタケ Flammulina velutipes )『と並んでヒラタケが挙げられている』。なお、『岡村稔久』(としひさ)『は、平安時代の文献にヒラタケの話が多く』、『マツタケの話が少ない理由として、平安時代前期ごろまでは平安京周辺に広葉樹林が多く残っており、中期以降にマツ林が増えていったことを述べている』。『鎌倉時代以降も食材として親しまれ』。「平家物語」巻八「猫間」、「宇治拾遺物語」巻一ノ二「丹波国篠村平茸生の事」、「古今著聞集」巻十八「飲食 観知僧都」『などに登場するほか』、「庭訓往来」や『現存最古の茶会の記録である』「松屋会記」などに『ヒラタケを使った料理が記載されている』とある。

「舞蕈(まひたけ)」真正担子菌綱タマチョレイタケ目トンビマイタケ科マイタケ属マイタケ Grifola frondosa

「木茸(きくらげ)」菌界担子菌門真正担子菌綱キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属キクラゲ Auricularia auricula-judae当該ウィキによれば、学名の『属名はラテン語の「耳介」に由来する。種小名は「ユダの耳」を意味し、ユダが首を吊ったニワトコ』(マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属セイヨウニワトコ Sambucus nigra であろう)『の木からこのキノコが生えたという伝承に基づく。英語でも同様に「ユダヤ人の耳」を意味するJew's earという。この伝承もあってヨーロッパではあまり食用にしていない』とある)。既に述べたが、種小名は差別学名の臭いが濃厚で、私は変更すべきものと考えている。

「接骨木(にはとこのき)」マツムシソウ目レンプクソウ科ニワトコ属亜種ニワトコSambucus sieboldiana var. pinnatisecta

「桑蕈(くわたけ)は、二種、ありて、かたきは、桑の樹の胡孫眼(さるのこしかけ)なり。軟かなるは、食用の木耳(きくらげ)なり」現行では、ハラタケ目キシメジ科ナラタケ属ナラタケ亜種ナラタケ Armillaria mellea nipponica の異名であるが、記載はそれらしくない。前者は、長崎県の男女群島の女島(メシマ)に植生するも、個体が激減し、「幻しのきのこ」とされる、菌蕈綱ヒダナシタケ目タバコウロコタケキコブタケ属メシマコブ Phellinus linteus らしい感じはするが、局地種であり、作者がそれを指している可能性は必ずしも高くない感じもする。「木耳」は前の注を参照されたい。

「槐(えんしゆ)」中国原産のマメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum は、古くから日本にも植栽されている。

「楊櫨(うつき)」ミズキ目アジサイ科ウツギ属ウツギ Deutzia crenata 。和名の漢字表記は「空木」。当該ウィキによれば、『茎が中空であることからの命名であるとされる。花は卯月(旧暦』四『月)に咲くことから「卯(う)の花」とも呼ばれ』、『古くから初夏の風物詩とされており』、「枕草子」には、『卯の花と同じく初夏の風物詩であるホトトギスの鳴き声を聞きに行った清少納言一行が卯の花の枝を折って車に飾って帰京する話がある。近代においても唱歌』「夏は来ぬ」で『歌われるように初夏の風物詩とされている』とある。「楊櫨」は古い漢名。現行の中文名は「歯叶溲疏」である。

「杉蕈(すきたけ)」ハラタケ目モエギタケ科モエギタケ属 Stroholiota squarrosaサイト「きの図鑑」の当該種の記載には、『スギタケは昔は食用とされていたようですが、現在は毒性が見つかった為、食用としては推奨されていません。体質によっては胃腸系の中毒症状を起こす事があるようです』とある。

「葛花菜(くずたけ)」ハラタケ目ナヨタケ科ナヨタケ属センボンクズタケ Psathyrella multissima か? もしこれだとすると、作者の「葛の精花(せいくわ)」(マメ目マメ科マメ亜科インゲンマメ連ダイズ亜連クズ属変種クズ Pueraria montana var. lobata の精気が凝って花となったということか)という謂いは誤りかも知れない。サイト「きのこアルバム」のセンボンクズタケによれば、『実は「クズタケ(屑茸)」とは、腐朽の進んだ木の上などに発生する』「何の役にも立たない」『きのこをまとめた呼称なのだそうで』、『それが多数群がって発生する様子から「センボン(千本)クズタケ(屑茸)」と名付けられ』たとあるからである。『有毒性は報告されていないものの味や香りが特に無く、何より』、『肉質のもろさから食用にも向かないそう』である、とある。

「紅菌(へにたけ)」担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科ベニタケ属 Russula に属する多数種を指す。当該ウィキによれば、『毒々しい色調のために、古くは毒きのこの代表格のように扱われてきていたが、すべてが有毒であるわけではない。ただし、辛味や苦味が強いものが含まれ、そうでないものも一般に歯切れが悪いために、食用きのことして広く利用されるものは少ない』。『中国福建省では永安市などの中部を中心に広く分布している』ドクベニタケ節ウスクレナイタケRussula rubra 『を「紅菇」、「正紅菇」、「大朱紅菇」などと称し、スープなどの食用に用いられている。乾燥品も流通しており、味はベニタケ類の中では比較的良い』『が、それでも食感は良くない。スープに入れると汁に鮮やかな紅色が付く』。『ニセクロハツ』(クロハツ節ニセクロハツ Russula subnigricans )『は致命的な有毒種として知られている』(当該ウィキによれば、『猛毒で致死量は』二、三『本とも言われる。潜伏期は、数分から』二十四『時間。嘔吐、下痢など消化器系症状の後、縮瞳、呼吸困難、言語障害、横紋筋融解症』『に伴う筋肉の痛み、多臓器不全、血尿を呈し重篤な場合は腎不全を経て死亡する。主な治療法は胃洗浄、利尿薬投与、人工透析』とある。先に出した横紋筋溶解症による肝不全である)『ほかにもいくつかの有毒種が含まれているといわれているが、どの種が食用となり、どの種が有毒なのかについては、不明な点も多い』とある。

「鶯菌(うくひすたけ)」「さゝたけ」「赤蕈(あかたけ)」「仕丁(してう)たけ」ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科ベニタケ属カワリハツ(変初)Russula cyanoxantha の品種で緑色を呈するものにウグイスタケRussula cyanoxantha form peltereaui の名が与えられてある(サイト「三河の植物観察野草」の「きのこ図鑑」のこちらに拠る)。しかし、作者がここで一気に並べているものは同一種でない可能性が高く、「さゝたけ」は現行では全くの別種であるハラタケ目ハラタケ科フウセンタケ属ササタケ亜属ササタケ Cortinarius cinnamomeus に与えられており、「あかたけ」は同じフウセンタケ属アカタケ Cortinarius sanguineus に(本種は毒きのこである。サイト「oso的キノコ写真図鑑」の同種のページを見られたい)、「仕丁(してう)たけ」は不明。「仕丁」は律令制における労役の一つで、一里(五十戸)に正丁二人の割で、三年交替で中央官庁の労役に従事した。奈良時代の諸造営事業の重要な労働力であったが、費用はその里の共同負担であり、実際は相当に長期間に亙って労役させられたために、逃亡する者もあった。されば、これは底辺の労働者たちの食い扶持に与えられた、下品の容易に手に入る「きのこ」の謂いであろうか? 対象のきのこよりも、名称が気になる。

「雚菌(おきたけ)」(「雚」は(くさかんむり)の中央が切れ、その下の「口」二つは繋がって「日」を横転させたようになっている)お手上げ。識者の御教授を乞う。

「蜀格(いのころたけ)」「ハリタケ」「常の針蕈(はりたけ)」記載が順序だっていないのが気になる。この「常の針蕈(はりたけ)」というのは、小学館 日本大百科全書」の「ハリタケ」によれば(一部いじったが、それでも分類部分はやりきれていない感がある)、『担子菌類』のヒダナシタケ目 Aphyllophorales 或いはサルノコシカケ科 Polyporaceae『に属し、傘の裏、またはキノコの下側に無数の針状の突起があるキノコの総称で、特定の菌の名ではない。針状の突起はマツタケ類の』襞『に相当する部分で、胞子を形成する子実層は針の表面に発達する。ハリタケと称されるキノコの種類はきわめて多い。また、生態的にみると地上に生えるもの、木に生えるものがあり、形態的にみると傘があるものとないもののほか、肉質、革質、木質などと硬軟さまざまである。従来はこれらをハリタケ科として一括し、傘の裏にひだがあるマツタケ科、管孔(くだあな)があるサルノコシカケ科などと対照させたが、いまではこのような見せかけの形の類似にとらわれない分類が採用されている』。『ハリタケ型のキノコは、ハリタケ科 Hydnaceae(新しい解釈による狭義のハリタケ科)とイボタケ科 Thelephoraceaeに多い。ハリタケ科はカノシタ属 Hydnum を基本とし(基本種はカノシタ H. repandum Fr.)、ほかにサンゴハリタケ属 Hericium 、サガリハリタケ属 Sarcodontia 、ニクハリタケ属 Steccherinum などがある。これらのうち、一部は肉質で食用になるが、革質、木質のものも少なくない。いずれも胞子は無色で表面は滑らかである。イボタケ科の基本となるのはイボタケ属 Thelephora であるが、典型的なハリタケ型のものにコウタケ属 Sarcodon 、ニオイハリタケ属 Hydnellum 、クロハリタケ属 Phellodon などがある。イボタケ科には食用菌として名高いコウタケS. aspratus (Berk.) S. Itoがあるが、多くの種は革質で食用にはならない。胞子はつねに細かい刺(とげ)、または』、『いぼを帯びる。多くはテレフォル酸という色素をもち、乾くと』、『漢方薬状の香りを放つ』とある。「蜀格(いのころたけ)」は全く分からなかった。「蜀格」はどうみても漢字和名ではない。古い漢名か。

「地茸(うしのかはたけ)」不詳。

「皮蕈(かはたけ)」「黒皮たけ」担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱イボタケ目 Thelephorales のそれか。平凡社「世界大百科事典」の「コウタケ(皮茸)」には、『かさの裏に剛毛状の針が密生しているのを』、『野獣の毛皮と連想してカワタケ(皮茸)と名づけられ、それが訛って「コウタケ」となったとある。当該ウィキによれば、同目の種群は、『一般に強靭な肉質あるいは革質』や『コルク質で、形態的には膏薬状をなして枯れ木などにべったりと広がってかさや柄を形成しないものから、樹枝状ないしサンゴ状に分岐するもの、分岐する柄の先端にへら状のかさを形成してハボタン状をなすもの、あるいは明らかなかさと柄とに分化するものまでが含まれ、胞子を形成する子実層托は多くの分類群において細い針状突起の形態をとることから、一般に Tooth fungus の名があるが、しわひだ状を呈するものや管孔状をなすものも僅かに含まれている』とある。サイト「たじまのしぜん」の「カワタケの一種」では、「皮茸」の一種として、ヒダナシタケ目Aphyllophoralesコウヤクタケ科 Corticaceae を示してある。

「竹蓐(すゝめのたまこ)」サイト「oso的キノコ写真図鑑」のこちらに、担子菌門プクキニア菌亜門Pucciniomycotinaプクキニア菌綱プクキニア目プクキニア科ステレオストラツム属ステレオストラツム・コルチキオイデス(メダケ赤衣病菌)tereostratum corticioides が載り、その解説に『地方によっては「スズメノタマゴ」』と『呼ばれてる』らしいとある。学名は鈴木雅大氏のサイト「生きもの好きの語る自然誌」の同種のページを参考にさせて戴いた。素人の「きのこ」感覚からはかなりズレるものである。

「土菌(どくたけ)」「キツネノカラカサ」ハラタケ科キツネノカラカサ Lepiota cristata 。可食とするページもあるが、本邦に植生するかどうかは知らないが、同属のドクキツネノカラカサ Lepiota helveloa は海外で致死性の猛毒種として知られるので、食べない方が無難。「土菌(どくたけ)」の表記・読みは気になるが、由来は判らない。ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属チチタケ節チチタケ Lactarius volemus を那須では「ツチタケ」とは呼ぶらしい。

「鬼蓋(きかい)・地岑(ちしん)・鬼筆(きひつ)」総て不詳。有毒きのこ、或いは、尋常でない奇体な形状(「岑」には「鋭い・嶮しく聳える」の意がある)の「きのこ」類を指すか。]

2021/07/15

日本山海名産図会 第二巻 香蕈(しいたけ)

 

   ○香蕈(しいたけ)○一名「香菰(かうこ)」・「香菌」(かうきん)・「處蕈(しよじん)」

日向の產を上品とす。多くは熊野邉(へん)にも出だせり。椎の木に生ずるを本條とす。但し、自然生(しねんせい)のものは少なし。故に、これを造るに、椎の木を伐りて、雨に朽(く)たし、米泔(しろみつ)を沃(そゝ)ぎて薦(こも)を覆ひ、日を經て、生ず。又、櫧(かし)の木を伐りて作るもあり。採りて、日に乾かさず、炙り乾かす。故に、香氣、全し。又、「生(なま)乾し」とは、木に生ひながら、乾かしたるものにて、香味、甚だ佳美なり。是れを漢名「家蕈(かじん)」といふ。形、松蕈(まつたけ)のごとく、莖、正中(まんなか)に着くものを、眞とす。また、漢に「雷菌(らいきん)」といふ物あり。疑ふらくは、作り蕈(たけ)の類(るい)なるべし。「通雅」に云、『椿・楡・構抔(など)を、斧をもつて、うち釿(き)り、その皮を、久しく雨に爛(たゞ)らかし、米潘(こめのしる)を沃ぎ、雷の音を聞けは、蕈(たけ)を生ず。若し、雷、鳴らざる時は、大斧(おほおの)をもって、これを擊てば、忽ち、蕈(たけ)を生ず。』と云へり。是れ、香蕈を作る法のごとし。今、和州吉野、又、伊勢山などに作り出だせるもの、日向には勝(まさ)れり。其の法は、扶移(しで)の樹を、多く伐りて、一所にあつめ、少し圡に埋(うづ)め、垣(かき)を結ひまはして、風を厭(いと)ひ、其のまゝ晴雨に暴すこと、凡そ一年斗り、程よく腐爛したるを候(うか)がひて、かの斧をもち、擊ちて、目(め)を入れ置くのみにて、米泔(しろみづ)を沃ぐことも、なし。されども、其の始めて生ふるのは、すくなく、大抵、三年の後(のち)を十分の盛りとし、それより每年に生ふるは、すくなければ、又、斧を入れつゝ年を重(かさ)ぬなり。春・夏・秋と出でて、冬は、なし。其の内、春の物を上品として「春香(はるこ)」と稱す。夏は、傘、薄く、味も劣れり。又、別に「雪香(ゆきこ)」と云ひて、絕品の物は、緣も厚く、形勢(きやうせい)も、全く、備(そな)へり。是れは「春香」の内より撰(え)り出だせるものにて、裏なども潔白なるを稱せり。

[やぶちゃん注:菌蕈綱ハラタケ目キシメジ科(或いはヒラタケ科 Pleurotaceae 或いはホウライタケ科 Marasmiaceae 或いはツキヨタケ科 Omphalotaceae )シイタケ属シイタケ Lentinula edodes当該ウィキによれば、種小名を『「江戸です」から採ったとする説があるが』、『イギリスの菌類学者マイルズ・ジョセフ・バークリー』による一八七八年の『原記載論文には学名の由来は記されて』おらず、『ギリシア語で「食用となる」という意味の語』を『ラテン文字に置き換えると edodimos となり、これに由来すると考えられている』とある。

「米泔(しろみつ)」以下、異なった表記や読みが出るが、孰れも米の研ぎ汁である。「ゆする」と統一して欲しかった。「泔坏(ゆするつき)」で知られ、本邦では平安以後に用いられた、調髪のための「ゆする」=「米の研ぎ汁」=「白水(しろみず)」をいれる容器をかく呼び、よく古文に出るからである。「白水」は、性が冷たいものであって、これを櫛につけて髪を梳(くしけず)ると、人の血気を下げる効用があるとされた。「つき(坏)」は、丸みのある器を指す。

『是れを漢名「家蕈(かじん)」といふ』真に受けてはいけない。調べて見ても、シイタケを「家蕈」と呼んでいる漢籍は殆んど、ない。「本草綱目」の巻二十八の「菜之五」の「芝栭(しじ)類」でも「香蕈」であり、現在の中文呼称では、それ以外に「香菇」「叫做冬菇」「北菇」「厚菇」薄菇」「花菇」「椎茸」とあり、「家蕈」など、ない。しかも、「漢籍リポジトリ」で「家蕈」を検索しても、元で一冊、清で二冊しか上がってこない(しかもそれがシイタケであるかどうかどうかも私には判らない)。従ってこの「家蕈」が漢名というのは噓である。序でに言っておくと、現在、シイタケを中国が大々的に栽培し出したのは、日本の一人の男性が始めた技術援助によるものであって、現在の中国産シイタケが市場を席巻していることからは信じられないかも知れぬが、中国での大規模なシイタケ栽培はごくごく最近のことなのである。何故、自信を持って言えるかって? 嘗て国外旅行をした際の団体の中の一人の老人が最初にその技術援助をなさった方で、非常に詳しく話を聴くことが出来たからである。但し、シイタケ自体の巨視的な栽培史は中国の方が遙かに古い。中文のシイタケのウィキには漢代に既に栽培されていたと載るが、それが記されているのは、元代に王禎(一二七一年~一三三三年)が書いた「王禎農書」(一三一三年成立:本邦は鎌倉末期)とあるのだから、ちょっと信用に措けない気がしたのだが、この本には明らかに近現代のシイタケ栽培と同じような手法が記されているようである。サイト「旧特用林産研究室」の「シイタケの話(一)」に、『既に「王禎農書」』『に香蕈の栽培法が載っている。「日陰の場所を選び、楓(フウ)、楮(カジノキ)、栲(シイ)などの木を伐り、斧で傷をつけ、土をかけて置く。数年できのこが発生する』」とあり、『また、榾木を槌で叩いて』、『きのこを発生させる手法も既にあった(「驚蕈」と呼んでいた)。この記述と同様のものが、日本の農業全書』元福岡藩士宮崎安貞著で元禄一〇(一六九七)成刊行)『にも載っている。ただし古くから栽培技術が開発された中国よりも、日本の方がシイタケ栽培が盛んになっていった』。水戸の本草学者佐藤(中陵)成裕の「五瑞編」(一七九六年)には、『詳しい栽培法が載っており、当時の栽培方法をうかがい知ることができる。シデ、コナラ、クヌギの原木に鉈目を入れて温湿度を管理し、自然にシイタケ菌が原木につくのを待つという方法であり、浸水打木、火力乾燥法についても詳しく載っている』。筆者は、また、『最近は中国産におされ気味のシイタケも、まだまだ食用きのこの代表選手ではある。さぞかし昔から食べられていたことが推測されるが、文献に登場するのは意外に新しい。最も古いのは』、貞応二(一二二三)年に、『道元が宋(中国)に留学した際、日本船が着くと』、『寺の老僧が乾シイタケ(倭椹)を買いに来たという話で、「典座教訓」に載っている(シイタケではなく、桑の実であるという説もある)。その後は』、寛正六(一四六五)年の『日記に伊豆の円城寺(現・韮山町)から将軍足利義政に贈ったことが載っていたり、節用集(当時の辞典』(明応四(一四九五)年成立)『に登場するくらいで、あまり記録に残っていない。これ以後は料理材料としてありふれたものになるのに、なぜだろうか?』と提起された上で、『シイタケは珍しいきのこではないから、古くから食べられていたのだろう。しかし生シイタケの状態では、マツタケやヒラタケのように、他のきのこに比較してきわだった香りや形の特徴があるとは言えない。このため一つの種としての全国的な認識が生まれなかったのかもしれない。その後、乾シイタケにして食べる方法が普及するにつれ、独特の香りから、シイタケの地位が向上することになったのではないかと思う。実は乾シイタケの料理法は、中国から伝わったのかもしれない』とある。以下、曲亭馬琴の「兎園小説」『日本のシイタケ栽培草創期の話がある』(第一集の巻頭を飾る「文政八』(一八二五)『年乙酉春正月十四日於海棠庵發會」の「沼津驛和田氏女兒の消息 海棠庵」で、本文標題は「文政六年の夏の末、駿州沼津驛和田傳兵衛といふものへ、娘より遣しゝふみの寫」である)『伊豆の岩地村という所に猟師の子で斉藤重蔵という者がいた』。十四『歳の時、家を出てシイタケを作り、その商売のために諸国を歩き回っていたが、行方がわからなくなり』、三十『年近くたった。ある日』、『豊後の岡という所から』二十五『両が岩地村へ送られてきた。ところが全然心当たりの無いことなので、一体誰が送金してきたのかと問い合わせたら、その昔、家を出た重蔵からであった。重蔵は豊後で、シイタケの栽培法を教えたところ、国益になるということで、領主の召し抱えになった。毎年』七十『両の金を賜り、岡の岳山というところで、大きな家を建て、だんだん成功し、三百余人の召使いがいるまでになった。毎日シイタケを作り、串に刺して焼いて、大坂に出し、春と秋とで』二『万両も取る財産家になったという』。『ちなみに大分県では、豊後の源兵衛という炭焼きが、炭にする木に鉈目を入れたまま山に放置したところ、シイタケがその木から発生し、シイタケ栽培法を開発したということになっている。この鉈目栽培法は半世紀前まで行われていた栽培法である』とある。

「雷菌(らいきん)」静電気関連会社「テクノクリーン」の「きのこ増産装置『いぞう』」のページに、『昔から『雷の落ちた場所には、きのこが良く生える』という言い伝えがあります』。『長年『雷』と『きのこ』の関係を研究されている 岩手大学の高木浩一教授の説によると、強い電流の衝撃を受け』、『「危機感」を抱いたきのこの菌糸が、子孫を残す本能で活発に生育するからではないかと言われています』。『この説を参考にして愛媛県の産業振興課が当社の高電圧装置を使用し、きのこ(しいたけ)増産効果の実証試験を行ったところ』、一・五~二・〇倍『の増産効果が認められました』とある。「大斧(おほおの)をもって、これを擊てば、忽ち、蕈(たけ)を生ず」とあるから、或いは有意な落雷による感電でなくても、菌糸に物理的な有意に強い力が加えられると、同じ現象が起こるのかも知れない。

「作り蕈(たけ)」「きのこ」の栽培種。

「通雅」明末清初の思想家方以智(一六一一年~一六七一年)の撰なる語学書。「爾雅」に倣って、物の名・訓詁・音韻などを二十五門に分類し、詳しく考証したもの。

「構」カジノキ(バラ目クワ科コウゾ属カジノキ Broussonetia papyrifera )の本邦での古名。

「伊勢山」現在の三重県松阪市飯福田町伊勢山上(いせさんじょう)か(グーグル・マップ・データ)。奇岩と鬱蒼とした古木に包まれた絶景地で、大宝元(七〇一)年にかの役の行者小角(おずぬ)の開創になる霊場と伝えられる地である。

「扶移(しで)の樹」マンサク亜綱ブナ目カバノキ科クマシデ属 Carpinus に属するシデ類。硬く榾木にもなるので、シイタケ栽培にも使用できるであろう。本邦には、サワシバ Carpinus cordata ・クマシデ Carpinus japonica ・アカシデ Carpinus laxiflora ・イヌシデ Carpinus tschonoskii ・イワシデ Carpinus turczaninovii が自生する。

「春香(はるこ)」「雪香(ゆきこ)」「九州・高千穂郷の干ししいたけ専門問屋 杉本商店」の公式サイトの「椎茸の種類」に、『椎茸はほぼ』一『年を通して収穫されますが、最盛期は春・秋で、年間収穫量の約』七『割が春に収穫されます』として、『春子(はるこ)』として、二月から四月『頃採れる椎茸。重厚な味と香り。どんこ・香信・バレ葉の各グレードがバランスよく取れる。年間収穫量の』七『割がこの時期に採れる』とあり、次に『藤子(ふじこ)』として、『藤の花が咲くころに採れる。品質は悪く、虫の混入が多い』、次に『秋子(あきこ)』として、『薄葉で華やかな香り。高温期のため成長が早く、中葉以上のバレ葉が多い。どんこはほとんど採れない』とあり、最後に『寒子(かんこ)』とあり、『「石どんこ」とも呼ばれ、極限まで身の詰まった、うま味が濃厚で歯ごたえがある椎茸。収穫量が少ないため』、『通常流通しない』とあり、『「石どんこ」とも呼ばれ、極限まで身の詰まった、生産者が最も好んで食べる椎茸です。ぷりぷりとしたかんこ独特の歯ざわりは、まるであわびを食べているようです』とある。ここは場所柄で、九州北部以北ならば、「雪香」と呼んだとしてもおかしくない。]

「南方隨筆」版 南方熊楠「詛言に就て」 オリジナル注附 (1)

 

[やぶちゃん注:本篇初出は大正四(一九一五)年四月二十五日発行の『人類學雜誌』第三十卷四号。初出は「J-STAGE」のこちらで原本画像(PDF)で見られる。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらからの画像を視認した。

 初出及び平凡社「選集」と校合し、不審な箇所は訂した。それはただ五月蠅くなるだけなので、原則、注していない。他にも漢籍などの引用で不審な箇所は可能な場合は引用古書(「古事記」「古事記傳」など)を調べて訂したが、これも、同前の理由で、原則、注していない。また、上代歴史的仮名遣文脈の引用部はほぼ返り点もない白文であり、甚だ読み難いので、可能な限り原本に当たって訓読した。しかし、それを本文内に入れると、熊楠の本文が甚だ読み難くなるので、今回は特異的に「選集」が恣意的に成形された段落(底本はベタで一段落も成形されていない)を参考に、仮に段落を作り、その直後に纏めて挿入して示し、そのソリッドな注の後は一行空けた。必要と考えた短い割注も入れてある。

 因みに、「詛言」は「そげん」で(和訓としては「古事記」で「とこひい」・「のろひごと」などの訓が試みられている。「とこいひ」「とこい」という語は、古くは「呪詛」と感じを当て、古神道に於いて、神に祈って他人に災禍を蒙らせようとするブラック・マジック、「呪(のろ)い」を指す。因みに、そのために使う物を「詛戶(とこひど)」とも言った。恐らくは本邦のもっと古い原始社会に於いて発生したもので、シャーマンの呪術に関わるものが淵源と思われる。]

 

     詛 言 に 就 て

 

 人類學雜誌二九卷十二號四九五―七頁に、誓言(英語で Swearing)の事を述べたが爰には詛言(英語で Curse)に就て少しく述よう。詛言とは他人が凶事に遭へと自分が望む由罵り言ふので、邦俗「早くくたばれ」「死んぢまへ[やぶちゃん注:ママ。]」抔いふのがそれだ。今日何の氣もなくそんな語を吐く人が有る樣だが、實は甚だ宜しくない。英米に最も盛んなゴツデム(神汝を罰す)又デム何某(罰當りの何某)抔は、嚴戒の神名を呼ぶ上に詛を兼ねた者故、極めて聞苦しい。是も彼方[やぶちゃん注:「あちら」。]で幼年から口癖になって止められぬ人が多いらしい。然し往古は詛言は必ず詛する人の望み通りの凶事を詛はれた[やぶちゃん注:「のろはれた」。]者に生ぜしむると信じ隨つて甚だ詛言を怖れた。例せば古事記に天若日子[やぶちゃん注:「あめのわかひこ」。]葦原中國[やぶちゃん注:「あしはらのなかつくに」。この地上世界の呼称。]に到て下照比賣[やぶちゃん注:「したてるひめ」。]を娶り八年に至るまで復奏[やぶちゃん注:「かへりごと」。高天原への報告の上奏。]せず。雉名鳴女[やぶちゃん注:「きぎしのなきめ」。キジの人神化。]天神の命を奉じ視に往しを天若日子射殺し、其矢天の安河[やぶちゃん注:「あまのやすのかは」。]の河原に達す。之を檢して[やぶちゃん注:「けみして」。]高木神[やぶちゃん注:「たかぎのかみ」。「高御產巢日神(たかみむすびのかみ)」の異名。]言く、是は天若日子に賜ひし矢也と。卽ち諸神に示し、今此矢を返し下さんに、若し天若日子命を違えず[やぶちゃん注:「たがえず」。ママ。]惡神を射し矢の來つるならば此矢彼れに中らじ。若し彼れ邪心あらば此矢に麻賀禮(まがれ)と言て、矢の穴から其矢を返すと天若日子の胸に中つて死んだと有る。本居宣長言く、「先づ萬づの吉善(よき)を直(なほ)と云に對ひて[やぶちゃん注:「つひて」。ママ。]萬の凶惡[やぶちゃん注:「あしき」。]を麻賀[やぶちゃん注:「まが」。]と云ふ。故に御祓の段に禍(まが)[やぶちゃん注:以上の「(まが)」はルビではなく、本文。]と書けり。扨其は體言なるを用言にしては麻賀流と云ふ。物の形の枉曲るも其中の一也。されば麻賀禮と云ふは、言は凶くなれ[やぶちゃん注:「ことはあしくなれ」。]と云ふ事にて、意は乃ち死ねと詔ふ也(麻賀禮、卽ち今の「くたばれ」だ)。書紀には其時天神乃取矢而呪之曰、若以惡心射者、則天稚彥必當遭害云々、此當遭害を「まじごれなむ」と訓るは[やぶちゃん注:「よめるは」。]御門祭詞に天能麻我都比登云神乃(あめのまがつびといふかみの)言武(いはむ)惡事爾(まがごとに)相麻自許理(あひまじこり)云々と有るに同じ。上に曰呪[やぶちゃん注:「呪(とこ)ひて曰はく」。]と有る呪は字書に詛也と有る意にて、俗に所謂麻自那布(まじなふ)なれば麻自許流(まじこる)はまじなはるゝ也。凶くまじなふを俗言にまじくると云も是也。さればかの當選害と此の麻賀禮とは、言は別なれども末は一つ意に落めり[やぶちゃん注:「おつめり」。]。故に當遭害と書かれたる字は麻賀禮に能く當れり(古事記傳十三)。

[やぶちゃん注:「人類學雜誌二九卷十二號四九五―七頁に」「誓言の事を述べた」これは「鼈と雷、附たり誓言に就て」という記事(初出は見ることが出来ない)。これは本書の後に出る「鼈と雷」の第「三 附たり誓言に就て」の本文である。先に読まれたい方は底本のここから読める。

「誓言(英語で Swearing)」スゥェリング。「誓い」の意もあるが、ここは「罵り・悪たれ口(ぐち)」の意。 

「詛言(英語で Curse)」カァース。「人などに災厄や不幸が降り懸かるようにと呪い、罵る」の意の動詞。

「ゴツデム(神汝を罰す)」goddamn。ガァデッム。「God」(神が)+「‎ damn」(人を永遠に罰する。地獄に堕とす)。

「デム何某(罰當りの何某)」Damn you!(「こん畜生め!」)・Damn it!(「クソ!」「いまいましい!」)等。

「天若日子……」以下の話はウィキの「あめのわかひこ」を、まず、参考に読むと、すっきり読み通すことが出来る。

「まじごれなむ」「古事記傳」では『麻自許禮那牟』の漢字に以上の読みがルビで振られてある。

「故に」「古事記伝」の原文での読みは「故れ」(かれ)である。これは「古事記」に多用される「そこで」「だから」の語である。

「古事記傳十三」以上は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和五(一九三〇)年吉川弘文館刊の当該部(見開き中央の右ページの後ろから二行から)を見られたい。]

 

 又書紀卷二に、天津彥火瓊々杵尊、大山祇神の女木花開耶姬の美貌を見初め召れしに、大山祇其二女姊妹を進む。皇孫姊の方は醜くしとて妹木花開耶姬のみ幸し、一夜で孕ませ玉ひしかば姉磐長姬大慙而詛之曰、假使天孫不斥妾而御者、生兒永壽、有如磐石之常存、今既然、唯弟獨見御、故其兒必如木花移落、一云、磐長姬耻恨而唾泣曰、顯見蒼生者、如木花之俄遷轉、當衰去矣、此世人短折之緣也、古事記には此時大山祇神長女が納れられざりしを恥じて詛(のろ)うたので、今に至るまで天皇命等の御命長くまさゞる也と有る。

[やぶちゃん注:読みが五月蠅くなるばかりなので、煩を厭わず、訓読を以下に示す。昭和八(一九三三)年岩波書店刊の黒板勝美編「日本書紀 訓読 上巻」(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部画像)を参考にしたが、必ずしもそれに従わずに判り易く変えてある。一部で送り仮名・句読点・記号を変更・追加した。

   *

 天津彥火瓊々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、大山祇神(おほやまつみのかみ)の女(むすめ)木花開耶姬(このはなさくやひめ)の美貌を見初め召れしに、大山祇、其の二女姊妹を進む。皇孫、「姊の方は醜くし」とて、妹木花開耶姬のみ、幸(みとあたへ/め)し、一夜で孕ませ玉ひしかば、姊の『磐長姬、大いに慙ぢて、之れを詛(とこ)ひて曰く、「假使(もし)天孫(あめみま)、妾(やつこ)を斥けずして御(め)さましかば、生めらむ兒は壽(いのち)永きこと、磐石之常存(ときはかきは)のごとくなりまし。今は既に然らず、唯、弟(いろと)のみ獨り御(め)せり。故(かれ)、其の生めらん兒、必ず、木の花の移(ち)り落つるがごとくならん。」と。

 一に曰く、『磐長姬、恥ぢ恨みて、唾(つば)泣(いざ)ちて曰く、「顯見蒼生(うつしきあをひとぐさ)は、木の花のごとく、俄かに遷轉(うつろ)ふがごとく、當に衰へ去るべし。」と。此れ、世人の短折(いのちみぢか)き緣(えにし)なり。』と。

   *]

 

 伊勢物語に、秋來れば逢はんと約せし女に逃げられた男、天の逆手を拍て呪(のろ)ふ事見ゆ。本居氏說に、上古は呪を行ふに吉事凶事共に天の逆手を打つたが、伊勢物語の頃は人を詛ふのみに用ひたらしいと(古事記傳十四)上古の呪ひには斯る作法も種々有ただらうが追々作法を廢して口許りで詛言を吐く事と成たは同じ物語に昔し男、宮の中にて或る御達(ごたち)の局の前を渡りけるに、何の仇にか思ひけん、よしや草葉のならんさが見んと云ひければ、男、「罪もなき人をうけひば忘れ草おのが上にぞおふと云なる」。是は一話一言十八に、童部の誓言に大誓文齒腐れ、親の頭に松三本と云るは、頭に松を生ずる事には非じ、墓の木の拱せるを云るなるべしと有る如く、自死し墓の上に忘れ草が茂れと詛ふためだろ、忘れ草を墓に栽えた話は今昔物語三一に出づ。それから大分後建長四年に成った十訓抄第七に「太宰大貳高遠の、物へおはしける道に、女房車をやりて過ける、牛飼童の、詛(のろ)ひ言(ごと)しけるを聞きて、彼車を止めて尋ね聞ければ、ある殿上人の車を女房達の借て物詣でしけるが、約束の程過て、道の遠くなるを腹立つなりけり。大貳言れけるは、女房に車貸す程の人なれば、主はよも左樣の情なき事は思はれじ己れが不當にこそ迚、牛飼をば縛らせて主の許へ遣けり云々」。是は今日歐米の車夫抔が客を侮り辱めて詛言する如く、吾邦にも中世下等人は動[やぶちゃん注:「やや」。]もすれば輕々しく詛言した證でも有れば、又歐米と等しく其頃は詛言者を犯罪として縛り罰し得た徵[やぶちゃん注:「しるし」。]でもある。

[やぶちゃん注:「伊勢物語に、秋來れば逢はんと約せし女に逃げられた男……」第九十六段の以下。

   *

 昔、男ありけり。女をとかく言ふこと、月日、經にけり。石木(いはき)にしあらねば、『心苦し』とや思ひけむ、やうやうあはれと思ひけり。

 その頃、水無月の望(もち)ばかりなりければ、女、身に、かさ、一つ二つ、いできにけり。女、いひおこせたりける。

「今はなにの心もなし。身にかさも一つ二ついでたり。時も、いと暑し。少し秋風吹きたちなむ時、かならずあはむ。」

と言へりけり。

 秋まつ頃ほひに、ここかしこより、「その人のもとへいなむずなり」とて、口舌(くぜつ)いできけり。さりければ、女の兄(せうと)、にはかに迎へ來たり。さればこの女、かへでの初紅葉(はつもみぢ)をひろはせて、歌をよみて、書きつけておこせたり。

  秋かけて言ひしながらもあらなくに

    木の葉ふりしくえにこそありけれ

と書きおきて、

「かしこより、人おこせば、これをやれ。」

とて、いぬ。

 さて、やがてのち、つひに今日まで知らず。良くてやあらむ、惡しくてやあらむ、往(い)にし所も知らず。

 かの男は、天(あま)の逆手(さかて)を打ちてなむ、のろひをるなる。

 むくつけきこと、人ののろひごとは、負ふものにやあらむ、負はぬものにやあらむ、「今こそは見め」とぞ言ふなる。

   *

「かさ」は汗疹(あせも)。『ここかしこより、「その人のもとへいなむずなり」とて、口舌(くぜつ)いできけり』「あちらこちらから、『例の男の所へ行こうとする女がいるらしい』という噂が立った」の意。「書きつけておこせたり」は後の「と書きおきて」の衍文であろう。「かの男は、天の逆手を打ちてなむ、のろひをるなる」「かの男の方はといえば、自身が訪ねなかったことを棚上げしておき、逆に、天の神に向かって普通と異なった尋常ではない方法で手を打っては(後述する)、この女のことを呪い続けて日を暮らしておるということである」の意。「むくつけきこと」何とも不気味で気持ちの悪い話。「今こそは見め」『「今に見ていろ! 呪いが効くぞ!」と、かの男は言うておるとのことである』の意。

 さて、ここで熊楠はこの「天の逆手」を出すために、これを出したわけだが、これの元はは「古事記」の「神代巻」中の、所謂、「国譲り」のシークエンスで、八重事代主神が、

   *

恐之。此國者立奉天神之御子。卽蹈傾其船而。天逆手矣。於靑柴垣打成而隱也。

   *

「恐(かしこ)し。この國は謹しんで天つ神の御子に獻(たてまつ)りたまへ。」といひて、その船を蹈み傾けて、天(あま)の逆手(さかて)を靑柴垣(あをふしがき)にうち成して、隱りたまひき。(武田祐吉氏の訓読に基づく)

   *

である。しかし、この場合の「天の逆手」は、少なくとも原型ではどうであったかは別問題として(私は容易に「国譲り」をするこの場面が恐ろしく奇体に思われ、本来の国つ神の原神話は全く違うものと考えている)、表面上・展開上では、ある対象を呪詛する言葉なんぞではなく、乗っている船を青柴垣に変じせしめるための呪文のように見える。しかし、考えて見れば、この「国譲り」という深刻な事態のなかで、たかが、船を青柴垣に変容させるために御大層な呪文や印が必要だったとは、これまた、さらさら思えない。これは私には非道な天つ神族の不当な強要・侵略・掠奪をした相手を呪詛した原神話と残存と読む方が何もかも腑に落ちるのである。話を戻す。そもそもが、この「古事記」のこの「天の逆手」がいかなるものであったかは、古くから異説が多く、現在でも定説がない。よく知られものが、本居宣長の「古事記伝」の十四で、まさにこの「伊勢物語」のこの部分を引き(以下は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和五(一九三〇)年吉川弘文館刊の当該部を視認した)、

   *

天逆手(アマノサカデ)は、「伊勢物語」に、『天(アマ)の逆手(サカテ)を拍(ウチ)てなむのろひ居(ヲル)なるとあると、相照して思ふに、古に逆手を拍て、物を咒(カシ)る術(ワザ)【俗にいふ麻自那比(マジナヒ)なり、】のありしなり。さて彼物語なるは、人を詛(ノロ)ふとてしけるを、上代には、然(サ)る惡事(アシキコト)のみならず、吉善事(ヨキコト)にも渉(ワタリ)て爲(シ)けむこと、此(コヽ)の故事(フルコト)にて知れたり、此(コヽ)は船を柴垣(フシカキ)に變化(ナサ)むための呪術(カシリ)なり。さて逆手(サカデ)を拍(ウツ)と云ふ拍状(ウチザマ)は、先常に手を拍は、掌(タナウラ)をうつを、此は逆(サカサマ)に翻(ウチガヘ)して、掌を外(ト)になして拍を云ふか、又は常には兩(フタツ)の掌を同じさまに對(ムカ)へて拍を、此は左と右との上下を、逆(サカサマ)にやり違(チガ)へて拍を云か、此をか、此の間(アヒダ)今定めがたし。

   *

と記した後、さらに、僧契沖と賀茂真淵の両説を示しつつも、それらは誤りであるとし、結局は、具体的にどのような手の打ち方(手の打ち方なのかどうかも実は判らない)であるかは不詳とするのである(長いので、カットした。先のリンク先で以下を読まれたい)。ただ、呪詛として考えると、「後方手(しりへで)」は、手を後ろの方に回して、相手に判らぬように呪文を発することと私は同義ではないかと考えている。民俗学者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年)の昭和五(一九三〇)年大岡山書店刊の「日本巫女史」の「第一篇 固有呪法時代」「第五章 巫女の作法と呪術の種類」「第一節 巫女の呪術的作法」(「巫研 Docs Wiki」の電子化)にある「一 逆手」でも最後に中山氏は、この「古事記」の「天の逆手」は『凶事にのみ用いる呪術の一作法と信ずるのである。後手に就いては、「日本書紀」の一書に、海神が彦火々出見尊に教えて『此の鈎を汝の兄に与へたまはん時に、即ち貧鈎(マチチ)、滅鈎(ホロビチ)、落薄鈎(オトロヘチ)と称へ、言ひ訖りて後手(シリヘデ)に投与へたまへ、向ひてな授けたまひそ』とあるように、これは呪術的の意味が明白に且つ濃厚に含まれていたことが知られる。「釈日本紀」巻八に『今世厭(マジナフ)物之時、必以後手也』と述べたのも、決して虚構だとは想われぬ。私は逆手は此の後手と同じほどの内容を有するものと信ずるのである』と述べておられる。

「同じ物語に昔し男、宮の中にて或る御達(ごたち)の局の前を渡りけるに……」「伊勢物語」第三十一段。

   *

 むかし、宮の内にて、ある御達の局(つぼね)の前を渡りけるに、なにのあたにか思ひけむ、

「よしや草葉よ、ならむさが見む。」

といふ。

 男、

  罪もなき人をうけへば忘れ草

    おのが上(うへ)にぞ生(を)ふと言ふなる

と言ふを、ねたむ女もありけり。

   *

「御達」普通の女房たちとはちょっと違った上位の別格の女房。「あた」仇。ここは他者に対して害を成す悪しき存在といった謂い。ここは局の前を通った「男」を指す。「よしや草葉よ、ならむさが見む。」「まあ、仕方がないわねぇ、今は見栄えもいいけれど、所詮、草花に過ぎぬもの、末はどうなるか、分からないわね、その哀れなそれを見届けてやるわ。」。但し、角川文庫の石田穰二訳注「新版 伊勢物語」(昭和五四(一九七九)年刊)の補注によれば、これは室町後期の三条西実隆の「伊勢物語直解」に、「続(しょく)万葉集」(「古今和歌集」の「真名序」に名が見える歌集。同和歌集の成立過程で諸家集や古歌を集めて献上されたもので、「古今集」編集の一材料であったかとされる。現存しない)の巻八にある、

 忘れ行くつらさはいかに命あらば

   よしや草葉よならさむを見む

の下句が元であるとされ、『歌意は、恋しい人を忘れようとするつらさはいかばかりであろうか、もしつらさに堪え切れずに死ぬおうなことがないならば、ままよ、たかが草葉に過ぎないことだ、自分の忘れ草がどのように生い繁るか、それを見届けよう、となる。したがって、この物語では、この歌の下句を借りて、(あなたは私を忘れたが)あなたの心の中の忘れ草がどのように生い繁るか、見届けましょうよ、の意となろう』とされ、そうした恨み節(呪詛)に対して「男」が詠んだ歌の意は(現代語訳部分から引用)、『罪もない人を呪うとわが身の上に負う』(太字は原文は傍点。以下同じ)『というではありませんか、忘れ草はあなたにこそ生える――生う――ことになりますよ』となり、「ねたむ女もありけり」は恨み言を鏡返しで『うまくしてやられたと思う女もいたことだった』と訳されてある。

「一話一言十八」「一話一言」は太田南畝の考証随筆。同書を調べたが、見出せない。

「親の頭に松三本」「中川木材産業株式会社」公式サイト内のこちらに、『親の頭に松が三本生えるようなことがあっても、決してうそは言わない、 あるいは、「親の頭に松三本」が生えようとも約束は守るという意』。『また、「親の頭に松が三本生える」と声に出していうことはタブーで、これ以上の悪いことはないという地方もあった。 親の死を意味する言葉であったからと言われている』とある。

「忘れ草を墓に栽えた話は今昔物語三一に出づ」これは巻第三十一第二十七話「兄弟二人殖萱草紫苑語第二十七」(兄弟二人、萱草(かんざう)・紫苑(しをに)を殖(う)うる語(こと)第二十七)。

   *

 今は昔、□□の國□□の郡(こほり)に住む人、有りけり。男子(をのこ)二人有りけるが、其の父、失せにければ、其の二人の子共、戀ひ悲しぶ事、年を經れども、忘る事、無かりけり。

 昔は、失せぬる人をば墓に納めければ[やぶちゃん注:土葬にしたことを指す。]、此れをも納めて、子共、祖(おや)の戀しき時には、打ち具して彼(か)の墓に行きて、淚(なむだ)を流して、我が身に有る憂へをも歎きをも、生きたる祖などに向ひて云はむ樣に、云ひつつぞ、返りける。

 而る間、漸く、年月積みて、此の子共、公けに仕へ、私(わたくし)を顧みるに堪へ難き事共有りければ[やぶちゃん注:公務が忙しく私事を顧みる余裕がなくなってしまったので。]、兄が思ひける樣、

「我れ、只にては、思ひ□べき樣無し[やぶちゃん注:欠字であるが、「このままでは自身の父への思いさえ慰められそうにもない」の意であろう。]。萱草と云ふ草こそ、其れを見る人、思ひをば忘るなれ。然(さ)れば、彼の萱草を墓の邊(ほと)りに殖ゑて見む。」

と思ひて、殖ゑてけり。

 其の後、弟、常に行きて、

「例(れい)の[やぶちゃん注:何時ものように。]墓へや參り給ふ。」

と兄に問ければ、兄、障りがちにのみ成りて、具せずのみ成りにけり。

 然れば、弟、兄を、

『糸(いと)心踈(こころう)し。』

と思ひて、

『我等二人して祖(おや)を戀ひつるに、懸(かか)りてこそ、日を暗(くら)し、夜を曙(あか)しつれ。兄は既に思ひ忘れぬれども、我は更に祖を戀ふる心、忘れじ。』

と思ひて、

「紫苑と云ふ草こそ、其れを見る人、心に思ゆる事は忘れざなれ。」

とて、紫苑を墓の邊りに殖ゑて、常に行きつつ見ければ、彌(いよい)よ、忘るる事、無かりけり。

 此樣(かやう)に年を經て行きける程に、墓の内に、音(こゑ)、有りて云はく、

「我れは汝が祖の骸(かばね)を守る鬼也。汝(なむ)ぢ、怖るる事、無かれ。我れ、亦、汝を守らむと思ふ。」

と。

 弟、此の音を聞くに、

『極めて怖ろし。』

と思ひ乍ら、答へも爲(せ)で聞き居たるに、鬼、亦、云はく、

「汝ぢ、祖を戀ふる事、年月を送ると云へども、替る事、無し。兄は同じく戀ひ悲みて見えしかども、思ひ忘るる草を殖ゑて、其れを見て、既に其の驗(しるし)を得たり。汝は亦、紫苑を殖ゑて、其れを見て、其の驗を得たり。然れば、我れ、祖を戀ふる志(こころざし)の懃(ねむご)ろなる事を哀れぶ。我れ、鬼の身を得たりと云へども、慈悲有るに依りて、物を哀れぶ心、深し。亦、日の内の善惡の事[やぶちゃん注:その日のうちに起こる吉事・凶事。]を知れる事、明らか也。然れば、我れ、汝が爲めに見えむ所有らむ。夢を以つて、必ず、示さむ。」

と云ひて、其の音、止みぬ。弟、泣々く喜ぶ事、限り無し。

 其の後(のち)は、日の中に有るべき事を夢に見る事、違(たが)ふ事、無かりけり。身の上の諸(もろもろ)の善惡の事を知る事、暗き事、無し。此れ、祖を戀ふる心の深き故也。然れば、

「喜き事、有らむ人は、紫苑を殖て、常に見るべし。憂へ有らむ人は、萱草を殖ゑて常に見るべし。」

となむ語り傳へたるとや。

   *

「萱草」単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ Hemerocallis fulva 。本邦にはヤブカンゾウ Hemerocallis fulva var. kwanso ・ノカンゾウ Hemerocallis fulva var. longituba ・ハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. littorea ・ニシノハマカンゾウ Hemerocallis fulva var. auranntiaca ・アキノワスレグサ Hemerocallis fulva var. sempervirens が自生する。

「紫苑」双子葉植物綱キク目キク科キク亜科シオン連シオン属シオン Aster tataricus

「建長四年」一二五二年。

『十訓抄第七に「太宰大貳高遠の、物へおはしける道に……』以下。

   *

 大宰大弐高遠の、ものへおはしける道に[やぶちゃん注:ある所へいらっしゃる途次。]、女房車をやりて過ぎける牛飼童部(うしかひのわらは)、のろひごとをしけるを聞きて、かの車をとどめて、尋ね聞きければ、ある殿上人の車を、女房たちの借りて、物詣でせられけるが、約束のほど過ぎて、道の遠くなるを、腹立つなりけり。

 大弐、言はれけるは、

「女房に車貸すほどの人なれば、主(あるじ)は、よも、さやうの情けなきことは思はれじ。おのれが不當にこそ。」

とて、牛飼を走らせて、主のもとへ、やりけり。

 さて、わが牛飼に、

「この女房の車を、いづくまでも、仰せられんにしたがひて、つかふまつれ。」

と下知せられける。

 すき人はかくこそあらめと、いみじくこそ思(おぼ)ゆれ。

 この人、はかなくなられてのち、ある人の夢に、

「『ふるさとへ行く人もがな告げやらん知らぬ山路に一人迷ふと』、ながめて居給へる。」

と、見えけり。

 いかなるところに生れたりけるにか[やぶちゃん注:転生したものか。]、あはれにおぼつかなし。

   *

「大宰大弐高遠」公卿・歌人で正三位・大宰大弐であった藤原高遠(天暦三(九四九)年~長和二(一〇一三)年)。中古三十六歌仙の一人で、笛の名手として知られる。享年六十五。]

2021/07/14

日本山海名産図会 第二巻 芝(さいはいたけ)(=霊芝=レイシ)・胡孫眼(さるのこしかけ)

 

  ○芝(さいはいたけ)【俗に「靈芝(れいし)」といふ。一名「科名草(くわめいさう)」・「不死草(ふしさう)」・「福草(ふくさう)」◦和訓「ヌカトデタケ」◦「サキクサ」。】

「本草」に「五色芝(ごしきだけ)」といふ仙藥なり。商山(せうさん)の四皓(しこう)、芝(し)を採り、茄(くら)ふてより、群仙の服食(ふくしよく)とす。又、五色の外に「紫芝(しし)」あり。以上、六芝(ろくし)に分かつ。中にも「紫芝」は多し。地上に生じて、沙石中或ひは松樹下(せうじゆか)などに一度(ひとたび)生ずれば、幾年も同所に生ず。初生、黄色にて、日を經て、赤色を帶び、長じて、紫褐色(むらさきちやいろ)。莖、黑(くろ)ふして、光澤あり。笠の裏、きれず、滑らかなり。味(あちは)ひ、五色に五味を備ふ。是れ、一歲(いつさい)に三度(たび)花さくの瑞草(ずいさう)にて、日本、「延喜式」にも「祥瑞(しやうすい)」の部に見たり。「瑞命禮(すいめいれい)」に、『王者、仁慈なれば、芝草(しさう)、生ず。』といふは、是れなり。○其の形、一本(ひともと)離れて生ふるあり。また、叢(むらか)り生ずるもあり。また、一莖(けい)に重なり生(せう)して、「マヒタケ」のごとき物あり。また、莖枝(くきえだ)を生して、傘あるもあり。また、かさなく、莖のみ生して、長(たけ)三尺ばかりに、枝を生じ、鹿の角のごときもあり。これ、「鹿角芝(ろくかくし)」といふ竒品にして、先年、伊勢の山中に出だす。凡て、芝(し)の品類、六百種斗り。尚、奇品の物、「本草綱目」に委(くわ)し。○丹波にては、首途(かどて)を祝ひて、これを贈る。伊勢にて「萬年たけ」といひて、正月の辛盤(ほうらい)に飾り、江戶には「ネコジヤクシ」といひ、仙臺にては「マゴジヤクシ」といひて、痘瘡(とうそう)を搔(か)くなり。

 

胡孫眼(さるのこしかけ) 是れ、芝(たけ)の種類也。木に生じて、莖、なし。大(おほ)なるもの、四、五尺にも及ぶ也。

 

[やぶちゃん注:「芝(さいはいたけ)」『俗に「靈芝(れいし)」といふ。一名「科名草(くわめいさう)」・「不死草(ふしさう)」・「福草(ふくさう)」◦和訓、又、「カトデタケ」◦「サキクサ」』担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ Ganoderma lucidum当該ウィキによれば、『一年生』で『形態は系統により様々に変化する。肉質はコルク質様で表面はニスがかけられた様な光沢がある。別名』に

「万年茸(まんねんたけ)」

「霊芝草(れいしそう)」

があるとし、『霊芝は一般的にマンネンタケ科』Ganodermataceaeka の万年茸(まんねんたけ)類を『指し、他に』

「門出茸(かどでたけ)」

「仙草(せんそう)」

「吉祥茸(きっしょうだけ)」

「霊芝草(れいしそう)」

「赤芝(せきし)」

等の『呼称で呼ばれている。古名には』

「三秀(さんしゅう)」(「楚辞」)

「芝(し)」(「爾雅」)

がある。色の異なる

「紫芝(しし)」

「黒芝(こくし)」

「青芝(せいし)」

「白芝(はくし)」

「黄芝(こうし)」

もあるが、「紫芝」は近縁種であるGanoderma japonicumとされ(この学名は古い資料では和名を「マンネンタケ」とする)、他の四色は二種の『いずれかに属する』個体を指している『ことが多い。成長し乾燥させたものを霊芝として用いるが、子実体は木質で直接の食用には適さず、適当な大きさに切り、熱水で煎じて抽出液を服用するほか、薬用酒とする。後漢時代(二五年~二二〇年)に纏められた「神農本草経」に『命を養う延命の霊薬として記載されて以来、中国ではさまざまな目的で薬用に用いられてきた。日本でも民間で同様に用いられてきたが、伝統的な漢方には霊芝を含む処方はない。子実体はさまざまな多糖類(β-グルカンなど)やテルペノイドを含』み、『抗腫瘍作用の報告は多い』ものの、『ほとんどは試験管や動物実験で、ヒトでの臨床報告は限られている』とある。なお、「青空文庫」の牧野富太郎の「植物一日一題」(昭和二八(一九五三)年東洋書館刊「随筆 植物一日一題」を親本とする一九九八年博品社刊「植物一日一題」底本)に、「万年芝」があり、そこには冒頭に、『今日はかつて昭和九年』(一九三四)『六月発行の雑誌『本草』第二十二号に発表せる左の拙文「万年芝の一瞥」を図とともに転載するために筆をとった』として、以下の語りがある。

   *

   万年芝の一瞥

 マンネンタケはいわゆる芝すなわち霊芝(レイシ)の一つで、菌類中担子菌門の多孔菌科に属し Fomes japonica Fr. [やぶちゃん注:底本のそれは斜体になっていないが(昭和九年当時は現行の表記規約は通用していなかった)、斜体に直した。]の学名を有するものである。これはその菌蓋(カサ)普通はその柄がその蓋の一方辺縁の所に着いているが、その多数の中にはその柄が菌蓋の裏面正中に着いて正しい楯形を呈するものが珍らしくない。そしてこの楯形品と普通品との間にはその中間型のものを見ることけっして珍らしい現われではない。私は今このような種々の型の標品を所蔵しているが、これはかつて常州の筑波山の売店で多数これを買いこんで来たものである。また私は幾年か前にこの楯形型のものを播州で得たこともあった。

 マンネンタケには別にサイハイタケ、カドイデダケ、カドデダケ、キッショウダケ、レイシなどの芽出度い名もあれば、またマゴジャクシ、ネコジャクシ、ヤマノカミノシャクシなどの形から来た名もある。

 中国の説では芝には五色の品があるということだ。この五色芝は小野蘭山は「仙薬ニシテ尋常ノ品ニ非ズ其説ク所尤モ怪シク信ズベカラズ」と書いているが、それはまさにその通りであろうと思う。

 我国の学者は上のマンネンタケを霊芝の中の紫芝にあてている。これは『本草綱目』に芝に五品あるとしてこれを青芝、赤芝、黄芝(金芝)、白芝(一名玉芝、素芝)、紫芝(一名木芝)に別っており、その紫芝をマンネンタケにあてたものである。

 中国の書物の『秘伝花鏡(ひでんかきょう)』の霊芝の文を左に紹介しよう、なかなか面白く書いてある。[やぶちゃん注:以下、この二箇所の引用に限っては、歴史的仮名遣が用いられているので、恣意的に漢字を正字化して、原拠に近づけた。引用元で表示不能字となっているそれも正字体で示した。]

靈芝、一名ハ三秀、王者ノ德仁ナレバ則チ生ズ、市食ノ菌ニ非ラズシテ、乃チ瑞草ナリ、種類同ジカラズ、惟黃紫二色ノ者、山中常ニアリ、其形チ鹿角ノ如ク或ハ繖蓋ノ如シ、皆堅實芳香、之レヲ叩ケバ聲アリ、服食家多ク採テ歸リ、籮ヲ以テ盛リ飯甑ノ上ニ置キ、蒸シ熟シ晒シ乾セバ、藏スルコト久フシテ壞レズ、備テ道糧ト作ス、又芝草ハ一年ニ三タビ花サク、之レヲ食ヘバ人ヲシテ長生セシム、然レドモ芝ハ山川ノ靈異ヲ稟テ生ズト雖ドモ、亦種植スベシ、道家之レヲ植ル法、每ニ糯米飯ヲ以テ搗爛シ、雄黃鹿頭血ヲ加ヘ、曝乾ノ冬笋ヲ包ミ、冬至ノ日ヲ候テ、土中ニ埋メバ自ラ出ヅ、或ハ藥ヲ灌イデ老樹腐爛ノ處ニ入レバ、來年雷雨ノ後、卽チ各色ノ靈芝ヲ得ベシ、雅人取テ盆松ノ下、蘭薰ノ中ニ置ケバ、甚ダ逸致アリ、且能ク久シキニ耐テ壞レズ、(漢文)

であって、これに付けて五色芝、木芝、草芝、石芝、肉芝の諸品が挙げられ、そのあとに下の文章がある。

芝ハ原ト仙品、其形色變幻、端倪スベキナシ、故ニ靈芝ノ稱アリ、惟有緣ノ者之レニ遇フコトヲ得ルノミ、採芝圖所載ノ名目ニ據ルニ、數百種アリ、茲ニ止ダ其十分ノ三ヲ錄シ、以テ山林高隱ノ士、服食ヲ爲ス參巧ノ一助ニ備フルナリ、(漢文)

 唐画中によく霊芝が描いてあるが、いつもその菌蓋上面に太い鬚線が描き足してあるのを見る。これは多分その蓋面へ松の葉が墜ちているに擬したものであろうか。これは画工であればよくそのワケを知っているであろう。

 芝の字はもとは之の字であって、これは篆文(てんぶん)に草が地上に生ずる形に象っての字である。しかるに後の人がこの字を借りてこれを語辞としたので止むを得ず、ついに艸をその字上に加えてこれを別つようにしたとのことであると見えている。

 芝について李時珍はその著『本草綱目』の芝の「集解(しっかい)」にこれを述べているが、その文中に[やぶちゃん注:同前の処理を施した。]「芝ノ類甚ダ多シ亦花實アル者アリ、本草ニ惟六芝ヲ以テ名ヲ標ハス然レドモ其種屬ヲ識ラズンバアルベカラズ、神農經ニ云ク、山川雲雨四時五行陰陽晝夜ノ精以テ五色ノ神芝ヲ生ジ聖王ノ休祥ト爲ル、瑞應圖ニ云ク、芝草ハ常ニ六月ヲ以テ生ズ春靑ク夏紫ニ秋白ク冬黑シト、葛洪ガ抱朴子ニ云ク、芝ニ石芝木芝肉芝菌芝アリテ凡ソ數百種ナリ云々」(漢文)の語がある。

 按ずるに中国で芝と唱えるものはその範囲がすこぶる広く、中には無論マンネンタケのような菌類もあるが、なお他の異形の菌類もある。また海にある珊瑚礁の一種であるキクメイ石の如きものも含まれているようである。また玉(ギョク)のような石もあり、また方解石(ホウゲセキ)のようなものもありはせぬかと思われる。また菌形を呈した寄生植物などもあるようである。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

ここで牧野は広義の霊芝類を「まんねんたけ」と称し、それらの異名として

「さいはいたけ」(形状のミミクリーから采配茸であろう)

「かどいでだけ」(門出茸)

「かどでだけ」

「きっしょうだけ」(吉祥茸)

を挙げ、また、形から命名したという異名の、

「まごじゃくし」(孫杓子)

「ねこじゃくし」(猫杓子)

「やまのかみのしゃくし」(山の神の杓子)

なども出している。但し、この後の「形状から」とするものは、レイシとは同属の近縁種である、

マゴジャクシ Ganoderma neo-japonicum (シノニム:Polyporus (Amaurodermus) residens

であって(形状がレイシとは全く異なる)、牧野が「マンネンタケ」の学名として示した Fomes japonica Fr. というのも、実はこのマゴジャクシのシノニムである(「生存圏研究所データベース」のこちらを参照)。

『「本草」に「五色芝(ごしきだけ)」といふ仙藥なり』『商山(せうさん)の四皓(しこう)』(歴史的仮名遣は誤り)『「芝(し)」を採り、茄(くら)ふてより、群仙の服食(ふくしよく)とす』「本草綱目」の巻二十八の「菜之五」の「芝栭(しじ)類」(「芝」は霊芝などに代表される「きのこ」、「栭」はキクラゲ類を指す)の「芝」の項に出る。その「釋名」最後で時珍は、

   *

昔、四皓(しかう)、芝を采り、羣仙、服食すれば、則ち、芝も亦、菌の屬にして食ふべき者なり。故に移して「菜部」に入れり。

   *

と述べているのを受けたものであろう。また、時珍は「五色芝」というのは、五行に配された性質を持つとし、特に「青芝」でそれを説明している。その直後にしかし、ここで示すように五色に加えて「紫芝」を出して、後の最後に「紫芝」の項と、「附方」に「紫芝丸」を出すという、いかにも判りにくい解説をしている。

「商山(せうさん)の四皓(しこう)」歴史的仮名遣は「商山四皓(しやうざんしかう)」が正しい。秦代末期に乱世を避け、陝西省の商山に入った東園公・綺里季・夏黄公・甪里(ろくり)の四人の隠士で、皆、鬚眉(しゅび)が皓白(こうはく:真っ白)の老人であったので、かく称する。

『「延喜式」にも「祥瑞(しやうすい)」の部に見たり』「祥瑞」(しょうずい)は王者に徳があった場合に天がそれを賞して徴(しるし)を現わすとする思想に基づくもので、その品目が確かに「延喜式」巻二十一の「治部省」の「祥瑞」に列挙記載されている。そこには特異な動植物や、普通ではないと判断された自然現象、及び、実際には存在しない想像上の幻獣や、超常現象も含まれている。それらを現認し、捕獲・取得・目撃した場合は、朝廷へ上納・報告する義務があったのである。

『「瑞命禮(すいめいれい)」に、『王者、仁慈なれば、芝草(しさう)、生ず。』』グーグルブックスの「新雅堂寄耦展彙」という清代の漢籍のここに、当該文字列を見出せたが(画像)、「瑞命禮」(ずいめいれい)も「新雅堂寄耦展彙」も、まるで判らん。

「マヒタケ」タマチョレイタケ目トンビマイタケ科マイタケ属マイタケ Grifola frondosa

「マゴジヤクシ」「孫の手」に似ていて、しかも霊薬なれば、「孫や老人の痘瘡を搔く」というのは類感呪術的用法として頗る腑に落ちる。

「胡孫眼(さるのこしかけ)」菌蕈綱ヒダナシタケ目サルノコシカケ科 Polyporaceae のサルノコシカケ類。先のマイタケは本科であるが、通常、本科の種は「きのこ狩り」の対象にはならない。但し、漢方薬や民間薬として古くから用いられてはいる。この漢名については、こちらの個人記事に、『胡孫は猿のことである。眼とは傘の裏の管孔を意味しているのだろうか』とあった。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (6) 三比事に書かれた特種の犯罪方法 一

 

      三比事に書かれた特種の犯罪方法

 

        

 

 櫻陰、鎌倉、藤陰三比事に描かれた犯罪方法に就て考へて見るに、これといふ珍らしいものはないけれど、中には多少奇拔なものがないわけでもない。奇拔なといつても西洋の探偵小說などを讀んだ眼から見れば何でもないけれど、兎に角、その當時では多少目新らしく思はれたにちがひない。尤も三比事の作者が實際にあつたことを物語としたか、或は、全く空想で拵らへあげたのかわからぬけれど、なるべく奇拔な謎を提出してそれに自然な、合理的な解決を與へようと欲したことは明かてあつて、このことは、今の探偵小說作家の態度と少しも變らないのである。

 さて、三比事を讀んで氣のつくことは、他人の迷信を應用する犯罪物語が、三比事のどれにも載せられてあることである。これはその昔實世界に於ても、極めて屢ば行はれた所であつて、現今に於ても盛んに行はれて居る。かの有名なロシアの怪僧ラスプーチンの犯罪はこの種のものに屬せしめてもよく、近ごろ日本ても和製ラスプーチンとか言つて騷いだことなどを考へ合せて見れば明かである。幽靈や八卦をだしにつかふ犯罪などは、人間の存在する限り、恐らくその跡を絕つまいと思はれる。私は左に三比事に描かれた三種の物語を紹介しよう。櫻陰比事に、『參詣は枯木に花の都人』と題して次の物語がある。[やぶちゃん注:「ラスプーチン」グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン(Григорий Ефимович Распутин/ラテン文字転写:Grigorii Efimovich Rasputin 一八七二~一九一六)はロシアの修道僧。ニコライⅡ世の皇后アレクサンドラの信頼を得て、宮廷内に絶大な権力をふるった。第一次大戦中に親独派と結んで講和を図ったとして、反対派の貴族に暗殺された。毒薬を盛られてもなかなか死ななかったり、所謂、怪僧のチャンピオンとも言うべき人物である。

「和製ラスプーチン」怪しい占い師飯野吉三郎(慶応三(一八六七)年~昭和一九(一九四四)年)は美濃国岩村藩士族出身の宗教家で、皇室や政界・軍人に取り入り、後に「日本のラスプーチン」と呼ばれた。当該ウィキによれば、若い頃に『父が病没し』、『早くに自立の必要に迫られたため』、二十『歳の時に上京した』。『その後、何を生業としていたかは不明であるが、しばらくしてから麹町に家を構え、占い師となった。元々大柄で独特の音声を発することから』、『話術に妙な説得力があり、占い師に向いていたという。やがて、同郷の』女子教育の先覚者で実践女子学園の基礎を築いたことで知られる『下田歌子』(嘉永七(一八五四)年~昭和一一(一九三六)年)『を頼り、その紹介で皇室や政界に食い込むようになる』。特に明治三七(一九〇四)年に「日露戦争」時の満州軍総参謀長『児玉源太郎の依頼に対し、日本海海戦での勝利を時間』・『場所まで正確に当てたことから、多数の貴顕の信任を得るようになる。それで得た金を』、実業家金原明善(きんぱらめいぜん)『と組んで満州へ投資し、これも当たったことから』、『莫大な財産を得る。それを元手にし、東京・穏田に』一千『坪の土地を購入し』、『ここに新興宗教団体「大日本精神団」を設立』した。『住居から「穏田の神様」「穏田の行者」ともいわれた』。しかし、大正一四(一九二五)年に「白木屋事件」や「旭事件」『などの詐欺事件に荷担していたとされ』、同年三月に『東京地検は飯野を起訴した』。『証拠不十分で不起訴となったものの』、『以前から乱行が噂されて』、『世間から見放されていたことも加わり、一気に信者が離れ、不遇な晩年を送った』。戦後になって、かの「大逆事件」の『でっち上げに関与していたことが明らかとなり』、『現在は「宗教家の名前を借りた香具師であった」というのが一般的な評価である。この事件とも関わりのある下田歌子とは愛人関係にあったという説もある』。『また、貞明皇后に取り入り、摂政皇太子(後の昭和天皇)の洋行を』「神からのお告げ」『として中止させようとしたという』。『飯野の持っていた人脈は外国人にとって魅力的であり、高宗』(朝鮮王朝第二十六代国王・後の大韓帝国初代皇帝)『や孫文』『も利用しようとしたことがある』とある。]

『昔、都の町より萬人信心して松の尾の奧山へ參詣《まふで》する事あり、旅僧《りよそう》こゝに庵を結び、諸病を一日の内に平癒いたさせけるとの取沙汰、次第に寵堂《こもりだう》建て續きてなほ奇瑞をあらはし、膝行《いざり》は立ちて歸る、啞《をし》は又ものいひ、聾《つんぼう》は人の言葉を通じさせ、之を藥師如來の如く申立て、晝夜《ちうや》人の山、谷は切草履《きれざうり》にして埋みぬ、其頃錢《ぜに》の相場のあがりしは毎日此所に散錢《さんせん》とまるゆゑぞ[やぶちゃん注:賽銭(さいせん)がここに溜まってしまうからだ。]と、兩替屋仲間に心をつける程なり、或時此法師のいへるは、我諸天に大願あり、これ皆衆生の爲なり、志《こころざし》成就するに就《おゐ》ては當山の諸木立枯《たちがれ》して、明《あけ》の春また原《もと》の葉色を顯すべしと語りぬ、此言葉に違《たが》はず、見え渡りたる梢自然《おのづから》枯木となれば、隨分賢き人もこれに疑《うたがひ》晴れて崇めければ、愚かなる人はなほ感淚を流しける、此坊主賣僧《まいす》にて最前の病人も仲間の慥《こしら》へもの、散錢取り込みよい程に立退く用意する時、山里は構はざりしに、麓の里人申しけるは此山の木にて海道筋の橋を先年より懸け來りたる所に、諸木立枯れして、末々の事心許《こころもと》なし、御法力にて舊《もと》の如くになし給へと、百姓多勢に催促せられ、俄かに立退く事も散錢のしまひ方なく、とやかく思案するうちに申上げられ、御前の沙汰になりて出家里人を召され、右の次第を御聞き屆け遊ばされ、それ草木《さいもく》も心ありて萬花《ばんくわ》の色を顯はし、梢蔓《はびこ》れば自然《しぜん》と國土の爲になるに、なんぞ若木を枯《から》す故なし、汝其以前は醫師の賣僧になれるなるべし、仔細は肉桂《につけい》[やぶちゃん注:双子葉植物綱クスノキ目クスノキ科ニッケイ属ニッケイ Cinnamomum sieboldii 。明治書院平成五(一九九三)年刊の「対訳西鶴全集」第十一巻「本朝櫻陰比事」の注に、『『本草綱目』に『呂氏春秋』・『雷公炮炙論』を引いて、肉柱はよく他木を害すとある』とある。]を立木の皮の中に籠らせ置けば、何によらず其の木の枯るゝといふ事を鍛鍊して[やぶちゃん注:習い覚えて。]、人の氣を取ること[やぶちゃん注:民草の人気を取ろうとした。]無用の企《たくみ》世の費《つひへ》なる曲者なり、世の仕置者なれども一度出家の形をいたせし身なれば、一命は助け置くなり、これより直ぐに丸裸になして五畿内を拂ふべし、散錢は少しも相違なく勘定を仕立て、これを九村として預け置き、永々道橋《みちはし》を懸け渡すべしと仰せ付けられける彼の法師御目がねに違はず、身を長羽織《ながばおり》[やぶちゃん注:当時の医師の服装。]になして伊勢の國山田にて朝脈《あさみやく》[やぶちゃん注:早朝に病人の家を回診すること。一般に主治医の代役が行った。]にまかりけるとなり。』[やぶちゃん注:原文は巻四の「參詣は枯木(かれき)に花の都人」で国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。]

 詐欺的奇蹟を應用して金錢を奪ふ犯罪は他人の迷信を應用する犯罪のうち最も普通なるものであるに拘はらず、現今に於ても依然として盛んに行はれて居るところを見ると、如何に人間といふものがあまく出來て居るかを知ることが出來る。『鎌倉比事』にも、『心を磨く寳珠の曇』と題し次の物語がある。[やぶちゃん注:以下の引用は底本では全体が一字下げになっている(一部ではそれがない)。国立国会図書館デジタルコレクションのそれでは、巻五の「㊁心(こゝろ)を磨(みがく)宝珠の曇(くもり)」である。]

『鎌倉藥師堂の谷《やつ》の邊《へん》に、淨密《じやうみつ》といふ獨り住みける僧あり。庵《いほり》の前に優曇華《うどんげ》の咲《さき》たりとて、近國在々所、聞つたへ聞きつたへ貴賤男女《なんによ》群集《ぐんしゆ》して是を見ること夥し。最明寺殿此よしを聞たまひ優曇華とやらは世に稀なる事にたとへたるに、今如何なるいはれによつて咲べしとも思はれずして、近弘《きんこう》上人を召して優曇華の事をたづねらる。上人申されけるは、抑《そもそ》も優曇華と申すは、此世界の人の壽《いのち》八萬歲の時にあたつて、轉輪聖王《てんりんしやうわう》とて須彌《しゆみ》の四州を領したまふ威德不思議の大王世に出給ふ。一千人の皇子《わうじ》を持ちたまひ七寶《しちはう》を身に帶し、不足なること一つもなし、國ゆたかに民賑ひ、風枝《かぜえだ》をならさず、雨つちくれを破らず、五穀は耕作せざるにおのづから地より生じて糠糟《ぬかかす》なし[やぶちゃん注:役に立たないものは一つもない。]。衣裳は枝にあらはれ裁縫といふふ事もなし輪王すなはち車に召されて須彌の四州をめぐりたまふに、大海の渚黃金の砂の上に三千年催して優曇華の開き出で、盛りは久しからず、干汐《ひしほ》に咲いて滿汐に散り候、かゝる仔細は人の知る事にあらずと言はれける時、扨そのうどんげは如何なる花の形にてか、木にて候や草にて候やと問れて此上人屹度とつまりて、それまでは覺えずとて御前を立てかへられたり。扨も麁末《そまつ》なる學者かなと笑ひたまひて、靑砥藤綱御會議[やぶちゃん注:原拠を見ると、『僉議(せんぎ)』の誤植である。]につかはされければ、芭蕉の花の咲きたるにて、今は大方散り果たりとぞ言上す。芭蕉の花の咲くことは珍らしければ、世の人是をうどんげといぴならはして、貴賤群集して見に來るも尤も之[やぶちゃん注:原拠を見るに、『也』の誤植。]とて何の御沙汰もなかりけり。爰に天水坊《てんすいばう》といふもの、都東山六道小野篁の夢想にさづかりし玉とて莊嚴《しやうごん》勿體《もつたい》よくこしらへ、此玉にむかひて一念のさんげし、念佛を唱へて目をひらきて、其身の玉にうつる姿を見れば、後世《ごぜ》の障《さはり》なき人は正しくうつる。又、未來の罪ふかき人は、其身逆《さかさま》にうつりて、現世において善惡の二つを見せしめたまふ。いよいよ極樂往生すべき人は報恩謝德の念佛を唱へ、罪ふかくして其身さかまさ[やぶちゃん注:ママ。「さかさま」の誤植。]にうつれる人は減罪生善《めつざいしやうぜん》のために念佛怠ることなかれ、かの地獄の主焰魔王の前にたておかるゝ淨破利《じやうはり》の鏡になぞらへ、善惡光明玉ともづけて、在々里々を經めぐりて老若男女ひとりづつかの玉に向ひて拜するに、始めをがみし人も逆樣にうつりしを後に拜みし人にかくし、後に拜せし人も逆さまになる事を始めの人にかくし、いづれも我ばかりこそ罪ふかくして逆さまにうつると、人は皆正《たて》にうつると、心から身を恥ぢて、かの僧に過分の布施を運び、滅罪の緣を結ぶ、かくすること一村に二日三日四日とは一所に居《ゐ》とまらず、その所を早く立のき、五里七里道をへだてたる在々所々へ立こえ、群集をさせても、所の守護よりとがめのない内に立さり、大分の金銀衣服を、ほしい顏もせずにむさぽり取る由、鎌倉へきこえて、武士をつかはし、この僧を召され、最明寺殿光明玉を御覽あるに、御形逆さまに見えければ、かの僧を强くいましめ給ひて仰せらるゝには、惣じて水晶の丸きにて人の形を見るときは逆さまにうつるもの也。畜生の形は眞正にうつる。これによつて狐狸の人に化たるには是をかゞみに見せて正すなり。皆よりて形を見よとて、御近習の衆御覽するに、いづれも形さかさまにうつり正にうつるは一人もなし、されば後生罪なき善人とて諸人を引導する僧の形を見せよとて、玉の前に引すゑさせ僧が顏を見るに、さかさまにぞみえにける。遂に由井ケ濱に引出し、首をはねられける。』[やぶちゃん注:「鎌倉藥師堂の谷」現在の覚園寺のある谷戸の旧名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。覚園寺の前身である北条義時が私費を出して建立した大倉薬師堂があったことによる。なお、三人の僧が名で登場するが、聴いたことがない。皆、筆者の創作人物であろう。]

 水晶の丸きで人の形を見れば逆まに見え、狐狸の人に化たるを見ると正に見えるとんも最明寺殿の仰せは、もとより信を措くに足らぬけれども、例へば凹面鏡を『善惡光明玉』として使川するならば、前記天水坊のやつたやうな詐欺は出來る筈である。そして、この詐欺に於て、人間のデリケートな心理狀態、卽ち逆さまに映つたのを心が惡いからだと考ヘて、それを他人に語ることを欲せぬ性質が利用されて居るところは、頗る巧妙なものだと思ふ。若し詐欺方法を『上等、下等』て區別することが許されるならば、かういふ方法をこそ『上等詐欺』といふべきてあらう。詐欺については、後に詐欺を描いた文學を論ずる際に委しく述べるつもりであるから、こゝではこれ以上論じないが、いづれにしても、かうした犯罪は、今後の探偵小說の題材としても屢ば選ばるゝであらう。

 神佛の御告げと僞つて人に色々のことを言ひふらし、以て巧みに自己の貪欲を滿足せしめようとする犯罪も、迷信を應用した犯罪と見做して差支ないであろう。藤陰此事には『仙術を賣る志津山村の百姓』と題し次の物語がある。[やぶちゃん注:以下の引用は底本では、同じく全体が一字下げ。これは巻三の「㊄謀斗(ばうけい)の通(つう)を失ふ仙人」。ここと、ここと、ここと(見開き挿絵)、ここと、ここ。]

『乍恐言上仕候、私儀は志津山村《しづやまむら》の百姓良太夫と申者にて御座候、しかるに此志津山の麓の水海に、いつ頃よりか、ひらだぶねを浮べ、白髮なる老翁これに乘り、平生《へいぜい》釣を垂れ、詩歌をうたひたのしみ候體《てい》、さながら范蠡《はんれい》が五湖に竿さし風月に嘯《うそぶき》きたるも、かくやと奉存候たゞ人ならぬ有樣に、こゝろある百姓舟のほとりに近づき候へば、舟をはるかに退《しりぞ》け物言ひかはすもむづかしき風情に相見え候故、何人《なんぴと》と名を尋ぬるものなく候、推量仕るに仙人か神ほとけの變化《へんげ》かと存ずるばかりにうち過ぎ候所に、當村の百姓太郞兵衞と申す者、ある時酒をたづさへすゝめ候へば、こゝろよく酌《くみ》かはし、雜談常の人間にかはる事なく、それより折々かの舟にのりうつり、酒宴をもよほし、うちとけてかたり申され候は、某《それがし》は大和かつらぎ金峯山《きんぷせん》よし野大峯に年久しくこもり、神佛山道[やぶちゃん注:「山」は「仙」の誤植。]一致のさとりを開き、近年此湖水に逍遙す、されば此志津山の奧に楠《くす》の大木《たいぼく》の小影《こかげ》にほこら一つあり、これ此國の守《かみ》淺江備前守先祖靈屋《たまや》なり、一亂の後その子孫といへども知るものなし、過ぬる夜、此靈神《れいしん》形《かたち》をあらはして某に告げられしは、近き頃百五十年忌にあたりて、上天の果《くわ》ありといへども鬪諍《とうじやう》の餘執《よしふ》にひかれて、いまだ三熱《さんねつ》のくるしみをまねかれず、此たび神社を再興し、一宇の精舍を建立し、百石の田畠《でんぱた》を寄進し、永代法燈斷絕なく、すなはち某を開基の導師にたのむ由、子孫淺江備前に勸化《くわんげ》すべきよし、まのあたり告げられしなり、國の守もし違背あらば、淺江の家滅亡ちかきにありとかたり申され候を、右太郞兵衞承たるよし申候故、右の神社佛閣寺頷等、御寄進御建立仰せつけられ候はゞ、御國長久の瑞相《ずいさう》と奉ㇾ存候故、乍ㇾ恐御注進申上候以上

  月  日     志津村 十郞太夫判

 淺 江 大 守 樣

   御近習御披露

 大守聞し召し上られ、注進の所亦神妙なり、しかればその老人と太郞兵衞を召しつれまゐるべきよし、かしこまつて兩人を同道しけるに、老翁の體相《ていさう》いと殊勝に八字の眉霜ふり、縞衣《かうえ》に錫杖、かしらに雪つもり、役《えん》の優婆塞《うばそく》の木像いきてはたらくがごとく、寬々《くわんくわん》と[やぶちゃん注:いかにもゆったりと。]敷臺に安座す、大守仰出されけるは、其方は此淺江の家にいかなる筋目《すぢめ》ある人ぞと御たづねあれば、老人こたへて、お家に所緣《ゆかり》はあらずと申す、時に太守、然《しか》れば先祖の靈神《れいしん》、まさしく國の滅亡子孫斷絕せん事を告げんとならば、ゆかりある某を始め、譜代忠臣の者、血脈《けちみやく》相續の者にはいかなれば遠慮して、ゆかりなき其方に神社建立の望みをたのむベきや、さらに承引するにおぼつかなし、まづその方《はう》佛者ならば玄々微妙《げんげんみみやう》の道理を說《とく》べし、もし正法《しやうぼふ》は文字《もんじ》によらずといはゞ平話《へいわ》の一句を聞かん、若《もし》又仙人ならば雲に乘り地をくゞる通力《つうりき》を一見すべし、もし又神道不測《しんだうふそく》の奧義に達せば、その玄談《げんだん》を聞べし、さなくば形をつくり、愚者をたぶらかすの僞者《いつはりもの》たるべし、まつすぐに白狀せざるにおいては、水火の呵責にかけて問《とふ》べしと仰られければ、老翁俄にふるひ出し、夢物がたりをあれなる太郞兵衞に、ちよつといたし候ばかりにて御座候、もとより夢のことなれば、何かやくたい御座あるべし、わたくしは新言祕密護摩の灰のかしらなれば、首の儀は御たすけと申せば、大郞兵衞も取持たる同罪に、五ケ國追放せられけるとなり。』[やぶちゃん注:「志津山村」岐阜県揖斐郡揖斐川町志津山があるが、ここに出る「淺江備前守」というのは判らない。前者がモデル地であるとしても、揖斐川直近ではあるが、湖水は今は見当たらない。「ひらだぶね」「艜船」「平田船」「平駄船」は、上代から近世に至るまで、大型の川船(かわぶね)として貨客の輸送に重用された吃水の浅い細長い船。上代から中世までは複材刳船形式が用いられ、近世以降は比較的薄板で作った平底の構造船形式に発展し、特に利根川・荒川筋で使われた上州艜・川越艜が代表的。船型や大きさにより中艜船・似(にたり)艜船・茶船造艜船・修羅艜船などの呼称がある。但し、挿絵のそれはいかにもな小さな舟である。「三熱」仏語。熱風や熱砂で皮肉や骨髄を焼かれる苦、悪風が吹き起こって居所や衣飾などを失う苦、金翅鳥(こんじちょう)に子を食われるそれの三つの激しい苦しみ。]

 この外に、櫻陰比事に、『煙に移氣の人』と題し、山伏が奇蹟を示して人々を斯く犯罪があるが、以上の三つの例によつて、その當時に於ける迷信利用の詐欺がどんなものであつたかを略《ほ》ぼ知ることが出來ると思ふ。何となれば、たとひ作者の空想の所產であるとはいへ、小說はある程度迄、時代の反映と見て差支ないからである。[やぶちゃん注:「煙に移氣の人」は巻五の七。「けぶりにうつりぎのひと」と読む。国立国会図書館デジタルコレクションのここから読める。]

日本山海名産図会 第二巻 芝菌品(たけのしな)(=茸蕈(きんじん)類=きのこ類)

 

芝菌品(たけのしな)

地に生(お)ふるを「菌(きん)」、また、「蕈(じん)」といふ。木に生ふるを「䓴(せん)」と云ふ。菌は「和名鈔」『タケ』、「䓴」を『キノミヽ』と訓(よ)めり。菌に數種あり、「木菌(もくきん)」【「キクラゲ」の類。】・「士菌(ときん)」【つちより生ずる類。】・「石菌(せききん)」【「イハタケ」の類。】等(とう)にして、品數(ひんすう)、甚だ多し。是れ、宋人(そうひと)陳仁玉(ちんんしんぎよく)、「菌譜」を著はして、甚だ詳(つまびら)かなり。「本草」に云、『凡そ、菌(きん)、六、七月の間(あいた)、濕熱(しつねつ)蒸(む)して山中(さんちう)に生ずる者、甘く滑らかにして食ふへし』云々。しかれども、「菌譜」・「本草」に載するもの、本朝に在る所、多くは同しからずして、悉くは、辨じがたし。○是れを俗に「クサビラ」とはいへども、「和名抄」にては、菜蔬(さいそ)を『クサビラ』といへり。中國及び九刕の方言には『なは』といふ。尾張邉(へん)には『みゝ』と云う。

[やぶちゃん注:所謂、「きのこ」(茸・菌・蕈)である。ウィキの「キノコ」によれば、「きのこ」とは『特定の菌類のうちで、比較的大型の(しばしば突起した)子実体』或いは『担子器果そのものをいう俗称であ』り、『また』、『しばしば』「きのこ」『という言葉は特定の菌類の総称として扱われるが、本来は上述の通り』、人為的分類に於けるある一群の『構造物』に対して名付けられたものでしかなく、『菌類の』生物学的な『分類のことではない』。『子実体を作らない菌類は』、所謂、「黴(かび)」である。「きのこ」類は『植物とは明確に異なる』ものである。『ここで』言うところの『「大型」に』は『明確な基準はないが、肉眼で確認できる程度の大きさのものを』「きのこ」と『いう場合が多い。食用、精神作用用にもされるが』、『毒性を持つ種もある。語源的には』、「木」+「の」+「子」」で『目に見える大きさになる子実体を持つ菌は、担子菌門 Basidiomycota か』、『子嚢菌門 Ascomycota に属するものが多い』。『日本では約』三百『種が食用にされ』、その内、『十数種が人為的にキノコ栽培されている』。『日本では既知の約』二千五百『種と』、その二~三『倍程度の未知種があるとされ、その中でも、『よく知られた毒』きのこは約二百種に上り、その内の二十種ほどが『中毒者が多かったり』、『死に至る猛毒がある』とある。

「䓴(せん)」は後に出る通り、中国でも「木耳」の意とする。而してこれは日中に於いて、種としての菌界担子菌門真正担子菌綱キクラゲ目キクラゲ科キクラゲ属キクラゲ Auricularia auricula-judae に当てられている。当該ウィキによれば、『学名の内、属名はラテン語の「耳介」に由来する。種小名は「ユダの耳」を意味し、ユダが首を吊ったニワトコの木からこのキノコが生えたという伝承に基づく。英語でも同様に「ユダヤ人の耳」を意味するJew's earという。この伝承も』あることから、『ヨーロッパではあまり食用に』されていない、とある。この種小名は差別的で、私はシノニムとして残しつつ、変更すべきものと考えている。

「和名鈔」源順の「和名類聚抄」。「抄」は「鈔」とも表記する。巻十七の「菜蔬部第二十七」の「野菜類第二百二十九」に、

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菌(タケ)【「䓴(キノミヽ)」。附(つけたり)。】 「爾雅注」に云はく、『菌【音「窘(キン)」。具(つぶさ)に「菜羹類」[やぶちゃん注:野菜の羹(あつもの)類。]に見たり。】は形、盖(ふた)に似たる者なり。』と。「四聲字苑」に云はく、『䓴【音「軟」。和名「木乃美々」。】は、木耳。卽、木菌(きのたけ)なり。狀(かたち)、人の耳に似て、黑色。』と。

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「イハタケ」現行の狭義の種としては、「岩茸」「石茸」として、深山の岩壁に着生するくしゃくしゃした薄い皮革状の地衣類の一種(東アジアの温帯に分布し、中国・朝鮮・日本では山菜及び生薬として利用するところの、子嚢菌門チャシブゴケ菌綱チャシブゴケ目イワタケ科イワタケ属イワタケ Umbilicaria esculenta があり、概ね、ここでも、この類をイメージしてよかろう。当該ウィキによれば、径り数センチメートルから十センチメートルほどの偏平な葉状地衣類で、最大三十センチメートルになる。『上面は灰色、下面は黒くとげ状の毛が密生する。裏面の中央部にサンゴ状に枝分かれした突起があり、ここで岩に固着する。革状で、乾燥すると』脆い。『東アジアの温帯の日当たりがよい岩壁に分布する。中国では江西省、安徽省、浙江省が主産地で、廬山、黄山、九華山などの観光地として知られる山で、特産品として扱われている。特に廬山では』、「石魚」(スズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科 Gobionellinae ヨシノボリ属ゴクラクハゼ Ctenogobius giurinus 。本邦にも秋田県及び茨城県以南の本州・四国・九州・南西諸島の汽水・淡水域に棲息)・「石鶏」(両生綱無尾目カエル亜目アカガエル上科ヌマガエル科ヌマガエル亜科 Quasipaa 属オオトゲガエル(スピノーザトゲガエル)Quasipaa spinosa とともに、『「三石」と称され、名産品となっている。雪などの影響がなければ』、『年中採取できるが、断崖絶壁等の採取が困難な場所に生育するため』、『採取には多大な労力を要する』。『成長が』一『年でわずか』一ミリメートル『程度と非常に遅いため』一キログラムで一『万円以上の値がつくほど』、『高価である。中国では、江西料理や安徽料理で、炒め物、煮物、シロップ煮などに使われる。日本では、ゆでて酢の物などにして食べることが多い。味は余りないので、調味料でしっかり味をつけるのが普通である。長野県北相木』(きたあいき)『村には、味付けしたイワタケを餡にした「岩茸まんじゅう」というものがある』。『乾物として流通しているので、まず』、『塩を少し加えたぬるま湯に付けて戻し、もみ洗いして細かい砂を洗い落とす。裏側の毛があると食感が悪いので、こすり落とす』。『中国では生薬としても利用される例があ』り、元の呉瑞が編纂した「日用本草」(一三二九年刊)では『「性寒、味甘、無毒」とし、「清心、養胃、止血」の効能があるとしている。慢性気管炎に有効との報告もある。成分として』、地衣類に多く見られる安息香酸の一種『ギロホール酸』(Gyrophoric acid)・『レカノール酸』(Lecanoric acid)『を含む事が知られている』。『広重の浮世絵にあるように』(リンク先に有り)、『その採取は古来より大変危険なものであり、しばしば転落事故などで命を落とすものも多かった。大分県には』「吉作(きっさく)落とし」と『呼ばれる悲劇的な民話が残っている』とある。最後の「吉作落とし」は「ピクシブ百科事典」のこちらに詳しい。私も「まんが日本昔ばなし」のそれを見て、印象深い。

『宋人(そうひと)陳仁玉(ちんんしんぎよく)、「菌譜」』南宋の官吏で学者であった陳仁玉(一二一二年~?)の撰で一二四五年に成立。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで「欽定四庫全書」版影印で読める。維基文庫版の電子化と合わせて見るとよかろう。

『「本草」に云、『凡そ、菌(きん)、六、七月の間(あいた)、濕熱(しつねつ)蒸(む)して山中(さんちう)に生ずる者、甘く滑らかにして食ふへし』「本草綱目」では巻二十八の「菜之五」の「芝栭(しじ)類」(「芝」は霊芝などに代表される「きのこ」、「栭」はキクラゲ類を指す)には本見出しで十五種(その中にさらに四種を附している)を立項する。芝・木耳・杉菌・皁角蕈・香蕈・葛花菜・天花蕈・蘑菰蕈・雞㙡・舵菜・鬼葢・竹蓐・雚菌・地耳・石耳である。但し、「菌」の「集解」には『「抱朴子」に云はく、「芝は石芝・木芝・肉芝・菌芝、有り。凡そ數百種なり」』と記してある。但し、作者の引用は不全で、完全な同一文字列を見出せない。思うに「香蕈」(担子菌門菌蕈綱ハラタケ目キシメジ科(或いはヒラタケ科・ホウライタケ科・ツキヨタケ科)シイタケ属シイタケ Lentinula edodes )の「集解」辺りを恣意的にいじくったもののように思われる。

「クサビラ」小学館「日本大百科全書」によれば、『食用となる草の古称。「草枚」「草片」の義という。野菜、山菜のすべてにいい、「あおもの」というのも同じとみてよい。また』、『キノコ類のうち、木に直接寄生しないマツタケ、シメジ、ショウロ、ハツタケなどをいい、木に寄生するシイタケ、エノキタケを「木の子」といって区別した。なお、伊勢』『の斎宮(さいぐう)の忌みことばでは宍(しし)(獣の肉)をさし、盗人仲間の隠語では、その形が似ているところから菅笠(すげがさ)をいう』とある。

『「和名抄」にては、菜蔬(さいそ)を『クサビラ』といへり』「和名類聚抄」巻十七の「菜蔬部第二十七・葷菜類第二百二十五」に、

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葷菜 「唐韻」に云はく、『葷【音「軍(くん)」。今、案ずるに、大小の蒜(ひる)の總名なり。】は「臭菜」なり。』と。「兼名苑注」に云はく、『草に間(まぢ)へ食ふ。「菜蔬」と曰ふ【「在」「疎」二音。和名、「菜蔬」・「久佐非良」。】。』と。

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とある。

「中國及び九刕の方言には『なは』といふ」小学館「日本国語大辞典」では、「なば」で見出しとし、『「きのこ(茸)」の異名』としつつ、「方言」の条で、『きのこの笠』(島根県)・『きくらげ』(福岡県)・『まつたけ(松茸)』(奈良県・広島県)とし、次に『きのこ類の総称』として中国及び九州として多くの採集地を掲げてある。「語源説」には『クサヒラの反カハの転、あるいはナカヒラ(中平)の反〔名語記〕』及び『滑生の義〔大言海〕』とある。

「尾張邉(へん)には『みゝ』と云う」小学館「日本国語大辞典」では、「耳」の最後に「方言」として『きのこ(茸)』と掲げるが、最終地は佐渡・石川県珠洲郡・但馬である。ウィキの「ハツタケ」(担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ベニタケ目ベニタケ科チチタケ属ハツタケ Lactarius hatsudake )によれば、『北陸地方(富山県・石川県など)では「まつみみ(なまって「まつみん」・「まつめん」とも)」と呼ぶ地域がある』とある。但し、私の妻は私より一つ年上で生粋の名古屋人であるが、「きのこ」を「みみ」と呼ぶことはないとはっきり明言した。]

2021/07/13

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (5) 三比事に書かれた探偵方法 三

 

        

 

 最後に『手がかり』を基として、推理によつて犯人を探偵する方法に就て述べよう。これは前にも述べたごとく三比事を通じて話の數が比較的に少いのである。前章に私は、いづこともなく駕籠で連れられて行つた醫師が、石橋の獅子の笛が隣家で聞えたといつた言葉から、地頭が犯人の住家を搜し當てるといふ藤陰比事の話を紹介して、板倉伊賀守の裁判談の燒直してあらうと言つたが、櫻陰比事の中にも同じ話があるから一寸紹介して置かう。やはこれも板介伊賀守の裁判談の燒直してあらう。題は『大事を聞き出す琵琶の音』といふのであつて、一條のある外科醫がどこともなう連れられて行つて二十日ばかり滯在し、金瘡《きんさう》の療治をさせられて歸される。この事を訴へ出ると裁判官は、何か先方て變つたことはなかつカかとたづねる。醫師は、窓から山が見えたこと、月夜に琵琶の音をきいたこと、月の二十三日夜に、一晚中、山で群集の聲がしたことを語る。裁判官はそれによつて、山の群集を愛宕の參詣と判斷し、後、京中の琵琶法師をたづねて、近い内に嵯峨へ招かれたものをさがし出し、遂に金瘡療治を賴んだものたち――卽ち盜賊――を搜し當るといふのである。[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから原文が読める(巻四の「九」)。これはメインが悪人連中に殺された者たちの仇討ちを絡めたもので、飽きさせない展開となっている。]

 藤陰比事の中には、盜人から切り取つた片腕によつてその盜人をアイデンチフアイする[やぶちゃん注:identify。割り出す。特定する。]物語が書かれてある。土藏の屋尻を切る音で土人が眼をさまして樣子をうかゞふと、盜人は、切口から片手をさしこんで、金銀の革袋を盜み出さうとしたので、主人は飛びかゝつてその腕をつかんだが、先方は大力で今にも振りはなしさうになつたから、已むを得ず刀でその腕を切り落すと、盜人は一目散にどこかへ逃げて行つた。そこで主人はその腕をもつて地頭に訴へ出ると、地頭はそれを見て、太皷師だと判斷した。といふのは指ごとにたこがあつたからで、それから眞犯人を逮捕することが出來た。[やぶちゃん注:これは巻四の「㊀詮義に手を盡す片腕」。ここと、ここと、ここと(見開き挿絵)、ここ。]

 指のたこだけで太皷師だと判斷することは出來さうもないことだが、兎に角手がかりによつて判斷した好箇の例である。然し同じく藤陰比事にある『身の上知らぬ五助が呼聲』といふ物語りは、人の言葉づかひを手がかりとして判斷した最も興味ある例であつて、現今の探偵の參考にもなり得ると思ふ。[やぶちゃん注:私が参考に閲覧している「国文研データセット」の宝永六(一七〇九)年版では、標題が異なり、巻之二の「㊇裸にしたる詞(ことば)にあやまり」である。ここと、ここが本文。離れた場所にあるこれは本篇の挿絵と見た。]

『乍ㇾ恐言上仕候、私儀は北村の重兵衞と申者にて御座候、南村の七九郞と申ものと當月每年申合せ、河内へ木綿買に罷越候に付、此度も申合せ、同道仕る筈に前夜約束仕り、今朝小潮川と申す舟渡し場にて、出會申す時取《ときどり[やぶちゃん注:事前に時刻を取り決めておくことを言う語。]》いたし候故、早天にかのわたし場へ參り相待申し、はや六つ[やぶちゃん注:午前六時頃。]になり候へ共、七九郞見え申さず候に付、あまりふしぎにぞんじ、わたし守五郞をやとひ七九郞かたへさそひにつかはし候へば、約束の通り今朝七つ[やぶちゃん注:午前四時頃。]まへに宿を出申候よし、女房返事仕にし候故、不審に存じ候處、七八町[やぶちゃん注:約七百六十四~八百七十三メートル。]川下の井關《ゐせき》[やぶちゃん注:「堰」「井堰」が正しい。水を他に引くために蛇籠(じゃかご)などを置いて川の水を堰き止める所。]に死人ながれかゝりこれあるよし風聞仕り候に付、はせ參り見申候へば、七九郞丸はだかにて相果これあり候故、早速七九郞女房かたへまゐり告《つげ》しらせ候へば、女房かへつて私をうたがぴ、木綿買申すもとで全二十兩銀五百目持參申候へば、これを取らんとて殺したるものとねだり[やぶちゃん注:難くせをつけ。]、男のかたきとのゝしり申候、私毛頭おぼえ御座なく候間、御吟味被ㇾ遊下され候はゞ、ありがたく可ㇾ奉ㇾ存候以上。

   月 日       北村口重兵衞判

 地頭聞しめし屆けられ、七九郞が女房を召出され、夫は何時に宿を出しぞ、七つまへと申す、わたし守が七九郞をさそひにまゐりたるは何時ぞ、明ケ六つと申す、渡し守は何と申してきたりしぞ、お内儀お内儀と申しておもての戶をたゝきたると申す、地頭おぽしめすは、七九郞が名をこそ呼びて起すべきに、女房を呼おこすこと不思議とおぼし召し、急いでその渡し守をめしよせられ、拷問仰付られければ、金銀はいまだ一分も取申さず、そのままこれあり候、ひよつと夜深《よぶか》に候故出來心にて仕り候、命の儀はおたすけと白狀申すにつき、盜賊人殺しの重罪たる御仕置仰せつけられけるとなり』

 短いけれども、行き屆いた物語であつて、三比事を通じての白眉といつてよいかもしれない。が然し、繰返して言ふ通り三比事の物語は全體を通じて言へば優劣は殆んどないといつてよい。私は次章に三比事にあらはれた犯罪及び犯罪心理について書いて見ようと思ふ。

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (4) 三比事に書かれた探偵方法 二

 

         

 

 次は探偵が犯罪者に對して行ふトリツクである。三比事に犯罪者の心理を應用したトリツクの話が多い。

 櫻陰比事には、『惡事見え透く揃へ帷子《かたびら》』と題して次のやうな話がある。姉ケ小路の針屋に容貌の人にすぐれた一人娘があつた。ある大名へ奉公に出したところ、主人の寵愛一方ならず、その女でなければ夜も日も明けぬといふ有樣てあつた。後にはたうとう『御前樣』とよばれる身分になり、侍女を多くつかふやうになつたが、ある日夕食を攝つたところ、どうした譯か俄かに腹痛を催ほし、手足がすくみ呼吸が困難になつたので、大騷ぎになつて醫師を招いたけれど手當の效なく絕命した。醫師が早速食物を吟味すると、味噌の色が怪しいと思はれたので、飼猫に食はせて見たところ、猫は果して、暫らくの間に死んだ。そこていよいよ毒殺であるとわかつたので、主人の大名は自分で犯人の詮議も出來かね、ある發明な人に探偵を依賴した。雇はれた探偵は犯人が女中のうちにあると睨み、總計十六人に絹の帷子を着せ、一つの座敷へ追込んで、『此度の犯人はこの中にあるから、明日拷問する』といつて、燈を消して外から戶に錠を下した。折しも夏のことてあつて、蚊は窓から遠慮なく飛込んで彼女たちを刺したので、皆々あばれまはり、騷ぎ合ひ、ふさげあつて[やぶちゃん注:ママ。]、やつと苦しい一夜を過した。朝になつて探偵は女たち一人一人呼び出して吟味したが、そのうちの二人の着た帷子に皺のよつて居ないのがあつたのでその女に向つて犯人はお前だらうときめつけると、顏色をかへて自白した。それによると以前この家に居た御妾に賴まれて『御前樣』を殺したのだと言つた。探偵がどうして犯人を見つけたかといふに、身に覺えないものは樂寢をして、衣服に皺がよるが、犯人は一夜中眠らないから衣服に皺がよらぬのだといふのである。鎌倉比事にも、『祕事は鎌のごとし』と題して次のやうに書かれて居る。[やぶちゃん注:「惡事見え透く揃へ帷子」は巻三の「一」。国立国会図書館デジタルコレクションのここから。「祕事は鎌のごとし」とあるが、これは「鎌倉比事」巻三の「㊀祕事は睫(まつげ)のごとし」の誤り国立国会図書館デジタルコレクションのここから読める。前振りが結構、ある。]

『……中にも西ケ谷《にしがやつ》の織殿やは、此度の御悅びに、絹布卷ものあまた賣り、金錢の山をなし、此いはひとて、其日は織ものやにも弟子どもをやすませ、おもての長のうれんをおろし、外よりの人の出入をやめて、よるひるのわかちなく酒宴をしてぞ遊びける。其夜に金子十兩包失せた心。いろいろ、詮議すれども無いに極りて後亭主ある人に此ぎんみを賴みけるに、此人新らしき三方に大神宮の御祓串《みいぐし》を弟子十七人の數ほどこしらへ置て、朝手水《てうず》をつかひて一本づつ取り、暮にまたひとりづつ持よるべしと弟子共に言ひ渡し、扨此人亭主に小聲になりて、弟子どもの聞くやうにきかぬやうに、されば此金子をねすみたるものには大神宮の御罰にて長き串をあたへたまふ是神道祕密の術なりと語り、さらぬ體にて歸りける。扨暮方になれば弟子共殘らず、取たる御祓串を持出るに、すぐれて短き串を持出る弟子あり、それをとらへて詮議しければ、いまだ金子の不足もなく出しぬ。心正直なるものはなんの事もなく取たる御祓串を其まゝ出す、心のわだかまりたるより、我にこそ神明の長きを與へ給はんとて、串を折りて出しける。其折たる程、餘《よ》の串よりは短くて、我と我身の科をあらはしけるとなん、おろかなりとも又神明の御罰おそるべし恐るべし。』[やぶちゃん注:「織殿や」織殿屋(おりどのや)。織り屋のことであるが、京阪地方での呼称であり、適当ではなく、筆者月尋堂が京阪の出身者であることを窺わせるものである。「西ケ谷《にしがやつ》」原本の読みは鎌倉の呼称としては正しい。ただ、「西ヶ谷」は頼朝が中尊寺の二階大堂・大長寿院を模して建立した永福寺跡の北翼の北にある谷戸名(グーグル・マップ・データ)で、ここに鎌倉時代前期(冒頭に第三代執権北条泰時の御不例と逝去が記され、第四代執権北条経時の名も出るから、泰時の没した仁治三年六月十五日(一二四二年七月十四日)以後の設定である)に、一介の豪商が住んでいたというのは無理がある。]

 以上二つは犯罪者の犯行後の心理を巧みに應用してトリツクを行つた例であるが、現今でもこれに似たトリツクは極めて有效であると見えて度々行はれるものらしい。

 この外にまた、櫻陰、鎌倉兩比事にはトリツクによつて犯罪者を自然にあらはれ出さしめる話がある。櫻陰比事の中に、賴母子講《たのもしこう》の懸金を盜んだものを詮議するために、懸金に集つた男たちのうちに犯人があると睨んて、その男たちの妻又は姉妹とその男たちとをそれぞれ一組にして、講の場に居合せた罰として毎日大きな太皷をかつがせて市中を𢌞らせ、その実その太皷の中に發明な小坊主をかくして置いて、夫婦又は兄妹の話を盜みきかせ、遂に、ある妻が不平を言ひ出したのを、夫が宥める言葉から、その男が犯人であることを知る話や、矢を射こまれて死んだ男の犯人をさがすために、ある夜その附近で、『泥棒、泥棒』と叫ばせ、弓をかゝへて走り出た男を犯人と見倣す話などがあるが、鎌倉比事には、『因果はめぐりあふ常陸帶』と題し、次のやうに書かれてある。[やぶちゃん注:前の「桜陰比事」のそれは、巻一の「四」の「太皷(たいこ)の中はしらぬが因果」である。国立国会図書館デジタルコレクションのここから読める。「賴母子講」民間の互助的金融組織。単に「頼母子」とも呼ぶ。発起人(親)と仲間(講衆)とからなり、「懸け銭(せん)」「懸け米(まい)」と呼ぶ所定の金品を出し合い、入札又は抽選によって講衆の一人に金品(「取足(とりあし)」と呼ぶ)を融通し、「取足」を得た者は以後、当選の権利がなくなり、全員が当選すれば、講は解散した。鎌倉中期から出現したと見られており,困窮者に無利息・無担保で金融したのが元とされる。後に取り逃げ防止のために担保利息をとったため、「無尽講」との区別がなくなった。目的により、「金頼母子」・「金講」のほか、物品を購入する「牛頼母子」・「布団頼母子」、また、物品のみならず労力も出し合う「萱(かや)講や、特別の寄付などを目的とする「宮(みや)講」・「学校講」などがあった。江戸時代に盛行し、京坂で「頼母子」、江戸では「無尽」とも言った。本来は極めて共済的なものであって、元金の返済を期待するものではなかった。「矢を射こまれて死んだ男の犯人をさがす……」というのは、巻二の「一」の「十夜(じふや)の半弓(はんきゆう)」。国立国会図書館デジタルコレクションのここから読める。]

 『鎌倉本町に定都《さだいち》といふ旅龍屋あり、毎年のぼる常陸商人、只一人とまりたり、其夜あるじの女房を何ものとも知れず殺しぬ、この商人のわざなりとて敵《かたき》に取られぬ。鎌倉中の取沙汰に最明寺殿には常にかはちて麁末なる成敗かなと諸人さゝやけども、それのみにて一とせと暮れ二とせと過ぎ、今は三年の後に、常陸商人の弟、鎌倉こそ兄の最後所と思ひ、せめてなき跡なりともとむらはんとて鎌倉へのぼる通《みち》すがら、先にたつて男二人行きけるが、物語るをきけば、それはもはや三とせになる、おもはずも無實をうけて常陸商人こそ殺されたり、おもへば不便のこと也。今は隱すべきにあらず、かの旅籠屋は盲目ゆゑ、女房に心をかけてたびたび言ひ寄ると雖も承引せず、あまつさへ夫に告げんといひける故恐ろしく一向身の難儀に及ばんよりとひそかにしのびこみ刺し殺したり。我故に科なきものを二人迄命をとりしとおもへば未來も覺束なしといふを、あとよりとくと聞すまし、其ものの這入たる家をよく見屆けて、すぐに言上しければ、最明寺殿、それ常陸のものを出牢させて、弟にあはせよと仰せられて、生きて二たび兄弟の對面をかぎりなく喜ぶうちに、かのまことの人殺しをからめ來り御成敗なされける。三年以前に殺されしものは外に成敗なさるべき科人を、常陸商人の小袖を着かへさせて常陸ものなりと御觸あつて御仕置になされける。誠に鵬鵠の心燕雀は知らずとは是なりとて諸人かんじにけり。』[やぶちゃん注:これは巻六の「㊆因果の𢌞會(めぐりあふ)常陸帶(ひたちおび)」で、国立国会図書館デジタルコレクションのここから読める。]

 この話は『大岡政談』の中の小間物屋彥兵衞に關する『皮剝獄門の件』と頗る似た所片がある[やぶちゃん注:行末で句点なし。]『大岡政談』の作者が果してこの話に依つて小間物屋彥兵衞の事什を潤色したかどうかはわからないけれども、兎に角、犯人を見出すには頗る巧妙なトリツクといふべきであらう。

[やぶちゃん注:「小間物屋彥兵衞に關する『皮剝獄門の件』」国立国会図書館デジタルコレクションの明四五(一九一二)念至誠堂刊大町桂月校「大岡政談 上卷」の当該部「小間物屋彥兵衞一件」(七編から成る)。ここでは皮剝ぎは出ないが、「三 彥兵衞死罪獄門となる事」の最後に附記して、『此彥兵衞牢内に居て煩ひ、暫時の内に面體(めんてい)腫脹(はれ)上り、忽ち相恰(さうがふ)變りて元の體(てい)は少しもなかりしとぞ。』とあるのが、本話のどんでん返しの伏線である。これを、顔の皮を剥いで獄門にしたという別本があるのであろう。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (3) 三比事に書かれた探偵方法 一

 

      三比事に書かれた探偵方法

 

        

 

 櫻陰、鎌倉《けんさう》兩比事にはユーモアの少ない代り、探偵方法に色々奇拔なものがあつて、その點は藤陰比事の及ぶところでない。

 むかしの探偵方法には色々あるが、第一は直觀、第二は迷信的方法、第三はトリツク(詭計)を應用する方法、第四は手がかりから推理を行ふ方法などがこれである。三比事を通じて、直觀による探偵方法の應用された物語は相當に澤山あるけれども、その興味はむしろ、犯罪そのものにあつて、探偵といふ立場から見ては煩る物足らない。で、私は前述の第二、第三、第四の探偵方法の取り扱はれてある物語を順次に紹介しようと思ふ。

 迷信的探偵方法とは迷信的な鑑定方法による探偵を意味するのであるが、現今から見れば『迷信的』であるものゝ、その當時に於ては、立派に『科學的』てあつたのである。だからその當時の『科學的鑑定』といへぬことはないけれど、その當時の『科學的鑑定』の意味は現今のそれと根本的にちがつたところがある。それは何かといふに、その當時に於て、鑑定の結果はその儘『動かぬ證據』であつたのに反し、現今では鑑定の結果は、推理の基となる一つの『手がかり』に過ぎないのである。言葉をかへて言ふならば、むかしの鑑定は絕對的で、今の鑑定は相對的である。こゝに所謂『見込搜索』と『科學的搜索』との區別が存在するのである。

 さて、櫻陰、鎌倉比事の中にどんな鑑別法があるかといふに先づ第一には血液の鑑別法である。これはいづれ支那で行はれたものをその儘引用したらしい。櫻陰比事には男女の血液によつて、その男女が姦通したか否かを識別する話がある。

『昔都の町、猪熊通りより染帶を拵へて丹波の山家に通ふ商人あり、此者の妻、舊は御所方の末の女﨟役してありけるが、流石風儀は花の香今に殘りて人皆目に懸けける。身代輕きものなれば一人の留守を配慮(きづか)ひながら渡世は是非なし、殊吏此男悋氣深く、旅立つ折ふしは女の知らざるやうに守宮(やもり)の血を取つて左の肱《ひぢ》に附置ぬ。これを「蟲しるし」とて、其女、男にまみえねうちは何ほど洗ふても落ちざる例《ためし》あり、昔日《そのかみ》いかなる好色人かこれを工夫仕出されける。此商人の同町に浮世男ありて此女を眼にて忍び、ものは言はずしてこがれけるに、女も自然と此男に思入りしに、一夜枕並べし夢を見しに、男もまた其夜忍び入りて契をこめし夢見ること、互に不思議なる緣と思ひける折から、若い者大勢語りぬる中にて何の遠慮もなく、此事を夢談話の種として大笑ひ扨は世間は種々なり。其後彼の男丹波より歸りて心だめしの「蟲しるし」を見るに消えて跡なきを疑ひ出し、我女房の自由はさまざま無理に懸つて强く詮議すれば、罪無き身にも悲しく留守中の事は少しも包まじと、諸神を誓文に立て彼の男の夢までも語り聞かせければ、それは隱れなき美男にていよいよ氣を𢌞し、世上を聞き合すに、彼の男の夢物語彼方此方に沙汰あれば、扨は二人が不義外に知られて其口留に斯くはいひけると聞きたり、これは吟味すべき所と分別して、たとひ夢物語にせよ男のある女の事を身に添ひたるとの風聞堪忍ならず、女も夢に逢ひしといへり、此分にでは不思議晴れず、これ密通に紛れなしと此事御前へ申上げ、兩方召出され御聞屆け遊ばされ、これは不義の證跡《しやうぜき》なし、然れども夫のある女の事戯《たはぶ》れて取沙汰する事落度《をつど》なり、又女も夢なればとて無用の申事なり、愚なる男の疑ふも道理なり、密通が夢の契か、此二つをためし、其上にて申付くべしと、銀の猪口《ちよく》二つ御出し遊ばされ、女の指の血を兩方ヘ搾り込ませ、本夫の指の血一つに搾り入れさせ、又密夫の指の血を搾り入れさせ、少時置きて御覽なされけるに、本夫の血は女の血と一つに凝固りぬ、また密夫の血は女の血と筋立ちて分れぬ。これ眞の契を籠めざる證據見せたまひ、格別なる御詮議に男胸を晴らし、此女に仔細なく添ひけるとなり。』[やぶちゃん注:以上は。「櫻陰比事」の巻四の三「見て氣遣(きづかひ)は夢の契(ちぎり)」。国立国会図書館デジタルコレクションの「西鶴全集」のこちらから原文が読めるので、読みは一部の難読と判断したものに限った。]

『蟲しるし』の迷信、卽ち守宮の血を女の肱に塗ると、男に關係しないうちは消えぬといふ迷信はたしかに漢の武帝の故事から來たものであらう。端午に蜥蜴《とかげ》を捉へて丹沙《たんしや》の中に入れ置き、翌年の端午に之を碎いて丹沙と調合し、後宮の婦人の肱に塗ると男に關係して居ないものは洗へばすぐに消えるが、関係したものは赤い痣が殘るといふのである。趣は反對であるけれど、『蟲しるし』の迷信は支那から傳はつたものにちがひない。又銀の猪口の中へ男女の血を滴らして、肉體關係の有無を知る方法もかの洗寃錄などに記されてある『滴血の法』卽ち父子か父子でないかを、血を滴らしあつて見る方法から思ひついたものであるにちがひない。尤も洗寃錄が日本に廣く讀まれるやうになつたのは西鶴以後であるが洗寃祿の出來たのは宋時代であるから、西鶴は讀んだと見ても差支ないであらう。無論洗寃錄以前にもかういふ迷信はあつた筈で、いづれにしても支那から輸入されたものである。[やぶちゃん注:「丹沙」は水銀と硫黄とから成る鉱物。深紅色又は褐赤色で、塊状・粒状で産出。水銀製造の原料、また、赤色顔料の主要材料で、漢方では消炎・鎮静薬などに用いる。また、ここに出る奇体な「蟲しるし」は私の電子テクスト注である南方熊楠の「守宮もて女の貞を試む」及び寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蠑螈」(イモリ)及び「守宮」(ヤモリ)及び「避役」(インドシナウォータードラゴン)の部分、また、「譚海 卷之一 守宮幷やもりの事」等を参照されたい(因みに、近世まで本草書にあってもしばしばイモリとヤモリは混同されていたのである)。「洗寃錄」「洗冤集録」(せんえんしゅうろく)とも。南宋の司法官僚宋慈(一一八六年~一二四九年)の世界初の本格的法医学書。現存版で全五巻五十三章。当該ウィキによれば、『当時における検死の方法と注意する点などについて細かく記されており、遺体の死亡状況』『や損傷の具合などから死因や死亡時期などを鑑定する方法の判別方法が詳細に体系化されている。例えば、同じ死因でも遺体の特徴から自殺か他殺か、他殺の場合は素手によるものか道具を使ったものなのか』『などといった判別が簡潔に出来るようになっている。その他、まだ生存している者への蘇生法や応急処置、検死や遺体の取扱いに関連した法令などについての記述もなされている』。『書名』『は「冤罪を洗ぐ(そそぐ=洗い流す)」』『の意』。『記述された時代の医学水準の限界により、現代医学の観点から見れば』、『明らかな誤りや信じがたい記述も散見されるが』、『前述の利点により』、『この書は、中国で後々の治安・司法を扱う官僚たちにとって必須書とされたのはもちろんのこと、日本や朝鮮といった周辺諸国、更には遠くヨーロッパにまでも伝えられて、近代法医学の成立まで法医学の原典として世界的に重用された』とある。リンク先に示された本邦の紹介本も私は所持している。]

 次に鎌倉比事には一旦刄について洗ひ落した血を再びあらはす方法が書かれてある。

『小人は閑に居てよき事をなさずとかや、鎌倉の靑侍に靑木藤内といふ者、稽古矢の遺恨によつて、山村平次といふ者を討果す期にのぞみて、傍輩共兎角とあつかひ、左右方《さうはう》宿意なく中和《なかなを》りして、後に藤内闇打にあひて死す。親類ども相手は平次なりとて敵にとらんといふ。平次大小を投げ出して身に覺えなし、一たび遺恨のやみて別心なきしるしに、盃《さかづき》までさしかはしたり、それに討べき仔細なし、腰物にふしんあらば、いかにも存分にならんといふ。さぱはいへ藤内が身にとりて意趣あるもの外になしとて御前に罷出ける。最明寺殿平次の大小を召され、御吟味の上にて仰せらるゝには、平次が所存覺束なし、武士のたやすく大小を投出して吟味を乞ふ段あるまじき仕方なり。さらば葦毛馬の糞にて血付の刄物をぬぐへば、さらにあとなし、しかれどもそれを火にてあぶれば其血の油あらはるゝなりとて、御前の火鉢にてあぶらせらるゝに、成ほど油のしとひ出たり。紙にてぬぐひ取りて見るに、血まざまざと付たり。扨も未練の心底やとて切腹にも仰せ付られず首を刎させ給ひけり。』[やぶちゃん注:以上は「鎌倉比事」巻六の「闇の夜(よ)心(こゝろ)の的(まと)」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから。「最明寺殿」北条時頼。]

 上記の血痕鑑定法が支那から渡つたかどうかを私は如らない。西洋では百年ほど前に血液に硫酸を混じてガラス棒でかきまはすと、そのにほひによつて、男か女か、他の動物の血かわかるといふ血液鑑別法があつたが、いづれも現今の科學では說明することの出來ぬものである。

 この外に櫻陰比事には迷信的な醫學鑑別法が二つ掲げられてある。一つは毒薬を飮まされて口のきけぬ男に、ある妙藥をのませると、飮ませた相手の名を呼ぶといふ迷信で『…殘らず召出され御詮議さまざまなれども、本人夢中なれば、いづれをさして御吟味なり難し、少時御思案遊ばされ、御手前醫者仰付られ、斯る時申傳へし妙藥を世のために呑せ見よとの御意にて俄に拵へける。故《ふる》き皷《つづみ》の破革《やぶれがは》を黑燒にして彼の病人に與へたまへば、腹中に入ると、毒を飮ませし相手の名を自然《おのづから》に呼ぶといふ事、唐土《もろこし》の醫書にある故、今此の不思議を見るなり、大事の聞きものぞと仰出されし時、これはと驚くものあり、また何をかと疑ふものもあり、各々心々に耳をすましけるに、しばらくあつて病人唇に動ありて、咽内《のんどうち》にてそれが名を指して太皷《たいこ》の茂六《もろく》々々といふ事ありありと聞え……』と書かれてある。[やぶちゃん注:これは巻一の「五」の「人の名を呼ぶ妙藥」。国立国会図書館デジタルコレクションのここから。具体な事件部分がカットされてしまっているので、是非、全文を読まれたい。なんと、佐渡から京へ来た隠居の持つ二千五百両という莫大な金子を殺して奪おうという話である。]

 唐土の醫書とことわつてあるから、この迷信が支那の起原であることはいふ迄もない。今一つは罪を犯したものゝ脈はいかに平靜を裝つても地脈と異なつて大に騷いで居るといふ迷信である。これは支那から來たものかどうかわからない。一寸きくとミユンスターベルヒなどの提唱した心理學的探偵法に似たところがあるけれど、これで有罪無罪を決定するのは頗る危險である[やぶちゃん注:「ミユンスターベルヒ」現在のポーランド(当時はドイツ領)のグダニスクの生まれのアメリカの心理学者・哲学者ヒューゴー・ミュンスターバーグ(Hugo Münsterberg 一八六三年~一九一六年)の北ドイツ方言の読みらしい。彼のウィキを見ると、「応用心理学」の項に、『ミュンスターバーグは裁判への心理学的情報の応用についてもいくつかの論文を書いている。こうした論文の多くの主要対象は、目撃証人の証言の信頼性に関するものである』。一九〇八年『発表の』「証人の立場で」(On the Witness Stand )は、『裁判の結果に影響しうる心理学的要因について述べたもので、広く論争を呼んだ』とあり、一九〇八年の著作に‘Psychology and Crime ’というものもある。]。

 なほ老人が生ませた子は旭日にうつしても影が出來ぬといふ迷信によつてある裁判を行ふ話もあるが、これ明かに支那の棠陰比事にある話を模倣したものである。[やぶちゃん注:不木の指摘しているのは「本朝櫻陰比事」の巻一の「二」の「曇(くもり)は晴(はれ)る影法師」のこと。国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める。また、原拠として示すそれは、「棠陰比事」の上の三の「丙吉驗子(へいきつけんし)」。「中國哲學書電子化計劃」のここから次の二頁にかけて原文(影印本)が読める。そこに、「吾れ、聞く、『老人の子は寒に耐へず、且つ、日に中(あた)るも、影、無し。』と。」とある(訓読は私の我流)。]

2021/07/12

伽婢子卷之七 中有魂形化契

 

Oyamadakinai

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。「新日本古典文学大系」版脚注で絵を解説して、『小山内記内のもとを飯尾新七の娘の幽霊が訪れ、物縫いに精出す場面。麻(お)を績(う)む女』(め)『の童』(わらわ)。『膝元にあるの円形の器は麻を入れておく麻笥(おけ)。髷は唐輪風』(唐輪(からわ)は日本髪の一種。男女ともに結んだ。男性の唐輪は、鎌倉時代に武家の若者や寺院の稚児などが結った髪形で、その形は後世における稚児髷に類似している。その結び方は、髪のもとを取り揃えて百会(ひゃくえ:脳天)に上げ、そこで一結びしてから二分し、額の上に丸く輪とした。一方、女性の唐輪は、下げ髪が仕事の際に不便なので、根で一結びしてから輪に作り、その余りを根に巻き付けたもので、安土桃山時代の天正年間(一五七三年~一五九二年)から行われた)。『中央が飯尾の娘。立膝で糸針を使う』。『家は屋根石を置いた取葺』(とりぶき:屋根に削(そ)ぎ板を並べ、風で飛ばないように石・丸太・竹などで押さえたもの)『の粗末な造り』であるとある。なお、標題は「中有(ちゆうう)の魂(たましひ)、形(かたち)、化(け)して契る」である。]

 

 

 ○中有魂形化契

 

 尾州淸洲(きよす)といふ所に、小山田記内(おやまだきない)といふ者あり。

 或る夕暮に、門に立〔たち〕て外(そと)を見居たりければ、年の程、十七、八と見ゆる女、顏かたち、世の常ならず美しく、なべての人とも覺えざるに、只獨り、西の方(かた)より、東に行く。

 明〔あく〕る日の暮方(くれかた)、門に出〔いで〕しかば、又、かの女、西より東に打ち過〔すぐ〕る。

 記内も又、近きあたりにては、美男の聞えあり。

 女、つらつら、記内を顧みて、心ありげながら、打〔うち〕通る。

 斯くて、四、五度に至りて、又、夕暮に、門に立〔たち〕たりしかば、女、則ち、來〔きた〕る。

 記内、立ちよりて、女の手をとり、戲(たはふ)れて、

「君は、いづくの人なれば、日暮每(ごと)にこゝを打ち通り、いづ方に行給ふ。」

と問へば、女、さしも驚く色なく、打わらひ、

「みづからが家は、是れより、西の方(かた)にあり。所用の事ありて、東の村に行〔ゆく〕なり。」

といふ。

 記内、こゝろみに、手を取り、内に引入れんとすれば、更に否とも云はず。

 やがて、親しみつゝ、その夜〔よ〕は、そこに泊りて、わりなく契りつつ、夜の明方(〔あけ〕かた)に暇乞しつゝ、立〔たち〕歸る。

「又、いつか、來まさん。」

と云へば、女は、

「人目を忍ぶ身の、其び日をさして、必ず、とは、契り難し。」

とて、

 なほざりに契りおきてや中々に

   人の心のまことをも見む

と云ひしかば、記内は、『歌までやは』と思ふに、かく聞ゆるにぞ、いとゞわりなく覺えて、返し、

 いひそめて心かはらば中々に

   契らぬさきぞ戀しかるべき

かくて、きぬぎぬの別れの袖、又、朝露にぬれそめて、なごりぞ、いとゞ殘りける。

 四、五日の後(のち)、夕暮に、又、來りぬ。

 今は互ひに打ちとくる、其の下紐(したひも)のわりなくも、結ぶ契りの色深く、よひよひごとの關守も、恨めしきこゝちして、後には、夜ごとに來りけり。

 記内、いふやう、

「かほどにわりなく契る中〔なか〕に、なにか苦しき事のあらん。君が家、こゝもとに近くば、我、又、君がもとに行通ひ侍らんものを。」

といふ。

 女、答へけるは、

「みづからが家は、甚だ狹(せば)くして、いと見ぐるし。如何にして人を待〔まち〕うけ、一夜〔ひとよ〕を明かすべき用意も、なし。其の上、みづからが兄は、今は、なき人となり、その妻、やもめにて、内にあり。此〔この〕あによめの目を忍べば、中々、心苦しく侍べり。」

といふ。

 記内、きゝて、『げにも』と思ひ、いよいよ、人にも語らず、深くしのびて、契りぬ。

 此女は、又、たぐいなき縫張(ぬいはり)に手きゝなり。

 夕暮ごとに來て、夜もすがら、記内が小袖やうの物、洗ひすゝぎ、縫いたてゝ着せ、或ひは、麻績(をうみ)つむぎて、美しく細き布(ぬの)、おり立〔たて〕て着せければ、見る人、

「是れは。世の常の布にあらず。『筑紫(つくし)の波の花』、『越後の雪曝(〔ゆき〕さらし)』といふとも、是れ程には、よもあらじ。」

と、譽めぬ人は、なし。

 後には、見めよき女(め)の童(わらは)一人を召しつれて、通ひ來り、是れも又、手きゝ也。

 かくて、半年ばかりの後は、晝もとゞまりて、女の童とおなじく、絹を織り、縫い立〔たて〕て、記内に着せ、家の中〔うち〕、よろづ、甲斐々々しく取りまかなひけり。

 記内、云やう、

「夜(よる)さへ忍ぶ身の、晝だに歸り給はずは、もし、嫂(あによめ)の思ひ咎(とが)むる事、有るべし。」

といふ。

 女のいふやう、

「いつまで、强ひて、人の家の事、さのみに、忍び、はたさむ。君の心も又、如何ならん。末賴み難けれ共、ひたすら、我が身を君にすてゝ、かく、爰(こゝ)には通ひ來〔きた〕る也。」

といふに、記内、いとゞ、嬉しさ、限りなく、めで、まどひけるも、ことわり也。

  或る夜、女、來りて、いつに替はり、愁へ歎きたる色みえて、そゞろに淚を流して、泣きけり。

 記内、問ひければ、

「されば、今迄は君に思はれ參らせ、みづからも、わりなく賴みし中〔なか〕なれども、別れ離(はな)るべき事、出來〔いでき〕て、其の悲しさに淚の落つる。」

といふ。

 記内、大〔おほき〕におどろき、

「君とわれ、千とせを過〔すぐ〕るとも、心ざしは、露、替はらじ、とこそ、ちぎりけれ。如何成る故に、別れ離るべき。」

といへば、女は、

「今は、何をか、包み參らすべき。みづからは飯尾(いひを)新七がむすめ也。年十七にて、病〔やまひ〕によりて、むなしくなり、明日は、已に、第三年に、當れり。死して中有〔ちゆうう〕にとゞまる事、三年〔みとせ〕を、限りとす。三年過〔すぎ〕ぬれば、その業因〔ごういん〕に任せて、何(いづ)かたになりとも、生〔しやう〕を引〔ひき〕て、赴く。今宵限りの別れと思へば、悲しくこそ、侍べれ。」

とて、頻りに泣き悲しみければ、記内は幽靈と聞〔きき〕ながらも、此の程の情〔なさけ〕を思ふに、怖ろしげはなく、只、悲しき事、限りなし。

 夜もすがら、寢(いね)もせず、女房は白銀〔しろがね〕の盃(さかづき)ひとつ、玉をちりばめたる花瓶(〔はな〕かめ)の小さきにとりそへて、

「君、もし、忘れ給はずは、是れを形見に見給へ。」

とて、

 面影のかはらぬ月に思ひいでよ

   契りは雲のよそになるとも

とて、なくなく渡しければ、記内も、色よき小袖に、白き帶、取り添へて、女に與へつゝ、

 待いづる月の夜な夜な其のまゝに

   ちぎり絕すなわがのちの世に

と、かきくどき、泣きあかし、鐘の聲、遠く響き、鳥の音(ね)、はや、打ちしきれば、起き別れゆく袂をひかへて、

「さるにても、無き影の、埋(うづ)もれ給ひし所は、いづく。」

と、たづねしかば、

「甚目寺(じんもくじ)のわたり也。」

と、答へて、立出〔たちいづ〕ると見えし、跡方なく、うせにけり。

 記内、あまりに堪へかね、甚目寺のほとりにいたりけれども、そこと、知るべき塚も、なし。

『今すこし、その所、よく、とふべきものを。』

と、思へど、悔むに甲斐なくて、

 たのめこしその塚野邊は夏ふかし

   いづこなるらむもずのくさぐき

と、うち詠じ、なくなく、日暮がた、家に立歸り、其の面影を思ふに、悲しさ、限りなく、終〔つひ〕に病〔やまひ〕となり、日をかさねて、藥をも、のまず、

「只、とく、死して、此〔この〕人に、めぐりあはん。」

と、のみいひて、程なく、身まかりぬ。

[やぶちゃん注:「中有」は仏教用語で、衆生が死んでから次の縁を得るまでの間を指す「四有(しう)」の一つである。通常は、輪廻に於いて、無限に生死を繰り返す生存の状態を四つに分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有(しょうう)」、死の刹那を「死有(しう)」、「生有」と「死有」の生まれてから死ぬまでの身を「本有(ほんう)」とする。「中有(ちゅうう)」は「中陰」とも呼ぶ。この七七日(しちしちにち・なななぬか:四十九日に同じい)がその「中有」に当てられ、中国で作られた偽経に基づく「十王信仰」(具体な諸地獄の区分・様態と亡者の徹底した審判制度。但し、後者は寧ろ総ての亡者を救いとるための多審制度として評価出来る)では、この中陰の期間中に閻魔王他の十王による審判を受け、生前の罪が悉く裁かれるとされた。罪が重ければ、相当の地獄に落とされるが、遺族が中陰法要を七日目ごとに行って、追善の功徳を故人に廻向すると、微罪は赦されるとされ、これは本邦でも最も広く多くの宗派で受け入れられた思想である。

「尾州淸洲(きよす)」現在の愛知県清須市(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。最後に「甚目寺」が出、これは愛知県あま市甚目寺東門前にある真言宗鳳凰山甚目寺(じもくじ)で清須市の南西直近である。

「小山田記内(おやまだきない)」特にモデルがあるとは思われない。

「なほざりに契りおきてや中々に人の心のまことをも見む」「新日本古典文学大系」版脚注によれば、山科言緒(ときお 天正五(一五七七)年~元和六(一六二〇)年:公家)編の歌学書(部立アンソロジー)「和歌題林愚抄」(安土桃山から江戸前期の成立)の「戀一」の「契戀」にある十楽院宮の一首とする(「永徳百首」所収)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の影印本のこちらPDF)の16コマ目の左頁四行目で確認、異同なし。

「いひそめて心かはらば中々に契らぬさきぞ戀しかるべき」同前で、「和歌題林愚抄」の「戀一」の「初契戀」の前大納言為世の一首で、前の十楽院宮の二首後にある。確認、異同なし。なお、この一首は「新千載和歌集」の「戀一」に『初契戀とへる事を』という前書で所収する。

「下紐(したひも)の」枕詞として知られるが、ものとは古代からの恋愛風俗。男女が逢瀬の後に別れる際、互いに下紐を結び合い、再会して解き合うまで、その紐を解かないという習俗に基づくもの。

「わりなくも」前の相思相愛の状態が一通りでないことを言う。

 

「よひよひごとの關守も、恨めしきこゝちして」二人の逢瀬を妨げんとする者でさえ、逆に恨めしく思うほどに、女は何度もやってくるし、記内もそれを心待ちにしていることの仲睦まじい様子の表現。

「縫張(ぬいはり)」裁縫と洗い張り。

「手きゝ」名人。

「麻績(をうみ)つむぎて」苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシ属ナンバンカラムシ変種カラムシ Boehmeria nivea var. nipononivea )の繊維を撚り合わせて糸にすることを言う。ウィキの「カラムシ」によれば、『茎の皮から採れる靭皮繊維は麻などと同じく』、『非常に丈夫である。績(う)んで取り出した繊維を、紡いで糸とするほかに、糾綯(あざな)って紐や縄にし、また荒く組んで網や漁網に用い、経(たていと)と緯(よこいと)を機(お)って布にすれば』、『衣類や紙としても幅広く利用できる。分布域では自生種のほかに』六千『年前から』、『ヒトの手により』、『栽培されてきた』古代からの長い利用の歴史がある。なお、同ウィキによれば、カラムシの花言葉は「あなたが命を断つまで」「ずっとあなたのそばに」』そして、『他にも「絶対に許さない」がある』とある。最後のそれはもう、病的に執拗(しゅうね)きものである。

「筑紫(つくし)の波の花」「新日本古典文学大系」版脚注に、『塩のように真っ白な布の意か。「波の花」は塩の女房詞』とある。

「越後の雪曝(〔ゆき〕さらし)」「新日本古典文学大系」版脚注に、『雪で漂白した越後特産の麻織物』とある。私の「日本山海名産図会 第五巻 織布」も是非、見られたい。

「いつまで、强ひて、人の家の事、さのみに、忍び、はたさむ。君の心も又、如何ならん。末賴み難けれ共、ひたすら、我が身を君にすてゝ、かく、爰(こゝ)には通ひ來〔きた〕る也。」「何時までも、こうした外(そと)に逢瀬をするお相手がいることは、これ、強いて隠し通すことなど、到底、出来はしません。今の今まで、あなたさまは、そうした妾(わらわ)の思いを、どうお考えになっておられたのかしら? これから後のこと……それはもう……頼みにすることなど……出来はしない……ですけれど……妾は、身をあなたさまのために捨てて、こうして、ここに通って来ているのです。」。

「飯尾(いひを)新七」「新日本古典文学大系」版脚注に、『飯尾氏は、織田信長・信雄』(のぶかつ/のぶお:信長の次男)『に仕えた家臣。本話の年代は未詳であるが、永禄三年(一五六〇)に戦死した近江守定宗(信長公記・首巻)や、その子息で、後、信雄に仕えた隠岐守尚清』『ら存する』ものの、『新七は未詳』とある。

「死して中有〔ちゆうう〕にとゞまる事、三年〔みとせ〕を、限りとす」「新日本古典文学大系」版脚注に、既に冒頭で述べた通り、『仏教に中有を四十九日とするが、ここは儒教に』、『いわゆる』、『服喪三年に依るものか』とある。そうであろう。

「面影のかはらぬ月に思ひいでよ契りは雲のよそになるとも」「新日本古典文学大系」版脚注に、同じく「和歌題林愚抄」の「戀一」の「月前契戀」にある権大納言三位の一首とする(「永徳二十五夜内裏五首」所収)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の影印本のこちらPDF)の17コマ目の右頁の後ろから四行目で確認、異同なし。

「待いづる月の夜な夜な其のまゝにちぎり絕すなわがのちの世に」同前で、「和歌題林愚抄」の「戀一」の「月前契戀」に、隆朝卿の一首として、

 待いつる月のゆふへのそのまゝにちきりたかふな人のことのは

と、前と同じ17コマ目の左頁の五行目に出る。整序すると、

 待ち出づる月の夕べのそのままに契り違ふな人の言の葉

であろう。この歌は記内の焦がれ死にを伏線する不吉な伏線と言える。

「鳥」鷄(にわとり)。

「無き影」亡骸(なきがら)。

「甚目寺(じんもくじ)」ここでこの寺或いはこの一帯の地名を出したことには、何か意味があるように思われるのだが、不明。「新日本古典文学大系」版脚注も特に触れていない。

「たのめこしその塚野邊は夏ふかしいづこなるらむもずのくさぐき」同前で、「和歌題林愚抄」の「戀一」の「契後隱戀」に、俊成の一首として、

 たのめこしのへの道しは夏ふかしいつこなるらむもすのくさくき

と、前と同じ17コマ目の右頁の十行目に出る。整序すると、

 賴め來し野邊の道柴夏深しいづなるらむ百舌の草潛(くさぐき)

である。「百舌の草潛」とは、モズ(私の好きな鳥。博物誌は「和漢三才圖會第四十三 林禽類 鵙(もず) (モズ)」を参照されたい)が、春になると、人里近くに姿を見せなくなることを、「草の中に潜り込む」と言ったもの。既に「万葉集」に使用が認められる。]

日本山海名産図会 第二巻 砥礪

 

Toisiyama

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「砥石山(といしやま)」。]

 

○砥礪(といし)【精(こまか)かなるものを「砥(と)」といひ、粗きものを「礪(れい)」といふ。】

諺に「砥は王城五里を離れず、帝都に隨ひて、產す。」と云ふも、空(そら)ことにも、あらすかし。昔、和刕春日山の奧より、出せし白色の物は、刀劔(かたな)の磨石(あわせと)なりしが、今は堀ることなく、其の跡のみ、殘れり。今は、城州嵳峩邉(へん)・鳴瀧・高尾に出だす物、天下の上品、尤も他に類(たぐ)ひ鮮(すくな)し。是れ、山城・丹波の境(さかい)、原山(はらやま)に產して、内、曇り、又、「淺黄(あさき)」ともいふ。又、丹波の白谷(しろたに[やぶちゃん注:刻字はこう読むにはかなり厳しい。])にも出だせり。是等、ともに、刀劔(かたな)の磨石(あわせと)、或ひは、剃刀(かみそり)其の余(よ)、大工・小工、皆、是れを用ゆ。又、上刕「戸澤砥(とさはと)」は、水を用ひずして、磨(と)くべき上品にて、參河(みかわ)「名倉砥(なくらと)」は淡白色に斑(またら)あり。「越前砥」は俗に、「常慶寺(じやうけんじ[やぶちゃん注:ママ。])」と唱ふるもの、「内曇(うちくもり)」には劣れり。以上、磨石(あはせと)の品(しな)にして、「本草」、是れを「越砥(ゑつと)」と云ふ【いつれも、石に皮あり。山より出だす時は、四方に長く切りて、馬(むま)に四本宛(づゝ)、負(お)ふすを規矩(きく)とす。】。

○「靑砥(あをと)」は、平尾・杣田(そまた)・南村(みなむら)・門前・中村・井手黒(いでのくろ)・湯舩(ゆふね)等(とう)なり。中にも南村・門前は、京より七里ばかり東北にありて、周𢌞(まはり)七里の山なり。丹波に猪倉(いのくら)・佐伯(さいき)・芦野山(あしのやま)・扇谷(あふきたに)・長谷(なかたに)・大淵(おほぶち)・岩谷(いわたに)・宮川(みやかわ)、其の外、品數(ひんすう)、多し。肥前に、天草、豫州に、白赤(しろちや)、等(とう)、すべてを「中砥(ちうと)」とも云う。尤も、各(おのおの)、美𢙣(びあく)の品級(ひんきう)、盡く、弁ずるに遑(いとま)あらず。右、「磨石(あわせと)」・「中砥」ともに、皆、山の圡石に接(まじ)はる物なれば、山口(やまくち)に坑塲(しきあな)を穿ち、深く堀り入りて、所々に窓をひらき、榮螺(さゞゐ)の燈(ともし)を隽(たづさ)へて、石苗(いしのつる)を逐ひ、全(まつた)く金山(きんさん)の礦(まぶ)を採るに等し。石、盡きぬれば、かの搘架木(つかき[やぶちゃん注:「架」の字にはルビがない。「つかかけき」「支架(つかが)け木(ぎ)」で、崩落しないように支えとして配していた木の意か? しかし、この「搘」には後で注するように本来の木製の石研ぎの意がある。])を取り捨てて、其の山を崩(くず)せり。故に、常も、穴中(あなのなか)、崩るべきやうに見へて、恐ろしく、其の職工にあらざる者は、窺がふて、身の毛を立てり。○石質(せきしつ)によりて其工用に充つるものは、下に別記す。中にも、鏡磨(かゞみとぎ)、又、塗物の節(ふし)、磨くには、對馬の「蟲喰砥(むしくひと)」なり。是れ、水に入りては、破割(わる)ゝ物なれば、刀磨(かたなとぎ)には用ひざれども、銀細工の摸溶(いかた)には適用とす。但し、䋄(あみ)の鎭金(いは)[やぶちゃん注:漁網の錘。]などを鑄(い)る溶(かた)には、伊豫の「白砥」を用ゆ 此の「白砥」は、又、一竒品にして、谷中(こくちう)に散ち集まりし石屑(こつば)、久敷(ひさしく)すれば、ともに和合し、再たび、一顆塊(ひとかたまり)の全石(せんせき)となるなり。故に、偶(たまたま)、木(こ)の葉を插(さしはさ)んて、和合し、竒石の「木の葉石」となるもの、多くは、此山に得る所なり。

○礪石(あらと)   肥前の唐津紋口(もんくち)・紀州茅(かや)が中(なか)・神子(みこ)が濱、或ひは、豫刕に出だすものは、石理(いしめ)、やや精(くわ)し。是等(これら)、皆、堀り取るにはあらず、一塊(いつくわい)を山下(やました)へ切り落とし、それを幾千挺(てう)の數(かず)にも頒(わ)かちて、出だす。

○工用(こうよう)は、  刀劔鍛冶(かたなかぢ)に、臺口磨工(たいくちときや)に、靑茅(あをかや)・白馬(しろむま)・茶神子(ちやみこ)・天草・伊豫、又、浄慶寺(じやうけんじ[やぶちゃん注:ママ。漢字表記が前のものと異なるが、同一であろう。]等(とう)、次第に精(くわしき)を經て、猪倉(ゐのくら)・内曇(うちくもり)に合はせて後(のち)、上引(うはひき)をもつて、靑雲の光艷(ほや)を出だす【「上引」とは内曇りの石屑(こつば)なり。但し、「鳴瀧(なるたき)の地地艷(ちつや)[やぶちゃん注:三文字へのルビ。]」ともいひて、猪倉の前に用ゆることあり。是れを「カキ」ともいふ。】○剃刀は、荒磨(あらとき)を、唐津・白馬(しろむま)・靑神(あをみこ)・茶神子(ちやみこ)。天草に抵(あて)て、鳴瀧・高尾等(とう)に、合はせ、用ゆ。○庖丁は、「たばこ庖丁」は、臺口(たいくち)・中砥(なかとき)・平尾(ひらを)・杣田(そまた)等(とう)に磨ぎて、磨石(あは)すには及ばず。また、薄刄(うすば)・菜刀(ながたな)の類(るい)は、荒磨(あらとぎ)は臺口・白馬・靑神子・茶神子・白伊豫、上(うえへ)は引きにて、色付けとす。○錢(せに)は、唐津・神子濱(みこがはま)に磨ぎて、豫刕の赤にて瑳(みが)けり。○大工箱細工(はこさいく)・指物(さしもの)等(とう)は、門前(もんせん)・平尾・杣田(そまた)の靑砥にかけて、鳴瀧・高尾等(とう)に磨(あは)す。○料理庖丁は山城の靑。○小刀(こかたな)は南村(みなむら)。○竹細工は天草。○針・毛拔は、荒磨(あらとぎ)を圡佐(どさ)にて、豫州白赤に瑳(みが)く。○形彫(かたほり)は豫刕の白。○紙裁(かみたち)は杣田。大抵、かくのごとし。凡そ工用とする所、硬き物は柔和(やわら)かなるに抵(あ)て、柔軟(やはらか)かなるは硬きに磨(と)くとはいへども、たゞ金質(きんしつ)・石質、相ひ和(くわ)する自然ありて、一概には定めがたし。

[やぶちゃん注:「砥石(といし)」「砥礪(といし)」一般論はウィキの「砥石」を参照されたいが、そこに本邦の『大工の世界では、「穴掘り三年、鋸五年、墨かけ八年、研ぎ一生」と言われるくらいに、納得できる仕事に至るまで』の修業が『長い技術である』とあり、別にウィキには「日本刀研磨」があり、それは『他の刃物研磨と相異する部分が多く、他の刃物の砥師が兼業していることは少なく、また日本刀の砥師が他の刃物を砥ぐこともほとんどなく、独立した分野と言える。また、他の刃物研磨が「切れ味が悪くなった物を砥ぎ直す」と言うことを一番の目的にしているのに対し、日本刀の研磨は、刃を付け斬れるようにすることを前提としつつも、さらにそこから作業を進め、刀身の地鉄、刃文の見所を良く見えるように、また、それを引き出すために砥ぐ、ということを主要な目的としている点が、一番の相違点と言える』として詳しい解説が載るので、そちらも見られたい。また、本条のために、先程、『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』を電子化注して公開したので、そちらも参照されたい。また、地名・砥石名の注をするのに甚だ困窮し果てていた最後になって、ギター製作家田中清人氏のサイト「楽器工房 Kiyond」の「天然砥石の歴史」で、この「砥石」の条が、既に電子化され、一部で詳しい注やリンクも施されたものが存在することを知った。現代語訳もされてあり、もっと早く気付くべきであったと思ったが、後の祭り。私の注は、特にそちらを参照することは敢えてやめた(孫引きは本意でないから)ので、不審な箇所はそちらを、是非、読まれたい。

「和刕春日山」現在の奈良県奈良市春日野町にある春日山。春日大社の東側にある標高四百九十七メートルの花山(はなやま)、若しくは西隣りの標高二百八十三メートルの御蓋山(三笠山・みかさやま)の通称。御蓋山を「(春日)前山」・花山を「(春日)奥山」と区別する場合もあり、また、両山および芳山(五百十八メートル)などの連峰の総称としても用いられ、ここは最後の意であろう。

「磨石(あわせと)」この場合は、砥石にぴったりと合わせて研ぐ砥石の意であろう。

「嵳峩」嵯峨に同じ。

「鳴瀧」京都市右京区の鳴滝山(この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。山名は確認出来ない。

「高尾」京都府京都市右京区梅ケ畑高雄町。古くは「高尾」とも書いた。サイト「天然砥石採掘・販売 砥取家(ととりや)」の「天然砥石について」の解説冒頭に、『京都で産出される天然仕上砥の成り立ちは今から』二億五千万年前、『太平洋赤道付近の深海底に』一『千年に』一『ミリメートルという気の遠くなるような時をかけて降り積もった火山灰や放散虫(海産プランクトンの一種)の遺骸などの堆積物が、地殻変動の圧力や花崗岩マグマの熱により変化し、海洋プレートの移動によって京都付近の地表まで運ばれてきたものとされています。いわば悠久の時と地球のダイナミックな活動がもたらした宝物と言えるでしょう』。『京都天然砥石の発祥は』八百『年以上に遡るとされています。鎌倉時代の高尾』(☜)『の重要文化財・神護寺領絵図では「砥取峯」が図示され、又、日本における最も古い記録では奈良時代の正倉院文書』『で青砥という記述が確認されています』とある。

「原山(はらやま)」現在の京都府南丹市園部町竹井の原山峠付近か。

「淺黄(あさき)」「浅葱」とも呼ぶか。「としのブログ 大工の とし の日々の出来事」の「浅葱という砥石」でその現物(採掘場所は不明)が見られる。

「丹波の白谷」不詳。

『上刕「戸澤砥(とさはと)」』群馬県甘楽(かんら)郡南牧(なんぼく)砥沢の産か。

『參河(みかわ)「名倉砥(なくらと)」』、『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』の「參州名倉」の私の注を参照されたい。

『「越前砥」は俗に、「常慶(しやうけんじ)」と唱ふるもの』後で「浄慶寺(じやうけんじ)」と出るものと同一と採る。個人ブログ「一乗学アカデミー」の「浄慶寺砥石採掘場探訪」に、『一乗城下町の発掘調査では、砂岩系の荒砥から粘板岩系の仕上げ砥まで各種の砥石が出土している』とあって、『第』四十四『次調査出土の砥石未使用品は、「浄慶寺砥石」(江戸時代の』「和漢三才図会」に、『浄教寺町で採掘される刀剣用の中砥としてその名が全国に知られていた)ではないかと考えられている』とあり、サイト「FUKUI MUSEUMS」の「一乗谷の石製品」にも、『一乗谷では谷の奥、浄教寺の砥山(標高』四百六十五メートル)『で産出する石材の中砥が認められ』、『この砥石は江戸時代に越前の產物となっていたようで、全国古今の產物を記した寛永』一五(一六三八)『年成立の俳諧書である「毛吹草」にも「浄慶寺砥」の名が見え』、また、正徳二(一七一二)年『成立の類書(百科事典)である『「「和漢三才図会」では、刀剣の砥石として「越前浄土慶寺村の砥石」が全国で三番目の評価が与えられたように、全国的にも優れた産地として知られていたようで』ある、とある。以上の地名のブレからも私は同じものと考えてよいと断ずるものである(ただ、「慶」を「けん」と読んで作者が平気でいる点が解せないのだが。或いは彫り師の誤りかも知れない。「ひ・い・ん」の崩しは、所謂、「烏焉馬の誤り」のそれにごく近いと思っている)。国土地理院図で見ると、「砥山」はここにあり、グーグル・マップ・データ(以下同じ)で見ると、地名の「浄教寺」はその北一帯に広がって現存し、この地区はまさしく一乗谷の奥であり、「一乗滝」もあり、また、寺は「光教寺」というのが現存することが判る(寺院と地名を同じにすることを憚る習慣は広く日本の各地で見られるから、奇異ではない)。既に電子化注した『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』も参照されたい。

「内曇(うちくもり)」『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』の『山州嵯峨の「内曇(うちぐもり)」』の注で示した通り、砥石の一種。京都市右京区の鳴滝山(この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。山名は確認出来ない)から産出する。黄白色に紫色の模様がある。刀剣を砥ぐために用いる。鳴滝砥。

「規矩(きく)」取り決めた仕来たり。

「靑砥(あをと)」『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』に「庖丁刀(ほうちやう)砥」「青砥(あほと)」とするもの。色が青く、肌理(きめ)の細かい粘板岩で作った砥石。中研ぎに用いる。

「平尾」特定不能。

「杣田(そまた)」京都府相楽郡和束町(わづかちょう)杣田(そまた)

「南村(みなむら)」「門前」「南村・門前は、京より七里ばかり東北にありて」とあるが、特定不能。

「中村」特定不能。

「井手黒(いでのくろ)」この地名では見当たらない。これは商品名を誤って混入させたものかも知れないが、「井手」では、それらしい砥石を産出した場所もないではないが、やはり特定不能である。

「湯舩(ゆふね)」特定不能。

「猪倉(いのくら)」京都府亀岡市宮前町猪倉か。

「佐伯(さいき)」京都府亀岡市稗田野町佐伯(さえき)か。

「芦野山(あしのやま)」不詳。

「扇谷(あふきたに)」不詳。京都府京丹後市峰山町丹波に扇谷遺跡というのはある。

「長谷(なかたに)」不詳。兵庫県丹波市春日町国領に長谷大池(ながたにおおいけ)という池はある。

「大淵(おほぶち)」不詳。兵庫県丹波篠山市大渕はある。

「岩谷(いわたに)」不詳。兵庫県丹波篠山市藤岡奥に岩谷城跡はある。

「宮川(みやかわ)」不詳。兵庫県神戸市長田区宮川町はあるが、位置的に違うか。

「榮螺(さゞゐ)の燈(ともし)」栄螺灯(さざえび)・栄螺の灯(ともしび)。昔、金山などの坑道で坑内に持って入った灯火。一説にサザエの貝殻に油を入れて火を灯すものという。

「石苗(いしのつる)」意味不詳。

「礦(まぶ)」地中から掘りだしたままの金属の原石を指す語。

「搘架木(つかき)」本文内に注した通りで、意味不明。そもそもが、『「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」』で語られ、そこで注したように、この「搘」とは、元、刀剣等を磨くための木(樹皮?)を指したもので、ここでの謂いでは、まるで意味が判らない。

『對馬の「蟲喰砥(むしくひと)」』小学館「日本国語大辞典」に、長崎県対馬に産する剃刀砥(かみそりど)・対馬砥の異称とある。中世から使用されていたようである。

「摸溶(いかた)」鋳型と同義か。

『伊豫の「白砥」』グーグル画像検索「伊予 白砥」をリンクさせておく。見事に白い砥石である。

「全石(せんせき)」完全な石。

「木の葉石」広義には、現在、植物の葉化石、又は、石灰華や珪華(けいか)のような温泉沈殿物中の葉化石様のものを指す。一般には、泥や砂或いは火山灰に木の葉が埋もれて固まった植物化石のことをいう場合が多い。木の葉の化石は、嘗ての湖・潟・内湾に堆積した地層から発見されることが多い。栃木県那須塩原市の第四紀(二百五十八万八千年前から現在までの期間)の湖成層から産するものが有名である。

「肥前の唐津紋口(もんくち)」唐津の地名では確認出来ない。

「紀州茅(かや)が中(なか)」和歌山の地名では確認出来ない。

「臺口磨工(たいくちときや)」以下の本文を見るに、「臺口」というのは、少なくとも、狭義には「研ぎの最初の工程」を言うものらしい。

「靑茅(あをかや)・白馬(しろむま)・茶神子(ちやみこ)・天草・伊豫」これらは多くの異なった砥石の呼称である。以下にも再度出るが、いちいち調べる気はない。悪しからず。

「石屑(こつば)」石木端(いしこっぱ・いしごっぱ)。石の刻み屑(くず)。

「たばこ庖丁」煙草の葉を刻むための専用庖丁。JT」公式サイト内の『「細刻みたばこ」作りの道具たち』に現物写真も載り、詳しい。そこに、『たばこが伝わってきた当初、刻みたばこは「たばこ包丁」と呼ばれる専用の刃物を使って、手刻みで葉たばこを刻んで作っていました。使用されたたばこ包丁は、当初は葉たばことともに輸入された舶来品。しかし、江戸時代初期』(十七世紀前半)『を過ぎ、国内で葉たばこの栽培や喫煙風習が広まるにつれ、各地で国産のたばこ包丁が製造されるようになります』。『また、こうした喫煙風習の広まりにつれ、葉たばこを刻んで売る「刻みたばこ屋」も全国で見られるようになり、より細く刻む技術も磨かれていったのです』とある。]

「和漢三才圖會」巻第六十一「雜石類」より「砥(といし)」

 

Toisi

 

といし   磨刀石 礪石

【音紙】 羊肝石

      【砥阿乎止

       礪阿良止】

本草砥磨物也細密者爲砥粗糲者爲礪人若死蹋之患

帯下未知所由又磨刀垽名龍白泉粉用塗瘰癧擦核

三才圖會云砥首陽山有紫白粉色者出南昌者最善

△按古者用木磨物故字作搘【音支】今則用蓋非眞石此

 凝土也堀山取之如瓦土然有数種

庖丁刀砥 蒼色謂之青砥山城之產爲上丹波及防州

 岩国產次之

刀劔砥 淡白色參州名倉之產爲最上山州嵯峨之内

 曇次之越前常慶寺村之產又次之

剃刀砥 淡白色山州鳴瀧及上野之產爲上丹波近江

 次之

礪石 肥前天草之產赤白襍有橒文謂之天草砥出於

 豫州者淡白或淡赤色有橒文並磨諸刀之新刀或作

 硯亦賤也紀州神子濵肥州唐津皆出礪其他不盡述

凡砥山中甚軟黏未爲砥者取之日乾細末水飛作團子

 名之砥粉𣾰工家復硏末和𣾰飯糊水塗𣾰噐下地謂

 之地鏽其上以𣾰可塗否則肌不密

龍白泉【砥水】以可染黑茶色【俗云憲法染】布帛藍染而柘榴皮

 五倍子煮熟以其汁再染浸龍白泉【陳久者良】一宿則純黑

 勝於鐡漿染而帛不易敗

○やぶちゃんの書き下し文

といし   磨刀石 礪石〔(れいせき)〕

【音紙】 羊肝石

      【「砥」は「阿乎止〔(あをと)〕」、

       「礪」は「阿良止〔(あらと)〕」。】

「本草」に、『砥は物を磨くなり。細密なる者を「砥(あをと)」と爲し、粗糲〔(それい)なる〕者を「礪(あらと)」と爲す。人、若し、之れを蹋(ふ)めば、帯下〔(こしけ)〕を患ふと〔いへど〕、未だ、〔その〕所由〔(よるところ)〕を知らず。又、刀を磨きたる垽(をり)を「龍白泉粉」と名づく。用ひて、瘰癧結核〔(るいれきけつかく)〕に塗る。』と。

「三才圖會」に云はく、『砥は首陽山に紫白粉色の者、有り。南昌に出づる者、最善なり。』と。

△按ずるに、古〔(いにしへ)〕は、木を用ひて物を磨(と)ぐ。故に、字、「搘」に作る【音「支」。】。今は則ち、石を用ふ。蓋し、眞の石に非ず、此れ、凝(こ)りたる土なり。山を堀り、之れを取ること、瓦〔の〕土のごとし。然り、数種有り。

庖丁刀(ほうちやう)砥 蒼色。之れを「青砥(あほと)」と謂ふ。山城の產、上と爲し、丹波及び防州岩国の產、之れに次ぐ。

刀劔砥 淡白色。參州名倉の產、最上と爲す。山州嵯峨の「内曇(うちぐもり)」、之れに次ぐ。越前常慶寺村の產、又、之れに次ぐ。

剃刀(かみそり)砥 淡白色。山州の鳴瀧及び上野〔(かうづけ)〕の產、上と爲す。丹波・近江、之れに次ぐ。

礪石(あらと) 肥前天草の產、赤に、白、襍(まじ)りて、橒文(もくめ)有り。之れを「天草砥」と謂ふ。豫州に出づる者、淡白〔(あはしろ)〕く、或いは、淡赤色、橒文(もくめ)有り。並びに諸刀の新刀(あらは)を磨(と)ぐ。或いは、硯に作る〔も〕亦、賤(やす)し。紀州の神子濵(みこの〔はま〕)・肥州唐津、皆、礪を出だす。其の他、盡く〔は〕述べず。

凡そ、砥、山の中、甚だ軟黏(やはらか)にして、未だ砥に爲らざる者、之れを取りて、日に乾し、細末にして、水を飛ばし、團子(だんご)と作〔(な)〕す。之れを「砥粉〔(とのこ)〕」と名〔(なづ)〕く。𣾰工家(ぬしや)に、復た、硏末して、𣾰・飯糊(ひめのり)・水を和えて、𣾰噐の下地を塗る。之れを「地鏽(ぢさび)」と謂ふ。其の上に𣾰を以つて塗るべし。否(しからざ)るときは、則ち、肌、密(こまや)かならず。

龍白泉(とじる)【砥水〔(とみづ)〕。】以つて黑茶色を染むべし。【俗に云ふ、「憲法染〔(けんぱふぞめ)〕」。】布帛、藍をもつて染めて、柘榴〔(ざくろ)の〕皮・五倍子〔(ごばいし)〕を煮熟して、其の汁を以つて、再たび、染め、龍白泉に浸し【陳久〔(ちんきう)〕の者、良し。】、一宿すれば、則ち、純黑〔たり〕。鐡漿染(かねそめ)に勝りて、而〔(しか)〕も、帛(きぬ)、敗〔(やぶ)〕れ易からず。

[やぶちゃん注:『「本草」に……』「本草綱目」巻十の「金石之四」の以下。囲み字は太字に代えた。

   *

越砥【「别錄中品」。】

 釋名磨刀石【藏器。】・羊肝石【「綱目」。】・礪石【時珍曰はく、「尚書」に、荆州厥の貢は砥礪と。注に云はく、砥は細宻を以つて名と爲す。礪、粗糲を以つて稱となす。俗に稱する者は、羊肝石と爲す。形色に因るてなり。景曰はく、越砥は今の細礪石なり。臨平に出づ。】

 氣味甘。毒、無し。

 主治目盲の痛みを止め、熱瘙(ねつさう)[やぶちゃん注:熱を持った皮膚の瘡。]を除く【「本經」。】。磨りし汁を目に㸃じて、障翳を除く。赤(しやく)に燒きて、酒に投じ、飲みて、血瘕痛切[やぶちゃん注:血が凝り固まって激しい痛みを生ずる症状か。]を破る【藏器。】。

 礪石主治宿血を破り、石淋[やぶちゃん注:膀胱結石。]を下し、結瘕を除き、鬼物惡氣を伏す。赤に燒き、酒中に投して之れを飲む。人、言之れを蹋(ふ)めば、帶下を患ふと。未だ由る所を知らず【藏器。】。

 磨刀垽(またうぎん)【一名「龍白泉粉」。】主治蠼螋尿瘡(かくさうにねうさう)[やぶちゃん注:現行ではサソリ刺傷の症状とされる古病名。]に傅(つ)效有り【藏器。】瘰瀝結核に塗る【時珍。】

   *

「粗糲〔(それい)なる〕者」粒子が粗い物。

「蹋(ふ)めば」「踏めば」に同じ。

「帯下〔(こしけ)〕」これは女性性器の分泌物又はその分泌異常を含む語でありから、踏む対象が女性に限られる禁忌となる。山中への女性の入山を嫌った旧習の名残ではあるまいか。

「垽(をり)」澱・滓(おり)のこと。

「瘰癧結核〔(るいれきけつかく)〕」平凡社「東洋文庫」版では『結核性の頸によく出る腫れもの』とする。

『「三才圖會」に云はく、『砥は首陽山に紫白粉色の者、有り。南昌に出づる者、最善なり。』と』国立国会図書館デジタルコレクションの一六〇九序の刊本では、ここと、ここ。但し、そこでは冒頭の図のキャプションは「礪」であり、本文の「首陽山に」以下の主語は「礪石」であって、「砥」ではない。「首陽山」周の武王を諌めた伯夷・叔斉が隠棲して餓死した山として知られるが、現在の山西省の西南部にあったとも言われ、別に河南省洛陽市の東北に同名の山も現存し、比定地は複数ある。「南昌」江西省南昌市。

「搘」この字は「支える」或いは「枝」の意で、特定の樹木を指さない。「東洋文庫」版では、『搘とは柱氐(どだい)のこと。氐は砥とも書く』とあるが、注が不親切で、「柱氐」の意味が判らない。「柱のようにそそり立っている石」の意のようではあるが、それでは、本文の意が通じない。

「庖丁刀(ほうちやう)砥」「青砥(あほと)」色が青く、肌理(きめ)の細かい粘板岩で作った砥石。中研ぎに用いる。

「刀劔砥」刀剣用砥石は複数のものを段階によって使用する。サイト「日本刀研磨 楽屋」の「刀剣研磨工程写真集」を参照されたい。

「參州名倉」サイト「鉋、鑿、大工道具の曼陀羅屋」のこちらに、『名倉砥の産地は全国の天然砥石産地の中でも一地域にしか無く(愛知県北設楽:きたしたら)』、同『郡』の旧『三輪村砥山であって』、『従来』、『言われている様に名倉村とか名倉山から出ているのではない。三輪村の隣が振草村で振草村に隣接して名倉村があるけれども、名倉村の方からは砥石が出ていない』。『恐らく』、『昔』、『此の辺一帯が名倉村といわれたか、或は砥石は名倉村へ運び出されて此処から諸国へ売り出された為に其名を得たものと思われる。土地の伝説では平家の落武者、名倉左近が刀を研いで見て発見したと言われており』、『現在は閉山されてい』るとある。この附近か(国土地理院図)。

『山州嵯峨の「内曇(うちぐもり)」』砥石の一種。京都市右京区の鳴滝山(この附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)か。山名は確認出来ない)から産出する。黄白色に紫色の模様がある。刀剣を砥ぐために用いる。鳴滝砥。

「越前常慶寺村」諸本で地名が異なるが、現在の一乗谷の奥の福井県福井市浄教寺町(じょうきょうじちょう)のこと。

「剃刀(かみそり)砥」剃刀やナイフ様の小型のそれを砥ぎ上げるのに用いるもの。

 淡白色。山州の鳴瀧及び上野の產、上と爲す。丹波・近江、之れに次ぐ。

「橒文(もくめ)」木の木目に似た紋のこと。

「新刀(あらは)」新しく鉄を鍛えて作り上げた研ぎが成されていない刀。新身(あらみ)。

「賤(やす)し」購入価格が安いの意。

「紀州の神子濵(みこの〔はま〕)」和歌山県田辺市神子浜(かみこはま)。

「盡く〔は〕述べず」各地で各種あり、産地・石質などを総て述べ上げる暇はない。

「水を飛ばし」「東洋文庫」版では、『水を打ち』とある。

「𣾰工家(ぬしや)」漆細工をする者。

「飯糊(ひめのり)」澱粉糊。姫糊(ひめのり)・続飯(そくい)、正麩糊(しょうふのり)などとも呼ばれるが、本来の「姫糊」と「続飯」は飯粒(めしつぶ)を潰して練って作った糊で、「正麩糊」は小麦澱粉から作った糊のことを指す。よく知られるように、接着剤・粘着剤として用いる。私は、昔、亡き母と障子を貼るのに、それを用いたのを想い出す。

「𣾰噐」漆器。

「地鏽(ぢさび)」錆漆 (さびうるし:水で練った砥粉 (とのこ) に生漆 (きうるし) を混ぜたもので、漆塗りの下地のほか、絵模様の輪郭を描いたり、肉を盛り上げたりするのに用いる。単に「さび」とも呼ぶ) を下地に塗ること。錆塗り。

「龍白泉(とじる)」砥汁。砥石で金属を砥いだ際に出る汁、或いはそれを専ら売るために砥石を研いだ滓り汁。

「憲法染」黒茶色の地に小紋を染め出したもの。慶長(一五九六年~一六一五年)の頃に吉岡流(本来は室町後期に興隆した剣術の一流派。当主は憲法 (けんぼう) の名を世襲し、小太刀 (こだち) を得意とした。憲法流)四代目憲法 の考案という。「吉岡染め」とも。刀剣研ぎの過程で得たそれを、染め物に用いたものであろう。

「柘榴〔(ざくろ)の〕皮」フトモモ目ミソハギ科ザクロ属ザクロ Punica granatum の樹皮・根皮・果皮は広く漢方生薬(特に駆虫薬)として用いられてきた。

「五倍子」ウィキの「ヌルデ」によれば、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデヌルデ(白膠木)Rhus javanica 或いは変種ヌルデ Rhus javanica var.chinensis の葉にカメムシ目アブラムシ上科アムラムシ科タマワタムシ亜科 Schlechtendalia 属ヌルデシロアブラムシSchlechtendalia Chinensisが寄生して形成される大きな虫癭(ちゅうえい:所謂、「虫瘤(むしこぶ)」)から抽出した染料、或いは漢方薬を言う語である。この虫癭には『黒紫色のアブラムシが多数詰まっている。この虫癭はタンニンが豊富に含まれており、皮なめしに用いられたり、黒色染料の原料になる。染め物では空五倍子色』(うつぶしいろ:やや褐色がかった淡い灰色)『とよばれる伝統的な色をつくりだす。インキや白髪染の原料になるほか、かつては既婚女性』及び十八歳以上の『未婚女性の習慣であったお歯黒にも用いられ』、『また、生薬として五倍子(ごばいし)あるいは付子(ふし)と呼ばれ、腫れ物、歯痛などに用いられた』とある(但し、猛毒のあるトリカブトの根も同じく「付子」で「ふし」と読むので混同しないよう注意を要する、と注意書きがある)。

「陳久〔(ちんきう)〕」古いもの。この場合は、再度、浸す龍泉水のことを指している。

「一宿」一晩。

「鐡漿染(かねそめ)」生の鉄を長く水に浸して出来る黒い汁(鉄漿)を用いて紺色に染めること。]

2021/07/11

芥川龍之介書簡抄95 / 大正八(一九一九)年(七) 二通

 

大正八(一九一九)年十一月二十六日・本鄕區湯島天神前陽明舘内 瀧井折柴樣・十一月廿六日朝 芥川龍之介

 

江の句水蘆の方遙に句品上なる如し あれは貰つて僕の句にするよ 水芦と來ると打ち透かすも活きて來るのだ

夏山の句未考 その内あれも改作してものにする その時も亦氣がついたら手傳つてくれ給ヘ

小穴君からはがきが來た 君たちは皆揃ひも揃つて同じやうな字を書くね まさか腹の中から拓本にくるまれて生まれ來た譯でもあるまいに

これは惡まれ口[やぶちゃん注:「にくまれぐち」。]だ

小穴君の作品はまだ讀まない この間はあの人が來てくれたのでいろいろ面白かつた

昨夜往來で句を得た

   稻むらの上や夜寒の星垂るる

    十一月二十六日      我 鬼

   折 柴 先 生

 

[やぶちゃん注:「江の句」採用していないが、十一月二十三日の佐々木茂索宛書簡に出る、芥川龍之介自身の句、

 江の空や拳程なる夏の山

であろう。提供されていない前の瀧井書簡にもその句を書いていたものと思われる。

「水蘆の方」筑摩全集類聚版脚注に、『瀧井が芥川の作品』(俳句)『を批評した句中の讃辞か。のちに「水蘆や虹打ち透かす五六尺」の句を作っている』とある。十二月二十五日 龍村平蔵(明治九(一八七六)年~昭和三七(一九六二)年: 初代。染織研究家。名前は累代に亙って襲名されており、初代から四代までいる。各人ともに法隆寺・正倉院に伝わる古代裂など伝統的な織物の研究に尽力した。大阪博労町(現・大阪市中央区)の両替商平野屋の平野屋平兵衛の孫として生まれ、幼時から茶道・華道・謡・仕舞・俳諧と文芸美術の豊かな環境の中で育った。十六歳の時、祖父が死去し、これ以降、家業が傾き始めたことから、彼は通っていた大阪商業学校を退学、西陣で呉服商の道へと進んだ。当初は販売に従事していたものの、徐々に織物の技術研究に没頭するようになり、明治二七(一八九四)年、十八歳で織元として独立、商売も順調に拡大し、三十代の若さで「高浪織」や「纐纈(こうけち)織」など数々の特許を取得して、周囲に衝撃を与えた。以上は当該ウィキに拠った)宛で、

 水蘆や虹打ち透かす五六尺

と披露し、句の直前手紙文末尾に『二伸 數日前私の所で運座』(十二月中旬に自宅で開いた)『をしましたその時の句を御披露しますから御笑ひ下さい寒中ことさら夏の題を選んだのです』とあるだけでなく、雑誌『文藝俱樂部』の「文壇眞珠抄」に掲載された句にこの句が混じっている。それだけでなく、

 水蘆や虹打ち透かす五六尺   (大正八年)

 濡れ蘆の亂れゆゝしや虹五尺  (同)

 虹ふくや亂れ伏したる川の蘆  (同)

 濡れ蘆や虹を拂つて五六尺   (同)

 濡れ蘆や虹を拂つて五六尺   (大正九年一月)

以上の句の出典は私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を見られたい。折柴の原型を知らないが、これはもう盗作の部類ではあるまいか。芥川龍之介は俳句は言うに及ばず、「トロツコ」(私の古い電子テクスト)などのように、力石平蔵の書いたものを倍近くに書き変えたもの発表しておいて、平然と自作としている辺りは、確かに「トロツコ」は大人の童話として優れているものの、ちょっと厭な感じが私には、ある(「芥川龍之介 手帳3―41~45」の冒頭の私の注を参照されたい)。

「夏山の句」同じく採用していないが、この直前の十二月二十二日の折柴宛で、

 夏山や峯も空なる月明り

と披露している句。これも後に種々の改造をしている。私が厭なのは、彼の詩歌が感性のアウフヘーベンなどではなく、忌まわしい「改造」だからである。

「小穴君」「小穴君の作品はまだ讀まない」「この間はあの人が來てくれたのでいろいろ面白かつた」芥川龍之介の後期の盟友で、終生、異常なまでに信頼をおいていた洋画家の小穴隆一(おあなりゅういち 明治二七(一八九四)年十一月二十八日~昭和四一(一九六六)年:龍之介より二歳年下)については、二つの繪   小穴隆一   附やぶちゃん注  「龍之介先生」』の私の冒頭注を参照されたい。既に述べたが、小穴はこの三日前の十一月二十三日日曜日に、瀧井孝作(折柴)に伴われて、芥川龍之介を自宅に訪ねて、始めて逢っている。「小穴君の作品」というのは、小穴の書いた短編小説のことで、次に示した書簡でその批評を述べている。彼は「一游亭」と号して俳句も嗜み、後の大正一四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』には、「芥川龍之介」の署名の龍之介の発句五十句と、小穴一游亭隆一の発句五十句から成る二人句集「鄰の笛」を発表してもいる。私はその推定復元版をブログで電子化している。]

 

 

大正八(一九一九)年十一月二十七日・田端発信・本鄕區東片町百三四 小穴隆一樣・十一月廿七日朝 市外田端四三五 芥川龍之介

 

原稿拜見しました左に遠慮のない所を申し上げます

話の方は槪して言ふと材料そのものの面白みが勝つてゐてあなたでなくては書けないと言ふやうな趣が乏しい 成程讀んで面白いのは事實だがそれは木地のまゝ素材を抛り出した面白さだと心得ますその難が一番少いのは囘想記ですそこであなたの話が何故材料の面白さ以上に出ないのだらうと考へると第一にはさう言ふ材料をとり扱ふあなたの主觀の力が十分中まで浸透してゐないせゐではないでせうか「悲しき誕生日」などは殊にその爲に折角の材料が活きなかつたやうな氣さへしますそれから書き方ですな あなたの文章は荒削りで力があつて甚氣持ちが好いが餘りあなたの獨合點だけでどしどし書いてしまふから讀者は時々話の中で途方に暮れる事があります たとへば「志一さんの話」の中で「母は誰だらうと思つて戶を開けると云々」と突然あなたの阿母さん[やぶちゃん注:「おかあさん」。]を點出するが讀者にはちよいとあれが誰の阿母さんだか判然しない――さう云ふ所が可成ありますこの二點が滿足に出來たらあなたの話は皆立派なコントになるでせう そこで元へ返りますがあなたの話は材料の面白さが勝つてゐる 逆に言へば表現が十分でない その表現の中でも人間を書くのに行爲から心理を書く場合(外で内を說明する場合)は心理を心理として書く場合より遙にうまい宮島先生を見ても先生が「さうであつたか」と急に柔しくなる[やぶちゃん注:「やさしくなる」。]所はまづいが末段の「一月ばかりたつての朝云々」の所は淡々としてゐても成功してゐます 最後に作品の出來を云へばやはり第一は囘想記でせう あれはほんたうの哀情があつて文章も中々面白い。私のやうな摺れつからしの人間には書けないものです(唯 father などと云ふ英語はどうも嫌味です」あれだけのものが書ける人は海紅同人にも多くはないのでせう 折柴など感心しなければ折柴の方が惡いのです 詩は「われ唯一度きみを欺けり」だけ面白く讀みました「斷章」は最も辟易します 序でなから[やぶちゃん注:ママ。「ながら」か。或いは「なからで」(半ばで)の誤記か。]あの中の鷄の畫を愉快に眺めました 但腹の所の三筆ばかりの線は甚好きません

以上は私の出放題な批評です勿論私自身の事は大抵棚へ上げた批評と御思ひ下さい

忘れたが馬のつるむ話は最も素材だけ抛り出したものです つるみそくなつた馬の爲にも もう少し親切に書いておやりたさい

もう一つ忘れたが大島風景小品畫會の文は好きですな偉らがつたり殊勝がつたりしないで甚心もちがよろしい 但しあれを讀んですぐ入會する氣になる程惑服するかどうかわかりません 妄言多罪

    十一月廿六日夜    芥川龍之介

   小穴隆一樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の小穴の作品への批評は、誠に核心を突いている。私は小穴の芥川龍之介の死後の龍之介について語った「二つの繪」と随筆集「鯨のお詣り」をブログ・カテゴリ「芥川龍之介盟友 小穴隆一」で電子化注しているが、龍之介がここで指摘している違和感(或時はまさに「辟易」と言うに相応しいものがあった)を私も甚だ強く感じた。未読の方は一度、読まれるとよい。

「海紅」(かいこう)は大正一四(一九二五)年に子規門下で新傾向俳句の河東碧梧桐が主宰した自由律俳句の結社。後に碧梧桐門下の中塚一碧楼が引き継ぎ、現在に至っている。編集の総責任者は一碧楼が務めたが、編集者として瀧井孝作(折柴)も加わった。龍之介も年上の友人で同人であった小沢碧童を通じて、一時、参加しており、その結果、芥川龍之介の俳句の中には明らかな自由律俳句が混じっている。当時の挿絵は小穴隆一も描いている。]

小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附) (2) 探偵小說としての三比事

 

      探偵小說としての三比事

 前章に私は、櫻陰、鎌倉、藤陰三比事の内容が、互に似通つたものであることを述べたが、物語そのものゝ性質からいふと、それぞれ多少の特色を持つて居るやうてある。尤も櫻陰比事と鎌倉比事は形式も内容も殆んど同じてあるといつてよいが、藤陰比事は、これ等とは少しちがつて居る。前にも示したとほり、その形式が地頭への訴狀によつて犯罪なり爭論なりの内容が示されてある點に於てちがふばかりでなく、ユーモアに富んだ話が比較的澤山集められて居る點に於てもちがつて居るのである。

 抑も探偵小說には、『推理』以外に、ミステリー(怪奇)と、ホーロウ(凄味)[やぶちゃん注:horror。ホラー。]と、ウイツト(機智)と、ユーモア(諧謔)のどれかゞなくてはならない。ところがこの三つの比事には、ミステリーとホーロウとは極めてうすく、ウイツトとユーモアと多少の『推理』とが認められるだけてある。その『推理』もどちらかといふと大したものではなく、『探偵』の任を兼ねて居る裁判官は、屢ば直觀によつて事を斷じて居る。で、殘るところはウイツトとユーモアだけであるが、そのうちユーモアは、櫻陰、鎌倉の二比事に乏しく、藤陰比事に於て比較的豐富である。だから、探偵小說としては藤陰比事が三つのうちで最も勝れて居るといつてよいかもしれない。私は左に藤陰比事中のユーモアに富んだ話の二三を紹介して見ようと思ふ。

 白石町に小細工屋の平内《へいない》といふものがあつた。ある日つらつら考へて見るに、京都のやうな大きな都會では每日死ぬ人の數が隨分澤山あつて從つて葬式の數も隨分澤山ある。ところが、昔からの習慣で葬式の際には、棺桶の中へ六道錢といつて鳥目を六文づつ入れて死人と共に葬る習慣になつて居るから、これを全體に計算して見ると、よほどの金錢の費えである。だからこの浪費をふせぐために、錢の形分したものを拵らへ、それをやすく買へるやうにして、六道錢の代りとしたならば世間の人も大に助かる譯である。そこでその六道錢代用のものを專買特許にして貰へば自分は大に助かる……かういふ蟲のよい計畫を立てゝ地頭のところへ願出た。

 地頭は早速平内を御召しになつて、徐ろに仰しやつた。『いかにも其方が申す通り、大切な寶を土に埋めたり火に燒いたりすることは國家のついえである。けれど、六道は地藏が管轄して居るといふことであるし、なほゑんま王の承諾を經なければ、六道錢の規則を變へることが出來ない。て、其方は早速冥土へ行つて地藏菩薩とゑんま王に對面してくるがよい。娑婆のいとまは卽時にとらせるから。』

 平内はぶるぶるつと身を顫はせて、夢中で我家へ走りかへつた。

『あらお前さんどうしたの、頭から血が流れて居るわよ!』と、女房は驚いてたづねた。この言葉にはつと我にかへると、平内は頭のてつぺんにはげしい痛みを覺えた。彼はあまりにあわてゝ走り出たゝめ、御門のくゞりで、したゝかその頭を打つたのである。

 この物語のおしまひのところは、探偵小說として相當の出來だと思ふ。[やぶちゃん注:以上は巻之一の掉尾にある「㊈世はさまさまの願がひ事」で「国文研データセット」のこちらの影印本の、ここと、ここである。]

 壷井町に辰巳屋藤兵衞といふ絹布商があつた。家族は先妻の子藤六と後妻との三人、外に手代小僧をつかつて、可なり盛大に暮して居たが、藤丘衞が病死するなり、後妻は繼子の藤六をうるさがり、手代と心を合せて、長崎へ遊學に出さうとした。そこで藤六は我家の將來をおもんぱかつて、地頭に向つてこの旨を訴へ出て繼母に意見をしてもらふやうに願つた。

 地頭は双方を呼び出して調べて見たところが、繼母の方が惡いので、今後は睦じく暮せと諭して歸した。後妻は澁い顏をして歸つたが、どうせ繼子との仲は圓滿に行く譯もないから、こんな家には見切りをつけて、その代り故人が平素大切にして居た寶刀を奪つて分れようと決心し、『家に居では煩惱の種てすから、出家致したいと思ひますについて、故人をしのぶために、故人り殘して行つた刀を形見として頂かせて貰ひたい。』と地頭に向つて言葉巧みに願ひ出た。すると地頭は尤もに思召され、藤六を呼んで繼母の希望を告げ、刀を讓るやうに承諾せしめた。

 この刀は故人が毎日、持佛堂へ看經する度毎に錦の囊から取り出して、『この刀の功德で七十までも生今ることが出來たのだ。』と禮拜したものであるから、彼女は、此家に傳はる第一の寶であると思ひこみ、少くと百兩や二百兩の値はするだらうと察して、形見分けけ[やぶちゃん注:ママ。]として目つけたのである。だから地頭の處置で、否、地頭をだましてまんまと讓り受けたことを彼女は内心大に誇りとした。

 ところが、愈よ緣を切つて、さてその刀を方々の刀屋へ見せると、鐚一文の値打もないといふことであつた。彼女は大に驚いて自分の見込ちがひを歎いたが、今更どうすることも出來ず、ひたすら、自分の奸計を呪はざるを得なかつた。それにしても故人は、何故にその刀をあれ程に大切にしたのであらうか。

 それは故人が若いときのことである。ある日稻荷祭を見物に行つて、一杯機嫌で附近の若いものと口論し、遂に脇差を拔いて先方を斬りつけたが、刀がなまくらてあつたゝめに先方はかすり疵だに受けず、そのうちに仲裁がはひつて、血を見ずに喧嘩は終つた。酒がさめてから藤兵衞はつくづく思つた。あゝよかつた。若しこの脇差がなまくらでなかつたなら、自分は必ず人殺しをして、自分の命を無くして居たかもしれない。して見ればこの刀は自分の命の恩人である。』かう思つて其後彼はこの刀を錦の囊に入れて、每日取今出しては感謝することにして居たのである。

 これも中々氣のきいた話だと思ふ。刀を大切にした理由など頗る面白く、取り扱ひやうによつては相當な探偵小說になると思ふ。[やぶちゃん注:これは巻之三の「㊀案に相違の寳物」である。同前で、ここここと、ここと、ここと(見開き挿絵のみ)、ここで読める。]

 このほか、附近の出火に際しである絹布屋が葛籠《つづら》を七つ運び出すと、いつの問にやらそのうち三つが、わさび俵とすりかへられて居たが、その実、盜まれた葛籠の中身は相場附けの書狀や反古や下男の着替であつて、之れに反して、山葵は、靑物町が燒けたゝめに高價に賣れ、却つて絹布屋が儲けた話[やぶちゃん注:これは巻之四の「㊂塊(つちぐれ)の葛籠(つゞら)黃金(こがね)の山葵」。ここと、ここ。]。鑓持の我左衞門《がざゑもん》といふ者が頓死して、寺で僧侶が引導を渡して居ると、急によみがへつて、僧侶たちに喰つてかゝつたので、僧侶が棒を持つてたゝき殺さうとすると、我左衞門が竹緣の丸太柱を引拔いて大立ちまはりを演じるといふ話[やぶちゃん注:これは巻之七の「㊃釣鬚(つりひげ)こそ發心(ほつしん)の種(たね)」。ここと、ここ。挿絵が前のここにある。なお、今回、別に板行不明の同書の別本を早稲田大学図書館「古典総合データベース」で発見した(第七巻PDF)が、そこでは、標題が「菩提の宥免に我を捨(すつ)る鑓持(やりもち)」と異なっている(1314コマ目。挿絵は11コマ目)後者の方が判り易い標題なので、後の再版の際に改題したものと思われる。]。むかで屋といふ代々評判の饅頭屋の隣りに新しく饅頭屋が出來、而も暖簾に同じく『むかで』の形を染投き赤前垂の女を澤山雇つて商賣したので、本家は急にさびれてしまひ、本家の主人が憤慨のあまり地頭に訴へ出ると、新らしく出來た饅頭屋は呼出されて『わたしの家の暖簾に染め拔いたのは、むかでではなくけじげじで御座います』といつた話[やぶちゃん注:巻之五の「㊃蜈(むかで)に似る蚰(げじげじ)屋」。ここと、ここ。]など、いづれもユーモアに富んで居ると思ふ。

 藤陰比事の中にはこの外にもまだユーモラスな話が相當にあつて、どちらかといふと、すべての話の底にユーモアがかくされてあるといつてもよい程である。之に反して、櫻陰鎌倉比事にはユーモアが乏しい。全然ないではないけれど、たまたまユーモラスな話だと思ふと、『醒睡笑』の模倣であつたりするのである。

2021/07/10

芥川龍之介書簡抄94 / 大正八(一九一九)年(六) 三通

 

大正八(一九一九)年十一月五日・田端発信・江口渙宛

 

君の印象中「感銘は滅多にない」とありあれは「滅多に間違はない」の誤植なり君が年中石心鐡腸の無感銘人だと思はれさうで困つてゐる君の歌二首とも好い紫の花の比ぢやない僕は新年號にとりかかつたまだ講演は草稿も出來ない さやうなら

     唱和一首

   秋の日のほがらほがらに照るところ菊を買ひ持て行くなんぢはや

 

[やぶちゃん注:

「君の印象」芥川龍之介が『新潮』大正八年十一月号に書いた「江口渙氏の事」のこと。「青空文庫」のこちらで新字新仮名で読めるが、その中の第二段落目で(以下は岩波旧全集に拠った)、

   *

 それから江口の頭は批評家よりも、やはり創作家に出來上ってゐる。議論をしても、論理よりは直觀で押して行く方だ。だから江口の批評は、時によると脫線する事がないでもない。が、それは大抵受取つた感銘へ論理の裏打ちをする時に、脫線するのだ。感銘そのものの誤は滅多にはない。「技巧などは修辭學者にも分る。作の力、生命を摑むものが本當の批評家である。」と云ふ說があるが、それはほんたうらしい噓だ。作の力、生命などと云ふものは素人にもわかる。だからトルストイやドストエフスキイの飜譯が賣れるのだ。ほんたうの批評家にしか分らなければ、どこの新劇團でもストリンドベルクやイブセンをやりはしない。作の力、生命を摑むばかりでなく、技巧と内容との微妙な關係に一隻眼を有するものが、始めてほんたうの批評家になれるのだ。江口の批評家としての强味は、この微妙な關係を直覺出來る點に存してゐると思ふ。これは何でもない事のようだが、存外今の批評家に缺乏してゐる强味なのだ。

   *

と述べているのだが、岩波旧全集「後記」によれば、初出では、『感銘そのものの誤は滅多にはない。』の部分が、『感銘は滅多にはない。』となっている旨の記載がある。これはちょっと問題の大きい誤植である。

「紫の花の比ぢやない」「紫の花」は芥川龍之介の短歌であろうが、「車前草のうす紫の花ふみてものを思へば雲の影ゆく」があるが、これは大正二(一九一三)年の作で(「芥川龍之介書簡抄16 / 大正二(一九一三)年書簡より(3)」井川恭宛参照)、如何に龍之介が気に入っていた一首としても、五年前の作品を持ち出すのは、どうだろう? という気がしなくもない。それに、江口とは、この月の上旬に與謝野晶子の歌会に出席している(新全集宮坂年譜)から、或いはその時に龍之介が詠じた一種かも知れない。或いは、先の旧作を持ちこんだものかも知れない。龍之介は俳句では、よく旧作を改作して詠んでいる。なお、次の下島勳宛書簡も参照のこと。

「新年號にとりかかつた」大正九年新年号への龍之介の発表作は、実に十二作品に及ぶ。「魔術」(『赤い鳥』・脱稿は十一月十日)・「鼠小僧次郞吉」(『中央公論』・起筆は十一月二十四日で脱稿は十二月六日)・「有島生馬君に與ふ」(『新潮』・十二月四日脱稿)・「葱」(『新小説』・十二月十一日脱稿)・「舞踏會」(『新潮』・これ以降の作品は概ね十二月十七日脱稿か)・「尾生の信」(『中央文学』)・「動物園」(「象」から「日本犬」までで『サンエス』)・「山房の中」(『大阪毎日新聞』。後に「漱石山房の秋」に改題)・「私の生活(三)」(『文章倶楽部』)・「我鬼氏の座談のうちから」(『ホトトギス』)・「日記のつけ方」(『中央文学』)と、俳句「雜詠」(『ホトトギス』「雜詠」欄)である。

「まだ講演は草稿も出來ない」十一月八日土曜日午後一時に大手町大日本私立衛生会館で開催された第一回東京朝日新聞社主催の文芸講演会での「開會の辞に代へて」という題目での講演のそれを指す。]

 

 

大正八(一九一九)年十一月九日・田端発信(推定)・下島勳宛・空谷先生 侍史・十一月九日午 芥川龍之介

 

昨日はわざわざ講演御來聽下され難有くも恐縮に存候 壇上にては眼ちらつきよく分らざりしも菊池の演說を傍聽致せし節不圖[やぶちゃん注:「はからずも」。]も御出になる事を知りし次第に候 其折御挨拶申上ぐ可き所混雜中意に任かせず欠禮仕候 今夜にても參上致さんと思ひ居候へども日曜の面會日にていろいろな人間參る可く拜趨致し難かる可きやに知れず候間この手紙にて御礼旁御詫び申上候 小生の講演もう少ししやべる事も有之候へどあの演壇の暑さなみ大抵ならず且存外時間のかゝりしに當惑し尻切蜻蛉にして止め候 唯もつと氣が顚倒するかと存候所存外逆上せざるものと發明致候へば今度からはもう少し講演らしい講演致さる[やぶちゃん注:ママ。]可く候 草々頓首

    十一月九日      芥川龍之介

   空 谷 先 生 梧下

  二伸 先日晶子女史歌會へ參り候所小生の歌ちつとも拔けず漸く二点を得しのみに候 御一笑までに當日好評なりし歌と最も不評なりし小生の歌とを御らんに入る可く候

   戀に燃え反逆に燃え紅の火花を散らすわが心の臟     万造寺齊作

   入日さす草の家なれば麥飯にわが食すものは蝗麻呂かも  小生作

[やぶちゃん注:「下島勳」(いさをし(いさおし) 明治三(一八七〇)年~昭和二二(一九四七)年)は医師。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、「空谷」と号した。また、書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。

「講演」前の江口渙宛書簡の私の注を参照。

「拜趨」(はいすう)は「出向くこと」を遜って言う語。急ぎお伺いすること。参上。

「万造寺齊」萬造寺齊(まんぞうじ ひとし 明治一九(一八八六)年~昭和三二(一九五七)年)は歌人・小説家・英文学者。当該ウィキによれば、『鹿児島県日置郡串木野町羽島(現在のいちき串木野市)の裕福な地主の家に生まれ』、『旧制川内』(せんだい)『中学から旧制第七高等学校を経て』、『東京帝国大学英文科卒業』。『東京で与謝野鉄幹に師事し』、『明星』・『スバル』に『参加、堀口大學から「短編実作者の第一人者」と評された』。『また』、『石川啄木、高村光太郎、北原白秋、森鷗外らと親交し、東大卒業後は愛媛県西条中学校などで教鞭をとった』。二十八『歳の時、加世田の私有地を売った資金で』、『我等』を『創刊するも』、『下宿の火事により原稿が消失、廃刊』した。『京都に移り住み』、『街道』を『発行して再起を図るも』、昭和一九(一九四四)年、『戦時統制による紙不足で』、またしても廃刊となり、『戦後は農地改革により』、『地主としての地位を失い、故郷に戻る願いも叶わず』、『京都で』七十で亡くなった。最期の『歌は「一生のあがきは終へぬ安らかに今はやすらへ吾がたましひ」であり、不遇により』、『中央歌壇における成功は』遂に『得られなかった』とある。

「食す」「をす」。

「蝗麻呂」(いなごまろ)は「稻子麿」で、中古にイナゴを擬人化していった語で、イナゴやバッタ類の総称古名となった。平安時代の延喜一八(九一八)年頃に深根輔仁(すけひと)が著した「本草和名」(ほんぞうわみょう)に既に出ている。]

 

 

大正八(一九一九)年十一月十一日・田端発信・小田壽雄宛

 

啓 君の手紙愉快に拜見僕に何故冷眼に世の中を見るかと云ふ質問も靑年の君としては如何にも發しさうなものと考へますが僕には現在僕の作品に出てゐる以上に世の中を愛する事は出來ないのだからやむを得ませんのみならず愛を呼號する人の作品は僕にとつて好い加滅な噓のやうな氣さへするのです僕は世の中の愚を指摘するけれどもその愚を攻擊しようとは思つてゐない僕もさう云ふ世の中の一人だから唯その愚(他人の愚であると共に自分の愚である所の)を笑つて見てゐるだけなのですそれ以上世の中を愛しても或は又惜んでも僕は僕自身を僞る事になるのです自ら僞る位なら小說は書きません要するに僕は世の中に pity を感ずるが love は感じてゐない同時に又 irony を加へるより以上に惜む氣にもなれないのですかう云ふ態度は今の君にとつて物足りないものかも知れませんけれども年齡は早晚君をそこまで導くでせう僕は敎師をやめてのびのびした學校生活は大嫌だつたのですだから生徒の事を今はよく覺えてゐない覺えてゐるのは一年の時から敎へた君の class だけ位です君の健康を祈ります 頓首

    十一月十一日     芥川龍之介

   小田壽雄樣

 

[やぶちゃん注:「小田壽雄」「おだとしお」と読むか。新全集「人名解説索引」に、『横須賀の海軍機関学校の生徒で』、『芥川が』二年四ヶ月、『英語を担当した教え子』とある。

「pity」哀れみ・同情。自分より劣っていたり、弱い立場にある人に対する哀れみの気持ちを表わすことが多い。

「irony」アイロニイ。皮肉。]

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版) 一括縦書ルビ版 公開

梅崎春生の日記の恣意的正字歴史的仮名遣変更一括縦書ルビ版(PDF・藪野直史注附き)を公開した。3メガバイト強。

ブログ1,560,000アクセス突破記念 梅崎春生 麵麭の話

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十二月発行の『別冊文藝春秋』第五号に初出、翌年八月刊の講談社「飢ゑの季節」に所収された。「麵麭」は「パン」と読む。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 標題及び本文内の「麭」の字は「麥」の最終画が(つくり)の下に延びない字体であるが、表記出来ないので通字を用いた。

 文中に注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが先程、1,560,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021710日 藪野直史】]

 

   麵麭の話

 

 日曜だというのに、なぜこんな混むのだろう。あいにく窓際に立ったばかりに、背後から押しつけられると、かたいかたい窓枠がいたく胸を衝きあげてくるのだ。外套を着ているとはいえ、それはじかに肋骨(ろっこつ)にひびいてくる。ぐっと押されるたびに呼吸がとまりそうだ。辛うじて腕で身体をささえ、眼の前にある窓ガラスに映った自分の顔を、彼は額に許をにじませたまま見つめていた。窓外を飛びさる風景のなかに、それは白日の幻のようにうすく浮び上っている。頰のこけた輸郭のなかに、眼だけが大きく見開かれている。その眼が彼を見ている。顔をそらしたいと思っても、押しつけられてしるからどうすることも出来ない。そしてまた、ぐぐっと押しつけられる。悪意あるもののように背後の圧力は、彼ひとりをめがけてあつまって来る。呼吸を止めた彼の顔に、ほの赤く血の気がのぼってくる。彼の背中の一部分を、なにか堅いものが押しているのだ。背に食いこむ感じからいえば、四角な箱の稜角である。うしろの人の荷物にちがいないのだ。

(荷物なら網棚にあげればいいではないか、網棚に――)

 怒りがこみあげてくるのを感じながら、彼はそんなことを考えている。ぎっしり詰っているので、ふりかえって背後を確める余裕がないのだ。全身のいらだちをそこにあつめて、彼はガラスの中の自分の顔に見入っていた。

 電車がきしみながらとまる。揺れが一時おさまるので、すこしばかり楽になる。扉が開くと人々が降り、また新しい人々が乗って来る。それが見えるわけではない。背中につたわる気配だけでそれを感じているのだ。あらあらしい身じろぎや烈しい声。そして扉のしまる音がして、がくんと電車が動き出す。

(まるで犬にそっくりだ!)

 ガラスの中の顔に視線をさだめながら、彼の胸に突然そのような観念が走る。それはいやな聯想をともなって来るので、彼の頰のあたりは苦渋をおびてすこし痙攣(けいれん)する。こけた頰や長い鼻。眼窩(がんか)が暗くおちこんでいる。段々ちかごろ瘦せてきて、今朝もズボンのバンドに新しく穴をあけた位だ。去年はそうでもなかったのに、今年は外套が風をはらんだようにぶかぶかだ。大き目の帽子の廂のしたの病犬のような顔。

 突然下腹のあたりがぐうと鳴る。腹が減っているのだ。腸のなかが乾いてくっついている感じだ。押しかえそうとりきむ力が、膝のへんで急に抜けてしまう。今朝彼は朝飯を食わなかったのだ。自分の丼はその息子にやってしまった。息子はまぶしそうな、そしてちょっと厭な顔をしてそれを受けとり、それでも全部かきこんでしまった。彼は空腹を忍びながら、じっと息子の食べ方を眺めていた。息子は食べ終ると、彼の眼をさけるようにして立ち上り、玄関の土間にしやがんで、あの犬の顔を一心に見詰めていた。犬は息子のまえで、長い舌をだして、しきりに自分のあごを砥(な)めた。あの子は切れ長の眼を一心不乱にそれにそそいでいたのだ。それによって父親の執拗な視線をのがれでもするかのように。そして彼も同じく犬の姿を、その時ある意味をもってじっと見詰めていたのである。

 ――あの子はそれほどあの犬が好きなのか?

 彼はしばらくして静かにそんなことを考えた。学校の戻りに魚の頭などを拾ってきて、あの子はだまってエダに食べさせたりしているのだ。エダとは彼の家に数年来かわれているその犬の名であった。エダはすさまじく瘦せている。飼いはじめの頃は毛なみがつやつやしていて、もっと肥っていた。ところが近頃では皮膚があちこち地図のようにすり切れ、肋骨が蒼黒く胸にあらわれているのだ。ろくに餌を食べないせいだ。眼ばかり大きくぎろぎろしている。あの子がどこからか拾ってきた魚の頭を、エダはほとんど血相を変えるようにして貪りたべる。その食い方は、まるでエダの全身が食慾のかたまりになったみたいだ。その光景をあの子は黙りこくって、しゃがんでじっと眺めている。自分の息子ながらその眼は妙に無気味で、なにかに憑(つ)かれたもののようだ。あの子はそれほどあの犬が好きなのか。それとも、――それとも自分の満たされない食慾を、エダの食慾に仮託して満足しようとしているのか? 此の前の日曜日のことであった。多田がある用件でやってきて、帰りしな玄関で靴の紐(赤皮のぴかぴかした立派な靴であった)を結び終えると、たたきにうずくまっているエダの姿を暫(しばら)くながめていたが、やがて片頰に笑いをうかべながらこう言った。

「――面白い恰好(かっこう)の犬だね。ほんとに面白い恰好だ。泰西名画に出てくる犬みたいだ。ぼくにこいつをゆずらないかね」

 あの子はやはり玄関にたってその言葉を聞いていた。

 その夜の食事どきのことであった。あの子はへんにぐずって、時には白い御飯も食べたいなどと無茶を言って、彼や彼の妻をこまらせた。彼のうちでは長いことそんなものは食卓にのぼせていないのだ。米の配給がたまにあっても、食いのばすために他のものと混ぜてしまう。そんな家計のくるしさもうすうす感じている年頃なのに、何故こんなに聞きわけのないことをいうのだろう。彼は次第に腹が立ってきて、その時言葉をあらくして叱りつけたのだが、すぐ可哀そうになって自分の丼を子供の方に押してやった。丼のなかに入っているのは、何やかやをどろどろに煮込んだ汁である。たった今白い飯を食べたいと言ったくせに、子供は涙をぽろぽろ流しながら彼の分もそのどろどろ汁を平げてしまった。だからその夜も彼は空腹のまま寝なければならなかったのだ。子供がこんなにぐずったというのも、単に発作的な物悲しさにおそわれたためか。あるいは昼間、多田が犬をゆずってくれと言ったのを、へんに気に病んでいたのかも知れない。しかし気に病んだとしても、たかが飼犬のことではないか。もし今日にでも彼がエダを手放したとしても、子供のことだから一週間もすれば忘れてしまうに違いないのだ。とにかく日曜日の夜というのは、彼も経験があるけれども、小学生にとっては一番ものがなしい気分のするものなんだから。――それから昨夕のことだ。

 昨夕、彼は役所から戻ってきて、誰もいないので何気なく台所の障子をあけたのだ。台所のすみで、急にあわてたように小さな人影が立ち上ったと思うと、それが彼の息子であった。乏しい光のなかで、その顔はまっさおであった。不自然にのばした右手の先から、なにか白いかたまりがぼとりと落ちた。短い時間のあいだに、彼ははっきりそれを見た。それは真白なコッペ麵麭(パン)であった。子供は彼の方に真蒼な表情をむけていたが、両掌を顔にかぶせると、静かな低い声を立てて突然泣き始めた。彼もそげた頰を紙のようにまっしろにさせて、しばらく身体を硬くしていたが、やがて障子を音のしないようにしめて、膝ががくがくするのを辛抱しながら居間に戻って来た。居間に戻って卓の前にすわってみても、脚のふるえは止らなかった。

「――どうにかしなくては。どうにかしなくては」

 痴呆のように彼はこんな言葉をつぶやいていた。どうすればいいのか。彼はきちんとそろえた膝がともすれば躍(おど)りだそうとするのを押えながら、閉じた瞼のうちに灼きついた一瞬の光景を想い返していた。まずしい、すすけた台所。乾いたまないたや庖丁。その光の射さない隅に、ぎょっとしたように立ちすくんでいる子供の姿。古びてぼろぼろのつぎがあたった小さな小倉の服から、小学校の三年にしては細すぎる手足が出ていて、それが不均衡に大きい頭蓋を支えているのだ。そして――子供の掌から生き物のように離れて落ちた真白な麵麭(パン)。それがしめった土間に音なき音をたてて落ち、一回転して横ざまにころがった。その土間のはしにエダが黒い影のようにねそべっているのを、その時彼は無意識に視野の端に収めていたのである。それが嘔きたいような生理的の収縮感とともによみがえってきた。

(あの麵麭はどうしたのか?)

 彼がただ障子をあけただけなのに、何故あのようにおびえたのか。そしてなぜあんなに泣きだしたのか。すべてを諦(あきら)めた死刑囚のように静かに。彼にはなにも判らなかった。判らなかったけれども、その感じからいえば正常でないものがそこにあった。暗い影をともなった歪んだものが彼の全身にいきなりぶつかってきたのはそれであった。――

 電車が駅に入るらしく、いやな音をたてて速度をおとした。背中に四角なものがぐっと食いこみ、彼は思わず窓枠に支えた腕に力を入れた。そのまま電車は止った。ふたたびあらあらしい波動を伴って、押しだされるように何人かが歩廊に降りて行くらしい。僅かにできた間隙を利用して、彼は顔を歪ませたまま身体をひねった。背中を圧していた箱は、持主といっしょにはずみを食って彼の横によろめいて来た。それは髪が灰白にみだれた六十歳ほどの小さな老婆であった。老婆は身を窓枠で辛うじてささえると、汗が滲みでた額を彼にふりむけ、かすれた声であえいだ。

「――すみ、ません、ねえ、ほんとに」

 老婆が手にしっかと持っているのは、盲縞(めくらじ)[やぶちゃん注:縦横とも紺染めの綿糸で織った無地の綿織物。紺無地。グーグル画像検索「盲縞」をリンクさせておく。]の風呂敷につつまれた箱であった。彼の背中をいままで執拗に圧していたのはそれである。眉のあいだの影をいっそう濃くさせて、意地わるく老婆にからだをぶっつけてゆきながら、ほとんど反射的に彼は険しく口走っていた。

「なぜそいつを網棚にあげないんだ。あたりが迷感するじゃないか」

 無意識に彼の指先は憎悪をこめてその風呂敷の端にかかっていた。その瞬間老婆のからだは、ぎょっとしたように包みを守りながらちぢこまるらしかった。しかしそれは身体の姿勢だけで、老婆の小さな眼にはある必死な笑みが彼にむけられて浮んでいたのだ。それを見ると彼は衝動的に、発車のあおりを利用して、更につよく肱で老婆を突きやるようにしながら、そして勢に抗しかねて彼もよろめいた。老婆のよろめき方はもっと惨(みじ)めであった。よろめいたまま窓枠に押しつけられ、それでも老婆は懸命ないろを顔ににじませて、包みを抱きしめたまま起きすがって来た。彼にむけられていた笑みは、老婆の頰に硬(こわ)ばったまま貼りついていた。

「すみ、ません、ほんと」呼吸(いき)をぜいぜい切らせながら、老婆はやっとのことで口を開いた。「息子、がねえ、この先の、国立病院、にいて、食事がひどくて、おなかがすく、と言いますんでねえ」

 額のあたりをうす赤く充血させたまま、彼は老婆から険しい顔をそむけて、彼の指は食いこむように窓枠をにぎりしめていた。窓ガラスの中の山犬のような彼の映像は、ぼんやりした輪郭のまま彼を見つめているらしかった。老婆をよろめかすためにひねった腰のへんに、老婆を意識的に突きとばした肱(ひじ)のあたりに、いやな後味が筋肉にのこっていて、彼はことさら老婆から顔をそむけていたのだ。しかしあの何ともしれぬ怒りはおさまったわけでなかった。彼は身体をかたく構えたまま、頰に老婆の視線を感じながら、陰欝な表情になって硝子窓に対していた。生まの風景が幻の顔のなかをうしろへうしろへと飛びぬけて行った。

(あと二つとまると俺の降りる駅だ)

 頭の中からすべてのものを振りはらうようにして彼はそう考えた。その駅の近くに国立の病院があることも彼は知っていた。身よりや家のない復員病兵がそこに収容されていて、待遇のことなどで悶着をおこしているらしいことも、彼は新聞で読んだ記憶があった。彼がいま訪ねて行こうとする多田の家は、国立病院とは反対側にあった。彼はつめたいガラスに額を押しあてて、蒼ざめた頰をわずか動かして呟いた。

「――おれは何のために多田の家に訪ねて行こうとするのか? そしてほんとうに犬を売るつもりなのか?」

 一瞬ころがりおちた真白な麵麭(パン)の影像が、あの時からずっと彼の胸を貫きつづけているのであった。昨夕、それから暫(しばら)くして戻って来た彼の妻と、三人で貧しい食卓をかこんだ。彼は黙々として食卓にむかった。腹が減っているにも拘らず、食慾はほとんど無かった。子供は眼をあかくしたまま、これも黙って食べた。彼の妻は子供の眼のあかいのを見て、寒いのにまた遊び廻ってきたのだろう、と邪険に叱ったりしたが、その時でも彼はだまって沈欝に箸(はし)を動かしていただけであった。食卓に乗っているのは、葉を浮かせた団子の汁であった。団子は赤黒くかたまって丼の底にしずんでいた。彼は半分ほどで箸をおくと、妻が怪訝(けげん)の瞳(ひとみ)をむけるまでじっとしていた。そして低いおさえた声で聞いた。

「もすこしどうにかしたものがこさえられないのか?」

「配給だけではこれでせい一ぱいなのよ」

 妻もほつれ毛をかきあげながら、低い無感動な声で答えた。彼はだまって、黒い汚染[やぶちゃん注:「しみ」と読んでおく。]を浮かせた妻の眼のあたりから、視線をその横の息子の方にうつした。息子のこめかみは、赤黒い団子を歯でかみ合せる度にひくひくと動いていた。それは変におとなびた感じであった。細い土色の頸(くび)筋からこめかみにかけて、老人のように静脈が浮いていて、息子は彼の視線を意識するらしく、なにかぎごちなく眼を伏せて団子を嚙みしめるらしかった。ある荒々しいふるえが、その時するどく彼の背筋を奔り抜けた。彼はあたりまえの声を出そうと努力しながら、それでもかすれた声になって言った。

「――今日、白麵麭(しろパン)の配給があったんじゃないのか?」

 息子がぎくっと身体をすくめたのを、瞬時にして彼は瞳に収めていた。妻の無感動な答えが直ぐにもどってきた。

「ありませんでしたよ」

 ――彼をちらと見上げた息子の眼に、おびえたような暗い翳(かげ)がはしった。彼は呻(うめ)きたくなるのを唇の中で押えて、重い右手を努力しながら再び自分の箸の方にのばしていたのだ。

 ――線路がカアヴに入るらしく、またしてもぐぐっと倒れかかってくる。老婆のもった箱の角が、いきなり彼の脇腹をえぐる。彼の掌は必死に窓枠を支えながら、ふたたび冷たい汗が額に滲みでてきた。老婆の灰白色の髪が彼の外套を押しているのだ。彼の眼はとつぜん憎しみを帯びてきらきら光った。視線は老婆の頭におちているのだ。伜(せがれ)が国立病院に入っていて、それに食物をもって行ってやるということが、その食物の入った重箱で他人の脇腹を押す言いわけになるというのか。だいいちこんな年寄りが満員電車に乗りこんできたりして、始めから一台待てばいいではないか。一台待って空いたのに乗ればいいのだ。それを無理して乗りこんで、当然のような顔をして人を押しまくるのだ。またもぐっと脇腹をえぐって来る。窓枠にあてた掌が血の気を失うほどに耐えながら、とつぜん兇暴なものが彼を満たした。脇腹から背にかけて骨がこりこりと鳴って、灼けつくような圧痛が走ったとおもうと、彼は身体中が火のかたまりになったような憤怒とともに、ある感情の抵抗を烈しく意識しながらも、顔をまっさおにしてまた身体をぐいとひねった。窓ぎわの間に彼が必死にすかした隙間に、老婆ははずみを食ってはまりこみ、そのまま足がなえたように無抵抗に埋没しかかった。灰色の髪の下の小さな額を、べっとり汗に滲ませて老婆は絶え入るような悲鳴をあげる。

「旦那。旦那さん。こ、これを、この膝を、あ、ああ」

 足をとられているのだ。上半身を無理な形に曲げて、片手を伸ばして何かを摑もうとあせっている。彼の膝頭と壁板の間に、かたいものがはさまる。彼の脇腹をえぐったあの箱だ。彼は顔をまっさおにしたまま、老婆を見おろしている。黄色くしなびたその顔が、起き上ろうとしてみにくく歪んで、それはまるで猿だ。絶望的な努力のために、しなびた額が汗でびっしょり濡れている。あの猛然たる衝動が胸のなかを貫いて、彼は歯を食いしばったまま、背後の力を利用して、そのままぐっと膝頭に力を入れた。膝頭と壁板のあいだで、箱がめりめりと音を立てる。そしてもう一押し。ぱりっと箱板がするどく亀裂する音。老婆のあえぐような悲鳴。そしてその瞬間、嘔(は)きたいような不快な衝動を咽喉(のど)に耐えながら、彼は膝頭に集めていた力をゆるゆると抜いて行った。――

 駅に近づくらしく、レエルに軋(きし)みを残しながら、電車は見る見る速度をおとし始めてきた。

 

 人柵の間から押しだされるようにして歩廊に降り立った。外套が押された形のままずれていて、彼は立ちどまったまましきりに両腕を動かした。彼につづいて次は五六人降りた。そして最後に押しだされてきたのは、あの老婆であった。老婆の着付はむざんに崩れていて、鼠色の下着が裾からはだけていた。茶褐色の細い脛(すね)がその間から見えた。そして手には大事そうに先刻の風呂敷包みをもっていた。その四角な形も、なんだか歪んでいるらしい感じであった。彼はあわてたように視線をそれから外らしながら、追われるように出口の方に歩き出した。すりへった靴の裏が歩廊の砂利にぎしぎしときしんだ。何もかも忘れようとするかのように、彼は更に歩を早めながら、頭を二三度つづけざまに強く振った。そしてポケットから切符をつまみ出しながら、前よりもいっそう険しい眼付になって、急ぎ足で改札口を通りぬけた。駅前の白く乾いた道をちょっと見廻して、彼は自分の胸のなかを探るように先刻とおなじことを唇の中でつぶやいた。

「――おれは何のために多田の家を訪ねようとするのか?」

 歩度がふとゆるんだが、すぐ彼は頭を立てて踏切をわたり、黄色い馬糞があちこちにおちている凸凹道をまっすぐに歩きだした。靴の踵(かかと)が地面を押すたびに、バンドでしめうけたからっぽの腹にずきずき響いた。そしてこんなことを考えた。それは今朝家を出るときから、何度か彼の胸に水泡のように浮び上ろうとしていた考えであった。

(あの申し入れを、俺は引きうけようと思っているのではないか?)

 そうはっきり考えると、顔中がつめたくなるような気がして、彼は外套のポケットにつっこんだ手をぎゅっと握りしめた。その申し入れをする時、多田はお茶を啜(すす)りながら、ごく何気ない調子で言ったのであった。それが此の前の日曜日のことであった。多田がわざわざ彼の家を訪ねて来たのも、それを打診したかったからに違いなかった。ざしきに上って暫く世間話など交していた時、その申し入れはあたかも世間話のつづきのようにして言われたのだった。彼は顔が急に充血してくるのを感じながら、いきなり掌を振っていた。

「そりや駄目だ。僕には出来ないよ」

「駄目なら駄目でいいんだよ」

 多田は肉付きのいい顔にちょっとずるそうな笑みを走らせて、探るような眼付で彼を眺めながら直ぐそうこたえた。それは彼の属する役所関係の建物の入札に関したことであった。そして彼はその係りをしていたのである。その係りは仕事の関係上、ことに誘惑の多い勤務であった。

「僕にはそんなことは出来ないよ。そんな――」

 曲ったことは、と言いかけて彼は力弱く口をつぐんでいた。恰幅のいい身体をゆすりながら、もうその時は多田はさり気なく話題を転じていた。多田の肥った片頰は、贅肉(ぜいにく)のせいか何時も笑いを浮べているような印象をあたえた。それから暫くして話題はいつのまにか役人の生活におちていた。それは彼が出した話題ではなかった。なにか押えつけられるような圧迫を感じながら、彼は多田の言葉に受けこたえていた。

「そりゃ苦しいことは苦しいな。ろくに闇(やみ)米も買えないしな」

「千八百円ベースといっても、なにやかや役得があるんだろうね」

「そんなものはありゃしないさ。役所から貰うものだけだよ」

「だってそれじゃ生活出来るわけがないじゃないか」

 身体を動かす度に、多田の胸にかけた時計の鎖が黄色く揺れうごいた。多田がしいている座布団は破れていて、汚れた綿がのぞいていた。彼の家にはそんな座布団しか無かったのだ。いつもはそう気にもならないが、多田がすわっているのを見ると、しんから惨めな気持が彼の心を衝き上げてきた。彼は自分の膝をのり出すようにして、無意識のうちに自分がしいている座布団を多田の眼からさえぎろうとしていた。それは多田のよりもっと汚れているのであった。そうしながら彼はふと気をそれにとられて、上の空で返事をしたりした。多田は時々探るような視線で彼を眺め、その話題から執拗に離れなかった。まるで役人の生活に特別の興味をもっているかのようだった。それは役人一般の生活として話がすすめられていたにも拘らず、彼は自分の生活を手探りされているような不快な圧迫を感じはじめていた。唐紙ひとつへだてた向うの部屋には、彼の妻と息子がいる筈であった。そこはしんとして物音はなにもしなかった。

(あの話を隣で聞いていたのかしら?)

 ――彼は肩をそびやかすような恰好で、凸凹道から右手に折れた道に曲りこんだ。曲りながら彼は突然唇をかんで、長くやせた鼻を幽かにならした。さっきの電車の中での濁った怒りがまだ身体の芯にのこっていて、それがある一つの苦痛を逆につきあげてきたのだ。かよわい老婆を押したおして苦痛をあたえたことが、ふと彼の胸にするどく錐(きり)を立ててきたのである。彼はその瞬間膝頭に、老婆の箱を押し割った瞬間の感覚を、なまなましくよみがえらせていた。膝の皮膚がそのとき傷ついたらしく、足を踏みだすたびにズボンの裏にふれてひりひりした。意識からそれをもみけすために、彼は再びつよく頭をふりながら、考えを他のことにふりむけようとした。そして彼の記億は、老婆のもっていた箱をとらえた。

(あの箱のなかにはどんなものが入っていたのだろう?)

 そう考えると彼はとっさの間に、ほかほかしたふかし芋やふくらんだ麵麭(パン)を想像した。舌の根からその時、唾がすこし流れてきた。外套のポケットの中の握りこぶしを脇腹に押しあて、あわててそのなまなましい想像からのがれようとあせりながら、彼はしきりにたまった唾をはき散らした。唾のひとつが低い石垣にとんだ。そこは小さな教会になっていて、多田の家はそこからまた曲るのであった。入口にはめられた色硝子と黒い掲示板が彼の眼に映った。掲示板には白いペンキでなにか文句が書きしるされてあった。小路に曲りこんだ彼の背後から、讃美歌をうたう声が流れてきた。

 それはその会堂の窓からであった。彼は胸の中に一種の衝動がその時湧きおこるのを感じながら、すこし足をゆるめた。それは子供の斉唱(せいしょう)であった。その衝動はなにか甘い亢奮(こうふん)になって彼の身内にひろがってくるらしかった。彼はほっと肩をおとして歩きながらつぶやいた。

「なるほど今日は日曜学校なんだな」

 彼が卒業した学校も、やはり基督教系の学校であった。その中学部で彼は多田と同級だったのである。彼の心を甘い亢奮となって動かしたその衝動も、そんな学生時代の追憶とその瞬間底でむすびついていた。多田はその頃から身だしなみのいい少年であったが、今みたいに肥ってはいなかった。彼が肥りはじめたのは、戦争中に建築会社を経営してからだった。昔は多田も品のいい顔をしていて、今のようなへんに複雑な笑いかたはしなかった。なぜあんな年配になると、あんないやな笑いかたをするのだろう。あの日戻りがけに玄関でエダを見て、此の犬をゆずれ、と言った時の多田の表情を、彼は今ありありと思いうかべていた。それは片頰だけをゆるめるようなわらい方で、そのくせ眼はさげすむような光を帯びて彼におちていたのだ。その時の多田の言葉を、彼は今すがるようにふたたび記憶の底からたぐり上げていた。

(ゆずって呉れと言っても、あいつはいくら位出す気なのだろう?)

 エダを多田に売ろうと決心したのは、今朝彼が眼をさました時だった。朝食のときも彼がじっと考えつづけていたのはこの事であった。しかし身仕度をして電車にのりこんだ頃から、彼はしだいにあるおそれを感じはじめていたのである。それは巨大な粘着力のある膜に抵抗して行くような不快なものを伴っていた。電車の中のあのいらだちも、奥底には此の不快感が横たわっているのを彼は絶えず意識していたのだ。

 ――犬をゆずれと言った言葉を、おれは真底から信じているのか?

 此の一週間、あの多田の申し入れにたいして、烈しい反撥と同時にある甘美な誘感を彼はずっと感じ続けていたのだった。ともすれば頭をもたげようとするのを、その都度つぶしてきた想念がこれであった。そして昨夕、息子の掌からはなれて土間に落ちた白麵麭(しろパン)を見たとき、彼が肉体の上だけでなく、心のどん底でもするどくよろめいたのも、すべてはそこにかかっているのであった。あの白麵麭を、息子がどこで手に入れたのか。貰ってきたのか、あるいは――。

 しかしそれはどちらでもいいことであった。彼の眼を忍んで台所のすみで食べていたということ、そしておびえて泣きだしたということ、彼に重くのしかかって来るのはその事だった。親子という関係をすら破壊しようとするのに対して、彼が言いしれぬ憤怒を覚えるものも、すべては彼自身にするどくはねかえって来るらしかった。腹の中がどろどろしたもので真黒になったような感じで、今日彼はここまでやって来る気になったのであった。

 歩くにつれて讃美歌の斉唱はだんだん遠ざかり、そして羽音のように幽かに消えてしまった。彼はふと、あの土間にころがった麵麭(パン)はどうしただろう、と考えた。考えるとすぐ、猛然たる食慾が彼の胃を刺激した。彼の想像の中でそれは焼きたてのようにふかふかして暖かった。歯でかんだ時の香ばしい匂いと味が、ほとんど現実的な感触とともに、その想像に加わった。前にのめりそうになるのをこらえて、前方の家と家のあわいに見える鉛色の空に瞳をさだめ、身体のなかに板みたいなしこりを感じはじめながら、彼はまっすぐに歩いて行った。

 

「それで――」鈍く光るライタアをかちりと鳴らして莨(たばこ)に点火しながら、多田が錆(さ)びた声で言った。ほんとに何気ない調子であった。

「決心はついたのかね」

 此の戦争で焼けてしまった母校の校舎のことを、彼は多田と話していたところであった。ざしきへ通ってから一時間ほども経っていた。それまで彼は用件を切り出さずにそんな話をしていたのだった。ふと話がとぎれて、冷たくなった茶に手を出そうとした時、多田のそんな言葉がそれをさえぎったのだ。彼はぼんやり顔をあげた。煙がゆらゆらと揺れて多田の表情をかくしたが、次の瞬間その言葉の意味が胸におちて、彼は顔がはっと青ざめてゆくのが自分でもはっきり判った。それでも茶碗をとると、ふるえる手でそれを唇にもって行った。茶碗のふちがかちかちと歯にあたって、にがい冷たい茶が唇をすこし濡らした。一口ふくむと彼はまたそれを卓の上にもどした。尿意をこらえる時の悪感が、腹の辺から膝へ走った。

 隣の部屋では多田の家族がいま食事をしているらしく、箸(はし)の鳴る音や茶碗のふれる音がしていた。物を煮る匂いは、彼が此の部屋に通されたときから絶えずしていたのである。ともすれば神経がそちらに行こうとするのをこらえながら、彼は先刻から早く犬の話を出してしまいたいとあせっていたのであった。あせりながらまだ機会をとらえないでいた。尿意を伴った空腹感が、波状的に彼をおそって来て、彼は気持が遠くなるような錯覚におちながら、そのくせ隣室の食卓の情況を、目も覚めるように鮮かな白い飯だとか、赤黒くちぢれた牛肉の形とかを、はっきりと頭のすみで想像していた。その時その言葉がおちて来たのだ。

 口に含んだ茶をぐっと飲みくだすと、彼は卓に片手をかけて、しばらく青い顔をしてだまっていた。多田は煙をうまそうにはき出しながら、うながすような眼付でちらと彼をみた。老獪な微笑が多田の片頰にふと浮んで消えたのを彼は見た。彼は膝に力を入れながら視線をおとし、しゃがれた低い声になって、何かを断ち切るようなつもりで言った。

「実は今日お伺いしたのは、犬のことなんだがね」

「犬?」多田の不審気な視線にすこしたじろぎながら、乗り越えるように彼は言葉をついだ。

「犬が、いただろう。うちの玄関にさ。君が帰るときに見て、売って呉れと言ったじゃないか」

 だんだん気持が惨めに折れ曲って来るのを感じながら、彼はそれを胡麻化すように早口になった。

「あの犬さ。あの犬は、もとは良い犬なんだ。素性も正しいんだ。貰ったやつなんだけれどね。芸当も出来るし、猟にも使えるんだよ。使ったことはないけれど――」

「ああ。あの瘦せた犬か」

 暫(しばら)くして多田はやっと思い出したようにそう答えた。そして、それきり黙って火箸でしきりに灰をかきならした。ある屈辱とひとつの期待で、彼は全身が熱くなってくるのを感じながら、多田のもつ火箸の動きをじっと追っていた。多田は灰をならしてその上に、犬という宇をいくつも書いているらしかった。そしてまたごちゃごちゃにかきならしながら、暫くして低い声で言った。その声はひどく冷酷にひびいた。

「僕は、犬をゆずって呉れとは言ったが、売ってくれとは言わなかったよ」

 多田は灰の方に視線をおとしたままそう言った。彼はその言葉を聞いた瞬間、みるみる顔がしろく血の気を失って来るのを感じた。彼は両膝に力を入れてぎゅっとしめ合せながら、片手で座布団の端をしっかり握っていた。やわらかい絹地の座布団であった。そのままの姿勢でしらじらしい時間がすこし流れた。そして多田がふと顔をあげた。

「あんまりあの犬がやせてたんでね、ゆずってもらってうちで肥らせてやろうかと、そう思ったんだよ。でも、そんな良い犬ならやはり君の家で飼ってた方がいいんだろう」

 おだやかな薄わらいが、やはり多田の頰にうかんでいた。彼は手や膝から急激に力が抜けて行くような気持になって、だまってうなずいた。それまで忘れていた尿意がさむざむと彼をそそってきた。彼は手を伸ばして、も一度冷えた茶を啜(すす)ると、何だかいたたまれないような羞恥を覚えながら、かすかに身ぶるいをした。そして語調を変えて聞いた。

「はばかりはどちらだね?」

 火箸をあげて指した通り、彼はすべりのいい唐紙をあけて廊下に出た。廊下はさむざむ光っていた。彼は誰もいない廊下にむかって思い切り舌を出してみたい衝動に駆られながら、唐紙を閉じた。物を煮る甘ったるい匂いが廊下にも流れていた。下腹が鳴るのを押えながら、彼はすべらないように一歩一歩廊下をあるいた。口の底からしきりに味のない唾が出て来た。教えられた便所は台所とむき合っていた。台所は廊下からあけ放されていた。棚にはごちゃごちゃと道具がならんでいて、大きな電熱器に鍋がかかっていた。そこでもなにか煮えているらしく、それには茸(きのこ)の香ばしい匂いが混っていた。電熱器のそばには籠があった。

 彼が見たのはそれであった。その籠には真白なコッペ麵麭(パン)がうずたかく積まれてあったのだ。昨夜土間にころがりおちた麵麭と同じ種類のそれであった。その色と形が、いきなり圧倒的な量感をもって、彼の視野にせまってきた。それはひとつの力ある実体として、いきなり彼の胸をかきむしって来た。彼はほとんど呻き声を洩らしながら、眼を据(す)えて凝然(ぎょうぜん)と立ちすくみ、そして振りはらうように頭を反らして便所の扉をあけた。スリッパがなかなか爪先にかからなかった。やっとかけると彼は二三歩よろめくように踏みこんだ。

 ある静かな戦慄に耐えながら、彼は首を垂れて、一筋の茶褐色のほとばしりを眺めていた。その先端は白い便器にあたって、やはり茶色の泡のかたまりになった。身体の暖かみをそれがそのまま持って行くらしく、臭いの強い湯気が彼の鼻にのぼってきた。彼はやせた長い鼻を神経的にすすって、茶褐色の一筋をじっと見守っていた。

「――何のためにはるばる俺はここまでやって来たのだ」

 頭を壁にぶっつけたくなるような自己嫌悪と共に彼はつぶやいた。たちまち昨夜から今にかけての出来事が、断続しながら記憶の中でひらめいた。薄暗い電燈のもとでどろどろの団子汁を啜っている妻子の姿や、歪みこわれた箱を抱いてやっとのことで電車から押しだされた老婆の泣き笑いに似た表情や、先刻隣室から聞えていた食事の音などが、連絡なく浮んで消えた。彼はぶるっと身ぶるいすると、顔をゆるゆる上げた。顔の前の小窓にはガラスが入っていて、そこにも鉛色の雲を背景にして彼の顔がぼんやり映っていた。

 ある兇暴な衝動がその時彼を走りぬけた。彼は呼吸をとめて、内臓の一部がぎゅっと収縮するのをありあり感じながら、ガラスの中にしばらく眼を据えていた。そして急にふりかえった。ひとつの予想が彼の動作をひどくぎごちなくするらしかった。しかし彼は用心して扉をそっと押し開くと、音のしないように廊下にすべり出た。廊下の前には、あけ放たれた台所の広がりがあった。

 彼はも一度舌を思いきり出してみたい露悪的な別の衝動におそわれながら、鈍い光をうかべた廊下を血走った眼で見とおした。そこにはさっきと同じく人影は見えなかった。そのとき再び彼の血走った視野のはしを、あの籠につんだ真白な麵麭(パン)のいろがするどく弾いた。彼は眼をきらきらさせながら、突然台所の方に身体の向きを変えた。

「よし!」

 それは言葉にならぬまま唇の端で消えた。彼はそのまま爪先を立て、不安定な姿勢のまま台所へ足をふみ入れた。ひやりとした空気がそこにあった。心臓がのどまで上ってきたようで、彼ははあはあと呼吸をはずませながら更に五六歩踏み入った。そこは麵麭の籠のところであった。ワイシャツの釦(ボタン)を外しながら、彼ははっとふり返った。ふりかえった姿勢のまま、急に全身を燃え出すような灼熱感がつらぬいで、彼はぎごちなく両手を伸ばして籠の中につっこんだ。ぶわぶわとした物体が指にふれたとき、彼は突然がたがたとふるえだしてそれを摑(つか)み、いきなりワイシャツの下にぐいぐいと押しこもうとした。手が定まらぬせいか、うまく入らなかった。彼は腹を凹めて、更にワイシャツをぐっと引っぱった。微かな音を立てて釦のひとつが弾け飛んだ。麵麭は変な形にねじれたまま、やっと脇腹の皮膚をこすって押しこまれた。彼は寒天のようにふるえつづけながら、まっさおな顔になって、身体ごとむきなおった。頭がいつもより五倍にもふくれ上ったようで、ふらつく足をしのばせて彼は一歩ふみ出そうとした。足の下で上げ板がカタリと鳴った。ぎょっと立ちすくんだまま、彼はびくびく動く指を忙しく動かしてワイシャツの釦をかけた。そしてその部分を掌でしかとおおった。

(人が来たら、手を洗いに入ったといえばいい)

 ふるえながら、乱れた頭で彼はそんなことを考えた。そしておおった掌で、脇腹にじかにくっついている麵麭を力まかせにぐりぐりと押しつけた。麵麭が平たくつぶれて拡がるのが、腹の皮膚にはっきり感じられた。

(これで大丈夫だ!)

 彼はそしてじっときき耳を立てた。何も物音はしなかった。

 ただ電熱器にかけた鍋がしゅんしゅんと律動的な音を立てているだけだった。その匂いが今になって彼の嗅覚にのぼってきた。

 上げ板を避けて用心してあるき、やっとなめらかな廊下の床をふんだとき、自分が背中にびっしょり汗をかいていることに彼は始めて気がついた。

 彼はも一度自分の上衣やワイシャツの具合をしらべて、そして廊下のはしをざしきの方に歩き出した。

 

 玄関まで多田が送って出た。彼は靴のひもがうまくむすべなかった。すり切れた自分の外套の背中に、彼は多田の大きな身体を感じていて、そのせいか指がすべって何度もしくじった。多田はなにかひっきりなしにしゃべっていた。彼が帰るといいだしてから、多田はへんに饒舌(じょうぜつ)になって、時々わらい声を立てたりした。彼が紐をむすび終えて立ち上ると、多田はふと言葉をつぐんだが、彼が立ったままでいるのを見て、妙にやさしい声音になってささやくように言った。

「困ることがあったら、いつでも相談においでよ」

 なぜか急に泣きだしたいような気持になって、彼は唇をゆがめていた。それはその言葉のためではなかった。むしろその語調は、彼の胸の中にはげしい憎悪をかきたててすらいたのである。彼は袖から出た多田の手首が、よく肥って紅い斑点があるのを、何となくじっと瞳に収めながら、ちょっと頭を下げた。そして外に出た。冠木門(かぶきもん)をくぐると道には風が吹いていた。風に顔をさらしながら、彼はもと来た道を逆に歩き出した。

 先程から持続していた緊張が、歩度につれてゆるんで来るらしく、丁度酒が醒めてゆくときのような不快な味が彼にかぶさってきた。肩の辺がきりきりと痛んで、口の中がからからに乾いて行くような感じであった。外套のポケットにつっこんだ指の先で、彼は苦痛を伴う背徳感を忍びながら、脇腹のあたりをときどき押えてみた。膚のあたたか味でなまぬるくなった麵麭(パン)の形がそこに感じられた。突然いいようもなく隔絶した孤独の思いが、彼の胸いっぱいに茫漢と拡がって来た。彼は顔をわざと冷たい風に吹かせながら、よろめくように足を進めて行った。

 曲角の教会では、いま日曜学校が終ったばかりらしく、子供たちが三々五々門を出てくるところだった。色ガラスの扉のところに、背の高い黒服の男が立っていてゝそれが何故かじっと彼の顔をみつめていた。それは牧師らしかった。非常にするどい眼付をした男であった。彼はその視線を頰にうけながら、子供たちにまじって角を曲った。子供たちがばらばらにうたっている歌も、やはり讃美歌だった。その声の中を彼もいっしょに歩きながら、も一度下腹の麵麭の形を恐いものをさわるようなやり方で押えていた。

(俺はなぜ麵麭などを盗んでしまったのだろう。しかも二個か三個の麵麭を?)

 身もすくむようないやらしいものを口の中に押しこまれたように、彼はぞっと肩をふるわせた。腹の中はからからに乾(ひ)からびた感じになっていて、もはや先刻の空腹感は跡かたもなく消えていた。感覚がすでにそれを通りすぎてしまったらしかった。腹部にあたためられたあの麵麭を口にすることを想像しただけで、彼は嘔きたいような気がした。彼の横を子供が二三人駈けて行った。子供たちは皆ととのった良い服装をしていた。ちゃんと靴下をはいて皮の靴をはいていた。かけて行った子供の一人が立ち止って、からかうような眼付で彼を見上げたりした。彼は沈欝な顔をくずさず、黙々とその子供のそばを通りぬけた。その子供はうす赤い皮帽子をかぶっていた。その色が彼に、さっきの多田の手首の色を思い出させた。

(あのとき多田はなにを考えていたのだろう?・)

 犬を買ってくれと彼が言葉を切ったとき、多田はうつむいてしきりに灰をかきならしていた。

 そのときのことを彼は今思い出したのだった。他人に借金を申しこむときと同じような屈辱と期待で、彼は身体をかたくして、少しうすくなった多田の前額部を一心に眺めていた。うつむいた感じからいえば、多田は笑いたいのを懸命にこらえていたのかも知れなかった。

(最も効果的におれを絶望させる言葉を、あのとき多田は探していたのではないのか)

 多田のそのときの冷酷な調子を思い出しながら、彼は漠然とそんなことを考えた。彼を絶望させることが、しかし多田にとってどんな意味があるのか、ということがつづいて直ぐ頭に来た。その先にもはや彼は、暗いおとし穴みたいなものを、ぼんやり感じはじめていた。彼は身ぶるいしながら、その想像を断ち切った。曲角がそこにあった。

 広い凸凹道へ出ると、風は再び正面から吹いてきた。鉛色の雲がゆるやかに形を変えていて、風はしっとりと湿気を帯びてつめたかった。彼はこの道をまっすぐ歩んで行くことに、なにかいやな抵抗があるのをはっきり感じていた。彼は歩きながら、その抵抗感の元を探ろうとした。そして彼は直ぐに、あの傾いた部屋の、汚れた寝衣をきた妻の姿と、老人みたいに背が丸い息子の姿を思いうかべた。

 そしてまた同時に明日から始まる勤務を、あの長い役所の階段をのぼって行くときの脚のだるさを、物憂(う)く思い浮べていた。そうしながら彼は外套の中の指で、確めるように麵麭の部分を探っていた。

 彼が歩いて行くにつれて麵麭はだんだん下の方にずりおちて行くらしかった。脱落して行くいやな感覚が、脇腹の皮膚を絶えずつめたくした。

 踏切がそこに見えた。遮断機が降りていて、立ちどまった彼の鼻づらを、風を巻きながら青黒い車体が奔りぬけた。そして遮断機はゆるゆる上った。彼は片掌で脇腹を押え、うつむきながら踏切をわたった。切符を求めて改札を通り、歩廊の上に立った。

 向うの歩廊にも人が群れていた。その人々の間を、さっきの子供たちが縫いながら追っかけっこをしているのが見えた。彼は駅名板によりかかって、深い深い疲労がいま全身を領して来るのを覚えながら、改札の方を沈欝な瞳で眺めた。改札を白い着物を着た男たちがそのとき入って来るところであった。今頃白い着物をきていることから、それはこの付近の国立病院の患者たちにちがいなかった。その瞬間彼の胸にさっきの老婆のことが、真黒な一点のようにあざやかに浮び上って来た。べっとりとほつれ毛を汗で貼りつけた老婆のちいさな顔貌が、錐(きり)になって彼に突きささってきた。

(入院しているという息子を、なぜ自宅に引取らないのか?)

 間借りか何かで、病人を引取る余裕がないのかも知れなかった。またあの老婆はどこかに住込みで働いている身分なのかもしれなかった。彼は想像のなかで、明日は伜(せがれ)に会えるというので、せっせと食物をつくっている老婆の姿を組み立てていた。そしてこわされた重箱を息子の前で泣き笑いしながら開く情景がそれにつづいた。彼はかすかに声を立てて、背中を駅名板にぐりぐりと押しつけた。

 改札を通りぬけた患者たちがこちらに近づいてきて、彼の前を通った。彼は眼を見開いてそれを見た。それは四人がつながった行列であった。先頭に立つ男は両腕がないらしく、その白い袖が風にふらふらと揺れた。この男が先導であった。次の男は黒い眼鏡をかけて、両掌で先導者の腰につかまっていた。その次の男も最後尾の男も同じだった。三人とも真黒な眼鏡をかけて、あぶなげに足を踏んでいた。眼が見えるのは、先頭の男だけであった。ときどき掛声をかけながら、背後の列に注意したりした。三人の盲者は、それに応じながら足並を小刻みにして蛇行した。三人とも神経を掌と脚先にあつめるせいか、口はぽかんとあけて呼吸をしていた。唇の中に汚れた歯が見えた。曇り空の下で、唇のいろは黄色に見えた。白くぼたぼたした患者衣は節目(ふしめ)節目が黒くよごれていた。この人間列車は彼の前をがたぴしと通りすぎた。鉛色に垂れ下った雲を背景にして、それは人世の病める結節に似ていた。

「――これでいいのか。これで?」

 彼は突然顔からつめたい汗が滲みでるのを感じながら、

そう口に出してつぶやいた。

 あの老婆の息子というのが、この中にいるかも知れないということを彼は考えてもいたのだった。そして向う側の歩廊にむれた人々が、あるいは背伸びしたり、ささやき合いながらこちらを眺めているのを、彼は乾いた眼をみひらいて眺めた。人と人の間を縫い走っていた子供たちが三四人集って、もうこの人間列車の真似を始めだしたのを、彼はそのときはっきりとらえていた。昨日から今日にかけての、彼を含めた人間の構図のなかに、重苦しく歪んだものがあることを、彼は今ある兇暴な戦慄とともに歴然とつかみとっていた。

 しかしそれがどんな原因で、どんな形に歪んでいるのか、それは彼には判らなかった。脇腹に密着していた麵麭のひとつが、そのときゆるんだようにずれて、股の部分にかさなった。そしてじわじわと辷(すべ)りおちるらしかった。外套の中でこぶしを固く握ったままつめたい駅名板に背をもたせ、自らも一枚の板となって、彼はしばらくじっと呼吸をこらしていた。

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)8 昭和二二(一九四七)年(全) / 梅崎春生 日記 電子化注~了

 

   昭和二十二(一九四七)年

 

[やぶちゃん注:梅崎春生、この年で満三十二。全集年譜と中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、一月、山崎恵津と結婚している。恵津は実践女子専門学校国文科卒で雑誌『令女界』や『若草』の編集者であった。新居は豊島区要町であった。三月「崖」(私のブログ版電子化注)を『近代文学』(二・三月合併号)に発表、五月、「茸の独白」(私のブログ版電子化注)を『新小説』に、六月、「英雄」(沖積舎版全集に不載。私の『梅崎春生の初期作品「英雄」について情報を求めます 《2020年11月3日追記有り・ほぼ解決》』を参照されたい。私は現在に至るまで未読)を『小説と読物』に、「紐」(私のブログ版電子化注)を『新小説』に発表している。八月号『新文芸』に「世代の傷痕」(私のブログ版電子化注)を、「蜩」(私のブログ版電子化注)を九月号『風雪』に、同月、「日の果て」(リンク先は「青空文庫」)を『思索』に発表した。十月、長女史子(ふみこ)が誕生し、世田谷区松原町三丁目に転居した。同月には『文藝』に「ある顚末」(私のブログ版電子化注)を、「行路」を『不同調』に、十一月、『日本小説』に「贋の季節」(私のブログ版電子化注)を、『光』に「亡日」(私のブログ版電子化注)を、『浪漫』に「鏡」(私のブログ版電子化注)を、『新小説』に「ランプの下の感想」(私のブログ版電子化注)を、十二月には『文芸大学』に「鬚」(私のブログ版電子化注)を、『文学会議』に「蜆」(リンク先は「青空文庫」)を、『文芸季刊』に「朽木」(近いうちに電子化する予定である)を、『別冊文藝春秋』に「麵麭の話」(本記事公開から数時間後に電子化公開した)を、それぞれ発表している。また、一月には岡本太郎・花田清輝・埴谷雄高・野間宏・椎名麟三・佐々木基一・福田恆存らと『夜の会』に参加、夏には武田泰淳・高橋義孝・日高六郎らと『近代文学』第二次同人拡大に加わり、また、親友霜多正次の紹介で『新日本文学』に加入、十二月には『序曲』創刊に埴谷雄高・野間宏・三島由紀夫・寺田透らと参加するなど、戦後派作家としての積極的行動が目立ち始めている。

 これを以って底本の「日記」パートは終わっている。]

 

三月十二日

 八時半頃起きて食事。サメの煮こごりなどで腹一ぱい食べ、また寢た。惠津子は私が眠つているうちに寶文館に行つた。そして眠りが覺めたのが午後二時。

 起き上つて頭が重く、ゼドリン服用せしも氣分晴れず、下高井戶まで散步に行く。戾つて來て「サーカス」を少し書いた。どうやら書けさうな氣もするが、今までの中で最も難物であることはたしかだ。漱石の「吾輩は猫である」を拾ひよみした。つまらない小說だと思ふ。

 五時、食堂に行き、飯をとつてくる。その間に、三島由紀夫君より電話かかりたるらし。今夜は「サーカス」の中の「鬼頭の獨白」を書く豫定である。

[やぶちゃん注:「惠津子」奥方の恵津さん。

「寶文館」『令女界』『若草』の出版元。

「ゼドリン」強い中枢興奮作用・精神依存性・薬剤耐性があり、中枢興奮作用を持つ、間接型アドレナリン受容体刺激薬アンフェタミン(amphetamine/alpha-methylphenethylamine)の武田薬品工業の商品名。現行では治療薬としてナルコレプシー及び注意欠陥・多動性障害(ADHD)のみで用いられ、本邦の「覚醒剤取締法」では「フェニルアミノプロパン」の名で覚醒剤に指定されている。思うに、梅崎春生の後年の精神変調の一因にこうした向精神薬の多用があるのではないかと疑われる。

「サーカス」恐らくは昭和二二(一九四七)年十一月号『日本小説』に初出で、後の第一作品集「櫻島」に所収された「贋(にせ)の季節」(リンク先は私のブログ版電子化注)と思われる。但し、決定稿には「鬼頭」という人物は出ない。ただ、六月発表に「紐」(リンク先は私のブログ版電子化注)の主人公は「鬼頭」である。しかし、サーカスとはストーリー関連はない。サーカスも梅崎春生はしばしば舞台やロケーションに使うので、特定出来ない。]

 

三月十六日 日曜日

 朝食後また寢て、一時頃目覺めた。そしてまだ眠い。昨夜寢たのが午後八時頃だから、十六七時間寢てゐた計算になる。すなはち起きてゼドリンを服み、「ジユニアタイムズ」の「帽子」二枚ほどかく。それから經堂に行かうと思つて出かけたら門前にて兄とあひ經堂に行く。カステラ、チーズなどを馳走になる。それより又戾り、夕食を共にたべ、ざしきにて麻雀一莊。+(プラス)一五〇にて二位。

 どうも書けないのは、くさる。どうしたものであらう。

[やぶちゃん注:「帽子」不詳だが、少年誌(新聞?)からの依頼であったことから、後年の昭和二六(一九五一)年一月号『文学界』に発表されたアンソロジー「破片」(リンク先は私のPDF縦書版電子化注)の冒頭にある「三角帽子」の元原稿ではないかと私は思う。]

 

三月十七日

 また今日も十二時までねてゐた。

 「文學季刊」の小說、筋完成す。

 夕方部屋を整頓。夕食後、ハガキなどをしたためゐるうち九時となり眠氣きざす。

 近頃の日記はまつたく眠り日記なり。

[やぶちゃん注:『「文學季刊」の小說、筋完成す』この年の十二月発行の『文芸季刊』に発表した「朽木」。]

 

三月二十六日

 「高鍋」二十五枚ほど書いた。書いてみて、何か濁つた、スタイルの亂れた書き方を感じ、も一度書きなおさねばならぬと思ふ。私の癖である處の、低徊的な、不明確性だけが目立つてゐて、それが厭だ。

 だから、之は一週間ほど書かずに、おいておこうと思ふ。

 

 今の所、書かうといふ純粹な氣持ではない。書かねばならぬといふ重苦しい義務感。それが作品に打ち込むことから私を隔ててゐる。情熱がないのに、每日、何枚かを書かねばならない――書いてゐるかどうか他から監視されてゐる感じである。私は誰からも氣持の上で强請(ゆすり)を感じたくない。私は今まで、ほしいまま書いて來た。今スランプにある。これは事實だ。それはしかしあくまで私個人の問題で、外から批判されたり非難されたりすることぢやない。所詮文學とは孤獨の道だ。

 

 今、新宿から戾つて來た。新宿の人混みをわけて步いて、イライラした。街にも、何も刺激はありはしない。

 私を救ふものは何もありやしない。それは今に始まつたことではない。もとから判つてゐた。ただ時々の錯覺で救はれるものがあるかと思つたりするだけだ。

[やぶちゃん注:「高鍋」は私は「無名颱風」(リンク先は私のPDF縦書詳注附き電子テクスト)の原型と考えている。「無名颱風」は昭和二五(一九五〇)年八月初出であるから、実に三年半かかって完成させたことになる。梅崎春生には、かなり熟成させた作品が、思いの外、結構あるように感じられる。]

 

四月二十日

 高鍋 六十枚

 馬  六十枚

 英雄 三十五枚

にて皆放棄す。造形と言ふことのむつかしさ。今「外套」の下書き。成功すればいいが。今日は、土居氏等來る筈なり。

[やぶちゃん注:「馬」かなり長い作品だが、不詳。

「外套」既に述べたが、「外套」という小道具は、後の梅崎春生の小説の中で、重要なアイテムとしてしばしば登場するものである。されば、軽々にどの作品の元原稿とは言えないものの、感触としては、この年の十月に発表することになる「ある顚末」(私のブログ版電子化注)が私には浮かぶ。]

 

八月六日

 俺は、

  平和時代には資本の下に服從し

  戰爭時代には權力に屈し

  そして今もなお、生きるスベを知らぬ民衆を書く。

 

九月一日

 女が哀しい、のではない。

 女を眺める己の性欲が哀しいのだ。

   (女はただの個體)

 

九月二日

 絕望ぢやない。絕望への憧憬なのだ。あるいは絕望への鄕愁――。

 

九月二十二日

 人間としての保證のために、感動したふりをする。本當は感動していない。

 

十一月九日

 十八日までに「文藝春秋」

 十五日までに「花」

 今日からかきはじめて、今、三枚目。

 出來るかしら。

[やぶちゃん注:「文藝春秋」『別冊文藝春秋』に発表した「麵麭の話」。

「花」前との関係から雑誌名らしいが、不詳。対象作品も知らない。]

 

十一月十一日

 やつと八枚目まで書く。

 

 月評家とはなにか?

  それは、彼等が攻擊する風俗小說家と同位置だ。

 

 ほづつの響き  とほざかる

 あとにはむしも  こゑたてず。

[やぶちゃん注:「ほづつ」「火筒」で銃砲・火砲の意。]

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)7 昭和二一(一九四六)年(全)

 

[やぶちゃん注:昭和二〇(一九四五)年分は二〇一六年一月十六日にこの年だけの日記をここと同じ仕儀でブログ公開したものが既にあるので、そちらを見られたい。今回、日記本文は、今一度、見直し、ブラッシュ・アップし、リンク先などの不具合なども補正したので、そちらを見られたい。本カテゴリ「梅崎春生日記」では一番最初(一番下の記事)に現われる。

 梅崎春生は桜島の海軍基地で終戦を迎えた。満三十歳であった。全集年譜と中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、敗戦の翌九月に上京して、出征の際に本を託していた友人波多江が南武線の稲田堤(稲田登戸)にいたのを訪ね、同居した(「波多江」は梅崎春生のエッセイ「日記のこと」に登場する五高以来の旧友。リンク先では新字新仮名でこの年の日記を電子化してある)。稲垣足穂を知り、また、十二月に「櫻島」(単行本短編集初版本(昭和二三(一九四八)年三月大地書房刊)を古本屋で見たが、表紙のそれは正字であった)を執筆、新生活に持ち込んだとある。この昭和二十一年二月には目黒区柿ノ木坂一五七松尾一光方(作家八匠衆一(大正六(一九一七)年~平成一六(二〇〇四)年:小説家。北海道旭川市生まれ。梅崎春生とは終生親しく、小説「風花の道」(昭和五九(一九八四)年は二人の関係を描いたものである)の本名)に鬼頭恭而と転居して三人で同宿生活を始めた。創造社に就職、総合雑誌『創造』の編集を手伝ったが、三月より赤坂書店編集部に勤務した(十二月馘首)。浅見淵から近く創刊する雑誌に三十枚ほどの小説を書いてみないかと慫慂され、急遽、新生社から原稿を取り戻し、九月に発行された『素直』創刊号に掲載されたのであった。

 なお、戦後であるが、歴史的仮名遣や正字を書いて居た人間が、かっきり新時代になって新字新仮名を使うとは私は全く思っていないから、本年と最後の翌昭和二十二年も同仕儀で電子化する。]

 

   昭和二一(一九四六)年

十月十四日

 辰野先生より來信。

 つまらぬ作品を注文者にわたすな。やせても朽(か)れても、片々たる作品を書くな、ということ。グラグラしてゐた氣持が、これでピンとスジガネ入る。

 行く道は一筋の外なし。此の自明のことが此の暫く判らなかつたのだ。

[やぶちゃん注:「辰野先生」不詳。フランス文学者で東京帝国大学教授(フランス文学主任教授)辰野隆(ゆたか 明治二一(一八八八)年~昭和三九(一九六四)年)か?]

 

十月二十九日

 「新生」の原稿「獨樂」三十六枚まで書いた。これで良いような氣もするし、またドダイ惡作で、かえされさうな氣もする。自信はない。

[やぶちゃん注:後の名篇「日の果て」(リンク先は「青空文庫」)の初稿。「私の創作体験」(昭和三〇(一九五五)年二月刊の岩波講座『文学の創造と鑑賞』第四巻初出)に詳しい。リンク先は私のブログ電子化注。]

 

十一月二十三日

 「崖」四十枚まで書く。

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年二・三月合併号『近代文学』に初出、後に単行本「桜島」(昭和二十三年三月大地書房刊)に再録された小説。私のブログのこちらで電子化注してある。]

 

十一月二十七日

 古田君より百圓うけとる。之が全財產。

 石鹸を買ふ。

 左は借金表。

[やぶちゃん注:底本ではここに、『このあとに借金の一覽表があげてある。(編集部)』とあってそれは省略されている。]

   

十二月十二日(木)

 ここには事實だけしかない。善惡はない。

 眞實は一つしかない。それは内奧の聲だ。

 自分のために生きるのが、眞實だ。爾餘(じよ)の行動は感傷にすぎない。

 

 皆が修羅である。

 獨樂(こま)のやうにひとりで𢌞り、そして𢌞りつくして倒れる他ない。

 

 勳章がより所である。

 

 俺は目の覺めるやうなものを見たかつたのだ。ただそれだけだ。

 

 自分が何を考えてゐるか判らなくなつた。

 おれは幽鬼のやうにさまよひ出たのだ。

[やぶちゃん注:「爾餘」それ以外。

「勳章」意味不明。辛酸を舐めた非人間的な海軍勤務体験を指すか。]

2021/07/09

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)6 昭和一四(一九三九)年(全)

 

   昭和一四(一九三九)年

 

[やぶちゃん注:この年で梅崎春生は満二十四歳。前に述べたように、昭和十二年と昭和十三年の日記は底本にはない。底本や中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜にも昭和十二年は記載がない。昭和十三年の条は、後者によれば、『二月、脳溢血で倒れ長らく病床にあった父』梅崎健吉郎(歩兵中佐)『が、床ずれから敗血症を併発して死去。享年五十九歳。十二月、二週間かかって』『「風宴」を書きあげる』とある。この昭和十四年の条には、『霜多正次に「風宴」を見せたが、左翼づいていた彼は問題にしてくれず、井上達(靖の弟)が「改造」に交渉してくれたが、ここでも謝絶された。三月、自分で浅見淵』(ふかし 明治三二(一八九九)年~昭和四八(一九七三)年:小説家・評論家。兵庫県生まれ。早稲田大学国文科卒業。大正一五(一九二六)年十月、『新潮』新人号に「アルバム」を発表、昭和三(一九二八)年には丹羽文雄らと『新正統派』を創刊したほか、多くの同人誌に加わった。私小説風の作品や作家論・作品論などを発表した)『のところに持ちこむ。八月「早稲田文学」新人創作特輯号に』『「風宴」が掲載され』たが、『商業誌紙の反響は皆無で、わずかに「早稲田文学」の次号で、匿名氏から、時局柄ふさわしくない神経衰弱的な青春像だとの酷評を受ける』とある。「風宴」は「青空文庫」のこちらで読める。]

 

四月三十一日

 蓬萊莊を出て、東陽館に引き移る。

 階下のうす暗い四疊半である。これがまあ、終(つひ)の栖(すみか)かと私は何とはなしに思つた。一先づ荷物を收めるところに收めつくした。

 今度の部屋は、押入が廣い。貧弱ながらも床の間がある。本棚をそこに入れた。

 窓を開くと、中庭に面してゐる。二坪ほどのへうたん池があつて、汚れた水をたたへてゐる。庭には、白い花片や、葉が落ちてゐる。

 

 夕食後、早稻田に行つた。

 淺見淵氏の家に行つたが、燈が消えて、誰もいなかつた。淸水さんの家に行く。

 淸水さんの弟(光男の兄)が來ている。軍醫となつて訓練されているらしいが、甚だしく知性の缺乏した容貌と語調を持つてゐる。此の前來たときも會つた。

 一郞さんと十錢賭けの碁を打つて、一勝一敗した。その後、淺見氏の家に行き、上つて暫らく話した。「風宴」は編集會議にかけなければ、のせるかのせぬか分らぬといふこと。

 「風宴」は、人事にうすく抒情が勝つてゐるといふこと。

 

 バルザツクを讀む。「グランドブルテーシユ綺譚」「復讐」「フランドルの基督」「海邊の悲劇」。

[やぶちゃん注:最後のフランスの巨匠オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac 一七九九年~一八五〇年)のそれは、ライン・ナップから、昭和九(一九三四)年岩波文庫刊の水野亮訳と推定される。]

 

五月一日

 九時起床。食欲うすい。

 學校に行つて、學生課に行つた。

 ぼんやりあそこで立つてゐると、家庭敎師が二口きまつた。豐富にあるのが嬉しいやうな、私をのけものにしてゐるのが口暗しいやうな氣分。

 なるだけ早くしてください、せつぱつまつてるんだから、と言つたら、皆が笑ふ。成程樂天的好人物と思つたんだらう。

 天氣が好いせいか、浮きうきして、浮世の苦勞といふことが、身について來ない。歌などうたひながら、東陽館にかへつて來た。そのうちに、「風宴」は發表されるし、家庭敎師はあるし、と言ふやうなことになるだらうと思つた。

 なるだけ外國の作品を讀まうと思つて、この間はジイドの「法王廳の拔穴」をよんだ。面白かつた。洒落ではないけれど、どこかに拔穴を感じる。

 今日はトルストイの「クロイチエルソナタ」を讀んだ。その後五十分ばかり晝寢をした。起きて、トーマス・マンの「ベニスに死す」。

 

五月二日

 學生課に行く。澁谷の方の家で、中學三年生。それはいいけれど、住込だといふ。私は澁つて、ことわつた。一度斷ると、もう世話してくれぬといふ話を私はいつかきいたことがある。悲しい氣持で、大學正門を出て、有斐閣の二階でしばらく音樂をきいた。沈鬱な氣持になつた。

 モーパツサンの「あだ花」「オト父子」をよむ。

 十一谷義三郞の「笑ふ男」「笑ふ女」をねながら讀む。前者は平賀源内のことをかいたもの。氣障(きざ)な小說だ。

[やぶちゃん注:十一谷義三郎(じゅういちやぎさぶろう 明治三〇(一八九七)年~昭和一二(一九三七)年:神戸市生まれ。早く父を亡くし、苦学して東京帝国大学英文科卒業。在学中に同人雑誌『行路』を創刊。『文藝時代』の同人であり、このため新感覚派の一人とされるが、虚無的で知的な作風で知られ、新感覚派とは一線を画した。肺結核で没した。国立国会図書館デジタルコレクションの「笑ふ男・笑ふ女」(昭和七(一九三二)年白水社刊)で二篇通して読める。梅崎春生が読んだのも、本書の可能性が高い。異様に凝った装幀・本文組みで、それだけ見ても「氣障」という感じがするものである。]

 

五月三日

「背德者」ジイド 第一部讀み、晝寢。

「背德者」を終りまで讀む。

「橄欖畑」をよむ。モーパツサン。岩波文庫「あだ花」の中。

 ジイドの「狹き門」を讀了。アリサといふ女に濁つた不快を感じた。

 

五月四日

 質屋に羽織をもつて行く。今日の利子一圓五〇錢、十五日迄待つて貰ふ。

 午前十時より、机に倚り、午後三時まで、「赤と黑」を讀む。大へん疲れた。上卷讀み終り、下卷を少し。

 寢る、頭やすめた。オニールを讀まうとしたが頭に入らなかつた。

 夜、「赤と黑」讀了、午前三時頃也。

 

 私は道德家だ。しかし刺激を欲してゐる。だから、反道德的なことに興味をもつのだ。ジユリアン・ソレルは不快な生意氣な小僧だ。

[やぶちゃん注:ジュリアン・ソレル(Julien Sorel)はフランスの巨匠スタンダールの小説「赤と黒」(:一八三〇年) の主人公。平凡社「世界大百科事典」によれば(コンマを読点に代えた)、『片田舎の下層階級の出身ながら、才智と美貌に恵まれ、偽善を唯一の武器として立身の道を切りひらいてゆくこの青年は、しばしば野心家の代名詞とされるが、むしろ強調すべきは彼が挫折する野心家だという点であろう。偽善に身をよろいつつも』、『彼の本質は情熱的夢想家であり,明晰冷徹を旨としながら』、『彼は絶えず内面の情熱、自らの感受性に裏切られ続け、ついに破滅へと向かう。〈己の身分の卑しさに反抗した田舎者〉と自らを規定する彼は、時代が生んだ、時代に反抗する人物であり、時代に押しつぶされて死ぬほかない。それがこの作品の』〈一八三〇年年代史〉(=フランス王政復古時代)『という副題の含む告発なのである。モデルは作者の故郷に近い寒村で殺人未遂事件を起こした元神学生アントアーヌ・ベルテ』Antoine Berthet『で、事件の概要は作品中でかなり忠実になぞられている。しかし、いうまでもなく,最大のモデルは作者自身にほかならず、冷徹を希求する男がつねに自らの感性の犠牲になるという意味で、これは作者の自画像であり、最愛の分身なのである』とある。]

 

五月五日

 十時半起床。

 「都新聞」の中野重治の隨筆で、平林彪吾が死んだことを知つた。病名は敗血症。

 尾崎士郞の「夏草」という小說(オール讀物)をよんだ。

 

 尾崎士郞の惡い所が妙に魅力になつてゐるやうに思はれた。

 ツルゲネフの「ルーデイン」といふ小說をよんだ。始めよんでゐるうちに、一種の不快さを强いられたが、後半は、さういふ感じがなくなつた。ツルゲネフがルーデインに對する態度の二重性を感じるのは、私も感じた。

 阿波田正一と一脈通ずる所があるのを私は感じた。四時に讀み終へて、例のやうに、一時間程眠つた。眠る前に、「あひびき」といふのをよんだ。(二葉亭四迷の「片戀」の中より)

 

 今日はSERVANT[やぶちゃん注:縦書(以下も総て同じ)。「使用人」の意。恐らくはここでは新しい学生下宿「東陽館」の若い女中と思われる。後に出るそれは前の「蓬萊莊」のそれか。]が私を怒らせた。マツチのこと。私はあいつの心についていろいろ考へをめぐらした。

 あいつは私を友達と思つてゐる。(らしい) こんなことがある。二日程前、私がひるねしてゐた時、入つて來た。音を立てない。私はいらいらして、終に起き上つた。あいつは疊の上にねてゐた。眠つてすらゐたのだ。

 私は追ひ出すのに苦勞した。

 

 私が去年の十一月、何故此處[やぶちゃん注:これは「彼處」(あそこ)の誤りではないか? 前の「蓬萊莊」である。]を出たか? はつきり理由があつたんだが、時間がそれを妙な樣に變へてしまつた。あのころのうつとうしい沈鬱を憤怒を、今日のマツチの事件で思ひ出した。あいつらは私の爲になるやうなことは何もしない。もちろん進んでしようともしない。個人的に何かたのめば、官僚的と思はれる程の態度で拒絕する。かつと私はなる。あのみにくい顏や手足をばらばらに引きさきたい欲望にかられる。

 あいつが私になれなれしいのは、私を利用するためだ。(はつきり意識はしてゐないだらうけれど) 私の言ふことを眞にうけぬ。冗談を以て報いる。これは私が惡いかも知れぬ。さういふ風になれさしたのは私の罪かも知れぬ。私をさういふ風にとりあつかひなれなれしくすることに、あいつは快感を感じてゐるらしく見える。しかし、あいつは、まだよかつたのだ。(あの頃)も一人のSERVANTを、私は滿身の憎惡と嫌惡を以て今思ひ起す。赤門前の本屋の前で、そいつに私は出會つたのだ。あの、あんぱんのやうな顏をみて、私は憎惡を包みかくしながら、うはべはおだやかに冗談など言つて別れた。私は私の氣持が判らない。なぜあんなことをするのだらう。

 

 「赤と黑」その他、外國の小說を讀んでゐて、女の心について考へる。あんな風に行くものかと考へる。それだから、私は一つの實驗をしてみようと思ふ。

 先づ、もとからいるSERVANTをA、新しいSERVANTをBとする。私はBに近づいてみやうと思ふ。Bに愛想よくしてみようと思ふ。いろいろ話したり、しんみりしたりして。(ジユリアン・ソレルが露西亞の貴族から聞いた方法を、私の現實に變形してみて)Aに對しては、虛心坦懷、風の如くみる。その結果をはつきりしらべる。

 せめて、そんな實驗することによつて、今日のやうな不快から逃れ出たいと思ふ。

 

 私は偉くならねばならぬ。人間的にではなく、社會的に。私がいろいろ感ずる不快感は、自分が社會的に何等のこともなしてゐない、職にもついてゐないし、怠惰な學生で收入はない、さうした卑小感から出發するものである。それをなくす道は、ある種の支柱を必要とするのだ。心理的な支柱を。それには、社會的に、自分の位置がはつきりと自分でみとめられる支柱が、もつとも最初に私の目に映じて來る。

 私が今、最も近く望んでゐることは、「風宴」が「早稻田文學」にのることだ。これによつて、私の心は剌激されるだらう。又、外の小說を書こうといふ氣持にもなれるし、野心といふものが剌激によつて目ざめるだらう。エクスタシーの狀態が少なくとも三日間はつづくだらう。その間に、私は私の心の姿勢をととのへる。何物も恐ろしくないことをはつきり自分に言ひきかす。そして又、仕事!

 かいてゐるうちに、だんだん憂欝な氣持になつてくるから、止す。

 

 私の部屋の窓をあけたら、夕暮があつた。貧しい中庭を、私は意識的に觀察した。今日の夕食終へてすぐのことである。煙草一服ふかす時間のあいだ。その印象を記す。

 樹、松、八つ手、椿、紅葉。八つ手だけは四五本。その他いろんな木が生えてゐる。地にも落ちてゐる。白い花片に黑い斑點がある。松の木は眞中に生えてゐて、一番上は見えない。松の木があつたのか、と最初思ひ、不思議な感じがした。その次、外から見えるかな、と思い、ほとんど同時に、小學校讀本の、我が家といふ章を思ひ出した。此の連想は非常に自然である。

 庭の眞中に池がある。汚れた水が半分入つてゐる。木の葉や油がういてゐる。何の形をかたどつたものだらうと思つて、又、修猷館(しゆういうくわん)の九州池を思つた。

 何も象(かたど)つてゐない。出鱈目(でたらめ)な形だと私は思つた。その橫に岩がある。その上に、女がかめをもつた彫像が置いてある。ギリシヤ風の服裝をしてゐる。岩の上でなく、池のふちにおいたらいいだらうと私は思つた。さうすると、私の空想を剌激するだらう。高さ七八寸の彫像を等身大に見なすことによつて。

 庭のすみに女の下駄が二足あつて、兩方とも汚れてゐる。雨どひがある。ブリキで出來てゐる。船の古材のやうな感じのする五尺ほどの材木がそれに立てかけてある。とひには、毛蟲が一匹、くの字形にくつついてゐる。庭のむこうには部屋が□□ある[やぶちゃん注:底本の判読不能字。]。

 電燈のついている部屋では男の頭が見える。夕食のライスカレーを食べてゐる。一言で言へば、貧弱な光景だ。佗しくて暗い庭だ。

 いまから先、どの位、私は此の庭を、あけくれ見てすごすことだらう。

 

 ゴーリキーの「零落者の群」を讀んだ。胸を打つて來る小說であつた。「死の家の記錄」より、浮浪人に作者の愛情はあたたかい。一時に眠る。

[やぶちゃん注:「平林彪吾」(ひょうご 明治三六(一九〇三)年~昭和一四(一九三九)年)は小説家で、鹿児島県姶良郡(現在の霧島市)生まれ(自作農家の三男)。本名は松元実。大正一〇(一九二一)年七月、日本大学高等工学校建築科卒業。昭和二(一九二七)年四月、詩・評論誌『第一芸術』を創刊・主宰した。同年五月、東京府復興局建築技手となり、関東大震災後の銀座での土地区画整理業務に携わり、現場監督などを務めた。昭和六(一九三一)年、「日本プロレタリア作家同盟」に加盟している。昭和十年に「鷄飼(とりか)ひのコムミュニスト」が『文藝』の懸賞に入選した。『人民文庫』に参加し、翌年「肉体の罪」で人民文庫賞を受賞した。敗血症のため、昭和十四年四月に築地海軍病院に入院したが、同月二十八日に死去した。満三十五歳。翌年三月、遺作集「月のある庭」が『人民文庫』同人と火野葦平の好意で出版された。

『ツルゲネフの「ルーデイン」』‘Рудин ’(ラテン文字転写:Rudin :一八五七年)は現行では一般には「ルーヂン」「ルージン」と表記されることが多い。

「あひびき」『二葉亭四迷の「片戀」の中より』イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(Иван Сергеевич Тургенев:ラテン文字転写:Ivan Sergeyevich Turgenev 一八一八年~一八八三年)は私がロシア文学者の中で最も愛する作家である。二葉亭四迷譯も、初版「あひゞき」、及び、改稿版「あひゞき」をサイト版で古くに公開している。その他の作品は私の「心朽窩 新館」を見られたい。

『ゴーリキーの「零落者の群」』書名はラテン文字転写で‘Bivshiye lyudi ’。私は読んだことがない。

「死の家の記錄」言わずと知れたドストエフスキーのそれ。‘Записки из Мёртвого дома ’(一八六〇年~一八六二年)。思想犯として逮捕され、死刑を宣告されたが、銃殺刑執行直前に皇帝ニコライⅠ世からの特赦が与えられ(この経緯は総て初めから仕組まれたものであった)、シベリア流刑に処せられた著者の四年間に亙る獄中の体験と見聞の記録(一八四九年逮捕、オムスクで一八五四年まで服役)である。いつか電子化したい凄絶な作品である。]

 

五月六日

 オニールの「地平線の彼方」を讀む。

 

五月八日

 朝、晝、「白痴」を讀む。

 夜、白痴第二卷讀了。

 一時半に眠る。

 

五月九日

 「白痴」第三卷。

 

五月十日

 九時起床。

 朝食後、和泉軒にてミルク。

 下宿に戾つて、「白痴」をよむ。

 午後三時頃、讀み終えた。そして晝寢した。

 五月七日の夜のことであつた。私は早くから寢てゐたら、帳場の方で聲がした。烈しい𠮟咤のこゑがした。ここの主が女中をしかるのである。私は眠れないでいらいらしながらきいていた。だんだん、SERVANTがお客に友達のやうな話し方をするといふのでしかつてゐるといふことがわかつてきた。(三十分以上叱責がつづいた。)五月八日朝私がおきて顏をあらいに洗面所にゆくとSERVANT等は、外ゆきの着物のおびをしめていた。――そして出て行つたらしかつた。ひるはここの娘が客の用をきいてゐたやうである。(私のとこにもきた)

 三時頃SERVANT等はもどつて來た。私は夕飯をもつて來たSERVANT、Bをつかまえて、どこに行つたんだときいたら、奧さんと淺草に行き、「愛染カツラ」をみて來たと答へた。昨日叱り、今日活動か。面白いヤリクチだと私は思つた。――その日はSERVANT、Aは私のところに出入しなかつた。五月九日から出入し始めた。

少しくプンとしている。私がはなしかけても、ろくに返事しない。あの叱責のことを私がきいてゐたんだぞと言つたらSERVANT、Aは心の底までつきさされるにちがひない。SERVANT、Aは私がそれを知つてるのか知らないか、半信半疑であるらしかつた。――その夕方頃、私は何かの用事であの女をよんだ。私はまどにこしかけてゐた。私のちかくに笑はない顏を一尺ほど近くによせて來た。私はこしかけてゐるので、Aの顏は私の眞上に見えた。――Aの氣持を書かう。あたしは不機嫌なんだと、不貞くされた氣持と、(それは私に對するものと、主人に對するものが雜然とまぢり合つてゐる!)だから、なぐさめてもらひたい、(私はさうされるケンリがある!)それと、一種の孤獨感と、私に對するにくしみ、(これは、いろんな複雜な要素からなつてゐるので、いつか私は闡明(せんめい)したいと思ふ)以上の混然なるAの姿體であつた。私は、下から見上げてゐた。その時、私は何か外のことでイライラしてゐたことがあつた。(SERVANTと關係なく。)二重になつたあごと、アンパンのやうな顏と、下目使ひをした目のあり方を見上げながら、私は、どういふ具合かはつきり判らぬが、物すごい生理的嫌惡をAに感じた。その顏は、如何にも醜かつたのだ。

 動物はよし汚なかろうとも、醜くはない。――此の意味で、人間のみがもつ醜さの權化と私は感じた。私はもはやそれが放つネバネバした惡臭を感じた。私は踊り上つてAのほつぺたを毆り飛ばしたい欲望がむらむらと心中に起るのを覺えた。――此の氣持は今日のみでない。五月一日より以來は、初めてである。もう、一年間のここの生活で、私は數知れぬ程經驗した。Aと、も一人いたSERVANTに對して。――それ以來私はAにあまり口をきかぬ。Aは、又もとの狀態になり、無遠慮になつて、私の部屋に出入する。私は、この間の實驗を着々すすめてゐるけれど、まだ反應はないのである。――今日は電話室のところでBが私に、今日あなたに來た葉書よみましたと言つた。どんな葉書かねときいたら、きれいな人がよろしくの葉書だと答へた。上里重夫氏の葉書のことなのである。アホカイナ! と私は思つた。

 私が「寄港地」で「地圖」といふ小說をかいたとき、太田と下平と小松があつまつて、私がのちに堀辰雄のやうになりはせんかと言つた。もちろん、これは彼等の目の至らなさによるものではあるけれど、私はその後、堀辰雄と全然ちがつた、反對の道をあるいてきた。――此の世の中から、光よりも影を、美しさよりも醜さを、純粹よりも汚濁を見ながら生きてきた。此の道を、今更後悔しようとは思はぬが、それがため、私は私のモラルを喪失した。――私は趣味的な生き方をした。今、小說をかこうとするとき、一番困ることは、影だけでは、醜さだけでは、汚濁だけでは、小說が出來ないといふことを私が知つてゐることである。いや、そう信じてゐることである。なぜこんなことを信じてゐるのだらう? 私にははつきりわからない。しかし、こんなことを考へるのは、大して意味がない。さう私は思ふのである。――私は、ただ、目の前をチラチラする個々の人間を、私の小說的位置にまで定着したいのである。そして、それに確信を得たいのである。

[やぶちゃん注:「愛染カツラ」表記は「愛染かつら」(あいぜんかつら)が正しい。川口松太郎が昭和一二(一九三七)年から翌年にかけて『婦人倶楽部』に連載したものが原作の映画。「愛染桂」のモデルは長野県上田市別所温泉の北向観音境内に生育するカツラ(:双子葉植物綱ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum )の巨木(♂株)で川口は、このカツラの木と木に隣接して建っている愛染明王堂に着想を得て本作を書き、大ヒットしたため、この木も「愛染桂」と呼ばれるようになったものである。ウィキの「愛染かつら」(シノプシス有り)によれば、映画は野村浩将(ひろまさ)監督で、人気二大俳優田中絹代・上原謙主演で松竹製作で「愛染かつら 前篇・後篇」(昭和一三(一九三八)年公開)とするが、これは現在、前・後篇ともにフィルムが完全な形で存在しない。その後、翌昭和十四年(この日記の年)に「續愛染かつら」・「愛染かつら 完結篇」(孰れも同監督。同俳優主演)で公開されており、どれを見にいったものか、よく判らない。但し、調べてみると、この昭和十四年の五月五日に「續愛染かつら」が公開されたというデータがウィキの「1939年の日本公開映画」にあったので、その可能性が高い。

「地圖」こちらPDF縦書版で私のオリジナル注附き(但し、新字新仮名)がある。]

 

五月二十四日

 昨日淺見淵氏からはがきが來て、「風宴」は早稻田文學の八月號にのせるといふことであつた。何だか中途半端な氣持になつた。又昨日は、「自然の驚異」と題する映畫のタイトルを和文英譯して、今日、京橋區西八丁堀四丁目六番地日東商事映畫社に持つて行き、三圓もらつて來た。これもやはり中途半端で、片づかない氣持がした。此の金で金子質店よりセルの着物を出した。

[やぶちゃん注:「自然の驚異」調べたが、不詳。]

 

六月一日

 朝七時半に女中が起しに來た。臺灣からのはがきをもつてゐる。現(うつつ)か夢かはつきり判らない狀態でそれを讀み、また昏々と眠つた。――十時半に又、おこしに來た。

 朝食がすんでぼんやりしてゐると、何もすることがない。昨夜から降り出した雨が今は物すごい勢いで降つてゐる。窓や、庭や、池の面にあたる雨の音、雨どひから放出する水の音、太い雨滴が、何か硬質のものにはねかへる音、それらの、ざあざあざあ、といふ音響を聞きながら煙草をすつた。少ししめつて不味(まづ)い。又、眠らうと思つた。床に入つて古雜誌をめくつてゐるうちに眠つた。――夢がいくつも斷(き)れたりつながつたり、時に目がさめそうになるのを押へつけながら、重い苦しさを私は感じて、此の世の汚穢や醜惡や卑劣や怠惰を一身にあつめて、豚のやうに眠つた。昏々と。

 四時頃やつと目がさめて、不味い夕食をたべた。そして島袋のところに行つた。一緖に靴を買ひに行つた。(ゴムの靴)ゴムの靴は統制以後にないのである。それから洋品屋に行つて彼は少し買物をした。――私は入口のところで、べンベルグや絹や、いろんな生地で出來たスリツプを眺めたり、手でさはつたりした。女體といふことが戰慄に似たものを伴つて思ひ出された。私の指の間でスルスルとすべるやうな絹のスリツプ、肩のところにかける細い紐が、何となく剌激的に思はれた。手でそれをさはるのが惡いやうな、さはつてゐるうちに自分が傷ついて行くやうな感じがした。

 田村に入つて珈琲(コーヒー)と洋菓子を食べた。眼鏡をかけた新しい女がいて、顏を近づけながら注文をとる。ここには何故眼鏡をかけた女ばかりゐるのだらう。山田新之輔ににてゐた。會話がはづまない。そこを出て西鄕のうちに行つた。職のことや、學問のこと、論文のことなどはなしてゐるうちに怖れに似たものが湧きおこつた。やり切れないものを感じて、私はうちしをれた。(久松敎授は、一日のうち二時間しか眠らぬ。五時間も眠ると、腋からかびが生えて來る。)島袋から五十錢借りた。足立のことなど。眼ぶたがちらちらする。神經衰弱になつたらしい。だんだん慘めになつて來る。いろいろやることが多いので、いやになつてしまふ。

[やぶちゃん注:「臺灣からのはがき」「昭和七(一九三二)年」の注で記した、五高の学資を援助して貰った台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父からのものかと思われる。

「統制以後」この前年の昭和一三(一九三八)年に第一次近衛内閣によって発議され、同年四月一日に公布・制定された「國家總動員法」によるもの。日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定している。

「べンベルグ」Bemberg。ドイツのJ.P.ベンベルク社が一九一八年に製造を開始した銅アンモニアレーヨンの商品名。下着類や安価な和服生地に用いられている。「キュプラ」(cupracuprammonium rayon)とも呼ぶ。

「山田新之輔」不詳。映画俳優かと思ったが、見当たらない。

「久松敎授」国文学者で文学博士の久松潜一(明治二七(一八九四)年~昭和五一(一九七六)年)。愛知県知多郡藤江村(現在の知多郡東浦町)生まれ。大正八(一九一九)年、東京帝国大学文学部国文学科及び同大学院卒業後、一高教授・東京帝国大学国文学科助教授を経て、昭和一一(一九三六)年に同帝大教授となった。戦後の退官後は同名誉教授・慶應義塾大学教授・鶴見女子大学教授・國學院大學教授を歴任し、国文学会に君臨した。

 なお、昭和十五年から昭和十九年までの五年間の日記は底本にはない。★昭和二十年の日記★は同じ仕儀で、ここで電子化注済みである。

2021/07/08

カテゴリ「小酒井不木」始動 /小酒井不木「犯罪文學研究」(単行本・正字正仮名版準拠・オリジナル注附)(1) 序・目次・「はしがき」・「日本の犯罪文學」・「櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事」

 

[やぶちゃん注:医学博士にして推理小説家であった小酒井不木(明治二三(一八九〇)年~昭和四(一九二九)年)は愛知県海東郡新蟹江村(現在の海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家に生まれた。本名は光次(みつじ)。大正三(一九一四)年、東京帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学大学院に進み、生理学・血清学を専攻した(血清学の教授は三田定則で、彼は犯罪学の権威でもあり、不木や同窓生らは、後の学術雑誌『犯罪學雜誌』の創刊に尽力している)。大正四(一九一五)年十二月に肺炎を病み、転地療養しているが、半年後には快癒し、再び、研究に従事し、大正六年十二月には二十七歳で東北帝国大学医学部衛生学助教授に任ぜられた。その後、文部省から衛生学研究のために海外留学を命じられ、渡英したが、ロンドンで喀血し、ブライトン海岸(私の好きなリチャード・バラム・ミドルトン(Richard Barham Middleton 一八八二年~一九一一年) の怪奇小説「ブライトン街道」(On the Brighton Road )だ!)で転地療養し、小康を得て、一旦、ロンドンに戻った。大正九(一九二〇)年の春にはフランスのパリに渡ったが、再び喀血し、南仏で療養、小康を得て、帰国、同年十月、東北帝国大学医学部衛生学教授就任の辞令を受けたが、病いのため、任地に赴けず、長男を親元に預け、愛知県津島市の妻の実家で静養した。翌年、医学博士の学位を取得した。『東京日日新聞』に「學者氣質」を連載するが、篇中にあった「探偵小說」の一項が、前年に創刊された探偵雑誌『新靑年』(博文館)編集長森下雨村(うそん)の目に留まり、森下は不木に手紙を書き、不木も「喜んで寄稿し、今後腰を入れて探偵文學に力を注ぎたい」と返書している。大正一三(一九二四)年には、詩人で同じく医学博士であった木下杢太郎(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年:本名は太田正雄)が愛知医科大学皮膚科学教授となり、名古屋市において、不木と木下を中心とした一種のサロンが形成された。以後、医学的研究の解説に海外推理小説を多く引用して,日本の推理小説に影響を与えた。自身も「戀愛曲線」・「疑問の黑枠」・「鬪爭」などの推理小説・SF小説を書き、科学に立脚した本格推理小説の発展に寄与した。三十九歳で急性肺炎で亡くなった(以上はウィキの「小酒井不木」他を参考にした)。私の非常に好きな作家である。言っておくが、主に彼の評論が好きなのであって、私は探偵小説自体をそれほど好む人間ではない。医学者であって小説も書いたというところに惹かれるのである。

 本書は『新靑年』に大正一四(一九二五)年六月号から翌年の九月号まで連載されたものに、大正一五年八月増刊号に発表した「マリー・ロオジエー事件」を『ポオの「マリーロジエー事件」』と改題して、併載したもので、不木の著作の中でも私が高く評価している評論である。

 底本は昭和二(一九二七)緣一月三日発行春陽堂刊の「犯罪文學研究」を国立国会図書館デジタルコレクションの画像を元に視認して電子化した。不審な箇所は、所持する国書刊行会一九九一年刊の『クライム・ブックス』の「犯罪文学研究」(新字新仮名で底本以外の作品も収録しており、「犯罪文學研究」パートは初出誌に基づいた翻刻である。しかし、古典籍のルビの中には私の確認した影印本などとは異なるルビが振られており(歴史的仮名遣ではある)、正直、信頼出来ない箇所があることを断っておく)を参考にした。因みに、既に探偵小説並みの不審があって、国書刊行会本の「収録作品解題」では、本単行本の発行を昭和元年十二月二十八日とするのだが、底本の奥付では、「印刷」と「發行」の部分に明らかな別印刷の紙が貼られてあって、そこでは『昭和元年十二月廿九日印刷』とあるその上に、明らかに細い筆(墨)で『廿九』の部分に削除線が引かれ、『三十一』と手書き(削除線とも)で記されてあり、発行の部分も『昭和二年一月  日發行』(恐らく空欄はママ)とあるものに、同じく手書き筆字で『三』と書かれていることである。【二〇二一年七月十一日削除・追記】何時もお世話になるT氏よりメールを戴き、この謎が判明した。

   《引用開始》

国立国会図書館デジタルコレクションの『犯罪文學研究』は、標題ページに

「昭和二・一・一五・内交」

の判が押されています。これは、内務省納本正・副の内、副本が帝国図書館に交付された日付です。

底本の奥付に別印刷の紙が貼られて手書き修正があるのは、

「大正十五年十二月二十五日大正天皇崩御、即日昭和元年十二月二十五日昭和天皇即位」

の大騒ぎが関係しています。

サイト『「もる」氏の小酒井不木 著書目録』

には、『犯罪文學硏究』の奥付は

「大正151225日印刷 大正151228日発行 定価230銭」

と出ています。「もる」氏は所持されていない本には「(未所持)」と丁寧に注記されています。これによって、市販品は

「大正151225日印刷 大正151228日発行」

で出回っていたことが判ります。

「奥付」と「内交」については、

書物蔵(id:shomotsubugyo)氏のブログ「奥付研究、というか検閲研究か?」

に、

   《引用開始》

納本の期日と、奥付の月日

・納本の3日前は、厳重に守られていた。

・納本が遅れたら、奥付の月日を訂正しなければならない。

・遅れても発禁の対象にならないもの(とくに官庁出版物)は、説明し、月日の訂正捺印で受理してもらいやすいと聞いた(伝聞)。

奥付の月日 内交本(検閲本)と市販本(流布本)のズレ

・内交本の月日が訂正されていれば、それが法定納本の正式な月日。

・市販本は訂正されていないらしい。

   《引用終了》

従って、印刷してしまった「大正十五年十二月二十五日印刷 大正十五年十二月二十八日発行」では、納本ができません。春陽堂は、納本に合わせて、別紙を大急ぎで準備したと思います。

「納本日」が未定のため、空欄にしたが、実際の「納本」で印刷日と発行日の訂正を行ったものと思われます。

則ち、 国書刊行会本の解題にある『昭和元年十二月二十八日』は、市販本の『大正十五年十二月二十八日を書き直しただけです。

   《引用終了》

お調べ戴いたT氏に深く感謝申し上げる。

 踊り字「〱」「〲」は正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた(本文中、一部の漢数字がゴシック太字になっているので、その太字は別)。但し、底本の本文末尾に『〔正 誤〕 本文中「靑砥藤綱摸稜案」の「摸」の字が「模」となつて居るのは誤であるから訂正する。』とあることから、この誤記部分は総て訂正して示すこととした。そこは最初の箇所を除いて後は断っていない。但し、一般名詞の熟語としては後で注するように「模稜」でも誤りではない。

 注は私が躓いたところ、及び、若い読者に判りにくいと思った箇所や(但し、手取り足取りはしない)、資料を示し得ると思われた部分にストイックに附す。難読と思われるものは、原拠が視認出来る場合はそれを参考にしつつ(実は原拠のルビ等は歴史的仮名遣の誤りが多いので、無批判には従っていない)、その他は推定で歴史的仮名遣で《 》で読みを示し、表記上の不審点などにも割注した。底本のルビは( )で区別した。字配は必ずしも一致させていない。また、特に古文の引用では、句読点の不足が目立つので、私が原拠と照合の上、句読点を追加・変更した箇所も多い。それは五月蠅いだけなので、特に注していない(かなりの数に及ぶ。ないとおかしい不木自身の本文にも苛ついた箇所ではやはり挿入し、注記しなかった)。さらに本電子化注のオリジナルな特異点として、不木が紹介する作品の内、国立国会図書館デジタルコレクションその他で、原拠或いは同等のものの全話を視認可能な場合は、出来る限り、それをリンクで添えた。本書を十二分に熟読出来る仕組みとして、内心、自負を持っている部分ではあるからして、お楽しみあれかし。【二〇二一年七月八日始動 藪野直史】]

 

 

犯罪文學研究

 

醫學博士

小酒井不木 著

 

 

東京

春陽堂版

 

 

犯罪文學の硏究は自分の畢生の事業である。本書はいはゞその發端といふべきものであつて、もとより未熟なものであるが、後來の完成を期しつゝ、こゝに敢て公にするに至つたのである。

  大正十五年十二月

           小 酒 井 不 木

 

 

   目    次

 

はしがき

日本の犯罪文學

櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事

探偵小說としての三比事

三比事に書かれた探偵方法

三比事に書かれた特種の犯罪方法

三比事に書かれた犯罪心理

詐欺騙盜を取扱つた文學(晝夜用心記と世間用心記)

兩用心記の比較

兩用心記に書かれた詐欺方法

曲亭馬琴の『靑砥藤綱摸稜案』

靑砥藤綱の『裁判』に對する態度

『摸稜案』の最初の物語

暗號解讀

『摸稜案』に書かれた女性の犯罪心理

犯罪文學と怪異小說

江戶時代の怪異小說

主觀的怪異を取扱つた物語

ラフカヂオ・ハーンの飜譯

古今奇談英草子

淺井了意と上田秋成

伽婢子と雨月物語の文章

近克巢林子とシェクスピア

『マクベス』の硏究

默阿彌の惡人

ポオの『マリー・ロオジェー事件』の硏究

[やぶちゃん注:リーダーとページ番号は略した。作品書誌や人名の内、必要と思ったものはチョイスして本文で注するが、ここでは少し「語」の意味を注しておく。

「比事」とは「類似した事件を比較すること」を意味する。

「騙盜」は「へんたう(へんとう)」と読み、「騙(だま)し、誤魔化して横領する」の意。

「摸稜」は「もりよう(もりょう)」は実は「模稜」とも書き、「事柄を明白にしないこと・曖昧にしておくこと」の意。初唐の政治家で宮廷詩人としても知られた蘇味道(六四八年~七〇五年)が宰相の時、事を決めるに当たって、自分の信ずる所を言わず、ただ、自分の席の稜(かど)を手で摩(さす)っているだけであったという故事に基づく。この馬琴の命名になる「摸稜案」とは、ばっさりと裁断してしまうのではなく、黙考して真相を推理すること、それを匂わせる、というような意味で用いているようである。]

 

 

犯罪文學硏究

 

      は し が き

 文學に現はれた犯罪又は犯罪者の硏究は可なりに古くから行はれて居る。古いと言つても、犯罪學そのものが比較的新らしい學問であつて、犯罪學らしい犯罪學の發達したのは、所謂、犯罪人類學の開祖たるロムブロソー以後のことであるから、まだ凡そ六七十年にしかならず、從つて文學にあらはれた犯罪又は犯罪者の硏究が科學的に試みられるやうになつたのも、五六十年來のことである。

 實際、文學に描かれた犯罪者を科學的に硏究した最初の有明な著述は、ロムブロソーの高弟で、犯罪社會學を開いたエンリコ・フェリの『文學に於ける犯罪者』であつて、これは一八九二年ピサで講演した所を補つて一册の書物としたものである。この中にはシエクスピアの戯曲、『マクベス』、『ハムレツト』、『オセロ』を始め、シルレルの『群盜』、ユーゴーの『死刑囚の最後の日』、ゾラの『テレーズ・ラカン』その他、及び、イブセン、トルストイ、ドストイエフスキー、ダヌンチオ等の作品が硏究され、なほガボリオーやサルドゥーの探偵小說まで硏究されである。

 フェリのこの硏究の要點は、フェリの『犯罪者の分類』を文學的作物によつて證明しようとした所にある。フェリは犯罪者を五種類に分つた。卽ち一、狂的犯罪者、二、先天的犯罪者、三、常習性犯罪者、四、偶發性犯罪者、五、情熱性犯罪者がこれであつて、彼は文學に描かれたところの犯罪者も畢竟この五種以外のものはないことを指摘し、それと同時に『犯罪人類學』は、犯罪人類學を知らなかつた文豪たちによつて、知らず知らずに理解されて居つたといふことを論じて居る。

 フェリ以後は、コーラー、ゴル等幾多の犯罪學者によつて、部分的に文學の犯罪學的硏究が行はれたけれども、最も徹底的な硏究をしたのはドイツのエーリツヒ・ウルフェンである。ウルフェンはフェリとちがつて、圭として犯罪心理學の立場から、文學にあらはれた犯罪者を硏究し、その著『シエクユピアの大犯罪者』と『ゲルハルト・ハウプトマンの戯曲』は極めて名高いものである。前者にはマクベス、オセロ、リチヤード三世の性格と犯罪との關係が遺憾なく說明され、後者にはハウプトマンの戯曲十種に就て、深い犯罪心理學的硏究が試みられてある。

 犯罪の硏究も詮じつめて見れば『人間』硏究の一部分である。そして人間をよく知るためには『科學』ばかりでは不充分である。『科學』は主として、多數の材料をあつめて、そのうちから共通な點を歸納しようとするのであるが、そればかりによつて人間硏究を完うすることが出來ると思つては間違ひである。だから偉大なる科學者は必しも『人間をよく知つて居る人『[やぶちゃん注:二重鍵括弧はママ。](卽ちドイツ語で所謂『メンシエン・ケンネル』)ではない。否、『メンシエン・ケンネル』は、古來、むしろ偉大なる文豪に多かつた。從つてそれ等文豪たちの作品には、科學者達の普涌氣附かぬ人間の性質が描かれてある。こゝに於て文學の科學的硏究の必要が起つて來るのであつて、かういふ立場から、『文學の犯罪心理學的硏究』を試みたのがウルフェンである。その著『シエクスピアの大犯罪者』一卷は、むしろシエクスピアが如何に人間をよく知つて居たかを證明したものといつた方が適當であつて、『文學の犯罪學的硏究の價値』を說いたものと見ても差支ない。例へば輓近《ばんきん》[やぶちゃん注:近来。近頃。]明かにされた『不具と犯罪性』との關係は『リチヤード三世』の中に遺憾なく描かれ、『癲癇と犯罪性』との關係は『マクベス』の中に說き盡されて居る。だから優れた文學的作品の硏究は犯罪の科學的硏究の先驅たり得る見込さへあるのである。

 さて、犯罪に關する文學といへばその範圍は極めて廣い。善と惡との葛藤を描いた文學はある意味に於ては悉く犯罪文學と言つても差支ない。西洋ではホーマーの二大詩篇も見樣によつては一つの犯罪文學である。然し乍ら、犯罪を描いた文學が、犯罪文學として、特に人々に興味を與へるやうになつたのは、犯罪が如何に探偵されて行くかといふことが西洋の探偵小說の鼻祖は通常エドガー・アラン・ポオとされて居るから、所謂犯罪文學の勃興は第十九世紀の半ば以後のことである。

 チヤールズ・ホーンはその著『小說の技巧』の中に、探偵小說を『技巧の小說』の一種と見倣し、その特徵は、構想が故意に逆に示されてあつて、讀者は自分自身の機智を働かして、謎を解く努力をし、探偵の仲間入りをし得る所にあると言つて居るが、この點がやがて讀者の興味の中心となることは言ふ迄もないことである。又、必ずしも構想が逆に示されて居なくても、犯罪が一步々々わかつて行く經路の描かれてあるものは同樣の興味を與へるものてあつて、ドストイエフスキーの『罪と罰』や『カラマゾフ兄弟』の面白味は、その探偵味をたつぷり含んだところにあるといつても、恐らく誰も異存はあるまいと思ふ。

 近頃では『探偵小說』なる名稱が廣い意味に用ひられ、ホーンの所謂技巧の小說(恐怖、密謀、探偵、ミステリーを取り扱つたもの)を始め、ある種の冒險小說をも含ませらるゝに至つたので、探偵小說は必ずしも犯罪文學ではなくなつたけれど、やはり探偵小說の名の示すとほり、犯罪の探偵を取り扱つたものが、數に於ては一ばん多いやうである。これはいふまでもなく、人々が犯罪といふものに一種の魅力を感ずるためである。このことに就ては拙著『殺人論』に述べたことであるから、玆に繰返さないけれども、センセーシヨナルな殺人事件があると、各新聞紙はその紙面の大部分を割いて之が報導[やぶちゃん注:ママ。]に力を注ぐところを見ても、思ひ半ばに過ぎるであらう。

 近時、實際の犯罪探偵に科學が應用されるに至つたゝめ、探偵小說にも主として科學的捜査による探偵事件が描かれるけれども、やはり、興味の多いのは心理的に、所謂人間性を巧みに應用した探偵事件である。さういふ探偵小說は、シエクスピアの戯曲その他の純文學的作品と同じく、犯罪學的に硏究する價値があるのである。

 それ故私はこれから犯罪に關する文學の犯罪學的考察を試みようと思ふのである。主として探偵味を合んだ文學に就ての硏究ではあるけれども、さもないものについても硏究の步を進めて行くつもりである。

[やぶちゃん注:「ロムブロソー」イタリアの精神医学者で犯罪学の創始者チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso 一八三五年~一九〇九年)。ベローナ生まれ。パドバ・パビーア・ウィーンの諸大学で医学を修め、軍医に従事したのち、一八六四年パビーア大学教授となり、一八七〇年、ペザロの精神科病院の院長に就任した年、サル以下の動物の頭蓋に存在するが、人間には極めて稀にしか見られない中央後頭窩を、ある犯罪人の頭蓋に発見し、後年の主張の契機を得た。一八七六年、トリノ大学教授に転じ、そこで終生犯罪の人類学的研究に没頭した。彼は犯罪者の頭蓋三百八十三個を解剖し、また、五千九百七人の体格を調査したうえ、犯罪人の人類学的特徴というものを措定し、特に隔世遺伝による生来的犯人という観念を明らかにした。そして、犯罪人総数の約三分の一は、この生来的犯人であって、この種の犯人は、その素質に基づき、因果的必然的に罪を犯すものであるから、これに対し、責任を負わせるわけにはいかないが、危険な存在であるから、国家はこれに対し、一定の対策を講じなければならない、と主張した。このような実証主義的犯罪観は、その後、特にイタリアにおいて発展し、所謂、近代学派の刑法理論及び犯罪の自然科学的研究、則ち、「犯罪学」を生み出す契機となった(主文を小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「エンリコ・フェリ」(Enrico Ferri 一八五六年~一九二九年)はイタリアの刑法学者・犯罪学者・社会学者。サン・ベネデット・ポー生まれ。ボローニャ大学で法律学を研究し、さらにパリに留学、フランス犯罪統計学派の影響を受ける。帰国後、ロンブローゾに師事した。一八八〇年、ボローニャ大学助教授・教授となり、犯罪人類学を主唱、一八八四年に『犯罪社会学』を著した。一八九四年には政界入りし、社会党議員としても活躍した。彼は、「犯罪原因の三元説」(人類学的要因(年齢・性別など)・物理的・風土的要因(人種・気候・地理・季節・気温など)、社会的要因(人口密度・慣習・宗教・政治など)を犯罪の原因として挙げたもの)、「犯罪飽和の法則」(「一定の個人的・社会的条件の備わった、一定の社会において発生する犯罪の量は一定である」)を提唱、具体的な分類に従って各種犯罪者の個別的対策論を示し、一九二一年には「イタリア刑法」草案(「フェリ草案」)を起草、そこでは応報刑論が抹消され、刑罰と保安処分を同じ「制裁」と捉え、一元化することが試みられている。このため、本草案は「責任と刑罰のない刑法典」と呼ばれた。主に参照した当該ウィキによれば、『フェリはロンブローゾのように犯罪の人類学的要因に拘泥こそしなかったが、犯罪原因の中で人類学的要因が中核であると確信しており、その意味でロンブローゾの犯罪生物学の最大の擁護者といえる。彼の有名な言として「社会環境は犯罪に対して形式を与えるが、犯罪の要因は反社会的な生物学的構造の中にある」というものがある』。『にもかかわらず、彼が犯罪の社会的要因を強調した所以は、フェリがマルクス主義者であり、社会変革によって社会悪を解消することが犯罪の減少に結びつくと考えていたことと関連がある』とある。「文學に於ける犯罪者」は一九二三年刊行。

「ガボリオー」フランスの小説家エティエンヌ・エミール・ガボリオ(Etienne Èmile Gaboriau 一八三二年~一八七三)。シャラント=マリティーム県ソージョンに公証人の息子として生まれた。公証人の見習いとなり、二十歳の時、騎兵隊に入ったが、アフリカで病気になり、除隊、パリで、暫く仲買人に雇われ、二十五歳の時、週刊誌『ジャン・ディアブル』誌に入社し、アレクサンドル・デュマと知り合う。当時の大衆小説の大家ポール・フェヴァルの秘書として代作をするようになり、その材料を仕入れるために警察やモルグ(遺体置き場)を回り歩き、後に探偵小説を書くようになってから、これらの知識が役に立つことになった。新聞小説だけでなく、新聞付きの文芸誌に連載小説を発表するようになってから、ガボリオの名声は上がりはじめ、彼が原稿を一枚書くごとにメッセンジャー・ボーイが印刷所へ運ぶ有様だったという。このような生活を十三年間送り、二十一の長編を書いたが、肺出血のため、パリで四十一歳で死去した。ガボリオは家庭のスキャンダルをテーマにした普通小説の他に、探偵小説の範疇に入る約八作品(長編六作・短編集一冊・未収録作品集一)を残している。第二作以降の主役である探偵ルコックは、シャーロック・ホームズなど後世の探偵小説に多大な影響を与えた。黒岩涙香によるガボリオの翻案と紹介の意義は大きい。また、若くして他界したガボリオを惜しんで、「鉄仮面」(Les deux merles de m. de Saint-Mars  :「サン=マルス氏の二羽の鶇(つぐみ)」。一八七八年。海外では殆んど忘れられた作品である)で有名な小説家フォルチュネ・デュ・ボアゴベイ(Fortuné du Boisgobey 一八二一年~一八九一年)は名探偵ルコックのその後の活躍を「ルコック氏の晩年(La Vieillesse de Monsieur Lecoq )」のタイトルで執筆している。日本では、これも黒岩涙香が「死美人」のタイトルで翻案しており、更に江戸川乱歩が同タイトルでリライト(実際は氷川瓏(ひかわろう)の代作翻案)している(以上は概ね当該ウィキに拠った)。

「サルドゥー」フランスの劇作家ヴィクトリアン・サルドゥ(Victorien Sardou 一八三一年~一九〇八)ではなかろうか。オペラの名編として知られるプッチーニの「トスカ」(Tosca)は彼の戯曲「トスカ」(La Tosca :一八八七年)に基づくもので、犯罪劇である。但し、小説ではなく、あくまで戯曲である。もし、他の作家の誤りであるとならば、御教授願いたい。

「フェリの『犯罪者の分類』」この二重鍵括弧は書名ではなく、学術用語。後の『犯罪人類學』も同じ。

「フェリは犯罪者を五種類に分つた。卽ち一、狂的犯罪者、二、先天的犯罪者、三、常習性犯罪者、四、偶發性犯罪者、五、情熱性犯罪者」ウィキの「エンリコ・フェリ」によれば、「犯罪対策論」の条で、『犯罪者の分類に応じ、対応方法を提示した』として、『生来性犯罪者』は『無期の隔離』、『精神障害犯罪者』は『精神病院へ収容』、『激情犯罪者』は『損害賠償、移住命令』、『機会犯罪者』は『労働、損害賠償、移住命令』、『慣習犯罪者』は『改善可能な場合は労働、損害賠償、移住命令。改善不可能な場合は無期の流刑』とあり、最初の二つが入れ替わっている他は、ほぼ一致を見る。

「コーラー」【二〇二一年七月十一日削除・追記】何時もお世話になるT氏よりメールを戴き、判明した。ドイツの法学者(法学博士)で作家・詩人でもあったヨーゼフ・コーラー(Josef Kohler 一八四九年~一九一九年)。邦文の彼のウィキには、『比較法学を進展させた。その研究は、穂積陳重』(のぶしげ)『や岡松参太郎を通じて』、『日本の法学研究にも影響を与えた』とある。ドイツ語の彼のウィキには、法学以外の著作も記載されている。

「ゴル」デンマークの法学者オーガスト・ゴル(August Goll 一八六六年~一九三六年)であろう。デンマーク語の彼のウィキを機械翻訳すると、犯罪学者としての一面があるように見える。彼の著作には英訳で‘Criminal Types in Shakespeare ’というのがあるから、彼であろう。

「エーリツヒ・ウルフェン」ドイツの犯罪学者ヴォルフ・ハッソー・エリッヒ・ウルフェン(Wolf Hasso Erich Wulffen 一八六二年~一九三六年)。ドイツ語の当該ウィキを見られたい。

「シエクユピアの大犯罪者」‘Shakespeares große Verbrecher: Richard III., Macbeth, Othello. ’ 。一九一一年刊。

「ゲルハルト・ハウプトマンの戯曲」‘Gerhart Hauptmann vor dem Forum der Kriminalpsychologie und Psychiatrie: Naturwissenschaftliche Studien. ’(「ゲアハルト・ハウプトマンについての犯罪心理学と精神医学の公開討論:科学的研究」の意か)。一九〇八年。

「メンシエン・ケンネル」‘Menschen kennr’(メンシェン・ケンナァ)か。ここは人間鑑定家・精神鑑定人の意であろう。

「チヤールズ・ホーン」【二〇二一年七月十一日削除・追記】何時もお世話になるT氏よりメールを戴き、判明した。英文の彼のウィキに、アメリカの作家チャールズ・フランシス・ホーン(Charles Francis Horne 一八七〇年~一九四二年)。彼は生涯に百冊以上の本を書いたり、編集したりしており、その殆どは歴史作品であった。ニュー・ヨーク市立大学の英語教授であったとある。彼の「小說の技巧」についても、T氏から原題は‘The technique of the novel -the elements of the art, their evolution and present use ’ (「小説の芸術の要素としての技術及びそれらの進化と現在の用法」。一九〇八年初版か)で、国会図書館デジタルコレクションに、大正一三(一九二四)年内外書房刊の尾崎忠雄訳「小說の技巧 小說の起原と近代小說の發展」があることもお教え戴いた(全文が読める)。その訳者の序を読むと、ニュー・ヨーク市立大学での講義を纏めたものとある。]

 

    日本の犯罪文學

 

 探偵事件を取り扱つた小說が、日本で廣く世に行はれるやうになつたのは德川時代以降である。慶安四年、支那の裁判小說『棠陰比事』の日本語譯『棠陰比事物語』が刊行されて非常な人氣を得てから、これに類似した裁判小說が續々刊行された。卽ち元祿二年には井原西鶴によつて、櫻陰比事が書かれ、寶永五年には月尋堂《げつじんだう》の鎌倉(けんさう)比事、次で寶永六年には、作者不詳の桃陰比事(後に藤陰比事と改題された)が出た。この外に、裁判小說專門ではないが、安樂菴策傳の醒睡笑(寬永五年)の中に、板倉伊賀守の取扱つた裁判物語が書かれてあつて、これは多く實談であるらしいが、兎に角物語として讀んでも甚だ面白く、鎌倉比事の中には、この中の話を燒き直したものもある。

 この外、支那の杜騙新書、騙術奇談と類を同じくする騙盜を取り扱つた物語に、西鶴の弟子團水の著はした『晝夜用心記』(寶永四年)と月尋堂の『世間用心記』(寶永六年)とがあつて、いづれも、多大の人氣を得ることが出來た。

 これ等の小說が出てからは、江戶の末期に至る迄類似の書物の刊行がなかつたやうであるが、馬琴の『靑砥藤綱摸稜案』[やぶちゃん注:ここは底本では「模」となっているが、冒頭注で述べた通りの仕儀で訂正する。]が出るに及んで、裁判物語中、人氣の焦點となつた。又、かの『大岡政談』として現今に至るもよく讀まれて居る實錄小說は、誰の作かはわからぬけれど、棠陰比事などの物語も可なり澤山取り入れられて居るやうであつて、『靑砥藤綱摸稜案』も、大岡越前守の政談がその骨子とされて居る。

 明治の中葉には海外の探偵小說の飜譯が盛んに紹介され、次で現今の最隆盛期に達したのであるが、海外小說の影響を受ける以前の日本の探偵文學はその源を支那の棠陰比事に發すると見て差支ないのである。棠陰比事は、宋の桂氏の著はした小說で、約百五十ばかりの短い話が集められてある。現今の言葉でいへば民事上の裁判も刑事上の裁判も含まれて居るのであるが、犯罪搜査にしても、審問にしても、裁判官一人の智慧で行はれるのであつて、單ての經路などはあまり書いては無く、多くは裁判官の機智によつてたちどころに明快に決斷されて居るが、中には犯罪者の性行を穿つた探偵方法も書かれてあつて、犯罪學的考察に値するものが少なくない。

 櫻陰比事以後の日本の探偵物語も、騙盜を取扱つたものゝ外は、棠陰比事と同じく、裁判官が中心となつて事件を解決するやうに書かれてある。もとより短い話ばかりで、叙述の仕方も、あまり巧いとは言へないけれど、その當時の世相をしのぶことが出來ると同時に今も昔も變りない犯罪者の性質を伺ふことが出來るのである。西鶴にしろ、月尋堂にしろ、かやうな探偵小說は人間の『智』的慾望を滿足せしめるために書かれねばならぬものだとたは思つて居なかつかつたらしく、やはり通俗小說と同じく犯人が早く罰せらるればよいといふ氣で書かれたらしい跡がありありと見える。

 私は左に櫻陰、鎌倉、藤陰、三比事について考察して見たいと思ふのである。

[やぶちゃん注:「慶安四年」一六五一年。第三代徳川家光が没した(慶安四年四月二十日)年。但し、後注で示した通り、慶安二年の誤りである。

「棠陰比事」(たういんひじ(とういんひじ))は南宋の桂万栄が編纂した裁判実話集。戦国時代から宋代に至る古今の名裁判の公案(判例)百四十四件が二話ずつ対比され、合計七十二組が収められている。自序によると、桂万栄が建康の司理参軍(獄の審理官)在任中だった時期、南宋嘉定四 (一二一一) 年に編纂完了とある。岩波文庫で訳本が出ており、大変、面白い。

「日本語譯『棠陰比事物語』」「棠陰比事」は江戸初期に日本に伝来し、林羅山が元和元(一六一五)年に訓点をほどこし、羅山の門下生が伝写して次第に世間に広まり、慶安二(一六四九)年には安田十兵衛開板の仮名草子風にした「棠陰比事物語」などが出版され、元禄年間には広く流布するようになった。林羅山旧所蔵の抄本は内閣文庫に収蔵されている(前の注とともにウィキの「棠陰比事」に拠った)。

「櫻陰比事」井原西鶴著になる裁判小説集「本朝櫻陰比事」。元禄二(一六八九)年刊。★国立国会図書館デジタルコレクションの『日本古典全集』「西鶴全集 第二」(昭和四(一九二九)年日本古典全集刊行会刊)のここから全篇が読める。

「鎌倉(けんさう)比事」公事物・裁判物の浮世草子。平凡社「世界大百科事典」では宝永五(一七〇八)年刊とし、現行知られたものは享保三(一七一八)年板行の六巻本がある。鎌倉幕府の北条執権の裁判に仮託したもので、内容的には単純で日常的なものが多く、その裁断も常識的。著者の月尋堂は詳細事績不明。★国立国会図書館デジタルコレクションで影印の享保三年版が読める。

「桃陰比事(後に藤陰比事と改題された)」初名は「日本桃陰比事」。宝永六(一七〇九)年刊。七巻七冊。作者不詳。★「国文研データセット」のこちらで影印本が総て視認出来る。

「安樂菴策傳の醒睡笑(寬永五年)」「醒睡笑」(せいすいしょう:現代仮名遣)は庶民の間に広く流行した話を集めた笑話集。著者は茶人や文人としても知られる京の僧で、戦国から江戸前期にかけての浄土宗の僧安楽庵策伝(天文二三(一五五四)年~寛永一九(一六四二)年:美濃出身。京の誓願寺第五十五世法主。安楽庵流(織部流分派)茶道の祖。金森定近の子といわれる。明治末期に「落語の祖」と称されるようになった)。写本八巻八冊で千三十九話を収録する。書名は「眠りを覚まして笑う」の意。元和九(一六二三)年成立。岩波文庫で読める。一話がかなり短いのが玉に疵。「板介伊賀守の取扱つた裁判物語」とあるのは、家康に重用された初代京都所司代板倉勝重(寛永元(一六二四)年~天文一四(一五四五)年:彼の政務や裁判の実録は「板倉政要」に記録されており、卓越した政治手腕と名裁判官ぶりが窺える)の政談は九編が並んで載る。★国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系」第二十二巻(国民図書・昭和三(一九二八)年刊)のここから読める(左ページ三行目以降)。

「杜騙新書」(とへんしんしょ:現代仮名遣)は明朝末期に張應俞撰で出版された、様々な詐欺事件を題材とした短編小説集。

「騙術奇談」明の克利夫撰。

「西鶴の弟子團水の著はした『晝夜用心記』(寶永四年)」井原西鶴の高弟北条団水(寛文三(一六六三)年~宝永八(一七一一)年:俳人で浮世草子作者。幼少時の経歴は不明。西鶴の門下で俳諧を学び、京都で俳諧師として活躍、元禄六(一六九三)年に西鶴が没すると、大坂に赴き、主なき西鶴庵を七年に亙って守り、遺稿「西鶴置土產」「西鶴織留」「西鶴俗つれづれ」「西鶴名殘の友」の四部を整理・刊行した。その後再は京都に戻り、俳人・浮世草子作者として活動した。「晝夜用心記」は宝永四(一七〇七)年刊。裁判よりも犯罪のそのものに焦点を当てた浮世草子。★国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで大正四(一九一五)年珍書会刊の活字本が読める。

「月尋堂の『世間用心記』(寶永六年)」宝永六(一七〇九)年以降の板行。内容は「晝夜用心記」に同じ。

「靑砥藤綱摸稜案」曲亭馬琴の読本。二編、各五巻。葛飾北斎画。文化九(一八一二)年江戸で板行された。北条時頼の家臣青砥藤綱(実在した可能性は低い)の名裁判によって事件が解決される形式をとる。歌舞伎の「靑砥稿花紅彩畫(あをとざうしはなのにしきゑ)」はこれに基づく。★同じく国立国会図書館デジタルコレクションの「近代日本文學大系」第十六巻のこちらから全篇が読める。

「大岡政談」大岡越前守忠相(ただすけ)の裁きぶりを描く、長短九十話ほどの説話群の総称。「白子屋阿熊(おくま)一件」(髪結新三(かみゆいしんざ))以外は仮託(例えば、「天一坊一件」は勘定奉行稲生下野守のもの)又は虚構といわれている。実録小説としては「隱祕錄(いんぴろく)」(明和六(一七六九)年)が古く、「板岡政要」「大岡政要記」「大岡仁政錄」などの書名で行われており、幕末期まで成長し続けたが、諸本の関係は未だ整理されていない。講談化された時期は定かでないが、馬場文耕の「近世江戶著聞集」宝暦七(一七五七)年)に「白子屋一件」があり、初代森川馬谷(ばこく)は正月の初席に「大岡仁政錄」を読んだといわれている。「娘の手を引くの件」(国立国会図書館デジタルコレクションの明四五(一九一二)念至誠堂刊大町桂月校「大岡政談 上卷」の当該部。以下同じ)はソロモン伝説に類似し、「小間物屋彥兵衞一件」(七編から成る)は中国の「龍圖公案」(りゅうとこうあん)に拠っているが、逆に馬琴の「靑砥藤綱摸稜案」後集(文化九(一八一二)年)は「越後傳吉一件」(リンク先は桃川如燕述の「大岡政談 越後伝吉」(昭和一一(一九三六)年大川屋書店刊の国立国会図書館デジタルコレクションのもの。非常に長い)に、河竹黙阿弥作の歌舞伎「勸善懲惡覗機關」(かんぜんちょうあくのぞきからくり:文久二(一八六二)年)は「村井長庵一件」に拠るなど、後世に影響を与えた。ともあれ、個々の説話の生成変移・相互関連は極めて複雑である(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。]

 

      櫻陰、鎌倉、藤陰の三比事

 

 この三つの比事はその書き方が皆一樣であるから、一しよに論じようと思ふのである。藤陰(桃陰)比事の序を讀むと『棠陰比事あり、櫻陰比事あり、このごろ又鎌倉《けんそう》[やぶちゃん注:影印原本のママ。]比事あり、棠陰は唐土事《もろこしごと》にして、和朝の者《ひと》心をみがく種《たね》とはなりがたし、櫻陰、鎌倉《かまくら》[やぶちゃん注:影印原本のママ。]の兩比事は、又作意のみにて誠《まこと》なし。今此書《ふみ》は昔、賢君の世に在《いまし》て萬民の鏡とならせ給ひ、くもらぬ御惠《めくみ》を今の世によに語り傳へて悅びをのべし賤《しつ》が物語を綴り集めて七卷《なゝまき》とし、唐土《もろこし》の書になぞらヘ桃陰比事といふ事しかり。』と書かれてあるけれど決して櫻陰、鎌倉をけなし得るだけの優れた物語ではないのである。尤も匿名の出版だから、かうした思ひ切つた事が言へたのかもしれない。さすがに月尋堂は、そんな惡口は言はないで、その鎌倉比事の序に『棠蔭櫻蔭は和漢の兩比事にして、世の人知るところ、其言の葉茂れり。予がなせる全部六卷の書は、往昔の物語を集め、これを狂言綺語になぞらへ、北條家のまつりごとをしるし、鎌倉比事《けんそう》と爾《しか》いふ。』とおとなしい文字をつかつて居る。西鶴の櫻陰比事には、かくのごとき序がないからわからぬが、何れにしてもこの三つの比事は作者こそちがへ、同じ行き方である。尤も文章そのものにはそれぞれその特色があつて、西鶴の筆は如何にも冷靜な運び方で、かうした探偵物語を書くにふさはしいやうである。西鶴のどの小說を讀んでも、恍然として威興に乘じて書いて居ると思はれる所はなく、いつも冷かな理性を以て、批評しつゝ書いて居るやうに見える。かういふ筆の持主が探偵小說に成功するか否かの議論は別として、兎に角、櫻陰比事の書き方は如何にも冷靜そのものゝやうである。今その一例として、第四卷の『善惡二つの取物』といふ物語を原文の儘揚げよう[やぶちゃん注:以下の読みは所持する明治書院平成五(一九九三)年刊の「対訳西鶴全集」第十一巻「本朝櫻陰比事」を参考にした。先に示した国立国会図書館デジタルコレクションでは、ここ。]。

『昔都の町に車の玉鉾《たまぼこ》の道筋を狹めて、祗園祭の眞似して童子《わらべ》集《あつま》り山の形を造りなせるに、守《もり》も無い子に無用の刄物を持たせける、其の中に七歲の童子《どうじ》遊び所を爭ひ、九歲になる兒《こ》を大小刀《おほこがたな》にして目を突裂き、立所を去らず相果てける、死《しな》せたる方《かた》の親の歎き殺せし方の親の迷惑、一町の詮議にも未だ智慧無きものゝ仕業、とかくは堪忍したまへとさまざまあつかひしに、なかなか合點いたさず、是非に敵《かたき》を取るべしと人のいふ事うけ入れず、殊に母親辨別《わきまへ》なく御前《ごぜん》へ駈出づるを引留め、神主出家《しゆけ》衆を賴み一代坊主にいたし、其兒の後を弔はすべしと、二親を詑びても取合はず、遂に御前に出でける。未だ七歲ならば何の差別もあるまじきと仰せければ、人を殺すほどの存じ立《たち》[やぶちゃん注:人を殺そうと思い立つほどの子どもですから。]常々も外の忰《せがれ》とは格別と申上ぐる、時に機關細工《からくりざいく》の人形、金子一兩御出し遊ばされ、此二種を明日其童子に取らして見るなり、金子を取れば心あるによつて命を取るなり、人形を取れば命を助くるなり、善と惡との大事ここに極むるなり、兪《いよい》よ明日連れて罷出づべしと仰付けられ、いづれも罷立ち宿に歸り、一門懇ろの衆中集りて御前で見しに變らぬ人形を調(ととの)へ、これを小判と排《ならべ》置き、金子を取れば命の果つると嚇し、夜中《よぢう》同じ事を百度も敎へて、又其朝も言聞かせて兩方御白洲に出でける。時に件《くだん》の二種を御出し遊ばされ、人形取れば助くる小判取れば命を取るぞとの御意ある時、此の童子《どうじ》立行き小判を取れば、殺されし方の親類進みてかやうの不敵者《ふてきもの》と申上ぐる、又一方の一家は唯悲しくて覺えず聲を立てゝ歎く、仰せ出されしは、扨は智慧なき忰に極まるなり、命を取るといふに構はず小判を取る所僞《いつはり》無し、命の外大切のものありや、こゝを以て助《たすけ》置くと仰せ出されけるなり。』

 全篇みなかうした書き方であつて、いかにも冷かに筆が運んである。鎌倉比事も藤陰比事も書き方はこれによく似て居るけれど、全體を讀んで見ると、多少の暖かさがないでもない。今左に比較のため、鎌倉、藤陰比事から、物語を一つゞつ選んて、原文の儘掲げよう。

[やぶちゃん注:「藤陰(桃陰)比事の序」「棠陰比事あり、櫻陰比事あり、このごろ又鎌倉比事あり、棠陰は唐土事《もろこしごと》」にして、和朝の者心をみがく種とはなりがたし、櫻陰、鎌倉の兩比事は、又作意のみにて誠なし。今此書は昔、賢君の世に在て萬民の鏡とならせ給ひ、くもらぬ御惠を今の世によに語り傳へて悅びをのべし賤が物語を綴り集めて七卷とし、唐土の書になぞらヘ桃陰比事といふ事しかり』「国文研データセット」のこちらと、こちらで視認出来る。本文の読みはこれを視認した。

「鎌倉比事の序」「棠蔭櫻蔭は和漢の兩比事にして、世の人知るところ、其言の葉茂れり。予がなせる全部六卷の書は、往昔の物語を集め、これを狂言綺語になぞらへ、北條家のまつりごとをしるし、鎌倉比事と爾《しか》いふ」国立国会図書館デジタルコレクションの影印のここから。本文の読みはこれを視認した。なお、初出準拠の国書刊行会本は「と爾《しか》いふ」の部分を「とはいふ」としてあるのは、誤りである(初出で不木がそう誤っているいるのだろうが)。

 

        鎌倉比事卷の三『命は入相の金子』

 

『人の身はつぼのごとし、魂《たましひ》は雀に似たり、鳥の來てつぼの中に入る、網をもつて口をおほふ、網破るれば飛んで空ににげかへるとかや、其頃鎌倉米町《こめまち》に天まやといふ兩替屋ありしが、ある日小者《こもの》に同商賣《どうしやうばい》のかたへ、取替金百兩もたせ遣しけるが、此小者道より行がたしれず、いまだ取逃げ欠落《かけおち》をする時分にてもなし、主人も小者が親も、草を分けてたづねれども、さらに行方《ゆくへ》なし、二日過ぎて暮方に鎌倉東土手をたづねてあるきしところに、鴉のあまた集りて嗚くを不審に思ひかなたこなたをうかゞひ見る所に、土手の下に埋《うも》れ井あり、中に小者が死骸切殺して有りけるをもとめ出しぬ、親どもの歎き、主人も召使ひなるものゝ事なれば、ふびんに思ひ、此段を經時公《つねときこう》へ申上げる、上より死骸を御あらためなさるゝに小者が口に木綿着物の裾らしき物をくはへて死けり、是は切殺さるゝ時、下よりしがみ付《つき》裾をくはへるたるが、裾はなれぬ故に切殺したる者己《おのれ》と着物の裾をきつて捨ぬると御覽じて、扨此くはへたる裾を御詮議の種とおぼしめして、主人に何にても思ひあたる事はなきかとの御たづねの時、私《わたくし》近所に梅野《むめの》古兵衞と申して、日ごろ男だてをしてその日すぎの者にて御座候が、此男のかねて小者に衆道《しゆだう》の色あるよしを申かけしを小者承引致し申さず候よし、日ごろ承はり候へども、此度の儀につき疑はしきことは御座なく候、此外に別《べち》に心にかゝる事、さしあたりては御座なきと申上る、そのものに女房はあるかとの御たづねにて、吉兵衞が女房召出され、おのれ少しもいつはるな、花いろの布子の裾は何としたぞと御たづねあれば、女房、その布子の裾は夫《をつと》が炬燵《こたつ》にてあやまちに焦し申されて、つぎをいたし候、只今にても御覽下さるべく候と右の布子をさし上るに、つぎのあたり焦てあり、おのれ惡事は顯れたぞ、まことに燒けたらば、この焦たる分を殘らず取かゆべきに、所々焦《こげ》た所を少しづつ殘したは何事ぞ、此布の焦たか焦ぬかとの詮議が何としてあらんと思ひけるぞ、有體《ありてい》に申せ、己《おのれ》いつはるに於ては、いはせやうがあるぞと仰せらるゝときに、女房恐れ乍ら是までは陳《ちん》じ申たり、有體に申上べし、私《わたくし》夫かの小者を切殺し候よしをひそかにかたりしゆゑ、それはいかなる事ぞとたづね候へば、夫が申すに、かねて其方にはかくし、かの小者とは兄弟分の約束せし所に、ふと、いきぢをいひつのり、むねうち[やぶちゃん注:峰打ち。]を二つ三つ打ちしが思はず刄《は》がまはりて疵を付たり、主人もあることなれば後日の難儀を思ひ一向に切殺したり、此上は我も腹切らんと申せしを押しとゞめ、何とぞつゝまれんだけはかくし給へと、達《たつ》て私の申せしなり[やぶちゃん注:私がかく提案申したので御座います。]、女の身にて何とやら嫉妬がましく思はれん事もかなしく、一つは夫が難儀を救はんと存じて布子《ぬのこ》のつぎを右の通りに拵らへ申候、是につけても夫の吉兵衞にはうらみ御座候、其金子《かね》を奪ひ取り申され候事、ただいままでも私には知らせ申されずと一々に申上げける、此おもむきを吉兵衞に御たづねありければ、陳じ申すに及ばずつひに刑ををこなはれける[やぶちゃん注:影印原本では『刑にをこなはれける』となっている。]。』

[やぶちゃん注:標題は「㊃命(いのち)は入相(いりあひ)の金子(かね)」である。国立国会図書館デジタルコレクションの影印本はここから。読みはそれを参考にした。

「鎌倉米町」ここは考証がちゃんとしている。「新編鎌倉志」巻七に、

   *

〇大町【附米町】 大町(ヲホマチ)は、夷堂橋(エビスダウバシ)と逆川橋(サカガハバシの間(アイダ)の町なり。大町(ヲホマチ)の四つ辻より西へ行(ユ)く橫町(ヨコマチ)を、米町(コメマチ)と云。大町(ヲホマチ)・米町(コメマチ)の事、【東鑑】に往々見へたり。

   *

とあり、そこで私は、

「逆川橋」大町四ツ角(本文の「四つ辻」)から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に架橋されている。この「逆川」という名は、この滑川の支川が地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向に流れているために付けられたものである。

「米町」鎌倉幕府は、商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年に御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止された。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町(いおまち)・穀町(こくまち=米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている。

と注した。現在、具体的な位置は不詳だが、若宮大路と大町大路が交差する東北を「米町」とする明応年間(一四九二年~一四九九年)の寺の絵図が現存するので、現在のこの附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)が比定候補地となる。なお、以上から、国書刊行会本が『よねまち』とルビするのは誤りである。

「經時公」鎌倉幕府第四代執権北条経時。執権在職は仁治三(一二四二)年から寛元四(一二四六)年。北条氏得宗家一門。第三代執権北条泰時の嫡男であった北条時氏の長男。母は賢母で名高い松下禅尼(安達景盛の娘)。第五代執権となる北条時頼や北条時定の同母兄である。幕府将軍は、在任中、第四代将軍藤原頼経と次代の藤原頼嗣。当該ウィキを見ると、『執権就任後、経時は訴訟制度の改革を行ない』、寛元元(一二四三)年二月十五日に問注所での判決草案作成について重要案件は』二『か月、中程度は』一『か月、それ以外は』二十『日と期限を定めた』。二月二十六日には評定衆を三つの『グループに分けて、それぞれ月に』五『日ずつ会議日を定めて訴訟を担当させたが、これは従来の全員参加の評定では欠席も多く、裁判の迅速と正確を期するために行なわれたもので、後の時頼時代に定められた引付衆制度の先駆けとなった』。七月十日には『問注所での訴訟において、原告と被告双方の書類が整っている場合は対決を省略して判決を定める事』、九月二十五日には、『判決原案を将軍に見せてから裁決の下知状を作成するという手続きを簡素化して、将軍に見せる』ことなく、『原案に従って奉行人が下知状を作成するようにしている』とあるので、実際に裁判制度改革に力を入れていた人物であることが判る。]

 

        藤陰比事卷の三『隱家を知る道角が耳』

 

『當二十七日よりのかた、手負《ておひ》の療治仕りたる外科(げくわ)本道(ほんだう)のこれあるに於ては、早々申來るべし、隱密に致し置、後日にあらはるゝにおいては曲事《くせごと》に可申付者也《まうしつくべきものなり》、地頭御在判

 乍恐《おそれながら》言上仕候《ごんじやうつかまつりさふらふ》、私儀は磯木村に住宅(ぢうたく)仕候若田道角と申す外科にて御座候。一昨日二十七日の夜、無僕にて庚申參詣仕り下向の節、松井橋を渡り候所に、向ふより虛駕籠《あきかご》を舁來《かつぎきたり》候者、若田道角とさヘたづね申さばまぎれあるまじと物がたりいたし通り候故、まさしく私をはじめて尋ねまゐる者と存じ、道角は某事《それがしこと》なり、いづかたよりの使とうけ給り候へば、黑雲町澤田屋松右衞門方に急病人これあるよしにて、むかひ駕籠つかはし申すの口上ゆゑ、しかと近付とは覺えず候へども、私失念を致したるか、又醫家のならはしにて承はりおよびて參候ものもあまた御座候へば直《すぐ》にかの駕籠に打のり罷越候所に、手負三人御座候ゆゑ外治内藥餘慶の望みにて[やぶちゃん注:これは原本の「餘計」の誤字であろう。必要以上に薬を要求したのである。]、又駕籠にて送られ、私宅へ罷歸り薬をつかはし候へば、程なく夜も明《あけ》候て、つくづく思案仕るに、闇の夜大雨なり駕籠にて十四五町[やぶちゃん注:一キロ半から一・六三六キロメートル。]まゐるほどの間とは存じ候へども、方角東西のわかちも覺えず、そのうへ今月三日何の沙汰も申來らず、不審に存じ、黑雲町澤田屋方相尋ねさせ候所、黑雲町と申所も、澤田屋と申者も、當地には御座なく候よしにて、兎角方角しれ不申、始終こゝろもとなく奉存候處、御觸のおもむき拜見仕候ておどろき入、御斷《おんことわり》申上候、麁忽《そこつ》なる儀を仕り後悔不念《こうくわいぶねん》千萬に奉存候故、一札《さつ》さし上《あげ》候以上。

   月 日    礒木村 若田道角判

 地頭仰られしは、手負の療治は此方《こなた》より指圖なくては致さぬ筈、卒爾に仕るのみならず、その病家も覺ざるとは段々不屆なり、右の手負の宿所よく見屈けずしては、こゝろ覺えになる儀はなきかと御たづねあるに、つり鐘の聲ちかく聞え候と申す、寺町ちかき所にはいづかたも同前にちかう聞ゆれば、證據には成がたし、其外には琴三味線尺八の音仕りたると申す、それも家々に慰みに仕るか、瞽女《ごぜ》座頭は常に指南仕る所ōあまたあれぱ、それ等を證跡に所は知れ難しと仰せあるに、道角又おもひ出し、瀧の音手ぢかく聞え候と申す、しからば山よせの家なるべしと、すでに瀧ぢかき寺壯民家御詮議に極るとさ、公事役の老體まかり出、これもたしかに所はさゝれ申まじく、大雨の夜《よ》なれば築山《つきやま》の谷あひ、泉水などに落こむ音、時ならぬ瀧に相きこゆることあるべし、其外にしかといたしたる手がかりを思ひ出さねば、其方の難儀なりとあるに、道角眉をひそめ、しばらくありて申上るは、私むかしある國の守《かみ》の側ちかく奉公仕候所に、古主能藝《のうげい》好《すき》申せしが、大事に仕るほどの音曲うけ給り覺たり。しかるに此手負の合壁《がつべき》[やぶちゃん注:壁を一つを隔てた隣の家。]に、石橋(しやうきやう)の獅子の笛をひそかに吹《ふき》すさむ音《おと》相聞え候と申上る、地頭役人これ詮議の種なりしかれども一儀相濟までは道角は町内へ御預けにて、扨此石橋の笛のゆるしを得たる者吟味あるに、二人のうち一人は關東にくだり、今一人の住居せし町内の名主五人組をめしよせられ、町中に裏座敷か隱居がまへの貸屋もちたる者の屋敷を微細に詮議あるに、笛吹甚四郞が北隣のうち座敷に、月切《さかやき》にかりたる者共、手負てしのび居たりけるが、盜賊におし入ける高家方《かうけがた》にて、見合《みあは》されて[やぶちゃん注:見つかって、逆に。]切たてられし者共にてめしとられけるとなり。』

[やぶちゃん注:文章は改行して続くのだが、ここでインターミッションを入れる。この不木の引くそれは、「藤陰比事」と改題する前の「桃陰比事」では標題が「㊂聞覚へたる石橋(しやうきやう)の笛」と全く異なっている。「国文研データセット」のここに始まり、ここ(挿絵のみ)と、ここと、ここまでであるが、内容の一部も、若干、異なっている。読みはそれを参考にした。

「石橋」(しゃっきょう:現代仮名遣)は能の作品の一つ。獅子口(獅子の顔をした能面)をつけた後ジテの豪壮な舞で知られる。囃子方の緊迫感と迫力を兼ね備えた秘曲が聞き物であり、往古は特別な場合以外では演ずることが許されていなかったのであろう。始まりの「名乗リ笛」や「獅子」登場の冒頭の激しく笛が吹かれて始まる「乱序」(緩急独特な序の音楽)等、調べる限りでも、この曲での笛は特別なものらしい。私は不学にして見たことがないが。道角がたまたま抱えられていたさる国主から以前に聴かせて貰ったことがあったことから、その秘曲を名指し得たことが、盗賊団召し取りのきっかけとなるというとびっきりの風雅をアイテムとした洒落た展開である。]

 この二つの探偵物語の構想は可なりによく出來て居るが、後者は板倉伊賀守の裁判談の燒き直しである。京都のある外科醫が駕籠に迎へられてある山奥に連れられて行き、金創の治療を賴まれて歸される。で、不審に思つて屆出ると、板倉は何か手がかりになるやうな事はなかつたかときく、すると醫師は佛法僧といふ鳥の鳴く聲をきいたと答へる。板倉は直樣松尾山へ捕手を向けると、果して山賊どもの隱れ家が發見された。これは板倉が、松尾山に佛法僧のなくといふ古歌を知つて居たからである。

 前者の物語も或は何處かにあつた話の燒直しかも知れぬが兎に角探偵味には富んで居る。布子の燒けた部分をつぐのならば、燒けた部分を皆切取つてつぐべきであるのに、所々燒けた所を殘して置いたのは怪しいと睨むところ、一寸シヤーロツク・ホームズめいて居る。

 桜陰、鎌倉、藤陰の三比事の中には、この外に、まだ可なりに探偵味に富んだ物語が數多くあるけれども、どれも皆何となく物足らぬところがある。尤も文章が短かいための物足らぬ感じもあるけれど、初め相當に讀者に期待を抱かせて、結末は平々凡々に終るのが、物足らぬ原因の主要なものである。結末に於て讀者の意表に出るといふ書き方のものは一つもなく、いわば尻切れとんぼの感じがある。その例として、私は鎌倉比事中の『茜細工は奧の間のたたみ』といふ物語を述べて見よう。[やぶちゃん注:国立国会図書館デジタルコレクションの影印本では「卷之三」の「茜細工(あかねざく)は奧間(おくのま)のたたみ』で、ここから。]

 鎌倉谷の末町に家來を一人召し使つて居る浪人が住んて居た。日ごろ出入りする絹屋手代が節季に金を取りに來たのて、いつもより機嫌よくあしらつて金子を渡して請取を書かせ、さてそれから、奧の間に見せるものがあると言つて手代を導き、家來と二人して斬り殺してしまつた。

 先日末、この浪人は細工をするといつて茜を買ひ、夫《それ》を戶障子や壁にこぼして、血の樣に見せかけて置いたので、手代を殺した血が飛散しても、旨く茜のとばつちりと紛れて了つた。

 それから其浪人は絹屋方へ人を遣はし、長前手代に金を渡す時に註文した羽二重をまだ持つて來ないのはどういふ譯かと尋ねさせた。すると絹屋の方では、まだ手代が歸りませんから、歸り次第樣子をきいて御屆しますと答へた。が、手代はその日から行方不知になつたので、絹屋では、その手代が懸金を集めて逃げたのだらうと推定し、請人と親許へ談判した。

 話變つて、每晚浪人の門では、夜更けに犬が頻りになくので附近の噂の種となつた。この噂を聞いた手代の母親は、上へ訴へ出て、『私の忰が每晚夢にあらはれまして、自分は人に斬り殺されたから、どうか敵をとつてくれと、申しますから忰が懸金にまはつた先を御調べに預りたい。』と歎願した。上では之を尤もに思ひたまひ、手代が當日𢌞つた先を一々御調べになつたところ、浪人の言ひ分に曖昧こところがあつたので、浪人の家來を別室に御招きになつて、『主人が白狀した上は主人に科はない、汝は默つて居たから、科人は汝にきまつた。』と、高飛車に仰せになると、家來は驚いて罪狀を逐一自白し、『先日來、手代の死骸を捨てようと思つて、夜更に門を出ますと犬が頻りに吠えますので、幾度もかつぎ出しては戾り、只今は座敷の下に御座ります。』と言つた。

 この自白を書き取らせて今度は浪人に御見せになると、浪人は其場で恐入つた。『私は西國方の武士の忰で御座いますが、御主人の勘當を受けて鎌倉へ參りました。その節には少少全銀の貯へもありましたが、龜ケ谷の遊女町へ足を踏み入れたが病附《やみつき》で、しまひには武具馬具迄賣拂つてしまひました。ところが馴染の遊女の親が永々のわづらひで困却して居りました擧句、愈《いよい》よ飢ゑ死しなければならぬやうになりましたので、遊女は年期を切增すと申しましたのが不憫になり、何とかして金を拵らへてやりたいと思ひまして、惡いこととは知り乍ら、絹屋の手代を殺して、その懸金を奪つたので御座います。一人の家來はその節國許へ遣はしてありましたので、その場の手傳ひを致したのでは御座いません。歸つて來ました時にその話を聞かせたので、うろたへて、そのやうに白狀したので御座いませう。絹屋の手代一人を殺すに何として家來などに相談致しませう。私一人の仕業で御座います。』

 かういって浪人は家來の罪を潔く我身に引受けて刑に行はれた。――

 讀者はこれを讀んで、これだけの材料があつたなら、もつと面白く書くことが出來たらうに、と思はるゝであらう。手代を殺すために、豫め、茜を買つて、細工ものをすると見せかけ、赤いものを疊や壁に打かけるなど、中々巧妙な計畫といはねばならない。その折角の計畫も、物語りの中では一向花を咲かせて居らない。又夜更けに犬の吠える話も頗る興味があるけれど、それがあまりに呆氣なく手代の母親に知れてしまふのは何となく物足らない。

 之を要するに、三比事に載せられた探偵物語は、讀者に考へさせるといふよりも、やはり感じさせるやうに書かれて居るに過ぎないのである。

[やぶちゃん注:実は私の『柴田宵曲 續妖異博物館 「診療綺譚」』で、この「本朝藤陰比事」の「石橋」絡みの話が出、その注で「関田耕筆」(江戸後期の随筆集。四巻四冊。伴蒿蹊(ばんこうけい)著・田中納言画。寛政一一年(一七九九)刊。天地、人、物、事の四部に分類された見聞録など二四八編を収める)から、板倉の「佛法僧」(ここは声のブッポウソウで、実際にはフクロウ目フクロウ科コノハズク属コノハズク Otus scops である。ブッポウソウ目ブッポウソウ科 Eurystomus 属ブッポウソウEurystomus orientalis の鳴き声ではないことが判ったのは、僅か八十六年前の昭和一〇(一九三五)年のラジオ放送がきっかけであった)を電子化してある。

「鎌倉谷の末町」「鎌倉谷」という谷は、現在、存在しないし、嘗ても存在しなかったと私は思う。では「谷の末町」というのはどうかというと、これも聴いたことがない。言っておくが、私は鎌倉の郷土史研究もしている。

「龜ケ谷の遊女町」この「亀ケ谷坂切通(かめがやつざかきりどおし)」から下った亀ケ谷附近は鎌倉時代には、かなり繁華な場所(辻)ではあったから、遊女がいた可能性は十分ある。また、この南西直近に知られた「化粧坂(けわいざか)切通」は、一説にはここに娼家があったことからの名称ともされるが、これは余りあてにならない。]

2021/07/07

日本山海名産図会 第二巻 龍山石

 

  ○龍山石(たつやまいし)

播州に産して、一山一塊(いつさんいつくわい)の石なる故に、樹木、すくなし。往々。此の石山、多けれども、運送の便(たより)よき所を切り出だして、今は堀り採るやうになれども、運送不便の山は、いたづらに存して、切り入(い)る事、なし。石の寳殿は、即ち、立山石(たつやまいし)にして、其の邉を便所(へんしよ)として、専ら、切り出だし、採法、すべて、かはること、なし。故に、圖も畧せり。色は、五彩を混(こん)ず。切りて形を成す事、皆、方條(ながて)にのみ、あり。溝渠(みそ)・河水(かは)の涯岸(きし)、或ひは、界壁(さいめ)の敷石(しきいし)・敷居(しきい)の土居(とゐ)・庭砌(ていれき)等(とう)の用に抵(あ)てゝ、他の器物(きぶつ)に製すること、なし。大きさは、三、四尺より、七、八尺にも及び、方(はう)五寸に、六寸の物を、「五六」といひ、五寸に七寸を、「五七」といひて、尚(なを)、大いなる品數(ひんすう)あり【麓の塩市村(しほいちむら)に石工あり。南の尾嵜(おさき)に「龍(たつ)が端(はな)」といひて、龍頭(たつかしら)に似たる石あり。ゆゑに「龍山」といふ。】

[やぶちゃん注:「龍山石」「石品」の私の「立山石(たつやまいし)」(作者の誤記と思ったが、ここでも同じように並置しているので、異名として当時はあったものであろう。「立」でも腑には落ちる気はしないでもない)の注を参照。

「石の寳殿」同前の注の中で述べておいたので、やはりそちらを参照されたい。

「便所」「べんしよ(べんしょ)」。切り出しするの便が良い場所。

「方條(ながて)」「長手」を当てたものか。平たい方形・長方形の意であろう。

「界壁(さいめ)」境目の当て読みか。家屋や敷地の境目を示すものの謂いであろう。

「敷居(しきい)の土居(とゐ)」門の内と外との仕切りとして敷く横木の土台の意であろう。

「庭砌(ていれき)」既注だが、再掲しておくと、「砌」は「水限(みぎ)り」の意で、雨滴の落ちる際、また、そこを限るところからの呼称であるから、ここは庭に面した軒下などの雨滴を受けるために石或いは敷瓦を敷いた所を指す。

「塩市村」現在の兵庫県高砂市米田町塩市附近。北西で接する兵庫県高砂市阿弥陀町に「竜山石採石遺跡(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)があり、現在も砕石されていることが画像から判る。因みに、その北直近に先の「石の寳殿」があるのも判る。

「尾嵜」この地名は現存しないようである。

「龍(たつ)が端(はな)」塩市地区の南直近の圏外に「竜ヶ鼻」がある。]

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)5 昭和一一(一九三六)年(全)

 

   昭和一一(一九三六)年

 

[やぶちゃん注:中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、『二月』、詩「斷層」を『龍南會雜誌』に『発表。三月、五高を卒業。試験の成績が悪く、卒業を認めるか認めないかで、教授会が三十分以上も揉めたと後で知った。四月、東京帝国大学文学部国文科に入学。定員四十名のところへ四十一名の受験だった。国文科を選んだ理由は、前年に英文科に入学した』親友『霜多正次から、国文科がいちばんラクだと教わっていたからである。入学早々に「東大新聞」の編集部に応募したが不採用となりクサる。六月』、『霜多正次、土居寛之、太田克已、永井潔ら一高と五高出身の同人十名で雑誌』『寄港地』を『発刊、三百部印刷する。創刊号に二十枚ばかりの習作』「地圖」PDF縦書版で私のオリジナル注附き。但し、新字新仮名)を『発表』している。『文藝』(改造社)の『同人雑誌批評で「ビラビラした擬似のロマンティシズムを捨てよ」と批判されたが、大雑誌に論評されたのをむしろ喜んだ』という。『寄港地』は『二号で廃刊。以後』、『自分で勝手に留年延長した一年をふくめて大学での四年間は、何となく教室に出そびれて、試験日のほかは講義に一日も出席しなかった。例の怠け癖のせいであるが、多少鬱病氣味でもあったらしい』(以下の冒頭の八月八日の日記には明らかに病的な追跡妄想が認められ、それ以降の日記の叙述にも強迫神経症的な対象事象に対する妙な拘りを持った意識推移が記され、創作素材とは言え、明らかに事実に即したと思われる犬の追跡妄想も出現する。この通院(ずっと続いている)の疾患名はちょっとよく判らない。精神科の治療にしては、複数回の「ワクチン」と称する注射や、カルシウム注射がおかしいように感じる。年譜には、この病気及び通院治療については全く出てこない。この不審な病気については本文内の後の方の注で私の推理を示しておいた)『十二年になると、幻聴による被害妄想から、下宿の雇い婆さんを椅子でなぐりつけて負傷させ、留置場に一週間ほどぶちこまれたりもしている』とある。最後の経験は後に小説「その夜のこと」と、その続編「冬の虹」で、本格的に素材としている。私の『「その夜のこと」+続編「冬の虹」合冊縦書ルビ版(オリジナル注附) PDF縦書版』を読まれたい。なお、昭和十二年と昭和十三年の日記は底本にはない。]

 

八月八日 晴

 十時、マガジン俱樂部に行き、 ROMAN を借りてくる。

 「音樂」(井上友一郞)、「靑いポアン」(神西淸)を讀む。

 十一時半、病院。亦、違つた注射をする。

 今までの靜脈注射にくらべると、量は極く少ない。副作用があるかと觀念の眼をとじてゐたが、別段さうしたものはなかつたので、ほつとした。水藥の出來る間待合室で新聞を讀む。村社(むらこそ)四等。

 

 病院の方に下りて行く道。あれはどうも妙な道だ。石がずつとしきつめてあつて、いつも勞働者が路ばたにこしを下してゐる。あかるい洋服をきた少女が二三人、私の前を下りて行つたが、勞働者たちはそれを見送りながらささやきかはしていた。卑しい冗談を言つてゐたのかも知れない。しかし彼らは、めうに疲れたやうな眞劍な表情をしてゐた。側を通る私にはほとんど注意をはらはない樣子であつた。しかし私は、彼等を背にしたとき、彼等の視線を背中に感じながら、やつこだこのやうに蹣跚(まんさん)と坂を下りて行つた。少女の群のまん中にゐた子の脚は白くて、素直であつた。少女たちは北の方にまつすぐにあるいて行つた。私は橫町を折れて病院の方にあるいて行つた。

 

 病院の二三軒手前に杵屋勝一穗とかいた長唄の師匠の看板があるが、あの橫町に折れこむ度に、私はすぐそれが目につく。口吟(くちずさ)んでみたり、唄の文句にしてみたり、そこを通りすぎるまで眼をはなさない。

 

 マガジン俱樂部に行つたついでに、日記帳を買はうと思つて本鄕正門前の方にゆるゆる步き出したのだが、今日は「ゆたか」のおばさんに會ふかも知れないと言う豫感がした。町をあゆみながら、むこうからやつてくる人々の顏を丹念にながめながらあるいた。靑い服を着た女が、電車に乘るために走つて行つたが、お尻の二つの半球がくつきりと衣服の外からうかがはれ、私は思はず立ち止つて見送つたほどであつた。女は電車にのつて行つてしまつた。おばさんにはたうとう、會はなかつた。つひぞ見かけないやうな大學生が一人二人あるいてゐた。帽子をみると帝大生のやうであつた。本屋で、日記帳のあたひを聞いたら六十錢だと言ふ。少し負けて吳れと言つたら五錢だけお引きしますと言ふ。四十錢なら買ふと言つたら、元値がきれるとか何とか、ぞんざいな言葉で言つて店の奧に入つて行つた。あきらめて下宿の方に步き出したが、しばらくして段々不快になつて來た。

 

 丸善インキと看板のある店に、病院の歸りに寄り、アテナインキを吳れと言つたら無いと言ふ。しかたなしにメトロインキと言ふのを買つて來た。表に BLUE BLAK [やぶちゃん注:横書き。]とかいてある。いんちきじみて厭である。今、そのインキで日記を書いてゐる。

 

 昨夜、寢ながら、下の應接室から持つて來たフイリツプ短篇集をよんだが、新靑年のコントみたいだ。面白いにはちがいないが、深味が無い。チエホフの方がずつとよい。まだよんだのは四つ五つである。今日も亦寢ながら讀むつもりである。

 

 私は今、一つのロマンの制作を志してゐるが、いはば此の日記をそれのメモにしたいのだ。私自身を主人公としたロマンの。憶ひ出したことなど。

 

 千九百三十五年の秋。去年の十一月、私は高等學校の四年目の秋であつた。土曜であつた。例の如く私は巷でおびただしい酒をのみ、夜の三時頃、よろよろしながら、あの、五高とセイセイコウとの間の、暗いみちを下宿の方ヘ步いてゐた。暗い、木々が頭の上におほひかぶさつたあの道を、十二時過ぎれば、私は醉つてでもゐなければ步くことは出來なかつた。いや醉つてゐても恐(こは)かつたのだ。その夜、うすら寒い夜風を頰に感じながら、ざわめく樹々に、なんでえ、化物めらが! と虛勢をはりつづけながら、ああ、もう恐怖に堪へられなくて唄でもうたひ出さうとしたその時、私は、私の背後四五間[やぶちゃん注:七メートル強から約九メートル。]の所を、何ものかがはだしでひたひたと私をつけて來るのをはつきりと感じたのだ。總身の皮膚がきりきりと毛穴を立て、齒の根もあはぬおそろしい想念が私の頭をむしばみはじめた。血が凍るやうであつた。私は意を決して、そつと頭をめぐらすと私の背後にひろがる暗闇をそつとみつめた。その瞬間、黑いものが、そのひたひたと言ふあし音をはやめながら、私に急激に近づくと、私の足をかすめた。犬であつた。(此の邊中略す。面倒也)

 

 私のその聲を不當に思つたのであらう。下宿のおばさんが玄關の戶をあけて私の方をうかがつてゐたが、それが私であるといふことがわかると、びつくりしたやうな聲ではなしかけた。

「まあ、梅崎さんぢやありませんか。どうしたんです。こんなにおそく」

「犬なんです。犬がゐるのです」

 私はその頃、妙に感じやすくなつてゐて、さう言ひながら淚が頰をつたはり始めた。私は、そこで、犬をよぶのを斷念して、顏をおばさんにかくしながら、自分の部屋にもどつた。此の氣持だけは純粹であるなと、私は思つた。翌日、私は此の事件と、私の感情の推移を人々にかたつた。人々はその話をきき終つて、君はなるほど詩人だよと異口同音に答へた。みんな私の話は虛構であると斷じたのだ。そのやうな時代であつた。そのやうにさげすまれながらも私は猶生きてゐたのだ。(午後三時)

 

 今朝九時、八十度位であつたが、今(午後三時)八十六度位に水銀柱があがつた。

 

 夕飯が來るまでのひとときを、フイリツプの「邂逅」と言ふ小說をよんだら、之には胸をうたれた。

[やぶちゃん注:「ROMAN」雑誌名。詳細書誌は不詳。

 『(井上友一郞)』井上友一郎(ともいちろう 明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は大阪府西成郡中津町生まれの小説家。本名は友一。商業学校在学中、野球と小説乱読で学業を怠け、そのために中退、後、各中学を転々とした。昭和四(一九二九)年に関西大学第二商業学校を卒業し、翌年、早稲田大学専門部法科に入学した(後に仏文科に転部)。昭和六年に「森林公園」を発表して、川端康成に認められ、坂口安吾・田村泰次郎らと、同人誌『桜』で活動、昭和九年、「道化者」を発表している。この昭和一一(一九三六)年に早大仏文科を卒業後、『人民文庫』に加わり、同時に『都新聞』記者となり、昭和一三(一九三八)年には特派員として中国戦線に従軍している。昭和十四年に『文学者』に「残夢」を発表し、翌年「波の上」を刊行し、作家生活に入った。戦後は風俗小説作家として活躍し、雑誌『風雪』に参加した(当該ウィキに拠った)。「音樂」は不詳。

『「靑いポアン」(神西淸)』東京生まれのロシア文学者で小説家神西清(じんざいきよし 明治三六(一九〇三)年~昭和三二(一九五七)年)。東京外国語学校(現在の東京外国語大学)露語部文科を卒業、ソ連通商部勤務を経て、チェーホフ・ガルシンなどの翻訳に従事する一方で、小説も書いた。「靑いポアン」は昭和五(一九三〇)年十二月発行の『作品』初出。

「村社(むらこそ)四等」村社講平(むらこそこうへい 明治三八(一九〇五)年~平成一〇(一九九八)年)は陸上競技選手で、この年に開催されたベルリン・オリンピック代表。後にマラソン指導者・毎日新聞記者となった。宮崎市出身。中央大学在学中だったこの年、日本代表として満三十歳で五輪に出場し、五千メートル・一万メートルで、四位入賞を果たした。

「蹣跚(まんさん)と」よろめくさま。

「アテナインキ」丸善製インキ。現在も売られている。これ(サイト「ミューゼオ」)。

「メトロインキ」不詳。

BLUE BLAK とかいてある。いんちきじみて厭である」「アテナインキ」もブルー・ブラックであるが、梅崎は色が違って見え(ブルー・ブラックは多種ある)、騙されたように感じている。

「フイリツプ短篇集」フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップ(Charles-Louis Philippe  一八七四年~一九〇九年)。この時期では淀野隆三訳・堀口大學訳・白水社編輯部訳などが出ている。私は好きな作家だがね。

「新靑年」大正九(一九二〇)年創刊、昭和二五(一九五〇)年終刊の総合雑誌。博文館発行。一九二〇年代から一九三〇年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つで、都会的雑誌として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。国内外の探偵小説を紹介し、また。江戸川乱歩・横溝正史・牧逸馬・夢野久作・小栗虫太郎・久生十蘭といった多くの探偵小説作家・異端作家を輩出した。参照した当該ウィキによれば、『日本の探偵小説を語る上で欠かすことのできない雑誌であるが、探偵小説専門誌でもなければ小説専門誌でもなく、現代小説から時代小説まで、さらには映画・演芸・スポーツなどのさまざまな話題を掲載した娯楽総合雑誌であった』とある。

「コント」conte。フランス語で「短い物語・童話・寸劇」の意。

「セイセイコウ」「濟々黌」で現在の熊本県立済々黌高等学校(グーグル・マップ・データ)。熊本県内で最も古い明治一二(一八七九)年創立の高等学校。旧五高(現在の熊本大学)の西に隣接している。

「今朝九時、八十度位であつたが、今(午後三時)八十六度位に水銀柱があがつた」華氏。

「八十度」は摂氏で約二十六・六六度、「八十六度」は三十度。

『フイリツプの「邂逅」』‘La rencontre ’。この邦訳題から、恐らく、梅崎春生が読んでいるのは、堀口大學訳「フィリップ短篇集」(昭和七(一九三二)年春陽堂刊・『世界名作文庫』百二十二)と推定される。]

 

八月九日

 昨夜のことを書く。

 

 三文オペラに行く。奇怪な圖繪であつた。印象的な場面がいくつもあつた。

 

 シネマパレスを出ると、雨が降つてゐた。松住町に出て、交番に、帝大にはどちらへ行きますかと聞いたら、帝大と言ふのがさだかに聞きとれなかつたと見えて、え? え? と二三度聞きかへした揚句、不愛想に敎へて吳れた。知らない街の舖道を雨にぬれながら步いた。うちわを腰にはさんで、ふところ手で步いて行つた。雨が衣服を通して素肌につめたく感じられた。こんど書く小說の筋など考へながら、めうに感傷的な氣持になつてゐた。まもなくすると、本鄕一丁目の所に出た。「ゆたか」の近くなので三丁目まで手巾で顏をおほつてあるいた。

 赤門前で、三錢で號外一枚かつた。百米自由型の結果であつた。三錢は暴利だなと思つた。何かとんでもないことをしたやうな、奇妙な後悔じみた氣持が、いつまでもはなれなかつた。下宿につくと、手紙さしに、(三十九番樣 岸本樣御來訪、七時)とかいた紙片があつた。私はそれをにぎつて、だまつて二階に上つて行つた。

 

 今日は病院で面白い注射をした。靜脈注射であるが、その注射液が體内に入つて二三秒すると、胸から腹へかけて、じんとするような灼熱感がひろがり、その感じが時間と共に、足の先や肛門の所や、背中などに移行した。丁度熱陽をあちらこちち浴せかけられたやうな感じであつて、汗がびつしより出た。そのあとで、めまひがしたので、ベツドの上で一分間ほどねた。そのあとでワクチン注射をした。

 

 病院を出て、マガジン俱樂部に行き、新しい契約をして來た。

 

 夜、「笑の王國」に行つた。

 

 田原町から上野まで地下鐵で來た。今日は新しい浴衣を着てゐたので、私はいささか得意であつた。電車の中では、切符をうちはの柄にはさんだり、人のかほをじろじろみつめたり、いろんなことをした。地下鐵の中で私は何か考へてゐて、それを日記にかかうと、その時思つてゐたのであるが、今はそれを忘れてしまつた。上野の地下道を出た所で東京每夕を買ひ、ふところの奧におしこんで步いた。

 

 上野の丘から不忍池の方に下りる石段の所で、

「自意識の過剩なんか、われらの恥になりこそすれ、何等のほこりにはなりはしない」

 と、私が皆の前で言ふ所を想像した。さうすると、松井が、

「そりやちがふ」

 とか何とか抗議する樣子が髣髴(ほうふつ)とうかんで來た。私は、あちらをみたり、下をむいたりして、その想像から遠ざからうと努力しながら步いた。

 

 逢初橋の近くで氷やに入り、氷ぶどうを注文した。食べながら「富士」の一月號を見てゐると、渡邊篤と關時男の寫眞が出ていた。俗惡を極めたものであつた。

 私は何かしら辯護してやりたい氣持がした。さう言ふ氣持を、人はどう考へるだらうかなど考へながら、さじを動かしてゐた。私の前にゐた小憎は、アイスクリームを食べてゐた。ああ、俺もアイスクリームを食ふ筈であつたなと、その時始めて氣が付いた。地下鐵に乘る前から考へてゐたのである。

 

 此の間、梅澤と岸本と三人で不忍池でボートにのつたが、あのとき、池からみると、北の方に犬の形をした黑雲が出ていて、そのきばの邊から稻光りがさかんに見えてゐた。遠い夢のやうに夕もやがたてこめはじめる時刻で、サーカスの光がうるんでみえ、ジンタがかきならす古風な曲が池一ぱいにひろがつてゐた。私たちのボートは何故かしら同じ所をぐるぐる𢌞つてゐるやうな氣がした。大正初期の東京圖繪、さうした感じであつた。私は舷によりかかり、何か低い聲で唄をうたつてゐた。むかしの歌なのであつた。富士館で「街の入墨者」を見、安酒場で見知らぬ人から五十錢めぐまれた日のことである。

 

 昨日、雨に濡れながらシネマパレスからのかへりみち、USの前に來ると麥酒(ビール)をのみたいと言ふ激しい欲望にとらはれた。八月一日以來始めてのことであつた。

 表にたつてゐた店の少女が私の顏を直視したので、私は一寸たぢろいだ。浴衣がぬれて肌にくつついてゐたので、隨分みすぼらしい姿だつたらうと思つたのだ。

 

 淺草あたりをあるきながら、自分の善良さうな表情を、人にみられたなと氣のついたとき位、氣のひきしまることはない。いまいましいと言ふ氣持が、私の心をぎりぎりとかきまはす。今日も「笑の王國」の出口の所でさう言ふ氣持であつた。

 

 今、ラジオがかすかに聞えて來るが、日本選手は、百米に二、三、四着をしめて、一着はどこかの、小國の選手がうばつたらしい。かうなることは、はじめから豫想してゐたが、明日の新聞には、殘念! とか何とか大みだしをつけることだらう。

 

 幸子さんが東京にゐると言ふ意識が、私を時々いらだたせる。早く何とかしなければならないと言ふ氣持だが、まづさしあたり、幸子さんに會ひ、づつと東京に止まることを說くのがいちばんのやうだ。幸子さんが東京にづつとゐるとしても、私は氣が弱いから、ずるずると友達じみた關係(あるいは全然沒交涉)をつづけるであらう。それでいいのさと叫ぶものが心の一部にはあるが、あることはあるが、いささか、それでは、淋しいではないか。(午前○時十五分)

[やぶちゃん注:「三文オペラ」ドイツ(第二次世界大戦中はナチスの迫害を逃れて各国で亡命生活を送ったが、戦後は東ドイツに戻った)の劇作家オイゲン・ベルトルト・フリードリヒ・ブレヒト(Eugen Berthold Friedrich Brecht 一八九八年~一九五六年)作の、クルト・ヴァイル(Kurt Weill 一九〇〇年~一九五〇年)が音楽(主人公のギャング「メッキー・メッサー(匕首)」のテーマ(Die Moritat von Mackie Messer )は英語‘Mack the Knife ’で知られ、ジャズを始めとして世界的なスタンダード・ナンバーとなっている)を担当した音楽劇で、一九二八年八月に初演された(原題:Die Dreigroschenoper )ものの、最初期の映画化。ドイツで一九三一(昭和六)年に製作された。監督はゲオルク・ヴィルヘルム・パブスト(Georg Wilhelm Pabst 一八八五年~一九六七年)。

「シネマパレス」当時の神田区淡路町二丁目、現在の千代田区神田淡路町二丁目(万世橋近く)にあった映画館。

「松住町」淡路町直近北の、万世橋の上流の昌平橋を渡った辺り

「本鄕一丁目」「三丁目」「今昔マップ」を示す。右の現在の地図地名と対応せれたい。

「笑の王國」浅草六区にあった常盤座で、昭和八(一九三三)年四月一日に古川緑波(古川ロッパ)・徳川夢声らが旗揚げ公演を行った軽演劇劇団「笑の王国」。常盤座はその常設劇場として賑わった。詳しくは、「梅崎春生 その夜のこと」の私の割注「常盤(ときわ)座の『笑いの王国』」で視聴覚素材も完備してあるので、是非、読まれたい。

「田原町」ここ。東京地下鉄銀座線は昭和二(一九二七)年に浅草―上野間で営業を開始した、日本で最初の本格的な地下鉄で、当時のポスターでは「東洋唯一の地下鉄道」というキャッチ・コピーが使われ、アジア・オセアニア地域でも初めての地下鉄路線であった(ウィキの「東京メトロ銀座線」に拠った)。

「東京每夕」『東京每夕新聞』。戦前に存在した。

「逢初橋」「言問通り」の根津交差点付近にあった地名。暗渠にするのはいいが、こんないい名前ぐらい残しとけや!

「富士」大日本雄弁会講談社発行の国民大衆雑誌。

「渡邊篤」(あつし 明治三一(一八九八)年~昭和四二(一九七七)年)は映画俳優。本名は総一。浅草オペラを経て、映画界入りし、三枚目として数多くの映画に出演した。松竹蒲田撮影所では短編喜劇映画の主演として起用され、蒲田喜劇俳優の代表俳優となった。戦中は古川ロッパと行動をともにし、戦後は黒澤明の作品に常連出演した(当該ウィキに拠る)。

「關時男」(明治四〇(一九〇七)年~昭和二〇(一九四五)年二月病死)は元撮影技師で映画俳優。当該ウィキを参照されたい。

「ジンタ」明治中期に本邦で生まれた民間宣伝の市中音楽隊。その愛称は大正初期につけられた。

「富士館」明治四一(一九〇八)年開業(昭和四八(一九七三)年閉館)の映画館。千八百人を収容する巨大な映画館で、戦後、浅草日活劇場と名称を変更した。

「街の入墨者」昭和一〇(一九三五)年に公開された山中貞雄監督の時代劇映画。長谷川伸原作。前進座と日活の提携作品で日活太秦撮影所製作。当該ウィキを参照されたいが、そこには、『原版フィルムが消失しているため』、『現在では観る事が出来ない』とある。

「US」不詳。「表にたつてゐた店の少女」とあるから、浅草にあった居酒屋の略称か。

「日本選手は、百米に二、三、四着をしめて、一着はどこかの、小國の選手がうばつたらしい」調べてみると、これは競泳男子百メートル自由形のことのようである。]

 

八月十日

 八時半に起きた。近頃は必ず八時半か九時に起きるのがならはしとなつたのは喜ばしい。しかも昨夜寢についたのは二時半なのだ。應接室で新聞をよむと、マラソンで孫が一着になつてゐた。

 

 朝食をすまして部屋を整理し、うちに手紙をかき、いささかすがすがしい氣持になつた。それより病院に行く。昨日二本注射を打つたので、今日はやらない。

 あの道の、杵屋勝一穗の看板が、今日はどうしたものか取り外されてあつた。あの橫町を曲るとき、おや此の風景には、どこか足りない所があるなと、すぐ氣がついた。

 

 病院を出て、マガジン俱樂部に行き、雜誌三册をかへし、新しく一册かりてくる。丹羽文雄の「小鳩」と言ふ小說はいい。

 

 此のやうな平靜な生活をすることが出きようとは、夢にも思へなかつたが、これもやはり、生活の中に核が出きた故であらう。近頃の心境はまこと明鏡止水である。此のやうな病氣をした男の顏とは一體どんなものだらうと鏡をのぞきこんでみたら、さりげなくにこにこと笑つてゐた。これでいい、これでいい、私は滿足する。

 

 今日も淺草に行きたくなつた。小村麗子の顏もみたい。「笑の王國」のあの笑くぼの出る女、あれもいいな。一寸知念のむかしの戀人に似てゐる。(「三Q」にいた)

 誰か來ない限り、私を誰か誘はない限り、今日は淺草には行かない。うちで本でも讀んで居よう。

 

 夜食後、「紫苑」に行つた。紅茶のみながらワルツ合戰のうたを聞いてゐたら、さまざまな思ひが勃然とわきおこつた。一心に聞いてゐると悟られたくなかつたので、新聞を前にして目をそそいでゐた。字がかすんで一字もよめなかつた。お客は私一人であつた。

 以下 私と女との會話。

 

 私― 益山くん來ますか。

 女 ええ。いらつしやいますわ。今日も晝おいでになりましたわ。

   間

 私― 益山くんはここに來ても、やはり默つてるでせうね。

 女― ええ。むつつりして二時間も三時間もすわつてゐらつしやいますわ。

    こつちから話しかけると、ぽつりぽつり話しなさいますわ。

   長い間

 女― 近頃、何かお書きになつていらつしやいますの?

 私― いま、いま三百圓の懸賞をかいてます。三百圓もらつたらおごつてあげませう。

 女― いまからお禮申しておきますわ。おほほ。

 

 愚劣極まる會話である。これ位の會話しか出來ないのである。私が色魔になれないことはこれでよくわかる。此のあと、マダムが出て來て、武田麟太郞と矢田津世子が今日「紫苑」にくるかも知れないこと、二人の性質風貌などを話した。

 

 七時十五分前に「紫苑」を出て下宿に歸り、十時まで本をよんで、それから寢た。十二時半ごろまでねつかれなかつた。

 二囘便所に行つた。

[やぶちゃん注:「孫」日本統治時代の朝鮮の新義(シニジュ)州近郊出身のマラソン選手孫基禎(そんきてい:ソン・ギジョン 一九一二年~二〇〇二年)。家は貧しい雑貨商であった。一九三二(昭和七)年、京城の養正高等普通学校(内地の旧制中学校に相当。現在の養正高等学校)にスカウトされ、十九歳で入学、三年後の一九三五年十一月三日に東京の第八回明治神宮体育大会のマラソンで、当時の世界最高記録二時間二十六分四十二秒を樹立した。この年の三月以来、孫は未公認のマラソン・コースで世界記録を上回る実績を残していたが、この公認コースで世界記録を樹立したことで翌年のこのベルリン・オリンピックの日本代表有力候補として注目されるようになった。ベルリン・オリンピックには日本代表として出場、アジア地域出身で初めて、当時のオリンピック記録となる二時間二十九分十九秒二で金メダルを獲得した。現在のところ、オリンピックの男子マラソンで、世界記録保持者として出場した選手が金メダルを獲得した唯一の例である。大韓民国建国後は韓国の陸上チームのコーチや陸連会長を務めた(以上はウィキの「孫基禎」に拠った)。

『丹羽文雄の「小鳩」』丹羽文雄(明治三七(一九〇四)年~平成一七(二〇〇五)年:三重県出身)の「小鳩」は単行本は昭和一一(一九三六)年信正社刊。

「小村麗子」不詳。舞台女優か。

「武田麟太郞」(明治三七(一九〇四)年~昭和二一(一九四六)年)は小説家。大阪市生まれ。旧制三高を経て、東京帝国大学仏文科に進んだ。その間、同人雑誌『真昼』を創刊。藤沢桓夫(たけお)らの『辻馬車』に参加、その頃から帝大セツルメント(労働者街やスラムに定住して住民との人格的接触を図りながら、医療・教育・保育・授産などの活動を行い、地域の福祉を図る社会事業)の仕事をするなど、組合運動にも加わり、その体験を生かして「暴力」(昭和四(一九二九)年)などのプロレタリア文学作品を書いた。しかし、一方その政治主義的偏向から脱出しようとして「日本三文オペラ」(昭和七年)のような庶民的な視点で当時の風俗を描いたいわゆる〈市井事もの〉の筆をとった。昭和八年には、川端康成・小林秀雄らと、『文学界』創刊に参加、「銀座八丁」(昭和九年)・「下界の眺め」(昭和十年から翌年)など、新聞連載という形で当時の風俗を描き出している。昭和十一年には、『人民文庫』を創刊し、「日本浪曼派」の詩精神に対抗して、散文精神を主張、その雑誌に、傾倒する井原西鶴についての小説を連載した。太平洋戦争中には、徴用作家としてジャワへ行ったが、この時期にはめぼしい作品はない。彼の小説は志賀直哉・横光利一及びプロレタリア文学や西鶴などの影響を受けたが、庶民的視点によって庶民を描くという点では終始変わることがなかった。肝硬変で没した(小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「矢田津世子」(やだ つせこ 明治四〇(一九〇七)年~昭和一九(一九四四)年)は小説家。秋田県出身。本名ツセ。東京の私立麹町高等女学校卒業。左翼思想への目覚めを基底に置いた作品を昭和四(一九二九)年頃から発表するが、昭和七年、芸術派に転身、坂口安吾・田村泰次郎らの同人誌『桜』、さらに『日暦(にちれき)』・『人民文庫』に参加する中で、本領を発揮していった。庶民の風俗と心理を客観的に、また、情緒豊かに捉える作風で、昭和一一(一九三六)年に「神楽坂」で芥川賞候補となり、文壇での地位を確立、以後、「茶粥の記」(昭和六年)などの佳作を残したが、戦時下に肺を病み、満三十六歳で亡くなった(小学館「日本大百科全書」に拠る)。]

 

八月十一日 晴

 九時起床。床の中で莨(たばこ)を一服すふ。

 朝食後、しばらくして病院に行く。

 

 夕食後。

 キリストになれなければユダとなろう。さう呟きながら、今頃モラルのことなど騷ぎ立てる人々を、心の底からさげすんでゐた。

 

 今日は、病院の歸りと、夜八時からと、二度「紫苑」に行つた。紅茶を注文して、机上の雜誌を拾ひ讀みしたり音樂に耳傾けたりしながら、二囘とも一時間位づつ居た。あそこの女の、腕のつけ根の所の圓(まる)みが眼について困つた。

 

八月十二日 快晴

 昨夜、始めてオリンピツク放送を聞いた。河西の、女子二百米平泳決勝の放送は實によかつた。

 

 朝、九時半起床。

 病院で、今日は、ワクチンの靜脈注射をした。あの體の熱くなる注射は、カルシウム注射であると言ふことであつた。今日のワクチンも、カルシウムが、小量入つていたので、少しばかり胸とか腕が熱かつた。

 十一時半頃、「紫苑」に行つたが戶がしまつてゐたのでかへつてきた。

 

 あの橫町に、杵屋勝一穗の看板が亦出てゐた。

 

 大勝館の前に來ると、丁度益山君が切符を買つてゐる所であつた。私との間ほどは十間[やぶちゃん注:十八メートル強。]はなれてゐたので、彼は私に氣がつかないやうであつた。その上、彼の髮が顏の所までたれさがつて、私の方からも彼の顏はさだかに見えてゐなかつた。夕闇の中を。何と言はうか、私は、彼のあらゆる祕密を見てしまつたと言ふ氣がした。

 そして、その時、何故だらう、妖怪じみた、と言ふ形容詞が私の頭に浮んで來た。べつだん益山君の姿が古怪なわけではない。淺草はあかるくて、割り切れてゐるではないか。さうした不可解な形容詞が一體どこから、何のために出てきたのであらう。ぼんやり、さうしたことを考へながら富士館の方にひつかへして行つた。

 

 夜、十時半より、「紫苑」に行つた。四百米の決勝を聞きに行つたのである。

 

 マダムが、中井正文のことを話してゐた。私の「地圖」のことも出たやうであつた。また、太田と言ふ男の話も出た。私は莨をのみすぎてゐたので少し舌が𢌞らなくなつてゐた。十一時四十五分頃までゐた。かへりみち、書かなければならない、と思つた。

 床で湯淺克衞の「移民」といふ小說をよんだ。

[やぶちゃん注:「女子二百米平泳決勝の放送」言わずと知れた日本人女性初の金メダリスト(二百メートル平泳ぎ)前畑秀子(大正三(一九一四)年~平成七(一九九五)年:和歌山県伊都郡橋本町(現在の橋本市)生まれ。家は豆腐屋であった。名古屋の私立椙山女学校卒。結婚後の姓は兵藤)。当該ウィキによれば、同五輪のそれで、『地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて』、一『秒差で勝利する。日本人女性として五輪史上初めての金メダルを獲得した。この試合をラジオ中継で実況したNHKの河西三省アナウンサーは、中継開始予定時刻の午前』零『時を過ぎたために「スイッチを切らないでください」の言葉からアナウンスを始めた』。『河西は興奮して途中から』、「前畑ガンバレ! 前畑ガンバレ!」と、二十『回以上も叫び、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させた』とある。『引退後は岐阜市に在住し、椙山女学園職員として後進の育成に努め』た。

「大勝館」当時の東京市浅草区公園六区一号地(現在の東京都台東区浅草二丁目十番一号)にあった映画館。

「中井正文」(まさふみ 大正二(一九一三)年~平成二八(二〇一六)年:梅崎春生より二つ年上)は独文学者・作家。広島県廿日市市生まれ。後に広島大学教授・名誉教授。当該ウィキによれば、『中学校時代の修学旅行で訪れた九州地方に魅せられ、また、南九州出身の北原白秋の詩を熱心に読んでいたこともあり、旧制第五高等学校に進学する。詩作に傾倒し、五高在学中に作詩した「椿花咲く南国の」は同校寮歌となり、のちに加藤登紀子の歌唱でレコード化された』。『五高の同期に、当時作家志望だった土居寛之がおり、終生の友人となる。土居の影響で小説を書き始め、五高校友会誌『龍南』に作品を発表する』。昭和八年(一九三三)年、『東京帝国大学ドイツ文学科へ進み、成子坂のアパートに下宿する。当時まだ無名の石川達三と知り合い、石川の第一回芥川賞受賞作「蒼氓」が掲載された、同人誌『星座』に推薦され』、『参加する。『星座』は』昭和十年四月創刊で、『同人誌ながら、主催の矢崎弾の手腕により』、『順調に盛り上がりを見せたが、矢崎が反戦的人物として政府に監視され』同年七月号で『同誌が早くも発禁処分を受けたため』、『中井は作家志望の仲間と新たな同人誌の立ち上げを模索する』。『本郷に移っていた中井は、下宿先を同じくした五高の後輩梅崎春生、学友でかねてから付き合いのあり、近くに越してきた檀一雄、同じく下宿を近くする織田作之助、ドイツ文学科の佐藤晃一らと交流を持つ。ドイツ文学とトーマス・マンに傾倒していた佐藤に刺激され、佐藤も知らない作家を発掘してやろうと意気込み、発見したのがカフカの作品であったと中井は語っている』。『自身のあこがれていた北原白秋の故郷、柳川の生まれであった檀と交流を深め、檀の敬愛していた太宰治を紹介される。はじめ、太宰は檀を仲介して自身の参加していた同人誌『青い花』に中井の参加を依頼したが、中井は新たな同人誌の立ち上げ計画を理由にそれを断』った。『太宰は檀を伴い』、『中井の下宿を訪れ、『青い花』への再度の参加を促された中井は、それを承諾する。以降、太宰、檀、中井は東大前の落第横丁で酒を飲み交わす仲になる』。『中井はその頃、宮島の対岸を舞台とした恋愛小説「神話」を執筆中であった。中井の下宿を訪れた太宰がそれを目に留め』、『青い花』第二号への『掲載約束を互いに交わすも、太宰はじめ同人が揃って『日本浪漫派』へ活動拠点を移したため、『青い花』は創刊号のみの刊行に終わった』。昭和一三(一九三八)年、『中央公論』主催の『「知識階級総動員・論文小説募集」のスローガンを見た中井は、書き上げたのち』、『温めていた「神話」を中央公論社へ送』った。暫く経った同年中、『中井は中央公論社へ呼び出され、当時の『中央公論』文芸主任、畑中繁雄らに「神話」の一等入選を伝えられ』た。『しかし』、『戦時下の言論弾圧は文学界にも及んでおり、軍部からの恋愛小説掲載自粛の通達を受け、『中央公論』誌への「神話」の掲載は見送られることになる。「神話」は二等入選というかたちで紙面に紹介され、中井とともに入選した大田洋子の『海女』が単独掲載され』た。『二等に繰り下がった賞金の埋め合わせとして、畑中は中井にドイツの女流作家エレン・クラットの従軍記翻訳を依頼、『中央公論』『婦人公論』に掲載され』ている。昭和一六(一九四一)年、『中央公論編集長となった畑中は中井に、恋愛をテーマとしない小説の執筆を持ちかける。中井は五高山岳部を描いた「阿蘇活火山」を執筆し、『中央公論』』の翌年の二月号に『新人小説として掲載される。「阿蘇活火山」はドイツの文化雑誌に』も『中井の写真とともに紹介され』ている。『その後』、『中井はガダルカナル島への補充兵として福山の連隊へ招集され』たが、『除隊』となり、『広島へ引き上げ、女学校の教師として終戦を迎え』た。『広島市への原子爆弾投下時は』、『勤労動員の引率で宮島の工場におり、直接の被曝を逃れ』ている。また、この敗戦の年には、『「寒菊抄」で第』二十『回直木賞最終候補』となっている。昭和二一(一九四六)年、『休刊を余儀なくされていた『中央公論』復刊にあたり、畑中繁雄から「神話」の掲載を持ちかけられるも、中央公論社に原稿が残っておらず、中井の手元にもメモ程度しかなかったため、同作は世に出ぬまま戦乱』の中で、『のちに中井は「神話」の復元、再執筆を試みるも、満足のいくものとはならなかった』。『戦後は』『広島大学に教官として勤務。その傍ら、カフカの翻訳を進め、「変身」が角川書店から、「アメリカ」が三笠書房から』出版されている。一九七〇『年代から』、『自身の作品の発表を再開、最晩年に至るまで『広島文藝派』を主宰し、精力的に執筆、翻訳を続けた』とある。

『私の「地圖」』昭和一一(一九三六)年六月の創刊号『寄港地』に発表された梅崎春生の最初の本格小説。同誌は霜多正次ら十名で創刊した同人誌であったが、二号で廃刊した。当時、春生は東京帝国大学文学部国文科一年、既に二十一歳であった(既に述べた通り、中学浪人及び熊本第五高等学校二年次落第のため)。私はサイトでPDF縦書版で電子化している(但し、新字新仮名)。

『湯淺克衞の「移民」』小説家湯浅克衛(ゆあさかつえ 明治四三(一九一〇)年~昭和五七(一九八二)年)は香川県生まれ。本名は猛。小・中学校時代を朝鮮で過ごし、第一早稲田高等学院中退。昭和一〇(一九三五)年に『改造』懸賞小説二等となり作家デビュー。翌年、本庄陸男(ほんじょうむつお)・平林彪吾(ひょうご)・田辺耕一郎・伊藤整・井上友一郎らと第二次『現実』を創刊、次いで武田麟太郎・高見順らの『人民文庫』に加わり、プロレタリア文学に傾く。その後、植民地小説を書き、戦後はブラジル移民を主題とした。京城中学校時代の同級生に中島敦がいる(当該ウィキに拠った)。]

 

八月十三日

 病院に行き道、杵屋勝一穗の看板を盜みたい衝動にかられた。歸りみち、指でそつとつついたら、ぐらぐらと搖れた。

 

 マガジン倶樂部に行き、「文藝」の九月號を借りて、「紫苑」に行つた。レコードを聞きながら、岡本かの子の「渾沌未分」といふ小說を讀んだ。讀み終えると、何かしら濁つた、激しい亢奮がぐつと身内からわいて來た。さいごの所、女がひたむきに渾沌未分の世界に拔手をきつて行く所で、不快なたかぶつた感情が私におこつてきた。レコードの所爲かも知れない。じつは、此の小說をよむ前に、此の小說から何かヒントを得て、何か短篇の筋でも考へようかといふ心構へを持つてゐたのである。

 

 夜「紫苑」に行く。

 

 下宿の娘より、林芙美子の「野麥の唄」「旅だより」、大佛次郞の「樹氷」を借りる。「樹水」は一氣によんでしまひ、「旅だより」もほとんどよみ、「野麥の唄」のなかの短篇二つ三つ讀む。

 十二時 就床。

[やぶちゃん注:『岡本かの子の「渾沌未分」』作家岡本かの子(明治三二(一八八九)年~昭和一四(一九三九)年:本名はカノ。旧姓は大貫(おおぬき))が昭和一一(一九三六)年九月に『文芸』に発表した小説。「青空文庫」のこちらで読める(新字新仮名)。]

 

八月十四日

 病院に行き、又、マガジン俱樂部に行き、「文學界」九月號を借り、「紫苑」に行く。

 今日心愉しき音樂。

  ブルー・ダニユーヴ。「アルルの女」のなかの

  メニユエツト。トロヴァトーレ。

  「アルルの女」の最初のフルートはこの間の

  ロシア映畫の笛によく似てたのしい。

[やぶちゃん注:以上の「ブルー・ダニユーヴ」以下は全体が二字下げなので、かく、した。]

 

 自らふるへ上るやうなすさまじい小說を考へる。八九十枚の豫定。題未定。

 

 夜、岸本來訪。

 共に淺草富士館に行く。山中貞雄、大河内傳次郞の「海鳴り街道」。川口松太郞の「風流深川唄」。

 

 二百米平泳準決勝を聞く。

 

 二時半就寢、うつしものに多忙。

 

 創作「祭日」八十枚程度。「展望」百二十枚程。

 この二篇を近日中に着手することになつた。當分倂行法を取る。原稿用紙には書かずに、此の日記帳にかいてゆくことにする。

 

   「展望」

大東京の片すみの奇妙な人々がすむ一劃。文科大學生橫紙象八はトリツペルにおかされ、經濟的事情のために此處に移り住んで來る。隣家の不思議な親子、亦、その親子の所に寄寓する奇妙な性格の旋盤工。橫紙が下宿する家のみにくい少女(世の習俗をてんでうけつけない偏執狂じみた女)、おひとよしだが、淫亂な主人。むかいの家の、かつては支那を放浪し、いまでは徒食してゐるのだが、その生活費が、どこから出るのかわからない愛想よき老人。みんなが夢をみたがつてゐることなど。

[やぶちゃん注:最後の小説「展望」の設定記載は底本では全体が一字下げである。

「ブルー・ダニユーヴ」オーストリアのウィーンを中心に活躍した作曲家ヨハン・シュトラウスⅡ世(Johann StraussⅡ 一八二五年~一八九九年)が一八六七年に作曲した知られた合唱用ウィンナ・ワルツ「美しく青きドナウ」(An der schönen, blauen Donau )作品三百十四。

『「アルルの女」のなかのメニユエツト』フランスの作曲家ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet 一八三八年~一八七五年)が作曲した全二十七曲から成る、アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet 一八四〇年~一八九七年)の同名の短編小説「アルルの女」(L'Arlésienne )及びそれに基づく戯曲の上演のために一八七二年に作曲された付随音楽。編曲された2つの組曲が一般には最も広く知られている。

「トロヴァトーレ」ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した全四幕から成るオペラ「イル・トロヴァトーレ」(Il Trovatore )。一八五三年にローマで初演された。ヴェルディ中期の傑作の一つとされる。原作はアントニオ・ガルシア・グティエレス(Antonio García Gutiérrez 一八一三年~一八八四年)の戯曲「エル・トロバドール」(El Trovador :「吟遊詩人」)を後人が補作台本としたもの。

『「アルルの女」の最初のフルート』知られた第二曲「メヌエット」(フランス語:menuet(ムニュエ))か。YouTube にあるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のそれをリンクさせておく。

「この間のロシア映畫の笛」う~ん、このソヴィエト映画、誰の何んという作品か、同定したい!

『山中貞雄、大河内傳次郞の「海鳴り街道」』山中貞雄(明治四二(一九〇九)年~昭和一三(一九三八)年)監督で、大河内伝次郎(明治三一(一八九八)年~昭和三七(一九六二)年)は主演のトーキー初期の剣戟劇映画。ウィキの「海鳴り街道」によれば、『上映用フィルム全篇は現存して』いない、とある。

『川口松太郞の「風流深川唄」』小説家・劇作家の川口松太郎(明治三二(一八九九)年~昭和六〇(一九八五)年)の老舗の料理屋を巡る人情話「風流深川唄」(昭和一〇(一九三五)年『オール讀物』連載。この作品他で川口は第一回直木賞を受賞)を原作とし、笠原和夫が脚色し、後に俳優としても知られた山村聡(明治四三(一九一〇)年~平成一二(二〇〇〇)年)が監督した、料亭の看板娘と板前との恋愛映画。

「二百米平泳準決勝」競泳男子二百メートル平泳ぎの決勝では葉室鐵夫が金メダル、小池禮三が銅メダルをとっている。

「祭日」不詳。

「展望」不詳。

「トリツペル」Tripper。淋病。実は、私は梅崎春生本人が、この淋病を罹患した経験があるのではないかと、疑っている。それは梅崎春生の自伝的要素が甚だ強い小説「その夜のこと」を電子化した際に感じたことである。そこで主人公の「僕」が、

   *

 その前年の七月の末、当時二十一歳の僕はある種の病気にかかったのだ。ある種の病気というのもへんだから、この病名を仮にXということにしておこう。このXは現今においては、注射の一、二本でカンタンに治癒するらしいけれども、当時は当時、医業医薬の未発達のため、なかなか難治の病気とされていた。その難治なるXに不運にも僕がとりつかれたというわけだ。僕は夏休みの帰郷をも取止めて、大急ぎで医者に飛んで行った。

 こうして僕の憂鬱な口々が始まった。

 Xという病気ははなはだ面白くない病気で、酒はいけない、刺戟物はいけない、あまり動き廻ることもよくない、とにかくあらゆる欲望をつつしまなければならない病気なので、そこで僕は毎日下宿にごろごろして、そして医者に通う。その医者は町医者で、僕が学生だからというので、特に治療費を月極め二十五円にして呉れた。当時にしてもこれは安い方だったと思う。医院は千駄木町にあった。僕が弓町の下宿を引払い、この愛静館に引移ってきたというのも、そんな事情からだった。毎日通うのに遠くでは都合が悪いのだ。

   *

と述懐しているからなのである。而して、ここで梅崎春生自身が受けている奇妙な通院治療も、それなのではないかと、実は、疑っているのである。この昭和十一年、梅崎春生は満で二十一となっている。

 

九月二十五日

 久し振りに書く。一箇月以上日記を怠けた。いささかうちのめされた。今からだ。私にとつて一世一代の芝居が殘つてゐる。今日から何箇月か。今年中、此の芝居はつづく。不幸な悲劇の主人公。

 

 をはると私はひとりで手をたたかう。

 ああ私の中にゐる小さな病菌たちよ。

 

九月三十日

 小酒井博士の「殺人論」を讀む。近來、此の本ほど私を打つた本はない。昨夜の十一時から一時まで。今朝で讀了。色々私を啓發し、示唆して吳れた。

 私はいま「毒物學」の精密な書物がいちばんほしいのである。

 

 トリカブト。ジキタリス

 

 夜、西鄕と原と「南國」に行つた。

 

 「ちんば引いて步けば秋の廢園や」

[やぶちゃん注:「小酒井博士」医学博士にして推理小説家であった小酒井不木(明治二三(一八九〇)年~昭和四(一九二九)年)は愛知県海東郡新蟹江村(現在の海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家に生まれた。本名は光次(みつじ)。大正三(一九一四)年、東京帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学大学院に進み、生理学・血清学を専攻した(血清学の教授は三田定則で、彼は犯罪学の権威でもあり、不木や同窓生らは、後の学術雑誌『犯罪學雜誌』の創刊に尽力している)。大正四(一九一五)年十二月に肺炎を病み、転地療養しているが、半年後には快癒し、再び、研究に従事し、大正六年十二月には二十七歳で東北帝国大学医学部衛生学助教授に任ぜられた。その後、文部省から衛生学研究のために海外留学を命じられ、渡英したが、ロンドンで喀血し、ブライトン海岸(私の好きなリチャード・バラム・ミドルトン(Richard Barham Middleton 一八八二年~一九一一年) の怪奇小説「ブライトン街道」(On the Brighton Road )だ!)で転地療養し、小康を得て、一旦、ロンドンに戻った。大正九(一九二〇)年の春にはフランスのパリに渡ったが、再び喀血し、南仏で療養、小康を得て、帰国、同年十月、東北帝国大学医学部衛生学教授就任の辞令を受けたが、病いのため、任地に赴けず、長男を親元に預け、愛知県津島市の妻の実家で静養した。翌年、医学博士の学位を取得した。『東京日日新聞』に「學者氣質」を連載するが、篇中にあった「探偵小說」の一項が、前年に創刊された探偵雑誌『新靑年』(博文館)編集長森下雨村(うそん)の目に留まり、森下は不木に手紙を書き、不木も「喜んで寄稿し、今後腰を入れて探偵文學に力を注ぎたい」と返書している。大正一三(一九二四)年には、詩人で同じく医学博士であった木下杢太郎(明治一八(一八八五)年~昭和二〇(一九四五)年:本名は太田正雄)が愛知医科大学皮膚科学教授となり、名古屋市において、不木と木下を中心とした一種のサロンが形成された。以後、医学的研究の解説に海外推理小説を多く引用して,日本の推理小説に影響を与えた。自身も「戀愛曲線」・「疑問の黑枠」・「鬪爭」などの推理小説・SF小説を書き、科学に立脚した本格推理小説の発展に寄与した。三十九歳で急性肺炎で亡くなった(以上はウィキの「小酒井不木」他を参考にした)。私の非常に好きな作家である。

「殺人論」大正一三(一九二四)年京文社刊の評論。「犯罪文学研究」(昭和二(一九二七)年春陽堂刊)とともに私が電子化したいものの一つである。没年に刊行された「毒及毒殺の研究」(改造社)も梅崎春生は味読済みというわけか。

「トリカブト」全草(特に根)に毒性の強い、現在も解毒剤のないアコニチン(aconitine)を含む双子葉植物綱モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の根から製する猛毒。本邦では古くから「附子(ぶす)」として知られた。

「ジキタリス」タイプ種はシソ目オオバコ科ジギタリス属ジキタリス Digitalis purpurea 。ヨーロッパ南部原産で、別名キツネノテブクロ。各地で観賞用や薬用として栽植されているが、全草に猛毒を有する。本種及びケジギタリス Digitalis lanata の葉を乾燥させたものを生薬として「ジギタリス」と称し、強い強心作用を有する。「ジギタリス」には「ジギトキシン」や「ギトキシン」などの強心配糖体が含有されており、心筋に直接作用して、その収縮力を強め、刺激伝導系を遅らせて不応期を延長させ、拍動数を減少させて、心室筋の自動性を亢進させるなどの作用を持つため、鬱血性心不全に対して顕著な効果が認められる一方、消化管に作用して嘔気・嘔吐などの消化器症状、不整脈・動悸などの循環器症状、頭痛・眩暈などの神経症状、視野が黄色くなる視覚異常の他、過量すれば、重篤な心臓障害を起こすことが知られている。現在では生薬としてはほとんど用いられない。

「西鄕」既出既注の西郷信綱。]

 

十月十二日

 何だかもやもやとした不安が私をいらだたせてゐたのだ。原が東京驛に人を送りに行くと言ふので、私もいつしよに連れて行つて吳れとたのんだりした。旅情のあわただしさが私を救ふかも知れない。さう思つてみた。しかし、夜更けて、人に別れて、ひとり歸るあじけなさと苦しさを考へたとき、なにか心のなかで、へたへたとくづれおちるものを感じた。原とバスの停留所で別れて、下宿の方に步きながらも、一體何がくるしいのであらうと考へてみた。何も、はつきりした具休的な苦惱は思ひ出せなかつた。夜ねてからも、私はしばらくふるへてゐた。廊下を通る微かな跫音(あしおと)にも、ぎくりとして汗が出た。カルモチンの箱をしらべたら八粒のこつてゐた。そのうち四粒をてのひらにのせて洗面所に行つた。手がふるへて、水があごから胸へ流れて冷たかつた。私はも少しで泣き出す氣持を押しこらへて部屋にもどつて橫になつた。

[やぶちゃん注:「カルモチン」既出既注。]

 

十月十三日

  夜十二時。

  心ゆたかなり。

 

  カルモチンをのみて、ねむらんとす。

 

  ふみに つかれ むなし ひたひに ひえびえと

  ゆびをあてたり なにか かなしく

 

    永平寺貫首猊下(げいか)よわれがもつ

    虛無のおもひをいかにせましな

 

    君がためしょうそうこなんのをとめらは

    われとあそばずなりにけるかな

[やぶちゃん注:二首目の歌の上句は特異的に底本に近い表記で残した。底本では、

    君がためしょうそうこなんのおとめらは

という表記になっている。第三句は「乙女等は」で「をとめらは」でよかろうが、「しょうそうこなん」が全く判らない。「少壯」なら「せうさう」であるが、「乙女」の形容としては、すこぶるおかしい。「こなん」は単に中国由来の美称のそれで「湖南」でよいか? 「少壯湖南の乙女ら」? 何じゃか判らん。ともかくもしかし、第一首との対句を考えると、「永平寺貫首猊下(げいか)」(この呼び方は実際に普通に永平寺貫首を呼ぶもので、「猊下」は高僧に対する敬称である)に対応するから、「の」以前の「しょうそうこなん」は一続きの漢字文字列でなくてはおかしい。しかし、私には漢字も意味も相応しいものを想起出来ない。識者の御教授を乞うものである。

【二〇二一年七月八日追記】古い教え子のT君が『瀟湘(しょうしょう)を「しょうそう」と誤読していたのではないでしょうか。ただし、永平寺貫主と瀟湘湖南の乙女の対置がよくわかりません。ただただ、私の中では、禅宗のモノトーンの世界と、中国のイメージ上の乙女たちの柔らかな印象が、不思議な和音を奏でるだけですけれども……』と知らせて呉れた。それだ! 間違いない!

    君がため瀟湘湖南の乙女らは

    われとあそばずなりにけるかな

「瀟湘」は湖南省の名勝で、洞庭湖の南の「瀟湘八景」として、詩や絵画の主題に取り上げられて多くの作品が作られた。瀟は瀟水、湘は湘水で、この二つの川が合流して洞庭湖に注ぐ所は古くから絶景の地として知られ、夕照・秋月・夜雨・暮雪など、おもに夕暮れの勝景八つを取り上げて美景の名数となっている。則ち、「山市靑嵐(さんしせいらん)」(山中の町に霞の漂っている美しい風景の意) ・「漁村夕照」・「瀟湘夜雨」・「遠浦歸帆」・「烟寺晩鐘」・「洞庭秋月」・「平沙落雁」・「江天暮雪」の八景である。中国では宋代から絵画の題材として描かれ、本邦にはそれらの作品が鎌倉末から輸入され、玉澗や牧谿(もっけい)の作例が伝来している。また、本邦の初期の水墨山水画に鎌倉末の習作的な「平沙落雁」を描いたものが残っており、以後、狩野派を始め、漢画の主要な主題となった。なお、本邦の「大和八景」・「近江八景」・「金沢八景」など、後世これに倣って選ばれた名勝が各地に生まれて今に伝わっている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。湖南はそれに附しても全く違和感がない。但し、「瀟湘」は歴史的仮名遣で「せうしやう」で、現代仮名遣に直しても「しょうしょう」である。しかし「湘」を「そう」と読み間違えることは奇異ではない。さらに私などは、目の覚めるような景観美の「瀟湘」がそのより大きな「湖南」地方を連想させる時、そこには中国の美しい乙女ら、美姫・美妓らが直ちに想起されるのである。それは芥川龍之介の名作「湖南の扇」(リンク先は私の詳細注附き電子テクスト)によるものである。しかして、この一首も感覚的には私は腑に落ちるものとなる。教え子に心より感謝するものである。

 

十月十九日

 目を覺ますと十一時半であつた。

 こんな夢を見た。

[やぶちゃん注:以下、夢記述は底本では全体が一字下げでポイント落ちである。]

 

 場所は熊本のやうであつた。一時間目の授業(學校は五高らしい)に出はぐれたので、私は下宿に歸つて、映畫でも見に行かうか(新市街に)と考へたが、何か下宿(森さんの家)に歸るのが背德のやうな氣がして、圖書館(これは東大の圖書館らしい)の方に步いて行くと、敎官の森大尉が私のそばにやつて來て、授業に出ないなら、一寸こつちに來いと言つて、小さな喫茶店(此の喫茶店は五高の武器庫の所にあつた)につれて行き、あの女を見張つていて吳れと私に賴み、どこかに行つてしまつた。私が見張りを賴まれたその女は、何か珈琲でも飮んでゐた。(私も何かのんだ)――いつの間にかその喫茶店が敎室に變り、丁度一時間目がすんだ所であつた。私が歸らうかなと思つてゐたら、扉を開いて小さな男が入つてきて敎壇に登り、大きな聲で講義を始めた。私の前には岸本がすわつてゐたので、あの男は誰だいと聞くと、あれが有名な末弘嚴太郞だと敎へてくれた。ぼくらは、あれをノートしなくていいのかと聞くと、(ぼくのまわりのひとびとはみんな熱心にノートをつづけてゐた)ぼくらは文科生だから、唯、聞いてゐさへすればいいんだよと岸本が答へた。しかし、そのとたんに末弘氏が階段を下りてぼくらの方に步いて來たので、ぼくはあわてて、そこらにあつた本をひろげてうつむいてゐた。不思議なことに、その本は、修猷館(しゆうゆうくわん)の同窓會雜誌であつた。となりに坐つてゐた男の所有品であつた。――いつの間にか私はひろびろとした博物館風の家の中をあるいてゐた。天井の高い、白いかべの建築であつた。左にその圖をかく。

 

Umezakinikki1

 

 此の建物には、私は一度來た事があつた。それは、Dと言ふ通路から先の建物の中の陳列品は、私はもう既にみたことがあるのであつた。私は、Eの所の壁にかけられた畫を一枚一枚見て行つた。(私は中島極らしい男と一緖にあるいてゐた。)その壁には、大きな、印象深い畫が二枚あつた。その畫を左に描く。

 

Umezakinikki2

 

 上の方の繪は、化猫が、虎とライオンとに戰を挑んでる畫で、此の日記帳にうつした畫はまずいが、下の方の猫が本當の化猫で、上の方のは、田舍の家にばけた猫なのである。私はその時、虎と猫とは同族であるが、どうして、それらが連合して獅子にあたらないのであらうか、やつぱり化猫である故、孤立してゐるのであらうかなど考へた。その下の小さな繪には、萬曆赤繪と言ふ貼紙がしてあつたけれど、何等變哲もない平凡な山水であつた。私は中島に此の繪の事をしらせようとしたが、もうその時は彼は近くには見當らなかつた。有名な萬曆赤繪とはこれかと思ひながらしばらく見てゐた。それからAに步いて行つた。Aは大きな水槽なので、その中に石で造つた蛙がたくさんゐた。

 しかし、よく見ると、皆生きているのだ。指でつつくと、背中は石だけれど、生々しい腹の肉を見せながら沈んで行つた。それから、ひろい大廣間の方に步いて行つたら、小便がしたくなつた。繪のBにあたる所が人口らしく、大きな戶があつて、机を四つ五つならべて、委員たちがこしかけてゐた。こんなひろい所に便所のない筈はないと思つて、あちこち見まわすと、Cの所が便所らしかつたので、そちらにあるいて行つたが、それは便所ではなかつた。そこの扉には、どういふ意味か知らないが、貼紙がしてあつて、東雲堂とかいてあつた。そこで目がさめた。尿意が激しかつた。

[やぶちゃん注:太字「東雲堂」は底本では傍点「◦」である。図は本カテゴリ始動の際に述べた通り、二図ともに指示キャプションが底本では活字に書き変えられているため、編集権侵害になるのは厭なので、OCRで画像として取り込み、トリミングした上で、それらの活字部分は清拭して削除し、代わりにそこに同じ文字数・文字列でフォト・ソフトを用いて、図の中に改めて活字化し(勿論、歴史的仮名遣を用いた)、注も入れ込んだ。なお、この日の日記は異様に長く、面倒なので、夢記述の注をここで附す。

「修猷館」既に述べた通り、梅崎春生は昭和六(一九三一)年三月に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業している。

「萬曆赤繪」(ばんれきあかゑ(ばんれきあかえ))とは、中国の明の万暦年間(一五七三年~一六一九年)に、江西省にある知られた景徳鎮窯で焼かれた赤絵の磁器の総称。極めて美しかったことから一般化した、本邦での呼称である(中国では「万暦五彩」と呼ぶ)。薄い胎土に、白磁の染付(釉下コバルトによる藍の発色)にかけた釉(うわぐすり:これを「赤絵」と呼んだのである)が重厚な美を示すもので、実際には赤だけでなく、青・黄・緑なども配されてある色絵の白磁のこと。万暦時代のそれは特に華美で、官窯としても多量に製造されたが、輸出品も多く特に日本に多く残っている。日本では古くから「万暦赤絵」と呼ばれて尊重された。

「東雲堂」恐らくは、梅崎春生の故郷福岡で有名な和菓子店「東雲堂(とううんどう)」と同名であるから、彼の夢記憶を呼び出すキーとなったものと思われる。現在も福岡県福岡市博多区に本社を置く、和菓子製造企業である。郷土芸能である「博多仁和加(はかたにわか)」のお面を形どった「二加煎餅」(にわかせんぺい)は地元の福岡で今も非常に知られている。明治三九(一九〇六)年創業。私事であるが、私は、実は、あの「はかたにわか」の面が甚だ嫌いである。あれを見ると、強い嫌悪を感じる。理由は自分でも判らない。いや、実は、私が過去の嫌いな人間を想い出す時には、何故か、そいつは、必ず、あの面をつけているのである。あの面は、邪悪な内面を隠すもの、或いは人間としてのあるべき感情を持たないことを隠ぺいするものにしか、私には映らないように感ずる。]

 

 夢のことを言く事はむつかしい。正確に書くなら、いま書いた紙數の三倍の頁を要するであらう。今日の夢は、夢の中では、連續一貫した夢であつたのだが、書いて見ると、三つに分れた夢になつてしまつた。

 朝、目が覺めたとき、東雲堂のことをふと思ひ出したら、あとは糸をたぐるように次々に思い出した。しかし、一番始めの夢も、前からづつとつづいてゐたのであるが、それから前は思ひ出せない。此のゆめとは孤立してゐるが、友達と四人で家をかりた夢を見た。上二間、下四間の家であるが、岸本が專斷で一番良い部屋を取つて、一悶着起きたゆめであつた。

 

 今日は雨が降つてゐる。私は部屋の中に端坐して日記を書きながら、意識の腐敗して行く音を感じてゐる。

 今日あたり、誰か遊びに來て吳れると大いに助かるのだが、此の雨では誰も出て來ないであらう。

 

 月水金の芝の創作。駄作に戀幾(こひねが)はし[やぶちゃん注:底本はこのルビ附き漢字二字の右に編者によるママ注記がある。「こひねがふ」は「庶幾ふ」とは書く。]。こんなもの書いてどうする氣か。しかも卒業創作ではないか。

 

 綠川貢の「初戀」

 一讀して、呆然とした。ああ亦私は何をか言おう。これが日本一流の同人誌の誌面を堂々とかざる此の現狀。

 

[やぶちゃん注:以下、実在の人物名を挙げてのカリカチャライズのような、或いは、梅崎春生の想定した登場人物の設定なのかは、よく判らない。但し、底本編者は明らかに実在する人物と判断してフル・ネームを総て□の伏字にしてあり(最初のみ三字分)、その下方に『〈人名〉』という編注記をしている(除去した)。五名の人物まで、全体が名前の頭一字が突き出ている(一字下げ)だけで、全体は二字下げである。ブログのブラウザでは崩れて汚くなるので、適当な部分で改行して、字下げを施した。]

 □□□(ふきの煮付)

  小さな龜の子。秋の晝吹く風。

  村祭の日に、男がみちを步きながら、大學

  の講義の退屈さを思い出して、露店商人か

  ら龜の子一匹を買いました。少しばかり顏

  をあからめて。

 

 □□□□(牛肉寶來煮)

  新しいインクを買つて來て、一寸その色具

  合をみたいと思つたけれど、丁度近くに紙

  がなかつたのでその男は、そのインクを、

  下宿の部屋の白いかべにかけたら、鮮かに

  その色がつくだらうと思ひながら、めう

  にうそ寒く部屋の中にじつとしてゐました。

 

 □□□□(須田町食堂のメンチボール)

  タンクの無限軌道は、物すごい勢で土をは

  ねて進んで行つたが、中に乘つてゐる若い

  兵士は一體此のタンクはどこに行く氣だら

  うと、泣き出しさうな顏をして、機械をガ

  チヤガチヤと動かしました。

 

 □□□□(大根の煮付に、まちがえてソース

  をかけたやつ)

  男がいて、道を步きながら、情欲にかられ、

  ある空屋に入り、壁にむかつて Masturbation

  をしました。でも男は、汚れた壁を拭きもせ

  ず、まあいいや、人も見てないや、誰にも判

  る筈はないや、と呟きながら、その空屋を出

  て、步いてゆきました。奇妙に緊張した顏を

  して。

 

 □□□□(ひじきのこせう煮)

  殘忍な兎の子。チンポコが赤い。

 

 我が悲しみもここにあふれたり。新酒を酌み女を抱けば、幸福なほあらんか。

 現實をのりこしてしぶきをあげる。

 

 もう、今日は十二枚目だ。少し氣違ひ染みて來た。

[やぶちゃん注:以下、底本では、標題「創作の斷片」を除いて「由紀の饒舌はいとはかつた。」までポイント落ちで全体が一字下げ。]

 

 

    創作の斷片     十月十九日夜

 その男に、私はあるとき、外套をもらつたことがある。べつだん、私が、その外套を非常にほしがつたわけでもなかつたし、その男が、私の貧しさをあはれにおもつたわけでもなかつた。ただ、突然、私の下宿にやつてきて、この外套、君にあげる、と、めうに眞面日な顏で言ひ、着てゐた外套をわざわざ脱いで、私の部屋の壁にかけ、そのまま默つて歸つていつた。秋の終りのことなので、その男にしても、その外套は、冬を越すためには、必要なものであることは言ふまでもなかつた。

 

 私が高等學校に入り、寮の生活を始めたとき、橫紙が私の同室者であつた。此の高等學校の寮は、六疊の部屋に二人づつ入るやうになつてゐて、その組合せはどんな法則によつてゐるものかは知らなかつたけれども、橫紙も、私も、どちらも土地のものではなく、となりの縣出身であつたから、きつと、さういふ關係から二人が同室になつたにちがひない。

 

 舞臺には、大きな向日葵(ひまはり)を一本だけ畫いた、汚れた背景の布がさげてあつた。その巨大な植物は、ぎらぎら光る、毒々しい花をつけてゐて、その花は、幹に少しばかり弧を描かせて、たゆげにうなだれてゐた。そして音樂の破れたラツパのよく響く、まづしい旋律と共に、眞紅な、奇妙な形の衣服をまとつた踊子が三人、右の袖の所から、ぴよんぴよんはねるやうにして出て來た。なぜ、あんな衣服を着なければならないのだらう。背景には、なぜ向日葵が一本きりしか描いてないのだらうか。そんな意味のない疑問が、頭の中にぐるぐるとまはり出すと、私は何かしら寒氣立つやうなはげしい恐怖におそはれた。

 

 墓の前にぬかづく由紀のすがたをみながら、私はわざと、その丸い腰のへんから心を外(そ)らしてゐた。由紀のやうに心汚れたをんなの、かうした神妙な姿は、白い光のやうに、妙にあざやかに、私の心を打つものであつた。此のをんなを間において、私と橫紙が、何故爭はねばならないのか。ぼんやりと遠い空を眺めながら、私はそんなことを考へてゐた。私は、いままで此の女に愛情をもつたことがあるのか。

 

 由紀のさうした姿だけが、私を救ふものだ。由紀のさうした神妙さだけが、私を浮び上らせるにちがひない。

 

「ぼくは矢張りあの女が好きだつたのだ。あの日ぼくは言ひそびれたやうだつたけれど、とほいとほいむかしからあのをんなのことばかり思ひつづけてゐたやうな氣がするのです。あのをんなさへ生きてゐて吳れるなら、ぼくはきつと此の生活から浮び上ることが出來る。ね。梅崎さん。あなたはぼくをひどく憎んでゐるやうだけど、此のをんなのことについてだけは、何もしないで下さい。もしあのをんなの心が、あなたに傾いたら、私は――あなたを殺す!」

「忘られないのか。それほど。」

 私は、さう呟いてゐた。何か目に見えないものが、私をぐつと押すのを感じながら、しかし、それは聲にはならなかつた。私はだまつて、橫紙が、卓子に伏して聲をはなつて激しく泣き出すのをみつめてゐた。聲を出すまい。そればかりじつと心に念じてゐたのだ。卓子の上にこぼれた酒が、くらい電燈の光をうけて、きらりと冷たく光つた。

 

「ね。あたし、踊つてるとき、決して見物の方を見ないのよ。あの小屋の、うしろの壁に、ほら、化粧品とか、カルピスとかの、宣傳のポスターが十枚ほど並べて貼つてあるわね。あそこばかり見ながら踊るの。けんぶつの顏みるのこわい。おどれなくなる。ときどき後の方で、あの物賣のばあさんが、知つてるでしよ。幕合にラムネとかピーナツを賣つてあるく、あのばあさんが、じつと立つて見てるのに氣がつくことがあるの。こわいのよ。とても無表情なかほで。」

 ちよつと言葉をとめて、そのまねの表情をした。

「じつとみつめてるのよ。いつもにこにこしたひとなんでしよ。それが白い眼をして、じつとあたしのはうばかり見てるやうな氣がするの。あたしが舞臺をとちるのも、きまつてそんな時なの。でも、もういいわ。あたし修業がつんだから、ポスターばかり目をつけて、そんな外のところに目をそらさない自信ができたのよ。もうせんは、あのポスター、カルピスのばかりだつたけど、今はいろんなものがあるのね。あたし、何と何とがはつてあるか、ちやんと覺えてゐるのよ。いつも見てるせいなのよ。あんた覺えてる?」

「いや」私は、あの小屋の妖しい雰圍氣を思ひ出してゐた。しかし、由紀の饒舌はいとはしかつた。

 

 改造十一月號 佐藤春夫の「芥川賞」をよむ。太宰治のことを書いたるなり。天才。

 吾は頃日、太宰治を否定せんとして果さず。

 彼は天才である。故にこどくであるが。

[やぶちゃん注:ここでやっと「十月十九日」分の長い日記が終わる。

「綠川貢」(みどりかわみつぐ 明治四五(一九一二)年~平成九(一九九七)年)年)は小説家。本姓は内藤。東京生れ。中学中退。『日本浪曼派』や『人民文庫』に所属した。昭和一一(一九三六)年上期の第三回芥川賞候補者で、その対象作が、この「初戀」及び「花園」という小説らしい。詳しい事績は不明。

「寶來煮」こういう料理があると思って調べたが、ない。不詳。

Masturbation」自慰。オナニー。

「ひじきのこせう煮」「鹿尾菜の胡椒煮」だろう。

「創作の斷片」とある以下の話は不詳。但し、ここで出る「外套」という小道具は、後の梅崎春生の小説の中で、重要なアイテムとしてしばしば登場するものである。

「梅崎さん」梅崎春生は自作の小説の中で本名を使うことは、知る限りでは、ない。

『改造十一月號 佐藤春夫の「芥川賞」をよむ』芥川賞が何としても欲しかった太宰が、無茶苦茶な茶番を起こし、その騒動と太宰の虚言に対して、師である佐藤春夫が堪忍袋を切らしてしまって『改造』に書いた「芥川賞――憤怒こそ愛の極点(太宰治)」という記事である。ロンバルジア氏のブログ「文芸的な、あまりに文芸的な」に詳しい経緯が書かれてある。興味のある方は、そちらをどうぞ。私は太宰は小説こそ好きだが、人間的には好きでない。彼の「小動の鼻」での十八歳の女給田部シメ子との心中未遂というのは、心中を装った彼の殺害ではなかったか? とさえ疑っている人間である。]

 

十月二十日

 昨日の新聞では、魯迅が死んだ。秋雨霖々。机冷えたり。莨(たばこ)不味し。本をめくる指、かなしく長し。

[やぶちゃん注:以下、「それが、素晴らしい美少年だつたのだ。」まで、底本ではポイント落ちで、全体が一字下げ。]

 

 何のために、あの男は、いちいち私の眞似をするのであらう。何のために。私は、彼の表情のどこかに隱されてゐる殘酷な美しさを思ひ出すとき、私の憎惡の、はてしれぬ深さとひろがりをまざまざと知るのである。白い道のはてに、追ひつめて、先は絕壁、兩側はきりぎし、にやにやわらひながら、唇歪めてせまつてくるその男の表情の、めうに殘忍な美しさが、私を絕望におもむかせた。

 あいつには反逆できるが、その美しさには、ああ、私にはどうしても反逆できない。

 

「いいな。此の詩は。ちよつと。」

 私は、外の原稿を整理しながら、忙しく番號を打つて行く、同じ文藝部の委員をしてゐる男に話しかけた。

「ちよつとうまいじやないか。誰だい、此の詩人は。」

「橫紙象八つて言ふ男だよ。新入生らしい。まだ逢つたことはないけど。」

 その男は頭も上げずに答へた。

 

「僕、橫紙ですが。」

 それが、素晴らしい美少年だつたのだ。

 

 夜、原とオペラ館に行く。淸水金一、よし。

[やぶちゃん注:「魯迅が死んだ」偉大なる中国の作家魯迅(ルーシュン 一八八一年~一九三六年:本名・周樹人)はこの前日の十月十九日、上海で国防文学論戦の最中、持病の喘息の発作で急逝した。五十五歳であった。

「霖々」(りんりん)は長々が降り続くさま。無論、魯迅への梅崎流の哀悼の辞である。

「同じ文藝部の委員をしてゐる男に話しかけた」このシチュエーションは五高の『龍南会雑誌』の編集作業がモデルである。

「オペラ館」東京市浅草区公園六区二号地(現在の東京都台東区浅草二丁目五番)にあった映画館・劇場である。関東大震災からの再建後はマキノ映画製作所が映画を供給したが、昭和六(一九三一)年十二月に新築オープンし、その「こけら落とし」に榎本健一・二村定一のダブル座長から成る軽演劇劇団「ピエル・ブリヤント」の旗揚げ公演を行って以降、軽演劇やオペラの劇場としても流行った。

「淸水金一」(明治四五(一九一二)年五月五日~昭和四一(一九六六)年:本名は雄三(のちに武雄)はコメディアン・映画俳優。浅草の軽演劇及びトーキー初期を彩るミュージカルや、コメディのスターとして知られる。愛称「シミキン」。「ハッタースゾ!(ハッ倒すぞ!)」や「ミッタァナクテショーガネェ(みっともなくてしょうがない)」の決まり文句で知られた。山梨県甲府市生まれ。上京し、昭和三(一九二八)年十六歳の折り、浅草オペラの一座を開いていた東京音楽学校声楽科出の清水金太郎に弟子入りし、「清水金一」を名乗った。師匠金太郎は榎本健一(エノケン)と「プペ・ダンサント」(Poupée dansante:「踊る人形」の意)を結成したが、昭和九(一九三四)年四月に亡くなったため、金一はエノケンの師匠柳田貞一門下に入り、森川信らが、大阪千日前に結成したレヴュー劇団「ピエル・ボーイズ」に参加した。昭和一〇(一九三五)年夏、浅草に古川ロッパが開いた先に出た劇団「笑の王国」に参加し、また、浅草オペラ館で堺駿二とのコンビで活躍、一躍、軽演劇界のスターとなった(この頃、「シミキン」の愛称がついた)。その後など、詳しくは、参照した当該ウィキを参照されたい。]

 

十月二十二日

 大朝、橫山隆一の養子のフクチヤン、麻生豐の、只野凡兒以來のヒツトである。構想、繪と共に、ほめるに足る。

[やぶちゃん注:「大朝」てっきり、『大阪朝日新聞』のことかと思ったが、考えて見れば、東京の彼がわざわざかく言うのは如何にもおかしいので(次々注参照)、これは素晴らしい漫画を載せてくれた「大」新聞『朝日新聞』という謂いであろうから、「だいあさ」と読んでおく。

「橫山隆一」(明治四二(一九〇九)年~平成一三(二〇〇一)年)は高知県高知市生まれの漫画家・アニメーション作家。

「養子のフクチヤン」ウィキの「フクちゃん」によれば、この昭和一一(一九三六)年一月二十五日に『東京朝日新聞』で始まった連載四コマ漫画「江戸っ子健ちゃん」の脇役として登場したが、『着物に下駄、大きな学生帽という容姿の幼い男の子で、やがて』、『主人公の健ちゃんよりも人気が出た』『ため、改題のうえ、フクちゃんを主人公に昇格させた』。その後も「フクちゃん」シリーズは、『連載媒体を幾度か変えながら』、昭和四六(一九七一)年まで、長期に亙って『連載された』とあり、また、『当初は「養子のフクチャン」の題で開始』され、『大阪朝日新聞』にも『数日遅れで掲載された』とある。

「麻生豐」(あそうゆたか 明治三一(一八九八)年~昭和三六(一九六一)年:本名はこれで「あそうみのる」と読む)は漫画家。「只野凡兒」は、彼が昭和七(一九三二)年に朝日新聞社に入社して、その翌年から昭和九(一九三四)年七月まで『朝日新聞』の夕刊で『只野凡兒 人生勉强』=『只野凡兒』を連載したもので、好評を博した。]

 

十月二十三日

 正午に起きいで朝髮をしたため、いま、机のまへにすわり、茫然と窓のそとをみてゐる。風がはげしいのだ。空が、おそろしくなるほど、蒼く、梢をはなれた木の葉が、ひよひよと、ななめに飛んでゆく。視野のどこかで、

Umenikkihibunnsyou

こういう形をしたものが、絕間なくうごいてゐる。また、神經が衰弱したものにちがひない。何かしら、私と、ぜんぜん關係のないものたちばかりが、私を取りまいてゐる。窓の前の木に、つめたい日の光がさしてゐるのだが、それが、映畫のやうに匂ひがないのだ。そして、風にあふられて、わやわや騷ぐのだが、それをみながら、私は、私の感官の、亂視になつてゐるのをかんじる。空のいろが、何かの憶ひ出につながつてゐさうな氣が、先刻からしてゐる。そして――生きてゐたな、ああ、よく生きてゐたな、と、淚ばかり出さうな氣持だ。

 

  日かげらば 土に燈をともせ 苔の秋

 

  秋風や 藥飮む舌も やせほそる

 

  白き小石も 風にふかれて 冷えにけり

 

 心にごり、にがきくすりを、わづかばかり飮む。いのちの痴呆じみた面貌の冷酷さが、どこか、たつといものに思はれる。

 

 なぜ、人間のゆびは、五本あるのか、なぜアルバムが、私のむかしのすがたを、繪卷のやうにならべてつめたいのであるか。なぜ、をんなの肉體が、あんなに汚れてるやうに見えながら、やるせなく慕はしいのであるか。なぜ、なぜ。さうした、いみのないやうに見える疑問が、解明される前に、私はまづ、あのくも一片もない大空の深さにおそれをののかねばならぬ。

 さうしたあらゆる原始的なぎもんは、恐怖を基(もとひ)としてひろがつてゐるやうだ。

 

 自虐の極、人間の風貌は痴呆に似た表情をただよはせてくるものである。そして、その時だけ、ほんとの夢がある。

 此の世で、ほんとの夢をもつものは、そんなひとびとと、ふうてん病院のかんじやたち。のこりのひとが夢といふのは、みんな下らない妄想のこと。

 

 夢をみてゐる人の世界では、「はい」と、「いいえ」が同義語であり、「よろこび」と「かなしみ」の區別がない。友達のまへで、おれは生きてゐるぞ、と昂然と言ひ放つことは、おれは死んでゐるぞ、と悄然と言ひ放つこととまつたくおなじことなのだ。無意味だと言ふことを止し給へ。言ふことだけに、意味がある。

 

 夢を見てゐる人の特徵は、ひそやかにも、心愉しいこと。ときどき、むいみなことをつぶやくこと。

 思い起す千古の傑作、牧野信一「天ぐどう食客記」

 

 小學校のとき、私は、ある同級の子がすきであつた。その子の眼が、たらのやうであるとおもつた。たら?

 私は今にいたるまで、たらと言ふ魚をみたこともないし、食べたこともない。なぜ、その眼が、たらを連想させたか。私の幼い夢がそこにあつた。そこから私の幼いゆめは發足した。去年、故鄕のデパートで、私は、成長した彼に出合つた。彼は中學校をでて、體操學校に行き、いまは、中學の體操の敎師であつた。彼は私に、「出世したね」と言つた。そして、二人で、食堂で、ライスカレーを食べた。話ししながら、彼は上目使いで私をときどき見た。やはりそれが、たらであつたのだ。一匹のたらが、目の中で、はつらつと泳いでゐた。

 

 世の中で一番たつといもの、それが虛無である。文學は社會を指導するものではない。人間性をみちびくものである。どこへ? 茫々たる虛無へ。

 

 虛無は心愉しい世界である。(心愉しい世界が虛無であるのではない)

[やぶちゃん注:この画像で示したそれは(実際には本文に組み込んであるが、改行して中央に配した)、拡大して見た結果(拡大したものを配した)、丸い粒状を繋げていることが判り、これは私には実に親しい馴染みのものであって、間違いなく、見事に病気ではない正常範囲内の物理的現象としての眼の硝子体の中の飛蚊症(ひぶんしょう)のそれである(梅崎春生は「神經が衰弱したものにちがひない」と言っているのは、寧ろ、問題であって、これを精神変調の結果とする全く誤った認識であり、その方が深刻と言えるのである)。私は小学生の低学年の頃から(恐らく二年生七歳の時を記憶している)、朝の朝礼で晴天の空を見上げると、視覚の一部に、これと全く同じ、透明な粒が絡まったようなものを見かけた頃から(それを動かして楽しんだ自分を想い出す)、現在に至るまで、見かける。今は、右眼は殆んどなく、左眼には十年程前から、ごく小さな蝌蚪(おたまじゃくし)が、一尾、泳いでいる。これは青年期に専門書で調べたが、正常範囲内の飛蚊(ひぶん)で、所謂、硝子体周縁を形成する正常な構造物である細胞や線維が遊離して硝子体内に出た物、後部硝子体が人によって剥がれ易いか、或いは経年変化で剥離して硝子体内に出た浮遊物である。これは治療の必要はない。私の現在の左の「蝌蚪ちゃん」も、一応、気になるので眼科医に見て貰ったが、「問題ない」とされ、「うまく硝子体の底に沈んで動かなくなって呉れると邪魔にならないんですがね」と言われた。時々、実際の虫が一匹飛んでいるのと間違えることがあるくらいが、少し面倒なこだけに過ぎない。但し、この飛蚊症が、今まで全く見られなかった人に突然、多量に発生することがあり、これは網膜裂孔や網膜剥離の前兆とされ、他にも、網膜の血管の疾患や、眼球内の感染症、或いはそうした疾患による硝子体内への出血などが疑われるため、直ちに眼科に見て貰う必要がある。以上は、念のため、「三和化学研究所」公式サイト内の「飛蚊症」を参考にした。気になる方は必ず見られたい。

「ふうてん病院」「瘋癲病院」。精神病院の古称。

「牧野信一」(明治二九(一八九六)年~昭和一一(一九三六)年)は小田原生まれの小説家。早稲田大学英文科大正八(一九一九)年卒。同年、「爪」で島崎藤村に認められ、「凸面鏡」 (大正九年) ・「父を売る子」(大正一三(一九二四)年)・「父の百ヶ日前後」(同前)などで作家としての地位を確立、その後、モダニズムの影響を受け、「村のストア派」(昭和三(一九二八)年)・「ゼーロン」(昭和六年) ・「鬼涙村(きなだむら)」(昭和九年) などでは、ギリシア・ローマ神話や中世騎士物語などを下敷きにして、日本では稀な幻想小説を生み出した、しかし「淡雪」・「裸虫抄」(孰れも昭和十年)に至って、再び初期の陰鬱な作風に戻り、小田原町新玉町の実家の納戸で自ら縊死を遂げた。享年三十九歳。

「天ぐどう食客記」「天狗洞食客記」。昭和八(千九百三十三)年作。「青空文庫」のこちらで読める(新字旧仮名)。]

 

十一月一日

 十二時超床。手紙を三本書き、外出。「紫苑」。

 

 白い道を步いてゐた。

 一人の子供が、めうに、眞面目なかほをして、一匹の犬をみつめてゐた。ほほをふくらませて。犬が近づくと、いきなり、ロから、多量の水をはき出して、犬にかけた。犬はおどろいて逃げさつた。子供は滿足げにつぶやいた。

「ああ、犬に水かけてやつた!」

 殘虐におもむく瞬間の表情の美しさ! 私は戰慄しながら、さう思つてゐた。

 

 「紫苑」にて、壇一雄と會ふ。眼鏡をかけた、面長の男である。麥酒(ビール)をのんでゐた。私は、ジヤム付トーストを食べた。外に出たら風がつめたかつた。

 

十一月二日

  舖道(ほだう)にも燈(ひ)はともりたり秋の雨よ

   人繁き巷(ちまた)にぎんぎんと降れ

 

 シネマパレスで「自由を我等に」「或る夜の出來事」をみる。どちらも古い感激を靴の修繕みたいに再生した。

[やぶちゃん注:「自由を我等に」私の好きな作品。ルネ・クレール監督の一九三一年のフランス映画(À nous la liberté )。大量生産の時代に生きる窮屈さを皮肉っている作品。映画音楽の大家として知られるジョルジュ・オーリック(Georges Auric 一八九九年~一九八三年)が音楽を担当している。翌年(日本ではこの昭和七(一九三二)年初公開)の「ヴェネツィア国際映画祭作品賞」を受賞し、本邦でも「キネマ旬報外国映画ベストテン」の第一位に挙げられた。

「或る夜の出來事」(It Happened One Night )は一九三四年製作(日本公開も同年)のアメリカのラヴロマンス・コメディ映画。監督はフランク・キャプラ(Frank Russell Capra 一八九七年~一九九一年)。主役はクラーク・ゲーブル(Clark Gable 一九〇一年~一九六〇年)とクローデット・コルベール(Claudette Colbert 一九〇三年~一九九六年)。同年のアカデミー賞の作品賞・監督賞・主演男優賞・主演女優賞・脚本賞と主要五部門を総舐めにしたオスカーの特異点の作品である。]

 

十一月八日

 明日より、小說に取りかかることを誓ふ。

 

十一月九日

 松本と東宝に行く。茫々夢の如し。

 習俗とか、觀念とか、あらゆるものが、頭の中で轟然(ごうぜん)と音立ててなだれ落ちた。もう言葉はない。

 人の世の幸福だけが私と對立してゐるやうに思はれた。こいつだな。こいつだな。と絕えずつぶやいてゐた。私をいままでおびやかしてゐたのは、この氣持なんだな。爆彈投下。虛妄と死と。生きることの苦しさ。どこかで、頭の中のどこかで、巨大な水車が水を切つて、ごつとん、ごつとん、と𢌞つてゐた。

[やぶちゃん注:「東宝」の「宝」は正式会社名では正字「寶」だが、系列映画館の看板や同社の発行する映画雑誌の画像を複数見たところ、総て「宝」であるので、正字化をやめた。ここは旧日比谷映画劇場のことか。]

 

十一月二十八日

 日本文學を滅亡させるものは、「文學界」の連中である。橫光利一を默殺する彼等は、次代の若き作家らに默殺されるであらう。そして、その次代の作家らの特微は、マルキシズムの洗禮をうけなかつたことである。

 文學的精神が、如何に良質のものであらうとも、縛られたものは縛られた範圍に於て良質となるだけだ。總てに於て良質となるのではない。私達の精神は、藝術的であるべきではあるが、文學的であるべきではない。

 その意味において、私は先づ今までの文學を否定し、古典に歸るべきである。何故、今の文學が(所謂(いはゆる))文學的であるのか、私は、その責をマルキシズムに歸したい。偉大なる不具、橫光を默殺し得た「文學界」の連中が、わづかに身を以て逃れようとした「文學界」の六號雜記の卑俗的方向は、もはや、人の笑ひ草になるであらう。民衆が、それらを手を打つて歡迎した瞬間が、おそらく日本文學の滅亡であるにちがひない。物を知らなすぎると言つて、當代の文士ほど、ものしらずはいないであらう。見れば、ひとかどのさむらひたちのやうであるが、生れ落ちて今まで、一體何事をしてゐたのか?

 

 恐るべきは意識の卑俗であり警(いや)しむべきは精神の偏狹である。前者に傾けば市井の車夫ともえらぶ所なく、後者に陷らば文學靑年と嘲けられよう。

 

 理性は科學であり、感性は詩である故、感性は常に理性に先行すべきであるが、理性の橫暴が、ときとして、感性をとらへてはなさないことがある。謂(い)はば觸角を奪はれたかたつむりのやうなものであるが、人間の不幸、これに勝るものはない。島袋正次の悲劇もじつにここに淵源するものであらう。私の興味をそそるのは、壓迫に堪へかねた感性が弱々しく觸角をのばした方向が、實に浪漫であつたといふことである。

 これを私は、フロイド的な原因であると思ふのであるが、その相剋が、おそらく、彼の今度の題目であらう。柿は落ちないのが當然だ。柿をつつき落す鳥のことを考へるのは噴飯である。

 

 ××××[やぶちゃん注:底本に人名とあり、編者による伏字であることが判る。]の精神が、どうして、あのやうな偉大なる常識と合流するに到つたか、私は思ひをここに致さねばならんと思ふのだ。理性の脆弱性であるか、それとも、虛無への盲目性であらうか。

 

 航海において、羅針盤があり、羅針盤には度盛りがあり、また修正器もある。さうした分化した機能があつまつて一つの船を正しい方向に動かすのを考へたとき、私は人生に對して悲しい疲れを感じる。人間に對して美しい諦めを感じる。何故さう分化されたのか。

 もうそれは人間の業でない。背後に立つ神々の殘忍な微笑を、私は、精一杯な努力で、憎惡するのみだ。

 

 ちかごろ、人間でなくてはならんことをしみじみ感じる。ふしあはせな事には、私の「新風流」精神は他人の理解する所でない。俗惡なフオルマリズムをして此の精神を嘲笑せしめたのが、私の「過去」であつたと言ふことは、私がもつとも恥ぢなければならないことである。此の羞恥感を私は利用しなくてはならぬ。

[やぶちゃん注:「文學界」当該ウィキによれば、『文藝春秋が発行する月刊誌で、文學界新人賞を主催する。文藝春秋の純文学部門を担う位置付けとされており、同社の『オール讀物』が大衆小説部門を担っているのと対をなす。この『文學界』と、『新潮』(新潮社発行)、『群像』(講談社発行)、『すばる』(集英社発行)、『文藝』(河出書房新社発行、季刊誌)は「五大文芸誌」と呼ばれ、これらに掲載された短編・中編が芥川賞の候補になることが多い』。『当初』は昭和八(一九三三)年十月に『文化公論社より創刊される。当初』の『編輯同人は、豐島與志雄、宇野浩二、廣津和郎、川端康成、林房雄、武田麟太郎、小林秀雄の』八『名』であったが、『のちには、深田久弥らが編輯同人に加わった。同社では』翌年二月の第二巻二号まで刊行した。『この文芸誌の主な出版方針は、芸術至上主義であった。この年に六月に『文圃堂書店から復活』第一巻一号が刊行され、昭和十一年三月まで』続き、同年四月から同年六月までは『文學界社が刊行』したものの、『ここで経営不振により、小林が菊池寛に相談』し、『菊池の決定』により、『文藝春秋旧社が雑誌に庇を貸すことに決まり』、同年七月]『から文藝春秋社により刊行された。この時点では同人が編輯権を持ち、月』一『回編輯会議を開き』、三『ケ月交代で編輯当番を置いた。やがて』、昭和十二年三月からは『小林と河上徹太郎が常任編輯者となった』。『しかし』昭和十三年に、石川淳の「マルスの歌」を掲載したところ』、『反戦意識を高めるという理由で発禁にされ、作者と該当号の編輯主任河上徹太郎も罰金を払うことになった。このとき、菊池寛が罰金を肩代わりした』ことから、『その後』、本『雑誌は発行全体を文藝春秋が担うようになった』。昭和十五年四月には』、『小林が編輯委員を辞任』、昭和十七年九月号・十月号に『「近代の超克」座談会記事を掲載』、翌年八月には、遂に『経営編輯上の一切の責任が同人の手を離れ』、『文藝春秋社に委ねられ』た。しかし、昭和十九年四月、『雑誌統合を命じられ、廃刊』となった。戦後の昭和二二(一九四七)年六月』、『文學界社から再刊』、これは翌年十二月まで継続したが、昭和二四(一九四九)年三月より、再び『文藝春秋新社の刊行』、後、『現在に至るまで「文藝春秋」が発行している』とある。

「橫光利一」(明治三一(一八九八)年~昭和二二(一九四七)年)は福島県北会津郡東山温泉生まれだが、三重県東柘植村や伊賀の上野及び近江大津などで少年時代を過ごした。大正五(一九一六)年、早稲田大学高等予科文科に入ったが、学校には通わず、習作に努め、中退、菊池寛を知り、大正一二(一九二三)年創刊の『文芸春秋』の編集同人となり、同年発表の「日輪」「蠅」で新進作家としてデビュー、翌年の『文藝時代』創刊号の「頭ならびに腹」で〈新感覚派〉の呼称が与えられた。小説以外に評論・戯曲も執筆、私小説・プロレタリア文学に対抗し、昭和三(一九二八)から昭和六年にかけて「上海」を発表。昭和五年の「機械」から〈新心理主義〉の作品「寝園」「紋章」などを発表した。昭和一一(一九三六)年に渡仏し、帰国後、大作「旅愁」を書き始めたが、未完のまま病没(死因は胃潰瘍が腹膜腔に穿孔して急性腹膜炎を併発したものとされる)。因みに、彼は昭和一一(一九三六)年の第三回『文學界』賞を受賞している。因みに、彼は芥川龍之介から強い影響を受けていた。

「六號雜記」各種雑誌などで、六号活字で組まれた短いコラム記事。雑報や埋め草などが多かった。

「島袋正次」梅崎春生の親友で小説家の霜多正次(しもたせいじ 大正二(一九一三)年~平成一五(二〇〇三)年:梅崎春生より二歳年上)の旧姓。ウィキの「霜多正次」によれば、元日本共産党員。『沖縄県国頭郡今帰仁村に生まれた。沖縄県立第一中学校から旧制五高に進学。同級の梅崎春生と親交を結び、文学の道をめざす。東京帝国大学英文科卒業後』、昭和一五(一九四〇)年に『応召し、各地を転戦したあとブーゲンビル島に配属される。日本の敗色が濃厚となった』昭和二〇(一九四五)年五月、『オーストラリア軍に投降し、捕虜となる』。『復員後、故郷には戻らず、東京で文学をめざし、新日本文学会の事務局に勤務しながら』、『小説を書』き、昭和二五(一九五〇)年に雑誌『新日本文学』に『「木山一等兵と宣教師」を発表、作家として認められるようにな』った。『このころから、西野辰吉・窪田精・金達寿たちと交流を深めてい』き、昭和二八(一九五三)年、『初めて沖縄本島に帰郷し、米軍占領の実態を見聞し、沖縄本島を直接の題材にした作品を発表し始める』。昭和三一(一九五六)年に『新日本文学』に連載を開始した長編「沖縄島」で『毎日出版文化賞を受賞』、翌年には、『西野・窪田・金たちとリアリズム研究会を結成し、「現実変革の立場にたつリアリズム」を追求した。また、新日本文学会のなかでも幹事を歴任していたが、当時の会をリードしていた武井昭夫たちの文学方法との対立が激しくなり』、昭和三九(一九六四)年の第十一回大会に於いて、『幹事会の報告草案が部分的核実験禁止条約の支持を一方的に表明したり、アヴァンギャルドとリアリズムの統一という特定の創作方法を押しつけるようなものになろうとしたことに反対を表明し、同じく幹事であった江口渙と西野辰吉と共同して、相違点を保留して全体が合意できる一致点にしぼった対案を大会の場で提案しようとした。しかし、大会では対案の提出は認められず、大会の秩序を乱したという理由で、その後新日本文学会を除籍された。これは、新日本文学会と日本共産党との核兵器対策での路線対立も関係しており、日本共産党の意見に沿った霜多等は排除された』。昭和四〇(一九六五)年の『日本民主主義文学同盟創立の際には副議長に選出され、新日本文学会に代わる民主主義文学運動の団体として、運動の発展に貢献した』。昭和四六(一九七一)年には、一九六〇年代の『沖縄の現実を描いた長編』「明けもどろ」で日本共産党が設けていた『多喜二・百合子賞を受賞した。この時期を中心にして、多くの長編小説を書き、沖縄県や日本の現実の矛盾を深く追及する作品を書いた』。昭和五〇(一九七五)年には文学同盟議長に就任(昭和五八(一九八三)年まで)、それを『退任したあとは、主として同人誌『葦牙』に拠って活動し』、昭和六二(一九八七)年には『文学同盟も退会した。その後、日本共産党を除籍され、当時の自らの文学活動を省みる回想記』「ちゅらかさ」を発表している。

「フロイド的な原因」超自我による意識の検閲・抑圧のことか。

「××××」この人物、誰か知りたい。

「フオルマリズム」formalizm。元は一九一〇年代から二〇年代末にかけて、ロシアの文学研究者や言語研究者によって推進された文学・芸術運動。文学作品の自律性を強調し、言語表現の方法と構造の面からの作品解明を目指した。構造主義や文化記号論の先駆と目される。「ロシア・フォルマリズム」とも呼ぶが、ここは広義の「内容よりも形式を重んじる形式主義」を指していよう。]

 

十二月一日

 小說八枚を書く。目鼻がつく。よみかへすと、どこか、すみわたらないものがある。具象性がないのだ。もともと、架空の物語ゆゑ、仕方もない話である。七八枚にいたり、やつとスタイルをとりもどす。

 

十二月十五日

 憂鬱な日なりし。

 

十二月二十八日

 劫初より末世に吹きとほるかぜのなかに、此のやうな憂鬱にひかるこの不幸。

 

 ひる、本鄕座で、「モンパルナスの夜」を見る。不吉の豫感あり。

 世界の終り、近づきたりし。悔い改めよ!

[やぶちゃん注:「本鄕座」現在の東京都文京区本郷三丁目にあった、元は明治初期から戦前まであった舞台劇場であったが、昭和五(一九三〇)年から松竹の映画館となり、第二次世界大戦の東京大空襲で焼失した。

「モンパルナスの夜」フランスの映画監督の名匠(脚本家・俳優でもあった)ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier 一八九六年~一九六七年)の一九三三年の映画‘La tête d'un homme ’(「男の首」:ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon 一九〇三年~一九八九年:ベルギー出身のフランス語で書いた小説家・推理作家)のメグレ警部物の推理小説(一九三〇年)が原作)の邦訳題。]

 

十二月二十九日

 原と本鄕座で「會議は踊る」を見る。

[やぶちゃん注:「會議は踊る」(Der Kongreß tanzt )は、ドイツ映画で、ナポレオン・ボナパルト失脚後のヨーロッパを議した一八一四年のウィーン会議を時代背景にした一九三一年製作のオペレッタ映画。本邦ではこの昭和十九年に公開された。監督はエリック・シャレル(Erik Charell:Erich Karl Löwenberg:一八九四年~一九七四年)。音楽(ウェルナー・リヒャルト・ハイマン(Werner Richard Heymann 一八九六 年~一九六一年)がよく知られる。私は好きな作品である。]

 

 ワーテルロー。

 お正月が早く來るか、お金が早く着くか。

[やぶちゃん注:「ワーテルロー」不詳。映画かと思ったが、この時期の製作には見当たらない。「お正月が早く來るか、お金が早く着くか」というジリ貧の極限を迎えたことを、ナポレオン最後の戦いにして彼の運命を決した宿命的な「ワーテルローの戦い」にカリカチャライズしたものか。]

2021/07/05

伽婢子卷之七 飛加藤

 

Tobikatou

 

[やぶちゃん注:挿絵は底本の昭和二(一九二七)年刊の日本名著全集刊行會編第一期「江戶文藝之部」第十巻「怪談名作集」をトリミング清拭して使用した。飛加藤が直江山城守邸に侵入し、衆目監視の中、まんまと長刀(なぎなた)と直江の妻に仕える女(め)の童(わらわ)を奪って逃げるシークエンスである。門口で、哀れ、名犬「村雨」が息絶えている。門に設けられた屋根の内側の軒の反りが全く見えず、少し描き忘れているように感じられはする。この時の直江家の家紋として「三葉柏紋」が左の幕に見える。実際の三葉柏そのまんまでちょっと奇異。この直江は後に養子となる知られた直江兼続の義父であるが、その家紋はもっと紋様化がされたもののようである。サイト「戦国ヒストリー」のこちらを参照されたい。]

 

   ○飛加藤(とびかとう)

 越後の國長尾謙信(ながをのけんしん)は、春日山の城にありて、武威を遠近〔をちこち〕に輝かし給ひける所に、常陸國秋津郡(あきつのこほり)より、名譽の竊盜(しのび)の者、來れり。しかも術(じゆつ)、「品玉(しなだま)」に妙を得て、人の目を驚かす。

 或る時、さまざまの幻術を致しける中に、ひとつの牛を、場中(ばなか)に曳き出〔いだ〕し、かの術師、是れを呑み侍べり。

 一座の見物、きもをけし、

「奇特の事。」

に、いひけるを、其の場の、かたはらなる松の木に登りて見たる者ありて、

「只今、牛を吞みたりと見えしは、牛の背中に乘り侍べり。」

と、よばゝるに、術師、腹をたて、其場にて夕顏(ゆふがほ)を作る。

 二葉より、漸々(ぜんぜん)に、蔓(つる)、はびこり、扇にてあふぎければ、花、咲き出つゝ、忽ちに、實(み)、なりけり。

 諸人、かさなり集まり、足をつまだてゝ見るうちに、かの夕顏、二尺許りになりけるを、術師、小刀を以つて、夕顏の帶(ほぞ)を切りければ、松の木に登りて見たる者の首、切り落とされて、死〔しに〕けり。

 諸人、奇特(きどく)の中〔うち〕に、怪みをなし、眉を顰(ひそ)めたり。

 謙信、聞き給ひ、御前に召して、子細をたづねられしに、

「幻術の事は、底をきはめて、得たり。手に、一尺餘りの刀を持ちては、いかなる堀・塀をも飛び越し、城中にしのび入〔いる〕に、人、更に知らず。此の故に『飛加藤』と、名を呼び侍べり。」

といふ。

「さらば、試しに、奇特をあらはし見せよ。」

と、の給ふ。

「今夜、直江(なをえ)山城守が家に行〔ゆき〕て、帳臺(ちやうだい)に立〔たて〕置きたる長刀〔なぎなた〕、取りて來れ。」

とて、山城守が家の四方に、隙間もなく、番をおき、蠟燭を間ごとに、ともし、番の者、男女〔なんによ〕ともに、おく・はし、皆、まだゝきもせずして居(ゐ)たりけるに、内には「村雨(むらさめ)」とて、逸物(いちもつ)の名犬あり。怪しき者を見ては、頻りに吠え怒り、然も、賢(かしこ)き狗(いぬ)にて、夜(よる)は少しも寢(ね)ず、屋敷のめぐりを、打ちまはり、打ちまはり、猪(ゐ)のしゝといへ共〔ども〕、物のかずとも思はぬ程の犬也。

 これを、放ちて、門中の番に添へたり。

 飛加藤、已に夜半ばかりに、かしこに赴き、燒飯(やきいひ)、一つ、二つ、持ちて行〔ゆく〕かと見えし。

 犬、俄かに、斃(たふ)れ、死す。

 かくて、壁をのり、垣を越えて、入〔いり〕けるに、番の者、半(なかば)、ねふりて、知らず。

 曉(あかつき)がたに、立〔たち〕歸る。

 帳臺に有りし長刀、並ひに、直江が妻の召し使ふ女(め)の童(わらは)の、十一になりけるを、うしろに、かき負ひて、本城に歸り來〔きた〕るに、女の童、深くねふりて、これを覺えず。

 番の輩(ともから)、ねふるとはなしに、少しも、知らず。

 謙信、これを見給ひ、

「敵を亡(ほろぼ)すには、重寶(ちようほう)の者ながら、もし、敵に内通せば、ゆゝしき大事也。この者には、心許して召し抱へ置く者に、あらず。たゞ、『狼(おほかみ)を飼(か)ふて、わざはひを、たくはふる』といふものなり。いそぎ、うちころせ。」

と、のたまふ。

 直江(なをえ)、すなはち、わがもとによびて、めしとりて、ころさんと、はかりけるを、加藤、これを、さとりて、出〔いで〕て、いなんとするに、諸人、これを、まぼり居たれば、かなはず。

 加藤いふやう、

「なぐさみのため、面白き事して、見せたてまつらん。」

とて、錫子(すゞ)一對(つい)をとりよせ、前に、をきければ、錫子の口より、三寸ばかりの人形、廿ばかり、出〔いで〕てならびつゝ、おもしろくをどりけるを、座にありける人々、目をすまし、見けるほどに、いつのまにやらむ、加藤、行〔ゆき〕がた、しらず、うせにけり。

 後に聞えしは、甲府の武田信玄の家にゆきて、跡部大炊助(あとべおほいの〔すけ〕)につきて、奉公を望みしに、「古今集」をぬすみたる竊盜(しのび)に手ごりして、ひそかに、うちころされし、といへり。

[やぶちゃん注:「飛加藤」「新日本古典文学大系」版脚注に、『「飛」は空中に跳躍する徑瓶な人物の意。甲陽軍鑑末書結要本』(まっしょけつようぼん)『九ノ十三・まいす者嫌ふ三ケ条に武田信玄への仕官を望んだ忍びの者として登場する』とある。「朝日日本歴史人物事典」には「加藤段蔵」の名で載り、『生没年不詳。戦国時代の忍者。常陸国(茨城県)秋津郡または甲賀か伊賀の生まれという。一匹狼の忍びの者で』、『跳躍の達人だったことから』、『「飛び加藤」と呼ばれた。越後国春日山城下で呑牛術や生花術などの幻術を演じて噂を広め』、『上杉謙信に謁見する機会を得た。謙信から試しに重臣の直江実綱邸にある秘蔵の薙刀を盗むことを命じられると』、『それを果たして』、『仕官を望んだとされる。しかし逆に忍技の見事さを危険視され』、『刺客を向けられたことから』、『甲斐国に逃れ』、『跡部大炊守勝資を頼って武田信玄に引見された。信玄はその忍技を恐れたのか』、『密偵と疑ったのか』、『召し抱えるとして』、『段蔵を油断させたのち』、『剣の達人土屋平八郎に命じて暗殺させたという』と載る。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書写本のここの三行目に、『㐧意一 武田信玄』の条に、『とび加藤』として出、抱えた『隱蜜』とあり、確かに『成敗』されたように書かれてあり、最後にこの事件を『永祿元年午ノ年也』とある。永禄元年戊午(つちのえうま)は一五五八年である。この年の一月、武田信玄は信濃守護となっている。

「春日山の城」現在の新潟県上越市にあった長尾氏の居城春日山城(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。主に越後守護代長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。

「常陸國秋津郡(あきつのこほり)」この名の郡は常陸国には存在しない(「新日本古典文学大系」版脚注でも『所在不明』とする)。ただ、茨城県行方(なめがた)郡に秋津村は存在した。現在の鉾田市の旧鉾田町の西部に位置する。この附近か。

「品玉(しなだま)」小学館「日本大百科全書」によれば、『曲芸の一種で、いろいろの品物をいくつも投げ上げては受け取るもの。弄玉(ろうぎょく)ともいう』「信西古楽図(しんぜいこがくず)」(平安時代の舞楽・雑楽・散楽などの様子が描かれた巻物。作者不明。平安初期の成立か)にも『みえる散楽雑伎(さんがくざつぎ)の一種』で、石や茶碗、『小さいものでは豆の類まで、多くの品物を投げ上げて手玉にとるもの。本来は』一『人で行うものであったが、のちには』二『人あるいはそれ以上でも演ずるようになり、刀をやりとりするのは「刀玉(かたなだま)」とも称された』。猿楽・田楽を経て、『江戸期には大道芸から見せ物に入り、太神楽(だいかぐら)の演芸に含まれて今日寄席』『芸としてみることができる。子供のお手玉遊びもここから発している』とある。

「ひとつの牛を、場中(ばなか)に曳き出〔いだ〕し、かの術師、是れを呑み侍べり」先に示した早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本の、『とび加藤』の次ぎに、『㐧二 長尾謙信』の条に、『牛を吞術を仕來て』とあり、本篇の内容と同じ形で、木の上から見た者が、牛を呑んだのではなく、牛に載っているだけだ、と見破ったのを、遺恨に思い、『其塲にて則夕㒵を作り扇にてあふき花をさかせ實をならせ』、かの見破った者の『くびを切』とあり、謙信はこの者を『隱蜜にて成敗也永祿二年末ノ年之事也』とある。

「帶(ほぞ)」「蔕(へた)」のこと。

「直江(なをえ)山城守」直江景綱(永正六(一五〇九)年?~天正五(一五七七)年)は越後国の守護代で戦国大名の長尾氏(上杉氏)の家臣。山東郡(三島郡)与板城城主。長尾為景・晴景・景虎(後の上杉謙信)の三代に亙って仕えた宿老で、奉行職を務め、主に内政・外交面で活躍した。また「七手組大将」の一人として軍事面で活躍することもあった。直江親綱の子として生まれた。直江氏は、元は越後守護上杉氏の家臣飯沼氏の被官であったが、永正一一(一五一四)年、守護代長尾為景によって飯沼氏が滅ぼされると、その居城本与板城(もとよいたじょう:後に与板城)の城主となっていた。天文八(一五三九)年からの守護上杉定実の養子問題を巡る「天文の乱」では、中条藤資(なかじょうふじすけ)や平子氏らとともに、入嗣推進派を形成した。養子問題に関しては、直江氏と長尾氏の立場は相反し、直江氏は長尾氏とは一線を画していたものと思われる。天文一一(一五四二)年には、伊達家へ時宗丸(伊達実元)の迎えの使者にあたっている。天文一二(一五四三)年、長尾景虎は病弱な兄晴景の名代として栃尾城(現在の長岡市・旧栃尾市域)に入った。天文十五年、景虎は兄晴景に反抗していた黒田氏一族を黒滝城(弥彦村)に攻めた。この事件を契機として、病弱の晴景に代わり、景虎を守護代に擁立しようとする動きが出てきた。この動きを進めた一人が、与板の直江景綱であった。景綱と景虎との関係は、景虎が栃尾周辺で活躍していた頃に築かれたものと思われる。天文十六年に長尾氏家中で兄晴景と弟景虎との間に抗争が起こった際には、藤資や本庄実乃(ほんじょうさねより)らとともに景虎を支援した。弘治二(一五五六)年、景虎の出家騒動中に、藤資らが、守護譜代の大熊朝秀を追放したのを機に、実乃らとともに奉行職として政務の多くを任されるようになる。永禄二(一五五九)年の景虎二度目の上洛の際には、神余親綱(かなまりちかつな)とともに朝廷及び幕府との折衝にあたり、翌三年、前関白の近衛前久(さきひさ:但し当時は前嗣(さきつぐ))が越後に来訪した際には、その饗応役を務めた。また、同年からの相模国の北条氏康討伐のために景虎が関東に出陣している間、春日山城の留守居を吉江景資と共に任されている。永禄四年の「川中島の戦い」(第四次合戦)では、小荷駄奉行として出陣し、武田義信の軍を敗走させるなどの功を立てたという。永禄五年、大和守に任官し、「政綱」と改名し、永禄七年には、謙信の嘗ての諱(いみな)である「景虎」から、一字を拝領し、「景綱」と名乗ることになった。天正三(一五七五)年の「上杉家軍役帳」によると、三百五名の軍役を課せられていたとあり、旗本衆の中でも、とりわけ、重きを成していたことがわかる。以後も、天正四年からの能登遠征に従い、石動山城を守るなど、謙信に従って各地に従軍したが、翌年、病没した。景綱には男子がなく、婿養子となっていた直江信綱(長尾氏出身)が後を継いだが、後に信綱が毛利秀広に殺害されると、大身の直江家を押さえようとした上杉景勝の命で、景勝側近の樋口兼続(直江兼続)が信綱未亡人を娶り、直江家を相続した(以上は当該ウィキに拠った)。

「帳臺(ちやうだい)」屋敷の主人が居間や寝間に当てる室。

「おく・はし」「奥・端」。場所ではなく、以下に続く形で屋敷の奥向きに当たる者や、端(はした)の下役の者の意。

「まだゝき」瞬(まばた)き。

「内」「うち」で屋敷内。屋敷の屋形の外周内。

「門中」前注の意で「かどうち」と読んでいよう。

「燒飯(やきいひ)」握り飯を火に炙って焦げ目をつけたもの。

「犬、俄かに、斃(たふ)れ、死す」「燒飯」に毒を仕込んだか。図の死んだ村雨の遺骸を見てみると、口を開いて、舌を垂らしているから、それが強く疑わられるように思う。

「女の童、深くねふりて、これを覺えず」暗示的な催眠術を用いたのであろう。

「番の輩(ともから)、ねふるとはなしに、少しも、知らず」直江の家内の警備の兵らも眠ったつもりは全くなかったのに、少しもそれに気付かなかった。実際には幻術で起きながらにして検討識を失わされていたということか。

「狼(おほかみ)を飼(か)ふて、わざはひを、たくはふる』知られた諺では、「虎を養ひて患(うれ)ひを遺す」であろう。「史記」の「項羽本紀」の一節。紀元前二〇三年、項羽と劉邦は四年に亙る闘争を続けてきたが、結着がつかず、和議を結ぶこととなった。その直後、劉邦の近臣張良や陳平は、疲弊しきって引き揚げてゆく項羽の軍勢を、後ろから不意打ちにすることを提言する。こちらもいい加減疲れ切って西へ帰ると決めていた劉邦は躊躇ったが、二人は、「今釋弗擊、此所謂養虎自遺患也。」(「今、釋(す)てて擊(う)たずんば、此れ、所謂(いわゆる)、『虎を養ひて患(うれ)ひを遺(のこ)す』なり。」)と応じた。取り除いておくべきものを取り除かないと、後日、災いを引き起こすということの喩えである。

「まぼり居たれば、かなはず」直江の屋敷に呼ばれて、仕官を匂わされたものの、加藤は、それを逸早く罠と察して、屋敷を逃げ出そうと考えたが、見れば、大勢の家子(いえのこ)連中が、そこここにいて守りを固めていたため、それが叶わなかったのである。

「なぐさみ」ちょっとした気晴らし。

「錫子(すゞ)」錫製の銚子・徳利。

「目を、見けるほどに」奇体なことなので、思わず、そちらを見つめてしまったところが。「跡部大炊助(あとべおほいの〔すけ〕)」武田信玄の侍大将で信濃出身の跡部勝資(あとべかつすけ ?~天正一〇(一五八二)年:大炊助・尾張守(受領名))。信玄の死後はその子勝頼に仕えた。武田氏滅亡の時、諏訪で討死にした。

『「古今集」をぬすみたる竊盜(しのび)』後の巻之十の「竊(しのび)の術」の一節に、

   *

……今川家重寶と致されし定家卿の「古今和歌集」を、信玄、無理に假(かり)どりにして返されず、祕藏して寢所(しんじよ)の床に置かれけるを、ある時、夜のまに失なはれたり。

 寢所に行くものは、譜代忠節の家人の子供、五、六人、其外は女房達、多年召し使はるゝものゝ外は、顏をさし入て覗く人もなきに、たゞ此「古今集」に限りて失(うせ)たるこそ、怪しけれ。又、その他には、名作の刀・脇指・金銀等は、一つも、うせず。

 信玄、大に驚き、申信兩國を探し、近國に人を遣し、ひそかに聞もとめさせらる。

「此所、他人、更に來るべからず。いかさま、近習(きんじう)の中に盜みたるらん。」

とて、大に怒り給ふ。

「『古今』の事は、わづかに惜むにたらず。ただ、以後までも、かゝるものゝ忍び入を、怠りて知らざりけるは、無用心の故也。」

と、をどり上りて、はげしく穿鑿に及びければ、近習も、外樣も、手を握りて、怖れあへり。[やぶちゃん注:まだ続くが、ここで先まで出しては、面白くなくなるので下略する。]

    *

とあるのに対して、「新日本古典文学大系」版で脚注を附し、『「今川家の秘蔵に仕る定家の伊勢物語を酒に酔たるふりをなされ、信玄御取候とて」(甲陽軍鑑十一上。氏真降参船にて小田原へ退事)』とある。私なら、定家筆写の「古今和歌集」よりは、定家筆写の「伊勢物語」の方がいいがな。

「手ごり」「手懲り」。すっかり懲りてしまうこと。]

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)4 昭和一〇(一九三五)年(全)

 

   昭和一〇(一九三五)年

 

十二月十六日

 高木淸子は結婚し、德永靜香は、思ふだけでも蟲酸(むしず)が走るし、まつのやのマリ子は一介の賣春婦であるし、立川は乳臭い、生意氣な不良少女だし、「オリンピツク」のマダムはもう人のもの、雨森幸子さんは數十里はなれたところで今日もハンガリア・ラプソデイを彈じて居ようし、その他、數多のおんなの子たちは緣なき衆生(しゆじやう)とかたづけて、俺は此處に一個の現實的浪漫主義者だ。純情の港へ、再び出帆する日も近いだらう。今の中さ。あらゆる女をけがし、辱しめ、かくし所を白日の下にさらけだし、羞恥に身悶へする彼女たちを自然科學者の如く冷やかな目でみてやるのさ。

[やぶちゃん注:「ハンガリア・ラプソデイ」Hungarian Rhapsodies。フランツ・リストがピアノ独奏のために書いた作品集「ハンガリー狂詩曲」。全十九曲。特に第二番が知られ、ここで春生が想起しているのもそれであろう。]

 

十二月十七日

 明日より試驗。到頭二學期も駄目らしい。

 八十五番程度かなと思う。

[やぶちゃん注:この年で満二十歳。『龍南會雜誌』に詩篇「春」「空虛なる展望」の二篇を発表している。]

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)3 昭和九(一九三四)年(全)

 

   昭和九(一九三四)年

 

一月十日

 下宿を移つて來てから四日目。まだなれない、いらだたしい生活である。暗たんたる將來を見つめながら、私は今、數々の思い出を拾い上げる。美しい夢は破れた。それはそれは冷たい現實だ。唯生きて居るだけの生活だ。頽廢そのものだ。今日はゴタゴタした机をかきわけて、靑柳から借りて來た谷崎の「滴」を讀む。美代子と言ふ女性に對する主人公の感情が、丁度幸子さんに對する私の感情とよく似て居る事を發見する。やるせない惱みにおそはれて勉强が出來ない。足立に、西鄕を來らせるなと言つておく。

[やぶちゃん注:この年、梅崎春生満十九歳。

「西鄕」同級の西郷信綱であろう。]

 

一月二十九日

 創作「明日」に書き記した頽廢の生活は、もう河原の雲影のやうに去つて行かうとする。今日は足立と玉突に出て行く。奧平の家に岡本をもどしに行く。もうこの生活ともお別れだ。明後日からは新しい勉强の生活だ。二月よ。それは勉强の月である。たのしい一日がくれて昏々と眠る時、それは何と樂しい心象であらうか。落第の夢がしきりと見られて、かなしいのです。苦しいのです。

[やぶちゃん注:「明日」昭和九(一九三四)年二月発行『ロベリスク』第一号に発表された。現在知られている小説としては、最も古い作品(習作)。先般、ブログで電子化した。]

 

二月五日

 ああ傷ついた心。此の心臟の割目には常に幸子の白い顏が笑ひかけて居るのだ。多量の思慕が私を眠らせない。此の甘い苦しさの中に私は考へる事をしない。學ぶ事をしない。唯あの夏休みの甘い時間の流れを想ふだけだ。白い想い。白い顏。理智的な媚笑。媚笑。そつとゆれる春のやうな心持だ。

 

 長い長い時間が、そつとそつと幸子の顏を心の中に刺靑してしまつた。もう消さうとしたつて、消す事の出來ない思慕の火だ。手を伸ばせば屆きさうだつたあの女の心が、意外にも遠く感ぜられたあの日だつた。それは遠い遠い存在のやうにも思はれたが、――ああ雙手をあげて私の心は追つかけるのだ。走つても走つても屆かない心地。そつと見つめながら居る想念だ。

 

二月二十二日

 戶島が死んでから十日餘り。せぐり來るような淋しさを私はどうする事も出來ない。あの世をあげて祝酒に醉つた紀元節の日、一人淋しく散つて行く一つの生命を前にして、私は思はず泫然(げんぜん)として泣いた。尾池莊時代、共に苦しみ、共に樂しんだあの僚友が今は冷たい土塊(つちくれ)となつて、土の底で點々としみ落つる露を、音を聞いて居る――おかしな現實、奇妙な現實、悲しい現實、ああそれは生き長らへて居る私にとつて、何と錯雜した人生の象(かたち)であつたか。

[やぶちゃん注:「せぐり來る」底本では「せぐり」にママ注記があるが、不審。「せぐりくる」は「涙や吐き気などが込み上げる・堰きを切って上がってくる」で、多く、「せぐりあげる」「せぐりくる」などと複合語の形で用いる。

「紀元節」明治五(一八七二)年十二月に明治政府によって定められた神武天皇即位日とする祝日。現在の二月十一日の「建国記念の日」。大正一五(一九二六)年から敗戦までは、在郷軍人会・青年団・学校生徒を中心とする建国祭行事が各地で行われるなど、この日は国家主義や軍国主義の宣伝に大きな役割を果たした。「太平洋戦争」に際し、この日が「シンガポールの戦い」(昭和一七(一九四二)年二月八日から二月十五日。この実際の陥落日は奇しくも梅崎春生満二十七の誕生日であった)では、シンガポール陥落の目標日として設定されたことでも知られる。

「泫然」涙がはらはらと零れるさま。さめざめと泣くさま。

「尾池莊」学生下宿であろう。]

 

六月十二日

 (ふと思ひ付いたまま)

「俺はもう止めるよ」

 と彼は牌(パイ)から手を離すと椅子から立ち上つた。桂子は、ああ、もうついに行く所まで行きついてしまつたのだと今更のやうに慄然たる氣持に、背筋が冷たくなるほどの絕望感の中に、顏も上げ得なかつた。水谷が桂子のうつむいたひたいに一寸目を走らせながら、

「そうまでしなくても……」

 と言いかけた時、彼は、

「いや、とにかく俺は止める、止めるんだ」

 と牌をからからと卓子の眞中に投げだすと、こうふんにこめかみをびくびくさせながら荒々しく窓の方に步みよると、ポケツトをさぐつてホープの箱を出して一本取り出さうとした。もう三人は顏を見合はせては居たものの何とも言はなかつた。

[やぶちゃん注:創作の断片と思われる。この年で満十九歳。なお、日記がないが、この前の四月(恐らくは三月以前に通達されたものと思われるが)、梅崎春生は三年生への進級に落第して原級留置となっている(その結果として後の劇作家木下順二と同級になった)。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、『平均点不足』が理由とされており、『伯父からの学資供給が停止するかもしれぬ危惧感に悩んだが』(春生は昭和六(一九三一)年に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業し、福岡高等商業学校(現在の福岡大学の前身)を受験したが、不合格となったが、中学卒業の頃には、『長崎高商か大分高商にでも入って、平凡なサラリーマンになるつもりでいた』らしい。ところが、翌年、『一月、台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父から、学資の面倒を見てやるから高等学校を受験しろ、と言って』きたことから、『そこで、がむしゃらなにわか勉強にとりかか』り、『四月、熊本の第五高等学校文科甲類に入学』したのであった)、『病気だったということにして母が体面をつくろってくれた。作品活動のほうは、前年に引きつづいて』『龍南會雜誌』に「追憶」「創痍」「時雨」の『三篇の詩を発表。また同人誌「ロベリスク」に参加し』、既に掲げた習作「明日」及び「喪失」を『発表しており、そのほかにもエッセイ』「追悼の辭にかへて」(沖積舎版全集に不載で私は未見)と詩「海」を『寄稿している』とある(リンク先は総て既公開の私の正字正仮名版電子化注)。]

 

九月九日

 若子がカルモチンをのみ自殺を企てた事を谷から聞いた。私が愕然としたのは、その事實じやなくて、死と言ふものが如何に手輕に目前に橫たはつて居るかを感じたからである。

[やぶちゃん注:「カルモチン」鎮静催眠作用のある化合物ブロムワレリル尿素(bromovalerylurea)の商品名。本邦では大正四(千九百十五)年に発売された不眠症治療薬の商品名「ブロバリン」にも含まれていた。過去に自殺に盛んに用いられた。現在でも銅化合物を含む睡眠剤は市販(原則一人一包装に制限)されている。]

 

十二月二十三日

 「三Q」にて一坪に喧嘩を賣られ、しろみに遁逃し、便所に行くと、臺所には四本の庖丁が水のやうにとぎすまされて居た。人氣の無いのを幸ひ、私はその一本をとり、指でためし、腰間にさしはさみ、一坪を殺さんと道を戾つたが、事終(つひ)にならず、終に卑屈な一夜であつた。

[やぶちゃん注:底本では「しろみ」にママ注記がある。或いは「しろみ」は一膳飯屋か何かか? 熊本城由来の「城見」か? 冒頭の「三Q」はさすれば、「サンキュー」で、飲み屋の名か。しかし「一坪」が判らない。隠語でも見当たらない。珍しいが、「一坪」という姓は実在する。]

梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版)2 昭和八(一九三三)年(全)

 

   昭和八(一九三三)年

 

[やぶちゃん注:梅崎春生満十八歳(二月十五日)。中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜によれば、五高『二年に進級すると同時に雑誌部委員となり、校友会誌「竜南」』(正式には『龍南會雜誌』)『に詩がのりはじめる。「自分の詩を自分で審査したのだから、お手盛りだ」と梅崎は晩年になってテレていたが、今日読みかえしてみても、青年らしい潔癖な抒情が、無為の日常の底でいらだたしく傷つき喘いでいるさまが繊細ににじみでていて、蹌踉として暗い青春の姿がかなり的確にとらえられており、後年の梅崎の才気の片鱗がうかがえる佳作である。この年に発表した詩には「死床」「カラタチ」』『「嵐」』『がある』とある(三篇の書誌情報が書かれてあるが、以下の私の電子化でそれぞれ同情報を明記してあるので略した)。前年の電子化注で既に述べた通り私は熊本大学附属図書館の「龍南会雑誌目次」からリンクされた「熊本大学リポジトリ」にある原雑誌画像から、梅崎が同誌に発表した詩篇を総て(全部が初出復元版である)、ブログで電子化注し終わっている。その一括版である『藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書版)』も「心朽窩旧館」でダウン・ロード出来るようにしてある。以下、中井氏の挙げた詩篇を以下にリンクしておく。「死床」「カラタチ」「嵐」である。]

 

二月七日

 去年の十一月八日は私にとつて一生忘るる能はざるの日であつた。私はその頃待望した嵐のやうな幸福の眞只中にまきこまれて、かへつてその絕大の幸福を悟り得ず、惱みに惱みぬいたやうに覺えて居る。私は人道的立場からとかからそれを見て、その事件の道德性を疑い――ああ私も平凡な人道主義者であつた――あのように惱んだのだ。しかし、今にして思えば、その惱みは何と言ふ幸福に滿ち充ちた惱みであつたらう。私達は人道的立場などを考へずに、唯感情のおもむくままを享樂すればよかつたんだ。いくら樂しんでも樂しみ切れない尊い三箇月ではなかつたか。私は今、ここに雙曲線をなして別れ去つた魂のかけらを胸にいだいて、暗黑の前途に慟哭する。私は、もうすべてを諦めよう、すべてを捨てよう。私の行くべき道には、暗黑なニヒルの世界が冷たくひろがつて居る。冬休みにあのやうに高調した熱情を、おお私は今どうしたらいいのだろらう。

[やぶちゃん注:「去年の十一月八日」既に電子化した通り、前年の「十一月七日」と「十一月九日」の日記はあるが、この「十一月八日」のそれはない。その前後の日記はかなり意味深長ではあるが、具体的な出来事を推理出来るだけのものはない。そこにこの日記を投げ込んでみても、やはりそれは何も返ってはこない。ただ、後の一周年の同月同日の日記をみても、何らかの女性との濃厚な関係を強く感じさせるものではある。]

 

二月七日[やぶちゃん注:ママ。]

試驗が終つてから新しい生活方針を立てやうと思ふ。

一、外出をしない事。外出する時は自分一人で行く

  か、又は自分のすきな者と二人で、三人以上は

  もういけない。

二、書物を讀む事。卽ち文藝に力をそそぐ事。

三、每日每日、少しづつの遊ぶ時間をのぞいてしま

  ふこと。

四、勉强すること。

五、食後は一人の散步により瞑想にふけること。

試みに一日の時間割を作つてみる。

 七時半 起床

 三時―三時半 風呂

 三時半―四時 掃除、手紙、其他

 四時―五時 豫習

 六時半―八時 豫習復習

 八時―十時 試驗勉强

 十時―十一時 讀書

 

 背かれた者は再び劍を磨(と)ぎ始めた。

 私は十一月八日以前の私にたちかへらう。

 もつと深刻な憂鬱な男にならう。

 もつと口數の少ない無表情の男にならう。

 ニヒリストにならう。

[やぶちゃん注:太字「憂鬱」は底本では傍点「◦」である。箇条書き部分は二行目になると一字下げとなっているので、ブログで字を大きく表示した際の不具合を考慮して、一行字数を勘案してある。他の字配は底本通りである。]

 

三月一日

 憂鬱のみが人生であらうか。悲觀的な言葉のみを日記帳に連ねて、悲哀の快感にふけらうとする私は、今までの態度に今しみじみと誤りを認識して居る。「淋しさ」「諦め」が人生の總てではないのだ。

 

六月四日

 後藤農相の話を聞く。私も何時かはあの樣なおじいさんになつて、燃え切つた靑春の餘燼に手をかざして見ることもあるかも知れない。なつかしい高校生活よ、なつかしい友達よ、永久に私の事を忘れて吳れるな、いつまでも、いつまでも。

 

 近頃友達の範圍がやつと限定されて來たと思ふ。私は私の友達を四層に分けて見て、

 一、眞實の友、心の友

 二、好意を感じて居る友 12

 三、全然路ぼうの人 3467811

 四、嫌な友(これでも友と言えるかしらん) 5

 此の外に友達になりたいと思ふ人の數人がある。私はしかし彼等に對する情熱が一年生時代と比較して、ぐつと衰へて來た事を悲しく思ふ。かつて原勇策が、水前寺の行き道に言つた言葉――戀愛しようと思ふなら苦しむ事は無論覺悟して置くべきだ、樂しみを求めるための戀愛なら止めたがいい――と。私は、原君から言はれないでもその言葉のリアリテイは心の底から感じて居る事なんだ。

 

 江波惠子と言ふ名前は私の一生の記億に殘るであろう、たとえ私が大臣になつても……

[やぶちゃん注:数字は総て縦書で、底本ではポイント落ち半角である。

「後藤農相」後藤文夫(明治一七(一八八四)年~昭和五五(一九八〇)年)は貴族院議員で齋藤内閣に於いて昭和七(一九三二)年五月に農林大臣に就任していた昭和九(一九三四)年七月、次の岡田内閣で内務大臣に再任されている。「天皇陛下の警察官」を自称し、新官僚の代表と見られた。戦後は、昭和二七(一九五二)年に財団法人電力経済研究所を組織し、原子力発電を含む電源設置を進めた(当該ウィキに拠る)。五高で遊説でもしたものか。

「江波惠子」石坂洋次郎(明治三三(一九〇〇)年~昭和六一(一九八六)年:青森県弘前市生まれ。県立弘前中学校(現在の弘前高等学校)から慶應義塾大学文学部卒。大正一四(一九二五)年以降、県立弘前高等女学校(現在の弘前中央高等学校)・秋田県立横手高等女学校(現在の横手城南高等学校)・秋田県立横手中学校(現在の横手高等学校)に国語教師として勤務し、昭和十三年に教員生活を終えて専従作家となった)の小説「若い人」(昭和八(一九三三)年八月から昭和一二(一九三七)年十二月まで『三田文学』に断続的に連載され、石坂の出世作となった)の登場人物。当該ウィキによれば、『北国の港町のミッションスクール』『に勤める』二十八『歳の教師・間崎慎太郎は、江波恵子という女生徒の作文を読んで、その激しい情熱に打たれる。一方、同僚教師の橋本スミは、間崎が女生徒にひかれていくのを戒め、間崎は恵子とスミの双方にひかれる。恵子は料亭を営む母と二人暮らしの私生児である。間崎は江波の母の料亭での喧嘩を仲裁して大けがを負うが、その晩』、『恵子と結ばれる。このことを知ったスミは、自宅で左翼非合法活動の集会を開いて検挙される』と梗概してある。本作は『好評を得て』、『石坂は』一躍、『人気作家となるが、一右翼団体が、その一部をとらえて、不敬の文言があるとして出版法違反で告訴した』(不起訴処分)騒動でも知られる。]

 

六月四日[やぶちゃん注:ママ。]

 私は彼女の肩を抱いた。彼女の顏は私の面前にあつた。なめらかな皮膚、休臭、形のいい唇が私の官能を剌激した。彼女は瞳を閉じて私の胸に彼女の全重量をもたせかけて居た。私達の唇がこのままぴつたりと合ふのは偶然ではなかつた。自然な――私は唇をそつと彼女の唇に押しあてた。始めて知る唇の味。何と言ふ甘美な味であらう。私は彼女の唇を通して、躍動する、彼女の肢體を躍動するつつましやかな情欲を感じた。胸のふくらみが私の心臟と心に波うつて、完全に二體が一つになつた一時であつた。

 

 私はも少し自分の本質に徹底した生活をして見たい。かつてあの事のあつた間は私も樂しかつた樣に、私は燃え上る炎の如く女を求める。私が今求めて居る女は。

 一、女學生で

 二、理智的で

 三、情熱的で

 四、美貌で

 五、健康的な朗らかな女である。

 そのやうな女が熊本に居るだらうか。

 私は今、江波惠子の樣な女がほしい。

 私の欲する江波惠子は、無論私の頭腦に描かれた友で、逢初夢子を髣髴(はうふつ)させる友である。

[やぶちゃん注:「逢初夢子」(あいぞめゆめこ 大正四(一九一五)年~?)は女優。本名は遊佐八千代(旧姓は横山)。『福島県耶麻郡猪苗代町』『生まれ』。『逢初が生後半年の時に公務員で』あった『父の横山次郎を亡くし』、十『歳の時には母のひで子も死去した』。『逢初は両親を失い、家財もすべて伯父に委ねて』、『兄と共に上京し、浅草区栄久町精華尋常小学校に入学』、『精美高等女学校を中退』した後、昭和五(一九三〇)年七月、十四歳で『東京松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)に入団』、『「メリー・ゴーランド」で初舞台を踏み、この舞台で演じた海賊役で絶賛を浴びた』。昭和七(一九三二)年二月に『当時の所長である城戸四郎に、新時代の女性映画のホープとして松竹蒲田に迎えられ、菊池寛原作、成瀬巳喜男監督の』「蝕める春」で『同じ松竹歌劇団で活躍していた後輩の水久保澄子と共に銀幕デビューを果たした』。『デビュー』二『年後の島津保次郎監督作品の』「隣の八重ちゃん」に『主演し、一躍』、『人気女優とな』り、『逢初はモダン派のホープとして多くの作品に主演し、モダン派のなかでは他を断然』、『引き放すほどの存在であった』。この昭和九年九月には『協同映画社に移籍』している。昭和一七(一九四二)年、『ベルリンオリンピック金メダリストの遊佐正憲と入籍した』。『戦後も活躍し』、昭和二二(一九四七)年には、『没落していく華族の一家の姿を描いた傑作』「安城家の舞踏会」(吉村公三郎監督・新藤兼人脚本・原節子主演)で、『原節子、森雅之の姉役でも』、『気の強い女性を好演している』。昭和三〇(一九五五)年に『映画界を引退したが』、昭和四〇(一九六五)年の松竹映画「霧の旗」山田洋次監督・松本清張原作・橋本忍脚本]に出演している。詳しくは参照した当該ウィキを見られたいが(写真有り)、現在は『消息不明』とある。]

 

十一月七日

 再び年が𢌞つて十一月七日が訪れて來た。私は經て來た苦難の一年を囘顧し、めぐり來る一年の將來を幻想する。二月五日の苦盃の思ひ出はつつましく一枚の畫となつて、私の心の隈にかけられてあり、うすれかけた事象の面影はなほ淋しく心の傷に剌激を與へる。淋しい夜だ。私はもうたぎり來る情熱を知らない。もう老い去つた人のやうに、空しい一年を反芻して見るばかりだ。近頃は口もきかないある友との交情は、永遠に思ひ出の中にこそ生きるだらう。しかし、何て樂しかつた寮の日日である事か。去年の今夜。私が官能のうずきにもだえた夜。私の心情は遠く靑い月夜の空氣に乘つて、遠く月の世界に旅行した。もう際限ない墮落だ。救はれないのだ。

            (八時過、淚もて)

[やぶちゃん注:最終行は底本では下二字上げインデント。]

 

十二月八日

 今日は原がやつて來たので、試驗前だと言うのにオリンピツクヘ電車に乘つて出かける。霧雨の降る夜であつた。あの少し苦(にが)みを帶びた香高いコーヒーの味も堪えがたく快いものであつたが、それより、高木淸子の淸麗な微笑を心から、何とかつ□た人のやうに嚙みしめた事だらう。知らず知らずの中に私の心の中に忍び込み、影のようにひろがつて私の心を占領してしまつた魔物――可愛らしい魔物。あの唇が、あの腕が外の男の唇に接し、他の男の手にからむ情痴の風景を心ならずも畫いて見ては、たまらない憤激におそはれる私なのだ。

[やぶちゃん注:「オリンピツク」カフェの店名か。]

 

十二月八日[やぶちゃん注:ママ。]

 一休此の不安は何處に胚胎するのだらう。あの樂しかつた夏休みの事柄をひたすらに慕ひながら、その日その日を嫌惡に溺らして行く。誰か鋭い劍をふりかざして、ざくりと私の心臟に突き剌して吳れないものかしら。苦痛もない心持の中に死んで行き、此の嫌な事象から緣を切りたい。風になつて、長崎あたりまで、――幸子さんの居る部屋の窓にそつとおとづれて見たい。今ごろ幸子さんは何をしてるだらう。ピアノかしら、アロハ・オエの旋律をつつましやかにたどつて居るかしらん。亦はつつましやかな一日を日記帳に寫し取つて居るかしら。あの日幸子さんが立ち上つた時裾からこぼれたあの脛の白さ――思はずくらくらとする心を引きしめながら、私は何とあの純潔な處女の肉體を戀した事だらう。信仰と藝術の中に汚れない肉體の哀愁を祕めて、あのひとは今日もアロハ・オエの悲しい旋律を思い出してはいないか。理智に勝つた瞳や容貌を思ひ出す每に、私は心からあの長崎の日日を慕ひ續けるのだ。長崎。詩の都長崎の一喫茶店。クリームの甘い舌ざはりを樂しみながら、今思ひ出すのは一枚の塵紙の中に祕められた彼女の純情さなのだ。何物にもまどはされない處女の純眞な心象なのだ。あの白紙の心を愛そうとする――白紙の心を汚してしまおうとする私の心ではあるのだが。

 

十二月八日[やぶちゃん注:ママ。]

 時には血管の中にうごめく血球の一つ一つがどつと聲をあげて、――ユキコ、ゆき子、幸子と叫びながら沸騰して來るかと思はれる。そんな時は、私は居たたまれない氣持にどうする事も出來ないで、あの慕はしい思ひ出の塵紙に頰をすりよせたりする。このようなひたむきな戀心をあのひとは一體どう考へて居るのであらうか。悲しい心持で長崎を離れようとする朝、玄關まで送つて來て吳れたのは良子さんと梅子さんだけで、幸子さんは結局姿も見せなかつた――そんな事や、ことさらに雜談を避けて行つた事なんか、あの人の性質としては、うけ取ることも出來ようけれども、私は矢張り物悲しい不幸な結末を考へて、思はず淚ぐましくなつて來るのだ。私達は――私はあの人と戀と名付けるべき感情を弄んではならない地位にありながら――心の琴線にふれて來たすばらしいピアニストの手をどうしてはばむ事が出來よう。あの長身のすらりとした姿や、理智に勝つた瞳、端麗な唇、ノーブルな鼻、柔らかな、なめらかな肌、乳房のふくらみを暗示する地味な落着いた着物と――いつもやんちやな心が彼女の中にひそんででも居るのか、私はいつも彼女と口爭ひした事を思ひ出す。そんな事も思ひ出となつて風の樣にうしろへうしろへと流れて行こうとして居るのだ。

 

十二月八日[やぶちゃん注:ママ。]

 水脈(みを)を引いて出帆する帆船。やがて古びた長崎の港に、うちふるふ神經のどらを打ち鳴らしながら、私の心は霧雨に濡れて居た。嵐の町。舖道を吹き拂ふ風の樣に、夜、激情をおさへかねて、私は幸子の白い顏を慕ふのであつた。垣根に咲く、白い木蓮の花、その香りに何時しか醉ひ、離れ得ぬ愛着の詩を心の石板に彫りつけながらも、――悲しく醉ひたい氣持を抱いて、長崎を去つて行つた私。さやうなら長崎よと、停車場より Farewell の言葉は、知らぬ間に心臟の裏側に刻まれてあつたと見えて、私の心は、常に忍びやかに、風に乘つて、潮に乘つて、月の夜に、雨の夜に、長崎を訪れるのだ。再び水脈を帆船のあとに眺めながら、私は埠頭に立つて、おお空ろなる物象よ、おお虛ろなる心情よと幾度も幾度も呟く――その聲は今、悲しくも下宿の部屋に陰々とこもつて。窓の外を彷徨する目に見えない魔物の吐く白い息に私は意外にも冷たい夜を自覺する。しかし、四肢は冷えても、私の心は、幸子の唇の樣に、幸子の乳房のやうに火の如く燃え上つて居る。たまらない欲情のふくらみをそつと着物で抑へつけたあの女の姿體。そして、夜、私の心は古典的な革表紙をなげすてて、新しい純情の港へと出帆する。うちふるふ神經のどら、運命的な戀慕のどらよ。さうして、長い長い、哀愁の水脈をはかない一すぢに引き連ねながら。

 

十二月十二日

 晝寢。今日は西洋史が無かつたので早く歸る。試驗前、倦怠の一日である。戶島へ打つた電報が夕方返事が來て小康を傳へ、明日歸る由を告げる。風呂に入つて、足立と金子が來て、碁を打つ。

 

 試驗前には、感情を喪失した機械になるべき運命を、義務を持つた私ではあつたけれども、絕えまなく昇華して來る情熱を、私は今どうしたら良いだらうか。高木淸子の淸麗な微笑をふと思ひ出してみる私なのだ。さうなると、河瀨も岡本も手につかない。幸子と淸子の顏がいりみだれて頁の上で私に笑ひかける。思わず抱きしめたいやうな衝動にかられて、思はず「ユキコさん!!」と叫んでみたりする。そんな事で混亂した頭はもはや勉强に堪へないで、終(つひ)には冷たい足を冷たいふとんに忍びこませて、昏々と眠らうとする私になつて行くのであつたが、眠れない感情、うつつ。ゆめの間にもやはり彼女たちは待ちかまへて居る。もう駄目だ。去年の今日も、やはり惱んだ。妖(あや)しい情熱は再びここに對象を改めて出現した。へうへうとなるのは冬の風であつたが、やはり、その風と共に一つの鳴きむせぶ物象が私の胸の中にはひそんで居た。ああ今年もこんな風に暮れて行くのだ。

 

十二月十二日[やぶちゃん注:ママ。]

 歸る日、階下からアロハ・オエの旋律が流れて來て、離愁は私を淚ぐました。「エクラン」では小林十九二と田中絹代の戀物語であつたが、私は端麗なユキ子のプロフイルをぬすみ見て居た。………

 あらゆる事物が日が經つに從つてだんだんと薄れて行く。私はそのイメージを取り逃すまいと一生懸命になる。ある日私はユキ子の面影を忘れて愕然とした。心の片隅につつましくもかざられてあつたユキ子の寫眞が、丁度ころがり落ちて、心の盲點の所に引つかかつて居たのかも知れない。私はすぐ探し出すと再び心のかたすみにかけておいた。もう外れ(はづ)れない樣にしつかりと釘で止めて。

 

  ひたむきの心抱きて今日も亦

    幸子の顏を 一目戀ひにき

 

  情熱をおさへかねつつただひとり

    小さき聲して 名をよびてみる

 

十二月十四日

 獨りで碁を並べて見る。

 奇怪な構圖であつた。白と黑とが互ひに組み合つて、四角な盤面に次第に奇妙な模樣を作つて行く。窓から入る光が白石に當る時、それは再び白色にこされて白い光の領域を盤面の上にただよはせる。黑色の石は色を吸ひとてしまふので亦そこに光の妖しい戲れがあつた。私は此の遊びを好んだ。自分で獨り奇怪な模樣を書いて行く時、築城師にでもなつたやうなメカニカルな快感を感ずるのであつた。時には私は白石となつて、壓迫して來る黑石を必死の力で擊退しようと試みたり――そんな時は私の意地惡の方の心が黑石をにぎつて、素直な方の心が白石をにぎつて無意識的な爭鬪を續けて居るのかも知れなかつた――常に此んな妖しい遊戲は私の感覺をたかぶらせて終るのであつた。

[やぶちゃん注:「こされて」には右手に底本編者によるママ注記が打たれているが、これは陽光によってハレーションが生じ、碁盤の全体が白く「漉されて」ゆくような感じを言っていると私は読んだので躓かなかった。]

 

十二月十六日

 鏡を見る。今蒼茫と暮れて行く陰慘な物象があつた。まだ若かつた頃、戀慕の心情に若さを時雨したあの時の容貌は何處に行つたのだらう。私は暮れて行く曇り空の下に息づく華かな街の哀愁を感じ、照明華かな理髮店の雰圍氣を憧憬した。

[やぶちゃん注:「時雨した」には右手に底本編者によるママ注記が打たれている。確かに「しぐらした」という読みは今一つ意味がピンとはこない。「湿っぽく翳らせた」という意か。]

 

十二月十七日

 試驗直前の日曜、金子と戶島の三人でつまらぬ漢詩を作る。

 

  寥寥秋日前机苦

  碧眼童子何憂々

  抱獨逸書白日暮

  忽然秀才訪我庵

 

   註  一、二句 金子

      三句 梅崎

      四句 兩人デ

    秀才とは畏友原勇策君を指す也

    獨逸書とは渡邊さんの敎科書也

[やぶちゃん注:我流で訓読しておく。

 

  寥寥たる秋日 机を前にして苦しむ

  碧眼の童子 何ぞ 憂々たる

  獨逸(ドイツ)の書を抱きて 白日 暮れ

  忽然として 秀才 我が庵(あん)を訪(おとな)ふ

 

七絶のつもりにしては、全く韻を踏んでいないし、「々」を使用するのは鼻白む。]

ブログ開設十六周年記念 梅崎春生 日記(恣意的正字歴史的仮名遣変更版) 始動 / 昭和七(一九三二)年(全)

 

[やぶちゃん注:ブログ・カテゴリ「梅崎春生 日記」を起動する。但し、昭和二〇(一九四五)年の「日記」は、以下に示した仕儀と同じ処理を施して、二〇一六年一月十一日のブログに「昭和二〇(一九四五)年 梅崎春生日記 (全)」として既に公開してある(当該年に至ったら、再度、点検はする)ので、省略する。

 底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第七巻」用いた。この全集所収の「日記」は抄録であるが、古林尚氏の解題によれば、『紙幅の都合から日記全体を収録することはできなかった。しかし、昭和八年(一行だけ割愛)、九年、十年度の分について言えば、ほぼ完全にその全体を収容した。たったあれだけで――と意外な顔をされる向きもあるかと思うが、もともと分量がきわめて少ないのである。これだけでの紙面からでも、日記の全貌はどうにか摑みとっていただけるものと思う』とある。

 而して、この日記は、その殆んどが、戦前・戦中のものであり、敗戦後は直後の昭和二一(一九四六)年と昭和二十二年の底本で、それらは三ページ分しかない。そこで、私はオリジナルに表記の推定復元をすることに決した。則ち、恣意的に漢字を概ね正字化し、仮名遣を歴史的仮名遣に変更、促音・拗音を通用字に変えたのである。恣意的であっても、その方が日記原本にはより近いはずだと私は考えたからである。

 なお、ルビは編者が添えた可能性が高いが(私は日記にはルビは振らない人間であった)、底本のまま後に添えた。「□」が何箇所かに見られるが、これは底本編者の判読不能字と思われるので、そのまま示した。

 さらに、二枚の図が昭和十一年十月十九日の日記に出現するが(夢記述の挿絵)、指示キャプションが底本では活字に書き変えられているため、編集権侵害になるのは厭なので、OCRで画像として取り込み、トリミングした上で、それらの活字部分は清拭して削除し、代わりにそこに同じ文字数・文字列でフォト・ソフトを用いて、図の中に改めて活字化し(勿論、歴史的仮名遣を用いた)、注も入れ込んだ。

 注は、極力、押さえることにした。これは、だらだらとやるのが、厭だからである。短期決戦としたからである。それでも、私が注したいと思ったところでは、よく考えてストイックに附すこととする。全く不詳の人物などは注に出していない。年譜的事実は概ね、同全集別巻(昭和六三(一九八八)年)と、中井正義著『梅崎春生――「桜島」から「幻化」へ――』(昭和六一(一九八六)年沖積舎刊)の年譜に拠った。

 なお、これは2005年7月5日に私のブログ「鬼火~日々の迷走」を開設して以来、十六年周年を迎えた記念として始動する。而して――気がついて見れば――私のブログの第二回目の記事は――何んと! 『「桜島」から「幻化」へ』であった! すっかり忘れていたよ! 春生! そのカテゴリ「梅崎春生」に追加しておくね。【202175日 藪野直史】]

 

   昭和七(一九三二)年

 

[やぶちゃん注:梅崎春生満十七歳。前年昭和六年に福岡県立の福岡県中学修猷館を卒業し、福岡高等商業学校(現在の福岡大学の前身)を受験したが、不合格となった。中井正義氏の前掲書によれば、中学卒業の頃には、『長崎高商か大分高商にでも入って、平凡なサラリーマンになるつもりでいた』らしいが、翌年、『一月、台湾東海岸で会社経営をしている母方の叔父から、学資の面倒を見てやるから高等学校を受験しろ、と言って』きたことから、『そこで、がむしゃらなにわか勉強にとりかか』り、『四月、熊本の第五高等学校文科甲類に入学』した、とある。]

 

十月二十日

  廢船の秋(津屋崎の秋を思ふ)

 

 マストの上には澄み渡る秋

   冷たい風に追はれた小波の慟哭

 

 廢船の底に充たされた水溜り

   白晝の鋭さを藏して狂女の淸澄

 白い甲羅の小さな蟹が

   のろのろと底をあるいて居る

 

 津屋崎でのあの感情を再生する事は俺にはどうしても出來ない。

 空しく机にもたれて津屋崎の秋を思ふ時、情趣は湧いて來るけれども、しかし、俺は言葉を持たない。

 炎天下、歡樂を求めて津屋崎に赴き、遊樂に徹した。あの二日が、ここに感傷の種を卜(ぼく)して、――

 つんでもつんでも芽ぐんで來る感傷。

[やぶちゃん注:「津屋崎」(つやざき)は現在の福岡県福津市のこの辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。地区の西部から北部にかけて玄界灘に面している。ウィキの「津屋崎町」(旧福岡県宗像郡時代以来の町名)によれば、現在でも『自然豊かで海や空気がとてもきれいな土地である。町の海岸にはアカウミガメが生息しており』、『平野部には田畑の広がるのどかな町である。海岸は玄海国定公園に指定されている』とある。後のことだが、昭和十七年一月に東京市教育局教育研究所所員であった梅崎春生は陸軍対馬重砲隊に召集されたが、軽度の気管支カタルであったのを肺疾患と診断されて即日帰郷となり、その年一杯、療養生活を楽しんだが、その当初はこの津屋崎療養所で過ごしている(後には自宅でのんびりした)。]

 

十月二十一日

 試驗前になると必ず湧然と起つて來るたまらない不安。おさへる事の出來ない、いらいらした氣分。勉强は何もしないのに勉强するより苦しい此の頃。常に首席を夢みながらも(かつてはそれを輕蔑した俺ではなかつたか?)悲しい諦めに墮(だ)そうとする此の心。

 諦めに徹した心は水の如く冷たいであらう。より一步聖人のそれに近づいたものであろう。しかし俺には、おさえ得ない野心と慾望とがある。俺の心の中には常にジキルとハイドが爭つて居る。しかし俺はどちらがジキルでありどちらがハイドであるかを知らない。(何と言ふ悲み!)

 

 櫻の木が枝ばかりになつて、枝ごしに赤煉瓦の巨大な建物が見える。

 彼女の姿は秋そのものである。秋のにぶい日ざしをうつしたやうな赤煉瓦、やがては來るべき冬を思はせる冷たい瓦の色、黝(くろ)い雲を背景として、彼女は靜かに秋を息づいて居る。

 

十月二十二日

 町に出る、東京庵の茶の爲に三時まで眠られず。

 

十月二十三日

 試驗が刻々と迫つて來る苦しさ。晝から龍田山に登つたけれども少しも面白くない。東光原でラグビー見物、放送局城戶氏を見る。

 夜もすがらようなき思ひに身もやせし咋夜の苦しさよ。

 夜、歷史をする。

 

 富とは何であらうか? 人生の目的が果して今まで思つて居たやうに富にあるであらうか?

 宏壯な屋敷も、美々しい庭園も、畢竟(ひつきやう)それが何になると言うのだ。大堀公園をすら心から樂しいと思ひ得ない私にとつて、富に對する憧憬は單に幻にすぎなかつた。今日の細川邸を見て、あまりにも現實らしい姿にその幻をやぶられた私ではなかつたか?

(滿足な生活を人生の目標としなければならないのですか。飽きるだらう事は分つて居る、私は!)

[やぶちゃん注:「龍田山」熊本市のほぼ中央に位置する標高百五十一・七メートルの立田山(たつだやま・たつたやま)のこと。五高(現在の熊本大学)の北の後背地に当たる。]

 

十月二十五日

 此の荒んだ生活から逃げ出したい。此の苦しい現實を逃避するのに私は何によるべきであらうか?

 

 明日頑張らぬと又一學期の二の舞をやるかもしれない。今日は何故八時までも遊んだんだらう。點檢後何故集會所になんか行つたんだろう。又何故波多江となんかピンポンをやつたんだらう。

[やぶちゃん注:以下は底本では下インデント。]

  (後悔の淚を目がしらに感じつつ十一時半)

 

 私の心はなつかしい受驗時代に飛んで。思い出はすべてを美しくする。懷しいあの頃は再び歸つて來ないと思ふと、何となく淋しい。

 忠生は實に良い奴だつた、片意地な所はあつたけれども。彼と分れる二日前、千眼寺に行つた事を思い出す。

 明日は久し振りに家と忠生とに手紙を書こう。[やぶちゃん注:以下は底本では下インデント。]

  (今日は何となく淋しい、泣きたいやうな氣がする)

[やぶちゃん注:「波多江」梅崎春生のエッセイ「日記のこと」に登場する「波多江」と同一人物であろう。この五高以来の古くからの友人であったことが判る。

「忠生」春生の弟。「狂い凧」(昭和三八(一九六三)年発表。リンク先は「青空文庫」)のモデルとされ、後、応召されて駐屯していた蒙古で終戦直前に自殺した。]

 

十月二十六日

 夕飯後一人で龍田山に登る。これから夕方は必ず一人で散步しようと思つた位、一人の散步はいいものだ。

 

 中村先生神經衰弱。今目の時間はお話。苦しい身の事を話されたにも拘らず皆の同情は一時的のものであつた。

 一頁半位しかすすまなかつたのを喜ぶ程俺は利己主義な男にはなり得ない。キ印とまで冷評した人間。あいつはきつと感情を惡魔に賣り拂つたに違いない。冷笑、默殺を以て冷靜な批判と妄想する小才子奴!

 

 日を繰つて勘定して見ると二學期の學期試驗は十一月二日より始めなければならないと言う結論に述した。

 十二月の始め俺はきつと遊び暮すに違いない。忘れるな 今日の此の□言を!

[やぶちゃん注:底本は「忘れるな」で改行で続いているので、一字空けた。]

 

 中村先生は御自分のレーゾンデートルを無視しておいでにはなりませんか。私のやうな弱氣の男でさへ過して行ける此の人生ですから。

 

 明後日からの試驗を控へてお前は完全にやつたか。

   否!

 

 もし此の世で、中村先生の如くなる一番可能性の多い男は俺ぢやないかと思ふ。

 

十月二十七日

 平田、奧村と龍田山に登る。

 

  三千の俳句閱して柹三つ(子規)

 たしかかうだつたかと思ふが、之を思ひ出してそぞろなる感慨に打たれる。

 

十月三十一目

 今までの試驗は皆順調にやつて來た。何だか、此の大切な獨逸語を前に控へて少し氣持がゆるんだかと思ふ。

 

 試驗を終へたら、本格的に詩の方面の勉强を始めようと思ふ。生れてから今までに集め得た俺の知識の少なさよ。詩の道に徽底しようと思ふ。

 

 點檢後集會所に行く。

 

十一月七日

 惱ましい。何故かう惱ましいのだらう。勉强をして居ると、すぐあれの事が心に浮んで來て、俺は一體龍南に何をしに來たのだらう。勉强しに來たんぢやないか。だのにあんな事に心を惑亂されてしまふなんて何と言ふ弱い心だらう。

 しかし俺は遊戲的高校生活をその瞬間超越し得たんだ。冗談なんかとても言へない程の眞劍な□きつけた氣持なんだ。

 堪まらなく惱ましい。昨日あんな事さえ起らなかつたならば、俺はまだ平平凡凡な生活を過し得たんだつたらう。しかし一番の生活は、かくの如き惱みもないしまた一層勉强に徹した生活だつたかもしれない。

 刺激をかつては求めてやまなかつた俺ではなかつたか。

 そしてあの事は、俺が妄想し待望した所のものではなかつたか。

 俺は此の今、どうしたら良いのだらう。

 そして此の結末はどうなるのだらう。

 長い間長い間待設けて居た事が遂に……

[やぶちゃん注:「龍南」ここでは熊本第五高等学校の異名として使用している。第五高等学校の校友会の名称が「龍南會」であり、「熊本大学五高記念館」公式サイトの「五高の歴史〜生活/五高生と熊本の街〜」に、『「龍南」は龍田山の南という意味で、生徒の相談を受けた秋月胤永教授が名付けた』とある。この公友会の発行した雑誌『龍南』は明治二四(一八九一)年十一月二十六日の創刊(正式名称は『龍南會雜誌』)で、五高の英語教授であった夏目漱石を始めとして、厨川白村・下村湖人・犬養孝・大川周明・上林暁・木下順二などの後の錚々たる文学者が寄稿した。梅崎春生も昭和九年度には編集委員に名を連ねて多くの詩篇を発表している。私は熊本大学附属図書館の「龍南会雑誌目次」からリンクされた「熊本大学リポジトリ」にある原雑誌画像から、梅崎が同誌に発表した詩篇を『梅崎春生 詩 「死床」  (初出形復元版)』から、総て、ブログで電子化注し終わっている。『藪野直史編「梅崎春生全詩集」(ワード縦書版)』も「心朽窩旧館」でダウン・ロード出来るようにしてある。]

 

十一月九日

 惱み多き日。

 夕飯もうまくなかつた。

 龍田山に登る、スツカリ憂鬱になる。

 

十一月十五日

  ああ日は落ちぬ有明の  綠をひたす波の果

  不知火遠く夜は更けて  星光西にうつろへば

  寄せてはかへす鄕愁の  胸にあふるる愁ひかな

 

  神の怒りか大阿蘇の   煙はたぎる狂亂に

  千里連なる山脈は    虛空に遠く影を引き

  蒼茫はるか有明の    彼方に支那は遠ざかる

 

  ほのかにゆるぐ哀愁の  淡き翅のうすみどり

  ああ易水を忍ばする   悲愁の風にたたずめば

  武夫原遠き草笛に    そぞろにしめる心かな

 

  むせぶが如き曠原の   草をば渡る秋風に

  空行く雲の肅々と    遠鳴り低き足音や

  落陽まさに色褪せて   煙は重う地に迷ふ

 

  あふげば逢か聳え立つ  道き銀杏の追憶よ

  閉せし過去の篝火に   劍も映えし壯麗も

  やがては醒めん荒城の  盛枯のあとを問はんかな

 

  さわれ果敢なき人の世の 長き旅路を龍南に

  三年の翼今止めて    理想の鳥の影を追ひ

  溢るる力止み難き    飛躍の力養わん

 

 浦野氏の室を訪ねて之を呈す。

[やぶちゃん注:詩篇にはルビがあるが、がたがたして汚くなるので、ここで歴史的仮名遣に変換したものを纏めて以下に示すことにした。

・第一連二行目「不知火」に「しらぬひ」。

・第二連二行目「山脈」に「やまなみ」。

・第四連三行目「褪せて」の「褪」に「あ」。

・第五連一行目「聳え」の「聳」に「そび」。

・第五連一行目下段「追憶」に「おもひで」。

・第六連一行目「果敢なき」の「果敢」に「はか」。

「武夫原」は「ぶふげん」と読み、五高から現在の熊本大学に至る現在まで、同校グラウンドの呼称である。]

 

十一月二十三日

 新嘗祭。

 大友、奧村、奧平、平田、西鄕と熊本城に登る。三四郞に行く、ムゴウ疲れたり。晚憂鬱のとりことなる。

[やぶちゃん注:「西鄕」は恐らく同級生であった後の国文学者西郷信綱(大正五(一九一六)年~平成二〇(二〇〇八)年)であろう。

 以上で底本の「昭和七年」パートは終わっている。]

芥川龍之介書簡抄93 / 大正八(一九一九)年(五) 小島政二郞宛

 

大正八(一九一九)十月二十七日・田端発信・小島政二郞宛

拜復 凡兆の佳句左の通り

   時鳥何もなき野の門構

   肌寒し竹切る山のうす紅葉

   涼しさや朝草門に荷ひこむ

   朝露や鬱金畠の秋の風

   初潮や鳴門の浪の飛脚船

など君の選に洩れたれど大好きなり「禪寺の」「門前の」「灰捨てゝ」「下京や」皆好「町中や」は「時雨るゝや黑木むつ屋の窓明り」と共に巧を極めすぎたる氣がすれど如何

「枴」はオウコです但し假名遣ひは當てにならず「窓」は俗惡な創作生活を打破する記念に書いたのです澤木さんに獻じたのは慚愧の意を表し旁精進の志を決する爲でしたこれから手堅く押して行きたいと思つてゐますどうも今年の創作生活は新年から調子が狂つてゐた

廿四日待つてますからいらつしやい「何菊や」と云ふ句作つた筈はないが何ですか「白菊は暮秋の雨に腐りけり」ですかあれは新しがつたのですよこの間茂索折柴等を相手に歌を作りましたその時の僕の作を御披露します

   秋雨の降り來る空か紅殼の格子の中に人の音すも

   磯草に光はともし砂にゐて牛はひそかに限を開き居り

外の連中の歌も紹介しようと思つたがやめました 頓首

               芥川龍之介

   小島政二郞樣

二伸 「埋火のほのかに赤しわが心」は傑作だと思ふがどうですか やけて鑑賞的態度が不純になつてゐるとくだらなく見える惧がありますがな

 

[やぶちゃん注:「凡兆」彼に就いては「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 一」の私の注の冒頭を参照されたい。

「時鳥何もなき野の門構」下五は「もんがまへ」。「猿蓑」所収。

「肌寒し竹切る山のうす紅葉」「猿蓑」所収。三つの「季重ね」を敢えてやったところにきりっとくる寒さがよく現われて、視覚的にも上手い。

「涼しさや朝草門に荷ひこむ」中七は「あさくさ/もんに」。「朝草」は朝の涼しいうちに秣(まぐさ)などにする青草を刈る農事を指す。下五の「こむ」は「込」の漢字表記なので、「こみ」とも読める。夏の早朝の清涼感とその動的様態がよくマッチしている。「猿蓑」所収。

「朝露や鬱金畠の秋の風」これも三つの「季重ね」だが、少しもおかしくない。「鬱金畠」は「うこんばたけ」で、単子葉植物綱ショウガ目ショウガ科ウコン属ウコン Curcuma longa の畑。熱帯アジア原産であるが、十五世紀初めから十六世紀後半の間に、沖縄に持ち込まれ、九州・沖縄地方や薬草園で薬用(根)及び観葉植物として栽培された。「猿蓑」所収。

「初潮や鳴門の浪の飛脚船」「猿蓑」所収。一九八九年岩波文庫刊の堀切実氏の編注になる「蕉門名家句選(下)」の語注に、「初潮」は『陰暦八月十五日の大潮のこと。力強い高波になる。秋の季題』とあり、「飛脚舟」は『急ぎの連絡のため、日和や風向きに無関係に急行する小舟。飛脚小早(こばや)ともいう、数丁の艪で漕ぐ』とあり、評釈は、『一年中で潮の最も高くなる初潮の夜、満月の皓々と照る下、激しく渦を巻く鳴門海峡を、白い波しぶきをあげながら、一艘の飛脚舟が勇壮に疾走してゆく光景である。迫力満点のダイナミックな画面構成の句であるが、凡兆の足跡から推して、おそらくは想像によって描いたものであろう。「鳴門の浪の」と「ナ」の韻を重ねて弾みをつけた音調上の効果も見逃せない。森田蘭氏の『猿蓑発句鑑賞』には、この句の背景に『平家物語』巻六「飛脚到来」の一場面――義仲挙兵に動揺した平氏一門に、さらに鎮西・伊予からも平家離反の知らせを運ぶ飛脚舟が到来して風雲急を告げるという場面があることを指摘しているが、その当否はともかく、実景というよりは想像の句であることは間違いないようである』とある。「平家」の歴史詠とする解釈は私は語るに落ちた解釈と思う。

 以下、芥川龍之介が挙げた句の内、上五のみ示したものは、最後を除き、

 禪寺の松の落葉や神無月

 門前の小家もあそぶ冬至哉

 灰捨(すて)て白梅(しらうめ)うるむ垣ねかな

 下京や雪つむ上の夜の雨

で、「町中や」というのは、恐らく、凡兆の代表句と称してよい、

   市中は物のにほひや夏の月

の誤りであろう。

「禪寺の松の落葉や神無月」「猿蓑」所収。

「門前の小家もあそぶ冬至哉」「小家」(こいへ)は参詣人相手の小さな店で、前掲の堀切実の注によれば、この「門前」は凡兆の足跡から推して、『京東山あたりの』『おそらく禅寺であろう』とされる。何故、禅寺かと言えば、『冬至』(陰暦十一月中旬。新暦では十二月二十二日頃)の日は、『この日から春がだんだん近づく日ということで仕事を休んで祝う。とくに医者と禅僧の祝い日であった。『滑稽雑談』に「和朝禅家において朝旦に限らず、毎年冬至を専ら賀す。前一日冬夜と称して弟子の徒師家を饗す。俗に冬夜振舞と云ふ。冬至の日、師家又門弟に酒飯を送る」とある』。

「灰捨(すて)て白梅(しらうめ)うるむ垣ねかな」「猿蓑」の句形。「梅の牛」では、

 灰捨て白梅うるむ根垣かな

となっている。いかにも俳諧らしい取り合わせがいい。

「下京や雪つむ上の夜の雨」「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 四」の同句の私の注を参照されたいが、これは厳密には中七座五が凡兆、上五が芭蕉の合作である。

「時雨るゝや黑木むつ屋の窓明り」「猿蓑」「落柿舎日記」所収。同じく「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 四」の同句の私の注を参照されたい。これは語注なしでは、最早、多くの現代人は映像を想起出来なくなっている。

「市中は物のにほひや夏の月」「猿蓑」所収。同じく「柴田宵曲 俳諧随筆 蕉門の人々 凡兆 四」の同句の私の注を参照されたい。私も凡兆が好きだが、確かに上手いが、かっちと決まり過ぎている感じがあって、ちょっと「にほひ」のきつく匂ってくるのが気にはなる。

『「枴」はオウコです但し假名遣ひは當てにならず』歴史的仮名遣は「あふこ」「あふご」で「朸」ともかく。基本は物を担のに用いる天秤棒。物に挿し通して両端を二人で担ぐものもあり、一人で両端に物を懸けたり、草や薪の束に突き挿して担うものもある。和歌では「會期(あふご)」と掛詞にされることが多い。単に「棒・杖」を指すこともある。私は常にこの言葉を見るや、直ちに、偏愛する「雨月物語」の巻之五の「靑頭巾」の最初の部分を想い出すのを常としている。

「窓」『東京日日新聞』の「日日文芸」欄に「窓(上)――澤木梢氏に――」を大正八年十月十五日附で、翌十六日附で同標題で「(下)」を発表したもの。実験的にモチーフを組み合わせた散文詩のように読める。「澤木梢」はペン・ネームで本名は澤木四方吉(よもきち 明治(一九(一八八六)年~昭和五(一九三〇)年)。西洋美術史家で、慶應義塾大学文学科及び美術・美術史科初代教授にして、『三田文学』の二代目主幹で、慶応大学英文科教授として芥川龍之介を招聘する話を小島とともに進めようとした人物であった。本作は元版全集では最終クレジットを「大正八年二月」とすると、底本「後記」にあるのだが、このデータは信用におけない。既にしてなかなかOKが出ない慶応大学教授招聘に待ちくたびれ、並行して話があった毎日新聞社友を受け入れた彼にして、それは一抹の淋しく「待つ」ったが来ない来客という主人公のそれに反映されているとも言え、それ故に運動を主導して呉れた「澤木さんに獻じたのは慚愧の意を表」すものだったというのえだろう。同作は「青空文庫」のここで読める(但し、新字旧仮名)。

「廿四日待つてますからいらつしやい」十二月二十四日だろうが、不詳。新全集宮坂年譜の十二月十七日と二十日の間に『この頃、自宅で運座の会を開く』とあるのが、書信からしっくりはくる。

『「何菊や」と云ふ句作つた筈はないが何ですか「白菊は暮秋の雨に腐りけり」ですかあれは新しがつたのですよ』採用していないが、先立つ大正八年十月十二日附瀧井折柴(孝作)宛書簡(葉書)にこの、

 白菊は暮秋の雨に腐りけり

句を記した後、「この頃暮方寂しい時こんな句意に似た心もちがする 以上」と終わっている。俳人(新傾向から自由律俳句も作った)で小説家の瀧井折柴(明治二七(一八九四)年~昭和五九(一九八四)年:芥川龍之介より二歳年下。折柴は俳号。本名が孝作)については、『小穴隆一「二つの繪」(36) 「影照」(11) 『「無限抱擁」のヒロイン』』の私の注を参照されたいが、この大正八(一九一九)年に瀧井は『時事新報』の文芸部記者として芥川龍之介と知遇を得た。後に掲げるが、瀧井はこの翌月十一月に、友人の画家小穴(おあな)隆一を連れて芥川邸に訪れ、以後、龍之介と小穴は終生無二の親友となった点で、重要な人物と言える。

「埋火のほのかに赤しわが心」この大正八年十月十五日の南部修太郎宛書簡に、「小說は愚作を書くが句は大分進步した敬服させる爲に一句書く」として、

 埋火の仄に赤しわが心

の表記で記す。ここでも小島に対して誇示している通り、この句、芥川の自信作であった。にも拘らず、彼が「澄江堂句集」にこれを採らなかった意味も――私には分かる――これは「愁人」秀しげ子への複雑な思いを詠んだものと思うからである。「やけて」(人間性が焼け干乾びての意か)「鑑賞的態度が不純になつてゐるとくだらなく見える惧」(おそれ)「がありますがな」とは、鑑賞態度なんぞではなく、龍之介よ、お前の文を裏切りしている現実であろう!

芥川龍之介書簡抄(挿入)77―2 / 大正六(一九一七)年書簡より(九の二) 塚本御内宛

 

大正六(一九一七)年八月二十四日消印・駒込・芝區下髙輪町五十五 東禪寺橫町 塚本樣御内(芥川龍之介自身の自像写真葉書)

 

61917824

 

先日は折角お出で下すつたのに何のおかまひも致さず失礼しました 今日は御叮嚀なお手紙を頂き難有御礼申上げます

このはがき私の知人が拵へてくれましから一枚お目にかけます家では印度人に似てゐると云ふ評判でございますが如何ですか 頓首

 

沢蟹の吐く泡消えて明け易き

 

Akutagawa1917

 

           龍 之 介

 

[やぶちゃん注:以上は、たまたま宛名が「塚本樣御内」であること、芥川龍之介の自像写真が旧全集には載らないことから、見落としていた。今回、たまたま、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」を別件で調べていたところ、本書簡の画像が添えられているのを発見(66ページのコラムの末尾)したため、その画像をOCRで取り込み、やや補正し、急遽、電子化することとした。この芥川龍之介の自像写真は、別により画素の多い綺麗な同一写真が、「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の「ポートレートの中の芥川龍之介」にあったので、冒頭に鷺氏の方の書簡(表裏)を掲げ、書簡本文内に後者の画像をトリミング補正して挿入した(なお、後者の冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である。因みに撮影者は不明である)。前掲の実物画像を視認して電子化したが、書信本文が下方で概ね二字分総て切れてしまっているため、そこは旧全集に従った。岩波旧全集活字本文では「高輪」とするが、実物は明らかに「髙」(梯子「高」)であり、「澤蟹」は略字の「沢蟹」である。葉書の表上部横向き左に、大きく白抜きで「POST CARD」、横向き中央やや上左に小さく、「CORRESPONDENCE HERE」(CORRESPONDENCE は「書信」の意)とあり、同じ高さで右側に、同じポイントで、「NAME AND ADORESS HERE」とあり、その二つの間に横向きでは縦に罫線が入る(英文・罫線は全て印刷)。]

2021/07/04

芥川龍之介書簡抄92 / 大正八(一九一九)年(四) 佐々木茂索宛(如何にも怪しい奇体な内容――秀しげ子との致命的不倫関係の深みへ沈む芥川龍之介――)

 

大正八(一九一九)年十月二十日・牛込區天神町十三 佐々木茂索樣・十月廿一日 田端四三五 芥川龍之介

 

手紙のなくなるのは不安だな あの中には君に封筒を書いて貰つた禮や何かあつたから餘計僕も不安だよ さう云へば少しのろけてもゐたやうな氣がする それを君以外の人間に見られるのは恐れるな

この間は君がむきになつて怒つた所を見て甚愉快だつた 瀧井の怒るのは度々僕が怒らせつけてゐるから珍しくもないが君のは始めてだから面白かつたよ 君は怒ると平生不明瞭な言語が急に明快になる あれは怒の一德だ その上色が白いから艷且凄だよ これからもあゝ云ふ場合には遠慮なく怒り給ヘ

丁度この手紙を出して一日位すると君の書いた封筒の手紙が屆く筈だから返事を書くのは見合せてくれ給へ ぶつかると可笑しいから

その後多忙で句所ぢやない 今强ひて歌一首を案ずれば

   秋を深み古江に落つる夕山の木草の影は澄み徹るも

                   龍

   茂 索 先 生 梧下

  二伸 号を何とかつけないかね手紙をかくとき無風流でいけないから

  澄心亭主人とか綠梅洞々主とか僕の持合せの号を進上しようか

 

[やぶちゃん注:実は芥川龍之介は、六月十日に知り合った秀しげ子と、その翌日から、性急なターゲット行動に移って親しくなり、この前月の九月には、後戻り出来ない深刻な不倫関係へとひた走りに走ってしまっていたのである。詳しい時系列考証は、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄 附やぶちゃんマニアック注釈」を読まれたいが、高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」(彩流社二〇〇六年刊。秀しげ子と野々口豊との関係を深く掘り下げたもの)によれば、同年六月十一日に、芥川は、しげ子へ、手紙と自分の作品集(直近の「傀儡師」か)を送っている。高宮氏はこの事実は、この日の早朝(当時の郵便局の窓口の営業開始は午前六時)早くに速達で出され、夕方に届けられたと推定、宇野浩二が芥川を『早業の達人』(宇野浩二「芥川龍之介」)と呼んだ所以であろう、と記されておられる(リンク先は私のテクスト)。その手紙には『昨夜は愉快でした。貴女が私の最も好きな或る女性に似ておられたので、などと歯の浮くような文句がつらねられていた』とし、また、それら(この手紙の内容)が同年九月号の『新潮』に「文壇風聞記 芥川氏の社交振り」と題するゴシップ記事として取り上げられてしまったのである。この内容漏洩については、関口定義氏は「芥川龍之介とその時代」(筑摩書房一九九九年刊)で『彼女には芥川の手紙の一件をたちまち公開するはしたなさがあった』とリーク元をしげ子自身としている。

 採用しなかったが、この九月十四日(年次推定)の富田碎花宛書簡(転載)で(富田砕花(とみたさいか 明治二三(一八九〇)年~昭和五九(一九八四)年)は詩人・歌人。岩手県盛岡市生まれ。本名・戒治郎。日本大学殖民科卒業。石川啄木の影響を受けて歌人として出発したが、大正四(一九一五)年、最初の詩集「末日頌(まつじつしょう)」を上梓、大正詩壇に於ける民衆詩派の詩人として活躍した)、

   *

恐縮つづきで手紙も書けません 原稿送ります なる可く誤植を少くして下さい 唯さへ詩文の價値が怪しいのだから 誤植があるとゼロになるのです それから「解放」でも僕のゴシップなぞ餘りのせないで下さい この頃少しゴシップに祟られすぎてる 實際問題として困る事が持ち上ると迷惑だから

   *

と書いている。正確には確認出来なかったが、どうも富田はこの頃、雑誌『解放』の編集を手伝っていたようである。富田はアメリカの国民的詩人ウォルター・ホイットマン(Walter Whitman 一八一九年~一八九二年)の代表詩集で一八五五年刊の「草の葉 ウオールト・ホヰツトマン 富田碎花譯」をこの年の「ホイットマン生誕百年祭」に合わせて、翌年にかけて大鐙閣(だいとうかく)から刊行している(龍之介もその訳詩集を富田から貰っている)が、この大鐙閣というのは、雑誌『解放』の出版元だからである。とこかくも、ここで珍しく龍之介が苛立っているのは、先に示した九月号『新潮』の「文壇風聞記 芥川氏の社交振り」というゴシップ記事を指していることは明らかである。しかも、このゴシップはデッチアゲでも何でない、確かな事実だからこそ、龍之介は激しく苛立っているのである。

 以下、「我鬼窟日錄は、明らかな芥川龍之介の精神的変調を、短い記載の中によく伝えている。

   *

  九月十日 雨

 午後菊池の家へ行く。宮島新三郞が來てゐる。三人で月評を作る。

 夕方から十日會へ行く。

 夜眠られず。起きてクロオチエがエステテイクを讀む。

   *

この「夕方から十日會へ行」ったことと、「夜眠られず」には連関が疑われる。そこには秀しげ子が出席していた――芥川の恋情が揺す振られ出した――いや、何らかの秘密の逢瀬が約束された――だから……眠れない……鷺年譜では『恐らくこの夜も秀しげ子に会い、密会の連絡をしたと思われる』と踏み込んだ記載をなされており、こうしたことに禁欲的な宮坂年譜でも『夕方、十日会に出席し、秀しげ子と会うか。夜、眠れない』と意味深な書き方がなされている。高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」でも、ここで運命の日、『同月十五日の逢い引きの約束がなされたと思われる』とある。

   *

九月十一日 雨

 妖婆續篇の稿を起す。

 この頃どう云ふものか傷神し易し。努めてむづかしき本を讀む事にしたり。

   *

「妖婆」の後篇を起筆した、正にこの日附の書簡(旧全集書簡番号五七六)で、南部修太郎(既出既注)の『妖怪が谷崎程書けていない』という「妖婆」批判に対し、かなり厳しい口調で反論している(私は南部が谷崎の名を出して比較したのが災いしていると思う)。最後には『あれでも路上より傑作だと思ふが如何』と、放り投げた「路上」と比較して『傑作』という辺り、芥川らしくない。やっぱりおかしい。――芥川君、何か変だよ。――南部との書簡の応酬は、この後も十三日・十六日・十八日と続いている。「傷神」は傷心で、心に痛手を受けて悲しい思いに沈むことを言うが、これは芥川が妙に食い下がっている南部の「妖婆」批判などとは、実は無縁な気がする(しかし、正にこのタイミングで南部の名が出てくるのには正直、因縁を感じる。後に秀しげ子は南部とも関係を持ち、芥川がそれを知って愕然とするという衝撃的な事実があるからである)。これは寧ろ、秀しげ子に止めどもなく傾斜してゆく自分の心への、良心の警鐘の忸怩たる思いの反映した抑鬱気分である。

   *

 九月十二日 雨

 雨聲繞簷。盡日枯座。愁人亦この雨聲を聞くべしなどと思ふ。

   *

「雨聲繞簷」は「雨聲(うせい)  簷(のき)を繞(めぐ)る」である。「愁人」は「しうじん(しゅうじん)」で、本来は文字通り、悲しい心を抱いている人、悩みのある人の意であるが、芥川龍之介は符牒として「秀しげ子」をこう呼んでいる。それは恋をして愁いに沈むアンニュイな翳を芥川がしげ子の容貌に垣間見たからででもあろうか? ともかくもファム・ファータル秀しげ子に如何にも相応しい。但し、芥川は「月光の女」「越し人」等、こうした如何にもな気障な愛人呼称の常習犯では、ある。なお、高宮檀氏は「芥川龍之介の愛した女性」で、この符牒について、関口定義氏が「芥川龍之介とその時代」で『芥川が彼女を虚構の世界で美化してしまったことを示すものだ』とするのに対し、『むしろ「秀夫人」の「秀」を音読みして「夫」を省略した、芥川独特の洒落だっただのだろう』とする説を唱えておられる。何れもあり、という印象である。

   *

 そして――遂に――その運命の日――大正八年九月十五日――がやってくる。芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄 附やぶちゃんマニアック注釈」から引く(古い不全な電子化注なので、一部の漢字を正字化し、多少の修正を加えた)。

   *   *   *

 九月十五日 陰

 午後江口を訪ふ。後始めて愁人と會す。夜に入つて歸る。

 心緖亂れて止まず。自ら悲喜を知らざるなり。

[やぶちゃん注:「午後江口を訪ふ」高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」によれば、江口は当時、『谷中清水町一番地に住んでいた(『わが文学半生記』)』とあり、また、この「わが文学半生記」と小島政二郎の「長編小説 芥川龍之介」には、『しげ子が上野桜木町十七番地の弟の家へときどき遊びにきていたことが記されて』おり、『谷中清水町と上野桜木町とはすぐそばにあ』るから、『江口訪問後の芥川と弟の家へ遊びにきたしげ子のふたりは、両家の近くで落ち合ったという推理』をなさっておられる。そこから、ここに芥川龍之介がしげ子とのランデブウを下敷きにしたと高宮氏が言う「妙な話」を傍証として、二人が落ち合った場所を上野停車場と措定されるのである。その後、まず向島の料亭へ行き、そこで芥川は『自分をゲーテにし、彼女をゲーテの何番目かの恋人にして口説いたそうだ』(いずれも小島の前掲書に拠り、小島はこれを直接秀しげ子から聞き取りしたとしている)とある(高宮氏はこの向島の料亭も同定されている)。その後――二人は人力車を雇って――向島から深川へと向かった(高宮氏推定)。これが「或阿呆の一生」(リンク先は私のテクスト)の「二十一 狂人の娘」の情景であるという高宮氏の推定は私も以前から、そう考えて来た。

   +

      二十一 狂人の娘

 二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後うしろの人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。

 前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。

 「もうどうにも仕かたはない。」

 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり强い彼女に或憎惡を感じてゐた。

 二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………

   +

そうして……この後は……是非、当日の気象状況や当時の調べ得る限りの資料を渉猟して、正にホームズのように、二人のしけ込んだ待合を特定するに至る、高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」(彩流社二〇〇六年刊)をお読み戴きたい。――最後には、以前に私が「藪の中」の最終講義で明かした(ブログでも記載したが、ここではネタバレの謗りを受けぬよう、厳に伏せておくこととする)――驚愕の事実が――待っている……。

……ともかく、早くは(一九九二年)鷺只雄氏がその年譜で、この日、

――『秀しげ子と初めて二人だけで会い、恐らくワリナイ仲とな』った――

と記したように、

――芥川龍之介はこの日、秀しげ子と肉体関係を持った――

と明言してよい。それは、この日録本文末尾の、芥川苦渋の感懐が如実に物語っている。ただ、「或阿呆の一生」の芥川の心境部分は正に死を決意して後に書かれた後年のものであり、共時的に真実を語っているとは必ずしも思われない。ただ、芥川がこの体験の前後に、彼自身が論理的に納得出来ないような、ある『ぼんやりとした不安』(「或舊友へ送る手記」)を感じていたことは、想像に難くないのである(リンク先は私のテクスト)。なお、芥川龍之介の妻芥川文は後年の「追想 芥川龍之介」(芥川文述・中野妙子記 一九七五筑摩書房刊)で、

   *

『或阿呆の一生』の中に現われる、月の光の中にいるような彼女であり、狂人の娘であったり、□夫人であったりした彼女だと、私は思うのですけれど、はじめのうちは、日曜ごとに私の家を訪れて、主人と話をして帰りました。

 私にも、高価な刺繡の半襟や、その他のものを贈物にしました。

 老人達はあまりにもしげしげと訪ねて来る彼女に不審を抱いている様子でした。

 そんな時に私は、言訳役に廻って老人達の不審をといていたほどで、あまり気にかけておりませんでした。

   *

と述懐している(当該書を所持しているが見当たらないので、山崎光夫氏の「藪の中の家」(平成九(一九九七)年文藝春秋刊)から孫引きした)。しげ子は面会日を必ずターゲットとしてやって来るのだ。芥川家の文を除く親族が皆、不審がるほどの親密さだ。この叙述は恐らく、芥川龍之介と関係を持ってからのことと考えてよい。一部に、芥川龍之介や周囲の取り巻きが、秀しげ子を不当に悪女に仕立て上げたとして彼女を再評価する論評が一部に見られる。勿論、それは大切な視点ではある。しかし、この芥川文の控えめな一文は、逆に、しげ子の内に潜在しているところの真の『ファム・ファータル』の要素を、如実に示しているように思われてならないのである。

   *

 九月十六日 陰 時二雨

 終日鬱々。夜岡榮一郎を訪ふ。

悶々とした芥川の複雑な孤寂――良心の呵責としげ子の実像を知った戸惑い、しかし、その誘惑を断ち難いというアンビバレンツ――が「終日鬱々」の四文字に凝縮している。

   *

 九月十七日 晴

 午後大彥來る。一しよにミカドへ晩飯を食ひに行く。後小島を訪ふ。江口あり。十時に至つて歸る。

 不忍池の夜色愁人を憶はしむる事切なり。

やはり、あの日以来、錯綜し、ブレる、感情的複合コンプレクスが収まらない様子が見て取れる。「臥榻」は「ぐわたふ(がとう)」と読む。広義には寝床のことだが、ここは寝椅子であろう。

   *   *   *

 而して、この何やらん、悪事を働いているらしい、龍之介の佐々木宛書簡となるのである。しかもそれは、この十月二十一日よりもかなり以前から行われていたことが、冒頭の龍之介の謂いから窺われるのである。それは――ある人物からの来信を、家人にそれと気づかれて、不審がらないようにするため、恐らくは何十通分も、封筒の表書きを佐々木茂索に依頼して書いて貰ったものを、纏めてその人物に渡し、その人物が龍之介に送る書信をそれに入れさせ、投函させていた――ということを意味すると推理するのが、この何だか読み心地が如何にも気持ちの悪い内容を、よく説明するものである(しかもここで龍之介が言っている不安は別に佐々木が龍之介から受け取った手紙が、知らないうちになくなっていたということを龍之介に書信し、それを龍之介が不安がっているという痙攣的な非常事態をも述べているのである。異様極まりない!)。この封筒の偽造依頼は後日の二十七日朝執筆の書簡でも言及しており、『この頃君の手紙が一週に二三通來るので家中君の健筆に敬服してゐる』と、厭な感じの滑稽を語っているのである。ある女性について、宮坂年譜は『秀しげ子か』と、わざわざ割注されている。必ずしも断定出来るだけの物理的根拠はないが、まあ、それ以外には考えられないだろう。また、同年十一月二十五日には、ある女性と深夜まで会っており、別れ際に、この女性から粋な財布を贈られている。この事実を家人に隠すために、芥川は翌二十六日附で岡榮一郎に宛てて封函葉書を出している。その中で芥川は『昨夜おそくまで 君のうちへすはりこみその上意氣な紙入れまで貰つて歸つた だから今度君が來ると僕のうちで誰か禮を云ふかも知れんその節よろしく御含みを乞ふ但しこれは久米なぞへ内證々々』――この夜は、岡の家にいたことにしてもらい、財布も岡に貰ったことにして口裏を合わせて呉れ――という主旨を含ませた奇妙な書信を認(したた)めているのである。この、ある女性について、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」では、『馴染の芸者か』と割注されている。確かにこれは意気な財布という辺りは芸者っぽい感じはしないではない。しかし、秀しげ子であった可能性も排除は出来まい。ともかく、芥川龍之介の手紙の中では、特異的に「いやな感じ」のする書簡である。文との結婚から一年半――私は余りに早過ぎる不倫と断ずるしか、ない。

「佐々木茂索」(もさく 明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年:芥川龍之介より二歳年下)は小説家・編集者。後に文藝春秋新社社長。当該ウィキによれば、京都府出身で、実家は代々の種油製造業であったが、父親の代に没落して、人手に渡っていた。京都府第一中学校中退後、一時、朝鮮の仁川にいた叔父の元に身を寄せたが、大正七(一九一八)年に内地へ戻り、雑誌記者や、新潮社・中央美術社・時事新報社などで働き、大正八(一九一九)年に『新小説』に「おじいさんとおばあさんの話」を発表し、作家デビューを果たし、芥川龍之介に師事した。大正一四(一九二五)年に発表した「曠日(こうじつ)」が芥川の賞賛を受ける。同年、芥川の媒酌で大橋房子(佐佐木ふさ)と結婚した。長編小説一編と短編小説約九十編をものした後、昭和五(一九三〇)年を最後に、作家としては筆を折り、『文藝春秋』の幹部として活動、昭和一〇(一九三五)年には、菊池寛らと芥川龍之介賞・直木三十五賞を創設した。戦後の公職追放により、出版界を一時退いたが、戦後改組して発足した文藝春秋新社(現在の文藝春秋)の社長として復帰、没するまで活動した、とある。]

芥川龍之介書簡抄91 / 大正八(一九一九)年(三) 室生犀星宛一通

 

大正八(一九一九)年十月三日・田端発信・室生犀星宛

 

啓 高著難有く拜見あの詩集は大へん結構な出來だと思ひます私が今まで拜見した詩集の中でも一番私を動かしました昨夜は一晚あれを耽讀しました私の詩を贈ります私が一生に一つの詩になるかも知れない詩です下手でも笑つちやいけません「愛の詩集」はもつと度々讀んで見る心算です御禮まで 頓首

    十月三日       我   鬼

   室 生 犀 星 樣

 

  愛の詩集      芥川龍之介

室生君。

僕は今君の詩集を開いて、

あの頁の中に浮び上つた

薄暮の市街を眺めてゐる。

どんな惱ましい風景が其處にあつたか、

僕はその市街の空氣が

實際僕の額の上にこびりつくやうな心もちがした。

しかしふと眼をあげると、

市街は、――家々は、川は、人間は。

みな薄暗く煙つてゐるが、

空には一すぢぼんやりと物凄い虹が立つてゐる。

僕は悲しいのだか嬉しいのだか自分にもよくわからなかつた。

室生君。

孤獨な君の魂はあの不思議な虹の上にある!

 

[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集書簡の中で最初に室生犀星(明治二二(一八八九)年~昭和三七(一九六二)年:本名は照道。芥川龍之介より三つ年上)宛として出る書簡である。犀星とは、前年の大正七年の一月十三日、日夏耿之介の第一詩集「転身の頌」の出版記念会が日本橋のレストラン「鴻の巣」であり、芥川龍之介はそれに出席したが、この時、室生犀星を知り、同じ田端に住んでいることもあって、以後、親交を深めていた(一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」に拠る)。「芥川龍之介書簡抄90 / 大正八(一九一九)年(二) 六通」の最後の大正八(一九一九)年六月十五日菅忠雄宛の冒頭の注も、是非、参照されたい(実はこの時、芥川龍之介は秀しげ子との不倫関係が致命的なまでに進行していた。それは次の佐々木茂索宛書簡で述べる)。なお、ここに示された芥川龍之介の詩は、後に前年大正七年一月一日に刊行した第一詩集で「愛の詩集」(感情詩社刊・自費出版)と合わせた「定本 愛の詩集」が、龍之介の自死後の昭和三(一九二八)年一月に聚英閣から出版された際、その巻頭に(扉には「愛の詩集に」という献辞あり)掲げられた詩である。同詩集の「序」で犀星は『芥川君の詩を卷頭に掲げたのは同君が大正九年に自分に初めて書いた詩だと云ひ、自分に手交して見せたもので誠に同君の最初の詩作であるらあしかつた』(新全集第二十三巻の「詩歌未定稿」の「後記」による。『大正九年』はママ)と記している。本詩は旧全集第九巻の「詩歌」パートに所収しているため、既に「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」で採録しているが、今回、書簡としてソリッドに示すこととした。]

日本山海名産図会 第二巻 御影石

 

Sessyumikageisi

 

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは「攝刕御影石(せつしうてみかげいし)」。左のそれは本文の「打ち附け割(わり)」の手法が描かれてある。なお、以下の解説は原画を見て戴くと判るが、「」が随所に打たれてある。但し、現在の感覚からは、「、」とも「。」ともあるべきところが多いので、今回は再現するのをやめた。]

  ○御影石

攝州武庫(むこ)・菟原(むはら)の二郡(にくん)の山谷(さんこく)より出だせり。山下(ふもと)の海濱、御影村に石工ありて、是れを器物にも製して、積み出だす。故に御影石とはいへり。御影山の名は、城刕加茂、「あふひ」を採る山にして、此の國に山名あるにあらず。ただ、村中に「御影の松」有りて、「讀古今集(しよくこきんしう)」[やぶちゃん注:「讀」の漢字はママ。「續」の誤刻。]に基俊卿の古詠あり。元、此の山は海濱にて、徃昔(むかし)は牛車(うしぐるま)などに負ふすることはなかりしに、今は海渚(かいしよ)、次第に侵埋(うもれ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]て、山に遠ざかり、石も、山口(やまくち)の物は、取り盡きぬれば、今は、奧深く採りて、二十丁[やぶちゃん注:約二キロ百八十二メートル。]も上の「住よし村」より、牛車を以つて繼(つ)いで御影村へ出だせり。有馬街道生瀨川原(なませかわら)などの石も、この奧山とは、なれり。此の上品の石といふは、至つて、色、白く、黒文(くろふ)、なし。これは、昔に出でて、今は鮮(すく)なし。されども、その費用をだに厭(いと)はずして、高嶽深谷(かうがくしんこく)に入りては、得ざるべきにあらずといへども、運送・車力(しやりき)の便(たより)なき所のみ多し。

○石質(いしのしやう) 文理(いしめ)は「京白川(きやうしらかは)石」に似て、至つて、硬(かた)し。故に、器物(きぶつ)に制するに、微細の稜尖(かと)も手練(しゆれん)に應ず。白川は、酒落(ほろほろ)して、工に任(まか)せず。石工、大なる物に至つては、難波(なには)天王寺の鳥井などをはじめ、城廓・石槨(せきくわく)・佛像・墓碑・築垣(ついかき)に造り、啄磨(たくま)[やぶちゃん注:漢字はママ。]しては、皮膚のごとし。是れ、萬代不易(ばんだいふへき)の器材、天下の至寳なり。

○品數(ひんすう)    直塊(のつら)は、大鉢(おほはち)・中鉢(ちうはち)・小鉢(こはち)【鉢とは手水鉢(てうずはち)に用ゆるにより、本語(ほんご)とはすれども、柱礎(はしらいし)・溝石(みぞいし)などをはじめ、その用、多し。】、頭無(づなし)は、大きさ、大抵、一尺五、六寸にして、その上の物を「一つ石」と号(なづ)く。又、「六人」といふは、「一荷(か)に六(むつ)づつ擔ふ」の名なり。「栗石(くりいし)」は小石にして、大雨(たいう)の時には、山谷(さんこく)に轉(ころ)び落つる物ゆえ、石に稜(かど)なし。これは、鉢前(はちまへ)・蒔石(まきいし)等(とう)に用ゆ【石を「くり」といふこと、「應神記」の歌に見えたり。また、「萬葉集」に、『興津(おきつ)いくり』ともよみて、山陰道の俗語なりとも、いへり。大小にかかはらず、いふとぞ。】

割石(わりいし)は大割(おほわり)・中割・小割・延條(のべ)【長く切りたる石なり。】・蓋石(ふたいし)【大抵、長二尺斗。幅一尺一、二寸。厚三、四寸。】、いづれも築垣(ついがき)・橋臺(はしたい)・石橋(いしばし)・庭砌(ていれき)・土居(どゐ)など、その用、多し。また、石橋に架(か)くる物、別に河刕(かしう)より出だす石も有るなり。○切り取るには、矢穴(やあな)を掘りて、矢を入れ、「なげ石」をもつて、ひゞきの入りたるを、手鉾(てこ)を以つて、離し取るを、「打ち附け割(わり)」といふ。また、橫一文字(いちもんじ)に割るを、「すくい割(わり)」とは、いふなり。

[やぶちゃん注:「御影石」「石品」の私の当該注を参照されたい。

「攝州武庫(むこ)」摂津国の現在の兵庫県内にあった郡。「武庫」の名は、大阪湾を挟んで難波津の対岸である「向こう」の岸に当ることに由来するとも、或いは、神功皇后が「三韓出兵」の後に兵庫(兵器蔵)を埋めたことに由来するともいわれる。明治一二(一八七九)年に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の尼崎市の一部と、宝塚市の一部(武庫川以南)及び西宮市の大部分に相当する。この辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「菟原(むはら)」摂津国の古郡名。「うはら」「うばら」が正しい。「万葉集」では「宇奈比」とあり、「海辺」の意と思われる。「和名類聚抄」以後、「宇波良」と読む。美少女「菟原處女(うないをとめ)」伝承で知られる(「菟原壯士(うないをとこ)」と「血沼(ちぬ)壯士」に求婚されて悩み、生田川に身を投げ、二人の男も後を追うという悲劇。「万葉集」で高橋虫麻呂や大伴家持らの歌に詠まれ、「大和物語」・謡曲「求塚」、森鴎外「生田川」の題材ともなった)。明治二九(一八九六)年に兵庫県武庫郡に合併後、廃止された。兵庫県西宮市常磐町に伝承比定地の碑が建つ。

「御影村」兵庫県神戸市東灘区御影附近。

『御影山の名は、城刕加茂、「あふひ」を採る山にして、此の國に山名あるにあらず』加茂という地名では残らないが、鴨川と合流する比叡山の麓の高野川左岸の「御蔭山城跡」のある山のことか。この山は「二葉山」とも呼ばれ、この辺りに「二葉葵」(被子植物門双子葉植物綱ウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属フタバアオイ Asarum caulescens )が自生したことに因むという。葵祭と密接な関りがあるこの山の北西にある御蔭神社の秘儀等については、参照したサイト「京都観光」の同神社の解説を読まれたい。

「御影の松」兵庫県神戸市東灘区御影本町六丁目にある浄土真宗西方寺境内にある。個人サイト「すさまじきもの ~歌枕★探訪~」の「御影(神戸市東灘区)」を見られたい。そこに『海に面した御影の地は、松の景勝地だったらしい』とあり、『初代は明治時代に枯れたらしく、これは二代目』とあって、和歌も載る。

『「讀古今集(しよくこきんしう)」に基俊卿の古詠あり』「續古今和歌集」は全二十巻。正元元(一二五九)年、後嵯峨院の院宣により藤原基家・為家・行家・光俊が撰し、文永二(一二六五)年に成立した。撰者は、当初はは為家だけであったが、途中から加わった光俊の発言力が強く、「反御子左家」的性格が強い。藤原基俊のそれは、

 世にあらば

   また歸り來む

  津の國の

    御影の松よ

   面(おも)がはりすな

である。

「住よし村」御影の後背地に兵庫県神戸市東灘区住吉台やその手前に住吉山手がある。最住吉台最深部を平地部分から調べると、確かに一キロ百八十メートルほどとなる。

「有馬街道生瀨川原(なませかわら)」住吉台北部から計測すると、東北に十キロ近く離れるが、兵庫県西宮市生瀬町(なまぜちょう)のことであろう。ここは武庫川右岸に当たり、有馬街道沿いでもある(私の「諸國里人談卷之四 皷瀧【蛛滝 有明櫻 屏風岩 高塚淸水】」の注を参照されたい)。

「黒文(くろふ)」「黑斑」。

「京白川(きやうしらかは)石」白川石は、京都市左京区北白川から比叡山にかけて産する黒雲母花崗岩の石材名。全体として白色で、中粒又は粗粒であるが、時に斑状を呈する。古くから利用された有名な御影石であるが、玉石から採石されるために、大材が得られず、僅かに建築用材として利用されるほか、石碑や石灯籠に加工されている。また、附近を流れる白川の川砂は、白くて綺麗なため、「白川砂」として京都御所、天皇陵や各地の神社仏閣で古くから利用されてきた(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「稜尖(かと)」人工的に削った「角(かど)」。

「酒落(ほろほろ)して」「酒」は「洒」の誤刻か。曝されて硬度が失われ、ぽろぽろと崩れる謂いであろう。

「鳥井」鳥居。

「石槨(せきくわく)」現代仮名遣「せきかく・せっかく」。本邦では古墳時代に見られる死者を葬るのに用いられた石製の棺、及びそれを入れる外箱、或いはそれを安置する構築物である古墳の石室部分や古墳(埋葬施設)全体を指す場合もあるようである。本来は遺骸を納める棺が直接土に触れぬように棺の周りを囲む木製の外箱を「槨」と言う。中国では「棺」と「槨」が共存したことが明らかであるが、「三国志」の魏書東夷伝倭人(ぎしょとういでんわじんの)条には、「其死有棺無槨」と、中国風の「槨」が、わが国の墓制にないことを記している。この「槨」と「棺」の字義については、嘗て論争があったが、日本では「粘土槨」・「木炭槨」・「礫槨」などのように、古墳の埋葬施設の内、「木棺をくるむ部分をさす語」として使われている。ここも木製の棺を封入するためのさらなる外周を包む石製容器としておく。則ち、厳密には、遺体を直接納める石製容器を指すのが「石棺」であるが、しかし考古学者の論文でも「石棺」と呼ぶ場合、遺体を入れた「木棺」を納める「石槨」以外に、火葬骨や改葬骨を収納する「石製蔵骨器」、或いはその「蔵骨器」を入れるための「石櫃(せきひつ)」等、本来は呼び分けられるべきものも含まれている場合が少なくない。また、箱式石棺のごとく,土壙内に自然の板石をただ組み合わせただけで、多くの場合、底石もない小構築物をも「石棺」或いは「石槨」と言う語を用いてるケースがある。

「築垣(ついかき)」「築垣(つきかき)」の音変化で、これがさらに「築泥(ついひぢ)」から変化したのが「築地(つひぢ)」である。これは通常、土で造った垣根で、両側に板を立てて内に土を詰め、つき固めて造った塀であるが、ちゃんとしたものは、基盤に石組の基礎を打つ。ここはそれ。

「直塊(のつら)」「野面」で、山から切り出したままで加工してない石の表面。或いは、その石を全体を指す。ここは後者。

「頭無(づなし)」不詳。小学館「日本国語大辞典」にも載らない。複数の地学論文を見ると、磐梯山のごく古い崩落に「頭無崩れ」という名称を用いてあるが、これはかなり会津盆地を挟んだ西方の地名として残っている。調べてみると、「頭無」という地名は、本来は、「水源がはっきりしないところ・水の流入が判らないところ」を指すという記載があったが、石にそれを使われても意味が判然としない。方向の定まらない波状紋があるということだろうか? いや、そもそもが、これは前の「直塊(のつら)」の対語であるはずだから、何らかの人為的加工を加えて、小さくした物を指していると読むべきであるように思われる。お手上げ。識者の御教授を乞う。

「鉢前(はちまへ)」手水構(ちょうずがまえ)の一形式で、「縁先手水鉢」ともいう。縁先の一隅に構える。普通は、座敷の外或いは縁の外に濡れ縁を付けて、その前方に手水鉢を据え、周囲に役石(やくいし)を配し、縁との間に「海」を形成し、排水のための「吸い込み」をつくる。役石には「蟄石(かがみいし)」・「覗(のぞき)石(清浄石)」・「水汲(みずくみ)石」・」「水揚(みずあげ)石」がある。水鉢の背後には、植え込みや袖垣を作り、近くに鉢明かりの灯籠を配置する。灯籠は軒に釣灯籠を下げることもある。縁の上から手水を使うため、水鉢は台石にのせるか、背の高いものを据える。書院で茶の湯を行うための設備であったが、建物と庭を繋ぐ重要な役割を演じ、書院にはなくてはならない装置として普及し、濡れ縁を含めて鉢前の構成には趣向が凝らされている(以上は小学館「日本大百科全書」に拠る)。

「蒔石(まきいし)」茶室の庭などに、蒔いたように所々に置く飛び石。

『石を「くり」といふこと、「應神記」の歌に見えたり』応神天皇三一(三〇〇)年八月の条に出る天皇の歌として、例の船「枯野(からの)」の余りで作った琴(こと)の音への祝歌、

   *

 加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 賀岐比久夜 由良能斗能 斗那賀能伊久理爾 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜

 枯野を 鹽に燒き 斯(し)が餘り 琴に作り 搔き彈くや 由良(ゆら)の門(と)の 門中(となか)の海石(いくり)に ふれ立つ 撫(な)づの木の さやさや

   *

を指すものと思われる。「撫(な)づの木」は前の情景から海藻を指している。

『「萬葉集」に、『興津(おきつ)いくり』ともよみて』巻第六の山部赤人の天皇の国納めを言祝ぐ一首(九三三番)、

   *

天地(あめつち)の 遠きがごとく 日月(ひつき)の 長きがごとく 押し照る 難波(なには)の宮に わご大君(おほきみ) 國知らすらし 御食(みけ)つ國 日の御調(みつき)と 淡路(あはぢ)の 野島(のしま)の海人(あま)の 海の底 沖つ海石(いくり)に 鰒玉(あはびたま) さはに潛(かづ)き出(で) 船並(な)めて 仕へまつるし 貴し見れば

   *

である。

「山陰道の俗語なりとも、いへり。大小にかかはらず、いふとぞ」小学館「日本国語大辞典」の「くり」に『石。特に小石をいう。石ころ』とあり、新井白石の「東雅」を引き、『栗(クリ)古語に石を呼びてくりといへり』とし、さらに「物類称呼」(俳諧師越谷吾山(こしがやござん)によって編纂された江戸後期の方言辞典。安永四(一七七五)年刊)を引き、『縊死 いし 畿内にて、ごろたと云は 石の小なる物を云〈略〉山陰道にては、くりと云<細小なるものか>〈略〉江戸にて、じゃりと云』とある。「方言」欄には、『③石垣を積む時に使ったりする握りこぶしぐらいの大きさの石』として、『《ぐり》』の方言採集地の中に『島根県那賀郡』・『山口県』が含まれる。但し、この記載は、作者の言うような「大小にかかはらず、いふとぞ」というのとは齟齬する。

「橋臺(はしたい)」「はしだい」。橋の下部構造で、橋の両端に設けられた台状のもの。橋桁などの上部構造の端部を支持し、橋の荷重を地盤に伝える。

「庭砌(ていれき)」「砌」は「水限(みぎ)り」の意で、雨滴の落ちる際、また、そこを限るところからの呼称であるから、ここは庭に面した軒下などの雨滴を受けるために石或いは敷瓦を敷いた所を指す。

「土居(どゐ)」既注。ここは、「建物や家具などの土台」のことであろう。

「河刕(かしう)」大阪府南東部の旧国名河内国。同国は優れた石工の出身地でもあった。

「矢穴(やあな)を掘りて、矢を入れ」楔(くさび)穴及び楔のこと。図の左手を参照されたい。

「なげ石」図の一番左端の石工が持ち上げて、楔に打ちつけようとしている。

「ひゞき」罅(ひび)に同じ。

『手鉾(てこ)を以つて、離し取るを、「打ち附け割(わり)」といふ』図上中央部参照。

「すくい割(わり)」「掬(抄)ひ割り」「すくふ」には、「下から持ち上げるようにして横に掃(はら)う」の意がある。]

2021/07/03

芥川龍之介書簡抄(追加) 明治三八(一九〇五)年六月二日・日本海軍装甲巡洋艦「出雲」艦長(伊地知李珍大佐)宛・自筆絵葉書・軍事郵便・芥川龍之介満十六歳の現存最古の書簡

 

明治三八(一九〇五)年六月二日(消印)・帝國軍艦 出雲艦長殿(自筆絵葉書・軍事郵便)

 

Izumokantyouate

 

――――――

日本海々戰

の大捷を祝

し奉る

――――――

東京府立第三

中學校一年級

 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介満十六歳。府立第三中学校(現在の両国高等学校)一年。岩波旧全集では、最終巻第十二巻の追加書簡冒頭に置かれてある。そちらの画像はモノクロームであるが、ここでは「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)の日本近代文学館蔵とするカラー写真のものをトリミングした(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)。新全集の宮坂覺氏の年譜には、五月二十七日土曜日の条に、『日本海海戦の勝利を報ずる号外に感激する』とあり、『日本海海戦の勝利に際し、伊地知(いぢち)李珍』(すえたか)『(出雲艦長)に自筆絵葉書を送る。これが現存する最初の書簡である』とある。前者は、晩年の大正一五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された「追憶」(リンク先は私の古い電子化注であるが、今回、表記をリニューアルした)に基づくとある。以下にそこから全部を引く。

   *

       日本海海戰

 僕等は皆日本海海戰の勝敗を日本の一大事と信じてゐた。が、「今日晴朗なれども浪高し」の號外は出ても、勝敗は容易にわからなかつた。すると或日の午飯の時間に僕の組の先生が一人、號外を持つて教室へかけこみ、「おい、みんな喜べ。大勝利だぞ」と聲をかけた。この時の僕らの感激は確かに又國民的だつたのであらう。僕は中學を卒業しない前に國木田獨步の作品を讀み、なんでも「電報」とか云ふ短篇にやはりかう云ふ感激を描いてあるのを發見した。

 「皇國の興廢この一擧にあり」云々の信號を掲げたと云ふことは恐らくは如何なる戰爭文學よりも一層詩的な出來事だつたであらう。しかし僕は十年の後、海軍機關學校の理髮師に頭を刈つて貰ひながら、彼も亦日露の戰役に「朝日」の水兵だつた關係上、日本海海戰の話をした。すると彼はにこりともせず、極めて無造作にかう云ふのだつた。

 「何、あの信號は始終でしたよ。それは號外にも出てゐたのは日本海海戰の時だけですが。」

[やぶちゃん注一:國木田獨步の小説に「電報」という小説はない。該当する獨步の作品は「號外」である。][やぶちゃん本日ここでの追加補注:「號外」は明治三九(一九〇六)年八月発行の雑誌『新古文林』に掲載、後に『濤聲』に所収された。リンク先は後に私が電子化したものである。]

[やぶちゃん注二:「朝日」は、明治三三(一九〇〇)年、イギリスのジョン・ブラウン社竣工の日本海軍の戦艦。主艦「三笠」とほぼ同型。日露戦争では第一艦隊第一戦隊に属し、二番艦として活躍した。大正一二(一九二三)年に特務艦となり、関東大震災の救助活動に活躍したが、「ワシントン条約」により、兵装を撤去し、工作艦兼潜水艦救難艦となった。「日華事変」の勃発により工作艦となり、「太平洋戦争」では馬来部隊に属し、南方勤務についたが、昭和一七(一九四二)年、アメリカの潜水艦の雷撃を受けて沈没した。]

   *

「出雲」日本海軍装甲巡洋艦。当該ウィキによれば、「出雲型」一番艦。艦名は出雲国に由来し、艦内には「くしなだひめ」(「やまたのおろち退治」の説話で登場する。大山津見神の子である「あしなづち」・「てなづち」夫婦の八人の娘の中で最後に残った娘。原文で「童女」と記述されるように、「くしなだひめ」未だ年端もいかぬ少女であった。「やまたのおろち」の生贄にされんとしたところを、「すさのおのみこと」により、姿を変えられて湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変じ、「すさのおのみこと」は、この櫛を頭に挿して「やまたのおろち」と戦い、退治した)の神像を祀っていた。「日露戦争」では、『上村彦之丞提督(第二艦隊司令長官)率いる「上村艦隊」の旗艦として参加』し、「日本海海戦」では、『殿(しんがり)艦を務めた姉妹艦』「磐手」(いわて)とともに『活躍している』。「第一次世界大戦」には、『メキシコの動乱に際して警備艦として派遣され』、『続いて』、『第二特務艦隊として地中海に派遣された』。『大戦終了後、練習艦(類別上は巡洋艦籍のまま)として遠洋航海に従事した』が、『旧式化により』大正一〇(一九二一)年九月より、『一等巡洋艦から海防艦』『に類別変更された』。『その後も』昭和七(一九三二)年『以降、第三艦隊旗艦としておもに上海黄浦江に停泊した』。昭和一二(一九三七)年七月以降の「第二次上海事件」及び「日中戦争」では、『支那方面艦隊旗艦として上海方面にあった』。同年八月には、『中華民国空軍の空襲をうけ、対空戦闘をおこなった(中国空軍の上海爆撃)』。昭和一六(一九四一)年十二月八日の「太平洋戦争」開戦時も、『支那方面艦隊旗艦として上海で迎えた』。昭和一七(一九四二)年七月一日、『日本海軍の海防艦定義変更にともない、「出雲」は一等巡洋艦に復帰し』、翌年、『中国大陸から内地にもどり、瀬戸内海で練習艦となった』が、「太平洋戦争」末期の昭和二〇(一九四五)年七月二四日、呉軍港への米軍の『空襲により』、『転覆・沈没した』。実に戦没するまで四十五年の間、現役にあった名艦であった。この当時の艦長は大佐であった伊地知季珍(いじちすえたか 安政四(一八五七)年~昭和一〇(一九三五)年)であった。彼は鹿児島県出身で、明治七(一八七四)年十月に海軍兵学寮(第七期)に入学、明治一六(一八八三)年に海軍少尉に任官。明治一九(一八八六)年に「金剛」(奇しくも芥川龍之介が先だって乗り込んだ軍艦である)分隊長となり、「愛宕」・「武蔵」・「筑波」の各分隊長、「龍驤」・「橋立」の各砲術長などを経て、明治二七(一八九四)年六月、「扶桑」砲術長に就任して「日清戦争」に出征、明治二八(一八九五)年二月には常備艦隊参謀に転じ、同年八月、初代「大和」(初代葛城型二番艦で三本マストの汽帆兼用の軍艦)副長となり、翌年四月、海軍少佐に昇進し、佐世保鎮守府参謀に着任。「扶桑」副長に異動し、明治三〇(一八九七)年十二月に海軍中佐に進級した。明治三一(一八九八)年三月、呉造兵廠検査科長に就任し、造兵監督官(イギリス出張)を経た後、「武蔵」艦長に就任、明治三四(一九〇一)年七月には海軍大佐に昇進した。「金剛」・「浪速」の各艦長を経て、明治三六(一九〇三)年九月に「出雲」艦長に着任し、「日露戦争」に出征、「蔚山沖海戦」及び「日本海海戦」に参加した。その後、「鹿島」回航委員長として渡英した後、同艦長を経て、舞鶴鎮守府参謀長に就任、海軍少将に進級、呉工廠長となり、海軍中将に進んだ。以後、第二艦隊司令長官・艦政本部長・横須賀鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・海軍将官会議議員を歴任。大正六(一九一七)年三月、後備役に編入となった(以上は当該ウィキに拠った)。海軍機関学校教官時代の芥川龍之介と接点があったら、きっと喜んだに違いにない。惜しい。にしても、この葉書、誰が提供したのだろう。ちょっと気になる。まさか? 伊地知本人!?

「大捷」(たいせふ)は「大勝(たいしやう)」に同じで、「圧倒的勝利」の意。]

芥川龍之介書簡抄90 / 大正八(一九一九)年(二) 六通

 

大正八(一九一九)年二月二十六日・田端発信・佐野慶造 同花子宛

 

御見舞難有うございます日頃煙草をのみすぎた事が崇つて咽喉を害し甚困却して居りますしかしもう大分よろしい方ですから乍憚御休神下さい

   病閒やいつか春日も庭の松

 

[やぶちゃん注:新全集宮坂年譜によれば、この先立つ二月十七日(火曜日)、芥川龍之介は『インフルエンザのため発熱し、田端で床に就く』。『月末まで床をあげられず、学校も翌月初めまで休んだ』。『スペイン風邪に罹ったのは、前年』十一『月上旬に続いて二度目で』、『この頃、久米正雄も肺炎を併発して重態になっている』とある。なお、同年譜によれば、この二日前の二月二十四日の項に、『この日までに、主任教授を通じて、海軍機関学校に退職願を提出』している、とあり、また、二十七日にはかなり快復したらしく、午後五時頃、『赤坂三河屋で開かれた「改造」発刊披露会に出席』しており、三月三日には田端から鎌倉へ戻っている。また、機関学校は龍之介の方は四月早々に辞める予定でいたが、学校側から『後任が見つかり次第の退職』を要請された。しかし、後任はすぐ見つかったらしく、実際の最後の授業は三月二十八日で(採用しなかったが、同日の岡栄一郎宛書簡に授業を終わって、教官室(推定)で、『敎科書その他皆ストオヴに抛りこんで燃やしてしまひました甚せいせいしてゐます早く東京へかへつてのらくらして暮らしたい』と記している。但し、晩年、龍之介はこの鎌倉時代の蜜月を想起して、一番、幸せだった、鎌倉を離れたのは失敗だった、と述懐していたと私は聴き及んでいる。

「乍憚」「はばかりながら」。この場合は、「自分でかく言っておきながら、変ですが」の意。

「休神」(きうしん(きゅうしん))は「休心」とも書き、「心を休めること・安心」の意で、多くここに出た形で手紙文で用いる。]

 

 

大正八(一九一九)年二月二十八日・田端発信・片山廣子宛

 

敬啓 御見舞下すつて難有う存じます私の方はもう二三日中に床をはなれられさうですがそちらの御病氣は如何ですか氣候不順の際吳々も御大事になさい私の方からも御禮旁御見舞まで 頓首

     卽景

   時雨れんとす椎の葉暗く朝燒けて

    二月廿八日朝       芥川龍之介

   片 山 廣 子 樣粧次

 

[やぶちゃん注:奇しくも「或阿呆の一生」(リンク先は私が電子化したもの)の中で複合表現した《月光の女》の候補たる二人――佐野花子と片山廣子――が並んでいる(底本の岩波旧全集で前者は書簡番号四九八、後者は四九九)。実際の廣子の見舞いは二十七日以前の直近と思われ、この時、病気の性質上、廣子は玄関先でフキか文にお見舞いを述べ、見舞いの品を渡し、龍之介とは逢わずに帰ったものと推察する。さればこその返礼である。但し、私は、これ以前、龍之介は廣子と佐々木信綱の「心の花」の歌会等で、面識や軽い対談は既にあったと考えている。無論、この時、龍之介はまさか彼女が、自分の最後に本気で愛する相手となろうとは、微塵も思いもせず、仮想すら出来なかったであろう。なお、この日から九日後の三月八日、遂に大阪毎日新聞社から客員社員の辞令が届いた。原稿料の他に報酬月額は百三十円であった。また、四月二十八日には鎌倉を引き払い、田端の養父母の芥川家へ轉居している。宮坂年譜には、この日の条に『二階の書斎に菅虎雄の扁額「我鬼窟」を掲げ、日曜日を面会日に決めて、他の日は面会謝絶とした』とあり、さらに『「大阪毎日新聞」の連載小説(四、五〇回位)の原稿依頼を受諾』し、六月三十日から八月八日(併せて四日休載)まで「路上」を連載した。

「そちらの御病氣」廣子の詳細年譜を調べたが、不明。]

 

 

大正八(一九一九)年五月八日・長崎発信・南部修太郞宛(絵葉書、菊池寛と寄書)

 

   天雲の光まぼしも日本の聖母の御寺今日見つるかも(大浦の天主堂)

                   龍

 

[やぶちゃん注:これに先立つ、三月十六日の朝、芥川龍之介の実父敏三が東京病院で亡くなっている(スペン風邪の重症化)。享年六十八であった。その末期の様子は名品「點鬼簿」の「三」に語られてある。さて。龍之介はこの五月四日から菊池寛とともに長崎旅行に出発した(但し、菊池は風邪による頭痛のため、岡山で下車し、龍之介は独りで尾道に途中下車するなどして、長崎に向かった)。五日に長崎に到着し、六日に大浦天主堂を訪ね、遅れて到着した菊池とと合流した。長崎滞在中は、長崎の名家の当主で実業家にして文化人(南蛮美術の収集・研究や写真史研究で知られる)であった永見徳太郎(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)の世話になった。宮坂年譜によれば、『菊池寛とともに、市中見物をしたり、永見家所蔵の長崎絵などを見たりして、大いに何番切支丹趣味を満足させた』とあり、また、『当時、長崎県立病院の精神科部長だった斎藤茂吉とも会った』とある。同月十一日、長崎を発して、大阪に到着、『夕方、菊池寛とともに、挨拶を兼ねて大阪毎日新聞社を訪ね』、たまたま、『同社の編集会議の例会が開かれており、その席でスピーチをし』ている。十五日の条には、『京都で葵祭りを見物するか』とあり、翌十六日の午前零時過ぎ、『タクシーで嵐山の渡月橋へ月見に出かけるなど、翌日未明まで祇園で遊』んでいる。田端帰還は十八日夜であった。

「南部修太郞」(明治二五(一八九二)年~昭和一一(一九三六)年:芥川龍之介より八ヶ月歳若である)は小説家。土木技師である父常次郎の長男として宮城県仙台市で生れる。父の転勤につれて東京・神戸・熊本・博多・長崎と転住した。明治三八(一九〇五)年の春、父の転勤とともに東京に上り、赤坂・麹町・四谷と住み移ったが、麻布区新龍土町に家を定め、芝中学校に通った。明治四五(一九一二)年、慶應義塾大学に入学し、文学科露文学を専攻、大正六(一九一七)年に慶應を卒業後、大正九年まで『三田文学』編集主任を務め、文筆生活に入り、大正十年に結婚し、二人の男子の父となった。芥川龍之介を師と仰ぎ、小島政二郎・滝井孝作・佐佐木茂索とともに「龍門の四天王」と呼ばれた。慶大で友人だった理財科の秋岡義愛が川端康成の従兄だったため、中学時代の川端と文通した経験があった。脳溢血のため自邸前で倒れ、逝去した。満四十三歳であった。以上は当該ウィキに拠ったが、そこには最後に、『南部は経済的には恵まれていたが、身体的には病が絶えず、持病の喘息、チフス、肺炎などで若い頃に命を落としかけている。作家としても、成功したとはいえない。現在では作品を手に入れることさえ困難である』とある。因みに、彼は翌大正九年七月には龍之介の「南京の基督」の批評を書くが、それに龍之介は強い不満を覚え、書簡上でかなり激しい反論を書き送っており(後に電子化する)、さらには、中国特派から帰った大正十年の九月には、龍之介は、隆之介の愛人秀しげ子が、何んと、この南部と密会しているところに、たまたま出合い頭に互いに遭遇してしまう、という大スキャンダルが発生することになる。大正十一年一月に発表したスキャンダラスな「藪の中」は、そうした龍之介・しげ子・修太郎の、猥雑にして痙攣的におぞましい三角関係が根底にあることは間違いない。]

 

 

大正八(一九一九)年五月十日・長崎発信・江口渙宛(絵葉書、菊池寛と寄書)

   瑠璃燈のほのめく所支那人(アチヤ)來たり女を買へとすゝめけるかも

                   龍

 

[やぶちゃん注:長崎では俗に中国人のことを古くから親しみを込めて「阿茶(あちゃ)さん」と呼んだ。小学館「日本国語大辞典」によれば、享保年間の幕府史料にその事実が記されてあり、語源は「大言海」には、『チュンコレン(中国人)のチュン(中)ををとってアチュン(阿中)か』とある。しかし、サイト「ナガジン!」の「唐人屋敷の生活~唐人屋敷で暮らしてみた!」には、中国から来た『?州人』(「?」は文字化け。ソースで見ても「?」である。冀(き)州人か?)『が目上の人のことを「アチャウ」と言っていたのを』、『長崎の人が聞き覚え、唐人に尊敬の意味を込めて「アチャ」と呼んだことがこの愛称の始まりのようで』あるとある。]

 

 

大正八(一九一九)年五月二十七日・田端発信・佐野慶造宛

 

啓 御無沙汰しました皆さん御變りもございませんか私は每日甚閑寂な生活をしてゐます時々、いろんな人間が遊びに來ては気焰をあげたりのろけたりして行きます所で橫須賀の女學校を昨年か一昨年に卒業したのに岩村京子と云ふ婦人が居りませうかこれは奥樣に伺ふのですもし居たとすれば容貌人物等の大體を知りたいのですが如何でせう手前勝手ながら當方の名前が出ない範囲で御調べ下されば有難いと存じます 以上

 この頃や戲作三昧花曇り

               芥川龍之介

 佐 野 樣 侍曹

 

[やぶちゃん注:『佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (五)~その1』にも登場する書簡である。

「岩本京子」前の電子化注で私は以下のように注した。『不詳。但し、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄」の大正八年の五月二十六日(本手紙の前日である)の条の末尾に、「受信、南部、岩井京子、野口眞造」とある。恐らく、愛読者として何かを書き送ってきた文学少女であり、出身校が花子の勤めていた汐入の横須賀高等女学校卒であったことに由来する依頼であろう。』。

「侍曹」「じさう(じそう)」は「側(そば)に侍する者」の意で、手紙の脇付の一つ。侍史に同じ。]

 

 

大正八(一九一九)年六月十五日・田端発信・菅忠雄宛

 

拜啓 御手紙難有う 其後如例匆忙たる日を送つて居ます小說が一向捗取らないので大に閉口して居ます中戶川氏の小說は恐らく今月の創作中で第一の傑作だらうと思ひますあれでもう少し前半が油が乘つてゐたら更に申分がなかつたらうと思ひます

鹿兒島へ御出の由嘸御寂しいだらうと同情してゐます勉强も大事だが體も一層大切にしなくつちやいけません僕はこの頃大に感じる所があつて精々養生をしようと思つてゐます 次の歌は湯河原の久米へ送つたものだからその關係上君にも序に御覽に入れます

   谷水の光は寒し夕山のまほらを見れば人立てり見ゆ

   あしびきの岩根は濡れて谷水の下光りゆく夕なりけり

   夕影はおぎろなきかもほそほそと峽間を落つる谷水は照り

                  頓首

    六月十五日      芥川龍之介

   菅 忠 雄 樣

二伸 先生によろしく申上げて下さいこの頃拓本や法帖を見るのが面白くなりましたがこれは全く先生の所でいろんな書を拜見したおかげです一生の得をしたと思つてゐます吳々もよろしく申上げて下さい 猶荆妻からお母樣や姊樣によろしく申上げてくれと云ふ事でした末ながら私からも姊樣の御緣談を御緣談を御祝ひ申上げます 以上

 

[やぶちゃん注:「二伸」は底本では全体が二字下げ。実は、この四日前に芥川龍之介にとって、運命的な邂逅があった。宮坂年譜から六月十日の条を引く。『神田の西洋料理店ミカドで開かれた十日会』(作家・詩人の岩野泡鳴(明治六(一八七三)年~大正九(一九二〇)年)が中心になって作った文学サロン。当初は大久保辺に住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場として蒲原有明・戸川秋骨らが集まって行っていたが、大正五・六年からは、若い文学者や女流作家を集めた懇親会となっていた)『に初めて出席する。岩野泡鳴、菊池寛、江口渙、滝井孝作、有島生馬らが列席。女性も泡鳴夫人など四、五名が出席しており、秀(ひで)しげ子とも、この時初めて会った。さらにその後、室生犀星の『愛の詩集出版記念会に赴いたが、すでに散会後だったため、北原白秋、犀星らと食事をとった』とある。この秀しげ子こそ、芥川龍之介のファム・ファータルであり、この後、肉体関係を持った。しかし、後年、激しい嫌悪の対象と変じ、「或阿呆の一生」では『狂人の娘』とまで名指すことになる、「宿命の女」であった。偶然(私のチョイスは当初、これを意識していなかった)であるが、ここで佐野花子・片山廣子・秀しげ子が並ぶことに、私自身、何か重い感慨を抱かざるを得ない。詳しくは、芥川龍之介の日記「我鬼窟日錄 附やぶちゃんマニアック注釈」を参照されたい。そこでは、龍之介が秀しげ子との爛れた関係に転落してゆく一部始終が読み取れるからである。

「匆忙」「そうばう(そうぼう)」は「忙しいこと」を言う。「怱忙」とも書く。

「小說が一向捗取らない」具体的には『中央公論』七月一日発表となる「疑惑」と、「大阪毎日新聞」連載(六月三十日初回)の「路上」の執筆が重なっていたことを指す。

「中戶川氏の小說」中戸川吉二(明治二九(一八九六)年~昭和一七(一九四二)年:小説家・評論家。里見弴に師事)の代表作である「イボタの虫」。

「鹿兒島へ御出の由」筑摩全集類聚版脚注に、『第七高等学校の入学試験受験のためか』とある。

「荆妻」(けいさい)の「荊」は「茨(いばら)」の意。後漢の梁鴻の妻が、着飾ることなく、逆に、荊(いばら)の釵(かんざし)と木綿(もめん)の裳(もすそ)を着用したところから、自分の妻を遜(へりくだ)っていう語。「愚妻」に同じ。

「お母樣」虎雄の後妻であろう。

「姊樣」忠雄に姉がいたのは、この書簡を読むまで気がつかなかった。

「おぎろなき」「賾なし」(「なし」は形容詞をつくる接尾語)で、「広大である・果てしなく奥深い」の意。]

2021/07/02

日本山海名産図会 第二巻 豊島石

 

Sansiuteksimaisi

 

Tesimasaikujyo

 

[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「讃州豊島石(さんしうてしまいし)」、第二図は「同豊島細工所(てしまさいくしよ)」。]

 

   ○豊島石(てしまいし)

大坂より五十里、讃刕小豆島の邉(へん)にて、廻環(めぐり)三里の島山(しまやま)なり。「家の浦」・「かろうと村」・「こう村」の三村あり。「家の浦」は、家數(いへかず)三百軒斗り、「かろうと村」・「こう村」は、各(おのおの)百七、八十軒ばかり、中にも、「かろうと」より出づる物は、少し硬くして、鳥井・土居(とゐ)の類、これを以つて、造製す。さて、此の山は、他山にことかはりて、山の表より、打ち切り、堀り取るには、あらず。唯(たゝ)、山に穴して、金山(かなやま)の坑塲(しきくち[やぶちゃん注:ママ。「後の「敷口」と誤ったか。「あなば」であろう。])に似たり。洞口(とうこう)を開きて、奧深く堀り入り、敷口(しきくち)を縱橫(しうわう)に切り拔き、十町[やぶちゃん注:約一キロ九十一メートル。]、二十町の道をなす。採工(げざい)、松明(たいまつ)を照らしぬれば、穴中(けつちう)、眞黒(まつくろ)にして 石共、土とも、分かちがたく、採工(げざい)も、常の人色(にんしよく)とは異(こと)なり。かく、掘り入るることを、如何となれば、元、此石には、皮ありて、至つて、硬し。是れ、今、「ねぶ川」と号(なづ)けて出だす物にて【「本ねぶ川」は伊豫也】、矢を入れ、破(わ)り取るに、まかせず。ただ、幾重(いくへ)にも片(へ)ぎわるのみなり。流布(るふ)の豊島石は、その石の實(み)なり。故に、皮を除(よ)けて、堀り入る事、しかり。中(なか)にも、「家の浦」には、敷穴(しきあな)、七つ有り。されども、一山(いつさん)を越えて歸る所なれば、器物(きぶつ)の大抵を、山中に製して、擔(にな)ひ出だせり。水筒(てつゝ)、水走(みつはしり)、火爐(くはろ)、[やぶちゃん注:以上の三つの読点は底本のもの。]一つ𥧄(へつひ)などの類(るい)にて、格別、大いなる物は、なし。「がう村」[やぶちゃん注:ママ。]は漁村なれども、石も「かろうと」の南より、堀り出だす。石工(せきこう)は山下に群居(くんきよ)す。ただし、讃刕の山は、悉く、この石のみにて、弥谷(いやたに)・善通寺(せんつうじ)、「大師(だいし)の岩窟(いわや)」も、この石にて造れり。

○石理(いしめ)は、磊落(いしくづ)の、あつまり、凝(こ)りたるがごとし。浮石(かるいし)に似て、石理、麤(あら)きなり[やぶちゃん注:「麤」の字は実際には下部の「鹿」二つが「比」の字のように略されたもの。]。故に水盥(みづたらひ)などに製しては、水、漏りて、保つこと、なし。されども、火に觸れては、損壞せず。下野(しもつけ)宇都宮に出だせるもの、この石に似て、少しは、美なり。浮石(かるいし)は海中の沫(あは)の化(け)したる物にて、伊豫薩摩紀州相摸に產す。されば、此山も海中の島山(しまやま)なれば、開關以後、汐(しほ)の凝りたる物とも、うたがはれ侍る。「塩飽(しあく)」の名も、若(も)しは、「塩泡(しほあわ)」の轉じたるにか。○「塩飽石(しあくいし)」は御留山(おとめやま)となりて、今、夫れと号(なづ)くる物は多く、貝附(かひつき)を賞す。是れ、その邉(へん)の礒石(いそいし)にて、石理、粹米(こゞめ)のごとくにて、質(しやう)は硬し。飛石(とびいし)・水鉢(みずはち)・捨石(すていし)等(とう)に用ひて、早く、苔の生(お)ふるを詮(せん)とす。礒石(いそいし)は、波に穿(うが)たれて、碨(ゆが)み[やぶちゃん注:この漢字に比定したものの自信はない。]砢(くほ)み、異形を、珍重す。

[やぶちゃん注:「豊島石(てしまいし)」については、既に「石品」で注したが、再掲しておくと、香川県小豆島の西方にある豊島(てしま:現在、小豆郡土庄町(とのしょうちょう)に属する。グーグル・マップ・データ。以下同じ)から産出する岩石。安山岩の下にある凝灰角礫岩で、炉石・石灯籠などの細工石として用いる。

「廻環(めぐり)三里」海岸線長は十九・八キロメートルで、面積は十四・四平方キロメートル。

「島山(しまやま)」豊島の最高標高は壇山(だんやま)の三百三十九・六メートルで瀬戸内海の山では高い。

「家の浦」香川県小豆郡土庄町豊島家浦(てしまいえうら)

「かろうと村」旧唐櫃(からと)村。現在の小豆郡土庄町豊島唐櫃の北部。

「こう村」旧甲生(こう)村。小豆郡土庄町豊島甲生であるが、恐らくは、現在の豊島唐櫃の南部は旧甲生村の村域であったのではないかと私は考える。それはGeoshapeリポジトリ」「国勢調査町丁・字等別境界データセット」の「香川県小豆郡土庄町豊島唐櫃」を見たからである。

「鳥井」神社の「鳥居」のことであろう。

「土居(とゐ)」「どゐ」で、ここは、「建物や家具などの土台」のことであろう。

「敷口(しきくち)」江戸時代の鉱山の坑道入口をこう記した古絵図があるらしいことが確認できたが、この場合は、山肌を切り崩して、深い狭間を作り、そこに縦横に枝坑道を掘った、それぞれも坑道口を意味しているようである。

「採工(げざい)」当て訓。小学館「日本国語大辞典」に、「げざい」の見出しがあり、漢字表記を「下在」「下財」「外在」とし、最初に『鉱山の金掘』(かなほ)『り坑夫。特に江戸時代、佐渡の金山などで穴にはいって働く金掘師』(かなほりし)『をいった』とあり、語源説については、『地下の財宝の意か』の他に、『一種の技術があり、才があるところから、ゲイザイ(芸才)の略』ともあった。

「ねぶ川」根府川石。既注であるが、再掲すると、神奈川県小田原市南方の根府川駅から白糸川中流及び米神(こめかみ)にかけて採石される安山岩の石材名。この安山岩は箱根火山の古期外輪山を形成する溶岩の一部に相当し、東方の海岸方向に流出した溶岩流部分が採掘されている。鉄平石(てっぺいせき)と同じく板状節理が進んでいるために「へげ石(いし)」(「へぐ」は「剝ぐ」で「薄くはがす」の意)とも呼ばれ、古くから石碑・敷石・壁面装飾用の石材として利用されてきたが、現在では採石量が少ない。

『「本ねぶ川」は伊豫也】』「本ねぶ川」が本物の根府川石の意であるなら、根府川の地を出さないのはいいとしても、輝石安山岩でなくてはならない。「伊豫」、現在の愛媛県のそれは松山市周辺に安山岩地層が広がるが、それが江戸時代に「本根府川石」と呼ばれたという記載は見当たらない。それより、讃岐岩、所謂、「サヌカイト」(sanukite)の方が直ちに想起される。名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される、非常に緻密な古銅輝石安山岩で、固いもので叩くと、高く澄んだ音がすることから「カンカン石」とも呼ばれるものである。どうもよく判らない。

「水筒(てつゝ)」これは思うに、水を分配したり、永し落としたりするための、水道管や土管の類いで、「水筒(すいづつ)」であろう。ただ、この「水」のルビはよく判らず、彫りのミスが疑われ、「て」ではなく、「ゐ」のつもりで「すゐ」の「す」の彫り損ないかもしれず、あるいは「みづ」の「づ」の脱落した「み」の彫り損ないかも知れない(ここの右頁の七行目)。第二図の中央の大きな臼かと思ったそれは、加工している男が中に膝下まで入って削ろうとしているように見えるが、臼だったら、こんなに深く削り彫るはずはないとも感じた。長さが短いが、何らかの土管のように見えなくもない。豪華な水の流れを持った庭園では、前の「水筒」やそうしたジョイントの器具が必要であろうと考えた。そんな目で第二図を見ていると、何かそれらしい不思議な形のそれが見えるように私は感じた。

「水走(みつはしり)」これは所謂、筧のようなものか、或いは、厨の水場・シンク・洗い場のようなものかも知れない。第二図の左手手前の男の持つものが前者の筧らしく見え、右手の屋根付きの半開放型の作業場の中央の玄翁を振り上げた男の彫っているものが後者らしく見える。

「火爐(くはろ)」火を入れて暖を取るもの。ここは火鉢か。第二図の前注の男の前で、丁字の器具で削っているものが、一番、それらしく見える。

「一つ𥧄(へつひ)」コンパクトな小型の一つ竃(かまど)であろう。第二図の一番右手男が作っており、作業場の手前には既に完成品らしいものも見える。

「弥谷(いやたに)香川県三豊市三野町にある真言宗剣五山弥谷寺(いやだにじ)。弥谷山(標高三百八十二メートル)の中腹二百二十五メートル附近に本堂があり、その背後の岩盤には、創建時に千手佛が納められた岩穴が残り、山全体が霊山であるとの信仰があり、嘗ては日本三大霊場(他は恐山・臼杵磨崖仏)の一つに数えられたと伝えられる。四国八十八箇所霊場第七十一番札所。

「善通寺(せんつうじ)」香川県善通寺市善通寺町にある真言宗屏風浦五岳山誕生院善通寺(ぜんつうじ)。和歌山の高野山、京都の東寺とともに弘法大師三大霊場に数えられる。四国八十八箇所霊場第七十五番及び真言宗十八本山一番札所。弘法大師空海の誕生地ともされる。但し、窟らしきものは見当たらないんだけど?

「磊落(いしくづ)」本来は「石が多く集まること」であるが、ここは砕けた石屑の意のようである。

「麤(あら)き」「粗き」に同じ。

「塩飽(しあく)」塩飽(しわく/しあく)諸島(瀬戸内海の備讚(びさん)瀬戸の西部にある島々。現在は香川県に属する、広島・本島(ほんじま)・手島など、大小二十八の島から成る。瀬戸内海水運の要所で、中世には海賊・水軍の根拠地となった。ここ)に本拠地を置いた有力な一族に塩飽氏がおり、南北朝時代には南朝方海上勢力の一翼であった。ウィキの「塩飽諸島」によれば、『古代から海上交通の要衝で、潮流の速い西備讃瀬戸に浮かぶ塩飽諸島は、操船に長けた島民が住んだと考えられており、源平合戦における』「屋島の戦い」、「建武の新政」から離反し、『九州に逃れた足利尊氏の再上洛の戦い、倭寇などで活動したとする説があ』り、『戦国時代には塩飽水軍と呼ばれ、勢力を持っていたと考えられている』とし、『名の由来は「塩焼く」とも「潮湧く」とも言う』とある。

「塩飽石(しあくいし)」「文化遺産オンライン」のこちらによれば、現在、「塩飽本島(しわくほんじま)高無坊山石切丁場跡(たかんぼうやまいしきりちょうばあと)」が、史跡指定されている。『この史跡は本島町笠島の高無坊山』(ここ)『西部に位置し、尾根筋や谷筋には採石跡や残石が見られる。残石には作業組を表わす』五『種類の刻印があり、これらは種別ごとにまとまって分布している』とある。

「御留山(おとめやま)」江戸時代、林産物や動物を取ることを禁止された山。

「貝附(かひつき)」魚介類や珊瑚類などの化石の混入した粘板岩であろう。

「粹米(こゞめ)」砕けて粉のようになった米。

「捨石(すていし)」築庭に於いて、風致を添えるために、程よい場所に据えおく石。

「詮」「要点や眼目」或いは「効果」の意。

「碨(ゆが)み」底本のここ(左頁四行目)。この漢字が正しいとすれば、「石が平らでないさま」の意の熟語に使われているから、「歪む」といい意と親和性はある。他に広義の「石の様子」の意があるが、これでは何の意味も持たない。

「砢(くほ)み」この漢字は「蟠(わだかま)り結ぶ」の意があるが、「窪む」の意はない。不審。]

芥川龍之介書簡抄89 / 大正八(一九一九)年(一) 薄田淳介宛三通(創作専念への運動の本格化)

 

大正八(一九一九)年一月四日・田端発信・薄田淳介宛(葉書)

 

   世の中は箱に入れたり傀儡師

  二伸これは新年の句本の廣告ぢやありません

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介当年とって満三十七歳。この大正八年一月十五日に新潮社より第三番目の作品集「傀儡師」を刊行している。収録作品は。「奉敎人の死」・「るしへる」・「枯野抄」・「開化の殺人」・「蜘蛛の糸」・「袈裟と盛遠」・「或日の大石内藏之助」・「首が落ちた話」・「毛利先生」・「戯作三昧」・「地獄變」の十一篇で、多様な素材で、構成は妙を極め、ほぼどの作品も芥川龍之介の代表的名篇と言うに、遜色なく、恐らく作家芥川龍之介の生涯に於ける最上の作品集と言える。私は十三年前に「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」を作成している。これについては、それぞれの作品は、総て、それ以前に岩波旧全集版で「心朽窩旧館」で電子化しており、その両方が読めるようにしてある。一部ではその異同なども示している(例えば「蜘蛛の糸」))。是非、お楽しみあれ。なお、一九九二年河出書房新社刊・鷺只雄編著「年表 作家読本 芥川龍之介」によれば、『敬愛する森鷗外は』本書について、『芥川に当てて』(大正八年一月二十九日附書簡)、『「文思涌くがごときの御近況、羨望のほかこれなく候」と書き送って』おり、二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の「傀儡師」の項には(清水康次氏執筆)、『新潮』大正八年一月号『などの新刊広告では、「新進作家の白眉芥川能之介氏、具に名匠の苦心をつくして一作をゆるがせにせず」、「ひとり新興文壇の一異彩たるのみならず、日本の文芸に空前の新生面を開き、独一無類の作風を完成せるもの、宝石の光輝と、古金欄の色彩とをそなへたる気品高き作品のみ也」という広告文が付されている』とし、また『小島政二郎「「傀儡師」と「心の王国」―菊池氏と芥川氏の新著―」』(『時事新報』同年一月二十八日・二十九日)『は、菊池の作品と比較しつつ、「芥川氏の作品を読んでゐるとプロポオションのよく取れた好い建築を見てゐるやうな気がする」と立体的な「組み立て」に注目し、また、「芥川氏位平凡嫌ひな人はあるまい。『傀儡師』の中に収めてあるどの作でも好い、一つ取り出して調べて御覧なさい。一つとして平几なテイマはない。一つとして平凡な交章はない」と評している』とある。

「傀儡師」は「くわいらいし(かいらいし)」と読む。この語は和語の古名で「くぐつし」と読む場合もある。「人形遣い」の古称。中国で操(あやつ)り人形を「傀儡」と呼び、本邦では平安時代に、日本古来の「くぐつ」の語を当て、「人形遣い」=「傀儡師」を「くぐつ・くぐつまはし」などと呼んだ。なお、日本の傀儡師は渡来人であったという説もある。古代には集団を成し、男子は狩猟、女子は遊女を業(なりわい)とし、人形を回した。中世後期になると、「くぐつ」の系統をひく「夷舁(えびすかき)」の一団が、摂津西宮神社を根拠地として、祝言を述べては夷(えびす)の人形を回しながら、各地を巡ったが、十六世紀末から十七世紀初めに(安土桃山から江戸初期)、彼らの一部は、「浄瑠璃節」と提携し、「人形浄瑠璃」を成立させた。これに対し、劇場に入らず、人形の抱えられるほどの箱舞台を首に掛け、街頭を流す人形遣いがおり、やはり「傀儡師」と呼ばれた。しかし後者は近世後期以後、衰微・消滅した(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。]

 

 

大正八(一九一九)年一月十二日・鎌倉発信・薄田淳介宛

 

拜啓 突然こんな事を申上げるのは少々恐縮ですが私は[やぶちゃん注:ママ。]あなたの方の社の社員にしてはくれませんか私は今の儘の私の生活を持續して行く限りとても碌な事は出來さうもない氣がするのです碌な仕事が出來ないばかりではないあなたの方の社から月に五十圓の金を貰つてゐながら一向あなたの方の社の爲になる仕事が出來ないだらうと思ふのです今の私はあなたの方の社から來る金と學校の報酬とで先づ生活だけは保證されてゐる訣ですがいくら飯を食ふ心配がなくつても自分のしたいと思ふ仕事も出來ずしなければ義理のすまぬ仕事も出來ないと云ふ事は決して愉快な事ぢやありませんそこでいろいろ考へた末にこの手紙をあなたへ書く氣になつたのです社員にしてくれませんかと云ふ意味は唯それ丈の外に私の知己としてあなたに相談する心算も含んでゐるのですあなたはこの問題をどう片づく可きものだと思ひますか社員になれるなれないの問題より先にこれに關して腹藏のないあなたの意見を聞かしてくれませんか

その爲に私の社員になると云ふ事の意味を說明します私が社員になると云ふのはあなたの方の社へ出勤する義務だけは負はずに年に何囘かの小說を何度か書く事を條件として報酬を貰ふと云ふ事です勿論さうすれば學校はやめてしまつて純粹の作家生活にはいるのですつまり私とあなたの方の此との今の關係を一部分改造して小說の原稿料を貰はない代りに小說を書く囘數を條件に加へて報酬を一家の糊口に資する丈增して貰ふと云ふ事になるのですそれが出來たら私も少しは仕事らしい仕事に取りかかれはしないかと思ふのですこんな事を考へるのは或は大に虫が好すぎるかも知れませんしかし今の私はその虫の好さを承知の上であなたに相談しなければならない程作家生活の上の間題に行き惱んでゐるのです前にも書いた通り甚だ突然で恐縮だとは思ひますが一應私の爲に考へて見てはくれませんか實はこの事を考へた時大阪へ行つてあなたに會つてその上で御相談申さうかと思つたのですが差當つて原稿を書かなければならない爲に手紙で間に合はせる事にしました私の考へが手紙では十分徹しない憾があるのですがその邊はよろしく御諒察を願ふより外はありません 當用のみ 頓首

    一月十二日      芥川龍之介

   薄田淳介樣

 

[やぶちゃん注:遂に創作活動専念への具体な本格的企図が起動する。]

 

 

大正八(一九一九)年二十二日・鎌倉町大町辻発信・大阪市東區大川町大阪每日新聞社内 薄田淳介宛

 

 芳墨拜誦。いろいろ御手數をかけ難有うございます。念の爲左記の事をはつきり伺ひたいのですが、如何ですか。

 一、僕も時折外の雜誌へ書いてよいかどうか。これを前以て申し上げて置かうと思つて忘れたのですが、もしいけないとなると所謂文壇なるものと餘り緣が切れすぎて、作家としての僕の爲のみならず社員としての僕にも損ではないかと思ふのです。だから社の仕事を怠けない限りに於て隨意して頂ければ非常に有難いのです(尤も一年百二、三十囘の短篇を書く以上餘力があるかどうか疑問ですが)。それではいけませんか。

 二、その一年百二、三十囘なるものも、嚴密に小說を百二、三十囘書く可きのですか[やぶちゃん注:ママ。]。時には隨筆(二、三囘のものでなく夏目さんの「硝子戶の中」のやうに數十囘つづくもの)もその百二、三十囘の中へ勘定して貰ふと甚難有いのですがそれではいけませんか。

 三、菊池と二人で月評をかくと云ふ件につき、東日と大每とに同時に文藝欄を作る事は出來ませんか。

 もし大阪のあなたと東京の我々とが連絡をとつて東西の文藝欄を維持して行けば、今の日本の文壇のオオソリテイになれると思ふのですが如何ですか。この件は細目に亘つていろいろ御相談する必要があると思ひますが、先、文藝欄を作れるか否かを先決問題として伺ひます。勿論さうなれば菊池も僕も時々東日の社へ出たり寄稿を依賴に行つたりしてもよろしい。

 以上三點につき御返事下されば難有いと思ひます。菊池と二人で一度そちらへ行つて御相談したいのですが、今、久米がインフルエンザから肺炎になり可成重態なのでちよいとそう云ふ都合にも行きません。猶三月から入社する件は僕の學校に後任が出來るかどうかの問題もあるので、さう云ふ運びがすぐつくかどうか判然しません。上記三點がきまり以上、兎に角辭表だけは早速出します。菊池も社員として廣告する事は勿論差つかへあるまいと思ひますが、いづれ菊池からも御返事を出すでせう。以上。

   二月十二日       芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:本書簡は底本にしている岩波旧全集には所収しない。岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)にあるものを、過去の私の芥川龍之介の電子化の表記の経験に基づき、恣意的に漢字を概ね正字化し、仮名遣を歴史的仮名遣(拗音・促音は正字化した)に変更した。句読点や段落成形は、思うに、同書の底本である岩波新全集に従ったもので、私の経験則から、実際には句読点の大部分はなく、段落は存在しても、頭の一字下げなどはない可能性があるが、そこはそのままとした。少なくとも、原書簡により近づいているものとは思う。なお、新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、先立つ二月八日頃、『当時「時事新報」記者だった菊池寛の大阪毎日新聞社就職の仲立ちをする。薄田泣菫』(淳介のペン・ネーム)『からの要請によるものと思われる』とある。

「嚴密に小說を百二、三十囘書く可きのですか」の「小說」に石割氏は注されて、『芥川は『大阪毎日新聞』に六月から八月八日まで』小説『「路上」を三六回にわたり連載した』とされる。

「硝子戶の中」「がらすどのうち」と読む夏目漱石の随筆。当該ウィキによれば、『こゝろと『道草』の『間に書かれた夏目漱石最後の随筆で』、大正四(一九一五)年一月十三日から二月二十三日にかけて三十九回に亙って『朝日新聞』に掲載されたもので、「内容」は、『ガラス戸で世間としきられた書斎で、単調な生活を送っている作者のもとに時々は人が入ってくる。それらの自分以外にあまり関係ないつまらぬことを書くと前置きして、身辺の人々のことや思い出が綴られる。自分が飼ったヘクターと名づけた犬の死の話。身上話を漱石に小説にしてもらいたがった女の話。旧友O(太田達人)』(おおたたつと 慶応二(一八六六)年~昭和二〇(一九四五)年:陸奥国岩手郡東中野村(現在の盛岡市)出身の教育者。父は盛岡藩の武士。夏目漱石とは大学予備門時代からの親友であった)『の訪問と短い交流の話。画を送ってきて賛を強要する男の話などから始められ、後半は漱石の若い時代の思い出の話が主となる』とある。

「菊池と二人で月評をかく」石割氏注に、『芥川は六月三日から一三日まで「六月の文壇」を連載』したとある。但し、宮坂年譜によれば、この『「東京日日新聞」への文芸欄設置は実現しなかった』とある。]

2021/07/01

日本山海名産図会 第二巻 目録・石品

 

日本山海名産圖會巻之二

 

  ○目録

○豊島石(てしまいし)

○御影石(みかけいし)

○龍山石(たつやまいし)

○砥礪(といし)

○芝(さいはいこけ)

○日向香蕈(ひなたしいたけ)

○熊野石耳(くまのいしたけ)

○同 蜂蜜(はちみつ) 蜜蝋(みつらう) 會津蝋(あいづらう)

○山椒魚(さんせううを)

○吉野葛(よしのくず)

○山蛤(やまかへる)

○鷹峯蘡薁虫(たかみねゑびつるのむし)

○鷹羅(たかあみ)

○鳬羅(かもあみ)

○豫刕峯越鳬(よしうをこしのかも) 摂刕霞羅(せつしうかすみあみ) 無雙返(むさうかへし)

○捕熊(くまとり)【墮弩(おし)  洞中熊(ほらのくま) 以斧撃(おのをもつてうつ) 取膽(きもをとる) 試眞偽(しんきをこゝろむ) 製偽膽(にせをせいす)】

[やぶちゃん注:以上は概ね、二段組であるが、一段で示した。また、最後の「捕熊」の後は二行割注式で小文字表記されているが、以上のように示した。また、その冒頭の「墮弩(おし)」の「墮」は完全な(こざとへん)になっており、(つくり)は「左」の下が「土」となっている変体字であるが、「国立国会図書館サーチ」の「山海名産図会」の書誌注記に従って、この字を採った。主標題の意味はそれぞれのパートに譲るが、「墮弩(おし)」だけ、まるで判らず、気になる方がいるかも知れぬので、フライングしておくと、同パートに図が出る(底本の国立国会図書館デジタルコレクションのそれ)。「墮」(おとし)「弩」(ゆみ:大弓。城攻めの際の投石機。通常は巨石を強力に弾き出す兵器)である。]

 

 

石品(いしのしな)

石は山の骨なり。「物理論(ぶつりろん)」に云ふ、『土精(とせい)、石となる。石は氣の核(たね)なり。氣の石を生ずるは、人の筋絡爪牙(きんらくさうげ)のごとし。』云々。されども、其の石質においては、萬國萬山(まんこくまんさん)の物、悉く、等しからず。是れ、風土の變更なれば、即ち、氣をもつて生ずること、しかり。又、草木魚介(さうもくぎよかひ)、皆、よく、化して、石となれり。「本草」に「松化石(せうくわせき)」、「宋書」に「柏化石(はくくわせき)」、稗史(ひし)に「竹化石(ちくくわせき)」あり。「代醉編」に、『陽泉夫餘山(ふよさん)の北にある淸流、數十步(すとうぼ)、草木(さうもく)を涵(しつめ)て、皆、化して石となる。』。また、イタリヤの内の一國に、一異泉あり、何(いつれ)の物といふことなく、その中に墜(お)つれば、半月(はんげつ)にして、便(すなは)ち、石皮(せきひ)を生じ、その物を裏(つゝ)む。また、歐邏巴(わうろつば[やぶちゃん注:ママ。])の西國(にしこく)に一湖有り、木を内に插(さしは)さんで、土に入る。一段(いつたん)、化(くわ)して、鉄(てつ)となる。水中(すいちう)は、一段、化して、石となる、といへり。本朝、また、かかる所、多し。凡そ、寒國(かんこく)の海濵湖涯(かいひんこがい)、いづれも、しかり。すべて器物(きぶつ)等(とう)の化石(くわせき)も、其の所になると知るべし。また、石に鞭(むち)うちて、雨を降らし、雨をやむる「陰陽石」ありて、日本(につほん)にても、寶龜七年、仁和(にんな)元年、及び「東鑑」等(とう)にも、その例(れい)、見えたり。江刕(かうしう)石山(いしやま)は、「本草」にいへる「陽起石」にて、天下の竒巖(きかん)たり。また、「日本紀」、『雄畧の皇女(こうによ)伊勢齋宮(いせさいぐう)にたたせ給ひしに、邪陰の御うたがひによりて、皇女(くはうによ)の腹中(ふくちう)を開かせたまひしに、物ありて、水のごとし。水中に石あり。』といふこと、みゆ。これ、醫書に云う「石瘕(せつか)」なるべし。然(しか)れば、物の凝(こり)なること、理(り)においては、一なり。品類(ひんるい)においては、鍾乳石・磁石(じしやく)・礜石(よせき)・滑石(くわつせき)・礬石(はんせき)・消石(せうせき)・方解石・寒水石(かんすいせき)・浮石(かるいし)、其の餘の竒石・怪石・動物などは、曩(さき)に近江の人の輯作(しうさく)せる「雲根志」に盡きぬれば、悉く辨ずるに及ばず。

○「イシ」といふ和訓は「シ」といふが本語にて、「シマリシツム(沈[やぶちゃん注:「シスム」の右に小さく打たれている。])」、俗に「シツカリ」などのごとく、「物の凝り定まりたる」の意なり。○「イハ」とは「石齒(いは)」なり。「盤(いは)」の字を書きならへり。かならず、大石にて、齒(は)・牙(きば)のごとく、「健利(すると)き」の意なり。○「イハホ」とは「巖」の字を充てゝ、「詩經」、「惟(これ)石(いし)巖々(がんがん)」と、いひて、おなじく、尖利立(するとくた)ちたる意なり。「萬葉」には「石穗(いわほ)」とかきて「秀(ほ)出(いづ)る」の議(ぎ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]なり。又、「いはほろ」とも、いへり。かたがた轉(てん)して、惣(すべ)てを「いし」とも、「いは」とも、「いはほ」とも通じて、いへり。○日本(にほん)にして器用(きよう)に造る物、すくなからず。就中、五畿内・西國に產するがうちに、「御影石」・「立山石(たつやまいし)」・「豊島石(てしまいし)」等(とう)は、材用に施し、人用(にんよう)に益して、翫物(くわんぶつ)にあらず。故に其の三、四箇條を下(しも)に擧げて、其の余(よ)を畧す。○「和泉石(いづみいし)」は、色、必ず、靑く、石理(いしめ)、精(こまか)にして、碑文(ひもん)等(とう)を刻す。又、阿刕より、近年、出だすもの、これに類(るい)す。その石、「ねぶ川」に似て、色、綠に、石の形、片(さき)たるがごとし。石質(せきしつ)は硬からず。また、城州にては、「鞍馬石」・「加茂川石(かもがはいし)」・「淸閑寺石(せいがんじいし)」等、是れを、庭中(ていちう)の飛び石・捨て石に置きて、水を保(たも)たせ、濡れ色を賞し、凡(すべ)て、貴人茶客(きじんさかく)の翫物(くわんもつ)に備ふ。

[やぶちゃん注:「物理論(ぶつりろん)」三国時代を終わらせた西晋(二六五年~三一六年)の、呉の処士で思想家であった楊泉が撰した自然哲学書(中文サイト「中國哲學書電子化計劃」の同書を見ると、各部が後代の叢書類の引用であるから、原本は伝わらないようである)。楊泉は漢及び六朝の唯物論的思想を継承し、中国思想史に於ける自然観の発展の中にあって、先駆的な認識論に立った人物である。上記ページを見るに、『土精爲石』。『石氣之核也。氣之生、石、猶、人筋絡之生爪牙也』(句読点は私が打った)とある。

「本草」に「松化石(せうくわせき)」明の李時珍は「本草綱目」巻九の「金石之三」の末尾の「石芝」の「集解」の中で、「松化石」を挙げている(この「石芝」は、現行では、仙人が食用とするとされた茸である菌界担子菌門真正担子菌綱タマチョレイタケ目マンネンタケ科マンネンタケ属レイシ(霊芝) Ganoderma lucidum 辺りに比定されているが、この場合、時珍は、実は、「松化石」という名詞を出しているのではなく、

   *

嘉靖丁巳[やぶちゃん注:明の嘉靖三十六年で、西暦一五五七年。]、僉事の焦希程、詩を賦して之れを紀(しる)し、「比康子、斷松、石に化するの事を以つてす。而れども其の名、知れず。時珍、圖及び「抱朴子」の說を按ずるに、此れ、乃(すなは)ち、石桂芝なり。海邊に、「石梅」有り、枝幹、橫斜なり。「石柏葉」。「側柏」のごとし。亦、是れ、「石桂」の類と云ふ。』と。

   *

とある。裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科コノテガシワ属コノテガシワ Platycladus orientalis のことであるが、ここで問題なのは、「海邊」で、これは海辺の陸地部分ではなく、沿岸の浅海と読めることである。而して、松のようにゴツゴツした感じ、松ぼっくりのような感じで、潮下帯に棲息するものとすれば、直ちにサンゴ類が思い到る(「本草綱目」は海産生物には誤りが多いのだが)。而して、実は「石芝」には現在、今一つ、

刺胞動物門花虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目クサビライシ科フンギア属 Fungia のクサビライシ類

を指すのである。円形の単体で、群体を作らず、クサビライシ Fungia scutaria は最大長径が二十五センチメートルにも達する大型サンゴで、ポリプは共生藻を持ち、造礁サンゴに属するが、造礁サンゴの中で群体を造らないイシサンゴ類は本種のみである。「くさびら」は「きのこ」の古名であり、形がキノコの傘に似ていることに由来し、前のレイシとの親和性がある。上面の中央に細長い溝があり、そこから多くの襞が放射状に並び、茸の笠の裏側にも似る。襞の間から、太く短い触手を出してプランクトンを摂餌する。熱帯太平洋のサンゴ礁の水深一~四メートルの砂底に普通に見られ、本邦では小笠原諸島・奄美諸島以南のサンゴ礁浅海に普通に棲息している。

『「宋書」に「柏化石(はくくわせき)」』「宋書」は中国の正史二十四史の一書。全百巻。南朝梁の沈約(しんやく)らになる奉勅撰。四八八年完成。中文サイトで調べたが、見当たらない。

「稗史(ひし)」「はいし」が正しい。書名ではなく、正史に記録されていないか、正史とされなかった民間で編纂された史書・伝聞記録・民間伝承及びそれらに基づいて編纂された書物を包括して指す語である。

「竹化石(ちくくわせき)」竹の化石とされるものは実在する。但し、そう思われていたものが実は針葉樹の化石だったというケースもある。

「代醉編」「琅邪代醉編」(ろうやだいすいへん:現代仮名遣)は明の張鼎思の類書(百科事典)。一六七五年和刻ともされ、江戸期には諸小説の種本ともされた。

「涵(しつめ)て」「沈めて」。

「イタリヤの内の一國に、一異泉あり、何(いつれ)の物といふことなく、その中に墜(お)つれば、半月(はんげつ)にして、便(すなは)ち、石皮(せきひ)を生じ、その物を裏(つゝ)む」不詳。次注参照。

「歐邏巴(わうろつば[やぶちゃん注:ママ。])の西國(にしこく)に一湖有り、木を内に插(さしは)さんで、土に入る。一段(いつたん)、化(くわ)して、鉄(てつ)となる。水中(すいちう)は、一段、化して、石となる、といへり」「livedoor NEWS」の『なんでも石に変えるイギリスの「ナレスボロの泉」 真相は』に、『イギリスにある「ナレスボロの泉」はその水に触れたものが何でも石になってしまうと言われています』。『ここまで聞くと、言い伝えとか伝説なのではないかと思ってしまいますが、真相はまるで反対』で、『動画をチェックしてみればわかる通り』(英語のYouTube の動画有り)、『泉の周りにはほうきや、仮面、ロブスターなど石化してしまったさまざまなものがぶらさがっています』。『この泉の形がどくろに似ていることから、地域の人々には呪われた泉であると考えられてきましたが、近年、この泉の水が非常にミネラル豊富であることがわかりました。物体が泉に触れると、そのミネラル分が表面に』層を成して『固まり、石化してしまうのです』。『石化するには数ヶ月かかるそうで、最近では地元の人がテディベアなどを石化させて、お土産屋さんで販売するなどしているそうです』とある。「ナレスボロの泉」(Knaresborough)は Mother Shipton's Cave にある(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。サイド・パネルの石化物の写真も見られたい。

「寒國(かんこく)の海濵湖涯(かいひんこがい)、いづれも、しかり」「涯」は「果て」の意で、ここは北の寒い国というより、北方に辺境、人が余り立ち入っていない場所を指していよう。而してそういうところの断層や崖には化石が、ワンサカ、獲れるので、腑に落ちる。縄文・弥生の遺物も当時は石化した奇物と見えたであろう。

『また、石に鞭(むち)うちて、雨を降らし、雨をやむる「陰陽石」あり』中国ではこの手の話が多い。八木章好氏の論文「石痴の話――『聊斎志異』「石清虚」賞析」(PDF・慶應義塾大学藝文学会発行『晋文研究』(第八十七巻・二〇〇四年十二月発行)に、

   《引用開始》

 石は、古来民間伝承の上で天候と密接な関係を持つと考えられている。いわゆる「陰陽晴雨石」の話では、陰の石を打つと雨が降り、陽の石を打つと晴れるとされる[やぶちゃん注:ここに注記号があり、そちらには『明・陶宗儀撰『綴耕録』巻六に載せる「宝晋斎硯山図」に付した添え書きに拠る』といった注がある。]。石に水をかけたり、泥を塗ったり、或いは生け贄の血を塗ったりして雨を降らせるというように、石が雨乞いの対象となる話は数多い。また、雲が水蒸気から成ることを知らない古代人は、雲は山奥の岩石の間や洞窟の中から生成されると信じており、詩語で岩石を「雲根」というのは、岩や石を雲の生ずる根源とする発想からであり、晋・陶淵明「帰去来兮辞」に「雲無心以出岫、鳥倦飛而知還(雲は無心にして以て岫を出で、鳥は飛ぶに倦みて還るを知る)」とあるのも、雲が山中の洞穴から生じるとする考えに由来する。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

とある。

『寶龜七』(七七六)『年、仁和(にんな)元』(八八五)『年及び「東鑑」等(とう)にも、その例(れい)、見えたり』「吾妻鏡」のどこを指しているのか、今のところ、不明。「吾妻鏡」には何度も雨乞いの記事はあるが、それを今、凡て調べる気にはならない。発見したら、追記する。

 

「江刕(かうしう)石山(いしやま)」滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗大本山石光山石山寺(いしやまでら)の本堂が建つ、国天然記念物指定「石山寺硅灰石」の珪灰石(wollastonite:ウラストナイト。石灰岩に花崗岩などのマグマが貫入してきた際、その接触部付近に形成される)は、鉱物(ケイ酸塩鉱物)の一種の巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来となっている。

『「本草」にいへる「陽起石」』巻十一「金石之五」の「太陽石」の羅列された石名の中に出現する。他に「猪牙石」「菩薩石」「金精石」などがでるところを見るに、勃起したリンガ様(よう)のもののように思われる。時珍もよく判っていないようだ。

『「日本紀」、『雄畧の皇女(こうによ)伊勢齋宮(いせさいぐう)にたたせ給ひしに、邪陰の御うたがひによりて、皇女(くはうによ)の腹中(ふくちう)を開かせたまひしに、物ありて、水のごとし。水中に石あり。』といふこと、みゆ』「日本書紀」の雄略天皇三年(四五九)年の条に、

   *

三年夏四月、阿閉臣國見(あへのおみくにみ)【更(また)の名は「磯特牛(しことひ)」。】。栲幡皇女(たくはたのひめみこ)と湯人廬城部連武彥(ゆゑのいほきべにむらじたけひこ)とを譖(しこ)ちて[やぶちゃん注:謗って。]曰はく、

「武彥、皇女を姧(けが)しまつりて任身(はら)ましめたり。」

と【「湯人」、此れを「臾衞(ゆゑ)」といふ。】。武彥の父枳莒喩(きこゆ)、此の流言を聞きて、禍(わざはひ)の身に及ぶことを恐れ、武彥を廬城(いほき)の河(かは)に誘ひ率きいて、僞りて、鸕鷀沒水捕魚(うかははしむるまねして[やぶちゃん注:鵜飼いがするように魚を捕らえる真似をして。])して、因其不意(ゆくりもな)くして、惟(こ)れを打ち殺しつ。

 天皇(すめらみこと)聞こしめし、使者を遣はして、皇女を案(かんが)へ問はしめたまふ。

 皇女、對(こた)へて言(まう)さく、

「妾(わらは)は識らず。」

と。

 俄かにして、皇女、神鏡(あやしきかがみ)を賷-持(も)ちて、五十鈴(いすず)の河の上に詣でて、人の不行(あるかぬところ)を伺ひて、鏡を埋(うづ)めて經(わな)ぎ死ぬ。

 天皇、皇女の在(ま)さざるを疑ひ、恆(つね)に、闇の夜に、東西、求-覓(もと)めしめたまふ。乃(すなは)ち、河上に於いて、虹の見ゆること、虵(をろち)のごとくて、四、五丈の者あり。虹の起(た)つ處を掘りて、神鏡を獲(え)たり。移り行くこと未だ遠からずして、皇女の屍を得つ。割(さ)きて之れを觀れば、腹中に、物、有りて水のごとし。水の中に、石、有り。枳莒喩、斯(こ)れに由りて、子の罪を雪(すす)ぐるを得、還つて、子を殺せしを悔い、報(たむか)ひに、殺さむとす。國見、石上神宮(いそのかみじんぐう)に逃げ匿(かく)る。

   *

鏡のアイテムの意味(恐らくは栲幡皇女は巫女であり、シャーマンの用いる神鏡・魔鏡の類いではあったろう)や、この栲幡皇女の体内の状態の意味するものが今一つよく判らないが(彼女が「湯人廬城部連武彥」とまぐわって子ができていたとする見解が誤りとすれば(「日本書紀」の記者はその冤罪をはっきりと語っているととれる)、妊娠「水」は羊水様(よう)のもので、そこに「石」があるとすれば、これは双生児の一方が正常に生まれた者の体内に残存するところの「奇形囊腫」を私は直ちに想起した。手塚治虫先生の「ブラックジャック」のピノコは元はそれである)、妙に惹かれる話である。恐らくは、これは唐突に出現する話で、本来は全く別な土地神の神話やシャーマンの話に属するものではなかったかと私は感じている。

「石瘕(せつか)」この語は広く動物に見られる体内結石を指す語である。

「礜石(よせき)」猛毒の砒素を含む鉱物の一つ。「砒石」(ひせき)とも呼ぶ。白いらしい。信頼出来る学術的データによれば、平安初期(十世紀)には文献に登場しており、石見国鹿足(かのあし)郡にあった旧笹ヶ谷鉱山が産地であったとされる。注意したいのは、ここは石見銀山とは百キロメートル近くも離れていること、さらに「石見銀山鼠捕り」で知られたそれは、実はこの笹ヶ谷でとれたものから作られていた事実である。ウィキの「石見銀山」によれば、『石見銀山では砒素の鉱石は産出していないが、同じ石見国(島根県西部)にあった旧笹ヶ谷鉱山(津和野町)で銅を採掘した際に、砒石(自然砒素、硫砒鉄鉱など)と呼ばれる黒灰色の鉱石が産出した。砒石には猛毒である砒素化合物を大量に含んでおり、これを焼成した上で細かく砕いたものは』亜砒酸(三酸化ヒ素。As2O3)『主成分とし、殺鼠剤として利用された。この殺鼠剤は主に販売上の戦略から、全国的に知れ渡った銀山名を使い、「石見銀山ねずみ捕り」あるいは単に「石見銀山」と呼ばれて売られた』とある。それを一家心中に使った黒澤明の「赤ひげ」の長坊(長次)のエピソードは作中の白眉と言える。

「滑石(くわつせき)」(talc:タルク)は珪酸塩鉱物の一種。食品添加剤・黒板用のチョーク・裁縫の時に使うチャコなどで知られ、玩具やベビー・パウダー(これは別に「タルカム・パウダー」とも呼ぶことがあるが、これは以上の英名に由来するものである)などの化粧品類や医薬品・上質紙の混ぜ物としても知られる。

「礬石(はんせき)」明礬石(みょうばんせき)。カリウムとアルミニウムの含水硫酸塩鉱物。白色・灰色・桃色で、ガラス光沢を有する。火山岩が変質した所に多く、繊維状・塊状で産出する。ミョウバンやカリ肥料の原料である。「AFPBB News」のこちらの記事によれば、二〇一八年に洛陽市紗廠西路で発掘された前漢時代の墓から出土した『青銅の壺に入っていた液体は、硝石とミョウバンの水溶液「礬石水(ばんせきすい)」で、古代人が硝石とミョウバンを使って調合していたという文献の記載と一致しており、液体が「仙薬」であることが分かったと発表した』とある。

「消石(せうせき)」石灰石(岩)であろう。

「寒水石(かんすいせき)」茨城県日立市助川付近に産出する大理石の石材名。一般には純白の大理石をも指す。古生代の結晶質石灰岩で、白地に灰色の縞があり、結晶粒も大きい。建築用内装材、彫刻材、配電盤用絶縁材などに用いられる。

「浮石(かるいし)」火山性岩の「輕石」に同じい。

「雲根志」本草学者で奇石収集家として知られる木内石亭(享保九(一七二五)年~文化五(一八〇八)年:近江国志賀郡下坂本村(現在の滋賀県大津市坂本)生まれ。捨井家に生まれたが、母の生家である木内家の養子となった。養子先の木内家は栗太郡山田村(現在の草津市)にあり、膳所藩郷代官を務める家柄であった。幼い時から珍奇な石を好み、宝暦(一七五一年~一七六四年)の頃から、物産学者津島如蘭に本草学を学び、京坂・江戸その他各地の本草家や物産家と交流、物産会でも活躍した。「弄石社」を結成して奇石を各地に訪ね、収集採集も盛んに行った)が、生涯をかけた収集歴訪をもとに、独自に鉱石類を分類して発刊したのが、奇石博物誌として名高い、私の偏愛する名奇著「雲根志」(安永二(一七七三)年前編・安永八(一七七九)年後編・享和元(一八〇一)年三編を刊行)である。彼は当時流行の弄石の大家ではあるが、その態度はすこぶる学究的で、「石鏃人工説」を採るなど、実証的見解を示し、我が国の鉱物学・考古学の先駆的研究を果たしたと評される。シーボルト著の「日本」( Nippon :一八三二年~一八八二年)の中の石器・勾玉についての記述は彼の業績の引用である。津島塾では大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった本書の作者ともされる木村蒹葭堂と同門であり、宝暦六(一七五六)年に江戸に移って田村藍水(栗本丹洲の実父)に入門した時には、同門下の一人であった平賀源内らとも交流している。作者(この場合、蒹葭堂でも蒹葭堂でない人でも構わないと思う)が、斯界では、よくしられた作者の名を出さなかった辺りは、作者に、ちょっとライバル意識があったからのようにも思われるところである。

『「イシ」といふ和訓は「シ」といふが本語にて、「シマリシツム(沈[やぶちゃん注:「シスム」の右に小さく打たれている。])」、俗に「シツカリ」などのごとく、「物の凝り定まりたる」の意なり』小学館「日本国語大辞典」によれば、語源説は(よく意味の判らないものはカットした。出典は示さない)一番目に『イは発語の詞。シは沈むの意』とし、他に『イは発語。シは下の意』とか、『ヰシムル(居占)ものであるから、ヰシという。ヰは動かぬこと。シはしまり堅いこと』、或いは、『イと小の意をもつシとを結んで岩の小破片から生じた物の名とした』などというのが載る。漢字の「石」は「崖」(「厂」)の下に横たわる「□」(石の形)の象形である。

『「イハ」とは「石齒(いは)」なり。「盤(いは)」の字を書きならへり。かならず、大石にて、齒(は)・牙(きば)のごとく、「健利(すると)き」の意なり』同じく小学館「日本国語大辞典」の語源説では、『イハ(石歯)の意』とするのを最初として、『イハホ(石秀)の略言』とか、『イシハ(石大)の意。ハは張り太った義』とか、『イは接頭語。ハはホ(秀)から分化した語か。山の石すなはち岩の意で、磯の石すなはちイシに対する語』(これは個人的には面白いと思う)他がある。漢語は「山」と「石」の合字で会意文字であるが、この漢字は元来は「巖」の俗字である。

『「イハホ」とは「巖」の字を充てゝ、「詩經」、「惟(これ)石(いし)巖々(がんがん)」と、いひて、おなじく、尖利立(するとくた)ちたる意なり』これは前の「イハホ」(岩秀)がそれらしい。石漢語は形声で、「巖」は「山」が意符で、「嚴」(「ゲン」・転音「ガン」)が音符であると同時に、「きびしい」の意も表わす。原義は、切り立って峻(けわ)しい山の崖の意であり、ひいてはそこに表出した岩頭、「いわお」を指す。

『「萬葉」には「石穗(いわほ)」とかきて「秀(ほ)出(いづ)る」の議(ぎ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]なり』「万葉集」の巻第三の「挽謌(ばんか)」の一首である「石田王(いはたのおほきみ)の卒(みまか)りし時に丹生王(にふのおほきみ)の作れる歌一首幷(あは)せて短歌(二首ある)の内の反歌(短歌)の第一歌(四二一番)、

     反歌

 逆言之 狂言等可聞 高山之 石穗乃上尓 君之臥有

   *

 逆言(およづれ)の

     狂言(たはこと)とかも

   高山の

    いはほの上に

      君が臥(こや)せる

   *

『「いはほろ」とも、いへり』「ろ」は上代の接尾語。名詞について語調を整える。但し、東歌・防人歌・「常陸國風土記」などに集中して見られることから、東国方言かとも考えられている。「万葉集」の(三四九五番)、

   *

 巖(いはほろ)の

      岨(そひ)の若松

   限りとや

        君が來(き)まさぬ

         心(うら)もとなくも

   *

男の絶えて来ぬことを断崖絶壁の端の松に喩えたもの。

「御影石」日本の墓石に使われている代表的な石。花崗岩。名の由来は旧兵庫県武庫郡御影町の一帯で、この地で採掘されていた本御影石が花崗岩の代表的な銘柄として全国にその名前を知られたことで、日本では花崗岩を「御影石」と呼ぶようになった。なお、ここには「澤之井」という泉があり、神功皇后がその水面に御姿を映し出したことが「御影」という名の起源とされている。御影石は地下のマグマが地殻内の深いところで冷えて固まった結晶質の石材で、硬く、風化に強く、重さもあり、他の石に比べて吸水率も低いという特徴を有する。耐久性に優れた丈夫な石として古くから道標・石鳥居・石垣などに使われてきた。現在でも墓石を始めとして、建築物の外壁材・造園・舗道用石材などの構造物に最もよく用いられる馴染みの深い石材である。その硬い性質のため、加工技術の発達していない時代の石造物には、ごつごつとした鑿跡が残るものもあります。御影石(花崗岩)の特徴の一つに、石を生成する石英・カリ長石・斜長石・黒雲母・白雲母・普通角閃石などの鉱物の混ざり方が、どれも一定ではないという点があり、同じ御影石であっても、様々な模様や色のものが採れ、産地によっても違いがあるだけでなく、同じ産地内にあっても採石される場所が違うだけで、模様や生成物の比率が有意に変わる(以上は「一般社団法人 全優石」の「御影石について」を参照した)。

「立山石(たつやまいし)」これは「竜(龍)山石」(たつやまいし:「宝殿石」とも呼ぶ)の誤り。兵庫県高砂市で産出する。この附近とか、この附近(グーグル・マップ・データ航空写真。「ストリートビュー」に切り替えて見ると、雰囲気が判る。前者が以下の石材店のある場所に近い採石場である)。当地の「松下石材店」のサイトから引用する。『古代より』(古墳時代は確実)『現在もなお』、千七百『年ものあいだ同じ場所から採石され続けている歴史ある石材は国内で唯一』、『竜山石だけです。均質で粘りがあり、細かい加工が可能です』。『石色も青色・黄色・赤色(希少)の』三『色があり、水磨きをすることでやさしい肌ざわりを得ることができます。上品さと素朴さが共存し』、『優しい表情、柔らかな表情を持つ石であり、時に重厚感・高級感を演出します』。『どのような所へ使用しても周囲の環境との見事な調和がとれ、古代から現代に至るまで、人々の心に響き、人の心へ安らぎの空間を感じさせる石です』。『現在では採掘元が数件となり、希少価値が高まっています』。『高砂市の中央に位置する伊保山を中心とした山々は、垂直に切り立った石切場の岩肌がどこからでも眺められ、高砂の風景の一つとして親しまれています』。『当社の採石場所は竜山の北に位置しています』。以下、「竜山石の歴史」の条。凡そ一億年前の『白亜紀後期、西日本の各地で大規模な火山活動が起こ』り、『すでに堆積していた流紋岩が水中で粉砕され、流紋岩溶岩のかけらが堆積し再固結してできるハイアロクラスタイトという稀な石となる』。『古墳時代』には、『東は滋賀県、西は山口県までの広範囲で高級石材「大王の石」として、大王や有力豪族の石棺に使用される。また当時造られた』「石の宝殿」(これは私の「諸國里人談卷之二 石宝殿」で詳注を附しておいたので是非読まれたい。ここはいつか行ってみたい場所である)『は、宝殿山の中腹にある約』五百『トンの浮石で、生石神社の祭神として祭られ、江戸時代の末にはシーボルトによりヨーロッパにも紹介されている』。『鎌倉~室町時代』には、『五輪塔・石仏などが製作され』、同国『内や大阪・京都・奈良に大きく広がっていく』。『江戸時代』には、『姫路城や明石城の石垣など、建築構造資材として大量に使用される』。『その後、姫路藩の専売品となり』、『鳥居・燈籠・狛犬・石臼・石垣・石段などに広く利用され』、『全国に供給されていく』とある。実は後で正しく「龍山石(たつやまいし)」として立項されている。

「豊島石(てしまいし)」香川県小豆島の西方にある豊島(てしま:現在、小豆郡土庄町の属する)から産出する岩石。安山岩の下にある凝灰角礫岩で、炉石・石灯籠などの細工石として用いる。次で独立項として出る。

「和泉石(いづみいし)」大阪府阪南市付近から産する砂岩。大阪から九州にかけても分布する。青緑色又は緑灰色を帯び、石質が硬く、石碑などに用いる。近世に於いて、和泉国日根郡(現在の大阪府阪南市・泉南市・泉南郡岬町)付近を本拠に全国で活躍した石工集団である泉州石工(せんしゅういしく)の当該ウィキも、是非、読まれたい。

「ねぶ川」根府川石。神奈川県小田原市南方の根府川駅から白糸川中流及び米神(こめかみ)にかけて採石される安山岩の石材名。この安山岩は箱根火山の古期外輪山を形成する溶岩の一部に相当し、東方の海岸方向に流出した溶岩流部分が採掘されている。鉄平石(てっぺいせき)と同じく板状節理が進んでいるために「へげ石(いし)」(「へぐ」は「剝ぐ」で「薄くはがす」の意)とも呼ばれ、古くから石碑・敷石・壁面装飾用の石材として利用されてきたが、現在では採石量が少ない。

「鞍馬石」京都の銘石として全国的な知名度を誇る庭石。硬質で濃い茶褐色の落ち着いた色合いを特徴とし、樹木や芝生の緑とよく調和する。

「加茂川石(かもがはいし)」代表的な水石(山水景情石の略。手頃な大きさの自然石で、観賞して山水の景情を楽しめるものを指す)の一つ。京都の北山を水源とする清流が高野(たかの)川や賀茂川に合流する辺り一帯から産するもので、古くから最高の質を備えた雅石として名高い。俗に「加茂の七石」といわれているが、産出する場所によって石質や味わいに次のような差異がある。(一)「八瀬真黒(やせまぐろ)」は高野川上流八瀬の産で、落ち着いた黒い色調に「巣立ち」と称される粒状の小穴が無数にある。(二)「賤機(しずはた)」。静原(しずはら)川の産で、珪石に糸を巻いたような「糸巻石」が出る。(三)「鞍馬石」。既注。(四)「畚下(ふごろし)」。鞍馬川と貴船(きぶね)川の合流点から産出する茶褐色のチャート。(五)「貴船」。貴船川産。帯紫色の雅石。(六)「雲ヶ畑(くもがはた)」雲ヶ畑産。黄褐色のチャート。(七)「紅加茂」市ノ瀬産。赤色のチャート(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「淸閑寺石(せいがんじいし)」「平家物語」の悲恋で知られる高倉天皇と小督局所縁の、京都市東山区にある真言宗歌中山(うたのなかやま:山号)清閑寺(せいかんじ)の南に清閑寺山があったとされ(現在、山は特定されていない)、その付近で盆石に用いられた石を産出しており、それがかく呼ばれたらしい。]

日本山海名産図会 第五巻 阿蘭陀船 / 第五巻本文~了

 

Dejimaorandayasiki

 

Orandahune

[やぶちゃん注:孰れも底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。キャプションは、第一図は「同出島紅毛家敷(でじまおらんだやしき)」及び「紅毛舩入津(おらんだふねにふつ)」。来日の祝砲の撃って入港するさまを描く。旗を立てたタグ・ボートが左手に二艘(舳先に旗を立てている。私はこれは前の「異國產物」に記された船を係留する「梅か島」への曳航をしているものと思う。位置的にもしっくりくるからである)、「上荷船」(うわにぶね)が右手に多数、待機している。その最も右手に大形の船二艘(船尾に旗を立てており、私はこれが朱印状検査を終わった通詞や担当官一行のものと思われ、係留・荷下ろしまでは監視のためにここに留まって全体を見ているものと推理した)が手前の「紅毛家敷」は「出島」の総称としても用いられた。第二図は「唐舩入津(とうせんにうつ)」。「同」は前の「異國產物」の挿絵を受けたもので、以下の文章もそれに続く形で書かれているので、必ず、まず、そちらの本文と私の注をに眼を通してから読まれたい。注をダブらすつもりはないからである。

 

   ○阿蘭陀舩(おらんだふね)

是、每年(まいねん)七月比(ころ)、入津(にうつ)す。同しく遠見より注進なれば、去年(きよねん)渡りの紅毛(おらんだ)・カビタン、又、大通詞(おほつうし)・小通詞(こつうし)・宦者(くわんしや)、附き添ひ、飛舩(ひせん)二艘、旛(はた)を立てて漕ぎ出だし、元舩(もとふね)へ乘り移り、御朱印等(とう)、撿校(けんこう)すみて、漕ぎ戾る。其の跡にて、元舩には、石火矢(いしひや)を發(はな)つ事、九つ、此の勢ひに、ついて、引舩(ふね)、あまたありて、次㐧に舩を入れ、西戸まる・戸町など、所々、御番所のむかひにて、石火矢(いしびや)を發つ事、七つ宛(づゝ)、出島の湊に入りて、又、九つを※(ひゞ)かし[やぶちゃん注:「※」=(上)「几」(縦に潰れたもの)+(下)「音」。「響」の異体字らしい。]、此の時、舩に旛(はた)を立てれば、「出島屋敷」にも、同じく竪(た)てる。是れを「旛合」と云う。こゝに於て、音樂、有り。其の音(おん)、妙なり。これより、碇をおろし、又、石火矢を發す事、十八にして、此の時、黒烟(くろけふり)、空中に滿ちて、暫時(ざんじ)、舩を見る事、なし。舩中には、其、の烟の間(あいひだ)に、四十八の帆を悉く巻き上げ、十所(とところ)に旗を立てて、すべて、裝飾し、烟り、次㐧に消へるに顯はれ、更に造り立てたるごとく、其の花(くわ)、美眼(みめ)を奪ふばかり。甚だ見事なり。かくて元舩(もとぶね)のカビタン、小舟に乘りて、出島にあがれは、「紅毛屋敷(おらんだやしき)」、前年のカビタン・從者其外、遊女など、つきそひ、是れを迎ひ入れて、宴(ゑん)を催すなり。荷は同しく、藥種・小間物類・他國の珎器(ちんき)ども。是を揚げるに、凡そ四十日許りなり。本邦よりの渡し物は、先づ、銅(あかゝね)・竿(さほ)・紙類、其の外、器物(きぶつ)等(とう)を賜はり、毎年(まいねん)九月十九日を、前年(せんねん)のカビタンの發舩(はつせん)と相ひ定(さた)むる。當年のカビタンは殘り、正月十五日に貢献の物を持して、江府(こうふ)に趣き、四、五月の頃、長嵜にかへり、又、新舩入津(しんせんにふつ)を相ひ待てり。

[やぶちゃん注:「阿蘭陀舩(おらんだふね)」本書では「おらんだ」は一貫してひらがな表記である。

「同しく遠見より注進なれば」前の「異國產物」を参照。

「紅毛(おらんだ)」「こうもう」と読んだ。「赤い髪の毛の異人」で、江戸時代は、その時期の大半の接触となった、オランダ又はオランダ人の異称として狭義に用いられた。「紅夷」「碧眼紅毛」も同じ。小学館「日本国語大辞典」には、『漢字で「紅毛」と書いてオランダとよませる場合もあり、振り仮名のない場合はどちらとも決めかねることが少なくない』とある。広義には「西洋人・欧米人」を広く言う語でもある。

「カビタン」「カピタン」が一般的だが、日本人が半濁音を使用し、表記するのはごく新しく(後述)、恐らく、江戸までの平均的日本人は濁音と半濁音を正確には使い分けられてはいなかったように思われる。ポルトガル語で「長」(ちょう・おさ)」の意の「capitaõ」が語源で、「甲必丹」「甲比丹」の字を当てる。江戸時代、マカオ―長崎間のポルトガル貿易に於いて最高の権限を持ち、マカオ滞在中は同地の最高の行政官、長崎ではポルトガル人の代表を務めたのが、カピタン・モーロ(capitaõ‐mor:軍将校指揮官)である。このカピタンの名称は、そのまま、他の外国人にも用いられ、中国人の代表は「甲必丹」(カピタン)、オランダ商館長も「阿蘭陀甲必丹」(オランダカピタン)と呼ばれた。平戸に商館があった時代(一六〇九年~一六四〇年。」前の「異國產物」の私の注を参照)には、長期間在任したオランダ商館長も多かったが、寛永一七(一六四〇)年十一月、大目付井上筑後守が将軍徳川家光の密命を受けて平戸を視察し、商館の一部の建物の取壊しを命じた際、日本人にキリスト教を広めさせないため、商館長の毎年の交代を命じ、商館も翌年、長崎出島に移された経緯がある(以上は主文を平凡社「世界大百科事典」に拠った)。サイト「マイナビ」の「フレッシャーズ 社会人ライフ」の「パピプペポ」はポルトガル人の発明!? 意外と知らない濁点、半濁点の歴史によれば、『そもそも日本の平仮名、片仮名の表記には、濁音を表す「゛」(濁点)、半濁音を表す「゜」(半濁点)はありませんでした。平仮名、片仮名が誕生した当初、平安時代にどうしていたかというと「文脈から判断できる」と、そのままだったのです』。『しかし、やはり紛らわしいということで、まず濁点が生まれます』。『仏典(正確には「陀羅尼」)の音読に使われていた「声点」を、平仮名に導入することにしたのです。声点というのは、漢字の横に「・」を入れてアクセントを示す記号でした。これを「・・」にして濁音を表す記号とし、仮名の横に付けたのです』。『最初は、他にも濁音を表す記号があったのですが、徐々に淘汰』『されて』十二『世紀の前半には現在の濁点に近い形になったのだそうです』。『ちなみに、日本で法令文書に濁点が登場するようになったのは昭和になってからです。歴史の授業で「大日本帝国憲法」の条文が教科書に掲載されていたでしょう。そこには「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と記載されていて濁点はありません。当時は法令文に濁点を使うことはなかったからです』。『では、パ・ピ・プ・ペ・ポ、ピャ・ピュ・ピョと、半濁音を表す「半濁点」はいつ生まれたのでしょうか? これは時代がぐっと下って室町時代末期・戦国時代といわれます』。十六『世紀には外国から宣教師が布教のため来日していました』。『ポルトガル宣教師が著したキリシタン文書に初めて半濁点が登場するといわれています。布教の過程で、ポルトガル人は日本語の勉強をするのですが、彼らは日本語の仮名表記に半濁音を表す文字がないことに気付きます。そこで、半濁音を表記するために「゜」を使うようにし、それが一般的になったというのです』。『ただし、この説はあくまでも一つの説で、実は』既に独自に『室町時代から一部で使われていた』とする『異説があります。でも、本当だったら』、『ポルトガル人の宣教師が苦労して作った表記が現在にまでつながっていることになります。不思議な気持ちになりますね』とある。

「飛舩(ひせん)」速度の速い船。図のキャプションの解読で示した第一図の右端の二艘と推断する。通常の快速船は小型・中型が多いが、通詞の大小が複数人、それ以外の御朱印検(あらた)めの官僚及び船内検死の官人など複数が乗船し、何らかの問題があれば、そこで乗組員や違法或いは不審な荷物を押収する必要もあったに違いなく、そのためには大型の船である必要があったに違いないと推測するものである。

「引舩(ふね)、あまたありて」私は引き船(タグ・ボート)は二艘と採り、その他、「あまた」の船は荷船と採った。タグ・ボートは現在の巨大タンカーのような余程巨大なものであっても、前二艘が普通で、用心に後尾の振れを押さえるのに、二艘がつくかいつかないかであり、そんなに「あまた」(数多)はいらぬものである。

「西戸まる・戸町」私が前の「異國產物」注で推理したことが恐らく正しいことが、ここで証明されたものと思う。ここでは、「西戸まる」と「戸町」の二箇所の見張り番所が正しく示されてある。「西戸まる」は「西泊(にしどまり)」の誤りで、長崎湾の最深部の北西右岸の小さな湾の奥に「西泊番所跡」が、その丁度、対称位置である南東位置左岸に「戸町番所跡」が確認出来る。

「出島の湊に入りて、又、九つを※(ひゞ)かし」(「※」=(上)「几」(縦に潰れたもの)+(下)「音」)第一図はこの時の様子を描いたものと思われる。

『此の時、舩に旛(はた)を立てれば、「出島屋敷」にも、同じく竪(た)てる。是れを「旛合」と云う』第一図の出島の方には残念ながら旗は揚がっていない。「旛合」には「旛」に「はた」とルビするだけであるが、まあ、「はたあはせ」であろうとは思う。

「こゝに於て、音樂、有り。其の音(おん)、妙なり。これより、碇をおろし、又、石火矢を發す事、十八にして、此の時、黒烟(くろけふり)、空中に滿ちて、暫時(ざんじ)、舩を見る事、なし。舩中には、其、の烟の間(あいひだ)に、四十八の帆を悉く巻き上げ、十所(とところ)に旗を立てて、すべて、裝飾し、烟り、次㐧に消へるに顯はれ、更に造り立てたるごとく、其の花(くわ)、美眼(みめ)を奪ふばかり。甚だ見事なり」ここは作者の表現が非常に上手く機能していて、映像的に成功している箇所である。本書の本文頭尾であり、当時の読者は挿絵とともに、見たことのない異国の巨大な船と空砲の音を想像して、そのシークエンスを永く記憶に残したに違いない。

 以下、最終巻なので、全体の「跋」と奥書等が載るが、これは全部の電子化注が終わった後に配する。

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